万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年11月29日

松田素二 津田みわ 編著 『ケニアを知るための55章』 (明石書店)

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今の若い人にはピンと来ないと思いますが、このケニアという国は「アフリカの主要国」だというイメージがかつてはありました。

首都のナイロビにアフリカ総局を置いていた新聞社もあったはずです(今は南アフリカのヨハネスブルクあたりでしょうか)。

本書によれば、それはこの国が独立後のアフリカ諸国の中では珍しく親米英・親西側路線を採用したため、日本とも多くの援助と交流があったからだとのことである。

ああ、なるほどなと思いました。

それで実際の国力や国の大きさよりも、過度に重視されていた面もあったかもしれません。

 

ケニアは東アフリカに位置し、北はエチオピアとソマリア、南はタンザニア、西はウガンダと南スーダンに接する。

北にトゥルカナ湖、西にヴィクトリア湖という大湖が存在。

言語は英語とスワヒリ語。

キリスト教徒が多数派だが、イスラム教徒も一割ほど存在。

沿岸部モンバサはムスリム商人の拠点として有名。

最大民族はキクユ人だが、その構成比は17%ほど、他にルヒャ人、カレンジン人、ルオ人、カンバ人など。

一番知名度が高いのはマサイ人だろうが、数から言えば少数派なのか、主要民族の中には現れない。

19世紀ベルリン会議後のアフリカ分割で、1895年イギリスの東アフリカ保護領に。

1950年代、「マウマウ」の反乱と呼ばれる独立運動を経て、1963年独立。

初代首相ジョモ・ケニヤッタ(翌年から大統領)。

ケニヤッタは表面上マウマウとの関係を否定、「フーリガンにケニアを治めさせてはならない・・・・・マウマウは病であり・・・・・二度と思い出してはならない」と述べ、穏健派の立場を貫く。

外交面でも親西側路線を採用、土地国有化と社会主義陣営への接近を主張した副大統領オディンガは逮捕、投獄。

独立後はケニア・アフリカ人全国同盟(KANU)が事実上の一党支配を敷き、大統領権限が拡大するなど、権威主義体制が確立。

比較的順調な経済成長を遂げたが、それには格差の拡大という代償が伴った。

「独立の父」が急進的外交姿勢で東側諸国に接近、内政では社会主義的政策で経済が停滞、その内どうにもならなくなって、右派権威主義政権に交替、親米路線と市場主義的改革で経済状況は改善するが、社会的不平等は拡大し、政治的自由は相変わらず制限されるというのが、第三世界のよくあるパターンだが、ケニアは最初から後者の段階だったという珍しいケースな訳である。

まあ、あくまで相対比較で言えば、少なくともケニヤッタ政権はそう悪しざまに言うほどでもなかったと思える。

ただ、その後正常な議会政治にスムーズに移行できなかったのは残念である。

1978年ケニヤッタが死去、モイが後継。

候補の写真の前に並ぶことで「投票」するという、秘密投票を侵す「行列方式」選挙の導入など、一層の強権化を実行。

冷戦終結後の世界的な「民主化」潮流で、複数政党制が復活したが、野党勢力の分裂もあって、モイが再選。

90年代にはこれまで押さえつけられていた民族紛争が勃発。

モイが退任した後、初代大統領ケニヤッタの実子ウフル・ケニヤッタを後継指名すると与党KANUは分裂、2002年平和的政権交代が実現し、キバキ政権が成立。

ところがキバキ政権内部で対立が激化、2007年キバキ再選後、大規模暴動が勃発。

国際社会の和解勧告を受け、大統領権限の縮小と三権分立の徹底を特徴とする新憲法が制定。

外務省HPを見ると、2013年には上記ウフル・ケニヤッタが大統領に就任しているようだ。

アフリカ諸国では例外的に安定した国だったが、最近の情勢は必ずしもそうではない模様。

 

 

ごく大まかなことだけわかればよい。

本書も軽く流してよし。

2016年11月25日

ドストエフスキー 『罪と罰 全3巻』 (光文社古典新訳文庫)

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およそ20年振りの再読だが、初読の際と同様の感動がよみがえってきた。

今回気付いたのは、圧倒的な読みやすさ。

分量が全く気にならず、次から次へとページを手繰らせる力をこの作品は持っている。

表現法とストーリーの構成力、登場人物の個性描写など、小説技法の面がとにかく素晴らしい。

内容面の充実とあわせて、とにかく完璧な作品だと言うしかない。

以前読んだ時は今よりも大長編への耐性が乏しかったはずで、それでもほぼ一気に読んだ記憶があるが、その印象は間違ってなかった。

「30冊で読む世界文学」でこれを選んだのはやはり正解だった。

登場人物も極めて印象的。

自己犠牲を貫く気高いソーニャ、ラスコーリニコフの妹で美しく聡明なドゥーニャ、ドゥーニャの婚約者で低劣な俗物ルージン、主人公唯一の友人で高潔な好漢ラズミーヒン、主人公を追い詰める怜悧で鋭敏な予審判事ポルフィーリー、皮相で愚かな進歩派で戯画的に描かれてはいるがルージンの卑劣な行為に対して高潔な行動を採るレベジャートニコフなど。

ただ、得体の知れない奇怪な悪の化身という感じの人物、スヴィドリガイロフについては、初読の際ほど強い印象は受けなかった。

 

とにかくすごい。

世界文学に少しでも関心があって、これを読まないのはあり得ない。

再読の評価は「5」。

それ以外にあり得ない。

しかも通読難易度は、この長さにも関わらず、「易」を付けることができる。

どんな初心者にも勧めることができる稀有な古典。

2016年11月4日

坂野潤治 『日本近代史』 (ちくま新書)

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1857年から1937年までの80年間の近代日本史を独自の切り口と史観で叙述した本。

 

時代区分は以下の通り。

1.1857~1863年  「改革」 公武合体

2.1863~1871年  「革命」 尊王倒幕

3.1871~1880年  「建設」 殖産興業

4.1880~1893年  「運用」 明治立憲制

5.1894~1924年  「再編」 大正デモクラシー

6.1925~1937年  「危機」 昭和ファシズム

 

本書の対象外だが、1937年以降は「崩壊の時代」となる。

とにかく内容が濃い。

いつもの調子でメモを取っていると、一体どれくらいの長さの記事になるのか見当がつかないので、「どうしてもここだけは」というくらい印象深い文章を引用し、論旨の骨格だけを示すことにします(と言ってもやはりとんでもない長さになりましたが)。

 

 

まず第一章。

 

ペリー来航(一八五三年)に象徴される欧米列強の軍事的圧力は、日本古来の伝統(「尊王」)と二五〇年余にわたるもう一つの伝統(「攘夷」)を結びつけた。この二つの「伝統」が「水戸学」や吉田松陰などにより「尊王攘夷」という一つの「国是」に合体した時、日本に強固な原理主義が登場したのである。

・・・・・・

「尊王攘夷」と「佐幕開国」の対立を克服することは、きわめて困難な課題であった。それは対外政策の基本的な対立であっただけではなく、「尊王」か「佐幕」かという国内政治体制の根本的な対立でもあったからである。一八五三年のペリー来航から六八年の明治維新までの一五年間の日本は、この二つの根本対立の落としどころを求めて、悪戦苦闘しつづけたのである。

・・・・・「公武合体」と「尊王攘夷」の二つの幕府批判勢力が正面から衝突した、一八六三(文久三)年から六四(元治元)年の時期・・・・・幕府支持の会津藩と公武合体論の薩摩藩が手を結んで、尊王攘夷の長州藩の孤立化を謀った・・・・・「文久三年八月一八日の政変」と「禁門の変」(一八六四年)の名で知られる事件である。

しかしこれでは、かつての「佐幕開国」が「公武合体開国」に替わっただけで、「尊王」と「攘夷」の二つの「国是」は長州藩が握りつづける。長州藩一藩では、軍事力でも経済力でも、幕府と有力諸藩の連合には敵わないことは明らかである。二つの「国是」を守ろうとする長州藩には、反「開国」派と反幕府派の双方が同情を寄せていた。一八六四年の禁門の変で長州藩に「朝敵」の汚名を負わせただけでは、「尊王攘夷」問題を消滅させることはできなかったのである。

唯一の解決策は、「攘夷」か「開国」かの問題を棚上げにして、「尊王」か「佐幕」かに選択肢を絞り込むことであった。そうなれば薩摩と長州は「尊王倒幕」で手を握ることができる。日本古来の「国是」であった「尊王」によって、たかが二五〇年来の「国是」にすぎない「鎖国」を包み込むことができれば、「公武合体」を重視する有力大名が幕府を支持する根拠は薄くなる。

「開国」―「攘夷」の対立が棚上げされた時には、有力大名の声を重視せよという「公武合体」の要求は、大名だけではなく、有力家臣の意向も尊重せよという「公議輿論」の要求に発展してきた。こうして「尊王倒幕」と「公議輿論」が有力大名とその藩士たちの共通のスローガンになった時、「悪戦苦闘」・・・・・は終わりを告げ、事態は明治維新に向けて急転回していく。筆者の仮説は、その時点は一八六四年にあり、その推進者は薩摩藩の西郷隆盛だった、というものである。

 

 

 

第二章。

 

一八六七(慶応三)年六月の薩土盟約、一〇月の大政奉還、一二月(一八六八年一月)の王政復古までの半年間は、改革派も保守派も一つの枠組みの両端で動いていた。権力の頂点に天皇がつき、その下に公卿と、徳川慶喜をも含めた有力大名(もしくはその代行)が上院を構成し、彼らの家臣で改革の実践的部分であった者たちが下院を構成するという新体制構想が、大枠になっていたのである。

この大枠を右の極点に行けば、すでに紹介した一八六三(文久三)年末の「参預制」に似てくる。参預制の時には将軍は将軍のままで有力大名の意見を尊重するので、「大政奉還」以後とは制度としては大きく異なる。しかし、「大政奉還」に続く「王政復古」で打ち出された総裁、議定、参与の「三職制」のナンバー・ツー(たとえば「副総裁」か「議定筆頭」)に徳川慶喜がつくとすれば、それは実質的にはかつての「参預制」とほとんど変わらない。「徳川八百万石」、「旗本八千騎」といわれた徳川家の長として、慶喜が「議定筆頭」の地位を新政府内で占めれば、「参与」にしかなれなかった薩長の下級武士には対抗策はありえない。幕末期を通じて「改革派」の有力大名が唱えてきた「公武合体」が完成してしまうのである。

他方、「参与」という中央政府の最下位にしかなれない(あるいは「薩土盟約」段階では「下院」議員にしかなれない)薩長土三藩の下級武士たちにとっては、この大枠を左の極点まで推し進めて、「参与」=「下院」が実権を握れるようにする必要があった。しかも一八六四(元治元)年に西郷隆盛が島津久光の弾圧をはねのけて五年間の流刑から帰藩して以後は、「下級武士」は有力藩の「軍部」と同義語になってきた。一八六四年に薩摩藩の軍賦役になった西郷隆盛と軍役奉行になった伊地知正治の鳥羽・伏見戦役以後の活躍を見れば、このことはおのずから明らかになる。

同様のことは、一八六六(慶応二)年初頭の薩長同盟以後の長州藩における品川弥二郎や大村益次郎の活躍についても言える。「下院」が「参与」になり、さらには「軍部」になっていったのである。さらに、藩の中心が慶喜の「公武合体」路線の中心的支持者であった土佐藩においても、前藩主の山内容堂や参政の後藤象二郎に対抗して、土佐藩「軍部」の板垣退助や谷干城らが、薩長両藩の「軍部」との提携に努めはじめていた。

・・・・・・

のちに明治元年となる慶応四年一月の明治新政権は、このような「右」と「左」の二大勢力の対立の上に、文字通り右往左往していたのである。

・・・・・・

一八七一(明治四)年七月の廃藩置県の断行は、一八六四(元治元)年頃に始まった「革命の時代」の終焉を告げるものであった。当初の議会構想のうち、上院を構成するはずだった藩主層の発言力は次第に後退し、ついには藩自体が解体させられたのである。幕府を倒し、藩体制をも倒した時、下級武士を指導者とする幕末・維新革命は完了した。

しかし、革命の完了だけでは新体制はできあがらない。時代は「革命」から「建設」へと大きく変化していく。しかも「革命」期の指導者の資質と「建設」時代のそれとは別ものであった。西郷隆盛の時代もまた終わろうとしていたのである。

 

 

 

第三章。

 

それぞれの国家目標に基づく、「富国」派の大久保利通(と大隈重信)、「強兵」派の西郷隆盛(と山県有朋)、「憲法」派の木戸孝允(と井上馨)、「議会」派の板垣退助、という以上四派の合従連衡・消長盛衰で明治初期の政治を分析する。

岩倉使節団が「富国」「憲法」派、留守政府が「強兵」「議会」派。

維新と戊辰戦争を遂行した「軍部」の発言権増大を背景にまず「強兵」派が突出。

それが朝鮮・台湾・樺太という三つの対外問題で噴出。

ただし薩摩出身者を中心とする「強兵」派の外征論も、どの地域で強硬策に出るかで対立あり。

まず1873(明治六)年、征韓論政変で西郷・板垣の「強兵」派・「議会」派が下野。

翌74年、「富国」派大久保が「強兵」派との妥協で、台湾出兵を実行。

これに反発して、代わりに「憲法」派の木戸が下野。

だが、大久保は、懸念された日清開戦を回避することに成功。

75年、大阪会議で木戸と板垣が一時政府復帰、「富国」「憲法」「議会」三派が結集、同年江華島事件と翌年日朝修好条規締結で、日朝関係も戦争に至ることなく小康状態へ(加えて樺太・千島交換条約も結ばれる)。

対外危機の終息で外征論という梃子を失った「強兵」派は政府外で孤立した挙句に西南戦争で鎮圧、立憲制樹立についての急進論か漸進論かで、「憲法」派木戸と「議会」派板垣は決裂、その結果「富国」派全盛の「大久保独裁」とも言われる情勢がもたらされ、「殖産興業」のスローガンの下、国家主導の工業育成政策が遂行される。

しかし、大久保のこの「殖産興業」は、それらの成否とは直接関係のない税収減から、彼の死の二年後には完全に行き詰った。一八八七(明治二〇)年までの日本の直接税は、土地所有者に掛けられる「地租」だけであり、しかも金納固定税であった。

・・・・この制度の下では税金に物価スライド性が全くないから、不景気の時には財政が豊かになり、好景気の下では租税の実収は減少する。極端な言い方をすれば、財政の健全化を計ろうとすれば、デフレ政策を採用するしかないシステムだったのである。

・・・・・・

西南戦争の戦費調達と、物価騰貴による地租収入の半減とを原因とする財政危機の打開策で、一番簡単で有効なのは、地租の増徴だったであろう。しかし、明治政府は独裁国家ではなかった。・・・・・地租がただ一つの直接税であり、その増税は北海道から沖縄まですべての土地所有農民に一律に影響する・・・・・納税者の間に利害対立が全く存在しなかったのである。そのような増税は、普通の「独裁国家」では断行しきれないであろう。

・・・・・・

巨額の不換紙幣を抱えた政府が、物価騰貴による税収減に直面し、しかも増税が不可能だったとすれば、「富国」派の存続はもはや不可能だった。一八八〇(明治一三)年一一月に・・・・公布された・・・・工場払下条例・・・・とは、「富国」派の挫折を象徴するものであった。

「富国派」「強兵派」「憲法派」「議会派」の四者の路線対立を軸に描いてきた「建設の時代」は、一八八〇年をもって終焉したのである。

 

 

 

第四章。

 

「士族民権」に刺激を受け、地租を負担する農村地主層の「農民民権」が台頭。

それへの対応をめぐり、政府内で、二つの路線が対立。

緊縮・デフレ政策を断行し、デフレで加重された地租軽減を求めるであろう議会の権限を制限しようとする松方財政および井上毅のプロイセン型憲法論で、岩倉具視、伊藤博文が支持。

そして、「殖産興業」路線を継続して台頭する「農民民権」の支持を獲得・与党化し、その上に立って議院内閣制を樹立しようとするのが大隈重信と在野の福沢諭吉ら交詢社系などの知識人。

一方、板垣退助、植木枝盛らは、直接の政権参加自体を目指さない、「拒否権型議会主義」を提唱、大隈・福沢路線と対立。

・・・・・両者の対立は「自由民権運動」と総称される運動の中での、指導部と支持者の対立であった。さらに言えば、交詢社という福沢諭吉が率いる都市知識人と、板垣退助率いる元祖民権結社とが、新たに台頭してきた「農民民権」の支持獲得を争ったのが、一八八一(明治一四)年の政治状況であった。そして、この二つの国会開設論者の競合の中に新たに割り込んできたのが、井上毅らの保守的立憲制論者だったのである。

この三つ巴の立憲制論の競合を想定してみると、「明治一四年の政変」と呼ばれる同年一〇月の大隈・福沢派の敗北の理由が透けて見えてくる。保守派の井上毅と急進派の板垣退助や植木枝盛の間には、憲法による行政権の制限を求めないという共通性があったからである。

・・・・・・

この右と左の奇妙な棲み分けが、大隈・福沢路線の敗北をもたらした。政府の側では大隈とその系列の中堅官吏が罷免され、運動の側では憲法ではなく議会掌握を重視する板垣退助が勝利したのである。「明治一四年の政変」(一〇月一二日)と自由党の結党(一〇月一八日)がそれである。

・・・・・・

これらの都市型知識人たちは、政府内部の国会開設論者の大隈重信と在野の板垣退助を結合させて、伊藤博文や井上毅に代表される保守的な政府指導者を一掃することをめざしていた。しかるに板垣は彼らの要望を一蹴して、政党結成の地盤作り・・・・に向かったのである。

・・・・・保守派と急進派が生き残り、その中間に位置したリベラル派が、政府内と運動内での勢力を一挙に喪失したのである。

議会開設前の大同団結運動においても、板垣らの「拒否権型議会」論が大隈らの「参画型議会」論に対し優勢を維持、最初の総選挙で自由党が改進党の三倍の議席を獲得。

その結果、国会運営は困難を極める。

明治憲法の欠陥としては、第十一条の統帥権独立と第五十五条の国務大臣単独責任制がよく指摘されるが、憲法制定当初、問題になったのは第六十七条の「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出(中略)ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」という条文。

衆議院の行政費・軍事費削減要求はこの六十七条を盾に政府が拒否、政府の地租増徴要求は衆議院が拒否。

政府と衆議院とが正面衝突している限り、歳出と歳入はともに減らないかわりに、ともに増えないのである。

一八九〇(明治二三)年に発足した日本の立憲制は、一九〇〇(明治三三)年に維新の元勲伊藤博文と、板垣退助率いる自由党(憲政党)とが大連合を組んで立憲政友会を結成するまでの一〇年間、この憲法体制の着地点を探って模索を続けた。いわば作文にすぎなかった憲法条項を、「運用」の観点から、政府と衆議院の双方が試行錯誤を繰り返したのである。

星亨ら自由党内の現実主義派は、「民力休養」「地租軽減」をあきらめて公共事業拡充を意味する「民力育成」への転換を模索し、日清戦争直前、一八九三(明治二六)年の「和協の詔勅」がその機会を提供した。

・・・・・詔勅の言う「和協」、すなわち行政府と立法府の「和協」を、政治的にどう実現するか・・・・・論理的には、両者の提携による「大連立」か、両者を縦に二分する二大政党制以外の選択肢はなかった。

