万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年2月3日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 7 革命の時代』 (創元社)

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フランス革命と19世紀ヨーロッパ史の巻。

まず、キリスト教を中心とする伝統文化を(のちには)変化させ、政治的変革の思想的前提となった17世紀科学革命について。

当時の研究が既存の技術によって観察と計測が可能な分野に限られていたため、特定の分野では大きな進歩が見られたものの、ほとんど関心がむけられなかった分野も数多く存在しました。たとえば物理学と天文学が急速に進歩したのに対して、化学はあまり発展しませんでした(もっとも一七〇〇年の時点では、さすがに四元素説を支持する人はほとんどいなくなっていたようですが)。物理学と天文学は急速な発展を見せたあと勢いが衰えましたが、それでも一九世紀になるまで着実に進歩をとげ、やがて新たな研究方法のもとでふたたび大きく発展していくことになります。

一七世紀の科学革命はさまざまな点て大きな業績をのこすことになりましたが、そのもっとも大きな成果は新しい世界観(宇宙観)を生みだしたことだったといえるでしょう。ヨーロッパでは古くから、あらゆる事象は神によって生みだされたものであり、予測不能なものであると考えられていました。こうした伝統的な世界観に代わって、宇宙を機械にたとえる新しい世界観が生まれ、世界のあらゆる事象は普遍的な法則にもとづいて起こっていると考えられるようになったのです。

ここで誤解していただきたくないのは、この新しい世界観は、決して神の存在を否定するものではなかったということです。個別の事象は普遍的な法則にもとづいて起こると考えられた一方で、その法則が存在する宇宙という「偉大な機械」をつくりだしたのは、あくまで神であると信じられていたからです(その意味で、神はしばしば「偉大なる時計職人」にたとえられました)。

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一七世紀の科学革命によって新しく誕生した世界観(宇宙観)は、神の偉大さと神秘性を強調するという点では、それまでの古い世界観となんら変わりがありませんでした。アリストテレスの思想が中世のキリスト教神学に受け入れられたように、当時の科学者たちは、自分たちが構築した新しい世界観もキリスト教の体系内に収まることを信じて疑わなかったのです。

そして、より直接的に社会の変化を促した啓蒙思想について。

英語の「啓蒙」という言葉には、暗闇に光を投げかけるというイメージがあります。しかし、ドイツの哲学者カントは有名な論文のなかで、「啓蒙とは何か」という問いかけに対し、それは「みずからがもつ未成熟な状態からの脱却である」と答えています。この答えの核心には、あきらかに権威を疑う姿勢が存在しています。啓蒙思想がのこした最大の遺産とは、そうしたすべての物事を批判的に見る懐疑的な態度だったのです。

その結果、あらゆるものが検証と批判の対象になっていきました。神聖なものなど何ひとつないと考えた人びともいます(もっとも、啓蒙思想の特徴である批判精神そのものは、何の疑問も検証もなく受け入れられていたのですが)。

上記末尾の文章には著者の皮肉を感じる。

19世紀産業革命と違い、通史ではあまり触れられることのない、18・19世紀ヨーロッパの農業革命について。

文明を根本から変化させるような出来事は、そうめったに起こるものではありません。しかし一八世紀のヨーロッパで起きた変化は、まちがいなくそうした変化だったといえるでしょう。食料の生産量が、かつてなかったペースで増加し始めたのです。そのころすでに中世の二倍半に達していた農業生産量は、一九世紀に入るとさらに飛躍的な伸びを見せていきました。ヨーロッパでは一八〇〇年ごろから農業生産量が毎年一パーセントずつ増加するようになったのですが、これは過去の成長率とは比較にならないくらい高い成長率だったのです。

さらに同じころ工業と商業も発達したおかげで、世界各地から豊富な食料を調達できるようになりました。このころ起きた生産性の向上も外国からの食料の輸入も、同じプロセス、つまり生産活動に対する投資が増大した結果として生まれたものでした。そして一八七〇年までにはヨーロッパとアメリカ合衆国に、世界中でもっとも多くの富が集まるようになっていたのです。

一七五〇年から一八七〇年にかけて起こった農業生産量の急増(もちろんその後はさらに急増していきました)は、「革命」というような強烈な言葉でなくては表現できません。しかし同時にそれは、非常に複雑なプロセスの結果としてもたらされたものでもありました。ヨーロッパにおける農業革命は、ヨーロッパ大陸だけでなく、南北アメリカ大陸とオーストラリアなども巻きこんだ世界的な経済変化の一環だったのです。

産業革命よりも、この農業革命の方が、人類にとっては真に実質的な進歩と幸福をもたらしたと言えるのかもしれない。

人々が餓死の恐怖から解放されたことは、やはり大きな前進だと思われる。

一方、産業革命は巨大な生産力を解放した陰で、深刻な社会問題も生んだ。

こうした都市化が伝統的な社会の枠組みを崩壊させる要因となったことも、まずまちがいのないところです。一九世紀になるとヨーロッパの各都市で、伝統的な行動様式が破壊され、新しい社会制度や思想が次々に誕生していきました。

都市で暮らす人びとは、農村社会において日々の生活を監視していた聖職者や大地主や隣人たちの目から、のがれることができました。さらに読み書きが庶民のあいだに普及するにつれ、新しい考え方が既成の社会通念を次々に破壊していくようになります。一九世紀にヨーロッパの上流階級がとくに衝撃を受けたのが、都市において無神論や無宗教が広がっていったことです。そのことで危機に瀕しているのは、宗教上の教義だけではありませんでした。なぜならヨーロッパにおけるキリスト教は、古くから伝統的な道徳と社会秩序の守り手でもあったからです。

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このように、産業革命がもたらした変化は物質面だけにはとどまりませんでした。これまでにあきらかになっているかぎりでは、近代文明は特定の宗教への信仰を中核にもたない最初の文明といえます。その誕生の経緯を解明するのはかなりむずかしい作業ですが、おそらく科学と哲学が知識人に信仰心を失わせたように、都市での生活が伝統的な信仰の形態を崩壊させてしまったことも原因のひとつなのでしょう。

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産業革命は生活のリズムを変化させただけでなく、労働自体の意味も変えていきました。この点について考える際には、むずかしいことではありますが、過去の時代の生活に対して感傷的にならないことが必要です。単調な仕事、個人的な判断の排除、資本家による搾取など、工場労働の実情を知れば知るほど、昔はよかったという気もちになることはたしかです。しかし中世の農民の暮らしも単調なものでした。彼らはたいてい領主から搾取されていたうえ、日々の農作業もかならずしも楽だったとはいえません。日の出から日の入りまで働きづめでしたし、景気の変動はともかくとして、天候の影響はつねに受けていたからです。

いずれにしても、産業革命によって人間の日々の暮らしは一変することになりました。その結果をそれ以前の生活とくらべてどう判断するかは、意見の分かれるところですが。

ヨーロッパから遠く離れた場所で、実験国家として誕生し、孤立状態の中で力を貯えていったアメリカ合衆国について。

当時、古典を勉強したヨーロッパ人なら誰でも、古代の共和政が多くの賞賛を集める一方で、その政体が腐敗と派閥争いにおちいりやすかったことを常識として知っていました。その後もイタリア半島には共和政国家が成立していますが、どれも古代ギリシアのアテネや共和政時代のローマ以上に学ぶべき点はなく、一八世紀のヨーロッパには、それほど成功しているとはいえない少数の共和国が存在しているだけでした。共和政は小国でしか成功しないという意見も強かったようですが、アメリカは地理的に孤立していたため、大国でも例外的に共和政を維持できるのではないかと考えられたのです。

とはいえ、建国の時点でこの新しい国の未来を楽観視していた人は、ほとんどいなかったといってよいでしょう。そのため、のちにアメリカ合衆国が大きな成功を収めたとき、共和政に対する評価も一変することになります。従来の政治体制に批判的なヨーロッパの知識人は、共和政のもつ持続力や、政治のコストが安あがりであること、共和政と切りはなせないと誤解されていた自由主義などについて、強い関心を示し始めました。そして共和政という政治形態は、北米大陸から、まもなく南米大陸へも広かっていったのです。

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・・・国民主権の原則は、一七世紀に一部の植民地で制定された憲法(もっともそれらは、あくまで王政の枠組みを超えるものではありませんでしたが)の流れをくむものでしたが、この原則によってアメリカ合衆国は、イギリス本国の政治体制と決定的に決別することになります。イギリスの立憲君主政はもともと国民の意思によって決定されたわけではなく、慣習にもとづくものだったからです。イギリスの憲法学者メートランドの説にしたがえば、イギリス人は国家原理に代わるものとして、国王の権威を受け入れていたということになります。

私には、ジャクソン時代以降のアメリカは、「腐敗と派閥争い」という共和政の典型的失敗例にしか思えない。

それより、「慣習にもとづく立憲君主政」の方がよほど優れた政体だと確信している。

フランス革命について。

三部会の開催から10年をへた一七九九年になると、フランスが中世の伝統とほぼ完全に断絶したことが、誰の目にもあきらかになっていました。なかでも法律の改正が急速に進んでいました。主要な改正の大半は、少なくとも原理的な部分については一七八九年に制定されていたものでした。封建制度や法律で認められた特権の廃止、王権神授説にもとづく絶対主義の廃止、さらには個人を主体とし、宗教に基盤をおかない社会の創設が、「八九年の原則」のおもな内容だったのです。

こうした原則の盛りこまれた「人間および市民の権利の宣言」(いわゆる「人権宣言」)は、一七九一年に公布された憲法の前文として書かれたものでした。これにより、法のもとでの平等、個人の権利の法的保護、教会と国家の分離、信教の自由が保障されることになったのです。こうした一連の法律を実現したのが国民議会です。国民主権の原則にもとづくこの議会が制定した法律は、いかなる地域や社会階層の特権も認めませんでした。彼らは新しい体制のもとで、王政時代よりもはるかに悪化した財政危機(とりわけ国家財政の破綻と通貨の急落)を乗り越え、啓蒙専制君主には夢見ることしかできなかった大規模な行政改革に成功したのです。

末尾の文章の通り、革命は伝統的君主政には不可能だった程の中央集権化された行政権を生み出した。

そして伝統的君主政が破壊された後も、宗教に対する愛着だけは民衆の間に強く残存したことが述べられる。

・・・大規模な変化のあとには、かならず分裂が起こるものです。なぜなら人間の意識が変化するためには、法律や政治体制が変化するよりもはるかに長い時間を必要とするからです。たとえば農民は封建的な地代の廃止を喜ぶ一方で、それまで使用してきた共有地の利用権がなくなったことに強い不満を感じていました。こうした保守的な反応は、宗教問題においても重要な展開を見せることになります。中世からフランス国王の戴冠式でもちいられてきたランス大聖堂の聖器が、恐怖政治の時代に政府によって破壊され、ノートルダム大聖堂にはキリスト教の祭壇に代わって、「理性の祭壇」が設置されることになったのです。

多くの聖職者たちが激しい迫害に会いました。フランスはもはや伝統的な意味でのキリスト教国ではなくなり、「神聖な存在」としての国王をなつかしむ国民はほとんどいなくなりました。しかしその一方で、教会に対する迫害がほかの何にもまして、革命に対する民衆の反感を買っていたことも事実です。結局、一部の革命家が広めようとした「理性」に対する崇拝は根づかず、カトリック教会が正式に復権したときには、多くのフランス人がそれを心から歓迎しました。すでに各教区では、そのはるか以前から、住民の自発的な行動によって教会が実質的に復権をはたしていたのです。

革命の総括的記述。

一九世紀になると、「普遍的な現象としての革命」は、「すべての場所につねに存在する力である」とする人まで現れるようになりました。これはもっとも極端なイデオロギーですが、今日でもこの種の考えがなくなったわけではありません。

反乱や破壊活動の是非は、個別の状況を無視して判断されるべきだと考える人びとが、現在でも依然として存在しています。こうして革命は神話となり、いくつもの悲惨な状況を生みだしていきました。そして最初はヨーロッパが、つづいてヨーロッパが支配した世界が、この神話に情緒的に反応するやっかいな人びとをかかえこむことになりました(かつて宗教上の対立という愚かな現象をかかえこんだのと同様に)。

こうした思想が現在まで存続してきたのも、フランス革命の影響がいかに大きかったかの証拠だといえるでしょう。

ナポレオン時代の意義について。

・・・ブルボン朝が復活したといっても、フランス革命以前の体制が復活したわけではありません。政教条約も県制度もそのまま存続し、法のもとでの平等は守られ、代議制度も継続されることになりました。革命がもたらした変化は、そのころにはすっかり確立された秩序となっていたのです。逆にいうと、そうした状況が定着するために必要な時間をフランス社会に提供したのが、ナポレオンだったということもできます。フランス革命のなかから後世に引きつがれたものは、すべてナポレオンの承認をへたものだったのです。

革命の精神を受けついだという点で、ナポレオンは伝統的な君主だちとは大きく異なっていました。しかしその一方で彼は新しいものを信用せず、保守的な政策を次々に打ちだしていきました。いわばナポレオンは、「民主的な専制君主」だったといえるでしょう。彼は国民投票という正式な手続きをへて権力を握るとともに、国民の支持を得て強力な軍隊を編成することにも成功しました。こうしてみるとナポレオンの政治スタイルは、かなり二〇世紀の支配者たちに近いものだったといえます。

国際舞台におけるフランスの力を、かつてなかったほど高めたことについて、ナポレオンはこれまでルイー四世とともに自国内で高い評価を受けてきました。ただしこの点でもまた、両者には重要な違いがあります。ナポレオンはルイー四世のはたせなかったヨーロッパ支配をなしとげただけでなく、その支配は「革命という洗礼」を受けていたため、たんにフランスが他国を軍事的に支配したという以上の意味をもっていたのです。

けれどもその点を美化するのは、あまり適切ではないかもしれません。ヨーロッパの解放者であるとか、偉大な天才といったナポレオン像は、後世になってつくられた伝説にすぎないからです。一八〇〇年から一四年までのあいだにナポレオンがヨーロッパ諸国にもたらしたものは、何よりもまず血なまぐさい戦争であり、混乱でした。しかもそうした戦争や混乱は、いずれも彼の異常なまでの権力欲と誇大妄想的な資質によって引き起こされたものだったのです。とはいえ、意図的なものも、そうでないものも含めて、ナポレオンが貴重な副産物を後世にのこしたことは事実です。

革命後の歴史を動かす原動力となった、ナショナリズムと自由(民主)主義について。

・・・ヨーロッパの政治思想のなかに、「歴史的」であると認識された国民(民族)の利益を、政府が守り発展させるべきであるという考えが、急速に広まっていきました。それとともに、どの国民が歴史的に重要であるのか、彼らの利益をどのように定義すべきかなどといった問題について、激しい論争が行なわれることになったのです。

一方、ナショナリズムのほかにも重要な原則がありました。それらの原則は実際には「民主主義」や「自由主義」といった言葉ではとうてい表現しきれないのですが、ほかに適切な表現がないので、ここではそうした言葉をもちいることにしておきます。

ヨーロッパでは、より多くの人びとの政治参加を実現するために、代議制度を採用する傾向が各国に広まっていきました(形式だけの場合もありましたが)。自由主義者と民主主義者はほぼ一貫して、選挙権の拡大と代議制度の改善を要求していました。同時に先進国の政治制度と社会制度は、以前にも増して個人に基盤をおくようになり、地域社会や宗教、職業、家族などの一員であることよりも、個人としての権利のほうが重視されるようになりました。

こうして、たしかに自由が拡大していったわけですが、逆に以前よりも自由を失った面もありました。国民国家においては、国家が国民に対してかつてなかったほど法的に強い立場に立ったため、国家は国民をより効果的に支配できるようになっていったのです。

現代でも、我々は基本、この二つの原理の下で暮らしているわけだが、その弊害も極めて大きい。

国家権力の増大が生みだしたことは、以下の引用文の通り、19世紀後半においては「革命の衰退」であり、ひとまず肯定的に見ることができるが、20世紀に入り、国家の大衆民主主義化と共に、国家自体が恐るべき暴走を始めることになる。

一七世紀にフランスがスペインにとって代わったように、いまやドイツがフランスに代わってヨーロッパ大陸における最強国となりました。しかしこの変化のなかに、厳密な意味での「革命の影響」はほとんど見ることができません。一九世紀の革命家たちは、カブールやビスマルクに匹敵する業績は何ひとつのこすことができず、ナポレオン三世とくらべてもかなり見劣りのする成果をあげることしかできませんでした。この時期に革命によせられていた期待や、あるいは恐怖を考えれば、それは奇妙な現象だったといわざるをえません。いずれにしても、この時期に革命が成功したのはヨーロッパの周辺地域に限られており、しかもまもなく衰退の兆しさえ見せ姶めたのです。

一八四八年までは、陰謀やクーデターだけでなく、ヨーロッパ中で革命があいつぎました。しかし一八四八年以降は、一八六三年のポーランドをのぞくと、大国が支配する地域では一八七一年まで一度も革命が起こらなかったのです。

もっとも、革命の勢いが衰えたのは、それほど不思議なことではありませんでした。結局、革命はフランス以外の国ではほとんど成功しなかったといえますし、フランスでも最終的にはナポレオンによる独裁体制が誕生したのですから。

その一方、革命が目標としたもののいくつかは、別の方法で達成されつつありました。カブールとその後継者たちがイタリアを統一する様子を見て、マッツィーニはさぞ悔しがったにちがいありません。それは革命家たちが認めることのできない形での国家統一だったからです。ビスマルクも一八四八年の革命とは別の方法で、自由主義者たちが望んでいたドイツの統一を達成し、ドイツをまぎれもない大国の地位に押しあげることに成功しました。

その後、かつて革命家たちがかかげていた目標のいくつかは、経済発展によっても達成されていくことになります。貧困に対する恐怖は依然として存在していたものの、一九世紀のヨーロッパは着実に豊かになり、人びとの暮らしも向上していきました。そうした流れをさらに加速させた個別の出来事もありました。一八四八年にカリフォルニアで金鉱が発見され、それによって一八五〇年代から六〇年代にかけて、世界経済が活性化されることになったのです。この二〇年間は、社会に自信がみなぎり、失業率が低下して、秩序もおおむね維持された時代となりました。

社会に革命が起こりにくい状況が生まれていたことも、革命が減少した理由のひとつだったといえるでしょう。おもに軍事技術の進歩によって、どの国の政府も以前よりも容易に反乱を鎮圧できるようになっていたのです。一九世紀に入ると近代的な警察制度が誕生し、鉄道と電信の普及によって、遠くで起こった反乱にもすばやく対処できるようになりました。さらに軍隊も武器を強化して、以前よりも確実に反乱を鎮圧できるようになっており、たとえばフランスでは政府が正規軍を掌握していれば、かならずパリを制圧できることが、一七九五年の総裁政府による民衆の鎮圧によってすでに示されていました。

一八一五年から四八年までつづいた長い平和のあいだに、各国の軍隊のおもな任務は、外国軍と戦うことから、国内の反乱や暴動を鎮圧し、治安を維持することに移っていきました。一八三〇年と四八年にパリで革命が成功したのは、軍の重要な部隊が持ち場を離脱したからです。政府が軍部を掌握していさえすれば、一八四八年の六月蜂起のような事件はかならず失敗に終わりました。実際、この年を最後に、ヨーロッパの主要国では民衆による革命が成功することは一度もなかったのです。

1871年パリ・コミューンも、そうした軍の治安維持機能を示した事件だったのだが、社会主義思想の台頭で、逆に革命神話を強化する働きを果たすことになってしまった。

一方、西欧に比し後進的存在であったロシアでも、自由主義的・社会主義的思想の流入によって変化と混乱に向かいつつあったが、体制の改革に否定的だった皇帝ニコライ1世への本書の評価は厳しい。

独裁国家においては、反体制運動はすなわち地下活動を意味します。一八二五年にアレクサンドル一世が亡くなると、そうした地下活動をつづけてきた秘密結社がクーデターを企てました。(デカブリスト(一二月党員)の乱」とよばれたこのクーデターは結局失敗に終わりましたが、それは新皇帝ニコライ一世をふるえあがらせるにじゅうぶんな出来事でした。その結果、ニコライ一世は歴史的に見てきわめて重要な時期に、自由主義をつぶそうとして、ロシアのその後の運命を大きく狂わせることになります。

ニコライ一世の治世は、ピョートル大帝の治世と並んでもっともロシアの運命を左右した時代だったといえるかもしれません。その理由のひとつは、彼が変革を拒否したことでした。独裁政治の信奉者だったニコライ一世は、権威主義的な官僚制、文化活動の管理、秘密警察による支配などといったロシアの伝統を、ほかの保守的な大国が不本意ながらその種のものを廃止しようとしていたときに、逆に強化してしまったのです。

だが、その著者も、アレクサンドル2世による農奴解放令に対しては、極めて高い評価を与えている。

一七世紀以降に強化されたロシアの農奴制は、ロシア社会の最大の特徴となっていました。ニコライ一世でさえ、農奴制はロシア社会がかかえる最大の悪弊であると認めていたほどです。ニコライ一世の時代は農奴による暴動がとくに頻発し、地主を襲撃し、穀物を焼き、家畜を傷つけていました。貢納の支払い拒否などは、もっともおだやかな抵抗であったとさえいえます。

ところがこの巨大な制度を廃止するのは、とてつもなく困難なことだったのです。というのも、ロシア人の大半が実は農奴だったからです。たんに法律をつくったからといって、一夜のうちに農奴を賃金労働者や自作農に変えられるはずもありません。さらには荘園制度がはたしてきた行政的な役割が廃止され、その代わりになるものがないとしたら、国家が突然大きな負担を背負うことになってしまいます。ロシア政府にそれはどの力はありませんでした。

そのためニコライ一世はあえて何もしなかったのですが、アレクサンドル二世は行動を起こしました。数年間をかけて、さまざまな廃止方法を研究し、それぞれの長所と短所を検討したうえで、一八六一年についに農奴解放令を発令したのです。ロシア史にのこるこの画期的な決断により、アレクサンドル二世は「解放皇帝」のよび名をあたえられることになります。ロシアの農奴解放令は、ロシア皇帝がもつ絶対権力が効果的にもちいられた、もっとも顕著な例といってよいでしょう。

農奴解放令により、ロシアの農民は人格的自由を認められ、土地にしばりつけられた労働形態は消滅しました。しかし土地を獲得し所有するためには、買いもどし金を支払わねばなりませんでした。そして彼らが買いもどし金をたくわえるため、また急激に自由労働市場に移行して混乱を起こさないために、解放令のあとも農民たちは各地の農村共同体のもとにほぼとどまりつづける結果となりました(農村共同体には、土地を家族単位で割り当てる仕事が託されていました)。

まもなく農奴解放のやり方や条件に対して批判が噴出します。しかし、ロシアの農奴解放には評価すべき点も数多く存在しますし、歴史的に見ても偉大な出来事だったといってよいでしょう。数年後にはアメリカ合衆国でも奴隷解放宣言がなされ、ロシアよりはるかに経済発展の可能性のあるアメリカで、ロシアの農奴よりもはるかに少ない数の黒人奴隷が解放されました。しかしそれでも、そのとき奴隷を労働市場に突然放りだし、完全な自由放任経済にまかせたため、その結果にアメリカ社会は今日もなお悩まされつづけているのです。

一方、ロシアでは今日までの歴史でも例をみないような巨大な社会変化が、大きな混乱をともなうことなく実現されることになりました。そして世界最強国となる巨大な可能性を秘めたロシアに、ようやく近代化への道が開かれることになったのです。ロシアが長く慣れ親しんできた農業社会から工業社会へむかうためには、農奴解放は必要不可欠なステップだったのです。

確かに我々は、後の革命と帝政の崩壊という視点から、農奴解放令の「不徹底」性をあげつらうことに慣れすぎているのかもしれない。

民主主義特有の党争の弊害から国家を二分する内戦に突入し、莫大な犠牲を払わなければ黒人奴隷を解放できなかったアメリカに比べて、それ以上に社会に深く食い込んでいた農奴制を整然と廃棄した専制君主制下のロシアの方が、少なくとも19世紀の時点では成功していたとする史観があってもよいように思える。

続いて、地理的な孤立という共通点を持つ米英両国が、独立革命後、反発しつつも徐々に関係を改善していったこと、南北戦争によって合衆国の統一が維持され世界的強国に発展したこと、イギリスは産業革命と民主化を政治的断絶無しに達成することに成功したことを述べる。

以下の文章を読むと、私にはやはり米国よりも英国の方が好ましく、価値ある国家と社会であったと思える。

イギリスの政治体制は、主権を「議会の決定にしたがう国王」におく立憲君主政・・・です。たしかに当時のヨーロッパの基準からすると有権者の数は多いほうといえましたが、イギリス人にとって「民主主義」という言葉は否定的なニュアンスをもっており、その実現を求める勢力はほとんど存在しませんでした。イギリス人にとって民主主義とは、フランス流の革命と軍事専制政治を意味していたのです。

・・・・・・

諸外国にはイギリスの政治制度に大きな関心をよせる人びとが少なくありませんでした。工業都市の悲惨な実態にもかかわらず、イギリスが民衆による反乱をうまく切りぬけたことは、それができなかった国々にとって大きな驚きとなっていたからです。他国で革命が起こりそうになるたびにイギリスは意図的に大規模な制度改革を行ない、自由主義の原則をさらにはっきりと示すことで、国力の強化と豊かな社会の実現に成功していたのです。そして政治家も歴史家も、イギリス社会の基盤は自由にあると誇らしげに語っていたのです。

イギリスは、アメリカのように地理的に完全に孤立していたわけでも、広大な土地をもっていたわけでもありません。そのアメリカですら革命を阻止するために悲惨な南北戦争を経験しだのに、イギリスだけがなぜ革命を回避することができたのか。これまで多くの歴史家が、その答えをさがし求めてきました。

けれどもこの問いかけには、革命はある種の条件が整えばかならず起こるものだ(そしてイギリス社会はその条件を満たしていたはずだ)という無意識の前提があるようです。しかし、そもそもこの前提そのものがまちかっているのでしょう。急速に変化しつづけるイギリス社会において、革命が起こる可能性は、おそらくまったくなかったはずです。フランス革命によってヨーロッパ諸国にもたらされた変化の多くは、イギリスでは数世紀も前から実現していたものだったからです。時代をへるにつれ、そこに不合理なしがらみがまとわりついていたとしても、イギリスには新たな変化を許容するだけの基本的な政治体制がすでにできあかっていたのです。

イギリスの下院も上院も、ヨーロッパ諸国の議会のような閉ざされた組織ではありませんでした。両議院ともに一八三二年の議会改革以前に、すでに社会の新しい要望に柔軟に対応する能力があることを証明しています。たとえば最初の工場法(その内容自体はお粗末なものでしたが)が可決されたのは一八〇一年のことでした。さらに一八三二年以降は、人びとは議会に強く働きかければ、どのような改革でも実行できると考えるようになっていました。議会が改革を実行するうえで、法的な制限はいっさい存在しなかったからです。

当時の社会のなかで抑圧され、怒りをかかえた人たちでさえ、この点については認めていたようです。一八三〇年代から四〇年代にかけて(貧困層の暮らしがとくにきびしくなった時代でした)、過激な暴動が頻発し、数多くの革命家が登場しました。しかし当時最大の民衆運動であった「チャーティスト運動」でさえ、「人民憲章」をかかげて議会制度の民主化を求めたものの、議会の廃止までは要求していなかったのです。

けれどもそうした民衆運動だけでは、おそらく議会に改革を実行させることはできなかったでしょう。ここで重要な点は、工場法をのぞくと、ヴィクトリア時代の大きな改革はすべて、労働者階級と同じくらい中産階級の利益にもつながるものだったということです。イギリスの中産階級は、ほかのヨーロッパ諸国の中産階級よりもひと足先に政治的な発言力を獲得しており、その力を利用して要求を実現できる立場にありました。そのため彼らは革命という手段に訴える必要がなかったのです。

一方、一般の民衆のあいだでも革命を求める気運が高まりを見せなかったという事実は、今日まで左翼の歴史家たちの頭を大いに悩ませてきました。それはイギリスの労働者があまりにも貧しすぎたからなのか、それともそれほど貧しくなかったからなのか、あるいは労働者がバラバラで、ひとつの階級としてまとまっていなかったからなのか・・・・・。イギリスに革命が起こらなかった理由について、これまでさまざまな説がとなえられてきました。

しかし、ただ一点だけあきらかなのは、イギリスでは伝統的な行動様式が依然として根強く存続していたという事実です(イギリスではこの時代になってもなお、身分の高い人間に身分の低い人間が服従する習慣がありました)。

さらには革命という手段に訴えなくても、イギリスの労働者は労働組合によってみずからの権利を主張することができたのです(自助、思慮、倹約、謹厳を重んじたという意味では、この時期の労働組合も「ヴィクトリア風」だったといえるでしょう)。

こうして社会が急激に変貌するなかで、変化しないものの象徴でありつづけたのが、議会と国王でした。議会が開催されるウェストミンスター宮殿が焼失し、新しく建て直される際には、「議会制度の母国」としての伝統の古さを強調するために、中世のゴシック様式がわざわざ採用されています。これはイギリス史上まれにみる変革の時代が、伝統と慣習の衣におおわれていたことをまさに象徴する出来事だったといえるでしょう。

議会とともに、変化しないものの象徴だったのが国王です。ヴィクトリア女王が即位した時点で、イギリスの君主政はヨーロッパでは教皇制度についで古い歴史をもつ政治制度となっていました。しかし、その実態は時代とともに変化しています。ジョージ三世のあとをついだジョージ四世は、イギリス史上最悪の国王と評され、つぎの国王も人気を回復することができませんでした。そして、つづくヴィクトリア女王と夫のアルバート公がようやく威信を回復したものの、女王自身の気質はどちらかといえば立憲君主政には適さないものでした。女王は政治的に中立であることを好まず、その姿勢を隠そうとしなかったからです。

にもかかわらず、イギリスの王権が政治問題から手を引くようになったのは、ヴィクトリア女王時代のことでした。女王は「王室」を一般家庭のお手本に仕立てあげ、ジョージ三世の時代以来、はじめて「王室」という言葉がその実態をもつことになったのです・・・・・。

 

 

残り3巻。

順調です。

2017年1月28日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』 (創元社)

Filed under: ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 01:47

近世ヨーロッパ史の巻。

この巻からは、特に気になった部分を断片的に引用するだけにし、他の部分はできるだけ省略して行くので、これまでの巻にも増して、全体的に少し脈絡に欠く記事になるかもしれません。

 

