万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年8月27日

中澤俊輔 『治安維持法  なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:37

讒謗律・新聞紙条例(1875年)、集会条例(1880年)、保安条例(1887年)、治安警察法(1900年)などが知られる近代日本の公安立法の中で、最大級の悪名を着せられている治安維持法(1925年)の具体的研究。

1922年提出の過激社会運動取締法案が、その「宣伝」取締法としての性格から、言論弾圧の懸念を生み、不成立。

1923年虎ノ門事件、25年日ソ基本条約を経て、加藤高明護憲三派内閣で治安維持法成立。

日ソ交渉で、ソ連は相互の破壊的宣伝禁止を政府間では認めたものの、コミンテルンはソ連政府とは直接無関係との遁辞を吐いているが、これは正常な国際関係のルールが通用しない国家であることを自ら示したとしか言いようが無いと思える。

言論の自由を重視する憲政会の影響で、治安維持法から「宣伝」罪が除かれ、「結社」取締法として成立、「国体変革」と「私有財産制否認」を主張する結社の組織・加入を罰する。

なお原案では「国体」だけでなく、「政体」が護持の対象とされていたが、例えば貴族院・枢密院改革の主張がそれに抵触するとされる恐れがあることなどから削除。

しかし「政体」の文言を代議政体・衆議院と解して存置しておけば、すぐ後に来た政党政治の危機において極右勢力の攻撃を防ぐ上で、むしろ役立ったのではないかとの見解もある。

1928年三・一五事件での検挙者の多数が、共産党自体には加入しておらず、「結社」取締法としての治安維持法では対応できず。

外郭団体を取り締まる為に、同年田中義一内閣下で治安維持法改正。

この改正では、従来最高刑が死刑となったことが注目されてきたが、著者は「目的遂行」罪が導入されたことの方を重視し、これが以後拡大解釈されて猛威を振るうことになった。

(日本本国では、治安維持法違反のみを理由とした死刑執行例はゼロ。ただし取り調べ途中の拷問死や、植民地朝鮮での死刑執行例はあり。)

1930年代に入り、激しい弾圧とそれに伴う転向で共産党はほぼ壊滅、代わりに極右国家主義の脅威が台頭、その右翼テロを罰する為の改正が意図されたが実現せず、政党政治は没落。

41年支援結社・準備結社への罰則、予防拘禁の導入を内容とする二度目の改正実施。

新興宗教団体、植民地独立運動、反戦運動などにも適用範囲は広げられていったが、一方近衛新体制運動・大政翼賛会による総力戦体制整備が、「私有財産制否定」「幕府的存在による国体毀損」という観点から、ブレーキがかけられるという一面もあった。

 

著者は最後に以下のように述べる。

個人の言論の自由を不当に抑圧するような結社はやはり規制されてしかるべきである。

しかし、その為に政党は共産主義思想よりもまず不法な暴力(誹謗中傷という言論の暴力も含む)を取り締まるべきだったのであり、当然左翼だけでなく右翼のテロもその対象となる。

また、日本の命運をかけるには「国体」という言葉は漠然とし過ぎており、もっと真摯に言葉を選ぶべきであった、と。

 

この著者の見解はごく穏当なものだとは思うが、私としては本書の冒頭に記されている、過去に清水幾太郎が述べたような治安維持法肯定論に近い感想を抱いてしまう。

以下、あくまで個人的感想です。

私は、無制約の自由放任的資本主義がどれほどひどく社会を荒廃させ、悲惨な状況を作りだすかについては理解しているつもりです(エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』)。

それを防ぐ為、政府による規制と介入は絶対に必要である(中野剛志『保守とは何だろうか』)。

しかし、共産主義という狂信が勝利し、体制として確立した場合、どれほどおぞましい地獄の沙汰がもたらされるかは、20世紀の歴史が嫌と言うほど証明している。

例えば、小林多喜二のような人が持っていた超人的な勇気と自己犠牲の精神を、私も認めないわけではない。

だが、彼が拷問死していたのとまさに同時期のソ連では、国家の政策によって人為的に数百万人の農民が餓死させられていたし、その後に狂気の大粛清が始まり近現代史上最悪の暗黒政治と大量虐殺が訪れる(戦前昭和期についてのメモ その2)。

もちろん多喜二の死は日本国家にとっての不名誉であり、無かった方がよかった。

しかし、以上の対比は歴然とした事実である。

にも関わらず、いかに多くの知識人と大衆がその狂信に魅せられ、支持者となったかに驚かされる。

共産主義に対しては、その不法な暴力行為のみを取り締まり、「思想には思想をもって戦う」方針で言論・結社の自由は制限すべきではなかったというのが、現在の平均的意見かもしれません。

しかし、私には、完全な言論の自由を保証すれば、極端で過激な思想は自然に淘汰され、穏当な多数意見が予定調和的に形成されるという、自由民主主義の「神話」が信じられない。

多数派世論が完全に間違った偏向意見を支持して破滅的な結果をもたらし、世論が依存する基盤的自由自体が崩壊するという、民主主義の自己破壊は、実は歴史上しばしば見られることではないか。

共産主義国家の底無しの残忍さ・劣悪さが、戦後数十年間の左翼偏向世論でほとんど無視されていたことを思うと、戦前の「国家による闇雲な弾圧」にも一定の効果はあったと考えざるを得ない。

それが様々な弊害を生んだのは事実にしても、国家にそのような過剰反応をさせた民衆の側の責任は間違いなくあるはずである。

そして、治安維持法がほぼ無力だった右翼テロと軍部の暴走の原因となった排外的国粋主義も、民衆世論の中の急進主義・現状変革志向・革新熱・破壊衝動・攻撃欲の現われという点では、共産主義と同じものである(井上寿一『山県有朋と明治国家』福田和也 『昭和天皇 第四部』)。

そうした世論の根本的問題性を避けて、治安維持法を諸悪の根源として扱うのはやはり当を失していると思える。

 

 

以上は、あくまで私の個人的感想です。

本書の内容とはほぼ関係ありませんので、「何言ってやがんだ、馬鹿野郎」と思われた方も、本書を避ける必要はございません。

いろいろ考える材料を提供してくれる良書として推薦します。

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2018年7月29日

外山三郎 『図説太平洋海戦史 全3巻』 (光人社)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:59

初めに言っときますが、通読はしていません。

極めて粗く飛ばし読みしただけ。

日米戦争の主要海戦を、多くの図版と共に叙述した本だが、とてもじゃないが、作戦上のチマチマ細かな記述を全て読んでいられない。

事実関係の記述よりも、著者による考察と評価に重点を置いて、目を通した。

以下、要点をメモ。

 

 

真珠湾攻撃について。

もし第二撃を加えて、燃料および修理施設を破壊しておれば、ミッドウェーを含む以後の戦闘の結果が大きく変わっていた可能性があり、是非実行すべきではあったが、その責任は南雲忠一中将ら機動部隊指揮官よりも、明確な命令を断固として下しておかなかった後方の山本五十六大将ら連合艦隊司令部が負うべきであること。

 

 

珊瑚海海戦について。

日本側の損失が軽空母1隻で、他方米側が正規空母「レキシントン」を失ったことから、この海戦の勝者を日本とする見解があるが、ポートモレスビー攻略という戦略目標を達成できず、以後の作戦で日本軍が大きな被害を蒙ったことを考えれば、そうした見方は謬論である。

敗因としては、索敵の不備・失敗とそれを分析する艦隊司令部の情報処理能力不足、機動部隊の指揮不統一と上級指揮官の敢闘精神の欠如、「見敵必殺」の言葉の虜になり、不充分な偵察情報に基づき攻撃隊を発進させたような形式的部隊運用を挙げている。

そのうち、空母に相当の艦載機を残しながら、撤退を命令した南洋部隊指揮官井上成美中将について、基地航空隊を基幹とした「新海軍軍備論」の提唱者であることから、持論に自縛され、空母の脆弱性への過度の懸念から、不適切な命令を下したのではないかとされている。

 

 

ミッドウェー海戦について。

米側の大勝利の原因として幸運の要素が大きいことは間違いない。

燃料の限界に近付いていた米爆撃機隊が、引き返す直前に、まさに艦載機に補給中の日本空母を発見できたこと、米雷撃隊が先行して日本の零戦隊を低空に引き付けて上空がガラ空きだったこと、などは偶然の産物ではある。

しかし、空母の緊急集結、急速出撃という大局的作戦指導、ミッドウェー基地の存在という地理的利点を最大限活用したこと、日本艦隊発見後、極力距離を詰めた上で攻撃隊を発進させたことなどが、その幸運を引き寄せたことを見逃すべきではない。

日本側の敗因として、米側による暗号解読と作戦計画の察知、索敵の失敗、敵空母発見の報を受けて即座の攻撃隊発進を主張する山口多聞少将の意見具申を、米艦隊の位置を実際よりも遠くに誤認していた南雲忠一中将が退けたこと、などが挙げられるが、著者はいずれも決定的なものとは見ず。

以上のうち、「索敵の失敗」と言っても、偵察機搭乗員のミスは、通常想定すべきもので、その上で二段索敵など、より慎重かつ重厚な偵察を行うべきであった。

それを可能にする為に、偵察用水上機を搭載した巡洋艦の、機動部隊への随伴を増すべきであったのであり、この空母を護衛する直衛艦の不足こそが、ミッドウェー海戦の決定的敗因である、と著者は主張している。

またそれは、米戦艦群が真珠湾で壊滅し、主力艦同士の水上戦がほぼありえない状況下では、後方の主力艦隊から巡洋艦を引き抜き、機動部隊に編入することによって、当時の日本海軍にも充分可能な方策だった。

 

 

ガダルカナルをめぐる第二次ソロモン海戦および南太平洋海戦について。

第二次ソロモン海戦で、日本海軍が総力を挙げて支援した、陸軍の輸送船団が潰えた以上、この海戦後はガダルカナルを諦め、ラバウルのみを固守し、攻勢に出た米軍に出血戦を強いることが賢明だったが、残念ながら山本連合艦隊司令長官にもそこまでの明断は無かった。

南太平洋海戦では、日本側機動部隊の行動が全般的に周到で、パイロットが優秀さと勇敢さを発揮し、米側の基地航空機の活動が粗雑であったことにも助けられ、戦術的勝利は収めたが、日本軍は多数の熟練パイロットを失い、米軍が自らの航空威力圏内に撤退した為、戦果を拡大できず。

 

 

マリアナ沖海戦について。

ミッドウェーの戦訓による固定観念に囚われ、空母戦の優位は先制攻撃にのみあるとして採用された、長距離攻撃であるアウトレンジ戦法が、慎重な守勢戦術を採ったスプルーアンス大将率いる米艦隊の前に完膚なきまでに破綻したこと、米側の陽動作戦に引っかかり、基地航空隊を無意味に移動・消耗させ、機動部隊と基地航空隊の連携による集中攻撃という、わずかながらあった日本軍唯一の勝機を逃したことを指摘。

 

 

レイテ沖海戦について。

彼我の戦力差を考えれば完敗は当然だが、それでも劣弱な残存空母艦隊をおとりにして米空母を引き付け、戦艦部隊が米輸送艦隊に突入するという作戦は途中までは成功しかけている。

それが結局失敗したのは、各艦隊の連絡とタイミングの調整、敵軍艦ではなく輸送船団を目標とするという最重要作戦目的の徹底が欠けていたからだ、豊田副武司令長官が陣頭指揮に立たなかったことがそれを招いた、とされている。

 

 

 

そこそこ興味深い文章が散見されるので、ざっと目を通しておくのも良い。

戦史ものでは、清水政彦『零式艦上戦闘機』(新潮選書)と並んで薦める。

2018年7月6日

井上寿一 『戦前昭和の国家構想』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 00:08

社会主義(日本共産党・労農派マルクス主義者・合法無産政党)、議会主義(民政党)、農本主義(民間右翼)、国家社会主義(陸軍・革新官僚)という四つの国家構想の展開を通じて、関東大震災から敗戦までの戦前日本の政治と社会を概観した本。

章立ては以上の順番通りで、それできちんと時代順に叙述を成り立たせているのは、なかなか読ませる。

 

これら国家構想の興廃を決定したのは、指導的な上層部ではなく、あくまで広範な民衆世論である。

戦前日本の民主化は、想像以上に進行していたんだなと改めて感じた。

だから日本は結構だと言うつもりじゃないんです。

戦前日本の破局自体が、民主主義の帰結であることを誤魔化すべきではないと言いたいんです。

昭和戦前期の政治を「ファシズム」と定義するような、一昔前の硬直左翼の論調には、相当の違和感を感じていました。

ファシズム(右翼全体主義)は、伝統的・前近代的な制度と価値観が破壊された後の無秩序に置かれた民衆が狂乱状態で自発的・能動的に生み出すものであって、その意味で、かつての「天皇制ファシズム」という言葉は形容矛盾である。

その考えに変わりはないのだが、戦前日本の大衆は、天皇制という最後の非民主的な拘束要因すら払い除ける寸前だったのではないかと思わざるを得ない。

政党政治・華族・財界など既成制度への攻撃と現状革新志向に満ち満ちた世論が、戦前の危機の根底にあり、共産主義運動と右翼国粋主義運動は双方ともその根底要因の違った表われ方に過ぎないと思える(井上寿一『山県有朋と明治国家』)。

後者の中の、異様な形式的天皇中心主義と「一君万民思想」、「君側の奸」批判は、天皇制を正面から攻撃できなかった民衆の狂信的破壊衝動が見い出した捌け口ではなかったか。

(左翼思想が完全に崩壊し、イデオロギー的な天皇制批判が無効になった後、自称右翼の精神異常者が皇族への厚顔無恥な誹謗中傷を煽動している今の状況は不吉ではある。)

とにかく、全体主義と民主主義を相容れないものと考えること自体が根本的に誤謬であり、前者は後者の勝利から生まれたものだ。

戦前日本を「非民主的」だとして批判するのではなく、同時代の独ソ両国のような完全な全体主義国ではなくとも、アメリカでも見られたような民主主義の紊乱から生み出された〈ファシズム〉が跋扈する状況にあったとの認識が必要であると思える(三宅昭良『アメリカン・ファシズム』)。

 

 

読みやすいが、眼の冴える程の面白さは無く、内容は平均的出来。

良くも悪くもない。

通読に大した労力は要らないので、一読しておいてもいいでしょう。

2018年6月15日

宮城大蔵 『「海洋国家」日本の戦後史』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 03:18

2008年刊。

現在はちくま学芸文庫収録。

出た時から気付いてはいたが、今回ようやく通読。

このタイトルだと、どうしても高坂正堯氏の『海洋国家日本の構想』を思い出して、戦後日本外交全般を概観した本なのかなと予想してしまうが、本書の内容は戦後日本の(インドネシアを中心とする)対東南アジア外交を考察したもの。

書名と内容の乖離が激し過ぎるだろう、と昔は思っていたが、いざ通読してみるとそれほどでも無かった。

 

 

第一章、1955年バンドンでのアジア・アフリカ会議について。

インドネシア、インド、パキスタン、ビルマ、セイロンなど、「コロンボ・グループ」と呼ばれるアジアの中立主義的新興独立国が、東西冷戦が域内に及ぶことにより独立が脅かされることを懸念し、アジア・アフリカ会議を構想。

朝鮮戦争で東西対立の最前線と化していた南北朝鮮への招請は除外されたが、問題は中国と日本。

戦後間もなく始まった東南アジア・南アジアでの共産主義勢力の武装闘争に対する中国共産党の支援は、スターリン死後の緊張緩和期を迎えて一先ず終息しており、「平和五原則」発表など、中国の「友好による封じ込め」を目指すインドのネルーは中国の招請を主張。

これに対し、コロンボ・グループの中でも、インドへの対抗意識から東南アジア条約機構(SEATO)、中東条約機構(METO)という反共軍事同盟に加入していたパキスタンは親西側姿勢から日本も招請することを主張。

それを迎えた日本は、「対米自主」理念を持つ鳩山一郎首相が「アジア復帰」、「対米協調」路線の重光葵外相が「反共」を重視する思惑の違いを持ちながら、参加を受諾。

会議では「共産主義下の植民地主義」をも問題にすべきだとするパキスタン、セイロン、トルコ、フィリピンなど親西側諸国の主張もあり、紛糾したが、妥協によりバンドン宣言を採択。

 

 

第二章、対インドネシア賠償を契機とする戦後日本の「南進」について。

サンフランシスコ講和条約後も、東南アジア諸国の多くとは賠償交渉がまとまらず、対日講和が成立していなかった。

それが、1954年ビルマ、56年フィリピン、58年インドネシア、59年南ヴェトナムと順次決着を見る。

特に重要性を持ったのが、域内最大の大国インドネシア。

インドネシアは50年代末期、西イリアン併合とオランダ資本の接収による「独立完遂」を目指していたが、ジャワ島中心の中央集権化に反発から地方分立政府の動きがあり、スカルノ政権の急進性を敵視するアメリカはそれを秘かに後押ししていた。

しかし同時に、スカルノ政権が存続し続けた場合、その中ソへの接近も懸念された。

そこで岸政権下の日本が、自身の経済進出への足掛かりとインドネシアの東側陣営傾斜を防ぐ目的から、賠償交渉を妥結させる。

 

 

第三章、イギリスの東南アジアからの最終的撤退をめぐる軋轢。

イギリスが、1957年独立していたマラヤに、シンガポールと北ボルネオを併せて63年マレーシアを結成すると、スカルノはこれをイギリス植民地主義のインドネシア包囲策だとしてマレーシア対決政策を発動、逆にイギリスはスカルノがマレー系の周辺地域を併合して「大インドネシア」実現を目論んでいるのではないかと見なす。

日本は地域の安定性重視の立場からスカルノ寄りの調停を模索し、ヴェトナムへの本格的介入を考慮しつつあった米国は日英の中間的立場を取る。

 

 

第四章、1965年という戦後アジアの転換点について。

陸軍と共産党という不倶戴天の仇敵同士間の危うい均衡の上に立っていたスカルノは、堅実な経済建設を無視、中ソ対立後、第三世界の急進的民族主義を支援する中国と共闘し、それは「北京・ジャカルタ枢軸」とまで呼ばれる。

米国がついに北爆と南ヴェトナム派兵に踏み切り、それまでスカルノ政権に多大の援助を供与していた日本でもスカルノへの懐疑的見方が広まる中、驚天動地の九・三〇事件が勃発し、インドネシア共産党は壊滅、スカルノは実権を奪われ、陸軍主導のスハルト政権が成立。

同年日韓基本条約も成立、アジアは「独立」から「開発」の時代に移行する。

 

 

第五章、米中接近とアジア冷戦の溶解について。

米国はヴェトナム戦争介入と反戦反体制運動で、中国は革命外交敗北と文化大革命で国力と威信を低下させ、ソ連への懸念から両国は接近、アジア冷戦の中核であった米中対立は終焉する。

1971年劇的な米中接近によって、「脱植民地化から開発へ」というアジア情勢の推移が不可逆なものとなった。

 

 

最後のエピローグより以下の文章を引用。

「西洋の衝撃」を受け、そして呑み込まれたアジアは、数世紀にわたって西洋諸国による植民地支配の下におかれた。未来にわたって堅牢であるかに見えた植民地体制であったが、第二次世界大戦が始まると日本帝国の侵攻という「東からの衝撃」によってあっけなく突き崩された。日本帝国による短い支配とその崩壊を経た大戦後、アジアの歴史は音を立てて動きはじめる。植民地支配からの独立を希求するエネルギーがその主旋律であり、そのエネルギーの行方をめぐって冷戦と革命、戦乱と熱戦がアジアを覆った。

だが、独立を希求する脱植民地化のエネルギーは無限ではなかった。独立が果たされ、植民地支配が姿を消したとき、「独立」は、実質的な国造りという性質の異なる課題に道を譲ることになる。それが1960年代後半から70年代にかけて、「開発」の波がアジア一円を覆う前提となったのであった。

戦後、世界的には「冷戦」が維持される中にあって、アジアとは何よりも、革命や戦乱など、「冷戦」を突き破って政治的エネルギーが噴出する場として特徴づけられた。それがいつしか、「東アジアの奇跡」と称された経済成長を経て、世界で最も経済的活力にあふれた地域へと変貌していったのである。本書ではその転換点のひとつを、1965年に見定めた。それではこの戦後アジアの世界史的な変容の中で、日本とは果たしていかなる位置を占める存在だったのであろうか。

戦争賠償を足がかりとした「南進」に始まり、やがて韓国・中国と北東アジアへ地平を広げることになった戦後日本のアジア関与であったが、そこに一貫して通底していたのは、アジアに「非政治化」を求める強い志向性であった。冷戦やナショナリズムによって分断され、戦乱と貧困に沈むアジアの前途は、階級闘争による変革を目指す革命や、その封じ込めを主眼とする冷戦ではなく、地道な国造りとそれを通じた経済発展によってのみ切り開かれる。それが、そこに自らの前途を賭けた戦後日本の「世界観」であった。

開発と経済成長を重んじる路線へ導くことによって、植民地主義の残滓を一掃しようと「独立」の完遂をどこまでも追い求めるスカルノのような急進的な民族主義者、あるいは革命イデオロギーの純化に突き進む中国のような存在は「非政治化」され、その後には経済志向で覆われたアジアが出現するはずであった。

アジアが革命や戦乱で分断されているのであれば、そこに権力政治の舞台から「降りた」戦後日本が進出・関与しうる余地はない。経済志向によって覆われ、繋がれたアジアこそは、軍事や外交の領域においては制約と逡巡を抱える戦後日本が、広く存分に活動するための絶対条件なのであった。

アジアの「非政治化」を追求する日本は、インドネシアでスカルノ体制が崩壊したとき、そして鄧小平の下で中国が「改革開放」に踏み切ったとき、アジア秩序の要となるこの二つの国に惜しみなく援助を注ぎ込み、開発と経済成長の流れが不可逆的に根付くことを全力で後押しした。それが、インドネシアと中国が、日本の対外援助の累計で第一位と二位を占めていることの歴史的背景に他ならない。この二つの国が、かつて「北京=ジャカルタ枢軸」によってアジアにおける急進的左派勢力の中心を成したことを思い起こせば、日本の援助の政治的な意味は否応なしに浮かび上がる。それは日本にとって好ましいアジアの姿を描き出すための骨太な手段なのであった。

そこにはアメリカの冷戦戦略を補完する側面があったことも確かであったが、日本の視覚は、「反共か否か」よりも、「脱植民地化とその後の国造り」という、より「非政治的」な色合いを濃厚に帯びるものであった。

むろん、当時そこで開発や経済成長に対置されたのは、革命や冷戦、急進的なナショナリズムであった。民主化や人権といった「価値」は、スカルノ体制崩壊時のインドネシア共産党関係者に対する大量殺戮が結果として黙認されたように、開発と経済成長の実現に不可欠だと考えられた政治的「安定」を確保するためであれば、顧みられることはなかったともいえる。それら「開発の時代」が顧みず、置き去りにした「価値」は、水面下で伏流となり、やがて「開発の時代」が揺らいだとき、次の時代を性格づける力となって浮上することになる。

 

 

まあまあ面白い。

最初に書いたように、タイトルから想像されるより叙述テーマは絞られるが、インドネシアを中心とする当時の細々とした情勢描写が興味深い。

類書は吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』(講談社選書メチエ)かな。

本書と共にアジアの国際政治史参考書として手に取ってみても良い。

2018年3月18日

服部龍二 『中曽根康弘  「大統領的首相」の軌跡』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:02

1980年代、長期政権を樹立し、新保守主義・新自由主義的政策を推し進めた首相の伝記。

1918(大正七)年群馬県高崎市生まれ。

軍部の台頭に不安と反感を抱きながら育つ。

1938年東京帝大法学部に入学、近衛文麿ブレーンの政治学者矢部貞治らの教えを受ける。

41年内務省に入省、同時に海軍経理学校にも入校、海軍主計中尉として出征。

戦後首相の中で、実際に砲火を浴びる経験をしたのは中曽根だけだという。

敗戦後、アメリカへの反発を持つと同時に、自身が接した占領軍将校の紳士的態度に感銘を受けている。

47年旧民政党系の民主党から立候補、天皇制護持と修正資本主義を主張、反共的姿勢を鮮明にして初当選、28歳で全国最年少の議員となる。

同い年の田中角栄も、同時に民主党議員に当選している。

中曽根は、吉田茂の自由党を強く批判、一年生議員ながら民主党総裁に芦田均を推すことを強硬に主張、「青年将校」との綽名を得る。

片山哲社会党・民主党連立内閣成立、炭鉱国家管理法を可決したが、これに反対した幣原喜重郎や田中角栄は民主党を脱党、自由党に合流。

翌48年成立の芦田内閣も疑獄事件で辞職、同年吉田が首相に復帰、以後54年まで続く長期政権を築く。

野党時代の中曽根の政治的スタンスは、自由放任的資本主義の修正による社会的連帯の重視、自主防衛確立と対米独立性の回復、大戦のアジアに対する侵略的性格を認めた上での東京裁判への批判。

現在の私から見ると、どれも真っ当な姿勢と思える。

50年民主党が吉田内閣との連立模索派と反対派に分裂、中曽根を含む反対派は三木武夫の国民協同党と合同して国民民主党を結成、52年には改進党に改組。

51年中曽根は、国会でサンフランシスコ講和条約には賛成票を投じ、日米安全保障条約については棄権。

安保条約での内乱時の米軍出動、有効期限未設定、日米行政協定での米兵への裁判権欠如などを問題視、戦時中の無差別爆撃についてアメリカに賠償を請求すべきだとすら語ったという。

同じ選挙区の福田赳夫と激しい競争を経て、当選を重ねる(後には小渕恵三も同選挙区で当選)。

中台・南北朝鮮の分断、アジア地域の一体感の欠如などの現実から、アジア版のNATOである「太平洋同盟方式」の集団安全保障政策に懐疑的になり、日米安保を容認するようになる。

与野党折衝の末、原子力関連の予算を計上、日本の原子力開発の先鞭をつける役割を果たすことになる(ただし、原子力の平和利用について、当時は保守政党だけでなく、左右両派の社会党も賛成している)。

アメリカに続いて、当時珍しかった共産圏への歴訪も実行、ソ連の抑圧的で貧しい社会を実感した一方、中国ではやや明るい印象を受ける。

54年鳩山一郎を総裁として日本民主党結成、吉田自由党内閣は総辞職、鳩山政権成立。

55年左右社会党統一を受けて、保守合同が成り、自由民主党結成。

反吉田の立場を一貫させていた中曽根は保守二党論者だったが、やむを得ずこれに合流。

56年日ソ共同宣言、国会での演説で中曽根は北方領土問題などでソ連を批判、社共両党の抗議で演説は議事録から削除された。

自民党内の派閥は、官僚派が岸信介派、池田勇人派、佐藤栄作派、党人派が河野一郎派、大野伴睦派、石橋湛山派、三木・松村謙三派(この三木は武夫じゃなくて武吉の方か?)、中間の石井光次郎派など。

中曽根は、河野派に所属。

56年鳩山退陣後の総裁選で、河野派の方針に反して、岸信介ではなく、石橋湛山に投票、石橋内閣が成立。

戦時中の経験から、東条内閣の商工相という地位にあった岸への反感と、軍に抵抗していた石橋への共感による。

しかし、石橋は病気で辞任、57年岸内閣成立。

岸のアジア・アフリカ歴訪に途中まで同行、インドでネールと会談、エジプトではナセルに対しスエズ運河国有化とアスワンハイダム建設への支持を語っている。

河野派が反主流派に転じていた為、岸政権では冷遇、しかし59年内閣改造で中曽根は科学技術庁長官として初入閣を果たす。

60年安保改定にあっては、アイゼンハワー訪日中止を岸に進言。

池田内閣でも主流派は池田派・岸派・佐藤派が占め、中曽根は忍従の時を過ごす。

長年の持論となる首相公選運動も起こすが、これへの拘りは個人的にちょっと理解に苦しむところである。

池田からの禅譲を期待した河野だったが、後継には佐藤が選ばれ、64年東京オリンピック後、佐藤内閣成立。

ライバルの田中角栄は池田内閣で蔵相、佐藤内閣では自民党幹事長を務める。

台湾支持を続ける佐藤政権に対し、中曽根は中国承認を主張。

65年河野が急逝、翌年河野派を割って中曽根派を結成。

67年反主流派の態度を改め、運輸相として入閣、「風見鶏」との評を得る。

沖縄返還に備え、「核を作らず、持たず」の原則を表明することを検討した際、「持ち込ませず」を加えて非核三原則とすることを閣内で主張。

だが、この「持ち込ませず」は世論向けの政治的ゼスチャーであることは中曽根自身も承知しており、「核密約」の公表も視野に入れた大平正芳と違って、中曽根を含む歴代首相は建前論に終始した、と本書ではやや批判的に記されている。

日中国交正常化および米国の核の傘と第七艦隊以外の自主防衛を主張。

70年防衛庁長官に就任、改憲論を一時封印し、「非核中級国家」としての漸次的防衛力増強を志向。

71年佐藤内閣末期、自民党総務会長に就任、佐藤後継を争う、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根の「三角大福中」の一員と見なされる。

72年総裁選で田中を支持、田中内閣で通産相に就任。

対ソ関係を睨んだ日中国交正常化を支持、それが達成されると、日米経済摩擦と石油危機の対処に追われる。

74年金権問題で田中辞職、「椎名裁定」で三木武夫が総理就任、中曽根は幹事長に。

しかし中道左派色の強い三木政権で、国鉄スト、ロッキード事件と田中逮捕などの混乱が起こり、幹事長を辞任、76年内閣も倒れる。

後継の福田内閣で総務会長就任、内政では吉田政権以来の経済偏重を批判し、統治能力回復を主張するが、外交では、対東南アジア友好宣言である福田ドクトリンと、ソ連への対抗連携を暗に含んだ日中平和友好条約などの福田政権の路線を概ね支持。

78年田中派の支持を得て大平が総裁選勝利、大平内閣成立。

大平は中曽根を高く評価せず、そのスローガン「戦後の総決算」は(中曽根が後に唱えた「戦後政治の総決算」とは異なり)「戦前への郷愁」が含まれないものだったとの言葉が紹介されている。

財政再建問題で国会は紛糾、「四〇日抗争」と呼ばれる、主流派の大平派・田中派と反主流派の福田派・三木派・中曽根派の対立が深まり、80年野党提出の内閣不信任案が福田派と三木派の欠席によって可決されるという「ハプニング解散」となる。

ただし中曽根は不信任案には反対投票をしており、これが後に田中派の支持を受けることを可能にした。

最少派閥にも関わらず、「三角大福」の確執から距離を置いてフリーハンドを保てたこと、最大派閥田中派が(田中がオーナーの地位を譲らなかったので)総裁候補を出せないこと、やや若く、他派閥の領袖が交替する時期を活用できる見込みがあったことなどに助けられ、首相の地位に近づく。

大平は選挙期間中に急逝、初の衆参同日選挙で自民党は圧勝、大平派の鈴木善幸が総理就任。

鈴木内閣では行政管理庁長官という、やや格下の役職についたが、第二次臨時行政調査会(臨調)を設置、民間活力による「増税なき財政再建」を掲げ、新自由主義的改革を推進。

鈴木内閣は、対米防衛協力問題、対韓経済支援問題など外交で迷走。

82年11月中曽根内閣成立。

田中派が多数入閣、「田中曽根内閣」とマスコミに揶揄される。

トップダウン型の「大統領的首相」と「指令政治」を志向。

審議会、私的諮問委員会を多用、それに加わったブレーンには高坂正堯、佐藤誠三郎など私にも親しい名がある。

83年日本首相初の公式訪韓を実行、全斗煥大統領と会談し日韓関係を改善、続く訪米では「不沈空母」発言に代表される安全保障面での積極策を強調し、レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と言われる信頼関係を築く。

「戦後政治の総決算」を掲げつつ憲法改正は事実上封印していたが、軽武装経済立国路線の「吉田ドクトリン」を支持する保守本流派からは一部危惧の念が出る。

ウィリアムズバーグ・サミットでは、ソ連に中距離核戦力の全廃を求め、それが応じられなければ西側も対抗措置を取ることを主張、政治声明に取り入れられる。

戦後日本の首相が安全保障分野でリーダーシップを発揮した稀有な例である。

だが内政ではロッキード裁判での田中への有罪判決が下り、総選挙で大敗、自民党は過半数を割り、自民離党者で結成されていた新自由クラブとの連立に追い込まれる。

84年訪中、胡耀邦総書記とも緊密な信頼関係を築き、この年は二千年におよぶ日中関係史上最良の年と言われた。

「中国の存在がまだ巨大でなかったにせよ、日中提携と対米協調を両立できた指導者は、日本外交史をたどっても多くない。」と評されているが、確かにその通りで、冷戦末期軍事力を拡大するソ連への対抗という課題が各国に共有された状況であり、なおかつ日本経済が全盛期を迎えていた故であっても、米欧および中韓などアジア諸国との関係をすべて緊密化した手腕はやはり高く評価すべきものであり、本書が述べるように戦後外交の頂点と言っても過言ではないと思われる。

85年田中派から竹下派が自立、田中も病に倒れ事実上失脚、竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の「ニューリーダー」が台頭する中、「三角大福中」の最後に登板した中曽根が政治的フリーハンドを得て、極めて有利な立場を占める。

同年プラザ合意、貿易不均衡解消の為、米国の圧力で円高ドル安に向け先進五ヵ国が協調介入。

このプラザ合意がバブル経済の発生と崩壊、その後の長期不況の原因となったとよく批判されるが、後年中曽根はプラザ合意自体は当時の国際情勢からしてやらざるを得なかった、その後90年代の不況対策の不徹底が問題だったと反論している。

だが、本書では、プラザ合意への是非はともかく、87年中曽根政権末期にそれ以上のドル安を阻止する為、企業が円高不況を克服しつつあったのに6兆円規模の内需拡大策が組まれた、これが景気を過度に加熱させバブル経済への流れを強めた、また貿易黒字削減の為に私的懇談会が提出した「前川レポート」でも民活と規制緩和による内需拡大が意図されており、やはり中曽根政権の経済政策とバブルの発生は無関係とは言えない、とされており、常識的に見てやはりそう言わざるを得ないでしょう。

85年終戦の日、靖国神社への参拝を、首相としての公式参拝であると明言して実行したが、対中関係は悪化、翌年からは参拝自粛、結果として公式参拝にこだわった為に、靖国問題が内政での政教分離と憲法問題を超えて国際政治とリンクするきっかけになってしまった、と評されている。

85年電電公社がNTTに、専売公社がJTに民営化され、86年国鉄分割民営化法案が成立、87年JR発足。

86年東京サミット開催、同年衆参同日選挙で自民党が300議席越えの圧勝、新自由クラブを吸収、総裁任期の一年延長決定。

防衛費GNP1%枠を撤廃するが、大型間接税導入には失敗。

87年退任、後継指名を一任され、竹下登を選択。

竹下内閣で念願の消費税が導入されるが、リクルート事件が発覚し、自身も強い批判に晒される。

しかし、その後も国内外で活発に活動、97年大勲位菊花大綬章を受章、生前にこれを受けた戦後の首相は吉田、佐藤と中曽根だけで、以後「大勲位」とやや揶揄的に呼ばれるようになる。

2003年に年齢制限によって小泉内閣から自民党公認を得られず、議員引退。

2011年東日本大震災での菅民主党内閣の対応を批判、しかし原発事故を受けて、かつて自身が原子力開発の旗振り役だったことへの反省の弁も述べる。

本書刊行時の2015年、そしてこの記事を書いている現在も未だ存命。

世界的に見ても、主要政治家では文字通り最長老というべき存在。

本書を通読して、佐藤退陣以後、二年ごとの短命政権が続いた70年代を経て、久しぶりの長期政権を築いた保守政権・自民党政治中興の祖という印象を再確認した。

冷戦末期、ソ連が軍拡と膨張主義の傾向を露わにしていた以上、日米同盟強化と防衛力増強という政策は首肯できるものだ。

三公社民営化に象徴される新自由主義的経済政策も、この80年代中盤の時点では、まだしも日本の国益と国民経済の発展に役立つ範囲に留まっていたと言うことができよう。

外交・防衛政策では、自主防衛および「常時駐留なき安保」に半歩でも踏み出す行動が見られなかったことが残念だが、ソ連の脅威とアメリカの対日警戒、さらに国内で自衛力の保持にすら反対する左翼・革新勢力の空想的平和主義という三者の板挟みとなっていた状況からすれば、それは無いものねだりと言うべきなんでしょう。

内政・経済面では、バブルを煽るような民間活力促進・規制緩和路線ではなく、官民共同で社会資本を着実に整備する形での内需拡大政策もあり得たのではないかと思えるし、これには上記の自主防衛政策よりも実現性があったはずだが、まあそれもあえて問題視しないことにしましょう。