前者の「大連立」方式を採れば、戦後のわれわれが長く経験してきた、官僚と与党との恒常的提携、すなわち「五五年体制」とか「自民党の一党優位制」のようなものになる。逆に後者の途を採れば、伊藤博文系官僚と自由党(憲政党)が結んだ一九〇〇(明治三三)年の立憲政友会と、保守系の山県有朋系の官僚と(名称はたびたび変わるが)改進党の後身とが結んだ立憲同志会との間の二大政党制になる。

面倒なのは、保守系の山県系から出た桂太郎が結成した立憲同志会(一九一三年)が、伊藤博文や西園寺公望の後を継いだ原敬の立憲政友会にくらべて、より自由主義的だったことである。軍部と官僚閥の牛耳をとってきた山県閥が、より自由主義的だった伊藤、西園寺、原の率いる政友会よりも、自由主義的な政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を結成してしまったのである。

このため今日においても、「大正デモクラシー」という言葉を聴いて、立憲政友会の「平民宰相」原敬を想起するか、それにとって代わってロンドン海軍軍縮を実現した、立憲民政党の浜口雄幸を思い出すかは、人それぞれという状況が続いている。この千差万別の歴史認識はニ一世紀の日本をリードする政界や言論界においても、継承されている。

 

 

 

第五章。

 

藩閥官僚と、農村地主を地盤とする自由党(憲政党・政友会)の妥協により、日本の議会政治は軌道に乗った。

その際、自由党がその綱領を「地租減税」から「積極主義」に変更したことが梃子となった。

著者によれば、次の課題は都市商工業者、労働者、小作農にも普通選挙制で参政権を与え、二大政党制を確立することだった。

日清・日露の擬似的総力戦によって、一体感と平等意識を強めた国民各層がそれを求める。

さらに当初劣勢だった立憲改進党(→進歩党→憲政本党→国民党と党名変更)も党勢を自由党系に匹敵するまでに高めてきた。

だが、政友会最大の実力者原敬は、桂園時代に典型的に見られるように、政友会一党優位制を維持し、自党と藩閥官僚との協力による政治運営を継続することを目指していた。

戦前日本の官僚と農村地主の結合の中心になったのは、一九〇〇(明治三三)年に藩閥政治家の伊藤博文を総裁に戴いて、かつての自由民権家たちが結成した立憲政友会であった。そして、自由党(憲政党)を率いてこの立憲政友会を結成させた中心的指導者が星亨であり、星が創った政友会を安定的な大政党に築き上げたのが、今日もなお「大正デモクラシー」を代表する政党人と誤解されつづけている、平民宰相原敬である。・・・・・原敬は一九ニ一(大正一〇)年に非業の死を遂げるまで、二大政党制と普通選挙制に反対しつづけて「再編の時代」を阻みつづけた、保守的な政党人だったのである。

この文章に見られるように、著者の原に対する評価は決して高くない。

陸軍の突出した自己主張によって、その山県系官僚閥と政友会との「官民調和体制」が破綻したのが大正政変。

「大正政変」は、陸軍、海軍、政友会、金融界、実業界、都市中下層などの多様な利害対立の複合によってもたらされたものである。陸軍と官僚層と貴族院を握る藩閥勢力と、「積極主義」を掲げて農村地主を味方につけた政友会との協調だけでは、これらの諸利害の調整がつかなくなってきたのである。本章の表題たる「再編」の時代がようやく始まったのである。

だが、この第一次護憲運動は、著者によれば、以下のような「ねじれ」を抱えていた。

「閥族」の代表桂太郎との間で政権のたらい回しを長年続けてきた政友会、財政悪化の責任を陸軍や海軍と同様に背負うべき政友会が、一朝にして「閥族打破・憲政擁護」の推進者に転じたのである。変革されるべき対象が変革の先頭に立っているような運動の成果は初めから限られていたのである。

政友会が「閥族打破」の先頭に立ったことは、政友会に代わって政権を担当しようとしてきた野党国民党にも打撃を与えた。政権担当意欲の強かった「改革派」と呼ばれた主流派が、かつて自由党が「閥族」の伊藤博文と合体して政友会を結成したように、国民的非難の的になっていた「閥族」の桂太郎の新政党(のちの立憲同志会)に馳せ参じたのである。

続いて成立した海軍と政友会の連立内閣である山本権兵衛内閣がシーメンス事件で倒れ、大隈内閣成立。

この内閣によって「再編の時代」が本格的に到来したと著者は述べる。

原敬の政友会一党優位制の没落、立憲同志会の与党化と総選挙での大勝による二大政党制の確立がその理由。

だが大隈内閣は二十一ヵ条要求という失策を犯し、大戦景気で富裕化した農村地主の支持を回復し政友会が勢力回復。

続いたのは寺内正毅超然内閣だが、外交面では、強硬な対中政策を転換し、対米協調重視に向かい、幣原喜重郎外務次官、田中義一参謀次長を留任させ、この方針転換を実施させたこともあり、著者の評価は意外にも高い。

米騒動の後成立した、「本格的政党内閣」原敬政友会政権は、先に述べたように普通選挙制と二大政党制に反対。

1921年原敬暗殺、高橋是清内閣の後、22年海軍の加藤友三郎内閣が後継になったことは、桂園時代以来、政友会の常套的手法で、その後の政権返還を見越したものとも考えられた。

しかし、政友会を原から継いだ高橋是清は参謀本部廃止論を唱えたこともあり、元老の信頼が無く、第二次山本内閣、清浦奎吾内閣と非政党内閣が続く。

ここで高橋政友会は方針を転換、清浦与党となった政友本党の分離を甘受しても、憲政会(1916年立憲同志会が改称)と第二次護憲運動を展開、その結果護憲三派の加藤高明内閣成立、普通選挙が実現。

 

 

 

第六章。

 

1920年代前半、原・高橋の政友会は、国内では普通選挙に反対する一方、外交面ではワシントン体制へ参加し、国際協調主義を遵守していた。

一方、加藤高明の憲政会は、普通選挙を主張する一方で、対華二十一ヵ条の要求を依然として正当視する側面を持っていた。

・・・・以上・・・・比較すれば・・・・国内の民主化については憲政会が、対外政策については政友会の方が、進歩的だったことが明らかになる。細かい留保をつけずに単純化すれば、「平和と民主主義」を両党が分かち合っていたということができよう。

このような状況の下で二大政党制が成立すれば、「危機の時代」にはならなかったであろう。政友会と憲政会のどちらが政権についても、「平和」か「民主主義」のどちらかが担保されるという二大政党制は、面白味には欠けても、極端な右傾化はもたらさないからである。

(個人的には、「極端な右傾化」をもたらしたのは「民主化の進展」と「民意の暴走」自体が主因であろうし、この観察はやや表面的にも思えるが、見方としては面白い。)

だが、護憲三派内閣成立を機に、憲政会は幣原外交の国際協調主義と中国内政不干渉政策を採用、その対外路線は著しく穏健化。

一方、原・高橋の跡を継いだ田中義一総裁の下、政友会はその内外政策を大きく右傾化させる。

以上により明らかなように、護憲三派内閣から政友会が離脱した一九ニ五(大正一四)年七月末以来、憲政会(民政党)と政友会の対立点は、外政においても内政においても、明確になってきた。正確に言うためにはいくつかの留保をつけなければならないが、単純化して言えば、「平和と民主主義」の憲政会(民政党)と、「侵略と天皇主義」の政友会の、二大政党制が発足したのである。

二大政党間の相違が曖昧な方がいいのか、鮮明な方がいいのかは、一般的には断定できない。「保守党」と「自由党」の対立幅が小さいことにイギリスの二大政党制の利点を見出したのは、一八七九(明治一二)年の福沢諭吉であった・・・・・

第一次大戦後から一九三二(昭和七)年の五・一五事件までの十数年間の政治においては、政友会と憲政会(民政党)が内政と外交において一長一短であった一九二〇年代前半の時代の方が、政治の安定と進歩に役立ったように思われる。両党のどちらが勝っても、「平和」か「民主化」の一つは担保されるからである。反対に、憲政会(民政党)が勝てば「平和と民主主義」が、政友会が勝てば「侵略と天皇主義」が強調されるという一九二五年から三二年にかけての二大政党制は、政党政治だけではなく、日本国家そのものを「危機の時代」に導いた一因だったように思われる。

二大政党の政策分極化は経済政策の面でも存在し、しかもこの場合、憲政会(民政党)がよりによって恐慌時に緊縮財政と金解禁を実施するという根本的に間違った態度を採り、社会不安と政治危機を深刻化させた一方、政友会の方は元総裁高橋是清の主導で積極財政を採用し、経済危機を克服するという現象が生まれる。

(はっきりとした記述は無いが、この経済政策の面での政友会優位は、たぶん著者は肯定的には評価していないでしょう。むしろ[著者の言う]民政党の「平和と民主主義」への支持を失墜させる効果しか無かったでしょうから。)

そして、昭和戦前期の危機をもたらす直接的原因となった軍部の急進的中堅将校に関する記述を以下に引用。

陸海軍青年将校と民間右翼の横断的結合は、本書第1章で検討した幕末期の薩長土三藩の下級武士と脱藩浪士の横断的結合と、形の上では酷似している。しかし、国が上昇過程に入った時と下降局面に入った時とでは、「下剋上」のもたらす結果が全く異なる。古めかしい表現を使えば、明治維新が「革命」であったのに対し、昭和維新は「反革命」だったのである。

「革命」か「反革命」かを分けるのは、「天皇制」の問題ではない。幕末の「開国」か「攘夷」かの対立にもかかわらず、明治維新に向かうすべての革命勢力は、「尊王」だけでは一致していたのである。この点では、明治維新と昭和維新の間には、相違点は見出せない。

両者の大きな相違は、対抗エリートの質の問題である。上昇局面では、その時代の最高の知識人だちが「対抗エリート」を補佐した。すでに第1章で記したように、幕末期の島津斉彬の下には、雄藩大名だけではなく、時の中央政府(幕府)の一流の洋学者たちが馳せ参じた。斉彬の遺志を受け継いだ西郷隆盛も、勝海舟を介して、横井小楠、大久保一翁ら幕府系知識人の最先端の知見を吸収していた。「尊王攘夷」の方で有名な幕末の志士たちは、実は「開国進取」の最先端を走っていたのである。・・・・・・天皇親政を唱える陸軍青年将校の導師になった・・・反西欧で軍隊の力しか信じられなくなった北一輝には、幕末の西郷隆盛の欧米認識もなければ、「開国派」から「攘夷派」に及ぶ西郷の幅広い人脈もなかった。

1931年、経済恐慌と国内の軍事クーデタの脅威、満州での対外紛争という三重の危機が日本を襲う。

第二次若槻礼次郎民政党内閣はこれに有効に対処できず。

ここで生まれたのが、政友会・民政党大連立構想である。

同じ頃、同じ民政党内閣の内務大臣安達謙蔵は、一〇月事件に象徴される軍部のクー・デターと民間右翼のテロの脅威を重視していた。そしてこれらの動きの背後には、金本位制への復帰による農民の生活難と労働者の失業増大という社会不安が存在していた。青年将校の動きを抑え、社会不安の原因である金本位制を廃止するために安達が唱えたのは、民政党と政友会の大連立(「協力内閣」)であった。

昭和初年の日本政治は二大政党制とそれに対する青年将校らの攻撃で知られているが、幣原外交と並ぶ民政党内閣のもう一つの看板であった井上(準之助)財政の放棄を前提にした政民大連立構想は、民政党にとっては有力な選択肢の一つであった。

・・・・・・

もちろん、安達の協力内閣が実現したら、海軍青年将校による五・一五事件が起こらなかったという保証は、どこにもなかった。・・・・・五・一五事件の勃発を止めることは誰にもできなかったと思われる。しかし、安達の言うとおり民政党と政友会を併せて衆議院に約九八パーセントを占める「協力内閣」の首相を海軍青年将校が射殺したとして、それで日本の政党内閣の息の根を止められたであろうか。

しかし、井上準之助蔵相の金本位制へのこだわりが、この協力内閣を不可能にした。・・・・・木戸幸一らと会談した井上蔵相は、金本位制の問題には全く答えず、軍部批判の観点から協力内閣構想を否定している。

・・・・・堂々たる正論であるが・・・・井上がこだわった金本位制の下で、農民や労働者の生活は困窮をきわめ、それがこの三ヵ月後の総選挙での民政党の惨敗の原因となったことは、周知のとおりである。状況をわきまえない「正論」は、政党を奈落の底に追い落とすこともあるのである。

他の本では、この協力内閣構想は実現性に乏しく、またその目的も軍部掣肘の為ではなく、軍に迎合する意図があるものとして、否定する記述をいくつか見ている。

だが、著者は、この政民大連立政権が流れたことを軍部抑制の好機を逸したものと惜しんでいるようだ。

私も、戦前日本が最終的に陥った無残な破局を見ると、(安達自身かなりキナ臭い人物の感があるものの)とにかく何でも試してみたら良かったんじゃないか、後述の宇垣流産内閣よりはひょっとしたら可能性があったんじゃないか、と思っている。

32年陸軍の意向に押され気味の犬養内閣下での総選挙で政友会は圧勝したが、荒木貞夫の陸相就任で一時行動を控えた陸軍急進派に飽き足らない海軍青年将校が五・一五事件を起こし、犬養内閣は倒れ、政党政治も終焉。

以下、同じ坂野氏の『昭和史の決定的瞬間』と内容が重複するが、簡略にメモ。

後継の斎藤実挙国一致内閣で、荒木の陸相留任による陸軍の革新運動の一時的沈静化、高橋財政による経済恐慌克服、満州国承認と連盟脱退の後の国際的小康状態により、三重の危機は一応終息。

こうなると、二大政党をはじめとする各政治勢力が再度自己主張を強める。

一九三四(昭和九)年七月に成立した海軍退役将軍岡田啓介の内閣は、前の斎藤実内閣とは違って、「挙国一致内閣」ではなかった。過半数政党の政友会が「憲政の常道」に反するとして、同党からの入閣者(床次竹次郎・・・・)を除名して、野党の立場を鮮明にしたからである。

政友会は陸軍皇道派と結び「天皇機関説問題」で岡田内閣を攻撃、民政党は逆にひとまずは合法路線を守る陸軍統制派に接近。

議会内で劣勢の民政党は、「内閣審議会」と「内閣調査局」という議会外の機関を設置して、社会政策を推進する姿勢を見せ、革新官僚や合法無産政党である社会大衆党の支持も引き寄せようとする。

こうしてみてくると、岡田内閣は、民政党と陸軍統制派と新官僚と社会大衆党の支持を得て、過半数政党政友会と陸軍皇道派を敵に廻した内閣だったことがわかる。問題はこのような政治状況をどう評価するかにある。

筆者には、政治社会に一種の液状化が生じていたように思われる。陸軍も政党も官僚もそれぞれの内部に分裂が生じており、政治勢力というものが細分化されていた。細分化されたいくつかの勢力を寄せ集めて一時的に多数派を形成することはできても、中期的に安定した政権をつくることは困難になってきたのである。

「余の承知する政治の過程においては、維新後、薩長土肥の争いより、官僚―政党の争いに、次に二大政党の対立となりしが、現在では、政党―軍部―官僚―左傾―右傾、なお進んで政友会の内争、民政の提携非提携の抗争、軍部内派閥の闘争等と、如何にも争いが小キザミと成り来れり。・・・・・」(『宇垣一成日記』・・・・)

宇垣の言う「右傾」は、北一輝や西田税などの民間右翼を指し、「左傾」は先に見た亀井貫一郎らの社会大衆党を意味すると解していいであろう(本当の「左傾」は治安維持法によって、すでに根絶させられていた)。そうなると岡田内閣下の政治地図には、政友会が二派、民政党が二派、陸軍が二派、官僚が二派、左右両極が二派、合わせて一〇派の政治勢力が描かれていたことになる。

このような状況下では、政治の安定を望むべくもないことは、言うまでもない。しかし、ことはそれにとどまらなかったように思われる。支配諸勢力が一〇に分かれるということは、各派のトップだけをとっても、一〇人の指導者がいたことになる。そのような状況は、政治エリートの質の低下をもたらさざるをえない。

宇垣が明治維新以後の政治対立の歴史として描いたもののうち、「薩長土肥」でトップは四人、「官僚―政党の争い」では二人、「二大政党の対立」でも二人である。それが一挙に一〇人に増え、政治対立の組合せも倍増ではすまなくなったのである。一九三五年の日本政治は、政界の不安定化とエリートの質の低下に直面していたのである。

1936年総選挙で民政党が圧勝、社会大衆党躍進、政友会惨敗。

だが、その直後に二・二六事件勃発。

・・・・・宮中と政府の中枢を担ってきた「重臣ブロック」は、反乱によって壊滅的な打撃を受けた。「重臣ブロック」が、民政党と陸軍統制派の支持を受けて右翼的な二大勢力(陸軍皇道派と政友会)を抑え込むというシナリオは、二・二六事件によって崩壊したのである。

しかし、陸軍皇道派と青年将校が政友会の支持を得て一挙に軍事政権を樹立することも、同じく不可能であった。

広範な国民的支持も無く蜂起した青年将校は、昭和天皇個人の激怒も蒙り、鎮圧される。

続く広田弘毅内閣は、五・一五事件後の斎藤内閣と同じ性格の挙国一致政権。

皇道派が排除された後、陸軍の新統制派による国政壟断の気配が強まると、政友会でも反軍的姿勢が強まり、政民連携派が優勢になる。

その表われが、1937年初頭の宇垣内閣実現への動き。

しかし、この期に及んでも、政民二大政党は団結することができず、陸軍の拒否の前に、あえなく宇垣は組閣を断念。

成立したのは、陸軍と財界にのみ支持基盤を置く林銑十郎内閣。

その下で行われた総選挙では政・民両党が拮抗、社大党が再度躍進。

国内体制変革を含む「広義国防」をスローガンにして、統制派と接近して一時親軍的傾向を持っていた社大党だが、この時期には、総力戦準備の為に財界と妥協し、経済・社会機構改革を放棄した(「狭義国防」)陸軍を批判しており、その躍進は反軍的な民意の反映だ、と著者は判断している。

しかし、その後成立した近衛文麿内閣の下で、盧溝橋事件が勃発、泥沼の日中全面戦争と自爆的な日米開戦へと日本は向かうことになる。

本書は、日本が「崩壊の時代」に突入する1937年にて幕を閉じる。

・・・・「崩壊の時代」を避けることはできなかったろうか。流産した宇垣一成の内閣ならば、回避できたかも知れない。宇垣には陸軍の一部と衆議院の多数の支持があり、宇垣も民政党も政友会も、ファッショと戦争に反対していた。その宇垣の内閣を流産させた石原莞爾の「狭義国防」路線でも、日中全面戦争は回避できたかも知れない。これから五年かけて対ソ戦準備のために、飛行機と戦車とそのための重化学工業を育成しようとして財閥の協力も獲得したものが、その前に日中全面戦争に突入したとは思えないからである。戦争勃発後の石原の日中和平交渉はよく知られている事実である。

