万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年3月26日

内田樹 『寝ながら学べる構造主義』 (文春新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:54

今まで引用文カテゴリで散々内田氏の文章を引用してきたが、著作を単独の記事にするのは、ひょっとして今回が初めてか。

私の高校時代の世界史教科書では、哲学・思想の流れは実存主義で打ち止めで、構造主義という言葉自体が出て来なかった(今は違うと思います)。

本書では、構造主義の思想を、マルクス、フロイト、ニーチェの前史から始め、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ・ストロース、ラカンの五人に各一章を割り当て、紹介している。

難解なところは全然無く、スラスラと読める。

本書で取り上げられている思想家の著作を実際に読むというのは、私の知的レベルでは極めて難しいので、大体これくらいのことがぼんやりわかっていればいいか、とも思える。

中々手頃な本だと評価していいんではないでしょうか。

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2018年3月22日

池田美佐子 『ナセル  アラブ民族主義の隆盛と終焉』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 04:33

戦後、中東の地域大国エジプトで、実質的な初代指導者となった政治家の伝記。

ちょうど100ページくらい。

後継者のサダト、ムバラクは含まず、ナセル単独の伝記なので、分量はまあ適当か。

内容はごく平均的です。

1952年自由将校団によるエジプト革命、表看板のナギブを排してナセルが実権掌握、55年バンドン会議参加、中東条約機構(METO)への対抗意識から東側諸国への接近、56年スエズ運河国有化と第二次中東戦争(スエズ戦争)での政治的勝利、58年シリアとの政治的統合とアラブ連合共和国成立でアラブ民族主義の旗手としてその勢威は絶頂を迎えるが、61年シリア離脱、60年代の「アラブ社会主義」の名の下に推進された産業国有化政策は行き詰まり、ムスリム同胞団と共産主義勢力を抑え込む為の厳しい政治的統制が敷かれる中、67年対イスラエル強硬論に流されてティラン海峡封鎖措置を取るや、イスラエルは先制攻撃に転じ、第三次中東戦争勃発、エジプトなどアラブ諸国は空前の惨敗を喫し、シナイ半島・ガザ地区・ヨルダン川西岸・ゴラン高原を占領され、ナセルの威信は失墜、70年に死去する。

戦後の中東史については、イスラエルと周辺アラブ諸国の対立、および穏健派諸国と急進派諸国の相克で捉えるのが基本。

1948年、56年、67年、73年の四次の中東戦争の年代をまず記憶。

48年パレスチナ戦争の敗北がアラブの旧体制を動揺させ、52年エジプト革命が急進的アラブ民族主義の原点となる。

で、58年イラク革命、69年リビア革命、79年イラン革命、と君主制が倒れるごとにその国が急進派に加わる。

君主制を維持したサウジアラビアとペルシア湾岸諸国およびヨルダン、ケマル・パシャ以来の世俗主義共和国で西側陣営に属するトルコは一貫して穏健派。

急進派内部の対立も激しく、58年の革命で成立したイラクのカセム政権はナセルと激しく対立、シリアは上述の通りエジプトと合邦し「アラブ連合共和国」を結成した(南北ヴェトナムや東西ドイツ、南北イエメンのような明白な分断国家が統一されたのとは違い、別々の主権国家が完全統合した、戦後では珍しい例)が、エジプト優位の体制への反発からわずか3年で崩壊、その後シリア・イラク両国で成立したアラブ統一と社会主義を掲げるバース党政権も、アラブ民族主義の主導権を争ってナセル政権とも、両国同士でも対立。

シリアではアサド政権、イラクではサダム・フセイン政権、リビアではカダフィ政権が独裁体制を敷くが、79年のシーア派によるイラン革命は「イスラム原理主義」を初めて体制として出現させ、急進・穏健派を問わず、周辺のスンナ派アラブ諸国すべてと対立(と書いたものの、急進派イラクと穏健派サウジの双方と対立したのは事実だが、イラン・イラク戦争中、急進派でも直接「イスラム革命輸出」の脅威を受けなかったシリアとリビアはイランと一部協力していたはずだから、厳密に言えばこれも不正確か)。

そうした中、エジプトは、ナセルの後継者サダトがソ連軍事顧問団を追放した後、自力で第四次中東戦争の(緒戦での)勝利をもぎ取り、威信を確保した後、イスラエルとの和解に乗り出し、79年平和条約を締結、穏健派諸国の強力な支柱に変貌した。

よって私にとってはナセルよりもサダトの方が偉大な政治家に思える。

 

 

まあ普通です。

記述はよくこなれていて読みやすい。

史的評価も穏当。

サブテキストとして読むのも悪くない。

2018年3月18日

服部龍二 『中曽根康弘  「大統領的首相」の軌跡』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:02

1980年代、長期政権を樹立し、新保守主義・新自由主義的政策を推し進めた首相の伝記。

1918(大正七)年群馬県高崎市生まれ。

軍部の台頭に不安と反感を抱きながら育つ。

1938年東京帝大法学部に入学、近衛文麿ブレーンの政治学者矢部貞治らの教えを受ける。

41年内務省に入省、同時に海軍経理学校にも入校、海軍主計中尉として出征。

戦後首相の中で、実際に砲火を浴びる経験をしたのは中曽根だけだという。

敗戦後、アメリカへの反発を持つと同時に、自身が接した占領軍将校の紳士的態度に感銘を受けている。

47年旧民政党系の民主党から立候補、天皇制護持と修正資本主義を主張、反共的姿勢を鮮明にして初当選、28歳で全国最年少の議員となる。

同い年の田中角栄も、同時に民主党議員に当選している。

中曽根は、吉田茂の自由党を強く批判、一年生議員ながら民主党総裁に芦田均を推すことを強硬に主張、「青年将校」との綽名を得る。

片山哲社会党・民主党連立内閣成立、炭鉱国家管理法を可決したが、これに反対した幣原喜重郎や田中角栄は民主党を脱党、自由党に合流。

翌48年成立の芦田内閣も疑獄事件で辞職、同年吉田が首相に復帰、以後54年まで続く長期政権を築く。

野党時代の中曽根の政治的スタンスは、自由放任的資本主義の修正による社会的連帯の重視、自主防衛確立と対米独立性の回復、大戦のアジアに対する侵略的性格を認めた上での東京裁判への批判。

現在の私から見ると、どれも真っ当な姿勢と思える。

50年民主党が吉田内閣との連立模索派と反対派に分裂、中曽根を含む反対派は三木武夫の国民協同党と合同して国民民主党を結成、52年には改進党に改組。

51年中曽根は、国会でサンフランシスコ講和条約には賛成票を投じ、日米安全保障条約については棄権。

安保条約での内乱時の米軍出動、有効期限未設定、日米行政協定での米兵への裁判権欠如などを問題視、戦時中の無差別爆撃についてアメリカに賠償を請求すべきだとすら語ったという。

同じ選挙区の福田赳夫と激しい競争を経て、当選を重ねる(後には小渕恵三も同選挙区で当選)。

中台・南北朝鮮の分断、アジア地域の一体感の欠如などの現実から、アジア版のNATOである「太平洋同盟方式」の集団安全保障政策に懐疑的になり、日米安保を容認するようになる。

与野党折衝の末、原子力関連の予算を計上、日本の原子力開発の先鞭をつける役割を果たすことになる(ただし、原子力の平和利用について、当時は保守政党だけでなく、左右両派の社会党も賛成している)。

アメリカに続いて、当時珍しかった共産圏への歴訪も実行、ソ連の抑圧的で貧しい社会を実感した一方、中国ではやや明るい印象を受ける。

54年鳩山一郎を総裁として日本民主党結成、吉田自由党内閣は総辞職、鳩山政権成立。

55年左右社会党統一を受けて、保守合同が成り、自由民主党結成。

反吉田の立場を一貫させていた中曽根は保守二党論者だったが、やむを得ずこれに合流。

56年日ソ共同宣言、国会での演説で中曽根は北方領土問題などでソ連を批判、社共両党の抗議で演説は議事録から削除された。

自民党内の派閥は、官僚派が岸信介派、池田勇人派、佐藤栄作派、党人派が河野一郎派、大野伴睦派、石橋湛山派、三木・松村謙三派(この三木は武夫じゃなくて武吉の方か?)、中間の石井光次郎派など。

中曽根は、河野派に所属。

56年鳩山退陣後の総裁選で、河野派の方針に反して、岸信介ではなく、石橋湛山に投票、石橋内閣が成立。

戦時中の経験から、東条内閣の商工相という地位にあった岸への反感と、軍に抵抗していた石橋への共感による。

しかし、石橋は病気で辞任、57年岸内閣成立。

岸のアジア・アフリカ歴訪に途中まで同行、インドでネールと会談、エジプトではナセルに対しスエズ運河国有化とアスワンハイダム建設への支持を語っている。

河野派が反主流派に転じていた為、岸政権では冷遇、しかし59年内閣改造で中曽根は科学技術庁長官として初入閣を果たす。

60年安保改定にあっては、アイゼンハワー訪日中止を岸に進言。

池田内閣でも主流派は池田派・岸派・佐藤派が占め、中曽根は忍従の時を過ごす。

長年の持論となる首相公選運動も起こすが、これへの拘りは個人的にちょっと理解に苦しむところである。

池田からの禅譲を期待した河野だったが、後継には佐藤が選ばれ、64年東京オリンピック後、佐藤内閣成立。

ライバルの田中角栄は池田内閣で蔵相、佐藤内閣では自民党幹事長を務める。

台湾支持を続ける佐藤政権に対し、中曽根は中国承認を主張。

65年河野が急逝、翌年河野派を割って中曽根派を結成。

67年反主流派の態度を改め、運輸相として入閣、「風見鶏」との評を得る。

沖縄返還に備え、「核を作らず、持たず」の原則を表明することを検討した際、「持ち込ませず」を加えて非核三原則とすることを閣内で主張。

だが、この「持ち込ませず」は世論向けの政治的ゼスチャーであることは中曽根自身も承知しており、「核密約」の公表も視野に入れた大平正芳と違って、中曽根を含む歴代首相は建前論に終始した、と本書ではやや批判的に記されている。

日中国交正常化および米国の核の傘と第七艦隊以外の自主防衛を主張。

70年防衛庁長官に就任、改憲論を一時封印し、「非核中級国家」としての漸次的防衛力増強を志向。

71年佐藤内閣末期、自民党総務会長に就任、佐藤後継を争う、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根の「三角大福中」の一員と見なされる。

72年総裁選で田中を支持、田中内閣で通産相に就任。

対ソ関係を睨んだ日中国交正常化を支持、それが達成されると、日米経済摩擦と石油危機の対処に追われる。

74年金権問題で田中辞職、「椎名裁定」で三木武夫が総理就任、中曽根は幹事長に。

しかし中道左派色の強い三木政権で、国鉄スト、ロッキード事件と田中逮捕などの混乱が起こり、幹事長を辞任、76年内閣も倒れる。

後継の福田内閣で総務会長就任、内政では吉田政権以来の経済偏重を批判し、統治能力回復を主張するが、外交では、対東南アジア友好宣言である福田ドクトリンと、ソ連への対抗連携を暗に含んだ日中平和友好条約などの福田政権の路線を概ね支持。

78年田中派の支持を得て大平が総裁選勝利、大平内閣成立。

大平は中曽根を高く評価せず、そのスローガン「戦後の総決算」は(中曽根が後に唱えた「戦後政治の総決算」とは異なり)「戦前への郷愁」が含まれないものだったとの言葉が紹介されている。

財政再建問題で国会は紛糾、「四〇日抗争」と呼ばれる、主流派の大平派・田中派と反主流派の福田派・三木派・中曽根派の対立が深まり、80年野党提出の内閣不信任案が福田派と三木派の欠席によって可決されるという「ハプニング解散」となる。

ただし中曽根は不信任案には反対投票をしており、これが後に田中派の支持を受けることを可能にした。

最少派閥にも関わらず、「三角大福」の確執から距離を置いてフリーハンドを保てたこと、最大派閥田中派が(田中がオーナーの地位を譲らなかったので)総裁候補を出せないこと、やや若く、他派閥の領袖が交替する時期を活用できる見込みがあったことなどに助けられ、首相の地位に近づく。

大平は選挙期間中に急逝、初の衆参同日選挙で自民党は圧勝、大平派の鈴木善幸が総理就任。

鈴木内閣では行政管理庁長官という、やや格下の役職についたが、第二次臨時行政調査会(臨調)を設置、民間活力による「増税なき財政再建」を掲げ、新自由主義的改革を推進。

