万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年1月25日

高坂正堯 『政治的思考の復権』 (文芸春秋)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 03:23

この方の著作は、共著を除けば、ほとんど目を通しているが、これは未読だった。

古書店で偶然発見したので、読んでみる。

1972年1月刊の政治・外交評論集。

米中接近と通貨固定相場制放棄という二つのニクソン・ショックが日本に大きな衝撃を与えていた頃。

そして、翌年の石油ショックで高度経済成長が終焉する直前の時期。

まず、三島由紀夫の自殺事件を取り上げて時代の精神状況を分析、そこから外交論に移って、米国の国力衰退に伴う日米関係の軋轢、米ソ二大超大国と「半極」的存在の中国、そして経済大国でありながら政治・軍事的には小国である日本という四ヵ国が織りなすアジアの政治構造、西側同盟の基礎を再確認しつつ東側諸国との交流拡大に乗り出した西ドイツの東方外交を論じる。

多極化(多角的バランス)時代に入った世界で、明白な経済大国となった日本が権力政治から棄権することは不可能であることを認識し、日米同盟を政治的安定の為の資産として維持しつつ、他国に配慮した慎重で自制的な自由貿易政策を実施し、同じ中級国家としてのヨーロッパと日本の連携を深めることを主張。

内政面では、米国占領時代において、「押しつけ」とも「自発的」とも言えない(あるいはその両側面を持つ)大きな改革が遂行されたが、それが圧倒的な占領軍の権力によって行われたことを直視しないことによって、戦後日本における「力の無視」という精神的欠陥がもたらされたことを指摘。

政治が介入してよい領域、および政治によって可能なこと、それぞれの限界をしっかりと認識しつつ、過剰な正邪意識とユートピア的思考や成り行き任せで行動することを避け、自由闊達な議論による選択の多様性と妥協に基づく、真の「政治的思考」を復権させることを説いている。

 

 

やはり十分有益な書物であった。

保革のイデオロギー対立の嵐の中で、何とか冷静で実りある議論を展開しようとした著者の真摯な姿勢に心を打たれる。

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2018年1月21日

岩根圀和 『物語スペインの歴史 人物篇  エル・シドからガウディまで』 (中公新書)

Filed under: スペイン — 万年初心者 @ 04:54

駄目。

全然駄目。

「正篇」の方も「何だかなあ・・・」という出来だったが、このシリーズでは極めて珍しいことに同じ著者による続編としてこれが出た。

気付いてはいたんですが、無視していて、最近ようやく手に取った。

一日で通読したが、やはり駄目ですわ、これ。

取り上げられている人物は6人。

エル・シド(11世紀レコンキスタ期の騎士ロドリーゴ・ディアス)、女王フアナ(イサベル、フェルナンド両王の娘、カール5世の母)、ラス・カサス(新大陸のインディオ保護を訴えたドミニコ会修道士)、セルバンテス、ゴヤ、ガウディ。

そもそも人数が少ないので、章と章の間の時代が空き過ぎている状態になっている。

しかも、その人物にだけ密着した内容で、時代背景の叙述が極めて不充分であり、各章が断片的に存在するだけで相互に連関しておらず、通史として成り立っていない。

個々の記述では、フアナおよびラス・カサスの章では、面白さと迫力を感じないでもない。

しかし、セルバンテスの章では、作家が晩年巻き込まれた自宅近くで起きた殺人事件の記録を丸一章かけて述べるだけで、正直「何ですか、これは???」となった。

同じように人物伝を書き連ねて通史を叙述するという形式の、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』が稀にみる傑作だったのと比較すれば、本当に天と地ほどの差がある。

同書にも続編があり、こちらはさすがにもう一つの出来だったが、それでも本書よりはマシ。

このシリーズでのスペイン枠を使って失敗だったので、追試を受けたがそれにも失敗したという感じ。

ちょっと酷評が過ぎたかもしれないが、私の正直な感想は以上の通りです。

2018年1月17日

猪口孝 『社会科学入門  知的武装のすすめ』 (中公新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 05:33

これも関連文献:読書論という記事の末尾で名前だけは挙げている。

1985年刊。

全16章で、「古典に親しむ」「批判精神を養う」「作文を習慣づける」などの章名で、社会科学系の学問的な心構えと学び方についてあれこれ書いている。

だがそれらは、「歴史を知る」と題された、18世紀末の清朝のヴェトナム介入と1979年の中越戦争を比較・考察した章を除くと、大して興味深いものではない。

結局、本書でも大きな価値があるのは、「政治学案内」「経済学案内」「社会学案内」の末尾三章。

以下、「政治学案内」から一部を引用する。

 

 

便宜上、政治学を次の三つに分けて案内したいと思う。

1 政治哲学

2 政治史

3 政治学理論

本書で念頭に置いているのは主として、政治学理論であるが、政治哲学、政治史の二つは政治学の二大起源として欠かせない。

 

1 政治哲学

政治哲学は社会科学が規範的なものを扱う限り、回避できないものである。古来人間が規範と価値の問題に費やした時間は人を圧倒する。二千年の歴史の中で哲学された内容を短時間で追体験すること――それが哲学書を読むことである。

まず文庫本で利用できるものを片っ端から読むことである。一回目に手にした時は気が乗らないものでも、しばらくたつと自分でも驚くほど容易に読めることがある。古典や哲学といっても毛嫌いしないでとにかく手にしてみようではないか。

この類のもののほとんどは外国語からの翻訳である。それは何を意味するか。まず大体の場合、翻訳が原文よりもわかりにくくなっている(もちろん、原文も読めればの話であるが)。このことは必要以上に外国語から翻訳された古典を難解なものにしてしまった。昔から外国のものをなにかとありがたがって難解なものにしがちだったことに原因があると思う。たとえば、ゴータマ・ブッダは必要以上に難しく意味もわからないようにされた最たるものではないか。日常的な観察から始まって、常識的な分析を行っている古典がなんと多いことか。

しかしながら、本によって、わかりにくいところはたしかに少なくない。しかも、時代も違うのだから、全部わかることを期待することは無理というものである。あまり気にしないで読み進むにこしたことはない。そうしているうちに、また、もう一回読む時に、つまらないところにひっかかっていたことに気付いたりするものである。

政治哲学の多くは古代ギリシア、古代中国の昔からある。そして、それらの多くは宇宙はどのように成り立っているか、という大きな話で、たとえば、プラトン、アリストテレスである。宇宙論、世界観、君主論といった大きな話の中から、近代の政治哲学が規範と現状分析をからめて発展していく。たとえば、ホッブス、ロック、ルソーであり、モア、ペイン、シェイエスである。現代になると、哲学を定式化していく動きもみられ、ロールズ、ノジク、バリー、アクセルロードなど政治学や経済学の正統の流れと密接に結びつくようにさえなってきた。同時に、今までなかったような実践とかたく結びついた政治哲学も生まれてきた。これらを古代政治哲学、近代政治哲学、現代政治哲学と便宜上分けてみよう。

 

1-1 古代政治哲学

古代政治哲学の中ではなんといっても多彩なのは古代ギリシア哲学である。世界の素というか初めというかアルケーとよばれるものの追究に精力が傾けられた。なにか政治の素があってその違いによって政治体制の違いができた――乱暴にいえばそうなると思う。

アナキー(アナルケー)はアルケーが無くて混乱した無秩序なことをいうのだし、モナキー(モナルケー)というのは素がすっきりと一つ(君主)しかない政治体制=君主制をいう。現代アメリカの政治学者ロバート・ダールが民主主義(=大衆支配)を使わずに、ポリアーキー(素がたくさんある政治体制)という言葉を作ったことは覚えていてもよいであろう。

このように政治の違いは政治の素によってもたらされるということはずっとあとまで続く。実際、フランスの社会学者で哲学者のレイモン・アロンが最後の古典哲学と名付けたモンテスキューの哲学によれば、社会は基本的に政治体制によって規定されることになる。政治体制の素みたいなものがすべての基底になるのである。今日では経済発展だとか、社会構造だとか、世界システムにおける位置とか、いろいろな政治体制の特質を規定するものを挙げるのが普通である。

古代ギリシア哲学について代表的なのはいうまでもなくソクラテス、プラトン、アリストテレスである。

ソクラテスについては著作がないので、クセノフォーン『ソークラテースの思い出』・・・を読もう。ソクラテスの言葉で有名なのは「無知の知」、つまり自分は知っていないことによって初めて哲学=知を愛すること、いいかえると、すべての知的活動が始まるといったことである。「汝自身を知れ」という言葉で知られる。これに至る方法として議論をわきたたせる術を実践した人である。

次はプラトンである。とくに、理想国、カリポリスを描いている『国家』・・・が有名である。『国家』はおとぎの国の話ともいうべきものであって、実現するための計画ではなかった。三つの階級からなる貴族制を説き、絶対に変わらないのを良しとするもので改革の余地はなかったのであるが、なぜかわからない理由で、貴族制は衆愚政や僭主政へとなるという。『国家』を読めば、カール・ポッパーが『開かれた社会とその敵』・・・でプラトンを激しく攻撃したのはうなずける。自由民主主義とはまったく反対の事をプラトンは説いている。

アリストテレスは多くの著作を残したが政治に関しては『ニコマコス倫理学』・・・が代表的である。アリストテレスにとって政治は実際上の知識の一分野であり、倫理学の一部分であった。人間は「政治的人間」である。つまり、ポリスという集団を作って何かをやるものであるというのである。アリストテレスはいろいろな政治制度について述べているが、つまるところ、最良の人が支配すればよいという。

・・・・・・・

 

2 政治史

歴史は人間の営みの記録である限り、社会科学の実験室のようなものである。歴史は過去に累積されたデータの宝庫であり、同時に、さまざまな条件下に生起する出来事をあたかも変数をコントロールして、実験のようにみることさえできる。実際、歴史を読むことはふつう限られた経験を何倍にも増大させ、しかも狭い世界がどんどん拡大する。

歴史というと人名と地名が次から次へと出てきてかなわない、という人もいると思う。しかし、小説もその点では同じである。重要なことは面白い歴史を読むようにすることである。全部が全部、事件羅列・平板記述の歴史ではない。

いろいろな予備知識がないと読もうとしてもわからないというかもしれない。このような問題に対する最善の策はどんどん読み進み、しばらくしてまた引き返してくればよい。未知の町を訪ね歩けば、町の地理だけでなくいろいろなことが発見される――それと同じである。詳細な案内があって旅をする人と気ままな旅を好む人と違いがあってかまわないのである。