しかし、この二つの内閣または内閣構想の挫折の後を受けて、一九三七年六月四日に成立した第一次近衛文麿内閣は、成立と同時に、「従来のような対立相克を国内で続けて行くのは、国外で侮りを受ける。出来るだけ相克摩擦を緩和して行きたい」という談話を発表した・・・・。当時の言論界は、これを「国内対立相克の緩和」と標語化した。その標語どおり、近衛内閣は、民政党や政友会だけでなく、財界からも新官僚からも入閣者を得、陸軍も社会大衆党もそれを支持した。すでにたびたび使ってきた表現によれば、それは「小キザミ」化した諸政治勢力のすべてを包摂した内閣であった。

すべての政治勢力に支持された内閣には、基本路線もなければ信頼できる与党的勢力もない。その時々の状況により、右に行ったり、中道に行ったり、左に行くしかない内閣構成だったのである。そのような内閣の成立後約一ヵ月で、・・・・日中全面戦争の危機が生じたのである。「危機の時代」が懐かしくなるような「崩壊の時代」が始まったのである。

・・・・「崩壊の時代」に入っていった最大の原因は、すでに国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからである。そしてこの四分五裂状態は、一九三二年以来五年がかりで深められてきたものであり、いわば勝者なき分裂状態に陥っていた。近衛内閣はこの分裂状態を克服しないで固定化し、そのまますべてを包摂してしまった。日中戦争を途中で停めたり、日英米戦争を回避したりするための政治体制の再編をめざす指導者は、もはや存在しなかったのである。

 

 

 

本書の刊行は2012年である。

東日本大震災の後、戦後復興を成し遂げたことを思い起こして、震災後の復興に積極的に取り組もうとの論調に接した著者は、しかし震災後の我が国は本書の末尾にある1937年の戦前日本、「崩壊の時代」の入り口にいるのではないか、との不吉な予感を述べる。

確かにそう思えないでもありません。

衆愚的国民が形作る「世論」とそれを秘かに誘導する煽動者が絶対的支配者となり、皮相な「多数派意見」以外のあらゆる価値が相対化され、あらゆる極論の蔓延で政治勢力は「四分五裂」し、国家の運営は大衆の「気分」次第で迷走するばかり。

これで国が滅びなければ、相当の幸運です。

もう、いかなる楽観も許されない時代に入ったな、との予感はあります。

たとえ何があっても、結局それが日本の運命なんだと受け入れるしかないでしょう。

 

 

 

刊行当時から常に気にしてきた著作をついに読んだが、やはり圧倒的に素晴らしい。

この人の本には、全くハズレというものがない。

一通りの史実が頭に入っていないとあまり強い印象は受けないかもしれないが、私を含め中級者クラスなら、あまりの面白さに驚倒するでしょう。

絶対にお勧めです。

2016年11月2日

横手慎二 『スターリン  「非道の独裁者」の実像』 (中公新書)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 02:00

ごくごくオーソドックスな形式の伝記。

史的解釈においても極論を避け、至極穏当な見方を導き出している。

読みやすいが、特筆すべき点は無い。

個人的にノートしておくべきと思った具体的記述は無し。

本当に、何にも書くことが無い・・・・・。

コンクェストの伝記のほうが面白いが、初心者はまず本書を読んだ方がいいか。

まあ普通です。

2016年10月29日

プラトン 『饗宴』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

結局これを読まないわけにはいかないんでしょうねえ・・・・・。

主要著作の中では一番読む気がしないのだが、新訳でもあることだし、この版を手に取った。

ペロポネソス戦争中の前416年、ソクラテスが参加した宴席が舞台として設定されている。

出席者が愛を司るエロス神を賛美する演説を重ねていくのだが、その中で、太古の人間は頭が二つ、手足がそれぞれ四本の二身同体の存在だった、しかし神々の怒りに触れ真っ二つにされた、それからかつての片割れを求めて、愛する人を求めるようになったのだ、という有名な寓話の語り手が、喜劇作家のアリストファネスであることは今回読んで初めて知った。

ただ、現実のアリストファネスは保守的な人物でソフィストとデマゴーグを徹底批判したが、なぜかソクラテスをその一員として辛辣に描くという、とんでもない誤解もしており、この作中の彼はプラトンの脚色が強い、と訳者は書いている。

これらの話に対して、ソクラテスは、エロスは美・正と醜・悪、また神々と人間の中間に位置する精霊であり、後者から前者への向上力をもたらすものだとする。

そしてその美しくよきものを永遠に保とうとして、子を成すことを通じて不死を達成しようとする。

これは肉体的な意味でだが、精神上の良き魂と徳を育み継承することについても言え、それがより尊いものである。

ここで酔っ払ったアルキビアデスが登場、ソクラテスの賛美を始める。

ソクラテスに心酔するようになったアルキビアデスが、当時の風習に従い、彼と少年愛の関係を結ぶ決心をしたが、ソクラテスはアルキビアデスの肉体的美しさには全く目もくれず自制したこと、その後戦場に市民の義務として出征した際、ソクラテスがいかに勇敢で忍耐強かったかが雄弁に語られる。

そして以下のような気持ちを述べる。

・・・・ぼくは、この人と一緒にいるときだけ、ある気分にとらわれる。ぼくがそんな気分にとらわれるなんて、思いもよらないだろう――誰かに対して自分を恥じるなんて。だが、ぼくはこの人に対してだけ、自分を恥ずかしいと感じるのだ。

ぼくにはよくわかっている。ぼくは、この人の命じることをやらなければならず、逆らうなんてできない。でも、この人のもとを離れると、ぼくは、大衆に賞賛されたいという誘惑に負けてしまうのだ。だから、ぼくはこの人から離れて、逃げる。しかし、この人の姿を見ると、かつて自分が認めたことを思い、わが身を恥じるのだ。

ぼくはしばしば、この人がこの世から消えてしまえばいいのにと考える。しかし、ぼくにはよくわかっているのだ。もし、本当にそうなったら、ぼくはいまよりずっと苦しむことになるだろう。だからぼくは、この人をどう取り扱ったらいいのかわからない。

こういう殊勝な考えを持ち続けていればよかったんですがねえ・・・・・。

この翌年、前415年アルキビアデスは無謀なシチリア遠征を煽動し、あるきっかけから祖国を裏切り、スパルタに投じる。

以後アテネは衰亡の一途を辿り、前404年ペロポネソス戦争に敗北。

アルキビアデスも同年暗殺。

前399年ソクラテスは裁判にかけられ刑死。

その背景として、ソクラテスがアルキビアデスやクリティアス(敗戦後、「三〇人政権」として暴政を敷いた人物)との親交を批判されており、プラトンはそれへの反論を行う必要があったという。

しかし本書について言えば、アルキビアデスを一方的に非難するようなものではない、とのこと。

 

 

思っていたよりもはるかに面白かった。

訳文は素晴らしくわかりやすいです。

それも面白く感じられた理由として大きいでしょう。

これだけ有名な著作を読まないわけにはいかないので、新しい訳の本書であっさり済ませましょう。

2016年10月25日

チョーサー 『カンタベリー物語』 (角川文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:06

岩波文庫で全3巻の全訳が出ている。

中身を見ると、読めないことはないかと感じるが、ボッカチオ『デカメロン』を抄訳で済ませているのに、これの全訳を読むのは、ちょっとバランスに欠けるかとも考えた。

それでいろいろ検索すると、昔角川文庫でこの抄訳が出ていたことを知る。

序章を含め9章を訳出し、200ページ弱の文庫本にまとめてある。

だから省略部分はかなり多いと思われるが、初心者が雰囲気を感じ取るだけなら、これくらいでいいでしょう。

末尾の解説含め、本書でどこにも抄訳であることを明言していないのは、少し気にかかるが。

内容は取り立てて言うことは無い。

14世紀イギリス、カンタベリに巡礼に向かう29人の、様々な職業・社会階層の人々が、道中の徒然にそれぞれ物語を披露する、という『デカメロン』とよく似た形式。

話の中身も、やや卑猥なところを含む滑稽譚で、似ている。

初心者でも十分読める難易度。

古典的書名を読了リストに追加できただけでも良かった。

2016年10月20日

小川了 編著 『セネガルとカーボベルデを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 16:38

「エリア・スタディーズ」というシリーズ名と「~を知るための○○章」というタイトルで、ものすごい数がこの出版社から出ている。

第一弾として、これを選ぶ。

セネガルは、アフリカ西端にある国。

首都はダカールという結構有名な都市。

主要民族はウォロフ人など。

国民の95パーセントがムスリムというイスラム国家だが、さほど厳格な戒律が施行されているわけでもない。

西は大西洋に面し、北はモーリタニア、東はマリ、南はギニアとギニア・ビサウに接する。

そして国の中を流れるガンビア川流域は、ガンビアという別の国家になっている。

型抜きされたみたいで、何とも妙な感じ。

セネガルが旧フランス領だったのに対し、ガンビアは旧イギリス領、英仏間の領土交換による併合や、独立後の国家統合が模索されたこともあるが、結局現状のままになっている。

1444年ポルトガル人が到達。

1659年フランスがサン・ルイに、1677年ゴレ島に拠点建設、ゴレ島は奴隷貿易の基点となる。

七年戦争で一時イギリスが奪取するが、アメリカ独立戦争で返還。

19世紀後半、第二帝政下、総督フェデルブが内陸部を平定、1886年カヨール王国のラット・ジョール王が仏軍により殺害、同世紀末には完全植民地化。

アフリカ黒人で初めてフランス国会議員になったブレーズ・シャーニュらの運動を経て、「アフリカの年」1960年に独立。

初代大統領はサンゴール。

この人名は憶えましょうか。

フランス語による著名な詩人であり、「ネグリチュード」(黒人性復権)運動の主唱者でもある。

新興独立国の多くの政治指導者が、急進的な内外政策に傾き、ソ連など東側諸国に接近したのに対し、サンゴールは穏健派として親仏親西側路線を貫いた。

ただし、内政では当時の主流思潮と言える「アフリカ社会主義」を唱え、「社会主義というよりも、未熟な資本主義を食いつぶす寄生的官僚主義の体制を生み出した」という、第三世界の国で非常によくあるパターンに陥ってしまったようだ。

サンゴールは1980年まで大統領の職にあったが、まあ他の国の惨状に比べれば、その業績はまだ肯定的に評価できる方か。

 

本書から読み取ることは、以上でいいでしょう。

アフリカの西端にあって、フランスの元植民地で、首都がダカールで、イスラム教国で、「独立の父」がサンゴールで、親西側路線を取った人物だった、とこれだけで十分。

 

次のカーボ・ヴェルデ。

セネガルの沖にある島国。

要は、国名はヴェルデ岬(「緑の岬」)のことで、それが島国なのに国名になった。

1460年ポルトガル人が到達した時点では無人島。

アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウと共に、アフリカで最後に残った植民地帝国であるポルトガル領の一部であり、1974年ポルトガル本国の反サラザール政権クーデタの後、1975年独立。

マルクシズムの影響の強い勢力が政権を握ったが、幸いさほど教条的政策は取らず、1990年後は一党独裁制は廃止され、平和的政権交代が実現しているようだ。

この国について憶えることは、地理的位置と、他のアフリカ諸国から遅れて、ポルトガルから70年代半ばに独立した、ということだけ。

 

 

歴史に関する章だけ集中して読み、後は軽く流していいでしょう。

通読する必要は必ずしもありません。

そこそこ役に立つ本ではあります。

2016年10月17日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー四世 第一部・第二部』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 04:47

この版では、一部・二部がそれぞれ一巻本になっているが、話は完全に繋がっているので一つの記事にした。

エドワード黒太子の子リチャード2世から王位を奪って、ランカスター朝を創始したのがいとこのヘンリ4世で、その簒奪行為に協力しつつも、やがて疎んじられたノーサンバランド伯パーシー家の反乱と鎮圧、ヘンリ4世の死去までを描いた史劇。

もっともヘンリ4世が主人公とは言いがたく、実質的にはその息子で皇太子のハル(ヘンリ)が物語の中心。

放蕩無頼の限りを尽くすドラ息子といった感じのハルが突如その英雄的資質を表わし、反乱を鎮定、父王死後ヘンリ5世として即位、後に百年戦争を再開して最も英国優位の情勢を作り出すことになる。

またこの作品では、ハルの取り巻きの一人で、道化じみた悪徳騎士フォールスタッフのキャラクターも極めて有名。

フォールスタッフらの毒舌・雑言の中に潜むウィットは、現代人が読んでも笑いを誘う。

権力の栄枯盛衰を背後から操る世論の問題というテーマが中心となっているように思える作品だが、その重苦しさを笑いで中和してくれている。

なかなか良い。

シェイクスピア史劇では、少なくとも『ヘンリー五世』よりは印象に残るし、『リチャード二世』と並んで良い。

 

「噂」登場、一面に舌の模様を描いた服をつけている。

さあ、耳を開いて聞きな、それがし、「噂」が大声で

しゃべろうってんだ、耳に蓋するわけにはいくまい?

日の昇る東のかたより日の沈む西の涯まで、

風を早馬に仕立てて乗りまわし、この地上に起こる

あらゆる出来事を伝えひろめるのがおれの役目だ。

悪口、中傷をひっきりなしにこの舌先にのせ、

それを世界各国のことばでしゃべりまくり、

人々の耳に偽情報を詰めこむのがおれの商売だ。

たとえばおれが天下泰平だと言うのは、かくれた敵意が

平和の微笑のかげに刃を秘めてこの世を傷つけてるときだ。

また、大きくふくれあがった世界の胎内から

いまにも暴虐な戦争が生み落とされると思わせ、

兵隊集めや防衛準備に狂奔させておいて、実は

なにごともなし、なんて騒ぎを起すのも、このおれ、

「噂」の仕業でなくてなんだ?「噂」とは

疑心暗鬼、揣摩憶測が吹き鳴らす笛だ、それも

穴をおさえて吹くだけでいとも簡単に音が出るので、

あっちへふらふらこっちへふらふらする大衆ってやつでも、

むやみに吹き立てることができるんだ。いや、いまさら

天下衆知のおれの実体をご説明する必要はなかったな、

あんたがたはおれの身内なんだから。・・・・・・

 

大司教

・・・・・・わが国民はいまやみずから選んだ王にいやけがさしている、

あまりにもむさぼるように愛したため食傷している。

うつろいやすい民衆の心を土台にして家を建てるものは、

ぐらついてあぶなっかしい住居に身をおくことになる。

ああ、愚かな大衆どもめ、おまえたちはかつて、

おまえたちの望みどおりボリングブルック[ヘンリ4世]が王座につく前は、

天を拍つ歓呼の声をもって彼に祝福を与えたものだった!

ところがいま、彼がおまえたちの望んだ栄光に包まれると、

なんという食い意地の汚さだ、もう彼に食い飽いて、

みずから胸をむかつかせて彼を吐き出そうとしている。

そう言えば、おまえたち野良犬は、その貪欲な胸から

故王リチャード二世を吐き出したくせに、いままた

その反吐の死体をもう一度食いたがり、捜し求めて

うるさく吠え立てている。こういう連中が信じられるか?

リチャード王在位中はその死を願っていたやつらが、

いま、その墓に熱い恋心を捧げているのだ。故王が、

世の賞賛を一身に集めたボリングブルックのあとに従い、

傲然とかまえたロンドン市中を溜息ながらに引きまわされた

あのとき、その頭上に汚物を投げつけたおまえたちが、

いま、「大地よ、あの王を返し、この王をのんでくれ!」

とわめいているのだ。人の心の、なんと呪わしいことか!

過去と未来は美しく見え、現在はもっとも醜いと思うのだ。

2016年10月1日

中野剛志 『レジーム・チェンジ  恐慌を突破する逆転の発想』 (NHK出版新書)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:30

2012年刊。

長年続くデフレ不況の中、リーマン・ショックと東日本大震災の直撃を受けた日本の現状を直視し、そこからの回復の道を示す本。

1930年代の典型的デフレ不況である世界恐慌の経験から、デフレだけは回避しなければならないというコンセンサスにも関わらず、日本は十数年間デフレに陥ってしまっている。

我々は、財政ではなく経済を健全化しなければならない。

そもそも1990年代からの、「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「自由化」「グローバル化」を内容とする新自由主義的構造改革の推進から、デフレは始まっている。

しかし、80年代初頭、レーガン米政権やサッチャー英政権が新自由主義的改革を断行したのは、悪性のインフレを収束させるために人為的にデフレを起こすことを目的にしたもの。

それに対し、日本はバブル崩壊でまさにデフレに転落しようかというときに、構造改革路線を採用してしまった。

ここで「政策レジーム」という概念を提示。

政府や中央銀行といった政策当局が実施する政策の大系を指す。

人々は個別の施策というよりはこの政策レジームに反応して行動し、政策レジームに反する施策には、それを例外と見なして反応せず、その施策は効果を発揮しない。

今求められているのはインフレ抑制を目指す「デフレ・レジーム」から、デフレ脱却を目指す「インフレ・レジーム」への転換である。

政策レジームが変わらない限り、「政策通」や「改革派」のエリートの活動はデフレを深刻化させるだけであり、政権交代すら無意味。

「問題を発生させたのと同じ考え方では、その問題を解決することはできない」(アインシュタイン)のである。

以下、本文の内容。

 

 

第一章、デフレのメカニズム。

デフレとは国民経済全体で「需要不足・供給過剰」の状態が続き、物価が持続的に下落する現象。

ハイパーインフレは貨幣価値が下落しお金の意味を失わせるので、その弊害は直感的にも明らかだが、デフレの悪影響もそれに勝るとも劣らない。

それは「債務デフレ」というメカニズムで説明され得る。

将来の貨幣価値上昇を見越して、企業は借り入れを減らし投資を抑制、消費者もローンを組むような大型支出を控えるようになる。

経済主体のこうした「予想」や「期待」に基づく行動によって、消費と投資は減少し、需要は縮小、それを受けてさらに供給過剰の将来予想が形成され、悪循環が続く。

通常の景気循環における不況と異なり、放置すればデフレはほぼ底無しに続く。

なお、原材料価格の上昇による「コスト・プッシュのインフレ」や消費税増税による物価上昇は貨幣現象だけ見ればインフレだが、実体経済での実情はデフレであり、実体面での「需要不足・供給過剰」の状態を直視すべきである。

デフレ経済下で賃金が下がっても、物価も下がるのなら問題ないと一部で思われているが、将来への悲観から「投資」という資本主義の根幹を成す行為が停滞してしまう。

また、供給が縮小するスピードより需要が縮小するスピードの方がはるかに速いので、自然にデフレが終息することはない。

製品の価格が即座に変化する一方、企業や労働者は長期的契約に基づいて経済活動を行っているし、「賃金の下方硬直性」と言われるように、人々は慣習的に形成された「公正賃金」以下の対価では働こうとはしない。

ここで、新自由主義的経済学者は、「労働市場の流動化」を行い、解雇条件緩和や「公正賃金」以下への賃下げを可能にすることを主張する。

だが他業種・他職種への転職コストの存在などにより労働市場の調整は、経済学者が想定するようには行われない。

それに職業という人生の根幹をなす部分を不安定化することは、人間の存在そのものを否定することに繋がる。

さらに労働者が労働力の供給者であると同時に需要の担い手である以上、雇用の不安定化は供給能力削減であると同時に消費需要の減退でもあり、結局需給バランス均衡には至らない。

