万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年5月24日

室山義正 『松方正義  我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』 (ミネルヴァ日本評伝選)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:32

明治国家を支えた元老ではあるものの、圧倒的存在感を示した伊藤・山県に比して「軽量級」で、二度の首相就任時の業績も芳しくないと見られがちな松方正義の伝記。

華々しさには欠けるが、机上論に流されず、慎重な調査と準備を経て必要な政策を万難を排して実行する一方、非常の危機の際には積極果断の処置を主張できる人物、と著者は捉えている。

 

1835(天保六)年鹿児島城下に生まれる。

父が親族の借金を保証したため、困窮の中で育つ。

そこから松方は、生涯「実業」に基づかない投機的経済活動に対する強い不信を持つようになったという。

当時の多くの藩士と同じく、尊王思想を抱きつつ成長。

島津久光側近の藩官僚として昇進するが、西郷隆盛、大久保利通らとも密接に連絡。

維新の際、一時長崎に滞在、そこで大隈重信と知り合う。

松方は、日本の実際から出発する。実際を生み出した歴史的経緯を分析する。そして、実際から抽出された実務的知識と実務的創意に基づいて基本方針を導き出した。その後、行政的経験と欧米の知識や理論的研鑚を積むなかで、次第にその政策センスは洗練され補強されていく。こうして、松方の政策論は、論理的に首尾一貫した「実際に適応する」政策論として凝固していった。

これに対して大隈の政策論は、外国から輸人した「知識」や「理論」をもとにして、日本の「あるべき姿」を論じる傾向が強い。したがって、現実とは遊離した一種の机上論に陥りがちであった。大隈の博学は、欧米の「常識」と日本の「現実」との落差から生じる外交上のトラブルを解決する外交交渉の場では、遺憾なくその強みを発揮した。しかし内政面では、日本の現実と遊離した財政経済構想を強引に進めようとしたり、また日本の現実に引き戻されて方針を逆転したりして、一貫性を欠くという欠陥をあわせ持っていた。

才気煥発で西欧の知識を縦横に駆使して、新たな構想を次々に政策化しようとする華麗な「国際派」の大隈。国内社会経済の実際から発想し、実践的な政策路線を追究しようとする地味な「民族派」の松方と言ってよいだろう。

大隈がごく初期に新政府内で最高指導者の一員となる一方、松方は九州日田県知事に任命。

1870年中央政界に進出、71年廃藩置県後、大久保利通の下、大蔵省入り。

73年の地租改正条例制定では、実務官僚としての能力を遺憾なく発揮。

征韓論政変後、大久保中心の体制が確立。

大久保の富国強兵構想は、イギリスを外形的目標とし、ドイツを実質的目標としたため、自由主義的色彩の強い大隈や、開明的な考え方を持つ伊藤、天皇中心の国家主義を信奉する岩倉・松方など、政府部内の革新派から保守派にいたる幅広い有力者を包含しうる、政治的求心力を持っていた。この内治優先の連合勢力は、西郷隆盛や板垣退助・江藤新平を中心とする征韓論と対抗することで、一層強固なものとなり、凝集力を生み出していった。

そして、政局の焦点は、征韓論に敗れた不平士族の不満を抑えて、早期に近代国家としての制度と内実を整備することに置かれる。不満士族の武力討伐を実施し(佐賀の乱)、政府内部の結束を維持するために「征韓論」の代替策である「台湾征討」を実施して士族の不満を対外的にそらし、他方で一挙に秩禄処分を断行して旧武士階級を解体する。これと並行して、漸進的な立憲制度の採用を公約して政治的安定に配慮しながら、殖産興業政策を進め、内治優先政策のもとで国力充実を実現する、という構想が出来上がっていく。大久保独裁体制が着々と整えられていった。

大久保・大隈による国家主導の「殖産興業」・積極政策に対する批判を持ちつつ、西南戦争後の松方は渡欧。

松方は、凡庸であり、大久保という後ろ盾を持ち、薩摩閥という出身母体がなかったならば、政府で立身出世は不可能であった、というイメージで捉えられることが多い。しかし、松方が無能であったというイメージは、後に議会開設後の「首相としての」適格性欠如や優柔不断という評価から、類推されたものである。実際には、松方は、大久保に昇進を強力に抑制されていた。そして、松方が昇進を重ね、自らの政策論を開花させ、政府部内で揺るぎない地位と業績を上げるのは、大久保の死後のことであった。さらに、松方の財政経済政策論は、薩摩閥の積極論とは、全く対照的なものであった。西南戦争後に実行された「松方財政」は、大久保の引き立てや、薩摩閥の政策論的後援を一切受けなかったことが、特徴であった。

西南戦争の戦費調達と殖産興業政策の実施による不換紙幣増発がインフレを引き起こし、さらに大久保が暗殺されると、政府内での対立が深まる。

大久保の死が西南戦後の政局に与えた影響は大きかった。薩摩閥の政府部内での影響力低下が生じることは、避けられなかった。大久保の後任内務卿に伊藤博文が据わり、井上馨がイギリスから帰国して外務卿に就任したことによって、政府部内における長州勢力がその影響力を高めた。大隈は、筆頭参議兼大蔵卿として、大久保の衣鉢を継ぐ者としてのスタンスを強調し、主導権を確立する必要があった。したがって自らが率先して積極政策を推進していく主役とならなければならなかった。

一方、伊藤は、大久保独裁体制の下で、大隈と並ぶ二大支柱として協調行動をとってきた。しかし大久保の死後、伊藤は、薩摩閥や大隈派から一定の距離をとりながら、影響力の増した長州閥の中心に据わって、政治の主導権を掌握しようとする動きを見せる。こうして、大隈と伊藤との主導権をめぐる対立の動きが徐々に顕在化する。

ところで、松方は、大きな重石であった大久保の束縛から解放された。政治的には薩摩保守派の中心に位置しながら、経済政策では独自の「勧業政策」を主張し始める。松方は、インフレが顕在化する中で、財政経済政策での発言権を次第に強化していった。松方は、政治路線においても、経済財政路線でも、ほぼ大隈の対極に位置していた。経済的には財政主導の積極路線に疑問を呈し、政治的には保守主義・漸進論を唱えていたからである。後の展開から考えると、松方は、この時点で、大隈路線に対する批判者として、首尾一貫した政治・経済スタンスに立っていたことになる。

大隈は、経済財政政策で薩摩閥と共同歩調をとり、国会・憲法論では進歩派の伊藤・井上と協調して、主導権を握ろうとしていた。政府部内で孤立を避けるためには、政治的急進論をカモフラージュしつつ、大久保路線を走るスタンスをとらざるをえない。伊藤は、経済財政論では、大久保体制の積極政策の一翼を担ってきたが確たる定見はもたず、その意味で中間派であったといえよう。伊藤が政府部内で主導権をとるためには、経済財政政策では主流派の積極路線に同調しながら、政治面で主導権を確立することが必要であった。政府部内の保守派に対抗するために「進歩派」として大隈と協調路線をとりながら、他面で大隈の政治権力の削減を目指した。大隈の政治権力削減を実行しながら、同時に政府部内で国会・憲法論で主導権を確立することが目標となる。

・・・・・・

国家の政策進路は、「外資導入」を梃子として積極的政策を推進するという多数派の財政経済論を共通の前提として、大隈型の英国流の議員内閣制を急速に導入するか、伊藤流のプロシャ型の立憲君主制を漸進的に導入するかを巡る対立に集約されようとしていた。

このような流れを一挙に覆す事件が勃発した。北海道開拓使払下げ問題である。この問題を契機に、「大隈一派」対「薩長藩閥」という対立図式が出来上がり、一四年政変で大隈の「急進的国会論」が葬られ、次いで政変を契機とする人事異動の結果、「外資導入による積極政策」路線までもが、放棄への道を進んでいくことになる。

結果として、漸進的な立憲君主制度と「自力の」紙幣整理路線の組み合わせが、日本の政策進路として選択されることになる。政府部内の有力者で、このような政策論の組み合わせを主張していたのは、実は松方唯一人であった。そして急進的な議院内閣制と積極政策の組み合わせを主張した「大隈派」の政策論は、完全に崩壊した。他方、漸進的・保守的立憲制度と積極政策の組み合わせを主張した「薩長」連合の主流派も、財政経済論では挫折する。日本は、政変を契機として、松方が主張した経済政策進路へと大転換することになる。財政経済政策に果した松方の大きな役割がここに暗示されているといってよいであろう。

・・・・・・

松方は、大久保利通を中心とする薩摩閥の共通の政策であった「積極政策」に、薩摩閥の中で反対の立場をとった唯一の人物であった。しかも、薩摩きっての財政経済通であり、長く大蔵省高官の地位にあった。その松方の「反薩摩閥的な」財政経済論が、政変において、薩長藩閥勢力を強力に支援する役割を演じることになったのである。松方は、自己の財政経済論を放棄することなく、政治的に願ってもない「台頭の」幸運を掴んだということができよう。松方は、政府部内で孤立無援であった自己の「紙幣整理」論を、反大隈の文脈を明確にしながら、政治的リスクなく主張することができた。

当時、政府部内で財政経済に見識を備えた人物としては、大隈や現職の佐野大蔵卿を除けば、伊藤、井上両参議があった。しかし、伊藤・井上は、財政問題ではほぼ大隈と共同歩調を採ってきたため、正面からの大隈批判を行うことはできなかった。大隈の財政経済政策を正面から批判できる人物は、松方正義を措いて他にはいなかった。

・・・・・・

まさに、天の配剤の妙ともいえる、絶妙のタイミングで、松方の藩閥政治家としての、また財政家としての登場が促されたのであった。薩摩閥の中で、長く政治的に「第二流」の地位にとどまっていた松方は、政変を契機として、最高権力者の「参議」の一人へと昇進する。松方正義、四七歳のことであった。

1881年大蔵卿に就任した松方は、翌82年日本銀行設立、いよいよ「松方財政」と呼ばれる、日本経済史上、「高橋(是清)財政」「井上(準之助)財政」と並んで(松方財政と前者は大成功で、後者は大失敗で)著名な財政経済政策を実行。

だが、その実像は「松方デフレ」という名称とは大きく異なったものであることが本書では述べられる。

確かに紙幣整理のためのデフレは農民に大きな困難をもたらし、農村の階層分化が進んだ。

しかし、以下の三つの「追い風」を、松方財政は得ていた。

(1)主に米国の景気回復による輸出拡大効果

(2)紙幣価値回復と壬午・甲申事変の朝鮮問題緊迫の為の軍事費拡大による、財政支出の「実質」増大

(3)これも紙幣価値回復がもたらした、実質通貨残高の増大と強力な金融緩和効果

明治一〇年代の日本経済は、「一四年政変」に至る前半では、通貨増発を背景として公債が発行され、積極的な政府事業が実施された。激しいインフレが発生し、貿易収支は大幅な赤字に陥った。財政は危機的状況に陥り、政府機能は著しく劣化した。結果として「小さな政府」が実現された。「積極政策」が実行された時期としては、極めて特殊な性格をもっていた。これに対して政変以後に実施された松方財政は、明らかなデフレ政策であり、財政も緊縮方針が堅持された。

しかし松方財政は、通常の緊縮財政とは性格が全く異なっていた。松方の不退転の姿勢は、インフレ期待を早期にくじき、不況局面を比較的短期に終結させた。また財政および金融部門の両面で強力な総需要拡大効果を伴っていたという点で、一般の「緊縮政策」とは決定的に異なっていた。国民経済に対するダメージは、通常イメージされるほどには破壊的ではなかった。

松方財政は、一般には、財政・金融両面の厳しい引き締め政策であったと理解されている。物価水準は急落し、経済は不況のどん底に沈み、農業経営は苦境に陥り、賃労働者と小作人を大量に排出した。緊縮財政の中で、経済は厳しい縮小均衡を強いられた。その結果金利が低下して、経済は均衡に向かい、為替相場が下落して外需が拡大するという条件の下に企業勃興を迎え、景気が回復したとイメージされてきたといえよう。

しかし経済統計データは、このような調整を支持する動きを示していない。松方デフレ期を紙幣価格変動の影響を取り去った「銀貨ベース(銀価格)」で見ると、賃金は継続的に上昇を遂げ、一般物価水準も顕著に上昇している。デフレ過程で賃金が上昇を示したとすれば、古典的な価格調整による景気回復は不可能になるはずである。不況は深刻化するであろう。しかし実際には「松方デフレ」期の極めて早い時期に、急速な国民生産の上昇が生じている。デフレが進行し不況が深刻化したとイメージされてきた「松方デフレ」期に、継続的な実質賃金上昇が生じ、物価水準上昇と国民生産拡大が同時に進行していたのである。同期の経済成長率は相当高かった。このような事態は、一般には、総需要が増大すると同時に、生産方法改善や新技術採用が進み生産性が上昇したときに生じる経済パフォーマンスに他ならない。

松方のデフレ政策は、一般にイメージされているような大きな生産低下をもたらさなかった。比較的軽微な生産低下を経験した後、速やかに景気回復軌道へと乗った。その主要な経済要因は、「インフレ期待の急速な解消」、「輸出環境の好転」、「実質財政支出の拡大」「実質貨幣供給の増大」にまとめることができよう。

この文章は本書で最も重要な部分かもしれない。

通常デフレというものは決してあってはならないものであり(中野剛志『レジーム・チェンジ』)、成功と見なされ得る松方財政は決して単純な緊縮財政・デフレ政策ではなかったということがよく理解できた。

(逆に井上財政は悪しきデフレ政策であったと言う他無い。)

内閣制度導入で初代大蔵大臣に就任、以後何度もその職を務めることになる。

1891年第一次松方内閣が成立。

普通この内閣は、大津事件と品川弥二郎内相による大選挙干渉という二つの芳しくない史実によって記憶されているだけである。

品川内相の責任を追及して、伊藤が倒閣に動くが、著者がこの動機を伊藤の松方に対する嫉妬と言わんばかりの記述にしているのには首を傾げる。

続いて第二次内閣を組織した伊藤が、結局議会運営に行き詰まり、明治帝の「和協の詔勅」に頼ったことにも著者は批判的である。

この辺の記述にはあまり同意できない感がある。

逆に、私の方で、伊藤が近代日本の最有力・最優秀の政治家だ、だからほぼ常に最善の政策をその都度採り続けていたはずだ、という思い込みが強すぎるのかもしれないが・・・・・。

日清戦争での戦費調達に貢献、内国債を中心として確保。

1896年第二次松方内閣成立。

二度の松方政権は、日清戦争を遂行した第二次伊藤内閣を挟み込む形になっていることは記憶しておく。

第二次伊藤内閣が自由党と事実上連立したのに対し、松方はかつてのライバル大隈率いる進歩党と連携、「松隈内閣」と呼ばれる。

この内閣では97年金本位制導入という大きな仕事をした後、98年辞職。

日露戦争に向かう過程では、伊藤・井上馨らが満韓交換論と日露協調を唱えたのに対し、日英同盟と対露強硬論を唱える桂太郎・小村寿太郎を松方は支持。

大正時代には元老として国政に関与、中国大陸での排他的勢力圏を拡大しようとする動きを警戒し、二十一ヵ条要求を行った大隈内閣の加藤高明外相を強く批判。

日本が植民地に転落する危機を身をもってしっている元老の意見はやはり常識的で危な気が無い。

1922年高橋是清内閣辞任後と23年加藤友三郎首相死去後の後任選定で、西園寺公望と共に、外交姿勢の根本的変更が無い限り、加藤高明を推薦しない方針を貫く(24年護憲三派内閣を組織した加藤は幣原外交を採用、過去の自身の政策を根本的に変更した)。

しかし、元老の影響力は決定的に後退し、左右の極論に煽動される「世論」が絶対の支配者となる時代が訪れていた。

1924(大正13)年、90歳で死去。

 

積極財政としての「大隈財政」と「高橋財政」、緊縮財政としての「井上財政」と「松方財政」のうち、それぞれ後者のみが成功と後世から認められることになった。

人間的には、明治天皇から子供の数を問われて、「いずれ取り調べてお答えいたします」と答えたのが、最も印象的でユーモラスな逸話か(妾腹含め19人いたそうです)。

 

 

人物の経歴と業績からして、当然経済史の話が多いが、私の苦手分野にも関わらず、全く理解できないという部分はほぼ無かった。

非常に読みやすく、良質な伝記。

伊藤・山県以外の元老についても、これくらいの本が出て欲しいものです。

 

2016年12月11日

15冊で読む近代日本史

Filed under: おしらせ・雑記, 近代日本 — 万年初心者 @ 02:51

のっけから大変失礼な質問をすることをお許し下さい。

まず以下の歴史用語をご覧下さい。

 

 

「日中戦争」と「満州事変」。

 

「二・二六事件」と「五・一五事件」。

 

「太平洋戦争」と「第二次世界大戦」。

 

「日独伊三国同盟」と「独ソ戦」。

 

「ヒトラー政権成立」と「世界恐慌」。

 

「日本降伏」と「ドイツ降伏」。

 

 

以上、戦前における12個の史実を挙げました。

さすがに、これらの史実を「知らない」「聞いたこともない」という方はおられないと思います。

 

では、これらの史実を起こった順番に、年代順に並べることが出来ますか?

 

しばらくお考え下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

「1929年世界恐慌、31年満州事変、32年五・一五事件、33年ヒトラー政権成立、36年二・二六事件、37年日中戦争、39年第二次世界大戦勃発、40年日独伊三国同盟、41年(6月)独ソ戦、(12月)太平洋戦争、45年(春)ドイツ降伏、(8月)日本降伏、それがどうした?」と何も見ずに言えた方は、以下の数行は無視して下さい。

答えられなかった方は、まず自宅近くの公共図書館に行って下さい。

その際、もし小学校3・4年生くらいのお子さんがいらっしゃる方は一緒に連れて行くといいでしょう。

図書館に着いたら、児童書のコーナーに向かいます。

で、そこに置いてある学習漫画「日本の歴史」の類いを見つけて、その明治時代から現代までの巻を取り出し、子供に見せて「これでいいのか?」みたいな顔をしてから、貸出手続きをします。

そして自宅に持ち帰ったら、子供ではなく、自分が読み耽ります。

それから、『もういちど読む山川日本史』『石川日本史B講義の実況中継』などを買い求め、高校日本史レベルの事項を、ごく粗くでもいいから頭に入れます。

 

 

以上のことを概ね済ませたのを前提として、近代日本史に関する15冊の読書ガイドを作ってみようというのが、この記事の主旨です。

このブログ全体で紹介冊数が1100冊を超えているので、後はいたずらに個々の本の記事を増やすより、この手のリストを作った方が、読者の役に立つかと思います。

(ただし、このリストは「近代日本」カテゴリの120冊余りしか読んでいない中からの選択ですから、当然限界はあります。[記事数は130余りだが、一つの本で複数の記事を書いているので、冊数は120冊ほど])

 

 

「何で15冊なのか?」は実はかなり適当です。

最初は20冊程度のリストを考えていたのですが、世界史の暫定必読書リストが30冊なのを思えば、ちょっと多いし、なかなかうまく書名も埋まらなかったので、半分の10冊にしようとしたら、逆にどうしてもオーバーしてしまうので、その間でキリのいい15冊になりました。

そして、私の関心領域からして、当然政治史と外交史がほぼ全てです。

 

 

便宜上、「明治前期」「明治中期」「明治後期」「大正」「昭和戦前期」「昭和戦後期」「通史」に分けて紹介していきます。

ただし、何しろ全部で15冊のみですから、1冊だけしか挙げない時代もあります。

 

 

その前に「幕末」をどうするかという問題があるんですが・・・・・。

苦手分野だし・・・・・やめます。

ここで紹介するのは、あくまで明治以降ということで。

今まで読んだ本で、すぐ思いつくのは、半藤一利『幕末史』(新潮社)で、特に悪い本ではないが、これをリストに入れるのはひとまず止めておきます。

 

 

まず「明治前期」から。

この分野では、やはり

(1)坂野潤治 大野健一『明治維新 1858―1881』(講談社現代新書)

がベスト。

「富国」「強兵」「憲法」「議会」という四つの国家目標を掲げる政治勢力の合従連衡の有様から、明治初期の政治を分析する手法の鋭さには、目が覚めるような思いがした。

幕末雄藩の状況にも触れられているのも便利。

薄い本で非常に読みやすいが、内容はとことん濃い。

頭の中がすっきり整理される。

 

 

続いて「明治中期」。

ここで通読難易度が急に高くなるが、

(2)坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)

を採用。

自由民権運動の勃興から憲法制定に至る明治中期の政治史が詳しく語られている。

記事中でも指摘したが、当時の文章の引用が相当読みにくいので、難しければそこは飛ばしてもよい。

内容自体は非常に精緻で重厚。

じっくり読みこなせば、相当実力が付くでしょう。

そして、やや迷ったんですが、ここで政策決定者自身の著作として

(3)陸奥宗光『蹇蹇録』(ワイド版岩波文庫)

を挙げる。

この種の回顧録では、近代日本で最高の作品であることは、恐らく衆目の一致するところでしょう。

ただし、大谷正『日清戦争』(中公新書)におけるような、批判的視点も心の片隅に入れておく必要もあるでしょう。

同種の著作では、このブログでも、幣原喜重郎『外交五十年』(中公文庫)重光葵『昭和の動乱 上・下』(中公文庫)同『外交回想録』(中公文庫)石射猪太郎『外交官の一生』(中公文庫)来栖三郎『泡沫の三十五年』(中公文庫)などを紹介しています。

その内、幣原著は(やや内容が薄いものの)最も読みやすく、教科書的史実の背景を平易に知ることが出来ますし、石射著は破滅的な日中戦争に向かう日本を緊迫感を持って描き出しています。

その他の本も含め、歴史研究者の一次史料としてしか読めないであろう『原敬日記』などと異なり、いずれも一般読者が普通に読めるものですので、歴史的知識を得る為に、余裕があれば手に取ってみるのもいいでしょう。

ただ、学生の頃、その種の回顧録の代表作だと考えていた吉田茂『回想十年 全4巻』(中公文庫)はちょっと期待外れかな、という気もしました。

 

 

「明治後期」に行きます。

ちょうど、叙述範囲がぴったりの

(4)佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史21)』(講談社学術文庫)

がありました。

驚くほど完成度が高い著作です。

著者の透徹した史観に深く納得させられます。

叙述自体の巧みさも魅力。

で、どうしようかなと迷ったんですが、司馬遼太郎『坂の上の雲 全8巻』(文春文庫)を挙げるのは止めておきます。

この本は「近代日本」カテゴリで初めて記事にした作品です。

外国の歴史にしか興味が無かった自分が、近代日本史に向かうきっかけとなった、個人的にも重要な著作です。

最初このリストを作ろうとした時は、間違いなく入れようと考えていたのですが、(著作自体の罪では全く無いとは言え)今の時代状況ではやや陳腐に感じられる点も無いでは無いので、外しました。

未読の方が読んでみるのは、全然悪くありません。

そして、ここで複数の時期にまたがる著作だが、

(5)瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)

を挙げる。

(2)に続いて伊藤博文関連の著作だが、何しろ近代日本最重要最優秀の政治家であることは、ほとんどの人が同意するであろうから、別にバランスを失しているわけではないと思う。

実は、これも伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)を採用しようか、かなり迷いました。

伊藤之雄氏の著作の方が、網羅的であることは間違いなく、これを選べば、ほぼ明治全ての政治史がカバーできる。

しかし通読にはやはり相当骨が折れるし、初心者が内容をしっかりと読み取れるか疑念が残るので、あえてポイントが絞られた瀧井氏の本を選びました。

日清戦争の記述がほとんど無い点については、(3)でフォローされているということにします。

加えて、あえて付け加えれば、小林道彦『児玉源太郎』(ミネルヴァ日本評伝選)は優れた伝記であり、明治政治史全般を理解する上で有益な本です。

伊藤之雄『山県有朋』(文春新書)および井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)も同様。

 

 

以上、明治終わり。

続いて「大正」。

ここは1冊だけ。

(6)岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)

この岡崎氏の日本外交史シリーズは、「近代日本」カテゴリのごく初期の段階で紹介していることから分かるように、かつては自分の中でその種の本の決定版だと考えていました。