今振り返っても、中曽根政権を肯定的に評価することは十分可能である。

そして、1990年代、自民党内において、改憲志向でタカ派的な旧中曽根派と清和会(旧福田派)を、ハト派的な保守本流よりも、私は常に高く評価していました。

しかし、21世紀になり、中曽根政権の劣化コピーのような、清和会主導の小泉政権および第二次安倍政権が、対米従属と新自由主義的政策によって、日本の国益と国民経済を害し続けているのを見るとき、その源流とも言える中曽根政権に対しても、かつてのような礼賛的姿勢は取れないなと感じ始めている今日この頃です。

 

 

読みやすい。

煩瑣でもなく、簡略過ぎず、ちょうどいいレベルの密度で安定した叙述が続く。

内容はしっかりしているし、叙述範囲の偏りもなく、著者の史的評価にも違和感は感じない。

同じ著者の『広田弘毅』および戦後政治家の伝記として福永文夫『大平正芳』と並んで、良書として評価できる。

2018年1月29日

千葉功 『桂太郎  外に帝国主義、内に立憲主義』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:04

最長の首相在任記録を持つ元老の伝記。

1848年長州藩の上士の家に生まれる。

他の元老より、半世代ほど年下だが、戊辰戦争従軍に辛うじて間に合う。

二度のドイツ留学で近代軍制整備と健全な政軍関係確立の必要を確信し、山県有朋の忠実な配下となり、1886年「明治十九年の陸軍紛議」を経て、陸軍主流派を形成。

同輩に比して出世は遅れ気味で、一時、名古屋の第三師団長に左遷されるが、日清戦争出征を経て、台湾総督に就任、1898年第三次伊藤博文内閣で念願の陸相就任。

続く第一次大隈内閣、第二次山県内閣でも陸相、憲政党・憲政本党との交渉や義和団事変に対応。

1901年第一次桂内閣成立、日英同盟締結と日露戦争勝利は周知の事。

その過程で、伊藤・山県ら元老がロシアとの交渉に固執した一方、桂や小村寿太郎らが最初から日英同盟樹立を目指していたように語られることがあるが、これは自らの功績を強調したい桂の自伝の記述からくる偏った見方だとのこと。

日露戦後は政友会との「桂園体制」を確立、苦手の財政問題への見識を深め、「国家財政統合者」としての存在感を強める。

1908年第二次内閣を組織、高平・ルート協定、第二次日露協商、第三次日英同盟を締結し、多角的同盟・協商網を形成し、米英との新通商航海条約締結で不平等条約を完全に改正することに成功したが、日韓併合と大逆事件の1910年という明治の暗い年もその任期中であった。

大正改元後、一時内大臣となったが、1912年第三次内閣を組織、政友会との「桂園体制」破棄を決意、世論の不評の中、後藤新平らを支持で、衆議院・貴族院・官僚を横断し、一党優位性を前提とする「立憲統一党」構想を掲げるが、立憲国民党の大石正巳・河野広中・片岡直温ら反犬養派と中央倶楽部のみが参集、政友会の切り崩しには失敗し、貴族院も山県と配下の平田東助の影響で新党には参加せず、結局「立憲同志会」として結党準備が行われる。

しかし、外交官の加藤高明、大蔵官僚の若槻礼次郎、浜口雄幸など桂系官僚が加わった立憲同志会は、伊藤が結成した立憲政友会に続き、元老級の藩閥政治家と民党が結合した縦断政党として二大政党の一翼を担うことになる。

1913年第一次護憲運動によって辞任、同年死去、立憲同志会の正式結党はその死後である。

 

その生涯を見ると、甲申事変で強硬論を吐いたり、日清戦争時の独断的行動などの危うさが一部にあるものの、全般的には安定感がある。

(日露講和交渉で桂が賠償金に固執したという説は正確ではないとされている。)

軍人としてそのキャリアを出発させながら、軍部の個別的利害に囚われず、第三次内閣時には陸海相の文官制すら視野に入れていたという。

日露戦争後、軍拡と減税の双方に反対して、断固として実行した緊縮財政も、当時の状況下では必要なものだった、とひとまず理解は出来る。

(韓国併合と大逆事件については、いろいろ考慮しなければならないことが多いので、判断は留保します。)

そして、桂がその人生最期の時期に結党を志した立憲同志会は、本書副題の「外に帝国主義、内に立憲主義」の言葉通り、第二次大隈内閣の加藤高明外相による「対華二十一ヵ条要求」のような強硬外交を示した時期もあったが、その後幣原外交の採用によって著しく穏健化し、開明的な伊藤が結成した政友会が、昭和に入ると、過激で偏狭な民衆世論に迎合して極端に右傾化した一方、同志会から生まれた憲政会および立憲民政党は国際協調主義と議会政治の旗を守り続けた。

(ただ惜しむらくは、民政党の緊縮財政へのこだわりは、同党のみならず戦前日本の運命を誤らせた、極めて大きな錯誤だったと思われる。)

日露戦争という明治日本最大の国難を乗り切ったこと、機能不全に陥った政友会に替わる、リベラルな対抗政党を(意図せずに、かもしれないが)準備したことが、桂の最大の功績か。

 

 

伝記としては普通。

手堅いが、特筆すべき点も無い。

読みやすくはあるし、悪くはないです。

2018年1月9日

福田和也 『昭和天皇  第七部 独立回復(完結篇)』 (文芸春秋)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:05

敗戦から講和条約締結まで。

この巻については、あれこれ書くのはやめておきます。

占領下のこともあって、あまり愉快ではない描写も多いが、かと言って陰惨一方の叙述でもない。

タイトル通り、このシリーズは1951年サンフランシスコ講和条約調印の時点で筆を置いている。

「このペースで昭和64年まで描いたら、一体何巻になるんだ?」と思っていたが、先帝の戦後の治世ほとんどを省略することで、結局全7巻で完結となりました。

全般的に見ると、このシリーズは、昭和天皇の詳細な伝記ではないし、通常の通史とも言えない。

以前も書いたと思いますが、極めて多くの人物に関する、断片的な情景の描写を積み重ねて余韻を残し、読者に考える余地を残す作品となっている。

著者の政治的立場と全く異なる考え方を持つ人でも、その描写からいろいろ感じることがあると思われる。

ただ、後半部になると、その効果がやや薄れ、散漫な印象を与えるのも事実である。

叙述形式は取っ付きやすく、楽に読めるのは長所。

しかし、最初に感じたような深い興味と面白さは、後半部には大きく減じました。

まあ、機会があればお読み下さい。

決して損はしないと思います。

2017年10月6日

伊藤之雄 『原敬  外交と政治の理想  上・下』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:52

上・下巻合わせて900ページを超える大著。

「賊軍」扱いされた東北出身者で、薩長藩閥への怨念を強く持ち、それをバネにして日本初の本格的政党内閣を組織したが、「平民宰相」の美名とは裏腹に普通選挙導入に反対し、党利党略を目的とした「我田引鉄」の利益誘導政策によって政治腐敗を激化させ、遂にはそれに憤激した青年に暗殺された、功罪相半ばする政治家、というのが、平均的な原敬イメージでしょうか。

本書では、伊藤博文を継いで、日本国家の屋台骨を、本来ならば昭和初期まで担うはずであった大政治家として捉え、その生涯を叙述している。

 

 

原敬は、1856(安政三)年、盛岡(南部)藩の家老格の家に生まれる。

9歳の時に父が死去。

学んだ塾では成績優秀で、農民の子供にも親切に接していたという。

戊辰戦争で、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、敗北。

敗者の苦難を舐め、同様の境遇に陥った人々への共感を持つが、ここで原が薩長への根深い怨念を持ったとの定説は否定されている。

1871年上京して苦学し、フランス人宣教師の神学校に住み込み、フランス語を学び、洗礼を受けるが、そのキリスト教信仰は生涯続くようなものではなかったという。

1875年分家した際、自身を士族ではなく平民として登記。

翌年司法省法学校に入学するが、法学に飽き足らず、政治・外交の道を志し、退学。

1879年中江兆民の私塾に半年余り在籍。

当時の兆民は「自由民権運動最左派」のイメージとは異なり、民権の発達が即国家の富強に結びつくものではないこと、十数年先はともかく現在では民選議院は時期尚早であること、分別の無い欧化政策は有害であり儒教などの伝統的価値を近代的に錬成する漸進主義が必要であること、功利主義による無条件な自己利益の追求を否定し常に「公利」を重視する必要があること、などを説いており、原の問題意識とほとんどの点で一致し、その生涯を貫く考え方となった。

同年大隈重信系の郵便報知新聞社に入社。

明治十四年の政変前で、大隈はまだ藩閥政府の一員であり、その紙面は政府批判一色では無かった。

そこで原が主張したことは、藩閥政府の維新以来の近代化政策に一定の評価を与え、旧士族や富者の特権を批判しつつ、フランス革命のような急進的で過激な動きを退け、イギリスを理想とした穏健な議会政治を漸進的に実現すること。

十四年政変後、郵便報知新聞が下野した大隈派の牙城となると、原は退社。

原は「輿論[しっかりした責任感のある国民の意見]」と「世論[物事を十分に考えていない多くの人々の意向]」をはっきりと区別していた

・・・・・ここでは、大隈ら急進的な民権派や国会を有害なものと見る藩閥政府内の守旧派を除いた、伊藤ら藩閥政府首脳や原ら真の「自由民権」論者の意見を「輿論」としているのである。・・・・・なお原は、真の「自由民権」とは、より良い国作りのため、藩閥政府と「人民」、また「人民」同士で議論することで、国益や「勤王」にかなうものである、とした。また、イギリスの保守党を「自由民権」の政党ととらえたように、「自由民権」を保守層まで取り込む幅広い概念で理解したのである・・・・・原はこの約一九年後に伊藤博文の創立した政党、立憲政友会に入党する。原の理解では、この政党は「自由民権」思想の延長線上にある政党といえる。

1882年立憲帝政党系の大東日報社に入社し、同年朝鮮での壬午軍乱に関する取材で井上馨外務卿の知遇を得て、外務省に入省。

1883年清国駐在の天津領事に任命。

清仏戦争に対処する李鴻章とたびたび会談。

1884年甲申事変勃発。

伊藤・井上は日清間の衝突回避と朝鮮の近代化への誘導を、薩摩系は対清強硬論と朝鮮植民地化を志向。

清国に渡った伊藤は李鴻章と会談、天津条約を締結し、この時点での日清戦争は回避され、原は伊藤を情報収集と分析能力で大いに補佐した。

原は伊藤の知遇と評価を期待したが、憲法制定を最大の課題とする当時の伊藤はこの時点で原を腹心の一員に加えるつもりはなく、両者の間にややわだかまりが残る結果となった。

1885年にはパリ公使館書記官として赴任(同年内閣制度発足、伊藤が初代総理大臣に就任)。

フランス語能力を使って、国際法・政治・外交・歴史・哲学・文学など幅広い書物を学習。

オーストリアおよびドイツ公使として赴任してきた西園寺公望と出会うが、当初はやや疎遠な関係。

井上外相の条約改正交渉が、外国人判事任用をめぐる国内の反対で頓挫。

井上辞任後、1888年原が嫌う大隈重信が外相に就任すると帰任命令が出る。

帰国後、農商務省に入省。

黒田清隆内閣で農商務大臣となった井上の下で官制改革を推進するが、大審院への外国人判事任用を含む、大隈外相の条約改正交渉に反対して、井上は辞任。

大隈重信の条約改正交渉が、実は「超然主義」で有名な(悪名高い)黒田内閣時であることは要チェック。

その際、原も枢密院書記官への転身の話が出るが、書記官長の伊東巳代治と肌合いが悪く、流れる。

1889年大隈がテロで重傷を負い、黒田内閣総辞職、第1次山県有朋内閣成立、外相青木周蔵が条約改正交渉継続、新農商務相が病気で辞職した後、後任に陸奥宗光就任。

陸奥は和歌山藩出身、西南戦争で西郷軍に呼応する計画を立て一時投獄、その後伊藤・井上の計らいで駐米公使となり、西園寺とも親しい、伊藤系の有力者。

原は陸奥に心酔し、協力して省内改革を断行。

1890年第一回総選挙と帝国議会開会、陸奥は当選し衆議院に議席を持つ唯一の閣僚となり、自由党にも自派を入党させようとし、将来的には自身を首班とした政党内閣を目指す。

原は、帝国議会での混乱を見て、政府・民党双方に批判的見解を抱く。

1891年第1次松方正義内閣成立、大津事件勃発。

第二回総選挙で、品川弥次郎内相の大選挙干渉。

伊藤・陸奥は政党圧迫一辺倒の松方・品川を批判、陸奥は辞任し、原も農商務省を離れる。

1892年松方内閣総辞職、その際の組閣過程で元老という憲法上にない慣例的な機関が姿を現す。

第2次伊藤内閣成立、陸奥は外相に就任、原は通商局長となる。

陸奥外相は、関税自主権回復をしばし先延ばしし、独立国の主権に関わる治外法権の撤廃を最優先として条約交渉を再開、日清戦争直前に日英通商航海条約締結に成功する。

原は陸奥の側近として議会対策に挺身、民党の主張には是々非々で臨み、もし民党の反対で政権維持が困難なら、藩閥勢力は一時下野も辞さず、民党が失敗し、そこから学ぶのを待つべきだと主張。

この主張は1898年隈板内閣成立で実現したが、しかし、1893年の時点で政府と議会の妥協をもたらした「和協の詔勅」を原が批判したのは、条約改正問題や朝鮮半島問題で懸案の多い中、民党に政権を渡すことが極めて危険であることを見通しておらず、伊藤や陸奥の判断の方が的確だ、と著者は評している。

朝鮮半島問題では、まず防穀令事件に対処、条約上の権利に基づき断固とした態度を示し、朝鮮政府の対応に不信感を持ちつつ、日本側のいたずらに強圧的な交渉態度も批判、あくまで朝鮮国の近代化支援と安定化を推進することを日本の朝鮮半島政策の根本に置き、植民地化・保護国化を目指す議論には同意せず。

著者は、それがこの時点で伊藤・井上・陸奥ら政権中枢に共有された方針であったことを指摘している。

1894年日清戦争勃発、戦時には原は特別な任務を与えられることはなく、無聊をかこつ。

この時期、俊英陸奥の下には、原だけでなく、小村寿太郎、加藤高明も要職を務めていた。

原は1895年外務次官に就任。

三浦梧楼公使が主導した閔妃殺害事件に対処、武官である総督が独立的権限を揮う台湾統治体制を批判。

1896年朝鮮国公使に転任するが、同年第2次伊藤内閣総辞職、第2次松方内閣成立、進歩党と連携した為、外相はまたも大隈で、原は帰国。

同時期、板垣・林有造ら土佐派、岡崎邦輔・星亨ら陸奥側近派、河野広中ら東北派、松田正久ら九州派の対立が目立つ自由党に陸奥が入党し、指導者となることが見込まれるが、陸奥の健康状態は悪化し、1897年死去。

原は外務省を退き、『大阪毎日新聞』に入社、軍部大臣文官制、列強の国際規範を守った現実主義的外交、清国・朝鮮への蔑視を排した上での断固とした対応、日清戦争後の軍備拡張支持、外資導入による産業振興を主張し、部数の大幅拡張に成功。

1898年第3次伊藤内閣を経て、自由党・進歩党合同による憲政党結成と第1次大隈内閣成立、その倒壊と憲政党・憲政本党分裂後、第2次山県内閣成立という混乱の中、伊藤が山県・松方らの反対を押し切って旧自由党を主体とする新政党結成を志すと、原もその動きに合流。

伊藤の盟友であるが、組閣の機を逸して伊藤への複雑な思いを持つ井上との関係を修復、原を自派に取り込もうとする山県の誘いを拒絶。

1900年立憲政友会結成。

西園寺公望、原、星亨、松田正久、末松謙澄、林有造、金子賢太郎、渡辺国武、尾崎行雄(尾崎のみ憲政本党系)が参加。

原と関係が悪く、政党政治への理解も持たない伊東巳代治は参加せず。

同年成立の第4次伊藤内閣には当初入閣できなかったが、伊藤の後継者西園寺との関係を深め、逓信大臣として入閣、東北出身者初の大臣となる。

公債支弁事業に消極的な渡辺国武蔵相と対立、西園寺と連携した原は党内地位を向上させるが、1901年内閣総辞職、後任は山県系官僚を主体とする第1次桂太郎内閣。

同年金権政治家との悪評を受けていた星亨が暗殺、政友会は伊藤と後継者と見られた西園寺の下、原・松田・尾崎らで指導部を形成。

桂内閣への対決姿勢を強める原・松田に対し、国際情勢の緊迫化と不況の深刻化を見た伊藤・井上は倒閣に消極的。

この路線対立を利用した桂内閣の揺さぶりもあり、少なからぬ脱党者が出たが、1903年総裁が西園寺に交替し、原・松田は政友会の勢力保持に成功。

その間、1902年総選挙で原は盛岡市から出馬、大差で当選している。

ここで注目すべきは、選挙運動で、鉄道建設などの公共事業の利益誘導を自身の支持拡大の為に利用しなかったこと。

あくまで「公利」(公共性)重視の主張を貫いた。

また、この時期『大阪新報』という新聞の経営にも携わっているが、世論の大勢に媚びることなく、対露強硬論を唱えず、政府の冷静な外交努力を支持した為、過去の『大阪毎日新聞』とは異なり、大きな成果は収め得なかった、とある。

この辺は筋を通す政治家として、やはり評価に値すると思う。

原と政友会は、外交問題でも世論に迎合せず、日露開戦まで対露強硬論を主張せず。

日露戦争下、桂首相と政友会は政権授受密約を結んだうえで協力。

犬養毅、大石正巳ら憲政本党が賠償金抜きの講和条約反対運動を展開する中、政友会は同調せず。

講和直後、伊藤は、政友会への政権授受密約を承認していながら、山県系軍人ではあるが、山県から独立した立場を取る児玉源太郎を首班とする内閣を作ることを一時構想したが、原の反対で断念、1906年第1次西園寺公望内閣成立。

内相原敬、外相加藤高明(第4次伊藤内閣でも外相)、陸相寺内正毅、海相斎藤実、蔵相阪谷芳郎、法相松田正久、文相牧野伸顕という構成。

政友会からの入閣者は西園寺・原・松田のみで、これは通常「本格的政党内閣」とは見なされず。

原は内相として、地方自治拡充と警視庁改革などで、山県系官僚閥と対決。

輸送・交通の促進と効率化の観点から鉄道国有法を公布。

これらの政友会の鉄道政策も自党の支持を広げるための利益誘導を目的としたものではないとされている。

外相加藤高明が、鉄道国有化と陸軍主導の満州経営に反対して、わずか三カ月で辞任、政友会内での信望を無くし、政治家としての地位を低下させる。

西園寺には、線が細く指導力に乏しいイメージがあるが、伊藤など元老や桂との信頼関係もあり、健康に問題が無い時期の、この第1次内閣の頃はそれなりにリーダーシップを発揮、満州軍政廃止や陸軍軍備拡張問題を適切に処理した。

原は伊藤と肝胆相照らす仲となり、立憲政治と政党内閣の理想を掲げ、山県閥と対立、台湾・満鉄・南樺太の経営について内閣の主導権を確保することを目指して活動。

外交では、ハーグ密使事件後に第三次日韓協約が結ばれたが、伊藤と共に完全な併合には反対。

カリフォルニア州での排日運動を受けて、それへの日本国内の反発が強まるが、西園寺政権と政友会は問題を深刻化させず、日米紳士協定を締結して鎮静化に成功。

1908年総選挙でも勝利したが、山県・松方の政権反対姿勢が強まり、健康問題もあって西園寺は総理辞任。

この第1次西園寺内閣時代、原は数々の重要課題に取り組み、政策理解力・交渉力・実行力で同僚の松田を引き離し、西園寺の後継者としての地位を確立する。

第2次桂太郎内閣時代、原は欧米周遊旅行に出発、米国の富強振りと各国での官僚政治の没落と民意の発展を目撃し、強い印象を受ける。

1909年伊藤が暗殺され、翌年韓国併合が断行、その後、朝鮮を訪れた原は総督府の統治に疑問を持たず、同化政策を実現可能と見た。

朝鮮人に対する愚民観は持っていなかったというが、自身を含む東北人が当初反発していた明治国家に統合された経験を韓民族にも当てはめるというのは、隣国のナショナリズムと愛国心に対する無理解と言われても仕方ないでしょう。

健康が十分に回復せず、政党指導者としての意欲を失いつつあった西園寺や、自党の掌握と桂首相との交渉での不手際が目立つ松田に代わって、原が政友会の実質的主導者となる。

第2次桂内閣の後継として陸相寺内正毅への禅譲が話題に上ると、原は桂との巧みな交渉で、政友会への再度の政権授受の流れを作ることに成功。

その間、1905年に古河鉱業の跡を継いでいた、陸奥宗光の次男が病を得ると、原が実質社長として経営に参画、1890年頃から問題になっていた足尾銅山鉱毒問題に治水工事によって対処するが、田中正造の反対運動には共感を持たず。

1911年第2次西園寺内閣成立、内相兼鉄道院総裁が原、司法相松田、外相は桂が留任を提案した小村寿太郎は対外硬的感覚を懸念して退け内田康哉を起用、蔵相には山本達雄、陸相は非山県系で薩摩出身の上原勇作を当てようとしたが果たせず石本新六、海相は斎藤実留任。

日露戦争後の財政難の中、均衡財政主義の蔵相山本と経費節減をした上での積極政策を推進する原が強く対立。

辛亥革命に対して原は、北方清朝側、南方革命側の間で中立を守ることを主張、安易な利権拡張を目論む動きに釘をさす。

明治天皇崩御、大正改元、桂との関係が微妙になっていた山県の思惑で、桂は内大臣に就任し、宮中に押し込められる形になる。

陸相の石本が病気で辞任すると、上原が後任となるが、ここで二個師団増設問題が起こり、大正政変の契機となる。

原と山県の間で妥協の動きもあったが、再度組閣し表舞台に戻ろうとした桂が上原を焚き付け、1912年西園寺政権は倒壊(非主流派の上原は、山県が妥協的であることと桂と山県の仲が微妙になっているのを知らなかったらしい)。

陸軍・長州閥・藩閥官僚批判の世論が盛り上がる中、元老会議では後任首相に松方・山本権兵衛・平田東助(山県系官僚、前内相)の名が浮かぶが決め手が無く、原は「元老の価値甚だ衰へたり」と日記に記した。

結局第3次桂内閣が成立。

内相大浦兼武、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎、陸相木越安綱、海相斎藤実、逓相兼鉄道院総裁後藤新平。

それに対し、第一次憲政擁護運動が勃興、政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らが参加。

桂は新政党組織計画を発表、衆院第二党の国民党内から反犬養派が大挙参加し、国民党は大打撃を受ける。

原は、藩閥官僚批判の輿論の高まり自体は好ましいとしたが、それが非合理的・感情的な世論となり、政治を激変させることは極めて危険であるとの醒めた視線を、自由民権運動の勃興以来、一貫して持っていた。

この為、原は桂に「名誉ある撤退」の道を提示したが、桂は拒否、護憲運動はピークに達し、遂に桂内閣総辞職に至る。

1913年第1次山本権兵衛内閣成立。

薩摩系官僚内閣だが、事実上政友会の支持を受ける。

原はまたも内相、松田が法相、外相牧野伸顕、蔵相高橋是清、陸相木越と海相斎藤は留任(木越は病気で辞任、非山県系で要職経験無しの楠瀬幸彦が後任)。

この内閣で、着実な秩序ある政治改革を推進、高校日本史でも既出だが、軍部大臣現役武官制を廃止し、文官任用令改正によって、政党による官僚自由任用の範囲が1899年第2次山県内閣時代に内閣書記官長と大臣秘書官のみに制限されていたのを、陸海軍省を除く各省次官、法制局長官、警視総監、貴族院・衆議院の書記官長、内務省警保局長、各省勅任参事官にまで拡大。

政友会内部では、護憲運動によって一時党人派の松田の威信が高まるが、松田の指導力に深い疑念を持つ西園寺と原は時期を待ち、巧みに原後継体制を固めていく。

1913年桂が死去、桂の新党計画の結果である立憲同志会が加藤高明中心に結成、14年松田も重病でこの世を去る。

14年シーメンス事件が発覚、山本内閣総辞職。

この事件がなく、また原が自身の希望通りより早い時期に閣僚を辞任し内閣と距離を置けていれば、この時期に原政友会内閣が成立した可能性もあったと評されている。

元老会議で山県が中心となって、大隈重信を首相に推薦、第2次大隈内閣が立憲同志会を与党として成立、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎。

民党の一方の雄であり、自身の宿敵ともいえる大隈を首相に推薦したところに、山県の原と政友会に対する憎悪がいかに強いものなのかが表れている。

原は山本内閣入閣時に政友会に入党した高橋是清、山本達雄らを最高幹部として遇し、遂に自身が西園寺に替わって第三代政友会総裁に就任、山県との対決に備える(西園寺は元老として政治に関与し続ける)。

第一次世界大戦勃発。

加藤高明の参戦外交に対し、原・山県ともに懸念を募らせる。

第一次世界大戦が始まった一九一四年の夏から秋にかけて、日本には二つの道があった。一つは原のように、大戦後に世界をリードすることになる米国との関係を重視し、ヨーロッパの戦争を東アジアにまで広げて日本が中国大陸等で利権の拡大をするような道を取らないことである。その上で、中国との連携を深めて、満州の租借期限の延長など満州問題を解決する。これは原の構想である。もう一つは、ヨーロッパに陸軍すら出兵する覚悟で、日本が大戦に積極的に関与し、世界の秩序形成に加わることで、英国との連携を密にしながら、中国大陸での影響力の拡大(あるいは利権の拡大)を図ることである。

実際にはそのどちらの道も取れずに、中国大陸での利権拡大のみに走る結果となり、大戦後に日本の国際的地位が確立しなかったのであった。

・・・・原は山県ら元老に対米重視の外交論を述べ、元老たちの加藤高明外相・大隈首相の外交への不満の言葉を引き出したが、元老は大隈内閣倒閣に動くことはなかった。それは元老の中心である山県が、将来に困難を生み出すかもしれない外交問題よりも、政友会による陸軍や山県系官僚閥、元老への攻撃と、国内の秩序破壊をより問題視していたからである。山県は原の対米重視の意味を十分に理解できなかったし、大隈内閣の外交に不安や不満を感じても、政友会の多数を崩すほうがより重要だと考えた。

原は入党間もない高橋是清と緊密な関係を築き、高橋の党内地位が向上。

1915年総選挙、青島陥落と大戦景気、大隈の大衆的人気が相まって、立憲同志会が圧勝、政友会大敗。

同年二十一ヵ条要求という近代日本蹉跌の原因となった外交愚行が行われる。

・・・・二十一ヵ条要求が過大なものになったのは、加藤外相や外務省が過大な要求を正当としたのではなく、陸軍などを抑えることができなかったからである。陸軍を抑える力を持っていたのは山県有朋・井上馨ら元老であったが、加藤外相は外交一元化に固執して元老と積極的にコミュニケーションを取ろうとしなかった・・・・。加藤は、大隈内閣成立直後から元老を外交に介入させない、という「外交の一元化」を掲げていた。しかし、外相として米・英や中国となるべく良好な国際関係を作るという最重要課題と、自ら掲げた「外交の一元化」を実施するというプライドとの、事の軽重をまったく判断できなかったのである。

1915年井上馨死去。

政友会設立に当たっては伊藤と協力し、原の最初期のキャリアでの庇護者でもあったが、晩年は元老として原と政友会に対して深い敵意を抱く関係となってしまっていた。

1916年対中・対米関係悪化を受けて山県が大隈内閣に主張していた第四次日露協約が結ばれたが、翌年のロシア革命で全く無意味なものとなってしまう。

加藤高明は内政では大政治家と言っていいんでしょうが、少なくともこの時期に限っては、その外交は原のような慎重策を取るでもなく、陸軍の欧州派遣というリスクを負って日英同盟を深化させるでもなく、ただ火事場泥棒的な利権拡大に走り、中国ナショナリズムの深刻な敵意の標的となった挙句、米英関係も悪化させるという最悪の結果を招いたと言われても仕方がないでしょう。

それを批判した山県はさすがだが、しかし山県ほどの冷徹なリアリストでも、内政での政党政治への敵意に目が曇らされて、外交政策転換の為の大隈内閣倒閣に躊躇したというのは山県にとって名誉なことではない。

本書の筆致では、原こそが当時の国際情勢を最も的確に見抜いていたことになっている。

大隈の後継として、立憲同志会の加藤高明内閣が成立することを西園寺だけでなく、仇敵山県とも暗黙裡に連携して阻止。

大隈内閣打倒と外交政策転換を最重視、山県の政友会アレルギーを考慮し、即時の政権奪還を意図せず。

1916年寺内正毅内閣成立。

内相後藤新平、蔵相勝田主計、外相本野一郎など山県系官僚で固めた超然内閣。

加藤高明は立憲同志会を憲政会に改組、国民党と共に寺内内閣との対決姿勢を強めるが、原の政友会は是々非々主義の態度を表明、寺内政権と事実上連携し1917年総選挙で勝利。

寺内内閣下、原の主張で外交の大枠を決定する組織として外交調査会が発足、原と犬養国民党総理が委員に就任するが、加藤高明は参加せず。

しかし、西原借款、シベリア出兵という問題で、この組織は必ずしも原の望んだような掣肘を政府の外交政策に加えることができず。

米騒動で寺内内閣が揺らぐと、田中義一参謀次長に接近、陸軍内の情報を得て、政権獲得を目指す。

1918年9月西園寺に組閣させようとする、山県の最後の策謀が失敗した後、遂に原に組閣の大命が下る。

この組閣準備において、原は山県および寺内に陸相だけでなく海相人事についても意見を聞いているが、そこで以下のような注目すべき記述が見られる。

元来、陸相の人選は、元老山県元帥を中心に、陸相や山県に準じる存在となった桂太郎大将が相談して行い、桂の死後は寺内が桂の代わりに人選に加わるようになった・・・・また海相は、山本権兵衛が海相を引退した後は、山本が中心となり薩摩海軍の有力者と相談して人選してきた。ところがシーメンス事件で海軍が大打撃を受け、山本権兵衛内閣まで倒れると、海相の人選に山県が口を出すようになった・・・・表に出ないこのような軍部大臣の人選の慣行の変化すら、原は把握したうえで、交渉した。そこに原の政治指導の凄みが出る。従来、軍事の専門家集団として陸軍・海軍が、統帥権独立を掲げて、それぞれ陸相・海相の人選権を分有していたものを、山県が侵した。おそらく原は、将来、首相がその権限を握ることにつながるチャンスととらえ、山県が海相の人選に介入するという新慣行に乗ることにしたのだろう。

結局、海相は加藤友三郎が留任、陸相は田中義一。

外相は内田康哉、内相床次(とこなみ)竹二郎、蔵相高橋是清、農商務相山本達雄、逓相野田卯太郎、文相中橋徳五郎。

陸・海軍相と外相以外はすべて政友会党員で、これが教科書で書かれている「本格的な政党内閣」である。

法相は一時平沼騏一郎の名が挙がっており、意外な感があるが、平沼は司法官僚出身だが山県系ではなく、最近の研究では、政友会と連携しながら司法界でその地位を向上させてきたとされるという。

平沼は政友会入党を求められることを恐れて辞退、法相は原が兼務。

外交も首相の原が大枠の方針を定めたので、外相も事実上兼務した形。

原内閣成立は第一次大戦の休戦直前である。

戦後の国際情勢変動に対応し、対中親善と対米協調を最重視。

当初加藤高明系として警戒していた幣原喜重郎外務次官が国際協調主義を信奉していることを知ると、幣原を駐米大使に起用。

田中陸相が山梨半造を次官に起用することに、原首相の内々の同意を求める。

統帥権に関わる陸軍の重要人事に文官首相が関与することになり、田中は政党内閣首班である原に恭順の姿勢を示したことになる。

パリ講和会議で、山東省旧ドイツ利権について、即時の中国への返還は拒否しながら、数年後のワシントン会議後での返還への道筋も付ける。

米国はラテン・アメリカやフィリピンでの自国の権益は譲らないまま、理想主義的なウィルソン主義外交を日本が大きな権益を持つ中国に適用しようとしていた面があり、この対応は列強の中で特に保守的なものとは言えないと評されている。

1919年の五・四運動をこれまでの国際秩序を一方的に否認する性質の動きとして否定的に見たが、中国の分裂を利用し国際協調を無視した一方的利権拡大を否定する原の外交路線が継続されていれば、日中双方にとって破滅的だった両国の全面対決は避けられたでしょう。

同年の三・一独立運動に際しては、朝鮮の地方自治を容認する構想を持つが、それも伊藤のように朝鮮人による責任内閣と植民地議会という考えからは後退している。

原ほどの人物にしても、日本と韓国の関係を、薩長と自身の郷里盛岡との関係と同類と捉え、隣国のナショナリズムに理解を持てなかったのは残念な事実ではある。

その三・一運動鎮圧の為の憲兵増派を、武官である朝鮮総督ではなく内閣が主導。

朝鮮総督、台湾総督を文官・武官いずれも就任できるように官制を改正、南満州の関東都督府は廃止され、文官の関東長官と武官の関東軍司令官に分離。

内政では、大学令を公布し高等教育機関を大幅拡充。

官立単科大学と公立大学設置の枠組みを定め、これまで大学の名を冠していても専門学校扱いだった早稲田大、慶応大など私学の大学昇格を積極的に認める。

産業振興と鉄道網整備を推進。

陸軍25個師団と海軍八・八艦隊の国防充実要求に対しては、陸海軍の顔も立てつつ、予算全体とのバランスにも配慮、大戦後軍縮ムードが巻き起こるのを見越して、計画を一年延期させるという円熟した政治手法を見せる。

1920年3月から始まる戦後不況に対しては、政府支出を削減して景気回復を待つという古典的な経済政策を抜け出すことができず、さすがの原も独自の指導力を発揮することはなかったが、高橋蔵相・山本農商相という有能な経済閣僚を使って経済安定化に尽力。

都市部での憲政会・国民党の普通選挙要求運動には、大衆の非合理的行動を警戒する漸進主義の立場から即時実現には強く反対、一方で運動の盛り上がりを利用して、革命的騒乱を恐れる山県と貴族院を圧伏、選挙権の財産資格を引き下げ、小選挙区制を導入。

1920年5月総選挙で政友会圧勝。

労働争議に対しては厳しい鎮圧方針を取りつつ、会社側にも労働条件の改善を促し、妥協的解決に成功。

これらの手腕に対しては政党内閣を否定し続けてきた山県も感嘆し、原内閣の存続を望むようになる。

衆議院での絶対多数を背景に、貴族院も政友会の影響下に置かれ、山県閥は枢密院にのみ「籠城」する感がある、と原が日記に記すような状況となる。

思想問題については強い危機感を持ち、森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの思想を紹介した、いわゆる森戸事件に対して、原は、起訴やむなしとの強硬姿勢を示す。

これが批判されるようなことだとは、私には思えない。

「思想の自由競争」を無条件で許せば、社会が自動的に発展・調和に至る、という思い込みには、はっきり言って何の根拠も無い。

共産主義という、人類史上最大の被害をもたらした狂信に、過去どれほど多くの人々が惹きつけられたのかを考えれば、国家による一定の取締措置は必要悪だとしか言いようが無い。

それを非難する人は、(自分自身を含む)民衆の判断能力を過大評価し過ぎている。

現在の社会での、ヘイトスピーチやネット上の誹謗中傷の問題を考えても、言論・表現の自由を無条件に絶対視する意見には、何一つ賛成できる部分が無い。

上記のように、ロシア革命と米騒動を見て、政党政治よりも急進的革命を恐れるようになった山県は、原内閣を見直し、統帥権独立が徐々に侵食されることにすら大きな抵抗を示さないようになる。

シベリアからの段階的兵力削減を内閣主導で実施、参謀総長上原勇作は原首相と田中陸相に抗議し、山県も批判を示したが、結局屈服。

原自身が軍事問題に精通し、その公的キャリアの全時代において軍人との意思疎通を重視、また陸軍改革においては、世論の反軍閥的風潮に迎合して外部からの急進的改革を目指すことなく、田中義一という協力者を得て、あくまで内部からの穏健な改革を推進したことがこの成功の要因。

明治以来の、参謀本部が天皇に直属する仕組みは、政治的軍事的失策の累を皇室に及ぼす危険があるので、それを改め、内閣が国政全ての責任を負う必要があると、原は考えており、もしこのまま事態が推移すれば、山県亡き後、原内閣による軍の統制という慣行を原と田中で法制化することも困難ではなかっただっただろう、と書かれている。

大日本帝国を滅亡させる要因となり、今や中学校の教科書にも載っている「統帥権の独立」という(明治期はともかく、少なくともこの時期での)悪弊が、なし崩し的に消滅する可能性があったわけである。

そう思うと、切歯扼腕せずにはいられない。

1919年大正天皇の健康状態が極めて悪化、翌年から皇太子裕仁親王が代理として活動開始。

その後も原は律儀に大正天皇に上奏を続けたが、ある日大正天皇が机上のタバコ一握りを原に与え、原は「感泣の外」ない、と日記に書いた。

同年皇太子妃候補の久邇宮良子女王の色覚異常問題に関わる婚約辞退問題発生、婚約辞退を主張した山県が右翼勢力の批判を受け、窮地に陥る。

当初傍観した原だが、1921年山県が枢密院議長の辞任、官職・栄典の辞退を申し出て、その影響力が完全に没落しようとすると、陸軍内と国内の秩序混乱を恐れて、原はむしろ山県の権力を維持する方向で動き、辞表を却下させる。