そもそも、なぜデフレが発生するのか。

その最大のきっかけは、バブル崩壊による金融危機。

経済学者ミンスキーの研究によれば、それは個別的偶発的事情に基づくものではなく、資本主義経済システムに内在する欠陥によるもの。

好景気時には人々は将来に楽観的になる。

実物市場では「現在」得られる商品やサービスに対して支出を行うので、その取引は比較的確実だが、投融資という金融は「将来」の利益を問題にするため、どうしても「予想」や「期待」という主観的で不確実な要素が入り込む。

直近の好調な経済状況だけに動かされ、高リスクの投資が行われ、経済全体の債務比率が高まり、それが借金で手元資金を膨らませる「レバレッジ」と金融商品のイノベーションでさらに増幅されるが、そうした根拠無き熱狂がちょっとしたきっかけで反転し、「予想」や「期待」は一気に悲観的になり、金融市場は崩壊し、巨大な債務とデフレが発生する。

主流派経済学者は、市場を、「現在の利益」と「現在の支出」の取引であり、比較的安定している実物市場のイメージで捉え、それを安定的・自動均衡的なものとみなすが、ミンスキーは「将来の利益」と「現在の支出」の取引である金融市場は人々の主観によって激変する極めて不安定なものであるとする。

そして、19世紀後半の第二次産業革命以降、重工業が中心となった資本主義は金融市場無しには存続できず、それが機能しないデフレ不況は、(単なる市場経済ではない)資本主義の心肺停止状態とすら言える。

金融面だけでなく、実体経済でもデフレ圧力を加える要因はある。

成熟経済化による消費や投資の飽和、技術進歩や生産性向上による(正常なインフレ下なら経済成長の要因となるはずの)供給能力向上、コスト・プッシュ・インフレ、政情不安・社会保障制度不備による将来への悲観論、グローバル化がもたらす労働条件の「底辺への競争」、株主の利益を最重視し偽りの「トリクル・ダウン」論で富裕層擁護を正当化し労働分配率を押し下げる金融資本主義の跋扈、等々。

これらの要因が日本と世界各国を襲っている。

 

 

第二章、デフレがもたらす恐るべき弊害。

まず第一に失業の増加。

これは経済的困窮以上に人間性に深刻なダメージを与え、社会不安の最大の原因ともなる。

人々に効用をもたらすのは消費であり、労働は苦痛をもたらすだけという経済学の教科書的理解は誤りである。

ネオリベ的経済学者がよく主張する「非効率部門の淘汰」は、企業倒産と失業者増加を人為的に促進しようとするのだから、その反道徳的姿勢は明らかだが、道義面をひとまず措き、経済的観点から見てもその主張は誤りである。

非効率的部門の淘汰はさらなる供給過剰をもたらし、失業した労働者は同時に消費者でもあるのだから需要不足は加速し、需給ギャップはさらに拡大する。

非効率的な企業や人材が多く存在するから、国民経済全体が非効率なのではなく、デフレだから非効率なのです。言い換えれば、企業や労働者が効率的であるかどうかは、彼らの生産能力が高いか否かではなく、十分な需要があるか否かによって決まるというわけです。「非効率部門を淘汰せよ」と言う論者は、原因と結果を取り違えているのです。

小泉政権による不良債権処理も、輸出主導による一時的景気回復で不良債権が減ったのであって、不良債権が減ったから景気が回復したのではない、と評されている。

デフレは短期的に国民経済を非効率化するだけでなく、長期的には供給能力の破壊を通じ潜在的成長率と国際競争力を低下させ、「デフレ→通貨高→デフレ」の悪循環をもたらし、寡占・独占状態の業種を増やし経済構造を硬直化させてしまう。

さらに将来のための投資も阻害する。

投資は現在においては「需要」だが、将来においては「供給」であるという、異時点の経済行動である。

ここで重要な論点として、著者は、これまで批判してきた新自由主義的「右派」経済学者だけでなく、リベラル・左翼的な「需要抑制」「低成長(ゼロ成長)容認」論も批判する。

確かに成熟経済において無理に消費を拡大する必要は無いが、インフラ・教育・環境・文化の維持継承と低成長論者が望むエコロジカルで幸福な経済と社会のためには、様々な将来への投資は絶対に必要である、とする。

デフレによる将来悲観は少子高齢化も加速するが、実は将来の少子高齢化社会においては労働力不足からインフレになると予想される。

それから著者の予想する日本の将来は、あくまで暗い。

デフレによる供給力破壊と少子高齢化が進行、将来の供給力不足を解消するために必要な投資は行われず。

おそらくいずれかの時点でデフレは終息するだろうが、その後には慢性的な悪性のインフレが起こると予想される。

経済学者や経済政策担当者の多くは、特にわが国においては、デフレ以上にインフレを警戒する傾向が強くあります。彼らは、デフレ脱却のための財政出動や金融緩和といった議論に対しては、「それらはインフレを引き起こす懸念がある」と言って抵抗します。しかし、デフレの放置は、これまで述べてきたような経路をたどって、長期的には、低成長社会と少子高齢化をもたらし、そして彼らが最も恐れる慢性的・構造的なインフレを発生させる可能性すらあるのです。

デフレは圧倒的多数の国民には耐え難い苦痛をもたらすが、債権者とすでに資産を築いた富裕層、輸出志向の大企業にとっては有利である。

もう完全に良心を捨てて、自分の富を権力に転化してくれるデフレを続けることを念願し、情報産業をカネで操って実質的にかなりの程度動かしている富裕層は間違いなく存在しているでしょう。

国内での様々な格差が拡大するだけでなく、国際社会でも外需獲得競争、失業の輸出、近隣窮乏化政策をめぐって国家間対立が激化、全体主義が台頭する。

その1930年代の歴史が21世紀に繰り返されるのではないか、と著者の懸念は深い。

 

 

第三章、デフレ・レジームの致命的錯誤。

デフレ・レジームとは新自由主義的改革である。

「小さな政府」「健全財政」「規制緩和」「自由化」「民営化」「グローバル化」「金融引き締め」「労働市場の自由化(雇用の流動化)」「構造改革論」「効率市場仮説」「株主(金融)資本主義」「障壁なき自由貿易」「資本移動の自由化」、と並べていくと、心底うんざりするようなものがその内容。

1990年代からそれらを実施した日本は、改革が不十分だったからではなく、改革が進んだために、深刻なデフレ不況に落ち込むことになった。

その象徴が「公共投資悪玉論」。

自然災害が多く、高度成長期に大規模整備したインフラの更新が控える日本では他国より多くの公共投資が必要とされるのが当然なのに、国民の生命を守ることに直結する事業すらが削減される事態になってしまっている。

デフレ・レジームは、政治による経済への介入を、本来効率的安定的であるはずの市場の役割を歪めるものと考える反民主主義的なものである。

だが、第二次世界大戦後の西側諸国に生まれた「民主資本主義」は、大恐慌と左右の全体主義、世界大戦という悪夢を経て、ようやく資本主義を飼いならすことに成功した何より貴重な存在だったはずである。

それを捨て去り、経済運営を「非政治化」しようとするのは、実質的には「政治の無責任化」である。

(著者は保守派として民主主義を絶対視するような立場であるはずがないし、私も同様だが、全体主義との相対比較では民主主義を擁護するのが当然であるように、自由放任的資本主義に対してはその民主的統制を支持するべきであるのは言うまでもない。ただ根底では後者が前者の基盤になっていることを忘れるべきではないと思う。[資本主義自体が個人主義的平等主義を基盤にしているという意味で])

 

 

第四章、デフレ克服のための政策レジームについて。

第二次大戦後、(最近までは日本を不名誉な例外として)デフレが回避されてきた原因は、中央銀行の機能と政府支出の拡大によるもの。

国民経済がデフレに陥ると、企業や消費者にとって投資や消費を控えるのは間違いなく経済合理的行動だが、その結果デフレ不況は底無しに悪化し続ける。

政府が経済合理性を超越した「愚か者」になって支出を拡大する以外にデフレ脱却の道は無い。

公共事業に「無駄遣い」というレッテルが貼られて久しいが、需給ギャップを埋めるためには、たとえ「無駄な」事業でも有効であることに変わりない。

もちろん、誤解を避けるために言えば、無駄な施設を造るよりも、必要な施設を造った方が良いのは間違いありません。それでも、デフレ時には、穴を掘って埋めるだけの公共投資であっても、全くやらないよりははるかにましなのです。そのような一見非常識なことが正しくなるのは、デフレがそれだけ異常な経済状況だからなのです。

しかも、日本では防災対策、インフラ更新などいくらでも必要性の高い事業があり、これらはたとえインフレの状況下でも遂行しなければならないはずのものである。

ミンスキーは、本質的に不安定な資本主義の存続のためには、それを「再政治化」し、「大きな政府」と規制の拡大、社会保障の整備と所得格差の縮小が必要だ、と結論付けている。

財政出動は長期的には効果が無く、財政赤字を生み出すだけだとする主張があるが、日本経済は1980年代後半好景気でインフレを懸念すべき時に米国からの内需拡大要求の圧力に屈して公共投資を拡大させバブルを生み、90年代後半不景気でデフレを懸念すべき時に公共投資を減額させ金融緩和も不十分だった。

不況ならば財政出動を行い、好況ならば財政支出を削減するといった、政府の裁量による経済運営は「ケインズ主義」と呼ばれていますが、八〇年代以降、このケインズ主義はもはや有効ではないと言われてきました。九〇年代後半以降の構造改革論は、まさに「ケインズ主義的な財政政策では景気回復はできない」という信念に基づいていました。しかし、実際には、日本が長期の不況に陥ったのは、ケインズ主義が無効だからではなく、ケインズ主義とは逆のことを二度もやったからだったのです。

そのケインズ主義の「原資」は、増税ではなく国債発行で賄うべき。

増税の場合、民間の可処分所得から強制的に吸い上げる形になるので、そのデフレ効果によって、財政出動の効果が相殺されてしまう。

国債の方が、滞留する民間貯蓄からスムーズに資金を吸い上げることができる。

このような対策を説くと、必ず「日本の国が借金漬けになり、財政破綻してしまう」という反対論が生まれる。

これは、本来政府による所得再分配に賛成して当然のはずの左翼・リベラル系の人々すら、新自由主義的構造改革に反対できなくなる最大の理由と思われるので、極めて重要である。

しかし、著者はデフレ下の日本の財政破綻説は全く杞憂だと強調する。

個人や企業の債務と国債は全く性質が異なる。

政府は通貨発行権という特権を持っているので、最終的には自国通貨を発行して返済に充てることができる。

これまで財政破綻した国家は自国通貨ではなく外貨建てで国債を発行して返済不能になった国である。

そのため、対GDP比で、日本よりはるかに政府債務の割合が小さかった国が破綻している。

ただし、これは通貨発行権を持つ中央政府の場合で、地方自治体はその特権を持っていないので、財政破綻の危険ははるかに高い。

その意味で、「地方分権」「地域主権」の掛け声も、地方自治体が中央政府よりも財政への懸念から支出拡大に慎重にならざるを得ないことを考えると、デフレ下では不適切なものである。

日本は世界最大の貯蓄超過国であり、国債がほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化され、経常黒字・債権国であることを考慮すれば、財政破綻説には根拠が無い。

国債乱発によるハイパーインフレも、戦争等の異常事態で供給力が破壊された時にのみ起こるもので、今の日本では考えられない。

日本国債の大部分が日本国内で消費される「内国債」である以上、国債発行を拡大しても富は日本国内を還流するだけである。

公共投資や政府債務の是非は、その絶対額ではなく、それが国民経済に与える影響によって判断すべきであるとする「機能的財政論」に著者は立ち、収支均衡を金科玉条視する「健全財政論」を強く否定する。

経済学者の中には、財政出動ではなく「インフレ・ターゲティング」という金融政策を主張する者も多い。

しかし、インフレ目標の提示だけで人々のデフレ・マインドが転換するとは考えがたく、ルーズヴェルト米政権や日本の高橋是清蔵相などの成功者も、金本位制離脱だけでなく、財政出動と政権交代が与えるインパクトなど、あらゆる手段を講じてデフレを脱却している。

さらに金融緩和は、国内の投資や消費を増やさず、国内外の投機マネーを活発化させ、コスト・プッシュ・インフレや新興国バブル(とその後に続くデフレ深刻化)を引き起こすし、中央銀行が物価の動向だけに着目する経済運営自体がデフレ・レジームであり、グリーンスパンFRB(連邦準備銀行)議長はそれで資産バブルを見落とし、リーマン・ショックを招くことになった。

 

 

 

第五章、議論のまとめとあるべき資本主義の姿。

主にルーズヴェルト政権下で、1934~48年FRB議長となったマリナー・エクルズの功績を紹介。

本書の内容は、この四半世紀、日本で「改革」と称されてきたものの、ほぼ逆を主張するものである。

「大きな政府」による財政出動と規制強化、投機的活動の自由制限、インフラ整備、社会保障拡充、労働者保護等々。

新自由主義的構造改革によって、雇用が不安定化し、非正規雇用者が激増し、勤労所得が減少し続け、様々な社会保障制度が後退し、国民生活が困窮の一途をたどっているのに、そこから生まれた閉塞感がメディアの煽動でさらなるネオリベ的「改革」支持に向かわされ、さらに事態が悪化する、という目も眩むような欺瞞が20年以上、終わることなく続いている。

そんなものに易々と騙される我々国民は、もう馬鹿としか言いようがない。

私自身は本書の主張全てに賛成である。

だが著者の構想がまとまった政治勢力の綱領となり、それが政策的に実現されるかどうかを考えると、答えは絶望的と言うしかない。

このままごく一部の成金的富裕層の実質的支配下に置かれながら、ますます荒廃する一方の社会で暮らしつつ、その流れに積極的に加担することだけは避け、著者のように流れに抗する真の識者を陰ながら応援しつつ、国が滅びるのを静かに待つ、ということしか、多少ともまともな人間の生き方は無いでしょう。

 

 

『国力とは何か』『グローバル恐慌の真相』『保守とは何だろうか』と中野氏の本を紹介してきたが、この方の著作には全くハズレが無い。

どれも強くお薦め出来るものばかりです。

2016年9月10日

筒井清忠 『昭和戦前期の政党政治  二大政党制はなぜ挫折したのか』 (ちくま新書)

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戦前、「憲政の常道」と二大政党制に基づく政党内閣の時代は、1924年から32年までの八年間しか続かず、六つの内閣しか存在しなかった。

その過程と原因を考察した本で、2012年刊。

 

まず、その前史を記述。

1921年原敬暗殺後、与党政友会は、高橋是清総裁の下、床次(とこなみ)竹二郎派と横田千之助派に分極化。

24年貴族院を中心とする清浦奎吾内閣が成立すると、横田を主導者として政友会は憲政会(総裁加藤高明)・革新倶楽部(総裁犬養毅)と護憲三派を形成、一方床次は政友本党を結成して清浦政権与党に。

第二次護憲運動と総選挙の結果、護憲三派が勝利、加藤高明内閣が成立。

以後、一内閣に一章を割り当て、その政権運営と著者の評価が記されている。

 

 

加藤高明内閣(護憲三派・憲政会単独 1924~26年)

明治憲法下において選挙結果で選ばれた唯一の首相、他は首相となってから解散総選挙を実施し、選挙民の判断を受ける形になっている。

外相幣原喜重郎、内相若槻礼次郎、蔵相浜口雄幸、陸相宇垣一成という重厚な布陣。

施策としては、まず政務次官の設置。

官僚・軍部に対する政治主導の確保と若手政治家育成を意図。

行財政整理およびその一環として宇垣軍縮。

加藤友三郎内閣での山梨軍縮と合わせて、大正デモクラシー下での成果だが、この時期の行き過ぎた軍人への冷遇が反動をもたらし、昭和期には軍台頭の原因となる。

25年政友会有力者で司法相に就任していた横田が死去すると、若槻内相、江木翼(たすく)内閣書記官長の不手際もあり、難航したものの、普通選挙法および治安維持法が成立。

貴族院対策も怠り無く、衆院の優位が確立し、貴族院は実質的に第二院化。

25年死直前の横田の働きで、政友会総裁が高橋から陸軍大将田中義一に交代、その後革新倶楽部が解散、政友会に合流。

憲政会・政友会の対立が深まり、閣内不一致で第一次加藤内閣は総辞職、再度加藤に大命降下で第二次加藤内閣が憲政会単独で組閣。

憲政会は政友本党の床次に接近、これに反発する政友本党内の鳩山一郎らは脱党、政友会へ復帰。

第二次内閣では、同様に「政治主導」の官制改革を進めたものの、政党による猟官運動が「党弊」批判を生み、枢密院改革では親政党化を期して学者任用を進めたが、かえって平沼騏一郎が副議長に就任してしまう。

外交では日ソ基本条約調印。

海軍予算問題で浜口蔵相と海軍の対立を加藤が調停したと書いてあるのを読むと、時代状況がさほど切迫していなかっただけとも言えるが、それでも昭和期に加藤の手腕が発揮されることが無かったのが惜しまれる。

小作争議調停法、改正工場法、健康保険法など社会政策上の成果も上げている。

26年1月、体調不良の中、無理を押して登院した加藤は急死。

 

政治家としての加藤の評価は高い。西園寺公望は「今にして思えば、木戸、大久保、伊藤、或いは加藤高明、やや落ちるが、原敬など、いずれもひとかどの人物だった」(・・・・・)と言っている。・・・・・それにしても驚くべき高評価である。

外国人の評価が高いのも一特質で、チャールズ・エリオット英駐日大使は「着実で落ち着き、まっすぐに進んだ加藤」と言い、エドガー・A・バンクロフト米駐日大使は「率直さと政治家にふさわしい精神が注目に値する」と評している・・・・・。

こうした加藤への高評価からは次のような見方も出てきている・・・・・。すなわち、駐英公大使時代に英国の二大政党制に深く学んだ加藤が、憲政会の責任政党化、政友本党の憲政会吸収の道筋をつけて、以後の二大政党時代を導出したのである。また、“二大政党制は、基本的な問題に対するコンセンサスが政治社会に行き渡っている時に円滑に作動する”(G・サルトーリ)のであり、原と加藤という藩閥政府の超克と政党政治の確立を共通の目標とした二人が指導者であることにより、日本の二大政党制の基礎は確立した。

この見方だと、この時期の二大政党制があまり長続きしなかったことの説明が求められるになるが、それは若槻と浜口の責任ということになる。

すなわち、加藤歿後、憲政会内閣を組織した若槻は、解散と勝利により衆議院に基礎を置く内閣の基盤を固めて、日本政党政治を確立させ得た可能性が高いにもかかわらず、その勇気がなく、話し合いによる政争回避を企図した、結局金融恐慌もあり、若槻内閣は一年余で総辞職した。さらに第二次内閣では満州事変に際し陸軍をコントロールできなかった。若槻は「まれなほど印象に薄い人」「決して一流ではない」(ティリー大使)人だった。

また、加藤の剛毅なリーダーシップに倣った浜口は党を再生させたが、柔軟性に欠け硬直化した指導が多く、極端な緊縮財政で不況を深刻化させ、ロンドン軍縮会議では海軍・枢密院と対立し、軍部・超国家主義台頭の一契機を作ってしまった。

大変鋭い、若槻と浜口に厳しい見方だが、こうした見方の当否についてはこれからの章の叙述そのものが回答になるであろう。

 

以後の記述を見ると、著者はこの見方をおおむね肯定しているようだ。

さらに加藤内閣に代表される憲政会・民政党政権への評価から、太平洋戦争末期と戦後、イギリスは「日本の民主化は明治憲法の修正で可能」と考えたし、米国の知日派は「幣原、若槻、浜口」への信頼から比較的穏和な占領政策を構想することにもなった。

 

 

第一次若槻礼次郎内閣(憲政会 1926~27年)

加藤急死後の組閣、当初は全般的に歓迎された。

だが、政友本党との「憲本協定」運営における不手際、憲政会内部での党人派・官僚出身派の派閥対立の制御失敗で、若槻の求心力は低下。

蔵相が急死、人材難および党人派懐柔のため、かねて放言癖で注意を受けていた片岡直温(なおはる)を蔵相起用。

松島遊郭事件、陸軍機密費事件など醜聞が続発。

だが、この第一次若槻内閣の章で最も重視されているのは、鈴木商店破産・台湾銀行救済をめぐる金融恐慌でもなく、中国の北伐進展と南京事件という外交問題でもなく、朴烈怪写真事件というスキャンダルである。

通常の通史では一切触れられることすらない、些細事にも思える事件を、著者が大きく取り上げるのはなぜか?