その後、岡崎氏の政治的見解にかなりの疑念を感じるようになって、そうした確信も相当薄れ、だからこそ残りの『陸奥宗光とその時代』『小村寿太郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』は採用しないのですが、この巻だけは依然非常に優れていると思います。

他に適切な本を読んでいないこともあり、これでいきましょう。

上で触れた伊藤之雄氏の伝記作品で、『原敬 上・下』(講談社選書メチエ)があり、これを読んだ後では、ひょっとしたら入れ替えを考えるかもしれませんが、未読なのでリストには入れず、その存在だけは紹介しておきます。

 

 

そしていよいよ「昭和戦前期」に入ります。

我が国が有史以来最悪の敗北を経験し、その歴史に大きな屈折を余儀なくされた時代です。

まず、これを挙げましょう。

(7)川田稔『満州事変と政党政治』(講談社選書メチエ)

昭和陸軍内部の皇道派・統制派という派閥対立についての説明が非常に詳細でしっかりしているのが長所。

初心者にとって効用が非常に高い著作です。

なお、類書の高橋正衛『二・二六事件』(中公新書)同『昭和の軍閥』(講談社学術文庫)は初心者向けとは言い難く、私としてはお勧めしません。

次にこれ。

(8)服部龍二『広田弘毅』(中公新書)

昭和戦前期の日本外交の破滅的失敗を省みる上で、外相・首相を歴任したこの広田弘毅という人物を通じて見ることはかなり有益かつ便利である。

本書はその期待に違わぬ、しっかりとした内容と読みやすい叙述形式を持っている。

類書として、これも挙げておこう。

(9)大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書)[『日中戦争への道』(講談社学術文庫)]

日中戦争の通史ではなく、戦争の泥沼化に至る過程を分析し、それを回避する為に何が必要だったのかを考察する外交史の名著。

実は、再読したところ、初読の際ほどの好印象は持てなかったのだが、それでも充分勧められる本ではあります。

なお、同じ著者の『真珠湾への道』(講談社)はやや評価が落ちるので、興味のある方だけご覧下さい。

ちょっと前に話題になった、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)も悪くないが、このリストに加えるのは止めておきます。

興味のある方は一読してもいいでしょう。

昭和期の対外戦争の具体的経過についての知識を得る為の本としては、やや古いですが、臼井勝美『満州事変』(中公新書)同『日中戦争』(中公新書)児島襄『太平洋戦争 上』(中公文庫)『同 下』(中公文庫)を挙げておきます。

(知名度はあるが、戸部良一 他『失敗の本質』(中公文庫)は勧めません。)

ちょっと時代を戻して、軍部台頭前の政党政治時代については、絶対に外せない、この名著があります。

(10)筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』(ちくま新書)

ここ最近読了した本の中では、最大の収穫でした。

史実をよく整理された形でわかりやすく叙述し、その後で穏当で説得的な史的評価を記して、歴史的教訓を明解に読者に示す、という歴史叙述のお手本のような本。

記事中に書いたように、著者の意見の全てを肯定するわけではないが、本書が卓越した傑作であることは間違いないと思います。

政党政治終焉後の政治史については、さらに同様の傑作があります。

(11)坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)

驚くほどの独創性と面白さをもった歴史叙述です。

これも絶対に外せません。

私も含め、ほとんどの方は、著者による史実の整理と評価の鮮やかさに感嘆を禁じ得ないでしょう。

そして、戦前・戦後を通じて在位した昭和天皇の伝記を通じて、時代を理解するのも有益です。

最初、古川隆久『昭和天皇』(中公新書)が適切かなと思っていたのですが、再考してこれにします。

(12)伊藤之雄『昭和天皇伝』(文芸春秋)

練達の歴史家の手に成る、非常に信頼性が高い著作。

昭和史全般の概説としても使用可能。

福田和也『昭和天皇』(文芸春秋)は、上記の著作などを含む様々な本を参考にして、著者独自の情景描写で読ませるが、巻が進むほど内容が粗くなる気がする。

 

 

「昭和戦後期」に行きます。

まず、以下の概説を選択。

(13)高坂正堯『一億の日本人 (大世界史26)』(文芸春秋)

刊行は1960年代末で、相当古い上に、入手困難。

終戦から20年余りしか経っていない頃の作品で、戦後政治史としては、終戦後70年を超えた現在までの、半分もカバーしていない。

当然多くの限界はある。

しかし、まだしも入手し易い、同じ高坂氏の『宰相吉田茂』(中央公論社)をあえて避けて、これを選んだのは、初心者がより読み易い叙述形式が採られているのと、左右のイデオロギー対立の中、何とか歴史的共通認識を形成しようとする著者の真摯さ故です。

じっくり読みかえすと、非常に多くのものが得られた著作でした。

しかしさすがに戦後史がこの1冊というわけにもいかないので、網羅性に配慮して、

(14)五百旗頭真 編『戦後日本外交史』(有斐閣)

を採用。

「傑作」というほど、心には残らなかったが、それなりに有益な本であることは間違いない。

戦後外交史の概説としては、充分使える。

なお、日米関係と並んで、戦後日本の最重要の外交課題であった日中関係については、服部龍二『日中国交正常化』(中公新書)が非常に良質なテキストになります。

 

 

時代別の紹介は一応終わりました。

最後に「通史」として、この1冊を挙げて、ラストを飾る。

(15)坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)

当然、同じ著者の(1)や(11)と内容が重複する部分はあるが、それ以外の時代の叙述は貴重極まりないし、同時代の章でも新たに付け加えられた見識がある。

通史としては、現時点では、やはりこれがベストでしょう。

正村公宏『日本の近代と現代』(NTT出版)は、ありきたりの教科書的著作ではなく、著者独自の見解がにじみ出た作品だが、強いて選択するほどではない。

 

 

 

まあ、こんなもんですかね。

以下、全15冊のリストです。

 

(1)坂野潤治 大野健一『明治維新 1858―1881』(講談社現代新書)

(2)坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』(講談社学術文庫)

(3)陸奥宗光『蹇蹇録』(ワイド版岩波文庫)

(4)佐々木隆『明治人の力量 (日本の歴史21)』(講談社学術文庫)

(5)瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)

(6)岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』(PHP文庫)

(7)川田稔『満州事変と政党政治』(講談社選書メチエ)

(8)服部龍二『広田弘毅』(中公新書)

(9)大杉一雄『日中十五年戦争史』(中公新書)[『日中戦争への道』(講談社学術文庫)]

(10)筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』(ちくま新書)

(11)坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書)

(12)伊藤之雄『昭和天皇伝』(文芸春秋)

(13)高坂正堯『一億の日本人 (大世界史26)』(文芸春秋)

(14)五百旗頭真 編『戦後日本外交史』(有斐閣)

(15)坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)

 

 

自分では近代日本史についても、そこそこは読んできたつもりなんですが、やはりちょっと厚味に欠けるかもしれない。

以上のリストを見ると、そう思う。

もう少し、より良いものになる可能性もあったかもしれませんが、これが私の限界です。

初心者が無理なく読める範囲内で、一定の冊数制限の下で選ぶ、ということなら、このリストの意義も多少はあるかもしれません。

少しでも参考にして頂ければ幸いです。

 

 

全10冊、とはいきませんでしたが、15冊とかなり絞り込んだんで、読了するのは比較的難しくないかと思います。

ただ、その代わり、漫然と読まない方がいいです。

あえてアドバイスすると、常に年代を意識しながら読んで下さい。

このブログでも何度か触れていますが、とにかく歴史を学ぶ上では、年号を記憶することが絶対に必要です。

「また面倒で嫌なことを言い出しやがったな」と思われること必定でしょうが、これに関しては一切妥協できません。

重要な史実と史実の前後関係もわからずに、史観がどうのこうの言っても意味が無い。

そんな史観自体が皮相で安易なものである可能性が大きい(引用文(内田樹6)、 高坂正堯『大国日本の世渡り学』(PHP文庫))。

自分自身を振り返っても、少し違う分野の諸史実の年号を暗記して、それをツールとして利用することによって、視野が啓け、全体的な歴史理解が容易になったという経験を何度もしています。

 

 

ただし、最初に皆さんにした質問の件ですが、別にあれを答えられなくても、何も恥ずかしくありません。

そんなことを知らなくても、立派で良識のある社会人でいることは充分可能です。

ただ、最重要史実の、あの程度の順番も答えられないのに、近代日本の歴史認識について、匿名のネット上で、党派心の虜になって、反対者を口汚く罵倒・嘲笑・中傷するような真似だけは、絶対止めて下さい。

国と社会にとって有害無益です。

そんなのは言論の自由の範囲内には入りません。

ネット上で他者に罵詈雑言を浴びせかける前に、1冊でも多く本を読んで、自分の知識と見識を高める努力をして下さい。

自戒を込めて、そう記して終わりにします。

2016年11月4日

坂野潤治 『日本近代史』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:41

1857年から1937年までの80年間の近代日本史を独自の切り口と史観で叙述した本。

 

時代区分は以下の通り。

1.1857~1863年  「改革」 公武合体

2.1863~1871年  「革命」 尊王倒幕

3.1871~1880年  「建設」 殖産興業

4.1880~1893年  「運用」 明治立憲制

5.1894~1924年  「再編」 大正デモクラシー

6.1925~1937年  「危機」 昭和ファシズム

 

本書の対象外だが、1937年以降は「崩壊の時代」となる。

とにかく内容が濃い。

いつもの調子でメモを取っていると、一体どれくらいの長さの記事になるのか見当がつかないので、「どうしてもここだけは」というくらい印象深い文章を引用し、論旨の骨格だけを示すことにします(と言ってもやはりとんでもない長さになりましたが)。

 

 

まず第一章。

 

ペリー来航(一八五三年)に象徴される欧米列強の軍事的圧力は、日本古来の伝統(「尊王」)と二五〇年余にわたるもう一つの伝統(「攘夷」)を結びつけた。この二つの「伝統」が「水戸学」や吉田松陰などにより「尊王攘夷」という一つの「国是」に合体した時、日本に強固な原理主義が登場したのである。

・・・・・・

「尊王攘夷」と「佐幕開国」の対立を克服することは、きわめて困難な課題であった。それは対外政策の基本的な対立であっただけではなく、「尊王」か「佐幕」かという国内政治体制の根本的な対立でもあったからである。一八五三年のペリー来航から六八年の明治維新までの一五年間の日本は、この二つの根本対立の落としどころを求めて、悪戦苦闘しつづけたのである。

・・・・・「公武合体」と「尊王攘夷」の二つの幕府批判勢力が正面から衝突した、一八六三(文久三)年から六四(元治元)年の時期・・・・・幕府支持の会津藩と公武合体論の薩摩藩が手を結んで、尊王攘夷の長州藩の孤立化を謀った・・・・・「文久三年八月一八日の政変」と「禁門の変」(一八六四年)の名で知られる事件である。

しかしこれでは、かつての「佐幕開国」が「公武合体開国」に替わっただけで、「尊王」と「攘夷」の二つの「国是」は長州藩が握りつづける。長州藩一藩では、軍事力でも経済力でも、幕府と有力諸藩の連合には敵わないことは明らかである。二つの「国是」を守ろうとする長州藩には、反「開国」派と反幕府派の双方が同情を寄せていた。一八六四年の禁門の変で長州藩に「朝敵」の汚名を負わせただけでは、「尊王攘夷」問題を消滅させることはできなかったのである。

唯一の解決策は、「攘夷」か「開国」かの問題を棚上げにして、「尊王」か「佐幕」かに選択肢を絞り込むことであった。そうなれば薩摩と長州は「尊王倒幕」で手を握ることができる。日本古来の「国是」であった「尊王」によって、たかが二五〇年来の「国是」にすぎない「鎖国」を包み込むことができれば、「公武合体」を重視する有力大名が幕府を支持する根拠は薄くなる。

「開国」―「攘夷」の対立が棚上げされた時には、有力大名の声を重視せよという「公武合体」の要求は、大名だけではなく、有力家臣の意向も尊重せよという「公議輿論」の要求に発展してきた。こうして「尊王倒幕」と「公議輿論」が有力大名とその藩士たちの共通のスローガンになった時、「悪戦苦闘」・・・・・は終わりを告げ、事態は明治維新に向けて急転回していく。筆者の仮説は、その時点は一八六四年にあり、その推進者は薩摩藩の西郷隆盛だった、というものである。

 

 

 

第二章。

 

一八六七(慶応三)年六月の薩土盟約、一〇月の大政奉還、一二月(一八六八年一月)の王政復古までの半年間は、改革派も保守派も一つの枠組みの両端で動いていた。権力の頂点に天皇がつき、その下に公卿と、徳川慶喜をも含めた有力大名(もしくはその代行)が上院を構成し、彼らの家臣で改革の実践的部分であった者たちが下院を構成するという新体制構想が、大枠になっていたのである。

この大枠を右の極点に行けば、すでに紹介した一八六三(文久三)年末の「参預制」に似てくる。参預制の時には将軍は将軍のままで有力大名の意見を尊重するので、「大政奉還」以後とは制度としては大きく異なる。しかし、「大政奉還」に続く「王政復古」で打ち出された総裁、議定、参与の「三職制」のナンバー・ツー(たとえば「副総裁」か「議定筆頭」)に徳川慶喜がつくとすれば、それは実質的にはかつての「参預制」とほとんど変わらない。「徳川八百万石」、「旗本八千騎」といわれた徳川家の長として、慶喜が「議定筆頭」の地位を新政府内で占めれば、「参与」にしかなれなかった薩長の下級武士には対抗策はありえない。幕末期を通じて「改革派」の有力大名が唱えてきた「公武合体」が完成してしまうのである。

他方、「参与」という中央政府の最下位にしかなれない(あるいは「薩土盟約」段階では「下院」議員にしかなれない)薩長土三藩の下級武士たちにとっては、この大枠を左の極点まで推し進めて、「参与」=「下院」が実権を握れるようにする必要があった。しかも一八六四(元治元)年に西郷隆盛が島津久光の弾圧をはねのけて五年間の流刑から帰藩して以後は、「下級武士」は有力藩の「軍部」と同義語になってきた。一八六四年に薩摩藩の軍賦役になった西郷隆盛と軍役奉行になった伊地知正治の鳥羽・伏見戦役以後の活躍を見れば、このことはおのずから明らかになる。

同様のことは、一八六六(慶応二)年初頭の薩長同盟以後の長州藩における品川弥二郎や大村益次郎の活躍についても言える。「下院」が「参与」になり、さらには「軍部」になっていったのである。さらに、藩の中心が慶喜の「公武合体」路線の中心的支持者であった土佐藩においても、前藩主の山内容堂や参政の後藤象二郎に対抗して、土佐藩「軍部」の板垣退助や谷干城らが、薩長両藩の「軍部」との提携に努めはじめていた。

・・・・・・

のちに明治元年となる慶応四年一月の明治新政権は、このような「右」と「左」の二大勢力の対立の上に、文字通り右往左往していたのである。

・・・・・・

一八七一(明治四)年七月の廃藩置県の断行は、一八六四(元治元)年頃に始まった「革命の時代」の終焉を告げるものであった。当初の議会構想のうち、上院を構成するはずだった藩主層の発言力は次第に後退し、ついには藩自体が解体させられたのである。幕府を倒し、藩体制をも倒した時、下級武士を指導者とする幕末・維新革命は完了した。

しかし、革命の完了だけでは新体制はできあがらない。時代は「革命」から「建設」へと大きく変化していく。しかも「革命」期の指導者の資質と「建設」時代のそれとは別ものであった。西郷隆盛の時代もまた終わろうとしていたのである。

 

 

 

第三章。

 

それぞれの国家目標に基づく、「富国」派の大久保利通(と大隈重信)、「強兵」派の西郷隆盛(と山県有朋)、「憲法」派の木戸孝允(と井上馨)、「議会」派の板垣退助、という以上四派の合従連衡・消長盛衰で明治初期の政治を分析する。

岩倉使節団が「富国」「憲法」派、留守政府が「強兵」「議会」派。

維新と戊辰戦争を遂行した「軍部」の発言権増大を背景にまず「強兵」派が突出。

それが朝鮮・台湾・樺太という三つの対外問題で噴出。

ただし薩摩出身者を中心とする「強兵」派の外征論も、どの地域で強硬策に出るかで対立あり。

まず1873(明治六)年、征韓論政変で西郷・板垣の「強兵」派・「議会」派が下野。

翌74年、「富国」派大久保が「強兵」派との妥協で、台湾出兵を実行。

これに反発して、代わりに「憲法」派の木戸が下野。

だが、大久保は、懸念された日清開戦を回避することに成功。

75年、大阪会議で木戸と板垣が一時政府復帰、「富国」「憲法」「議会」三派が結集、同年江華島事件と翌年日朝修好条規締結で、日朝関係も戦争に至ることなく小康状態へ(加えて樺太・千島交換条約も結ばれる)。

対外危機の終息で外征論という梃子を失った「強兵」派は政府外で孤立した挙句に西南戦争で鎮圧、立憲制樹立についての急進論か漸進論かで、「憲法」派木戸と「議会」派板垣は決裂、その結果「富国」派全盛の「大久保独裁」とも言われる情勢がもたらされ、「殖産興業」のスローガンの下、国家主導の工業育成政策が遂行される。

しかし、大久保のこの「殖産興業」は、それらの成否とは直接関係のない税収減から、彼の死の二年後には完全に行き詰った。一八八七(明治二〇)年までの日本の直接税は、土地所有者に掛けられる「地租」だけであり、しかも金納固定税であった。

・・・・この制度の下では税金に物価スライド性が全くないから、不景気の時には財政が豊かになり、好景気の下では租税の実収は減少する。極端な言い方をすれば、財政の健全化を計ろうとすれば、デフレ政策を採用するしかないシステムだったのである。

・・・・・・

西南戦争の戦費調達と、物価騰貴による地租収入の半減とを原因とする財政危機の打開策で、一番簡単で有効なのは、地租の増徴だったであろう。しかし、明治政府は独裁国家ではなかった。・・・・・地租がただ一つの直接税であり、その増税は北海道から沖縄まですべての土地所有農民に一律に影響する・・・・・納税者の間に利害対立が全く存在しなかったのである。そのような増税は、普通の「独裁国家」では断行しきれないであろう。

・・・・・・

巨額の不換紙幣を抱えた政府が、物価騰貴による税収減に直面し、しかも増税が不可能だったとすれば、「富国」派の存続はもはや不可能だった。一八八〇(明治一三)年一一月に・・・・公布された・・・・工場払下条例・・・・とは、「富国」派の挫折を象徴するものであった。

「富国派」「強兵派」「憲法派」「議会派」の四者の路線対立を軸に描いてきた「建設の時代」は、一八八〇年をもって終焉したのである。

 

 

 

第四章。

 

「士族民権」に刺激を受け、地租を負担する農村地主層の「農民民権」が台頭。

それへの対応をめぐり、政府内で、二つの路線が対立。

緊縮・デフレ政策を断行し、デフレで加重された地租軽減を求めるであろう議会の権限を制限しようとする松方財政および井上毅のプロイセン型憲法論で、岩倉具視、伊藤博文が支持。

そして、「殖産興業」路線を継続して台頭する「農民民権」の支持を獲得・与党化し、その上に立って議院内閣制を樹立しようとするのが大隈重信と在野の福沢諭吉ら交詢社系などの知識人。

一方、板垣退助、植木枝盛らは、直接の政権参加自体を目指さない、「拒否権型議会主義」を提唱、大隈・福沢路線と対立。

・・・・・両者の対立は「自由民権運動」と総称される運動の中での、指導部と支持者の対立であった。さらに言えば、交詢社という福沢諭吉が率いる都市知識人と、板垣退助率いる元祖民権結社とが、新たに台頭してきた「農民民権」の支持獲得を争ったのが、一八八一(明治一四)年の政治状況であった。そして、この二つの国会開設論者の競合の中に新たに割り込んできたのが、井上毅らの保守的立憲制論者だったのである。

この三つ巴の立憲制論の競合を想定してみると、「明治一四年の政変」と呼ばれる同年一〇月の大隈・福沢派の敗北の理由が透けて見えてくる。保守派の井上毅と急進派の板垣退助や植木枝盛の間には、憲法による行政権の制限を求めないという共通性があったからである。

・・・・・・

この右と左の奇妙な棲み分けが、大隈・福沢路線の敗北をもたらした。政府の側では大隈とその系列の中堅官吏が罷免され、運動の側では憲法ではなく議会掌握を重視する板垣退助が勝利したのである。「明治一四年の政変」(一〇月一二日)と自由党の結党(一〇月一八日)がそれである。

・・・・・・

これらの都市型知識人たちは、政府内部の国会開設論者の大隈重信と在野の板垣退助を結合させて、伊藤博文や井上毅に代表される保守的な政府指導者を一掃することをめざしていた。しかるに板垣は彼らの要望を一蹴して、政党結成の地盤作り・・・・に向かったのである。

・・・・・保守派と急進派が生き残り、その中間に位置したリベラル派が、政府内と運動内での勢力を一挙に喪失したのである。

議会開設前の大同団結運動においても、板垣らの「拒否権型議会」論が大隈らの「参画型議会」論に対し優勢を維持、最初の総選挙で自由党が改進党の三倍の議席を獲得。

その結果、国会運営は困難を極める。

明治憲法の欠陥としては、第十一条の統帥権独立と第五十五条の国務大臣単独責任制がよく指摘されるが、憲法制定当初、問題になったのは第六十七条の「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出(中略)ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」という条文。

衆議院の行政費・軍事費削減要求はこの六十七条を盾に政府が拒否、政府の地租増徴要求は衆議院が拒否。

政府と衆議院とが正面衝突している限り、歳出と歳入はともに減らないかわりに、ともに増えないのである。

一八九〇(明治二三)年に発足した日本の立憲制は、一九〇〇(明治三三)年に維新の元勲伊藤博文と、板垣退助率いる自由党(憲政党)とが大連合を組んで立憲政友会を結成するまでの一〇年間、この憲法体制の着地点を探って模索を続けた。いわば作文にすぎなかった憲法条項を、「運用」の観点から、政府と衆議院の双方が試行錯誤を繰り返したのである。

星亨ら自由党内の現実主義派は、「民力休養」「地租軽減」をあきらめて公共事業拡充を意味する「民力育成」への転換を模索し、日清戦争直前、一八九三(明治二六)年の「和協の詔勅」がその機会を提供した。

・・・・・詔勅の言う「和協」、すなわち行政府と立法府の「和協」を、政治的にどう実現するか・・・・・論理的には、両者の提携による「大連立」か、両者を縦に二分する二大政党制以外の選択肢はなかった。

前者の「大連立」方式を採れば、戦後のわれわれが長く経験してきた、官僚と与党との恒常的提携、すなわち「五五年体制」とか「自民党の一党優位制」のようなものになる。逆に後者の途を採れば、伊藤博文系官僚と自由党(憲政党)が結んだ一九〇〇(明治三三)年の立憲政友会と、保守系の山県有朋系の官僚と(名称はたびたび変わるが)改進党の後身とが結んだ立憲同志会との間の二大政党制になる。

面倒なのは、保守系の山県系から出た桂太郎が結成した立憲同志会(一九一三年)が、伊藤博文や西園寺公望の後を継いだ原敬の立憲政友会にくらべて、より自由主義的だったことである。軍部と官僚閥の牛耳をとってきた山県閥が、より自由主義的だった伊藤、西園寺、原の率いる政友会よりも、自由主義的な政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を結成してしまったのである。

このため今日においても、「大正デモクラシー」という言葉を聴いて、立憲政友会の「平民宰相」原敬を想起するか、それにとって代わってロンドン海軍軍縮を実現した、立憲民政党の浜口雄幸を思い出すかは、人それぞれという状況が続いている。この千差万別の歴史認識はニ一世紀の日本をリードする政界や言論界においても、継承されている。

 

 

 

第五章。

 