鈴木内閣は、対米防衛協力問題、対韓経済支援問題など外交で迷走。

82年11月中曽根内閣成立。

田中派が多数入閣、「田中曽根内閣」とマスコミに揶揄される。

トップダウン型の「大統領的首相」と「指令政治」を志向。

審議会、私的諮問委員会を多用、それに加わったブレーンには高坂正堯、佐藤誠三郎など私にも親しい名がある。

83年日本首相初の公式訪韓を実行、全斗煥大統領と会談し日韓関係を改善、続く訪米では「不沈空母」発言に代表される安全保障面での積極策を強調し、レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と言われる信頼関係を築く。

「戦後政治の総決算」を掲げつつ憲法改正は事実上封印していたが、軽武装経済立国路線の「吉田ドクトリン」を支持する保守本流派からは一部危惧の念が出る。

ウィリアムズバーグ・サミットでは、ソ連に中距離核戦力の全廃を求め、それが応じられなければ西側も対抗措置を取ることを主張、政治声明に取り入れられる。

戦後日本の首相が安全保障分野でリーダーシップを発揮した稀有な例である。

だが内政ではロッキード裁判での田中への有罪判決が下り、総選挙で大敗、自民党は過半数を割り、自民離党者で結成されていた新自由クラブとの連立に追い込まれる。

84年訪中、胡耀邦総書記とも緊密な信頼関係を築き、この年は二千年におよぶ日中関係史上最良の年と言われた。

「中国の存在がまだ巨大でなかったにせよ、日中提携と対米協調を両立できた指導者は、日本外交史をたどっても多くない。」と評されているが、確かにその通りで、冷戦末期軍事力を拡大するソ連への対抗という課題が各国に共有された状況であり、なおかつ日本経済が全盛期を迎えていた故であっても、米欧および中韓などアジア諸国との関係をすべて緊密化した手腕はやはり高く評価すべきものであり、本書が述べるように戦後外交の頂点と言っても過言ではないと思われる。

85年田中派から竹下派が自立、田中も病に倒れ事実上失脚、竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の「ニューリーダー」が台頭する中、「三角大福中」の最後に登板した中曽根が政治的フリーハンドを得て、極めて有利な立場を占める。

同年プラザ合意、貿易不均衡解消の為、米国の圧力で円高ドル安に向け先進五ヵ国が協調介入。

このプラザ合意がバブル経済の発生と崩壊、その後の長期不況の原因となったとよく批判されるが、後年中曽根はプラザ合意自体は当時の国際情勢からしてやらざるを得なかった、その後90年代の不況対策の不徹底が問題だったと反論している。

だが、本書では、プラザ合意への是非はともかく、87年中曽根政権末期にそれ以上のドル安を阻止する為、企業が円高不況を克服しつつあったのに6兆円規模の内需拡大策が組まれた、これが景気を過度に加熱させバブル経済への流れを強めた、また貿易黒字削減の為に私的懇談会が提出した「前川レポート」でも民活と規制緩和による内需拡大が意図されており、やはり中曽根政権の経済政策とバブルの発生は無関係とは言えない、とされており、常識的に見てやはりそう言わざるを得ないでしょう。

85年終戦の日、靖国神社への参拝を、首相としての公式参拝であると明言して実行したが、対中関係は悪化、翌年からは参拝自粛、結果として公式参拝にこだわった為に、靖国問題が内政での政教分離と憲法問題を超えて国際政治とリンクするきっかけになってしまった、と評されている。

85年電電公社がNTTに、専売公社がJTに民営化され、86年国鉄分割民営化法案が成立、87年JR発足。

86年東京サミット開催、同年衆参同日選挙で自民党が300議席越えの圧勝、新自由クラブを吸収、総裁任期の一年延長決定。

防衛費GNP1%枠を撤廃するが、大型間接税導入には失敗。

87年退任、後継指名を一任され、竹下登を選択。

竹下内閣で念願の消費税が導入されるが、リクルート事件が発覚し、自身も強い批判に晒される。

しかし、その後も国内外で活発に活動、97年大勲位菊花大綬章を受章、生前にこれを受けた戦後の首相は吉田、佐藤と中曽根だけで、以後「大勲位」とやや揶揄的に呼ばれるようになる。

2003年に年齢制限によって小泉内閣から自民党公認を得られず、議員引退。

2011年東日本大震災での菅民主党内閣の対応を批判、しかし原発事故を受けて、かつて自身が原子力開発の旗振り役だったことへの反省の弁も述べる。

本書刊行時の2015年、そしてこの記事を書いている現在も未だ存命。

世界的に見ても、主要政治家では文字通り最長老というべき存在。

本書を通読して、佐藤退陣以後、二年ごとの短命政権が続いた70年代を経て、久しぶりの長期政権を築いた保守政権・自民党政治中興の祖という印象を再確認した。

冷戦末期、ソ連が軍拡と膨張主義の傾向を露わにしていた以上、日米同盟強化と防衛力増強という政策は首肯できるものだ。

三公社民営化に象徴される新自由主義的経済政策も、この80年代中盤の時点では、まだしも日本の国益と国民経済の発展に役立つ範囲に留まっていたと言うことができよう。

外交・防衛政策では、自主防衛および「常時駐留なき安保」に半歩でも踏み出す行動が見られなかったことが残念だが、ソ連の脅威とアメリカの対日警戒、さらに国内で自衛力の保持にすら反対する左翼・革新勢力の空想的平和主義という三者の板挟みとなっていた状況からすれば、それは無いものねだりと言うべきなんでしょう。

内政・経済面では、バブルを煽るような民間活力促進・規制緩和路線ではなく、官民共同で社会資本を着実に整備する形での内需拡大政策もあり得たのではないかと思えるし、これには上記の自主防衛政策よりも実現性があったはずだが、まあそれもあえて問題視しないことにしましょう。

今振り返っても、中曽根政権を肯定的に評価することは十分可能である。

そして、1990年代、自民党内において、改憲志向でタカ派的な旧中曽根派と清和会(旧福田派)を、ハト派的な保守本流よりも、私は常に高く評価していました。

しかし、21世紀になり、中曽根政権の劣化コピーのような、清和会主導の小泉政権および第二次安倍政権が、対米従属と新自由主義的政策によって、日本の国益と国民経済を害し続けているのを見るとき、その源流とも言える中曽根政権に対しても、かつてのような礼賛的姿勢は取れないなと感じ始めている今日この頃です。

 

 

読みやすい。

煩瑣でもなく、簡略過ぎず、ちょうどいいレベルの密度で安定した叙述が続く。

内容はしっかりしているし、叙述範囲の偏りもなく、著者の史的評価にも違和感は感じない。

同じ著者の『広田弘毅』および戦後政治家の伝記として福永文夫『大平正芳』と並んで、良書として評価できる。

2018年3月14日

西部邁 『西部邁の経済思想入門』 (左右社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:44

1987年に放送大学用のテキストとして執筆された作品に加筆・訂正して2012年再刊したもの。

著者はもともと経済学者ではあったが、原著が刊行された頃から、個人的自由と技術的合理性のみに依拠した「形式において精緻だが内容において空疎な物語」である、経済学から完全に離れることになる。

叙述上、経済学史の形式的系譜は守りながらも、何ものにも拘束されない合理的な原子的個人が完全な自由市場で活動することによって理想的な予定調和に至るという空理空論を基本的前提とする現在の主流派経済学に対して、徹底した批判をもってしている。

間宮陽介『市場社会の思想史』よりも、こちらの方が良い。

より充実した内容を持っている。

難解な数式や概念を用いることなく、極めて本質的な議論を、初心者でも理解できる明解さで展開している。

一般教養的な経済学史を学ぶには、現状では本書が最良でしょう。

 

労働価値説を認めるかぎり、マルクスの剰余価値説はおおいに首尾一貫したものだといわなければならない。しかしマルクスの主張はむしろ労働価値説の不毛なることを、少なくとも科学としては不毛なることを、最終的に自己暴露したものだといわなければならない。なぜといって、資本もまた生産に寄与していることが明白である以上、資本の所有者としての資本家が報酬を稼得することになんの不思議もないからである。私有財産制の不当をいうことによって利潤を不労所得とみなすことは可能であろうが、その制度の枠内で財産収入の原理的不当性をいうことはできない。マルクスをおおよそ最後にして労働価値説が近代経済学のなかで姿を消すようになったのもむべなるかなといわなければなるまい。

だがこのことははたして価値論一般の不要を意味するであろうか。マルクスが当初『経済学・哲学草稿』などにおいて指摘していたのは労働の疎外ということであった。わかりやすくいえば、資本主義的生産の場において労働が喜びとはいえないものに化しているということである。一般的にいって、労働者はあるべき労働形態を意識するであろうし、またあるべき賃金水準をも意識するであろう。それらの意識を公正観念とよぶならば、労働サーヴィスという商品はまさしく人間自身によってなされるものであるために、公正観念とつよくかかわらざるをえない。公正から離れた労働形態あるいは賃金水準は不公正感を労働者のうちに累積させるであろう。マルクスの搾取論はそれ自体としては誤りといわなければなるまいが、市場における自由交換のうちにも公正観念が介在し、それが実現されないとき様々な矛盾をもたらすであろうという文脈においてならば、なおもくみとるべき含意をもっている。逆にいうと、反マルクス派の経済学者はあまりにも安直に自由交換の弁護論に走りがちなのである。

公正観念は社会的通念として成立するものであろう。公正観念が自由交換の場において機能しないということは、そうした通念を支える社会的紐帯が崩壊したということである。そこではたしかに孤立した諸個人の不安な選択が広まるであろう。しかしそれを自由交換の名において正当化するのは個人主義のイデオロギーにすぎない。マルクスの経済学説の誤りはその労働価値説において典型的に表れているのではあるが、そこにおいてすら、経済学をめぐるイデオロギーをいかに解釈するかに当たって、無視しえぬものを残しているのである。

 

先日、著者が自裁されたが、全く意外感が無い。

間違いなくそうした最期を遂げられるんだろうなと思っていたので。

ご冥福をお祈りしますとか、月並みなことも言いたくなかったので、このブログで即座に反応はしなかったんですが。

西部氏は高坂正堯氏と並んで、学生時代以来、自分が最も影響を受けた人だと思う。

今後も、その著作を読み返して、ものを考えることは続けたいと思います。

2018年3月9日

小此木政夫 編著 『北朝鮮ハンドブック』 (講談社)

Filed under: 朝鮮 — 万年初心者 @ 06:36

金日成が死去して三年後の1997年刊。

編著者の小此木政夫氏は、個人的には1990年代から最も信用している朝鮮半島研究者である。

ただし、一般向けの著作はほとんど書いていないので、このブログでも今まで紹介する機会が無かった。

本書は共著ではあるものの、その稀な例外。

タイトルは「ハンドブック」だが、本文は400ページ超とかなりの大部である。

その分、政治、外交だけでなく、経済、法制、思想教化など内容も多彩(その手の詳細な記述は、残念ながら読み飛ばすしかないこともあるが)。

小此木氏以外の執筆者も、伊豆見元氏をはじめ信頼できそうな顔ぶれ。

章ごとに著者が替わるのではなく、同じ章内の節ごとに替わるのだが、通読する上で特に違和感は感じない。

まず、冒頭で金日成死後の金正日時代を扱ってから、日本敗戦後の状況から筆を起こして、順に北朝鮮史を記し、最後に日朝関係の章で締める、という構成。

ソ連占領下で金日成が指導者に就任、48年朝鮮民主主義人民共和国成立後、50年武力統一を目指して南侵し、朝鮮戦争を起こすが、米軍介入で押し戻され53年休戦、ソ連派・延安派・南労党派を粛清して58年頃独裁体制確立、60年代中ソ対立に際しては当初は中国寄りの立場を取るが、文化大革命中に中国とも対立、以後自主路線を推進(日本共産党も同様の経緯で自主独立路線を確立するが、日共と朝鮮労働党も対立関係に入る)、67年甲山派も粛清された後、その体制はますます異常性を増し、首領制と「唯一思想体系」によって個人崇拝を極限まで推し進めたものとなり、スターリン批判と林彪事件を見て、自身と支配層の保身目的で74年息子の金正日を後継者に決定、「主体(チュチェ)思想」という似非哲学で「全社会の金日成主義化」と言われるほどの思想統制・教化を徹底し、悪夢のような究極の個人独裁体制を確立するが、80年代に入る頃には韓国との体制競争で完敗したことが誰の目にも明らかとなり、ソ連・東欧共産圏の崩壊で、経済は完全に破綻状態となる中、核開発による「瀬戸際外交」に活路を見い出し、94年金日成が死去して後、金正日政権が「米朝枠組み合意」を成立させたが、(本書刊行後)21世紀に入って核危機を再燃させ、現在までその状況が続いてしまっている。