この行動は山県に深い感銘を与え、長年仇敵の間柄だった山県すら、原への好感を示し、その支援者に近い存在となる。

1921年田中陸相が狭心症で倒れ辞任、6月山梨次官の陸相昇格にも首相の原が大きく関与し陸軍を掌握、ワシントン会議に全権として参加する為、加藤海相が渡米すると10月原首相は文官最初の海軍大臣臨時事務管理となり、海相の事務を代行。

同年皇太子訪欧を実現させ、帰国後の摂政就任を既定路線とする。

この時点で原は、衆議院の多数を支配し、貴族院・陸軍・宮中までをも掌握、混乱時の天皇の調停的政治関与を例外として、政党内閣が全政治責任を負う体制を確立しつつあった。

加藤高明指導下の憲政会に対する(二十一ヵ条要求等の対外硬的外交と普選運動に見られる急進的内政改革志向についての)不信感もあり、一先ず政友会一党優位制を築き上げることを目指したが、将来的には二大政党制も視野に入れていたと見られる。

自身の後継者について、まず高橋是清はその協調外交志向と優れた政策構想力は大いに評価していたが、参謀本部廃止構想などの急進的改革を目指し、それを不用意に漏らして、原が田中陸相に釈明する事態を招くなど、政治的配慮の無さを欠点と見ていた。

床次竹二郎内相や内田康哉外相は、原が政策の大枠を指示して両者が実行するような関係で、床次・内田は実質次官のような役割を果たしていたに過ぎず、彼らを後継者にすることは考えられず。

田中義一陸相、加藤友三郎海相も候補だが、彼らが政友会に入党するか、選挙対策などの党務を全く経験しないまま総裁を務められるかは未知数であり、山県から離れて協力している田中を原が心底信用していたかは不明。

結論を言えば、原には後継者として安心して跡を任せられる人材がいなかったのである。原のような用意周到な大物政治家であっても、後継者の育成はきわめて難しかった。比較のため、伊藤博文と山県有朋の例を見てみよう。

伊藤は何人かの後継者候補の中から、立憲政友会を創設する前ごろから、西園寺公望を後継者と決め、第四次伊藤内閣では西園寺を副総理格の班列大臣とした。その後、予定どおり総裁を西園寺に譲った・・・。しかし、実際に政友会の実権を掌握し、発展させたのは原敬であった。原の台頭を妨げることなく自然の趨勢に任せたことが、伊藤の見識であった。

山県は長州系エリート陸軍軍人を陸軍の中枢ポストにつけ、引き立てた。陸軍を中心とし、内務省・貴族院・枢密院・宮中にまで広がる山県系官僚閥の後継者としようとしたのである。しかし山県が政党に対し、かたくなな反感を持っていたので、政党が台頭するのを時勢と見た桂太郎・寺内正毅や田中義一ら後継者(候補者)たちは、ことごとく山県を裏切っていった。また普選運動や労働争議などが拡大する中で、山県自身が原に頼らざるを得なくなっていった・・・。

原は二人の大物藩閥政治家と後継者の関係を、政友会創設のころ以降は間近で見てきた。自分の後継者としてそれほどの人材はいないという事実に対して、育ってくるのを待つしかないと考え、誰にも後継者の話は切り出さなかったのであろう。

原はかたくなに授爵を辞退した。

華族が皇室の藩屏であるとの議論を陳腐と退け、四千余万の国民すべてが藩屏だと書いている。

しかし、藩閥・軍人への対抗の為か、政党人・財界人への授爵には尽力している。

1921年ワシントン会議に参加決定、加藤友三郎海相と幣原喜重郎駐米大使を全権に任命、日英同盟存続を至上命令とはせず、対米協調を最優先。

だが、原は同年11月4日東京駅で18歳の鉄道員中岡艮一(こんいち)により刺殺される。

政友会絡みの疑獄事件や外交問題での政権への憤慨や、9月に起こった右翼青年朝日平吾による安田財閥創始者安田善次郎暗殺に刺激されたことが動機という。

黒幕の存在も推理されるが、真相は不明。

原の死は、原が目標半ばで人生を終えるという、一人の明治人の死にとどまらない意味を持った。日本国家の行く末に、実に大きな影響を及ぼしたのである。

原の死によって、イギリス風の立憲君主制が、日本でさらに発展していく可能性が大きく削がれてしまった。原は政党出身の首相が衆議院(イギリスの庶民院)の支持を背景に陸・海軍や宮中までも統制し、責任を持って政治を主導する制度を形成した。原は、個人的な政治力をもって形成したこの制度を慣行とし、さらには憲法以外の法令を改正することで、日本に定着させていこうとしたのであろう。伊藤博文が遠い将来の目標とし、立憲国家創設期の様々な制約でなかなか実現できなかったものが、実現に向けて本格的に動き出したばかりであった。

また原の死によって、第一次世界大戦後の新状況に適応すべく、米国との協調を特に重視し、中国の統一を促進する新しい外交も、それを支える強い基盤を失った、それは、政友会が内部分裂し、弱体化したからであり、さらには第五代政友会総裁田中義一により、原外交の精神とは異なる外交路線が展開し、失敗するからである。

確かに、原外交の精神は、原が駐米大使に抜擢した幣原喜重郎により、一九二〇年代半ば以降、反対党の憲政会・民政党に受け継がれていく。しかし、幣原外相はすぐれた外交官であったが、彼には原ほどの政治家としての能力や基盤がなかったために、国際環境の変化をとらえて、あるべき外交路線を進めるため、国内政治を主導していくことができなかった。原の死は、一九二〇年代以降に、日米連携が中国問題や軍縮問題等を舞台にさらに強力に展開していく可能性をなくした。

また原は、いずれ政友会総裁を引退すれば、元老や内大臣の有力候補になったことは間違いない。一九二四年に元老松方正義が死去すると、西園寺公望が唯一の元老となる。元老は後継首相候補や内大臣・宮相など宮中の要人候補を天皇に推薦するという重要国務等を果たすだけでなく、この時期には、いずれ天皇になるはずの若い摂政皇太子裕仁親王に政治を指南する役割も加わった。

本書で見てきたように、西園寺が政友会総裁を辞任した後、西園寺が元老として宮中を、原が総裁・首相として党務と国政を行うという住み分けができ、二人の関係はきわめて親しくなった。高齢で唯一の元老となった西園寺は、自分が元老としての仕事を行えない場合を考えて、必ず原に元老か内大臣(あるいは両方)になるよう勧めるだろう。

原はきわめて責任感が強いので、受けることも間違いない。それは本書で見てきたように、余裕のあるうちに辞めようと一九二〇年秋に内閣総辞職を考えながら、皇太子妃選定問題の混乱、皇太子渡欧や摂政設置問題、ワシントン会議などが起こると、「疲れた」と漏らしながらも、一九二二年以降も当面は政権を担当する気持ちになったことからわかる。

もし原が元老か内大臣(あるいは元老兼内大臣)として、即位間もない若い昭和天皇を支えていたら、公平な調停者としての昭和天皇のイメージが陸海軍に浸透し、一九三一(昭和六)年九月に満州事変が起きても、陸軍を統制して、事変の拡大を阻止できた可能性がある・・・・。この意味でも、原の暗殺は、満州事変から日中全面戦争・太平洋戦争への道を変え得た、一つの可能性を摘み取った。

分別のない一青年の行動と、警備陣の一瞬の気の緩みが、近代日本の歩む道を大きく変えたともいえるだろう。

本書を読む限り、確かに原敬は、知的理解力・政策構想力・情勢分析力・判断力・決断力・交渉力・実行力全ての面でずば抜けた能力を示しており、伊藤博文に次ぐ、近代日本の大政治家である。

伊藤が、首相権限拡大および軍への統制強化を内容とする「1907年の憲法改革」(瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)参照)に乗り出した途端に暗殺されたのも痛かったが、強大な政治力で陸海軍を統御し、文民統制と政党内閣制を確立しつつあった原の暗殺もそれに勝るとも劣らず、近代日本の運命を狂わせた痛恨事と思える。

原の死後、後継者となった高橋是清は国際協調主義を遵守したものの、原ほどの政治力は無く、その跡を継いだ田中義一は政友会の内外政策を大きく右傾化させ、さらに田中以後は矯激な世論にひたすら迎合し、昭和に入ってからの政友会は国益に反することばかりしている、と評されるほどの存在になってしまった。

原がその対外強硬的外交路線に深刻な懸念を持ち、政権担当能力無しと見なした加藤高明を総裁とする憲政会(とその後継である立憲民政党)は幣原外交を採用することで、原の時代とは驚くほど変化し、昭和に入ってからも相対的に妥当な政策路線を守り続けたが、指導者たる若槻礼次郎・浜口雄幸には加藤ほどの判断力と実行力が無く、経済政策では高橋積極財政を採用した政友会ほどの柔軟性も無く、緊縮財政にこだわり過ぎ、軍の暴走と国運の傾きを阻止できなかった。

(余談ですが、「21世紀に入ってからの自民党」って「昭和に入ってからの政友会」と似てるなあ、と思うことがよくあります。いや、今の自民党は新自由主義的政策で国民経済を疲弊させる一方なのだから、「高橋財政抜きの昭和政友会」とでも言うべきで、それ以下の存在です。私が選挙権を得てから、まだ20世紀だったうちは、自民党以外の政党に投票したこと無かったんですがねえ・・・・。)

もちろん、昭和戦前期の日本の破滅は、急激な民主化がもたらした左右の極論の蔓延の後、巻き起こった民意の暴走が主因であり、一人の有力政治家が存在しただけで止め得たものかどうかはわからない。

しかし、実際の歴史を読むと、どうしても「元老原敬が存在した、もう一つの昭和日本」を想像したくなる。

満州事変を封じ込め、日中全面戦争も日米開戦もなく、300万人以上の同胞が非業の死を遂げることもなかった昭和日本、である。

その場合、満州国は存在せず、中国が共産化することもあり得ず、国民政府の中国と日本は和解し、日米は不即不離の関係を続けたはずである。

韓国が植民地に留まり続けることは考えられず、再独立していたことは確実だが、台湾と赤道以北の南洋諸島は全面的な自治が認められた上で、日本と現在の英連邦諸国のような関係を結ぶ。

国内では、政党内閣制が完全に確立し、陸海軍の統帥権独立は形骸化し、時機が来れば明治憲法の該当部分の明文も改正されたかもしれない。

国家主権は依然天皇にあるとされ、皇室に関するタブーは厳然として存在するが、それが他者を圧迫する踏み絵として使われることは無い。

イギリス貴族のように、華族身分は相当部分形骸化しつつも存続し、上院は依然世襲議員と有識者の勅選議員から成る貴族院のまま存在。

衆議院の優位が定められるが、一方で貴族院が民意の暴走を抑止する役割を果たし、君主制・貴族制・民主制の三者が均衡を保ちつつ、政治が運営される。

もしかしたら、21世紀の我々は、そうした「大日本帝国」で暮らしていたかもしれない。

私は、それが今の日本よりも、余程良い国であると考えます。

 

 

 

極めて重厚で、信頼性の高い伝記。

内容は非常に濃い。

叙述が多岐にわたるので、明治中期から大正にかけての政治史全般について、非常に有益な知識と見解を得ることができる。

通読にやや骨は折れるが、その見返りは十分期待できる良書。

強く推薦します。

2017年5月24日

室山義正 『松方正義  我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』 (ミネルヴァ日本評伝選)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:32

明治国家を支えた元老ではあるものの、圧倒的存在感を示した伊藤・山県に比して「軽量級」で、二度の首相就任時の業績も芳しくないと見られがちな松方正義の伝記。

華々しさには欠けるが、机上論に流されず、慎重な調査と準備を経て必要な政策を万難を排して実行する一方、非常の危機の際には積極果断の処置を主張できる人物、と著者は捉えている。

 

1835(天保六)年鹿児島城下に生まれる。

父が親族の借金を保証したため、困窮の中で育つ。

そこから松方は、生涯「実業」に基づかない投機的経済活動に対する強い不信を持つようになったという。

当時の多くの藩士と同じく、尊王思想を抱きつつ成長。

島津久光側近の藩官僚として昇進するが、西郷隆盛、大久保利通らとも密接に連絡。

維新の際、一時長崎に滞在、そこで大隈重信と知り合う。

松方は、日本の実際から出発する。実際を生み出した歴史的経緯を分析する。そして、実際から抽出された実務的知識と実務的創意に基づいて基本方針を導き出した。その後、行政的経験と欧米の知識や理論的研鑚を積むなかで、次第にその政策センスは洗練され補強されていく。こうして、松方の政策論は、論理的に首尾一貫した「実際に適応する」政策論として凝固していった。

これに対して大隈の政策論は、外国から輸人した「知識」や「理論」をもとにして、日本の「あるべき姿」を論じる傾向が強い。したがって、現実とは遊離した一種の机上論に陥りがちであった。大隈の博学は、欧米の「常識」と日本の「現実」との落差から生じる外交上のトラブルを解決する外交交渉の場では、遺憾なくその強みを発揮した。しかし内政面では、日本の現実と遊離した財政経済構想を強引に進めようとしたり、また日本の現実に引き戻されて方針を逆転したりして、一貫性を欠くという欠陥をあわせ持っていた。

才気煥発で西欧の知識を縦横に駆使して、新たな構想を次々に政策化しようとする華麗な「国際派」の大隈。国内社会経済の実際から発想し、実践的な政策路線を追究しようとする地味な「民族派」の松方と言ってよいだろう。

大隈がごく初期に新政府内で最高指導者の一員となる一方、松方は九州日田県知事に任命。

1870年中央政界に進出、71年廃藩置県後、大久保利通の下、大蔵省入り。

73年の地租改正条例制定では、実務官僚としての能力を遺憾なく発揮。

征韓論政変後、大久保中心の体制が確立。

大久保の富国強兵構想は、イギリスを外形的目標とし、ドイツを実質的目標としたため、自由主義的色彩の強い大隈や、開明的な考え方を持つ伊藤、天皇中心の国家主義を信奉する岩倉・松方など、政府部内の革新派から保守派にいたる幅広い有力者を包含しうる、政治的求心力を持っていた。この内治優先の連合勢力は、西郷隆盛や板垣退助・江藤新平を中心とする征韓論と対抗することで、一層強固なものとなり、凝集力を生み出していった。

そして、政局の焦点は、征韓論に敗れた不平士族の不満を抑えて、早期に近代国家としての制度と内実を整備することに置かれる。不満士族の武力討伐を実施し(佐賀の乱)、政府内部の結束を維持するために「征韓論」の代替策である「台湾征討」を実施して士族の不満を対外的にそらし、他方で一挙に秩禄処分を断行して旧武士階級を解体する。これと並行して、漸進的な立憲制度の採用を公約して政治的安定に配慮しながら、殖産興業政策を進め、内治優先政策のもとで国力充実を実現する、という構想が出来上がっていく。大久保独裁体制が着々と整えられていった。

大久保・大隈による国家主導の「殖産興業」・積極政策に対する批判を持ちつつ、西南戦争後の松方は渡欧。

松方は、凡庸であり、大久保という後ろ盾を持ち、薩摩閥という出身母体がなかったならば、政府で立身出世は不可能であった、というイメージで捉えられることが多い。しかし、松方が無能であったというイメージは、後に議会開設後の「首相としての」適格性欠如や優柔不断という評価から、類推されたものである。実際には、松方は、大久保に昇進を強力に抑制されていた。そして、松方が昇進を重ね、自らの政策論を開花させ、政府部内で揺るぎない地位と業績を上げるのは、大久保の死後のことであった。さらに、松方の財政経済政策論は、薩摩閥の積極論とは、全く対照的なものであった。西南戦争後に実行された「松方財政」は、大久保の引き立てや、薩摩閥の政策論的後援を一切受けなかったことが、特徴であった。

西南戦争の戦費調達と殖産興業政策の実施による不換紙幣増発がインフレを引き起こし、さらに大久保が暗殺されると、政府内での対立が深まる。

大久保の死が西南戦後の政局に与えた影響は大きかった。薩摩閥の政府部内での影響力低下が生じることは、避けられなかった。大久保の後任内務卿に伊藤博文が据わり、井上馨がイギリスから帰国して外務卿に就任したことによって、政府部内における長州勢力がその影響力を高めた。大隈は、筆頭参議兼大蔵卿として、大久保の衣鉢を継ぐ者としてのスタンスを強調し、主導権を確立する必要があった。したがって自らが率先して積極政策を推進していく主役とならなければならなかった。

一方、伊藤は、大久保独裁体制の下で、大隈と並ぶ二大支柱として協調行動をとってきた。しかし大久保の死後、伊藤は、薩摩閥や大隈派から一定の距離をとりながら、影響力の増した長州閥の中心に据わって、政治の主導権を掌握しようとする動きを見せる。こうして、大隈と伊藤との主導権をめぐる対立の動きが徐々に顕在化する。

ところで、松方は、大きな重石であった大久保の束縛から解放された。政治的には薩摩保守派の中心に位置しながら、経済政策では独自の「勧業政策」を主張し始める。松方は、インフレが顕在化する中で、財政経済政策での発言権を次第に強化していった。松方は、政治路線においても、経済財政路線でも、ほぼ大隈の対極に位置していた。経済的には財政主導の積極路線に疑問を呈し、政治的には保守主義・漸進論を唱えていたからである。後の展開から考えると、松方は、この時点で、大隈路線に対する批判者として、首尾一貫した政治・経済スタンスに立っていたことになる。

大隈は、経済財政政策で薩摩閥と共同歩調をとり、国会・憲法論では進歩派の伊藤・井上と協調して、主導権を握ろうとしていた。政府部内で孤立を避けるためには、政治的急進論をカモフラージュしつつ、大久保路線を走るスタンスをとらざるをえない。伊藤は、経済財政論では、大久保体制の積極政策の一翼を担ってきたが確たる定見はもたず、その意味で中間派であったといえよう。伊藤が政府部内で主導権をとるためには、経済財政政策では主流派の積極路線に同調しながら、政治面で主導権を確立することが必要であった。政府部内の保守派に対抗するために「進歩派」として大隈と協調路線をとりながら、他面で大隈の政治権力の削減を目指した。大隈の政治権力削減を実行しながら、同時に政府部内で国会・憲法論で主導権を確立することが目標となる。

・・・・・・

国家の政策進路は、「外資導入」を梃子として積極的政策を推進するという多数派の財政経済論を共通の前提として、大隈型の英国流の議員内閣制を急速に導入するか、伊藤流のプロシャ型の立憲君主制を漸進的に導入するかを巡る対立に集約されようとしていた。

このような流れを一挙に覆す事件が勃発した。北海道開拓使払下げ問題である。この問題を契機に、「大隈一派」対「薩長藩閥」という対立図式が出来上がり、一四年政変で大隈の「急進的国会論」が葬られ、次いで政変を契機とする人事異動の結果、「外資導入による積極政策」路線までもが、放棄への道を進んでいくことになる。

結果として、漸進的な立憲君主制度と「自力の」紙幣整理路線の組み合わせが、日本の政策進路として選択されることになる。政府部内の有力者で、このような政策論の組み合わせを主張していたのは、実は松方唯一人であった。そして急進的な議院内閣制と積極政策の組み合わせを主張した「大隈派」の政策論は、完全に崩壊した。他方、漸進的・保守的立憲制度と積極政策の組み合わせを主張した「薩長」連合の主流派も、財政経済論では挫折する。日本は、政変を契機として、松方が主張した経済政策進路へと大転換することになる。財政経済政策に果した松方の大きな役割がここに暗示されているといってよいであろう。

・・・・・・

松方は、大久保利通を中心とする薩摩閥の共通の政策であった「積極政策」に、薩摩閥の中で反対の立場をとった唯一の人物であった。しかも、薩摩きっての財政経済通であり、長く大蔵省高官の地位にあった。その松方の「反薩摩閥的な」財政経済論が、政変において、薩長藩閥勢力を強力に支援する役割を演じることになったのである。松方は、自己の財政経済論を放棄することなく、政治的に願ってもない「台頭の」幸運を掴んだということができよう。松方は、政府部内で孤立無援であった自己の「紙幣整理」論を、反大隈の文脈を明確にしながら、政治的リスクなく主張することができた。

当時、政府部内で財政経済に見識を備えた人物としては、大隈や現職の佐野大蔵卿を除けば、伊藤、井上両参議があった。しかし、伊藤・井上は、財政問題ではほぼ大隈と共同歩調を採ってきたため、正面からの大隈批判を行うことはできなかった。大隈の財政経済政策を正面から批判できる人物は、松方正義を措いて他にはいなかった。

・・・・・・

まさに、天の配剤の妙ともいえる、絶妙のタイミングで、松方の藩閥政治家としての、また財政家としての登場が促されたのであった。薩摩閥の中で、長く政治的に「第二流」の地位にとどまっていた松方は、政変を契機として、最高権力者の「参議」の一人へと昇進する。松方正義、四七歳のことであった。

1881年大蔵卿に就任した松方は、翌82年日本銀行設立、いよいよ「松方財政」と呼ばれる、日本経済史上、「高橋(是清)財政」「井上(準之助)財政」と並んで(松方財政と前者は大成功で、後者は大失敗で)著名な財政経済政策を実行。

だが、その実像は「松方デフレ」という名称とは大きく異なったものであることが本書では述べられる。

確かに紙幣整理のためのデフレは農民に大きな困難をもたらし、農村の階層分化が進んだ。

しかし、以下の三つの「追い風」を、松方財政は得ていた。

(1)主に米国の景気回復による輸出拡大効果

(2)紙幣価値回復と壬午・甲申事変の朝鮮問題緊迫の為の軍事費拡大による、財政支出の「実質」増大

(3)これも紙幣価値回復がもたらした、実質通貨残高の増大と強力な金融緩和効果

明治一〇年代の日本経済は、「一四年政変」に至る前半では、通貨増発を背景として公債が発行され、積極的な政府事業が実施された。激しいインフレが発生し、貿易収支は大幅な赤字に陥った。財政は危機的状況に陥り、政府機能は著しく劣化した。結果として「小さな政府」が実現された。「積極政策」が実行された時期としては、極めて特殊な性格をもっていた。これに対して政変以後に実施された松方財政は、明らかなデフレ政策であり、財政も緊縮方針が堅持された。

しかし松方財政は、通常の緊縮財政とは性格が全く異なっていた。松方の不退転の姿勢は、インフレ期待を早期にくじき、不況局面を比較的短期に終結させた。また財政および金融部門の両面で強力な総需要拡大効果を伴っていたという点で、一般の「緊縮政策」とは決定的に異なっていた。国民経済に対するダメージは、通常イメージされるほどには破壊的ではなかった。

松方財政は、一般には、財政・金融両面の厳しい引き締め政策であったと理解されている。物価水準は急落し、経済は不況のどん底に沈み、農業経営は苦境に陥り、賃労働者と小作人を大量に排出した。緊縮財政の中で、経済は厳しい縮小均衡を強いられた。その結果金利が低下して、経済は均衡に向かい、為替相場が下落して外需が拡大するという条件の下に企業勃興を迎え、景気が回復したとイメージされてきたといえよう。

しかし経済統計データは、このような調整を支持する動きを示していない。松方デフレ期を紙幣価格変動の影響を取り去った「銀貨ベース(銀価格)」で見ると、賃金は継続的に上昇を遂げ、一般物価水準も顕著に上昇している。デフレ過程で賃金が上昇を示したとすれば、古典的な価格調整による景気回復は不可能になるはずである。不況は深刻化するであろう。しかし実際には「松方デフレ」期の極めて早い時期に、急速な国民生産の上昇が生じている。デフレが進行し不況が深刻化したとイメージされてきた「松方デフレ」期に、継続的な実質賃金上昇が生じ、物価水準上昇と国民生産拡大が同時に進行していたのである。同期の経済成長率は相当高かった。このような事態は、一般には、総需要が増大すると同時に、生産方法改善や新技術採用が進み生産性が上昇したときに生じる経済パフォーマンスに他ならない。

松方のデフレ政策は、一般にイメージされているような大きな生産低下をもたらさなかった。比較的軽微な生産低下を経験した後、速やかに景気回復軌道へと乗った。その主要な経済要因は、「インフレ期待の急速な解消」、「輸出環境の好転」、「実質財政支出の拡大」「実質貨幣供給の増大」にまとめることができよう。

この文章は本書で最も重要な部分かもしれない。

通常デフレというものは決してあってはならないものであり(中野剛志『レジーム・チェンジ』)、成功と見なされ得る松方財政は決して単純な緊縮財政・デフレ政策ではなかったということがよく理解できた。

(逆に井上財政は悪しきデフレ政策であったと言う他無い。)

内閣制度導入で初代大蔵大臣に就任、以後何度もその職を務めることになる。

1891年第一次松方内閣が成立。

普通この内閣は、大津事件と品川弥二郎内相による大選挙干渉という二つの芳しくない史実によって記憶されているだけである。

品川内相の責任を追及して、伊藤が倒閣に動くが、著者がこの動機を伊藤の松方に対する嫉妬と言わんばかりの記述にしているのには首を傾げる。

続いて第二次内閣を組織した伊藤が、結局議会運営に行き詰まり、明治帝の「和協の詔勅」に頼ったことにも著者は批判的である。

この辺の記述にはあまり同意できない感がある。

逆に、私の方で、伊藤が近代日本の最有力・最優秀の政治家だ、だからほぼ常に最善の政策をその都度採り続けていたはずだ、という思い込みが強すぎるのかもしれないが・・・・・。

日清戦争での戦費調達に貢献、内国債を中心として確保。

1896年第二次松方内閣成立。

二度の松方政権は、日清戦争を遂行した第二次伊藤内閣を挟み込む形になっていることは記憶しておく。

第二次伊藤内閣が自由党と事実上連立したのに対し、松方はかつてのライバル大隈率いる進歩党と連携、「松隈内閣」と呼ばれる。

この内閣では97年金本位制導入という大きな仕事をした後、98年辞職。

日露戦争に向かう過程では、伊藤・井上馨らが満韓交換論と日露協調を唱えたのに対し、日英同盟と対露強硬論を唱える桂太郎・小村寿太郎を松方は支持。

大正時代には元老として国政に関与、中国大陸での排他的勢力圏を拡大しようとする動きを警戒し、二十一ヵ条要求を行った大隈内閣の加藤高明外相を強く批判。

日本が植民地に転落する危機を身をもってしっている元老の意見はやはり常識的で危な気が無い。

1922年高橋是清内閣辞任後と23年加藤友三郎首相死去後の後任選定で、西園寺公望と共に、外交姿勢の根本的変更が無い限り、加藤高明を推薦しない方針を貫く(24年護憲三派内閣を組織した加藤は幣原外交を採用、過去の自身の政策を根本的に変更した)。

しかし、元老の影響力は決定的に後退し、左右の極論に煽動される「世論」が絶対の支配者となる時代が訪れていた。

1924(大正13)年、90歳で死去。

 

積極財政としての「大隈財政」と「高橋財政」、緊縮財政としての「井上財政」と「松方財政」のうち、それぞれ後者のみが成功と後世から認められることになった。

人間的には、明治天皇から子供の数を問われて、「いずれ取り調べてお答えいたします」と答えたのが、最も印象的でユーモラスな逸話か(妾腹含め19人いたそうです)。

 

 

人物の経歴と業績からして、当然経済史の話が多いが、私の苦手分野にも関わらず、全く理解できないという部分はほぼ無かった。

非常に読みやすく、良質な伝記。

伊藤・山県以外の元老についても、これくらいの本が出て欲しいものです。

 

2016年12月11日

15冊で読む近代日本史

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 02:51

のっけから大変失礼な質問をすることをお許し下さい。

まず以下の歴史用語をご覧下さい。

 

 

「日中戦争」と「満州事変」。

 

「二・二六事件」と「五・一五事件」。

 

「太平洋戦争」と「第二次世界大戦」。

 

「日独伊三国同盟」と「独ソ戦」。

 

「ヒトラー政権成立」と「世界恐慌」。

 

「日本降伏」と「ドイツ降伏」。

 

 

以上、戦前における12個の史実を挙げました。

さすがに、これらの史実を「知らない」「聞いたこともない」という方はおられないと思います。

 

では、これらの史実を起こった順番に、年代順に並べることが出来ますか?

 

しばらくお考え下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「1929年世界恐慌、31年満州事変、32年五・一五事件、33年ヒトラー政権成立、36年二・二六事件、37年日中戦争、39年第二次世界大戦勃発、40年日独伊三国同盟、41年(6月)独ソ戦、(12月)太平洋戦争、45年(春)ドイツ降伏、(8月)日本降伏、それがどうした?」と何も見ずに言えた方は、以下の数行は無視して下さい。

答えられなかった方は、まず自宅近くの公共図書館に行って下さい。

その際、もし小学校3・4年生くらいのお子さんがいらっしゃる方は一緒に連れて行くといいでしょう。

図書館に着いたら、児童書のコーナーに向かいます。

で、そこに置いてある学習漫画「日本の歴史」の類いを見つけて、その明治時代から現代までの巻を取り出し、子供に見せて「これでいいのか?」みたいな顔をしてから、貸出手続きをします。

そして自宅に持ち帰ったら、子供ではなく、自分が読み耽ります。

それから、『もういちど読む山川日本史』『石川日本史B講義の実況中継』などを買い求め、高校日本史レベルの事項を、ごく粗くでもいいから頭に入れます。

 

 

以上のことを概ね済ませたのを前提として、近代日本史に関する15冊の読書ガイドを作ってみようというのが、この記事の主旨です。

このブログ全体で紹介冊数が1100冊を超えているので、後はいたずらに個々の本の記事を増やすより、この手のリストを作った方が、読者の役に立つかと思います。

(ただし、このリストは「近代日本」カテゴリの120冊余りしか読んでいない中からの選択ですから、当然限界はあります。[記事数は130余りだが、一つの本で複数の記事を書いているので、冊数は120冊ほど])

 

 

「何で15冊なのか?」は実はかなり適当です。

最初は20冊程度のリストを考えていたのですが、世界史の暫定必読書リストが30冊なのを思えば、ちょっと多いし、なかなかうまく書名も埋まらなかったので、半分の10冊にしようとしたら、逆にどうしてもオーバーしてしまうので、その間でキリのいい15冊になりました。

そして、私の関心領域からして、当然政治史と外交史がほぼ全てです。

 

 

便宜上、「明治前期」「明治中期」「明治後期」「大正」「昭和戦前期」「昭和戦後期」「通史」に分けて紹介していきます。

ただし、何しろ全部で15冊のみですから、1冊だけしか挙げない時代もあります。

 

 

その前に「幕末」をどうするかという問題があるんですが・・・・・。

苦手分野だし・・・・・やめます。

ここで紹介するのは、あくまで明治以降ということで。

今まで読んだ本で、すぐ思いつくのは、半藤一利『幕末史』(新潮社)で、特に悪い本ではないが、これをリストに入れるのはひとまず止めておきます。

 

 

まず「明治前期」から。

この分野では、やはり

(1)坂野潤治 大野健一『明治維新 1858―1881』(講談社現代新書)

がベスト。

「富国」「強兵」「憲法」「議会」という四つの国家目標を掲げる政治勢力の合従連衡の有様から、明治初期の政治を分析する手法の鋭さには、目が覚めるような思いがした。

幕末雄藩の状況にも触れられているのも便利。

薄い本で非常に読みやすいが、内容はとことん濃い。

頭の中がすっきり整理される。

 

 

続いて「明治中期」。

ここで通読難易度が急に高くなるが、

(2)坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)

を採用。

自由民権運動の勃興から憲法制定に至る明治中期の政治史が詳しく語られている。

記事中でも指摘したが、当時の文章の引用が相当読みにくいので、難しければそこは飛ばしてもよい。

内容自体は非常に精緻で重厚。

じっくり読みこなせば、相当実力が付くでしょう。

そして、やや迷ったんですが、ここで政策決定者自身の著作として

(3)陸奥宗光『蹇蹇録』(ワイド版岩波文庫)

を挙げる。

この種の回顧録では、近代日本で最高の作品であることは、恐らく衆目の一致するところでしょう。

ただし、大谷正『日清戦争』(中公新書)におけるような、批判的視点も心の片隅に入れておく必要もあるでしょう。

同種の著作では、このブログでも、幣原喜重郎『外交五十年』(中公文庫)重光葵『昭和の動乱 上・下』(中公文庫)同『外交回想録』(中公文庫)石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫)来栖三郎『泡沫の三十五年』(中公文庫)などを紹介しています。

その内、幣原著は(やや内容が薄いものの)最も読みやすく、教科書的史実の背景を平易に知ることが出来ますし、石射著は破滅的な日中戦争に向かう日本を緊迫感を持って描き出しています。

その他の本も含め、歴史研究者の一次史料としてしか読めないであろう『原敬日記』などと異なり、いずれも一般読者が普通に読めるものですので、歴史的知識を得る為に、余裕があれば手に取ってみるのもいいでしょう。

ただ、学生の頃、その種の回顧録の代表作だと考えていた吉田茂『回想十年 全4巻』(中公文庫)はちょっと期待外れかな、という気もしました。

 

 

「明治後期」に行きます。

ちょうど、叙述範囲がぴったりの

(4)佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史21)』(講談社学術文庫)

がありました。

驚くほど完成度が高い著作です。

著者の透徹した史観に深く納得させられます。

叙述自体の巧みさも魅力。

で、どうしようかなと迷ったんですが、司馬遼太郎『坂の上の雲 全8巻』(文春文庫)を挙げるのは止めておきます。

この本は「近代日本」カテゴリで初めて記事にした作品です。

外国の歴史にしか興味が無かった自分が、近代日本史に向かうきっかけとなった、個人的にも重要な著作です。

最初このリストを作ろうとした時は、間違いなく入れようと考えていたのですが、(著作自体の罪では全く無いとは言え)今の時代状況ではやや陳腐に感じられる点も無いでは無いので、外しました。

未読の方が読んでみるのは、全然悪くありません。

そして、ここで複数の時期にまたがる著作だが、

(5)瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)

を挙げる。

(2)に続いて伊藤博文関連の著作だが、何しろ近代日本最重要最優秀の政治家であることは、ほとんどの人が同意するであろうから、別にバランスを失しているわけではないと思う。

実は、これも伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)を採用しようか、かなり迷いました。

伊藤之雄氏の著作の方が、網羅的であることは間違いなく、これを選べば、ほぼ明治全ての政治史がカバーできる。

しかし通読にはやはり相当骨が折れるし、初心者が内容をしっかりと読み取れるか疑念が残るので、あえてポイントが絞られた瀧井氏の本を選びました。

日清戦争の記述がほとんど無い点については、(3)でフォローされているということにします。

加えて、あえて付け加えれば、小林道彦『児玉源太郎』(ミネルヴァ日本評伝選)は優れた伝記であり、明治政治史全般を理解する上で有益な本です。

伊藤之雄『山県有朋』(文春新書)および井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)も同様。

 

 

以上、明治終わり。

続いて「大正」。

ここは1冊だけ。

(6)岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)

この岡崎氏の日本外交史シリーズは、「近代日本」カテゴリのごく初期の段階で紹介していることから分かるように、かつては自分の中でその種の本の決定版だと考えていました。

その後、岡崎氏の政治的見解にかなりの疑念を感じるようになって、そうした確信も相当薄れ、だからこそ残りの『陸奥宗光とその時代』『小村寿太郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』は採用しないのですが、この巻だけは依然非常に優れていると思います。

他に適切な本を読んでいないこともあり、これでいきましょう。

上で触れた伊藤之雄氏の伝記作品で、『原敬 上・下』(講談社選書メチエ)があり、これを読んだ後では、ひょっとしたら入れ替えを考えるかもしれませんが、未読なのでリストには入れず、その存在だけは紹介しておきます(追記:読了したのでリンク追加。この記事のリストはそのままにしておきますが、結論を言うと、入れ替えた方がいいと思わせるほどの傑作でした)。

 

 

そしていよいよ「昭和戦前期」に入ります。

我が国が有史以来最悪の敗北を経験し、その歴史に大きな屈折を余儀なくされた時代です。

まず、これを挙げましょう。

(7)川田稔『満州事変と政党政治』(講談社選書メチエ)

昭和陸軍内部の皇道派・統制派という派閥対立についての説明が非常に詳細でしっかりしているのが長所。

初心者にとって効用が非常に高い著作です。

なお、類書の高橋正衛『二・二六事件』(中公新書)同『昭和の軍閥』(講談社学術文庫)は初心者向けとは言い難く、私としてはお勧めしません。

次にこれ。

(8)服部龍二『広田弘毅』(中公新書)

昭和戦前期の日本外交の破滅的失敗を省みる上で、外相・首相を歴任したこの広田弘毅という人物を通じて見ることはかなり有益かつ便利である。

本書はその期待に違わぬ、しっかりとした内容と読みやすい叙述形式を持っている。

類書として、これも挙げておこう。

(9)大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書)[『日中戦争への道』(講談社学術文庫)]