紀元前500年頃から紀元後1500年まで続いた諸文明の均衡状態が崩れ、ヨーロッパ文明の進出による世界の一体化が始まる。

ただし、その本格化は19世紀を待たなければならない。

世界の歴史に、新しい時代が始まりつつあることを示す数々の兆候が、紀元1500年前後からあいついで現れるようになりました。そのうちのいくつかについては、これまでの巻ですでにお話ししてきたとおりです。ルネサンスの本格的な開花、活字印刷術の発展、アメリカ大陸の「発見」とスペインやポルトガルによる海外植民地の建設などを、そうした例の代表としてあげることができるでしょう。

そのような出来事は、いよいよ人類の歴史が本当の意味で「世界史」の時代に入り、その中心にはヨーロッパで誕生した「強力な」文明が位置するという、新しい時代の本質をよくあらわしています。ヨーロッパ人の活動によって、世界中で起こる出来事が、しだいに有機的な関連をもつようになっていきます。そしてヨーロッパ人は自分たちも気づかないまま、ほかのすべての大陸に干渉を加え、世界に「近代化」を強要する道を歩み始めることになるのです。

「近世」という時代区分について。

「近代」とは、私たちにとってなじみの深い言葉です。しかし、それがさし示す年代は、つねに一定だったわけではありません。かつては古代ギリシア人やローマ人が活躍する「古代史」からあとの時代を、すべて「近代史」としてひとくくりに考えていました。事実、オックスフォード大学などはいまでもこの時代区分を採用しており、「近代史」の講座には、いわゆる「中世史」も含まれています。

その後、「中世史」が近代史から切りはなされるようになり、現在ではさらに細かく分けられるようになりました。歴史家たちは「近代」をふたつに分け、その前半を「近世」とよぶことが多いからです。この用語を歴史家たちが使うとき、そこにはひとつの重要な歴史的推移が表現されているといってよいでしょう。つまり「近世」とはヨーロッパにおいて、神に支配された閉鎖的な中世キリスト教世界から、合理的精神に満ちた「近代社会」が成立するまでの移行期をさして使われることが多いのです。

そのような歴史上の変化が起きた時期は、国によってさまざまでした。イギリスやオランダでは一七〇〇年ごろまでに移行したといえるかもしれませんし、スペインでは一八〇〇年ごろまでは、まだ不完全なものだったようです。また東ヨーロッパの多くの国では、一九〇〇年ごろになっても、ほとんどそうした変化は起きていませんでした。しかし時期はさまざまだったとしても、広く起こったこの一連の変化が、世界史におけるヨーロッパの覇権を決定づけたことはたしかなのです。

その大きな歴史の流れをこれから見ていくにあたって、ひとつのごく単純な視点をもっておくことが、あるいは重要かもしれません。つまり現在までの人類の歴史において、ほとんどの時代、人間は「安全な暮らし」と「じゅうぶんな食料」を確保するための選択肢をもっていなかったという事実です。そうした状況に変化をもたらし、人びとに選択肢をあたえるきっかけとなったのが、近世ヨーロッパで起こった変化、それもいわゆる西ヨーロッパとよばれるエルベ川から西側のヨーロッパで起こった経済的な変化だったのです。

その経済的変化を象徴する、いわゆる「価格革命」について。

インフレは社会に重大な影響をもたらすことになりました。資産家たちのなかにも、利益を得た大もいる一方で、ひどい目にあった人たちもいました。地主のなかには地代を引き上げることでインフレに対抗した者もいましたが、その一方、土地を売りに出さなくてはならなくなった地主たちもいました。そうした結果、現代の社会でもしばしば起こる現象ですが、インフレが社会の流動性を高めるという現象が起こり始めたのです。・・・・・どこの土地でも、インフレによる打撃をもっとも強く受けたのは、社会構造の両極に位置する人びとでした。つまりインフレによって貧困層が飢えに追いやられる一方、王侯たちもこの新しい事態に対処するため、誰よりもお金を使う必要にせまられたのです。

歴史家たちは約一〇〇年間つづいたこの物価上昇を説明するために、これまで多くのページをついやしてきました。その原因のひとつは、よくいわれているように、スペイン人が南米の鉱山を開拓したために、大量の銀がヨーロッパに流れこんだことにあったのでしょう。ただし、新大陸からもたらされた大量の銀が状況を悪化させたことはたしかですが、ヨーロッパのインフレがそのはるか以前から始まっていたことも事実です。おそらく、もっとも根本的な原因は人口の増加にあったものと思われます。この時期、農業生産が横ばいのときも、人口ほつねに増えつづけていたのです。

近世最先進国となったイギリスの社会構造について。

イギリスでは、フランスで存続していたような「商業化された封建制度」でさえも、一八〇〇年を待たずにすたれてしまいました。貴族たちには議会に出席する権利をのぞけば、いかなる法的特権もあたえられていなかったのです(さらに貴族たちは、下院議員の選挙では投票できないという法的制限を課せられていました)。

イギリスの貴族階級の特徴は、それが非常に小さな集団だったということです。一八世紀末の時点で、イギリスの上院議員の総数は二〇〇名以下でした。彼ら上院議員の地位は世襲制で、直系の相続人だけが継承することを許されていました。つまりイギリスの貴族階級は、ほかのヨーロッパ諸国のように、ひとつの社会階層を形成するような大規模なものではなかったのです。

イギリス以外のヨーロッパ諸国では、どの国にも数多くの貴族がいて、自分たちを庶民層からはっきりと区別し、数々の法的特権を享受していました。革命前夜のフランスには、おそらく二五万人もの貴族が存在し、そのすべてが何らかの法的な特権を保持していたものと思われます。しかしイギリスではそうした特権をもつ貴族は、オックスフォード大学の講堂に入りきる程度の人数しか存在せず、さらに彼らのもつ法的な特権も、それほど大きなものではありませんでした。

一方、イギリスでは貴族階級のすぐ下に、「ジェントリー」とよばれる境界のあいまいな上流階級が誕生していました。この階級は上の方では貴族と、下の方では富裕な農業経営者や商人たちとつながっていたのです。

この高い身分とも低い身分ともつながりをもつジェントリーという社会階層が、イギリスの社会に結束力と流動性をもたらすうえで、大きな役割をはたすことになりました。なぜならジェントリーという身分は、富の蓄積や職業上の成功によっても手に入れることが可能だったからです。

ジェントリーのあいだでは、騎士道精神にもとづく倫理観が非常に重視されていました。つまりジェントリーとは、イギリス貴族の伝統を受けつぐ一方で、従来の排他的な階級制度に風穴をおける役割をはたしたというわけです。そしてこのジェントリー階級が、近代イギリス社会の成立において、大きな役割をはたすことになるのです。

「絶対王政」下の主権国家体制確立に向かう動きについて。

当時のヨーロッパ諸国の統治形態にはさまざまな形のものがありますが、それには惑わされないようにしてください。重要なのはこの時期、ヨーロッパの人びとが、国家の最高権力である「主権」という概念を考えだし、それを国家の基礎として位置づけることで、強力な近代国家を成立させていったという事実です。「主権」の担い手が誰で、その権力はどのような範囲にまでおよぶかという点については、さまざまな議論がありました。しかしヨーロッパではしだいに、もし「主権」が正当な担い手の手中にあるならば、その立法権にはいかなる制限もあってはならないと考えられるようになったのです。

そこには従来の考えとは大きな断絶がありました

「無制限の立法権をあたえられた統治者(主権者)」という概念は、中世ヨーロッパ人の目には、神学的には冒瀆であり、社会的にも従来の既得権(さまざまな特権など)を侵害するものと映ったことでしょう。

その結果、当時そうした「主権」を行使する地位にあった王たちに対して、まったくちがったふたつの立場から批判が起こるようになります。ひとつは「保守的」な立場から、中世的な「自由」を守ろうとするものでした。もうひとつは近代的な「自由主義」の立場から、「主権」が王の手中にあるのはまちがいであるとするものでした。しかし実際にはのちのフランス革命でも見られるように、このふたつの立場は渾然一体となっていたのです。

ヨーロッパにおける近代的な主権国家の登場は、多くの国が君主政(王政)を採用していたために、その革新性が目だたなくなっています。

けれども法的原理についての議論から目を移すと、近代ヨーロッパにおける国家の発展は、王権の強化と一体となって進んでいったことがよくわかります。中世後期に多くの国で採用されていた代議制がすたれてしまったことは、そのひとつの現れといえるでしょう。

代議制が衰退する傾向は一六世紀に始まり、フランス革命が起きた一七八九年には、西ヨーロッパの多くの国は、議会などによって制約を受けることのない王によって支配されるようになっていました(イギリスは例外でしたが)。各国の王たちが一六世紀以降手にするようになった権力は、中世の領主や市民だちから見れば非常に強大なものに思えたことでしょう。

ところでこうした現象は、よく「絶対王政」の台頭と表現されることがあります。この言葉の使用自体に異議をとなえるつもりはありませんが、その場合は王たちがみずからの意向をどれだけ実現できていたかという点に、よく注意しておく必要があります。というのも現実には「絶対王政」の王権に対しても、中世の王権と同じく、多くの抑止機能が働いていたからです。

しかし、王たちのもつ権力が一六世紀以降、あらゆる面で大きくなっていったことは事実です。各国の王たちは新しい財源を見つけては常備軍や大砲を整備し、私兵をもつ余裕のない大貴族たちを押さえつけようとする一方で、芽ばえつつあった国民意識を臣民と共有することもありました。大まかにいえば、一五世紀末ごろには多くの国で、秩序と平和が保証されるなら、そうした強力な王権を受け入れてもよいとする認識が生まれていたようです。もちろん国によって事情はさまざまでしたが、ほとんどすべての国にいえるのは、王たちがこの時期、「もっとも有力な貴族」から、それ以上の存在へのしあがることに成功したということです。そして彼らは武力と徴税権をもちいて獲得した権力によって、新しい統治形態を確立していくことになるのです。

宗教改革も同様に国民国家の萌芽期を促進する役割を果たしたが、その絶対王政、「ルネサンス国家」を襲った「17世紀の危機」について。

このような国内の反乱は、いずれも経済的な困窮に端を発したものでした。つまり財政面では「ルネサンス国家」は、まったく成功していなかったのです。一七世紀になって、ほとんどの国で常備軍が創設されたことも、財政を圧迫する大きな原因となっていました。たとえばこの時期にフランスの国民に課せられた税は、イギリスとくらべて、はるかに過酷なものだったようです。

イギリスは内戦と国王の処刑、一時的な君主政の終焉といった重大な危機をすでに経験していましたが、国土の荒廃はそれほどではありませんでした。イギリスで頻発した物価の上昇を原因とする暴動も、一七世紀に起きたフランスの小作人の蜂起などとは、くらべものにならないほど小規模のものだったのです。逆にイギリスではピューリタンなどの急進派が国家や教会と対立していましたが、そうした信仰上の問題はスペインには存在しませんでしたし、フランスでもずいぶん前に解決済みでした。実際、フランスのユグノーにはさまざまな権利があたえられており、彼らは国王が自分たちを保護してくれていると考えていたため、フロンドの乱のときにも国王側についていたのです。

すでにのべたとおり、一六六〇年にはイギリスで王政復古によってチャールズニ世が王位に復帰し、その翌年にはフランスでルイー四世の親政が開始されます。これはヨーロッパの歴史にとって、大きなターニングーポイントとなりました。フランスではこれ以降、革命が起こる一七八九年まで、大規模な国家的混乱は起きませんでしたし、とくにルイー四世が一七一五年に死去するまでの半世紀は、比類のない軍事力と外交力が発揮された輝かしい時代となったのです。イギリスでも、一六八八年に名誉革命が起こったものの、内乱は二度と起きませんでした。

イギリスでは一六八九年に制定された「権利の章典」のなかで、個人の権利がはっきりと確立されましたが、国家の主権の問題はまだ決着していませんでした。それに対し、フランスではすべての人が王権の絶対性に同意していました。ただし法律家たちだけは、国王にも法的にできないことがあると指摘しつづけていたのです。

この混乱は、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、勢力均衡原則に基づく講和が結ばれることによって終息、長年続くヨーロッパの政治地図が現れる。

一方、西欧に比して後進的存在となった東欧、その中心たるロシアのツァーリズムについて。

こうしてロシア正教会がツァーリに服従した結果、ロシアの政治形態に最後の変革がもたらされ、ロシア型の専制政治が誕生することになりました。この変革の特徴を列挙すると、つぎのようになります。

「法的な制限を受けることのない半ば神格化された支配者(ツァーリ)の存在が認められたこと」、「ツァーリへの奉仕が全人民に課せられた義務として強調されたこと」、「土地保有がその奉仕義務と結びつけられたこと」、「権力の分散がない巨大な官僚機構が発展したこと」、「軍事上の要請が最優先されるようになったこと」などです。

こうした特質は研究者からも指摘されているように、専制政治が始まった時点ですべて存在していたわけではありません。また、すべての特質がいつも同じように効力を発揮していたわけでもありません。それでもロシア型の専制政治は以上のような特質によって、西ヨーロッパ型の君主政とは、はっきりと区別することができるのです。

西ヨーロッパでは、はるか中世の時代から、都市や各階級の人びと、ギルドなどの団体が、さまざまな特権を享受していました。そうした伝統の上に、のちの立憲政治が築かれていったのです。ところがかつてのモスクワ大公国では、最高位の役人ですら、「奴隷」あるいは「召し使い」を意味する役職名でよばれていました(同じ時期のポーランドやリトアニアですら、そうした立場の人びとはすでに「市民」とよばれていたのですが)。

ヨーロッパでもっとも強大な「絶対王政」を確立したフランスのルイー四世でさえ、個人的には王権神授説を信奉していたかもしれませんが、みずからの権力がつねにさまざまな法的権利や既得権、神の法などによって制限されていることをはっきりと自覚していました。またフランスの国民もルイー四世を「絶対君主」だとは思っていましたが、「専制君主」であるとはまったく考えていなかったのです。

一方、イギリスでは、すでにのべたように議会のコントロール下におかれた立憲君主政が誕生しつつありました。たしかにイギリスの君主政とフランスの君主政では、その方向性はまったくちがっていたかもしれません。しかし、どちらの国王もロシアのツァーリとくらべれば、はるかに多くの制約を受け入れていたことは事実なのです。

・・・・・・

ロシアの社会構造もまた、他国との違いがきわだっていました。ロシアはヨーロッパのなかでも、農奴制を最後まで廃止しなかった国です。ほとんどのキリス卜教国では一八世紀に奴隷的な強制労働が衰退していたにもかかわらず(アメリカ合衆国とエチオピアは例外ですが)、ロシアでは逆に農奴制が広がりを見せていたのです。その理由はおもに、広大な土地に対して労働力がつねに不足していたところにありました。驚くべきことにロシアでは、土地の価値は広さではなく、「魂」の数、つまりその土地に属する農奴の数で決められていたのです。

このようにロシアの専制帝政を批判的な筆致で記す著者ではあるが、その成立にはそれなりの歴史的経緯があったことも記し、一方的な見方には陥っていない。

もっとも歴史をふり返ってみれば、ロシアにはこのロシア型の専制政治が実に適していたといえるでしょう。一八世紀の学者たちは、「広くて平らな国には専制政治が似合う」という言葉をのこしています。これはいささか単純すぎる意見かもしれませんが、ロシアのようにあまりにも多様な地域と人びとをかかえる大国には、つねに分裂へとむかう政治的なベクトルがはたらきます。「ツァーリ」を中心としたロシア型の専制政治には、強大な力で国をひとつにまとめあげるという大きな役割があったのです。

著者は、ロシアの近代化の端緒となったピョートル1世の治世をやや肯定的に評価するものの、もう一人の代表的君主エカチェリーナ2世への視線は厳しい。

エカテリーナ二世の統治はピョートル一世よりも華々しいものとなりましたが、改革の推進という点では見劣りがします。たしかにエカテリーナも学校を設立し、芸術や科学を庇護したことは事実です。けれどもピョートルが実質的な改革を進めたのに対し、エカテリーナは啓蒙君主としての名声を、政権の運営に利用しただけだったという見方もできます。見た目は進歩的でしたが、実際には保守的だったといってよいでしょう。

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長い目で見ると、貴族たちと専制政治が手を結んだことは、ロシアにとって大きな弊害となりました。エカテリーナ二世のもとで、ロシアが社会のだかをきつくしめ始めたとき、ほかのヨーロッパ諸国はすでにそれをゆるめ始めていました。そのためロシアはつぎの半世紀に連続して起きた危機と変化に、ほかの国のように柔軟に対応することができなくなってしまったのです。

経済的および宗教的な「強い動機」を持つヨーロッパ人が、他の文明に抜きん出て海外進出を達成。

その初期に最大の植民地を誇ったスペインだが、広大な新大陸領は銀の産出以外には目立った利益を生まず、面積的にははるかに小さいカリブ海の島々の方が強い重要性を持っていた。

一方、イギリスの北米植民は、後発の存在にも関わらず、成人男性だけでない家族での移住とタバコ栽培の成功により、自立的な農業植民地としての成功を収める。

文明史的に、大きな視野に立てば、西半球新大陸は完全に「ヨーロッパ化」「キリスト教化」される道を歩むことになり、イスラムなど他の宗教・文明が影響を与えることはほぼ無くなることになる。

 

 

終わり。

一巻まるごとヨーロッパ史だが、一見単調に見えて、ついつい読み飛ばしてしまうところに、実は重要で興味深い視点や評価が含まれていることが多いので、注意が必要。

この巻もそこそこ面白いです。

2017年1月22日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』 (創元社)

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中国、日本、インドなど非イスラム圏のアジアと中世ヨーロッパの巻。

 

 

まず、古代から近代の入り口に至るまでの中国史がざっと片付けられる。

中国文明が、世界史上まれに見るほどの継続性と独立性をもちえた理由は、実はそれほど複雑なものではありません。中国の地理的な位置を思い浮かべてみてください。東側の海岸は太平洋にむけて大きく開けていますが、近代以前に西方世界からそこに海路で到達することは、ほとんど不可能でした。一方、西側の国境は、数々の山脈や砂漠によって守られており、ごく最近になるまで、わずかな隊商が荷物を運んで行き来することしかできなかったのです。

つまり中国は、オリエントや地中海、西アジアといった古代文明の先進地から完全に孤立した場所にあり、ほかの大文明から政治的安定を乱されることが、ほとんどなかったというわけです。そのよい例がイスラーム文明の影響です。七世紀以降、いくつも誕生したイスラーム国家の盛衰は、インドの歴史には大きな変化をもたらしましたが、中国の王朝の興亡にはほとんど影響をあたえませんでした。

インドではバラモン教からヒンドゥー教へといたる強固な宗教的伝統と、その過程で誕生したカースト制度が、文明の強力な安定要因として働いていました。一方、中国文明に安定をもたらしていたのは、儒教にもとづく高度な官僚制度です。統一王朝の出現後、かなり早い段階で誕生したこの統治システムが、たび重なる王朝の交代をくぐりぬけ、中国文明に強い継続性をもたらしつづけていたのです。

・・・・・・

中国の官僚たちは、社会全体をおおう儒教の影響力のもとで、政治と社会におけるさまざまな役割を一手に引きうけていました。彼らは役人であると同時に、儒教の教えをもっともよく知る「学者」であり、また芸術においても指導的な役割をはたす「文化人」でもあったからです。

中国では、おそらくほかの世界(イスラーム世界をのぞきます)とはくらべものにならないほど、特定の教義(儒教)が深く国家運営の中枢に組みこまれていました。そして中国の官僚たちは、ヨーロッパのキリスト教の聖職者にも似た倫理的な行動をとることを求められていたのです。

官僚制度の基盤である儒教は、きわめて保守性の強い教えであり、行政のおもな目的は既成の秩序を維持することと考えられていました。中国で、統治に際して何より優先されたのは、多様性に富んだ広大な帝国――多くの地方行政官は担当地域に言語の異なる人民をかかえていました――に一定の基準を普及させて、帝国全土に秩序をもたらすことでした。こうした実に保守的な目標を達成するにあたって、中国の官僚制度は驚くほどの成功を収め、その基本的な性格はあらゆる王朝の危機を乗りこえ、無傷のまま生きのびていったのです。

以上の通り保守的・静的な中国史上で、例外的に最も劇的な経済成長を遂げたのは、宋代。

宋王朝が存続した紀元一〇世紀から一三世紀にかけて、中国では人口が増えつづけたにもかかわらず、ほとんどの中国人の実質所得は増加していたものと思われます。つまり、かなりの長期にわたって、経済成長が人口の増加を大きく上まわっていたようなのです。それを可能にした理由の一つが、新しい稲の品種の発見だったことはまちがいないでしょう。

この新しい稲の導入により、じゅうぶんに灌漑された土地からは年に二度の収穫が、春だけ灌漑する丘陵地からも年に一度の収穫が見こめるようになりました。農業以外の産業の生産性も飛躍的に向上しました。ある学者は、中国は一一世紀の段階ですでに、六〇〇年後の全ヨーロッパの生産量に匹敵するほどの鉄を生産していたと推測しています。また繊維製品の生産能力も、水力による紡績機械が導入された結果、飛躍的な発展をとげていました。

宋王朝の時代になぜこのようなめざましい経済成長が起こったかを説明することは、実は容易ではありません。さまざまな史実の評価について、まだ意見が分かれているからです。公共事業、なかでも大運河の修復など、交通網に対する政府の積極的な投資が経済を活性化させたことは、おそらくまちがいないでしょう。また、長いあいだ他国からの侵略や内乱が起こらなかったことが、経済成長をうながす大きな要因になったこともたしかです。

しかし、たとえば内乱についていえば、逆に経済が成長したおかげで内乱が起きなかったと説明することもできます。結局、もっとも大きな理由は、市場の拡大とさまざまな要因によって、貨幣経済が盛んになったことだと思われますが、その根底にあったのは農業生産力の飛躍的な向上でした。農業生産力の向上が人口の増加を上まわっているかぎり、つまり民衆がじゅうぶんな食料を手に入れているかぎり、王朝から「天命」が去ることもなく、社会が混乱におちいることもありませんでした。こうした社会的な安定のなかで蓄積された資本が、さらなる労働力の活用をうながし、設備投資にもまわって新しい技術の開発も行なわれるようになりました。その結果として、人びとの実質所得もふくれあがっていったというわけです。

しかし、その成長には一定の限界があり、それを超えて文明が質的変化を遂げることは無かった。

宋王朝の時代に起こった急激な経済成長が、その後、停滞してしまった理由についてはよくわかっていません。それから五世紀近くのあいだ、中国人の平均実収は上昇することがなく、生産高は人口の増加に見あう水準をたもつのがやっとでした(農民の収入は、低下の一途をたどりました)。

しかし宋王朝の時代以降に起きた経済停滞は、ヨーロッパ人がいうところのいわゆる「アジア的停滞」を中国にもたらした真の理由ではありません。たとえば印刷術の進歩にもかかわらず、中国の民衆は二〇世紀にいたるまで、ほとんど読み書きができませんでした。また中国の大都市は経済成長をとげ、活発な商業活動を展開していたにもかかわらず、ヨーロッパのように民主的または自由主義的な市民社会を生みだすこともありませんでした。紀元前の戦国時代には、すでに諸子百家とよばれるさまざまな新しい思想が開化していたのですが、その後の中国文明は、ヨーロッパのような啓蒙思想を生みだすこともなかったのです。技術分野でも大きな進歩が起こっていたものの、それらが社会に革命的な進歩をもたらすこともありませんでした。

宋王朝の時代の船乗りたちは、すでに羅針盤を使用していました。しかし、一五世紀に明王朝の武将である鄭和が七度の大航海を行なって、インド、タイ、インドネシア、ペルシア湾、東アフリカなどに艦隊を派遣したとき、その目的はあくまでも明王朝の権威を誇示するところにあり、さらなる遠洋航海そなえて情報を集めることはありませんでした。

中国では紀元前二千年紀(紀元前二〇〇〇~一〇〇一年)にはすでに青銅器の傑作が生みだされ、またヨーロッパより一五〇〇年も早く鉄の鋳造が行なわれていました。しかし、こうしたすぐれた冶金術の伝統は、鉄の製造量がめざましく増大したにもかかわらず、新たな技術の開発にむかうことはありませんでした。さらにいえば、一三世紀に元王朝をおとずれたマルコ・ポーロは、「黒い石のようなもの」が燃えていたのを見たと書いています。実はそれは石炭だったのですが、鉄も石炭も大量に産出していた中国に、蒸気機関が誕生することはついにありませんでした。

このような例をあげていくと、きりがありません。おそらく中国文明は進歩ではなく、何か別の目標を達成しようとしていたのでしょう。ひとことでいうと継続性、つまり社会の安定の維持こそが、中国文明がめざした最大の価値だったのです。

儒教の思想を中心として、早い時代に確立された官僚制度も社会体制も、社会に変革を起こさないことをもっとも大きな目的として生みだされたものでした。第二巻のなかでも少しふれましたが、非常に早い段階で高度な文明を成立させたことと、地形的な孤立、文明圏の内部だけで経済的繁栄が可能だったことなどがあいまって、彼らは外の世界から何かを学ぶ必要を感じなかったのでしょう。

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中国文明がかかえていた矛盾点は、ヨーロッパ世界との接触が本格化する一九世紀までには、すでに誰の目にもあきらかになっていました。つまり中国人は多くの分野で、ヨーロッパ人よりも数百年、ときには一〇〇〇年以上も早くさまざまな技術を開発していたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国の介入を阻止できるだけの科学的発展にいたることは、ついになかったのです。

火薬がそのよい例です。中国人は世界に先がけて火薬を発明したにもかかわらず、ヨーロッパの大砲に匹敵するような武器を生みだすことはできませんでした。それだけでなく、ヨーロッパの職人が製造した大砲を有効に使うことさえできなかったのです。すでにのべたとおり、有効に活用されなかった中国の知的財産をあげていくときりがないのです。

その問題点は、実にはっきりしています。中国人が発明を実用化することに関心がなかった理由は、儒教を基盤とした官僚中心の社会体制にありました。中国の社会体制においては、ヨーロッパのように社会的地位の高い人びとと職人(技術者)たちのあいだに知的交流が生まれることがなく、そのため各分野での技術の発展が、文明全体を前進させる結果をもたらさなかったのです。

偉大な伝統文化に対する自負心のため、中国人はなかなか自国の文化が内包する欠陥を認めることができませんでした。おそらくそのせいで、彼らは外国人(中国人にとってはそのすべてが「野蛮人」でした)から何かを学ぶということが非常にむずかしかったのでしょう。さらに事態を悪化させたのは、儒教の伝統のため、中国文明が軍人や軍事技術者を軽視する傾向にあったことです。その結果、中国は外の世界からの脅威が増大した時代に、対応を大きくまちがえてしまうことになるのです。

 

 

そして、日本がこのシリーズで初めて登場。

まず、その全歴史の前提となった、地理的条件を述べる。

イギリスでは一時期、日本をアジアにおける大英帝国にたとえる議論が盛んだったことがあります。さまざまな観点から共通点が論じられ、なかにはあまり説得力のない説もありましたが、そこにはひとつだけ、反論の余地のないあきらかな事実がありました。それはこの両国が、いずれも海にかこまれた島国であり、国家の運命がその島国という条件によって大きく左右されてきたという事実です。

イギリスの歴史も日本の歴史も、海峡をへだてた大陸とは別の道を歩むことが可能だった一方で、やはり大陸からの影響を強く受けざるをえませんでした。もっとも日本と朝鮮半島のあいだに横たわる対馬海峡は、その距離がドーバー海峡のほぼ五倍あるため、日本はイギリス以上に大陸からの影響を受けずにすんだといえるでしょう。けれどもイギリスがそうであったように、日本もまた対岸、つまり朝鮮半島に強大な政治勢力が出現すると、時の政権は動揺することになりました。そうした状況は、イギリスが対岸のオランダなどへの敵対勢力の侵入を何よりも警戒していたことと、たしかに似ているように見えるのです。

そして、天皇の存在によって権威と権力の分立が成り立ったこと、戦乱期にも順調な発展が見られたことを述べ、前近代の日本が最終的に到達した江戸時代の幕藩体制を、以下のように高く評価する。

江戸幕府とは、ちょうど前章でご紹介した中国の儒教体制と同じく、それぞれの身分に応じた義務を徹底させ、階級にしばりつけることを最大の目標とした政権でした(事実、儒教の影響を受けていました)。それがどれくらい抑圧的なものであったかは、いまとなってはよくわかりませんが、社会に安定をもたらすという点では非常に有効な体制だったといえます。そして長い戦乱の時代のあとで、日本が安定を必要としていたこともたしかだったのです。江戸時代は、人びとがみずからの分(立場や義務)をわきまえることと、規律、勤勉、禁欲が強く求められた時代であり、この政権がうまく機能していたとき、たしかにそれは人類社会におけるもっともすぐれた社会体制のひとつだったといえるでしょう。

「前近代においては」という前提付きの話だろうが、それにしても驚くほどの高評価である。

江戸時代の二六五年間で、農業の生産高は約二倍になりました。一方、人口の伸びはその半分以下にとどまっています。江戸幕府はいわゆる「小さな政府」であり、新たに生まれた富を搾取しつくすような政権ではなかったため、その富は社会にとどまり、投資にまわったり、国民の生活水準を引き上げる役割をはたしたりしたのです。

同時代においてこのような自律的経済成長をとげた社会は、日本のほかにはヨーロッパしかありません。アジアのなかでなぜ日本だけがこうした経済的繁栄をとげたかという問題については、いまだに論争がつづいています。冒頭にお話ししたように、地形的な条件もたしかに大きかったことでしょう。アジア大陸の豊かな国々が、草原の遊牧民たちからたび重なる略奪を受けていたのに対して、日本は海にかこまれているためにそうした略奪を受けずにすみました。さらに江戸幕府が戦乱を終結させて、長い「天下泰平」の時代をもたらしたことは、もうひとつの大きな原因だったといえます。農業分野でも大きな進歩が見られました。耕地の開墾が強力に進められ、灌漑設備に資金が投じられ、ポルトガル人が伝えたアメリカ原産の作物がとり入れられたことも、人びとの生活水準を高めるうえで大きな役割をはたしました。

さらにそうした個々の要素が、相互にあたえた影響についても見ておく必要があります。すでにお話ししたように、江戸幕府が江戸に大名とその家族(さらに家臣たち)を強制的に住まわせたのは、政権の安定のためでした。しかしその結果、大名たちは米を市場に出して現金を手に入れねばならず、資本の流通が刺激されることになりました。また、そうして日本中から集められた資本(貨幣)が江戸で集中的に消費されることで、巨大な消費市場が成立することになったのです(江戸時代の武士とは経済的に見れば、いっさいの生産を行なわず、消費のみを行なう人びとということになります)。