90年代以降、北朝鮮の「早期崩壊説」「内部対立説」が繰り返し語られたが、本書は以下のように述べる。

 

編者は北朝鮮体制の最大の特徴は「政治と経済の非対称性」にあると考えている。北朝鮮経済がきわめて脆弱であり、すでに破綻したことは衆目の一致するところである。そうだとすれば、なぜあの国家体制はソ連・東欧諸国のように崩壊しないのだろうか。経済体制とは比較にならないほど強靭な政治体制が存在することに、その秘密があるといわざるをえないだろう。いいかえれば、金日成、金正日を頂点とする一元的で、特異な政治体制の存在が経済体制の破綻を補ってきたのである。

・・・・・・

率直にいって、さまざまな困難にもかかわらず、金日成死後も北朝鮮国家が存続しているのは、宗教的な色彩を帯びたイデオロギーとそれに裏打ちされた強靭な政治体制によるところが大きい。いいかえれば、食糧危機や経済破綻にもかかわらず、それを補うだけのイデオロギーと政治体制が存在することこそが、北朝鮮国家が維持されてきた秘密にほかならないのである。事実、ソ連・東欧型の社会主義国であれば、北朝鮮はすでに消滅しているに違いない。そうではなく、首領・労働党・人民の三位一体が強調される閉鎖的な有機体国家(「社会政治的生命体」)であるがために、北朝鮮は存続してきたのである。

金正日の政治基盤についていえば、それは一般に想像されている以上に強固である。それどころか、長期にわたって、苛酷な暴力装置、極端な情報統制、イデオロギー教化などが維持され、政治体制が人格化されてきた結果、現在の北朝鮮には、首領制に代わりうる政治体制が存在しないのである。最高指導者への正式就任には三年余りの歳月が必要とされたが、その間も金正日の後継者としての地位は公式に確認されていたし、北朝鮮では、後継者もまた「首領」である。だからこそ、金正日の指導も「領導」と表現されたのである。「外部からの脅威」の誇張や「忠孝」などの儒教的な価値体系もまた、国民の間に運命共同体的な政治意識を植え付けるために巧みに利用されている。

もちろん、そのような一元的な政治体制にも物理的な限界がないわけではない。しかし、たとえば食糧危機がさらに深刻化した場合、内部的に予想されるのは、労働者や農民の暴動であるよりも、むしろ「統制された飢餓」であるだろう。いいかえれば、住民に対する統制能力が維持されている限り、「個人的な逃亡」は増大しても、食糧危機が体制崩壊に直結することはないのである。

・・・・・[亡命した]黄長燁はまた、北朝鮮指導部内に「強硬派と穏健派の対立」が存在するとの見方を完全に否定し、「一人独裁下には、“派”という概念もない」とか、「金正日を拒否する勢力はない」と断言している。

 

本書刊行から、実に20年以上経った現在から見て、上記の見解は正しかった。

この最悪の全体主義国家は、残念ながら恐るべき強靭性を持って、経済破綻と国際的孤立を生き延び、現在も存続している。

和田春樹『北朝鮮現代史』の記事でも述べたが、私自身は、本当の本当に遺憾なことだが、金正恩政権を交渉相手と認め、慎重で冷静な外交を行い、経済援助をインセンティブとして核開発凍結と拉致問題解決、国民の権利状況改善を徐々に、粘り強く進めるしかないと考える。

戦争という手段は、軍事情勢を見ると、余りにも危険が大き過ぎる。

日本が受ける被害も尋常じゃないでしょう。

道義的には、この国の体制はとっくの昔に正統性を失い、外部から武力で打倒しても許されるほどの暴政を自国民に敷いていることは確実である。

私は、2003年のイラク戦争を、虚偽の大量破壊兵器製造疑惑と外部からの体制変換による民主化という現実離れした妄想によって起こされた世紀の愚行と見なし、徹頭徹尾否定する立場だが、それに比べれば、北朝鮮の体制打倒の為の軍事行動には遥かに正当性があると思う。

だが、北朝鮮の軍事力と狂信性を考えると、やはり戦争という手段を取ることは事実上不可能だ。

あくまで外交交渉による事態の平和的解決という一線を守るしかない。

現状北が保有している核兵器を放棄させることも難しいだろうし、それ以上の核戦力増強だけは凍結させて、その状態が相当長期間続くことも覚悟しないといけないかもしれない。

 

しかし、共産主義という人類の悪夢がようやく消え去りつつあったと思ったら、その中でも最も異常で劣悪な国家が日本の隣に残ってしまったのも因果なことです。

国民全体へのイデオロギー洗脳における偏狭性と狂信性、政治的反対派への迫害・弾圧における徹底性と残忍性について、誇張でも何でもなく、あの国は正に人類史上の汚点と言うほかない。

ヒトラー、スターリン、ポル・ポト各政権の最悪の時期が、控え目に見ても(建国当初からしばらくの間は、共産主義国の「平均的で」「通常的な」抑圧性に止まっていたと考えたとしても)、1960年代後半からずっと続いている状況だ。

その政治犯収容所は、世界でも最も閉鎖的で厳重な統制下にあるが、亡命者のわずかながらの証言を、疑いを持ちつつ話半分に聞いても、ナチ以上の、凄惨極まりない、恐るべき残虐行為が行われていると判断するしかない。

この世の地獄、とはあの国の強制収容所のためにある言葉だ。

最高位の支配階層に属する人間ですら、いつ粛清され、一族もろとも抹殺されるか、収容所送りになるかわからない(もしそれが自分の身に降りかかったら、収容所で生きている間中、恐ろしい虐待を受けるくらいならば、一思いに殺された方が楽だろうなと想像する)、極限の恐怖政治が敷かれている。

この国の国民にだけは、絶対に生まれたくない。

世界史上のどんな国家・体制よりも、私は北朝鮮に対して否定的印象を持つ。

上に記した通り、私は当分の間、北の現体制と共存を模索せざるを得ないとする立場ですが、それはこのような残忍な国内体制をしばらくの間は放置せざるを得ないという、深刻な道義的ジレンマを自覚した上でのことです。

無責任な好戦論を煽り立てる連中は愚昧・卑怯・劣等の極みだが、平和的解決を主張する人も、以上のことを理解した上で、そうしてもらいたい。

そのような人々の中で、(さすがに北の現体制を積極的に支持する人間はほぼ絶無となったが)かつての大日本帝国と韓国の軍事政権を北朝鮮と同列に置いて批判する人もいるが、私はそこに表れる倫理感覚に対して深い疑いの気持を持つ。

上述の通り、はっきり言ってレベルが違う話なんで。

体制の抑圧性については、北朝鮮は、誇張でなく、全世界史上最悪の程度に達しており、日本の植民地統治と戦時体制、韓国の朴正熙・全斗煥政権のそれぞれ最悪の時期でも及びもつかない程の残忍性を持っている。

北朝鮮がこのような体制になったのは、植民地支配と冷戦構造の結果だ、日本はその責任者だ、という主張には、いや大日本帝国もその前段階での歴史的環境に対応するため、否応なく形成されたものだ、その論法で自国の体制に対する国民の自律的責任を免除していったら、キリがないと言いたいし、韓国の権威主義政権は北の軍事脅威に対抗するための自衛措置の表れであり、現在から見ても十分正当化できるものだと考える。

「戦後の朝鮮半島では、北も南も独裁政権だった、しかし南では民衆の力で軍事政権を倒して民主化を達成した」という物語は、北の異常性を看過し、南北を同列に置く、欺瞞に満ちた虚構である。

「北の最悪の全体主義的独裁に対抗するため、南ではやむを得ず権威主義的体制を構築し、国力の増進に努めたが、その必要性を理解できない人々が正当性に乏しい、無分別の気配が濃厚な激しい反抗を起こした、しかし幸いにも国家が転覆することはなく、北との体制競争に完全に勝利したと思われた時点で、南は正常な議会政治に移行した」という方が余程真実に近い。

(現在の韓国では、残念ながら前者の歴史観が主流となってしまったようだが。)

 

加えて、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」という国名を掲げながら、実態は「金王朝」であり民主主義の欠片も無いと揶揄して済ませる態度からも脱却した方がよい。

あの惨めな体制だって、「民主主義」の帰結なんですよ。

共産主義は、人類社会のありとあらゆる不平等を未来永劫消滅させ、真の実質的自由と民主主義を実現すると豪語し、そのために暴力を用いてあらゆる伝統と既存支配階層を破壊しなければならないという考えから生まれた狂信です。

民主主義の単線的発展上に生まれたのが共産主義です。

これも何度も言っていることですが、共産主義を批判するに当たって、真にそれを否定しようと思うならば、民主主義も否定し疑わなければならないはずである。

 

ひとくちにいって文化の非理性化、このことの危険さかげんは、まずなによりもそれが自然を支配する技術能力の最高度の展開、および物質的幸福と富に対する欲望の激化という事態と並行し、またこれと結びついているという事実のうちに存する。

この物質的なものへの欲望が商業-個人主義的な形態をとるか、あるいは社会-集産主義的な形態であらわれるか、それとも国家-政策的形態のうちに発現するか、それはさしあたり問題ではない。

どのような社会原理に呼びかけんとするか、それは問題ではない、ともかく文化の非合理化からは生そのものの礼拝が結果し、これが支配と所有への非人間的、利己的衝動をいやがうえにも高めるのである。集産主義は利己主義を排除すると考えるなどは、およそ無思慮の一語につきよう。

かかる破滅的諸要因の協働によく対抗しうる釣合の力は、これを至高の倫理的、形而上的諸価値のうちにのみ求めることができよう。理性への回帰ということだけでは渦からぬけだしえないのである。

理性への回帰、せめてこれが要件だとはしても、わたしたちが正しい道を歩んでいるとはだれにもいえまい。どうみても、わたしたちは、この文化を脅かすに足る危機の錯綜を体験しているのだ。

感染と中毒に対する抵抗力の弱まりという状況、酩酊状態にも比すべき状況がみられるのである。精神は荒廃した。思想の交換手段、ことばは、文化の進展につれて、その価値を低めつつある。

ことばは、ますます多量に、ますます安易にまきちらされる。話され、あるいは綴られることばの価値の低下に正比例して、真理に対する無関心がふかまる。

非理性的な精神の構えがその地歩をすすめるにつれて、どの分野にあっても、誤った認識のはたらく余地がますますひろがる。商業的煽動的傾向の一時の宣伝が、たんにみかたの相違にしかすぎぬものを、一国全体の幻覚にまで拡大してしまう。

日々の思念は即座の行動を要求する。いったい、偉大な想念がこの世界にしみとおってゆくのは、ごくゆっくりした歩みでしかないというのに。都会にただようアスファルトとガソリンの匂いのように、世界の上には、むなしくあふれることばの雲がかかっている。

責任の観念は、一見、ヒロイズムのかけ声がこれを強化するかにみえるものの、そのじつ、個人の意識のうちにこそ求められるべきその基盤から引きはなされ、集団の利益のために、その視野のせまい考えを救済の法規とまで持ちあげたがり、これを押しひろめようと図る集団の利益のために動員される。

およそ集団の結びつきにあっては、個人の責任という観念は、個人の判断ともども、そのなにほどかの部分を、グループということばのうちに失うのである。

疑いもなく、今日の世界にあっては、すべての人がすべてのことに対して責任があるという感情が高まっている。だが、それと同時に、また、極度に無責任な大衆行動の危険が、異常なまでに増大してもいるのである。

引用文(ホイジンガ3)より。

 

 

あらゆる啓蒙主義道徳、人間の「真の利益」を説くすべての教義は、本来いかに精神的なものであろうとも、それどころか、初めのうちは人間の真の利益は「神のなかに生きる」ことだとさえ定義していようとも、ひとたび権力の座につき、大衆のこころを手に入れてしまうと、かならず権力獲得の程度に比例して堕落する。すなわち、物質化し、経済化し、非精神化する。他方、啓蒙主義道徳に忠誠を誓う大衆も、かならずますます欲の皮があつくなり、不満をつのらせ、ますます愚かになり、不信仰になる。そう、ますます非宗教的になる。宗教と政治とを分離できると考えているところに、自由主義の誤謬がある。宗教なしには、政治は、内的政治は、つまり社会政策は、結局のところやっていくことができない。というのは、人間という動物は、形而上的宗教をうしなうと、宗教的なものを社会的なもののなかに移しかえ、社会的生活を宗教的神聖さに高めようとするものであるが、その結果は、反文化的な社会的愚痴こぼしか、でなければ、社会的対立は解消できず、約束された幸福はいっこうに実現しないものだから、功利的争いの永続化と絶望か、そのいずれかに行きつくのがおちなのだ。宗教心は、たしかに社会的良心や社会的清潔欲とけっこう手をにぎりあえるものである。しかし、宗教心が発生するためには、まず社会生活の過大評価が消滅しなければならない。すなわち、和解は社会的領域以外のところに求めなくてはならぬという認識がうまれたときにはじめて、宗教心が生じる。社会生活の過大評価が精神を支配し、社会生活の絶対的神格化がはじまるところでは、宗教心は居場所をうばわれ、逃げだすほかない。あとに残るのは、絶望的な不和軋轢だけである。

トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)より。

 

 

北朝鮮について(北に限らないが)、言論の自由があるにも関わらず、その恐るべき実態が事実上隠蔽され、その言論状況の改善は徐々にしか進まず、最終的には2002年日朝首脳会談による拉致事件公然化まで、その種の左翼的言論抑圧が続いたことは、ある程度以上の年齢の方なら覚えがあるはずです。

それも「民主主義」という言葉に無条件に拝跪する精神態度と無関係ではないと思います。

 

 

これまで北朝鮮通史としては、金学俊『北朝鮮五十年史』(朝日新聞社)徐大粛『金日成と金正日(現代アジアの肖像6)』(岩波書店)和田春樹『北朝鮮現代史』(岩波新書)を紹介しているが、本書も含め、どれも悪い本ではない代わりに、決定版という感じがする本もない。

まあ、和田春樹『北朝鮮現代史』が一番新しいし、コンパクトだし、思ったほどの内容的偏りも無かったので、ひとまずそれを読めばいいんじゃないですかね。

ただ本書も良質な概説であったことは書いておきます。

2018年3月5日

桐山昇 栗原浩英 根本敬 『東南アジアの歴史  人・物・文化の交流史』 (有斐閣アルマ)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 04:07

2003年初版発行の東南アジア地域史。

前近代、植民地時代、独立後の三部構成で、近現代史に多くのページを割く。

そして、「最近の東南アジア史研究の発展を踏まえたうえで、東南アジア各国史の詳細な叙述を必要最小限度に控えて、むしろ域内外の交流の歴史に焦点をあてた東南アジア地域史としての叙述を心がけたこと、そしてまた日本との交流関係史にもつねに注意を払ったこと」を特徴とする。

最近の学界の傾向からすると、もちろんこういう記述が標準的なんでしょうが、読んだ感想は「つまらない」の一言。

面白くもなければ、史実が頭に入ってくるのでもない。

本書とは全く逆の、「各国別で前近代の王統を中心にした政治史」という時代遅れの通史の方が、初心者にとっては効用が高い。

これを東南アジア史に初めて接する人に薦めるのはやや躊躇する。

通読は楽だが、強いて読むほどの本ではない。

2018年3月1日

桑原武夫 『文学入門』 (岩波新書)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:43

これもかなり古い本だ。

初版は1950年。

当然、時代の違いを感じさせる部分も多いが、末尾の文学必読書リストは参考になる。

以下、関連する文章の引用とリストを挙げる。

以上のべてきた意味において、文学における基準的な必読書のリストの作成は、こんにちきわめて重要な仕事といわねばならない。先進国ではそういう試みは、つとになされているが、日本ではさきに指摘したような文学観から、いっこうに不熱心だった。しかし、こういう基本的な仕事をほっておいて、ただ世界文学に目をひらけ、とだけ叫んでいるのはコッケイというのほかはない。それでは、せっかく開いた目がキョロキョロするばかりである。また、そういうものが現実につよく要求されていることは、私などのところへ来る新制高校や労働組合あたりからのアンケートの大多数が、何を読めばよいか、という問合せであることをもっても知れるのである。

そこで私は、そうした試みの一つとして、友人諸君の協力をえて、世界近代小説五十選というリストを作ってみた(巻末、附録)。急ぎの仕事だから不完全な点もあろうが、それは諸方面からの批判をえて、漸次あらためてゆくことにしたい。このリスト作成の根本方針は、私がこの本で説いてきたところによるが、もう少し説明を加えると、第一に、近代小説を味わうためには、まず西洋の近代小説の傑作を読むべきだと考えたことである。事実、全世界の近代小説は、中国のものも、日本のものも、すべてヨーロッパの近代小説の影響のもとに生まれたものである。ヨーロッパ以外にも、『千一夜物語』とか、『水滸伝』『三国志』とか、『源氏物語』、西鶴とか、すぐれたものがあるが、これらは近代小説とは根本的にその性格を異にしており、たとえこれらのものの影響下に書かれた小説があるとしても、もしその作者が西洋近代小説の精神の洗礼をうけていないとするならば、その作品は現代の小説としてはつまらぬものだ、といって恐らく間違いはないだろう。そういう意味から、まず近代小説とはどういうものか、を捉えようとするならば、西洋近代小説の傑作を読まねばならない。

ところで、そうした傑作がヨーロッパ精神のあらわれである以上、その根源をなしている『聖書』やギリシヤ神話、ホメロスなどについての知識が必要だというのは正しいし、またそれらに接することは、もとより望ましい。しかし、だからといって、まずソフォクレス、プラトン、プルタルコス、タキトゥス、アウグスチヌス、等々、古代中世の思想と文学を十分通過しておかねばダメだ、などという大学の先生の意見に盲従する必要はなかろう。(文学のみでなく、学問でも、古代から現代へという勉強法のみに執着してはならない。現代ないし近代をやって、その必要から時代をさかのぼるという行き方も大切で、むしろその方が効果的なことがある。)それに、そうした古典は、そう簡単に読めるものでもなく、また近代小説はそんなに高級なところから誕生したものでないことは、さきに述べた。文学研究の専門家を志す人でないかぎり、近代小説の系譜をたどるにしても、古いところで、ボッカチオの『デカメロン』、そして近代告白文学の先祖という意味で、小説ではないが、ルソーの『告白』あたりから始めれば十分だろう。この二つは、そういう歴史的意義のいかんにかかわらず、無類に面白いものだから、一読をすすめたい。

さきに述べた理由によって、戯曲と詩はのぞき、近代小説のみにかぎったにせよ、五十種ではあまりに少ない、といわれるかも知れない。それは一おうもっともな意見である。しかし、私はヘルマン・ヘッセが選んだ世界文学の書目のようなものは、あまりに冊数が多すぎて、かえって実用に適しないと考える。あの本を全部読んでいるものは、ヨーロッパの知識人にも少ないであろう。どうせ全部は読まないとなると、その中からさらに第二次的に必読書のリストを作らねばならないことになる。それでは国民教育の共通地盤ということでなくなる。それに本の高いこんにち、読者の経済力ということも考慮に入れなければならない。そこで私は一まず五十にかぎり、その代りこれだけは、教養ある日本人なら必ず読んでいるというふうにしたいものだと思う。私のリストでは、全部を買うと、その代価は、およそ二万円となる。学校や労組の図書館などなら一度に買うことはできようが(そして大きな図書館では、こうした名作は同じものを何冊も買っておく必要を忘れてはならない)、個人にとっては大きな金額である。しかし、なにも一挙に手に入れねばならぬ訳はない。一つ読みおえたらつぎのを、というふうにぽつぽつ買っていって、何年後かに揃えるということにすればよい。

小説を読むことの楽しみの一つは、名作を時をへだてて反読することにある。大小説というものは、一つの客観的な複雑な深い世界であるから、読者の思想や生活と結びついたインタレストが変化するにつれて、その世界で行なわれる読者の経験もさまざまに変わりうる。だから読みかえすたびごとに、すでに大筋は知っているから落着いた気持はありながら、やはり新しい経験を与えてくれるものである。その楽しさは、昔なじみの立派な人に時おり出会ったとき、ああ昔のとおりだなと思いつつも、同時に、いままで気づかなかったその人の立派さに改めて打たれる、そういう喜びに比べることができよう。アランが、あのぼう大なトルストイの『戦争と平和』を十ぺんも読みかえしたというのは、そうした楽しみがあればこそである。この五十冊の本を自分の手許にそろえて、もっているということは、その人の人生を計りがたく豊かに、楽しくするにちがいないのだ。

こうしたリストによって小説を読むことは、なにか自由が少なく、個性の発展をさまたげられるように思う人があるかも知れないが、それが間違いであることは、くりかえし述べた。普遍的な客観性を通らない個性などというものはないのであって、世界的に認められ、客観的価値の定まった名作を通ったあとで、はじめて個性的な独創的な鑑賞の自由が、すこやかに成長することを知らねばならない。それに、これらの名作をまず読むことはすすめるが、それ以外を読むなとは誰もいいはしない、だいいち、そんなことは不可能である。

なお、このような名作といえども、すべてが必ずたのしく読めるとはかぎらない。そういう場合には、無理をして読まずに一おう中止した方がよい。しかし、そのためにその作品をすててしまうべきではなかろう。それはきっと大きな楽しみを一つとり逃がしたことになるだろうから。世界中の人々が楽しく読んで名作とみなしている以上、その作品には必ずすぐれた点があるにちがいない。また別の時期に改めて読みなおす労を惜しんではならない。どうしてこんな面白いものが、前にはわからなかったのだろう、といぶかることがあるに違いない。また、こうした名作を味わっておくことは、そのこと自体が楽しみであるばかりでなく、上等の料理を食べなれると、まずい食事がいやになるのと同じように、眼がこえて、低俗な小説がおのずといやで読めなくなる、というありがたい副作用をともなう。しかし、このたとえは本当は正確でない。料理で口がおごると家庭経済はつぶれるが、小説のほうはトルストイでも駄小説でも本の値段に変りはなく、いなむしろ名作ほど安いくらいで、料理のような危険はさらにないからである。

しかし、さきにもいったように、こうしたリストによって小説史上の名作を読むということは、それ以外の作品を読むなということでは決してない。このリストでは一人一作のたてまえをとっているが、それはもともと無理をふくんでいる。バルザックの『人間喜劇』九十余篇を全部よめということは不可能にしても、『従妹ベット』『ゴリオ爺さん』『ユージェニ・グランデ』『絶対の探究』などの傑作のうちから、一つだけを選んで他をすてねばならぬということは、つらいことなのである。しかし、それらをすべて採用すればリストはむやみに多くなるから、けっきょく私自身の好みによって、そしてジッドが、『人間喜劇』はすべてを読まねばならぬが、しいて一つをとるとすれば『従妹ベット』を、といった言葉を思い出して、これを取ったのである。同じことは他の偉大な小説家についてもいえることである。したがって、読者は一つの作品に感動したならば、その作家の他の作品を読まれるがよい。なお、文学の研究を志す人にとっては、一人の偉大な芸術家の全作品を知るということは、その作家個人のみでなく、文学一般を理解する上の、もっともすぐれた方法の一つであることを、申しそえておきたい。

 

 

 

以下、リストの転載に当たって、年代と翻訳の版を省略、一部表記を変更。

 

 

イタリア

1. ボッカチオ『デカメロン』

 

 

スペイン

2. セルバンテス『ドン・キホーテ』

 

 

イギリス

3. デフォー『ロビンソン・クルーソー』

4. スウィフト『ガリヴァー旅行記』

5. フィールディング『トム・ジョーンズ』

6. ジェイン・オースティン『高慢と偏見』

7. スコット『アイヴァンホー』

8. エミリ・ブロンテ『嵐が丘』

9. ディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』

10. スティーヴンソン『宝島』

11. トマス・ハーディ『テス』

12. サマセット・モーム『人間の絆』

 

 

フランス

13. ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』

14. プレヴォー『マノン・レスコー』

15. ルソー『告白』

16. スタンダール『赤と黒』

17. バルザック『従妹ベット』

18. フロベール『ボヴァリー夫人』

19. ユゴー『レ・ミゼラブル』

20. モーパッサン『女の一生』

21. ゾラ『ジェルミナール』

22. ロラン『ジャン・クリストフ』

23. マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』

24. ジイド『贋金つくり』

25. マルロー『人間の条件』

 

 

ドイツ

26. ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

27. ノヴァーリス『青い花』

28. ホフマン『黄金の壺』

29. ケラー『緑のハインリヒ』

30. ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』

31. リルケ『マルテの日記』

32. トーマス・マン『魔の山』

 

 

スカンジナヴィア

33. ヤコブセン『死と愛』

34. ビョルンソン『アルネ』

 

 

ロシア

35. プーシキン『大尉の娘』

36. レールモントフ『現代の英雄』

37. ゴーゴリ『死せる魂』

38. ツルゲーネフ『父と子』

39. ドストエフスキー『罪と罰』

40. トルストイ『アンナ・カレーニナ』

41. ゴーリキー『母』

42. ショーロホフ『静かなドン』

 

 

アメリカ

43. ポー『黒猫 モルグ街の殺人事件 盗まれた手紙 他』

44. ホーソン『緋文字』

45. メルヴィル『白鯨』

46. マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』

47. ミッチェル『風と共に去りぬ』

48. ヘミングウェイ『武器よさらば』

49. スタインベック『怒りのぶどう』

 

 

中国

50. 魯迅『阿Q正伝 狂人日記 他』

 

 

 

 

ざあっと見ると、「うん?」と思うのもありますけどね。

自分の読後感からすると、ノヴァーリス『青い花』が必読とは思えないなあ・・・・・。

ケラーも要らないと思うし、スカンジナヴィアでイプセンとストリンドベリの代わりにこの二人を挙げる意味がわからない(と思ったら、戯曲は外して小説のみを選んだからだと気付いた)。

ゴーリキーとショーロホフも今なら外すか?