日中戦争の通史ではなく、戦争の泥沼化に至る過程を分析し、それを回避する為に何が必要だったのかを考察する外交史の名著。

実は、再読したところ、初読の際ほどの好印象は持てなかったのだが、それでも充分勧められる本ではあります。

なお、同じ著者の『真珠湾への道』(講談社)はやや評価が落ちるので、興味のある方だけご覧下さい。

ちょっと前に話題になった、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)も悪くないが、このリストに加えるのは止めておきます。

興味のある方は一読してもいいでしょう。

昭和期の対外戦争の具体的経過についての知識を得る為の本としては、やや古いですが、臼井勝美『満州事変』(中公新書)同『日中戦争』(中公新書)児島襄『太平洋戦争 上』(中公文庫)『同 下』(中公文庫)を挙げておきます。

(知名度はあるが、戸部良一 他『失敗の本質』(中公文庫)は勧めません。)

ちょっと時代を戻して、軍部台頭前の政党政治時代については、絶対に外せない、この名著があります。

(10)筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』(ちくま新書)

ここ最近読了した本の中では、最大の収穫でした。

史実をよく整理された形でわかりやすく叙述し、その後で穏当で説得的な史的評価を記して、歴史的教訓を明解に読者に示す、という歴史叙述のお手本のような本。

記事中に書いたように、著者の意見の全てを肯定するわけではないが、本書が卓越した傑作であることは間違いないと思います。

政党政治終焉後の政治史については、さらに同様の傑作があります。

(11)坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)

驚くほどの独創性と面白さをもった歴史叙述です。

これも絶対に外せません。

私も含め、ほとんどの方は、著者による史実の整理と評価の鮮やかさに感嘆を禁じ得ないでしょう。

そして、戦前・戦後を通じて在位した昭和天皇の伝記を通じて、時代を理解するのも有益です。

最初、古川隆久『昭和天皇』(中公新書)が適切かなと思っていたのですが、再考してこれにします。

(12)伊藤之雄『昭和天皇伝』(文芸春秋)

練達の歴史家の手に成る、非常に信頼性が高い著作。

昭和史全般の概説としても使用可能。

福田和也『昭和天皇』(文芸春秋)は、上記の著作などを含む様々な本を参考にして、著者独自の情景描写で読ませるが、巻が進むほど内容が粗くなる気がする。

 

 

「昭和戦後期」に行きます。

まず、以下の概説を選択。

(13)高坂正堯『一億の日本人 (大世界史26)』(文芸春秋)

刊行は1960年代末で、相当古い上に、入手困難。

終戦から20年余りしか経っていない頃の作品で、戦後政治史としては、終戦後70年を超えた現在までの、半分もカバーしていない。

当然多くの限界はある。

しかし、まだしも入手し易い、同じ高坂氏の『宰相吉田茂』(中央公論社)をあえて避けて、これを選んだのは、初心者がより読み易い叙述形式が採られているのと、左右のイデオロギー対立の中、何とか歴史的共通認識を形成しようとする著者の真摯さ故です。

じっくり読みかえすと、非常に多くのものが得られた著作でした。

しかしさすがに戦後史がこの1冊というわけにもいかないので、網羅性に配慮して、

(14)五百旗頭真 編『戦後日本外交史』(有斐閣)

を採用。

「傑作」というほど、心には残らなかったが、それなりに有益な本であることは間違いない。

戦後外交史の概説としては、充分使える。

なお、日米関係と並んで、戦後日本の最重要の外交課題であった日中関係については、服部龍二『日中国交正常化』(中公新書)が非常に良質なテキストになります。

 

 

時代別の紹介は一応終わりました。

最後に「通史」として、この1冊を挙げて、ラストを飾る。

(15)坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)

当然、同じ著者の(1)や(11)と内容が重複する部分はあるが、それ以外の時代の叙述は貴重極まりないし、同時代の章でも新たに付け加えられた見識がある。

通史としては、現時点では、やはりこれがベストでしょう。

正村公宏『日本の近代と現代』(NTT出版)は、ありきたりの教科書的著作ではなく、著者独自の見解がにじみ出た作品だが、強いて選択するほどではない。

 

 

 

まあ、こんなもんですかね。

以下、全15冊のリストです。

 

(1)坂野潤治 大野健一『明治維新 1858―1881』(講談社現代新書)

(2)坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)

(3)陸奥宗光『蹇蹇録』(ワイド版岩波文庫)

(4)佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史21)』(講談社学術文庫)

(5)瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)

(6)岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)

(7)川田稔『満州事変と政党政治』(講談社選書メチエ)

(8)服部龍二『広田弘毅』(中公新書)

(9)大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書)[『日中戦争への道』(講談社学術文庫)]

(10)筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』(ちくま新書)

(11)坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)

(12)伊藤之雄『昭和天皇伝』(文芸春秋)

(13)高坂正堯『一億の日本人 (大世界史26)』(文芸春秋)

(14)五百旗頭真 編『戦後日本外交史』(有斐閣)

(15)坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)

 

 

自分では近代日本史についても、そこそこは読んできたつもりなんですが、やはりちょっと厚味に欠けるかもしれない。

以上のリストを見ると、そう思う。

もう少し、より良いものになる可能性もあったかもしれませんが、これが私の限界です。

初心者が無理なく読める範囲内で、一定の冊数制限の下で選ぶ、ということなら、このリストの意義も多少はあるかもしれません。

少しでも参考にして頂ければ幸いです。

 

 

全10冊、とはいきませんでしたが、15冊とかなり絞り込んだんで、読了するのは比較的難しくないかと思います。

ただ、その代わり、漫然と読まない方がいいです。

あえてアドバイスすると、常に年代を意識しながら読んで下さい。

このブログでも何度か触れていますが、とにかく歴史を学ぶ上では、年号を記憶することが絶対に必要です。

「また面倒で嫌なことを言い出しやがったな」と思われること必定でしょうが、これに関しては一切妥協できません。

重要な史実と史実の前後関係もわからずに、史観がどうのこうの言っても意味が無い。

そんな史観自体が皮相で安易なものである可能性が大きい(引用文(内田樹6)、 高坂正堯『大国日本の世渡り学』(PHP文庫))。

自分自身を振り返っても、少し違う分野の諸史実の年号を暗記して、それをツールとして利用することによって、視野が啓け、全体的な歴史理解が容易になったという経験を何度もしています。

 

 

ただし、最初に皆さんにした質問の件ですが、別にあれを答えられなくても、何も恥ずかしくありません。

そんなことを知らなくても、立派で良識のある社会人でいることは充分可能です。

ただ、最重要史実の、あの程度の順番も答えられないのに、近代日本の歴史認識について、匿名のネット上で、党派心の虜になって、反対者を口汚く罵倒・嘲笑・中傷するような真似だけは、絶対止めて下さい。

国と社会にとって有害無益です。

そんなのは言論の自由の範囲内には入りません。

ネット上で他者に罵詈雑言を浴びせかける前に、1冊でも多く本を読んで、自分の知識と見識を高める努力をして下さい。

自戒を込めて、そう記して終わりにします。

2016年11月4日

坂野潤治 『日本近代史』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:41

1857年から1937年までの80年間の近代日本史を独自の切り口と史観で叙述した本。

 

時代区分は以下の通り。

1.1857~1863年  「改革」 公武合体

2.1863~1871年  「革命」 尊王倒幕

3.1871~1880年  「建設」 殖産興業

4.1880~1893年  「運用」 明治立憲制

5.1894~1924年  「再編」 大正デモクラシー

6.1925~1937年  「危機」 昭和ファシズム

 

本書の対象外だが、1937年以降は「崩壊の時代」となる。

とにかく内容が濃い。

いつもの調子でメモを取っていると、一体どれくらいの長さの記事になるのか見当がつかないので、「どうしてもここだけは」というくらい印象深い文章を引用し、論旨の骨格だけを示すことにします(と言ってもやはりとんでもない長さになりましたが)。

 

 

まず第一章。

 

ペリー来航(一八五三年)に象徴される欧米列強の軍事的圧力は、日本古来の伝統(「尊王」)と二五〇年余にわたるもう一つの伝統(「攘夷」)を結びつけた。この二つの「伝統」が「水戸学」や吉田松陰などにより「尊王攘夷」という一つの「国是」に合体した時、日本に強固な原理主義が登場したのである。

・・・・・・

「尊王攘夷」と「佐幕開国」の対立を克服することは、きわめて困難な課題であった。それは対外政策の基本的な対立であっただけではなく、「尊王」か「佐幕」かという国内政治体制の根本的な対立でもあったからである。一八五三年のペリー来航から六八年の明治維新までの一五年間の日本は、この二つの根本対立の落としどころを求めて、悪戦苦闘しつづけたのである。

・・・・・「公武合体」と「尊王攘夷」の二つの幕府批判勢力が正面から衝突した、一八六三(文久三)年から六四(元治元)年の時期・・・・・幕府支持の会津藩と公武合体論の薩摩藩が手を結んで、尊王攘夷の長州藩の孤立化を謀った・・・・・「文久三年八月一八日の政変」と「禁門の変」(一八六四年)の名で知られる事件である。

しかしこれでは、かつての「佐幕開国」が「公武合体開国」に替わっただけで、「尊王」と「攘夷」の二つの「国是」は長州藩が握りつづける。長州藩一藩では、軍事力でも経済力でも、幕府と有力諸藩の連合には敵わないことは明らかである。二つの「国是」を守ろうとする長州藩には、反「開国」派と反幕府派の双方が同情を寄せていた。一八六四年の禁門の変で長州藩に「朝敵」の汚名を負わせただけでは、「尊王攘夷」問題を消滅させることはできなかったのである。

唯一の解決策は、「攘夷」か「開国」かの問題を棚上げにして、「尊王」か「佐幕」かに選択肢を絞り込むことであった。そうなれば薩摩と長州は「尊王倒幕」で手を握ることができる。日本古来の「国是」であった「尊王」によって、たかが二五〇年来の「国是」にすぎない「鎖国」を包み込むことができれば、「公武合体」を重視する有力大名が幕府を支持する根拠は薄くなる。

「開国」―「攘夷」の対立が棚上げされた時には、有力大名の声を重視せよという「公武合体」の要求は、大名だけではなく、有力家臣の意向も尊重せよという「公議輿論」の要求に発展してきた。こうして「尊王倒幕」と「公議輿論」が有力大名とその藩士たちの共通のスローガンになった時、「悪戦苦闘」・・・・・は終わりを告げ、事態は明治維新に向けて急転回していく。筆者の仮説は、その時点は一八六四年にあり、その推進者は薩摩藩の西郷隆盛だった、というものである。

 

 

 

第二章。

 

一八六七(慶応三)年六月の薩土盟約、一〇月の大政奉還、一二月(一八六八年一月)の王政復古までの半年間は、改革派も保守派も一つの枠組みの両端で動いていた。権力の頂点に天皇がつき、その下に公卿と、徳川慶喜をも含めた有力大名(もしくはその代行)が上院を構成し、彼らの家臣で改革の実践的部分であった者たちが下院を構成するという新体制構想が、大枠になっていたのである。

この大枠を右の極点に行けば、すでに紹介した一八六三(文久三)年末の「参預制」に似てくる。参預制の時には将軍は将軍のままで有力大名の意見を尊重するので、「大政奉還」以後とは制度としては大きく異なる。しかし、「大政奉還」に続く「王政復古」で打ち出された総裁、議定、参与の「三職制」のナンバー・ツー(たとえば「副総裁」か「議定筆頭」)に徳川慶喜がつくとすれば、それは実質的にはかつての「参預制」とほとんど変わらない。「徳川八百万石」、「旗本八千騎」といわれた徳川家の長として、慶喜が「議定筆頭」の地位を新政府内で占めれば、「参与」にしかなれなかった薩長の下級武士には対抗策はありえない。幕末期を通じて「改革派」の有力大名が唱えてきた「公武合体」が完成してしまうのである。

他方、「参与」という中央政府の最下位にしかなれない(あるいは「薩土盟約」段階では「下院」議員にしかなれない)薩長土三藩の下級武士たちにとっては、この大枠を左の極点まで推し進めて、「参与」=「下院」が実権を握れるようにする必要があった。しかも一八六四(元治元)年に西郷隆盛が島津久光の弾圧をはねのけて五年間の流刑から帰藩して以後は、「下級武士」は有力藩の「軍部」と同義語になってきた。一八六四年に薩摩藩の軍賦役になった西郷隆盛と軍役奉行になった伊地知正治の鳥羽・伏見戦役以後の活躍を見れば、このことはおのずから明らかになる。

同様のことは、一八六六(慶応二)年初頭の薩長同盟以後の長州藩における品川弥二郎や大村益次郎の活躍についても言える。「下院」が「参与」になり、さらには「軍部」になっていったのである。さらに、藩の中心が慶喜の「公武合体」路線の中心的支持者であった土佐藩においても、前藩主の山内容堂や参政の後藤象二郎に対抗して、土佐藩「軍部」の板垣退助や谷干城らが、薩長両藩の「軍部」との提携に努めはじめていた。

・・・・・・

のちに明治元年となる慶応四年一月の明治新政権は、このような「右」と「左」の二大勢力の対立の上に、文字通り右往左往していたのである。

・・・・・・

一八七一(明治四)年七月の廃藩置県の断行は、一八六四(元治元)年頃に始まった「革命の時代」の終焉を告げるものであった。当初の議会構想のうち、上院を構成するはずだった藩主層の発言力は次第に後退し、ついには藩自体が解体させられたのである。幕府を倒し、藩体制をも倒した時、下級武士を指導者とする幕末・維新革命は完了した。

しかし、革命の完了だけでは新体制はできあがらない。時代は「革命」から「建設」へと大きく変化していく。しかも「革命」期の指導者の資質と「建設」時代のそれとは別ものであった。西郷隆盛の時代もまた終わろうとしていたのである。

 

 

 

第三章。

 

それぞれの国家目標に基づく、「富国」派の大久保利通(と大隈重信)、「強兵」派の西郷隆盛(と山県有朋)、「憲法」派の木戸孝允(と井上馨)、「議会」派の板垣退助、という以上四派の合従連衡・消長盛衰で明治初期の政治を分析する。

岩倉使節団が「富国」「憲法」派、留守政府が「強兵」「議会」派。

維新と戊辰戦争を遂行した「軍部」の発言権増大を背景にまず「強兵」派が突出。

それが朝鮮・台湾・樺太という三つの対外問題で噴出。

ただし薩摩出身者を中心とする「強兵」派の外征論も、どの地域で強硬策に出るかで対立あり。

まず1873(明治六)年、征韓論政変で西郷・板垣の「強兵」派・「議会」派が下野。

翌74年、「富国」派大久保が「強兵」派との妥協で、台湾出兵を実行。

これに反発して、代わりに「憲法」派の木戸が下野。

だが、大久保は、懸念された日清開戦を回避することに成功。

75年、大阪会議で木戸と板垣が一時政府復帰、「富国」「憲法」「議会」三派が結集、同年江華島事件と翌年日朝修好条規締結で、日朝関係も戦争に至ることなく小康状態へ(加えて樺太・千島交換条約も結ばれる)。

対外危機の終息で外征論という梃子を失った「強兵」派は政府外で孤立した挙句に西南戦争で鎮圧、立憲制樹立についての急進論か漸進論かで、「憲法」派木戸と「議会」派板垣は決裂、その結果「富国」派全盛の「大久保独裁」とも言われる情勢がもたらされ、「殖産興業」のスローガンの下、国家主導の工業育成政策が遂行される。

しかし、大久保のこの「殖産興業」は、それらの成否とは直接関係のない税収減から、彼の死の二年後には完全に行き詰った。一八八七(明治二〇)年までの日本の直接税は、土地所有者に掛けられる「地租」だけであり、しかも金納固定税であった。

・・・・この制度の下では税金に物価スライド性が全くないから、不景気の時には財政が豊かになり、好景気の下では租税の実収は減少する。極端な言い方をすれば、財政の健全化を計ろうとすれば、デフレ政策を採用するしかないシステムだったのである。

・・・・・・

西南戦争の戦費調達と、物価騰貴による地租収入の半減とを原因とする財政危機の打開策で、一番簡単で有効なのは、地租の増徴だったであろう。しかし、明治政府は独裁国家ではなかった。・・・・・地租がただ一つの直接税であり、その増税は北海道から沖縄まですべての土地所有農民に一律に影響する・・・・・納税者の間に利害対立が全く存在しなかったのである。そのような増税は、普通の「独裁国家」では断行しきれないであろう。

・・・・・・

巨額の不換紙幣を抱えた政府が、物価騰貴による税収減に直面し、しかも増税が不可能だったとすれば、「富国」派の存続はもはや不可能だった。一八八〇(明治一三)年一一月に・・・・公布された・・・・工場払下条例・・・・とは、「富国」派の挫折を象徴するものであった。

「富国派」「強兵派」「憲法派」「議会派」の四者の路線対立を軸に描いてきた「建設の時代」は、一八八〇年をもって終焉したのである。

 

 

 

第四章。

 

「士族民権」に刺激を受け、地租を負担する農村地主層の「農民民権」が台頭。

それへの対応をめぐり、政府内で、二つの路線が対立。

緊縮・デフレ政策を断行し、デフレで加重された地租軽減を求めるであろう議会の権限を制限しようとする松方財政および井上毅のプロイセン型憲法論で、岩倉具視、伊藤博文が支持。

そして、「殖産興業」路線を継続して台頭する「農民民権」の支持を獲得・与党化し、その上に立って議院内閣制を樹立しようとするのが大隈重信と在野の福沢諭吉ら交詢社系などの知識人。

一方、板垣退助、植木枝盛らは、直接の政権参加自体を目指さない、「拒否権型議会主義」を提唱、大隈・福沢路線と対立。

・・・・・両者の対立は「自由民権運動」と総称される運動の中での、指導部と支持者の対立であった。さらに言えば、交詢社という福沢諭吉が率いる都市知識人と、板垣退助率いる元祖民権結社とが、新たに台頭してきた「農民民権」の支持獲得を争ったのが、一八八一(明治一四)年の政治状況であった。そして、この二つの国会開設論者の競合の中に新たに割り込んできたのが、井上毅らの保守的立憲制論者だったのである。

この三つ巴の立憲制論の競合を想定してみると、「明治一四年の政変」と呼ばれる同年一〇月の大隈・福沢派の敗北の理由が透けて見えてくる。保守派の井上毅と急進派の板垣退助や植木枝盛の間には、憲法による行政権の制限を求めないという共通性があったからである。

・・・・・・

この右と左の奇妙な棲み分けが、大隈・福沢路線の敗北をもたらした。政府の側では大隈とその系列の中堅官吏が罷免され、運動の側では憲法ではなく議会掌握を重視する板垣退助が勝利したのである。「明治一四年の政変」(一〇月一二日)と自由党の結党(一〇月一八日)がそれである。

・・・・・・

これらの都市型知識人たちは、政府内部の国会開設論者の大隈重信と在野の板垣退助を結合させて、伊藤博文や井上毅に代表される保守的な政府指導者を一掃することをめざしていた。しかるに板垣は彼らの要望を一蹴して、政党結成の地盤作り・・・・に向かったのである。

・・・・・保守派と急進派が生き残り、その中間に位置したリベラル派が、政府内と運動内での勢力を一挙に喪失したのである。

議会開設前の大同団結運動においても、板垣らの「拒否権型議会」論が大隈らの「参画型議会」論に対し優勢を維持、最初の総選挙で自由党が改進党の三倍の議席を獲得。

その結果、国会運営は困難を極める。

明治憲法の欠陥としては、第十一条の統帥権独立と第五十五条の国務大臣単独責任制がよく指摘されるが、憲法制定当初、問題になったのは第六十七条の「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出(中略)ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」という条文。

衆議院の行政費・軍事費削減要求はこの六十七条を盾に政府が拒否、政府の地租増徴要求は衆議院が拒否。

政府と衆議院とが正面衝突している限り、歳出と歳入はともに減らないかわりに、ともに増えないのである。

一八九〇(明治二三)年に発足した日本の立憲制は、一九〇〇(明治三三)年に維新の元勲伊藤博文と、板垣退助率いる自由党(憲政党)とが大連合を組んで立憲政友会を結成するまでの一〇年間、この憲法体制の着地点を探って模索を続けた。いわば作文にすぎなかった憲法条項を、「運用」の観点から、政府と衆議院の双方が試行錯誤を繰り返したのである。

星亨ら自由党内の現実主義派は、「民力休養」「地租軽減」をあきらめて公共事業拡充を意味する「民力育成」への転換を模索し、日清戦争直前、一八九三(明治二六)年の「和協の詔勅」がその機会を提供した。

・・・・・詔勅の言う「和協」、すなわち行政府と立法府の「和協」を、政治的にどう実現するか・・・・・論理的には、両者の提携による「大連立」か、両者を縦に二分する二大政党制以外の選択肢はなかった。

前者の「大連立」方式を採れば、戦後のわれわれが長く経験してきた、官僚と与党との恒常的提携、すなわち「五五年体制」とか「自民党の一党優位制」のようなものになる。逆に後者の途を採れば、伊藤博文系官僚と自由党(憲政党)が結んだ一九〇〇(明治三三)年の立憲政友会と、保守系の山県有朋系の官僚と(名称はたびたび変わるが)改進党の後身とが結んだ立憲同志会との間の二大政党制になる。

面倒なのは、保守系の山県系から出た桂太郎が結成した立憲同志会(一九一三年)が、伊藤博文や西園寺公望の後を継いだ原敬の立憲政友会にくらべて、より自由主義的だったことである。軍部と官僚閥の牛耳をとってきた山県閥が、より自由主義的だった伊藤、西園寺、原の率いる政友会よりも、自由主義的な政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を結成してしまったのである。

このため今日においても、「大正デモクラシー」という言葉を聴いて、立憲政友会の「平民宰相」原敬を想起するか、それにとって代わってロンドン海軍軍縮を実現した、立憲民政党の浜口雄幸を思い出すかは、人それぞれという状況が続いている。この千差万別の歴史認識はニ一世紀の日本をリードする政界や言論界においても、継承されている。

 

 

 

第五章。

 

藩閥官僚と、農村地主を地盤とする自由党(憲政党・政友会)の妥協により、日本の議会政治は軌道に乗った。

その際、自由党がその綱領を「地租減税」から「積極主義」に変更したことが梃子となった。

著者によれば、次の課題は都市商工業者、労働者、小作農にも普通選挙制で参政権を与え、二大政党制を確立することだった。

日清・日露の擬似的総力戦によって、一体感と平等意識を強めた国民各層がそれを求める。

さらに当初劣勢だった立憲改進党(→進歩党→憲政本党→国民党と党名変更)も党勢を自由党系に匹敵するまでに高めてきた。

だが、政友会最大の実力者原敬は、桂園時代に典型的に見られるように、政友会一党優位制を維持し、自党と藩閥官僚との協力による政治運営を継続することを目指していた。

戦前日本の官僚と農村地主の結合の中心になったのは、一九〇〇(明治三三)年に藩閥政治家の伊藤博文を総裁に戴いて、かつての自由民権家たちが結成した立憲政友会であった。そして、自由党(憲政党)を率いてこの立憲政友会を結成させた中心的指導者が星亨であり、星が創った政友会を安定的な大政党に築き上げたのが、今日もなお「大正デモクラシー」を代表する政党人と誤解されつづけている、平民宰相原敬である。・・・・・原敬は一九ニ一(大正一〇)年に非業の死を遂げるまで、二大政党制と普通選挙制に反対しつづけて「再編の時代」を阻みつづけた、保守的な政党人だったのである。

この文章に見られるように、著者の原に対する評価は決して高くない。

陸軍の突出した自己主張によって、その山県系官僚閥と政友会との「官民調和体制」が破綻したのが大正政変。

「大正政変」は、陸軍、海軍、政友会、金融界、実業界、都市中下層などの多様な利害対立の複合によってもたらされたものである。陸軍と官僚層と貴族院を握る藩閥勢力と、「積極主義」を掲げて農村地主を味方につけた政友会との協調だけでは、これらの諸利害の調整がつかなくなってきたのである。本章の表題たる「再編」の時代がようやく始まったのである。

だが、この第一次護憲運動は、著者によれば、以下のような「ねじれ」を抱えていた。

「閥族」の代表桂太郎との間で政権のたらい回しを長年続けてきた政友会、財政悪化の責任を陸軍や海軍と同様に背負うべき政友会が、一朝にして「閥族打破・憲政擁護」の推進者に転じたのである。変革されるべき対象が変革の先頭に立っているような運動の成果は初めから限られていたのである。

政友会が「閥族打破」の先頭に立ったことは、政友会に代わって政権を担当しようとしてきた野党国民党にも打撃を与えた。政権担当意欲の強かった「改革派」と呼ばれた主流派が、かつて自由党が「閥族」の伊藤博文と合体して政友会を結成したように、国民的非難の的になっていた「閥族」の桂太郎の新政党(のちの立憲同志会)に馳せ参じたのである。

続いて成立した海軍と政友会の連立内閣である山本権兵衛内閣がシーメンス事件で倒れ、大隈内閣成立。

この内閣によって「再編の時代」が本格的に到来したと著者は述べる。

原敬の政友会一党優位制の没落、立憲同志会の与党化と総選挙での大勝による二大政党制の確立がその理由。

だが大隈内閣は二十一ヵ条要求という失策を犯し、大戦景気で富裕化した農村地主の支持を回復し政友会が勢力回復。

続いたのは寺内正毅超然内閣だが、外交面では、強硬な対中政策を転換し、対米協調重視に向かい、幣原喜重郎外務次官、田中義一参謀次長を留任させ、この方針転換を実施させたこともあり、著者の評価は意外にも高い。

米騒動の後成立した、「本格的政党内閣」原敬政友会政権は、先に述べたように普通選挙制と二大政党制に反対。

1921年原敬暗殺、高橋是清内閣の後、22年海軍の加藤友三郎内閣が後継になったことは、桂園時代以来、政友会の常套的手法で、その後の政権返還を見越したものとも考えられた。

しかし、政友会を原から継いだ高橋是清は参謀本部廃止論を唱えたこともあり、元老の信頼が無く、第二次山本内閣、清浦奎吾内閣と非政党内閣が続く。

ここで高橋政友会は方針を転換、清浦与党となった政友本党の分離を甘受しても、憲政会(1916年立憲同志会が改称)と第二次護憲運動を展開、その結果護憲三派の加藤高明内閣成立、普通選挙が実現。

 

 

 

第六章。

 

1920年代前半、原・高橋の政友会は、国内では普通選挙に反対する一方、外交面ではワシントン体制へ参加し、国際協調主義を遵守していた。

一方、加藤高明の憲政会は、普通選挙を主張する一方で、対華二十一ヵ条の要求を依然として正当視する側面を持っていた。

・・・・以上・・・・比較すれば・・・・国内の民主化については憲政会が、対外政策については政友会の方が、進歩的だったことが明らかになる。細かい留保をつけずに単純化すれば、「平和と民主主義」を両党が分かち合っていたということができよう。

このような状況の下で二大政党制が成立すれば、「危機の時代」にはならなかったであろう。政友会と憲政会のどちらが政権についても、「平和」か「民主主義」のどちらかが担保されるという二大政党制は、面白味には欠けても、極端な右傾化はもたらさないからである。

(個人的には、「極端な右傾化」をもたらしたのは「民主化の進展」と「民意の暴走」自体が主因であろうし、この観察はやや表面的にも思えるが、見方としては面白い。)

だが、護憲三派内閣成立を機に、憲政会は幣原外交の国際協調主義と中国内政不干渉政策を採用、その対外路線は著しく穏健化。

一方、原・高橋の跡を継いだ田中義一総裁の下、政友会はその内外政策を大きく右傾化させる。

以上により明らかなように、護憲三派内閣から政友会が離脱した一九ニ五(大正一四)年七月末以来、憲政会(民政党)と政友会の対立点は、外政においても内政においても、明確になってきた。正確に言うためにはいくつかの留保をつけなければならないが、単純化して言えば、「平和と民主主義」の憲政会(民政党)と、「侵略と天皇主義」の政友会の、二大政党制が発足したのである。

二大政党間の相違が曖昧な方がいいのか、鮮明な方がいいのかは、一般的には断定できない。「保守党」と「自由党」の対立幅が小さいことにイギリスの二大政党制の利点を見出したのは、一八七九(明治一二)年の福沢諭吉であった・・・・・

第一次大戦後から一九三二(昭和七)年の五・一五事件までの十数年間の政治においては、政友会と憲政会(民政党)が内政と外交において一長一短であった一九二〇年代前半の時代の方が、政治の安定と進歩に役立ったように思われる。両党のどちらが勝っても、「平和」か「民主化」の一つは担保されるからである。反対に、憲政会(民政党)が勝てば「平和と民主主義」が、政友会が勝てば「侵略と天皇主義」が強調されるという一九二五年から三二年にかけての二大政党制は、政党政治だけではなく、日本国家そのものを「危機の時代」に導いた一因だったように思われる。

二大政党の政策分極化は経済政策の面でも存在し、しかもこの場合、憲政会(民政党)がよりによって恐慌時に緊縮財政と金解禁を実施するという根本的に間違った態度を採り、社会不安と政治危機を深刻化させた一方、政友会の方は元総裁高橋是清の主導で積極財政を採用し、経済危機を克服するという現象が生まれる。

(はっきりとした記述は無いが、この経済政策の面での政友会優位は、たぶん著者は肯定的には評価していないでしょう。むしろ[著者の言う]民政党の「平和と民主主義」への支持を失墜させる効果しか無かったでしょうから。)

そして、昭和戦前期の危機をもたらす直接的原因となった軍部の急進的中堅将校に関する記述を以下に引用。

陸海軍青年将校と民間右翼の横断的結合は、本書第1章で検討した幕末期の薩長土三藩の下級武士と脱藩浪士の横断的結合と、形の上では酷似している。しかし、国が上昇過程に入った時と下降局面に入った時とでは、「下剋上」のもたらす結果が全く異なる。古めかしい表現を使えば、明治維新が「革命」であったのに対し、昭和維新は「反革命」だったのである。

「革命」か「反革命」かを分けるのは、「天皇制」の問題ではない。幕末の「開国」か「攘夷」かの対立にもかかわらず、明治維新に向かうすべての革命勢力は、「尊王」だけでは一致していたのである。この点では、明治維新と昭和維新の間には、相違点は見出せない。

両者の大きな相違は、対抗エリートの質の問題である。上昇局面では、その時代の最高の知識人だちが「対抗エリート」を補佐した。すでに第1章で記したように、幕末期の島津斉彬の下には、雄藩大名だけではなく、時の中央政府(幕府)の一流の洋学者たちが馳せ参じた。斉彬の遺志を受け継いだ西郷隆盛も、勝海舟を介して、横井小楠、大久保一翁ら幕府系知識人の最先端の知見を吸収していた。「尊王攘夷」の方で有名な幕末の志士たちは、実は「開国進取」の最先端を走っていたのである。・・・・・・天皇親政を唱える陸軍青年将校の導師になった・・・反西欧で軍隊の力しか信じられなくなった北一輝には、幕末の西郷隆盛の欧米認識もなければ、「開国派」から「攘夷派」に及ぶ西郷の幅広い人脈もなかった。

1931年、経済恐慌と国内の軍事クーデタの脅威、満州での対外紛争という三重の危機が日本を襲う。

第二次若槻礼次郎民政党内閣はこれに有効に対処できず。

ここで生まれたのが、政友会・民政党大連立構想である。

同じ頃、同じ民政党内閣の内務大臣安達謙蔵は、一〇月事件に象徴される軍部のクー・デターと民間右翼のテロの脅威を重視していた。そしてこれらの動きの背後には、金本位制への復帰による農民の生活難と労働者の失業増大という社会不安が存在していた。青年将校の動きを抑え、社会不安の原因である金本位制を廃止するために安達が唱えたのは、民政党と政友会の大連立(「協力内閣」)であった。

昭和初年の日本政治は二大政党制とそれに対する青年将校らの攻撃で知られているが、幣原外交と並ぶ民政党内閣のもう一つの看板であった井上(準之助)財政の放棄を前提にした政民大連立構想は、民政党にとっては有力な選択肢の一つであった。

・・・・・・

もちろん、安達の協力内閣が実現したら、海軍青年将校による五・一五事件が起こらなかったという保証は、どこにもなかった。・・・・・五・一五事件の勃発を止めることは誰にもできなかったと思われる。しかし、安達の言うとおり民政党と政友会を併せて衆議院に約九八パーセントを占める「協力内閣」の首相を海軍青年将校が射殺したとして、それで日本の政党内閣の息の根を止められたであろうか。

しかし、井上準之助蔵相の金本位制へのこだわりが、この協力内閣を不可能にした。・・・・・木戸幸一らと会談した井上蔵相は、金本位制の問題には全く答えず、軍部批判の観点から協力内閣構想を否定している。

・・・・・堂々たる正論であるが・・・・井上がこだわった金本位制の下で、農民や労働者の生活は困窮をきわめ、それがこの三ヵ月後の総選挙での民政党の惨敗の原因となったことは、周知のとおりである。状況をわきまえない「正論」は、政党を奈落の底に追い落とすこともあるのである。

他の本では、この協力内閣構想は実現性に乏しく、またその目的も軍部掣肘の為ではなく、軍に迎合する意図があるものとして、否定する記述をいくつか見ている。

だが、著者は、この政民大連立政権が流れたことを軍部抑制の好機を逸したものと惜しんでいるようだ。

私も、戦前日本が最終的に陥った無残な破局を見ると、(安達自身かなりキナ臭い人物の感があるものの)とにかく何でも試してみたら良かったんじゃないか、後述の宇垣流産内閣よりはひょっとしたら可能性があったんじゃないか、と思っている。

32年陸軍の意向に押され気味の犬養内閣下での総選挙で政友会は圧勝したが、荒木貞夫の陸相就任で一時行動を控えた陸軍急進派に飽き足らない海軍青年将校が五・一五事件を起こし、犬養内閣は倒れ、政党政治も終焉。

以下、同じ坂野氏の『昭和史の決定的瞬間』と内容が重複するが、簡略にメモ。

後継の斎藤実挙国一致内閣で、荒木の陸相留任による陸軍の革新運動の一時的沈静化、高橋財政による経済恐慌克服、満州国承認と連盟脱退の後の国際的小康状態により、三重の危機は一応終息。

こうなると、二大政党をはじめとする各政治勢力が再度自己主張を強める。

一九三四(昭和九)年七月に成立した海軍退役将軍岡田啓介の内閣は、前の斎藤実内閣とは違って、「挙国一致内閣」ではなかった。過半数政党の政友会が「憲政の常道」に反するとして、同党からの入閣者(床次竹次郎・・・・)を除名して、野党の立場を鮮明にしたからである。

政友会は陸軍皇道派と結び「天皇機関説問題」で岡田内閣を攻撃、民政党は逆にひとまずは合法路線を守る陸軍統制派に接近。

議会内で劣勢の民政党は、「内閣審議会」と「内閣調査局」という議会外の機関を設置して、社会政策を推進する姿勢を見せ、革新官僚や合法無産政党である社会大衆党の支持も引き寄せようとする。

こうしてみてくると、岡田内閣は、民政党と陸軍統制派と新官僚と社会大衆党の支持を得て、過半数政党政友会と陸軍皇道派を敵に廻した内閣だったことがわかる。問題はこのような政治状況をどう評価するかにある。

筆者には、政治社会に一種の液状化が生じていたように思われる。陸軍も政党も官僚もそれぞれの内部に分裂が生じており、政治勢力というものが細分化されていた。細分化されたいくつかの勢力を寄せ集めて一時的に多数派を形成することはできても、中期的に安定した政権をつくることは困難になってきたのである。

「余の承知する政治の過程においては、維新後、薩長土肥の争いより、官僚―政党の争いに、次に二大政党の対立となりしが、現在では、政党―軍部―官僚―左傾―右傾、なお進んで政友会の内争、民政の提携非提携の抗争、軍部内派閥の闘争等と、如何にも争いが小キザミと成り来れり。・・・・・」(『宇垣一成日記』・・・・)

宇垣の言う「右傾」は、北一輝や西田税などの民間右翼を指し、「左傾」は先に見た亀井貫一郎らの社会大衆党を意味すると解していいであろう(本当の「左傾」は治安維持法によって、すでに根絶させられていた)。そうなると岡田内閣下の政治地図には、政友会が二派、民政党が二派、陸軍が二派、官僚が二派、左右両極が二派、合わせて一〇派の政治勢力が描かれていたことになる。

このような状況下では、政治の安定を望むべくもないことは、言うまでもない。しかし、ことはそれにとどまらなかったように思われる。支配諸勢力が一〇に分かれるということは、各派のトップだけをとっても、一〇人の指導者がいたことになる。そのような状況は、政治エリートの質の低下をもたらさざるをえない。