さらに日本が二七〇もの地方政権(大名)によって分割されていたこともあり、各地で特色のある産業が発展していきました。産業革命初期のヨーロッパと同じように、日本の産業やさまざまな製品の製造も、最初は地方から始まったものなのです。幕府もそれを奨励していました。江戸時代のはじめには幕府主導で灌漑事業が進められ、度量衡と貨幣の統一も実施されています。

そして江戸幕府には、社会を統制しようという強い熱意はありましたが、実際の支配力はそれほどではなかったため、経済成長が妨げられることがなかったものと思われます。江戸幕府は、その最盛期にはあたかも絶対君主のように見えたときもありましたが、本質的には各地の地方政権の勢力均衡の上に位置する、大名連合の盟主ともいうべき存在だったからです。

一九世紀後半にヨーロッパからの脅威を受けるまでは、この体制は実にうまく機能していたといってよいでしょう。華やかな都市文化が開花し、のちにヨーロッパの印象派の画家たちにも大きな影響をあたえる浮世絵や、歌舞伎などの大衆芸術が庶民たちの大きな人気を集めるようになっていきました。一八〇〇年当時の日本人の平均所得と平均寿命は、イギリス人とほぼ同じ水準にあったと考えられています。

やがて一九世紀の後半に、日本は欧米諸国から開国をせまられ、明治維新を成立させて近代国家への道のりを歩み始めることになります。この巻ではそこまでふれませんが、それはほかの国には例を見ないような、急激で痛みをともなう自己改革の道だったといえるでしょう。

もっとも、すでに見てきたような経済成長を考えると、たとえ欧米諸国からの圧力がなくとも、幕藩体制が生き長らえることはなかったように思えます。日本では、江戸時代の末期にかけて、すでにさまざまな問題が噴出していました。また幕府の家臣や地方の有力大名のなかには、中国や朝鮮まで視野に入れて、東アジア全体の防衛構想を模索する人びとも出現し始めていました。そしてほかのアジアの民族と同じく強大なヨーロッパ文明の脅威にさらされたとき、日本が選択した道は、同時代の中国の清王朝やインドのムガル帝国とは、まったく異なった道だったのです。

 

 

続いて、インド。

インド史において、マウリヤ朝をはじめとする政治的統一が長期間存続しない理由を以下のように説明。

マウリヤ朝があっけなく衰退してしまった最大の原因は、おそらくインドの長い歴史を通じてつねに存在する、非常に根本的な問題にあったものと思われます。つまりインド社会は家族とカースト制度を基盤として成立しているため、インド人は王朝や国家といった抽象的な存在に忠誠心をもつことは、その後も現在にいたるまで、ほとんどなかったようなのです。そのため民衆がたとえば食料の問題などで不満をもつようになると、帝国の崩壊を食いとめようとする力は、どこにも存在しなかったということなのでしょう。

アショーカ王が帝国全域に「ダルマ」という新しいイデオロギーを広めようとしたとき、成功を収められなかった背景にも、おそらく同じ問題があったのでしょう。さらにいえば、こうしたインドの社会制度、とくにカースト制度は、その後も長くインドの経済発展を妨げつづけることになります。生まれによってすべての社会的行動が規定されるカースト制度のもとでは、経済が停滞し、人びとの活動の意欲がそがれてしまうことは、まったく当然のことだからです。

宗教を中心とする基盤としての文明の強靭性と、その上に立つ王朝・国家の脆弱性というコントラストは、インド文明とイスラム文明に共通するように思われる。

そして、その文明が持つ、強い独自性について。

ここまで見てきたように、ダルマの思想も、また『カーマスートラ』における性愛の肯定も、キリスト教世界やイスラーム教世界のもつ戦闘的でかつ禁欲的な文明の伝統とは、まったくかけ離れたものでした。インド文明はおそらく中国文明などよりももっと、西方の文明とは異なった系譜に属する文明だといえるでしょう。またそこにこそ、インド文明のもつ活力と、外来文化に対する抵抗力の秘密があったのです。

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ヒンドゥー教と仏教はこうした変化を刺激として、最盛期をむかえることになりました。ふたつの宗教が成熟したのは、イスラーム教徒がインド北部を支配するようになる少し前のことでしたが、それ以後もインド文明の根幹をなす基本原理は、異なった文明にいささかも屈することなく、驚くほど強固に受けつがれていきました。インド哲学の中心にあるのは、きわめて大まかにいってしまえば、輪廻転生と梵我一如の思想でした。そこから生まれる世界観は、ヨーロッパ人のような高みをめざして上昇していく直線的な歴史観ではなく、時の流れを超え、無限に循環運動をつづける宇宙観です。

このような基本思想がインドの現在までの歴史にどのような影響をおよぼしたかという問題については、あまりにも大きすぎて、把握するのはほとんど不可能かもしれません。しかし、インド哲学の高い思想性は認めるにしても、その世界観が現実世界に反映されたとき、それは人間の行動の可能性ではなく、限界を強調する方向に作用したという点は指摘せざるをえないのです。

この強靭な独自性を持つインド文明の地に、強力な伝播力を持つイスラム教が侵入し、最終的にはムガル帝国成立に至る。

すでにイスラーム教はインド亜大陸にしっかりと根をおろしており、その後もイスラーム教徒による数多くの地方政権が誕生していったのです。おそらくイスラーム教は、インド文明の長い歴史を通じても、その巨大な同化吸収能力にとって最大の脅威だったといえるかもしれません。

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ムガル帝国の帝位は、一八五八年の滅亡までバーブル帝の子孫に継承されていきました。しかし、第三代皇帝だったアクバル帝のあと、重要な皇帝はほとんどつぎの三人だけといえます。というのも、第四代皇帝のジャハーンギール帝と第五代のシャー・ジャハーン帝のもとでムガル帝国は最大の領土を支配するようになり、第六代のアウラングゼーブ帝の治世に一気に衰退へとむかい始めたからです。

アクバル帝の宗教宥和政策によって、ムガル帝国の統治はようやく安定、続くジャハンギール、シャー・ジャハーン両帝治下で、重税化など衰退の予兆が見られても、その宥和策が何とか維持されていた限り、帝国が根底から揺らぐことは無かった。

だが、次代アウラングゼーブ帝の愚行が全てを暗転させる。

しかし、そうしたシャー・ジャハーン帝による過酷な徴税も、第六代皇帝となったアウラングゼーブ帝(在位:一六五八~一七〇七年)の偏狭な宗教政策にくらべると、はるかに弊害は少なかったといえるでしょう。

この皇帝は、ムガル朝の最大版図を実現したこともあり、高校世界史レベルでは最盛期の君主と見なされがちだが、本書での評価は全く違う。

当ブログでも以前に書きましたが、実際、アウラングゼーブ死後のムガル朝の急激な衰退は世界史的に見ても異常に思える。

結局それは、それぞれ同化力が極めて強い、インド文明とイスラム文明が衝突し、アクバル帝の宗教宥和策があった間は微妙な均衡が保たれ、何とか小康状態を維持していたが、それが放棄されるや、元々極度の社会的緊張状態の上に立っていたムガル帝国は崩壊の道をたどった、ということなんでしょう。

そして、インド、イスラム両文明の衝突が再激化しつつあった時期に、ヨーロッパ人が来航しており、漁夫の利を占めたイギリス人の手によって、オスマン朝・サファヴィー朝・清朝・ムガル朝の近世アジア四大帝国の内、インドだけが完全に植民地化されるという憂き目に遭うことになる。

ところで、ヨーロッパ人がインドで成功を収めることになった責任の一端は、おそらくアクバル帝にもあったといえるでしょう。アクバル帝の時代にヨーロッパ人との本格的な接触が始まったにもかかわらず、彼は早い段階で危険の芽を摘みとることをしなかったからです。驚いたことにムガル帝国は、海軍の創設を考えたこともなかったようです。その結果、アウラングゼーブ帝の治世には、早くもヨーロッパ人のせいで、沿岸での船積みやメッカへの巡礼交易までが危険にさらされることになったのです。

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こうしてインドはみずからの歴史を歩むのではなく、世界の歴史のなかで翻弄される時代をむかえようとしていました。この時期までに起きたさまざまな出来事が、そのことを示していたのです。

しかし実際のところ、ムガル帝国に終焉をもたらした原因は、ヨーロッパ人の到来ではありませんでした。ムガル帝国はみずからの内部要因によって崩壊へとむかい、ヨーロッパ人はただその場に居合わせたにすぎなかったのです。けれどもそのことが、のちに非常に重大な意味をもつことになるのです。

 

 

この後、「孤立した世界」と題して、アフリカ大陸とアメリカ大陸を扱った章がある。

アフリカ大陸とアメリカ大陸は、ほかの地域とはまったく異なるリズムで文明化への道をたどることになりました。もちろんアフリカとアメリカでは、事情は大きく違います。南北両アメリカ大陸は、氷河期以降、ほかの大陸とは海で完全にへだてられており、長いあいだまったくの孤立状態にありました。

一方、アフリカ大陸はその北岸部、つまり地中海沿岸部は古くから文明の先進地でした。それ以外の地域も、かなり孤立した状態だったとはいえ、七世紀以降はイスラーム勢力など外部との接触が始まっています。ほとんど沿岸部に限られていたものの、最初はアラブ商人、つづいてヨーロッパの商人たちとの交易関係も、わずかながら行なわれるようになっていたのです。

けれども大きな視点からいえば、アフリカ大陸の大部分は一九世紀後半まで、世界史の本流に組みこまれることはありませんでした。そうした孤立状態のため、アフリカ大陸とアメリカ大陸の歴史には、いまなお解明されない部分が数多くのこされているのです。

アフリカについては、それが持っていた地理的自然的条件が文明化への大きな障害になったことを指摘。

農業の歴史を見てみると、アフリカ大陸がその過酷な自然環境のために、文化的な発展を阻害されていたことがよくわかります。とくにサハラ以南のアフリカは、地形や気候、疫病などが重い足かせとなって、大きな発展を望むことはむずかしかったようです。アフリカの歴史において、鉄器の製造法や新しい農作物は、つねにオリエントやアジア、インドネシア、アメリカなどからもたらされたものでした。また蒸気機関や医薬品は、一九世紀にヨーロッパから伝えられたものです。そうした外来の技術がなければ、アフリカの過酷な自然に対処するのは非常に困難なことだったでしょう。

アフリカ最初の国家がクシュ王国、それを滅ぼしたアクスム王国があったエチオピアは北部以外のアフリカで唯一のキリスト教国となり、その後イスラム教が伝わり、多くの王国で信仰されるが、それには一定の限界もあった。

いくつか確実なこともあります。たとえばネグロイド(黒色人種)系の国においては、王や支配階級がイスラーム教を信仰していたときも、一般の民衆は土着の宗教を信じつづけていたということです。社会慣習も、すべてがイスラーム化したわけではありませんでした。アラブの旅行者や商人たちは、マリ王国の少女たちが衣服をつけず、裸で人前に出ていることに非常にショックを受けていたようです。

著名なガーナ、マリ、ソンガイなどの他、サハラ以南の諸王国の名が知られているが、そのどれもがある段階以上の発展を遂げることは無かった。

こうした王国の痕跡は、いまではほとんどのこされていません。またそうしたアフリカの諸王国には、長いあいだ、役人や常備軍も存在しませんでした。王たちは伝統や習慣に沿って国を治めており、その権力はあまり大きなものではなかったようです。そうした理由から、アフリカで興った多くの「国家」が短命に終わったことは、ほぼまちがいありません。長い歴史をもつクシュ王国は、エジプト以外のアフリカの国としては、まったく例外的な存在だったのです。

 

 

続いて、アメリカ文明。

ヨーロッパ人到達以前の北米については、アフリカ史に関しての黒色人種と同様、先住民族への偏見・差別に繋がらないよう、細心の注意を払った上で、客観的に全世界史を叙述すれば、文明的にはほぼ白紙と見なさざるをえない。

北アメリカの先住民の文化には、たしかに尊敬に値するところもあるのですが、それが文明とよべるほどのものでなかったことも事実です。アメリカ大陸でそのような段階にまで達していたのは、つぎの三つの文化だけでした。つまり、中央アメリカのユカタン半島周辺に生まれたマヤ文明、同じく中央アメリカのメキシコ盆地に生まれたアステカ文化、もうひとつは南アメリカのペルー(中央アンデス地方)に生まれたインカ文明です。

そのうち、アステカ文化に対する著者の評価は鮮明である。

アステカの宗教は、その身の毛もよだつ儀式――犠牲から生きたまま心臓をとりだしたり、首を切り落としたりしていました――によって、ヨーロッパ人に大きな衝撃をあたえました。

アステカ人は祭儀に必要な犠牲には、戦争捕虜をあてていました。またアステカの戦士たちは戦闘で死ぬと、太陽神がつかさどる楽園に行けると信じていました。そのため、アステカ王国にとって平和とは、長くつづいてはならないものだったのです。アステカ人は従属国の統治をなおざりにし、反乱が起きればこれ幸いと攻撃をかけ、犠牲のための捕虜を手に入れていました。これでは従属国からの忠誠心など、得られるはずもありません。アステカがヨーロッパ人に滅ぼされたとき、従属国の人びとはさぞかし喜んだことでしょう。

アステカ人の信仰はまた、ヨーロッパ人との最初の接触において、皮肉な役回りを演じることになりました。というのも、彼らは偉大なる神ケツァルコアトルが、東方からもどってくるという信仰をもっていたのです。白い肌をもち、ひげを生やしたケツァルコアトル神は、アステカ人に文化を教えたあと、東方の海岸で姿を消したと伝えられていました。そのため、コルテスひきいるスペイン軍を見たアステカ人は、彼らをケツァルコアトル神の再来と考え、戦うことをためらったのです。

アステカ文化を全体として見ると、すぐれた美術品をのこし、高度な社会を営んでいたにもかかわらず、野蛮で魅力に乏しい文化だったといわざるをえません。民衆にあれほど大きな負担を強いた文化は、ほかにはほとんど存在しないからです。

これをアメリカ先住民を侵略したヨーロッパ人の側に立つ暴論と言えるだろうか?

私にはそうは思えない。

著者が言及しているのは、あくまでアステカ文化に関してだけであり、インカ文明については何も言っておらず、そのアステカ文化への評価に違和感は感じない。

西洋文明を絶対視し、それ以外の全ての文化を野蛮視するのはもちろん間違いだが、極端な文化相対主義に立って、文明間のあらゆる価値判断を放棄するのも間違いだ。

人身御供や拷問、奴隷制、女性と子供への虐待が広範に見られる文化とそうでない文化の優劣は間違いなくある。

その際、表面的なイメージに動かされないよう、慎重に判断する必要があることは言うまでもないが、基本はそう考えるしかない。

著者の章末尾の文章にも同意せざるを得ない。

このように、すべてのアメリカ文明は基本的な部分で、アジアやヨーロッパで成立した文明とは大きな違いをもっていました。インカ人は独自の記録法をもちいて複雑な行政機構を維持していましたが、高度な読み書きの能力を身につけることはありませんでした。技術についても、特定分野の技能は高い水準にあったものの、ほかの文明に影響をあたえるほどの技術を生みだすことはありませんでした。そのため、アメリカの諸文明は独自の文明を形成することはできましたが、彼らがその文明を通じて世界の歴史に貢献することは、それほど多くはなかったのです。

もっとも、文明が出現する以前になしとげられていた、世界に対するアメリカ大陸の貢献は、非常に大きなものでした。はるか昔にアメリカ大陸の人びとは、トマトやトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャを栽培する方法を発見し、人類の食料資源を大いに増やしてくれていたのです。アメリカ大陸ではそれらの食料資源をもとに、マヤ、アステカ、インカなど、きわめて興味深いいくつかの文明が築かれていきました。しかし、それらの文明は、最終的には世界史の辺境に、美しくめずらしい遺跡をのこすだけで終わる運命にあったのです。

 

 

続いて、中世ヨーロッパ。

「中世」という言葉は、ヨーロッパ以外の文化圏でもごく一般的に使われているようですが、もともとこれはヨーロッパ独自の歴史観にもとづく、かなり否定的な意味をもった言葉でした。つまり、「現代(近代)」と「古代」の中間に位置する、ほとんど重要性のない時代という意味を含んでいたのです。

最初にこの「中世」という言葉を考えだしたのは、一五~一六世紀のヨーロッパ人でした。当時彼らは、長く忘れ去られていた古代ギリシア・ローマ文明を「再発見」し、はるか昔に存在したその偉大な文化にすっかり魅了されていたのです。その一方で彼らはまた、自分たちの暮らす社会にも新しい変化が起こりつつあることを感じ始めていました。その結果、当時のヨーロッパ人のあいだに、自分たちの生きる時代は、かつての偉大なる古代の「再生」であり、そのあいだに横たわる期間はたんなる空白期間にすぎないという考えが生まれることになったのです。

けれどもヨーロッパの歴史において、約一〇〇〇年もの時間をしめるこの中世という時代・・・・がたんなる空白期間ではなかったという認識が、やがて少しずつ広まっていきます。そしてあるとき大転換が起こり、まるでそれまで無視してきた埋めあわせをするかのように、ヨーロッパ人はこの「失われた一〇〇〇年」を賛美し、理想化するようになったのです。

騎士道を題材にした歴史小説が人気をよび、地方には中世貴族の城をまねた新興富裕層の大邸宅が建ち並ぶようになりました。さらに重要だったのは、中世の文献研究が盛んになったことです。しかし、そうした多くの進歩が見られる一方で、本質的な理解を妨げるような弊害ものこることになりました。その一部は、現在でも依然としてのこされています。つまり中世キリスト教社会に存在した宗教的統一性や表面的な安定性を理想化するあまり、その奥に隠された多様性が見えにくくなってしまったのです。

とは言え、中世という時代は、何よりもキリスト教の時代であり、その影響が18世紀末に至っても残っていたことを著者は認める。

この巻では11世紀中世盛期から15世紀末までを、近世への変化を生み出した「ヨーロッパ世界の第二の形成期」「最初の革命の時代」として捉える。

その主題はもちろん国際的勢力としてのローマ教会の衰退と近世的国民国家の形成。

個々の教皇の無能・腐敗よりも、教皇制度そのものがイタリア以外の国から民族的反発を買うようになったことが、ローマ教会の衰退を招いたが、キリスト教信仰そのものは近世に入っても社会の中で大きな役割を果たしていたことも、本書では強調される(だからこそ宗教改革が起こったわけだから)。

少し話は変わりますが、私たち現代人は、もちろん国家という概念になじみをもっています。世界は固有の領土をもつ国家によって分割されており、各国にはそれぞれ外部から干渉されることのない「主権」が存在するという合意が広く認められています。また国家はある程度、民族的なまとまりにもとづいて構成されているという一般的な認識も存在しているといってよいでしょう。

このような考えは、実は紀元一〇〇〇年ごろのヨーロッパ人には、まったく理解できないものでした。ところが一五〇〇年ごろになると、かなりの数の人びとがそのことを理解するようになっていたのです。おそらく近代という時代の幕開けを示すもっとも重要な指標のひとつが、この国民国家という概念の成立だといえるでしょう。

そしてヨーロッパ史が持つ特殊性として、自立的なブルジョワ階級の存在を挙げる。

中産階級の出現をもたらした歴史的経緯は、よくわかっていません。・・・・・おそらく都市文化が開花した背景には、ヨーロッパ特有の要因が数多く存在していたのでしょう。どんな古代文明(古代ギリシア文明は例外とします)においても、またアジアやアメリカの社会でも、ヨーロッパのように都市生活のなかから新たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起こりませんでした。その理由のひとつとしては、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象となることが非常にまれだったという点が指摘できるかもしれません。ヨーロッパの政治権力は長く分断されていたため、権力者たちはライバルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガチョウ」を大切にするようになったのです。一方、たとえばアジアの大半の地域では、戦闘があるたびに都市がくり返し略奪されていました。

もちろん、それだけですべてが説明できるわけではありません。階級こそあったものの、ヨーロッパにはインドのようなカースト制度もなければ、中国の儒教のような人間の進歩を妨げるような思想もなかったことは、おそらく重大な意味をもっていました。さらには、ほかの文明圏では都市の住民たちは、たとえ裕福な人びとであっても社会的に低い地位に甘んじていたようです。ところがヨーロッパでは、商人や職人、弁護士、医師たちがそれぞれの仕事に誇りをもち、土地を所有する貴族たちからただ支配されるだけの存在ではなくなっていました。ヨーロッパの社会は変化や進歩に対して扉を閉ざしておらず、軍人や宮廷の官僚以外にも出世の道を開いていたというわけです。

知的側面でも、著者は中世ヨーロッパがイスラム文明から多くの影響を受けたことを通説どおり認めつつ、中国とインドの両文明がヨーロッパに影響を与えることが無かったことを指摘。

イスラーム文明のもつ文化的な受容能力と伝達能力を考えると、その存在がヨーロッパと東アジアのあいだに障壁をつくっていたとは考えられません。それよりも中国やインドの文明が、そうした距離を乗りこえてまでヨーロッパに影響をおよぼすだけの力がなかったというほうが事実に近いのでしょう。結局のところ、交流がさほどむすかしくなかった紀元前のヘレニズム時代でさえ、中国やインドの文明がヨーロッパに大きな影響をおよぼすことはほとんどなかったのです。

そしてルネサンスというヨーロッパ文明の自己革新について、少なくともその初期・中期においては中世との断絶との見方に強く釘を刺し、以下のように記す。

ルネサンスについて語る場合、この用語を使える文脈には限界があることをよく認識しておいたほうがよいでしょう。もしもルネサンスを、中世のキリスト教文明と一線を画す新しい伝統という意味で使ってしまうと、それは歴史をゆがめる行為となります。ルネサンスは有効な神話でしたし、現在でも有効な神話です。人間が自己を正しく認識し、行動するうえで非常に有効な考え方のひとつです。しかし、いかなる形であれヨーロッパの歴史において、ルネサンスと中世のあいだに線を引くことはできません。

なお、中世末から近世にかけての技術の中で、「たったひとつの技術上の革新がこれほど大きな変化をもたらした例は、人類の長い歴史のなかでも印刷術のほかにはなかったといえるでしょう。」と述べ、その意義を強調している(長期的に見て、以後の情報技術の発達が全てそうであるように、その弊害も桁違いだと私には思えるが)。

こうして中世を潜り抜け、近世に達したヨーロッパ文明の力量の総括。

逆境にくじけずに耐え、過去の文明の残骸や異民族から伝わった文化を集めてキリスト教世界を築いたヨーロッパ人は、知らぬまに巨大な文明の基盤を構築することに成功していました。しかし、それがさらなる発展をとげるためには、まだまだ時間が必要でした。一五〇〇年の時点では、未来がヨーロッパ人のものになるという兆候はほとんど見えていませんでした。ほかの民族の文明に対して、ヨーロッパの文明があきらかに優位にあるという証拠はどこにも存在しなかったからです。たとえば先陣を切って海外へ進出したポルトガル人は、西アフリカで現地の住民から砂金や奴隷を略奪していましたが、その一方ではペルシアやインドで遭遇した大帝国に圧倒されていたのです。

16世紀時点では、サハラ以南のアフリカと新大陸アメリカの先住民文明に対しては圧倒的優位に立てたヨーロッパ文明だが、アジアの諸帝国に対しては正面から戦えるような状態ですらない。

それが可能になるのは、19世紀、産業革命以後である。

日本を考えても、16・17世紀に帆船で来た「南蛮人」は簡単に追い払い、鎖国できたが、19世紀に「黒船」という蒸気船で来た欧米人に対しては開国せざるを得なかった。

最後にキリスト教思想の影響について。

この時代を理解するためには、それほどまでに変化にとぼしかった巨大な時の流れをよく認識しておく必要があります。おそらくそうしたヨーロッパの中世社会と、その奥深くに埋もれていた近代社会との関係を解く鍵は、キリスト教が本質的にもっている二元論のなかに見いだすことができるのでしょう。つまり魂とその牢獄である肉体、苦難に満ちた現世と幸福な来世、汚れた地上の国と輝ける天上の国という対立です。この二元論はやがて宗教的な思想を離れ、過去から進歩した現在、現在から進歩した未来という歴史観を生み、無限の進歩をめざすヨーロッパ文明の大きな武器となっていくのです。

このくらいの話になると、私の頭ではもう理解できないし、その是非も判断できない。

 

半分終わりました。

以後も続けます。

2017年1月16日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』 (創元社)

Filed under: イスラム・中東, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:03

本巻の監修者あとがきを書いた、後藤明氏によると、本巻原書の表題の直訳は「伝統の分岐」だと言う。

古代オリエントに始まる「文明の伝統」がギリシア・ローマに繋がり、ローマ帝国滅亡後、その流れがイスラム・ビザンツ・西欧の三つに分岐したと著者は捉えている。

また本書の中の一章は「対立する文明」と題されている。

これまでの巻で叙述されたように、前3000年に文明が誕生し、前500年頃までに各地で独自の主要文明が成立、それが変容・分岐を経つつ、1500年前後のヨーロッパの世界進出開始まで、均衡・並立状態を続ける。

その紀元前500年~1500年までの二千年間、諸文明は様々な接触・交流を持ちつつも、基本的にはその独自性を守ることになった。

しかし、時には文明同士が衝突し、大きな影響を与え合うこともあった。

その大きな要因は、著者によれば、二つある。

遊牧民族の活動、およびイスラム文明の膨張である。

先史時代から存在した地域ごとの文化の違いも、しだいに大きくなっていました。ユーラシア大陸とアフリカ大陸では、紀元前三〇〇~二〇〇年ごろからさまざまな地域に文明が生まれ、それぞれ独自の発展をとげていたのです。各文明のあいだには、ときにひかえめな接触はありましたが、基本的にそれは貿易商や学者、外交官、伝道師など、個人の力に頼った交流にすぎませんでした。そうした接触だけでは、もちろん文明全体に影響をあたえるのは難しかったことでしょう。

世界に点在するそのような文明は、様式や細かな点では多くの違いをもっていましたが、その一方、基本的な部分ではかなり似通っていたということもできます。たとえばごく最近まで、すべての文明は農業によって支えられていましたし、利用できるエネルギーも人間や動物の力のほかは、風力や水力に頼るしかなかったのです。また、どの文明も長いあいだ、ほかの文明に対して決定的に優位に立てるほどの強みをもつことはできませんでした。特定の文明が遠く離れた別の文明を完全に圧倒するようになるのは、ずっと先の時代の話なのです。

多くの場合、文明と文明が大きな影響をおよぼしあうのは、民族の移動によって異なった民族どうしが直接接触するようになったときや、遊牧民族が定住型社会へ侵入したときなどに限られていました。そして、最初は衝突をくり返し、やがて共存するようになっていったのです。そうした文明どうしの接触が人類の歴史に大きな進歩をもたらしてきたことは、これまですでにお話ししてきた第三巻までの物語のなかでも見てきたとおりです。

けれどもその一方で、異民族の侵入が文明に破滅をもたらしたり、悪影響をおよぼすケースがあったことも事実です。その代表的な例として、中央アジアから中東や東欧に何度も侵入し、多くの破壊を行なったモンゴル人の影響をあげることができます。

逆に異民族の侵入が、息の長い建設的な結果を生みだしたケースもあります。アジアの奥地から小アジアに進出し、やがてビザンツ帝国を滅亡させて一大帝国を築いたトルコ民族がそのよい例といえるでしょう。

そうしたさまざまな文明の衝突のなかでも、この第四巻でとりあげるイスラーム文明をめぐる衝突こそは、世界の歴史のなかでも、もっとも重要な文明の衝突のひとつだといえます。

その結果、スペインからインドネシア、また北アフリカから中国にいたる広大な地域の民族が影響を受けることになります。しかしその一方でこの衝突は、異なった文明の相互作用が豊かな文化を醸成することを示す、大きな例にもなったのです。

再び、監修者の後藤氏によれば、遊牧民族とイスラム文明に関する本書の叙述には、(特に前者についての)日本の学界を含む最新の研究成果が反映されているとは言えず、著者の力量は十分認めつつも、監修者としてやや不満が残る、という感じだそうです。

しかし、イスラムのことは後で述べるとして、本書での遊牧民族についての記述に大きな「偏見」を感じることは、個人的には無かった。

そもそも私は、司馬遼太郎氏を始めとして、杉山正明氏などの、モンゴルを含めた遊牧騎馬民族に対して、何かロマンティックな思い入れをする人の気持ちが全然わからない。

もちろん、世界史上で、農耕民は粛々と生産と建設に従事する「文明人」だが、遊牧民は略奪を生業にして定住社会に常に侵略者として現れる「野蛮人」だ、なんてとんでもない偏見が今通用するはずもない。

昔、司馬遼太郎氏が、遊牧民族を農耕社会への一方的侵入者として描くのは間違っている、農耕民による草原の農地化こそ、遊牧民にとっては自らの死活問題になる「侵略」だ、と喝破したことに対して、深く得心したことがあります。

ですから遊牧民族の活動を頭から有害視するのは間違いでしょう。

しかし、「モンゴルによる世界制覇のおかげで安全が保障され、ユーラシアの交易が一大盛況を迎えた、モンゴルによる破壊行為を強調するのは誇張に基づく偏見だ」というような、最近よく聞く見解には、どうしても眉に唾を付けて聞いてしまう。

そんなふうに思えるのは、我々の祖先が曲がりなりにも元寇を撃退できたからでしょう。

もしユーラシア大陸の他地域のように、あの時点で日本がモンゴルの支配下に入っていたことを想像すると、全くゾッとする。

現在の遊牧民に対して偏見を煽ったりすることは決してあってはならないし、今のモンゴル国民がチンギス・ハンを英雄視する自由はもちろんあると思うが、歴史上遊牧騎馬民族の活動が文明に対してしばしば破壊的作用をもたらした、とする評価自体は暴論とは思えない。

その遊牧民について本書の記述。

ここで少し遊牧民についてご説明しておきましょう。遊牧民の歴史は、その全容を知ることも個々の事実を知ることもともに難しいのですが、そのなかでひとつだけあきらかな事実があります。それは中央アジアの遊牧民が一五〇〇年もの長期にわたって、世界の歴史を大きく動かす要因でありつづけたということです。彼らは何度も世界を大混乱におとしいれ、その結果、西方でのゲルマン民族の大移動や、東アジアにおける中国王朝の交代といった巨大な歴史的変化をひき起こすことになりました。

遊牧民について語る場合には、まず地理的な話から始めたほうがよいでしょう。

遊牧民誕生の地とされる「中央アジア」という地名は、実はあまりよい名称とはいえず、「内陸アジア」とよんだほうがその実情をよくあらわしています。というのも「海岸線から遠く離れている」ことこそが、この地域を規定するもっとも重要な要素だからです。