藩閥官僚と、農村地主を地盤とする自由党(憲政党・政友会)の妥協により、日本の議会政治は軌道に乗った。

その際、自由党がその綱領を「地租減税」から「積極主義」に変更したことが梃子となった。

著者によれば、次の課題は都市商工業者、労働者、小作農にも普通選挙制で参政権を与え、二大政党制を確立することだった。

日清・日露の擬似的総力戦によって、一体感と平等意識を強めた国民各層がそれを求める。

さらに当初劣勢だった立憲改進党(→進歩党→憲政本党→国民党と党名変更)も党勢を自由党系に匹敵するまでに高めてきた。

だが、政友会最大の実力者原敬は、桂園時代に典型的に見られるように、政友会一党優位制を維持し、自党と藩閥官僚との協力による政治運営を継続することを目指していた。

戦前日本の官僚と農村地主の結合の中心になったのは、一九〇〇(明治三三)年に藩閥政治家の伊藤博文を総裁に戴いて、かつての自由民権家たちが結成した立憲政友会であった。そして、自由党(憲政党)を率いてこの立憲政友会を結成させた中心的指導者が星亨であり、星が創った政友会を安定的な大政党に築き上げたのが、今日もなお「大正デモクラシー」を代表する政党人と誤解されつづけている、平民宰相原敬である。・・・・・原敬は一九ニ一(大正一〇)年に非業の死を遂げるまで、二大政党制と普通選挙制に反対しつづけて「再編の時代」を阻みつづけた、保守的な政党人だったのである。

この文章に見られるように、著者の原に対する評価は決して高くない。

陸軍の突出した自己主張によって、その山県系官僚閥と政友会との「官民調和体制」が破綻したのが大正政変。

「大正政変」は、陸軍、海軍、政友会、金融界、実業界、都市中下層などの多様な利害対立の複合によってもたらされたものである。陸軍と官僚層と貴族院を握る藩閥勢力と、「積極主義」を掲げて農村地主を味方につけた政友会との協調だけでは、これらの諸利害の調整がつかなくなってきたのである。本章の表題たる「再編」の時代がようやく始まったのである。

だが、この第一次護憲運動は、著者によれば、以下のような「ねじれ」を抱えていた。

「閥族」の代表桂太郎との間で政権のたらい回しを長年続けてきた政友会、財政悪化の責任を陸軍や海軍と同様に背負うべき政友会が、一朝にして「閥族打破・憲政擁護」の推進者に転じたのである。変革されるべき対象が変革の先頭に立っているような運動の成果は初めから限られていたのである。

政友会が「閥族打破」の先頭に立ったことは、政友会に代わって政権を担当しようとしてきた野党国民党にも打撃を与えた。政権担当意欲の強かった「改革派」と呼ばれた主流派が、かつて自由党が「閥族」の伊藤博文と合体して政友会を結成したように、国民的非難の的になっていた「閥族」の桂太郎の新政党(のちの立憲同志会)に馳せ参じたのである。

続いて成立した海軍と政友会の連立内閣である山本権兵衛内閣がシーメンス事件で倒れ、大隈内閣成立。

この内閣によって「再編の時代」が本格的に到来したと著者は述べる。

原敬の政友会一党優位制の没落、立憲同志会の与党化と総選挙での大勝による二大政党制の確立がその理由。

だが大隈内閣は二十一ヵ条要求という失策を犯し、大戦景気で富裕化した農村地主の支持を回復し政友会が勢力回復。

続いたのは寺内正毅超然内閣だが、外交面では、強硬な対中政策を転換し、対米協調重視に向かい、幣原喜重郎外務次官、田中義一参謀次長を留任させ、この方針転換を実施させたこともあり、著者の評価は意外にも高い。

米騒動の後成立した、「本格的政党内閣」原敬政友会政権は、先に述べたように普通選挙制と二大政党制に反対。

1921年原敬暗殺、高橋是清内閣の後、22年海軍の加藤友三郎内閣が後継になったことは、桂園時代以来、政友会の常套的手法で、その後の政権返還を見越したものとも考えられた。

しかし、政友会を原から継いだ高橋是清は参謀本部廃止論を唱えたこともあり、元老の信頼が無く、第二次山本内閣、清浦奎吾内閣と非政党内閣が続く。

ここで高橋政友会は方針を転換、清浦与党となった政友本党の分離を甘受しても、憲政会(1916年立憲同志会が改称)と第二次護憲運動を展開、その結果護憲三派の加藤高明内閣成立、普通選挙が実現。

 

 

 

第六章。

 

1920年代前半、原・高橋の政友会は、国内では普通選挙に反対する一方、外交面ではワシントン体制へ参加し、国際協調主義を遵守していた。

一方、加藤高明の憲政会は、普通選挙を主張する一方で、対華二十一ヵ条の要求を依然として正当視する側面を持っていた。

・・・・以上・・・・比較すれば・・・・国内の民主化については憲政会が、対外政策については政友会の方が、進歩的だったことが明らかになる。細かい留保をつけずに単純化すれば、「平和と民主主義」を両党が分かち合っていたということができよう。

このような状況の下で二大政党制が成立すれば、「危機の時代」にはならなかったであろう。政友会と憲政会のどちらが政権についても、「平和」か「民主主義」のどちらかが担保されるという二大政党制は、面白味には欠けても、極端な右傾化はもたらさないからである。

(個人的には、「極端な右傾化」をもたらしたのは「民主化の進展」と「民意の暴走」自体が主因であろうし、この観察はやや表面的にも思えるが、見方としては面白い。)

だが、護憲三派内閣成立を機に、憲政会は幣原外交の国際協調主義と中国内政不干渉政策を採用、その対外路線は著しく穏健化。

一方、原・高橋の跡を継いだ田中義一総裁の下、政友会はその内外政策を大きく右傾化させる。

以上により明らかなように、護憲三派内閣から政友会が離脱した一九ニ五(大正一四)年七月末以来、憲政会(民政党)と政友会の対立点は、外政においても内政においても、明確になってきた。正確に言うためにはいくつかの留保をつけなければならないが、単純化して言えば、「平和と民主主義」の憲政会(民政党)と、「侵略と天皇主義」の政友会の、二大政党制が発足したのである。

二大政党間の相違が曖昧な方がいいのか、鮮明な方がいいのかは、一般的には断定できない。「保守党」と「自由党」の対立幅が小さいことにイギリスの二大政党制の利点を見出したのは、一八七九(明治一二)年の福沢諭吉であった・・・・・

第一次大戦後から一九三二(昭和七)年の五・一五事件までの十数年間の政治においては、政友会と憲政会(民政党)が内政と外交において一長一短であった一九二〇年代前半の時代の方が、政治の安定と進歩に役立ったように思われる。両党のどちらが勝っても、「平和」か「民主化」の一つは担保されるからである。反対に、憲政会(民政党)が勝てば「平和と民主主義」が、政友会が勝てば「侵略と天皇主義」が強調されるという一九二五年から三二年にかけての二大政党制は、政党政治だけではなく、日本国家そのものを「危機の時代」に導いた一因だったように思われる。

二大政党の政策分極化は経済政策の面でも存在し、しかもこの場合、憲政会(民政党)がよりによって恐慌時に緊縮財政と金解禁を実施するという根本的に間違った態度を採り、社会不安と政治危機を深刻化させた一方、政友会の方は元総裁高橋是清の主導で積極財政を採用し、経済危機を克服するという現象が生まれる。

(はっきりとした記述は無いが、この経済政策の面での政友会優位は、たぶん著者は肯定的には評価していないでしょう。むしろ[著者の言う]民政党の「平和と民主主義」への支持を失墜させる効果しか無かったでしょうから。)

そして、昭和戦前期の危機をもたらす直接的原因となった軍部の急進的中堅将校に関する記述を以下に引用。

陸海軍青年将校と民間右翼の横断的結合は、本書第1章で検討した幕末期の薩長土三藩の下級武士と脱藩浪士の横断的結合と、形の上では酷似している。しかし、国が上昇過程に入った時と下降局面に入った時とでは、「下剋上」のもたらす結果が全く異なる。古めかしい表現を使えば、明治維新が「革命」であったのに対し、昭和維新は「反革命」だったのである。

「革命」か「反革命」かを分けるのは、「天皇制」の問題ではない。幕末の「開国」か「攘夷」かの対立にもかかわらず、明治維新に向かうすべての革命勢力は、「尊王」だけでは一致していたのである。この点では、明治維新と昭和維新の間には、相違点は見出せない。

両者の大きな相違は、対抗エリートの質の問題である。上昇局面では、その時代の最高の知識人だちが「対抗エリート」を補佐した。すでに第1章で記したように、幕末期の島津斉彬の下には、雄藩大名だけではなく、時の中央政府(幕府)の一流の洋学者たちが馳せ参じた。斉彬の遺志を受け継いだ西郷隆盛も、勝海舟を介して、横井小楠、大久保一翁ら幕府系知識人の最先端の知見を吸収していた。「尊王攘夷」の方で有名な幕末の志士たちは、実は「開国進取」の最先端を走っていたのである。・・・・・・天皇親政を唱える陸軍青年将校の導師になった・・・反西欧で軍隊の力しか信じられなくなった北一輝には、幕末の西郷隆盛の欧米認識もなければ、「開国派」から「攘夷派」に及ぶ西郷の幅広い人脈もなかった。

1931年、経済恐慌と国内の軍事クーデタの脅威、満州での対外紛争という三重の危機が日本を襲う。

第二次若槻礼次郎民政党内閣はこれに有効に対処できず。

ここで生まれたのが、政友会・民政党大連立構想である。

同じ頃、同じ民政党内閣の内務大臣安達謙蔵は、一〇月事件に象徴される軍部のクー・デターと民間右翼のテロの脅威を重視していた。そしてこれらの動きの背後には、金本位制への復帰による農民の生活難と労働者の失業増大という社会不安が存在していた。青年将校の動きを抑え、社会不安の原因である金本位制を廃止するために安達が唱えたのは、民政党と政友会の大連立(「協力内閣」)であった。

昭和初年の日本政治は二大政党制とそれに対する青年将校らの攻撃で知られているが、幣原外交と並ぶ民政党内閣のもう一つの看板であった井上(準之助)財政の放棄を前提にした政民大連立構想は、民政党にとっては有力な選択肢の一つであった。

・・・・・・

もちろん、安達の協力内閣が実現したら、海軍青年将校による五・一五事件が起こらなかったという保証は、どこにもなかった。・・・・・五・一五事件の勃発を止めることは誰にもできなかったと思われる。しかし、安達の言うとおり民政党と政友会を併せて衆議院に約九八パーセントを占める「協力内閣」の首相を海軍青年将校が射殺したとして、それで日本の政党内閣の息の根を止められたであろうか。

しかし、井上準之助蔵相の金本位制へのこだわりが、この協力内閣を不可能にした。・・・・・木戸幸一らと会談した井上蔵相は、金本位制の問題には全く答えず、軍部批判の観点から協力内閣構想を否定している。

・・・・・堂々たる正論であるが・・・・井上がこだわった金本位制の下で、農民や労働者の生活は困窮をきわめ、それがこの三ヵ月後の総選挙での民政党の惨敗の原因となったことは、周知のとおりである。状況をわきまえない「正論」は、政党を奈落の底に追い落とすこともあるのである。

他の本では、この協力内閣構想は実現性に乏しく、またその目的も軍部掣肘の為ではなく、軍に迎合する意図があるものとして、否定する記述をいくつか見ている。

だが、著者は、この政民大連立政権が流れたことを軍部抑制の好機を逸したものと惜しんでいるようだ。

私も、戦前日本が最終的に陥った無残な破局を見ると、(安達自身かなりキナ臭い人物の感があるものの)とにかく何でも試してみたら良かったんじゃないか、後述の宇垣流産内閣よりはひょっとしたら可能性があったんじゃないか、と思っている。

32年陸軍の意向に押され気味の犬養内閣下での総選挙で政友会は圧勝したが、荒木貞夫の陸相就任で一時行動を控えた陸軍急進派に飽き足らない海軍青年将校が五・一五事件を起こし、犬養内閣は倒れ、政党政治も終焉。

以下、同じ坂野氏の『昭和史の決定的瞬間』と内容が重複するが、簡略にメモ。

後継の斎藤実挙国一致内閣で、荒木の陸相留任による陸軍の革新運動の一時的沈静化、高橋財政による経済恐慌克服、満州国承認と連盟脱退の後の国際的小康状態により、三重の危機は一応終息。

こうなると、二大政党をはじめとする各政治勢力が再度自己主張を強める。

一九三四(昭和九)年七月に成立した海軍退役将軍岡田啓介の内閣は、前の斎藤実内閣とは違って、「挙国一致内閣」ではなかった。過半数政党の政友会が「憲政の常道」に反するとして、同党からの入閣者(床次竹次郎・・・・)を除名して、野党の立場を鮮明にしたからである。

政友会は陸軍皇道派と結び「天皇機関説問題」で岡田内閣を攻撃、民政党は逆にひとまずは合法路線を守る陸軍統制派に接近。

議会内で劣勢の民政党は、「内閣審議会」と「内閣調査局」という議会外の機関を設置して、社会政策を推進する姿勢を見せ、革新官僚や合法無産政党である社会大衆党の支持も引き寄せようとする。

こうしてみてくると、岡田内閣は、民政党と陸軍統制派と新官僚と社会大衆党の支持を得て、過半数政党政友会と陸軍皇道派を敵に廻した内閣だったことがわかる。問題はこのような政治状況をどう評価するかにある。

筆者には、政治社会に一種の液状化が生じていたように思われる。陸軍も政党も官僚もそれぞれの内部に分裂が生じており、政治勢力というものが細分化されていた。細分化されたいくつかの勢力を寄せ集めて一時的に多数派を形成することはできても、中期的に安定した政権をつくることは困難になってきたのである。

「余の承知する政治の過程においては、維新後、薩長土肥の争いより、官僚―政党の争いに、次に二大政党の対立となりしが、現在では、政党―軍部―官僚―左傾―右傾、なお進んで政友会の内争、民政の提携非提携の抗争、軍部内派閥の闘争等と、如何にも争いが小キザミと成り来れり。・・・・・」(『宇垣一成日記』・・・・)

宇垣の言う「右傾」は、北一輝や西田税などの民間右翼を指し、「左傾」は先に見た亀井貫一郎らの社会大衆党を意味すると解していいであろう(本当の「左傾」は治安維持法によって、すでに根絶させられていた)。そうなると岡田内閣下の政治地図には、政友会が二派、民政党が二派、陸軍が二派、官僚が二派、左右両極が二派、合わせて一〇派の政治勢力が描かれていたことになる。

このような状況下では、政治の安定を望むべくもないことは、言うまでもない。しかし、ことはそれにとどまらなかったように思われる。支配諸勢力が一〇に分かれるということは、各派のトップだけをとっても、一〇人の指導者がいたことになる。そのような状況は、政治エリートの質の低下をもたらさざるをえない。

宇垣が明治維新以後の政治対立の歴史として描いたもののうち、「薩長土肥」でトップは四人、「官僚―政党の争い」では二人、「二大政党の対立」でも二人である。それが一挙に一〇人に増え、政治対立の組合せも倍増ではすまなくなったのである。一九三五年の日本政治は、政界の不安定化とエリートの質の低下に直面していたのである。

1936年総選挙で民政党が圧勝、社会大衆党躍進、政友会惨敗。

だが、その直後に二・二六事件勃発。

・・・・・宮中と政府の中枢を担ってきた「重臣ブロック」は、反乱によって壊滅的な打撃を受けた。「重臣ブロック」が、民政党と陸軍統制派の支持を受けて右翼的な二大勢力(陸軍皇道派と政友会)を抑え込むというシナリオは、二・二六事件によって崩壊したのである。

しかし、陸軍皇道派と青年将校が政友会の支持を得て一挙に軍事政権を樹立することも、同じく不可能であった。

広範な国民的支持も無く蜂起した青年将校は、昭和天皇個人の激怒も蒙り、鎮圧される。

続く広田弘毅内閣は、五・一五事件後の斎藤内閣と同じ性格の挙国一致政権。

皇道派が排除された後、陸軍の新統制派による国政壟断の気配が強まると、政友会でも反軍的姿勢が強まり、政民連携派が優勢になる。

その表われが、1937年初頭の宇垣内閣実現への動き。

しかし、この期に及んでも、政民二大政党は団結することができず、陸軍の拒否の前に、あえなく宇垣は組閣を断念。

成立したのは、陸軍と財界にのみ支持基盤を置く林銑十郎内閣。

その下で行われた総選挙では政・民両党が拮抗、社大党が再度躍進。

国内体制変革を含む「広義国防」をスローガンにして、統制派と接近して一時親軍的傾向を持っていた社大党だが、この時期には、総力戦準備の為に財界と妥協し、経済・社会機構改革を放棄した(「狭義国防」)陸軍を批判しており、その躍進は反軍的な民意の反映だ、と著者は判断している。

しかし、その後成立した近衛文麿内閣の下で、盧溝橋事件が勃発、泥沼の日中全面戦争と自爆的な日米開戦へと日本は向かうことになる。

本書は、日本が「崩壊の時代」に突入する1937年にて幕を閉じる。

・・・・「崩壊の時代」を避けることはできなかったろうか。流産した宇垣一成の内閣ならば、回避できたかも知れない。宇垣には陸軍の一部と衆議院の多数の支持があり、宇垣も民政党も政友会も、ファッショと戦争に反対していた。その宇垣の内閣を流産させた石原莞爾の「狭義国防」路線でも、日中全面戦争は回避できたかも知れない。これから五年かけて対ソ戦準備のために、飛行機と戦車とそのための重化学工業を育成しようとして財閥の協力も獲得したものが、その前に日中全面戦争に突入したとは思えないからである。戦争勃発後の石原の日中和平交渉はよく知られている事実である。

しかし、この二つの内閣または内閣構想の挫折の後を受けて、一九三七年六月四日に成立した第一次近衛文麿内閣は、成立と同時に、「従来のような対立相克を国内で続けて行くのは、国外で侮りを受ける。出来るだけ相克摩擦を緩和して行きたい」という談話を発表した・・・・。当時の言論界は、これを「国内対立相克の緩和」と標語化した。その標語どおり、近衛内閣は、民政党や政友会だけでなく、財界からも新官僚からも入閣者を得、陸軍も社会大衆党もそれを支持した。すでにたびたび使ってきた表現によれば、それは「小キザミ」化した諸政治勢力のすべてを包摂した内閣であった。

すべての政治勢力に支持された内閣には、基本路線もなければ信頼できる与党的勢力もない。その時々の状況により、右に行ったり、中道に行ったり、左に行くしかない内閣構成だったのである。そのような内閣の成立後約一ヵ月で、・・・・日中全面戦争の危機が生じたのである。「危機の時代」が懐かしくなるような「崩壊の時代」が始まったのである。

・・・・「崩壊の時代」に入っていった最大の原因は、すでに国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからである。そしてこの四分五裂状態は、一九三二年以来五年がかりで深められてきたものであり、いわば勝者なき分裂状態に陥っていた。近衛内閣はこの分裂状態を克服しないで固定化し、そのまますべてを包摂してしまった。日中戦争を途中で停めたり、日英米戦争を回避したりするための政治体制の再編をめざす指導者は、もはや存在しなかったのである。

 

 

 

本書の刊行は2012年である。

東日本大震災の後、戦後復興を成し遂げたことを思い起こして、震災後の復興に積極的に取り組もうとの論調に接した著者は、しかし震災後の我が国は本書の末尾にある1937年の戦前日本、「崩壊の時代」の入り口にいるのではないか、との不吉な予感を述べる。

確かにそう思えないでもありません。

衆愚的国民が形作る「世論」とそれを秘かに誘導する煽動者が絶対的支配者となり、皮相な「多数派意見」以外のあらゆる価値が相対化され、あらゆる極論の蔓延で政治勢力は「四分五裂」し、国家の運営は大衆の「気分」次第で迷走するばかり。

これで国が滅びなければ、相当の幸運です。

もう、いかなる楽観も許されない時代に入ったな、との予感はあります。

たとえ何があっても、結局それが日本の運命なんだと受け入れるしかないでしょう。

 

 

 

刊行当時から常に気にしてきた著作をついに読んだが、やはり圧倒的に素晴らしい。

この人の本には、全くハズレというものがない。

一通りの史実が頭に入っていないとあまり強い印象は受けないかもしれないが、私を含め中級者クラスなら、あまりの面白さに驚倒するでしょう。

絶対にお勧めです。

2016年9月10日

筒井清忠 『昭和戦前期の政党政治  二大政党制はなぜ挫折したのか』 (ちくま新書)

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戦前、「憲政の常道」と二大政党制に基づく政党内閣の時代は、1924年から32年までの八年間しか続かず、六つの内閣しか存在しなかった。

その過程と原因を考察した本で、2012年刊。

 

まず、その前史を記述。

1921年原敬暗殺後、与党政友会は、高橋是清総裁の下、床次(とこなみ)竹二郎派と横田千之助派に分極化。

24年貴族院を中心とする清浦奎吾内閣が成立すると、横田を主導者として政友会は憲政会(総裁加藤高明)・革新倶楽部(総裁犬養毅)と護憲三派を形成、一方床次は政友本党を結成して清浦政権与党に。

第二次護憲運動と総選挙の結果、護憲三派が勝利、加藤高明内閣が成立。

以後、一内閣に一章を割り当て、その政権運営と著者の評価が記されている。

 

 

加藤高明内閣(護憲三派・憲政会単独 1924~26年)

明治憲法下において選挙結果で選ばれた唯一の首相、他は首相となってから解散総選挙を実施し、選挙民の判断を受ける形になっている。

外相幣原喜重郎、内相若槻礼次郎、蔵相浜口雄幸、陸相宇垣一成という重厚な布陣。

施策としては、まず政務次官の設置。

官僚・軍部に対する政治主導の確保と若手政治家育成を意図。

行財政整理およびその一環として宇垣軍縮。

加藤友三郎内閣での山梨軍縮と合わせて、大正デモクラシー下での成果だが、この時期の行き過ぎた軍人への冷遇が反動をもたらし、昭和期には軍台頭の原因となる。

25年政友会有力者で司法相に就任していた横田が死去すると、若槻内相、江木翼(たすく)内閣書記官長の不手際もあり、難航したものの、普通選挙法および治安維持法が成立。

貴族院対策も怠り無く、衆院の優位が確立し、貴族院は実質的に第二院化。

25年死直前の横田の働きで、政友会総裁が高橋から陸軍大将田中義一に交代、その後革新倶楽部が解散、政友会に合流。

憲政会・政友会の対立が深まり、閣内不一致で第一次加藤内閣は総辞職、再度加藤に大命降下で第二次加藤内閣が憲政会単独で組閣。

憲政会は政友本党の床次に接近、これに反発する政友本党内の鳩山一郎らは脱党、政友会へ復帰。

第二次内閣では、同様に「政治主導」の官制改革を進めたものの、政党による猟官運動が「党弊」批判を生み、枢密院改革では親政党化を期して学者任用を進めたが、かえって平沼騏一郎が副議長に就任してしまう。

外交では日ソ基本条約調印。

海軍予算問題で浜口蔵相と海軍の対立を加藤が調停したと書いてあるのを読むと、時代状況がさほど切迫していなかっただけとも言えるが、それでも昭和期に加藤の手腕が発揮されることが無かったのが惜しまれる。

小作争議調停法、改正工場法、健康保険法など社会政策上の成果も上げている。

26年1月、体調不良の中、無理を押して登院した加藤は急死。

 

政治家としての加藤の評価は高い。西園寺公望は「今にして思えば、木戸、大久保、伊藤、或いは加藤高明、やや落ちるが、原敬など、いずれもひとかどの人物だった」(・・・・・)と言っている。・・・・・それにしても驚くべき高評価である。

外国人の評価が高いのも一特質で、チャールズ・エリオット英駐日大使は「着実で落ち着き、まっすぐに進んだ加藤」と言い、エドガー・A・バンクロフト米駐日大使は「率直さと政治家にふさわしい精神が注目に値する」と評している・・・・・。

こうした加藤への高評価からは次のような見方も出てきている・・・・・。すなわち、駐英公大使時代に英国の二大政党制に深く学んだ加藤が、憲政会の責任政党化、政友本党の憲政会吸収の道筋をつけて、以後の二大政党時代を導出したのである。また、“二大政党制は、基本的な問題に対するコンセンサスが政治社会に行き渡っている時に円滑に作動する”(G・サルトーリ)のであり、原と加藤という藩閥政府の超克と政党政治の確立を共通の目標とした二人が指導者であることにより、日本の二大政党制の基礎は確立した。

この見方だと、この時期の二大政党制があまり長続きしなかったことの説明が求められるになるが、それは若槻と浜口の責任ということになる。

すなわち、加藤歿後、憲政会内閣を組織した若槻は、解散と勝利により衆議院に基礎を置く内閣の基盤を固めて、日本政党政治を確立させ得た可能性が高いにもかかわらず、その勇気がなく、話し合いによる政争回避を企図した、結局金融恐慌もあり、若槻内閣は一年余で総辞職した。さらに第二次内閣では満州事変に際し陸軍をコントロールできなかった。若槻は「まれなほど印象に薄い人」「決して一流ではない」(ティリー大使)人だった。

また、加藤の剛毅なリーダーシップに倣った浜口は党を再生させたが、柔軟性に欠け硬直化した指導が多く、極端な緊縮財政で不況を深刻化させ、ロンドン軍縮会議では海軍・枢密院と対立し、軍部・超国家主義台頭の一契機を作ってしまった。

大変鋭い、若槻と浜口に厳しい見方だが、こうした見方の当否についてはこれからの章の叙述そのものが回答になるであろう。

 

以後の記述を見ると、著者はこの見方をおおむね肯定しているようだ。

さらに加藤内閣に代表される憲政会・民政党政権への評価から、太平洋戦争末期と戦後、イギリスは「日本の民主化は明治憲法の修正で可能」と考えたし、米国の知日派は「幣原、若槻、浜口」への信頼から比較的穏和な占領政策を構想することにもなった。

 

 

第一次若槻礼次郎内閣(憲政会 1926~27年)

加藤急死後の組閣、当初は全般的に歓迎された。

だが、政友本党との「憲本協定」運営における不手際、憲政会内部での党人派・官僚出身派の派閥対立の制御失敗で、若槻の求心力は低下。

蔵相が急死、人材難および党人派懐柔のため、かねて放言癖で注意を受けていた片岡直温(なおはる)を蔵相起用。

松島遊郭事件、陸軍機密費事件など醜聞が続発。

だが、この第一次若槻内閣の章で最も重視されているのは、鈴木商店破産・台湾銀行救済をめぐる金融恐慌でもなく、中国の北伐進展と南京事件という外交問題でもなく、朴烈怪写真事件というスキャンダルである。

通常の通史では一切触れられることすらない、些細事にも思える事件を、著者が大きく取り上げるのはなぜか?