それは普通選挙による大衆デモクラシーが本格化した時代の弊害を最もよく表わしているからである。

朴烈は23年関東大震災後に爆弾を準備した大逆罪の疑いで金子文子と逮捕、死刑判決を受けた後、特赦されるが、金子は獄中で自殺。

26年朴と金子が取調室で抱き合っている写真が流出、北一輝を通じて政友会幹部森恪も関係し、大々的に報道され、若槻内閣攻撃の手段となる。

・・・・・若槻は演説し「立憲政治は政策の争いだ 朴烈問題など介意の要なし」と「正論」を吐いたが、それが虚ろに響くように感じられるのは、「政策の争い」だけではすまない事態に立ち至っていることが明白だからであろう。すなわち、近づいている第一回の普通選挙では、こうした政治シンボルをめぐる大衆動員の力量のほうが決定的に重要であるはずなのに、若槻にはその認識が全くないことが如実に感じられるのである。

26年末大正天皇崩御、昭和改元、翌27年与野党対立が激化する中、解散総選挙で雌雄を決することを求める意見が憲政会内で強まるが、若槻は政友会、政友本党首脳と会談、辞意をほのめかしつつ、内閣不信任案提出を回避。

この妥協については、今日の政治史研究者の間にも英国的二大政党政治形成のチャンスを潰したという批判が強い。選挙で憲政会が勝っても負けても第一党が政権党になるという慣行が二度続き、日本の政党政治が確乎なものとなった可能性が高いからである。

若槻の動機としては、普選時代に激増した選挙資金を確保する見込みが無かった他、金本位制復帰のために震災手形処理を議会で通す必要があったからと推測されるが、金本位制復帰自体が全く間違った政策なのだから、若槻内閣の特徴である「大蔵省的発想」は極めて視野が狭く不適切だったと言う他無い。

結局、片岡蔵相の東京渡辺銀行関連の失言で金融恐慌発生、鈴木商店倒産、台湾銀行救済案は南京事件をめぐる「軟弱外交」に不満を持つ枢密院によって否決され、若槻内閣は総辞職。

 

その全般的評価。

足軽家出身者の若槻が総理となったこと自体が示す近代日本の開明性・平等性、加藤・浜口内閣と共通する国際協調主義と戦後改革の先取り、後継となった田中義一政友会内閣高橋是清蔵相の恐慌対策を一切妨害しなかった「政策中心志向」と「公平性」などは肯定的に見ることができる。

しかし、こうしたプラス面よりも、若槻内閣に対しては従来から批判的評価のほうが多い。その場合、論点としては、解散総選挙を避けて妥協した点や金融恐慌時に枢密院と最後まで戦わなかったことを問題視することが一般的であった。

だが、内閣崩壊の実相は、朴烈怪写真事件で追い詰められて妥協や多数派工作を図っていたところに、金融恐慌が発生して最後のKOパンチをくらったということであった。すなわち問題は、普通選挙を控え、政策的マターよりも大衆シンボル的マターの重要性が高まっていたことを若槻が十分理解していなかったことのほうにあるのである。「劇場型政治」への無理解が問題なのであった。

若槻は後年この事件を回想して「反対党は、これを大問題として大騒ぎしたが、私は大問題どころか、詰まらん問題と思う。これを政治論にして攻撃するのは、彼らがいかに攻撃の材料に飢えていたかがわかるのである」・・・・・と著している。

ただし、これは若槻ばかりではなく、元老西園寺公望など多くの人がそうであった。

西園寺は「朴烈問題の如きは左程重大とは思わず」「此頃の憂国者には余程偽者多し。大問題にもあらぬものを捉えて妄りに皇室の尊厳を語り、皇室をかさに着て政府の倒壊を策するものすらあり。・・・・・決して彼らに誤らるる勿れ」・・・・・と語っているのである。

朴烈怪写真事件で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人は、以後これを度々駆使した「劇場型政治」を意図的に展開することになる。我々はこれを次の田中義一内閣に、さらに統帥権干犯問題・天皇機関説問題等に見ることになるであろう。ロンドン条約時の「統帥権干犯問題」を取り上げて、政党人自らが自らの首を絞めたと主張する人は多く、それは間違いではない。しかし、政治シンボルの操作が最も重要な政治課題となる大衆デモクラシー状況への洞察なしに、そのことだけを問題にしても、現代に生きる反省には結びつかないであろう。

逆に言うと、「政策論争」を訴える若槻の主張はまぎれもない「正論」なのだが、それだけでは政治的に敗北するのが大衆デモクラシーというものなのである。健全な自由民主主義的な議会政治(それは政党政治である)の発達を望む者は「劇場型政治」を忌避するばかりではなく、それへの対応に十分な配慮をしておかなければ若槻と同じ運命を辿ることになろう。

この問題をここまで拡大させた根源は、一枚の写真の視覚効果(ヴィジュアル的な要素)が政権の打倒にまで結びつき得ることを洞察した北一輝であったが、彼ら超国家主義者こそむしろ大衆デモクラシー状況に対する明敏な洞察からネイティヴな大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである。昭和戦前期の政治を「劇場型政治」の視点から再度見直していくことの必要性が痛感される所以である。

前半のこの文章で本書の主要な論旨が出た。

戦前日本の軍国主義の真因は、大衆デモクラシーの暴走である。

その過程で「天皇シンボル」を用いた政権攻撃が多発したが、これは「天皇制の弊害」ではなく民主主義の弊害である。

明治初期以来の近代天皇制はすでにこの時点で大正デモクラシーによって換骨奪胎されており、その政争の道具に成り下がってしまっている。

萌芽期の善き自由民主主義が、軍部や天皇制という外部勢力によって破壊されたのではなく、実質的に明治の権威主義体制から脱していた自由な民意が暴走し、自ら対外膨張と国家革新の極右的言動にのめり込んで民主主義が自壊したと考えた方が、はるかに実態に近い。

現に、戦後は今では信じられないほどの左翼偏向が数十年に亘ってまかり通り、21世紀の現在では「天皇抜きのナショナリズム」が蔓延り、「反日」「売国」などの矯激な言葉が圧倒的多数を占める知能程度の低い衆愚層の煽動に用いられている。

 

 

田中義一内閣(政友会 1927~29年)

鈴木喜三郎、鳩山一郎、森恪が中核。

内相鈴木、外相は田中の兼任のため政務次官森が重きを成し、内閣書記官長に鳩山。

陸相白川義則、海相岡田啓介、そして何より注目すべきは内閣初期に短期間蔵相を務めた高橋是清。

極めて短期間に金融恐慌を終息させたことは、著者も言うように日本の財政・経済史に残る不滅の業績である。

この人を殺したことだけでも、私は二・二六の青年将校を許せない。

田中政権下、憲政会と政友本党が合併し、浜口を総裁にして立憲民政党結成。

この際、マスメディアがシニカルな姿勢で「既成政党」の批判と「新勢力」への期待をステレオタイプ的に報道していたことの悪影響を著者は指摘している。

28年総選挙で政友会辛勝。

鈴木内相の選挙干渉をめぐる与野党対立で議員買収や暴力沙汰を含む野党切り崩し工作が行われ、政党政治の信用を貶める。

第二次山東出兵、張作霖爆殺事件発生。

民政党顧問の床次が離党(29年浜口内閣時に政友会復帰)。

パリ不戦条約の文言、「人民の名において」が問題化。

この事件が、またしても戦われた天皇シンボルをめぐる抗争であったことは言うまでもないが、政府攻撃をしたのが野党の民政党であったことも重要である。朴烈怪写真事件は、憲政会=民政党の政府に対して政友会を中心とした野党が攻勢をかけた抗争であったが・・・・・民政党も天皇シンボルをめぐる抗争を仕掛けていたのである。繰り返すが、開始された日本の大衆デモクラシー下の政治抗争においてこのシンボルが持つ大衆動員力には、党派を問わず抗しがたい魅力があったのである。また、こうした点で民政党を過大評価することは実情に即さないということも言えよう。

張作霖爆殺事件処理について、元老西園寺が不明瞭な態度を示した後、天皇の叱責を受けた田中は内閣総辞職。

 

田中内閣崩壊についての著者の視点。

昭和天皇の田中叱責は個人的行為ではなく宮中側近のアドヴァイスを受けたものであり、張作霖事件だけではなく他の政治問題での内閣への不満が原因であること、政党人は天皇シンボル乱用による反対党攻撃が「天皇親政論」的発想を生む危険に無自覚だったこと、知識人やマスメディアもその種のシンボル的問題と既成政党批判をセンセーショナルに論じるだけで二大政党制の健全な育成に意を注がなかったこと。

田中内閣の崩壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒したということであった。これは政党政治・議会制民主主義にとって好ましくない事態である。いかに「腐敗した」内閣であっても、政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道だからである。言い換えると、「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みは、「政党外の超越的存在・勢力」が「軍部」や「近衛文麿」など形を変えて再生され、メディア世論と合体して政党政治を破壊するに至る背景・下地を作ることになったのである。

 

 

 

浜口雄幸内閣(民政党 1929~31年)

外相に幣原が復帰、蔵相は井上準之助。

内相は安達謙蔵、安達は中野正剛・永井柳太郎・風見章を率い、党内勢力を鉄相の江木翼と二分した。

陸相は宇垣一成。

海相は財部彪、山本権兵衛の女婿して昇進、加藤友三郎内閣、第二次山本内閣、加藤高明内閣、第一次若槻内閣でも海相、「何度も海相を務めた割には部内統制力も定見もなかったというのが定説化しているが、浜口内閣では相当の仕事をすることになる。」

緊縮財政と金解禁をよりによって世界恐慌勃発時に実施、昭和恐慌で社会不安が深刻化。

30年第二回普選で安達内相の差配により民政党圧勝。

同年ロンドン海軍軍縮条約で統帥権干犯問題勃発。

鈴木貫太郎侍従長の条約反対派の不適切な上奏拒否、浜口の軍令部への根回し不足を本書では指摘(ただし根回しを十分行っておけば反対派が和らいだという保証は無いとしている)。

さらに、

3月27日の天皇の意思表明[「世界の平和の為早く纏める様努力せよ」――引用者註]は、天皇の国際協調主義・平和志向が表明された行為だが、当時の国内政治状況的にはかなり一面的な行為と言えよう。意見表明をしないのがベストであり、対立する両者の意見を聞き、できればさらに有力者の意見を聞いてから落とし所を図り間接的に伝えるのがベターなのである。これでは結果的に田中首相への叱責に似たものとなったと言えよう。

条約批准後、11月浜口は狙撃され重傷、31年4月総辞職(8月死去)。

 

浜口内閣の評価。

ロンドン条約での浜口政権の国際協調主義とそれが宮中と密接に結びついているという認識が米国側に印象付けられ、「天皇の存在自体が日本軍国主義の淵源ではないという認識に結びつき」、過激で懲罰的な対日世論を沈静化したことを指摘。

ただし、以下のような視点も記されている。

・・・・・ロンドン条約締結は浜口内閣の傑出した成果だが、天皇・宮中グループと新聞世論(回訓後)の強力な支援によってロンドン条約締結という最大の試練を乗り切ったという事実は、実は田中内閣倒壊の際と、かなりの程度同じ政治構造の裏返しの表現であったということがある。

二つもの政党外勢力への依存による政党の勝利には、危いところがあったのである。

国際協調主義の牧野内大臣はその後斎藤実へ内大臣を譲り(1935年)、二・二六事件では二人とも襲われ(斎藤死亡)、最後の防波堤的内大臣と見られた湯浅倉平が病気で退いた(1940年)後を継いだ木戸幸一は、軍部と妥協的になってしまう。すなわち天皇・宮中グループは政党にとって最後まで頼れるような頼りがいのあるものではなかったのである。

さらに問題なのは新聞世論であった。・・・・・回訓後、一斉に条約締結に足並みを揃え“豹変”して世人を驚かせた新聞は、いつどういう方向にまた足並みを揃え豹変するかもしれなかった。それは、1931年の満州事変の前後に、あるいは1940年のナチスドイツの電撃戦勝利下の近衛新体制・大政翼賛会・日独伊三国同盟への転換として現れるであろう。これも心ある政党人にとって頼れるような存在ではなかったのである。

 

 

 

第二次若槻礼次郎内閣(民政党 1931年)

恐慌により、陸軍軍制改革(軍縮)問題が焦点となる。

当時の陸軍は決して一方的攻勢に出ていたわけではなく、大正時代の軍縮以来、その地位は低下し、国民世論の中では今見ても異常なほど軍人への軽侮が蔓延していた。

本書で記されている実例は衝撃的ですらある。

現在では全く忘れられているが、昭和軍国主義の直前には反軍人的風潮の異様な高まりがあったのである。

極端から極端に走り、中庸を得た常識に全く欠ける世論というものの欠陥が最もよく表われている。

軍制改革による圧迫と満蒙問題の急迫という天秤の上に陸軍は乗っかっていたのだが、ぎりぎりのところで、はかりは後者に傾きつつあったとも言えよう。

満州事変と十月事件という内外危機が勃発。

熱狂する世論に迎合して、マスメディア(新聞)は部数拡大を目的に論調を大旋回させ、親軍的報道を大々的に展開。

少し前まで馬鹿げた左翼的論調を飽きもせず繰り広げるしか能の無かったマスメディアとそれをオウム返しにしていた大衆が、ここ十数年ほど、空疎で幼児的な排外的ナショナリズムと自衛隊へのわざとらしい信頼を語るようになっているが、昭和史を振り返ると不吉だなあ、と感じる。

危機が進行する中、安達内相が政友会との大連立、協力内閣構想を主張。

同31年、イギリスではマクドナルド挙国一致内閣が成立している。

しかし、犬養と若槻がある程度意欲を示していた最初期の段階で、よほど巧みな取りまとめ役でもいればともかく、とくに政友会の反主流派的な久原[房之助]が中心に動いたのではこの連立政権構想はリアリティーの乏しい話であったと言うしかないであろう。犬養・鈴木・森などの政友会主流派幹部は動かず、しかもわざわざ金解禁政策に反対することを決議しているのは、協力内閣は作らないということなのである。政党が陸軍を抑える機会を失ったということであれば惜しまれるが、井上の言ったように、そもそも陸軍を抑えるつもりなのか押し立てるつもりなのかさえもはっきりしていなかったのが協力内閣運動の実態なのであった。

12月閣内不一致で若槻内閣は総辞職。

 

まとめ。

行財政改革と軍縮を目指す内閣・新聞世論と満州問題の切迫を煽る陸軍の均衡状態が事変により一気に破れ、前者の目標自体が忘れ去られてしまった。

対外危機という最大の「劇場型政治」が展開され、政党はそれを追認することしかできず。

幣原外交が過度に国民の不満を蓄積させていた面も否定できない、ポピュリストに主導権を奪われずに対外危機を克服する方策を常に考慮しなければならない。

第三に、陸軍のコントロール・処分の失敗という点も大きい。まず8月時点での不穏な気配に対する政府の情報探索が不十分であった。対外危機に触発されやすい軍の中堅幕僚・青年将校の動きに対しては、憲兵隊・内務省両方から情報を収集し、分析するセクションを設定すべきであった。事変勃発後は林朝鮮軍司令官の越境に対する処置が蔑ろにされているし、十月事件クーデターに対する処分も全く不十分であった。

そしてその背後には、そもそも大正末期以来の軍縮期の軍人に対する待遇・処置の失敗があったことは見た通りである。

 

第四として、協力内閣にはほとんど現実化する契機がなかったのだが、それにしても二大政党制か連立内閣かという岐路で迷走する若槻の姿は、この時期の政党政治を象徴していると言えよう。これが、「つきつめない」「絞りきらない」その性格からくることであるとすれば、最も重要な時に最も向いていない人がしかるべき地位に立っていたということになる。しかし、それにふさわしい人がふさわしいポジションにいることのほうが難しいことなのかもしれない。第一次若槻内閣の末期にはすでに民政党の人材難が始まっており、それが片岡蔵相の失言問題につながっていることは既述した。浜口内閣は浜口の気力と強硬姿勢で何とかロンドン条約と金解禁を実施したが、その反動が次の内閣を襲ってきたのである。その時首相となっていたのが「つきつめない」若槻だったのだ。政党政治は一人でやる仕事ではない。人を能力・適性に応じたポジションに配置しながら、リーダーにふさわしい人を選び出す組織としての政党というものの重要性をあらためて浮かび上がらせたのが最後の民政党内閣だったと言えよう。

 

浜口と若槻の任期が逆なら良かったのか。

そんな単純な話のわけが無いと承知しつつも、昭和に入ってからの政友会がヒド過ぎる以上、民政党に期待をかけるしかなく、緊縮財政にこだわらず、恐慌克服と社会の安定を最重視し、満州事変を何とか封じ込める浜口内閣を見たかった気がしてならない。

 

 

 

犬養毅内閣(政友会 1931~32年)

蔵相高橋是清、外相芳沢謙吉、陸相荒木貞夫、海相大角岑生、内相中橋徳五郎、文相鳩山一郎、司法相鈴木喜三郎。

犬養自身は政友会の自由党系ではなく、改新党系政治家で、政友会入りは25年革新倶楽部解散後。

それが田中義一の死後、総裁に推される。

当時の政友会は主に四派に分かれる。

鈴木喜三郎派=鳩山一郎、森恪ら。最大派閥。

床次竹次郎派=原敬に抜擢されたこともあり、政友会の「嫡子」扱い。

久原房之助派=久原は財界出身者。協力内閣運動を起こした非主流派。

旧政友派=岡崎邦輔、中橋徳五郎ら古参幹部。床次派と近い。

久原派の政・民大連立内閣運動も実は親軍的行動だったとの説が有力だが、それに反対した主流派も鳩山・森が今村均作戦課長、永田鉄山軍事課長ら陸軍中堅層に倒閣への協力を依頼したというのだから酷い話である。

「産業立国」の名の積極政策で恐慌に対処(高橋蔵相のやることは本当に全部安心だ)。

32年2月総選挙で政友会圧勝。

上海事変、血盟団事件と、内外の危機は継続しているのに、鈴木派・久原派の党内闘争が激しくなる。

五・一五事件が勃発、犬養は殺害され、後任は陸軍の圧力もあり、政党主導ではなく、海軍穏健派の斎藤実挙国一致内閣となり、政党政治の時代は終焉する。

 