海岸から遠く離れた内陸部だからこそ、特有の乾燥した気候が生まれ、近代にいたるまでその土地で暮らす人びとが、外部からの政治的な圧力にさらされることもほとんどありませんでした。その一方、仏教やキリスト教、イスラームなどがこの地域にも伝わっていることから、外部からの文化的な影響には開放的な地域だったこともわかっています。

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モンゴル人の歴史を年代や領土によって区分するのはあまり意味がありません。この遊牧民族は驚くほど短期間に、中国、インド、中東、ヨーロッパへと勢力を拡大し、世界中に大きな爪跡をのこしたからです。また、ゲル(移動型家屋)に張られたフェルト製の天幕のほかには、特筆すべき文化ものこしていません。巨大な嵐のように荒れ狂い、地球上のほとんどの文明に脅威をあたえ、人類の歴史のなかで二〇世紀だけが匹敵しうる大規模な殺戮と破壊をひき起こしたあと、彼らは現れたときと同じように、短期間で消え去ってしまったのです。こうしてモンゴル人は、もっとも恐ろしい最後の遊牧民征服者として、長く記憶されることになりました。

そして、諸文明の衝突・変容のもう一つの主因となったイスラム文明の誕生と拡大について。

この時代の征服は、イスラームが世界にあたえた衝撃の始まりにすぎませんでした。イスラーム勢力圏の広がりと多様性は、その後、人類の歴史のなかでも特筆すべきものとなります。

世界中のあらゆる地域でイスラーム化が避けて通れないように思われた時期さえありました(実際はそうなりませんでしたが)。

そしてこの偉大な文明の伝統は、その後もまた、新たなる征服のうえに築かれていくことになったのです。

世界の三大宗教の中で最後に登場したこの宗教は確かに、その拡大の速度と広がりは正に爆発的と言ってよいほどだし、一度改宗した地域での持続性も圧倒的なものがある。

(一度政治的支配下に入ったものの、その後イスラム化が後退した地域と見られるイベリア半島やバルカン、インドなどは多数派住民が改宗したとは言えないでしょうし、インドではパキスタン・バングラデシュ地域は今も完全にイスラム圏として残っている。)

しかし、宗教的・文明的には強靭性を持ち、社会にしっかりと根付いたイスラム文明だが、その基礎の上に立つ王朝という政治構造は脆弱であるという面も持っていた。

(このブログでも以前イスラム王朝の短命性について書きましたが、本書でもそれに近い記述があって、自分の感想もそれほど的外れでもないかと思えました。)

こうしてイスラーム文明が繁栄を謳歌していたとき、その政治体制はすでに衰えを見せ始めていました(崩壊が始まっていたといってもいいでしょう)。カリフ政権の要職に、しだいに非アラブ人の改宗者がつくようになったこともその原因のひとつでした。そしてアッバース朝は最初は帝国周辺の州で支配力を失い、それから帝国の中心だったイラク(メソポタミア)で支配力を失いました。

七世紀の中ごろ世界の歴史に突如登場したアラブ帝国は、こうしてきわめて早い時点でピークをむかえ、八世紀の末にはすでに衰退にむかい始めたのです。

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アッバース朝は、九四六年にペルシア人の将軍であるブワイフ家のアフマドがカリフを廃し、新しいカリフを擁立したときに実権を失ってしまいました。形式的には王朝は存続していましたが、実質的にはブワイフ家がときのカリフから「大アミール」に任命されて新しい政権を樹立した段階で、アッバース朝は滅亡したといってよいでしょう。こうしてアラブ・イスラーム世界は分裂し、約三〇〇年にわたって維持された中東地方の統一も、ふたたび崩壊することになりました。

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イスラーム国家の特徴として、宗教的な権威と政治的な権力が分離した状態は、長くつづかないということがあります。だからこそシーア派の軍事政権であるブワイフ朝も、スンナ派アッバース朝のカリフから「大アミール」の称号を受ける必要があったのです。

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こうしたイスラームによる「社会革命」は、もちろん宗教を中心として行なわれたものでした。しかしイスラームはユダヤ教のように生活から切り離された宗教ではなく、生活のあらゆる側面をつつみこむ教えだったのです。イスラームにはキリスト教では当然と見なされている聖と俗の区別や、精神世界と現実世界の区別を表現する言葉がありません。イスラーム教徒にとって宗教とは、社会そのものだったからです。だからこそその教えは、さまざまな政権が乱立する時代を超えて生きのびていったのでしょう。イスラームは「奇跡」を重視する宗教ではなく(いくつか奇跡的事件を伝える伝承はありますが)、人びとの暮らしにたしかな生活の規範をもたらしてくれる現実的な教えだったのです。

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こうして、ごく少数のアラブ人の信仰から始まったイスラーム勢力の拡大は、世界の歴史に驚くべき結果をもたらすことになりました。しかし、その偉大なる歴史にもかかわらず、アラブ国家は一〇世紀以降、イスラーム世界の統一を実現することはできませんでした。アラブ人が悲願とするアラブ世界の統一でさえ、現在はまだ夢でしかないのです。

・・・・・・

すでにお話ししたとおり、ビザンツ帝国は中東に侵入したさまざまな民族の標的となりましたが、それをなんとか乗りこえ、宿敵であるアラブのアッバース朝より長く生きのびることになりました。アッバース朝もまた、異民族からの攻撃を受け、衰退と分裂の道をたどり始めていたのです。

こうして一〇世紀以降の中東は混乱の時代に突入していくわけですが、その時代のアッバース朝に何が起きたかを簡単に説明するのはとうてい無理な話です。ひとついえるとすれば、たしかに商業が栄え、支配者階級に属さない裕福な人びとが出現するようになりましたが、その結果としてもたらされるべき持続的な経済成長は起こりませんでした。その根本的理由は、気まぐれなアッバース朝政府の方針とその搾取にあったといえるでしょう。

しかし、支配者や侵略者が現れては消えていったにもかかわらず、結局のところイスラーム社会の土台が揺らぐことはありませんでした。その結果、地中海東岸からヒンドゥークシュ山脈にいたる広大な地域が、歴史上はじめてイスラームというひとつの文化圏にのみこまれ、その文化は長く引きつがれていくことになったのです。この地域でキリスト教文化が大きな勢力をたもっていたのは一一世紀までで、その後は小アジアのタウルス山脈の西側に封じこめられてしまいました。それ以降、中東ではイスラーム勢力から存在を許された小さなキリスト教徒の社会だけが、かろうじて生きのこることになったのです。

イスラームが社会や文化に深く根をおろし、安定した制度を生みだしたことは、世界史的に見ても非常に重要な事件でした。カリフの権威の衰退期には、形式的にはカリフを主権者としながらも、半独立の王朝が実権を握るようになっていきます。しかし、イスラームがもつ強力な秩序は、これらの半独立王朝がかかえていた弱み(おもに政治や行政面での)を補ってあまりあるものだったのです。一〇世紀以降のそうした王朝については、あまりくわしくとりあげる必要はないでしょう。ただしそれらの諸王朝が、時代の転換点を象徴する存在だったことはたしかです。

引用末尾の諸王朝のうちで注目すべきものを、本書の記述の中から挙げると、まず、十字軍とモンゴルという二つの脅威を撃退し、イスラム世界の中心を一時エジプトに移す偉業を成し遂げたマムルーク朝。

次に、キリスト教文化圏に脅威を与え、その輪郭形成を促し、ヨーロッパの東西を分かちつつ、バルカンでのキリスト教徒を比較的寛容に扱ったことによってビザンツ帝国の遺産をスラヴ人が受け継ぐことを可能にしたオスマン朝。

そして、シーア派を国教とすることで、中東地域でのセム系アラブ人の大海の中で、印欧語族系ペルシアの独自性を、民族・言語だけでなく宗教においても守ることになったサファヴィー朝。

宗教自体の爆発的膨張にも関わらず、政治的統一は正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の三代を合わせても約300年弱しか続かず、遥か後年、トルコ系遊牧民の力を借りて、オスマン朝による中東地域統一はほぼ達成されたものの、それにもシーア派のサファヴィー朝ペルシアという重大な例外が存在していた。

これらの王朝に比して、モンゴルによる征服活動の余喘とも言えるティムール朝への著者の評価は低く、ネストリウス派とヤコブ派というアジアのキリスト教徒をほぼ絶滅させたことと、オスマン朝を破ることによって、ビザンツ帝国の滅亡を半世紀ほど遅らせたことだけだ、としている。

そして、イスラム文明の知的側面について。

著者はもちろんその全般的レベルの高さを認めている。

各地のモスクや宗教指導者を育成する学院で、高度な学術研究も行なわれていたようですが、それらはすべて宗教と密接な関係をもっていたため、その評価は非常に難しくなります。当時のイスラーム文明が客観的にどのようなレベルに達していたかについては、はっきりとしたことはいえません。ただ八世紀以降、好奇心にあふれた、自己に対する批判的な視点をもつ文化の種がイスラーム世界にまかれたことは事実です。

だが、本書では以上の文章に続けて、以下の一文をさりげなく記している。

その種が大きな花を咲かせることは、あるいはなかったのかもしれませんが。

これもイスラム教へのありきたりな「偏見」と片付けることはできない気がする。

イスラム文明の大拡張と(西)ヨーロッパ文明の成長の陰で、もう一つの「分岐した伝統」であるビザンツ文明は、政治的には衰退の一途をたどる。

だが、その衰亡の過程である民族集団が後継者として姿を現わしてくる。

こうしてビザンツ帝国は約一〇〇〇年の歴史に幕を閉じようとしていたわけですが、その遺産の大半は将来にむけて、すでに別の場所に「保存」されていました(ビザンツ帝国の人びとが誇りを感じられる形ではなかったかもしれませんが)。正教会がスラヴ人のあいだに根をおろす過程で、ビザンツ文明の遺産は彼らのなかに確実に受けつがれていたのです。この事実は現在にいたるまでのヨーロッパの歴史を、大きく左右することになりました。現在のロシアをはじめとするスラヴ系国家は、そもそもスラヴ人がキリスト教に改宗していなければ、今日ヨーロッパの一部と見なされることもなかったでしょう。

・・・・・・

初期のスラヴ芸術を見ると、スラヴ人が異民族の文化や技術を進んで吸収した人びとだったことがわかります。しかもスラヴ人は、その文化や技術を教えてくれた人びとが滅んだあとも生きのびていく、強い生存能力に恵まれていました。

そうした点を考えると、七世紀にスラヴ人と強大なイスラーム勢力の交流が、そのあいだにいたハザール族とブルガール族によってはばまれていたことは、世界の歴史において決定的に重要だったといえるでしょう。

・・・・・・

歴史的に見れば、このころロシアの歴史は決定的な分岐点にさしかかっていたといえるでしょう。いまだに北欧のヴァイキングの神々を信奉するロシアは、東方の正教会と西方のカトリック教会のはざまで、とちらについてもおかしくない状態にあったからです(イスラームはこの重大な時期に、ユダヤ教国家のハザールによって勢いをそがれていました)。

同じスラヴ人が建国したポーランドは、すでにカトリックを国教としていました。また、ドイツのカトリック教会も東方への布教を行ない、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。すでに分裂があきらかになっていた東西いずれのキリスト教会にとっても、ロシアはのどから手がでるほど手に入れたい存在だったのです。

・・・・・・

ビザンツ帝国やスラヴのキリスト教国は、文化的に分断されていたため、ヨーロッパの西部まで影響をおよぼすことはほとんどありませんでした。ただしこの両者は、ヨーロッパの西部が遊牧民やイスラームからの影響を受けずにすむ緩衝地帯の役割をはたしたといえるでしょう。もしもこのころロシアがイスラーム化されていたら、ヨーロッパの歴史はおそらく大きく変わっていたにちがいありません。

著者は、「ロシアのカトリック化」、あるいはもっと極端なケースである「ロシアのイスラム化」の可能性を示唆し、読者の想像力をかき立てる。

結局、キエフ公国のウラジーミル大公がギリシア正教に改宗、後にロシアは東方キリスト教会の最重要構成国家となる。

ハザールと共にイスラムとの接触からロシアを遮断したブルガール人もスラヴ化して正教会に改宗。

一方、上述の通り、スラヴ人の中で、ロシアと並んで早期に国家を形成する能力を持っていたもう一つの重要民族ポーランド人は西方カトリック教会に改宗。

ただし、ポーランドはこのことによって、東方に向かっては正教会に対するカトリックの前線基地、西方に向かってはドイツ人の植民に対するスラヴ民族の防波堤という二つの過剰な負担を背負うことになり、歴史上しばしば大きな悲劇に見舞われることになってしまった。

そして著者は、ポーランドだけでなく、スラヴ民族全体に付きまとう、「西方のラテン系・ゲルマン系諸民族に対する後進性と、東方のアジア系遊牧民に対する脆弱性」という二つの要因がもたらす「不幸な民族」という漠然としたイメージを肯定するかのように、以下の文章を記す。

思えばスラヴ人のなかで最大勢力となったキエフ公国にしても、その能力に見あうだけの発展をとげたとはいえません。

一一世紀以降の内紛と分裂によって国力をそがれ、その後はクマン人(ポロベッツ人)の攻撃に苦しめられることになったからです。さらにキエフ公国は一二〇〇年までに黒海の交易ルートの支配権を失い、北方に後退して、やがてロシアの歴史の中心はモスクワ大公国へと移っていくことになります。

そして、大きな苦難の時代がスラヴ人を待ちうけていました。ヨーロッパのスラヴ世界に、かつてない巨大な悲劇が襲いかかろうとしていたのです。同じころ、すでにお話ししたように、ビザンツ帝国にも悲劇がおとずれていました。一二〇四年に十字軍兵士がコンスタンティノープルを攻略し、正教を奉じてきた世界帝国が崩壊したのです。ところが、悲劇はそれだけでは終わりませんでした。それから三六年後には、同じく正教を奉じるキエフ大公国もまた、恐るべきモンゴル人の襲撃を受けることになったのです。

初期の西ヨーロッパ世界も外部から深刻な脅威を受けた脆弱な文明に過ぎなかった。

西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパはビザンツ帝国やイスラーム諸国の勢力圏にくらべて、すっかり後進地域になってしまいました。その勢力圏もすぐに、かつての西方キリスト教世界より、はるかに狭められたものとなります。

当時、西ヨーロッパに住むキリスト教徒は、自分たちが「敵の真っただ中にとりのこされた」と感じていたようですが、事実そのとおりだったといえるでしょう。中東やアジアへつづく道はイスラーム勢力によって分断され、南部の地中海沿岸もアラブ人の攻撃によって防戦一方となっていました。八世紀以降は、ヴァイキングとよばれるスカンディナヴィア人の襲撃に悩まされ、さらに九世紀になると、東部の境界が異教徒のマジャール人に脅かされるようになりました。このように初期のヨーロッパ世界は、さまざまな異民族の敵意にとりかこまれるかたちで形成されていったのです。

ローマ滅亡後のヨーロッパ世界については、ゲルマン民族の侵入だけでなく、その後もイスラム、ノルマン(ヴァイキング)、マジャールという数波の侵入があったことを常に意識する必要がある。

中世封建社会はゲルマン侵入直後ではなく、むしろその後の侵入者への自衛の為に、ゲルマン系の支配層が形成したもの、というイメージを持った方がよい。

11世紀の中世盛期までに起こった三つの変化を本書は指摘。

1.地中海地域からライン川とその支流流域への中心地帯の変化。

2.過去のローマ帝国の領域をも遥かに超えた、ヨーロッパ東部へのキリスト教の拡大。

3.マジャール、ヴァイキングの改宗を含む、異民族からの脅威減退。

そして著者は、当時の西ヨーロッパのキリスト教世界を三つに分類。

1.ライン川を中心とする仏独。

2.イタリア、南仏など地中海沿岸。

3.北部スペイン、イングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランド、スカンディナヴィア諸国など、西部から北部にかけての新しいキリスト教国。

考えればこの区分は常識的ではあるが、北スペインを新興キリスト教国ということで、英国と北欧グループに入れているのが、何か違和感がある。

もっとも、以後の叙述でこの区分を意識することはほとんど無いのだが。

ヨーロッパ世界がキリスト教を中心に形成されたことは言うまでもないし、結果として西欧のカトリック教会の歴史は「数ある宗教史のなかでもとびぬけて華々しい成功の歴史ではあります」と著者も述べているが、それでも外部の異民族、内部の異教的風習、配下の聖職者の無知・腐敗、世俗権力者の圧迫など、複雑で多くの困難に満ちたものだったとされている。

なお、本巻では、9世紀後半に一時的に教皇権を強化した教皇として、ニコラウス1世を挙げており、高校世界史レベルの有名教皇に加えて、この人名を記憶しておきますか。

その教皇と協調と対抗を繰り返した国王の地位について、国民国家の統治者と違い、中世の王は諸侯の中の第一人者に過ぎず、様々な制約を課せられ、その権力は限られたものだった、とよく世界史では教えられる。

「前近代の支配者なら、何ものにも制約されない専制君主だったはず」という偏見を一度頭の中から振り払うには、その事実も重要だが、だがそのイメージが行き過ぎることも間違いの元である。

とはいえ、抜け目のない王であれば、多少力が弱くとも、貴族からの圧力に容易に屈するわけはありませんでした。特定の貴族に離反されても、まだほかに多くの封臣をかかえていたのですから。賢明であれば一度にすべての封臣と対立するような愚かなことはしないでしょうし、そのうえ王の地位はやはり特別なものでした。即位時に聖職者から塗油を受けることによって、王権は神聖でカリスマ性を帯びたものとなっていたからです。華やかでかつ重厚なその儀式によって、王はあきらかに一般の人びとからは、かけ離れた強力な存在となっていました。中世の政治において、儀式というのは現代でいう条約の締結と同じような重大な意味をもっていたのです。それに加えて広大な領土を所有していたのですから、やはり王の権力はとびぬけて高いものだったにちがいありません。

君主政の伝統がどの国よりも深く根付いていた、と著者が指摘するイングランドが他のどの国よりも早く中央集権的国民国家への道を歩み始め、強大な王権が在ったがゆえにその制限に向かう道も開ける、という逆説が以後の歴史で生じることになる。

 

 

終わりです。

イスラム文明の誕生、およびそれとのビザンツ、ロシア、モンゴル、ヨーロッパの相互関係が主題であり、なかなか興味をそそる巻でした。

通読は全然余裕。

この先も、まず挫折しないでしょう。

2017年1月12日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 3 古代ローマとキリスト教』 (創元社)

Filed under: ローマ, 全集 — 万年初心者 @ 01:58

古代ローマ史の巻。

紀元前五世紀に最盛期をむかえた古代ギリシア文明の登場により、世界の歴史はひとつの曲がり角をむかえることになりました。その後、西洋世界の歴史は地中海地方を中心に展開し、ローマ帝国の出現をへて「ヨーロッパ世界」という概念が形成されていくことになるのです。

もともと地中海文明の発祥の地は、エーゲ海を中心とした東地中海であり、西地中海は東部にくらべると長いあいだ遅れた地域にとどまっていました。交易を得意としたフェニキア人やギリシア人が活発な商業活動や植民市建設を行なっていたものの、全体的に見れば依然として後進的な地域だったのです。

ところがイタリア半島に住んでいたごく小さな部族、ローマ人の活躍によって、やがて西地中海は世界史の表舞台に登場します。紀元前六世紀にはとなりのギリシア人にさえよく知られていなかったローマ人が、紀元前三世紀末にイタリア半島から東方へ進出を開始した時点で、歴史は新たな時代をむかえることになるのです。

つづく約二〇〇年のあいだにローマは「帝政」という独自の統治システムを確立し、ヘレニズム世界(ギリシア文明圏)のみならず、西ヨーロッパの大部分を含む巨大な統一帝国を樹立します。それはある意味でアレクサンドロス大王の後継国ともいえる巨大国家でしたが、結果としてアレクサンドロスをはるかにしのぐ範囲の領土を支配し、はるかに大きな足跡を世界史の上に刻むことになります。

なかでも注目すべきは、この帝国の中で発展したキリスト教が、のちに政治的な支配構造にとけこみ、ひとつの社会的システムとして機能するようになったことです。このことにより、はるかのちに誕生するヨーロッパ文明の基本的な性格が決定されたともいえるでしょう。現在のヨーロッパの大都市の多くは、その起源をローマ時代の植民市にもっています。またキリスト教の存在が、広大な地域をひとつのまとまりのあるものにしていることもたしかです。ローマ帝国は文化や制度といった直接的な遺産はもちろん、人類の歴史に「帝国」という巨大な成功例と、「ヨーロッパ世界」という新たな概念をもたらすことになったのです。

その帝国という統治システムの特徴について。

市民権の拡大を見れば、ローマがいかに寛容で受容能力にすぐれた帝国だったかがわかります。ローマ帝国もローマ文明も、その基盤には「コスモポリタニズム(世界市民主義)」の精神が存在しており、膨大な帝国行政の中には驚くほど多様な要素が含まれていました。それをひとつにまとめていたのは、ローマのエリート層や官僚たちの能力ではなく、地方の支配者層をとりこんでローマ化する独自の統治システムだったのです。

ローマが他民族に対してきわめて寛容であったことは、紀元一世紀以降は本国出身の元老院議員の数が減少しつづけていたことからもわかります。ローマ帝国は決して属州の異民族を排除せず、逆に彼らをとりこむことで広大な帝国の統一を維持していったのです。

そして、後世よく指弾される、全盛期のローマ社会の頽廃については、誇張するのも間違いなら、無視するのも間違いであり、世界史上例外的に史料で大衆の心理が分かっているために、その種のことが強調されてしまう側面はあるものの、競技場での剣闘士試合などは、やはり特異な残酷性を持つ見世物と言わざるを得ないとしている。

帝国が衰退期に入り、キリスト教化した時期について。

四世紀の一〇〇年間は、宣教師たちがエチオピアにまで到達した伝道の時代であり、キリスト教神学の飛躍的な発展の時代であり、キリスト教がローマ帝国唯一の「国教」となった時代でした。

しかし、いまふり返ってみると、この時代のキリスト教にはどこか不快な印象がつきまといます。信者たちが教会からあたえられた権威をふりかざし、異教徒たちを抑圧していたように思えるからです。ある異教徒が聖アンブロシウスに訴えています。「私たちは同じ星を見あげ、頭上には同じ空が広がり、同じ宇宙が私たちをとりかこんでいます。真実にたどりつく方法が人によってちがうからといって、いったい何が問題なのでしょうか?」

東西を問わずキリスト教会には熱狂的で妥協を許さない気風がありました。東西で違いがあるとすれば、東方教会では精神的権威と世俗的権威の融合が進み、キリスト教国となった帝国には無限に近い権威があると考えられるようになったのに対して、西方教会は国家も含めた世俗世界全体に対して嫌悪と疑念をいだいていたことです。

西方教会は信者たちに対して、罪深い異教の海にあって、自分たちは教会というノアの箱船にのっているのだと教えるようになりました。当時の教父たちを正当に評価するならば、あるいは彼らの不安や恐怖を理解したいのなら、この時期のローマ世界において、迷信や秘教が圧倒的な力をもっていたことを考慮する必要があるでしょう。

上述の通り、東西地中海世界は、聖俗両権の統一と分離を軸に分離しつつあり、ユスティニアヌス帝の再統一事業も空しく、東西分離と東方ビザンツ世界の成立に向かった。

西方キリスト教世界は、修道院制度と教皇制度という二つの武器によって、その存在を確立。

それに最も貢献した個人を一人挙げるならば、教皇グレゴリウス1世。

グレゴリウス一世はローマ帝国の遺産とキリスト教を組みあわせることで、自分でも気づかないうちに、ひとつの新しい世界を生みだそうとしていました。キリスト教は古典文明が生んだ遺産のひとつでしたが、いまや古典文化から分離して、はっきりと異なるものになろうとしていたのです。

グレゴリウス一世がギリシア語を話さなかったことはまさに象徴的といえるでしょう。彼自身、ギリシア語を話す必要性を認めていませんでした。教会と異民族の関係はすでに変化し始めていましたが、グレゴリウス一世の登場で、ようやく教会は地中海世界ではなく、「ヨーロッパ」に目をむけるようになったのです。

そこにはすでに未来の種がまかれていました。もっともそれは近い未来ではありません。世界の大半の人びとにとって、ヨーロッパはこのあと約一〇〇〇年間、ほとんど重要な意味をもたなかったのです。しかし、のちのヨーロッパからはかなりかけ離れたものであったにせよ、この時期に「ヨーロッパ世界」の基礎が築かれつつあったことはまちがいないのです。

新たに誕生しつつあったそのヨーロッパ世界は、過去とはあきらかに異なった世界でした。秩序のいきとどいた、教養のある、ゆったりとしたローマ時代の暮らしに代わって、戦士である貴族とその部族民たちからなるまとまりのない社会が出現していました。先住民と融合した社会もあれば、そうでない社会もありました。そして新しい社会の指導者たちは、もはやたんなる族長ではなく、王とよばれるようになります。彼らにしたがった人びとも、ローマ文明の遺産に二〇〇年近くふれたあとは、もはや蛮族ではありませんでした。五五〇年にはすでに、ゴート族の王が「蛮族」としては、はじめて硬貨に肖像を刻み、帝国のしるしで周囲を飾っています。すぐれた文化の遺物にふれて感銘を受け、ローマという国のあり方に影響され、そして何よりも教会の意図的な働きかけによって、かつて蛮族とよばれた人びとは文明化への道を歩み始めました。当時の彼らがのこした芸術の中に、その証拠をはっきりと見ることができます。

・・・・・・

この五世紀から七世紀にかけてのヨーロッパの歴史は、衰退にむかっていたと見なされることが多く、そうした見方にもじゅうぶんな根拠があります。異民族が支配するヨーロッパは、物質面では、二世紀のローマ帝国より確実に貧しくなっていました。今日、ヨーロッパのいたるところで、旅行者がローマの記念建築物に目を見はっているように、この時代の異民族もまた、ローマ帝国の壮麗な文化遺産に目を奪われていました。しかしそれでも、やがてこうした混乱の中から、ローマ文明よりもはるかに創造力に富む、のちのヨーロッパ文明がはっきりとした姿を現すことになるのです。

このシリーズの訳書では、末尾に監修者を務める著名な日本人歴史家によるあとがきが載っているが、「とびきり上等な世界史シリーズ」と題された、本巻の本村凌二氏のものが面白いので、途中まで引用。

若かりしころ、私もご多分にもれず深遠な思想や哲学の本を読んだものである。といっても、やはりご多分にもれず、それらのほとんどを理解できず、おのれの能力のなさと頭の悪さを嘆いたものだった。しかし、時がたってみると、それらの思想や哲学をを理解するには、ある種の才知やひらめきが必要であることが感知できるようになった気がする。もともと愚者には思想や哲学の極みに達することなどできないことなのだ。

そのかわりに、過去の出来事をつづった歴史書なら、年を重ねるにつれ理解度が増してくるのがわかる。歴史書を読む場合には、才知やひらめきよりも、経験と蓄積がものをいうのだ。だから、みずからを賢者と思われる御仁ならともかく、愚者と自覚される方々には、歴史の本がなによりもお薦めなのである。このことは、私が歴史家であるから述べるのではなく、ある文芸評論家も指摘しているところである(小谷野敦『バカのための読書術』ちくま新書)。

歴史家としてなら、さらにもうひとことつけ加えておきたい。いかなる歴史書がいいかと問われれば、まずもって世界史の本をひもとくことをお薦めしておく。昨今、しばしば学力の低下や教養の衰退について耳にするが、教養の核になるのはなによりも人類の経験であることを忘れるべきではないだろう。それには歴史に学ぶことであり、とりわけ世界史を学ぶことではないだろうか。人文社会系の知の基本は広く事実にもとづいているべきであり、それこそが知識の教養の素地であるはずだ。そのような経験と事実といえども、文字として記録されるようになっただけでも五〇〇〇年以上の年月が流れ、人類の蓄積は膨大なものになった。一次史料は、楔形文字、ヒエログリフ、アルファベットなどのさまざまな文字で表記され、アッシリア語、ヘブライ語、ギリシア語などの多種多様な言語で書かれている。それらのすべてに通じることはもはや一個人の力では如何ともしがたいものになっている。

したがって、ひとりの手で世界史を書くとなると、書き手はよほどの賢者か愚者ということになる。小著といえどもかつてひとりの手で世界史を書いたことのある私は、どうみても前者ではないので、きっと後者にちがいないと語ったことがある。しかし、どうやら前者の書き手もいないわけではないという例に気づかされることもある。まさしく本書はその好例であり、かくして読者は必要不可欠な教養の素地を磨く機会にめぐりあえたことになる。

ほぼローマ史というテーマに集中している巻だが、1、2巻に比べると、心に引っ掛かる部分は少ない。

しかし、悪いというほどでもないです。

2017年1月6日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 2 古代ギリシアとアジアの文明』 (創元社)

Filed under: アジア, ギリシア, 全集 — 万年初心者 @ 05:52

古代ギリシアと中国、インドの巻。

まず、古代における最先進地帯であるオリエントからの、インド・中国両地域の「孤立」という、普段我々が意識しない観点を提示。

人類がはじめて手にした文明は、紀元前三〇〇〇年までに成立した古代オリエント文明でした。メソポタミアやエジプトなど、各地で誕生した古代文明は、その後、相互の接触が始まるにつれ、いい意味でも悪い意味でもたがいに影響をおよぼしあうようになっていきました。地域ごとの文化的なへだたりは依然として大きなものでしたが、オリエント世界全体を横断するような文化的伝統もまた、生まれ始めていたのです。

一方、オリエントの文明とはほとんど無関係に独自の文明を成立させた地域もありました。その代表的な存在がインドと中国です。

メソポタミアやエジプトなどオリエントの先進地域と、インド、中国のあいだに横たわる物理的な距離、そして地形的な特徴を考えると、両者のあいだにあまり交流がなかったことは当然といえるでしょう。しかしインドや中国がもつそのような「孤立した環境」は、その後の世界の歴史を見るうえで非常に重要な意味をもっています。このふたつの文明はオリエントの文明とはちがって、以後何千年にもわたって外部から影響を受けることなく、独自の文化的伝統をたもちつづけていくことになるからです。

インドや中国の文明にとって、ほかの文明との接触はごくたまにしか起こらず、それも周辺部に限定されたものでした。その結果、のちに外の世界との接触が本格的に始まったときには、外部からの影響に押しつぶされないだけの文化的伝統がすでに確立されていたのです。考えてみてください。それから長い時をへた今世紀になっても、カースト制度はまだインドの社会を支配していますし、儒教もまた、依然として中国や韓国の知識階級に大きな影響をあたえているのです。