宇垣が明治維新以後の政治対立の歴史として描いたもののうち、「薩長土肥」でトップは四人、「官僚―政党の争い」では二人、「二大政党の対立」でも二人である。それが一挙に一〇人に増え、政治対立の組合せも倍増ではすまなくなったのである。一九三五年の日本政治は、政界の不安定化とエリートの質の低下に直面していたのである。

1936年総選挙で民政党が圧勝、社会大衆党躍進、政友会惨敗。

だが、その直後に二・二六事件勃発。

・・・・・宮中と政府の中枢を担ってきた「重臣ブロック」は、反乱によって壊滅的な打撃を受けた。「重臣ブロック」が、民政党と陸軍統制派の支持を受けて右翼的な二大勢力(陸軍皇道派と政友会)を抑え込むというシナリオは、二・二六事件によって崩壊したのである。

しかし、陸軍皇道派と青年将校が政友会の支持を得て一挙に軍事政権を樹立することも、同じく不可能であった。

広範な国民的支持も無く蜂起した青年将校は、昭和天皇個人の激怒も蒙り、鎮圧される。

続く広田弘毅内閣は、五・一五事件後の斎藤内閣と同じ性格の挙国一致政権。

皇道派が排除された後、陸軍の新統制派による国政壟断の気配が強まると、政友会でも反軍的姿勢が強まり、政民連携派が優勢になる。

その表われが、1937年初頭の宇垣内閣実現への動き。

しかし、この期に及んでも、政民二大政党は団結することができず、陸軍の拒否の前に、あえなく宇垣は組閣を断念。

成立したのは、陸軍と財界にのみ支持基盤を置く林銑十郎内閣。

その下で行われた総選挙では政・民両党が拮抗、社大党が再度躍進。

国内体制変革を含む「広義国防」をスローガンにして、統制派と接近して一時親軍的傾向を持っていた社大党だが、この時期には、総力戦準備の為に財界と妥協し、経済・社会機構改革を放棄した(「狭義国防」)陸軍を批判しており、その躍進は反軍的な民意の反映だ、と著者は判断している。

しかし、その後成立した近衛文麿内閣の下で、盧溝橋事件が勃発、泥沼の日中全面戦争と自爆的な日米開戦へと日本は向かうことになる。

本書は、日本が「崩壊の時代」に突入する1937年にて幕を閉じる。

・・・・「崩壊の時代」を避けることはできなかったろうか。流産した宇垣一成の内閣ならば、回避できたかも知れない。宇垣には陸軍の一部と衆議院の多数の支持があり、宇垣も民政党も政友会も、ファッショと戦争に反対していた。その宇垣の内閣を流産させた石原莞爾の「狭義国防」路線でも、日中全面戦争は回避できたかも知れない。これから五年かけて対ソ戦準備のために、飛行機と戦車とそのための重化学工業を育成しようとして財閥の協力も獲得したものが、その前に日中全面戦争に突入したとは思えないからである。戦争勃発後の石原の日中和平交渉はよく知られている事実である。

しかし、この二つの内閣または内閣構想の挫折の後を受けて、一九三七年六月四日に成立した第一次近衛文麿内閣は、成立と同時に、「従来のような対立相克を国内で続けて行くのは、国外で侮りを受ける。出来るだけ相克摩擦を緩和して行きたい」という談話を発表した・・・・。当時の言論界は、これを「国内対立相克の緩和」と標語化した。その標語どおり、近衛内閣は、民政党や政友会だけでなく、財界からも新官僚からも入閣者を得、陸軍も社会大衆党もそれを支持した。すでにたびたび使ってきた表現によれば、それは「小キザミ」化した諸政治勢力のすべてを包摂した内閣であった。

すべての政治勢力に支持された内閣には、基本路線もなければ信頼できる与党的勢力もない。その時々の状況により、右に行ったり、中道に行ったり、左に行くしかない内閣構成だったのである。そのような内閣の成立後約一ヵ月で、・・・・日中全面戦争の危機が生じたのである。「危機の時代」が懐かしくなるような「崩壊の時代」が始まったのである。

・・・・「崩壊の時代」に入っていった最大の原因は、すでに国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからである。そしてこの四分五裂状態は、一九三二年以来五年がかりで深められてきたものであり、いわば勝者なき分裂状態に陥っていた。近衛内閣はこの分裂状態を克服しないで固定化し、そのまますべてを包摂してしまった。日中戦争を途中で停めたり、日英米戦争を回避したりするための政治体制の再編をめざす指導者は、もはや存在しなかったのである。

 

 

 

本書の刊行は2012年である。

東日本大震災の後、戦後復興を成し遂げたことを思い起こして、震災後の復興に積極的に取り組もうとの論調に接した著者は、しかし震災後の我が国は本書の末尾にある1937年の戦前日本、「崩壊の時代」の入り口にいるのではないか、との不吉な予感を述べる。

確かにそう思えないでもありません。

衆愚的国民が形作る「世論」とそれを秘かに誘導する煽動者が絶対的支配者となり、皮相な「多数派意見」以外のあらゆる価値が相対化され、あらゆる極論の蔓延で政治勢力は「四分五裂」し、国家の運営は大衆の「気分」次第で迷走するばかり。

これで国が滅びなければ、相当の幸運です。

もう、いかなる楽観も許されない時代に入ったな、との予感はあります。

たとえ何があっても、結局それが日本の運命なんだと受け入れるしかないでしょう。

 

 

 

刊行当時から常に気にしてきた著作をついに読んだが、やはり圧倒的に素晴らしい。

この人の本には、全くハズレというものがない。

一通りの史実が頭に入っていないとあまり強い印象は受けないかもしれないが、私を含め中級者クラスなら、あまりの面白さに驚倒するでしょう。

絶対にお勧めです。

2016年9月10日

筒井清忠 『昭和戦前期の政党政治  二大政党制はなぜ挫折したのか』 (ちくま新書)

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戦前、「憲政の常道」と二大政党制に基づく政党内閣の時代は、1924年から32年までの八年間しか続かず、六つの内閣しか存在しなかった。

その過程と原因を考察した本で、2012年刊。

 

まず、その前史を記述。

1921年原敬暗殺後、与党政友会は、高橋是清総裁の下、床次(とこなみ)竹二郎派と横田千之助派に分極化。

24年貴族院を中心とする清浦奎吾内閣が成立すると、横田を主導者として政友会は憲政会(総裁加藤高明)・革新倶楽部(総裁犬養毅)と護憲三派を形成、一方床次は政友本党を結成して清浦政権与党に。

第二次護憲運動と総選挙の結果、護憲三派が勝利、加藤高明内閣が成立。

以後、一内閣に一章を割り当て、その政権運営と著者の評価が記されている。

 

 

加藤高明内閣(護憲三派・憲政会単独 1924~26年)

明治憲法下において選挙結果で選ばれた唯一の首相、他は首相となってから解散総選挙を実施し、選挙民の判断を受ける形になっている。

外相幣原喜重郎、内相若槻礼次郎、蔵相浜口雄幸、陸相宇垣一成という重厚な布陣。

施策としては、まず政務次官の設置。

官僚・軍部に対する政治主導の確保と若手政治家育成を意図。

行財政整理およびその一環として宇垣軍縮。

加藤友三郎内閣での山梨軍縮と合わせて、大正デモクラシー下での成果だが、この時期の行き過ぎた軍人への冷遇が反動をもたらし、昭和期には軍台頭の原因となる。

25年政友会有力者で司法相に就任していた横田が死去すると、若槻内相、江木翼(たすく)内閣書記官長の不手際もあり、難航したものの、普通選挙法および治安維持法が成立。

貴族院対策も怠り無く、衆院の優位が確立し、貴族院は実質的に第二院化。

25年死直前の横田の働きで、政友会総裁が高橋から陸軍大将田中義一に交代、その後革新倶楽部が解散、政友会に合流。

憲政会・政友会の対立が深まり、閣内不一致で第一次加藤内閣は総辞職、再度加藤に大命降下で第二次加藤内閣が憲政会単独で組閣。

憲政会は政友本党の床次に接近、これに反発する政友本党内の鳩山一郎らは脱党、政友会へ復帰。

第二次内閣では、同様に「政治主導」の官制改革を進めたものの、政党による猟官運動が「党弊」批判を生み、枢密院改革では親政党化を期して学者任用を進めたが、かえって平沼騏一郎が副議長に就任してしまう。

外交では日ソ基本条約調印。

海軍予算問題で浜口蔵相と海軍の対立を加藤が調停したと書いてあるのを読むと、時代状況がさほど切迫していなかっただけとも言えるが、それでも昭和期に加藤の手腕が発揮されることが無かったのが惜しまれる。

小作争議調停法、改正工場法、健康保険法など社会政策上の成果も上げている。

26年1月、体調不良の中、無理を押して登院した加藤は急死。

 

政治家としての加藤の評価は高い。西園寺公望は「今にして思えば、木戸、大久保、伊藤、或いは加藤高明、やや落ちるが、原敬など、いずれもひとかどの人物だった」(・・・・・)と言っている。・・・・・それにしても驚くべき高評価である。

外国人の評価が高いのも一特質で、チャールズ・エリオット英駐日大使は「着実で落ち着き、まっすぐに進んだ加藤」と言い、エドガー・A・バンクロフト米駐日大使は「率直さと政治家にふさわしい精神が注目に値する」と評している・・・・・。

こうした加藤への高評価からは次のような見方も出てきている・・・・・。すなわち、駐英公大使時代に英国の二大政党制に深く学んだ加藤が、憲政会の責任政党化、政友本党の憲政会吸収の道筋をつけて、以後の二大政党時代を導出したのである。また、“二大政党制は、基本的な問題に対するコンセンサスが政治社会に行き渡っている時に円滑に作動する”(G・サルトーリ)のであり、原と加藤という藩閥政府の超克と政党政治の確立を共通の目標とした二人が指導者であることにより、日本の二大政党制の基礎は確立した。

この見方だと、この時期の二大政党制があまり長続きしなかったことの説明が求められるになるが、それは若槻と浜口の責任ということになる。

すなわち、加藤歿後、憲政会内閣を組織した若槻は、解散と勝利により衆議院に基礎を置く内閣の基盤を固めて、日本政党政治を確立させ得た可能性が高いにもかかわらず、その勇気がなく、話し合いによる政争回避を企図した、結局金融恐慌もあり、若槻内閣は一年余で総辞職した。さらに第二次内閣では満州事変に際し陸軍をコントロールできなかった。若槻は「まれなほど印象に薄い人」「決して一流ではない」(ティリー大使)人だった。

また、加藤の剛毅なリーダーシップに倣った浜口は党を再生させたが、柔軟性に欠け硬直化した指導が多く、極端な緊縮財政で不況を深刻化させ、ロンドン軍縮会議では海軍・枢密院と対立し、軍部・超国家主義台頭の一契機を作ってしまった。

大変鋭い、若槻と浜口に厳しい見方だが、こうした見方の当否についてはこれからの章の叙述そのものが回答になるであろう。

 

以後の記述を見ると、著者はこの見方をおおむね肯定しているようだ。

さらに加藤内閣に代表される憲政会・民政党政権への評価から、太平洋戦争末期と戦後、イギリスは「日本の民主化は明治憲法の修正で可能」と考えたし、米国の知日派は「幣原、若槻、浜口」への信頼から比較的穏和な占領政策を構想することにもなった。

 

 

第一次若槻礼次郎内閣(憲政会 1926~27年)

加藤急死後の組閣、当初は全般的に歓迎された。

だが、政友本党との「憲本協定」運営における不手際、憲政会内部での党人派・官僚出身派の派閥対立の制御失敗で、若槻の求心力は低下。

蔵相が急死、人材難および党人派懐柔のため、かねて放言癖で注意を受けていた片岡直温(なおはる)を蔵相起用。

松島遊郭事件、陸軍機密費事件など醜聞が続発。

だが、この第一次若槻内閣の章で最も重視されているのは、鈴木商店破産・台湾銀行救済をめぐる金融恐慌でもなく、中国の北伐進展と南京事件という外交問題でもなく、朴烈怪写真事件というスキャンダルである。

通常の通史では一切触れられることすらない、些細事にも思える事件を、著者が大きく取り上げるのはなぜか?

それは普通選挙による大衆デモクラシーが本格化した時代の弊害を最もよく表わしているからである。

朴烈は23年関東大震災後に爆弾を準備した大逆罪の疑いで金子文子と逮捕、死刑判決を受けた後、特赦されるが、金子は獄中で自殺。

26年朴と金子が取調室で抱き合っている写真が流出、北一輝を通じて政友会幹部森恪も関係し、大々的に報道され、若槻内閣攻撃の手段となる。

・・・・・若槻は演説し「立憲政治は政策の争いだ 朴烈問題など介意の要なし」と「正論」を吐いたが、それが虚ろに響くように感じられるのは、「政策の争い」だけではすまない事態に立ち至っていることが明白だからであろう。すなわち、近づいている第一回の普通選挙では、こうした政治シンボルをめぐる大衆動員の力量のほうが決定的に重要であるはずなのに、若槻にはその認識が全くないことが如実に感じられるのである。

26年末大正天皇崩御、昭和改元、翌27年与野党対立が激化する中、解散総選挙で雌雄を決することを求める意見が憲政会内で強まるが、若槻は政友会、政友本党首脳と会談、辞意をほのめかしつつ、内閣不信任案提出を回避。

この妥協については、今日の政治史研究者の間にも英国的二大政党政治形成のチャンスを潰したという批判が強い。選挙で憲政会が勝っても負けても第一党が政権党になるという慣行が二度続き、日本の政党政治が確乎なものとなった可能性が高いからである。

若槻の動機としては、普選時代に激増した選挙資金を確保する見込みが無かった他、金本位制復帰のために震災手形処理を議会で通す必要があったからと推測されるが、金本位制復帰自体が全く間違った政策なのだから、若槻内閣の特徴である「大蔵省的発想」は極めて視野が狭く不適切だったと言う他無い。

結局、片岡蔵相の東京渡辺銀行関連の失言で金融恐慌発生、鈴木商店倒産、台湾銀行救済案は南京事件をめぐる「軟弱外交」に不満を持つ枢密院によって否決され、若槻内閣は総辞職。

 

その全般的評価。

足軽家出身者の若槻が総理となったこと自体が示す近代日本の開明性・平等性、加藤・浜口内閣と共通する国際協調主義と戦後改革の先取り、後継となった田中義一政友会内閣高橋是清蔵相の恐慌対策を一切妨害しなかった「政策中心志向」と「公平性」などは肯定的に見ることができる。

しかし、こうしたプラス面よりも、若槻内閣に対しては従来から批判的評価のほうが多い。その場合、論点としては、解散総選挙を避けて妥協した点や金融恐慌時に枢密院と最後まで戦わなかったことを問題視することが一般的であった。

だが、内閣崩壊の実相は、朴烈怪写真事件で追い詰められて妥協や多数派工作を図っていたところに、金融恐慌が発生して最後のKOパンチをくらったということであった。すなわち問題は、普通選挙を控え、政策的マターよりも大衆シンボル的マターの重要性が高まっていたことを若槻が十分理解していなかったことのほうにあるのである。「劇場型政治」への無理解が問題なのであった。

若槻は後年この事件を回想して「反対党は、これを大問題として大騒ぎしたが、私は大問題どころか、詰まらん問題と思う。これを政治論にして攻撃するのは、彼らがいかに攻撃の材料に飢えていたかがわかるのである」・・・・・と著している。

ただし、これは若槻ばかりではなく、元老西園寺公望など多くの人がそうであった。

西園寺は「朴烈問題の如きは左程重大とは思わず」「此頃の憂国者には余程偽者多し。大問題にもあらぬものを捉えて妄りに皇室の尊厳を語り、皇室をかさに着て政府の倒壊を策するものすらあり。・・・・・決して彼らに誤らるる勿れ」・・・・・と語っているのである。

朴烈怪写真事件で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人は、以後これを度々駆使した「劇場型政治」を意図的に展開することになる。我々はこれを次の田中義一内閣に、さらに統帥権干犯問題・天皇機関説問題等に見ることになるであろう。ロンドン条約時の「統帥権干犯問題」を取り上げて、政党人自らが自らの首を絞めたと主張する人は多く、それは間違いではない。しかし、政治シンボルの操作が最も重要な政治課題となる大衆デモクラシー状況への洞察なしに、そのことだけを問題にしても、現代に生きる反省には結びつかないであろう。

逆に言うと、「政策論争」を訴える若槻の主張はまぎれもない「正論」なのだが、それだけでは政治的に敗北するのが大衆デモクラシーというものなのである。健全な自由民主主義的な議会政治(それは政党政治である)の発達を望む者は「劇場型政治」を忌避するばかりではなく、それへの対応に十分な配慮をしておかなければ若槻と同じ運命を辿ることになろう。

この問題をここまで拡大させた根源は、一枚の写真の視覚効果(ヴィジュアル的な要素)が政権の打倒にまで結びつき得ることを洞察した北一輝であったが、彼ら超国家主義者こそむしろ大衆デモクラシー状況に対する明敏な洞察からネイティヴな大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである。昭和戦前期の政治を「劇場型政治」の視点から再度見直していくことの必要性が痛感される所以である。

前半のこの文章で本書の主要な論旨が出た。

戦前日本の軍国主義の真因は、大衆デモクラシーの暴走である。

その過程で「天皇シンボル」を用いた政権攻撃が多発したが、これは「天皇制の弊害」ではなく民主主義の弊害である。

明治初期以来の近代天皇制はすでにこの時点で大正デモクラシーによって換骨奪胎されており、その政争の道具に成り下がってしまっている。

萌芽期の善き自由民主主義が、軍部や天皇制という外部勢力によって破壊されたのではなく、実質的に明治の権威主義体制から脱していた自由な民意が暴走し、自ら対外膨張と国家革新の極右的言動にのめり込んで民主主義が自壊したと考えた方が、はるかに実態に近い。

現に、戦後は今では信じられないほどの左翼偏向が数十年に亘ってまかり通り、21世紀の現在では「天皇抜きのナショナリズム」が蔓延り、「反日」「売国」などの矯激な言葉が圧倒的多数を占める知能程度の低い衆愚層の煽動に用いられている。

 

 

田中義一内閣(政友会 1927~29年)

鈴木喜三郎、鳩山一郎、森恪が中核。

内相鈴木、外相は田中の兼任のため政務次官森が重きを成し、内閣書記官長に鳩山。

陸相白川義則、海相岡田啓介、そして何より注目すべきは内閣初期に短期間蔵相を務めた高橋是清。

極めて短期間に金融恐慌を終息させたことは、著者も言うように日本の財政・経済史に残る不滅の業績である。

この人を殺したことだけでも、私は二・二六の青年将校を許せない。

田中政権下、憲政会と政友本党が合併し、浜口を総裁にして立憲民政党結成。

この際、マスメディアがシニカルな姿勢で「既成政党」の批判と「新勢力」への期待をステレオタイプ的に報道していたことの悪影響を著者は指摘している。

28年総選挙で政友会辛勝。

鈴木内相の選挙干渉をめぐる与野党対立で議員買収や暴力沙汰を含む野党切り崩し工作が行われ、政党政治の信用を貶める。

第二次山東出兵、張作霖爆殺事件発生。

民政党顧問の床次が離党(29年浜口内閣時に政友会復帰)。

パリ不戦条約の文言、「人民の名において」が問題化。

この事件が、またしても戦われた天皇シンボルをめぐる抗争であったことは言うまでもないが、政府攻撃をしたのが野党の民政党であったことも重要である。朴烈怪写真事件は、憲政会=民政党の政府に対して政友会を中心とした野党が攻勢をかけた抗争であったが・・・・・民政党も天皇シンボルをめぐる抗争を仕掛けていたのである。繰り返すが、開始された日本の大衆デモクラシー下の政治抗争においてこのシンボルが持つ大衆動員力には、党派を問わず抗しがたい魅力があったのである。また、こうした点で民政党を過大評価することは実情に即さないということも言えよう。

張作霖爆殺事件処理について、元老西園寺が不明瞭な態度を示した後、天皇の叱責を受けた田中は内閣総辞職。

 

田中内閣崩壊についての著者の視点。

昭和天皇の田中叱責は個人的行為ではなく宮中側近のアドヴァイスを受けたものであり、張作霖事件だけではなく他の政治問題での内閣への不満が原因であること、政党人は天皇シンボル乱用による反対党攻撃が「天皇親政論」的発想を生む危険に無自覚だったこと、知識人やマスメディアもその種のシンボル的問題と既成政党批判をセンセーショナルに論じるだけで二大政党制の健全な育成に意を注がなかったこと。

田中内閣の崩壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒したということであった。これは政党政治・議会制民主主義にとって好ましくない事態である。いかに「腐敗した」内閣であっても、政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道だからである。言い換えると、「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みは、「政党外の超越的存在・勢力」が「軍部」や「近衛文麿」など形を変えて再生され、メディア世論と合体して政党政治を破壊するに至る背景・下地を作ることになったのである。

 

 

 

浜口雄幸内閣(民政党 1929~31年)

外相に幣原が復帰、蔵相は井上準之助。

内相は安達謙蔵、安達は中野正剛・永井柳太郎・風見章を率い、党内勢力を鉄相の江木翼と二分した。

陸相は宇垣一成。

海相は財部彪、山本権兵衛の女婿して昇進、加藤友三郎内閣、第二次山本内閣、加藤高明内閣、第一次若槻内閣でも海相、「何度も海相を務めた割には部内統制力も定見もなかったというのが定説化しているが、浜口内閣では相当の仕事をすることになる。」

緊縮財政と金解禁をよりによって世界恐慌勃発時に実施、昭和恐慌で社会不安が深刻化。

30年第二回普選で安達内相の差配により民政党圧勝。

同年ロンドン海軍軍縮条約で統帥権干犯問題勃発。

鈴木貫太郎侍従長の条約反対派の不適切な上奏拒否、浜口の軍令部への根回し不足を本書では指摘(ただし根回しを十分行っておけば反対派が和らいだという保証は無いとしている)。

さらに、

3月27日の天皇の意思表明[「世界の平和の為早く纏める様努力せよ」――引用者註]は、天皇の国際協調主義・平和志向が表明された行為だが、当時の国内政治状況的にはかなり一面的な行為と言えよう。意見表明をしないのがベストであり、対立する両者の意見を聞き、できればさらに有力者の意見を聞いてから落とし所を図り間接的に伝えるのがベターなのである。これでは結果的に田中首相への叱責に似たものとなったと言えよう。

条約批准後、11月浜口は狙撃され重傷、31年4月総辞職(8月死去)。

 

浜口内閣の評価。

ロンドン条約での浜口政権の国際協調主義とそれが宮中と密接に結びついているという認識が米国側に印象付けられ、「天皇の存在自体が日本軍国主義の淵源ではないという認識に結びつき」、過激で懲罰的な対日世論を沈静化したことを指摘。

ただし、以下のような視点も記されている。

・・・・・ロンドン条約締結は浜口内閣の傑出した成果だが、天皇・宮中グループと新聞世論(回訓後)の強力な支援によってロンドン条約締結という最大の試練を乗り切ったという事実は、実は田中内閣倒壊の際と、かなりの程度同じ政治構造の裏返しの表現であったということがある。

二つもの政党外勢力への依存による政党の勝利には、危いところがあったのである。

国際協調主義の牧野内大臣はその後斎藤実へ内大臣を譲り(1935年)、二・二六事件では二人とも襲われ(斎藤死亡)、最後の防波堤的内大臣と見られた湯浅倉平が病気で退いた(1940年)後を継いだ木戸幸一は、軍部と妥協的になってしまう。すなわち天皇・宮中グループは政党にとって最後まで頼れるような頼りがいのあるものではなかったのである。

さらに問題なのは新聞世論であった。・・・・・回訓後、一斉に条約締結に足並みを揃え“豹変”して世人を驚かせた新聞は、いつどういう方向にまた足並みを揃え豹変するかもしれなかった。それは、1931年の満州事変の前後に、あるいは1940年のナチスドイツの電撃戦勝利下の近衛新体制・大政翼賛会・日独伊三国同盟への転換として現れるであろう。これも心ある政党人にとって頼れるような存在ではなかったのである。

 

 

 

第二次若槻礼次郎内閣(民政党 1931年)

恐慌により、陸軍軍制改革(軍縮)問題が焦点となる。

当時の陸軍は決して一方的攻勢に出ていたわけではなく、大正時代の軍縮以来、その地位は低下し、国民世論の中では今見ても異常なほど軍人への軽侮が蔓延していた。

本書で記されている実例は衝撃的ですらある。

現在では全く忘れられているが、昭和軍国主義の直前には反軍人的風潮の異様な高まりがあったのである。

極端から極端に走り、中庸を得た常識に全く欠ける世論というものの欠陥が最もよく表われている。

軍制改革による圧迫と満蒙問題の急迫という天秤の上に陸軍は乗っかっていたのだが、ぎりぎりのところで、はかりは後者に傾きつつあったとも言えよう。

満州事変と十月事件という内外危機が勃発。

熱狂する世論に迎合して、マスメディア(新聞)は部数拡大を目的に論調を大旋回させ、親軍的報道を大々的に展開。

少し前まで馬鹿げた左翼的論調を飽きもせず繰り広げるしか能の無かったマスメディアとそれをオウム返しにしていた大衆が、ここ十数年ほど、空疎で幼児的な排外的ナショナリズムと自衛隊へのわざとらしい信頼を語るようになっているが、昭和史を振り返ると不吉だなあ、と感じる。

危機が進行する中、安達内相が政友会との大連立、協力内閣構想を主張。

同31年、イギリスではマクドナルド挙国一致内閣が成立している。

しかし、犬養と若槻がある程度意欲を示していた最初期の段階で、よほど巧みな取りまとめ役でもいればともかく、とくに政友会の反主流派的な久原[房之助]が中心に動いたのではこの連立政権構想はリアリティーの乏しい話であったと言うしかないであろう。犬養・鈴木・森などの政友会主流派幹部は動かず、しかもわざわざ金解禁政策に反対することを決議しているのは、協力内閣は作らないということなのである。政党が陸軍を抑える機会を失ったということであれば惜しまれるが、井上の言ったように、そもそも陸軍を抑えるつもりなのか押し立てるつもりなのかさえもはっきりしていなかったのが協力内閣運動の実態なのであった。

12月閣内不一致で若槻内閣は総辞職。

 

まとめ。

行財政改革と軍縮を目指す内閣・新聞世論と満州問題の切迫を煽る陸軍の均衡状態が事変により一気に破れ、前者の目標自体が忘れ去られてしまった。

対外危機という最大の「劇場型政治」が展開され、政党はそれを追認することしかできず。

幣原外交が過度に国民の不満を蓄積させていた面も否定できない、ポピュリストに主導権を奪われずに対外危機を克服する方策を常に考慮しなければならない。

第三に、陸軍のコントロール・処分の失敗という点も大きい。まず8月時点での不穏な気配に対する政府の情報探索が不十分であった。対外危機に触発されやすい軍の中堅幕僚・青年将校の動きに対しては、憲兵隊・内務省両方から情報を収集し、分析するセクションを設定すべきであった。事変勃発後は林朝鮮軍司令官の越境に対する処置が蔑ろにされているし、十月事件クーデターに対する処分も全く不十分であった。

そしてその背後には、そもそも大正末期以来の軍縮期の軍人に対する待遇・処置の失敗があったことは見た通りである。

 

第四として、協力内閣にはほとんど現実化する契機がなかったのだが、それにしても二大政党制か連立内閣かという岐路で迷走する若槻の姿は、この時期の政党政治を象徴していると言えよう。これが、「つきつめない」「絞りきらない」その性格からくることであるとすれば、最も重要な時に最も向いていない人がしかるべき地位に立っていたということになる。しかし、それにふさわしい人がふさわしいポジションにいることのほうが難しいことなのかもしれない。第一次若槻内閣の末期にはすでに民政党の人材難が始まっており、それが片岡蔵相の失言問題につながっていることは既述した。浜口内閣は浜口の気力と強硬姿勢で何とかロンドン条約と金解禁を実施したが、その反動が次の内閣を襲ってきたのである。その時首相となっていたのが「つきつめない」若槻だったのだ。政党政治は一人でやる仕事ではない。人を能力・適性に応じたポジションに配置しながら、リーダーにふさわしい人を選び出す組織としての政党というものの重要性をあらためて浮かび上がらせたのが最後の民政党内閣だったと言えよう。

 

浜口と若槻の任期が逆なら良かったのか。

そんな単純な話のわけが無いと承知しつつも、昭和に入ってからの政友会がヒド過ぎる以上、民政党に期待をかけるしかなく、緊縮財政にこだわらず、恐慌克服と社会の安定を最重視し、満州事変を何とか封じ込める浜口内閣を見たかった気がしてならない。

 

 

 

犬養毅内閣(政友会 1931~32年)

蔵相高橋是清、外相芳沢謙吉、陸相荒木貞夫、海相大角岑生、内相中橋徳五郎、文相鳩山一郎、司法相鈴木喜三郎。

犬養自身は政友会の自由党系ではなく、改新党系政治家で、政友会入りは25年革新倶楽部解散後。

それが田中義一の死後、総裁に推される。

当時の政友会は主に四派に分かれる。

鈴木喜三郎派=鳩山一郎、森恪ら。最大派閥。

床次竹次郎派=原敬に抜擢されたこともあり、政友会の「嫡子」扱い。

久原房之助派=久原は財界出身者。協力内閣運動を起こした非主流派。

旧政友派=岡崎邦輔、中橋徳五郎ら古参幹部。床次派と近い。

久原派の政・民大連立内閣運動も実は親軍的行動だったとの説が有力だが、それに反対した主流派も鳩山・森が今村均作戦課長、永田鉄山軍事課長ら陸軍中堅層に倒閣への協力を依頼したというのだから酷い話である。

「産業立国」の名の積極政策で恐慌に対処(高橋蔵相のやることは本当に全部安心だ)。

32年2月総選挙で政友会圧勝。

上海事変、血盟団事件と、内外の危機は継続しているのに、鈴木派・久原派の党内闘争が激しくなる。

五・一五事件が勃発、犬養は殺害され、後任は陸軍の圧力もあり、政党主導ではなく、海軍穏健派の斎藤実挙国一致内閣となり、政党政治の時代は終焉する。

 

まとめ。

まず、「養子」総裁として独自の党内基盤を持てなかった犬養のリーダーシップ不全。

この決定的時期に外交政策において内閣書記官長で対外強硬派の森恪の存在により、犬養が構想した対中融和策の実行は極めて困難になった。

 

次に政党人の政党政治への信用失墜に対する危機意識欠如。

 

そして著者が挙げるのが、元老西園寺らの「宮中擁護第一主義」の弊。

内相安達を原因とする閣内不一致で若槻内閣が総辞職した際、若槻への再度大命降下を考慮した西園寺だが、右翼・超国家主義勢力の攻撃が宮中に向かうのを憂慮して避けたという。

「財政や外交」以上に、「政党の腐敗以上に」宮中を守ろうとした、というのである。「財政や外交」に失敗して守られる「宮中」というものがあると思ったのであろうか。こうした宮中側近の態度こそ、戦前・戦中・戦後と事態が進むにつれついには政党政治はおろか天皇・宮中それ自身をも危機に追い込んでいったのであった。

 

そして陸軍の圧迫。

単にテロに怯えたというだけでなく、「軍縮時代に軍人をいじめ過ぎた」という後ろめたさがあり、政党政治家たちが心理的に守勢に立っていたことを指摘。

軍人を蔑ろにせず、そして驕らせることもなく、適切に取り扱うことが議会制民主主義にとって必須である。

 

最後に、「戦争とテロ」という新しい劇場型政治と「昭和維新」運動への国民的人気への無理解。

対外戦争を報じるメディアを国民は熱狂的に迎え、テロを引き起こした青年将校らを礼賛する風潮が社会に満ち満ちた。

これは、しかし、政党政治家の反省すべき点というより、戦前の悲劇について、国民自身の責任がいかに大きいか、民主主義自体がどれほどの危険を含んだものか、を示しているように思える。

こうして、元老・重臣・財閥・特権階級の打破と平等主義の実現を訴える彼らの主張は多くの支持者を獲得していくことになるが、政党人はこれに十分に対応することができなかったのであった。“内輪の政争に明け暮れ、実行力・決断力なく没落していく既成政党と一挙的問題解決を呼号しもてはやされる「維新」勢力”という図式が作られやすいという意味で、歴史は繰り返すのである。

 

 

 

全巻のまとめとして、政党政治没落の原因が末尾で述べられる。

自分の感想も交えつつ紹介します。

 

1.疑獄事件の頻発など政治腐敗

これ自体、確かに問題だが、私個人としては、そもそもこの手の醜聞を根絶するのは不可能だろうし、煽情的な報道で生まれた狂信によって議会政治自体が破壊されれば元も子もないし、「あまりにひどいものだけでも、法に則ってしっかり取り締まってくれればよい」くらいに考えてしまう(メディアで盛んに批判されるような汚職は実は「小物」であって、雇用の不安定化や労働条件の全般的悪化のような政策が大資本の意向通り進められているのを見ると、そっちの方が「巨悪」だろうと、最近思います)。

 

2.国会の混乱、買収・議事妨害・乱闘

これも上記に同じ。そうした国会議員を冷笑して一向に構わないが、それも自分たち国民自身が選んだ、国民のレベルに見合った議員なんだ、と自覚すべき。

 

3.地域の政党化・分極化と中立化・統合化欲求の亢進

二大政党時代、公共事業や公務員職の利権をめぐって、地方での党争が異常なほど高まっていた。

言い換えるならば、政党政治の時代には日本社会は分極化しており、政党政治が終り「天皇」を中心にして「警察」(さらに広く言えば「官僚」)のような中立的と見られた勢力によって社会が統合されることが、地域から、国民の側から望まれるような社会構造が存在していたということである。政党内閣から非政党・中間内閣への変貌が、上から嫌がる国民に無理やり押しつけられたということではない形で、むしろ望まれていたことが、社会的背景を通じて理解されるのである。

こうした視点から見ると、「党利党略」に憂き身をやつす(と見られた)政党政治への「嫌悪感」が「中立的」と考えられたもの(天皇・官僚・警察・軍部等)の台頭を必然化したのだとも結論付けることができよう。

 

4.「劇場型政治」とマスメディア・世論の未熟な政党政治観。

普通選挙による政治の大衆民主主義化時代を迎え、非本質的なスキャンダル(疑獄・失言・女性問題など)やシンボル的な問題(天皇やナショナリズム、対外紛争)を煽情的に取り上げつつ、そのこと自体には真摯な関心を持つわけでもなく、ただ反対党派を罵倒攻撃し、自派の優位を図るという、劣悪な政治ゲームに歯止めがかからなくなる。

メディアも、冷笑的な「批判のための批判」や、ただ自社の利益のためにもっとも俗耳に入りやすい論調を煽り立てることしかしない。

真正な公的議論というものが消滅し、衆愚的国民の感情を支配する競争だけが激しくなり、国の命運はただ風任せという状態に。

それが大正デモクラシー以後の戦前日本です。

でも、これ今と全く同じですよ。

戦前は非民主的政治制度のせいで破滅的戦争に至り、戦後は民主化で繁栄した、なんて絶対言えるものではない。

戦前日本の全てを肯定することしかしない右翼も、戦前日本を破滅させたのは他ならぬ民衆自身であることを認めない左翼も、双方頭がどうかしてます。

 

 

 

基本的に素晴らしい著作だが、一点疑問を感じる部分もある。

著者は大衆民主主義時代においては、「劇場型政治」を忌避するだけでは済まず、それへの対応を考えなければならないことを強調する。

現実政治家へのアドヴァイスとしては、それが正しいのだろう。

しかし、著者は知識人のはずである。

それならば、そうした対応を強いる民主主義の進展自体が、決して好ましいものではない、という批判があってしかるべきなのではないだろうか。

「民主化は時代の必然で止め様が無いから、言わない」「今の時代、民主主義そのものを否定するような議論は言いにくい」と少しでも考えているのなら、同じく多数派民意が生み出す流れに抗えなかった西園寺による「宮中第一主義」の「怯懦」を批判する資格は、著者には無いように思うのだが、どうでしょうか。

 

 

 

著者の姿勢に一部疑念を感じるところもあるが、総合的に見れば、やはり「必読」というレベルの本です。

評価は文句なしに「5」。

ちょうどいい具合に、時代的に本書の末尾が、もう一つの傑作、坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』に繋がります。

強く、強くお勧めします。

2016年8月9日

大谷正 『日清戦争  近代日本初の対外戦争の実像』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:53

日本が近代国家としてその存在を確立し、清を中心とした東アジア国際秩序を再編するために必要だった戦争、あるいは、明治国家の侵略政策の帰結、という左右両派の日清戦争必然説を退け、開戦に至るまでの東アジア国際情勢、日清両国の内政事情、外交交渉、開戦後の軍事作戦、講和交渉、下関条約後も続いた台湾での平定作戦を叙述し、メディアの戦争報道を通じた国民意識形成、地域の戦時動員と追悼慰霊行事など社会史的観点にも目配りした総合的著作。

幅広い記述なのはいいのだが、参考文献の最初の方には、明らかに一昔前の定型的な左翼史観の著作が並べられ、本文中でも頻繁に引用されている。

また著者自身の文章にも、正直違和感を感じる部分は確実にある。

しかし、ここ十数年、ひたすら自国を賛美・正当化し、近隣諸国に憎悪を込めて罵詈雑言を浴びせかけるだけの(本来は史観とすら言えない)、下劣・愚鈍・幼稚な「右派」「愛国」史観がはびこっているので、それに対する解毒剤を服用するつもりで、あえて本書を通読する。

「完全無欠な輝かしい戦勝」「近代化に邁進した日本と惰眠をむさぼった清国」という通俗的イメージとは異なる実態が浮かび上がってくる。

兵站の不備、軍指揮官の独断専行、攻勢に偏した作戦計画、敵を過小評価する情報収集、国際法遵守が下部に徹底されず起こった旅順虐殺という不祥事など、後世大きな禍根となった事象がすでにこの戦争に現れている。

明治天皇が連綿と受け継がれてきた帝位と国家を危うくする懸念から、開戦に極めて消極的であったことも記されている。

明治帝の危惧はこの時点では幸いにも杞憂に終わったが、昭和帝の時代に日本は有史以来最悪と言える亡国の憂き目を見ることになる。

明治日本を礼賛するのも結構だが、この日清戦争は本当に完璧な勝利と言えるのか?