ミッチェル『風と共に去りぬ』も読む気しないなあ・・・・・。

通俗作品のイメージが強いが、なぜか高校レベルでもちょっとだけ出てくる。

女性の方で好きな人は多いんでしょうが、あの長編を読む労力がその本当の文学的価値に値するのか、正直疑問に思えてしまう(パール・バック『大地』も同じく)。

しかし、こういう冊数を絞った必読書リストというのは、どんな分野にしても貴重ではある。

相当古いものだが、本書も初心者にとっては、それなりに役立つ部分もあるでしょう。

2018年2月25日

小谷野敦 『名前とは何か  なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』 (青土社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:12

サブタイトル通り、実際の領地や権限とほとんど関係なく与えられる「武家官位」の話に始まり、「氏」と「姓」と「苗字」の違い、「諱」と「編諱」、外国人の人名、匿名言論の問題点が内容。

日本の話も中々興味深いが、この記事では外国の事例について、以下の部分のみを引用メモしておく。

 

なお、ヴェトナムも漢字文化圏なので、ホー・チミンなどは「胡志明」である。・・・・・ところが、新聞報道などを見ていると、ファン・ヴァン・ドンというヴェトナムの政治家を「ドン首相」などと書いているのである。漢字は、范文同であるから、「范」が姓のはずで、ほかにも現在の党書記長はノン・ドク・マインだが、これを「マイン書記長」などと書く。変だ変だと思って調べていたら、ヴェトナムでは姓と上の字が同じ人が多いので、いちばん下の字を姓のように使うのだそうだ。どうもややこしいことである。

 

西洋人の名前について説明すると、イスパニア系の人の場合、父の姓と母の姓を併せて姓とする。「ガブリエル・ガルシア=マルケス」ならば、ガルシアが父の姓、マルケスが母の姓である。だから子供はガルシアの方を受け継ぐことになる。最近は見かけなくなったが、昔はこれを「マルケス」などと呼ぶ人がいて、だからそれは間違いなのである。どちらかといえば「ガルシア」のほうがいいことになる。・・・・・フランスには、そういう形ではないが復姓めいたものがあって、レヴィ=ストロースとか、サン=テグジュペリ、メルロ=ポンティ、マンデスフランス、ジスカールデスタンなど長い姓がある。・・・・・ルネ・デカルトも、デ=カルトだから、デカルト主義はカルテジアニスムになる。新聞はむやみと「ヴ」の音を使うのも、人名に「=」を使うのも嫌がるので、「レビストロース」とか「バルガスリョサ」といった表記が目につくのは困ったことである。

 

英国史を読む時など気をつけなければならないのは、政治家などで、姓ではなくて領地の名で呼ばれる貴族政治家があって、アヘン戦争の時の外相でのち首相となるパーマストンなどは、パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルが本名である。これは日本の徳川時代に前田家当主を加賀中納言とか、山内氏を土佐などと呼んだのと近いと言えるだろう。もっとも日本の場合、そこに領地と無関係な受領名がついたりするからややこしいが、どこでも歴史のある国はややこしいものだ。

 

著者の本を全くフォローしなくなって久しいが、これは勧められる。

いろいろ有益な知識が得られる。

2018年2月21日

リチャード・リケット 『オーストリアの歴史』 (成文社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 02:38

200ページ弱の小史だが、比較的良くまとまっている。

高校世界史レベルのことはすっ飛ばして、それ以外の事項を述べると、カール大帝とオットー1世が東方蛮族への防壁として設置した「オストマルク」が建国の起源。

支配者は、バーベンベルク家からプシェミスル家(チェコのボヘミア[ベーメン]王国の土着王朝)へ、そしてハプスブルク家と変遷。

三十年戦争後、即位したレオポルト1世は、その長い治世(1658~1705年)中に、第二次ウィーン包囲を退け、オイゲン公という名将を起用し、ハンガリーを回復、オスマン帝国に対して決定的優位に立つことに成功した。

本書では、啓蒙専制君主として著名なヨーゼフ2世は、貴重な伝統や慣習を破壊して性急な改革を無理に推し進めようとしたとして、かなり厳しく評価されている。

1848年三月革命の混乱の中、フランツ・ヨーゼフ1世が即位、第一次大戦中の1916年まで、実に半世紀以上在位する。

帝の弟マクシミリアンはナポレオン3世に担ぎ上げられメキシコ皇帝となるが、反乱に遭い銃殺され、皇太子ルドルフは不満を募らせた挙句自殺、妻エリザベートはアナーキストに暗殺され、そして新たに皇太子となった甥のフランツ・フェルディナント大公もサラエボでセルビア人に暗殺、これが第一次大戦のきっかけになったことは周知の通り。

1908年(1878年ベルリン会議で管理権のみを得ていた)ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合する決定が全欧戦争の危機を強める。

英国王エドワード7世は老皇帝にドイツとの同盟がもたらす危険を警告したが、不幸にも実を結ばず。

もしエドワード7世がオーストリアをドイツから切り離すことに成功していたら、中央ヨーロッパの将来がどうなっていたか想像するのは楽しいことだ。もし本当にそうなっていたら・・・・・。

皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されず即位していれば、スラヴ人の地位を向上させ、ハプスブルク帝国を、オーストリア・ハンガリー二重帝国からスラヴ人をも含めた「三重帝国」に変化させていただろう、との著者の想定が興味深い。

ハプスブルク帝国崩壊後、果てしない民族紛争と左右両極の狂信的イデオロギーによって悲惨極まりない状態に陥った中東欧を見ると、なぜそうならなかったのか、と慨嘆したくなる。

第一次大戦敗北により、帝政は崩壊、第一共和政成立。

1922~24年、26~29年首相を務めた保守派のザイペルの下、戦後復興に成功。

だが、国内の左右対立激化、経済恐慌襲来、オーストリア・ナチ党の台頭によって、1932年首相に就任したドルフスは右派権威主義体制を樹立、ムッソリーニと友好関係を結び、左派勢力とオーストリア・ナチスを共に弾圧。

34年ドルフスがナチに暗殺されるが、激怒したムッソリーニは軍を動員、政権掌握間もないヒトラーは引き下がり、オーストリアは後継首相シューシュニクが権威主義政権を継続。

だが、独伊接近によって独立の後ろ盾を失ったオーストリアは、38年ドイツに併合される。

第二次大戦後、第二共和政成立、ドイツと同様に東西両陣営によって分割占領されるが、スターリン死後の緊張緩和期の機会を捉えて、中立を自発的に宣言することを代償に、1955年オーストリア国家条約で外国軍は撤退。

冷戦下では中立政策から欧州統合には参加せず、冷戦終結後の1995年にEU加盟。

 

 

ちょっとあっさりし過ぎているかもしれないが、大部の本は当然読みにくいし、本書の意義は充分あるか。

普通に有益です。

2018年2月18日

アンドレ・ジイド 『法王庁の抜け穴』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:57

1914年刊。

反教権主義・世俗主義の隆盛に対し、守勢に立たされたカトリック教会、という時代状況を背景にして、無償の英雄的行為と無意味な殺人の双方を為す者、無神論から改宗したが生活に困窮し家庭不和に陥る者、教皇幽閉という虚偽の噂を流して詐欺を働こうとする者、など様々な人間群像を描いた作品。

よくわからん・・・・・。

第一編はまだ良かったが、以後はさして面白くも無ければ、感銘を受ける点も無い。

さらに、訳文が古いせいか、読みにくい。

後半、ストーリーの展開に意外性があることは認めるが、何を言いたいのか、私の頭では理解できない。

『狭き門』のあと、ジイドの二作目として、昔学生時代に『田園交響楽』を挫折したことがあったので(短い作品なのに)、世評が高いと思われるこれを選んだのだが、見事に失敗だった。

私の知性と感性では良さが分からない作品だった。

ヘッセに比べればジイドはまだ自分の感覚に合いそうだと思い込んでいたが、それは錯覚でした。

それが理解できたことだけが収穫です。

2018年2月14日

フレデリック・ルイス・アレン 『オンリー・イエスタデイ  1920年代・アメリカ』 (ちくま文庫)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 05:20

副題通り、1920年代のアメリカを描写した社会史・生活史・風俗史の本。

第一次大戦後、ウィルソン的理想主義に倦み、国際連盟への参加を拒否して「常態への復帰」というスローガンと共に孤立主義に閉じ籠り、ボリシェヴィズムの影に怯えて「赤狩り」が行われ、サッコ・ヴァンゼッティ事件を引き起こし、ハーディング、クーリッジ、フーヴァーという凡庸極まる共和党大統領の下、巨大企業重視の自由放任政策を続け、自動車とラジオを中心とした大量消費社会を出現させ、空前の好景気を享受したが、1960年代の対抗文化の先駆けのようなモラルの変容を経験し、誇大広告と煽情的ジャーナリズムによる大衆ヒステリーが繰り返され、リンドバーグなどが英雄に祭り上げられ、禁酒法という明らかに無謀で偽善的な社会的実験が行われ、その弊害からアル・カポネらマフィアが我が物顔で横行し、フロリダにおける狂気のような不動産ブームの後、さらに狂的な株式バブルを膨張させ、ついに1929年ウォール街株価の暴落を引き起こし、大恐慌に全世界を巻き込んだ、1920年代アメリカの大衆社会を活写している。

その醜悪な面は、日本を含む全ての民主主義社会の雛型でもある。

 

 

もちろん、細かな固有名詞やエピソードにこだわる必要は無い。

雰囲気をつかめば十分。

著名な本であり、学生時代から存在は知っていたが、この度初めて通読。

しかし、本にはやはり読み時というものがある。

これを学生時代に読んでいたら、多分途中で挫折するか、嫌々読み終えて何の印象も受けない、ということになっていたでしょうね。

 

ざっと読んで、現在我々が生きている社会を反映する鏡のような叙述を確認できれば、それでよい。

悪い本ではないです。

2018年2月10日

砂野幸稔 『ンクルマ  アフリカ統一の夢』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 03:25

出た、「ンクルマ」という違和感全開の表記。

1957年、戦後サハラ以南のブラック・アフリカで初の新興独立国となったガーナの指導者についての、90ページ弱の簡略な伝記。

著者は『新書アフリカ史』(講談社現代新書)の共著者の一人らしい。

高校世界史でギリギリ出てくる程度の人物なので、普通ならこれくらいの短い本が適切なんだろうが、高根務『ガーナ 混乱と希望の国』を読んだ後だと、それに付け加える知識は少ない。

独立後、1960年「アフリカの年」とコンゴ動乱の時期、穏健派のアフリカ諸国がウフエ・ボワニ政権のコートディヴォワールを中心にモンロビア・グループを結成、それに対抗してンクルマ政権のガーナ、セク・トゥーレ政権のギニア、モディボ・ケイタ政権のマリなど急進派諸国がカサブランカ・グループを結成、しかし急進派諸国でもンクルマの唱える、各国の国家主権を放棄したアフリカ合衆国を目指す意見に同意は得られず、結局両グループの妥協によって、1963年アフリカ統一機構(OAU)が結成された、ということくらいか。

カサブランカはモロッコにあるが、王政国家のモロッコが急進派諸国に加わったのは、単に対外関係についての思惑からだ、と『モロッコを知るための65章』に書いてあった気がするが、詳細は覚えておりません。

全体的な評価については、現実遊離した国家運営について厳しい意見も記されているが、OAUが発展的に解消して2002年発足したアフリカ連合(AU)にも繋がる、アフリカ合衆国の理想を掲げた人物としては評価している。