まとめ。

まず、「養子」総裁として独自の党内基盤を持てなかった犬養のリーダーシップ不全。

この決定的時期に外交政策において内閣書記官長で対外強硬派の森恪の存在により、犬養が構想した対中融和策の実行は極めて困難になった。

 

次に政党人の政党政治への信用失墜に対する危機意識欠如。

 

そして著者が挙げるのが、元老西園寺らの「宮中擁護第一主義」の弊。

内相安達を原因とする閣内不一致で若槻内閣が総辞職した際、若槻への再度大命降下を考慮した西園寺だが、右翼・超国家主義勢力の攻撃が宮中に向かうのを憂慮して避けたという。

「財政や外交」以上に、「政党の腐敗以上に」宮中を守ろうとした、というのである。「財政や外交」に失敗して守られる「宮中」というものがあると思ったのであろうか。こうした宮中側近の態度こそ、戦前・戦中・戦後と事態が進むにつれついには政党政治はおろか天皇・宮中それ自身をも危機に追い込んでいったのであった。

 

そして陸軍の圧迫。

単にテロに怯えたというだけでなく、「軍縮時代に軍人をいじめ過ぎた」という後ろめたさがあり、政党政治家たちが心理的に守勢に立っていたことを指摘。

軍人を蔑ろにせず、そして驕らせることもなく、適切に取り扱うことが議会制民主主義にとって必須である。

 

最後に、「戦争とテロ」という新しい劇場型政治と「昭和維新」運動への国民的人気への無理解。

対外戦争を報じるメディアを国民は熱狂的に迎え、テロを引き起こした青年将校らを礼賛する風潮が社会に満ち満ちた。

これは、しかし、政党政治家の反省すべき点というより、戦前の悲劇について、国民自身の責任がいかに大きいか、民主主義自体がどれほどの危険を含んだものか、を示しているように思える。

こうして、元老・重臣・財閥・特権階級の打破と平等主義の実現を訴える彼らの主張は多くの支持者を獲得していくことになるが、政党人はこれに十分に対応することができなかったのであった。“内輪の政争に明け暮れ、実行力・決断力なく没落していく既成政党と一挙的問題解決を呼号しもてはやされる「維新」勢力”という図式が作られやすいという意味で、歴史は繰り返すのである。

 

 

 

全巻のまとめとして、政党政治没落の原因が末尾で述べられる。

自分の感想も交えつつ紹介します。

 

1.疑獄事件の頻発など政治腐敗

これ自体、確かに問題だが、私個人としては、そもそもこの手の醜聞を根絶するのは不可能だろうし、煽情的な報道で生まれた狂信によって議会政治自体が破壊されれば元も子もないし、「あまりにひどいものだけでも、法に則ってしっかり取り締まってくれればよい」くらいに考えてしまう(メディアで盛んに批判されるような汚職は実は「小物」であって、雇用の不安定化や労働条件の全般的悪化のような政策が大資本の意向通り進められているのを見ると、そっちの方が「巨悪」だろうと、最近思います)。

 

2.国会の混乱、買収・議事妨害・乱闘

これも上記に同じ。そうした国会議員を冷笑して一向に構わないが、それも自分たち国民自身が選んだ、国民のレベルに見合った議員なんだ、と自覚すべき。

 

3.地域の政党化・分極化と中立化・統合化欲求の亢進

二大政党時代、公共事業や公務員職の利権をめぐって、地方での党争が異常なほど高まっていた。

言い換えるならば、政党政治の時代には日本社会は分極化しており、政党政治が終り「天皇」を中心にして「警察」(さらに広く言えば「官僚」)のような中立的と見られた勢力によって社会が統合されることが、地域から、国民の側から望まれるような社会構造が存在していたということである。政党内閣から非政党・中間内閣への変貌が、上から嫌がる国民に無理やり押しつけられたということではない形で、むしろ望まれていたことが、社会的背景を通じて理解されるのである。

こうした視点から見ると、「党利党略」に憂き身をやつす(と見られた)政党政治への「嫌悪感」が「中立的」と考えられたもの(天皇・官僚・警察・軍部等)の台頭を必然化したのだとも結論付けることができよう。

 

4.「劇場型政治」とマスメディア・世論の未熟な政党政治観。

普通選挙による政治の大衆民主主義化時代を迎え、非本質的なスキャンダル(疑獄・失言・女性問題など)やシンボル的な問題(天皇やナショナリズム、対外紛争)を煽情的に取り上げつつ、そのこと自体には真摯な関心を持つわけでもなく、ただ反対党派を罵倒攻撃し、自派の優位を図るという、劣悪な政治ゲームに歯止めがかからなくなる。

メディアも、冷笑的な「批判のための批判」や、ただ自社の利益のためにもっとも俗耳に入りやすい論調を煽り立てることしかしない。

真正な公的議論というものが消滅し、衆愚的国民の感情を支配する競争だけが激しくなり、国の命運はただ風任せという状態に。

それが大正デモクラシー以後の戦前日本です。

でも、これ今と全く同じですよ。

戦前は非民主的政治制度のせいで破滅的戦争に至り、戦後は民主化で繁栄した、なんて絶対言えるものではない。

戦前日本の全てを肯定することしかしない右翼も、戦前日本を破滅させたのは他ならぬ民衆自身であることを認めない左翼も、双方頭がどうかしてます。

 

 

 

基本的に素晴らしい著作だが、一点疑問を感じる部分もある。

著者は大衆民主主義時代においては、「劇場型政治」を忌避するだけでは済まず、それへの対応を考えなければならないことを強調する。

現実政治家へのアドヴァイスとしては、それが正しいのだろう。

しかし、著者は知識人のはずである。

それならば、そうした対応を強いる民主主義の進展自体が、決して好ましいものではない、という批判があってしかるべきなのではないだろうか。

「民主化は時代の必然で止め様が無いから、言わない」「今の時代、民主主義そのものを否定するような議論は言いにくい」と少しでも考えているのなら、同じく多数派民意が生み出す流れに抗えなかった西園寺による「宮中第一主義」の「怯懦」を批判する資格は、著者には無いように思うのだが、どうでしょうか。

 

 

 

著者の姿勢に一部疑念を感じるところもあるが、総合的に見れば、やはり「必読」というレベルの本です。

評価は文句なしに「5」。

ちょうどいい具合に、時代的に本書の末尾が、もう一つの傑作、坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』に繋がります。

強く、強くお勧めします。

2016年9月4日

岡本隆司 『袁世凱  現代中国の出発』 (岩波新書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 03:36

塚本哲也『メッテルニヒ』の記事で書いた通り、ジョン王やフランコなどと並んで、高校世界史レベルでも最高度にイメージの悪い人物の一人が、この袁世凱でしょう。

1859年河南省生まれ。

名門に生まれながら、科挙受験を放棄、一族のつてで李鴻章率いる淮軍の一部隊に入隊。

当時の清朝下における社会情勢は、著者によれば、「督撫重権」の言葉で表される(『中国「反日」の源流』)。

18世紀の人口爆発の結果、民間社会が膨張、非合法的な秘密結社と伝統社会の側でそれに対抗する「団練」が衝突し、「社会の軍事化」が進行、そのうち巨大化した団練義勇軍の長が地方大官(総督・巡撫)として実権を握り、中央政府は自らの権限を狭め、それら大官をオーソライズして乗っかり、王朝の延命を図る、というシステム。

西太后政権はそれを本質とし、「同治中興」を成し遂げた。

袁世凱は、若くして参謀格で朝鮮に派遣され、壬午軍乱・甲申事変に対処、日本の勢力を抑え、清国優位の情勢を維持することに成功。

しかし、東学党の乱に当たっては、日本の強硬姿勢を見誤り、日清開戦。

敗戦後、李鴻章は一時失脚するが、袁は巧みにその忠誠を実力者栄禄に乗り換え、「新建陸軍」(略して新軍)という西洋式装備の最精鋭部隊の長となる。

「辛亥革命での策謀」と並んで袁の悪名を高めたのは「戊戌変法への裏切り」だが、面白いのは、本書では光緒帝と康有為ら変法派への評価がそもそも高くないこと。

西太后も当初から変法弾圧を目論んでいたわけではなく、まず変法派が先制攻撃を計画して、首都近郊の最精鋭軍を指揮したまたまキャスティング・ヴォートを握る立場にあった袁を抱き込もうとしたのだが、完全に栄禄の配下にある袁を協力させようとしたこと自体が現実離れしており、袁は当然拒否、これは客観的には「裏切り」とは言い難いとされている。

政変後、光緒帝は幽閉されるが、列強と地方督撫の反対で廃位はできず。

中央政府強化の動きと排外主義の高まりが同時に進行。

戊戌の政変とは何か、と問われれば、光緒帝・「変法」派の側がやろうとしていた権力集中を、そのまま西太后・反対派が引き継いだにすぎない、といえる。極論すれば、そのめざす先に改革があったかどうか、が時と場合により、異なっていただけである。そして実情に沿うか否かにかかわらず、改革をめざしたら列強は好意的で、そうでない場合、露骨に嫌悪した。政変後の北京が、排外に一変するゆえんである。

 

 

戊戌の政変で、光緒帝は権力を失い、西太后を頂点とする体制が復活した。のみならず、実施されはじめた「変法」は、ほぼ白紙にもどった。北京にみなぎっていた改革の空気は、弾圧をへて急速に減退する。

程度の差こそあれ、当時なにがしかの改革が必要だという認識は、多くの官僚・人士が共有したところだったはずである。そうであればこそ、本心は明らかではないながら、西太后も光緒帝主導の「変法」の進展を見守る姿勢をつづけていた。その意味で、「戊戌変法」における康有為派の性急な手法は、かえって改革をはばむ結果となったのであって、中国の変革にとっては、惜しみてもあまりある。

もっともそうしたみかたは、どうも一般的になっていない。守旧派が「変法」派の改革を一方的に圧殺した、とみるのが常である。

ひとつには、当時から康有為派がジャーナリズムを利用し、猛烈な宣伝活動を続けていたからである。自己の弁護、正当化のためには、文書や勅命の偽造改竄まで辞さなかった。しかもそれがそのまま、当時をうかがう史料にもなったために、かれらを中心に歴史をみる習性が、こちらに抜きがたくついてしまっている。

そんなわれわれはまた、変革・「変法」を正当・正統とする観点に慣れてしまって、それを疑わない。変革の潮流を妨げた以上、無条件に悪役なのであって、当時の事情に思いをめぐらせることがなかなかできないのである。しかもわれわれは外国人であり、自らの観点や政体を当然だと思うがゆえに、それに反する行動をとった西太后の側に、どうしても批判の目を向けがちになってしまう。

それは現代ばかりではない。当時の外国もまた同じである。列強は自らの政体に近い、より好ましい交際相手を生みだすものとして、「変法」の動きを評価していたため、政変には大いに失望し、光緒帝と「変法」派に同情を隠さなかった。康有為らの亡命・助命に手を貸したのも、その一例である。

現代も当時もしょせんは外国、中国の内政には無責任な立場であり、また理解も十分ではなかった。それがいっそうの悲劇を生み出す契機をなしてゆく。

山東巡撫に任じられると、義和団を中央の方針に反して抑圧。

列強への宣戦布告と敗北後、李鴻章の死去を受けて、直隷総督兼北洋大臣に就任。

老齢の張之洞、劉坤一らの巡撫に替わり、政府の第一人者となり北洋軍育成。

国内でナショナリズムが高揚するものの、中央と地方の対立現象は変わらず。

1908年西太后死去、宣統帝即位。

翌年、袁は失脚。

辛亥革命で再起用、北方清朝側は南方革命勢力に対し軍事力では優勢だが、内戦時の列強干渉を恐れる。

「立憲」の一点でまとまることができず、君主制と共和制の対立を解消できず。

こうなると、袁が野心を持って策謀をめぐらしたというより、自然と南北和解と政権統一のために、袁総統が誕生したと言うべき。

果たして、南方の非妥協性は賢明だったか?、「種族的復仇」に囚われ過ぎではなかったか、と本書は問いかけている。

1913年国民党を弾圧し、第二革命も鎮圧。

1915年日本に二十一ヵ条要求を突きつけられた後、帝政運動を始め、「洪憲」を称するが、立憲制は維持。

第三革命が勃発、1916年帝政を取り消した後に死去。

 

以前、「スペイン内戦はフランコが勝って良かったんじゃないか」というとんでもない意見を書きましたが、ここでも正直「中華帝国」・袁帝政が続いた方が良かったんじゃないか、と思えなくもない。

その後の、泥沼の軍閥混戦、凄惨な国共内戦、その挙句の共産党独裁体制成立で、一体何千万人が死んだのか。

日本も中国現代史の悲劇には大いに責任があるのだから、あまり軽々しく口に出すことではないが・・・・・・。

もちろん袁帝政の存続は現実性があまりに乏しかったんでしょう。

やはり清朝統治下での近代化が成功せず、革命という歴史の断絶を経なければ国民国家を成立させ得なかったことが中国の不運だったと思える。

 

 

辛亥以前の時期を重視したコンパクトな伝記。

読みやすく、評価はまあまあ。

やや食い足りない印象もあるが、紙数の制約も考えればこんなもんでしょう。

2016年9月2日

トゥルゲーネフ 『初恋』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 03:28

短編なので読みやすい。

内容的には特にどうと言うこともないが、やや苦い思いを残す佳作。

『猟人日記』などには今のところ手が出ないが、代表作『父と子』の他にとりあえずもう一作追加できて、少しは格好がつきましたかね。

ただそれだけです。

2016年8月29日

大嶽秀夫 『ニクソンとキッシンジャー  現実主義外交とは何か』 (中公新書)

Filed under: アメリカ, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 04:53

1969~1974年の任期中に、ヴェトナム撤兵、米中接近、米国・ソ連間デタントという三つの顕著な外交実績を上げた米大統領ニクソンとその安全保障担当補佐官キッシンジャーの世界認識と対外行動方針を考察した本。

叙述対象は、最初と最後の総括的概論を除けば、上述の三つの業績のみで、第四次中東戦争と石油ショックへの対応、沖縄返還と頭越しの米中和解および通貨変動相場制移行をめぐる日米関係、ブラント政権の東方外交をめぐる米・西独関係の協調と軋轢については、ほとんど記されていない。

分量はコンパクトで、まず負担にならないレベル。

それでいて説明は丁寧で要領が良く、文章も簡潔かつ明解で読みやすい。

ニクソン・キッシンジャー外交はおおむね肯定的に評価されてはいるが、その限界や失敗も見逃されてはいない。

史実の解釈や人物の評価にも違和感はほとんど感じない。

初心者向けの良好なテキストになると思われます。

2016年8月27日

ウィリアム・シェイクスピア 『アントニーとクレオパトラ』 (白水社uブックス)

Filed under: ローマ, 文学 — 万年初心者 @ 04:00

これも以前記事にしたものの再読だが『ジュリアス・シーザー』と違って、さして強い印象を受けない。

クレオパトラとの愛欲に溺れてオクタヴィアヌスとの闘争に敗れるアントニウスの姿が、史実通り淡々と描かれているだけという感じ。

面白くない。

こういう印象を持つのは残念であり、まず読み手である自分の資質の問題であることは間違いないが、嘘偽りの無い正直な感想を言えば以上の通りです。

2016年8月22日

高根務 『ガーナ  混乱と希望の国』 (アジア経済研究所)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 02:09

2003年刊で、新書版の薄い本。

「歴史編」と「現代ガーナ編」の二部構成。

当然、前者のみ力を入れて、後者は軽く読み飛ばす感じでいいでしょう。

 

ガーナは西アフリカにある国で、南はギニア湾、東はトーゴ、西はコートジボワール、北はブルキナファソに接する。

「ガーナ」という国名は古代ガーナ王国から取られたものだが、古代王国は現ガーナよりかなり西北部に位置し、版図は全く重なっていない。

独立以前はヨーロッパ人が名付けた「ゴールドコースト」という名で呼ばれていた。

11世紀頃から南部で産出する金と北部のイスラム商人が持ち込む岩塩を交換する交易が発展、いくつかの都市が栄える。

多数の諸王国が分立した状況の中、ヨーロッパ人が到達、1482年ポルトガル人がエルミナ砦を築く。

16世紀には、イギリス・オランダ・デンマーク・スウェーデンも進出、多数の砦を築き、金の交易を行う。

そのうち、エルミナを1637年オランダが奪取、イギリスはケープコースト城を支配、英蘭両国が優位を占める。

17~18世紀、悪名高い奴隷貿易が行われ、多数の奴隷がゴールドコーストから輸出される。

ただ奴隷の調達は現地のアフリカ人によって行われ、ヨーロッパ人が直接捕獲に従事することはなかった。

ヨーロッパとの交易の影響もあり、内陸部では諸王国の対立抗争が拡大。

その中で、17世紀末からオセイ・トゥトゥ王の下で興隆したアシャンティ(現地音ではアサンテ)王国が、18世紀に急速に勢力を拡大、19世紀初頭には現ガーナ領を上回る版図を支配。

ただし、その統治は連合王国のような形で、その配下に多数の諸王国、首長が存在していた。

1808年イギリス・アメリカが奴隷取引を違法化(これは奴隷の新規流入が止まっただけで、アメリカ国内では当然南北戦争中まで奴隷が存在していた)。

アシャンティ王国は「黒人奴隷貿易で栄えた黒人王国」という歪な存在であり、あまり好意的には見ていなかったが、しかしだからと言ってヨーロッパ諸国の罪が軽減されるわけではない。

アシャンティ王がイギリス領事に語ったという「今になって(奴隷の売買が)悪いというが、それではなぜ以前はよかったのか?」という言葉を読むと、そう思う。

確かに19世紀に自発的に奴隷貿易禁止を定め、それを徹底したのはヨーロッパの美点としてもよいが、それまでの200年間散々その種の悪行で儲けてきたわけですから。

しかも今度は、「奴隷制廃止」をアジア・アフリカ諸国侵略の口実に使うんだから始末が悪い。

1820年代、沿岸部の属国ファンテ王国とアシャンティとの関係悪化にイギリスが介入、1826年ドドワの戦いでイギリス軍が勝利、沿岸諸王国はイギリスの影響下に入る。

その後、しばらく小康状態を保ったが、19世紀後半に英・アシャンティ間の対立が再燃。

英国と違い、親アシャンティ的政策を取っていたオランダが、周辺諸王国の反抗に手を焼き、1872年エルミナをイギリスに譲渡すると、いよいよ英国が完全に優位を占めるようになる。

1874年イギリス軍がアシャンティに侵攻、首都クマシに入城。

南部沿岸部はイギリスの植民地となり、首都はケープコーストからアクラに移される。

19世紀末、フランスとの植民地獲得競争の中、イギリスはアシャンティの完全な支配を目論む。

1896年再度のクマシ占領の後、イギリスはアシャンティ王国を保護領と宣言、アシャンティ王をセイシェル諸島に追放。

実質、この時点で全土が植民地化されたとみていいようだ。

しかし、完全な植民地化の前にもう一波乱があった。

イギリス総督が、アシャンティ王の帰国は有り得ないと言明、王国の象徴である「黄金の椅子」を差し出すことを命じ、そこに自身が座るつもりだと宣言すると、激昂した首長たちは最後の反乱「ヤー・アサントワ戦争」を起こすが敗北、アシャンティ王国は植民地領に併合される。