台湾を獲得し、戦費を上回る賠償金を得たが、本来この戦争の最大の戦争目的・戦略目標は、朝鮮半島から潜在的敵対勢力を排除して、日本の安全保障を確実なものにすることだったはず。

これにははっきり言って失敗している。

三国干渉後、朝鮮政府内で親露派が台頭、1895年閔妃殺害事件という帝国主義時代でも格段に乱暴な措置(以前も書きましたが、これは大逆事件以上に明治日本の恥ずべき汚点です)を取ってもさらに事態は悪化した。

親日的な開化派は一掃され、一年半にわたって続けられてきた甲午改革は終わった。それとともに日本の影響力は一気に低下し、ロシアの直接の介入を招いた。日清戦争の戦争目的であった内政改革とその背後で日本が進めていた事実上の保護国化は、三国干渉と露館播遷によって最終的に挫折する。日清戦争によって日本は朝鮮から清勢力を追い出すことに成功したものの、結局は朝鮮に対する支配権を強めることに失敗し、ロシアの影響力が強まるという最悪の結果となったのだ。

日清戦争時の伊藤博文首相と陸奥宗光外相のコンビを近代日本最高・最優秀の政治指導の組み合わせとし、「陸奥外交」を賛美する岡崎久彦も『戦略的思考とは何か』では、以下のように書いている。

実は日本だけにとってみれば、日清戦争はその後の日露戦争と一緒にしてはじめて意味をなすもので、それ自体だけであまり意味はない戦争でした。もちろん日清戦争で日本は台湾と莫大な賠償金を獲得しますが、それは戦争の本来の目的ではありません。戦争の目的は一にかかって朝鮮半島における日本の覇権を確立し、日本の安全保障を確実にする国際環境を確保することでした。しかし最終的に日露戦争に勝って強制的に韓国を併合するまでは、日本の朝鮮政策はまるでザルで水を汲んでいるようなものでした。

明治十七年の甲申の変で金玉均の独立党のクーデターが成功して親日政権ができるとすぐに清兵が介入して、政権は三日天下に終り、そのあと日清戦争までは朝鮮半島のヘゲモニーは完全に清国が把握します。

日清戦争中でソウルが日本軍の占領下にあったあいだは、親清派をパージして、新政府に種々の親日政策をとらせることもできますが、三国干渉で日本が脆くもロシアの言うとおりになるのをみると、占領中迫害された閔妃を中心とする宮廷はロシアの勢力を引き込んで日本に対抗させます。これをみて怒った日本公使館、邦人記者団等が、壮士をひきいて宮廷に乱入して閔妃を斬殺し石油をかけて焼いてしまうという無茶苦茶をしてみたところで、かえって逆効果になっただけで、この乱暴に驚いた国王は宮廷ごとロシア公使館に避難して、政府全体がロシアの庇護下に入ってしまいます。そしてその後は、宮廷がロシアに掌握されたままという不利な条件の下でのロシアとの交渉を余儀なくされて、朝鮮半島においてロシアに日本と同じ地位を認めるだけでなく、ロシアが財政顧問と軍事教官を送ることも認めます。つまり実質的には日清戦争前の清国の地位をロシアに与えることになります。

たしかに、日本のやり方が未熟で強引すぎて逆効果ばかり生んでいるのですが、根源をたずねれば、文禄・慶長の役以来、朝鮮の人は日本に怨みがあり、日本人をまったく信用していないのですから、いくら一時的に抑えたつもりでも面従腹背でどうにもならなかったわけです。日韓併合で最終的に抑えつけたといっても、それも今となっては同じことで、韓国の人の対日感情はむしろ悪化しただけで、やはりザルで水を汲んでいただけでした。

このどうしようもない日韓関係で、ただ一つ日本人が韓国人と信頼関係をつくるチャンスがあったとすれば、それは日本が韓国の近代化を助けることだったと思います。韓国の歴史の中で唯一といえる親日派だった金玉均の独立党も、その目的は、当時近代化の旗手であった日本と組んで近代化をしたいということでした。現在日本が韓国の近代化のために経済協力をしているのも、遅まきながら、やはり日韓関係を安定した基礎の上に置く正攻法なのでしょう。

そして終章より、本書の要旨を示した重要な数ページを以下に引用する(違和感のある記述も、あえて省略せずそのまま書き写し、適時私の感想を挟みます)。

日清戦争直前には、日清の軍事バランスの変化を背景に、日本国内では朝鮮における清の優位を前提とした天津条約体制の変更を求める意見が広がり、伊藤博文首相もこのような認識を背景に日清共同による朝鮮内政改革構想を持つようになった。これが、一八九四年六月二日の閣議における朝鮮への混成第九旅団派兵決定につながった。

一方で、第二次伊藤内閣は条約改正問題をめぐって対外硬派の攻撃を受け、連続して二度も衆議院を解散する内政的危機に直面していた。伊藤首相にとって、六月二日段階では、派兵は日清開戦を想定したものではなく、また総選挙対策のために対外危機を演出するという内政的理由に基づくものでもなかった。しかし、いったん清を圧倒するために強力な軍事力(戦時定員で八〇〇〇名を超える混成旅団)を朝鮮に派兵してしまうと、派兵を契機に沸騰した対清・対朝鮮強硬論に直面し、伊藤内閣は撤兵できなくなり、開戦への道を選択せざるを得なくなった。

政権の内部でも、川上操六参謀次長を中心とする陸軍勢力や閣内の陸奥宗光外相は対清開戦を求めた。対清戦争を準備してきた陸軍が開戦を主張するのは当然であるが、陸奥が開戦を求めた理由は、外相として担当した条約改正問題で判断ミスを重ね、対外的にも、国内の対外硬派に対しても、対応に失敗し、この苦境を打開して政治生命を維持するために、日清開戦を求めざるを得なかったからであった。

だが、川上や陸奥が開戦を決定することはできず、首相であるとともに、この段階では藩閥勢力の最有力者である伊藤が決断しなければ開戦にはいたらなかった。その意味で、日清戦争開戦については伊藤首相の責任が最も重い。

しかし、当初は対清協調を考えていた伊藤に開戦を決断させるにあたっては、政権内部の開戦論者である川上や陸奥だけでなく、衆議院の多数を占める対外硬諸派と彼らを選んだ国民、そして強硬論を鼓吹したジャーナリズムの開戦への責任も軽くない。伊藤内閣は秘密外交と藩閥による戦争をめざしたのに対して、対外硬派とジャーナリズムはこれを批判し、国民的基盤に立った日清戦争遂行を求め、その後の選挙戦のなかで、自由党もこのような主張に合流した。しかも、

政治的な民主化を求めた在野勢力の主張は、例外はあるものの、藩閥政府以上に侵略的であった。

上記文章で、陸奥が開戦を求めた理由を個人的地位への執着という意図だけで説明するのは、いくら何でも言い過ぎではないかと思えるが、神話化された「陸奥外交」を一度突き放して冷静に再考してみる必要はあるかもしれない。

最後の一文が示す認識は全く正しいと思うが、それならば日清戦争も先の大戦の悲劇の責任もまず誰よりも無分別な対外強硬論を支持した国民にあるんじゃないですか、そして自由と民主主義という価値自体を根本的に疑うべきなんじゃないですか、と著者には厳しく問い質したいところです。

日清戦争の外交問題に関する最も重要な資料として陸奥宗光の著した『蹇蹇録』がある。これをもとにして、のちに日英通商航海条約締結・日清開戦・下関講和条約締結を推進し、困難な三国干渉に対応した陸奥外相の偉大な功績と卓越した能力を顕彰する「陸奥神話」が形成された。

しかし、自伝やメモワールはしばしば自己弁護や自己顕示を含むもので、『蹇蹇録』は特にその傾向が強いことが指摘されている。すでに紹介したように、同時代の人々は伊藤内閣の条約改正交渉に批判的で、日清戦争が始まっていなければ、一八九四年七月に調印された日英通商航海条約もイギリスに譲歩しすぎていると厳しく批判された可能性が強い。

条約改正交渉に限らず、第二次伊藤内閣、なかでも陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。いまでも言論界の一部で「陸奥神話」を称揚する論者がいるが、学問的根拠は薄いと言わざるを得ない。

陸奥による日清戦時外交の問題点としては、東アジア地域に強い影響力を持つイギリスとロシアの制止を振り切って強引に日清開戦を行ったため、日本を支持する強国がなくなったこと、戦勝の結果生じた陸軍・海軍・民間の度を超した領土要求に屈して、過大な割地要求を講和条約に書き込んだこと、事前に予想された三国干渉への対応が拙劣であったことが指摘できる。陸奥は『蹇蹇録』で弁明を重ねているが、あまり説得的とは言えない。

さらに、日清戦争の最大の目的であったはずの朝鮮問題では、朝鮮王宮を制圧することから戦争を始め、戦争中には支配層と農民の両方の反日運動を弾圧したことから、朝鮮国内の各層の間に反日感情が広がり、三国干渉と閔妃殺害事件を経て日本の影響力が後退すると、反日親露派政権が誕生してしまうという最悪の結果を招いた。朝鮮問題への対応は、もちろん陸奥外相の守備範囲を超えた日本政府・軍の全体の政策的失敗であるが、陸奥も責任の一端を負わなければならないだろう。

それに加えて、日清戦争後、清は日本に対抗するためロシアに接近し、ロシアは東清鉄道敷設権、旅順・大連租借権、南満州鉄道敷設権を得た。すでに同時代の川崎三郎が彼の著書『日清戦史』で主張したように、日清戦争は外交で失敗した戦争であり、陸奥は外相としてその責任を負わなければならない。

国の命運をかけた戦争を遂行するにあたっての戦時外交が拙劣であった原因は、陸奥の個人的能力の問題以外に、条約改正問題だけが重要外交事項であったという時代的制約から、本格的な戦時外交の経験を持った政治家がいなかったこと、および外交官養成制度が未完成でトップを支えるスタッフの能力に問題があったことに求められる。

そして日清戦争の失敗経験のうえに、義和団問題を契機とする一九〇〇年のロシア軍の満州侵攻後、日本は多角的な同盟・協商網の構築を模索しはじめ、一九〇二年に日英同盟という形で初めて西欧諸国と同盟を結ぶことになる。

まず、陸奥の条約改正交渉への批判自体が、著者が批判的に記す、日清開戦を求めた好戦的な国民世論と同類のものではないかとの疑念を感じるし、その可能性を全く看過していることは不満である。

しかし、後段の陸奥外交への批判は(それが妥当かはともかく)、硬直した左派的言説の臭味を感じさせず、真剣な検討に値すると思われる。

大本営による戦争指導はすでに述べたように川上操六参謀次長を中心に行われ、川上は山県や大山のような陸軍の宿老や、野津・山地・桂のような先輩や同輩に、指揮命令を与えざるを得ず、彼らの制御に苦しんだ。川上の伝記『陸軍大将川上操六』は、「時ありては彼等に掣肘せられ、時ありては板挟みと為って苦心」したが、困難に打ち勝って「終に能く全局を統括して最後の捷利を制」したと述べているが、川上の努力と心労は大変なものであったと想像される。実際、大本営の戦争指導はなかなか貫徹しなかった。

本書で紹介した事例では、第三師団長桂太郎中将の度重なる暴走が典型である。しかも、桂は名古屋に第三師団長として赴任後に暇を持て余して書きはじめた「自伝」では、西南戦争以後の陸軍の混乱を慨嘆し、陸軍省総務局長あるいは陸軍次官として、自らが陸軍軍政の整理・改革を行い、何よりも命令の上位下達の実現を図ったことを得々と述べている。にもかかわらず、実際に自分自身が戦場に臨むと、ほかの司令官との対抗意識を丸出しにして、大本営の作戦指導を無視して暴走した。

だがより大きな問題は、川上である。川上は、寺内正毅や児玉源太郎と協力して、兵力動員と船舶を動員した兵員輸送、朝鮮南端の釜山から朝鮮を横切って満州の作戦地域にまで達する兵站線・電信線の維持を実現した。その実行力と軍事官僚としての実務能力の評価は高い。しかし、その結果何が起こったかを知る後世の歴史研究者は批判的にならざるを得ない。

一八九四年秋に発生した朝鮮の第二次農民戦争が、兵站線・電信線を破壊したことに対して、川上が命じたのは、東学農民軍とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。

また、川上は遼東半島割譲と直隷決戦に固執した。これが三国干渉の誘因となり、さらに列強の干渉が予想される複雑な国際情勢のなかで、極端に攻勢に偏した直隷決戦計画を実施し、本土防衛をないがしろにする危険性を生むことになった。これらは川上の戦争指導の問題点である。

日清戦争において、伊藤首相や大山第二軍司令官が戦争の全体の帰趨を見て政策決定を行っていたのに対して、有能であることはだれにも負けない陸奥外相や川上参謀次長が、木を見て森を見ない政策決定を行っているように感じたのは、私だけであろうか。

十数年前まで世に瀰漫していた極めて硬直して偏った左翼史観が後退したのは誠に結構だが、逆に現在の我々は「日清・日露の戦いを勝ち抜いた明治日本の栄光」を単純に賛美するだけの惰性に流されすぎているのかもしれない。

もし日清戦争に負けていたら、どうなっていたのか。

沖縄はまず間違いなく永久に日本ではなくなり(現在では、過剰な対米追従という全く違う原因で日本じゃなくなりそうですが)、莫大な賠償金を課せられ、各種の近代化政策は致命的な打撃を蒙って挫折していた可能性が高い。

その勝利も一時のものに過ぎず、結局清国よりはるかに強大なロシア帝国との対決を余儀なくされることになってしまった。

続く日露戦争は敗北の危険性がはるかに高かったはずである。

その敗戦の結果は、北海道全土の割譲、租借地の設定、莫大な賠償金、より不平等な通商航海条約強要であろう。

さらには列強がハゲタカのように群がって、ついには日本全土が植民地となり、皇室をはじめとする伝統的制度が破壊され、その後で独立運動が起こり、成功したとしても、共産主義勢力が主導権を握って、今も日本は全体主義の抑圧体制の中にいるか、あるいは良くて右派の権威主義体制の下で暴力的な党派争いが延々続くという第三世界のよくあるパターンの国になっていたかもしれない。

弱肉強食の帝国主義時代の最盛期、国家の命運を賭すような戦争は可能な限り避けるのが賢明であろう。

であれば、ロシアの進出に備えた、朝鮮半島での日清両国の限定的協調を背後からイギリスが支えるという天津条約体制を(清国優位の状況はあえて甘受した上で)続けた方が良かったという歴史解釈もあり得る。

もちろん当時の国際情勢はあえて危険な戦争を行わなければならないほど厳しいものであり、陸奥が『蹇蹇録』で言うように

畢竟我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す。

ということだった可能性も十二分にある。

ただ色々な見方に触れ、少しでも妥当で真実に近い史観に近づく努力をすべきであって、数を頼んで反対者を誹謗中傷・罵詈雑言で黙らせるような卑怯な真似は、立場の左右を問わず、決してするべきではない。

 

 

著者の主張をそのまま受け入れる必要は無いが(私も決してそうしていないつもりです)、多様な見解に触れて歴史を考えるきっかけには出来る良書です。

2016年5月27日

福田和也 『昭和天皇  第六部 聖断』 (文芸春秋)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:35

このシリーズの記事では、本文内容紹介には重点を置かず、印象的な部分を引用するくらいにして、第三部昭和天皇即位以降は、一年ごとに日本と世界の出来事を対比しつつ、あれこれ思うところを述べる感じで書いてきました。

 

1926(昭和元)~1931(昭和6)年  第三部

1932(昭和7)年   第四部

1933(昭和8)年   戦前昭和期についてのメモ その2

1934(昭和9)年   戦前昭和期についてのメモ その3

1935(昭和10)年  戦前昭和期についてのメモ その4 および その5

1936(昭和11)年  戦前昭和期についてのメモ その6

1937(昭和12)年  第五部

1938(昭和13)年  同上

1939(昭和14)年  戦前昭和期についてのメモ その7

1940(昭和15)年  同上

1941(昭和16)年  戦前昭和期についてのメモ その8

 

ですが、日米開戦から敗戦までのこの巻では、同じことをするのは止めておきます。

一年ごとの戦局の推移については、児島襄『太平洋戦争 上』および『同 下』を参照して下さい。

気になった部分を引用し、先の大戦への全般的評価について述べたいと思います。

まず、1944年6月サイパン戦直前の時期。

「海軍部隊の作戦と相まって、米軍の上陸企図を粉砕できると信じます」

東條の彼の人に対する答は、無責任な響きがあった。海軍に責任を転嫁しているような趣きがないことはなかった。

「いまや連合艦隊は、決戦用意の態勢をとりつつあります。陸海軍は緊密に協力をして米軍を撃破し、その侵攻意図を砕く事を期しております」

彼の人は木戸内大臣を召して、東條の上奏について意見を求めた。

木戸の反応は、予想外のものだった。

「こうなっては、皇道派を起用する他ないのではないでしょうか」

耳を疑うような事を木戸は云った。

「現状を冷静に見ておりますと、すべては赤化にむかっているように見受けられます。陸軍統制派が権力を握って以来、国内のすべてが、経済から言論、思想にいたるまで、まさしく統制の下に置かれており、これは社会主義への道をひた走っているとしか考えられません。近衛公爵とも話しあったのですが、この際、真崎甚三郎ら皇道派を復権させて、統制派を抑える必要があると思われます」

もっとも信頼していた寵臣の言葉は、耳を疑うようなものであった。

「皇道派を赤化を防ぐために起用せよというが、果たして彼らはそのような存在であったか。皇道派の首領だった真崎を見よ。彼は、わが国は国家社会主義にならざるべからず、と上奏文で主張していたではないか。そのため私は上奏文を改めるように命じなければならなかった。二・二六事件に関わった者たちこそ赤化していたのであり、彼等を使嗾した真崎や柳川、山下たちこそが国体を破壊せんとしたのではないか」

憤りを抑えながら話しているうちに、彼の人のなかで、氷解するものがあった。

(東條にすべてを任せる事は最早出来ない、と木戸は云いたいのか。東條を換えるとすれば、統制派ではなく皇道派の将帥を挙げるべきか。たしかに山下奉文のシンガポール攻略、柳川平助の杭州湾敵前上陸など、皇道派の将軍の方が戦果を上げているが・・・・・・)

それでも彼の人は、二・二六事件の行きがかりを忘れる事は、どうしてもできなかった。

続いて、1945年2月「近衛上奏文」の叙述。

「敗戦は遺憾ながら必至と存じます」

貴公子としては、大胆な書き出しであった。

木戸が、ちょっと驚いている。

「敗戦はわが国体の一大瑕瑾ではありますが、英米の世論は、今日までのところ、日本の国体の変更というところまでは進みおらず、したがって、敗戦だけならば国体上、さまで憂うる要はないと思います。国体護持のことよりも、最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こる共産革命であります。つらつら、思うに、国内外情勢は、共産革命に向かって、急速に進行しつつありと存じます」

「急速」という言葉を強調しつつ、近衛は彼の人をみつめた。

彼の人は、心動かされたようには見えなかったが、構わず続けた。

「ソ連が、究極において、世界赤化政策を捨てざることは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつあります。ソ連は欧州において、その周辺諸国にはソビエト的政権を樹立せんとて着々その工作を進め、現に大部分成功を見つつあります。ソ連のこのような意図は、東亜に対しても同様であります。現に延安にはモスクワより来たれる岡野を中心に、日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけています」

声音は、いよいよ、高くなる。

近衛が昂ぶるほどに、彼の人は落ち着いていった。

(悪い癖がでたか・・・・・・)

感情を、顕わにすることのない木戸にとっても、近衛の有様は不安だった。

(陛下に、このような演説をお聴かせする事自体、大きな錯誤ではなかったか。近衛の未来を破壊する事になるかもしれない)

「ソ連はやがて日本の内政にも干渉し来る危険が十分ありと存ぜられます。即ち共産党公認、共産主義者の入閣、治安維持法や防共協定の廃止等を云いだすでしょう」

近衛は得意そうだった。

ここからが本題、というように、見得をきる。

「ひるがえってわが国内を見ますと、共産革命達成の条件が、日々具備されております。すなわち生活の窮乏、労働者発言権の拡大、英米への敵愾心と表裏一体の親ソ気分、軍内部の革新運動、新官僚の運動、これらを操る左翼分子。なかでも、もっとも憂うべきは、軍内部の革新運動でございます」

軍こそが、国体変革の主体だ、と近衛は、彼の人の面前で指摘したのだった。

大胆といえば、これほど大胆な発言はない。

緻密であると同時に常識的思惟を重んじる彼の人には、突飛すぎる指摘であった。

「少壮軍人の多数は、わが国体と共産主義は両立するものと信じているようで、軍部内での革新論の基調もここにあると思われます。皇族方の中にも、この主張に耳を傾けられる方もいると仄聞いたします」

彼の人の前で、近衛は、かつて三度、総理の座についた政治家は、皇族のなかにも共産主義に共鳴する者がいると、述べているのだ。

「これら軍部の狙いは、必ずしも共産革命とはかぎりませんが、これをとりまく一部官僚、および民間有志は、意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しており、無知単純な軍人、これにおどらされているとみて間違いはございますまい」

近衛は、自省の言葉でしめくくった。

「不肖はこの間に三度まで組閣の大命を拝しましたが、国内の相克摩擦を避けるため、できるだけこれら革新論者の主張を採り入れて、挙国一致の実をあげんと焦慮した結果、彼らの主張の背後にひそめたる意図を十分に見破れなかったのは、全く不明の致すところで、何とも申しわけなく、深く責任を感ずる次第でございます」

元総理は、深く、深く、頭を垂れた。

およそ宰相として、政治家としても、これほど恥知らずな言葉はなかったであろう。

陸軍皇道派から行動右翼、転向左翼と、とにかく革新と名がつくすべての人種を糾合し、新体制運動を進め、大政翼賛会を作りあげた男が、しおらしく謝ってみせる。それは一文の値打ちもない反省であった。

 

 

先の大戦について、私が持っている考えは、西部邁『14歳からの戦争論』で引用した部分に極めて近いのですが、それでもやや異議を唱えたいところもある。

それは、国際情勢上の巨視的視野から先の大戦を肯定するだけでなく、国内政治上から見れば、戦前日本の国粋主義・軍国主義は、民主主義(の堕落)によってもたらされたものであるとの自省が必要ではないか、ということです。

上の引用文を「共産勢力の画策」という観点だけから読むと陰謀論じみてきて説得力に乏しいと感じるが、(イデオロギーの左右を問わない)民衆世論による国家支配という解釈をすれば、戦前の軍国主義と戦後の左翼運動の双方が(そして現在のネット右翼的「ナショナリズム」と似非「愛国主義」も)、多数派国民の衆愚的世論による国家の破壊だ、という視点が開けてくる。

いや、そのことは西部氏も別の著作では、はっきり触れている。

「民主主義の連合国」と「全体主義の(日独伊三国同盟)枢軸国」というのが、当時の世界にたいして描いてみせたアメリカの構図であった。民主主義の善神と全体主義の悪神とのあいだのハルマゲドン(最終決戦)において、善が勝利し悪が滅びたというわけだ。・・・・・・

ヒットラーが1933年に独裁授権を得たのは国民投票における支持を俟[ま]ってのことであった。ムッソリーニが独裁者となったのは、彼の率いるマスムーヴメント(大衆運動)が議会を占拠したからであった。日本国家が軍部によって壟断[ろうだん]されるようになったのは、「大政翼賛」の国民運動がそれを歓迎したから、という面も小さくない。

ついでに確認しておくと、連合国がわのソ連と(国民党の)中国とが民主主義に則っていたというのは悪い冗談にすぎない。そんな冗談にまんまと乗せられたアメリカのルーズベルト大統領は正真正銘のソフト・ソーシャリストなのであった。

いずれにせよ、近代におけるディクテーターシップ(独裁制)は、レファレンダム(国民全体の意向を直接に参照[レファー]しようという意味での人民投票)に依拠している。だから、それは「民主主義による民主主義の自己否定」というべきもので、むしろ民主「主義」の最高形態と称されるべきものである。

実は、米英仏のようないわゆる民主主義圏にあってとて、パブリック・オピニオン(世論)にあっては、アレクシス・ド・トックヴィルが1835年の昔にとうに指摘していたように、ティラニー・オヴ・ザ・マジョリティ(多数者の専制)が貫徹されていたのである。そして世論を動かしているものは何かというと、これもトックヴィルが(アメリカ社会について)見抜いていたことだが、マスメディアというプライマリー・パワー(基礎的あるいは予備的な権力)なのだ。

そうとわかっていれば、二十世紀は、デモクラシー(民衆政治)をはじめとして、自由や人権そして平等や福祉といったレフト(左翼)の価値観が社会の前面のみならず全面を覆った時代である、という認識を持つことができたであろう。そうしておけば、二十世紀の後半においても、アメリカニズムは「個人主義の左翼」でありソヴィエティズムは「社会主義派の左翼」である、と冷静に解釈しえたはずである。

その解釈に立つかぎり、連合国やアメリカが善で枢軸国やソ連が悪だという教説にこうまで洗脳されずにすんだであろう。親米が保守で親ソが革新だ、という莫迦気た政治学も幅を利かさなかったに違いない。

(西部邁『実存と保守』(角川春樹事務所)より)

 

上記引用文を補足すると、ソ連の左翼全体主義も、中国の急進的民族主義も、結局は過激で狂信的な民衆世論による運動が生み出したものである以上、結局、民主主義の派生形態と見なすほか無い、ということです。

そうであれば、戦前日本のように独伊ソと連携して「民主主義国」の米英仏に対抗するという考えがいかに倒錯したものか、分かるはず。

同じ観念主義に走るのなら、ナチズムも共産主義も前近代的価値観から「解放」され自由になった大衆が生み出したものだ、米英仏も独伊ソも根底で民主主義・近代主義という精神の病に罹っている点では同じ穴のムジナだ、米英仏が慢性疾患なら独伊ソは急性疾患の患者だ、緊急避難として急性疾患国の脅威を除くため慢性疾患の国と一時的に協力するのに吝かではないが、しかし日本は民主主義・近代主義という価値観自体認めませんよ、という筋道がどうして立てられなかったのかと慨嘆する。

そう考えれば、日本国内における極右的国粋主義についても、どれほど復古的言辞で装われていようとも、「民衆の主体性」への肯定の上に立っている以上、 その本質は民主的運動だ、卑しい大衆が皇室をおもちゃにしているだけだ、という自己懐疑だって生じたはずです。

戸部良一『外務省革新派』記事で私が書いた文章より)

それは「全体主義」への忠誠を「民主主義」へのそれに移し換えるべきだった、というのとは全く異なる。

民主主義こそが全体主義を生みだした母体であり、全体主義の独裁は民主主義の暴走が生んだ極限形態だ、そう認識して、日本は近代主義の総体を批判する立場に立つべきだったんだ、ということです。

であるのに、全体主義と民主主義を対極にあるものと錯覚し、自らの国粋主義の「非民主性」を「過信」して、前者に接近するという二重の致命的錯誤を重ねたのが戦前日本の実態です。

本来なら、日本は米英仏と(あくまで暫定的に)協力し、(民主主義の過激化の極限形態である)独ソ伊を打倒した後、近代主義自体を否認する大局的立場から、近世以来の西洋列強のアジア侵略の罪を鳴らして、(中国と[その過激な民族主義をたしなめつつ]和解し、韓国を再独立させ、アジア諸国の国民主義を尊重する形で)正々堂々、米英仏と戦うべきだったんです。

もし、大東亜戦争がそのように展開したならば、本当に徹頭徹尾それを「聖戦」として支持することが出来る、と私は思います。

だが、現在の「ネット右翼」的言説が蔓延した状況では、「民主主義への懐疑・批判」を欠落させたまま、過去の歴史の全肯定、中韓など特定諸外国への敵意と憎悪、米国への追従が横行している。

個人的にはアメリカ自体が「民主主義の失敗例」であることは、決して忘れるべきではないと考える。

だいたい民主主義と軍国主義を単純に対置するのが根本的に間違ってるんですよ、日本の軍国主義は(そしてファシズムとナチズムも)前近代的・非民主的要素から生まれたものじゃなくて近代化の進展で自由を得た民衆の狂信的運動から生まれたものでしょう、そこをハード・ピース派はもちろんソフト・ピース派も誤魔化してる、それとも何があってもアメリカは民主主義の看板は降ろさないって訳ですか、ははあ、ご立派ですなあ、でも貴方がたの建国の父たちのうち、少なくとも半分程はデモクラシーがどれほど悪しき政治に直結する可能性があるかしっかりと認識していたんじゃないんですか、そういう懐疑を完全に捨て去ったのに自分たちが終始一貫同じ精神を保ち続けていると自己欺瞞に耽ってるんじゃないですかね、間歇的にやってくる好戦論と社会的ヒステリーを見ると、米国が枢軸国や共産国と異なった道を採れたのは単に国土と資源と富に恵まれた偶然からであって、民衆の愚劣さは他国と大して変わらないんじゃないですか、奴隷制度の合理的平和的撤廃の失敗と自己破滅的な南北戦争、好戦世論に易々と突き動かされた米墨戦争、米西戦争とハワイ併合、あくどい手口のパナマ独立に代表される中南米への恣意的介入、禁酒法にマッカーシズム、カウンター・カルチャーの跋扈と治安の崩壊、あらゆる人間が自己を被害者だと言い立てる人種対立、暴力が日常化している銃社会に黒を白と言いくるめる法律万能主義の訴訟社会、空疎な「アメリカン・ドリーム」のお題目と史上空前の格差社会、そして近年のイラク戦争、金融資本による事実上の世論支配と政策歪曲が、日本にとっての第二次世界大戦規模の破局を米国にもたらさなかったのは、単に上記の偶然から国力に余裕があったというだけで、米国の政治体制の正当性を保証するものとは到底思えませんがね、貴方がたが称揚して止まない自由と民主主義自体が独裁と抑圧を生む素なんだと少しは自省したらどうなんです、それに終戦後貴方がたが対峙する共産主義も民主主義が生んだものですよ、だって人間社会のあらゆる不平等を永久に消滅させると豪語して民衆を煽動し権力を握った運動なんですから、その際手続き的な自由主義や議会主義を踏みにじったとしても、それは多数派民衆の意志に従ってなされた行為ですし、あるいは百歩譲っても、そうした少数の狂信者の行動を前にして多数派民衆はろくな抵抗もできずたとえ消極的にせよ同意したわけですから、民主主義の名の下では決して根本的に非難できないはずですよね、言っときますが、我々はソ連との冷戦にはほとんど貢献できませんよ、貴方がたが『真の戦犯』たる民衆を免罪してくれたおかげで、狂気じみた左翼運動が巻き起こり、それに対処するので精一杯になりますからね、まあせいぜい極東での国際秩序と力の均衡の維持に努めて下さい、それを数十年担ってきた我々に無条件降伏を要求して占領下で憲法を制定し権力政治からの完全な棄権を強要したのは貴方がたですから、それを担うのは当然の義務と言うもんですよ、そしてそれに勝利したらしたで、『自由と民主主義の勝利』を高らかに歌い上げるわけですか、まあ実現すればするほど蟻地獄に落ちるような理想をいつまでも掲げていればいいですよ、でも出来ることならそれに日本を含む他国を巻き込まないでもらえませんかね」といった具合に延々と嫌味と皮肉を述べ立てたくなる。

廣部泉『グルー』記事で私が書いた文章より)

そしてそんな国家と「自由民主主義同盟」を組んで、中華人民共和国(というこれも狂信的民衆運動の結果生まれたのだから「立派な民主主義国家」だ)に対抗しようなんて、真の保守派が考えることじゃない。

「自由と民主主義の価値観を共有する日米両国が協力して、共産党独裁の非民主的な体制を持つ中国を封じ込めて屈服させる」というシナリオが、昨今の日本の「保守派」のお気に入りのようです(私も昔そう思っていた時期がありました)。

しかし、今の中華人民共和国は、全人民の絶対的平等と特権階級の完全な抹殺、人民に対する全ての伝統的拘束の廃絶を高らかに謳いあげた中国共産党が、国民の狂信的支持を受けて成立した体制のはずです。

共産主義者は、実質的な真の自由と民主主義を未来永劫確立するという目的のために、暴力革命と独裁が(一時的に)必要だと主張したわけです。

つまり、共産主義は自由民主主義の単線的発展上にある思想に過ぎない。

共産党が「手続き的な民主主義」を廃絶したことをもって、「非民主的」との非難を浴びせるのは表面的である。

なぜなら、そうした民主主義の自己崩壊を、圧倒的多数の民衆が容認し、支持したからこそ、革命が成就したのだから。

共産主義・社会主義を自由民主主義に反するという理由で批判するのは、論拠としては極めて薄弱である。

むしろ真に共産主義を否定しようと思えば、その源泉とも言うべき、自由民主主義の理念自体を否認しなければならないはず。

「共産党政権が倒れ、中国社会の民主化が実現すれば、日中はもっと分かり合える」との意見もあるが、私は全くそう思わない。

共産党の支配が緩んだ後の中国の姿は、現在すでにその兆候が現れているように恐ろしいほどの社会的混乱と衆愚による狂信的世論の跋扈である可能性が高い。

そして、その醜い社会の有様は、日米などの民主主義国家と、程度の差はあれ、完全に同質のものです。

そう考えれば、「非民主的な中国に対抗する民主的な日米同盟」との構想は、思想的には底が抜けてます。

服部龍二『日中国交正常化』記事で私が書いた文章より)

 

 

それにしても、日本も酷い国になったもんです。

このブログを始めて丸十年になりますが、ちょうどその十年のあいだで、私は以前は持っていると思っていた愛国心の大半を失ってしまいました。

かなり前から絶望はしていました。

1990年代には「世界で共産主義体制が崩壊したのに、日本はまだ冷戦時代さながらに左翼の残党が勢力を誇ってる、こんな調子でこの国はどうなるんだ」と常に慨嘆していました。

でもその時は、少数ながら「同好の士」というべき人たちもいましたからね。

社会の片隅にでも、ちゃんと保守なり右派なりを名乗る資格のある人たちが確かにいました。

例えば、90年代前半の『諸君』や『正論』は本当にレベルが高かったですよ(両誌ともある時期以後は手に触れるのも汚らわしい、という最低の雑誌になってしまいましたが)。

世紀が変わる辺りで、左翼勢力が崩壊すると同時に、今まで左翼の戯言を述べていた醜い衆愚どもの集団が「右翼」・「愛国」的言辞を、相変わらず知性や品位の欠片もなく喚き立てるようになり、私が大切に感じている価値あるものを土足で踏み躙って台無しにしていきました。

日本がこんな滅び方するなんて、夢にも思いませんでしたよ。

その際、この「反左翼」の動きを正常な社会への第一歩と考え支持した自分が底無しの愚か者であり、正にその衆愚の一員だったことを苦渋と共に認めたいと思います。

(もし現下の「右傾化」に歯止めがかかるとしても、その時はまた左翼が一昔前のように傲岸に自らの「正しさ」を押し通そうとするんでしょうね。それが大衆運動の避け得ない本質です。)

以後、右を見ても左を見ても、価値観を共有できるな、と思える人たちがいなくなりました。

(雑誌の『表現者』は貴重な存在として現在でも購読していますが、それでも時々ネット右翼が誌面に出て来て嫌な気分になることがあります。)

インターネットという史上最悪のマスメディアが普及して、衆愚社会の最後の底が抜けてしまった感があります(引用文西部邁11および内田樹7)。

で、以下のような連中が害虫のようにわいて出るようになりました。

・・・・左翼思想の完全な破綻が誰の目にも隠せなくなった、21世紀に入ってからは、またしても何の反省も無く逆の極端へ走り、粗野・低俗・卑怯・軽薄・愚劣な、

「パースペクティブもヒエラルキーもない愛国心、スペインの国土で産まれてくれたものはどんなものでもスペインのものとして受け入れ、最も愚かしい退廃現象とスペインにとって本質的なものとを混同してしまう愛国心」(『ドン・キホーテをめぐる考察』)[オルテガ]に類似した心性