今日、歴史は極端なまでに専門化、細分化されている。それぞれの分野で、たとえば、古代史、中世史、近代史、現代史とか、エジプト史、ドイツ史、中国史、アメリカ史、ブラジル史、南アフリカ史、ガーナ史、インドネシア史、東南アジア史、イスラム教世界史、地中海世界史とか、経済史、政治史、文化史、科学史、社会史とか、そしてこれらをさらに組み合わせたもののそれぞれが学会として成立するくらい歴史家はたくさんいる。そのため、各分野でさまざまな案内書がある。地図がないと歩けない人はこれらの入門手引き書を活用すればよい。どこから始めても、芋づる式にどんどん何を読むべきかがわかるはずである。また、図書館の主題索引を利用すれば、何を読むべきかについて容易に知ることができる。

政治史というと人物と事件を交錯させたエリート中心の歴史であるという通念がある。中でも古典的政治史にはそういうものが多かった。ここでは次の三つに分けてみよう。古典的政治史、現代本格派政治史、巨視構造派政治史である。

 

2-1 古典的政治史

司馬遷の『史記』・・・はエリート中心人物史の古典である。波瀾万丈の中国古代史を、権力の盛衰を人物に焦点をあてて叙述したものである。直接的な心理の描写はまれであるが、登場人物を活写すること、見事であるというべきであろう。『史記』は累積読者数からいくともしかしたら世界で最高のもののひとつではないかと思う。野次馬根性でもよいから読んでみようではないか。

カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』・・・はナポレオン三世の権力掌握の過程を皮肉、毒舌、軽妙そして類いまれなレトリックをもって描いたものである。躍動する文章を綴りながら、自らも楽しんでいることが感じられるような本である。初めの方に、「人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、与えられた過去から受け継いだ状況のもとでつくるのである」という有名なくだりがある。ジャーナリスティックな政治史といっても構造的把握をしていることに注目しなければならない。

各地を追われながら、貧困の中であの膨大な著作を書き残したマルクスは、書斎がないから、時間がないから、ワープロがないから、別荘がないから、といって、どうせあっても大して書くことをもたないわれわれ学者の鑑である。

エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』・・・は今でもこれをしのぐ作品が現われていないといわれるほどの大作である。

ゲルマン人という野蛮人とキリスト教の急速な成長がローマ帝国の崩壊の原因であるというのがその主要議論である。十八世紀の作品ではあるが、因果関係の検討において優れているのみならず、フランス語の影響から解放された立派な英語を駆使した文学的作品であるといわなければならない。ギボンは父親に反対され、好きな人との結婚をあきらめ、一生独身ですごしたという。すべてのエネルギーが歴史執筆に向かったのであろうか。

 

2-2 現代本格派政治史

アーノルド・トインビーの『歴史の研究』・・・は古代ギリシア文明をはじめとして今日までの十二の文明の盛衰をパターン化して示すものである。思弁的歴史論の代表的歴史家によって書かれたもので、大胆と独断が時に、細部にわたる気配りと同居しているのが興味深い。

学者は狐型とはりねずみ型がいる。狐はあちこち渉猟し、いろいろなものを食べる。いつも壮大なことをいうタイプがこれである。はりねずみは大体同じ場所に生息し、食物の種類も限られ、一定している。いつも重箱のすみをつついているタイプがこれである。トインビーは狐型であろう。こういうタイプの歴史家は今日ではあまりいない。その意味でも古き良き時代の産物である。

A・J・P・テイラーの『第二次世界大戦の起源』・・・は雄弁な歴史というものがまだ健在であることを示した例である。雄弁な歴史とは、退屈でメッセージをもたない歴史の対極物をいう。外交史はえてして無味乾燥なものになりがちであるが、テイラーはイギリスの知識人によくみられる巧妙な議論の進め方、正確な言葉づかい、盛りだくさんの事実の叙述を見事に配合しているといわなければならない。この本は大変ポレミカルな本で、ドイツの戦争目的はその他の国のそれとそうひどくは違わなかった、むしろ戦争に至る大国間の相互作用の経過が戦争を回避できないものにした、という。

・・・・・・・

 

 

これも通読の必要は無い。

簡単な選書ガイドとして活用すればそれでよし。

2018年1月13日

ジェフリー・ブレイニー 『オーストラリア歴史物語』 (明石書店)

Filed under: オセアニア — 万年初心者 @ 05:31

当ブログで、「オランダ」と並んで、最も記事数が少ないカテゴリが「オセアニア」である。

しかし、ある程度はしょうがない。

普通の歴史好きのレベルでは、オーストラリア史一冊と太平洋島嶼史一冊読めば、オセアニア史は「あがり」ですよね。

しかし、少しでも数を増やす為に、これでも読んどきます?

ブレイニーの別作品『距離の暴虐』の名前は聞いたことがあるが、もちろん読んだことはない。

最近出た『小さな大世界史』(ミネルヴァ書房)も同じ著者か。

著者は、先住民アボリジニや移民の問題について、やや保守的な意見を公表し、一部で強い批判を受けたこともあったという。

しかし、本書の以下のような記述を読むと、特に偏りのある意見とも思えない気がする。

ひとつ問題となったのは、この地で対照的なアボリジニとヨーロッパ人の歴史をどのように比較考量し、調和させるかということだった。私は、多くの歴史家や評論家のようにオーストラリア白人の歴史を全面的に弾劾し、アボリジニの歴史と彼らの現在の要求事項を優位におきたいとは思わない。だがまたアボリジニの歴史を野蛮人のものだと排斥してしまうという、極端な逆の態度にも益はないと考える。双方の歴史上の各局面は、それぞれ特有の価値を有している。

 

 

いわゆる白豪主義政策は、結局のところオーストラリアの評判を悪くすることになった。あまりにも融通がきかず、長く継承されすぎたし、品格を傷つけるような言葉や不当な論法でしばしば弁護されてきた。しかしながら、オーストラリア人あるいはアジアの評論家の中には、この政策を誇張しすぎている者がある。二〇世紀の初頭は、世界はまだ島国的だったことを忘れている。海外への渡航は一般的ではなかった。当時は、大半の国が、それぞれの宗教や親族関係や文化を固持していて、国民的結束は戦争の際には有効な特質だったのだ。しかも、その時のオーストラリア的な生活とアジア的な生活はあまりにも大きくかけ離れていて、相互の誤解が生まれやすかった。

白豪主義政策は、オーストラリアに特異なものであるとはいえない。カナダ、アメリカ合衆国、ニュージーランドの三つの民主的国家も中国人の流入に直面しており、一八八〇年代までにはアジア人を対象とした独自の制限方法を持っていた。中国も日本も外国人を歓迎していたわけではない。・・・・・

オーストラリアの政策はときおり、他の人種に対して傲慢さと全くの侮蔑を含んでいた。同時にオーストラリアは、他の多くの国民や部族よりもはるかに多く、異なる人々を受け入れてきた。

 

個別的な叙述については、軽く流していいでしょう。

シドニー、メルボルン、ブリスベン、アデレード、キャンベラ、パース、ダーウィン、ホバート、ケアンズという都市の位置と州名をまずチェック。

大航海時代の16世紀に「発見」はされていたが、ヨーロッパ人の本格的移住は18世紀後半、イギリス人のクックによる探検以降。

流刑植民地として出発したが、徐々に自由移民が中心となる。

アメリカよりも平等主義的で、政府介入への嫌悪が少ない気風が培われる。

19世紀前半は羊毛業が大発展、世紀後半に入ると空前のゴールド・ラッシュと鉱業による繁栄が続く。

各州植民地自治政府下で、男子普通選挙など当時としては急進的な民主主義の実験を行っていたが、厳格に資格制限された上院が存在したこともあって、幸い大きな混乱をもたらすことはなかった。

1890年代の大不況を経て、1901年自治領オーストラリア連邦発足。

自由党と労働党が対峙。

社会風俗史的記述が多いので、その時代の大体の雰囲気をつかむことに重点を置いて、バートン、ヒューズ、カーティン、メンジズ、ホイットラム、フレーザー、ホーク、キーティング、ハワードなどの政治指導者の名前は軽く目に慣らす程度でいいでしょう。

 

 

可もなく、不可もない、という感じの本。

手頃で、取り付きやすい点は、よしとします。

2018年1月9日

福田和也 『昭和天皇  第七部 独立回復(完結篇)』 (文芸春秋)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:05

敗戦から講和条約締結まで。

この巻については、あれこれ書くのはやめておきます。

占領下のこともあって、あまり愉快ではない描写も多いが、かと言って陰惨一方の叙述でもない。

タイトル通り、このシリーズは1951年サンフランシスコ講和条約調印の時点で筆を置いている。

「このペースで昭和64年まで描いたら、一体何巻になるんだ?」と思っていたが、先帝の戦後の治世ほとんどを省略することで、結局全7巻で完結となりました。

全般的に見ると、このシリーズは、昭和天皇の詳細な伝記ではないし、通常の通史とも言えない。

以前も書いたと思いますが、極めて多くの人物に関する、断片的な情景の描写を積み重ねて余韻を残し、読者に考える余地を残す作品となっている。

著者の政治的立場と全く異なる考え方を持つ人でも、その描写からいろいろ感じることがあると思われる。

ただ、後半部になると、その効果がやや薄れ、散漫な印象を与えるのも事実である。

叙述形式は取っ付きやすく、楽に読めるのは長所。

しかし、最初に感じたような深い興味と面白さは、後半部には大きく減じました。

まあ、機会があればお読み下さい。

決して損はしないと思います。

2018年1月5日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー六世 全三部』 (ちくま文庫)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 02:19

この本では、シェイクスピア史劇の大作を一巻本にして収録してある。

百年戦争をイギリス優位に導き、英仏両王国を統合するかとすら思われたランカスター朝の名君ヘンリ5世が急逝、幼少のヘンリ6世が即位したことから、イングランド王国の歯車が狂い出す。

王の叔父(ヘンリ5世の兄弟)グロスター公ハンフリー、ベッドフォード公ジョンと、王の大叔父(ヘンリ4世の異母弟)ウィンチェスター司教およびその甥サマセット公のボーフォート家一族との対立が激化。