上述の『ガーナ 混乱と希望の国』が未読なら、読めばいい。

そうでないなら、強いて読むことは無いかなあ、と思う。

2018年2月6日

ジョージ・バーナード・ショー 『ピグマリオン』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:36

「こんな作品名、知らんなあ」と思われるかもしれないが、要は映画『マイ・フェア・レディ』の原作である。

ということで、音声学のヒギンズ教授とピカリング大佐が、下層階級のロンドン訛り(コクニー)丸出しで喋る花売り娘イライザに上流階級の言葉と立ち振る舞いを教え込んで、淑女に仕立て上げる、というお話になる。

作者自身が付け加えた「後日譚」も読むと、映画とはやや異なるラストの模様。

読みやすく、十分面白い。

教科書に載っている代表作だからといって、極めて古い訳本で『人と超人』を読むより、こっちに取り組んだ方が、はるかに良いでしょう。

双方をとりあえず読んだ上で、確信を持ってそう勧めます。

2018年2月2日

ピーター・カルヴォコレッシー ガイ・ウィント ジョン・プリチャード 『トータル・ウォー  第二次世界大戦の原因と経過 上巻 西半球編』 (河出書房新社)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 03:47

この翻訳は1991年初版が出た。

当時刊行には気付いており、飛ばし読みはしていた。

今回ひょんなことから入手できたので、実に四半世紀余りのブランクを経て読んでみた。

上巻がヨーロッパ編、下巻がアジア・太平洋編。

まずナチズムとヒトラーに関する概論を述べ、戦争に至った背景説明を行っているが、この部分はさして興味深いものではない。

加えて、訳文があまりこなれていないのか、誤訳か誤植かと思われるところも、二、三あった。

ただ、宥和政策の評価については非常に重要な議論を展開しており、ここはしっかりと把握しておく必要がある。

本書では、ミュンヘン会談のあった1938年に英仏両国が対独戦に踏み切らなかったことを致命的な失策と見なしている。

宥和政策について、一般的評価とは異なり、ナチス・ドイツに対抗できるだけの軍備を拡張する為の、貴重な時間を稼いだ、として肯定的に捉える見方もあることをこのブログでは書いてきました(福田和也『昭和天皇 第五部』など)。

しかし、本書ではそれを否定する。

英国が宥和政策に向かった三つの要因を挙げる。

第一が、国民世論と政策決定者が第一次大戦の恐るべき被害を経験し、再度の戦争を避けることを至上命題にしていたことで、著者もこれは十分理解し得ることだとしている。

第二に、イギリスはヨーロッパ情勢だけでなく、自らの帝国保持を考慮し、特に東アジアにおける日本の脅威を受け、対ヨーロッパ政策において慎重にならざるを得なかったこと。

これには、著者は序文で、実際には日本は英仏・独間が開戦した1939年にも、フランスが降伏した40年にも戦争を仕掛けてこなかった、この懸念は過剰で不要なものだった、としている。

第三に、最も重要な点として、空軍力を主とする軍事情勢の誤認、そしてミュンヘン協定を結んだことで、東欧諸国で唯一勢力均衡に影響を与えるほどの実力を持っていた中級国家チェコスロヴァキアを失ったこと。

1930年代の英国外交政策の予測で、第三番目の要因は、軍事力の均衡と空軍の実戦力を始め、軍事情勢の読み誤りであった。閣僚らは、戦争が始まれば、ロンドンはたちまち破滅的な爆撃を受け、英国は降伏しなければなるまい、と思っていた。この考えは馬鹿げていた。英国航空幕僚は、ドイツをとても爆撃できないことを認めていた。この弱音を吐いたことから、ドイツ空軍なら英国本土を爆撃し得るのか、という疑問が当然生まれそうなものだが、驚いたことに、そういう設問はまったく提起されなかったようなのだ。もしされたとしたら、答えはおそらくノーであったに違いない。ドイツ空軍が二年後に英国本土を空襲した時(予想した破滅的損害は軽微だった)、フランスとベルギーのドイツ軍占領下の基地から発進したもので、1938年当時は、両国に空軍基地を持たず、チェコスロヴァキアが独立していて、敵対的で軍備の充実した国家として健在である限り、征服できなかったのである。ミュンヘン協定によるチェコスロヴァキアの破滅が翌年完了したことが、ヒトラーの大英帝国へ航空攻勢を開始する不可欠の前提条件だった。ミュンヘンでチェコスロヴァキアを裏切ったのは、そうでもしなければヒトラーと戦い、負けるほかなかったからだ、という理由がこれまで正当化されてきた。これはいかにもまずい口実である。結局、フランスはいずれにしろ敗れた。英国は「イギリスの戦い」で勝ちはしたが、ミュンヘンから引き出す正しい結論としては、あそこでチェンバレン首相が、英国空軍増強のための時間を稼いだから、国を救ったというのではなくて、むしろミュンヘンが、本来ならば戦わなくてもいい戦争を、英国に引き起こさせたということなのだ。

1938年、戦闘準備の整っている国の中には、チェコスロヴァキアもその一つに含まれていた。英国もフランスもソ連もまだ態勢が整っていなかった。もっと重要なことは、ドイツも準備が不十分だったことである。もちろんイタリアもそうだった。だからチェコスロヴァキアのいかなる同盟国も、その敵国に対して、とりわけ優勢に戦いを始められたはずである。チェコスロヴァキアは戦争の態勢作りが出来ていたばかりでなく、動員人員の点を除けば、重要なあらゆる部門でドイツと肩を並べられるほど強力だった。三五個師団のチェコスロヴァキア陸軍に対し、ドイツ陸軍は同規模か若干上回っていたが、侵略軍としては、防衛する側の二倍の兵力量が必要だった。ドイツは1938年チェコスロヴァキアと師団数でほぼ匹敵し、西部戦線防衛の四ないし五個正規師団(といっても訓練不十分で将校不足)多かったが、同戦線にはチェコスロヴァキアの同盟国フランスが七六師団も持っていたのである。チェコ軍はいろんな点で、特に砲と装甲戦闘車両の面で、ドイツ軍より装備が優秀だった。1940年にフランス軍とその連合軍を蹴散らして壊滅させたドイツ装甲師団は、1938年にはまだ存在しなかった。1939年9月でさえ、ヒトラーが西部で戦争を開始したとき、一〇個師団の代わりにわずか六個装甲師団しか持っていなかった。一〇個装甲師団のうち四個装甲師団がチェコの戦車を使っていたくらいである。

チェコスロヴァキアは欧州で第六番目の工業大国で、ヨーロッパでは最も有名で、大規模かつ能率的な兵器産業のひとつを持ち、スロヴァキアの相対的に安全なところへ、西部から移す計画を立てていた。1938年以降その生産量は(英国の兵器生産量と大体同じだった)、ドイツ自体の能力につけ加えられ、ミュンヘンでドイツが獲得したものは多大なものだった。ドイツはさらに、チェコスロヴァキア軍の現保有装備(航空機一五〇〇機を含む)も確保した。チェコスロヴァキアの動員計画は申し分なかった。政府はプラハの人口の半数を疎開させる態勢を整えていたし、士気も旺盛だった。こういった相当の貢献をしている見返りに、スロヴァキアが要望したものは、フランスが宣戦布告をしてくれることがすべてだった。ドイツ軍を二、三カ月ぐらいは支える能力に自信があったので、即時、フランスが大挙して攻勢に出るのを少しも当てにしていなかった(ここがそれを要請したポーランドと違うところだ)。翌年フランスは軍動員の一五日以内に、ドイツに対抗するためその大部分を必ず回す、という約束をしてくれたのである。

だがフランスや英国に、同じような自信はなかった。フランスや英国の参謀、政治家たちの悲観主義が大きく頭をもたげてきた。オーストリア合邦いらい、チェコスロヴァキアの柔らかい下腹部がむき出しとなり、その首都はドイツの挟撃作戦にひとたまりもない、という西欧で抱かれてきた考え方からである。事実は、チェコスロヴァキアの南部防衛線が決して柔らかくはなく、ドイツも挟撃作戦を計画していなかった。ヒトラーとその将軍連が決定したのは、南部および北西からプラハを攻撃すれば、チェコスロヴァキア軍と防衛施設によって、あまりにも長期に釘付けになるだろうから、西方から攻撃する計画を立てたのだった。無血勝利者として、チェコ防衛施設を視察できるようになったとき、その防御力とそのふところの深さが、国境からプラハまで続いているのに今さらながら畏怖の念を覚えたのだった。ミュンヘン以後二、三週間たって、ヒトラーは四〇〇人の報道陣に防衛施設視察の感想として、一発の弾も撃たずにこれほどのものを首尾よく手に入れられたのは、感激の一語に尽きる、と語っている。

・・・・・ヒトラーの政治的な大ばくちは成功したが、フランスと英国が軍事能力に欠けていたわけではなく、戦略的に無能だったからである。・・・・・1940年フランス軍は、優勢なドイツ装甲部隊(1938年にドイツは持っていなかったのだ)のため二、三週間で壊滅した。さらに1938年、ドイツがチェコスロヴァキアに手間どり、西部にはわずかにドイツ正規師団が五個師団とその他七個師団、東部にはドイツ全空軍を投入して、ヨードル将軍が建築現場みたいだ、と表現した不完全なドイツの防衛態勢だったのに、一方で条約義務がありながら、フランス陸軍が全く動かず、むざむざ時を過ごしたとは、どうしても本当とは思えない。いかにその統率力や装備が貧弱だとはいえ、戦争が起きたあの時より以上にへまをやらなかっただろうし、少なくとももっとましなことがやれたはずである。

・・・・・

ミュンヘンについては、英国の場合二つの点を調べなければならない――1939年に戦争が実際にやってきた時と、1940年に天下分け目の戦いがあった時である。再軍備は、ミュンヘン以後は着々と進められていたものの、1940年にフランスが(そして5月10日、チェンバレンが辞職)6月17日に降伏するまでは、それほど真剣ではなかった。戦争を拒否したミュンヘンから、1939年9月にそれを引き受けた時点までの英国の軍事費は、ドイツの約五分の一だった。英国の戦闘機生産はドイツの約半分。だからこの一二ヵ月間に、ドイツに比べて英国の地位は、少しも改善されていなかった――この点に関して、英国の立場は実際には悪化していたのだ。ミュンヘン当時は必要不可欠のレーダー網も不完全で、完成したのは一年後である。低空で飛んでくる航空機捕捉の補助レーダー網は、1938年には全く存在しなかったし、1939年になってもまだ同じ状態だった。もし英国政府が、1938年に敗北を恐れていたのだったら、その一年後、英国の防衛態勢がドイツの空襲にいまなおうまく立ち向かえず、航空機の機数も増え近代装備も充実したとはいうものの、ドイツ空軍力と比較すると、いぜん見劣りがしていたのだから、なおさら心配する理由があったはずである。

1940年の春までには、「イギリスの戦い」直前に、英国航空機生産高がドイツを追い越し始めたので、英・独両軍の差は開かなくなり、逆に縮まってきた。1938年、英国は戦闘機六〇〇機を擁し、その中の三六〇機がすぐ実戦に使えたが、新鋭機は五機のうちわずかに一機の割合だった。一九四〇年になると、全戦闘機部隊四三個飛行中隊は、新鋭ハリケーンかスピットファイアを保有していた(海外の飛行中隊にはなし)。だから「イギリスの戦い」を1938年に展開しておれば、結果は別の方向をたどったかもしれない、などと言われるのもうなずけることである。しかし、1938年チェコスロヴァキアを同盟国として「イギリスの戦い」といったものが戦えたはずだと想定するのは、受け入れ難い。なぜなら、ドイツ空軍にとって、英国攻撃の際に基本的に不可欠なことは、フランスとベルギーにある飛行場の確保だったからである――飛行場を最初にドイツ陸軍が占領しなければならなかったし、1938年の予測では、チェコスロヴァキア占領で手一杯だったであろうからである。英国が1938年にひどく貧弱な備えしか整えていなかったとしても、1939年ポーランドのために戦争に引きずり込まれ、1940年には英国自身の沿岸防衛をせざるを得なくなった時よりも、優秀な装備を持ち、ことに東部に邪魔者のいないドイツと、1938年に非常に不利な状況で戦わなければならなかっただろう、ということにはならない。むしろ逆に、1938年の戦争回避は不面目な措置であるばかりでなく、不得策で愚かなものであった、と思う十分な理由がある。ミュンヘンで戦争を先へ延ばすことによって屈服してしまったことが、その後の進路を決定し、フランスの敗北を確実にしてしまい、英国は再軍備の時を稼ぐどころか、もう少しのところで負ける戦争に追い込まれるところだったのである。