それは普通選挙による大衆デモクラシーが本格化した時代の弊害を最もよく表わしているからである。

朴烈は23年関東大震災後に爆弾を準備した大逆罪の疑いで金子文子と逮捕、死刑判決を受けた後、特赦されるが、金子は獄中で自殺。

26年朴と金子が取調室で抱き合っている写真が流出、北一輝を通じて政友会幹部森恪も関係し、大々的に報道され、若槻内閣攻撃の手段となる。

・・・・・若槻は演説し「立憲政治は政策の争いだ 朴烈問題など介意の要なし」と「正論」を吐いたが、それが虚ろに響くように感じられるのは、「政策の争い」だけではすまない事態に立ち至っていることが明白だからであろう。すなわち、近づいている第一回の普通選挙では、こうした政治シンボルをめぐる大衆動員の力量のほうが決定的に重要であるはずなのに、若槻にはその認識が全くないことが如実に感じられるのである。

26年末大正天皇崩御、昭和改元、翌27年与野党対立が激化する中、解散総選挙で雌雄を決することを求める意見が憲政会内で強まるが、若槻は政友会、政友本党首脳と会談、辞意をほのめかしつつ、内閣不信任案提出を回避。

この妥協については、今日の政治史研究者の間にも英国的二大政党政治形成のチャンスを潰したという批判が強い。選挙で憲政会が勝っても負けても第一党が政権党になるという慣行が二度続き、日本の政党政治が確乎なものとなった可能性が高いからである。

若槻の動機としては、普選時代に激増した選挙資金を確保する見込みが無かった他、金本位制復帰のために震災手形処理を議会で通す必要があったからと推測されるが、金本位制復帰自体が全く間違った政策なのだから、若槻内閣の特徴である「大蔵省的発想」は極めて視野が狭く不適切だったと言う他無い。

結局、片岡蔵相の東京渡辺銀行関連の失言で金融恐慌発生、鈴木商店倒産、台湾銀行救済案は南京事件をめぐる「軟弱外交」に不満を持つ枢密院によって否決され、若槻内閣は総辞職。

 

その全般的評価。

足軽家出身者の若槻が総理となったこと自体が示す近代日本の開明性・平等性、加藤・浜口内閣と共通する国際協調主義と戦後改革の先取り、後継となった田中義一政友会内閣高橋是清蔵相の恐慌対策を一切妨害しなかった「政策中心志向」と「公平性」などは肯定的に見ることができる。

しかし、こうしたプラス面よりも、若槻内閣に対しては従来から批判的評価のほうが多い。その場合、論点としては、解散総選挙を避けて妥協した点や金融恐慌時に枢密院と最後まで戦わなかったことを問題視することが一般的であった。

だが、内閣崩壊の実相は、朴烈怪写真事件で追い詰められて妥協や多数派工作を図っていたところに、金融恐慌が発生して最後のKOパンチをくらったということであった。すなわち問題は、普通選挙を控え、政策的マターよりも大衆シンボル的マターの重要性が高まっていたことを若槻が十分理解していなかったことのほうにあるのである。「劇場型政治」への無理解が問題なのであった。

若槻は後年この事件を回想して「反対党は、これを大問題として大騒ぎしたが、私は大問題どころか、詰まらん問題と思う。これを政治論にして攻撃するのは、彼らがいかに攻撃の材料に飢えていたかがわかるのである」・・・・・と著している。

ただし、これは若槻ばかりではなく、元老西園寺公望など多くの人がそうであった。

西園寺は「朴烈問題の如きは左程重大とは思わず」「此頃の憂国者には余程偽者多し。大問題にもあらぬものを捉えて妄りに皇室の尊厳を語り、皇室をかさに着て政府の倒壊を策するものすらあり。・・・・・決して彼らに誤らるる勿れ」・・・・・と語っているのである。

朴烈怪写真事件で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人は、以後これを度々駆使した「劇場型政治」を意図的に展開することになる。我々はこれを次の田中義一内閣に、さらに統帥権干犯問題・天皇機関説問題等に見ることになるであろう。ロンドン条約時の「統帥権干犯問題」を取り上げて、政党人自らが自らの首を絞めたと主張する人は多く、それは間違いではない。しかし、政治シンボルの操作が最も重要な政治課題となる大衆デモクラシー状況への洞察なしに、そのことだけを問題にしても、現代に生きる反省には結びつかないであろう。

逆に言うと、「政策論争」を訴える若槻の主張はまぎれもない「正論」なのだが、それだけでは政治的に敗北するのが大衆デモクラシーというものなのである。健全な自由民主主義的な議会政治(それは政党政治である)の発達を望む者は「劇場型政治」を忌避するばかりではなく、それへの対応に十分な配慮をしておかなければ若槻と同じ運命を辿ることになろう。

この問題をここまで拡大させた根源は、一枚の写真の視覚効果(ヴィジュアル的な要素)が政権の打倒にまで結びつき得ることを洞察した北一輝であったが、彼ら超国家主義者こそむしろ大衆デモクラシー状況に対する明敏な洞察からネイティヴな大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである。昭和戦前期の政治を「劇場型政治」の視点から再度見直していくことの必要性が痛感される所以である。

前半のこの文章で本書の主要な論旨が出た。

戦前日本の軍国主義の真因は、大衆デモクラシーの暴走である。

その過程で「天皇シンボル」を用いた政権攻撃が多発したが、これは「天皇制の弊害」ではなく民主主義の弊害である。

明治初期以来の近代天皇制はすでにこの時点で大正デモクラシーによって換骨奪胎されており、その政争の道具に成り下がってしまっている。

萌芽期の善き自由民主主義が、軍部や天皇制という外部勢力によって破壊されたのではなく、実質的に明治の権威主義体制から脱していた自由な民意が暴走し、自ら対外膨張と国家革新の極右的言動にのめり込んで民主主義が自壊したと考えた方が、はるかに実態に近い。

現に、戦後は今では信じられないほどの左翼偏向が数十年に亘ってまかり通り、21世紀の現在では「天皇抜きのナショナリズム」が蔓延り、「反日」「売国」などの矯激な言葉が圧倒的多数を占める知能程度の低い衆愚層の煽動に用いられている。

 

 

田中義一内閣(政友会 1927~29年)

鈴木喜三郎、鳩山一郎、森恪が中核。

内相鈴木、外相は田中の兼任のため政務次官森が重きを成し、内閣書記官長に鳩山。

陸相白川義則、海相岡田啓介、そして何より注目すべきは内閣初期に短期間蔵相を務めた高橋是清。

極めて短期間に金融恐慌を終息させたことは、著者も言うように日本の財政・経済史に残る不滅の業績である。

この人を殺したことだけでも、私は二・二六の青年将校を許せない。

田中政権下、憲政会と政友本党が合併し、浜口を総裁にして立憲民政党結成。

この際、マスメディアがシニカルな姿勢で「既成政党」の批判と「新勢力」への期待をステレオタイプ的に報道していたことの悪影響を著者は指摘している。

28年総選挙で政友会辛勝。

鈴木内相の選挙干渉をめぐる与野党対立で議員買収や暴力沙汰を含む野党切り崩し工作が行われ、政党政治の信用を貶める。

第二次山東出兵、張作霖爆殺事件発生。

民政党顧問の床次が離党(29年浜口内閣時に政友会復帰)。

パリ不戦条約の文言、「人民の名において」が問題化。

この事件が、またしても戦われた天皇シンボルをめぐる抗争であったことは言うまでもないが、政府攻撃をしたのが野党の民政党であったことも重要である。朴烈怪写真事件は、憲政会=民政党の政府に対して政友会を中心とした野党が攻勢をかけた抗争であったが・・・・・民政党も天皇シンボルをめぐる抗争を仕掛けていたのである。繰り返すが、開始された日本の大衆デモクラシー下の政治抗争においてこのシンボルが持つ大衆動員力には、党派を問わず抗しがたい魅力があったのである。また、こうした点で民政党を過大評価することは実情に即さないということも言えよう。

張作霖爆殺事件処理について、元老西園寺が不明瞭な態度を示した後、天皇の叱責を受けた田中は内閣総辞職。

 

田中内閣崩壊についての著者の視点。

昭和天皇の田中叱責は個人的行為ではなく宮中側近のアドヴァイスを受けたものであり、張作霖事件だけではなく他の政治問題での内閣への不満が原因であること、政党人は天皇シンボル乱用による反対党攻撃が「天皇親政論」的発想を生む危険に無自覚だったこと、知識人やマスメディアもその種のシンボル的問題と既成政党批判をセンセーショナルに論じるだけで二大政党制の健全な育成に意を注がなかったこと。

田中内閣の崩壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒したということであった。これは政党政治・議会制民主主義にとって好ましくない事態である。いかに「腐敗した」内閣であっても、政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道だからである。言い換えると、「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みは、「政党外の超越的存在・勢力」が「軍部」や「近衛文麿」など形を変えて再生され、メディア世論と合体して政党政治を破壊するに至る背景・下地を作ることになったのである。

 

 

 

浜口雄幸内閣(民政党 1929~31年)

外相に幣原が復帰、蔵相は井上準之助。

内相は安達謙蔵、安達は中野正剛・永井柳太郎・風見章を率い、党内勢力を鉄相の江木翼と二分した。

陸相は宇垣一成。

海相は財部彪、山本権兵衛の女婿して昇進、加藤友三郎内閣、第二次山本内閣、加藤高明内閣、第一次若槻内閣でも海相、「何度も海相を務めた割には部内統制力も定見もなかったというのが定説化しているが、浜口内閣では相当の仕事をすることになる。」

緊縮財政と金解禁をよりによって世界恐慌勃発時に実施、昭和恐慌で社会不安が深刻化。

30年第二回普選で安達内相の差配により民政党圧勝。

同年ロンドン海軍軍縮条約で統帥権干犯問題勃発。

鈴木貫太郎侍従長の条約反対派の不適切な上奏拒否、浜口の軍令部への根回し不足を本書では指摘(ただし根回しを十分行っておけば反対派が和らいだという保証は無いとしている)。

さらに、

3月27日の天皇の意思表明[「世界の平和の為早く纏める様努力せよ」――引用者註]は、天皇の国際協調主義・平和志向が表明された行為だが、当時の国内政治状況的にはかなり一面的な行為と言えよう。意見表明をしないのがベストであり、対立する両者の意見を聞き、できればさらに有力者の意見を聞いてから落とし所を図り間接的に伝えるのがベターなのである。これでは結果的に田中首相への叱責に似たものとなったと言えよう。

条約批准後、11月浜口は狙撃され重傷、31年4月総辞職(8月死去)。

 

浜口内閣の評価。

ロンドン条約での浜口政権の国際協調主義とそれが宮中と密接に結びついているという認識が米国側に印象付けられ、「天皇の存在自体が日本軍国主義の淵源ではないという認識に結びつき」、過激で懲罰的な対日世論を沈静化したことを指摘。

ただし、以下のような視点も記されている。

・・・・・ロンドン条約締結は浜口内閣の傑出した成果だが、天皇・宮中グループと新聞世論(回訓後)の強力な支援によってロンドン条約締結という最大の試練を乗り切ったという事実は、実は田中内閣倒壊の際と、かなりの程度同じ政治構造の裏返しの表現であったということがある。

二つもの政党外勢力への依存による政党の勝利には、危いところがあったのである。

国際協調主義の牧野内大臣はその後斎藤実へ内大臣を譲り(1935年)、二・二六事件では二人とも襲われ(斎藤死亡)、最後の防波堤的内大臣と見られた湯浅倉平が病気で退いた(1940年)後を継いだ木戸幸一は、軍部と妥協的になってしまう。すなわち天皇・宮中グループは政党にとって最後まで頼れるような頼りがいのあるものではなかったのである。

さらに問題なのは新聞世論であった。・・・・・回訓後、一斉に条約締結に足並みを揃え“豹変”して世人を驚かせた新聞は、いつどういう方向にまた足並みを揃え豹変するかもしれなかった。それは、1931年の満州事変の前後に、あるいは1940年のナチスドイツの電撃戦勝利下の近衛新体制・大政翼賛会・日独伊三国同盟への転換として現れるであろう。これも心ある政党人にとって頼れるような存在ではなかったのである。

 

 

 

第二次若槻礼次郎内閣(民政党 1931年)

恐慌により、陸軍軍制改革(軍縮)問題が焦点となる。

当時の陸軍は決して一方的攻勢に出ていたわけではなく、大正時代の軍縮以来、その地位は低下し、国民世論の中では今見ても異常なほど軍人への軽侮が蔓延していた。

本書で記されている実例は衝撃的ですらある。

現在では全く忘れられているが、昭和軍国主義の直前には反軍人的風潮の異様な高まりがあったのである。

極端から極端に走り、中庸を得た常識に全く欠ける世論というものの欠陥が最もよく表われている。

軍制改革による圧迫と満蒙問題の急迫という天秤の上に陸軍は乗っかっていたのだが、ぎりぎりのところで、はかりは後者に傾きつつあったとも言えよう。

満州事変と十月事件という内外危機が勃発。

熱狂する世論に迎合して、マスメディア(新聞)は部数拡大を目的に論調を大旋回させ、親軍的報道を大々的に展開。

少し前まで馬鹿げた左翼的論調を飽きもせず繰り広げるしか能の無かったマスメディアとそれをオウム返しにしていた大衆が、ここ十数年ほど、空疎で幼児的な排外的ナショナリズムと自衛隊へのわざとらしい信頼を語るようになっているが、昭和史を振り返ると不吉だなあ、と感じる。

危機が進行する中、安達内相が政友会との大連立、協力内閣構想を主張。

同31年、イギリスではマクドナルド挙国一致内閣が成立している。

しかし、犬養と若槻がある程度意欲を示していた最初期の段階で、よほど巧みな取りまとめ役でもいればともかく、とくに政友会の反主流派的な久原[房之助]が中心に動いたのではこの連立政権構想はリアリティーの乏しい話であったと言うしかないであろう。犬養・鈴木・森などの政友会主流派幹部は動かず、しかもわざわざ金解禁政策に反対することを決議しているのは、協力内閣は作らないということなのである。政党が陸軍を抑える機会を失ったということであれば惜しまれるが、井上の言ったように、そもそも陸軍を抑えるつもりなのか押し立てるつもりなのかさえもはっきりしていなかったのが協力内閣運動の実態なのであった。

12月閣内不一致で若槻内閣は総辞職。

 

まとめ。

行財政改革と軍縮を目指す内閣・新聞世論と満州問題の切迫を煽る陸軍の均衡状態が事変により一気に破れ、前者の目標自体が忘れ去られてしまった。

対外危機という最大の「劇場型政治」が展開され、政党はそれを追認することしかできず。

幣原外交が過度に国民の不満を蓄積させていた面も否定できない、ポピュリストに主導権を奪われずに対外危機を克服する方策を常に考慮しなければならない。

第三に、陸軍のコントロール・処分の失敗という点も大きい。まず8月時点での不穏な気配に対する政府の情報探索が不十分であった。対外危機に触発されやすい軍の中堅幕僚・青年将校の動きに対しては、憲兵隊・内務省両方から情報を収集し、分析するセクションを設定すべきであった。事変勃発後は林朝鮮軍司令官の越境に対する処置が蔑ろにされているし、十月事件クーデターに対する処分も全く不十分であった。

そしてその背後には、そもそも大正末期以来の軍縮期の軍人に対する待遇・処置の失敗があったことは見た通りである。

 

第四として、協力内閣にはほとんど現実化する契機がなかったのだが、それにしても二大政党制か連立内閣かという岐路で迷走する若槻の姿は、この時期の政党政治を象徴していると言えよう。これが、「つきつめない」「絞りきらない」その性格からくることであるとすれば、最も重要な時に最も向いていない人がしかるべき地位に立っていたということになる。しかし、それにふさわしい人がふさわしいポジションにいることのほうが難しいことなのかもしれない。第一次若槻内閣の末期にはすでに民政党の人材難が始まっており、それが片岡蔵相の失言問題につながっていることは既述した。浜口内閣は浜口の気力と強硬姿勢で何とかロンドン条約と金解禁を実施したが、その反動が次の内閣を襲ってきたのである。その時首相となっていたのが「つきつめない」若槻だったのだ。政党政治は一人でやる仕事ではない。人を能力・適性に応じたポジションに配置しながら、リーダーにふさわしい人を選び出す組織としての政党というものの重要性をあらためて浮かび上がらせたのが最後の民政党内閣だったと言えよう。

 

浜口と若槻の任期が逆なら良かったのか。

そんな単純な話のわけが無いと承知しつつも、昭和に入ってからの政友会がヒド過ぎる以上、民政党に期待をかけるしかなく、緊縮財政にこだわらず、恐慌克服と社会の安定を最重視し、満州事変を何とか封じ込める浜口内閣を見たかった気がしてならない。

 

 

 

犬養毅内閣(政友会 1931~32年)

蔵相高橋是清、外相芳沢謙吉、陸相荒木貞夫、海相大角岑生、内相中橋徳五郎、文相鳩山一郎、司法相鈴木喜三郎。

犬養自身は政友会の自由党系ではなく、改新党系政治家で、政友会入りは25年革新倶楽部解散後。

それが田中義一の死後、総裁に推される。

当時の政友会は主に四派に分かれる。

鈴木喜三郎派=鳩山一郎、森恪ら。最大派閥。

床次竹次郎派=原敬に抜擢されたこともあり、政友会の「嫡子」扱い。

久原房之助派=久原は財界出身者。協力内閣運動を起こした非主流派。

旧政友派=岡崎邦輔、中橋徳五郎ら古参幹部。床次派と近い。

久原派の政・民大連立内閣運動も実は親軍的行動だったとの説が有力だが、それに反対した主流派も鳩山・森が今村均作戦課長、永田鉄山軍事課長ら陸軍中堅層に倒閣への協力を依頼したというのだから酷い話である。

「産業立国」の名の積極政策で恐慌に対処(高橋蔵相のやることは本当に全部安心だ)。

32年2月総選挙で政友会圧勝。

上海事変、血盟団事件と、内外の危機は継続しているのに、鈴木派・久原派の党内闘争が激しくなる。

五・一五事件が勃発、犬養は殺害され、後任は陸軍の圧力もあり、政党主導ではなく、海軍穏健派の斎藤実挙国一致内閣となり、政党政治の時代は終焉する。

 

まとめ。

まず、「養子」総裁として独自の党内基盤を持てなかった犬養のリーダーシップ不全。

この決定的時期に外交政策において内閣書記官長で対外強硬派の森恪の存在により、犬養が構想した対中融和策の実行は極めて困難になった。

 

次に政党人の政党政治への信用失墜に対する危機意識欠如。

 

そして著者が挙げるのが、元老西園寺らの「宮中擁護第一主義」の弊。

内相安達を原因とする閣内不一致で若槻内閣が総辞職した際、若槻への再度大命降下を考慮した西園寺だが、右翼・超国家主義勢力の攻撃が宮中に向かうのを憂慮して避けたという。

「財政や外交」以上に、「政党の腐敗以上に」宮中を守ろうとした、というのである。「財政や外交」に失敗して守られる「宮中」というものがあると思ったのであろうか。こうした宮中側近の態度こそ、戦前・戦中・戦後と事態が進むにつれついには政党政治はおろか天皇・宮中それ自身をも危機に追い込んでいったのであった。

 

そして陸軍の圧迫。

単にテロに怯えたというだけでなく、「軍縮時代に軍人をいじめ過ぎた」という後ろめたさがあり、政党政治家たちが心理的に守勢に立っていたことを指摘。

軍人を蔑ろにせず、そして驕らせることもなく、適切に取り扱うことが議会制民主主義にとって必須である。

 

最後に、「戦争とテロ」という新しい劇場型政治と「昭和維新」運動への国民的人気への無理解。

対外戦争を報じるメディアを国民は熱狂的に迎え、テロを引き起こした青年将校らを礼賛する風潮が社会に満ち満ちた。

これは、しかし、政党政治家の反省すべき点というより、戦前の悲劇について、国民自身の責任がいかに大きいか、民主主義自体がどれほどの危険を含んだものか、を示しているように思える。

こうして、元老・重臣・財閥・特権階級の打破と平等主義の実現を訴える彼らの主張は多くの支持者を獲得していくことになるが、政党人はこれに十分に対応することができなかったのであった。“内輪の政争に明け暮れ、実行力・決断力なく没落していく既成政党と一挙的問題解決を呼号しもてはやされる「維新」勢力”という図式が作られやすいという意味で、歴史は繰り返すのである。

 

 

 

全巻のまとめとして、政党政治没落の原因が末尾で述べられる。

自分の感想も交えつつ紹介します。

 

1.疑獄事件の頻発など政治腐敗

これ自体、確かに問題だが、私個人としては、そもそもこの手の醜聞を根絶するのは不可能だろうし、煽情的な報道で生まれた狂信によって議会政治自体が破壊されれば元も子もないし、「あまりにひどいものだけでも、法に則ってしっかり取り締まってくれればよい」くらいに考えてしまう(メディアで盛んに批判されるような汚職は実は「小物」であって、雇用の不安定化や労働条件の全般的悪化のような政策が大資本の意向通り進められているのを見ると、そっちの方が「巨悪」だろうと、最近思います)。

 

2.国会の混乱、買収・議事妨害・乱闘

これも上記に同じ。そうした国会議員を冷笑して一向に構わないが、それも自分たち国民自身が選んだ、国民のレベルに見合った議員なんだ、と自覚すべき。

 

3.地域の政党化・分極化と中立化・統合化欲求の亢進

二大政党時代、公共事業や公務員職の利権をめぐって、地方での党争が異常なほど高まっていた。

言い換えるならば、政党政治の時代には日本社会は分極化しており、政党政治が終り「天皇」を中心にして「警察」(さらに広く言えば「官僚」)のような中立的と見られた勢力によって社会が統合されることが、地域から、国民の側から望まれるような社会構造が存在していたということである。政党内閣から非政党・中間内閣への変貌が、上から嫌がる国民に無理やり押しつけられたということではない形で、むしろ望まれていたことが、社会的背景を通じて理解されるのである。