インド文明と中国文明の文化的影響は天然の境界を越え、のちには国家の壁も越えて大きな広がりを見せることになります。

このふたつの文明は現在でも大きな影響を社会にあたえているという点で、ほかの古代文明とは、はっきりした違いをもっています。

そして世界の歴史という観点から見ても、インド文明と中国文明が人類にもたらした影響は、はかりしれないほど大きなものなのです。

「孤立した」文明の中でも、(南北アメリカ大陸やアフリカとは異なり)インドと中国の強靭性・重要性は確かにずば抜けている。

・・・・古代インド文明の初期の歴史が闇につつまれているからといって、その社会制度や宗教が、どんな偉大な文明のものよりも長く行きつづけたという事実が消えるわけではありません。驚くほど包括的な世界観、個人の人権を無視した制度、過酷なまでの死生観、単純に物事の善悪を判断しないという基本姿勢などが、その後のインド文明の性格を決定していくことになります。遠く離れたキリスト教社会などでは、こうしたインド思想に異質なものを感じる人びとが多いようです。けれどもインドの思想と文明が、キリストが誕生する一〇〇〇年も前に形成され、しかも現在にいたるまで行きつづけているという事実を、私たちは忘れてはならないでしょう。

・・・・・・

中国の歴史を考えるとき、何よりも驚かされるのはその長さと継続性です。中国には現在まで、およそ三〇〇〇~四〇〇〇年にわたって「漢民族」による国家が存続し、秦の始皇帝による中国統一から数えても、すでに二二〇〇年がたっています。もちろんそれ以降、分裂したり異民族に支配された時代はありましたが、とにかく中国では、ひとつの民族が同じ国土のうえに数千年もの期間、高度な文明を維持しつづけ、現在にいたっているのです。これは世界史を見わたしてみても、きわめて稀なことだといわざるをえません。わずかに、はるか昔に滅亡した古代エジプト文明が、その長さで肩を並べることができるくらいなのです。

・・・・・・

中国文明の特色は、それが文化的であると共にきわめて政治的でもあるという点にあります。前の章で見た古代インド文明は、文化が政治よりどれだけ重要なものとなりえるかを示すよい例だといえるでしょう。一方、中国文明においては、文化の重要性が別の形で示されています。つまり中国では、文化の力がすなわち政治的な力となり、そのことによって広大な国土の統一が維持されつづけたということです。くわしい経緯はよくわかっていませんが、とにかく中国文明はごく早い時期に、統一国家を運営するための制度と文化をワンセット、みごとにつくりあげたのです。そのいくつかは現在も確実に存続しています。世界史的スケールから見れば、二〇世紀の共産主義革命をへて成立した現在の政権も、それ以前の王朝とそれほど本質的な差はないとすらいえるのです。

東部を大洋、西部を砂漠、西南部を山脈に仕切られた中国の地形的孤立が、その伝統を育んだ。

アフリカ、アメリカ、ヨーロッパなど、他の「孤立した」地域では、ほとんどすべての民族が発展に遅れを取った。

だが、ほぼ唯一の例外として、ヨーロッパのある一民族だけが異様なまでの発展と拡大を遂げることになる。

そのような古代ヨーロッパの民族の中で、注目すべき民族がひとつだけあります。彼らは先にふれた「オリーブ栽培線」の南側である中部イタリアに定住し、早くも紀元前八世紀にはイタリア南部のギリシア人やフェニキア人の植民市と交易を行なっていました。そしてそれから二〇〇年のあいだに、ギリシア文字を使って自分たちの言語を書き記し、イタリア半島に数多くの都市国家を建設して、すぐれた芸術作品を生みだすようになるのです。彼らエトルリア人とよばれる民族が参加して築いた都市国家のひとつは、やがてローマという名で知られることになります。

ローマの発展は次巻でのテーマとなる。

なお、1巻に続くオリエント史の時代変化を以下のように概括。

このようにいちだんと複雑になっていく世界の歴史を、年代別にきれいに区切ることなど、とてもできる話ではありません。大まかにまとめてしまうと、インド・ヨーロッパ語族の移動や鉄の時代の到来、文字の伝播といった複数の要因によってオリエントのさまざまな文化が完全に混じりあったのは、ヨーロッパ文明の母体となる地中海文明が登場するかなり前のことでした。

あえていうなら、オリエント地方の文明が重要な一線を越えたのは、紀元前一千年紀のはじめあたりということになるでしょう。そのころには古代オリエント地方全体を揺さぶった民族の大移動という「大事件」はすでに終わっており、ジブラルタル海峡からインダス川へといたる広大な地域に文明が受けつがれていたのです。そして紀元前一千年紀の半ばにペルシアという新しい勢力が台頭し、エジプトやバビロニア、アッシリアの伝統が衰退したことで、新しい時代にむけた歴史的枠組みが整えられていくことになるのです。

ものすごく大雑把に言えば、前3000年辺りで文明成立、前1500年前後に印欧語族などの民族大移動、前500年前辺りでペルシア帝国による統一というのがオリエント史の流れ。

アジアとヨーロッパがたがいにあたえあった文化的影響について話すのは、まだ時代が早すぎるかもしれません。それでもこのふたつの地域が、すでにこの時代にたがいに影響をおよぼしあっていたことは、実例をあげて説明することができます。それはまた、古代世界の終わりをはっきりとつげる出来事でもありました。

こうして私たちがたどりつつあるこの長い歴史物語も、さらに新しい時代に入っていくことになります。旧世界のいたるところで、ペルシア帝国はさまざまな民族を共通体験で結びつけていきました。インド人、メディア人、バビロニア人、リディア人、ギリシア人、ユダヤ人、フェニキア人、エジプト人など、さまざまな民族がはじめてひとつの帝国の統治下におかれ、ひとつの文明を共有したのです。ペルシア帝国が採用した「折衷主義」は、人類の文明がどれだけ成熟した段階に達したのかを教えてくれます。オリエントではこれ以降、個別の文明の歴史をたどる意味はなくなります。多くのものが共有され、あまりにも融合が進んだ結果、もはや個々の文明の系譜を見分けることができなくなるからです。

このように、著者は、ペルシア帝国を単なるオリエント史の単線的発展上に捉えるのではなく、オリエント文明そのものの誕生とイスラム教成立の間における最も重要な転機と考えているようだ。

そして本書の叙述は、いよいよギリシア文明へと入る。

歴史の世界では、古代ギリシア文明が最盛期をむかえた紀元前五世紀から紀元前四世紀の末近くまでを「古典期」とよびます。年数だけでいえばこの時代までに、人類の「文明に関する物語」は半分以上終わった計算になります。紀元前五世紀に生きていた人びとから見ると、現代人である私たちのほうが、はじめてメソポタミアで文明を築いた人びとよりも時間的には近くにいることになるからです。

最古の文明が生まれてからこの「古典期」までには、約三〇〇〇年もの時間のへだたりがありました。人びとの日々の暮らしはゆっくりとしか変化しませんでしたが、大きな視点から見れば、このあいだに人類は着実に進歩を重ねていきました。前の章でもご説明したとおり、人類最古の文明であるシュメール文明とアケメネス朝ペルシアのあいだには、統治の方法や文化の融合状況など、質のうえで大きな差が存在しています。

きわめて大胆にいってしまえば、この紀元前五世紀ごろを境にして、人類が文明の基礎を築いた時代はほぼ終わりをつげたといってよいでしょう。そのころにはすでに地中海沿岸から中国までの広大な地域に、さまざまな文化的伝統が確立され、いくつもの高度な文明が誕生していたのです。

紀元前3000年に文明が誕生し、それから現在まで約五千年、そのちょうど中間時点である紀元前500年には、世界各地で独自の文明が成立、その並立・均衡状態が約二千年続き、西暦1500年前後以降ヨーロッパの世界進出が始まり、「世界の一体化」が進行、というのが最も単純化された世界史の流れになる。

(少し前に話題になったマクニール『世界史』もそのような構成になっている。)

その紀元前500年頃存在した諸文明の中で、ただ一つ、ギリシア文明だけを、著者は最も注目すべきものとして、特別視する。

そうした文明の多くは孤立状態にあり、ほかの文明にはほとんど影響をあたえませんでした。偉大なるオリエントの文明でさえ、バビロンの陥落以降、ときおり侵略を受ける以外は外の世界とあまり交流がありませんでした。ところがその中で、紀元前六世紀にすでに台頭しつつあったギリシアの文明だけは、発祥地である東地中海を越えて、大きく外の世界に広がっていく可能性を示していたのです。

それはもっとも新しく誕生した文明でしたが、その後めざましい成功をおさめ、のちにローマ文明へ受けつがれたその文化的伝統は、一〇〇〇年ものあいだ、とぎれることなくつづいていくことになります。そして何よりも注目すべきことは、この活力に満ちた文明が人類の歴史にのこした豊かな土壌には、現代のヨーロッパ文明、ひいては近代文明を形成することになる重要な要素が、ほとんどすべて存在したということなのです。

東地中海に誕生したギリシア文明は、それに先だつ古代オリエント文明やエーゲ海文明から大きな影響を受けていました。なかでも重要なのは、フェニキア人のアルファベットを改良して、ギリシア文字(ギリシア・アルファベット)をつくりだしたことでしょう。そのほかにもギリシア文明は、エジプトやメソポタミアに起源をもつ思想や、ミケーネ文明のなごりなど、さまざまな文化をとりこんで発展していきました。

ギリシア文明とそれにつづくローマ文明、いわゆる地中海文明は、成熟したのちもそのような多様性を失うことはありませんでした。硬直した体制におちいることは決してなく、きわめて多彩な発展をとげていったのです。この文明がはっきりとした統一性を確立したときでさえ、周囲に存在したほかの文化と区別するのはむずかしく、文明の境界線は遠くアジアやアフリカ、異民族の住むヨーロッパや南ロシアへと広がって、きわめてあいまいなものになっていました。さらにのちの時代になって境界線がはっきりと確立されてからも、地中海文明はほかの文明と多彩な交流を行なっていたのです。

この文明はそれ以前に栄えたどの文明とくらべても、あきらかに歴史を進歩させる「偉大な力」をもっていました。たとえばそれまでの文明は政治的な大変化が起こっても、制度自体はそのままのこされるケースがほとんどでした。ところが地中海文明は短いあいだに何度もみずから制度を変え、さまざまな政治体制を試みています。

また宗教についていえば、ほかの文明では、文明と宗教は事実上、生死をともにする運命共同体となっていました。それに対して地中海文明は、はじめは土着の多神教を信仰していましたが、最後には外来の一神教であるキリスト教を採用します。のちにローマ帝国が国教としたことで、キリスト教はやがて世界宗教としての道を歩むことになるのです。

これは世界史的な観点から見ても、きわめて大きな出来事でした。その後、世界じゅうに広まったキリスト教の影響力を介して、地中海文明の伝統は、人類の歴史の中で長く広く伝えられていくことになるからです。

・・・・・

「古典」とは、何もヨーロッパだけに存在する概念ではありません。ほかの文明にも、もちろんそれぞれの「古典」や「古典期」が存在しています。「古典」とは、人びとが過去のある時期をふり返って、そこにみずからの手本とすべき「模範」を見いだすことによって成立する概念だからです。その意味で後世のヨーロッパ人にとって、古代ギリシア文明はまさに「古典」となりました。のちのルネサンス期にヨーロッパ人が古代ギリシア文明を再発見したとき、彼らはそのすぐれた美術品や人間中心の考えかたにすっかり魅了されてしまったのです。

当時のギリシア人の中にも、自分たちは特別な人間で、自分たちの文化と時代は特別なものだと考えた人びとがいました。現代の私たちから見ると、その理由には納得できない部分もあります。それでも、あの文明がまぎれもなく特別な文明だったことは、疑いようのない事実といえるでしょう。活力にあふれ、絶えず前進をつづけ、数えきれないほどの技術や制度、文化を生みだしたこの文明によって、その後の世界は大きな可能性を獲得することになります。なかでも思想・哲学など、精神文化における世界史への貢献には、はかりしれないものがあるのです。

後世の人間が古典世界の理想に学ぼうとするとき、たしかに時代錯誤におちいったり、過去を美化しすぎたりする傾向があることも事実です。しかし、そういう点を割り引いてもなお、古代ギリシア文明には誰も消すことのできない偉大な業績がのこります。それはいまでも西洋文明の根幹をなしており、その文化的伝統は現在の私たちの暮らしに直接つながっています。だからこそ私たちは、それ以前のどの文明よりも、はるかにこの古代ギリシア文明に共感することができるのです。

この著者の見解を、手垢の付いた時代錯誤的な西洋中心主義に基づく、偏ったギリシア礼賛だと見るべきだろうか?

私にはそうは思えない。

私は、例えば、民主主義というものを生み出したことで古代ギリシアを賞賛するような立場には全く立っていない(むしろプラトンが民主主義への批判として政治学を創めたことこそが、ギリシア文明の最も偉大な遺産だと考える)が、それでも古代ギリシア文明が、他の全ての文明の中で、現代人にとって特別の意味と卓越性を持っていることには十分同意できる。

変な劣等感は持たずにそのことは素直に認めた方が良い。

現在の欧米人がそれについて余程傲慢な態度を示した場合には、ギリシア文明は欧米だけでなく全人類の遺産だと言い返せばいいんです。

通常、多くの人びとにギリシア文明最大の功績と思われている、民主主義の誕生について。

アテナイの民主政に対する批判は、これまで何度もくり返し行なわれてきました。たしかにアテナイの民主政をあまりに美化して考えるのは歴史をゆがめる行為です。しかし、むやみに攻撃するのもまた、歴史を誤る行為だといわざるをえないでしょう。

・・・・・・

ヴィクトリア朝時代のイギリスと同じく、古代アテナイでも政治は長いあいだ、貴族の系譜につらなる人びとの手にゆだねられていました。政治に参加する資格が血筋のほかにもあるとすれば、それは政治に必要な財力と時間でした。たしかに陪審員や民会の出席者には手当が支給されていましたが、その額はわずかなものだったからです。・・・・・こうした事実は、アテナイの民主政を批判する側も、理想化する側も、見落としてしまうことが多いようです。アテナイの民主政がそれほど厳密なものでなかったのは、そのように実質的な参加者が限られていたからなのかもしれません。・・・・・

アテナイの民主政は誕生した当時から、積極的な外交政策を打ちだしていました。・・・・・その結果、ペロポネソス戦争を誘発した責任も、都市国家間の対立を生みだした責任も、すべて民主政の出現に負わされる結果になりました。たしかにそれは後世の批評家が指摘するように、アテナイに悲劇をもたらしただけでなく、ギリシア全土の都市国家に党派の争いや社会闘争の苦しみを芽ばえさせてしまったのです。・・・・・トゥキュディデスの著書は未完に終わり、四〇〇人による寡頭政権が生まれた紀元前411年の段階までしか記されていませんが、その終わりの部分には自分を追放した生地アテナイに対する不信と幻滅がにじんでいます。また有名なプラトンの著作も、紀元前三九九年にソクラテスを処刑したアテナイの民主主義者たちを批難し、彼らに永遠に消えない不名誉の烙印を押しているのです。

アテナイの民主政は、女性やメトイコイ(外国人居住者)、奴隷を排除していました。そうした事実を考慮に入れると、アテナイの民主政の評価はかなり下がってしまうかもしれません。けれども、はるか後世になって到達した地点からふり返って、アテナイを低く評価するべきではないでしょう。歴史は段階を追って進んでいくものなのですから、時代を考慮に入れない比較をしても無意味なのです。二〇〇〇年以上たったいまでさえ完全には実現されていない理想と比較するのではなく、同時代のほかの事例と比較しなければ意味がないのです。

・・・・・・

アテナイの政治がもつ欠点は、すべてそのような前提のもとに議論される必要があります。どんな政治制度についてもいえることですが、アテナイの民主政を評価する際にも、それがもっともうまく機能していた時期を評価の対象にする必要があります。たとえばペリクレスが指導的立場にいたときのアテナイの民主政は、まちがいなくすばらしいものでした。彼らは「みずからが選んだ政治の結果について、個人が責任を負う社会」という神話を私たちにこのしてくれたのです。

はっきりいいましょう。政治にはすぐれた政治的神話が何よりも必要なのです。ですから私たちはこれから、もっとすぐれた政治的神話を探していかなければならないのです。

著者のギリシア民主政に対する評価は極端に一面的なものではないと思えるものの、それでも私には隔靴掻痒の感がある。

現在においても、「政治的神話」が必要である、という点には同意するが、はっきり言って民主主義という神話は出来が良くない。

国家の統一と伝統を体現する世襲君主が君臨するが、実質的統治には携わらず、君主を支える貴族が真摯な公的議論に基づく政治を行い、民衆は最低限の拒否権と貴族と相対する代表選出の権利を持ち、歴史的伝統という最高の権威の下に君主と貴族と民衆の三者が並立する、抑制と均衡を保った政体という神話の方が遥かに優れている。

有史以来、そうした「真の共和政体」(塩野七生『ローマ世界の終焉』ユーゴー『レ・ミゼラブル』参照)に人類が最も近づいたのは、18世紀イギリスにおいてでしょう。

私には、あの時代が「進歩」の極限だったと思えます。

それ以後のあらゆる革命と変化は無意味な逸脱に思える。

明治維新後の日本も、一時期上記の理想に近づくと思えたのだが、結局は無残な失敗に終わり、現在はただ滅びを待つだけの衆愚民主主義国になってしまいました。

著者は、アテナイ民主政への最大の批判者プラトンの思想について、以下のように記す。

プラトンはソクラテスの思想の多くを踏襲しましたが、ここに見られる理想の国家観は、ソクラテスとはまったくちがったものでした。プラトンが理想とした国家では、大多数の人が教育と法律のもとで管理され、ソクラテスが生きるに値しないと評した「エレンコス(吟味)のない生活」を強いられているからです。

プラトンの民主主義批判を後世の全体主義の起源とするかのような記述は全く凡庸で同意できるところがない。

民主主義がもたらす伝統破壊と無秩序こそ、自律に基づく自由のない、「吟味のない生活」としての全体主義を生み出す原因である。

とは言え、以下の記述には全く違和感なし。

哲学と並んで歴史を「発明」したことも、ギリシア文明の大きな遺産といえるでしょう。それまでの古代国家では、たんに出来事を記した年代記のような記録が存在するだけでした。ところがギリシアの歴史書は、高い文学的価値と学術的視点をもつ作品として生まれ、さらに驚くべきことに、最初に登場したふたつの著作によって、いきなり頂点をきわめることになるのです。これ以降、ギリシア文明においては、そのふたつの歴史書に匹敵するレベルの作品はついに現れませんでした。

「ギリシア文明においては」どころか、その後ヘロドトストゥキュディデスに匹敵する歴史家と言うと、司馬遷ギボンくらいでしょうか。

私はこの四者を自分で勝手に「世界史の四大古典」と考えています。

イブン・ハルドゥーンを入れて五大史家とする人もいるかもしれないが、私のレベルでは良さがわからない。)

そして、約2500年の時を経て、全く違う文化圏に属する国に生まれた、私程度の知的レベルの人間でも、古代ギリシアの古典のうち、あるものは大きな興味と感動を持って(翻訳では)読むことができるのだから、以下の総括にも完全に同意できます。

また歴史にかぎらず、ギリシア人は人類の歴史におけるさまざまな新しい知的領域を開拓しました。人類の歴史上はじめて、ギリシアは完全な形の「文芸」を生みだしたといっていいでしょう。ユダヤ文学もギリシア文学にひけをとらないほど包括的なものでしたが、娯楽作品はもちろん、演劇や客観的な歴史書も含まれていませんでした。古代ギリシアの文芸世界は聖書と並んで、以後の西洋文学の形成に大きな影響をあたえることになります。内容だけでなく、さまざまな文芸のジャンルや形式を規定し、批評における最大の判断基準も、もたらすことになったのです。

古代ギリシアの哲学・文学・歴史・宗教・建築・彫刻などの文化は、やはり圧倒的な存在であると考えるしかない。

以後、ヘレニズム時代のギリシア文明の拡散とポリスの没落、科学の発達とそれと期を一にした伝統的で多神教的な宗教の衰退、ストア派の成立をもって、本巻の幕は閉じる。

2017年1月1日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 1 「歴史の始まり」と古代文明』 (創元社)

Filed under: オリエント, 全集 — 万年初心者 @ 00:43

全10巻と巻数が少な目で、一巻の厚みもさほどでもないとは言え、新たに世界史全集通読に取り組むのには、相当の決意が要るが、下読みの結果、まあたぶん途中で挫折はしないだろうと思ったので、この第1巻から始めましょう。

イギリスの練達の歴史家が一人で書いた世界史全集。

著者のファースト・ネームが、ジョンなのかジェームズなのか何なのかが、本書のどこにも書いていないのが気になる。

叙述における史実の取捨選択の基準を著者は以下のように述べる。

・・・・・私は、いったいどのような視点でこの本を書き、どのような基準で歴史的事実の取捨選択を行ったのか。そのことについてご説明しておきましょう。ひとつは、ある意味で非常に「民主的な」視点です。というのも私の基準は、「その出来事がいかに多くの人間に影響をおよぼしたか」という点を重視しているからです。もちろん別の基準を選択する人もいるでしょう。しかし私は、長期的に見てその出来事が人間の社会にどれだけ広く大きな影響をあたえたかという点にもとづいて、歴史的事実の取捨選択を行いました。その結果、本書ではできるだけ多くの国や支配者たちをとりあげようとするのではなく、「とくに偉大な」いくつかの文明に焦点をあてることになりました。何世紀にもわたって、思想や宗教、社会制度など、さまざまな面で人間社会に影響をあたえた「偉大な文明」の数々。こまごまとした事実の羅列は百科事典や歴史事典にまかせることにして、そうした文明を軸に歴史を「物語る」ことに主眼をおいたのです。

この「物語る」という言葉が、私の歴史に対する考えを知っていただくためのもうひとつの鍵となります。私は以前から、歴史の基礎は物語(年代記)にあること、そして歴史家の仕事とは、からみあった無数の事実のなかから、そうした物語をつむぎだすところにあるということを確信しているのです。

網羅的に全ての文明を取り上げるのではなく、主要な文明を特に重視すること、物語という叙述形式にこだわること、という面では賛同できる。

しかし、以下のような楽観的見解は、巨視的に見れば理解できなくも無いが、やはり同意する気にはなれない。

この長い長い物語をひもとくと、人間という生き物のもつ特異性がよくわかります。人間は非常に古くから、自然を支配しようとしてさまざまな試みを行なってきました。ほかの生物には類を見ない、そうした試みの軌跡をたどることこそ、すなわち人類の歴史をたどることだといえるかもしれません。最近よく「人類はもはやとり返しのつかない失敗をおかしてしまった」とか、「人類の歴史は愚行のカタログにすぎない」などといった意見を耳にすることがあります。その結果が今日の人口過剰であり、自然環境の破壊であり、絶えることのない戦争や暴力だというのです。たしかにそうした意見にも、一面の真実はあるでしょう。しかしそれは客観的に見て、あまりにも大げさで極端すぎる考えです。人類がこれまでになしとげてきた偉業を素直にふり返れば、そうした悲観的すぎる意見が、どれほどまとはずれなものであるかがよくわかります。歴史は私たち人類が、これまでいかに多くの障害を克服し、その意志と能力によって、みずからをとりまく環境にいかに大きな変化を起こしてきたかを教えてくれているのです。

本章に入ると、まず先史時代の途方もない長さとネアンデルタール人(旧人)とホモ・サピエンス(新人)との一時共存を述べた後、人類史の一大転機として、新石器時代の到来を挙げる。

先史時代の終焉をつげる一連の変化をさして、ある学者が「新石器革命」という言葉をもちいたことがあります。しかし、この言葉には少し解説がいるかもしれません。前にもふれたように、考古学者たちは旧石器時代のあとに中石器時代と新石器時代という時代区分をつくりました(金石併用時代という四番目の時代をつけ加える学者もいます。石器と銅器が同時に使用された時代のことです)。

このなかで、旧石器時代と中石器時代の区別は専門家にしか必要のないものですが、「新石器時代」という時代区分は重要です。

厳密な定義によれば、石を砕いただけの打製石器に代わって、表面をなめらかに加工した磨製石器・・・・がもちいられるようになった時代を新石器時代といいます(さらに別の基準をつけ加えることもありますが)。

打製石器から磨製石器への移行は、研究者を夢中にさせるほどの大変化ではなく、「新石器時代」などとよぶのは大げさすぎると考える人もいるでしょう。しかしこの時代に、各地でさまざまな、複雑でしかも重要な変化が起こったことは事実です。「新石器革命」とは、そうした変化をなんとか統一的に表現しようとした名称ということなのです。

・・・・・・

文明の誕生を可能にしたのは農耕と牧畜の開始です。それを「食料生産革命」とよぶ人もいますが、この場合は「革命」という表現も決して大げさではありません。こうした言葉を聞いただけで、なぜ新石器時代に文明が誕生するための環境が整ったかすぐにわかるからです。新石器時代に一部の社会に広まった冶金技術さえ、食料生産の開始ほど重大な意味はもちませんでした。農耕と牧畜は人間の暮らしに、まさに革命をもたらしたのです。

新石器時代の意義を考えるうえでも、真っ先に考えなくてはならないのがこの食料生産(農耕と牧畜)の開始です。ある著名な考古学者は、新石器時代の定義をこんなふうにまとめています。「正確な年代は確定できないが(略)狩猟生活の終焉と完全な金属使用のあいだに位置する時代、この時代に農耕と牧畜が始まり、ヨーロッパ、アジア、北米にゆっくりと広まっていった」。

本書では、代表的な古代文明として、「メソポタミア」「エジプト」「クレタ」「インド」「中国」「メソアメリカ」「アンデス」の七つを挙げている。

ただし、その中でメソポタミア文明のみを特別に重要なものとして扱っている。

しばしば、メソポタミア文明と並び称されるエジプト文明について、以下のような評価を記しているのが極めて印象的である。

エジプト文明の衰退の原因は、古代世界全体を揺るがした大きな歴史の流れの中で考えるべきでしょう。

しかし新王国時代末期の混乱をみると、私にはエジプト文明が最初からもっていた弱点があらわになったにすぎないという気もするのです。

みなさんの中には、そうした意見を意外に感じる方もいらっしゃるかもしれません。数々の壮大な建造物や、数千年にもおよぶ歴史をもつエジプト文明が、なぜ宿命的な「弱点」をもっていたのかと。

しかし私には、エジプト文明がもつ創造力は、真の意味での結実をみなかったように思えます。とほうもない数の労働力が集められ、今日の基準から見てもきわめて有能な役人たちが指揮をとり、その結果完成したのは「世界最大の墓」でした。すぐれた職人たちの手で数々の工芸品がつくりだされたものの、それらが収められたのもまた、墓の中でした。優秀なエリートたちが複雑な文字をあやつり、大発明であるパピルス紙に大量の文書を記録しましたが、ついに彼らはギリシア人やユダヤ人に匹敵するような哲学や宗教思想を生み出すことはありませんでした。私には古代エジプトの壮麗な遺産の奥底に、根源的な「不毛」が横たわっていたような気がしてならないのです。

もっとも古代エジプト文明がまれにみる長期にわたって存続したという事実については、別の角度から評価する必要があるでしょう。これだけ長いあいだつづいた文明はほかになく、その点ではまさに驚異的といえます。少なくとも二度大きな危機がおとずれたものの、エジプトはそうした危機を乗りこえて存続しました。それはもちろん世界史的なレベルでみても偉大なる成功物語といえるのでしょうが、よくわからないのは、なぜ彼らの進歩が早い段階で止まってしまったのかという点なのです。エジプトは結局、軍事面でも経済面でも後世にほとんど影響をあたえませんでした。エジプトの文化が国境を越え、外の世界に根づくこともありませんでした。エジプト文明が長期間存続した原因は、おそらくその自然環境にあったのでしょう。エジプト人の暮らすナイル両岸の外側には、広大な砂漠が広がっていました。同じくらい外界から遮断された環境にあったなら、どんな古代文明でもエジプト文明に匹敵する期間存続することができたかもしれません。

たしかに先史時代とくらべれば、古代エジプトの歴史は非常に速いペースで進みました。しかしメネス王の時代からトトメス三世の時代までの約一五〇〇年間に、エジプト人の日常生活がほとんど変化しなかったのは、やはり「停滞」といってもよいでしょう。古代社会において大きな変化が起こるのは、大規模な自然災害が起こったときか、外敵に侵入されたり征服されたりしたときだけでした。ところがナイル川はつねに安定した「恵みの川」でありつづけ、さらにエジプトは長期にわたってオリエントの紛争地域の外側に位置し、ほんのときおり侵入者に対峙するだけでよかったのです。現在とはちがって、技術も経済もごくゆっくりとしか変化を起こしませんでした。さらに伝統を継承することが何よりも重んじられた社会では、知的な刺激によって変化が起こることはほとんどありませんでした。

古代エジプト文明を考えるとき、どうしても忘れられないのがナイル川です。人びとの目の前にはつねにナイル川が流れつづけていました。その存在があまりにも大きすぎたため、この川のもつ特異性に古代エジプト人は気づかなかったのかもしれません。実際、彼らにとってはナイルの両岸こそが全世界だったのです。「肥沃な三日月地帯」が絶えず戦乱の舞台であったのとは対照的に、エジプトではナイル川に支えられて数千年も文明がつづき、人びとはナイルがもたらしてくれる恵みに感謝しながら伝統的な暮らしをつづけました。このような暮らしの中でエジプト人が生きる目的と考えたのが、死後の世界への準備をすることだったのかもしれません。

この評価には異議が無い。

エジプト文明は、紀元前3000年に誕生し、ペルシアによる征服まででも2500年間、プトレマイオス朝滅亡までを数えたら3000年も続いている。

西暦元年から現在まで2000年余り、日本も含めほとんどの国の歴史がその中に収まってしまうが、それよりも遥かに長く存続しているわけである。

だが、ピラミッドにミイラ、「死者の書」などのパピルス文書、華麗な工芸品と、後世に極めて強い印象を与える遺産を残したにも関わらず、「ギリシア人やユダヤ人に匹敵するような哲学や宗教思想を生み出すことは」なく、「軍事面でも経済面でも後世にほとんど影響をあたえ」なかったのは、先入見を捨て、冷静に考えると、やはり事実としか言い様がない。

ペルシア帝国成立によって、オリエントは新時代を迎えることになる。

 

 

図表も多いし、文章も少な目なので、通読に困難は無い。

これなら続けられそうです。

2016年12月25日

その他の世界史全集について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 03:46

私の視野正面に入る世界史全集は、これまで記事にした中公旧版中公新版河出版文春大世界史講談社旧版の五つのみです。

ですが、それ以外のものについても、少しだけ触れてみましょうか。

 

まず「岩波講座 世界歴史」。

えー、・・・・・無理です。

私のレベルでは全く手が出ないシリーズです。

はっきり言って関係が無い。

それくらい縁の無いシリーズです。

 

次。

中公旧版と同時期、1960年前後に、筑摩書房で「世界の歴史」が出ていたようです。

しかし、この現物は見たことが無い。

図書館で在庫があるのか知らないし、あったとしてもわざわざ借り出すかどうかわからない。

興味のある方は一度探してみてください。

 

講談社旧版があって、じゃあ新版は何なのかと言うと、1980年代に「ビジュアル版世界の歴史」というものが刊行されていました。

これは巻数も少ないし、もう当時から言われていた「活字離れ」に対応して写真や図版が多く、文章量は少なめで、中身が薄い印象しかなく、一冊も読んでいません。

ただそれがかえって通読し易くてよいという方もいるかもしれませんが。

 

そこから今世紀に入って出された講談社「興亡の世界史」シリーズにも、全く興味が湧かない。

書店で何巻かをちらっと眺めただけで、全く気が乗らず、手に取ることはありませんでしたし、これからもまず読まないと思います。

 

同じ講談社で、1970年代後半、なぜか講談社旧版とほぼ同時期に刊行されていたのが、現代新書の「新書西洋史」と「新書東洋史」のシリーズ。

合わせると一応短い世界史全集にはなっている。

このブログでは、「東洋史」から『征服王朝の時代』『東南アジアの歴史』『インドの歴史』『中央アジアの歴史』を記事にしているが、まあ後の三冊が一般的全集の空白を埋めるのにやや便利、というだけで、見るべきものは少ない。

 

 

朝日新聞社から1990年代初頭に「地域からの世界史」が刊行されていました。

私が読んだのは『内陸アジア』だけ。

他のマイナー地域の巻を読んでみれば印象が変わるのかもしれないが、今のところ特筆すべきものは無いかなあ。

 

 

後は・・・・・今は亡き(ですよね?)社会思想社の教養文庫にも「世界の歴史」シリーズがありましたね。

なつかしいなあ。

1990年代辺りでは、まだ新刊書店に在庫がありました。

ちょっと巻数の少ない中公旧版、といった面持ちでした。

あんまり紙質が良くなくて、すぐ変色してましたよねえ、あの文庫。

もう中公旧版を通読していたので、似たようなものを読む気もなく、買うこともありませんでしたが、同様の叙述形式で、かつコンパクトな所に利点があったのかもしれない。

 

あと、山川出版社の「世界歴史体系」とか「世界各国史」シリーズとかは、通読を前提にするようなものではなく、必要なものを選択して読むようなものだと思うので、特に何も言及することは無いです。

実際、その二つのシリーズは読んだことがない。

昔、朝鮮通史のいい本が無いなあと思っていて、「世界各国史」の朝鮮史を読もうかと思ったことはありましたが、結局実行せず。

 

「中国文明の歴史」など(9巻11巻のみ紹介)、中国史だけの全集なども加えると切りが無いので止めておきます。

 

 

思いつく限りの各種世界史全集を挙げてきましたが、実はもう一つ気になっているシリーズで、以上で触れなかったものがあります。

比較的最近出たものです。

次回更新から、それを記事にして行こうかと思っています。

2016年12月11日

15冊で読む近代日本史

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 02:51

のっけから大変失礼な質問をすることをお許し下さい。

まず以下の歴史用語をご覧下さい。

 

 

「日中戦争」と「満州事変」。

 

「二・二六事件」と「五・一五事件」。

 

「太平洋戦争」と「第二次世界大戦」。

 

「日独伊三国同盟」と「独ソ戦」。

 

「ヒトラー政権成立」と「世界恐慌」。

 

「日本降伏」と「ドイツ降伏」。

 

 

以上、戦前における12個の史実を挙げました。

さすがに、これらの史実を「知らない」「聞いたこともない」という方はおられないと思います。

 

では、これらの史実を起こった順番に、年代順に並べることが出来ますか?