さらにヘンリ6世の妃でフランス王家出身のマーガレットとその協力者サフォーク公、ヘンリ4世の父ジョン・オヴ・ゴーント(ランカスター家の祖)の兄弟エドマンド・オヴ・ラングレーから発する、孫のヨーク公リチャード(とその子で後に王位に就くエドワード4世、リチャード3世)、ヨーク家派の最有力貴族ながら後にランカスター派に転ずる「キング・メイカー」ウォリック伯リチャード・ネヴィルなどが入り乱れて、国家はバラ戦争という内乱の泥沼に沈んでいく。

他に背景として、仏王シャルル7世とジャンヌ・ダルク、ワット・タイラーの再来のような反乱者ジャック・ケイドなどが登場。

ジャンヌ・ダルクの扱いには相当の国民的偏見が感じられないこともないが、まあこの辺で収まっていれば、まだマシな方か。

シェイクスピア史劇については「史実に忠実でもないし、さして面白くもない」という批評があるようだが、私は必ずしもそうは思わない。

史上の著名人物が発する生き生きとした台詞回しを楽しみながら、歴史の流れが無理なく頭に入るようになっており、初心者には十分有益である。

史実との乖離も、本書の訳注で頻繁に触れられているが、はっきり言ってこの時代のイギリス史にさしたる予備知識がない日本人読者が気にするようなレベルではない。

戯曲にしては相当長大な作品なので読むのを躊躇していたが、本書も十分面白く、効用も高かった。

初心者でも取り組んでみることをお薦めします。

2017年12月27日

伊藤武 『イタリア現代史  第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで』 (中公新書)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 04:18

類書が少ない分野でいい本が出た。

イタリアの戦後政治史の本。

近現代イタリア史を大掴みすると、1861年統一、1922年よりファシスト政権、敗戦後1946年より第一共和制、冷戦終結後1990年代前半より現在まで第二共和制。

以下、各章紹介。

章名の目次自体が時代区分になっているので、そのまま掲げる。

 

 

序章 近代国家としての歩み 1861~1943

まず建国最大の功労者カヴールが1861年統一直後に病没していることをチェック。

以後、カトリックと社会主義という二つの反体制勢力を抱えたまま、左右の自由主義勢力が政権を担当する。

1880年代後半から90年代半ばまでの首相クリスピ、20世紀初頭の首相ジョリッティら有力政治家の国家統合策も必ずしも成功せず。

第一次大戦で戦勝国となったものの、獲得したものは少なく、社会に混乱と不満が広まる。

自由主義政党が衰退する中、それに替わったイタリア社会党とカトリックのイタリア人民党は統治経験の乏しさから政権担当能力を示せず。

そして自由主義勢力の切り札ジョリッティは、自派の統一選挙名簿にファシストを加えて協力しようとする、最悪の失敗を犯す。

1922年ムッソリーニ首相就任。

1943年連合軍のシチリア上陸を受けて、ムッソリーニ失脚、バドリオ政権成立。

ナポリを境に、南に連合国側についた国王とバドリオ政権、北にドイツの影響下に置かれたムッソリーニの「イタリア社会共和国」(別名「サロ共和国」)が対峙。

 

 

第1章 レジスタンスと共和制の誕生 1943~47

バドリオ政権と復興した政党勢力が協力、国民解放委員会政府を組織。

共産党、プロレタリア統一イタリア社会党、行動党、キリスト教民主党、イタリア自由党など。

共産党指導者はトリアッティ。

まず、この人名は憶えましょう。

イタリアの非共産系社会主義政党は離合集散や党名の変更が激しく、ややこしいのだが、この時期の正式名称は以上の通りらしい。

指導者はピエトロ・ネンニ。

行動党は急進的知識人中心の党、イタリア自由党は旧来の自由主義勢力。

そして戦後イタリア政治の中心となるのが、カトリックを中心に多様な勢力を糾合したキリスト教民主党。

指導者のアルチーデ・デ・ガスペリは戦後イタリア史の最重要人物と言えるので、高校世界史レベルでは全く出てこないでしょうが、必ず記憶すること。

1945年4月、ムッソリーニ逮捕・処刑、イタリア全土が解放。

挙国一致政府内での対立が深まりつつある中、45年12月デ・ガスペリが第一次内閣を組織。

結局、デ・ガスペリが1953年まで首相の座を維持する。

デ・ガスペリはオーストリア・ハンガリー帝国のチロル地方出身、戦前はオーストリアの帝国議会議員になり、第一次大戦後チロルがイタリアに併合されるとイタリア人民党に所属、反ファシズムを貫き、ヴァチカンに匿われる。

年代的にファシズム時代20年間の党指導部の空白を埋め、思想的にも左右両派の中間に位置したことが、彼を指導者に押し上げた。

1946年国民投票の54%の賛成で、君主制廃止と共和制移行が決定。

君主制支持は(のちの)国民君主党、自由党、キリスト教民主党右派など。

憲法制定議会選挙で共産党、プロレタリア統一社会党、キリスト教民主党の三大政党が多数を占める。

レジスタンスの威信を背負った共産党が西欧諸国では最大の勢力を誇り、以後イタリア政治の重い課題となる。

憲法は上下両院の権限を対等に定め、首相を「閣僚会議議長」としてその権限を制約、大統領は国会議員らの間接選挙で選ばれる儀礼的存在とし、地方分権的制度を導入、選挙制度は比例代表制にするなど、権力の集中を忌避する分権的制度設計を徹底したもの。

なお、ファシズム時代に締結されたラテラノ条約も、議論の末、憲法に組み入れられた。

47年講和条約調印、イストリア東部をユーゴスラヴィアに割譲。

 

 

第2章 戦後再建とデ・ガスペリ時代 1947~53

この1947年がイタリアにとって大きな転機となる。

同年トルーマン宣言とマーシャル・プラン、コミンフォルム結成で冷戦が本格化、イタリア国内でも左右対立が激化、これまで宥和的姿勢を取ることが多かったトリアッティ指導下の共産党も先鋭的行動を取るようになる。

統一社会党では、共産党との連携に反対する穏健右派のサラガトらが党を割り、イタリア勤労者社会党(のちのイタリア社会民主党)を結成、統一社会党は党名をイタリア社会党に戻す。

右翼では、王制支持の国民君主党の他、46年に結成されたネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動」が台頭。

左右両派に挟撃される中、デ・ガスペリは47年5月ついに社共両党の閣僚を追放、中道連合政権を組織することになる。

同年にはフランスでも共産党閣僚が解任されているが、フランス社会党は共産党と一線を厳に画していたから、「追放する側」にいたはず。

一方、イタリア社会党は共産党と提携していたため、「追放される側」になっている。

以後50年代前半までの「デ・ガスペリ時代」はキリスト教民主党を中心に自由党、共和党(行動党の一部が結成)、勤労者社会党(社会民主党)が与党となり、左派の共産党および社会党、右派の国民君主党とイタリア社会運動に対抗することになる。

48年総選挙で与党が勝利、キリスト教民主党が単独過半数。

49年NATO加盟、51年欧州石炭鉄鋼共同体に参加、自由主義と保護主義を組み合わせた経済政策で復興を成し遂げるが、日本の自由民主党のようにキリスト教民主党が安定多数を占めることにはならなかった。

左右両派の台頭で53年総選挙で中道連合勢力は敗北、デ・ガスペリは辞任。

 

 

第3章 高度成長と新たな政治路線の模索 1954~67

スターリン死後、冷戦の緊張が緩和する中、イタリアは55年国連に加盟、国際的地位を順調に高めるが、国内ではキリスト教民主党内部でジリ貧の中道連合の補完をどこに求めるかで、左派のファンファーニ(およびそれから分離したモーロ、ルモールら)と右派のアンドレオッティが対立を深める。

左翼第一党の地位を共産党に奪われた社会党では、スターリン批判とハンガリー動乱によるソ連の威信低下もあって、共産党との提携見直しを主張する勢力が多数を占めるようになる。

こうした情勢を受け、「左への開放」路線が採用され、イタリアはこれまでのキリスト教民主党を中心とする勢力に社会党をも加えた、中道左派政権の時代を迎える。

1962~63年のファンファーニ政権、63~68年モーロ政権、68~70年ルモール政権、70~72年コロンボ政権など。

だがこれらの政権も、高度経済成長がもたらした歪みを是正することに成功したとは言えず、不安定さを抱えながら、イタリアは急進的社会運動が惹起した60年代末に突入する。

 

 

第4章 社会運動の高揚とテロリズムの横行 1968~78

1968年全世界的な学生運動の高揚から、イタリアでも急進的社会運動が巻き起こり、一部新左翼は政権入りした社会党、議会主義・改良主義化した共産党など既成左翼を強く批判し、暴力的直接行動に走る。

イタリア社会運動を中心とする極右もそれに対抗し、70年代のイタリアは左右のテロが横行、1978年には極左組織「赤い旅団」により、元首相モーロが誘拐・殺害されるという事件まで起こる。

危機の中、二大政党の一翼で、ベルリングェル率いる共産党は70年代半ば、ソ連からの自立と議会制民主主義尊重を旨とする「ユーロ・コミュニズム」路線を採用、キリスト教民主党との「歴史的妥協」を提唱、モーロ事件の最中成立したアンドレオッティ政権には共産党が信認投票を行なう。

しかし、翌年更なる実質的政権参加を求める共産党とキリスト教民主党は決裂、「歴史的妥協」は終焉した。

 

 

第5章 戦後政治の安定と硬直化 1979~88

80年代、共産党の勢いはようやく衰えを見せる。

かつての中道左派連合と同じ政党、キリスト教民主党・自由党・共和党・社会民主党・社会党の「五党連合政権」が80年代イタリアを統治。

ただキリスト教民主党が、極右組織にまつわる「P2事件」やヴァチカンに近い銀行に関する金銭スキャンダルで支持を落とし、共産党との一切の連携排除を主張してリーダーシップを確立していたクラクシの社会党の重みが増す。

1983~87年、初の社会党首班のクラクシ政権。

80年代は経済好況にも恵まれたが、同時に利益誘導と政治腐敗、マフィアの暗躍など副作用も深刻化する。

 

 