こうした視点から見ると、「党利党略」に憂き身をやつす(と見られた)政党政治への「嫌悪感」が「中立的」と考えられたもの(天皇・官僚・警察・軍部等)の台頭を必然化したのだとも結論付けることができよう。

 

4.「劇場型政治」とマスメディア・世論の未熟な政党政治観。

普通選挙による政治の大衆民主主義化時代を迎え、非本質的なスキャンダル(疑獄・失言・女性問題など)やシンボル的な問題(天皇やナショナリズム、対外紛争)を煽情的に取り上げつつ、そのこと自体には真摯な関心を持つわけでもなく、ただ反対党派を罵倒攻撃し、自派の優位を図るという、劣悪な政治ゲームに歯止めがかからなくなる。

メディアも、冷笑的な「批判のための批判」や、ただ自社の利益のためにもっとも俗耳に入りやすい論調を煽り立てることしかしない。

真正な公的議論というものが消滅し、衆愚的国民の感情を支配する競争だけが激しくなり、国の命運はただ風任せという状態に。

それが大正デモクラシー以後の戦前日本です。

でも、これ今と全く同じですよ。

戦前は非民主的政治制度のせいで破滅的戦争に至り、戦後は民主化で繁栄した、なんて絶対言えるものではない。

戦前日本の全てを肯定することしかしない右翼も、戦前日本を破滅させたのは他ならぬ民衆自身であることを認めない左翼も、双方頭がどうかしてます。

 

 

 

基本的に素晴らしい著作だが、一点疑問を感じる部分もある。

著者は大衆民主主義時代においては、「劇場型政治」を忌避するだけでは済まず、それへの対応を考えなければならないことを強調する。

現実政治家へのアドヴァイスとしては、それが正しいのだろう。

しかし、著者は知識人のはずである。

それならば、そうした対応を強いる民主主義の進展自体が、決して好ましいものではない、という批判があってしかるべきなのではないだろうか。

「民主化は時代の必然で止め様が無いから、言わない」「今の時代、民主主義そのものを否定するような議論は言いにくい」と少しでも考えているのなら、同じく多数派民意が生み出す流れに抗えなかった西園寺による「宮中第一主義」の「怯懦」を批判する資格は、著者には無いように思うのだが、どうでしょうか。

 

 

 

著者の姿勢に一部疑念を感じるところもあるが、総合的に見れば、やはり「必読」というレベルの本です。

評価は文句なしに「5」。

ちょうどいい具合に、時代的に本書の末尾が、もう一つの傑作、坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』に繋がります。

強く、強くお勧めします。

2016年8月9日

大谷正 『日清戦争  近代日本初の対外戦争の実像』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:53

日本が近代国家としてその存在を確立し、清を中心とした東アジア国際秩序を再編するために必要だった戦争、あるいは、明治国家の侵略政策の帰結、という左右両派の日清戦争必然説を退け、開戦に至るまでの東アジア国際情勢、日清両国の内政事情、外交交渉、開戦後の軍事作戦、講和交渉、下関条約後も続いた台湾での平定作戦を叙述し、メディアの戦争報道を通じた国民意識形成、地域の戦時動員と追悼慰霊行事など社会史的観点にも目配りした総合的著作。

幅広い記述なのはいいのだが、参考文献の最初の方には、明らかに一昔前の定型的な左翼史観の著作が並べられ、本文中でも頻繁に引用されている。

また著者自身の文章にも、正直違和感を感じる部分は確実にある。

しかし、ここ十数年、ひたすら自国を賛美・正当化し、近隣諸国に憎悪を込めて罵詈雑言を浴びせかけるだけの(本来は史観とすら言えない)、下劣・愚鈍・幼稚な「右派」「愛国」史観がはびこっているので、それに対する解毒剤を服用するつもりで、あえて本書を通読する。

「完全無欠な輝かしい戦勝」「近代化に邁進した日本と惰眠をむさぼった清国」という通俗的イメージとは異なる実態が浮かび上がってくる。

兵站の不備、軍指揮官の独断専行、攻勢に偏した作戦計画、敵を過小評価する情報収集、国際法遵守が下部に徹底されず起こった旅順虐殺という不祥事など、後世大きな禍根となった事象がすでにこの戦争に現れている。

明治天皇が連綿と受け継がれてきた帝位と国家を危うくする懸念から、開戦に極めて消極的であったことも記されている。

明治帝の危惧はこの時点では幸いにも杞憂に終わったが、昭和帝の時代に日本は有史以来最悪と言える亡国の憂き目を見ることになる。

明治日本を礼賛するのも結構だが、この日清戦争は本当に完璧な勝利と言えるのか?

台湾を獲得し、戦費を上回る賠償金を得たが、本来この戦争の最大の戦争目的・戦略目標は、朝鮮半島から潜在的敵対勢力を排除して、日本の安全保障を確実なものにすることだったはず。

これにははっきり言って失敗している。

三国干渉後、朝鮮政府内で親露派が台頭、1895年閔妃殺害事件という帝国主義時代でも格段に乱暴な措置(以前も書きましたが、これは大逆事件以上に明治日本の恥ずべき汚点です)を取ってもさらに事態は悪化した。

親日的な開化派は一掃され、一年半にわたって続けられてきた甲午改革は終わった。それとともに日本の影響力は一気に低下し、ロシアの直接の介入を招いた。日清戦争の戦争目的であった内政改革とその背後で日本が進めていた事実上の保護国化は、三国干渉と露館播遷によって最終的に挫折する。日清戦争によって日本は朝鮮から清勢力を追い出すことに成功したものの、結局は朝鮮に対する支配権を強めることに失敗し、ロシアの影響力が強まるという最悪の結果となったのだ。

日清戦争時の伊藤博文首相と陸奥宗光外相のコンビを近代日本最高・最優秀の政治指導の組み合わせとし、「陸奥外交」を賛美する岡崎久彦も『戦略的思考とは何か』では、以下のように書いている。

実は日本だけにとってみれば、日清戦争はその後の日露戦争と一緒にしてはじめて意味をなすもので、それ自体だけであまり意味はない戦争でした。もちろん日清戦争で日本は台湾と莫大な賠償金を獲得しますが、それは戦争の本来の目的ではありません。戦争の目的は一にかかって朝鮮半島における日本の覇権を確立し、日本の安全保障を確実にする国際環境を確保することでした。しかし最終的に日露戦争に勝って強制的に韓国を併合するまでは、日本の朝鮮政策はまるでザルで水を汲んでいるようなものでした。

明治十七年の甲申の変で金玉均の独立党のクーデターが成功して親日政権ができるとすぐに清兵が介入して、政権は三日天下に終り、そのあと日清戦争までは朝鮮半島のヘゲモニーは完全に清国が把握します。

日清戦争中でソウルが日本軍の占領下にあったあいだは、親清派をパージして、新政府に種々の親日政策をとらせることもできますが、三国干渉で日本が脆くもロシアの言うとおりになるのをみると、占領中迫害された閔妃を中心とする宮廷はロシアの勢力を引き込んで日本に対抗させます。これをみて怒った日本公使館、邦人記者団等が、壮士をひきいて宮廷に乱入して閔妃を斬殺し石油をかけて焼いてしまうという無茶苦茶をしてみたところで、かえって逆効果になっただけで、この乱暴に驚いた国王は宮廷ごとロシア公使館に避難して、政府全体がロシアの庇護下に入ってしまいます。そしてその後は、宮廷がロシアに掌握されたままという不利な条件の下でのロシアとの交渉を余儀なくされて、朝鮮半島においてロシアに日本と同じ地位を認めるだけでなく、ロシアが財政顧問と軍事教官を送ることも認めます。つまり実質的には日清戦争前の清国の地位をロシアに与えることになります。

たしかに、日本のやり方が未熟で強引すぎて逆効果ばかり生んでいるのですが、根源をたずねれば、文禄・慶長の役以来、朝鮮の人は日本に怨みがあり、日本人をまったく信用していないのですから、いくら一時的に抑えたつもりでも面従腹背でどうにもならなかったわけです。日韓併合で最終的に抑えつけたといっても、それも今となっては同じことで、韓国の人の対日感情はむしろ悪化しただけで、やはりザルで水を汲んでいただけでした。

このどうしようもない日韓関係で、ただ一つ日本人が韓国人と信頼関係をつくるチャンスがあったとすれば、それは日本が韓国の近代化を助けることだったと思います。韓国の歴史の中で唯一といえる親日派だった金玉均の独立党も、その目的は、当時近代化の旗手であった日本と組んで近代化をしたいということでした。現在日本が韓国の近代化のために経済協力をしているのも、遅まきながら、やはり日韓関係を安定した基礎の上に置く正攻法なのでしょう。

そして終章より、本書の要旨を示した重要な数ページを以下に引用する(違和感のある記述も、あえて省略せずそのまま書き写し、適時私の感想を挟みます)。

日清戦争直前には、日清の軍事バランスの変化を背景に、日本国内では朝鮮における清の優位を前提とした天津条約体制の変更を求める意見が広がり、伊藤博文首相もこのような認識を背景に日清共同による朝鮮内政改革構想を持つようになった。これが、一八九四年六月二日の閣議における朝鮮への混成第九旅団派兵決定につながった。

一方で、第二次伊藤内閣は条約改正問題をめぐって対外硬派の攻撃を受け、連続して二度も衆議院を解散する内政的危機に直面していた。伊藤首相にとって、六月二日段階では、派兵は日清開戦を想定したものではなく、また総選挙対策のために対外危機を演出するという内政的理由に基づくものでもなかった。しかし、いったん清を圧倒するために強力な軍事力(戦時定員で八〇〇〇名を超える混成旅団)を朝鮮に派兵してしまうと、派兵を契機に沸騰した対清・対朝鮮強硬論に直面し、伊藤内閣は撤兵できなくなり、開戦への道を選択せざるを得なくなった。

政権の内部でも、川上操六参謀次長を中心とする陸軍勢力や閣内の陸奥宗光外相は対清開戦を求めた。対清戦争を準備してきた陸軍が開戦を主張するのは当然であるが、陸奥が開戦を求めた理由は、外相として担当した条約改正問題で判断ミスを重ね、対外的にも、国内の対外硬派に対しても、対応に失敗し、この苦境を打開して政治生命を維持するために、日清開戦を求めざるを得なかったからであった。

だが、川上や陸奥が開戦を決定することはできず、首相であるとともに、この段階では藩閥勢力の最有力者である伊藤が決断しなければ開戦にはいたらなかった。その意味で、日清戦争開戦については伊藤首相の責任が最も重い。

しかし、当初は対清協調を考えていた伊藤に開戦を決断させるにあたっては、政権内部の開戦論者である川上や陸奥だけでなく、衆議院の多数を占める対外硬諸派と彼らを選んだ国民、そして強硬論を鼓吹したジャーナリズムの開戦への責任も軽くない。伊藤内閣は秘密外交と藩閥による戦争をめざしたのに対して、対外硬派とジャーナリズムはこれを批判し、国民的基盤に立った日清戦争遂行を求め、その後の選挙戦のなかで、自由党もこのような主張に合流した。しかも、

政治的な民主化を求めた在野勢力の主張は、例外はあるものの、藩閥政府以上に侵略的であった。

上記文章で、陸奥が開戦を求めた理由を個人的地位への執着という意図だけで説明するのは、いくら何でも言い過ぎではないかと思えるが、神話化された「陸奥外交」を一度突き放して冷静に再考してみる必要はあるかもしれない。

最後の一文が示す認識は全く正しいと思うが、それならば日清戦争も先の大戦の悲劇の責任もまず誰よりも無分別な対外強硬論を支持した国民にあるんじゃないですか、そして自由と民主主義という価値自体を根本的に疑うべきなんじゃないですか、と著者には厳しく問い質したいところです。

日清戦争の外交問題に関する最も重要な資料として陸奥宗光の著した『蹇蹇録』がある。これをもとにして、のちに日英通商航海条約締結・日清開戦・下関講和条約締結を推進し、困難な三国干渉に対応した陸奥外相の偉大な功績と卓越した能力を顕彰する「陸奥神話」が形成された。

しかし、自伝やメモワールはしばしば自己弁護や自己顕示を含むもので、『蹇蹇録』は特にその傾向が強いことが指摘されている。すでに紹介したように、同時代の人々は伊藤内閣の条約改正交渉に批判的で、日清戦争が始まっていなければ、一八九四年七月に調印された日英通商航海条約もイギリスに譲歩しすぎていると厳しく批判された可能性が強い。

条約改正交渉に限らず、第二次伊藤内閣、なかでも陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。いまでも言論界の一部で「陸奥神話」を称揚する論者がいるが、学問的根拠は薄いと言わざるを得ない。

陸奥による日清戦時外交の問題点としては、東アジア地域に強い影響力を持つイギリスとロシアの制止を振り切って強引に日清開戦を行ったため、日本を支持する強国がなくなったこと、戦勝の結果生じた陸軍・海軍・民間の度を超した領土要求に屈して、過大な割地要求を講和条約に書き込んだこと、事前に予想された三国干渉への対応が拙劣であったことが指摘できる。陸奥は『蹇蹇録』で弁明を重ねているが、あまり説得的とは言えない。

さらに、日清戦争の最大の目的であったはずの朝鮮問題では、朝鮮王宮を制圧することから戦争を始め、戦争中には支配層と農民の両方の反日運動を弾圧したことから、朝鮮国内の各層の間に反日感情が広がり、三国干渉と閔妃殺害事件を経て日本の影響力が後退すると、反日親露派政権が誕生してしまうという最悪の結果を招いた。朝鮮問題への対応は、もちろん陸奥外相の守備範囲を超えた日本政府・軍の全体の政策的失敗であるが、陸奥も責任の一端を負わなければならないだろう。

それに加えて、日清戦争後、清は日本に対抗するためロシアに接近し、ロシアは東清鉄道敷設権、旅順・大連租借権、南満州鉄道敷設権を得た。すでに同時代の川崎三郎が彼の著書『日清戦史』で主張したように、日清戦争は外交で失敗した戦争であり、陸奥は外相としてその責任を負わなければならない。

国の命運をかけた戦争を遂行するにあたっての戦時外交が拙劣であった原因は、陸奥の個人的能力の問題以外に、条約改正問題だけが重要外交事項であったという時代的制約から、本格的な戦時外交の経験を持った政治家がいなかったこと、および外交官養成制度が未完成でトップを支えるスタッフの能力に問題があったことに求められる。

そして日清戦争の失敗経験のうえに、義和団問題を契機とする一九〇〇年のロシア軍の満州侵攻後、日本は多角的な同盟・協商網の構築を模索しはじめ、一九〇二年に日英同盟という形で初めて西欧諸国と同盟を結ぶことになる。

まず、陸奥の条約改正交渉への批判自体が、著者が批判的に記す、日清開戦を求めた好戦的な国民世論と同類のものではないかとの疑念を感じるし、その可能性を全く看過していることは不満である。

しかし、後段の陸奥外交への批判は(それが妥当かはともかく)、硬直した左派的言説の臭味を感じさせず、真剣な検討に値すると思われる。

大本営による戦争指導はすでに述べたように川上操六参謀次長を中心に行われ、川上は山県や大山のような陸軍の宿老や、野津・山地・桂のような先輩や同輩に、指揮命令を与えざるを得ず、彼らの制御に苦しんだ。川上の伝記『陸軍大将川上操六』は、「時ありては彼等に掣肘せられ、時ありては板挟みと為って苦心」したが、困難に打ち勝って「終に能く全局を統括して最後の捷利を制」したと述べているが、川上の努力と心労は大変なものであったと想像される。実際、大本営の戦争指導はなかなか貫徹しなかった。

本書で紹介した事例では、第三師団長桂太郎中将の度重なる暴走が典型である。しかも、桂は名古屋に第三師団長として赴任後に暇を持て余して書きはじめた「自伝」では、西南戦争以後の陸軍の混乱を慨嘆し、陸軍省総務局長あるいは陸軍次官として、自らが陸軍軍政の整理・改革を行い、何よりも命令の上位下達の実現を図ったことを得々と述べている。にもかかわらず、実際に自分自身が戦場に臨むと、ほかの司令官との対抗意識を丸出しにして、大本営の作戦指導を無視して暴走した。

だがより大きな問題は、川上である。川上は、寺内正毅や児玉源太郎と協力して、兵力動員と船舶を動員した兵員輸送、朝鮮南端の釜山から朝鮮を横切って満州の作戦地域にまで達する兵站線・電信線の維持を実現した。その実行力と軍事官僚としての実務能力の評価は高い。しかし、その結果何が起こったかを知る後世の歴史研究者は批判的にならざるを得ない。

一八九四年秋に発生した朝鮮の第二次農民戦争が、兵站線・電信線を破壊したことに対して、川上が命じたのは、東学農民軍とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。

また、川上は遼東半島割譲と直隷決戦に固執した。これが三国干渉の誘因となり、さらに列強の干渉が予想される複雑な国際情勢のなかで、極端に攻勢に偏した直隷決戦計画を実施し、本土防衛をないがしろにする危険性を生むことになった。これらは川上の戦争指導の問題点である。

日清戦争において、伊藤首相や大山第二軍司令官が戦争の全体の帰趨を見て政策決定を行っていたのに対して、有能であることはだれにも負けない陸奥外相や川上参謀次長が、木を見て森を見ない政策決定を行っているように感じたのは、私だけであろうか。

十数年前まで世に瀰漫していた極めて硬直して偏った左翼史観が後退したのは誠に結構だが、逆に現在の我々は「日清・日露の戦いを勝ち抜いた明治日本の栄光」を単純に賛美するだけの惰性に流されすぎているのかもしれない。

もし日清戦争に負けていたら、どうなっていたのか。

沖縄はまず間違いなく永久に日本ではなくなり(現在では、過剰な対米追従という全く違う原因で日本じゃなくなりそうですが)、莫大な賠償金を課せられ、各種の近代化政策は致命的な打撃を蒙って挫折していた可能性が高い。

その勝利も一時のものに過ぎず、結局清国よりはるかに強大なロシア帝国との対決を余儀なくされることになってしまった。

続く日露戦争は敗北の危険性がはるかに高かったはずである。

その敗戦の結果は、北海道全土の割譲、租借地の設定、莫大な賠償金、より不平等な通商航海条約強要であろう。

さらには列強がハゲタカのように群がって、ついには日本全土が植民地となり、皇室をはじめとする伝統的制度が破壊され、その後で独立運動が起こり、成功したとしても、共産主義勢力が主導権を握って、今も日本は全体主義の抑圧体制の中にいるか、あるいは良くて右派の権威主義体制の下で暴力的な党派争いが延々続くという第三世界のよくあるパターンの国になっていたかもしれない。

弱肉強食の帝国主義時代の最盛期、国家の命運を賭すような戦争は可能な限り避けるのが賢明であろう。

であれば、ロシアの進出に備えた、朝鮮半島での日清両国の限定的協調を背後からイギリスが支えるという天津条約体制を(清国優位の状況はあえて甘受した上で)続けた方が良かったという歴史解釈もあり得る。

もちろん当時の国際情勢はあえて危険な戦争を行わなければならないほど厳しいものであり、陸奥が『蹇蹇録』で言うように

畢竟我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す。

ということだった可能性も十二分にある。

ただ色々な見方に触れ、少しでも妥当で真実に近い史観に近づく努力をすべきであって、数を頼んで反対者を誹謗中傷・罵詈雑言で黙らせるような卑怯な真似は、立場の左右を問わず、決してするべきではない。

 

 

著者の主張をそのまま受け入れる必要は無いが(私も決してそうしていないつもりです)、多様な見解に触れて歴史を考えるきっかけには出来る良書です。

2016年5月27日

福田和也 『昭和天皇  第六部 聖断』 (文芸春秋)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:35

このシリーズの記事では、本文内容紹介には重点を置かず、印象的な部分を引用するくらいにして、第三部昭和天皇即位以降は、一年ごとに日本と世界の出来事を対比しつつ、あれこれ思うところを述べる感じで書いてきました。

 

1926(昭和元)~1931(昭和6)年  第三部

1932(昭和7)年   第四部

1933(昭和8)年   戦前昭和期についてのメモ その2

1934(昭和9)年   戦前昭和期についてのメモ その3

1935(昭和10)年  戦前昭和期についてのメモ その4 および その5

1936(昭和11)年  戦前昭和期についてのメモ その6

1937(昭和12)年  第五部

1938(昭和13)年  同上

1939(昭和14)年  戦前昭和期についてのメモ その7

1940(昭和15)年  同上

1941(昭和16)年  戦前昭和期についてのメモ その8

 

ですが、日米開戦から敗戦までのこの巻では、同じことをするのは止めておきます。

一年ごとの戦局の推移については、児島襄『太平洋戦争 上』および『同 下』を参照して下さい。

気になった部分を引用し、先の大戦への全般的評価について述べたいと思います。

まず、1944年6月サイパン戦直前の時期。

「海軍部隊の作戦と相まって、米軍の上陸企図を粉砕できると信じます」

東條の彼の人に対する答は、無責任な響きがあった。海軍に責任を転嫁しているような趣きがないことはなかった。

「いまや連合艦隊は、決戦用意の態勢をとりつつあります。陸海軍は緊密に協力をして米軍を撃破し、その侵攻意図を砕く事を期しております」

彼の人は木戸内大臣を召して、東條の上奏について意見を求めた。

木戸の反応は、予想外のものだった。

「こうなっては、皇道派を起用する他ないのではないでしょうか」

耳を疑うような事を木戸は云った。

「現状を冷静に見ておりますと、すべては赤化にむかっているように見受けられます。陸軍統制派が権力を握って以来、国内のすべてが、経済から言論、思想にいたるまで、まさしく統制の下に置かれており、これは社会主義への道をひた走っているとしか考えられません。近衛公爵とも話しあったのですが、この際、真崎甚三郎ら皇道派を復権させて、統制派を抑える必要があると思われます」

もっとも信頼していた寵臣の言葉は、耳を疑うようなものであった。

「皇道派を赤化を防ぐために起用せよというが、果たして彼らはそのような存在であったか。皇道派の首領だった真崎を見よ。彼は、わが国は国家社会主義にならざるべからず、と上奏文で主張していたではないか。そのため私は上奏文を改めるように命じなければならなかった。二・二六事件に関わった者たちこそ赤化していたのであり、彼等を使嗾した真崎や柳川、山下たちこそが国体を破壊せんとしたのではないか」

憤りを抑えながら話しているうちに、彼の人のなかで、氷解するものがあった。

(東條にすべてを任せる事は最早出来ない、と木戸は云いたいのか。東條を換えるとすれば、統制派ではなく皇道派の将帥を挙げるべきか。たしかに山下奉文のシンガポール攻略、柳川平助の杭州湾敵前上陸など、皇道派の将軍の方が戦果を上げているが・・・・・・)

それでも彼の人は、二・二六事件の行きがかりを忘れる事は、どうしてもできなかった。

続いて、1945年2月「近衛上奏文」の叙述。

「敗戦は遺憾ながら必至と存じます」

貴公子としては、大胆な書き出しであった。

木戸が、ちょっと驚いている。

「敗戦はわが国体の一大瑕瑾ではありますが、英米の世論は、今日までのところ、日本の国体の変更というところまでは進みおらず、したがって、敗戦だけならば国体上、さまで憂うる要はないと思います。国体護持のことよりも、最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起こる共産革命であります。つらつら、思うに、国内外情勢は、共産革命に向かって、急速に進行しつつありと存じます」

「急速」という言葉を強調しつつ、近衛は彼の人をみつめた。

彼の人は、心動かされたようには見えなかったが、構わず続けた。

「ソ連が、究極において、世界赤化政策を捨てざることは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつあります。ソ連は欧州において、その周辺諸国にはソビエト的政権を樹立せんとて着々その工作を進め、現に大部分成功を見つつあります。ソ連のこのような意図は、東亜に対しても同様であります。現に延安にはモスクワより来たれる岡野を中心に、日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけています」

声音は、いよいよ、高くなる。

近衛が昂ぶるほどに、彼の人は落ち着いていった。

(悪い癖がでたか・・・・・・)