本題の戦史部分の叙述はとりあえずは良くまとまっている。

オーストリア、チェコ、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、という枢軸国の占領・攻撃の順序は、年代(と月)と共に正確に記憶すること。

しかし、戦史部分を離れて、ドイツ占領下のヨーロッパを描写する章になると、読むスピードがガクンと落ちる。

続きを読もうとするが、訳文が予想以上に悪い気がする。

全600ページ余りのうち、400ページまで行ったところで、あえなく挫折。

どうにも読み進められなくなってしまった。

上で引用した宥和政策の評価は非常に重要と思われるし、肝心の戦史部分はそんなに悪くないと思うのだが・・・・・。

第二次世界大戦の本格的通史としては、以前リデル・ハートの本を(通読してないのに)紹介したが、それに加えて本書を(上下巻共に読んだ上で)推薦しようと考えていたんですが、自分が挫折してしまったので、他人に薦める資格が無くなった。

この先、下巻に取り組む可能性も薄い。

存在だけは紹介しましたので、興味のある方は一度図書館でご覧下さい。

比較的最近出た類書では、アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦 上・中・下』(白水社)があるようだが、そちらの方がいいのかもしれない。

2018年1月29日

千葉功 『桂太郎  外に帝国主義、内に立憲主義』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:04

最長の首相在任記録を持つ元老の伝記。

1848年長州藩の上士の家に生まれる。

他の元老より、半世代ほど年下だが、戊辰戦争従軍に辛うじて間に合う。

二度のドイツ留学で近代軍制整備と健全な政軍関係確立の必要を確信し、山県有朋の忠実な配下となり、1886年「明治十九年の陸軍紛議」を経て、陸軍主流派を形成。

同輩に比して出世は遅れ気味で、一時、名古屋の第三師団長に左遷されるが、日清戦争出征を経て、台湾総督に就任、1898年第三次伊藤博文内閣で念願の陸相就任。

続く第一次大隈内閣、第二次山県内閣でも陸相、憲政党・憲政本党との交渉や義和団事変に対応。

1901年第一次桂内閣成立、日英同盟締結と日露戦争勝利は周知の事。

その過程で、伊藤・山県ら元老がロシアとの交渉に固執した一方、桂や小村寿太郎らが最初から日英同盟樹立を目指していたように語られることがあるが、これは自らの功績を強調したい桂の自伝の記述からくる偏った見方だとのこと。

日露戦後は政友会との「桂園体制」を確立、苦手の財政問題への見識を深め、「国家財政統合者」としての存在感を強める。

1908年第二次内閣を組織、高平・ルート協定、第二次日露協商、第三次日英同盟を締結し、多角的同盟・協商網を形成し、米英との新通商航海条約締結で不平等条約を完全に改正することに成功したが、日韓併合と大逆事件の1910年という明治の暗い年もその任期中であった。

大正改元後、一時内大臣となったが、1912年第三次内閣を組織、政友会との「桂園体制」破棄を決意、世論の不評の中、後藤新平らを支持で、衆議院・貴族院・官僚を横断し、一党優位性を前提とする「立憲統一党」構想を掲げるが、立憲国民党の大石正巳・河野広中・片岡直温ら反犬養派と中央倶楽部のみが参集、政友会の切り崩しには失敗し、貴族院も山県と配下の平田東助の影響で新党には参加せず、結局「立憲同志会」として結党準備が行われる。

しかし、外交官の加藤高明、大蔵官僚の若槻礼次郎、浜口雄幸など桂系官僚が加わった立憲同志会は、伊藤が結成した立憲政友会に続き、元老級の藩閥政治家と民党が結合した縦断政党として二大政党の一翼を担うことになる。

1913年第一次護憲運動によって辞任、同年死去、立憲同志会の正式結党はその死後である。

 

その生涯を見ると、甲申事変で強硬論を吐いたり、日清戦争時の独断的行動などの危うさが一部にあるものの、全般的には安定感がある。

(日露講和交渉で桂が賠償金に固執したという説は正確ではないとされている。)

軍人としてそのキャリアを出発させながら、軍部の個別的利害に囚われず、第三次内閣時には陸海相の文官制すら視野に入れていたという。

日露戦争後、軍拡と減税の双方に反対して、断固として実行した緊縮財政も、当時の状況下では必要なものだった、とひとまず理解は出来る。

(韓国併合と大逆事件については、いろいろ考慮しなければならないことが多いので、判断は留保します。)

そして、桂がその人生最期の時期に結党を志した立憲同志会は、本書副題の「外に帝国主義、内に立憲主義」の言葉通り、第二次大隈内閣の加藤高明外相による「対華二十一ヵ条要求」のような強硬外交を示した時期もあったが、その後幣原外交の採用によって著しく穏健化し、開明的な伊藤が結成した政友会が、昭和に入ると、過激で偏狭な民衆世論に迎合して極端に右傾化した一方、同志会から生まれた憲政会および立憲民政党は国際協調主義と議会政治の旗を守り続けた。

(ただ惜しむらくは、民政党の緊縮財政へのこだわりは、同党のみならず戦前日本の運命を誤らせた、極めて大きな錯誤だったと思われる。)

日露戦争という明治日本最大の国難を乗り切ったこと、機能不全に陥った政友会に替わる、リベラルな対抗政党を(意図せずに、かもしれないが)準備したことが、桂の最大の功績か。

 

 

伝記としては普通。

手堅いが、特筆すべき点も無い。

読みやすくはあるし、悪くはないです。

2018年1月25日

高坂正堯 『政治的思考の復権』 (文芸春秋)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 03:23

この方の著作は、共著を除けば、ほとんど目を通しているが、これは未読だった。

古書店で偶然発見したので、読んでみる。

1972年1月刊の政治・外交評論集。

米中接近と通貨固定相場制放棄という二つのニクソン・ショックが日本に大きな衝撃を与えていた頃。

そして、翌年の石油ショックで高度経済成長が終焉する直前の時期。

まず、三島由紀夫の自殺事件を取り上げて時代の精神状況を分析、そこから外交論に移って、米国の国力衰退に伴う日米関係の軋轢、米ソ二大超大国と「半極」的存在の中国、そして経済大国でありながら政治・軍事的には小国である日本という四ヵ国が織りなすアジアの政治構造、西側同盟の基礎を再確認しつつ東側諸国との交流拡大に乗り出した西ドイツの東方外交を論じる。

多極化(多角的バランス)時代に入った世界で、明白な経済大国となった日本が権力政治から棄権することは不可能であることを認識し、日米同盟を政治的安定の為の資産として維持しつつ、他国に配慮した慎重で自制的な自由貿易政策を実施し、同じ中級国家としてのヨーロッパと日本の連携を深めることを主張。

内政面では、米国占領時代において、「押しつけ」とも「自発的」とも言えない(あるいはその両側面を持つ)大きな改革が遂行されたが、それが圧倒的な占領軍の権力によって行われたことを直視しないことによって、戦後日本における「力の無視」という精神的欠陥がもたらされたことを指摘。

政治が介入してよい領域、および政治によって可能なこと、それぞれの限界をしっかりと認識しつつ、過剰な正邪意識とユートピア的思考や成り行き任せで行動することを避け、自由闊達な議論による選択の多様性と妥協に基づく、真の「政治的思考」を復権させることを説いている。

 

 

やはり十分有益な書物であった。

保革のイデオロギー対立の嵐の中で、何とか冷静で実りある議論を展開しようとした著者の真摯な姿勢に心を打たれる。

2018年1月21日

岩根圀和 『物語スペインの歴史 人物篇  エル・シドからガウディまで』 (中公新書)

Filed under: スペイン — 万年初心者 @ 04:54

駄目。

全然駄目。

「正篇」の方も「何だかなあ・・・」という出来だったが、このシリーズでは極めて珍しいことに同じ著者による続編としてこれが出た。

気付いてはいたんですが、無視していて、最近ようやく手に取った。

一日で通読したが、やはり駄目ですわ、これ。

取り上げられている人物は6人。

エル・シド(11世紀レコンキスタ期の騎士ロドリーゴ・ディアス)、女王フアナ(イサベル、フェルナンド両王の娘、カール5世の母)、ラス・カサス(新大陸のインディオ保護を訴えたドミニコ会修道士)、セルバンテス、ゴヤ、ガウディ。

そもそも人数が少ないので、章と章の間の時代が空き過ぎている状態になっている。

しかも、その人物にだけ密着した内容で、時代背景の叙述が極めて不充分であり、各章が断片的に存在するだけで相互に連関しておらず、通史として成り立っていない。

個々の記述では、フアナおよびラス・カサスの章では、面白さと迫力を感じないでもない。

しかし、セルバンテスの章では、作家が晩年巻き込まれた自宅近くで起きた殺人事件の記録を丸一章かけて述べるだけで、正直「何ですか、これは???」となった。

同じように人物伝を書き連ねて通史を叙述するという形式の、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』が稀にみる傑作だったのと比較すれば、本当に天と地ほどの差がある。

同書にも続編があり、こちらはさすがにもう一つの出来だったが、それでも本書よりはマシ。

このシリーズでのスペイン枠を使って失敗だったので、追試を受けたがそれにも失敗したという感じ。

ちょっと酷評が過ぎたかもしれないが、私の正直な感想は以上の通りです。

2018年1月17日

猪口孝 『社会科学入門  知的武装のすすめ』 (中公新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 05:33

これも関連文献:読書論という記事の末尾で名前だけは挙げている。

1985年刊。

全16章で、「古典に親しむ」「批判精神を養う」「作文を習慣づける」などの章名で、社会科学系の学問的な心構えと学び方についてあれこれ書いている。

だがそれらは、「歴史を知る」と題された、18世紀末の清朝のヴェトナム介入と1979年の中越戦争を比較・考察した章を除くと、大して興味深いものではない。

結局、本書でも大きな価値があるのは、「政治学案内」「経済学案内」「社会学案内」の末尾三章。

以下、「政治学案内」から一部を引用する。

 

 

便宜上、政治学を次の三つに分けて案内したいと思う。

1 政治哲学

2 政治史

3 政治学理論

本書で念頭に置いているのは主として、政治学理論であるが、政治哲学、政治史の二つは政治学の二大起源として欠かせない。

 

1 政治哲学

政治哲学は社会科学が規範的なものを扱う限り、回避できないものである。古来人間が規範と価値の問題に費やした時間は人を圧倒する。二千年の歴史の中で哲学された内容を短時間で追体験すること――それが哲学書を読むことである。

まず文庫本で利用できるものを片っ端から読むことである。一回目に手にした時は気が乗らないものでも、しばらくたつと自分でも驚くほど容易に読めることがある。古典や哲学といっても毛嫌いしないでとにかく手にしてみようではないか。

この類のもののほとんどは外国語からの翻訳である。それは何を意味するか。まず大体の場合、翻訳が原文よりもわかりにくくなっている(もちろん、原文も読めればの話であるが)。このことは必要以上に外国語から翻訳された古典を難解なものにしてしまった。昔から外国のものをなにかとありがたがって難解なものにしがちだったことに原因があると思う。たとえば、ゴータマ・ブッダは必要以上に難しく意味もわからないようにされた最たるものではないか。日常的な観察から始まって、常識的な分析を行っている古典がなんと多いことか。

しかしながら、本によって、わかりにくいところはたしかに少なくない。しかも、時代も違うのだから、全部わかることを期待することは無理というものである。あまり気にしないで読み進むにこしたことはない。そうしているうちに、また、もう一回読む時に、つまらないところにひっかかっていたことに気付いたりするものである。

政治哲学の多くは古代ギリシア、古代中国の昔からある。そして、それらの多くは宇宙はどのように成り立っているか、という大きな話で、たとえば、プラトン、アリストテレスである。宇宙論、世界観、君主論といった大きな話の中から、近代の政治哲学が規範と現状分析をからめて発展していく。たとえば、ホッブス、ロック、ルソーであり、モア、ペイン、シェイエスである。現代になると、哲学を定式化していく動きもみられ、ロールズ、ノジク、バリー、アクセルロードなど政治学や経済学の正統の流れと密接に結びつくようにさえなってきた。同時に、今までなかったような実践とかたく結びついた政治哲学も生まれてきた。これらを古代政治哲学、近代政治哲学、現代政治哲学と便宜上分けてみよう。

 

1-1 古代政治哲学

古代政治哲学の中ではなんといっても多彩なのは古代ギリシア哲学である。世界の素というか初めというかアルケーとよばれるものの追究に精力が傾けられた。なにか政治の素があってその違いによって政治体制の違いができた――乱暴にいえばそうなると思う。