 

しばらくお考え下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「1929年世界恐慌、31年満州事変、32年五・一五事件、33年ヒトラー政権成立、36年二・二六事件、37年日中戦争、39年第二次世界大戦勃発、40年日独伊三国同盟、41年(6月)独ソ戦、(12月)太平洋戦争、45年(春)ドイツ降伏、(8月)日本降伏、それがどうした?」と何も見ずに言えた方は、以下の数行は無視して下さい。

答えられなかった方は、まず自宅近くの公共図書館に行って下さい。

その際、もし小学校3・4年生くらいのお子さんがいらっしゃる方は一緒に連れて行くといいでしょう。

図書館に着いたら、児童書のコーナーに向かいます。

で、そこに置いてある学習漫画「日本の歴史」の類いを見つけて、その明治時代から現代までの巻を取り出し、子供に見せて「これでいいのか?」みたいな顔をしてから、貸出手続きをします。

そして自宅に持ち帰ったら、子供ではなく、自分が読み耽ります。

それから、『もういちど読む山川日本史』『石川日本史B講義の実況中継』などを買い求め、高校日本史レベルの事項を、ごく粗くでもいいから頭に入れます。

 

 

以上のことを概ね済ませたのを前提として、近代日本史に関する15冊の読書ガイドを作ってみようというのが、この記事の主旨です。

このブログ全体で紹介冊数が1100冊を超えているので、後はいたずらに個々の本の記事を増やすより、この手のリストを作った方が、読者の役に立つかと思います。

(ただし、このリストは「近代日本」カテゴリの120冊余りしか読んでいない中からの選択ですから、当然限界はあります。[記事数は130余りだが、一つの本で複数の記事を書いているので、冊数は120冊ほど])

 

 

「何で15冊なのか?」は実はかなり適当です。

最初は20冊程度のリストを考えていたのですが、世界史の暫定必読書リストが30冊なのを思えば、ちょっと多いし、なかなかうまく書名も埋まらなかったので、半分の10冊にしようとしたら、逆にどうしてもオーバーしてしまうので、その間でキリのいい15冊になりました。

そして、私の関心領域からして、当然政治史と外交史がほぼ全てです。

 

 

便宜上、「明治前期」「明治中期」「明治後期」「大正」「昭和戦前期」「昭和戦後期」「通史」に分けて紹介していきます。

ただし、何しろ全部で15冊のみですから、1冊だけしか挙げない時代もあります。

 

 

その前に「幕末」をどうするかという問題があるんですが・・・・・。

苦手分野だし・・・・・やめます。

ここで紹介するのは、あくまで明治以降ということで。

今まで読んだ本で、すぐ思いつくのは、半藤一利『幕末史』(新潮社)で、特に悪い本ではないが、これをリストに入れるのはひとまず止めておきます。

 

 

まず「明治前期」から。

この分野では、やはり

(1)坂野潤治 大野健一『明治維新 1858―1881』(講談社現代新書)

がベスト。

「富国」「強兵」「憲法」「議会」という四つの国家目標を掲げる政治勢力の合従連衡の有様から、明治初期の政治を分析する手法の鋭さには、目が覚めるような思いがした。

幕末雄藩の状況にも触れられているのも便利。

薄い本で非常に読みやすいが、内容はとことん濃い。

頭の中がすっきり整理される。

 

 

続いて「明治中期」。

ここで通読難易度が急に高くなるが、

(2)坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)

を採用。

自由民権運動の勃興から憲法制定に至る明治中期の政治史が詳しく語られている。

記事中でも指摘したが、当時の文章の引用が相当読みにくいので、難しければそこは飛ばしてもよい。

内容自体は非常に精緻で重厚。

じっくり読みこなせば、相当実力が付くでしょう。

そして、やや迷ったんですが、ここで政策決定者自身の著作として

(3)陸奥宗光『蹇蹇録』(ワイド版岩波文庫)

を挙げる。

この種の回顧録では、近代日本で最高の作品であることは、恐らく衆目の一致するところでしょう。

ただし、大谷正『日清戦争』(中公新書)におけるような、批判的視点も心の片隅に入れておく必要もあるでしょう。

同種の著作では、このブログでも、幣原喜重郎『外交五十年』(中公文庫)重光葵『昭和の動乱 上・下』(中公文庫)同『外交回想録』(中公文庫)石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫)来栖三郎『泡沫の三十五年』(中公文庫)などを紹介しています。

その内、幣原著は(やや内容が薄いものの)最も読みやすく、教科書的史実の背景を平易に知ることが出来ますし、石射著は破滅的な日中戦争に向かう日本を緊迫感を持って描き出しています。

その他の本も含め、歴史研究者の一次史料としてしか読めないであろう『原敬日記』などと異なり、いずれも一般読者が普通に読めるものですので、歴史的知識を得る為に、余裕があれば手に取ってみるのもいいでしょう。

ただ、学生の頃、その種の回顧録の代表作だと考えていた吉田茂『回想十年 全4巻』(中公文庫)はちょっと期待外れかな、という気もしました。

 

 

「明治後期」に行きます。

ちょうど、叙述範囲がぴったりの

(4)佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史21)』(講談社学術文庫)

がありました。

驚くほど完成度が高い著作です。

著者の透徹した史観に深く納得させられます。

叙述自体の巧みさも魅力。

で、どうしようかなと迷ったんですが、司馬遼太郎『坂の上の雲 全8巻』(文春文庫)を挙げるのは止めておきます。

この本は「近代日本」カテゴリで初めて記事にした作品です。

外国の歴史にしか興味が無かった自分が、近代日本史に向かうきっかけとなった、個人的にも重要な著作です。

最初このリストを作ろうとした時は、間違いなく入れようと考えていたのですが、(著作自体の罪では全く無いとは言え)今の時代状況ではやや陳腐に感じられる点も無いでは無いので、外しました。

未読の方が読んでみるのは、全然悪くありません。

そして、ここで複数の時期にまたがる著作だが、

(5)瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)

を挙げる。

(2)に続いて伊藤博文関連の著作だが、何しろ近代日本最重要最優秀の政治家であることは、ほとんどの人が同意するであろうから、別にバランスを失しているわけではないと思う。

実は、これも伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)を採用しようか、かなり迷いました。

伊藤之雄氏の著作の方が、網羅的であることは間違いなく、これを選べば、ほぼ明治全ての政治史がカバーできる。

しかし通読にはやはり相当骨が折れるし、初心者が内容をしっかりと読み取れるか疑念が残るので、あえてポイントが絞られた瀧井氏の本を選びました。

日清戦争の記述がほとんど無い点については、(3)でフォローされているということにします。

加えて、あえて付け加えれば、小林道彦『児玉源太郎』(ミネルヴァ日本評伝選)は優れた伝記であり、明治政治史全般を理解する上で有益な本です。

伊藤之雄『山県有朋』(文春新書)および井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)も同様。

 

 

以上、明治終わり。

続いて「大正」。

ここは1冊だけ。

(6)岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)

この岡崎氏の日本外交史シリーズは、「近代日本」カテゴリのごく初期の段階で紹介していることから分かるように、かつては自分の中でその種の本の決定版だと考えていました。

その後、岡崎氏の政治的見解にかなりの疑念を感じるようになって、そうした確信も相当薄れ、だからこそ残りの『陸奥宗光とその時代』『小村寿太郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』は採用しないのですが、この巻だけは依然非常に優れていると思います。

他に適切な本を読んでいないこともあり、これでいきましょう。

上で触れた伊藤之雄氏の伝記作品で、『原敬 上・下』(講談社選書メチエ)があり、これを読んだ後では、ひょっとしたら入れ替えを考えるかもしれませんが、未読なのでリストには入れず、その存在だけは紹介しておきます。

 

 

そしていよいよ「昭和戦前期」に入ります。

我が国が有史以来最悪の敗北を経験し、その歴史に大きな屈折を余儀なくされた時代です。

まず、これを挙げましょう。

(7)川田稔『満州事変と政党政治』(講談社選書メチエ)

昭和陸軍内部の皇道派・統制派という派閥対立についての説明が非常に詳細でしっかりしているのが長所。

初心者にとって効用が非常に高い著作です。

なお、類書の高橋正衛『二・二六事件』(中公新書)同『昭和の軍閥』(講談社学術文庫)は初心者向けとは言い難く、私としてはお勧めしません。

次にこれ。

(8)服部龍二『広田弘毅』(中公新書)

昭和戦前期の日本外交の破滅的失敗を省みる上で、外相・首相を歴任したこの広田弘毅という人物を通じて見ることはかなり有益かつ便利である。

本書はその期待に違わぬ、しっかりとした内容と読みやすい叙述形式を持っている。

類書として、これも挙げておこう。

(9)大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書)[『日中戦争への道』(講談社学術文庫)]

日中戦争の通史ではなく、戦争の泥沼化に至る過程を分析し、それを回避する為に何が必要だったのかを考察する外交史の名著。

実は、再読したところ、初読の際ほどの好印象は持てなかったのだが、それでも充分勧められる本ではあります。

なお、同じ著者の『真珠湾への道』(講談社)はやや評価が落ちるので、興味のある方だけご覧下さい。

ちょっと前に話題になった、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)も悪くないが、このリストに加えるのは止めておきます。

興味のある方は一読してもいいでしょう。

昭和期の対外戦争の具体的経過についての知識を得る為の本としては、やや古いですが、臼井勝美『満州事変』(中公新書)同『日中戦争』(中公新書)児島襄『太平洋戦争 上』(中公文庫)『同 下』(中公文庫)を挙げておきます。

(知名度はあるが、戸部良一 他『失敗の本質』(中公文庫)は勧めません。)

ちょっと時代を戻して、軍部台頭前の政党政治時代については、絶対に外せない、この名著があります。

(10)筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』(ちくま新書)

ここ最近読了した本の中では、最大の収穫でした。

史実をよく整理された形でわかりやすく叙述し、その後で穏当で説得的な史的評価を記して、歴史的教訓を明解に読者に示す、という歴史叙述のお手本のような本。

記事中に書いたように、著者の意見の全てを肯定するわけではないが、本書が卓越した傑作であることは間違いないと思います。

政党政治終焉後の政治史については、さらに同様の傑作があります。

(11)坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)

驚くほどの独創性と面白さをもった歴史叙述です。

これも絶対に外せません。

私も含め、ほとんどの方は、著者による史実の整理と評価の鮮やかさに感嘆を禁じ得ないでしょう。

そして、戦前・戦後を通じて在位した昭和天皇の伝記を通じて、時代を理解するのも有益です。

最初、古川隆久『昭和天皇』(中公新書)が適切かなと思っていたのですが、再考してこれにします。

(12)伊藤之雄『昭和天皇伝』(文芸春秋)

練達の歴史家の手に成る、非常に信頼性が高い著作。

昭和史全般の概説としても使用可能。

福田和也『昭和天皇』(文芸春秋)は、上記の著作などを含む様々な本を参考にして、著者独自の情景描写で読ませるが、巻が進むほど内容が粗くなる気がする。

 

 

「昭和戦後期」に行きます。

まず、以下の概説を選択。

(13)高坂正堯『一億の日本人 (大世界史26)』(文芸春秋)

刊行は1960年代末で、相当古い上に、入手困難。

終戦から20年余りしか経っていない頃の作品で、戦後政治史としては、終戦後70年を超えた現在までの、半分もカバーしていない。

当然多くの限界はある。

しかし、まだしも入手し易い、同じ高坂氏の『宰相吉田茂』(中央公論社)をあえて避けて、これを選んだのは、初心者がより読み易い叙述形式が採られているのと、左右のイデオロギー対立の中、何とか歴史的共通認識を形成しようとする著者の真摯さ故です。

じっくり読みかえすと、非常に多くのものが得られた著作でした。

しかしさすがに戦後史がこの1冊というわけにもいかないので、網羅性に配慮して、

(14)五百旗頭真 編『戦後日本外交史』(有斐閣)

を採用。

「傑作」というほど、心には残らなかったが、それなりに有益な本であることは間違いない。

戦後外交史の概説としては、充分使える。

なお、日米関係と並んで、戦後日本の最重要の外交課題であった日中関係については、服部龍二『日中国交正常化』(中公新書)が非常に良質なテキストになります。

 

 

時代別の紹介は一応終わりました。

最後に「通史」として、この1冊を挙げて、ラストを飾る。

(15)坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)

当然、同じ著者の(1)や(11)と内容が重複する部分はあるが、それ以外の時代の叙述は貴重極まりないし、同時代の章でも新たに付け加えられた見識がある。

通史としては、現時点では、やはりこれがベストでしょう。

正村公宏『日本の近代と現代』(NTT出版)は、ありきたりの教科書的著作ではなく、著者独自の見解がにじみ出た作品だが、強いて選択するほどではない。

 

 

 

まあ、こんなもんですかね。

以下、全15冊のリストです。

 

(1)坂野潤治 大野健一『明治維新 1858―1881』(講談社現代新書)

(2)坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)

(3)陸奥宗光『蹇蹇録』(ワイド版岩波文庫)

(4)佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史21)』(講談社学術文庫)

(5)瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)

(6)岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)

(7)川田稔『満州事変と政党政治』(講談社選書メチエ)

(8)服部龍二『広田弘毅』(中公新書)

(9)大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書)[『日中戦争への道』(講談社学術文庫)]

(10)筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』(ちくま新書)

(11)坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)

(12)伊藤之雄『昭和天皇伝』(文芸春秋)

(13)高坂正堯『一億の日本人 (大世界史26)』(文芸春秋)

(14)五百旗頭真 編『戦後日本外交史』(有斐閣)

(15)坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)

 

 

自分では近代日本史についても、そこそこは読んできたつもりなんですが、やはりちょっと厚味に欠けるかもしれない。

以上のリストを見ると、そう思う。

もう少し、より良いものになる可能性もあったかもしれませんが、これが私の限界です。

初心者が無理なく読める範囲内で、一定の冊数制限の下で選ぶ、ということなら、このリストの意義も多少はあるかもしれません。

少しでも参考にして頂ければ幸いです。

 

 

全10冊、とはいきませんでしたが、15冊とかなり絞り込んだんで、読了するのは比較的難しくないかと思います。

ただ、その代わり、漫然と読まない方がいいです。

あえてアドバイスすると、常に年代を意識しながら読んで下さい。

このブログでも何度か触れていますが、とにかく歴史を学ぶ上では、年号を記憶することが絶対に必要です。

「また面倒で嫌なことを言い出しやがったな」と思われること必定でしょうが、これに関しては一切妥協できません。

重要な史実と史実の前後関係もわからずに、史観がどうのこうの言っても意味が無い。

そんな史観自体が皮相で安易なものである可能性が大きい(引用文(内田樹6)、 高坂正堯『大国日本の世渡り学』(PHP文庫))。

自分自身を振り返っても、少し違う分野の諸史実の年号を暗記して、それをツールとして利用することによって、視野が啓け、全体的な歴史理解が容易になったという経験を何度もしています。

 

 

ただし、最初に皆さんにした質問の件ですが、別にあれを答えられなくても、何も恥ずかしくありません。

そんなことを知らなくても、立派で良識のある社会人でいることは充分可能です。

ただ、最重要史実の、あの程度の順番も答えられないのに、近代日本の歴史認識について、匿名のネット上で、党派心の虜になって、反対者を口汚く罵倒・嘲笑・中傷するような真似だけは、絶対止めて下さい。

国と社会にとって有害無益です。

そんなのは言論の自由の範囲内には入りません。

ネット上で他者に罵詈雑言を浴びせかける前に、1冊でも多く本を読んで、自分の知識と見識を高める努力をして下さい。

自戒を込めて、そう記して終わりにします。

2016年12月7日

アルベルト・アンジェラ 『古代ローマ人の愛と性  官能の帝都を生きる民衆たち』 (河出書房新社)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 06:47

『古代ローマ人の24時間』と同じシリーズ。

他に『古代ローマ帝国1万5000キロの旅』もあり。

結婚や性生活に焦点を絞った本。

エロ的関心もあって、読みやすいかと思って手に取る。

確かにページはすいすい手繰れるが、予想よりは面白くなく、あまり内容が頭に入ってこない。

上記『24時間』の方がはるかに完成度が高い。

これはいまいちか。

2016年12月3日

フランソワ・ラブレー 『ラブレー第一之書 ガルガンチュワ物語』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 06:23

巨人王ガルガンチュワとパンタグリュエルの親子を描いた物語の一巻。

全編、言葉遊びと糞尿譚と性的下ネタで埋め尽くされている。

「何だ、こりゃ」と言うのが正直な感想。

今となっては、この面白さは分からない。

教会を中心とする社会的権威への風刺も、それらの権威が粉々になってしまった現代においては、何の新鮮味も無い。

この一巻だけなら楽に読めるが、とてもじゃないが全巻通読する気にはなれない。

本格的な文学好きの人か、余程の好事家でない限り、その必要も無い。

ただ「ラブレーを読んだことがある」という箔が付く。

それだけ。

2016年11月29日

松田素二 津田みわ 編著 『ケニアを知るための55章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 00:12

今の若い人にはピンと来ないと思いますが、このケニアという国は「アフリカの主要国」だというイメージがかつてはありました。

首都のナイロビにアフリカ総局を置いていた新聞社もあったはずです(今は南アフリカのヨハネスブルクあたりでしょうか)。

本書によれば、それはこの国が独立後のアフリカ諸国の中では珍しく親米英・親西側路線を採用したため、日本とも多くの援助と交流があったからだとのことである。

ああ、なるほどなと思いました。

それで実際の国力や国の大きさよりも、過度に重視されていた面もあったかもしれません。

 

ケニアは東アフリカに位置し、北はエチオピアとソマリア、南はタンザニア、西はウガンダと南スーダンに接する。

北にトゥルカナ湖、西にヴィクトリア湖という大湖が存在。

言語は英語とスワヒリ語。

キリスト教徒が多数派だが、イスラム教徒も一割ほど存在。

沿岸部モンバサはムスリム商人の拠点として有名。

最大民族はキクユ人だが、その構成比は17%ほど、他にルヒャ人、カレンジン人、ルオ人、カンバ人など。

一番知名度が高いのはマサイ人だろうが、数から言えば少数派なのか、主要民族の中には現れない。

19世紀ベルリン会議後のアフリカ分割で、1895年イギリスの東アフリカ保護領に。

1950年代、「マウマウ」の反乱と呼ばれる独立運動を経て、1963年独立。

初代首相ジョモ・ケニヤッタ(翌年から大統領)。

ケニヤッタは表面上マウマウとの関係を否定、「フーリガンにケニアを治めさせてはならない・・・・・マウマウは病であり・・・・・二度と思い出してはならない」と述べ、穏健派の立場を貫く。

外交面でも親西側路線を採用、土地国有化と社会主義陣営への接近を主張した副大統領オディンガは逮捕、投獄。

独立後はケニア・アフリカ人全国同盟(KANU)が事実上の一党支配を敷き、大統領権限が拡大するなど、権威主義体制が確立。

比較的順調な経済成長を遂げたが、それには格差の拡大という代償が伴った。

「独立の父」が急進的外交姿勢で東側諸国に接近、内政では社会主義的政策で経済が停滞、その内どうにもならなくなって、右派権威主義政権に交替、親米路線と市場主義的改革で経済状況は改善するが、社会的不平等は拡大し、政治的自由は相変わらず制限されるというのが、第三世界のよくあるパターンだが、ケニアは最初から後者の段階だったという珍しいケースな訳である。

まあ、あくまで相対比較で言えば、少なくともケニヤッタ政権はそう悪しざまに言うほどでもなかったと思える。

ただ、その後正常な議会政治にスムーズに移行できなかったのは残念である。

1978年ケニヤッタが死去、モイが後継。

候補の写真の前に並ぶことで「投票」するという、秘密投票を侵す「行列方式」選挙の導入など、一層の強権化を実行。

冷戦終結後の世界的な「民主化」潮流で、複数政党制が復活したが、野党勢力の分裂もあって、モイが再選。

90年代にはこれまで押さえつけられていた民族紛争が勃発。

モイが退任した後、初代大統領ケニヤッタの実子ウフル・ケニヤッタを後継指名すると与党KANUは分裂、2002年平和的政権交代が実現し、キバキ政権が成立。

ところがキバキ政権内部で対立が激化、2007年キバキ再選後、大規模暴動が勃発。

国際社会の和解勧告を受け、大統領権限の縮小と三権分立の徹底を特徴とする新憲法が制定。

外務省HPを見ると、2013年には上記ウフル・ケニヤッタが大統領に就任しているようだ。

アフリカ諸国では例外的に安定した国だったが、最近の情勢は必ずしもそうではない模様。

 

 

ごく大まかなことだけわかればよい。

本書も軽く流してよし。

2016年11月25日

ドストエフスキー 『罪と罰 全3巻』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:22

およそ20年振りの再読だが、初読の際と同様の感動がよみがえってきた。

今回気付いたのは、圧倒的な読みやすさ。

分量が全く気にならず、次から次へとページを手繰らせる力をこの作品は持っている。

表現法とストーリーの構成力、登場人物の個性描写など、小説技法の面がとにかく素晴らしい。

内容面の充実とあわせて、とにかく完璧な作品だと言うしかない。

以前読んだ時は今よりも大長編への耐性が乏しかったはずで、それでもほぼ一気に読んだ記憶があるが、その印象は間違ってなかった。

「30冊で読む世界文学」でこれを選んだのはやはり正解だった。

登場人物も極めて印象的。

自己犠牲を貫く気高いソーニャ、ラスコーリニコフの妹で美しく聡明なドゥーニャ、ドゥーニャの婚約者で低劣な俗物ルージン、主人公唯一の友人で高潔な好漢ラズミーヒン、主人公を追い詰める怜悧で鋭敏な予審判事ポルフィーリー、皮相で愚かな進歩派で戯画的に描かれてはいるがルージンの卑劣な行為に対して高潔な行動を採るレベジャートニコフなど。

ただ、得体の知れない奇怪な悪の化身という感じの人物、スヴィドリガイロフについては、初読の際ほど強い印象は受けなかった。

 

とにかくすごい。

世界文学に少しでも関心があって、これを読まないのはあり得ない。

再読の評価は「5」。

それ以外にあり得ない。

しかも通読難易度は、この長さにも関わらず、「易」を付けることができる。

どんな初心者にも勧めることができる稀有な古典。

2016年11月4日

坂野潤治 『日本近代史』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:41

1857年から1937年までの80年間の近代日本史を独自の切り口と史観で叙述した本。

 

時代区分は以下の通り。

1.1857~1863年  「改革」 公武合体

2.1863~1871年  「革命」 尊王倒幕

3.1871~1880年  「建設」 殖産興業

4.1880~1893年  「運用」 明治立憲制

5.1894~1924年  「再編」 大正デモクラシー

6.1925~1937年  「危機」 昭和ファシズム

 

本書の対象外だが、1937年以降は「崩壊の時代」となる。

とにかく内容が濃い。

いつもの調子でメモを取っていると、一体どれくらいの長さの記事になるのか見当がつかないので、「どうしてもここだけは」というくらい印象深い文章を引用し、論旨の骨格だけを示すことにします(と言ってもやはりとんでもない長さになりましたが)。

 

 

まず第一章。

 

ペリー来航(一八五三年)に象徴される欧米列強の軍事的圧力は、日本古来の伝統(「尊王」)と二五〇年余にわたるもう一つの伝統(「攘夷」)を結びつけた。この二つの「伝統」が「水戸学」や吉田松陰などにより「尊王攘夷」という一つの「国是」に合体した時、日本に強固な原理主義が登場したのである。

・・・・・・

「尊王攘夷」と「佐幕開国」の対立を克服することは、きわめて困難な課題であった。それは対外政策の基本的な対立であっただけではなく、「尊王」か「佐幕」かという国内政治体制の根本的な対立でもあったからである。一八五三年のペリー来航から六八年の明治維新までの一五年間の日本は、この二つの根本対立の落としどころを求めて、悪戦苦闘しつづけたのである。

・・・・・「公武合体」と「尊王攘夷」の二つの幕府批判勢力が正面から衝突した、一八六三(文久三)年から六四(元治元)年の時期・・・・・幕府支持の会津藩と公武合体論の薩摩藩が手を結んで、尊王攘夷の長州藩の孤立化を謀った・・・・・「文久三年八月一八日の政変」と「禁門の変」(一八六四年)の名で知られる事件である。

しかしこれでは、かつての「佐幕開国」が「公武合体開国」に替わっただけで、「尊王」と「攘夷」の二つの「国是」は長州藩が握りつづける。長州藩一藩では、軍事力でも経済力でも、幕府と有力諸藩の連合には敵わないことは明らかである。二つの「国是」を守ろうとする長州藩には、反「開国」派と反幕府派の双方が同情を寄せていた。一八六四年の禁門の変で長州藩に「朝敵」の汚名を負わせただけでは、「尊王攘夷」問題を消滅させることはできなかったのである。

唯一の解決策は、「攘夷」か「開国」かの問題を棚上げにして、「尊王」か「佐幕」かに選択肢を絞り込むことであった。そうなれば薩摩と長州は「尊王倒幕」で手を握ることができる。日本古来の「国是」であった「尊王」によって、たかが二五〇年来の「国是」にすぎない「鎖国」を包み込むことができれば、「公武合体」を重視する有力大名が幕府を支持する根拠は薄くなる。

「開国」―「攘夷」の対立が棚上げされた時には、有力大名の声を重視せよという「公武合体」の要求は、大名だけではなく、有力家臣の意向も尊重せよという「公議輿論」の要求に発展してきた。こうして「尊王倒幕」と「公議輿論」が有力大名とその藩士たちの共通のスローガンになった時、「悪戦苦闘」・・・・・は終わりを告げ、事態は明治維新に向けて急転回していく。筆者の仮説は、その時点は一八六四年にあり、その推進者は薩摩藩の西郷隆盛だった、というものである。

 

 

 

第二章。

 

一八六七(慶応三)年六月の薩土盟約、一〇月の大政奉還、一二月(一八六八年一月)の王政復古までの半年間は、改革派も保守派も一つの枠組みの両端で動いていた。権力の頂点に天皇がつき、その下に公卿と、徳川慶喜をも含めた有力大名(もしくはその代行)が上院を構成し、彼らの家臣で改革の実践的部分であった者たちが下院を構成するという新体制構想が、大枠になっていたのである。

この大枠を右の極点に行けば、すでに紹介した一八六三(文久三)年末の「参預制」に似てくる。参預制の時には将軍は将軍のままで有力大名の意見を尊重するので、「大政奉還」以後とは制度としては大きく異なる。しかし、「大政奉還」に続く「王政復古」で打ち出された総裁、議定、参与の「三職制」のナンバー・ツー(たとえば「副総裁」か「議定筆頭」)に徳川慶喜がつくとすれば、それは実質的にはかつての「参預制」とほとんど変わらない。「徳川八百万石」、「旗本八千騎」といわれた徳川家の長として、慶喜が「議定筆頭」の地位を新政府内で占めれば、「参与」にしかなれなかった薩長の下級武士には対抗策はありえない。幕末期を通じて「改革派」の有力大名が唱えてきた「公武合体」が完成してしまうのである。