西部邁『大衆への反逆』より)

にどっぷりと浸り、邪悪な組織的煽動者に操られるままに、排外主義的・人種主義的で形式的・偏執狂的なナショナリズム(を装ったエゴイズム)を好きなだけ謳歌し、何の思慮分別も無く、真剣味も無く、後先も考えず、自己懐疑の欠片も無く、常に感情的でいきり立ち、身の程知らずで自分の分も弁えず、脊髄反射的な多数派への同調以外に自身の意見を作り上げるための努力も一切せず、デマに等しいような生半可で偏った知識と情報を愚かにも絶対視し、阿呆同士が刺激し合って現実離れした極論の過激さを競い、度外れた誇張と曲解を常習犯的・確信犯的に用いて、言葉を真実に達する手段でなく暴力的宣伝煽動のための道具と内心ではみなしているくせに表向きは綺麗事を恥知らずにも述べ立て、都合が悪くなればかつての主張には平然と口をぬぐい、匿名性の陰に隠れて、素知らぬ顔で全く逆の主張を同じように攻撃的・感情的にわめき立てて恥じず、最低限の責任感も羞恥心も持たず、何一つ建設的提案をする能力も無く、徒党を組んで他人を口汚く攻撃する以外能が無いくせに、わかりもしないことをわかったつもりになって、空疎な決まり文句でしかない一知半解の似非知識を馬鹿の一つ覚えで振り回し、声の大きさと多さが即正しさの証明になると信じて疑わず、公的議論は公正な真実に至るための道筋ではなくただ社会的意志決定の根拠となる多数を力ずくで獲得するゲームでしかないという皮相・低劣な考えを抱き、誠実で賢明な少数者の意見を卑怯な揚げ足取りと悪口雑言による印象操作で圧殺する小細工にだけは長け、不完全極まる自分がたまたま持った考えや嗜好が数十世代にもわたる試行錯誤で得られた伝統や常識よりも尊重されるべきだと妄信し、自分が理解できないものには価値が無いと傲慢不遜に決め付け、そう思わせる自身のお粗末極まる知性と感性を疑うことは笑止千万にも一切せず、何についても冗談半分の嘲笑的態度で余裕ぶっているが、実は自分自身が最も卑小で嗤うべき存在に過ぎないくせに、自らは決して批判されない無責任極まる一方的批評家気取りの立場から、自力でものを考える力も無いので単純粗暴なレッテル貼りをしつつ、他者を非難・罵倒することで卑しく下劣な快感を得ること自体が自己目的化しており、そのための名目は実は何でもいいし自身も何の関心も無いことを厚顔無恥にも隠蔽しながら、自分は髪の毛一筋の犠牲を払う覚悟も無い卑怯・卑劣で性根の腐った臆病者のくせに、匿名の場になると数を頼んで無責任極まる好戦的主張をわめき立て、群集心理の虜となった痴呆同然の頭脳でますます過激さと愚かさの底辺へ議論が向かうことに歯止めが掛からないだけなのに、無制限な言論の自由を謳歌した有意義な討議によって賢明な意志決定が行われているなどと滑稽至極にも自惚れ、同様の集団的狂気の表れである相手方の非理性的反日姿勢の裏返しのような中国・韓国への単細胞的最強硬策と、「自由民主主義の宗主国」米国への盲目的崇拝および屈従と、私利私欲にまみれた弱肉強食の自由放任的市場主義「改革」と、既存政治家への(自身の品性下劣さを完全に棚に上げた)ありとあらゆる否定的暴言およびそれとセットになったデマゴーグ・ポピュリスト的政治家への衆愚的熱狂と、(天皇制に対する政治的批判ですらない)皇族個人への陰湿・卑劣で恥知らずな誹謗中傷に明け暮れ、少しでもそれに反対する人間は、「反日」「左翼」呼ばわりして、片っ端から物理的暴力あるいは誹謗中傷という言論上の暴力を用いて集団リンチにかけ、おぞましい嗜虐感情を満足させ[る]

古川隆久『昭和天皇』記事で私が書いた文章より)

そんなゴミクズ以下の下劣な衆愚どもが左翼思想の替わりに「天皇抜きのナショナリズム」をおもちゃにするようになり、卑怯な集団リンチを行い、我がもの顔で横行しているのを見ると、「もうこんな国、滅んでしまえばいい」という言葉が喉元まで出かかって慌てることがあります。

かつて左翼の、祖国に対するその種の冷笑主義を自分がどれほど憎悪していたかを考えると自分でも感慨深いです。

(このブログで、内田樹氏のツイッターとブログをブックマークに入れているのを不思議に思われる方がいるかもしれませんが、自称「保守」と自称「反左翼」がこうまで出鱈目で滅茶苦茶な言動を繰り広げていれば、かつて毛嫌いしていたリベラル派のうちで穏健で賢明な内田氏のような人の言葉を聞くしかありません。)

しかし、ものには限度というものがあります。

国内では弱肉強食の新自由主義・市場原理主義が吹き荒れ、経済的格差がますます拡大、中間層が崩壊し、貧困が広がり、品位も責任感もない成金的富裕層のみがのさばり、その社会的分裂を誤魔化すため、対外的には粗暴・低劣で幼児的な排外的ナショナリズムが煽られ、それ自体が新旧メディアによって「商売」となる。

醜い人種・民族差別をナショナリズムの実践だ、などと考える人間が害虫のように次から次へと湧いて出て、その同じ口で皇室すら攻撃対象とする。

伝統と君主への敬意と忠誠が消滅し、相対主義的にありとあらゆる極論が煽動される中、結果的に最も単純で粗野で俗耳に入り易い、形式的・人種主義的ナショナリズムが大衆の脳髄に染み込むという展開を見ると、今我々はワイマール・ドイツの末期にいるのではないか、とすら思えてくる。

この国も、本当の本当に、おしまいのようです。

もうどうしようもありません。

どこからも救いは来ないでしょう。

率直に言って、もう私は自分の国の将来に対する積極的関心すら失いつつあります。

以前も少し書きましたが、この事態に唯一責任の無い皇室には適切な時期に亡命して頂くとして、あと国民がどうなろうと、もう知ったことじゃありません。

私に出来ることは、このブログ(の一部)で、わずかなりとも流れに抗している人たちを紹介して、自分の寿命が尽きるのを待つだけです。

 

 

月刊「文芸春秋」での連載はこの巻までで、以後ウェブ連載で独立回復までが書かれている。

「天皇という軸の下に、現代史のあらゆる事件、人物が描ける、描かねばならない」との言葉通りに著者は本シリーズを執筆しているが、この巻についてはやや散漫な印象が拭えない。

少し筆を急ぎすぎか。

現代史の(時には市井の無名の人々も含めて)様々な情景を淡々と描いて余韻を残し、読者に考える余地を与える、という著者の筆致が、苛烈な歴史を描くこの巻でも効果を上げていないことも無いが・・・・・・。

内容的にはもう一つ物足りなかった。

 

2016年2月13日

五百旗頭真 編 『戦後日本外交史  第3版』 (有斐閣)

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中国語・韓国語・英語版も翻訳出版されたという大学テキスト。

編者の名は「いおきべ まこと」氏と読むそうです。

序章と結章をのぞいて10年ごとの章分け。

以下内容紹介(括弧内は執筆者名)。

 

 

 

序章 概論(五百旗頭真)。

近代日本外交における、ヘロデ主義(外部文明の学習を通じた独立維持を目指す態度)とゼロット主義(排他主義的独善的態度)の対比。

前者に基く英米協調路線が霞ヶ関正統外交であり、個人名が冠される近代日本の三つの外交、陸奥外交・小村外交・幣原外交はいずれもこれに属する。

そして大日本帝国の政治構造について、以下の記述を引用。

明治憲法下の制度は、政府が軍部をコントロールすることを困難にしていた。首相は各大臣の中で「同輩者中の第一人者」であるにすぎなかった。首相は大臣たちの上に立って命令を下し、大臣を罷免する権限を持たなかった。かえって、軍部大臣(現役)武官制を武器に、軍部が内閣を倒すことができた。さらに参謀本部の独立によって、参謀総長は陸軍大臣と同格に位置づけられた。内閣の一員である陸相が、内閣の意を体して参謀総長に命令を下すこともできなかった。首相―陸相―参謀総長は、なだらかな傾斜を持つ水平的関係を基本とした。上下関係において命令はできず、個別的信頼関係に頼り説得を試みることによってしか、シビリアン・コントロールを達成できなかった。・・・・原首相のような強力な政治家が、非軍事的時代風潮の中でリーダーシップを発揮する時期は、長くは続かない。・・・・明治の権威主義体制は、意外にも首相権限の弱さゆえに無軌道な軍部の軍事的発展主義を抑制することができなかったのである。

これ以上無いほど重要な認識が示されている。

明治憲法の欠陥は、天皇主権でも国民の権利制限でもない、首相権限の弱さだ、というのはこのブログの近代日本カテゴリ記事で何度も繰り返してきた主張ですが、この場を借りて改めて強調したいです。

よく言われる「統帥権の独立」も結局はここに含まれると思う。

政治的意志統一を達成できる元老が健在の内に、首相の明示的権限を拡大するか、その地位を高めるような行政慣習を固めることが必要だったのだが、それができなかったことが日本の悲劇の大きな原因です。

すべてを民主的かそうでないかで判断する左派的偏向も、自国の歩みのすべてを賛美し正当化する右派的偏向も、共に百害あって一利なしです。

 

近代日本は「大陸国家」を志向し発展していった。

それに反対する石橋湛山の小日本主義や佐藤鉄太郎海軍中将の海洋国家論(満蒙放棄と間接的アプローチによる国際政局操作)は主流にはなり得ず。

 

 

 

第1章 1940年代後半 占領期(五百旗頭真)。

直接軍政の回避や天皇制の維持を目指し、急進的民主改革を押し付けてくる米国との交渉が主。

現行憲法の制定も、占領国との対外条約のような性質を持ち、占領下「外交」の中心を占めるもの。

現在から見れば、日米安保と米軍駐留が規定路線だったように思えるが、決してそうではない、冷戦の進行に伴い、講和独立後の安全保障を検討し、様々な交渉上の試行錯誤を経てそうなった。

 

 

 

第2章 50年代(坂元一哉)。

中国共産化と朝鮮戦争が日本の戦略的価値を向上させ、寛大な講和に繋がる。

だが約20年続いた米中対立の時期、日本は中国承認問題という難問に悩まされることになる。

「軽武装経済立国」を国是とする吉田ドクトリン。

これに対する鳩山一郎は自主的外交を志向し日ソ復交を達成、同様の傾向を持つ岸政権は東南アジア諸国との賠償交渉を妥結し外交地平を拡大。

だが民間レベルでの日中交流は行き詰まり、日韓交渉も停滞。

次いで取り組んだ安保改定だが、これは日本の中立主義化を懸念する米側のイニシアティブによるもので、日本防衛義務を明記、内乱条項を削除、基地使用と核持ち込みの事前協議を定めた。

結果、大きな反対運動に直面し、岸路線ではなく、吉田路線が戦後日本に定着することとなった。

 

 

 

第3章 60年代(田所昌幸)。

池田・佐藤長期政権下、高度経済成長を達成。

ヴェトナム戦争により対米関係維持に困難が生じる。

日韓基本条約は成立したが、文化大革命の急進路線下にある中国とは依然断絶。

東南アジア諸国との経済協力は拡大するが、それへの現地の反発も拡大。

対米関係では沖縄返還協定締結に成功。

吉田路線は基本的に成功し、左右の反対勢力はそれを覆せず。

しかし成功しすぎたがゆえに戦後日本が自主的行動能力を持つことはできなかった。

 

 

 

第四章 70年代(中西寛)。

内政では佐藤政権が続投する中、福田赳夫への後継が即実現せず、田中角栄が台頭。

田中政権後は、二年ごとの政権交代が続く。

米中接近のニクソン・ショックと石油危機という激動が日本を襲う。

日中国交正常化が達成されたが、日ソ関係は停滞。

福田ドクトリン(非軍事的大国として経済だけでない相互的信頼関係)で、ヴェトナム戦争後の東南アジアとの協調関係を目指す。

大平政権では環太平洋連帯構想を発表、対中円借款を開始。

自由主義圏全体の観点から見て、戦後日本の成長が米国の失敗ではなく成功だったように、現在の中国の成長と日中のライバル関係成立も、中国の硬直的共産主義体制からの脱却を助けた日本の成功と見なすべきとの記述は、ヒステリーじみた反中感情が蔓延する今では重い意味を持っている。

70年代末、ソ連の軍事的拡張に伴う新冷戦激化、日本は「覇権反対条項」入りの日中平和友好条約を締結、日米同盟と日中協力深化で対応。

二度の石油危機を乗り越えた日本経済はさらに成長、米国はじめ諸外国との経済摩擦が本格化。

この時期、日本は「総合安全保障」政策を提唱、経済援助で世界の安定に貢献するとの主張だが、国際問題をカネで解決するという退嬰的姿勢にも取られがちであった。

70年代を概観し、1980年で1970年より関係が悪化していた国はソ連だけであり、日本外交は成功していたとも思える。

しかし、「経済のみの大国」日本は、自立的国際協調に戦術的には成功したが、戦略的には失敗したとの評価が下されている。

 

 

 

第5章 80年代(村田晃嗣)。

新冷戦での鈴木政権の対応は迷走。

だが、続く中曽根政権はレーガン米政権との信頼関係構築、日米間の経済紛争処理と防衛協力推進に成功。

80年代前半には日中関係も近現代史上最良の時期を迎える。

この時期の日本は、日米同盟強化、アジア太平洋地域の発展牽引、ヨーロッパとの関係強化という三つの成果を挙げ、その国力は絶頂。

しかし、昭和の終焉と共に、冷戦体制という枠組みは消え、バブル経済も崩壊することになる。

 

 

 

第6章 90年~2000年代(五百旗頭真)。

湾岸戦争での対応失敗、朝鮮半島でも冷戦後の最も直接的な脅威となった北朝鮮を国際社会に引き出せず(これは日本だけの責任では無論ないが)。

経済と湾岸の「二重の敗北」から、「失われた二十年」へ。

成功例としては1989年APEC(アジア太平洋経済協力会議)設立、1993年カンボジア和平とPKOへの貢献。

1995年までクリントン政権と最後の日米経済摩擦、94年北朝鮮核危機、96年台湾海峡危機を経て、96年日米安保再定義共同宣言。

冷戦体制崩壊後、世界は「競争的協調外交」の時代へ。

橋本政権は上記対米外交では成功したが、経済失政を犯してしまう。

97年アジア通貨危機を契機として、日本は深刻なデフレ不況に落ち込み、現在まで本格的回復を達成していない。

本書では、不況で国は滅びないが、それがもたらす精神不安定に陥った国民が愚行に走り、(戦前日本のように)国を滅亡させることがある、橋本・小渕両内閣は苦しい状況の中、歴史の愚行に走らず、協調的イニシアティブを取ったと評価されている。

確かに個人的に振り返ってみても、小渕さんというのは不思議な人でしたねえ。

橋本氏については経済失政の印象が強すぎるのであまり好感は持っていないのですが、小渕さんは事前の印象とは全く異なり、多くの業績を残されたと思います。

平成に入ってからの首相としては最優秀なんじゃないでしょうか。

恐慌の一歩手前にあった日本経済を積極財政で何とか踏み止まらせました。

もっとも小渕政権については、(対等の日米関係強化ではなく)現在まで続く対米従属路線の第一歩を踏み出したとの評価もあるかもしれませんし、もしそうならば私の評価も変えざるを得ないのですが、今のところは小渕さんが亡くなって、「構造改革」路線に没入することになって日本は滅茶苦茶になったというイメージが強いです。

2001年9.11同時テロ、ブッシュ・小泉枢軸とアフガン掃討、2003年イラク戦争への支持・協力。

著者はこれに肯定的だが、私は断固反対だ。

五百旗頭氏は「日米同盟プラス日中協商」の主張者であり、硬直した「反中原理主義者」ではないだろうが、中国敵視を自己目的化し、米中対立を煽り立て、異常な対米従属をますます進めようとする(自称)「右派」はいずれ途方も無い蹉跌に我が国を追い込むでしょう。

米国が大戦争の危険を冒してまで中国と衝突するはずがない。

日本が外交と防衛の自主性を放棄し対米追従を深化させればさせるほど、米国にとって「裏切り」のリスクは減るのだから、いずれ日本を犠牲にして中国と妥協するに決まっている。

そのような予測を立てるのに、悪意ある反米主義者の眼で米国を見る必要も無い。

アメリカ人の立場になって、米国の国益を第一に考えれば、ごく当たり前のことです(服部龍二『日中国交正常化』)。

数を頼んで反対者を罵っていれば気分がいい、としか考えない、知性にも品位にも感性にも欠ける下劣な連中が作り出す「世論」と「民意」こそが、戦前・戦後・現在を通じて正常で賢明な外交を妨げ、国家を破滅に導く元凶です。

 

 

 

結章 総論(五百旗頭真)。

40年代後半から50年代、戦後日本外交の三つの進路として、

a.社会民主主義路線

b.経済中心主義路線

c.伝統的国家主義路線

が存在。

占領期、片山・芦田政権で、一時aが優位を占めるが、吉田政権でbに変わり、50年代鳩山・岸政権のcが台頭するが、60年安保でaとcが激突し、両者が傷ついてbが再浮上する。

以後、「日米関係の深化」と「外交地平の拡大」(日ソ・日中・東南アジア外交、日米欧三極論)という二つのテーマが戦後日本外交の中心となる。

60年代に高度成長と沖縄返還という成功をおさめた日本は、70年代の危機に際しても経済的には目覚しい回復と再浮上を遂げた。

日中国交正常化を達成したものの、田中の対米自主外交路線は挫折、福田・大平政権は対米関係を考慮しつつアジア地域の共同利益を求める外交へ転換、アジア諸国の経済成長に協力。

経済大国ではあるが防衛力は依然抑制、「基盤的防衛力」という概念で、抑止力は米国に頼り、日本自身は一定の「拒否力」のみを持つという路線を採用。

80年代にはその国力は絶頂を迎え、中曽根外交の成功を支えた。

しかし国力をいかに用いるかのビジョンはなく、バブルに沈み、90年代以降の長期停滞に至る。

 

 

 

 

全体的に見て、とても良質なテキスト。

参考文献が充実していて、簡略なコメントが付されているのが大変有益。

関連年表も内閣の任期が見やすい形に整理されていて、しかも詳しいので非常に役立つ。

ただ史実を羅列してあるのではなく、その意味付けと評価がしっかりしているので、メリハリがあり読んでいて面白い。

悪い意味での教科書らしさが無い。

やけに細かな事実が記されている場合でも、それが時代の特徴をつかむ上で必要なエピソードであることが多い。

こういう分野では、しばしばある、煽情的で偏った(はっきり言えば最近ではネット右翼的言説と親和的な)本は有害無益で、読めば読むほど頭が悪くなり、品性が劣化するので、一切読まない方がよい。

本書での史実評価に全て同意するわけではないが、左右の奇矯で過激な論調を排している点は評価できる。

学術的でしっかりした、信頼できる著作として推薦します。

2015年11月2日

安岡昭男 『副島種臣』 (吉川弘文館 人物叢書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:46

読み方は「そえじま たねおみ」。

髭面のなかなか迫力のある写真が巻頭に掲げられている。

征韓論政変で西郷隆盛・板垣退助と共に下野した人物として名前はそこそこ知られているが、しかし実際何をした人物なのかと問われれば言葉に詰まる人も多いでしょう。

副島は明治初期に外務卿を務めた。

他に明治の外務卿・外務大臣は、沢宣嘉(のぶよし)、岩倉具視、寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、榎本武揚、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董(ただす)、内田康哉。

条約改正交渉で名前を知っている人名も多いです。

 

 

1828年佐賀藩士の枝吉家に生まれ、藩校弘道館に学ぶ。

大木喬任(たかとう)、江藤新平、大隈重信、久米邦武らと交友。

京都遊学中にペリー来航を知る。

1859年父の死後、副島家の養子となる。

尊攘論者だが、藩主鍋島直正(閑叟)の勧めで、大隈重信と共に長崎で米国人フルベッキに学ぶ。

維新で長崎奉行職を引き継ぎ、各国と交渉を持つ。

当時列強との間で問題となった、浦上キリシタン弾圧事件には直接関与せず。

佐賀藩は戊辰戦争当初ははっきりした態度を採らなかったが、雄藩の一つとして建設していた近代軍備による貢献で地位向上、薩長土肥と呼ばれる藩閥の一角を占める。

1868年、副島は参与に任命。

藩主直正に呼び捨てにされ、「拙者は最早、朝臣にござる。」と言い返したというエピソードが記されている。

同年「政体書」を副島と福岡孝弟が起草。

形式的三権分立を持つ太政官制で、官吏互選を定めたものだが、大村益次郎は共和政治に類するものとして反対、投票せず。

69年版籍奉還と「職員(しきいん)令」。

これも副島が中心に制定。

右大臣三条実美(左大臣は欠)、大納言岩倉、参議副島、前原一誠、大久保利通、広沢真臣、および各卿(外務卿は沢宣嘉)。

政体書より行政権を強化して中央集権化、集議院は諮問機関に留められる(政体書における議政官下局およびそれが改名した公議所は立法機関)。

同年大村益次郎暗殺。

暗殺犯の処刑一時差し止めの動きがあり、これに副島も同調したような記述がある。

ドイツ医学導入に当っての議論では、米国の如き民主国は日本と相容れず、立憲君主国のドイツに倣うべきと主張、多面性を持った人物として描かれる。

「新律綱領」制定へ協力、ナポレオン法典の翻訳を指示。

71年外務卿に就任(前任者の岩倉はすぐに欧米使節として出発)。

この際、留守政府は大改革を行わないとの約定は不合理だとして、板垣と共に反対している。

外務卿としてまず72年マリア・ルス号事件に遭遇。

ペルー船での清国苦力虐待事件。

神奈川県令だった陸奥は介入に消極的で辞任、後任大江卓、司法卿江藤も消極派だったが、米英公使の支持も得て、苦力は清国へ帰国。

そしてこの事件にも関わらず、73年ペルーと和親貿易航海条約の締結にも成功している。

これより前、71年に伊達宗城・李鴻章間で、日清修好条規を締結。

73年条約批准のため、副島は訪清。

李と会談し、中華思想を難じる。

「中国ヲ以テ自ラ画(かぎ)リ夷狄ヲ外ニスルハ堯舜ノ道ニ非ス」

「夷の中華に於る、常に恥じて勉む、故に強く而して能く興る、中華の夷に於る、自ら矜で怠る、故に弱く而して必ず亡ぶ」

「夷も亦人国なり、君子を以て侍てば則ち君子と為り、蛮夷を以て侍てば則ち蛮夷と為る」

三跪九叩頭礼はマカートニー、アマーストの時代から問題になっていたが、副島は当時在位していた同治帝に、米英仏独露に先んじて跪礼拒否で謁見を得ることに成功。

72年琉球藩を設置、71年琉球人殺害事件の起きた台湾に関心を持ちつつ、当時北方において日露雑居で紛争が頻発していた樺太の全島買収を企図する(米国のアラスカ買収も直近だった)が実現せず、後に75年には樺太・千島交換条約が結ばれる。

征韓論争で下野、74年愛国公党を板垣、後藤象二郎、江藤、由利公正と共に結成(同郷の江藤は同年佐賀の乱で刑死)、民撰議院設立建白書提出。

ただし副島はかつての勤王の志士として、批判対象の「君主専制」の文字を「有司専制」変えさせている。

副島は在清イタリア公使に、英国ですら君民共治などの語は官府では決して用いないと忠告されたこともあったという。

75年大阪会議で木戸と板垣は参議に復帰、元老院・大審院・地方官会議設置、元老院議官には勝海舟(安芳)、山口尚芳(ますか)、河野敏鎌(とがま)、加藤弘之、後藤、由利、福岡、吉井友実、陸奥、鳥尾小弥太、三浦梧楼らが就任するが、副島は辞退。

清国漫遊中に西南戦争。

79年(明治12)年侍講に就任、宮中派の一員となる。

だがこの時期友人の債務保証によって進退窮まる。

副島の窮地を聞いた明治帝が10万円を下賜、一度は感激した副島だが国父は万民を平等に愛すべき、偏愛は君徳を傷つけるとして、天災救恤にと返却、この経緯を聞いた明治帝は副島が死ぬかもしれないと感じ使者を急行させ、副島が割腹しようとしていた寸前に止めさせたという。

こうした潔癖な性格から、明治十四年の政変では黒田清隆を批判。

民間での活動ではアジア主義的団体との関わりが挙げられる。

1880年興亜会(1883年以降亜細亜協会)の会長に一時就任。

(この団体は甲午軍乱、甲申事変での朝鮮改革派の衰退により会員が減少、1900年近衛篤麿の東亜同文会に吸収される。)

1892年には前年結成された東邦協会という別の組織の会頭にもなっており、賛同者には小村寿太郎や加藤高明の名も見える。

91年第一次松方正義内閣が成立するが、大津事件で青木周蔵外相辞任、品川弥二郎内相も徹底した選挙干渉が強い批判を受け辞任、副島が後任内相となるが、数ヵ月後辞任、松方内閣もすぐ崩壊した。

その前、1888年枢密院が設置されると枢密顧問官に就任、黒田内閣下の大隈外相による条約改正交渉に反対している。

外交面では、日清戦争後の清国人労働者排除政策を批判、中国ナショナリズムが日本に向けられた際の危険を警戒、対露政策では主戦論を主張して慎重派の元老に反対、日露戦争中の1905年1月30日に副島は死去する。

最後にその政治・社会思想について。

普通選挙と一院制を主張。

「下等社会・上等社会の名称あるべからず」との言葉を残している。

しかし個人的には、貴族・華族的な階層性を排した君主制である「一君万民」という考え方は危険ではないかと思える。

「王室の尊栄を侵す者は用捨なし」とも言っているが、平等な民衆の中で君主だけが孤立して存在しているような社会は不安定で、君主制の存立基盤自体を掘り崩し、ついには愚かしい「民意」によって独裁制を出現させてしまう気がしてならない。

階級社会に不可避的に伴う様々な不条理を眼前に見れば、「一人の君主の前での絶対的平等」という理念に魅力があるのは認めるにしても。

また樽井藤吉の東洋社会党(1882年結成、同年結社禁止)を支援、「古の天子は社会党なり借地党の主義なり」として、復古的な王土王民論の立場から小作農保護を訴えたという。

(この東洋社会党というのは教科書的には全く無名で、私も本書で初めて知った。)

 

 

 

ごく普通。

是非にと薦めるわけではないが、それなりに役立つ。

副島自身は影響力のある公職に就いた時期が短いが、少し変わった視点からの明治史として読める。

本書に限らず、著名人物の伝記を、年代と重要史実をチェックしながら、多数読み込んでいけば徐々に実力がついてくると思います。

2015年10月15日

加藤陽子 『満州事変から日中戦争へ  (シリーズ日本近現代史5)』 (岩波新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:58

『戦争の日本近現代史』『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は紹介済み。

以前ほどでもないが、岩波書店でこの手の近現代史の本は読みたくないなとは思っているが、これは著者名から手に取ってみようかと思う。

戦前昭和における日中紛争についての日本人の認識は、通常の戦争ではなく、「不法な」中国に対する「報償」「復仇」というものが主流だった。

その背景を考察するのが、本書の主たるテーマ。

以下、ポイントを箇条書き。

 

 

 

満州事変の四つの特質。

(1)相手国指導者不在の状況。  蒋介石は剿共戦従事、張学良も事変当時は北平に滞在中。

(2)政治関与を禁じられたはずの軍人が主導。  陸軍刑法を骨抜きにし、「事実の説明と推断」で国民を煽動。

(3)国際法抵触を自覚しつつその違反との非難を避けようとする。  張の悪政と満州人「民族自決」の強調。

(4)満蒙という地域概念の恣意的拡張。  東部内蒙古や熱河・チャハル両省も含める。

 

 

 

満蒙特殊権益を列強は承認していたのかという問題。

日本の権益についての二つの見方、「概括主義」と「列挙主義」。

概括主義=満蒙地域全てが日本の既存権益。

列挙主義=条約・協定に基く確実な個々の既得権益のみを主張すべきとする。

大正期、原敬内閣時代、外交調査会において伊東巳代治がかつて自身も支持した概括主義を批判、列強の承認を自明視するべきでなく、排他的勢力圏の構築よりも、自由競争で英仏優位の華中へ進出すべきと主張。

(ここでの伊東の態度は珍しくまともに思える。)

同盟国イギリスとの交渉でも概括的意味で満蒙が日本の勢力圏だとする承認はなされたことはなく、米国が日本の中国での特殊権益を認めた、極めて稀な外交合意である石井・ランシング協定でも、「特殊権益」解釈の限定があり、通商独占は否定されている。

原、伊東のように、満州権益の列強による承認が列挙主義によって辛うじて認められたと見なし、以後の日本は排他的勢力圏を断念して長江流域へ日米協調の下に進出を計るべきとの冷静な見方がある一方、満州権益を断固として維持・拡張しようとする意見も根強く残る。

 

 

 

事変前、突破された三つの前提。

(1)幣原外交の説得力喪失。

20年代半ば、国共合作でソ連と組んだ反帝国主義的中国が最大の既得権益保持国イギリスを圧迫、日本はそれを利用し自らの力を認めさせ漁夫の利を占める形勢。

しかし国共分離で中国内の連ソ反英派は衰退、英国の地位は回復し、米英は中国の好意獲得競争に走り、一方北伐を完遂した中国の次なる国権回復運動の標的は日本の満州権益に移る。

米英協調という幣原外交の基盤は掘り崩されていったが、この情勢をマクマリーのような冷静な外交官は批判的に見ており、長い目で見れば中国にとっても損失だったとしている。

(2)張作霖を通じた北満州権益深化という田中外交の挫折。

田中の張政権支持堅持に苛立つ関東軍の一部が張を爆殺、張学良は日本を仇敵とし、満州の情勢はかえって不安定化。

(3)総力戦体制整備の困難さの認識。

石原莞爾らは、米ソ相手の持久戦で圧倒的不利な立場の日本でも、満蒙を領有すれば自給自足体制を確立できると考えたが、その行為が中国ナショナリズムを敵に回し、日本に途方も無い重荷を背負わせるとの危惧は(当時の石原には)無かった。

恐慌時に国内の負担なしで総力戦体制が可能になるとの謳い文句は、少し前に経済的計算のみで軍縮を支持したような人々を、満州事変支持に誘い寄せた。

 

 

 

事変後、直接二国間交渉論で日中が同意しかけたが、中国側は日本国内の穏健派を過大視し、対日強硬論がその勢力を強めると考え、国際連盟に提訴し、問題を国際化したが、結果としてそれは完全な誤認と失敗だった。

日本の国民世論は事変を熱狂的に支持、無産政党は沈黙、大新聞は地方への販売拡張のため連日煽情的紙面を掲載、政府と陸軍首脳は中堅層に引きずられずるずると政策転換。

「日本の軍人はまるで義和団だ」との吉野作造の言葉や、上海事変時、日本人居留民の行動が「当時我国の信用を堕したことは一通りではない」との日本総領事の発言を読むと、情けないという気持ちを抑えることが出来ない。

1931年末、日本側が治外法権放棄、中国側は東北全域での商租権と雑居自由を日本に与え、満州は自治委員会が統治するという妥協案が提案される。

張学良は排除され、国民党も有利な点があるし、これで手を打っておけばいいじゃないですか・・・・・。

この案は立ち消えになり、32年初頭米国はスティムソン・ドクトリンを発表するが英独などは追従せず。

リットン調査団報告書では、日本人に十分な割り当てを課した外国人顧問採用と対日ボイコットの永久停止、居住・商租権の全満州への適用など日本に有利な点が多々あったにも関わらず、事変を自衛権の発動と民族自決の擁護と認めないことで日本の世論は激高。

中国国内の不安定こそが事変の原因とする日本側に、五・一五事件が起るような日本こそが不安定だと中国側が反論したとの記述を読むと、恥ずかしい。

愚かな多数者の集団ヒステリーには誰も逆らえないのが近代という時代とは言え、何とも言いようの無い気分になります。

世論煽動に使われた、中国の「不法」行為にしてもやや微妙な点がある。

「自衛」のための鉄道守備兵駐屯の法的根拠は実は曖昧さがあり、はっきりしているのは中国警察の監察権拒否だけで、日露戦争前には日本自身が対露抗議でその曖昧さを利用していたり、満鉄併行線問題でも将来の対ソ戦にとって有利と考えられる部分では中国の建設を黙認していたりしていた。

内田康哉外相は中国政府内親欧米派の圧迫のみを考慮して強硬策を追求したが、これは少し前の中国側の日本評価と同じくらいの誤算だ。

日中両国で、妥協と和解を説く穏健な人々はますます少なくなり、両国にとって破滅的な全面衝突路線が誰にも止められなくなる。

汪兆銘は、戦時にはまず中国側が一方的に甚大な被害を受ける展開になる、中国経済の中心はすでに海岸部に移っており、そこを日本軍によって破壊されれば、政府は内陸に逃れても、弱体・傀儡化し、後に来るのはソヴィエト化と国家分裂だ、と述べ、対日宥和策を主張したが、このように完全に正しい主張が全く通らなくなる(日本側においても同様)。

重光葵ら幣原外交を清算した外務省の新主流派は、中国からの欧米勢力駆逐を目標とし、日本側は支那駐屯軍撤収、租界・治外法権放棄という妥協を自ら行い、イギリスを犠牲に対中宥和を図ろうとする。

これは陸軍の一部に見られたような、一方的な攻撃的政策でないのはいいが、イギリスのリース・ロス使節の重要性を見逃したのは重大な過ちだった。

イギリスの支援を受け、孔祥熙財政部長の下で幣制改革を成功させた中国では、連外抗日派が勢力を強める。

ナショナリズムの異様な高まりの中で西安事件が発生、第二次国共合作のきっかけになるが、著者がこの西安事件前後の中国ナショナリスト青年と二・二六事件の青年将校との共通点を示唆しているのが興味深い。

以後、不幸にして日中は全面戦争の道を歩み、両国とも破滅に至ることになる。

 

 

 

 

ほとんどが外交史。

シリーズ名からするとやや違和感がある内容。

一般的通史とは違った角度からの叙述が多く、面白いことは面白い。

この巻はまあ、お勧めできます。

2015年9月29日

坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成  「宮中」の制度化と立憲制の導入』 (講談社学術文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 07:02

1991年吉川弘文館刊の文庫化。

本書で1992年サントリー学芸賞受賞とのこと。

西南戦争から憲法制定まで、明治10~22年が叙述対象。

国家意思を安定的に決定し運営するシステムとしての「内閣」を確立し、制度化するまでの伊藤博文の努力を描写する。

ただ、本書の序盤では参議を中心にした実力者の集団を「内閣」と呼称しているようで、注意を要する。

参議は廃藩置県後の太政官下の三院制(正院・左院・右院)で、正院を太政大臣・左右大臣と共に構成した役職。

薩長を中心とした実力者は、多くがこの参議に任命されており、これが最も核心的要職と思われる。

各省の卿は、その下に置かれ、行政長官としての役割で参議と兼任する者が多かった。

他の政治的プレイヤーとして、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視らの「大臣」、天皇・皇族・側近らの「宮中」が登場。

これら「内閣」、「大臣」、「宮中」の絡み合いで、明治中期の政局は展開する。

自由民権派からの藩閥政府攻撃に対する防御だけでなく、宮中の政治介入を防止することも制度化の目的。

明治国家を特殊なものとして見るのではなく、第一次世界大戦前に世界の主流であった君主制の一形態として考察。

1878年、これまで明治政府を強力に指導してきた大久保利通が暗殺される。

危機への対応として、天皇と内閣の一体化による政府強化が図られる。

しかし一方で、元田永孚(ながざね)ら宮中の侍補グループによる天皇親政運動が惹起、元田・佐佐木高行・吉井友実・土方久元ら天皇側近らは「有司専制」とは一線を画そうとする。

1879年教育令制定過程で天皇・侍補の批判が加えられ、征韓論政変で下野していた副島種臣が宮内省入りする。

この動きに伊藤・岩倉らは反発し、侍補は廃止されるが、しかし天皇との人格的関係は続き宮中派自体は存続。

同79年末、伊藤は参議と省卿分離を提案、参議中心体制の確立を目指す。

「大臣」では、三条は性格的弱さと定見の乏しさがあり、岩倉は自らの権限に固執。

参議内でも積極財政・殖産興業政策の大隈重信と緊縮財政の井上馨との対立があったが、結局1880年分離実現。

伊藤、大隈、西郷従道、寺島宗則、川村純義、山田顕義が参議専任。

黒田清隆(開拓長官)、井上馨(外務)、山県有朋(参謀長官)、大木喬任(元老院議長)らは例外的兼任とされ、新たに省卿として大山巌(陸軍)、榎本武揚(海軍)、松方正義(内務)が就任。