アナキー(アナルケー)はアルケーが無くて混乱した無秩序なことをいうのだし、モナキー(モナルケー)というのは素がすっきりと一つ(君主)しかない政治体制=君主制をいう。現代アメリカの政治学者ロバート・ダールが民主主義(=大衆支配)を使わずに、ポリアーキー(素がたくさんある政治体制)という言葉を作ったことは覚えていてもよいであろう。

このように政治の違いは政治の素によってもたらされるということはずっとあとまで続く。実際、フランスの社会学者で哲学者のレイモン・アロンが最後の古典哲学と名付けたモンテスキューの哲学によれば、社会は基本的に政治体制によって規定されることになる。政治体制の素みたいなものがすべての基底になるのである。今日では経済発展だとか、社会構造だとか、世界システムにおける位置とか、いろいろな政治体制の特質を規定するものを挙げるのが普通である。

古代ギリシア哲学について代表的なのはいうまでもなくソクラテス、プラトン、アリストテレスである。

ソクラテスについては著作がないので、クセノフォーン『ソークラテースの思い出』・・・を読もう。ソクラテスの言葉で有名なのは「無知の知」、つまり自分は知っていないことによって初めて哲学=知を愛すること、いいかえると、すべての知的活動が始まるといったことである。「汝自身を知れ」という言葉で知られる。これに至る方法として議論をわきたたせる術を実践した人である。

次はプラトンである。とくに、理想国、カリポリスを描いている『国家』・・・が有名である。『国家』はおとぎの国の話ともいうべきものであって、実現するための計画ではなかった。三つの階級からなる貴族制を説き、絶対に変わらないのを良しとするもので改革の余地はなかったのであるが、なぜかわからない理由で、貴族制は衆愚政や僭主政へとなるという。『国家』を読めば、カール・ポッパーが『開かれた社会とその敵』・・・でプラトンを激しく攻撃したのはうなずける。自由民主主義とはまったく反対の事をプラトンは説いている。

アリストテレスは多くの著作を残したが政治に関しては『ニコマコス倫理学』・・・が代表的である。アリストテレスにとって政治は実際上の知識の一分野であり、倫理学の一部分であった。人間は「政治的人間」である。つまり、ポリスという集団を作って何かをやるものであるというのである。アリストテレスはいろいろな政治制度について述べているが、つまるところ、最良の人が支配すればよいという。

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2 政治史

歴史は人間の営みの記録である限り、社会科学の実験室のようなものである。歴史は過去に累積されたデータの宝庫であり、同時に、さまざまな条件下に生起する出来事をあたかも変数をコントロールして、実験のようにみることさえできる。実際、歴史を読むことはふつう限られた経験を何倍にも増大させ、しかも狭い世界がどんどん拡大する。

歴史というと人名と地名が次から次へと出てきてかなわない、という人もいると思う。しかし、小説もその点では同じである。重要なことは面白い歴史を読むようにすることである。全部が全部、事件羅列・平板記述の歴史ではない。

いろいろな予備知識がないと読もうとしてもわからないというかもしれない。このような問題に対する最善の策はどんどん読み進み、しばらくしてまた引き返してくればよい。未知の町を訪ね歩けば、町の地理だけでなくいろいろなことが発見される――それと同じである。詳細な案内があって旅をする人と気ままな旅を好む人と違いがあってかまわないのである。

今日、歴史は極端なまでに専門化、細分化されている。それぞれの分野で、たとえば、古代史、中世史、近代史、現代史とか、エジプト史、ドイツ史、中国史、アメリカ史、ブラジル史、南アフリカ史、ガーナ史、インドネシア史、東南アジア史、イスラム教世界史、地中海世界史とか、経済史、政治史、文化史、科学史、社会史とか、そしてこれらをさらに組み合わせたもののそれぞれが学会として成立するくらい歴史家はたくさんいる。そのため、各分野でさまざまな案内書がある。地図がないと歩けない人はこれらの入門手引き書を活用すればよい。どこから始めても、芋づる式にどんどん何を読むべきかがわかるはずである。また、図書館の主題索引を利用すれば、何を読むべきかについて容易に知ることができる。

政治史というと人物と事件を交錯させたエリート中心の歴史であるという通念がある。中でも古典的政治史にはそういうものが多かった。ここでは次の三つに分けてみよう。古典的政治史、現代本格派政治史、巨視構造派政治史である。

 

2-1 古典的政治史

司馬遷の『史記』・・・はエリート中心人物史の古典である。波瀾万丈の中国古代史を、権力の盛衰を人物に焦点をあてて叙述したものである。直接的な心理の描写はまれであるが、登場人物を活写すること、見事であるというべきであろう。『史記』は累積読者数からいくともしかしたら世界で最高のもののひとつではないかと思う。野次馬根性でもよいから読んでみようではないか。

カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』・・・はナポレオン三世の権力掌握の過程を皮肉、毒舌、軽妙そして類いまれなレトリックをもって描いたものである。躍動する文章を綴りながら、自らも楽しんでいることが感じられるような本である。初めの方に、「人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、与えられた過去から受け継いだ状況のもとでつくるのである」という有名なくだりがある。ジャーナリスティックな政治史といっても構造的把握をしていることに注目しなければならない。

各地を追われながら、貧困の中であの膨大な著作を書き残したマルクスは、書斎がないから、時間がないから、ワープロがないから、別荘がないから、といって、どうせあっても大して書くことをもたないわれわれ学者の鑑である。

エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』・・・は今でもこれをしのぐ作品が現われていないといわれるほどの大作である。

ゲルマン人という野蛮人とキリスト教の急速な成長がローマ帝国の崩壊の原因であるというのがその主要議論である。十八世紀の作品ではあるが、因果関係の検討において優れているのみならず、フランス語の影響から解放された立派な英語を駆使した文学的作品であるといわなければならない。ギボンは父親に反対され、好きな人との結婚をあきらめ、一生独身ですごしたという。すべてのエネルギーが歴史執筆に向かったのであろうか。

 

2-2 現代本格派政治史

アーノルド・トインビーの『歴史の研究』・・・は古代ギリシア文明をはじめとして今日までの十二の文明の盛衰をパターン化して示すものである。思弁的歴史論の代表的歴史家によって書かれたもので、大胆と独断が時に、細部にわたる気配りと同居しているのが興味深い。

学者は狐型とはりねずみ型がいる。狐はあちこち渉猟し、いろいろなものを食べる。いつも壮大なことをいうタイプがこれである。はりねずみは大体同じ場所に生息し、食物の種類も限られ、一定している。いつも重箱のすみをつついているタイプがこれである。トインビーは狐型であろう。こういうタイプの歴史家は今日ではあまりいない。その意味でも古き良き時代の産物である。

A・J・P・テイラーの『第二次世界大戦の起源』・・・は雄弁な歴史というものがまだ健在であることを示した例である。雄弁な歴史とは、退屈でメッセージをもたない歴史の対極物をいう。外交史はえてして無味乾燥なものになりがちであるが、テイラーはイギリスの知識人によくみられる巧妙な議論の進め方、正確な言葉づかい、盛りだくさんの事実の叙述を見事に配合しているといわなければならない。この本は大変ポレミカルな本で、ドイツの戦争目的はその他の国のそれとそうひどくは違わなかった、むしろ戦争に至る大国間の相互作用の経過が戦争を回避できないものにした、という。

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これも通読の必要は無い。

簡単な選書ガイドとして活用すればそれでよし。

2018年1月13日

ジェフリー・ブレイニー 『オーストラリア歴史物語』 (明石書店)

Filed under: オセアニア — 万年初心者 @ 05:31

当ブログで、「オランダ」と並んで、最も記事数が少ないカテゴリが「オセアニア」である。

しかし、ある程度はしょうがない。

普通の歴史好きのレベルでは、オーストラリア史一冊と太平洋島嶼史一冊読めば、オセアニア史は「あがり」ですよね。

しかし、少しでも数を増やす為に、これでも読んどきます?

ブレイニーの別作品『距離の暴虐』の名前は聞いたことがあるが、もちろん読んだことはない。

最近出た『小さな大世界史』(ミネルヴァ書房)も同じ著者か。

著者は、先住民アボリジニや移民の問題について、やや保守的な意見を公表し、一部で強い批判を受けたこともあったという。

しかし、本書の以下のような記述を読むと、特に偏りのある意見とも思えない気がする。

ひとつ問題となったのは、この地で対照的なアボリジニとヨーロッパ人の歴史をどのように比較考量し、調和させるかということだった。私は、多くの歴史家や評論家のようにオーストラリア白人の歴史を全面的に弾劾し、アボリジニの歴史と彼らの現在の要求事項を優位におきたいとは思わない。だがまたアボリジニの歴史を野蛮人のものだと排斥してしまうという、極端な逆の態度にも益はないと考える。双方の歴史上の各局面は、それぞれ特有の価値を有している。

 

 

いわゆる白豪主義政策は、結局のところオーストラリアの評判を悪くすることになった。あまりにも融通がきかず、長く継承されすぎたし、品格を傷つけるような言葉や不当な論法でしばしば弁護されてきた。しかしながら、オーストラリア人あるいはアジアの評論家の中には、この政策を誇張しすぎている者がある。二〇世紀の初頭は、世界はまだ島国的だったことを忘れている。海外への渡航は一般的ではなかった。当時は、大半の国が、それぞれの宗教や親族関係や文化を固持していて、国民的結束は戦争の際には有効な特質だったのだ。しかも、その時のオーストラリア的な生活とアジア的な生活はあまりにも大きくかけ離れていて、相互の誤解が生まれやすかった。

白豪主義政策は、オーストラリアに特異なものであるとはいえない。カナダ、アメリカ合衆国、ニュージーランドの三つの民主的国家も中国人の流入に直面しており、一八八〇年代までにはアジア人を対象とした独自の制限方法を持っていた。中国も日本も外国人を歓迎していたわけではない。・・・・・

オーストラリアの政策はときおり、他の人種に対して傲慢さと全くの侮蔑を含んでいた。同時にオーストラリアは、他の多くの国民や部族よりもはるかに多く、異なる人々を受け入れてきた。

 

個別的な叙述については、軽く流していいでしょう。

シドニー、メルボルン、ブリスベン、アデレード、キャンベラ、パース、ダーウィン、ホバート、ケアンズという都市の位置と州名をまずチェック。

大航海時代の16世紀に「発見」はされていたが、ヨーロッパ人の本格的移住は18世紀後半、イギリス人のクックによる探検以降。

流刑植民地として出発したが、徐々に自由移民が中心となる。

アメリカよりも平等主義的で、政府介入への嫌悪が少ない気風が培われる。

19世紀前半は羊毛業が大発展、世紀後半に入ると空前のゴールド・ラッシュと鉱業による繁栄が続く。

各州植民地自治政府下で、男子普通選挙など当時としては急進的な民主主義の実験を行っていたが、厳格に資格制限された上院が存在したこともあって、幸い大きな混乱をもたらすことはなかった。

1890年代の大不況を経て、1901年自治領オーストラリア連邦発足。

自由党と労働党が対峙。

社会風俗史的記述が多いので、その時代の大体の雰囲気をつかむことに重点を置いて、バートン、ヒューズ、カーティン、メンジズ、ホイットラム、フレーザー、ホーク、キーティング、ハワードなどの政治指導者の名前は軽く目に慣らす程度でいいでしょう。

 

 

可もなく、不可もない、という感じの本。

手頃で、取り付きやすい点は、よしとします。

2018年1月9日

福田和也 『昭和天皇  第七部 独立回復(完結篇)』 (文芸春秋)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:05

敗戦から講和条約締結まで。

この巻については、あれこれ書くのはやめておきます。

占領下のこともあって、あまり愉快ではない描写も多いが、かと言って陰惨一方の叙述でもない。

タイトル通り、このシリーズは1951年サンフランシスコ講和条約調印の時点で筆を置いている。

「このペースで昭和64年まで描いたら、一体何巻になるんだ?」と思っていたが、先帝の戦後の治世ほとんどを省略することで、結局全7巻で完結となりました。

全般的に見ると、このシリーズは、昭和天皇の詳細な伝記ではないし、通常の通史とも言えない。

以前も書いたと思いますが、極めて多くの人物に関する、断片的な情景の描写を積み重ねて余韻を残し、読者に考える余地を残す作品となっている。

著者の政治的立場と全く異なる考え方を持つ人でも、その描写からいろいろ感じることがあると思われる。

ただ、後半部になると、その効果がやや薄れ、散漫な印象を与えるのも事実である。

叙述形式は取っ付きやすく、楽に読めるのは長所。

しかし、最初に感じたような深い興味と面白さは、後半部には大きく減じました。

まあ、機会があればお読み下さい。

決して損はしないと思います。

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