感情を、顕わにすることのない木戸にとっても、近衛の有様は不安だった。

(陛下に、このような演説をお聴かせする事自体、大きな錯誤ではなかったか。近衛の未来を破壊する事になるかもしれない)

「ソ連はやがて日本の内政にも干渉し来る危険が十分ありと存ぜられます。即ち共産党公認、共産主義者の入閣、治安維持法や防共協定の廃止等を云いだすでしょう」

近衛は得意そうだった。

ここからが本題、というように、見得をきる。

「ひるがえってわが国内を見ますと、共産革命達成の条件が、日々具備されております。すなわち生活の窮乏、労働者発言権の拡大、英米への敵愾心と表裏一体の親ソ気分、軍内部の革新運動、新官僚の運動、これらを操る左翼分子。なかでも、もっとも憂うべきは、軍内部の革新運動でございます」

軍こそが、国体変革の主体だ、と近衛は、彼の人の面前で指摘したのだった。

大胆といえば、これほど大胆な発言はない。

緻密であると同時に常識的思惟を重んじる彼の人には、突飛すぎる指摘であった。

「少壮軍人の多数は、わが国体と共産主義は両立するものと信じているようで、軍部内での革新論の基調もここにあると思われます。皇族方の中にも、この主張に耳を傾けられる方もいると仄聞いたします」

彼の人の前で、近衛は、かつて三度、総理の座についた政治家は、皇族のなかにも共産主義に共鳴する者がいると、述べているのだ。

「これら軍部の狙いは、必ずしも共産革命とはかぎりませんが、これをとりまく一部官僚、および民間有志は、意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しており、無知単純な軍人、これにおどらされているとみて間違いはございますまい」

近衛は、自省の言葉でしめくくった。

「不肖はこの間に三度まで組閣の大命を拝しましたが、国内の相克摩擦を避けるため、できるだけこれら革新論者の主張を採り入れて、挙国一致の実をあげんと焦慮した結果、彼らの主張の背後にひそめたる意図を十分に見破れなかったのは、全く不明の致すところで、何とも申しわけなく、深く責任を感ずる次第でございます」

元総理は、深く、深く、頭を垂れた。

およそ宰相として、政治家としても、これほど恥知らずな言葉はなかったであろう。

陸軍皇道派から行動右翼、転向左翼と、とにかく革新と名がつくすべての人種を糾合し、新体制運動を進め、大政翼賛会を作りあげた男が、しおらしく謝ってみせる。それは一文の値打ちもない反省であった。

 

 

先の大戦について、私が持っている考えは、西部邁『14歳からの戦争論』で引用した部分に極めて近いのですが、それでもやや異議を唱えたいところもある。

それは、国際情勢上の巨視的視野から先の大戦を肯定するだけでなく、国内政治上から見れば、戦前日本の国粋主義・軍国主義は、民主主義(の堕落)によってもたらされたものであるとの自省が必要ではないか、ということです。

上の引用文を「共産勢力の画策」という観点だけから読むと陰謀論じみてきて説得力に乏しいと感じるが、(イデオロギーの左右を問わない)民衆世論による国家支配という解釈をすれば、戦前の軍国主義と戦後の左翼運動の双方が(そして現在のネット右翼的「ナショナリズム」と似非「愛国主義」も)、多数派国民の衆愚的世論による国家の破壊だ、という視点が開けてくる。

いや、そのことは西部氏も別の著作では、はっきり触れている。

「民主主義の連合国」と「全体主義の(日独伊三国同盟)枢軸国」というのが、当時の世界にたいして描いてみせたアメリカの構図であった。民主主義の善神と全体主義の悪神とのあいだのハルマゲドン(最終決戦)において、善が勝利し悪が滅びたというわけだ。・・・・・・

ヒットラーが1933年に独裁授権を得たのは国民投票における支持を俟[ま]ってのことであった。ムッソリーニが独裁者となったのは、彼の率いるマスムーヴメント(大衆運動)が議会を占拠したからであった。日本国家が軍部によって壟断[ろうだん]されるようになったのは、「大政翼賛」の国民運動がそれを歓迎したから、という面も小さくない。

ついでに確認しておくと、連合国がわのソ連と(国民党の)中国とが民主主義に則っていたというのは悪い冗談にすぎない。そんな冗談にまんまと乗せられたアメリカのルーズベルト大統領は正真正銘のソフト・ソーシャリストなのであった。

いずれにせよ、近代におけるディクテーターシップ(独裁制)は、レファレンダム(国民全体の意向を直接に参照[レファー]しようという意味での人民投票)に依拠している。だから、それは「民主主義による民主主義の自己否定」というべきもので、むしろ民主「主義」の最高形態と称されるべきものである。

実は、米英仏のようないわゆる民主主義圏にあってとて、パブリック・オピニオン(世論)にあっては、アレクシス・ド・トックヴィルが1835年の昔にとうに指摘していたように、ティラニー・オヴ・ザ・マジョリティ(多数者の専制)が貫徹されていたのである。そして世論を動かしているものは何かというと、これもトックヴィルが(アメリカ社会について)見抜いていたことだが、マスメディアというプライマリー・パワー(基礎的あるいは予備的な権力)なのだ。

そうとわかっていれば、二十世紀は、デモクラシー(民衆政治)をはじめとして、自由や人権そして平等や福祉といったレフト(左翼)の価値観が社会の前面のみならず全面を覆った時代である、という認識を持つことができたであろう。そうしておけば、二十世紀の後半においても、アメリカニズムは「個人主義の左翼」でありソヴィエティズムは「社会主義派の左翼」である、と冷静に解釈しえたはずである。

その解釈に立つかぎり、連合国やアメリカが善で枢軸国やソ連が悪だという教説にこうまで洗脳されずにすんだであろう。親米が保守で親ソが革新だ、という莫迦気た政治学も幅を利かさなかったに違いない。

(西部邁『実存と保守』(角川春樹事務所)より)

 

上記引用文を補足すると、ソ連の左翼全体主義も、中国の急進的民族主義も、結局は過激で狂信的な民衆世論による運動が生み出したものである以上、結局、民主主義の派生形態と見なすほか無い、ということです。

そうであれば、戦前日本のように独伊ソと連携して「民主主義国」の米英仏に対抗するという考えがいかに倒錯したものか、分かるはず。

同じ観念主義に走るのなら、ナチズムも共産主義も前近代的価値観から「解放」され自由になった大衆が生み出したものだ、米英仏も独伊ソも根底で民主主義・近代主義という精神の病に罹っている点では同じ穴のムジナだ、米英仏が慢性疾患なら独伊ソは急性疾患の患者だ、緊急避難として急性疾患国の脅威を除くため慢性疾患の国と一時的に協力するのに吝かではないが、しかし日本は民主主義・近代主義という価値観自体認めませんよ、という筋道がどうして立てられなかったのかと慨嘆する。

そう考えれば、日本国内における極右的国粋主義についても、どれほど復古的言辞で装われていようとも、「民衆の主体性」への肯定の上に立っている以上、 その本質は民主的運動だ、卑しい大衆が皇室をおもちゃにしているだけだ、という自己懐疑だって生じたはずです。

戸部良一『外務省革新派』記事で私が書いた文章より)

それは「全体主義」への忠誠を「民主主義」へのそれに移し換えるべきだった、というのとは全く異なる。

民主主義こそが全体主義を生みだした母体であり、全体主義の独裁は民主主義の暴走が生んだ極限形態だ、そう認識して、日本は近代主義の総体を批判する立場に立つべきだったんだ、ということです。

であるのに、全体主義と民主主義を対極にあるものと錯覚し、自らの国粋主義の「非民主性」を「過信」して、前者に接近するという二重の致命的錯誤を重ねたのが戦前日本の実態です。

本来なら、日本は米英仏と(あくまで暫定的に)協力し、(民主主義の過激化の極限形態である)独ソ伊を打倒した後、近代主義自体を否認する大局的立場から、近世以来の西洋列強のアジア侵略の罪を鳴らして、(中国と[その過激な民族主義をたしなめつつ]和解し、韓国を再独立させ、アジア諸国の国民主義を尊重する形で)正々堂々、米英仏と戦うべきだったんです。

もし、大東亜戦争がそのように展開したならば、本当に徹頭徹尾それを「聖戦」として支持することが出来る、と私は思います。

だが、現在の「ネット右翼」的言説が蔓延した状況では、「民主主義への懐疑・批判」を欠落させたまま、過去の歴史の全肯定、中韓など特定諸外国への敵意と憎悪、米国への追従が横行している。

個人的にはアメリカ自体が「民主主義の失敗例」であることは、決して忘れるべきではないと考える。

だいたい民主主義と軍国主義を単純に対置するのが根本的に間違ってるんですよ、日本の軍国主義は(そしてファシズムとナチズムも)前近代的・非民主的要素から生まれたものじゃなくて近代化の進展で自由を得た民衆の狂信的運動から生まれたものでしょう、そこをハード・ピース派はもちろんソフト・ピース派も誤魔化してる、それとも何があってもアメリカは民主主義の看板は降ろさないって訳ですか、ははあ、ご立派ですなあ、でも貴方がたの建国の父たちのうち、少なくとも半分程はデモクラシーがどれほど悪しき政治に直結する可能性があるかしっかりと認識していたんじゃないんですか、そういう懐疑を完全に捨て去ったのに自分たちが終始一貫同じ精神を保ち続けていると自己欺瞞に耽ってるんじゃないですかね、間歇的にやってくる好戦論と社会的ヒステリーを見ると、米国が枢軸国や共産国と異なった道を採れたのは単に国土と資源と富に恵まれた偶然からであって、民衆の愚劣さは他国と大して変わらないんじゃないですか、奴隷制度の合理的平和的撤廃の失敗と自己破滅的な南北戦争、好戦世論に易々と突き動かされた米墨戦争、米西戦争とハワイ併合、あくどい手口のパナマ独立に代表される中南米への恣意的介入、禁酒法にマッカーシズム、カウンター・カルチャーの跋扈と治安の崩壊、あらゆる人間が自己を被害者だと言い立てる人種対立、暴力が日常化している銃社会に黒を白と言いくるめる法律万能主義の訴訟社会、空疎な「アメリカン・ドリーム」のお題目と史上空前の格差社会、そして近年のイラク戦争、金融資本による事実上の世論支配と政策歪曲が、日本にとっての第二次世界大戦規模の破局を米国にもたらさなかったのは、単に上記の偶然から国力に余裕があったというだけで、米国の政治体制の正当性を保証するものとは到底思えませんがね、貴方がたが称揚して止まない自由と民主主義自体が独裁と抑圧を生む素なんだと少しは自省したらどうなんです、それに終戦後貴方がたが対峙する共産主義も民主主義が生んだものですよ、だって人間社会のあらゆる不平等を永久に消滅させると豪語して民衆を煽動し権力を握った運動なんですから、その際手続き的な自由主義や議会主義を踏みにじったとしても、それは多数派民衆の意志に従ってなされた行為ですし、あるいは百歩譲っても、そうした少数の狂信者の行動を前にして多数派民衆はろくな抵抗もできずたとえ消極的にせよ同意したわけですから、民主主義の名の下では決して根本的に非難できないはずですよね、言っときますが、我々はソ連との冷戦にはほとんど貢献できませんよ、貴方がたが『真の戦犯』たる民衆を免罪してくれたおかげで、狂気じみた左翼運動が巻き起こり、それに対処するので精一杯になりますからね、まあせいぜい極東での国際秩序と力の均衡の維持に努めて下さい、それを数十年担ってきた我々に無条件降伏を要求して占領下で憲法を制定し権力政治からの完全な棄権を強要したのは貴方がたですから、それを担うのは当然の義務と言うもんですよ、そしてそれに勝利したらしたで、『自由と民主主義の勝利』を高らかに歌い上げるわけですか、まあ実現すればするほど蟻地獄に落ちるような理想をいつまでも掲げていればいいですよ、でも出来ることならそれに日本を含む他国を巻き込まないでもらえませんかね」といった具合に延々と嫌味と皮肉を述べ立てたくなる。

廣部泉『グルー』記事で私が書いた文章より)

そしてそんな国家と「自由民主主義同盟」を組んで、中華人民共和国(というこれも狂信的民衆運動の結果生まれたのだから「立派な民主主義国家」だ)に対抗しようなんて、真の保守派が考えることじゃない。

「自由と民主主義の価値観を共有する日米両国が協力して、共産党独裁の非民主的な体制を持つ中国を封じ込めて屈服させる」というシナリオが、昨今の日本の「保守派」のお気に入りのようです(私も昔そう思っていた時期がありました)。

しかし、今の中華人民共和国は、全人民の絶対的平等と特権階級の完全な抹殺、人民に対する全ての伝統的拘束の廃絶を高らかに謳いあげた中国共産党が、国民の狂信的支持を受けて成立した体制のはずです。

共産主義者は、実質的な真の自由と民主主義を未来永劫確立するという目的のために、暴力革命と独裁が(一時的に)必要だと主張したわけです。

つまり、共産主義は自由民主主義の単線的発展上にある思想に過ぎない。

共産党が「手続き的な民主主義」を廃絶したことをもって、「非民主的」との非難を浴びせるのは表面的である。

なぜなら、そうした民主主義の自己崩壊を、圧倒的多数の民衆が容認し、支持したからこそ、革命が成就したのだから。

共産主義・社会主義を自由民主主義に反するという理由で批判するのは、論拠としては極めて薄弱である。

むしろ真に共産主義を否定しようと思えば、その源泉とも言うべき、自由民主主義の理念自体を否認しなければならないはず。

「共産党政権が倒れ、中国社会の民主化が実現すれば、日中はもっと分かり合える」との意見もあるが、私は全くそう思わない。

共産党の支配が緩んだ後の中国の姿は、現在すでにその兆候が現れているように恐ろしいほどの社会的混乱と衆愚による狂信的世論の跋扈である可能性が高い。

そして、その醜い社会の有様は、日米などの民主主義国家と、程度の差はあれ、完全に同質のものです。

そう考えれば、「非民主的な中国に対抗する民主的な日米同盟」との構想は、思想的には底が抜けてます。

服部龍二『日中国交正常化』記事で私が書いた文章より)

 

 

それにしても、日本も酷い国になったもんです。

このブログを始めて丸十年になりますが、ちょうどその十年のあいだで、私は以前は持っていると思っていた愛国心の大半を失ってしまいました。

かなり前から絶望はしていました。

1990年代には「世界で共産主義体制が崩壊したのに、日本はまだ冷戦時代さながらに左翼の残党が勢力を誇ってる、こんな調子でこの国はどうなるんだ」と常に慨嘆していました。

でもその時は、少数ながら「同好の士」というべき人たちもいましたからね。

社会の片隅にでも、ちゃんと保守なり右派なりを名乗る資格のある人たちが確かにいました。

例えば、90年代前半の『諸君』や『正論』は本当にレベルが高かったですよ(両誌ともある時期以後は手に触れるのも汚らわしい、という最低の雑誌になってしまいましたが)。

世紀が変わる辺りで、左翼勢力が崩壊すると同時に、今まで左翼の戯言を述べていた醜い衆愚どもの集団が「右翼」・「愛国」的言辞を、相変わらず知性や品位の欠片もなく喚き立てるようになり、私が大切に感じている価値あるものを土足で踏み躙って台無しにしていきました。

日本がこんな滅び方するなんて、夢にも思いませんでしたよ。

その際、この「反左翼」の動きを正常な社会への第一歩と考え支持した自分が底無しの愚か者であり、正にその衆愚の一員だったことを苦渋と共に認めたいと思います。

(もし現下の「右傾化」に歯止めがかかるとしても、その時はまた左翼が一昔前のように傲岸に自らの「正しさ」を押し通そうとするんでしょうね。それが大衆運動の避け得ない本質です。)

以後、右を見ても左を見ても、価値観を共有できるな、と思える人たちがいなくなりました。

(雑誌の『表現者』は貴重な存在として現在でも購読していますが、それでも時々ネット右翼が誌面に出て来て嫌な気分になることがあります。)

インターネットという史上最悪のマスメディアが普及して、衆愚社会の最後の底が抜けてしまった感があります(引用文西部邁11および内田樹7)。

で、以下のような連中が害虫のようにわいて出るようになりました。

・・・・左翼思想の完全な破綻が誰の目にも隠せなくなった、21世紀に入ってからは、またしても何の反省も無く逆の極端へ走り、粗野・低俗・卑怯・軽薄・愚劣な、

「パースペクティブもヒエラルキーもない愛国心、スペインの国土で産まれてくれたものはどんなものでもスペインのものとして受け入れ、最も愚かしい退廃現象とスペインにとって本質的なものとを混同してしまう愛国心」(『ドン・キホーテをめぐる考察』)[オルテガ]に類似した心性

西部邁『大衆への反逆』より)

にどっぷりと浸り、邪悪な組織的煽動者に操られるままに、排外主義的・人種主義的で形式的・偏執狂的なナショナリズム(を装ったエゴイズム)を好きなだけ謳歌し、何の思慮分別も無く、真剣味も無く、後先も考えず、自己懐疑の欠片も無く、常に感情的でいきり立ち、身の程知らずで自分の分も弁えず、脊髄反射的な多数派への同調以外に自身の意見を作り上げるための努力も一切せず、デマに等しいような生半可で偏った知識と情報を愚かにも絶対視し、阿呆同士が刺激し合って現実離れした極論の過激さを競い、度外れた誇張と曲解を常習犯的・確信犯的に用いて、言葉を真実に達する手段でなく暴力的宣伝煽動のための道具と内心ではみなしているくせに表向きは綺麗事を恥知らずにも述べ立て、都合が悪くなればかつての主張には平然と口をぬぐい、匿名性の陰に隠れて、素知らぬ顔で全く逆の主張を同じように攻撃的・感情的にわめき立てて恥じず、最低限の責任感も羞恥心も持たず、何一つ建設的提案をする能力も無く、徒党を組んで他人を口汚く攻撃する以外能が無いくせに、わかりもしないことをわかったつもりになって、空疎な決まり文句でしかない一知半解の似非知識を馬鹿の一つ覚えで振り回し、声の大きさと多さが即正しさの証明になると信じて疑わず、公的議論は公正な真実に至るための道筋ではなくただ社会的意志決定の根拠となる多数を力ずくで獲得するゲームでしかないという皮相・低劣な考えを抱き、誠実で賢明な少数者の意見を卑怯な揚げ足取りと悪口雑言による印象操作で圧殺する小細工にだけは長け、不完全極まる自分がたまたま持った考えや嗜好が数十世代にもわたる試行錯誤で得られた伝統や常識よりも尊重されるべきだと妄信し、自分が理解できないものには価値が無いと傲慢不遜に決め付け、そう思わせる自身のお粗末極まる知性と感性を疑うことは笑止千万にも一切せず、何についても冗談半分の嘲笑的態度で余裕ぶっているが、実は自分自身が最も卑小で嗤うべき存在に過ぎないくせに、自らは決して批判されない無責任極まる一方的批評家気取りの立場から、自力でものを考える力も無いので単純粗暴なレッテル貼りをしつつ、他者を非難・罵倒することで卑しく下劣な快感を得ること自体が自己目的化しており、そのための名目は実は何でもいいし自身も何の関心も無いことを厚顔無恥にも隠蔽しながら、自分は髪の毛一筋の犠牲を払う覚悟も無い卑怯・卑劣で性根の腐った臆病者のくせに、匿名の場になると数を頼んで無責任極まる好戦的主張をわめき立て、群集心理の虜となった痴呆同然の頭脳でますます過激さと愚かさの底辺へ議論が向かうことに歯止めが掛からないだけなのに、無制限な言論の自由を謳歌した有意義な討議によって賢明な意志決定が行われているなどと滑稽至極にも自惚れ、同様の集団的狂気の表れである相手方の非理性的反日姿勢の裏返しのような中国・韓国への単細胞的最強硬策と、「自由民主主義の宗主国」米国への盲目的崇拝および屈従と、私利私欲にまみれた弱肉強食の自由放任的市場主義「改革」と、既存政治家への(自身の品性下劣さを完全に棚に上げた)ありとあらゆる否定的暴言およびそれとセットになったデマゴーグ・ポピュリスト的政治家への衆愚的熱狂と、(天皇制に対する政治的批判ですらない)皇族個人への陰湿・卑劣で恥知らずな誹謗中傷に明け暮れ、少しでもそれに反対する人間は、「反日」「左翼」呼ばわりして、片っ端から物理的暴力あるいは誹謗中傷という言論上の暴力を用いて集団リンチにかけ、おぞましい嗜虐感情を満足させ[る]

古川隆久『昭和天皇』記事で私が書いた文章より)

そんなゴミクズ以下の下劣な衆愚どもが左翼思想の替わりに「天皇抜きのナショナリズム」をおもちゃにするようになり、卑怯な集団リンチを行い、我がもの顔で横行しているのを見ると、「もうこんな国、滅んでしまえばいい」という言葉が喉元まで出かかって慌てることがあります。

かつて左翼の、祖国に対するその種の冷笑主義を自分がどれほど憎悪していたかを考えると自分でも感慨深いです。

(このブログで、内田樹氏のツイッターとブログをブックマークに入れているのを不思議に思われる方がいるかもしれませんが、自称「保守」と自称「反左翼」がこうまで出鱈目で滅茶苦茶な言動を繰り広げていれば、かつて毛嫌いしていたリベラル派のうちで穏健で賢明な内田氏のような人の言葉を聞くしかありません。)

しかし、ものには限度というものがあります。

国内では弱肉強食の新自由主義・市場原理主義が吹き荒れ、経済的格差がますます拡大、中間層が崩壊し、貧困が広がり、品位も責任感もない成金的富裕層のみがのさばり、その社会的分裂を誤魔化すため、対外的には粗暴・低劣で幼児的な排外的ナショナリズムが煽られ、それ自体が新旧メディアによって「商売」となる。

醜い人種・民族差別をナショナリズムの実践だ、などと考える人間が害虫のように次から次へと湧いて出て、その同じ口で皇室すら攻撃対象とする。

伝統と君主への敬意と忠誠が消滅し、相対主義的にありとあらゆる極論が煽動される中、結果的に最も単純で粗野で俗耳に入り易い、形式的・人種主義的ナショナリズムが大衆の脳髄に染み込むという展開を見ると、今我々はワイマール・ドイツの末期にいるのではないか、とすら思えてくる。

この国も、本当の本当に、おしまいのようです。

もうどうしようもありません。

どこからも救いは来ないでしょう。

率直に言って、もう私は自分の国の将来に対する積極的関心すら失いつつあります。

以前も少し書きましたが、この事態に唯一責任の無い皇室には適切な時期に亡命して頂くとして、あと国民がどうなろうと、もう知ったことじゃありません。

私に出来ることは、このブログ(の一部)で、わずかなりとも流れに抗している人たちを紹介して、自分の寿命が尽きるのを待つだけです。

 

 

月刊「文芸春秋」での連載はこの巻までで、以後ウェブ連載で独立回復までが書かれている。

「天皇という軸の下に、現代史のあらゆる事件、人物が描ける、描かねばならない」との言葉通りに著者は本シリーズを執筆しているが、この巻についてはやや散漫な印象が拭えない。

少し筆を急ぎすぎか。

現代史の(時には市井の無名の人々も含めて)様々な情景を淡々と描いて余韻を残し、読者に考える余地を与える、という著者の筆致が、苛烈な歴史を描くこの巻でも効果を上げていないことも無いが・・・・・・。

内容的にはもう一つ物足りなかった。

 

2016年2月13日

五百旗頭真 編 『戦後日本外交史  第3版』 (有斐閣)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:49

中国語・韓国語・英語版も翻訳出版されたという大学テキスト。

編者の名は「いおきべ まこと」氏と読むそうです。

序章と結章をのぞいて10年ごとの章分け。

以下内容紹介(括弧内は執筆者名)。

 

 

 