さらに伊藤は、参議の「内閣」会議の開催・進行の制度化を進める。

これを見た岩倉と同年左大臣に就任した有栖川宮熾仁親王ら「大臣」は宮中派と接近。

大隈が大規模外債を提案したことにより参議「内閣」内の対立が生じると、岩倉は省卿まで下問し議論を拡散、結局最終決定は宮中に持ち込まれ、外債中止。

外債慎重派だった伊藤と大隈との協力不調のため、岩倉が勝利、「大臣」の相対的優位確保と宮中派の勢力回復をもたらす。

次いで地租の部分的米納論という政策を岩倉が提起。

これには伊藤、井上、大隈が行財政の近代化に反するとして一致して反対、支持したのは薩派のみで、天皇・宮中も反対し、米納は不可とされる。

工場払下概則と農商務省設立をめぐって大隈、井上の対立は続き、黒田の離反もあって「内閣」の求心力は低下。

在野では国会期成同盟の請願があり、政府はこれに対抗して集会条例を定めたが、伊藤は自由民権運動の一方的弾圧ではなく誘導と漸進的改革を志向。

同時に元老院と華族制度改革によって宮中への参入を企図、これが華族を政治基盤とする岩倉の反発を買う。

結局、この時点での新華族創設は制限され、士族からの上昇は大久保利通、木戸孝允、広沢真臣(長州出身・1871年暗殺)の三家のみでしかも当人の死後ということになる。

明治14(1881)年初、熱海で伊藤・井上・大隈・黒田の四者会談、本来は国会尚早論で徹底強硬派の黒田を説得する場のはずが、財政論においてまたも大隈と井上の対立が顕在化(同年設立の農商務省は緊縮財政の象徴とされている。ということは1870年設立の工部省の方は殖産興業的積極財政の表れか?)。

大隈は藩閥的背景が無く、政治的孤立化を避けるため薩派から長州閥に乗り換え、表面上緊縮政策に同意しただけであり、加えて早期国会開設によって自身の政治的飛躍を遂げたいという思惑も持っていた。

ただ伊藤との決定的対立を恐れ早期国会論は表に出さず、意見書を有栖川宮に密奏、この内容を知った岩倉は驚愕し、大隈・伊藤の共謀かと恐れたが、それは事実ではなかった。

岩倉は井上毅(太政官大書記官、法制官僚)へ反駁を命じる。

井上毅は政党内閣制を猛烈に批判、それがもたらす小党分立と破滅的帰結を説き、福沢諭吉・交詢社系の英国的立憲制論者を論難、ロエスレルと協力しプロイセン・モデルを提示、岩倉も純プロイセン型の憲法早期制定論を持つ。

これに対し、伊藤は自身の漸進論が御破算になったので、大隈、岩倉(および井上毅)双方の動きに憤激。

一時伊藤・大隈間に和解の動きがあったが、岩倉が病気で調停者の役割を果たせず。

権利を極端に限定した国会を早期に開設すべきとの井上毅に対して伊藤は強い批判を持ち、この両者が井上馨と薩派の支持を争う情勢となる。

ここで北海道官有物払下げ事件発生。

肥前大隈派の払下げ反対運動。

伊藤は薩派と大隈派の二者択一を迫られるが、軍内の勢力を見れば前者の排除は不可能であり、大隈追放へ。

伊藤と井上毅との関係回復、太政官制改革と内閣制度確立では一致(ただし華族制度改革では対立)、払下げ中止と引き換えに宮中派も説得成功、国会開設論について伊藤の主導権回復。

伊藤はイギリス型、プロイセン型双方の直輸入的適用を否定、抽象的原則を一律に当てはめる議論を拒否、歴史的個別性を重視し、日本独自の立憲制を築き上げることを主張。

つまり、ここで明治国家がプロイセン・モデルに固まったという訳ではなく、「政府=プロイセン型、民間=イギリス型」という二分論的理解は適切ではないというのが著者の評価。

しかし、伊藤と山県の対立を利用して岩倉も巻き返しを図り、大臣・参議対等の内閣制度という伊藤案は否定され、岩倉の参議・省卿兼任体制復活が通る。

華族制度改革も停止、伝統的公家秩序保持を重視する岩倉と士族身分保護を意図する井上毅が共闘。

このように、明治十四年の政変で伊藤は成功したとは言えず、大隈追放という代償を払っても完全な主導権を持てず、最高指導者になったのでもない。

とは言え、財政面では松方デフレが定着し政争の焦点となることはなくなり、薩長参議の協力が進み、宮中派の介入余地もなく、黒田が実質的に政権から外れたこともあって、「内閣」の求心力は拡大した。

1882年、伊藤は訪欧憲法調査に出発、欧化主義との批判が自身に向けられ、留守中の政治変動への不安もあったが、あえて実行。

実際の伊藤は近視眼的欧化主義者などではなく、西欧の日本蔑視に対する正当な反発心も持ちつつ、抽象的理論・学説のみならず、行政運営の実態と慣習の吸収に努め、「立憲カリスマ」の威信を得ることに成功。

伊藤が学んだシュタインも、厳密な法律学的ローマ法的な新国法学ではない、歴史・政治学的な行政学を唱える非主流派だった。

留守中、壬午軍乱による朝鮮問題緊迫化。

1883年帰国。

岩倉が死去。

この時期、福沢諭吉は『帝室論』で皇室を政治の外に置くことを主張、井上毅のプロイセン主義を批判、福沢は幕末の天皇象徴の争奪戦再現を危惧、藩閥政府だけではなく、五箇条の御誓文を民権派が自らの武器として持ち出すことを戒め、政府・民権派双方が天皇を現実政治に巻き込もうとすることを批判した。

1884年制度取調局長官に伊藤就任、同じく宮内卿兼任、天皇・宮中の欧化反対に対処しつつ巧妙に勢力拡大。

立憲改進党の華族への浸透に危機感を持ち、安定した上院を形成するために華族改革断行を決意、伊藤は社会秩序を流動化する危険を一部冒しても、新華族創出によって政府支持拡大を追求。

84年華族令制定。

反対派へも配慮し、公侯伯子男の序列で新華族は最高でも伯爵位に留め、数も全509家中29家のみ、さらに宮中関係者を優遇し、受爵者の賢所参拝を行う(それと同時に欧風夜会を開催し、そこに天皇・皇后臨席)。

また、それまで見舞金にも事欠く状態だった皇室財産を株式を基にして充実させる。

明治天皇と伊藤との間には信頼感と共に、いまだ軋轢があった。

85年、ついに内閣制度確立、総理伊藤、外相井上馨、内相山県、蔵相松方、陸相大山、海相西郷、司法相山田、文相森有礼、農商務省谷干城、逓信相榎本武揚。

伊藤は内閣の連帯責任を主張、これを政党内閣への道を開くとして井上毅が反対したが、伊藤は退ける。

「内閣職権」制定、君主ではなく首相が能動者として政務に当たり、法律勅令は内閣で起草し首相の副署が必要と定められる。

これは首相の各大臣への統制権を定めた1810年のハルデンベルク官制がモデルとされ、同時代のプロイセンではなくすでに廃止されたものを参考にしており、あくまで外国のコピーではなく日本の現実に合った制度を作り上げるべきとの伊藤の姿勢がよく現われている。

1886年、「明治十九年の陸軍紛議」、大山と「四将軍派」の対立は前者の藩閥主流派が勝利するが、伊藤は四将軍派に近い天皇にも配慮、以後天皇の意向も尊重し信頼を得る。

「機務六条」制定、閣議への天皇臨御は首相奏請時のみとする。

皇室典範起草、皇位継承問題と皇室費への議会関与否定。

これらの措置は政治から宮中を自立させ、さらに天皇個人からも自立させるもので、「非民主的」というより皇室を政治から切り離すことを意図したもの。

皇室典範は憲法と同時に制定されたが、「臣民の敢て干渉する所に非ざるなり」として公布されなかったと教科書に書いてあるが、本書を読むと違ったイメージを持つようになる。

1887年、宮中儀式の洋装化。

帝国主義時代の苛酷さへの対応であり、これを現代から皮相と冷笑するだけでは済まないと著者は指摘。

井上馨の鹿鳴館外交と条約改正交渉(1882~87年)も同様。

だが当然、それへの反発も国民各層に生まれ、例えば徳富蘇峰は『国民之友』で平民的欧化主義を唱え、国粋保存主義も台頭。

増税と欧化への反発から流言飛語が流され、首相官邸での仮装舞踏会で強姦事件が発生したとか、当時幼くして亡くなった内親王は実は伊藤の子だとか、伊藤と皇太后が密通しているとか、もう滅茶苦茶。

そうしたことが堂々と反対派の新聞に載っていることに驚く。

こんな醜行を避けるために不敬罪が必要なんであって、今みたいに皇室という国の根幹を成す方々にどんな誹謗中傷も言いたい放題という方がおかしいんです。

なお、本書では伝統と洋化の調整、後宮の非政治化に努めた昭憲皇后への評価が高いのが印象的。

こうした中、元「四将軍派」や宮中・三条グループの倒閣運動発生(三条自身は消極的)。

十四年政変以来閑職にあり、欧米外遊から帰国した黒田も反政府的になり、井上馨の条約改正交渉には井上毅、小村寿太郎、ボアソナード、元田、谷、山田、松方ら多くが反対。

伊藤自身、外国人判事採用には懐疑的だったこともあり、条約改正交渉は中止。

しかし、天皇が伊藤を支持したことに力を得て、当面の内閣崩壊は回避。

内閣制度創設まもなく、運営慣行が定着せず、首相交代ルールが未確定であり、伊藤の首相辞任がいつか見通せず、黒田ら薩派など非長州系の不満が高まった。

1887年、大同団結運動と三大事件建白運動という民権派の攻勢に対し、保安条例公布と大隈を外相として入閣させることにより危機を乗り切る。

87~88年にかけて憲法制定。

伊藤は天皇ではなく首相が能動者として政略指揮することを企図し大臣輔弼の原則を強調、井上毅・ロエスレル案と対立。

(ロエスレル案では大臣は君主の顧問でしかない[ただし大臣副署は必要とされる]。)

天皇と内閣を分離し、法案提出と行政権における内閣の主体性をあくまで維持、その内閣の連帯責任を強調。

これに対し井上毅は純ドイツ型の政党内閣拒否方向。

(しかし井上も反政党だが反立憲ではなく、君主の恣意的個人支配を是認するのではなく、少数の藩閥政府に厳格な規律を課した上で存続させるという方針。)

1888年、枢密院設立。

内閣と議会の対立を調停する際、天皇を矢面に立たせないための機関。

当初は予算等紛議を直接裁定することを想定したが、権限縮小。

枢密顧問官には宮中派を多く任命、伊藤が首相を辞任し枢密院議長に就任、後任首相は黒田。

保守派への配慮から、皇室典範を憲法より上位に位置付け枢密院で先に審議、憲法案作成に当たり西欧法への絶えない参照があったことには触れず、欽定憲法であることを強調。

草案起草者である伊藤自身が恣意的に作成したものではないとして、憲法に必要な権威付けを行うためであったが、それにより明治憲法は「不磨の大典」として扱われ、首相の権限拡大など後世必要となった改正が困難になったが、これはやむを得ないか。

しかし枢密院での審議では、伊藤は君主権の制限では譲らず、内閣が天皇・(法律・予算については)議会双方に責任を持つ行政の中心とし、同時に議会の法案議決権と予算審議権を確保(ロエスレルらは「新規の収入」についてのみ)。

ここで注目した記述がある。

天皇が米国大統領のごとく法案拒否権を持つ(米国同様、議会で再度三分の二以上の賛成なら成立する)ことを提案した人物として文中に「森が・・・・・」「森が・・・・・」と出てくるんですが、「森」って森有礼しかいませんよね?

過度の欧化論者として国粋主義者に暗殺された人ですが、変なところで天皇中心主義的ですねえ。

私は純粋な民主主義自体が無条件で良いものとは全く思わないので、議会多数派の意思を絶対視しないことは何とも思わないが、選挙権拡大など個々の政治課題で議会と天皇が正面衝突するような制度は、日本と皇室にとって危険極まりない。

伊藤が猛反発したのも当然です。

この件を含め、能動的君主を想定するような意見のみは、やや強引な議事運営を行ってでも葬り去る。

諸列強および民権派へも配慮。

議会の法案提出権(議決権だけでなく)を認める。

上奏権は大臣弾劾を含めると天皇が政争に巻き込まれる恐れがあるので、それを除いて認める。

結果、中江兆民含む民権派にも受け入れられるものになった(中江の帝国憲法に対する反対は誇張されている)。

保守的観点から、天皇の立法権行使に関して、必要な国会の「承認」が「協賛」に変わったが、国会の議決が無ければ法律が成立しないという実質は変わらず。

大臣輔弼の原則のみ定めて、将来どのような内閣を形成するかは規定せず、政党内閣もありうる。

反欧化の風潮にも配慮し、国粋的文脈に憲法を位置付けたが、これは当時において憲法定着のためには批判すべきものではないのではと思える。

天皇は伊藤を深く信頼し、枢密院審議へ積極的に参加、「立憲君主」へと変化を遂げる。

伊藤は以下のように回想している。

当時院内には極端なる保守主義の暗流が存していたにも拘らず、陛下の御聖断は殆んど自由・進歩の思想に傾かせられた

山県と井上毅らは1889年「内閣官制」を制定、主任大臣副署主義を採用、首相権限は縮小され、後任の松方内閣では首相松方がリーダーシップに乏しく、元老による集団指導に政治の重点が移る。

第二次伊藤内閣で乗り切った日清戦争後には、内閣と軍部の緊張という、憲法制定時には想定し得なかった問題が発生。

伊藤は自由党と連携し、立憲政友会を設立、1907年には公式令で首相副署主義を復活させ、首相権限を強める。

明治天皇は同時代のヴィクトリア英女王よりも君主権限が制度化されていたが、議会対策や元老間対立においては貴重な調停的役割を果たし得た。

本書末尾で、尾崎行雄がかつて対立した伊藤を高く評価し、1931年牧野伸顕に政党政治への失望と藩閥政府への再評価を語っているのが印象的である。

大日本帝国憲法について、この後伊藤が意図した通りに、首相権限の拡大と(軍部大臣を含めた)閣僚任免権明確化という、必要な改正を行い得なかったのは痛恨の極みです。

それさえ可能だったならば、国民の権利関係の条項拡充など後でいくらでも出来たはず。

「天皇主権」という規定も、天皇個人ではなく、天皇が象徴する国家の歴史的伝統に最高の権威が宿ると解釈すれば、今現在生きている民衆の多数派の意思を絶対視するものと安易に解されてしまう「国民主権」より、よほど正当性があると私は考えます。

このようなことを考えると、伊藤は最も好ましいが、極めて細い道を選択してきたんだな、やはり近代日本の最優秀の政治家だというのが、本書を読んだ全体的感想です。

 

 

最後に補論で明治前半期の天皇と軍部という文章がある。

明治天皇は西郷隆盛への深い敬愛の念を持ち、西郷の下野と死去後に軍務への意欲が薄れる。

これに対して大山巌、西郷従道らが天皇と軍との結びつきを求めたのは、政府からの軍の独立性への欲求というより、天皇との一体性をもって軍を支えることが急務と見た悲観的観測からだとされている。

また明治十九年の陸軍紛議での四将軍派など陸軍非主流派への天皇の好意は、人脈的に四将軍派が宮中派と近かったこと、軍内の対抗勢力を存続させ自身の政治的裁量余地を拡大しておこうとする為政者の本能に加えて、西郷を敗死させた主流派へのわだかまりがあったからだと評されている。

紛議後、山県は諫奏を提出、軍への積極的コミットメントを天皇に求め、天皇もそれに応じ演習、式典への参加が多くなる。

その背景として、憲法発布時の大赦で西郷は名誉回復され正三位を与えられたこと、もはや陸軍主流派以外の政治的選択肢が無かったことで、天皇と藩閥政府全体との関係が改善したことがある。

またそれは山県の威信拡大を結果することにもなった。

 

 

 

非常に中身が濃く、重要な作品。

明治中期の十数年間のみにおける詳細な政治過程をたどるので、頭に入りやすい。

細かな史実を暗記する良いきっかけになる。

高校日本史を大体マスターしていれば、十分読めるレベル。

しかし漢文書き下し調の引用文が面倒で、かなり読むスピードが落ちる。

じっくり見れば意味は取れるし、それでわからなければ、とばせばよい。

少々骨が折れるが、挑戦する価値は十分ある良書。

2015年9月21日

北岡伸一 『後藤新平  外交とヴィジョン』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 07:32

著者の作品では『清沢洌』『新世紀の世界と日本』を紹介済み。

本書は1988年刊。

後藤新平は首相にならなかった戦前の政治家の中では知名度がかなり高く、東日本大震災の後では、関東大震災後の復興計画主導者としても再び注目された。

本書は外交家としての面に重点を置いた伝記。

明治初期の数年を除いて外交官出身以外の外相は井上馨と大隈重信のみ。

事実上後藤が最初の非外交官出身外相。

以後も田中義一(首相兼任)、宇垣一成、野村吉三郎、豊田貞次郎のみ。

経済・文化を含む国際交流という広義の外交での貢献大。

その外交理念は、親米英主義・アジア主義・単一国家発展主義のいずれとも異なる、日中露提携論だった。

1857年岩手水沢生まれ。

同郷に高野長英、斎藤実。

高野とは遠縁にあたり、甥に自民党副総裁になった椎名悦三郎がいる。

医学校を卒業、愛知県病院長を経て内務局衛生局に入り、ドイツ留学。

有機体としての国家、歴史慣習に沿った国際関係という発想を得て、帰国後衛生局長就任。

理論の単純適用を戒め、実地に沿った応用を心掛ける。

ここで相馬事件という旧大名家の相続争いに巻き込まれ、精神異常判断にからむスキャンダル訴訟で半年間入獄するという目に合うが、結局無罪となる。

日清戦争後の復員検疫事業で児玉源太郎に起用され、再度衛生局長に。

社会政策・救貧事業に取り組むが必ずしも成功せず。

課題が明白でバックに実力者の支持がある時には成功するが、自身の政治基盤は貧弱という傾向あり。

1898年台湾総督府民政長官に就任、実質ナンバー2の役職だが、児玉総督が兼任のため事実上総督府の長となる。

旧慣尊重、ゲリラ招降策、阿片漸禁、土地調査事業、交通・衛生制度整備を遂行。

新渡戸稲造を殖産局長に起用、製糖業を育成。

多くの施策が成功を収め、日本の植民地で収益が黒字だったのは台湾だけだったとも言われる。

児玉が総督武官制を改め、その地位を後藤に譲ろうとしたが、後藤は固辞。

治安対策上の必要や、政党の容喙を避け、中央政府を有効に動かし、軍を抑えるためにあえて武官総督にこだわったものとみられる。

後藤がこの時期、桂太郎や寺内正毅に接近したのも、当時の指導的軍人が陸軍だけの狭い利益や観点に固執していなかったからである。

1900年の厦門(アモイ)事件は、政府の方針にブレと曖昧さがあったゆえに起ったことであり、児玉・後藤の独断専行による軍事的冒険ではないとの評価は、小林道彦『児玉源太郎』と同じ。

後藤は対外膨張論者だが、経済力を背景に持たない武断的進出は否定している。

日本の台湾領有とほぼ同時期にフィリピンを占領し、門戸開放宣言で日本の対中進出を牽制したアメリカへの対抗を、後藤は主張したが、それは米国を不倶戴天の敵と見なすのではなく、同一原理の上にある競争者としての対応であり、そのための日中露の提携も、米国との対立を相互利益の共有に変えてゆくとの見通しがあってこその手段と考えていた。

帝国主義全盛時代においても国際政治をゼロサム的ゲームとして見ずに、国益の妥協点を探る努力を惜しまない後藤の姿勢は珍しい美質と思われると、著者は評している。

日露戦争では早期講和を支持、戦後1906年南満州鉄道株式会社初代総裁に。

日露戦後、朝鮮よりの第三国勢力の排除が達成されたが、それゆえに戦略自明性が消失、元老の調整力の低下と相まって(桂太郎と西園寺公望は「作られた元老」であって、明治国家を作った元勲たちとは違う)、国家機構の官僚化と国家目標の合意形成が困難になる。

日露再戦への恐れと共に、日清・日米・日英関係も徐々に悪化するが、その中で軍部の反対を押さえ込み満州軍政を断固として廃止させた伊藤博文の見事なリーダーシップが光る。

ここで満鉄について概観。

1897年シベリア鉄道より清国領を通ってウラジオストックに至る東清鉄道会社設立。

1898年旅順・大連が租借され、ハルピンより両地に至る南部支線が出来るが、むしろこちらが本線のような形勢になる。

ポーツマス条約で日本が得たのは、この東清鉄道南部支線の4分の3、長春から旅順まで。

朝鮮の安東から奉天までも清から獲得。

満鉄は単なる鉄道会社ではなく、東インド会社のような植民地経営組織。

児玉の死後、第一次西園寺内閣の下での総裁就任。

陸軍の関東都督府、外務省領事館、満鉄の三頭政治の中で主導権確保に努力。

これまでの中心的海港である営口よりも大連を中心とした発展を企図。

この時期の後藤が抱いていたのが「文装的武備」との考え。

租借地・植民地経営において、軍備増強と軍の発言権拡大ではなく、鉄道中心の経済発展が軍事的効果の面でも有効であって、現地住民の支持も得られ、清国の反発も抑えられるとする主張。

広義の安全保障の意味はあるが、狭い軍事的色彩は薄い。

利益の共有による対立の解消という視点は後藤において一貫している。

日中露と米国を念頭にした、「新旧大陸対峙論」という構想もその流れ。

1907年英露協商および日露・日仏協約により、東アジアで日英仏露が結びつき、清米の主張を退け、独墺と対立する情勢が生まれる。

満鉄併行線問題では米清連携排除だけでなく、満鉄株式を清国にも保有させる、満鉄の貨車・客車を米国から購入するなど、一方的圧迫ではなく利益誘導に重点を置く。

1908年高平・ルート協定(太平洋現状維持、中国領土保全と機会均等、ただ満州での日本の特殊権益は暗に承認)によって、日米対立は一段落する。

この手の日米協定では、他に1905年桂・タフト協定(韓国とフィリピンの支配を相互承認)、1917年石井・ランシング協定(中国本土の領土保全・機会均等という原則と日本の中国での特殊権益承認)があるが、高平・ルート協定は一番知名度が低いか。

満鉄経営と日本の対外公債支払の順調さを示し、日米関係を安定化させた。

後藤と原敬は対米関係重視で一致、しかし原はイデオロギーと世論が国際政治で大きな力を得つつあることも認識し、対米協調を第一に考慮したが、後藤は対中露連携の上で日米関係の調整を考えた。

1908年第二次桂内閣に逓信大臣として入閣、電気事業と電話普及を拡大。

西園寺前内閣で1906年出された鉄道国有法に基き、鉄道院が新設されるとその総裁も兼任。

セオドア・ルーズヴェルト政権は、高平・ルート協定に見られるように満州での対日強硬論を抑えたが、1909年タフト政権になると満鉄と東清鉄道を米国が貸与した資金で清国に買収させる満鉄中立化計画を主張するようになる。

これに対して日露はさらに接近、1910年第二次日露協約で対抗、この締結にも後藤は貢献。

なお韓国について、後藤は、外交権をすでに収めた以上、国王や官僚による悪政があったとしても内政には不干渉を貫く方針でよいと主張していた。

1911年第二次西園寺内閣が成立すると退任し在野へ。

同年辛亥革命。

後藤は辛亥革命に際して清朝支持を主張、これは利権や出兵目的ではなく、内紛回避と日清連携継続のため、以後の大陸の動乱でもある勢力を特に支持することはなかったという。

この時期の内政は桂園時代と呼ばれ、桂・寺内ら長州閥と政友会の二大勢力による対立と部分的連携が中心。

第二次西園寺内閣はより政党内閣色が濃い。

政友会の勢力伸張は、第二党の憲政本党(1910年以降は立憲国民党)が藩閥への非妥協的抵抗姿勢を崩さなかったため。

しかし徐々に、薩派と海軍が政友会に接近、それらと陸軍長州閥および国民党改革派が対立する情勢となる。

大陸への関与では前者が漸進的、後者が積極的。

この変化の背景には、政友会に融和的な桂・寺内に対して、陸軍中堅層と長老山県有朋の双方が不満を募らせていたことがある。

1912年桂が内大臣・侍従長に就任。

著者はこれを大きな失敗と見なす。

桂の個人的キャリアの上だけではなく、有力な政治家を当時の日本が失うことになったので。

直後の陸軍二個師団増設問題は、桂が黒幕ではない、桂は陸軍強硬派に同意せず、田中義一など中堅層はむしろ桂を批判していた、実は桂は軍拡延期と軍部大臣現役武官制廃止、植民地総督武官制廃止など大胆な改革を準備して世論にアピールし政党に対抗する意図だった、しかし新党結成準備が政友会を刺激、盟友西園寺とは妥協の見込みがあったが、西園寺も党下部よりの突き上げで身動きが取れず、議会外での大衆的反対運動も政友会がコントロール不能な程高まっており、結局大正政変に至った、と書かれている。

このような記述を読むと「第一次護憲運動の噛ませ犬」のイメージしかない第三次桂内閣のイメージが変わりますし、大衆運動がどんな政治勢力も制御できない程激化したと述べられていると、大正政変が「輝かしい民主主義の一里塚」ではなく非常に不吉なものに思えてくる。

新党、立憲同志会は、加藤高明・若槻礼次郎・浜口雄幸など錚々たる面々と国民党の過半(大石正巳や河野広中ら)と中央倶楽部(大浦兼武ら)を含んで結成。

人材第一主義で必ずしも政党内閣論者ではなかった後藤は、同志会を党利党略に囚われざるを得ない通常の政党ではなく、政治的国民教育機関を目指すべきであるとして、党内で孤立、脱党。

薩派・海軍・政友会が支持する第一次山本権兵衛内閣で、原敬は満鉄をも例外にしない官吏政党化を目指すが、後藤は党利党略への懸念からそれに反対。

シーメンス事件での倒閣の後、反政友会の思惑から井上馨主導で、立憲同志会・長州閥・陸軍が支持する大隈重信内閣成立(明治の隈板内閣があるから、これは第二次だ)。

後藤も同内閣をひとまず支持するが、同志会との軋轢は続く。

第一次大戦勃発にあたって、大隈内閣を誕生させた山県・井上・寺内らは、内閣の中国政策がいかなるものになるのか、大戦を国民支持獲得に利用していないかとの懸念を抱く。

元老らは日英仏露同盟緊密化と中国への特使派遣を要求するが、加藤高明外相は拒否。

1914年末総選挙で同志会が圧勝すると、大隈政権は、15年二十一カ条要求という最悪の愚行を為す。

元老と寺内・後藤はこれを強く批判、加藤外相更迭も検討されるが、政友会復活を恐れる元老は決断できず。

だが山県系官僚は反政府側にまわる。

1916年には袁世凱打倒が計画され、そのために清朝復興派と革命派の双方に援助を与える冒険主義的政策を大隈内閣は採用するが、これに対して著者が、二十一カ条要求よりも強い批判的筆致を取っているのが面白い。

山県系・寺内・後藤はいよいよ倒閣運動に乗り出す。

その中で、大隈後の加藤後継は拒否するが、同志会との協力は維持し政友会に対抗すべきとの意見が(山県も含め)あったが、中国政策の転換を最重要視する後藤は断固反対。

大隈辞任後、山県・大山巌・松方正義・西園寺の(この時点でもう四人しかしない)元老が協議して、結局寺内を総理に推薦。

後藤の意見通り、超然内閣として組閣、後藤自身は内相就任(戦前日本では内相は首相の幕僚で副首相格)、外相は親露仏派の本野一郎。

1916年立憲同志会は憲政会となる。

寺内内閣は、同志会結成に加わらなかった犬養毅の国民党を与党化し、政友会とも部分的に連携し、17年総選挙で憲政会を大敗させる。

外交調査会を設置、有力者を国務大臣待遇で参加させるが、加藤高明は除外。

満蒙・山東の特殊権益拡張を目指すと同時に、中国の領土保全と内政不干渉を尊重する政策に転換、日中協力を推進するが一方で黄禍論を招かないように列国協調も同時に追求。

前内閣とは逆に中国の対独参戦を推進、ただ段祺瑞内閣への西原借款は内政不干渉という後藤の主張に反する面があり、後藤も途中から反対にまわる。

米国とも石井・ランシング協定で中国での特殊権益を認めさせるという成果を挙げる。

この寺内内閣も教科書的には「米騒動を引き起こして倒れた、原敬政党内閣の露払いの非民主的超然内閣」というイメージしかないが、本書の記述を読むと、実際には大隈前内閣よりもはるかにまともな施策を取ってますよ。

日中・日米関係を修復することに成功したが、そこでロシア革命という驚天動地の出来事が起る。

失敗に終わった干渉戦争は、当初は1918年ブレスト・リトフスク講和以後、ロシアの穏健派を政権の座に就け、対独戦線を再構築する意図からなされた。

本野が病気で、後藤が外相に就任、寺内も病に罹っていたので、後藤が後継首相になる可能性もあった。

反ボリシェヴィキ勢力を過大評価して積極的出兵論を主張した後藤だが、原敬は対米関係も考慮して慎重。

結果としては、イデオロギー対立と内戦という時代を正確に見抜き、有効に対処したのは、後藤ではなく原だった。

寺内辞職、原内閣成立、後藤は欧米旅行に出かけ、米国台頭と欧州没落、ウィルソン主義敗北と厳しい国際対立、ヴェルサイユ体制の脆弱性を目撃。

帰国後、1920~23年4月まで(月まで書いたのは、要は関東大震災の前だと言うこと)東京市長を務める。

戦後のアジア・太平洋地域はワシントン体制下に置かれたが、その弱点として(1)列強の権益維持と中国ナショナリズム抑圧、(2)中国内部の不統一と内乱、(3)ソ連の不参加と反対傾向、がある。

しかし、後藤によれば、ワシントン体制は戦前の国際関係を否定する消極的なもので、積極的に列強協調で何をするかが明確でなく具体策がない、日中露連携を持論とする後藤からすれば米英と組み中ソを抑えるワシントン体制は倒錯したものに映った。

1919・20年のカラハン宣言を皮切りに、ソ連は中国ナショナリズムに訴えようとしており、日米英vs中ソの状況が固まれば、(たとえ米英の支持があった場合でも)日本にとって最も重要な満州の権益が危うい、ネップ採用後のソ連は(かつての帝政ロシアと同様)冷静な交渉を通じた連携可能な相手と後藤は見た。

1923年ソ連からヨッフェを招請、会談を行い、これが日ソ非公式協議の契機になり、25年日ソ国交樹立。

ワシントン体制と中ソの反帝国主義が正面衝突するような情勢を避け、既得の満州利権だけは承認するような、反帝国主義的でない緩やかな日中ソ結合を後藤は目指し、米英と共に中国に圧力をかけるというワシントン体制内の方法を採らず。

ここでもゼロサム的思考法をしない後藤の特質が現われている。

孫文が死の直前に日本で行った大アジア主義演説も、著者によれば日本のあらゆる権益を否定するものというより、ワシントン体制からの離脱を呼びかける現実的な意味合いがあったという。

23年8月加藤友三郎首相が死去、政友会は分裂気味で憲政会も弱体、山県閥のような強力な非政党勢力も無く、第二次山本権兵衛内閣成立、政友会・憲政会・革新倶楽部の三党から入閣予定、後藤内相、田中義一陸相、犬養毅逓信相、だが直後に関東大震災発生。

後藤は復興院総裁としても活動。

政友会勢力を打破するために普通選挙導入を支持するが、虎の門事件で内閣総辞職、同事件で懲戒免職となった元内務省警務部長の正力松太郎に資金を与え、正力は読売新聞経営に乗り出すことになる。

政党政治・多数政治批判と政治の倫理化を政党内閣時代にも説き続ける。

1925年北京関税会議が失敗、日米英主導のワシントン体制下での中国発展は困難との印象を深めた中国国民党は前年からの国共合作を継続し翌26年には北伐を開始、革命外交を展開し列強の諸権益の一方的回収に向かう。

ワシントン体制が中ソによって崩され、少なからぬ権益を破壊された米英は一時中国と不和になるが、後に関係を改善し逆に中国の歓心を買うような態度を見せ、一方満州で米英よりもはるかに重要な権益を持つ日本が抜き差しならぬ日中対立に追い込まれ孤立化するというその後の歴史の展開は、後藤が懸念した通りだと言えないこともない。

1927年訪ソした後藤は、スターリンの現実主義をある意味信頼し、一貫してイデオロギーを過大視せず、ソ連とコミンテルンの活動を区別していた、と書かれているのを見ると、少し甘いのでは?との疑念も持たないではない。

だが陸軍、特に関東軍のソ連への過剰警戒が満州事変やその後の華北分離政策に繋がり、それが結果として大日本帝国を破滅させたことを思えば、もし日ソ関係が現実主義的な相互了解によって安定していれば、無謀な対外膨張が試みられることもなかったかもしれない、日ソ関係の不安定が戦前の安保上の弱点であったことは事実なのだから、と本書では記されている(もちろん異常なイデオロギー国家であるソ連との正常で安定した外交関係はどこの国にとっても難しく、一方的に日本の責任では決してありえないにしても)。

それに繰り返し強調されるように、後藤の旧大陸協調論は米国との全面対立ではなく最終的には両者の利益の統合・共有を目指すものであり、

松岡洋右の三国同盟プラス日ソ中立条約を、後藤の新旧大陸対峙論の新版と見ることは、その意味で誤りである。

最後に著者は「防衛主義的積極主義」という言葉を取り上げ、日本本土、朝鮮半島、満州、華北、中国全土と、正当な防衛意識から出発したはずが、近接する領土への懸念から防衛線をどこまでも拡大してかえって自らへの脅威を増してしまう誤りを指摘している。

まして、特に20世紀以降、交通・運輸技術と兵器の発達によって、どの国にとっても「無条件生存可能性」は消滅したのに、実現不可能な「絶対不敗国防圏」を作ろうとして、中国ナショナリズム、ソ連軍事力、米経済力のすべてを敵に回した、実際にはその三者に一切脅かされない体制など現実にはあり得ない、過剰警戒とゼロサム的発想で国策を決定したために、とてつもなく悲惨な結果がもたらされた、それを考えれば、後藤の外交ヴィジョンにも現在学ぶところがあるとされている。

 

 

 

サブテキストのつもりで読んだが、背景説明が非常に有益。

異様に詳しいメモを取ったが、それだけの価値はある。

ご一読をお勧めしておきます。

2015年9月7日

齋藤健 『増補 転落の歴史に何を見るか』 (ちくま文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:49

2002年ちくま新書刊、2011年文庫化。

著者は経済産業省(旧通産省)官僚出身で、現自民党衆議院議員だという。

1905年奉天会戦から1939年ノモンハン事件までの34年間の転落を、統帥権の独立という(明治にもあった)制度の弊害とだけ説明するのではなく、他の要因を探るもの。

 

 

一章、ジェネラリスト的政治家の消滅。

専門的軍事教育のみで作られたスペシャリストが台頭。

陸軍大学校出身の軍令系統の軍人が陸軍省の軍政分野に進出し、それを牛耳る。

それを統御すべき政治家の中で格段に優秀だったのが原敬。

原が不幸にして暗殺されたのが1921年、その翌年には山県有朋が死去。

著者はここに大きな転換点を見る。

武士道精神が衰退し、ノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)という感覚が失われていった。

以後の社会では、見通しの甘い希望的観測の蔓延、硬直した主義への執着、大勢への抵抗力の弱さが目立つようになる。

危機において自然と有為な人材が出るというのは幻想であり、必要な準備が無ければずるずると破滅に向かうしかなくなる。

 

 

二章、組織論。

合理性より仲間意識の尊重、「間柄」重視の日本的集団主義。

しかも「個々人が摩擦回避の精神に浸っているうちに、やがて声が大きく精力的な『ボス』と呼ばれる人間が登場し、リンチなどの有形・無形の暴力的行為によって属人的な組織支配を確立する・・・・・その結果、合理性の追求とか本質的な議論の展開とか人権の尊重といったことが、二の次、三の次とされるようになる」。

異分子排除と独創性軽視、日常の自転、縦割り主義のセクショナリズム、お題目主義、甘い人事処分、適材適所の人材抜擢が行われず、中堅層の下剋上が跋扈、戦略研究の基礎となるはずの戦史の不正確さ。

 

 

三章、現在について。

政か官かの二元論を否定、それ以前にエリートの存在の重要性を強調。

まあ平凡だが、理解できる考えではある。

しかし一箇所、新自由主義的構造改革を支持するような文章があり、そこには心底ゲンナリした。

次いで情報マネジメントと原敬についての小論、福田和也との対談、秦郁彦と寺島実郎との鼎談があって終わり。

 

 

全く期待していなかったが、そこそこ面白い。

あっという間に読める。

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