他方、「参与」という中央政府の最下位にしかなれない(あるいは「薩土盟約」段階では「下院」議員にしかなれない)薩長土三藩の下級武士たちにとっては、この大枠を左の極点まで推し進めて、「参与」=「下院」が実権を握れるようにする必要があった。しかも一八六四(元治元)年に西郷隆盛が島津久光の弾圧をはねのけて五年間の流刑から帰藩して以後は、「下級武士」は有力藩の「軍部」と同義語になってきた。一八六四年に薩摩藩の軍賦役になった西郷隆盛と軍役奉行になった伊地知正治の鳥羽・伏見戦役以後の活躍を見れば、このことはおのずから明らかになる。

同様のことは、一八六六(慶応二)年初頭の薩長同盟以後の長州藩における品川弥二郎や大村益次郎の活躍についても言える。「下院」が「参与」になり、さらには「軍部」になっていったのである。さらに、藩の中心が慶喜の「公武合体」路線の中心的支持者であった土佐藩においても、前藩主の山内容堂や参政の後藤象二郎に対抗して、土佐藩「軍部」の板垣退助や谷干城らが、薩長両藩の「軍部」との提携に努めはじめていた。

・・・・・・

のちに明治元年となる慶応四年一月の明治新政権は、このような「右」と「左」の二大勢力の対立の上に、文字通り右往左往していたのである。

・・・・・・

一八七一(明治四)年七月の廃藩置県の断行は、一八六四(元治元)年頃に始まった「革命の時代」の終焉を告げるものであった。当初の議会構想のうち、上院を構成するはずだった藩主層の発言力は次第に後退し、ついには藩自体が解体させられたのである。幕府を倒し、藩体制をも倒した時、下級武士を指導者とする幕末・維新革命は完了した。

しかし、革命の完了だけでは新体制はできあがらない。時代は「革命」から「建設」へと大きく変化していく。しかも「革命」期の指導者の資質と「建設」時代のそれとは別ものであった。西郷隆盛の時代もまた終わろうとしていたのである。

 

 

 

第三章。

 

それぞれの国家目標に基づく、「富国」派の大久保利通(と大隈重信)、「強兵」派の西郷隆盛(と山県有朋)、「憲法」派の木戸孝允(と井上馨)、「議会」派の板垣退助、という以上四派の合従連衡・消長盛衰で明治初期の政治を分析する。

岩倉使節団が「富国」「憲法」派、留守政府が「強兵」「議会」派。

維新と戊辰戦争を遂行した「軍部」の発言権増大を背景にまず「強兵」派が突出。

それが朝鮮・台湾・樺太という三つの対外問題で噴出。

ただし薩摩出身者を中心とする「強兵」派の外征論も、どの地域で強硬策に出るかで対立あり。

まず1873(明治六)年、征韓論政変で西郷・板垣の「強兵」派・「議会」派が下野。

翌74年、「富国」派大久保が「強兵」派との妥協で、台湾出兵を実行。

これに反発して、代わりに「憲法」派の木戸が下野。

だが、大久保は、懸念された日清開戦を回避することに成功。

75年、大阪会議で木戸と板垣が一時政府復帰、「富国」「憲法」「議会」三派が結集、同年江華島事件と翌年日朝修好条規締結で、日朝関係も戦争に至ることなく小康状態へ(加えて樺太・千島交換条約も結ばれる)。

対外危機の終息で外征論という梃子を失った「強兵」派は政府外で孤立した挙句に西南戦争で鎮圧、立憲制樹立についての急進論か漸進論かで、「憲法」派木戸と「議会」派板垣は決裂、その結果「富国」派全盛の「大久保独裁」とも言われる情勢がもたらされ、「殖産興業」のスローガンの下、国家主導の工業育成政策が遂行される。

しかし、大久保のこの「殖産興業」は、それらの成否とは直接関係のない税収減から、彼の死の二年後には完全に行き詰った。一八八七(明治二〇)年までの日本の直接税は、土地所有者に掛けられる「地租」だけであり、しかも金納固定税であった。

・・・・この制度の下では税金に物価スライド性が全くないから、不景気の時には財政が豊かになり、好景気の下では租税の実収は減少する。極端な言い方をすれば、財政の健全化を計ろうとすれば、デフレ政策を採用するしかないシステムだったのである。

・・・・・・

西南戦争の戦費調達と、物価騰貴による地租収入の半減とを原因とする財政危機の打開策で、一番簡単で有効なのは、地租の増徴だったであろう。しかし、明治政府は独裁国家ではなかった。・・・・・地租がただ一つの直接税であり、その増税は北海道から沖縄まですべての土地所有農民に一律に影響する・・・・・納税者の間に利害対立が全く存在しなかったのである。そのような増税は、普通の「独裁国家」では断行しきれないであろう。

・・・・・・

巨額の不換紙幣を抱えた政府が、物価騰貴による税収減に直面し、しかも増税が不可能だったとすれば、「富国」派の存続はもはや不可能だった。一八八〇(明治一三)年一一月に・・・・公布された・・・・工場払下条例・・・・とは、「富国」派の挫折を象徴するものであった。

「富国派」「強兵派」「憲法派」「議会派」の四者の路線対立を軸に描いてきた「建設の時代」は、一八八〇年をもって終焉したのである。

 

 

 

第四章。

 

「士族民権」に刺激を受け、地租を負担する農村地主層の「農民民権」が台頭。

それへの対応をめぐり、政府内で、二つの路線が対立。

緊縮・デフレ政策を断行し、デフレで加重された地租軽減を求めるであろう議会の権限を制限しようとする松方財政および井上毅のプロイセン型憲法論で、岩倉具視、伊藤博文が支持。

そして、「殖産興業」路線を継続して台頭する「農民民権」の支持を獲得・与党化し、その上に立って議院内閣制を樹立しようとするのが大隈重信と在野の福沢諭吉ら交詢社系などの知識人。

一方、板垣退助、植木枝盛らは、直接の政権参加自体を目指さない、「拒否権型議会主義」を提唱、大隈・福沢路線と対立。

・・・・・両者の対立は「自由民権運動」と総称される運動の中での、指導部と支持者の対立であった。さらに言えば、交詢社という福沢諭吉が率いる都市知識人と、板垣退助率いる元祖民権結社とが、新たに台頭してきた「農民民権」の支持獲得を争ったのが、一八八一(明治一四)年の政治状況であった。そして、この二つの国会開設論者の競合の中に新たに割り込んできたのが、井上毅らの保守的立憲制論者だったのである。

この三つ巴の立憲制論の競合を想定してみると、「明治一四年の政変」と呼ばれる同年一〇月の大隈・福沢派の敗北の理由が透けて見えてくる。保守派の井上毅と急進派の板垣退助や植木枝盛の間には、憲法による行政権の制限を求めないという共通性があったからである。

・・・・・・

この右と左の奇妙な棲み分けが、大隈・福沢路線の敗北をもたらした。政府の側では大隈とその系列の中堅官吏が罷免され、運動の側では憲法ではなく議会掌握を重視する板垣退助が勝利したのである。「明治一四年の政変」(一〇月一二日)と自由党の結党(一〇月一八日)がそれである。

・・・・・・

これらの都市型知識人たちは、政府内部の国会開設論者の大隈重信と在野の板垣退助を結合させて、伊藤博文や井上毅に代表される保守的な政府指導者を一掃することをめざしていた。しかるに板垣は彼らの要望を一蹴して、政党結成の地盤作り・・・・に向かったのである。

・・・・・保守派と急進派が生き残り、その中間に位置したリベラル派が、政府内と運動内での勢力を一挙に喪失したのである。

議会開設前の大同団結運動においても、板垣らの「拒否権型議会」論が大隈らの「参画型議会」論に対し優勢を維持、最初の総選挙で自由党が改進党の三倍の議席を獲得。

その結果、国会運営は困難を極める。

明治憲法の欠陥としては、第十一条の統帥権独立と第五十五条の国務大臣単独責任制がよく指摘されるが、憲法制定当初、問題になったのは第六十七条の「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出(中略)ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」という条文。

衆議院の行政費・軍事費削減要求はこの六十七条を盾に政府が拒否、政府の地租増徴要求は衆議院が拒否。

政府と衆議院とが正面衝突している限り、歳出と歳入はともに減らないかわりに、ともに増えないのである。

一八九〇(明治二三)年に発足した日本の立憲制は、一九〇〇(明治三三)年に維新の元勲伊藤博文と、板垣退助率いる自由党(憲政党)とが大連合を組んで立憲政友会を結成するまでの一〇年間、この憲法体制の着地点を探って模索を続けた。いわば作文にすぎなかった憲法条項を、「運用」の観点から、政府と衆議院の双方が試行錯誤を繰り返したのである。

星亨ら自由党内の現実主義派は、「民力休養」「地租軽減」をあきらめて公共事業拡充を意味する「民力育成」への転換を模索し、日清戦争直前、一八九三(明治二六)年の「和協の詔勅」がその機会を提供した。

・・・・・詔勅の言う「和協」、すなわち行政府と立法府の「和協」を、政治的にどう実現するか・・・・・論理的には、両者の提携による「大連立」か、両者を縦に二分する二大政党制以外の選択肢はなかった。

前者の「大連立」方式を採れば、戦後のわれわれが長く経験してきた、官僚と与党との恒常的提携、すなわち「五五年体制」とか「自民党の一党優位制」のようなものになる。逆に後者の途を採れば、伊藤博文系官僚と自由党(憲政党)が結んだ一九〇〇(明治三三)年の立憲政友会と、保守系の山県有朋系の官僚と(名称はたびたび変わるが)改進党の後身とが結んだ立憲同志会との間の二大政党制になる。

面倒なのは、保守系の山県系から出た桂太郎が結成した立憲同志会(一九一三年)が、伊藤博文や西園寺公望の後を継いだ原敬の立憲政友会にくらべて、より自由主義的だったことである。軍部と官僚閥の牛耳をとってきた山県閥が、より自由主義的だった伊藤、西園寺、原の率いる政友会よりも、自由主義的な政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を結成してしまったのである。

このため今日においても、「大正デモクラシー」という言葉を聴いて、立憲政友会の「平民宰相」原敬を想起するか、それにとって代わってロンドン海軍軍縮を実現した、立憲民政党の浜口雄幸を思い出すかは、人それぞれという状況が続いている。この千差万別の歴史認識はニ一世紀の日本をリードする政界や言論界においても、継承されている。

 

 

 

第五章。

 

藩閥官僚と、農村地主を地盤とする自由党(憲政党・政友会)の妥協により、日本の議会政治は軌道に乗った。

その際、自由党がその綱領を「地租減税」から「積極主義」に変更したことが梃子となった。

著者によれば、次の課題は都市商工業者、労働者、小作農にも普通選挙制で参政権を与え、二大政党制を確立することだった。

日清・日露の擬似的総力戦によって、一体感と平等意識を強めた国民各層がそれを求める。

さらに当初劣勢だった立憲改進党(→進歩党→憲政本党→国民党と党名変更)も党勢を自由党系に匹敵するまでに高めてきた。

だが、政友会最大の実力者原敬は、桂園時代に典型的に見られるように、政友会一党優位制を維持し、自党と藩閥官僚との協力による政治運営を継続することを目指していた。

戦前日本の官僚と農村地主の結合の中心になったのは、一九〇〇(明治三三)年に藩閥政治家の伊藤博文を総裁に戴いて、かつての自由民権家たちが結成した立憲政友会であった。そして、自由党(憲政党)を率いてこの立憲政友会を結成させた中心的指導者が星亨であり、星が創った政友会を安定的な大政党に築き上げたのが、今日もなお「大正デモクラシー」を代表する政党人と誤解されつづけている、平民宰相原敬である。・・・・・原敬は一九ニ一(大正一〇)年に非業の死を遂げるまで、二大政党制と普通選挙制に反対しつづけて「再編の時代」を阻みつづけた、保守的な政党人だったのである。

この文章に見られるように、著者の原に対する評価は決して高くない。

陸軍の突出した自己主張によって、その山県系官僚閥と政友会との「官民調和体制」が破綻したのが大正政変。

「大正政変」は、陸軍、海軍、政友会、金融界、実業界、都市中下層などの多様な利害対立の複合によってもたらされたものである。陸軍と官僚層と貴族院を握る藩閥勢力と、「積極主義」を掲げて農村地主を味方につけた政友会との協調だけでは、これらの諸利害の調整がつかなくなってきたのである。本章の表題たる「再編」の時代がようやく始まったのである。

だが、この第一次護憲運動は、著者によれば、以下のような「ねじれ」を抱えていた。

「閥族」の代表桂太郎との間で政権のたらい回しを長年続けてきた政友会、財政悪化の責任を陸軍や海軍と同様に背負うべき政友会が、一朝にして「閥族打破・憲政擁護」の推進者に転じたのである。変革されるべき対象が変革の先頭に立っているような運動の成果は初めから限られていたのである。

政友会が「閥族打破」の先頭に立ったことは、政友会に代わって政権を担当しようとしてきた野党国民党にも打撃を与えた。政権担当意欲の強かった「改革派」と呼ばれた主流派が、かつて自由党が「閥族」の伊藤博文と合体して政友会を結成したように、国民的非難の的になっていた「閥族」の桂太郎の新政党(のちの立憲同志会)に馳せ参じたのである。

続いて成立した海軍と政友会の連立内閣である山本権兵衛内閣がシーメンス事件で倒れ、大隈内閣成立。

この内閣によって「再編の時代」が本格的に到来したと著者は述べる。

原敬の政友会一党優位制の没落、立憲同志会の与党化と総選挙での大勝による二大政党制の確立がその理由。

だが大隈内閣は二十一ヵ条要求という失策を犯し、大戦景気で富裕化した農村地主の支持を回復し政友会が勢力回復。

続いたのは寺内正毅超然内閣だが、外交面では、強硬な対中政策を転換し、対米協調重視に向かい、幣原喜重郎外務次官、田中義一参謀次長を留任させ、この方針転換を実施させたこともあり、著者の評価は意外にも高い。

米騒動の後成立した、「本格的政党内閣」原敬政友会政権は、先に述べたように普通選挙制と二大政党制に反対。

1921年原敬暗殺、高橋是清内閣の後、22年海軍の加藤友三郎内閣が後継になったことは、桂園時代以来、政友会の常套的手法で、その後の政権返還を見越したものとも考えられた。

しかし、政友会を原から継いだ高橋是清は参謀本部廃止論を唱えたこともあり、元老の信頼が無く、第二次山本内閣、清浦奎吾内閣と非政党内閣が続く。

ここで高橋政友会は方針を転換、清浦与党となった政友本党の分離を甘受しても、憲政会(1916年立憲同志会が改称)と第二次護憲運動を展開、その結果護憲三派の加藤高明内閣成立、普通選挙が実現。

 

 

 

第六章。

 

1920年代前半、原・高橋の政友会は、国内では普通選挙に反対する一方、外交面ではワシントン体制へ参加し、国際協調主義を遵守していた。

一方、加藤高明の憲政会は、普通選挙を主張する一方で、対華二十一ヵ条の要求を依然として正当視する側面を持っていた。

・・・・以上・・・・比較すれば・・・・国内の民主化については憲政会が、対外政策については政友会の方が、進歩的だったことが明らかになる。細かい留保をつけずに単純化すれば、「平和と民主主義」を両党が分かち合っていたということができよう。

このような状況の下で二大政党制が成立すれば、「危機の時代」にはならなかったであろう。政友会と憲政会のどちらが政権についても、「平和」か「民主主義」のどちらかが担保されるという二大政党制は、面白味には欠けても、極端な右傾化はもたらさないからである。

(個人的には、「極端な右傾化」をもたらしたのは「民主化の進展」と「民意の暴走」自体が主因であろうし、この観察はやや表面的にも思えるが、見方としては面白い。)

だが、護憲三派内閣成立を機に、憲政会は幣原外交の国際協調主義と中国内政不干渉政策を採用、その対外路線は著しく穏健化。

一方、原・高橋の跡を継いだ田中義一総裁の下、政友会はその内外政策を大きく右傾化させる。

以上により明らかなように、護憲三派内閣から政友会が離脱した一九ニ五(大正一四)年七月末以来、憲政会(民政党)と政友会の対立点は、外政においても内政においても、明確になってきた。正確に言うためにはいくつかの留保をつけなければならないが、単純化して言えば、「平和と民主主義」の憲政会(民政党)と、「侵略と天皇主義」の政友会の、二大政党制が発足したのである。

二大政党間の相違が曖昧な方がいいのか、鮮明な方がいいのかは、一般的には断定できない。「保守党」と「自由党」の対立幅が小さいことにイギリスの二大政党制の利点を見出したのは、一八七九(明治一二)年の福沢諭吉であった・・・・・

第一次大戦後から一九三二(昭和七)年の五・一五事件までの十数年間の政治においては、政友会と憲政会(民政党)が内政と外交において一長一短であった一九二〇年代前半の時代の方が、政治の安定と進歩に役立ったように思われる。両党のどちらが勝っても、「平和」か「民主化」の一つは担保されるからである。反対に、憲政会(民政党)が勝てば「平和と民主主義」が、政友会が勝てば「侵略と天皇主義」が強調されるという一九二五年から三二年にかけての二大政党制は、政党政治だけではなく、日本国家そのものを「危機の時代」に導いた一因だったように思われる。

二大政党の政策分極化は経済政策の面でも存在し、しかもこの場合、憲政会(民政党)がよりによって恐慌時に緊縮財政と金解禁を実施するという根本的に間違った態度を採り、社会不安と政治危機を深刻化させた一方、政友会の方は元総裁高橋是清の主導で積極財政を採用し、経済危機を克服するという現象が生まれる。

(はっきりとした記述は無いが、この経済政策の面での政友会優位は、たぶん著者は肯定的には評価していないでしょう。むしろ[著者の言う]民政党の「平和と民主主義」への支持を失墜させる効果しか無かったでしょうから。)

そして、昭和戦前期の危機をもたらす直接的原因となった軍部の急進的中堅将校に関する記述を以下に引用。

陸海軍青年将校と民間右翼の横断的結合は、本書第1章で検討した幕末期の薩長土三藩の下級武士と脱藩浪士の横断的結合と、形の上では酷似している。しかし、国が上昇過程に入った時と下降局面に入った時とでは、「下剋上」のもたらす結果が全く異なる。古めかしい表現を使えば、明治維新が「革命」であったのに対し、昭和維新は「反革命」だったのである。

「革命」か「反革命」かを分けるのは、「天皇制」の問題ではない。幕末の「開国」か「攘夷」かの対立にもかかわらず、明治維新に向かうすべての革命勢力は、「尊王」だけでは一致していたのである。この点では、明治維新と昭和維新の間には、相違点は見出せない。

両者の大きな相違は、対抗エリートの質の問題である。上昇局面では、その時代の最高の知識人だちが「対抗エリート」を補佐した。すでに第1章で記したように、幕末期の島津斉彬の下には、雄藩大名だけではなく、時の中央政府(幕府)の一流の洋学者たちが馳せ参じた。斉彬の遺志を受け継いだ西郷隆盛も、勝海舟を介して、横井小楠、大久保一翁ら幕府系知識人の最先端の知見を吸収していた。「尊王攘夷」の方で有名な幕末の志士たちは、実は「開国進取」の最先端を走っていたのである。・・・・・・天皇親政を唱える陸軍青年将校の導師になった・・・反西欧で軍隊の力しか信じられなくなった北一輝には、幕末の西郷隆盛の欧米認識もなければ、「開国派」から「攘夷派」に及ぶ西郷の幅広い人脈もなかった。

1931年、経済恐慌と国内の軍事クーデタの脅威、満州での対外紛争という三重の危機が日本を襲う。

第二次若槻礼次郎民政党内閣はこれに有効に対処できず。

ここで生まれたのが、政友会・民政党大連立構想である。

同じ頃、同じ民政党内閣の内務大臣安達謙蔵は、一〇月事件に象徴される軍部のクー・デターと民間右翼のテロの脅威を重視していた。そしてこれらの動きの背後には、金本位制への復帰による農民の生活難と労働者の失業増大という社会不安が存在していた。青年将校の動きを抑え、社会不安の原因である金本位制を廃止するために安達が唱えたのは、民政党と政友会の大連立(「協力内閣」)であった。

昭和初年の日本政治は二大政党制とそれに対する青年将校らの攻撃で知られているが、幣原外交と並ぶ民政党内閣のもう一つの看板であった井上(準之助)財政の放棄を前提にした政民大連立構想は、民政党にとっては有力な選択肢の一つであった。

・・・・・・

もちろん、安達の協力内閣が実現したら、海軍青年将校による五・一五事件が起こらなかったという保証は、どこにもなかった。・・・・・五・一五事件の勃発を止めることは誰にもできなかったと思われる。しかし、安達の言うとおり民政党と政友会を併せて衆議院に約九八パーセントを占める「協力内閣」の首相を海軍青年将校が射殺したとして、それで日本の政党内閣の息の根を止められたであろうか。

しかし、井上準之助蔵相の金本位制へのこだわりが、この協力内閣を不可能にした。・・・・・木戸幸一らと会談した井上蔵相は、金本位制の問題には全く答えず、軍部批判の観点から協力内閣構想を否定している。

・・・・・堂々たる正論であるが・・・・井上がこだわった金本位制の下で、農民や労働者の生活は困窮をきわめ、それがこの三ヵ月後の総選挙での民政党の惨敗の原因となったことは、周知のとおりである。状況をわきまえない「正論」は、政党を奈落の底に追い落とすこともあるのである。

他の本では、この協力内閣構想は実現性に乏しく、またその目的も軍部掣肘の為ではなく、軍に迎合する意図があるものとして、否定する記述をいくつか見ている。

だが、著者は、この政民大連立政権が流れたことを軍部抑制の好機を逸したものと惜しんでいるようだ。

私も、戦前日本が最終的に陥った無残な破局を見ると、(安達自身かなりキナ臭い人物の感があるものの)とにかく何でも試してみたら良かったんじゃないか、後述の宇垣流産内閣よりはひょっとしたら可能性があったんじゃないか、と思っている。

32年陸軍の意向に押され気味の犬養内閣下での総選挙で政友会は圧勝したが、荒木貞夫の陸相就任で一時行動を控えた陸軍急進派に飽き足らない海軍青年将校が五・一五事件を起こし、犬養内閣は倒れ、政党政治も終焉。

以下、同じ坂野氏の『昭和史の決定的瞬間』と内容が重複するが、簡略にメモ。

後継の斎藤実挙国一致内閣で、荒木の陸相留任による陸軍の革新運動の一時的沈静化、高橋財政による経済恐慌克服、満州国承認と連盟脱退の後の国際的小康状態により、三重の危機は一応終息。

こうなると、二大政党をはじめとする各政治勢力が再度自己主張を強める。

一九三四(昭和九)年七月に成立した海軍退役将軍岡田啓介の内閣は、前の斎藤実内閣とは違って、「挙国一致内閣」ではなかった。過半数政党の政友会が「憲政の常道」に反するとして、同党からの入閣者(床次竹次郎・・・・)を除名して、野党の立場を鮮明にしたからである。

政友会は陸軍皇道派と結び「天皇機関説問題」で岡田内閣を攻撃、民政党は逆にひとまずは合法路線を守る陸軍統制派に接近。

議会内で劣勢の民政党は、「内閣審議会」と「内閣調査局」という議会外の機関を設置して、社会政策を推進する姿勢を見せ、革新官僚や合法無産政党である社会大衆党の支持も引き寄せようとする。

こうしてみてくると、岡田内閣は、民政党と陸軍統制派と新官僚と社会大衆党の支持を得て、過半数政党政友会と陸軍皇道派を敵に廻した内閣だったことがわかる。問題はこのような政治状況をどう評価するかにある。

筆者には、政治社会に一種の液状化が生じていたように思われる。陸軍も政党も官僚もそれぞれの内部に分裂が生じており、政治勢力というものが細分化されていた。細分化されたいくつかの勢力を寄せ集めて一時的に多数派を形成することはできても、中期的に安定した政権をつくることは困難になってきたのである。

「余の承知する政治の過程においては、維新後、薩長土肥の争いより、官僚―政党の争いに、次に二大政党の対立となりしが、現在では、政党―軍部―官僚―左傾―右傾、なお進んで政友会の内争、民政の提携非提携の抗争、軍部内派閥の闘争等と、如何にも争いが小キザミと成り来れり。・・・・・」(『宇垣一成日記』・・・・)

宇垣の言う「右傾」は、北一輝や西田税などの民間右翼を指し、「左傾」は先に見た亀井貫一郎らの社会大衆党を意味すると解していいであろう(本当の「左傾」は治安維持法によって、すでに根絶させられていた)。そうなると岡田内閣下の政治地図には、政友会が二派、民政党が二派、陸軍が二派、官僚が二派、左右両極が二派、合わせて一〇派の政治勢力が描かれていたことになる。

このような状況下では、政治の安定を望むべくもないことは、言うまでもない。しかし、ことはそれにとどまらなかったように思われる。支配諸勢力が一〇に分かれるということは、各派のトップだけをとっても、一〇人の指導者がいたことになる。そのような状況は、政治エリートの質の低下をもたらさざるをえない。

宇垣が明治維新以後の政治対立の歴史として描いたもののうち、「薩長土肥」でトップは四人、「官僚―政党の争い」では二人、「二大政党の対立」でも二人である。それが一挙に一〇人に増え、政治対立の組合せも倍増ではすまなくなったのである。一九三五年の日本政治は、政界の不安定化とエリートの質の低下に直面していたのである。

1936年総選挙で民政党が圧勝、社会大衆党躍進、政友会惨敗。

だが、その直後に二・二六事件勃発。

・・・・・宮中と政府の中枢を担ってきた「重臣ブロック」は、反乱によって壊滅的な打撃を受けた。「重臣ブロック」が、民政党と陸軍統制派の支持を受けて右翼的な二大勢力(陸軍皇道派と政友会)を抑え込むというシナリオは、二・二六事件によって崩壊したのである。

しかし、陸軍皇道派と青年将校が政友会の支持を得て一挙に軍事政権を樹立することも、同じく不可能であった。

広範な国民的支持も無く蜂起した青年将校は、昭和天皇個人の激怒も蒙り、鎮圧される。

続く広田弘毅内閣は、五・一五事件後の斎藤内閣と同じ性格の挙国一致政権。

皇道派が排除された後、陸軍の新統制派による国政壟断の気配が強まると、政友会でも反軍的姿勢が強まり、政民連携派が優勢になる。

その表われが、1937年初頭の宇垣内閣実現への動き。

しかし、この期に及んでも、政民二大政党は団結することができず、陸軍の拒否の前に、あえなく宇垣は組閣を断念。

成立したのは、陸軍と財界にのみ支持基盤を置く林銑十郎内閣。

その下で行われた総選挙では政・民両党が拮抗、社大党が再度躍進。

国内体制変革を含む「広義国防」をスローガンにして、統制派と接近して一時親軍的傾向を持っていた社大党だが、この時期には、総力戦準備の為に財界と妥協し、経済・社会機構改革を放棄した(「狭義国防」)陸軍を批判しており、その躍進は反軍的な民意の反映だ、と著者は判断している。

しかし、その後成立した近衛文麿内閣の下で、盧溝橋事件が勃発、泥沼の日中全面戦争と自爆的な日米開戦へと日本は向かうことになる。

本書は、日本が「崩壊の時代」に突入する1937年にて幕を閉じる。

・・・・「崩壊の時代」を避けることはできなかったろうか。流産した宇垣一成の内閣ならば、回避できたかも知れない。宇垣には陸軍の一部と衆議院の多数の支持があり、宇垣も民政党も政友会も、ファッショと戦争に反対していた。その宇垣の内閣を流産させた石原莞爾の「狭義国防」路線でも、日中全面戦争は回避できたかも知れない。これから五年かけて対ソ戦準備のために、飛行機と戦車とそのための重化学工業を育成しようとして財閥の協力も獲得したものが、その前に日中全面戦争に突入したとは思えないからである。戦争勃発後の石原の日中和平交渉はよく知られている事実である。

しかし、この二つの内閣または内閣構想の挫折の後を受けて、一九三七年六月四日に成立した第一次近衛文麿内閣は、成立と同時に、「従来のような対立相克を国内で続けて行くのは、国外で侮りを受ける。出来るだけ相克摩擦を緩和して行きたい」という談話を発表した・・・・。当時の言論界は、これを「国内対立相克の緩和」と標語化した。その標語どおり、近衛内閣は、民政党や政友会だけでなく、財界からも新官僚からも入閣者を得、陸軍も社会大衆党もそれを支持した。すでにたびたび使ってきた表現によれば、それは「小キザミ」化した諸政治勢力のすべてを包摂した内閣であった。

すべての政治勢力に支持された内閣には、基本路線もなければ信頼できる与党的勢力もない。その時々の状況により、右に行ったり、中道に行ったり、左に行くしかない内閣構成だったのである。そのような内閣の成立後約一ヵ月で、・・・・日中全面戦争の危機が生じたのである。「危機の時代」が懐かしくなるような「崩壊の時代」が始まったのである。

・・・・「崩壊の時代」に入っていった最大の原因は、すでに国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからである。そしてこの四分五裂状態は、一九三二年以来五年がかりで深められてきたものであり、いわば勝者なき分裂状態に陥っていた。近衛内閣はこの分裂状態を克服しないで固定化し、そのまますべてを包摂してしまった。日中戦争を途中で停めたり、日英米戦争を回避したりするための政治体制の再編をめざす指導者は、もはや存在しなかったのである。

 

 

 

本書の刊行は2012年である。

東日本大震災の後、戦後復興を成し遂げたことを思い起こして、震災後の復興に積極的に取り組もうとの論調に接した著者は、しかし震災後の我が国は本書の末尾にある1937年の戦前日本、「崩壊の時代」の入り口にいるのではないか、との不吉な予感を述べる。

確かにそう思えないでもありません。

衆愚的国民が形作る「世論」とそれを秘かに誘導する煽動者が絶対的支配者となり、皮相な「多数派意見」以外のあらゆる価値が相対化され、あらゆる極論の蔓延で政治勢力は「四分五裂」し、国家の運営は大衆の「気分」次第で迷走するばかり。

これで国が滅びなければ、相当の幸運です。

もう、いかなる楽観も許されない時代に入ったな、との予感はあります。

たとえ何があっても、結局それが日本の運命なんだと受け入れるしかないでしょう。

 

 

 

刊行当時から常に気にしてきた著作をついに読んだが、やはり圧倒的に素晴らしい。

この人の本には、全くハズレというものがない。

一通りの史実が頭に入っていないとあまり強い印象は受けないかもしれないが、私を含め中級者クラスなら、あまりの面白さに驚倒するでしょう。

絶対にお勧めです。

2016年11月2日

横手慎二 『スターリン  「非道の独裁者」の実像』 (中公新書)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 02:00