序章 概論(五百旗頭真)。

近代日本外交における、ヘロデ主義(外部文明の学習を通じた独立維持を目指す態度)とゼロット主義(排他主義的独善的態度)の対比。

前者に基く英米協調路線が霞ヶ関正統外交であり、個人名が冠される近代日本の三つの外交、陸奥外交・小村外交・幣原外交はいずれもこれに属する。

そして大日本帝国の政治構造について、以下の記述を引用。

明治憲法下の制度は、政府が軍部をコントロールすることを困難にしていた。首相は各大臣の中で「同輩者中の第一人者」であるにすぎなかった。首相は大臣たちの上に立って命令を下し、大臣を罷免する権限を持たなかった。かえって、軍部大臣(現役)武官制を武器に、軍部が内閣を倒すことができた。さらに参謀本部の独立によって、参謀総長は陸軍大臣と同格に位置づけられた。内閣の一員である陸相が、内閣の意を体して参謀総長に命令を下すこともできなかった。首相―陸相―参謀総長は、なだらかな傾斜を持つ水平的関係を基本とした。上下関係において命令はできず、個別的信頼関係に頼り説得を試みることによってしか、シビリアン・コントロールを達成できなかった。・・・・原首相のような強力な政治家が、非軍事的時代風潮の中でリーダーシップを発揮する時期は、長くは続かない。・・・・明治の権威主義体制は、意外にも首相権限の弱さゆえに無軌道な軍部の軍事的発展主義を抑制することができなかったのである。

これ以上無いほど重要な認識が示されている。

明治憲法の欠陥は、天皇主権でも国民の権利制限でもない、首相権限の弱さだ、というのはこのブログの近代日本カテゴリ記事で何度も繰り返してきた主張ですが、この場を借りて改めて強調したいです。

よく言われる「統帥権の独立」も結局はここに含まれると思う。

政治的意志統一を達成できる元老が健在の内に、首相の明示的権限を拡大するか、その地位を高めるような行政慣習を固めることが必要だったのだが、それができなかったことが日本の悲劇の大きな原因です。

すべてを民主的かそうでないかで判断する左派的偏向も、自国の歩みのすべてを賛美し正当化する右派的偏向も、共に百害あって一利なしです。

 

近代日本は「大陸国家」を志向し発展していった。

それに反対する石橋湛山の小日本主義や佐藤鉄太郎海軍中将の海洋国家論(満蒙放棄と間接的アプローチによる国際政局操作)は主流にはなり得ず。

 

 

 

第1章 1940年代後半 占領期(五百旗頭真)。

直接軍政の回避や天皇制の維持を目指し、急進的民主改革を押し付けてくる米国との交渉が主。

現行憲法の制定も、占領国との対外条約のような性質を持ち、占領下「外交」の中心を占めるもの。

現在から見れば、日米安保と米軍駐留が規定路線だったように思えるが、決してそうではない、冷戦の進行に伴い、講和独立後の安全保障を検討し、様々な交渉上の試行錯誤を経てそうなった。

 

 

 

第2章 50年代(坂元一哉)。

中国共産化と朝鮮戦争が日本の戦略的価値を向上させ、寛大な講和に繋がる。

だが約20年続いた米中対立の時期、日本は中国承認問題という難問に悩まされることになる。

「軽武装経済立国」を国是とする吉田ドクトリン。

これに対する鳩山一郎は自主的外交を志向し日ソ復交を達成、同様の傾向を持つ岸政権は東南アジア諸国との賠償交渉を妥結し外交地平を拡大。

だが民間レベルでの日中交流は行き詰まり、日韓交渉も停滞。

次いで取り組んだ安保改定だが、これは日本の中立主義化を懸念する米側のイニシアティブによるもので、日本防衛義務を明記、内乱条項を削除、基地使用と核持ち込みの事前協議を定めた。

結果、大きな反対運動に直面し、岸路線ではなく、吉田路線が戦後日本に定着することとなった。

 

 

 

第3章 60年代(田所昌幸)。

池田・佐藤長期政権下、高度経済成長を達成。

ヴェトナム戦争により対米関係維持に困難が生じる。

日韓基本条約は成立したが、文化大革命の急進路線下にある中国とは依然断絶。

東南アジア諸国との経済協力は拡大するが、それへの現地の反発も拡大。

対米関係では沖縄返還協定締結に成功。

吉田路線は基本的に成功し、左右の反対勢力はそれを覆せず。

しかし成功しすぎたがゆえに戦後日本が自主的行動能力を持つことはできなかった。

 

 

 

第四章 70年代(中西寛)。

内政では佐藤政権が続投する中、福田赳夫への後継が即実現せず、田中角栄が台頭。

田中政権後は、二年ごとの政権交代が続く。

米中接近のニクソン・ショックと石油危機という激動が日本を襲う。

日中国交正常化が達成されたが、日ソ関係は停滞。

福田ドクトリン(非軍事的大国として経済だけでない相互的信頼関係)で、ヴェトナム戦争後の東南アジアとの協調関係を目指す。

大平政権では環太平洋連帯構想を発表、対中円借款を開始。

自由主義圏全体の観点から見て、戦後日本の成長が米国の失敗ではなく成功だったように、現在の中国の成長と日中のライバル関係成立も、中国の硬直的共産主義体制からの脱却を助けた日本の成功と見なすべきとの記述は、ヒステリーじみた反中感情が蔓延する今では重い意味を持っている。

70年代末、ソ連の軍事的拡張に伴う新冷戦激化、日本は「覇権反対条項」入りの日中平和友好条約を締結、日米同盟と日中協力深化で対応。

二度の石油危機を乗り越えた日本経済はさらに成長、米国はじめ諸外国との経済摩擦が本格化。

この時期、日本は「総合安全保障」政策を提唱、経済援助で世界の安定に貢献するとの主張だが、国際問題をカネで解決するという退嬰的姿勢にも取られがちであった。

70年代を概観し、1980年で1970年より関係が悪化していた国はソ連だけであり、日本外交は成功していたとも思える。

しかし、「経済のみの大国」日本は、自立的国際協調に戦術的には成功したが、戦略的には失敗したとの評価が下されている。

 

 

 

第5章 80年代(村田晃嗣)。

新冷戦での鈴木政権の対応は迷走。

だが、続く中曽根政権はレーガン米政権との信頼関係構築、日米間の経済紛争処理と防衛協力推進に成功。

80年代前半には日中関係も近現代史上最良の時期を迎える。

この時期の日本は、日米同盟強化、アジア太平洋地域の発展牽引、ヨーロッパとの関係強化という三つの成果を挙げ、その国力は絶頂。

しかし、昭和の終焉と共に、冷戦体制という枠組みは消え、バブル経済も崩壊することになる。

 

 

 

第6章 90年~2000年代(五百旗頭真)。

湾岸戦争での対応失敗、朝鮮半島でも冷戦後の最も直接的な脅威となった北朝鮮を国際社会に引き出せず(これは日本だけの責任では無論ないが)。

経済と湾岸の「二重の敗北」から、「失われた二十年」へ。

成功例としては1989年APEC(アジア太平洋経済協力会議)設立、1993年カンボジア和平とPKOへの貢献。

1995年までクリントン政権と最後の日米経済摩擦、94年北朝鮮核危機、96年台湾海峡危機を経て、96年日米安保再定義共同宣言。

冷戦体制崩壊後、世界は「競争的協調外交」の時代へ。

橋本政権は上記対米外交では成功したが、経済失政を犯してしまう。

97年アジア通貨危機を契機として、日本は深刻なデフレ不況に落ち込み、現在まで本格的回復を達成していない。

本書では、不況で国は滅びないが、それがもたらす精神不安定に陥った国民が愚行に走り、(戦前日本のように)国を滅亡させることがある、橋本・小渕両内閣は苦しい状況の中、歴史の愚行に走らず、協調的イニシアティブを取ったと評価されている。

確かに個人的に振り返ってみても、小渕さんというのは不思議な人でしたねえ。

橋本氏については経済失政の印象が強すぎるのであまり好感は持っていないのですが、小渕さんは事前の印象とは全く異なり、多くの業績を残されたと思います。

平成に入ってからの首相としては最優秀なんじゃないでしょうか。

恐慌の一歩手前にあった日本経済を積極財政で何とか踏み止まらせました。

もっとも小渕政権については、(対等の日米関係強化ではなく)現在まで続く対米従属路線の第一歩を踏み出したとの評価もあるかもしれませんし、もしそうならば私の評価も変えざるを得ないのですが、今のところは小渕さんが亡くなって、「構造改革」路線に没入することになって日本は滅茶苦茶になったというイメージが強いです。

2001年9.11同時テロ、ブッシュ・小泉枢軸とアフガン掃討、2003年イラク戦争への支持・協力。

著者はこれに肯定的だが、私は断固反対だ。

五百旗頭氏は「日米同盟プラス日中協商」の主張者であり、硬直した「反中原理主義者」ではないだろうが、中国敵視を自己目的化し、米中対立を煽り立て、異常な対米従属をますます進めようとする(自称)「右派」はいずれ途方も無い蹉跌に我が国を追い込むでしょう。

米国が大戦争の危険を冒してまで中国と衝突するはずがない。

日本が外交と防衛の自主性を放棄し対米追従を深化させればさせるほど、米国にとって「裏切り」のリスクは減るのだから、いずれ日本を犠牲にして中国と妥協するに決まっている。

そのような予測を立てるのに、悪意ある反米主義者の眼で米国を見る必要も無い。

アメリカ人の立場になって、米国の国益を第一に考えれば、ごく当たり前のことです(服部龍二『日中国交正常化』)。

数を頼んで反対者を罵っていれば気分がいい、としか考えない、知性にも品位にも感性にも欠ける下劣な連中が作り出す「世論」と「民意」こそが、戦前・戦後・現在を通じて正常で賢明な外交を妨げ、国家を破滅に導く元凶です。

 

 

 

結章 総論(五百旗頭真)。

40年代後半から50年代、戦後日本外交の三つの進路として、

a.社会民主主義路線

b.経済中心主義路線

c.伝統的国家主義路線

が存在。

占領期、片山・芦田政権で、一時aが優位を占めるが、吉田政権でbに変わり、50年代鳩山・岸政権のcが台頭するが、60年安保でaとcが激突し、両者が傷ついてbが再浮上する。

以後、「日米関係の深化」と「外交地平の拡大」(日ソ・日中・東南アジア外交、日米欧三極論)という二つのテーマが戦後日本外交の中心となる。

60年代に高度成長と沖縄返還という成功をおさめた日本は、70年代の危機に際しても経済的には目覚しい回復と再浮上を遂げた。

日中国交正常化を達成したものの、田中の対米自主外交路線は挫折、福田・大平政権は対米関係を考慮しつつアジア地域の共同利益を求める外交へ転換、アジア諸国の経済成長に協力。

経済大国ではあるが防衛力は依然抑制、「基盤的防衛力」という概念で、抑止力は米国に頼り、日本自身は一定の「拒否力」のみを持つという路線を採用。

80年代にはその国力は絶頂を迎え、中曽根外交の成功を支えた。

しかし国力をいかに用いるかのビジョンはなく、バブルに沈み、90年代以降の長期停滞に至る。

 

 

 

 

全体的に見て、とても良質なテキスト。

参考文献が充実していて、簡略なコメントが付されているのが大変有益。

関連年表も内閣の任期が見やすい形に整理されていて、しかも詳しいので非常に役立つ。

ただ史実を羅列してあるのではなく、その意味付けと評価がしっかりしているので、メリハリがあり読んでいて面白い。

悪い意味での教科書らしさが無い。

やけに細かな事実が記されている場合でも、それが時代の特徴をつかむ上で必要なエピソードであることが多い。

こういう分野では、しばしばある、煽情的で偏った(はっきり言えば最近ではネット右翼的言説と親和的な)本は有害無益で、読めば読むほど頭が悪くなり、品性が劣化するので、一切読まない方がよい。

本書での史実評価に全て同意するわけではないが、左右の奇矯で過激な論調を排している点は評価できる。

学術的でしっかりした、信頼できる著作として推薦します。

2015年11月2日

安岡昭男 『副島種臣』 (吉川弘文館 人物叢書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:46

読み方は「そえじま たねおみ」。

髭面のなかなか迫力のある写真が巻頭に掲げられている。

征韓論政変で西郷隆盛・板垣退助と共に下野した人物として名前はそこそこ知られているが、しかし実際何をした人物なのかと問われれば言葉に詰まる人も多いでしょう。

副島は明治初期に外務卿を務めた。

他に明治の外務卿・外務大臣は、沢宣嘉(のぶよし)、岩倉具視、寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、榎本武揚、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董(ただす)、内田康哉。

条約改正交渉で名前を知っている人名も多いです。

 

 

1828年佐賀藩士の枝吉家に生まれ、藩校弘道館に学ぶ。

大木喬任(たかとう)、江藤新平、大隈重信、久米邦武らと交友。

京都遊学中にペリー来航を知る。

1859年父の死後、副島家の養子となる。

尊攘論者だが、藩主鍋島直正(閑叟)の勧めで、大隈重信と共に長崎で米国人フルベッキに学ぶ。

維新で長崎奉行職を引き継ぎ、各国と交渉を持つ。

当時列強との間で問題となった、浦上キリシタン弾圧事件には直接関与せず。

佐賀藩は戊辰戦争当初ははっきりした態度を採らなかったが、雄藩の一つとして建設していた近代軍備による貢献で地位向上、薩長土肥と呼ばれる藩閥の一角を占める。

1868年、副島は参与に任命。

藩主直正に呼び捨てにされ、「拙者は最早、朝臣にござる。」と言い返したというエピソードが記されている。

同年「政体書」を副島と福岡孝弟が起草。

形式的三権分立を持つ太政官制で、官吏互選を定めたものだが、大村益次郎は共和政治に類するものとして反対、投票せず。

69年版籍奉還と「職員(しきいん)令」。

これも副島が中心に制定。

右大臣三条実美(左大臣は欠)、大納言岩倉、参議副島、前原一誠、大久保利通、広沢真臣、および各卿(外務卿は沢宣嘉)。

政体書より行政権を強化して中央集権化、集議院は諮問機関に留められる(政体書における議政官下局およびそれが改名した公議所は立法機関)。

同年大村益次郎暗殺。

暗殺犯の処刑一時差し止めの動きがあり、これに副島も同調したような記述がある。

ドイツ医学導入に当っての議論では、米国の如き民主国は日本と相容れず、立憲君主国のドイツに倣うべきと主張、多面性を持った人物として描かれる。

「新律綱領」制定へ協力、ナポレオン法典の翻訳を指示。

71年外務卿に就任(前任者の岩倉はすぐに欧米使節として出発)。

この際、留守政府は大改革を行わないとの約定は不合理だとして、板垣と共に反対している。

外務卿としてまず72年マリア・ルス号事件に遭遇。

ペルー船での清国苦力虐待事件。

神奈川県令だった陸奥は介入に消極的で辞任、後任大江卓、司法卿江藤も消極派だったが、米英公使の支持も得て、苦力は清国へ帰国。

そしてこの事件にも関わらず、73年ペルーと和親貿易航海条約の締結にも成功している。

これより前、71年に伊達宗城・李鴻章間で、日清修好条規を締結。

73年条約批准のため、副島は訪清。

李と会談し、中華思想を難じる。

「中国ヲ以テ自ラ画(かぎ)リ夷狄ヲ外ニスルハ堯舜ノ道ニ非ス」

「夷の中華に於る、常に恥じて勉む、故に強く而して能く興る、中華の夷に於る、自ら矜で怠る、故に弱く而して必ず亡ぶ」

「夷も亦人国なり、君子を以て侍てば則ち君子と為り、蛮夷を以て侍てば則ち蛮夷と為る」

三跪九叩頭礼はマカートニー、アマーストの時代から問題になっていたが、副島は当時在位していた同治帝に、米英仏独露に先んじて跪礼拒否で謁見を得ることに成功。

72年琉球藩を設置、71年琉球人殺害事件の起きた台湾に関心を持ちつつ、当時北方において日露雑居で紛争が頻発していた樺太の全島買収を企図する(米国のアラスカ買収も直近だった)が実現せず、後に75年には樺太・千島交換条約が結ばれる。

征韓論争で下野、74年愛国公党を板垣、後藤象二郎、江藤、由利公正と共に結成(同郷の江藤は同年佐賀の乱で刑死)、民撰議院設立建白書提出。

ただし副島はかつての勤王の志士として、批判対象の「君主専制」の文字を「有司専制」変えさせている。

副島は在清イタリア公使に、英国ですら君民共治などの語は官府では決して用いないと忠告されたこともあったという。

75年大阪会議で木戸と板垣は参議に復帰、元老院・大審院・地方官会議設置、元老院議官には勝海舟(安芳)、山口尚芳(ますか)、河野敏鎌(とがま)、加藤弘之、後藤、由利、福岡、吉井友実、陸奥、鳥尾小弥太、三浦梧楼らが就任するが、副島は辞退。

清国漫遊中に西南戦争。

79年(明治12)年侍講に就任、宮中派の一員となる。

だがこの時期友人の債務保証によって進退窮まる。

副島の窮地を聞いた明治帝が10万円を下賜、一度は感激した副島だが国父は万民を平等に愛すべき、偏愛は君徳を傷つけるとして、天災救恤にと返却、この経緯を聞いた明治帝は副島が死ぬかもしれないと感じ使者を急行させ、副島が割腹しようとしていた寸前に止めさせたという。

こうした潔癖な性格から、明治十四年の政変では黒田清隆を批判。

民間での活動ではアジア主義的団体との関わりが挙げられる。

1880年興亜会(1883年以降亜細亜協会)の会長に一時就任。

(この団体は甲午軍乱、甲申事変での朝鮮改革派の衰退により会員が減少、1900年近衛篤麿の東亜同文会に吸収される。)

1892年には前年結成された東邦協会という別の組織の会頭にもなっており、賛同者には小村寿太郎や加藤高明の名も見える。

91年第一次松方正義内閣が成立するが、大津事件で青木周蔵外相辞任、品川弥二郎内相も徹底した選挙干渉が強い批判を受け辞任、副島が後任内相となるが、数ヵ月後辞任、松方内閣もすぐ崩壊した。

その前、1888年枢密院が設置されると枢密顧問官に就任、黒田内閣下の大隈外相による条約改正交渉に反対している。

外交面では、日清戦争後の清国人労働者排除政策を批判、中国ナショナリズムが日本に向けられた際の危険を警戒、対露政策では主戦論を主張して慎重派の元老に反対、日露戦争中の1905年1月30日に副島は死去する。

最後にその政治・社会思想について。

普通選挙と一院制を主張。

「下等社会・上等社会の名称あるべからず」との言葉を残している。

しかし個人的には、貴族・華族的な階層性を排した君主制である「一君万民」という考え方は危険ではないかと思える。

「王室の尊栄を侵す者は用捨なし」とも言っているが、平等な民衆の中で君主だけが孤立して存在しているような社会は不安定で、君主制の存立基盤自体を掘り崩し、ついには愚かしい「民意」によって独裁制を出現させてしまう気がしてならない。

階級社会に不可避的に伴う様々な不条理を眼前に見れば、「一人の君主の前での絶対的平等」という理念に魅力があるのは認めるにしても。

また樽井藤吉の東洋社会党(1882年結成、同年結社禁止)を支援、「古の天子は社会党なり借地党の主義なり」として、復古的な王土王民論の立場から小作農保護を訴えたという。

(この東洋社会党というのは教科書的には全く無名で、私も本書で初めて知った。)

 

 

 

ごく普通。

是非にと薦めるわけではないが、それなりに役立つ。

副島自身は影響力のある公職に就いた時期が短いが、少し変わった視点からの明治史として読める。

本書に限らず、著名人物の伝記を、年代と重要史実をチェックしながら、多数読み込んでいけば徐々に実力がついてくると思います。

2015年10月15日

加藤陽子 『満州事変から日中戦争へ  (シリーズ日本近現代史5)』 (岩波新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:58

『戦争の日本近現代史』『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は紹介済み。

以前ほどでもないが、岩波書店でこの手の近現代史の本は読みたくないなとは思っているが、これは著者名から手に取ってみようかと思う。

戦前昭和における日中紛争についての日本人の認識は、通常の戦争ではなく、「不法な」中国に対する「報償」「復仇」というものが主流だった。

その背景を考察するのが、本書の主たるテーマ。

以下、ポイントを箇条書き。

 

 

 

満州事変の四つの特質。

(1)相手国指導者不在の状況。  蒋介石は剿共戦従事、張学良も事変当時は北平に滞在中。

(2)政治関与を禁じられたはずの軍人が主導。  陸軍刑法を骨抜きにし、「事実の説明と推断」で国民を煽動。

(3)国際法抵触を自覚しつつその違反との非難を避けようとする。  張の悪政と満州人「民族自決」の強調。

(4)満蒙という地域概念の恣意的拡張。  東部内蒙古や熱河・チャハル両省も含める。

 

 

 

満蒙特殊権益を列強は承認していたのかという問題。

日本の権益についての二つの見方、「概括主義」と「列挙主義」。

概括主義=満蒙地域全てが日本の既存権益。

列挙主義=条約・協定に基く確実な個々の既得権益のみを主張すべきとする。

大正期、原敬内閣時代、外交調査会において伊東巳代治がかつて自身も支持した概括主義を批判、列強の承認を自明視するべきでなく、排他的勢力圏の構築よりも、自由競争で英仏優位の華中へ進出すべきと主張。

(ここでの伊東の態度は珍しくまともに思える。)

同盟国イギリスとの交渉でも概括的意味で満蒙が日本の勢力圏だとする承認はなされたことはなく、米国が日本の中国での特殊権益を認めた、極めて稀な外交合意である石井・ランシング協定でも、「特殊権益」解釈の限定があり、通商独占は否定されている。

原、伊東のように、満州権益の列強による承認が列挙主義によって辛うじて認められたと見なし、以後の日本は排他的勢力圏を断念して長江流域へ日米協調の下に進出を計るべきとの冷静な見方がある一方、満州権益を断固として維持・拡張しようとする意見も根強く残る。

 

 

 

事変前、突破された三つの前提。

(1)幣原外交の説得力喪失。

20年代半ば、国共合作でソ連と組んだ反帝国主義的中国が最大の既得権益保持国イギリスを圧迫、日本はそれを利用し自らの力を認めさせ漁夫の利を占める形勢。

しかし国共分離で中国内の連ソ反英派は衰退、英国の地位は回復し、米英は中国の好意獲得競争に走り、一方北伐を完遂した中国の次なる国権回復運動の標的は日本の満州権益に移る。

米英協調という幣原外交の基盤は掘り崩されていったが、この情勢をマクマリーのような冷静な外交官は批判的に見ており、長い目で見れば中国にとっても損失だったとしている。

(2)張作霖を通じた北満州権益深化という田中外交の挫折。

田中の張政権支持堅持に苛立つ関東軍の一部が張を爆殺、張学良は日本を仇敵とし、満州の情勢はかえって不安定化。

(3)総力戦体制整備の困難さの認識。

石原莞爾らは、米ソ相手の持久戦で圧倒的不利な立場の日本でも、満蒙を領有すれば自給自足体制を確立できると考えたが、その行為が中国ナショナリズムを敵に回し、日本に途方も無い重荷を背負わせるとの危惧は(当時の石原には)無かった。

恐慌時に国内の負担なしで総力戦体制が可能になるとの謳い文句は、少し前に経済的計算のみで軍縮を支持したような人々を、満州事変支持に誘い寄せた。

 

 

 

事変後、直接二国間交渉論で日中が同意しかけたが、中国側は日本国内の穏健派を過大視し、対日強硬論がその勢力を強めると考え、国際連盟に提訴し、問題を国際化したが、結果としてそれは完全な誤認と失敗だった。

日本の国民世論は事変を熱狂的に支持、無産政党は沈黙、大新聞は地方への販売拡張のため連日煽情的紙面を掲載、政府と陸軍首脳は中堅層に引きずられずるずると政策転換。

「日本の軍人はまるで義和団だ」との吉野作造の言葉や、上海事変時、日本人居留民の行動が「当時我国の信用を堕したことは一通りではない」との日本総領事の発言を読むと、情けないという気持ちを抑えることが出来ない。

1931年末、日本側が治外法権放棄、中国側は東北全域での商租権と雑居自由を日本に与え、満州は自治委員会が統治するという妥協案が提案される。

張学良は排除され、国民党も有利な点があるし、これで手を打っておけばいいじゃないですか・・・・・。

この案は立ち消えになり、32年初頭米国はスティムソン・ドクトリンを発表するが英独などは追従せず。

リットン調査団報告書では、日本人に十分な割り当てを課した外国人顧問採用と対日ボイコットの永久停止、居住・商租権の全満州への適用など日本に有利な点が多々あったにも関わらず、事変を自衛権の発動と民族自決の擁護と認めないことで日本の世論は激高。