第6章 第一共和制の危機と終焉 1988~93

1989~92年、最後の五党連合内閣であるアンドレオッティ政権。

冷戦終結、湾岸戦争、ECからEUへの移行に対処するが、大規模な政治腐敗とマフィアとの癒着が摘発され、政界は大混乱に陥る。

既成政党は次々没落、キリスト教民主党と社会党は分裂・消滅、共産党は東欧ソ連圏崩壊を受け「左翼民主党」と改称、極右のイタリア社会運動はやや穏健右翼寄りの「国民同盟」となり、他に経済的に進んだ北イタリアの自立を訴える「北部同盟」など新たな右派政党が生まれる。

それら新政党の中で最大勢力となったのが、メディアを押さえる大富豪の企業家ベルルスコーニ率いる「フォルツァ・イタリア(頑張れイタリア)」。

もう名前からして酷い政党。

伝統擁護の欠片も無く、メディアの宣伝で有権者を洗脳し、自由の名の下に私利私欲を肯定することしかしない新自由主義の傀儡という、私が大嫌いな「保守」政党だ。

70年代に国民君主党系の勢力がイタリア社会運動に吸収された、とさりげなく記述されているのを読んだ際にも感じたが、「保守の劣化と実質的崩壊」は日本もイタリアも同様だなと思った。

92年から96年にかけて、アマート、チャンピ、ディーニという非政党人専門家首班のテクノクラート政権が成立、二大政党制を志向した小選挙区比例代表並立制が導入され、第二共和制に移行。

 

 

第7章 第二共和制の離陸と定着 1994~2001

この時期以降のイタリア政治は、多数の政党が中道右派と中道左派の二大ブロックに別れて競う展開になる。

94年フォルツァ・イタリア、北部同盟、国民同盟、旧キリスト教民主党右派勢力等の中道右派による第一次ベルルスコーニ政権が誕生するが、95年初頭に崩壊。

選挙管理内閣ディーニ政権を挟んで、96~98年カトリック左派と左翼民主党を主体とするオリーブ連合を与党とするプローディ政権。

この政権は共通通貨ユーロ導入の為の財政改革などで成果を挙げたが、与党内の対立から、98~2000年首相は左翼民主党出身のダレーマに交替。

96~01年の中道左派内閣は、かつてのカトリックと共産主義の「歴史的妥協」を実現したかのような政権で、前半はユーロ導入の為の経済改革を中心に大きな成果を挙げたが、後半は成果に乏しい、中道右派連合と比べて構成政党の数が多く、リーダーシップの確立が困難だった、と評されている。

 

 

第8章 ベルルスコーニ時代のイタリア 2001~11

この十年間、06~08年の第二次プローディ中道左派内閣の期間を除いて、首相の座はベルルスコーニが占める。

統一後のイタリアで政治指導者の名を冠して呼ばれる時代は、ジョリッティ時代、ムッソリーニ時代、デ・ガスペリ時代と、このベルルスコーニ時代だけである。

しかし、この最後の時代はいかにも薄っぺらい。

内政では公私混同の私利追求、外交ではイラク戦争での対米追従だけが目立つ。

07年中道左派勢力は統合して民主党を結成、それに対抗してベルルスコーニは中道右派の統一政党「自由国民」を結成、多党分立が収まる気配となる。

08年政権復帰したベルルスコーニだが、リーマン・ショックとユーロ危機に襲われ、2011年辞任。

 

 

第9章 共和国の現在 2011~

経済危機の中、2011~13年モンティ首班のテクノクラート政権が再現。

13年総選挙では「五つ星運動」という、よくわからないポピュリズム勢力が台頭、中道左派、中道右派と並んで議会で三極体制を形成。

結局民主党中心の連合政権、レッタ内閣(13~14年)、レンツィ内閣(14年~16年)、[本書刊行後]ジェンティローニ内閣(16年~)が成立・継続し、現在に至る。

第6章以降の本文では、イタリアには市場主義的構造改革が必要である、という前提で叙述が進められているようで、やや疑念を持たないでもないが、イタリアという特殊状況ではそうかも知れないと考えて、あえて読み流します。

 

 

 

非常にしっかりした内容。

ページ配分が適切で読みやすい。

巻末の関連年表、歴代政権一覧、主要政党リストといった付録も充実。

政党名が乱立して頭が混乱する時もあるが、そもそも事実多党制が戦後イタリア政治の特徴なのだからしょうがない。

西欧最大の共産党の政権参加を阻止するため、中道政権を経て社会党を含む中道左派政権が成立、ユーロ・コミュニズム路線を採った共産党だがついに政権参加は出来ず、冷戦終結後は既成政党が総崩れとなり、第二共和制に移行、中道左派と中道右派の連合が交替で政権を担当、という流れが、以上の記事で触れた人名と共に大体頭に入っていればよい。

戦後政治史に関して、イギリスでは黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』(丸善)、フランスでは渡辺啓貴『フランス現代史』(中公新書)、ドイツでは小林正文『指導者たちでたどるドイツ現代史』(丸善ブックス)を紹介していますが、イタリアはジェンティーレ『イタリア現代史』(世界思想社)という古い上に到底初心者向けではない本しか無かった。

その記事の末尾に書いた、「日本人著者が噛み砕いてわかりやすく書いた入門書」がようやく出た感がある。

良質な啓蒙書として推薦します。

2017年12月23日

中嶋嶺雄 『国際関係論  同時代史への羅針盤』 (中公新書)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 05:21

1992年刊。

以前この記事で書名だけは触れている。

著者は戦後を代表する現実主義的な中国研究者の一人。

私が若い頃、左派偏向的な中国研究、国際政治学が跋扈する中、最も信頼できる中国政治研究者と考えており、その著の『中国  歴史・社会・国際関係』(中公新書)は、初心者が中国現代史を学ぶ上での基本テキストとして個人的には扱っていた。

ただ、その最晩年は過去の反動として世間に表れてきた反中感情に迎合するような面が見られ、あまり好い印象を持っていなかったことも事実である。

 

 

本書では、まず国際関係論という学問の概要から始め、それが政治学の延長線上の国際政治学ではなく、社会科学諸部門の総合という存在であることを述べ、政治学・経済学・社会学・歴史学・人類学などディシプリン(専門的学問領域)を複数習得する必要性を提示。

私は研究者でも何でもなく、ただの一般読者だが、私の関心の中心にはやはり歴史(政治史)があって、その脇に外交・国際関係と政治思想があり、背景に文学が隠れているといったところでしょうか。

次いで、国際関係論という学問分野の展開について、カー、シューマン、モーゲンソー、ケナン、レイモン・アロン、スタンレー・ホフマン、ケネス・ウォルツ、ギャディス、ナイなどの学者名を挙げながら概観。

地域研究の紹介を挟んで、戦後国際政治史を簡単に概観する具体的歴史叙述が置かれ、次に米・中・ソ・欧・アジア相互の国際関係の断片を扱った章、社会主義と民族紛争を述べた章が続く。

そして、外交に一章を割り当てる。

ここでは、条約・協約・協定・交換公文・議定書・議事録・共同宣言(共同声明)という外交交渉の公約化の形式について少し注意を払っておく。

終章では、国際関係上の倫理、および21世紀に向けた展望を語っている。

 

 

以上が本文ですが、正直精読する必要は無く、興味のあるポイントを押さえるだけでいいかもしれない。

私もそうした。

だが、本書を最も価値あらしめているものが、末尾に付せられている。

「国際関係論基礎文献」と題された読書案内の付録である。

必読書30点を含む多くの書名が挙げられている。

以下、分野ごとにその必読書30点のみを引用してみる。

 

 

≪政治≫

バーナード・クリック『政治の弁証』

ハンナ・アレント『革命について』

レーデラー『大衆の国家』

オルテガ『大衆の反逆』

 

 

≪国際関係論・国際政治学・外交≫

E・H・カー『危機の二十年』

ニコルソン『外交』

A・J・P・テイラー『第二次世界大戦の起源』

アリソン『決定の本質』

永井陽之助『平和の代償』

清水幾太郎『現代思想』

川田侃『国際関係概論』

永井陽之助『冷戦の起源』

中嶋嶺雄『中ソ対立と現代』

 

 

≪地域研究全般≫

中嶋嶺雄 チャルマーズ・ジョンソン『地域研究の現在』

青木保『文化の否定性』

梶田孝道『エスニシティと社会変動』

梅棹忠夫『文明の生態史観』

中根千枝『社会人類学』

 

 

≪アメリカ≫

トクヴィル『アメリカの民主政治』

ケナン『アメリカ外交五十年』

アーネスト・メイ『歴史の教訓』

 

 

≪ヨーロッパ≫

高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』

 

 

≪ソ連・ロシア・東欧・中近東≫

E・フロム『人間の勝利を求めて』

エレーヌ・カレール・ダンコース『崩壊した帝国』

山内昌之『ラディカル・ヒストリー』

 

 

≪アジア・中国≫

信夫清三郎『朝鮮戦争の勃発』

神谷不二『朝鮮戦争』

フェアバンク『中国』

中嶋嶺雄『現代中国論』

中嶋嶺雄『香港 移りゆく都市国家』

 

 

 

あくまで本書刊行時のものであり、今から見ると古くて入れ替えた方がいいような本もあるが、以上で書き写さなかった書名も含めて、一応の参考にはなる。

本文は特に素晴らしいと言うほどでもないが、末尾の読書案内は出色のもの。

古書店で見かけたら、買って手元に置いて、時々眺めることで読書意欲を高めるのも良い。

2017年12月19日

猿谷要 『物語アメリカの歴史  超大国の行方』 (中公新書)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 07:16

初版は1991年で、この『物語~の歴史』シリーズではイタリアと並んで、最初期に出たものでしょう。

著者はアメリカ史研究者としては結構著名で、私の若い頃から名前だけは知っていた。

『物語イタリアの歴史』が感動的なほどの傑作だったのに対し、こちらの方は、立ち読みしたところ、ありきたりの通史に思えたので、これまで読むことがなかった。

だが、このシリーズで未読のものを潰していくか、という気になったので、この度通読。

 

結果はやはりもう一つである。

事実関係の密度が低すぎる。

内容のごくごく粗い通史をざーっと読まされる感じ。

誰もがある程度の予備知識を持っている国の歴史について、限られた紙数の新書版で特色のある通史を書くことがいかに困難かは理解しているつもりだが、それを割り引いてもやはり本書は成功とは言い難い。