(なお政治的実権は無いものの、地方首長と共にアシャンティの王号を持つ人物が現在も存在しているという)。

植民地統治下ではカカオ栽培が始まり、一大産業となる。

イギリスは伝統首長を温存し、間接統治を敷いた。

第二次大戦後、独立運動が本格化。

1947年、初の政党「統一ゴールドコースト会議」結成。

その漸進的独立路線に飽き足らない急進派のエンクルマが「会議人民党」を1949年結成。

(なおエンクルマは、本書では「ンクルマ」と表記されているが、いくら原語発音に近くても、これはちょっと日本語として不自然に感じるのでこの記事ではエンクルマとします。)

最終決定権はゴールドコースト総督にあるとされつつも、行われた立法議会選挙で会議人民党が数度の勝利を重ねる。

1957年、サハラ以南のブラック・アフリカで(植民地からの)初の独立国として、ガーナが建国。

エンクルマが初代首相に就任(60年には大統領に)。

だが、その後がまずかった。

産業国有化と社会主義的路線で経済は慢性的不振状態に。

私は、市場原理主義や自由放任主義を主張する経済学に絶大な嫌悪と軽蔑を感じてはいますが、だからと言って国家社会主義的な計画経済を是認するわけにはいかない(当時の閣僚の一人は「男を女に変えること以外なら、政府はどんなことでもできる」と語っていたという。これじゃ経済運営にも国家建設にも失敗しますよ)。

政治面でも激しい弾圧が行われ、統一ゴールドコースト会議の流れを汲む統一党の指導者ダンカは獄死、ブシアは亡命、会議人民党の一党制が敷かれる。

国内の混迷が深まる中、1966年クーデタが勃発、エンクルマは失脚。

あるガーナ人史家は以下のように記す。

「・・・・・独立当初の三年間で、ンクルマとその政府が内外で成し遂げたことの偉大さについては、疑問の余地がない。もし彼の政権がこの最初の三年間で終わっていれば、彼は最も偉大なガーナ人、最も偉大なアフリカ人として、人々に永久に記憶されたことだろう。だが残念なことに、実際にはそうならなかった・・・・・」

クーデタ後、軍部主導のアンクラ政権が成立(次いでアフィリファに国家元首が交代)。

1969年には、とりあえず民政移管が行われ、進歩党(旧統一党)のブシア政権成立。

しかし、このブシア政権も経済再建に失敗、単に政権担当政党が入れ替わっただけで会議人民党時代と同じ結果に。

72年再度のクーデタ発生、アチャンポン軍事政権成立。

アチャンポン、アクフォの両軍事政権も、経済情勢を好転させることはできず、汚職・腐敗の蔓延、激しい政治弾圧も相俟って国内の不満は頂点に達する。

そうした中、1979年31歳の空軍大尉ローリングスが若手将校と共にクーデタを企て失敗。

軍事裁判にかけられるが、ローリングスは法廷で堂々と軍上層部を批判。

その直後、ローリングスに同情的な軍将校によるクーデタが成功、釈放されたローリングスが一躍国の指導者となる。

同年中に会議人民党の後身である人民国家党のリマン文民政権が誕生するが、経済危機の進行を止められず、81年ローリングスが再度のクーデタを実行、政権を握る。

ローリングス政権は、東側共産圏から大規模援助を得られる見込みが無いとみるや、親西側路線に転向し、自由主義的経済改革を進める。

このローリングスという人の名は、新聞の国際面で時々目にしていたので、本書を読む前から知ってはいた。

一度目のクーデタで、アチャンポン、アクフォ、アフィリファらを銃殺刑に処し、二度目のクーデタではリマンは殺されなかったものの、多くの反対派が殺害されたと、本書にも書いてあるし、IMF・世界銀行の勧告を受け入れ「構造改革政策の優等生」と評価されたと記されると、(今の私の考えからすると)かなりひっかかる点もあるのだが、それ以前の状況が悪過ぎたので、ひとまずこのローリングス政権は肯定的に評価すべきなのかなとも思う。

実際、経済状況は顕著な立ち直りを見せ、さらに政治的にも、旧統一党・進歩党の新愛国党(NPP)とローリングス派の国民民主会議(NDC)の二大政党制が確立し(エンクルマ系の人民国家党[旧会議人民党]は分裂・弱体化)、2001年にはクフォーNPP政権が誕生し、アフリカでは珍しい平和的な政権交代を実現している。

外務省ホームページを見ると、以後はNDCが政権を奪還し、ミルズ政権・マハマ政権が続いているものの、国内情勢は必ずしも安定してはいないようだ。

 

非常にコンパクトだが、歴史編の内容はしっかりしている。

図表が多いのも親切。

こういう新興独立国の通史としては、これくらいのものが適切。

十分推薦に値する良書。

2016年8月18日

引用文(内田樹8)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 02:33

内田樹『武道的思考』(筑摩選書)より。

 

ナショナリストとパトリオット

 

河合塾での講演のあと、廊下でひとりの予備校生から、ナショナリズムについて質問された。たぶん、彼の周囲でもナショナリスティックな言動をする若い人たちが増えてきており、それに対してどういうスタンスを取るべきか決めかねているのだろう。

若者がナショナリズムに惹きつけられる理由はわかりやすい。

それは帰属する集団がないからである。

人間は帰属する集団があり、そこで他者と共生し、協働し、必要とされ、ゆたかな敬意と愛情を享受していれば、パトリオットにはなっても、ナショナリストにはならない。

パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。

ナショナリストはそうではない。

彼はどのような集団にもそのような仕方では帰属していない。

彼は自分がさしあたり所属している集団について(それが家族であっても学校であっても、会社であっても)「ここは私がいるべき場所ではない」というひそかな不安と不満を感じている。彼らはその集団を律している規範も、その集団の存在理由もうまく理解できず、他の成員たちに対して、敬意や愛情を感じることができない。むろん、他の成員たちから敬意を抱かれ、愛され、「私たちの集団が存立してゆくためには、どうしてもあなたがいることが必要だ」と懇請されることもない。

そういう人間でも、どこかに帰属していない限り、生きてゆくことは苦しい。

そういう場合、「ナショナリストになる」というのはひとつの選択肢である。ナショナルな政治単位に帰属することについては要求される資格が何もないからである。

「国民国家」というような巨大な規模の集団に帰属する場合、ナショナリスト個人に求められるものは自己申告以外に何もないのである。

ゼロ。

ナショナリストにはどのような義務もない。好きなときに、好きな場所で、好きな人間を相手に、気が向いたら、人はナショナリストになることができる。

私はナショナリストだ。私は日本人だ。私は日本の国益をあらゆるものに優先させる。日本の国益を脅かすもの、日本人の誇りを踏みにじるものを私は許さない。

などということをぺらぺら言い立てることができる。

その代償として要求されるものは、繰り返し言うが、ゼロである。

真正のナショナリストであることを証明するために「今、ここ」でできることは何もないからである。

ナショナリストは国際関係について熟知している必要がない(アメリカ大統領の名前を知らなくても問題ない)、もちろん外交内政についても、歴史についても(政治思想史についてさえ)、無知であることはナショナリストの名乗りにいささかも抵触しない。むしろ、そのような外形的知識の裏づけなしに「いきなりナショナリスト」でありうることの動機の純正さが尊ばれるのである。

一方、ナショナリストはしばしば「自分が知っていること」は「すべての日本人がしらなければならないこと」であるという不当前提を採用する。だから、論争においてほとんど無敵である。

彼らの論争術上のきわだった特徴は、あまり知る人のない数値や固有名詞を無文脈的に出してくることである(「ノモンハンにおける兵力損耗率をお前は知っているか」とか「一九五〇年代における日教組の組織率をお前は知っているか」「北朝鮮の政治犯収容所の収容者数を知っているか」とか)。それに、「さあ、知らないな」と応じると、「そんなことも知らない人間に××問題について語る資格はない」という結論にいきなり導かれるのである。これはきわめて知的負荷の少ない「論争」術であるが、合意形成や多数派形成のためには何の役にも立たない。

もう一つ大きな特徴は、ナショナリストにはその立場を証明するための直接行動が要求されないということである。

家庭や会社でそれなりの敬意を得るためには、具体的行動によって集団に貢献することが要求されるが、ナショナリストは「領土問題」とか「外交問題」とか「防衛計画」とか、ほんらい政府が専管する事項を問題にしているので、個人としてはできることが何もないのである。ナショナリストは「日本人全体」と幻想的な集団を形成しており、そのような幻想的な集団の中では、誰も彼に具体的な仕事を命じないし、誰もその貢献を査定しない。

だからナショナリストは誰からも文句を言われない。

というように、ナショナリストであることは行使できる権利に対して義務負荷がきわめて少ないのである。

ひさしく消費社会の中でその社会感覚を研ぎ澄ましてきた若者たちが、商取引のスキームに準拠して、「もっとも権利が多く、義務が少ない」ナショナリスト・オプションを選好するのはだから怪しむに足りないのである。

グローバル資本主義の爛熟の中で、ナショナリストの若者が組織的に生まれるのはそのような理路による。

パトリオットというのは、その逆の行程をたどる。

パトリオットは自分が今いる場所を愛し、自分が現に帰属している集団のパフォーマンスを高めることを配慮し、隣人たちに敬意をもって接し、今自分に与えられている職務を粛々と果たすことをおのれに課す。そのような「場所」や「集団」や「隣人」たちの数を算術的に加算してゆくことを通じて、やがて「国民国家」にまで(理論的にはそのあとは「国際社会」まで、最後には「万有」に至るまで)「私の帰属する集団」を拡大してゆくことをめざすのがパトリオットである。

若い人たちにはできることならパトリオットをめざしていただきたいものだと思う。

(二〇〇九年七月)

2016年8月9日

大谷正 『日清戦争  近代日本初の対外戦争の実像』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:53

日本が近代国家としてその存在を確立し、清を中心とした東アジア国際秩序を再編するために必要だった戦争、あるいは、明治国家の侵略政策の帰結、という左右両派の日清戦争必然説を退け、開戦に至るまでの東アジア国際情勢、日清両国の内政事情、外交交渉、開戦後の軍事作戦、講和交渉、下関条約後も続いた台湾での平定作戦を叙述し、メディアの戦争報道を通じた国民意識形成、地域の戦時動員と追悼慰霊行事など社会史的観点にも目配りした総合的著作。

幅広い記述なのはいいのだが、参考文献の最初の方には、明らかに一昔前の定型的な左翼史観の著作が並べられ、本文中でも頻繁に引用されている。

また著者自身の文章にも、正直違和感を感じる部分は確実にある。

しかし、ここ十数年、ひたすら自国を賛美・正当化し、近隣諸国に憎悪を込めて罵詈雑言を浴びせかけるだけの(本来は史観とすら言えない)、下劣・愚鈍・幼稚な「右派」「愛国」史観がはびこっているので、それに対する解毒剤を服用するつもりで、あえて本書を通読する。

「完全無欠な輝かしい戦勝」「近代化に邁進した日本と惰眠をむさぼった清国」という通俗的イメージとは異なる実態が浮かび上がってくる。

兵站の不備、軍指揮官の独断専行、攻勢に偏した作戦計画、敵を過小評価する情報収集、国際法遵守が下部に徹底されず起こった旅順虐殺という不祥事など、後世大きな禍根となった事象がすでにこの戦争に現れている。

明治天皇が連綿と受け継がれてきた帝位と国家を危うくする懸念から、開戦に極めて消極的であったことも記されている。

明治帝の危惧はこの時点では幸いにも杞憂に終わったが、昭和帝の時代に日本は有史以来最悪と言える亡国の憂き目を見ることになる。

明治日本を礼賛するのも結構だが、この日清戦争は本当に完璧な勝利と言えるのか?

台湾を獲得し、戦費を上回る賠償金を得たが、本来この戦争の最大の戦争目的・戦略目標は、朝鮮半島から潜在的敵対勢力を排除して、日本の安全保障を確実なものにすることだったはず。

これにははっきり言って失敗している。

三国干渉後、朝鮮政府内で親露派が台頭、1895年閔妃殺害事件という帝国主義時代でも格段に乱暴な措置(以前も書きましたが、これは大逆事件以上に明治日本の恥ずべき汚点です)を取ってもさらに事態は悪化した。

親日的な開化派は一掃され、一年半にわたって続けられてきた甲午改革は終わった。それとともに日本の影響力は一気に低下し、ロシアの直接の介入を招いた。日清戦争の戦争目的であった内政改革とその背後で日本が進めていた事実上の保護国化は、三国干渉と露館播遷によって最終的に挫折する。日清戦争によって日本は朝鮮から清勢力を追い出すことに成功したものの、結局は朝鮮に対する支配権を強めることに失敗し、ロシアの影響力が強まるという最悪の結果となったのだ。

日清戦争時の伊藤博文首相と陸奥宗光外相のコンビを近代日本最高・最優秀の政治指導の組み合わせとし、「陸奥外交」を賛美する岡崎久彦も『戦略的思考とは何か』では、以下のように書いている。

実は日本だけにとってみれば、日清戦争はその後の日露戦争と一緒にしてはじめて意味をなすもので、それ自体だけであまり意味はない戦争でした。もちろん日清戦争で日本は台湾と莫大な賠償金を獲得しますが、それは戦争の本来の目的ではありません。戦争の目的は一にかかって朝鮮半島における日本の覇権を確立し、日本の安全保障を確実にする国際環境を確保することでした。しかし最終的に日露戦争に勝って強制的に韓国を併合するまでは、日本の朝鮮政策はまるでザルで水を汲んでいるようなものでした。

明治十七年の甲申の変で金玉均の独立党のクーデターが成功して親日政権ができるとすぐに清兵が介入して、政権は三日天下に終り、そのあと日清戦争までは朝鮮半島のヘゲモニーは完全に清国が把握します。

日清戦争中でソウルが日本軍の占領下にあったあいだは、親清派をパージして、新政府に種々の親日政策をとらせることもできますが、三国干渉で日本が脆くもロシアの言うとおりになるのをみると、占領中迫害された閔妃を中心とする宮廷はロシアの勢力を引き込んで日本に対抗させます。これをみて怒った日本公使館、邦人記者団等が、壮士をひきいて宮廷に乱入して閔妃を斬殺し石油をかけて焼いてしまうという無茶苦茶をしてみたところで、かえって逆効果になっただけで、この乱暴に驚いた国王は宮廷ごとロシア公使館に避難して、政府全体がロシアの庇護下に入ってしまいます。そしてその後は、宮廷がロシアに掌握されたままという不利な条件の下でのロシアとの交渉を余儀なくされて、朝鮮半島においてロシアに日本と同じ地位を認めるだけでなく、ロシアが財政顧問と軍事教官を送ることも認めます。つまり実質的には日清戦争前の清国の地位をロシアに与えることになります。

たしかに、日本のやり方が未熟で強引すぎて逆効果ばかり生んでいるのですが、根源をたずねれば、文禄・慶長の役以来、朝鮮の人は日本に怨みがあり、日本人をまったく信用していないのですから、いくら一時的に抑えたつもりでも面従腹背でどうにもならなかったわけです。日韓併合で最終的に抑えつけたといっても、それも今となっては同じことで、韓国の人の対日感情はむしろ悪化しただけで、やはりザルで水を汲んでいただけでした。

このどうしようもない日韓関係で、ただ一つ日本人が韓国人と信頼関係をつくるチャンスがあったとすれば、それは日本が韓国の近代化を助けることだったと思います。韓国の歴史の中で唯一といえる親日派だった金玉均の独立党も、その目的は、当時近代化の旗手であった日本と組んで近代化をしたいということでした。現在日本が韓国の近代化のために経済協力をしているのも、遅まきながら、やはり日韓関係を安定した基礎の上に置く正攻法なのでしょう。

そして終章より、本書の要旨を示した重要な数ページを以下に引用する(違和感のある記述も、あえて省略せずそのまま書き写し、適時私の感想を挟みます)。

日清戦争直前には、日清の軍事バランスの変化を背景に、日本国内では朝鮮における清の優位を前提とした天津条約体制の変更を求める意見が広がり、伊藤博文首相もこのような認識を背景に日清共同による朝鮮内政改革構想を持つようになった。これが、一八九四年六月二日の閣議における朝鮮への混成第九旅団派兵決定につながった。

一方で、第二次伊藤内閣は条約改正問題をめぐって対外硬派の攻撃を受け、連続して二度も衆議院を解散する内政的危機に直面していた。伊藤首相にとって、六月二日段階では、派兵は日清開戦を想定したものではなく、また総選挙対策のために対外危機を演出するという内政的理由に基づくものでもなかった。しかし、いったん清を圧倒するために強力な軍事力(戦時定員で八〇〇〇名を超える混成旅団)を朝鮮に派兵してしまうと、派兵を契機に沸騰した対清・対朝鮮強硬論に直面し、伊藤内閣は撤兵できなくなり、開戦への道を選択せざるを得なくなった。

政権の内部でも、川上操六参謀次長を中心とする陸軍勢力や閣内の陸奥宗光外相は対清開戦を求めた。対清戦争を準備してきた陸軍が開戦を主張するのは当然であるが、陸奥が開戦を求めた理由は、外相として担当した条約改正問題で判断ミスを重ね、対外的にも、国内の対外硬派に対しても、対応に失敗し、この苦境を打開して政治生命を維持するために、日清開戦を求めざるを得なかったからであった。

だが、川上や陸奥が開戦を決定することはできず、首相であるとともに、この段階では藩閥勢力の最有力者である伊藤が決断しなければ開戦にはいたらなかった。その意味で、日清戦争開戦については伊藤首相の責任が最も重い。

しかし、当初は対清協調を考えていた伊藤に開戦を決断させるにあたっては、政権内部の開戦論者である川上や陸奥だけでなく、衆議院の多数を占める対外硬諸派と彼らを選んだ国民、そして強硬論を鼓吹したジャーナリズムの開戦への責任も軽くない。伊藤内閣は秘密外交と藩閥による戦争をめざしたのに対して、対外硬派とジャーナリズムはこれを批判し、国民的基盤に立った日清戦争遂行を求め、その後の選挙戦のなかで、自由党もこのような主張に合流した。しかも、

政治的な民主化を求めた在野勢力の主張は、例外はあるものの、藩閥政府以上に侵略的であった。

上記文章で、陸奥が開戦を求めた理由を個人的地位への執着という意図だけで説明するのは、いくら何でも言い過ぎではないかと思えるが、神話化された「陸奥外交」を一度突き放して冷静に再考してみる必要はあるかもしれない。

最後の一文が示す認識は全く正しいと思うが、それならば日清戦争も先の大戦の悲劇の責任もまず誰よりも無分別な対外強硬論を支持した国民にあるんじゃないですか、そして自由と民主主義という価値自体を根本的に疑うべきなんじゃないですか、と著者には厳しく問い質したいところです。

日清戦争の外交問題に関する最も重要な資料として陸奥宗光の著した『蹇蹇録』がある。これをもとにして、のちに日英通商航海条約締結・日清開戦・下関講和条約締結を推進し、困難な三国干渉に対応した陸奥外相の偉大な功績と卓越した能力を顕彰する「陸奥神話」が形成された。

しかし、自伝やメモワールはしばしば自己弁護や自己顕示を含むもので、『蹇蹇録』は特にその傾向が強いことが指摘されている。すでに紹介したように、同時代の人々は伊藤内閣の条約改正交渉に批判的で、日清戦争が始まっていなければ、一八九四年七月に調印された日英通商航海条約もイギリスに譲歩しすぎていると厳しく批判された可能性が強い。