ごくごくオーソドックスな形式の伝記。

史的解釈においても極論を避け、至極穏当な見方を導き出している。

読みやすいが、特筆すべき点は無い。

個人的にノートしておくべきと思った具体的記述は無し。

本当に、何にも書くことが無い・・・・・。

コンクェストの伝記のほうが面白いが、初心者はまず本書を読んだ方がいいか。

まあ普通です。

2016年10月29日

プラトン 『饗宴』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

結局これを読まないわけにはいかないんでしょうねえ・・・・・。

主要著作の中では一番読む気がしないのだが、新訳でもあることだし、この版を手に取った。

ペロポネソス戦争中の前416年、ソクラテスが参加した宴席が舞台として設定されている。

出席者が愛を司るエロス神を賛美する演説を重ねていくのだが、その中で、太古の人間は頭が二つ、手足がそれぞれ四本の二身同体の存在だった、しかし神々の怒りに触れ真っ二つにされた、それからかつての片割れを求めて、愛する人を求めるようになったのだ、という有名な寓話の語り手が、喜劇作家のアリストファネスであることは今回読んで初めて知った。

ただ、現実のアリストファネスは保守的な人物でソフィストとデマゴーグを徹底批判したが、なぜかソクラテスをその一員として辛辣に描くという、とんでもない誤解もしており、この作中の彼はプラトンの脚色が強い、と訳者は書いている。

これらの話に対して、ソクラテスは、エロスは美・正と醜・悪、また神々と人間の中間に位置する精霊であり、後者から前者への向上力をもたらすものだとする。

そしてその美しくよきものを永遠に保とうとして、子を成すことを通じて不死を達成しようとする。

これは肉体的な意味でだが、精神上の良き魂と徳を育み継承することについても言え、それがより尊いものである。

ここで酔っ払ったアルキビアデスが登場、ソクラテスの賛美を始める。

ソクラテスに心酔するようになったアルキビアデスが、当時の風習に従い、彼と少年愛の関係を結ぶ決心をしたが、ソクラテスはアルキビアデスの肉体的美しさには全く目もくれず自制したこと、その後戦場に市民の義務として出征した際、ソクラテスがいかに勇敢で忍耐強かったかが雄弁に語られる。

そして以下のような気持ちを述べる。

・・・・ぼくは、この人と一緒にいるときだけ、ある気分にとらわれる。ぼくがそんな気分にとらわれるなんて、思いもよらないだろう――誰かに対して自分を恥じるなんて。だが、ぼくはこの人に対してだけ、自分を恥ずかしいと感じるのだ。

ぼくにはよくわかっている。ぼくは、この人の命じることをやらなければならず、逆らうなんてできない。でも、この人のもとを離れると、ぼくは、大衆に賞賛されたいという誘惑に負けてしまうのだ。だから、ぼくはこの人から離れて、逃げる。しかし、この人の姿を見ると、かつて自分が認めたことを思い、わが身を恥じるのだ。

ぼくはしばしば、この人がこの世から消えてしまえばいいのにと考える。しかし、ぼくにはよくわかっているのだ。もし、本当にそうなったら、ぼくはいまよりずっと苦しむことになるだろう。だからぼくは、この人をどう取り扱ったらいいのかわからない。

こういう殊勝な考えを持ち続けていればよかったんですがねえ・・・・・。

この翌年、前415年アルキビアデスは無謀なシチリア遠征を煽動し、あるきっかけから祖国を裏切り、スパルタに投じる。

以後アテネは衰亡の一途を辿り、前404年ペロポネソス戦争に敗北。

アルキビアデスも同年暗殺。

前399年ソクラテスは裁判にかけられ刑死。

その背景として、ソクラテスがアルキビアデスやクリティアス(敗戦後、「三〇人政権」として暴政を敷いた人物)との親交を批判されており、プラトンはそれへの反論を行う必要があったという。

しかし本書について言えば、アルキビアデスを一方的に非難するようなものではない、とのこと。

 

 

思っていたよりもはるかに面白かった。

訳文は素晴らしくわかりやすいです。

それも面白く感じられた理由として大きいでしょう。

これだけ有名な著作を読まないわけにはいかないので、新しい訳の本書であっさり済ませましょう。

2016年10月25日

チョーサー 『カンタベリー物語』 (角川文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:06

岩波文庫で全3巻の全訳が出ている。

中身を見ると、読めないことはないかと感じるが、ボッカチオ『デカメロン』を抄訳で済ませているのに、これの全訳を読むのは、ちょっとバランスに欠けるかとも考えた。

それでいろいろ検索すると、昔角川文庫でこの抄訳が出ていたことを知る。

序章を含め9章を訳出し、200ページ弱の文庫本にまとめてある。

だから省略部分はかなり多いと思われるが、初心者が雰囲気を感じ取るだけなら、これくらいでいいでしょう。

末尾の解説含め、本書でどこにも抄訳であることを明言していないのは、少し気にかかるが。

内容は取り立てて言うことは無い。

14世紀イギリス、カンタベリに巡礼に向かう29人の、様々な職業・社会階層の人々が、道中の徒然にそれぞれ物語を披露する、という『デカメロン』とよく似た形式。

話の中身も、やや卑猥なところを含む滑稽譚で、似ている。

初心者でも十分読める難易度。

古典的書名を読了リストに追加できただけでも良かった。

2016年10月20日

小川了 編著 『セネガルとカーボベルデを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 16:38

「エリア・スタディーズ」というシリーズ名と「~を知るための○○章」というタイトルで、ものすごい数がこの出版社から出ている。

第一弾として、これを選ぶ。

セネガルは、アフリカ西端にある国。

首都はダカールという結構有名な都市。

主要民族はウォロフ人など。

国民の95パーセントがムスリムというイスラム国家だが、さほど厳格な戒律が施行されているわけでもない。

西は大西洋に面し、北はモーリタニア、東はマリ、南はギニアとギニア・ビサウに接する。

そして国の中を流れるガンビア川流域は、ガンビアという別の国家になっている。

型抜きされたみたいで、何とも妙な感じ。

セネガルが旧フランス領だったのに対し、ガンビアは旧イギリス領、英仏間の領土交換による併合や、独立後の国家統合が模索されたこともあるが、結局現状のままになっている。

1444年ポルトガル人が到達。

1659年フランスがサン・ルイに、1677年ゴレ島に拠点建設、ゴレ島は奴隷貿易の基点となる。

七年戦争で一時イギリスが奪取するが、アメリカ独立戦争で返還。

19世紀後半、第二帝政下、総督フェデルブが内陸部を平定、1886年カヨール王国のラット・ジョール王が仏軍により殺害、同世紀末には完全植民地化。

アフリカ黒人で初めてフランス国会議員になったブレーズ・シャーニュらの運動を経て、「アフリカの年」1960年に独立。

初代大統領はサンゴール。

この人名は憶えましょうか。

フランス語による著名な詩人であり、「ネグリチュード」(黒人性復権)運動の主唱者でもある。

新興独立国の多くの政治指導者が、急進的な内外政策に傾き、ソ連など東側諸国に接近したのに対し、サンゴールは穏健派として親仏親西側路線を貫いた。

ただし、内政では当時の主流思潮と言える「アフリカ社会主義」を唱え、「社会主義というよりも、未熟な資本主義を食いつぶす寄生的官僚主義の体制を生み出した」という、第三世界の国で非常によくあるパターンに陥ってしまったようだ。

サンゴールは1980年まで大統領の職にあったが、まあ他の国の惨状に比べれば、その業績はまだ肯定的に評価できる方か。

 

本書から読み取ることは、以上でいいでしょう。

アフリカの西端にあって、フランスの元植民地で、首都がダカールで、イスラム教国で、「独立の父」がサンゴールで、親西側路線を取った人物だった、とこれだけで十分。

 

次のカーボ・ヴェルデ。

セネガルの沖にある島国。

要は、国名はヴェルデ岬(「緑の岬」)のことで、それが島国なのに国名になった。

1460年ポルトガル人が到達した時点では無人島。

アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウと共に、アフリカで最後に残った植民地帝国であるポルトガル領の一部であり、1974年ポルトガル本国の反サラザール政権クーデタの後、1975年独立。

マルクシズムの影響の強い勢力が政権を握ったが、幸いさほど教条的政策は取らず、1990年後は一党独裁制は廃止され、平和的政権交代が実現しているようだ。

この国について憶えることは、地理的位置と、他のアフリカ諸国から遅れて、ポルトガルから70年代半ばに独立した、ということだけ。

 

 

歴史に関する章だけ集中して読み、後は軽く流していいでしょう。

通読する必要は必ずしもありません。

そこそこ役に立つ本ではあります。

2016年10月17日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー四世 第一部・第二部』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 04:47

この版では、一部・二部がそれぞれ一巻本になっているが、話は完全に繋がっているので一つの記事にした。

エドワード黒太子の子リチャード2世から王位を奪って、ランカスター朝を創始したのがいとこのヘンリ4世で、その簒奪行為に協力しつつも、やがて疎んじられたノーサンバランド伯パーシー家の反乱と鎮圧、ヘンリ4世の死去までを描いた史劇。

もっともヘンリ4世が主人公とは言いがたく、実質的にはその息子で皇太子のハル(ヘンリ)が物語の中心。

放蕩無頼の限りを尽くすドラ息子といった感じのハルが突如その英雄的資質を表わし、反乱を鎮定、父王死後ヘンリ5世として即位、後に百年戦争を再開して最も英国優位の情勢を作り出すことになる。

またこの作品では、ハルの取り巻きの一人で、道化じみた悪徳騎士フォールスタッフのキャラクターも極めて有名。

フォールスタッフらの毒舌・雑言の中に潜むウィットは、現代人が読んでも笑いを誘う。

権力の栄枯盛衰を背後から操る世論の問題というテーマが中心となっているように思える作品だが、その重苦しさを笑いで中和してくれている。

なかなか良い。

シェイクスピア史劇では、少なくとも『ヘンリー五世』よりは印象に残るし、『リチャード二世』と並んで良い。

 

「噂」登場、一面に舌の模様を描いた服をつけている。

さあ、耳を開いて聞きな、それがし、「噂」が大声で

しゃべろうってんだ、耳に蓋するわけにはいくまい?

日の昇る東のかたより日の沈む西の涯まで、

風を早馬に仕立てて乗りまわし、この地上に起こる

あらゆる出来事を伝えひろめるのがおれの役目だ。

悪口、中傷をひっきりなしにこの舌先にのせ、

それを世界各国のことばでしゃべりまくり、

人々の耳に偽情報を詰めこむのがおれの商売だ。

たとえばおれが天下泰平だと言うのは、かくれた敵意が

平和の微笑のかげに刃を秘めてこの世を傷つけてるときだ。

また、大きくふくれあがった世界の胎内から

いまにも暴虐な戦争が生み落とされると思わせ、

兵隊集めや防衛準備に狂奔させておいて、実は

なにごともなし、なんて騒ぎを起すのも、このおれ、

「噂」の仕業でなくてなんだ?「噂」とは

疑心暗鬼、揣摩憶測が吹き鳴らす笛だ、それも

穴をおさえて吹くだけでいとも簡単に音が出るので、

あっちへふらふらこっちへふらふらする大衆ってやつでも、

むやみに吹き立てることができるんだ。いや、いまさら

天下衆知のおれの実体をご説明する必要はなかったな、

あんたがたはおれの身内なんだから。・・・・・・

 

大司教

・・・・・・わが国民はいまやみずから選んだ王にいやけがさしている、

あまりにもむさぼるように愛したため食傷している。

うつろいやすい民衆の心を土台にして家を建てるものは、

ぐらついてあぶなっかしい住居に身をおくことになる。

ああ、愚かな大衆どもめ、おまえたちはかつて、

おまえたちの望みどおりボリングブルック[ヘンリ4世]が王座につく前は、

天を拍つ歓呼の声をもって彼に祝福を与えたものだった!

ところがいま、彼がおまえたちの望んだ栄光に包まれると、

なんという食い意地の汚さだ、もう彼に食い飽いて、

みずから胸をむかつかせて彼を吐き出そうとしている。

そう言えば、おまえたち野良犬は、その貪欲な胸から

故王リチャード二世を吐き出したくせに、いままた

その反吐の死体をもう一度食いたがり、捜し求めて

うるさく吠え立てている。こういう連中が信じられるか?

リチャード王在位中はその死を願っていたやつらが、

いま、その墓に熱い恋心を捧げているのだ。故王が、

世の賞賛を一身に集めたボリングブルックのあとに従い、

傲然とかまえたロンドン市中を溜息ながらに引きまわされた

あのとき、その頭上に汚物を投げつけたおまえたちが、

いま、「大地よ、あの王を返し、この王をのんでくれ!」

とわめいているのだ。人の心の、なんと呪わしいことか!

過去と未来は美しく見え、現在はもっとも醜いと思うのだ。

2016年10月1日

中野剛志 『レジーム・チェンジ  恐慌を突破する逆転の発想』 (NHK出版新書)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:30

2012年刊。

長年続くデフレ不況の中、リーマン・ショックと東日本大震災の直撃を受けた日本の現状を直視し、そこからの回復の道を示す本。

1930年代の典型的デフレ不況である世界恐慌の経験から、デフレだけは回避しなければならないというコンセンサスにも関わらず、日本は十数年間デフレに陥ってしまっている。

我々は、財政ではなく経済を健全化しなければならない。

そもそも1990年代からの、「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「自由化」「グローバル化」を内容とする新自由主義的構造改革の推進から、デフレは始まっている。

しかし、80年代初頭、レーガン米政権やサッチャー英政権が新自由主義的改革を断行したのは、悪性のインフレを収束させるために人為的にデフレを起こすことを目的にしたもの。

それに対し、日本はバブル崩壊でまさにデフレに転落しようかというときに、構造改革路線を採用してしまった。

ここで「政策レジーム」という概念を提示。

政府や中央銀行といった政策当局が実施する政策の大系を指す。

人々は個別の施策というよりはこの政策レジームに反応して行動し、政策レジームに反する施策には、それを例外と見なして反応せず、その施策は効果を発揮しない。

今求められているのはインフレ抑制を目指す「デフレ・レジーム」から、デフレ脱却を目指す「インフレ・レジーム」への転換である。

政策レジームが変わらない限り、「政策通」や「改革派」のエリートの活動はデフレを深刻化させるだけであり、政権交代すら無意味。

「問題を発生させたのと同じ考え方では、その問題を解決することはできない」(アインシュタイン)のである。

以下、本文の内容。

 

 

第一章、デフレのメカニズム。

デフレとは国民経済全体で「需要不足・供給過剰」の状態が続き、物価が持続的に下落する現象。

ハイパーインフレは貨幣価値が下落しお金の意味を失わせるので、その弊害は直感的にも明らかだが、デフレの悪影響もそれに勝るとも劣らない。

それは「債務デフレ」というメカニズムで説明され得る。

将来の貨幣価値上昇を見越して、企業は借り入れを減らし投資を抑制、消費者もローンを組むような大型支出を控えるようになる。

経済主体のこうした「予想」や「期待」に基づく行動によって、消費と投資は減少し、需要は縮小、それを受けてさらに供給過剰の将来予想が形成され、悪循環が続く。

通常の景気循環における不況と異なり、放置すればデフレはほぼ底無しに続く。

なお、原材料価格の上昇による「コスト・プッシュのインフレ」や消費税増税による物価上昇は貨幣現象だけ見ればインフレだが、実体経済での実情はデフレであり、実体面での「需要不足・供給過剰」の状態を直視すべきである。

デフレ経済下で賃金が下がっても、物価も下がるのなら問題ないと一部で思われているが、将来への悲観から「投資」という資本主義の根幹を成す行為が停滞してしまう。

また、供給が縮小するスピードより需要が縮小するスピードの方がはるかに速いので、自然にデフレが終息することはない。

製品の価格が即座に変化する一方、企業や労働者は長期的契約に基づいて経済活動を行っているし、「賃金の下方硬直性」と言われるように、人々は慣習的に形成された「公正賃金」以下の対価では働こうとはしない。

ここで、新自由主義的経済学者は、「労働市場の流動化」を行い、解雇条件緩和や「公正賃金」以下への賃下げを可能にすることを主張する。

だが他業種・他職種への転職コストの存在などにより労働市場の調整は、経済学者が想定するようには行われない。

それに職業という人生の根幹をなす部分を不安定化することは、人間の存在そのものを否定することに繋がる。

さらに労働者が労働力の供給者であると同時に需要の担い手である以上、雇用の不安定化は供給能力削減であると同時に消費需要の減退でもあり、結局需給バランス均衡には至らない。

そもそも、なぜデフレが発生するのか。

その最大のきっかけは、バブル崩壊による金融危機。

経済学者ミンスキーの研究によれば、それは個別的偶発的事情に基づくものではなく、資本主義経済システムに内在する欠陥によるもの。

好景気時には人々は将来に楽観的になる。

実物市場では「現在」得られる商品やサービスに対して支出を行うので、その取引は比較的確実だが、投融資という金融は「将来」の利益を問題にするため、どうしても「予想」や「期待」という主観的で不確実な要素が入り込む。

直近の好調な経済状況だけに動かされ、高リスクの投資が行われ、経済全体の債務比率が高まり、それが借金で手元資金を膨らませる「レバレッジ」と金融商品のイノベーションでさらに増幅されるが、そうした根拠無き熱狂がちょっとしたきっかけで反転し、「予想」や「期待」は一気に悲観的になり、金融市場は崩壊し、巨大な債務とデフレが発生する。

主流派経済学者は、市場を、「現在の利益」と「現在の支出」の取引であり、比較的安定している実物市場のイメージで捉え、それを安定的・自動均衡的なものとみなすが、ミンスキーは「将来の利益」と「現在の支出」の取引である金融市場は人々の主観によって激変する極めて不安定なものであるとする。

そして、19世紀後半の第二次産業革命以降、重工業が中心となった資本主義は金融市場無しには存続できず、それが機能しないデフレ不況は、(単なる市場経済ではない)資本主義の心肺停止状態とすら言える。

金融面だけでなく、実体経済でもデフレ圧力を加える要因はある。

成熟経済化による消費や投資の飽和、技術進歩や生産性向上による(正常なインフレ下なら経済成長の要因となるはずの)供給能力向上、コスト・プッシュ・インフレ、政情不安・社会保障制度不備による将来への悲観論、グローバル化がもたらす労働条件の「底辺への競争」、株主の利益を最重視し偽りの「トリクル・ダウン」論で富裕層擁護を正当化し労働分配率を押し下げる金融資本主義の跋扈、等々。

これらの要因が日本と世界各国を襲っている。

 

 

第二章、デフレがもたらす恐るべき弊害。

まず第一に失業の増加。

これは経済的困窮以上に人間性に深刻なダメージを与え、社会不安の最大の原因ともなる。

人々に効用をもたらすのは消費であり、労働は苦痛をもたらすだけという経済学の教科書的理解は誤りである。

ネオリベ的経済学者がよく主張する「非効率部門の淘汰」は、企業倒産と失業者増加を人為的に促進しようとするのだから、その反道徳的姿勢は明らかだが、道義面をひとまず措き、経済的観点から見てもその主張は誤りである。

非効率的部門の淘汰はさらなる供給過剰をもたらし、失業した労働者は同時に消費者でもあるのだから需要不足は加速し、需給ギャップはさらに拡大する。

非効率的な企業や人材が多く存在するから、国民経済全体が非効率なのではなく、デフレだから非効率なのです。言い換えれば、企業や労働者が効率的であるかどうかは、彼らの生産能力が高いか否かではなく、十分な需要があるか否かによって決まるというわけです。「非効率部門を淘汰せよ」と言う論者は、原因と結果を取り違えているのです。

小泉政権による不良債権処理も、輸出主導による一時的景気回復で不良債権が減ったのであって、不良債権が減ったから景気が回復したのではない、と評されている。

デフレは短期的に国民経済を非効率化するだけでなく、長期的には供給能力の破壊を通じ潜在的成長率と国際競争力を低下させ、「デフレ→通貨高→デフレ」の悪循環をもたらし、寡占・独占状態の業種を増やし経済構造を硬直化させてしまう。

さらに将来のための投資も阻害する。

投資は現在においては「需要」だが、将来においては「供給」であるという、異時点の経済行動である。

ここで重要な論点として、著者は、これまで批判してきた新自由主義的「右派」経済学者だけでなく、リベラル・左翼的な「需要抑制」「低成長(ゼロ成長)容認」論も批判する。

確かに成熟経済において無理に消費を拡大する必要は無いが、インフラ・教育・環境・文化の維持継承と低成長論者が望むエコロジカルで幸福な経済と社会のためには、様々な将来への投資は絶対に必要である、とする。

デフレによる将来悲観は少子高齢化も加速するが、実は将来の少子高齢化社会においては労働力不足からインフレになると予想される。

それから著者の予想する日本の将来は、あくまで暗い。

デフレによる供給力破壊と少子高齢化が進行、将来の供給力不足を解消するために必要な投資は行われず。

おそらくいずれかの時点でデフレは終息するだろうが、その後には慢性的な悪性のインフレが起こると予想される。

経済学者や経済政策担当者の多くは、特にわが国においては、デフレ以上にインフレを警戒する傾向が強くあります。彼らは、デフレ脱却のための財政出動や金融緩和といった議論に対しては、「それらはインフレを引き起こす懸念がある」と言って抵抗します。しかし、デフレの放置は、これまで述べてきたような経路をたどって、長期的には、低成長社会と少子高齢化をもたらし、そして彼らが最も恐れる慢性的・構造的なインフレを発生させる可能性すらあるのです。

デフレは圧倒的多数の国民には耐え難い苦痛をもたらすが、債権者とすでに資産を築いた富裕層、輸出志向の大企業にとっては有利である。

もう完全に良心を捨てて、自分の富を権力に転化してくれるデフレを続けることを念願し、情報産業をカネで操って実質的にかなりの程度動かしている富裕層は間違いなく存在しているでしょう。

国内での様々な格差が拡大するだけでなく、国際社会でも外需獲得競争、失業の輸出、近隣窮乏化政策をめぐって国家間対立が激化、全体主義が台頭する。

その1930年代の歴史が21世紀に繰り返されるのではないか、と著者の懸念は深い。

 

 

第三章、デフレ・レジームの致命的錯誤。

デフレ・レジームとは新自由主義的改革である。

「小さな政府」「健全財政」「規制緩和」「自由化」「民営化」「グローバル化」「金融引き締め」「労働市場の自由化(雇用の流動化)」「構造改革論」「効率市場仮説」「株主(金融)資本主義」「障壁なき自由貿易」「資本移動の自由化」、と並べていくと、心底うんざりするようなものがその内容。

1990年代からそれらを実施した日本は、改革が不十分だったからではなく、改革が進んだために、深刻なデフレ不況に落ち込むことになった。

その象徴が「公共投資悪玉論」。

自然災害が多く、高度成長期に大規模整備したインフラの更新が控える日本では他国より多くの公共投資が必要とされるのが当然なのに、国民の生命を守ることに直結する事業すらが削減される事態になってしまっている。

デフレ・レジームは、政治による経済への介入を、本来効率的安定的であるはずの市場の役割を歪めるものと考える反民主主義的なものである。

だが、第二次世界大戦後の西側諸国に生まれた「民主資本主義」は、大恐慌と左右の全体主義、世界大戦という悪夢を経て、ようやく資本主義を飼いならすことに成功した何より貴重な存在だったはずである。

それを捨て去り、経済運営を「非政治化」しようとするのは、実質的には「政治の無責任化」である。

(著者は保守派として民主主義を絶対視するような立場であるはずがないし、私も同様だが、全体主義との相対比較では民主主義を擁護するのが当然であるように、自由放任的資本主義に対してはその民主的統制を支持するべきであるのは言うまでもない。ただ根底では後者が前者の基盤になっていることを忘れるべきではないと思う。[資本主義自体が個人主義的平等主義を基盤にしているという意味で])

 

 

第四章、デフレ克服のための政策レジームについて。

第二次大戦後、(最近までは日本を不名誉な例外として)デフレが回避されてきた原因は、中央銀行の機能と政府支出の拡大によるもの。

国民経済がデフレに陥ると、企業や消費者にとって投資や消費を控えるのは間違いなく経済合理的行動だが、その結果デフレ不況は底無しに悪化し続ける。

政府が経済合理性を超越した「愚か者」になって支出を拡大する以外にデフレ脱却の道は無い。

公共事業に「無駄遣い」というレッテルが貼られて久しいが、需給ギャップを埋めるためには、たとえ「無駄な」事業でも有効であることに変わりない。

もちろん、誤解を避けるために言えば、無駄な施設を造るよりも、必要な施設を造った方が良いのは間違いありません。それでも、デフレ時には、穴を掘って埋めるだけの公共投資であっても、全くやらないよりははるかにましなのです。そのような一見非常識なことが正しくなるのは、デフレがそれだけ異常な経済状況だからなのです。

しかも、日本では防災対策、インフラ更新などいくらでも必要性の高い事業があり、これらはたとえインフレの状況下でも遂行しなければならないはずのものである。

ミンスキーは、本質的に不安定な資本主義の存続のためには、それを「再政治化」し、「大きな政府」と規制の拡大、社会保障の整備と所得格差の縮小が必要だ、と結論付けている。

財政出動は長期的には効果が無く、財政赤字を生み出すだけだとする主張があるが、日本経済は1980年代後半好景気でインフレを懸念すべき時に米国からの内需拡大要求の圧力に屈して公共投資を拡大させバブルを生み、90年代後半不景気でデフレを懸念すべき時に公共投資を減額させ金融緩和も不十分だった。

不況ならば財政出動を行い、好況ならば財政支出を削減するといった、政府の裁量による経済運営は「ケインズ主義」と呼ばれていますが、八〇年代以降、このケインズ主義はもはや有効ではないと言われてきました。九〇年代後半以降の構造改革論は、まさに「ケインズ主義的な財政政策では景気回復はできない」という信念に基づいていました。しかし、実際には、日本が長期の不況に陥ったのは、ケインズ主義が無効だからではなく、ケインズ主義とは逆のことを二度もやったからだったのです。

そのケインズ主義の「原資」は、増税ではなく国債発行で賄うべき。

増税の場合、民間の可処分所得から強制的に吸い上げる形になるので、そのデフレ効果によって、財政出動の効果が相殺されてしまう。

国債の方が、滞留する民間貯蓄からスムーズに資金を吸い上げることができる。

このような対策を説くと、必ず「日本の国が借金漬けになり、財政破綻してしまう」という反対論が生まれる。

これは、本来政府による所得再分配に賛成して当然のはずの左翼・リベラル系の人々すら、新自由主義的構造改革に反対できなくなる最大の理由と思われるので、極めて重要である。

しかし、著者はデフレ下の日本の財政破綻説は全く杞憂だと強調する。

個人や企業の債務と国債は全く性質が異なる。

政府は通貨発行権という特権を持っているので、最終的には自国通貨を発行して返済に充てることができる。

これまで財政破綻した国家は自国通貨ではなく外貨建てで国債を発行して返済不能になった国である。

そのため、対GDP比で、日本よりはるかに政府債務の割合が小さかった国が破綻している。

ただし、これは通貨発行権を持つ中央政府の場合で、地方自治体はその特権を持っていないので、財政破綻の危険ははるかに高い。

その意味で、「地方分権」「地域主権」の掛け声も、地方自治体が中央政府よりも財政への懸念から支出拡大に慎重にならざるを得ないことを考えると、デフレ下では不適切なものである。

日本は世界最大の貯蓄超過国であり、国債がほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化され、経常黒字・債権国であることを考慮すれば、財政破綻説には根拠が無い。

国債乱発によるハイパーインフレも、戦争等の異常事態で供給力が破壊された時にのみ起こるもので、今の日本では考えられない。

日本国債の大部分が日本国内で消費される「内国債」である以上、国債発行を拡大しても富は日本国内を還流するだけである。

公共投資や政府債務の是非は、その絶対額ではなく、それが国民経済に与える影響によって判断すべきであるとする「機能的財政論」に著者は立ち、収支均衡を金科玉条視する「健全財政論」を強く否定する。

経済学者の中には、財政出動ではなく「インフレ・ターゲティング」という金融政策を主張する者も多い。

しかし、インフレ目標の提示だけで人々のデフレ・マインドが転換するとは考えがたく、ルーズヴェルト米政権や日本の高橋是清蔵相などの成功者も、金本位制離脱だけでなく、財政出動と政権交代が与えるインパクトなど、あらゆる手段を講じてデフレを脱却している。

さらに金融緩和は、国内の投資や消費を増やさず、国内外の投機マネーを活発化させ、コスト・プッシュ・インフレや新興国バブル(とその後に続くデフレ深刻化)を引き起こすし、中央銀行が物価の動向だけに着目する経済運営自体がデフレ・レジームであり、グリーンスパンFRB(連邦準備銀行)議長はそれで資産バブルを見落とし、リーマン・ショックを招くことになった。

 

 

 

第五章、議論のまとめとあるべき資本主義の姿。

主にルーズヴェルト政権下で、1934~48年FRB議長となったマリナー・エクルズの功績を紹介。

本書の内容は、この四半世紀、日本で「改革」と称されてきたものの、ほぼ逆を主張するものである。

「大きな政府」による財政出動と規制強化、投機的活動の自由制限、インフラ整備、社会保障拡充、労働者保護等々。

新自由主義的構造改革によって、雇用が不安定化し、非正規雇用者が激増し、勤労所得が減少し続け、様々な社会保障制度が後退し、国民生活が困窮の一途をたどっているのに、そこから生まれた閉塞感がメディアの煽動でさらなるネオリベ的「改革」支持に向かわされ、さらに事態が悪化する、という目も眩むような欺瞞が20年以上、終わることなく続いている。

そんなものに易々と騙される我々国民は、もう馬鹿としか言いようがない。

私自身は本書の主張全てに賛成である。

だが著者の構想がまとまった政治勢力の綱領となり、それが政策的に実現されるかどうかを考えると、答えは絶望的と言うしかない。

このままごく一部の成金的富裕層の実質的支配下に置かれながら、ますます荒廃する一方の社会で暮らしつつ、その流れに積極的に加担することだけは避け、著者のように流れに抗する真の識者を陰ながら応援しつつ、国が滅びるのを静かに待つ、ということしか、多少ともまともな人間の生き方は無いでしょう。

 

 

『国力とは何か』『グローバル恐慌の真相』『保守とは何だろうか』と中野氏の本を紹介してきたが、この方の著作には全くハズレが無い。

どれも強くお薦め出来るものばかりです。

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