白紙状態の人が一読して全般的イメージをつかむにはいいのかもしれないが・・・・・。

なお、史的評価については、昔立ち読みした時は、視点がリベラル寄り過ぎるだろうと思った記憶があるが、今回読んだ際には、その面ではそれほど違和感は感じなかった。

まあ、ごく平凡な通史、という以外の感想は持てなかった。

アメリカ史のテキストとして、強いてこれを選ぶ理由は無いです。

2017年12月15日

間宮陽介 『市場社会の思想史  「自由」をどう解釈するか』 (中公新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:41

薄い、経済学史・経済思想史の本。

もともと放送大学用のテキストで、全15章のうち4章は他の人の執筆だったのを、今回著者の文責で単著扱いにしたという。

実はこれ再読です。

初読の際には、何ともありきたりな教科書的著作に思えて、即座に記事にすることはしなかった。

しかし再読してみると、思ったよりも特色がある。

自由市場メカニズムへの肯定と懐疑を交互に繰り返してきた経済学史の中で、後者に属する、歴史学派のリスト、制度学派のヴェブレン、経済人類学のポランニー、ケインズ主義を評価していることが読み取れる。

前者の系譜の中でも、アダム・スミスの自由主義と、マネタリストおよび合理的期待形成学派の自由放任主義を区別し、その自由概念の違いを明確にしている。

あとは、現在の新古典派経済学の源流となった、ジェヴォンズ、ワルラス、メンガーの限界(効用)革命についての記述が比較的詳しいのが特徴。

そこでは唯一数式による説明があり、私にとって苦手中の苦手だが、まあ説明の意図自体は全く理解できないこともない。

 

 

それほど悪くはないが、同じ著者の『ケインズとハイエク』が圧倒的に面白かったのに比べれば、雲泥の差がある。

まず、『ケインズとハイエク』を読むことをお薦めします。

2017年12月12日

ジョナサン・スウィフト 『ガリヴァー旅行記』 (ワイド版岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:21

これも大学時代に読んだきり、ウン十年振りの再読だ。

小人国リリパット、巨人国ブロブディンナグ、浮遊島ラピュタに統治されたバルニバービ、魔術師の島グラブダブドリブ、不死の人間が惨め極まりない形で存在しているラグナグ、「踏み絵」をヨーロッパ人に強要する日本(!)を経て、馬が支配者として君臨し、人間がヤフーという家畜になっているフウイヌムに至る奇譚が実に生き生きと面白可笑しく記されている。

全編にみなぎる社会風刺と人間性批判の徹底振りは本当に凄いの一言。

文学的関心以外の観点からでも必読の本と言える。

未読の方には是非勧める。

なお関連書として、高坂正堯『近代文明への反逆』があるので、併せて手に取ると有益でしょう。

2017年12月8日

エリック・ホブズボーム 『20世紀の歴史  極端な時代 上・下』 (三省堂)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 02:10

原著は1994年刊、この翻訳は1996年刊。

1914年第一次世界大戦から1991年ソ連崩壊までの、「短い20世紀」を叙述した概説的史書。

著者のホブズボームについて、マルクス主義の影響を強く受けながらも非教条的で優れた史家として名前は以前から知っていたが、著作を読むのはこれが初めて。

1917年生まれ、ベルリンとウィーンで育ち、のちイギリスに渡り、英米圏で活動。

本書全体は三部構成。

第一部は、二度の世界大戦に挟まれ、大恐慌と全体主義が生まれた「破局の時代」、第二部は戦後西側諸国で経済成長と社会的平等化が顕著だった「黄金時代」、第三部は1973年以降石油危機による高度成長の頓挫と社会主義の終焉を含む「地すべり」。

全体的概観を述べれば、19世紀の進歩の発展上にある自由民主主義・資本主義が、戦争・恐慌・ファシズムという三重の挑戦を受け、崩壊に瀕したが、共産主義との奇怪な同盟によって、ファシズムを軍事的に打倒することが出来ただけでなく、のち共産主義への対抗を強いられたため、平時において資本主義の自己改革を促す契機を提供することになった、というのが本書のモチーフ。

しかし、「破局の時代」がもたらした傷跡と歴史の退行はあまりにも深刻だった。

今世紀は、人間はきわめて残酷な状態、本来ならば耐えられないような状態にあっても生きていくことができるということを、われわれに教えたし、今も教えている。そのために、一九世紀の人々ならば野蛮の基準と呼んだであろう状態にどの程度もどったのか、不幸にしてますますもどりつつあるのかを理解しにくくなっている。われわれが忘れていることであるが、老齢の革命家フリードリッヒ・エンゲルスはアイルランド共和派がイギリスの国会議事堂ウェストミンスター・ホールに仕掛けた爆弾が爆発したのを非常に遺憾なことと思ったのである。彼は元軍人として、戦争は戦闘員とするべきものであって、非戦闘員にしかけるべきものではないと信じていたからである。これもまたわれわれの忘れていることであるが、帝政ロシアのポグロム〔ユダヤ人の迫害〕は(当然のことであったが)、世界の世論を憤激させ、一八八一年から一九一四年にかけて何百万人ものロシア系ユダヤ大を大西洋を越えてアメリカに渡らせたのだったが、その殺戮は現代の虐殺と比べれば小規模なもので、ほとんど無視できるほどのものであった。死者は数十人の単位で数えられ、数百人、ましてや数百万人といった規模のものではなかった。

・・・・・二〇世紀が進むにつれて、戦争はますます相手国の経済とインフラストラクチャー、そして相手国の非戦闘員人口にたいして行なわれるようになった。第一次大戦以降、非戦闘員の死傷者数は、アメリカを除くすべての交戦国で戦闘員をはるかに大きく上回るようになった。一九一四年には当然と考えられていた次のようなことを、今日のわれわれの中で何人が記憶しているだろうか。

教科書によれば、文明の戦争は、できるかぎり敵の武力を無力化することに限定されている。さもなければ、戦争は一方の当事国が絶滅させられるまで続くことになるであろう。「このような戦争がヨーロッパ諸国の間で一つの慣行となったのには・・・・・・じゅうぶんな理由がある」

科学技術の発達が戦争の破壊力を19世紀とは桁違いに高め、一方政治的社会的民主化は世論の煽動とイデオロギー化を必然とし、国家指導層間の冷静な妥協的解決を不可能にし、「無条件降伏」を常態化したため、20世紀の総力戦は人類にとって文字通り破滅的なものとなった。

民主主義の反動として現れたファシズムも、世俗的イデオロギーによって大衆を下から動員して権力を奪取するという意味では、決して伝統的諸勢力が生み出したものではなく、大衆民主主義時代の申し子とすべき存在である。

また、生き延びた自由―資本主義社会も、自己利益以外の関心をもたない原子的個人を生み出すことによって、貧富の差を拡大し、社会の分裂と軋轢を蔓延させ、それ自身の基盤を掘り崩していき、地球環境の危機という重大な問題も発生させることになった。

 

 

本書の存在自体は、訳書刊行時に書店や図書館で見かけており、以前から知っていた。

なのに、これまで手に取ることが無かった理由としては、「社会主義が結果として、ファシズムの打倒と自由主義・資本主義の延命に役立ったと言っても、それ自体がもたらした被害が尋常じゃないでしょう、この左翼史家には根本的な自己反省が欠如している」という気持ちがあったことは事実です。

(正確に言えば、確か山内昌之氏が本書の書評でこれと近い意味のことを述べていて、それに大いに共感したということです。)

だが、それから20年以上経って、体制としての社会主義が崩壊した途端に、新自由主義と市場原理主義を盲信し暴走を始め、その弊害が収まる兆候すら表れない現在の資本主義の姿を見るとき、このマルクス主義的史家が述べる、自由市場イデオロギーへの批判が至極真っ当に思えてくる。

なお、本書では自然科学を含む文化史および社会史にも目配りされているが、特に前者の章は、私の知的レベルを超える話が多く、ほとんど理解できませんでした。

あと、訳文があまりこなれていない印象。

それもあってか、上巻の最後辺りから下巻にかけては、読むスピードがかなり落ちました。

読んで無駄だったとは決して思わないが、もう一つしっくりこないところがある。

多分、現在白紙状態の人が普通の概説史書のつもりで読んでも、得るところは少ないと思う。

一定程度のことがわかった人が、ざっと読んで著者の史観に触れて、何かを感じるための本か。

やや晦渋な叙述もあり、私にとってはいまいちでした。

ホブズボームには、『市民革命と産業革命 二重革命の時代』[1789~1848年](岩波書店)、『資本の時代 全2巻』[1848~1875年](みすず書房)、『帝国の時代 全2巻』[1875~1914年](みすず書房)という、「長い19世紀」を扱った三部作もあり、こっちの方が私には向いてるのかなあ、とも思ったが、この先読むかどうかは未定です。

2017年12月6日

モリエール 『いやいやながら医者にされ』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:09

飲んだくれの木こりが、仲の悪い妻の企みで、医者に間違えられることから始まる喜劇。

軽妙なやり取りが愉快だ。

わずか80ページほどで、あっという間に読める。

これも、書名一覧でモリエールの数を増やせたし、それで十分。

2017年12月2日

桃木至朗 樋口英夫 重枝豊 『チャンパ  歴史・末裔・建築』 (めこん)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 04:46

1999年刊。

副題の通り、歴史を扱っているのは冒頭から100ページ弱のみで、「末裔」の章は写真のみが50ページほど掲載され、あと建築関係の記述が100ページ余り続く。

当然歴史の章だけを読み、後は全く無視しました。

著者の桃木至朗氏は、最近高校の日本史・世界史教科書の歴史用語を削減しようと提案したことで話題の人か。

 

 

扶南と並んで、東南アジア最古の国家として高校世界史に出てくるチャンパ―だが、どうもマイナーである。

扶南が(クメール人の国か、マレー人の国かがはっきりしないものの)真臘を経て現在のカンボジア国家に連なる国であるのに対し、ヴェトナム中部にあったチャム人の国チャンパ―は、ヴェトナム人(キン族)の南下に伴い圧迫され、最後はヴェトナムに併合され、チャム人はヴェトナムの少数民族に過ぎなくなってしまったからでしょう。

チャム人がオーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族=マレー語、インドネシア語、タガログ語)に属するのに対し、キン族(ベト族)はオーストロアジア(南アジア語族・モン・クメール語族=ヴェトナム語、カンボジア語)に属する(タイ語、ミャンマー語はシナ・チベット語族)。