条約改正交渉に限らず、第二次伊藤内閣、なかでも陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。いまでも言論界の一部で「陸奥神話」を称揚する論者がいるが、学問的根拠は薄いと言わざるを得ない。

陸奥による日清戦時外交の問題点としては、東アジア地域に強い影響力を持つイギリスとロシアの制止を振り切って強引に日清開戦を行ったため、日本を支持する強国がなくなったこと、戦勝の結果生じた陸軍・海軍・民間の度を超した領土要求に屈して、過大な割地要求を講和条約に書き込んだこと、事前に予想された三国干渉への対応が拙劣であったことが指摘できる。陸奥は『蹇蹇録』で弁明を重ねているが、あまり説得的とは言えない。

さらに、日清戦争の最大の目的であったはずの朝鮮問題では、朝鮮王宮を制圧することから戦争を始め、戦争中には支配層と農民の両方の反日運動を弾圧したことから、朝鮮国内の各層の間に反日感情が広がり、三国干渉と閔妃殺害事件を経て日本の影響力が後退すると、反日親露派政権が誕生してしまうという最悪の結果を招いた。朝鮮問題への対応は、もちろん陸奥外相の守備範囲を超えた日本政府・軍の全体の政策的失敗であるが、陸奥も責任の一端を負わなければならないだろう。

それに加えて、日清戦争後、清は日本に対抗するためロシアに接近し、ロシアは東清鉄道敷設権、旅順・大連租借権、南満州鉄道敷設権を得た。すでに同時代の川崎三郎が彼の著書『日清戦史』で主張したように、日清戦争は外交で失敗した戦争であり、陸奥は外相としてその責任を負わなければならない。

国の命運をかけた戦争を遂行するにあたっての戦時外交が拙劣であった原因は、陸奥の個人的能力の問題以外に、条約改正問題だけが重要外交事項であったという時代的制約から、本格的な戦時外交の経験を持った政治家がいなかったこと、および外交官養成制度が未完成でトップを支えるスタッフの能力に問題があったことに求められる。

そして日清戦争の失敗経験のうえに、義和団問題を契機とする一九〇〇年のロシア軍の満州侵攻後、日本は多角的な同盟・協商網の構築を模索しはじめ、一九〇二年に日英同盟という形で初めて西欧諸国と同盟を結ぶことになる。

まず、陸奥の条約改正交渉への批判自体が、著者が批判的に記す、日清開戦を求めた好戦的な国民世論と同類のものではないかとの疑念を感じるし、その可能性を全く看過していることは不満である。

しかし、後段の陸奥外交への批判は(それが妥当かはともかく)、硬直した左派的言説の臭味を感じさせず、真剣な検討に値すると思われる。

大本営による戦争指導はすでに述べたように川上操六参謀次長を中心に行われ、川上は山県や大山のような陸軍の宿老や、野津・山地・桂のような先輩や同輩に、指揮命令を与えざるを得ず、彼らの制御に苦しんだ。川上の伝記『陸軍大将川上操六』は、「時ありては彼等に掣肘せられ、時ありては板挟みと為って苦心」したが、困難に打ち勝って「終に能く全局を統括して最後の捷利を制」したと述べているが、川上の努力と心労は大変なものであったと想像される。実際、大本営の戦争指導はなかなか貫徹しなかった。

本書で紹介した事例では、第三師団長桂太郎中将の度重なる暴走が典型である。しかも、桂は名古屋に第三師団長として赴任後に暇を持て余して書きはじめた「自伝」では、西南戦争以後の陸軍の混乱を慨嘆し、陸軍省総務局長あるいは陸軍次官として、自らが陸軍軍政の整理・改革を行い、何よりも命令の上位下達の実現を図ったことを得々と述べている。にもかかわらず、実際に自分自身が戦場に臨むと、ほかの司令官との対抗意識を丸出しにして、大本営の作戦指導を無視して暴走した。

だがより大きな問題は、川上である。川上は、寺内正毅や児玉源太郎と協力して、兵力動員と船舶を動員した兵員輸送、朝鮮南端の釜山から朝鮮を横切って満州の作戦地域にまで達する兵站線・電信線の維持を実現した。その実行力と軍事官僚としての実務能力の評価は高い。しかし、その結果何が起こったかを知る後世の歴史研究者は批判的にならざるを得ない。

一八九四年秋に発生した朝鮮の第二次農民戦争が、兵站線・電信線を破壊したことに対して、川上が命じたのは、東学農民軍とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。

また、川上は遼東半島割譲と直隷決戦に固執した。これが三国干渉の誘因となり、さらに列強の干渉が予想される複雑な国際情勢のなかで、極端に攻勢に偏した直隷決戦計画を実施し、本土防衛をないがしろにする危険性を生むことになった。これらは川上の戦争指導の問題点である。

日清戦争において、伊藤首相や大山第二軍司令官が戦争の全体の帰趨を見て政策決定を行っていたのに対して、有能であることはだれにも負けない陸奥外相や川上参謀次長が、木を見て森を見ない政策決定を行っているように感じたのは、私だけであろうか。

十数年前まで世に瀰漫していた極めて硬直して偏った左翼史観が後退したのは誠に結構だが、逆に現在の我々は「日清・日露の戦いを勝ち抜いた明治日本の栄光」を単純に賛美するだけの惰性に流されすぎているのかもしれない。

もし日清戦争に負けていたら、どうなっていたのか。

沖縄はまず間違いなく永久に日本ではなくなり(現在では、過剰な対米追従という全く違う原因で日本じゃなくなりそうですが)、莫大な賠償金を課せられ、各種の近代化政策は致命的な打撃を蒙って挫折していた可能性が高い。

その勝利も一時のものに過ぎず、結局清国よりはるかに強大なロシア帝国との対決を余儀なくされることになってしまった。

続く日露戦争は敗北の危険性がはるかに高かったはずである。

その敗戦の結果は、北海道全土の割譲、租借地の設定、莫大な賠償金、より不平等な通商航海条約強要であろう。

さらには列強がハゲタカのように群がって、ついには日本全土が植民地となり、皇室をはじめとする伝統的制度が破壊され、その後で独立運動が起こり、成功したとしても、共産主義勢力が主導権を握って、今も日本は全体主義の抑圧体制の中にいるか、あるいは良くて右派の権威主義体制の下で暴力的な党派争いが延々続くという第三世界のよくあるパターンの国になっていたかもしれない。

弱肉強食の帝国主義時代の最盛期、国家の命運を賭すような戦争は可能な限り避けるのが賢明であろう。

であれば、ロシアの進出に備えた、朝鮮半島での日清両国の限定的協調を背後からイギリスが支えるという天津条約体制を(清国優位の状況はあえて甘受した上で)続けた方が良かったという歴史解釈もあり得る。

もちろん当時の国際情勢はあえて危険な戦争を行わなければならないほど厳しいものであり、陸奥が『蹇蹇録』で言うように

畢竟我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す。

ということだった可能性も十二分にある。

ただ色々な見方に触れ、少しでも妥当で真実に近い史観に近づく努力をすべきであって、数を頼んで反対者を誹謗中傷・罵詈雑言で黙らせるような卑怯な真似は、立場の左右を問わず、決してするべきではない。

 

 

著者の主張をそのまま受け入れる必要は無いが(私も決してそうしていないつもりです)、多様な見解に触れて歴史を考えるきっかけには出来る良書です。

2016年8月7日

ウィリアム・シェイクスピア 『ジュリアス・シーザー』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: ローマ, 文学 — 万年初心者 @ 03:16

学生時代読んだきりで、一度記事にしたものを、この新訳で再読した。

(訳者の言葉を借りれば)無知・無定見極まりない群衆の恣意がすべての決定者としてのさばり、英雄としての資質を持つシーザーや高潔の士ブルータスですらそれに依存して権力を得たり失ったりするに過ぎず、アントニーが発揮したような煽動の才が重きをなしてしまう現実を鋭くえぐった政治劇。

確かにそのような読み方ができる。

さすが傑作の名に恥じない。

史実に基くストーリーをなぞるだけだった初読時よりも深い感銘を受けた。

やはり一度は読んでおくべき作品と思われる。

2016年8月1日

村田晃嗣 『レーガン  いかにして「アメリカの偶像」となったか』 (中公新書)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 03:53

1980年代、今日まで続くアメリカの保守化を推し進めた元大統領ロナルド・レーガンの伝記。

1911年アイルランド系の貧しい家庭に生まれる。

同じアイルランド系のケネディはレーガンより20年早く大統領となり、40年以上先に他界したが、年齢はレーガンより6歳下。

苦学しながら大学を卒業、ニューディール時代の民主党の熱心な支持者になる。

ラジオ・アナウンサーとして世に出て、ハリウッドで俳優となり、競演した女優と最初の結婚、第二次大戦時には戦意高揚映画に出演。

戦後、映画俳優組合の役員として組合内の共産主義シンパに強い拒否反応を持ち、徹底した反共主義と「小さな政府」の信念を抱き、マッカーシズムの「赤狩り」に協力。

妻と離婚し、ナンシー夫人と再婚(これまででは離婚歴のある唯一の大統領)。

俳優としては落ち目となり、GE(ゼネラル・エレクトリック社)提供のテレビ番組出演と講演活動を行うようになり、全米的な知名度を得る。

依然民主党員ながら、政治的には完全に保守化。

レーガンの知性を過小評価することは危険だが、彼の読書は元々持っていた自分の信念を確認し補強するために読む、という癖があった、と評されている。

そして以下の文章が記されている。

「大きな政府」を嫌悪したレーガンが巨大企業に奉仕し、自由を奉じる反共主義者がテレビ番組で細部に至るまでスポンサーの検閲に従った。

彼は率直に認めている。「一九六〇年までに私は、真の敵はビッグ・ビジネス(巨大企業)ではなく、ビッグ・ガバメント(巨大政府)だということを理解していた」。

こういう人物を真の「自由の闘士」と見ることはできない、と思う。

1952、56年の大統領選挙では共和党のアイゼンハワーに投票。

60年にも共和党候補ニクソンを支持するが、民主党のケネディが当選。

その後、レーガンは民主党を脱し、共和党入り。

ケネディ暗殺後、64年大統領選で後継現職ジョンソンに対抗して、共和党保守強硬派候補ゴールドウォーターを支持したが、結果は大敗。

だが、レーガンの雄弁は大きな注目を浴び、党内保守派の期待を集める。

1967年レーガンはカリフォルニア州知事に就任。

財政政策などでは妥協的対応を取ったが、ヴェトナム反戦運動高揚とカウンター・カルチャー拡大を背景に過激化した学生運動には毅然として対処。

経済的な保守の追求する自由な市場経済は、宗教的保守には耐えられない社会の頽廃をもたらしていた。また、保守派は「大きな政府」を批判しながら、国防予算には大きく依存していたし、それは反共主義と連動していた。

さらに、保守派は政府が個人の自由を制限することを恐れながら、大企業による個人の自由の制限や侵害には鈍感であった。

レーガンもついに、これらの矛盾を解消できなかった。

しかし、彼は経済的な保守と宗教的な保守、反共主義を兼ね備えていたし、これらの矛盾を包摂する魅力を有していた。

私は、こういう種類の「保守化」を肯定的に見ることができない。

大資本が自由放任的市場を利用して社会全体を実質的に支配し、国民はその道具と操り人形に過ぎなくなり、その実態を誤魔化すために奇矯で偏狭な宗教的原理主義(今の日本では野卑で低俗な形式主義的ナショナリズム)が煽られ、「おぞましい国家社会主義か、規制無き自由市場社会か」という二者択一に問題を歪めることで、批判者の口を封じる欺瞞がまかり通って久しい。

レーガンを含め、そうした社会で支持を受けるポピュリスト的指導者は、結局は金融資本の雇われ人です。

1968年大統領選で共和党のニクソンが政権奪回。

レーガンが副大統領となる可能性も取り沙汰されたが、実現せず。

75年初頭知事を退任、「グレート・コミュニケーター」としての能力を活かし保守派を糾合する「右派のローズヴェルト」として、76年大統領選を目指すことになる。

ウォーターゲート事件で74年ニクソンは辞任、副大統領ジェラルド・フォードが昇格。

76年建国二百周年の年、レーガンは共和党大統領候補の座を現職フォードと争って敗北、本選ではヴェトナム戦争とウォーターゲート事件に倦み清新さを求めた国民に選ばれ、民主党の新顔カーターが当選。

政治姿勢はリベラルだが、カーター自身宗教心の篤い福音派の南部出身者で、レーガンとの共通点もある。

カーター政権は、内政・外交とも不手際を重ね、特に79年はイラン革命と米大使館人質事件、第二次石油危機、ソ連軍アフガン侵攻(と本書では書かれていないがニカラグア革命)などアメリカの威信を揺るがす事件が続発。

1980年予備選挙でブッシュ(のち大統領[父])、ハワード・ベーカー(のち大統領首席補佐官、駐日大使)を下し指名獲得、本選でもカーターに地滑り的勝利を収める。

通常、保守派は歴史に社会の統合作用を求める。しかし、共通の記憶としての歴史が浅いだけに、共有できる希望としての未来に統合作用を求めるのが、アメリカの保守派の特徴である。大衆文化を熟知した「幸福な戦士」、「救済ファンタジー」に駆られたレーガンこそ、保守派の糾合そして過去と未来の架橋に適任であった。その意味で、レーガンは政治的タイムマシーンであった。

1981年「強いアメリカ」「小さな政府」を唱えるレーガンが大統領就任、70歳を迎える直前、史上最高齢の大統領となる。

政権スタッフは、国務長官ヘイグ(のちシュルツ)、国防長官ワインバーガーら。

極端に右派色の強い人物は少なく、カリフォルニア時代の側近と共和党主流派の混成チーム。

黒人閣僚は一人だけ。

レーガンは決して人種差別論者ではなかった。その点では南部の保守派とは異なる。そもそも、彼は人種問題にほとんど無関心であった。・・・・・レーガンの大統領就任時から二〇〇〇年までの間に、黒人の政治家はほぼ倍増したし、連邦議会での女性議員の比率も倍になった。同性愛者の人権状況も大幅に改善された。もちろん、それらは歴史的な潮流であって、レーガンの功績ではない。確かに、彼は人種、女性、同性愛といった「小さな物語」に無関心で、より「大きな物語」を愛したが、かといって彼を露骨な差別論者として描くことは正しくない。

政権担当時期の史実を一年ごとに細かくメモするのは止めましょうか。

ただし、本書を読む場合は、頭の中でそうした方がいいです。

外交では、軍備拡大と対ソ強硬路線で、冷戦最終段階のソ連を追い詰める。

内政では、大幅減税と軍事費拡張を組み合わせた「レーガノミックス」は、財政と貿易収支の「双子の赤字」をもたらす。

まず前者について言えば、衰退期に入っていたソ連の軍拡と膨張主義に対抗措置を取る必要があったことは全く疑いの余地は無い。

しかし、SDI(戦略防衛構想)は熟慮の上で作られたものとは言い難いし、アフガンの反ソ・ゲリラに対する過剰支援はのちにアルカイダを生み、アメリカ自身の首を絞める結果となったし、イラン・コントラ事件のような醜聞も発生したし、グレナダ侵攻という措置が必要だったのかは、本書を読む限り疑わしい。

後者の内政については、表面上かつ一時的な経済活況をもたらしたとは言え、その評価はより厳しいものにならざるを得ない。

政府支出と財政赤字の拡大が雇用と経済成長をもたらしたとすれば、それはケインズ経済政策の成功と言えた。にもかかわらず、「レーガノミックス」の成功が喧伝された。

・・・・・確かに、景気は回復し株価は上昇していた。人々はクレジット・カードで買い物を続けた。アメリカ社会はよく言えば豊かさ、有り体に言えば貪欲に身を委ねようとしていた。ある雑誌はこれを南北戦争後の「メッキ時代」にたとえた。その影で、財政赤字と貿易赤字という「双子の赤字」は拡大の一途であった。離婚率も上昇していた。政府は問題を解決できないというレーガンの診断は正しかったが、「小さな政府」と規制緩和という彼の治療法は必ずしも適切ではないと、やがて人々は認識するようになる。

・・・・・レーガンの大統領就任時と退任時を比べると、財政赤字はほぼ三倍に膨れ上がり、貿易赤字も過去最高額に達していたのである。失業率もわずかながら上昇していた。

しかも、貧富の格差が拡大していた。確かに、レーガン時代に数百万の雇用が創出されたが、その大半は低賃金労働であった。かつて組合活動で名を上げた大統領の在任期間に、全米の組合加盟率は二三%から一七%に低下した。こうして、一九七九年には上位一%の富裕層が国富の二二%を保有していたが、八九年にはそれが三九%になっていた。

繁栄の影で貧困が広がる姿は、まさに『二都物語』であった。

アイゼンハワー以来、二期八年を全うした初の大統領として退任、後継のブッシュ(父)を当選させ、引退。

94年アルツハイマー病を公表、2004年死去。

政治的立場の左右を問わない賛美と崇拝の対象となるが、結局その表面的国民統合は、大資本と富裕層の暴走を覆い隠す役割を果たすだけの偽物と断じざるを得ない。

その後継であり、「レーガン革命」の果実を享受した共和党右翼過激派は、さらに劣悪なエピゴーネンに成り果てている。

「保守運動は成功の犠牲者である」とショーン・ウィレンツは言う。所期の目標を失った保守派は、新たな「大きな物語」の定義をめぐって再び対立し始めた。しかも、彼らはレーガンという政治的メディアを失った。保守派はレーガンの偶像化によって分裂を食い止めようとしたが、ますます過激になっていった。冷戦下でハルマゲドンを恐れたレーガンの自制心を、ブッシュ[これは子の方を指すんでしょう――引用者註]は持たなかった。前者にとって「強いアメリカ」は回復すべき目標だったが、後者にとっては所与の出発点だったのである。減税と「小さな政府」を強引に求める二一世紀のティーパーティー運動にも、「実際的なイデオローグ」の慎重さや寛容は見られない。

そして、激しい経済紛争にも関わらず、日米同盟を緊密化し、「新保守主義」の盟友として、「ロン・ヤス」関係を作り上げた日本の中曽根康弘政権に対しての評価も、かつてと異なり、変えざるを得ないなと私は感じています(イギリスのサッチャー政権に対しても同様)。

 

 

非常に良い。

大統領任期中に限らず、その生涯をバランスよく記述。

文章も流暢で、話の運びもスムーズで巧い。

煩瑣でもなく、簡略過ぎもしない、ちょうどいいレベルの説明。

著者の政治的立場に疑念を持つ向きもあるかもしれないが、本書に限って言えば、レーガンおよびアメリカに対する批判的視点は十分に保たれていると感じた。

有益かつ良好な伝記として推奨します。

2016年7月30日

郭沫若 『歴史小品』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:56

近代中国文学では魯迅の次くらいの知名度を誇る作者の短編歴史小説集。

1936年初版。

登場人物は、老子、荘子、孔子、孟子、始皇帝、項羽、司馬遷、賈誼(前漢文帝時代の文人政治家)の8人。

どれもごく短く読みやすい。

しかし内容は・・・・・。

結論を言うと、つまらないです。

思想家たちの編は性急な偶像破壊的記述がやや浅薄な印象を与えるし、それ以外の人物についても、言動が現代風にアレンジされ過ぎている感がして相当の違和感あり。

著者の本領は別の著作に表われているのかもしれないが、今のところ強いて読む気がしない。

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