なお、チャンパーは中国名の変遷も覚えないといけませんでしたね。

林邑、環王、占城の順。

フランス植民地時代に本格的な歴史研究が始まり、「2~15世紀の」「中部ヴェトナムの」「海洋民チャム族の」「周辺諸国に圧迫されつづけた不幸な」「インド式国家」というチャンパ―の基本イメージが出来上がったという。

紀元前1000年紀後半、北ヴェトナムでドンソン文化が栄えたころ、中部ヴェトナムにもサーフィン文化が出現。

秦の華南征服の後、趙佗が自立して北ヴェトナムを含む南越国が成立、漢の武帝がこれを滅ぼし、ヴェトナム中部まで支配、日南郡を置く。

海のシルクロードの要衝にあたるヴェトナム中部で、192年反乱が起こり、林邑が独立(これが普通チャンパーの建国と見なされる史実か)。

東南アジア史の大きな流れとして、従来から(中国の影響の強いヴェトナムを除いて)「インド化」による国家建設とヒンドゥー教・大乗仏教の普及、13世紀モンゴルの侵入、それを境にしたイスラム教と上座部仏教の広がり、というのが通説になっている。

しかし、本書では「インド化による建国」には否定的で、「范蔓(ヴァルマン?)」というようなインド系の王名が記録されているからといって、それは「倭の五王」が中国名で記されているのと同じで、土着王権が大文明の「磁力」に引かれていただけだとしている。

だが、4世紀以降はグプタ朝の繁栄に影響されて、チャンパーでもインド文明が組織的に導入されるようになり、ヒンドゥー教のシヴァ神が祀られ、国王はバラモンあるいはクシャトリヤの身分を誇り、「インド化」が実質性を帯びる。

ただし、カースト制は根を下ろさず、インドでは見られない王そのものの神格化が東南アジアでは観察される。

チャンパーはチャム人のみを構成員とする国ではなく、多民族国家でもあった。

また、東南アジアの古代国家はいずれも地方王権の連合体で、領域や民族構成のはっきりしない「マンダラ国家」と呼ばれる形態を持っていた。

海洋貿易の拠点となったチャンパーは大いに繁栄。

8世紀半ば、環王と改称、さらに9世紀後半には占城と名を変える。

唐から宋に交替した中国と盛んに朝貢貿易を行う。

だが、千年間の中国支配を退け、北ヴェトナムに独立した李朝大越の攻撃で、チャンパーは南遷を余儀なくされ、ヴィジャヤを新都とする。

また、13世紀初頭カンボジアのアンコール朝ジャヤヴァルマン7世(都アンコール・トム建設者)には一時属領として扱われ、1282年には元朝のフビライ・ハンの侵攻も受ける。

以後はとにかくヴェトナム人の南下によって圧迫され続けた、というイメージが強いチャンパーだが、それには史料の偏りによる誇張があり、大きな農業基盤を持つヴェトナムやカンボジアも「マンダラ国家」から脱却できておらず、王権が国力を集中させることはできず、小規模な海洋交易国家チャンパーが全く対抗できなかったわけではない、と著者は述べる。

実際、アンコールの都や大越の都昇竜(ハノイ)をチャンパー軍が破壊したこともあったらしい。

元の侵入以後、東南アジアのイスラム化について、マラッカ王国が島嶼部イスラム化のすべての起源と考える必要は無い、その一部はチャンパー経由と考えてもいいのではないか、とされている。

一方、ヴェトナムは陳朝(1225~1400年)の下、紅河デルタを開発し、強大な王権を確立。

モンゴル侵入を撃退したことで、「南の中華帝国」という民族意識が高揚、キン族は膨張を続ける。

陳朝滅亡後、明の武力干渉を退けて成立した黎朝は、1471年ヴィジャヤを占領。

これが以前は「チャンパーの滅亡」とされてきた。

私が高校生の頃、チャンパーは黎朝に滅ぼされたと暗記した記憶がありますので、教科書・参考書レベルではそうだったんでしょう(今は違うようです)。

マスペロやマジュムダールのチャンパ史は、1471年以降のことをほんの一、二ページでかたづけている。もともと東南アジア史研究は、アンコールワットやボロブドゥールを見たインド学系統の研究者の感動から出発した面があり、「インド化された国家」がなくなってしまった後など歴史ではない、というわけだ。北インドのイスラーム化と元寇によって13世紀以降、「インド化された国々」は生命力を失った、というセデスの雄大な図式の中で、チャンパもその好例とされ、15世紀にチャンパが「滅びた」と書く教科書もたくさん出された。

本書では、残存勢力によってチャンパーの王権が保たれていたことを強調。

黎朝が分裂期に入り、北の鄭氏と南の阮氏が対立、大航海時代に入りヨーロッパ人が来航する中、チャンパーも貿易や紛争に奮闘する。

だが、「17世紀の危機」が到来、メキシコ銀と日本銀産出に支えられた好況が終焉、日本は鎖国時代に入り、香辛料貿易は減少し、島嶼部ではオランダ人は交易から陸地の囲い込みと植民地化に向かい、商品作物栽培を強制、大陸部では農業国家の優位が決定的になる。

海洋交易の衰退はチャンパーの国力を直撃し、最終的に阮朝越南の二代目皇帝明命(ミンマン)帝が、直轄支配化に反抗していた最後のチャンパー系勢力を1835年に鎮圧、これによってチャンパーは最終的に滅亡する。

現在チャム人は、イスラムと土着信仰が混交した宗教を信じる、ヴェトナム中部の少数民族として暮らし、周辺のカンボジア、マレーシアにもムスリムとして存在しているという。

 

 

短くて手頃。

テーマを考えれば、これくらいが適切。

マイナー分野の復習に使えます。

2017年11月28日

桑原武夫 監修 『西洋文学事典』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: 教科書・年表・事典, 文学 — 万年初心者 @ 02:32

1954年福音館書店から出版された文学事典を2012年復刻文庫化したもの。

巻末の沼野充義氏の解説によると、本書の特徴として、

(1)当時の常識に従い、「西洋文学」=「世界文学」として捉えられていること

(2)重点を近現代、特に20世紀に置く、革新的方針を採っていること(刊行当時はカミュもヘミングウェイも存命中の同時代作家だった)

(3)作家事典だけでなく、作品事典も兼ねており、あらすじと鑑賞について、明快で説得力のある記述が盛り込まれていること

(4)記述スタイルに明快さと一貫性があること

(5)当時の「カノン(正典)」に縛られた側面(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文学の欠如)と当時としては斬新な側面の両方があること

が挙げられている。

このうち、沼野氏は(3)の作品解説が本書最大の「売り」になっていると書いているが、私も同感です。

簡潔ながら要領が良く、未読作品の場合、読書意欲をかき立て、既読作品の場合でも、鑑賞・評価を再考させてくれる。

もちろん、刊行が古い分、首を傾げる記述もある。

例えば、ゴーリキーの項などは、時代背景を考慮しても、ちょっと眩暈がしてくる代物ではある。

また戦後間もなくの漢字制限・簡略化の風潮からか、「ヒニク」「タイハイ」「ドレイ」「ガイセン」「ダラク」「ボクトツ」「ギセイ」など、妙なカタカナ表記が散見される。

そうした瑕疵はありつつも、文学初心者にとっては、貴重で有益なツールとして今でも通用する本だと思われる。

大部の文学事典などを買うのは躊躇するが、コンパクトなこれなら、買って手元に置いておいても良い。

一度手に取ることをお勧めします。

2017年11月24日

沢田勲 『匈奴  古代遊牧国家の興亡』 (東方書店)

Filed under: 中央アジア — 万年初心者 @ 06:06

1996年初版で、2015年新訂版刊行、韓国語版、中国語版も刊行されたという、一般向け概説書。

中国史上に現われる北方異民族には、匈奴以前にも、山戎、獫狁(けんいん)、葷粥(くんいく)などが知られているが、匈奴は北アジア初の騎馬遊牧民。

匈奴の名が初めて現るのは、戦国時代中期、前四世紀末。

秦や趙と抗争。

西方のスキタイ人の騎馬戦法を習得した、北アジアの遊牧民が中国北辺の半農半牧民を吸収して成立した政治集団と見られる。

著者は、匈奴がコーカソイドの北欧系人種であるという説は否定し、モンゴロイドであろうとしつつ、それがモンゴル系かトルコ系かとの議論には距離を置き、宗教・言語・文化が一元化された固定的「民族」という考えは適用できないとしている。

始皇帝が中国を統一した頃、匈奴でも頭曼が諸部族を統合し単于を名乗る。

蒙恬によるオルドス征服と万里の長城建築。

始皇帝が死去した直後、前209年、有名な冒頓が父頭曼を倒して、単于に即位。

冒頓単于は、東の東胡、西の月氏・烏孫、北の丁零、南の楼煩を制圧。

前200年、漢の高祖劉邦を平城・白登山で包囲し、漢と事実上対等の和親関係と年ごとの献上品を得る。

子の老上単于時代と併せて西域交易路を支配、孫の軍臣単于時代まで漢に対し優勢を維持。

前漢の武帝が反撃を開始。

まず張騫を大月氏との同盟交渉の為、派遣、往路・帰路とも匈奴に囚われ、同盟締結にも至らなかったが、帰路では、軍臣単于死後の後継争いの混乱を利用して漢への帰還に成功。

軍臣単于死後、弟の伊稚斜(いちさ)単于が甥の太子から位を奪い、単于位の長子継承が崩れる。

衛青・霍去病の攻撃で匈奴は北方に撤退、李広利の大苑遠征で、漢の西域支配確立。

なお、匈奴の地に至った、李陵、蘇武、中行説などの人名は、知っておいた方がよい(上記李広利も、後に匈奴に亡命している)。

単于位争いと天候不順による経済状態悪化を受けて、周辺従属民族は離反、匈奴の最盛期は過ぎる。

前1世紀半ば、五単于が乱立、そのうち兄弟が共に単于の名乗ったことが、普通、匈奴の東西分裂と言われる。

東匈奴の呼韓邪(こかんや)単于は前51年漢に入朝、兄の西匈奴単于は誅殺、これで西匈奴は即座に滅んだことになる。

この呼韓邪単于に降嫁した和蕃公主が、のち元曲『漢宮秋』で描かれる王昭君であることは有名。

安定期に入った漢・匈奴関係だが、王莽の新は、匈奴に対し強硬策を採り、さらに愚かにも他の異民族にも同様の政策を採った為、彼らも中国から離反し、再び匈奴が西域の支配権を握ることになる。

後漢の光武帝は、一先ず対外消極策を維持。

 

匈奴の社会と文化について。

一部で可能性が囁かれている「匈奴文字」は証拠が薄弱であり、存在していた可能性は極めて少ない。

やはり北アジア遊牧民で、初の独自文字は突厥文字と考えられる。

単于個人の絶対的支配権は確立せず、階級分化以前の段階で、確固たる官僚機構もなく、氏族組織が温存され、遊牧生活にも必要な農耕地帯の手工業品の略奪・分配を軸に緩やかに結合した遊牧国家形成期が、匈奴およびその後継である鮮卑、柔然の時代であり、遊牧国家を完成させた突厥とは区別される。

 

紀元後48年、匈奴は南北に再度分裂。

南匈奴は、光武帝晩年の後漢に服属。

後漢は1世紀末から2世紀初めにかけて、班超・班勇が西域経営を進める。

91年、漢と南匈奴連合軍に敗れた北匈奴はモンゴル高原から撤退、かわって鮮卑がその地を支配。

158年頃、北匈奴は東トルキスタンも放棄し、西方に移動、以後文献上では消息が分からなくなる。

で、この行方不明の北匈奴がフン族になったのではないか、と長年言われ続けているわけです。

18世紀のフランス人東洋学者ジョゼフ・ド・ギーニュが最初に提唱、19世紀ドイツの中国史家フリードリヒ・ヒルトに受け継がれる。

本書では、それを肯定も否定もせず、以下のように述べている。

元来、トルコ語もモンゴル語もツングース語もアルタイ語系の中の近縁関係にあって、多くの同一単語を有しており、これを中国史書中のわずかな語彙より拾い出して断定することには無理があろう。筆者は、中国史書中に記された匈奴語の言語学的研究を否定するものではないが、わずかな語彙をもとに匈奴がモンゴル系かトルコ系かと議論してもあまり意味がないと思う。なぜなら中国に伝わった匈奴語は匈奴支配層の言語であって、それらをもって匈奴民族すべてを何々系の民族であると断定することは、危険であるといわざるをえないからである。

・・・・・当初、同族論者は匈奴とフンの原音の類似性に着目した。それゆえ、まず両者が用いた言語を諸文献より拾い出して研究するという方法が採られてきた。そして次に、かれらの容貌より見た人種論、さらにはその文化の比較研究によって両者の同一性が追究されてきた。

それは、「民族」は人種、言語、文化の三大要素から成り立つと考えられ、時には「民族」という用語と「人種」という言葉が同義語として捉えられてきたからである。そして、「民族」と「言語」とは基本的に一致するものだという考え方に基づいた、「民族」の成立根拠と言語の成立根拠には共通性があるという誤解をも生みだすことにもなった。

今日のアメリカを例に取っても明らかなように、ともに英語を話していても、白人もおれば黒人もおり、はたまた黄色人種もいて、文化のありようも多種多様である。それゆえ、「民族」についても、三大要素の中より単純に一つを抽出して他の二つを決定することはできないのである。その上「民族」という概念の成り立ちを、かかる三大要素で限定することにも疑問がある。なぜなら今日「民族」はきわめて政治的な用語としても使われており、これを古代社会にあてはめることには無理があるからである。

・・・・・・

永元年間(八九~一〇五)、モンゴリアの地にいた北匈奴は、東方の鮮卑族の攻撃をしばしば受けていた。そのことは『後漢書』〈鮮卑伝〉に、

 

匈奴の余種の残留するものがなお十余万落ほどあり、  みなみずから鮮卑と称した。

 

とあり、鮮卑の支配下に入った匈奴の遺衆が鮮卑を名乗ったと記録されている。こうした例は、北アジア遊牧民ではしばしば見られることである。

・・・・・遊牧民の社会は一種の契約社会である。土地という不動の自然を基盤に成立した農耕民族の社会と異なり、草原地帯を求めて移動する遊牧民は、牧地の情報蒐集、運輸、交易などの経済生活を保証するものとしての強力な指導者の出現を要請する。遊牧社会はこの点できわめて人為的な社会だともいえよう。匈奴の遺衆がみずから鮮卑と称したのは、新たなる指導者すなわち鮮卑族の首長の傘下に入ることによって、牧草地の保証、手工業品などの分配という恩恵を蒙らんとしたからに他ならない。

護雅夫が「匈奴帝国」(三上次男・護雅夫・佐久間重男共著『中国文明と内陸アジア』講談社、一九七四)の中で匈奴・フン同族問題を取り上げた際、アラル海周辺の遊牧諸族について「かれらの多くは、みずから匈奴なりと称することによって、おのれ自身を栄誉づけようとし、もともと匈奴そのものでないものも、匈奴(フン)として史上に姿をあらわしたものと思われる」と述べられたのは、遊牧社会の実態を端的に表していよう。

これまでの匈奴・フン同族論争が匈奴とフンの民族的な帰属問題に終始したのは、民族という語が人種という語に置き換えて考えられてきたからである。古代ユーラシア遊牧民社会を今日的な「民族」概念(ネイション・ステイト)で考えることは多くの誤解を生み出す源となる。それゆえ、遊牧契約社会に基づく人為的な連合組織として匈奴(フン)民族を解釈することが、今後の匈奴(フン)研究のステップとなるのではないだろうか。

 

漢に服属後、南匈奴は定住民化し、遊牧民としての性格を薄くし、単于の権力は失墜。

西晋の八王の乱以後、五胡十六国の動乱の中、匈奴部族有力者の劉淵・劉聡は前趙を建国、劉曜が後を継ぐが、匈奴の一派、羯族の石勒が建てた後趙に滅ぼされる。

中原を統一した後趙も、暴虐な後継者石虎の治世で滅亡。

他に北涼、夏という匈奴系王朝が存在したが、鮮卑族拓跋氏の北魏によって滅ぼされた。

その中で、匈奴の独孤氏は中国貴族化し、北魏・西魏・北周・隋・唐にわたって外戚として重きを成した。

一方、北魏による農民化政策に抵抗した一般匈奴部衆は北に逃亡し、柔然、突厥の部民として吸収されていった。

 

 

終わり。

一般向け入門書としては、難解な部分も特になく、悪くない。

なかなか類書の少ない分野でもありますし、まだ貴重な本ではないでしょうか。

2017年11月22日

藤澤房俊 『「イタリア」誕生の物語』 (講談社選書メチエ)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 05:50

フランス革命から統一までの、「リソルジメント」と呼ばれる民族独立運動を描いたイタリア史。

内容的にはごく普通。

高校世界史でも教えられるイタリア統一の歴史が、それより少々詳しく、未知の人名や固有名詞を交えて語られるだけ。

オーストリアの支配に対する、マッツィーニら「青年イタリア」の急進派蜂起が次々失敗する中、マニンら「イタリア国民協会」などの穏健派が台頭、それを自陣に組み込み、フランスを中心に国際関係を巧みに利用したカヴール、ダゼーリョ(カヴールの前任首相)らのサルデーニャ王国による統一が実現する。

読みやすいが、特筆すべき点は無い。

高校世界史の復習のためにはいいでしょう。

2017年11月20日

ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:14

ヘッセ、苦手なんですよねえ・・・・・。

『車輪の下』はまあ分かりやすかったが、学生時代に『知と愛』(『ナルチスとゴルトムント』)を読もうとして、余りの晦渋さに挫折したのが、軽くトラウマになっている。

これは比較的短いし、第一次大戦後に書かれた重要な作品らしいので、手に取った。

しかし、やはり分からない。

主人公ジンクレエルと謎めいた友人デミアンとの交流を通じて、伝統的価値観の衰微と善悪の混淆が語られ、ニーチェのような未来志向の超人思想を肯定するような話が展開するのだが、過去の価値観と切り離されたニーチェ的近代批判が暴走して、極右的な最悪の大衆運動の道具に成り下がったことを思うと、何か妙な違和感を覚える。

というのが私が持った表面的感想なんですが、多分こんな解釈は完全に誤読なんでしょう。

かといって、どういう解釈が正しいのかも分からない。

まあ、普通には読めた。

通読難易度は低い。

もう、それしか書くことが無い。

『車輪の下』以外のヘッセの作品は(本書だけでなく、恐らく他の作品も)分からないし、面白さも感じられません、というのが私の結論です。

2017年11月16日

君塚直隆 『ベル・エポックの国際政治  エドワード7世と古典外交の時代』 (中央公論新社)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 03:39

英国王エドワード7世(在位1901~1910年)の伝記。

長期間君臨したヴィクトリア女王の影に隠れ、在位期間も短く、君主の政治的実権が完全に失われた(と一般には思われているが、微妙な、しかし無視できない影響力を持っていたことは本書で記される)20世紀の国王であることから、当然高校世界史では全く触れられない人物である。

 

1841年アヘン戦争中に生まれる。

母はすでに在位中のヴィクトリア女王、父はドイツの小国出身のアルバート公。

謹厳実直な両親に厳しく育てられる。

海外を訪問・遊学し、ナポレオン3世、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会い、南北戦争直前のアメリカも訪問。

大学でやや放蕩的生活を送るが、その心労も一因となって1861年父アルバート公が死去。

息子に不信感を持ったヴィクトリア女王は、以後「万年皇太子」エドワードを政務に関わらせようとしない傾向となる。

1863年、デンマーク王位を継承する直前のグリュックスブルク(グリュックスボー)家のアレキサンドラ王女と結婚。

直後のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争では、妻の実家のデンマーク王を支持し、露骨に反プロイセン感情を表した為、ヴィクトリア女王の叱責を受ける。

夫の死後、あまり人前に姿を現わさなくなったヴィクトリア女王に対し、世論の批判が高まり、一部では公然と共和制への移行すら主張された。

ヴィクトリア女王は、実際には内閣からの報告を受け、多忙な政務をこなしていたが、大衆民主主義に向かいつつある社会において、君主が世論に対して常に自らをアピールする必要があることを失念していた(私は、こういう社会の変化自体を肯定的に見ることができないが、しかし現代社会において君主制が存続する為にはやむを得ないことは理解する)。

この「共和制危機」はエドワードの重病とそこからの回復に際して王室への国民的感情が高まったこと、その後ヴィクトリア女王が各種儀式や行事に積極的に出席するようになったことで回避される。

イギリス社会に長い伝統が生み出す良識が存在していたことも事実だろうが、それでも良き国家には幸運も必要だと思わせる話ではある。

国際親善の目的で各国を訪問、微妙な政治的問題にも触れ、経験を積むことに成功。

イギリス王室と各国王室・皇室は婚姻関係で結ばれる。

エドワードの姉がドイツ皇帝フリードリヒ3世(ヴィルヘルム1世の子、数ヵ月の在位で死去)の妻となり、両者からヴィルヘルム2世が生まれる。

姪はロシア皇帝ニコライ2世と結婚(不幸にして革命で殺害されてしまう。またニコライ2世の母は、エドワードの妻アレキサンドラの妹)。

別の二人の姪はスウェーデン国王グスタフ6世、スペイン国王アルフォンソ13世に嫁ぎ、アレキサンドラの弟がギリシア国王ゲオルギオス1世として即位、娘は新たに独立したノルウェーの国王ホーコン7世(アレキサンドラの甥でもある)と結婚、ポルトガル国王は父アルバート公の実家と縁がある。

1901年遂にヴィクトリア女王が死去、エドワード7世即位。

王朝名をハノーヴァー朝から父の実家のサックス・コーバーグ・ゴータ朝に変更。

首相は即位当初は1895年以来のソールズベリ(保守党)、1902年からは同じく保守党のバルフォア。

1903年フランスを訪問、ファショダ事件とボーア戦争で反英感情が残っていたが、エドワード7世は流暢なフランス語でパリ市民を魅了、それがもたらした世論の全般的雰囲気改善の中、仏大統領ルーベ、外相デルカッセ、英首相バルフォア、外相ランズダウンら両国当局者は植民地問題で広範な合意に達し、1904年英仏協商締結。

翌1905年ヴィルヘルム2世は第一次モロッコ事件という示威行動を起こすが、1906年アルヘシラス会議でも英仏の結束は崩れず、ドイツの孤立化傾向が進む。

皇太子時代にはクリミア戦争以来悪化したままの英露関係改善に尽くし、甥のニコライ2世にも個人的好感を持ってはいたが、ユーラシアをめぐる英露間の「グレート・ゲーム」では政府の対露強硬路線を支持、日英同盟と日露戦争に至る。

加えて対米関係改善にも乗り出す。

後世の歴史を知る我々から見ると、意外なことに、19世紀末からの英米関係は極めて険悪で、パナマ運河建設問題、ベネズエラと英領ガイアナの国境問題などが持ち上がり、米国のクリーヴランド民主党政権、マッキンリー共和党政権とも英国に対してモンロー主義を振りかざし、一部では戦争の可能性さえ囁かれていた。

エドワード7世は新大統領セオドア・ルーズヴェルトと書簡を交換、緊密な関係を築き、両国間の緊張緩和に貢献。

1905年キャンベル・バナマン自由党内閣成立、08年には同じ自由党のアスキス内閣に替わり、外相エドワード・グレイが外交の舵取りとなる。

イギリス王室が縁戚関係を持たない、格上の存在であるハプスブルク家当主フランツ・ヨーゼフ1世統治下のオーストリアも訪問、オスマン衰退後のバルカンをめぐる東方問題の鎮静化を目指すが、1908年オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を切っ掛けに事態は暗転していく。

日露戦争に敗れたロシアはイギリスとの妥協に傾き、1907年英露協商締結。

英仏協商、英露協商、日英同盟、対米関係改善によってエドワード7世即位当初の孤立化傾向からの脱却に成功したイギリスに対し、ドイツは逆に孤立化、エドワード7世とヴィルヘルム2世の関係もギクシャクしたものであり、英独建艦競争は深刻化する。

この時代、無政府主義者による暗殺が頻発、オーストリア皇后エリザベト、イタリア国王ウンベルト1世、ポルトガル国王カルロス1世が暗殺され、1910年にはポルトガルで共和派軍人の反乱勃発、ブラガンサ王朝は崩壊した。

老齢年金と海軍拡張予算確保の為、土地財産の相続税を引き上げる「人民予算」が蔵相ロイド・ジョージの主導で提出、世論煽動的な行動にエドワード7世は不快感を持つ(これをきっかけに1911年下院の優位を定めた議会法制定)。

健康状態が悪化し、1910年死去。

「いや!わしは絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるからな」が最期の言葉だったという。

その死後四年にして第一次世界大戦勃発、ヨーロッパと世界は恐るべき頽落に向かう。

高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』によれば、19世紀ヨーロッパの平和が長期間確保されたのは、外交主体である各国の「同質性、貴族性、自立性」ゆえであった。

その前提が大衆民主主義化と科学技術の発達で失われつつある時代に、政府当局と緊密に協力し、華麗な王室外交によって、外交において最強の要因になりつつある世論に微妙な影響を与え、平和と国際協調を維持しようと奮闘した国王を本書は好意的に評価している。

 

 

かなり良い。

この王の前後を挟む『ヴィクトリア女王』『ジョージ五世』と並んで、手堅い伝記。

十分推奨に値する本です。

2017年11月12日

私市正年 佐藤健太郎 編著 『モロッコを知るための65章』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 04:40

アフリカ北西端、マグリブ諸国の中で一番西にある国。

まずチェックすべきなのは、君主制国家だということ。

日本名はモロッコ王国。

首都はラバトだが、他にもカサブランカ、フェス、マラケシュなどの有名都市があり。

帝国主義時代の二度のモロッコ事件で出てくるタンジェ(タンジール)とアガディールも。

宗教的にはもちろんイスラム教スンナ派。

民族はアラブ人とベルベル人が半々くらい。

アトラス山脈がもたらす降雨により、農業が繁栄、リン鉱石などの資源にも恵まれ、漁業も盛ん。

ギリシア、フェニキア(カルタゴ)の活動を経て、ローマ支配下に入り、その後ヴァンダル族が侵入、東ローマがヴァンダル王国を滅ぼす。

7世紀末からイスラム時代。

789年モロッコ初のイスラム王朝である、シーア派のイドリース朝建国。

それが衰退すると、後ウマイヤ朝とファーティマ朝による侵入をしばしば受ける。

11世紀半ば、ムラービト朝が大勢力となり、アンダルス(イスラム支配下のイベリア半島)にも進出。

12世紀半ばにはムワッヒド朝が後を継ぐ。

その支配も永続せず、モロッコにはマリーン朝が成立(1248~1465年)。

大旅行家イブン・バットゥータは、この時代、1304年にタンジールで生まれている。

続いてワッタース朝が生まれるが、その統治は弱体で、大航海時代のポルトガルにセウタなどの沿岸都市を奪われる(セウタはスペインのポルトガル併合時代にスペイン領となり、ポルトガル再独立後もスペイン領有のまま)。

1492年レコンキスタ完了で、ナスル朝が滅亡したアンダルスから多数のムスリム亡命者がモロッコに移住。

そうした中、シャリーフ(ムハンマドの後裔)を名乗るサアド朝が16世紀後半にワッタース朝を滅ぼし、モロッコを統一。

ポルトガルとオスマン朝の攻撃を退け、トンブクトゥに遠征し、ソンガイ王国を滅ぼし、サハラ貿易を独占。

17世紀にはサアド朝が衰亡し、一時の分裂状態に陥った後、同様にシャリーフ家系のアラウィー朝が1659年成立、この王朝が現在まで続く。

19世紀帝国主義時代、タンジールのみを貿易港とする「鎖国政策」がヨーロッパ諸国の非難の的となり、隣国アルジェリアでフランスの植民地化に抵抗するアブドゥルカーディルを支援したこともあって、1844年フランスと戦うことになるが敗北、以後不平等条約を押し付けられ、列強の圧迫を受け続ける。

アルジェリア・チュニジアを植民地化したフランス、大西洋・地中海対岸のスペイン、ジブラルタルを領有するイギリスの三者が主だが、そこにドイツが割り込み、対仏威嚇と1904年締結の英仏協商の強さを瀬踏みしようとして起きたのが、1905年第一次モロッコ事件(タンジール事件)、1911年第二次モロッコ事件(アガディール事件)。

結局、1912年、中部の主要地帯はフランス、北部と(現西サハラを含む)南部はスペインによって保護国化。

アラウィー朝自体は存続したが、主権は喪失し、実質的には植民地化。

だがアラウィー朝スルタンは、独立運動の過程で団結の契機と象徴として威信を保つ。

北部のスペイン領モロッコでは、アブドゥルカリーム率いるベルベル農民らがリーフ戦争の名で知られる反乱を起こしたが、1926年鎮圧。

結局、1956年フランス領と北部スペイン領を併せた領土で独立達成、主権回復、スルタンは国王と称号を変え、ムハンマド5世として即位、君主権の強い立憲君主制国家として発足。

以後国王は、ハサン2世(1961~99年)、ムハンマド6世(1999年~)と続く。

チュニジアも似たような経緯で独立したものの、君主制は廃されてしまったが、この違いが何からもたらされたかはもっと詳しい本を読まないと分からないでしょう。

なお、北部のセウタおよびメリーリャは小さな飛び地であるが、現在もスペイン領のまま。

スペイン南端のジブラルタルは現在もイギリス領だが、スペインもモロッコにこの二つの飛び地領土を持っているわけである。

より重要な問題として、西サハラ問題がある。

スペインの南部保護領の一部だった西サハラ地域は、スペインが自治領として維持しようとし、また隣国モーリタニアも一時領有権を主張。

1975年スペイン民主化時代に、スペイン軍は撤退、モーリタニアも領有権を放棄したので、実質的にモロッコ領となったが、武装勢力が独立運動を展開、1984年「サハラ・アラブ民主共和国」がアフリカ統一機構(OAU)に加盟を認められると、モロッコは猛反発してOAUを脱退。

この問題は現在も解決を見ず、モロッコはOAUの後継組織、AU(アフリカ連合)にもアフリカ大陸で唯一非加盟を貫いている。

私が子供の頃のアフリカ地図では西サハラとナミビアだけが非独立地域の意味で白色のままだったのを覚えていますが、後者が独立した今となっては、西サハラだけが未確定領土として残っているわけです。

他に外交的には、イスラム諸国の中では比較的イスラエルに宥和的姿勢を保ち、プラグマティックな親米・親西側路線を採ることが多い。

 

 

メモする必要があるのは、まあこんなもんでしょ。

細かな王朝名は別にして、以上のようなことが常識的にわかっていれば良し。

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