中国国内の不安定こそが事変の原因とする日本側に、五・一五事件が起るような日本こそが不安定だと中国側が反論したとの記述を読むと、恥ずかしい。

愚かな多数者の集団ヒステリーには誰も逆らえないのが近代という時代とは言え、何とも言いようの無い気分になります。

世論煽動に使われた、中国の「不法」行為にしてもやや微妙な点がある。

「自衛」のための鉄道守備兵駐屯の法的根拠は実は曖昧さがあり、はっきりしているのは中国警察の監察権拒否だけで、日露戦争前には日本自身が対露抗議でその曖昧さを利用していたり、満鉄併行線問題でも将来の対ソ戦にとって有利と考えられる部分では中国の建設を黙認していたりしていた。

内田康哉外相は中国政府内親欧米派の圧迫のみを考慮して強硬策を追求したが、これは少し前の中国側の日本評価と同じくらいの誤算だ。

日中両国で、妥協と和解を説く穏健な人々はますます少なくなり、両国にとって破滅的な全面衝突路線が誰にも止められなくなる。

汪兆銘は、戦時にはまず中国側が一方的に甚大な被害を受ける展開になる、中国経済の中心はすでに海岸部に移っており、そこを日本軍によって破壊されれば、政府は内陸に逃れても、弱体・傀儡化し、後に来るのはソヴィエト化と国家分裂だ、と述べ、対日宥和策を主張したが、このように完全に正しい主張が全く通らなくなる(日本側においても同様)。

重光葵ら幣原外交を清算した外務省の新主流派は、中国からの欧米勢力駆逐を目標とし、日本側は支那駐屯軍撤収、租界・治外法権放棄という妥協を自ら行い、イギリスを犠牲に対中宥和を図ろうとする。

これは陸軍の一部に見られたような、一方的な攻撃的政策でないのはいいが、イギリスのリース・ロス使節の重要性を見逃したのは重大な過ちだった。

イギリスの支援を受け、孔祥熙財政部長の下で幣制改革を成功させた中国では、連外抗日派が勢力を強める。

ナショナリズムの異様な高まりの中で西安事件が発生、第二次国共合作のきっかけになるが、著者がこの西安事件前後の中国ナショナリスト青年と二・二六事件の青年将校との共通点を示唆しているのが興味深い。

以後、不幸にして日中は全面戦争の道を歩み、両国とも破滅に至ることになる。

 

 

 

 

ほとんどが外交史。

シリーズ名からするとやや違和感がある内容。

一般的通史とは違った角度からの叙述が多く、面白いことは面白い。

この巻はまあ、お勧めできます。

2015年9月29日

坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成  「宮中」の制度化と立憲制の導入』 (講談社学術文庫)

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1991年吉川弘文館刊の文庫化。

本書で1992年サントリー学芸賞受賞とのこと。

西南戦争から憲法制定まで、明治10~22年が叙述対象。

国家意思を安定的に決定し運営するシステムとしての「内閣」を確立し、制度化するまでの伊藤博文の努力を描写する。

ただ、本書の序盤では参議を中心にした実力者の集団を「内閣」と呼称しているようで、注意を要する。

参議は廃藩置県後の太政官下の三院制(正院・左院・右院)で、正院を太政大臣・左右大臣と共に構成した役職。

薩長を中心とした実力者は、多くがこの参議に任命されており、これが最も核心的要職と思われる。

各省の卿は、その下に置かれ、行政長官としての役割で参議と兼任する者が多かった。

他の政治的プレイヤーとして、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視らの「大臣」、天皇・皇族・側近らの「宮中」が登場。

これら「内閣」、「大臣」、「宮中」の絡み合いで、明治中期の政局は展開する。

自由民権派からの藩閥政府攻撃に対する防御だけでなく、宮中の政治介入を防止することも制度化の目的。

明治国家を特殊なものとして見るのではなく、第一次世界大戦前に世界の主流であった君主制の一形態として考察。

1878年、これまで明治政府を強力に指導してきた大久保利通が暗殺される。

危機への対応として、天皇と内閣の一体化による政府強化が図られる。

しかし一方で、元田永孚(ながざね)ら宮中の侍補グループによる天皇親政運動が惹起、元田・佐佐木高行・吉井友実・土方久元ら天皇側近らは「有司専制」とは一線を画そうとする。

1879年教育令制定過程で天皇・侍補の批判が加えられ、征韓論政変で下野していた副島種臣が宮内省入りする。

この動きに伊藤・岩倉らは反発し、侍補は廃止されるが、しかし天皇との人格的関係は続き宮中派自体は存続。

同79年末、伊藤は参議と省卿分離を提案、参議中心体制の確立を目指す。

「大臣」では、三条は性格的弱さと定見の乏しさがあり、岩倉は自らの権限に固執。

参議内でも積極財政・殖産興業政策の大隈重信と緊縮財政の井上馨との対立があったが、結局1880年分離実現。

伊藤、大隈、西郷従道、寺島宗則、川村純義、山田顕義が参議専任。

黒田清隆(開拓長官)、井上馨(外務)、山県有朋(参謀長官)、大木喬任(元老院議長)らは例外的兼任とされ、新たに省卿として大山巌(陸軍)、榎本武揚(海軍)、松方正義(内務)が就任。

さらに伊藤は、参議の「内閣」会議の開催・進行の制度化を進める。

これを見た岩倉と同年左大臣に就任した有栖川宮熾仁親王ら「大臣」は宮中派と接近。

大隈が大規模外債を提案したことにより参議「内閣」内の対立が生じると、岩倉は省卿まで下問し議論を拡散、結局最終決定は宮中に持ち込まれ、外債中止。

外債慎重派だった伊藤と大隈との協力不調のため、岩倉が勝利、「大臣」の相対的優位確保と宮中派の勢力回復をもたらす。

次いで地租の部分的米納論という政策を岩倉が提起。

これには伊藤、井上、大隈が行財政の近代化に反するとして一致して反対、支持したのは薩派のみで、天皇・宮中も反対し、米納は不可とされる。

工場払下概則と農商務省設立をめぐって大隈、井上の対立は続き、黒田の離反もあって「内閣」の求心力は低下。

在野では国会期成同盟の請願があり、政府はこれに対抗して集会条例を定めたが、伊藤は自由民権運動の一方的弾圧ではなく誘導と漸進的改革を志向。

同時に元老院と華族制度改革によって宮中への参入を企図、これが華族を政治基盤とする岩倉の反発を買う。

結局、この時点での新華族創設は制限され、士族からの上昇は大久保利通、木戸孝允、広沢真臣(長州出身・1871年暗殺)の三家のみでしかも当人の死後ということになる。

明治14(1881)年初、熱海で伊藤・井上・大隈・黒田の四者会談、本来は国会尚早論で徹底強硬派の黒田を説得する場のはずが、財政論においてまたも大隈と井上の対立が顕在化(同年設立の農商務省は緊縮財政の象徴とされている。ということは1870年設立の工部省の方は殖産興業的積極財政の表れか?)。

大隈は藩閥的背景が無く、政治的孤立化を避けるため薩派から長州閥に乗り換え、表面上緊縮政策に同意しただけであり、加えて早期国会開設によって自身の政治的飛躍を遂げたいという思惑も持っていた。

ただ伊藤との決定的対立を恐れ早期国会論は表に出さず、意見書を有栖川宮に密奏、この内容を知った岩倉は驚愕し、大隈・伊藤の共謀かと恐れたが、それは事実ではなかった。

岩倉は井上毅(太政官大書記官、法制官僚)へ反駁を命じる。

井上毅は政党内閣制を猛烈に批判、それがもたらす小党分立と破滅的帰結を説き、福沢諭吉・交詢社系の英国的立憲制論者を論難、ロエスレルと協力しプロイセン・モデルを提示、岩倉も純プロイセン型の憲法早期制定論を持つ。

これに対し、伊藤は自身の漸進論が御破算になったので、大隈、岩倉(および井上毅)双方の動きに憤激。

一時伊藤・大隈間に和解の動きがあったが、岩倉が病気で調停者の役割を果たせず。

権利を極端に限定した国会を早期に開設すべきとの井上毅に対して伊藤は強い批判を持ち、この両者が井上馨と薩派の支持を争う情勢となる。

ここで北海道官有物払下げ事件発生。

肥前大隈派の払下げ反対運動。

伊藤は薩派と大隈派の二者択一を迫られるが、軍内の勢力を見れば前者の排除は不可能であり、大隈追放へ。

伊藤と井上毅との関係回復、太政官制改革と内閣制度確立では一致(ただし華族制度改革では対立)、払下げ中止と引き換えに宮中派も説得成功、国会開設論について伊藤の主導権回復。

伊藤はイギリス型、プロイセン型双方の直輸入的適用を否定、抽象的原則を一律に当てはめる議論を拒否、歴史的個別性を重視し、日本独自の立憲制を築き上げることを主張。

つまり、ここで明治国家がプロイセン・モデルに固まったという訳ではなく、「政府=プロイセン型、民間=イギリス型」という二分論的理解は適切ではないというのが著者の評価。

しかし、伊藤と山県の対立を利用して岩倉も巻き返しを図り、大臣・参議対等の内閣制度という伊藤案は否定され、岩倉の参議・省卿兼任体制復活が通る。

華族制度改革も停止、伝統的公家秩序保持を重視する岩倉と士族身分保護を意図する井上毅が共闘。

このように、明治十四年の政変で伊藤は成功したとは言えず、大隈追放という代償を払っても完全な主導権を持てず、最高指導者になったのでもない。

とは言え、財政面では松方デフレが定着し政争の焦点となることはなくなり、薩長参議の協力が進み、宮中派の介入余地もなく、黒田が実質的に政権から外れたこともあって、「内閣」の求心力は拡大した。

1882年、伊藤は訪欧憲法調査に出発、欧化主義との批判が自身に向けられ、留守中の政治変動への不安もあったが、あえて実行。

実際の伊藤は近視眼的欧化主義者などではなく、西欧の日本蔑視に対する正当な反発心も持ちつつ、抽象的理論・学説のみならず、行政運営の実態と慣習の吸収に努め、「立憲カリスマ」の威信を得ることに成功。

伊藤が学んだシュタインも、厳密な法律学的ローマ法的な新国法学ではない、歴史・政治学的な行政学を唱える非主流派だった。

留守中、壬午軍乱による朝鮮問題緊迫化。

1883年帰国。

岩倉が死去。

この時期、福沢諭吉は『帝室論』で皇室を政治の外に置くことを主張、井上毅のプロイセン主義を批判、福沢は幕末の天皇象徴の争奪戦再現を危惧、藩閥政府だけではなく、五箇条の御誓文を民権派が自らの武器として持ち出すことを戒め、政府・民権派双方が天皇を現実政治に巻き込もうとすることを批判した。

1884年制度取調局長官に伊藤就任、同じく宮内卿兼任、天皇・宮中の欧化反対に対処しつつ巧妙に勢力拡大。

立憲改進党の華族への浸透に危機感を持ち、安定した上院を形成するために華族改革断行を決意、伊藤は社会秩序を流動化する危険を一部冒しても、新華族創出によって政府支持拡大を追求。

84年華族令制定。

反対派へも配慮し、公侯伯子男の序列で新華族は最高でも伯爵位に留め、数も全509家中29家のみ、さらに宮中関係者を優遇し、受爵者の賢所参拝を行う(それと同時に欧風夜会を開催し、そこに天皇・皇后臨席)。

また、それまで見舞金にも事欠く状態だった皇室財産を株式を基にして充実させる。

明治天皇と伊藤との間には信頼感と共に、いまだ軋轢があった。

85年、ついに内閣制度確立、総理伊藤、外相井上馨、内相山県、蔵相松方、陸相大山、海相西郷、司法相山田、文相森有礼、農商務省谷干城、逓信相榎本武揚。

伊藤は内閣の連帯責任を主張、これを政党内閣への道を開くとして井上毅が反対したが、伊藤は退ける。

「内閣職権」制定、君主ではなく首相が能動者として政務に当たり、法律勅令は内閣で起草し首相の副署が必要と定められる。

これは首相の各大臣への統制権を定めた1810年のハルデンベルク官制がモデルとされ、同時代のプロイセンではなくすでに廃止されたものを参考にしており、あくまで外国のコピーではなく日本の現実に合った制度を作り上げるべきとの伊藤の姿勢がよく現われている。

1886年、「明治十九年の陸軍紛議」、大山と「四将軍派」の対立は前者の藩閥主流派が勝利するが、伊藤は四将軍派に近い天皇にも配慮、以後天皇の意向も尊重し信頼を得る。

「機務六条」制定、閣議への天皇臨御は首相奏請時のみとする。

皇室典範起草、皇位継承問題と皇室費への議会関与否定。

これらの措置は政治から宮中を自立させ、さらに天皇個人からも自立させるもので、「非民主的」というより皇室を政治から切り離すことを意図したもの。

皇室典範は憲法と同時に制定されたが、「臣民の敢て干渉する所に非ざるなり」として公布されなかったと教科書に書いてあるが、本書を読むと違ったイメージを持つようになる。

1887年、宮中儀式の洋装化。

帝国主義時代の苛酷さへの対応であり、これを現代から皮相と冷笑するだけでは済まないと著者は指摘。

井上馨の鹿鳴館外交と条約改正交渉(1882~87年)も同様。

だが当然、それへの反発も国民各層に生まれ、例えば徳富蘇峰は『国民之友』で平民的欧化主義を唱え、国粋保存主義も台頭。

増税と欧化への反発から流言飛語が流され、首相官邸での仮装舞踏会で強姦事件が発生したとか、当時幼くして亡くなった内親王は実は伊藤の子だとか、伊藤と皇太后が密通しているとか、もう滅茶苦茶。

そうしたことが堂々と反対派の新聞に載っていることに驚く。

こんな醜行を避けるために不敬罪が必要なんであって、今みたいに皇室という国の根幹を成す方々にどんな誹謗中傷も言いたい放題という方がおかしいんです。

なお、本書では伝統と洋化の調整、後宮の非政治化に努めた昭憲皇后への評価が高いのが印象的。

こうした中、元「四将軍派」や宮中・三条グループの倒閣運動発生(三条自身は消極的)。

十四年政変以来閑職にあり、欧米外遊から帰国した黒田も反政府的になり、井上馨の条約改正交渉には井上毅、小村寿太郎、ボアソナード、元田、谷、山田、松方ら多くが反対。

伊藤自身、外国人判事採用には懐疑的だったこともあり、条約改正交渉は中止。

しかし、天皇が伊藤を支持したことに力を得て、当面の内閣崩壊は回避。

内閣制度創設まもなく、運営慣行が定着せず、首相交代ルールが未確定であり、伊藤の首相辞任がいつか見通せず、黒田ら薩派など非長州系の不満が高まった。

1887年、大同団結運動と三大事件建白運動という民権派の攻勢に対し、保安条例公布と大隈を外相として入閣させることにより危機を乗り切る。

87~88年にかけて憲法制定。

伊藤は天皇ではなく首相が能動者として政略指揮することを企図し大臣輔弼の原則を強調、井上毅・ロエスレル案と対立。

(ロエスレル案では大臣は君主の顧問でしかない[ただし大臣副署は必要とされる]。)

天皇と内閣を分離し、法案提出と行政権における内閣の主体性をあくまで維持、その内閣の連帯責任を強調。

これに対し井上毅は純ドイツ型の政党内閣拒否方向。

(しかし井上も反政党だが反立憲ではなく、君主の恣意的個人支配を是認するのではなく、少数の藩閥政府に厳格な規律を課した上で存続させるという方針。)

1888年、枢密院設立。

内閣と議会の対立を調停する際、天皇を矢面に立たせないための機関。

当初は予算等紛議を直接裁定することを想定したが、権限縮小。

枢密顧問官には宮中派を多く任命、伊藤が首相を辞任し枢密院議長に就任、後任首相は黒田。

保守派への配慮から、皇室典範を憲法より上位に位置付け枢密院で先に審議、憲法案作成に当たり西欧法への絶えない参照があったことには触れず、欽定憲法であることを強調。

草案起草者である伊藤自身が恣意的に作成したものではないとして、憲法に必要な権威付けを行うためであったが、それにより明治憲法は「不磨の大典」として扱われ、首相の権限拡大など後世必要となった改正が困難になったが、これはやむを得ないか。

しかし枢密院での審議では、伊藤は君主権の制限では譲らず、内閣が天皇・(法律・予算については)議会双方に責任を持つ行政の中心とし、同時に議会の法案議決権と予算審議権を確保(ロエスレルらは「新規の収入」についてのみ)。

ここで注目した記述がある。

天皇が米国大統領のごとく法案拒否権を持つ(米国同様、議会で再度三分の二以上の賛成なら成立する)ことを提案した人物として文中に「森が・・・・・」「森が・・・・・」と出てくるんですが、「森」って森有礼しかいませんよね?

過度の欧化論者として国粋主義者に暗殺された人ですが、変なところで天皇中心主義的ですねえ。

私は純粋な民主主義自体が無条件で良いものとは全く思わないので、議会多数派の意思を絶対視しないことは何とも思わないが、選挙権拡大など個々の政治課題で議会と天皇が正面衝突するような制度は、日本と皇室にとって危険極まりない。

伊藤が猛反発したのも当然です。

この件を含め、能動的君主を想定するような意見のみは、やや強引な議事運営を行ってでも葬り去る。

諸列強および民権派へも配慮。

議会の法案提出権(議決権だけでなく)を認める。

上奏権は大臣弾劾を含めると天皇が政争に巻き込まれる恐れがあるので、それを除いて認める。

結果、中江兆民含む民権派にも受け入れられるものになった(中江の帝国憲法に対する反対は誇張されている)。

保守的観点から、天皇の立法権行使に関して、必要な国会の「承認」が「協賛」に変わったが、国会の議決が無ければ法律が成立しないという実質は変わらず。

大臣輔弼の原則のみ定めて、将来どのような内閣を形成するかは規定せず、政党内閣もありうる。

反欧化の風潮にも配慮し、国粋的文脈に憲法を位置付けたが、これは当時において憲法定着のためには批判すべきものではないのではと思える。

天皇は伊藤を深く信頼し、枢密院審議へ積極的に参加、「立憲君主」へと変化を遂げる。

伊藤は以下のように回想している。

当時院内には極端なる保守主義の暗流が存していたにも拘らず、陛下の御聖断は殆んど自由・進歩の思想に傾かせられた

山県と井上毅らは1889年「内閣官制」を制定、主任大臣副署主義を採用、首相権限は縮小され、後任の松方内閣では首相松方がリーダーシップに乏しく、元老による集団指導に政治の重点が移る。

第二次伊藤内閣で乗り切った日清戦争後には、内閣と軍部の緊張という、憲法制定時には想定し得なかった問題が発生。

伊藤は自由党と連携し、立憲政友会を設立、1907年には公式令で首相副署主義を復活させ、首相権限を強める。

明治天皇は同時代のヴィクトリア英女王よりも君主権限が制度化されていたが、議会対策や元老間対立においては貴重な調停的役割を果たし得た。

本書末尾で、尾崎行雄がかつて対立した伊藤を高く評価し、1931年牧野伸顕に政党政治への失望と藩閥政府への再評価を語っているのが印象的である。

大日本帝国憲法について、この後伊藤が意図した通りに、首相権限の拡大と(軍部大臣を含めた)閣僚任免権明確化という、必要な改正を行い得なかったのは痛恨の極みです。

それさえ可能だったならば、国民の権利関係の条項拡充など後でいくらでも出来たはず。

「天皇主権」という規定も、天皇個人ではなく、天皇が象徴する国家の歴史的伝統に最高の権威が宿ると解釈すれば、今現在生きている民衆の多数派の意思を絶対視するものと安易に解されてしまう「国民主権」より、よほど正当性があると私は考えます。

このようなことを考えると、伊藤は最も好ましいが、極めて細い道を選択してきたんだな、やはり近代日本の最優秀の政治家だというのが、本書を読んだ全体的感想です。

 

 

最後に補論で明治前半期の天皇と軍部という文章がある。

明治天皇は西郷隆盛への深い敬愛の念を持ち、西郷の下野と死去後に軍務への意欲が薄れる。

これに対して大山巌、西郷従道らが天皇と軍との結びつきを求めたのは、政府からの軍の独立性への欲求というより、天皇との一体性をもって軍を支えることが急務と見た悲観的観測からだとされている。

また明治十九年の陸軍紛議での四将軍派など陸軍非主流派への天皇の好意は、人脈的に四将軍派が宮中派と近かったこと、軍内の対抗勢力を存続させ自身の政治的裁量余地を拡大しておこうとする為政者の本能に加えて、西郷を敗死させた主流派へのわだかまりがあったからだと評されている。

紛議後、山県は諫奏を提出、軍への積極的コミットメントを天皇に求め、天皇もそれに応じ演習、式典への参加が多くなる。

その背景として、憲法発布時の大赦で西郷は名誉回復され正三位を与えられたこと、もはや陸軍主流派以外の政治的選択肢が無かったことで、天皇と藩閥政府全体との関係が改善したことがある。

またそれは山県の威信拡大を結果することにもなった。

 

 

 

非常に中身が濃く、重要な作品。

明治中期の十数年間のみにおける詳細な政治過程をたどるので、頭に入りやすい。

細かな史実を暗記する良いきっかけになる。

高校日本史を大体マスターしていれば、十分読めるレベル。

しかし漢文書き下し調の引用文が面倒で、かなり読むスピードが落ちる。

じっくり見れば意味は取れるし、それでわからなければ、とばせばよい。

少々骨が折れるが、挑戦する価値は十分ある良書。

2015年9月21日

北岡伸一 『後藤新平  外交とヴィジョン』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 07:32

著者の作品では『清沢洌』『新世紀の世界と日本』を紹介済み。

本書は1988年刊。

後藤新平は首相にならなかった戦前の政治家の中では知名度がかなり高く、東日本大震災の後では、関東大震災後の復興計画主導者としても再び注目された。

本書は外交家としての面に重点を置いた伝記。

明治初期の数年を除いて外交官出身以外の外相は井上馨と大隈重信のみ。

事実上後藤が最初の非外交官出身外相。

以後も田中義一(首相兼任)、宇垣一成、野村吉三郎、豊田貞次郎のみ。

経済・文化を含む国際交流という広義の外交での貢献大。

その外交理念は、親米英主義・アジア主義・単一国家発展主義のいずれとも異なる、日中露提携論だった。

1857年岩手水沢生まれ。

同郷に高野長英、斎藤実。

高野とは遠縁にあたり、甥に自民党副総裁になった椎名悦三郎がいる。

医学校を卒業、愛知県病院長を経て内務局衛生局に入り、ドイツ留学。

有機体としての国家、歴史慣習に沿った国際関係という発想を得て、帰国後衛生局長就任。

理論の単純適用を戒め、実地に沿った応用を心掛ける。

ここで相馬事件という旧大名家の相続争いに巻き込まれ、精神異常判断にからむスキャンダル訴訟で半年間入獄するという目に合うが、結局無罪となる。

日清戦争後の復員検疫事業で児玉源太郎に起用され、再度衛生局長に。

社会政策・救貧事業に取り組むが必ずしも成功せず。

課題が明白でバックに実力者の支持がある時には成功するが、自身の政治基盤は貧弱という傾向あり。

1898年台湾総督府民政長官に就任、実質ナンバー2の役職だが、児玉総督が兼任のため事実上総督府の長となる。

旧慣尊重、ゲリラ招降策、阿片漸禁、土地調査事業、交通・衛生制度整備を遂行。

新渡戸稲造を殖産局長に起用、製糖業を育成。

多くの施策が成功を収め、日本の植民地で収益が黒字だったのは台湾だけだったとも言われる。

児玉が総督武官制を改め、その地位を後藤に譲ろうとしたが、後藤は固辞。

治安対策上の必要や、政党の容喙を避け、中央政府を有効に動かし、軍を抑えるためにあえて武官総督にこだわったものとみられる。

後藤がこの時期、桂太郎や寺内正毅に接近したのも、当時の指導的軍人が陸軍だけの狭い利益や観点に固執していなかったからである。

1900年の厦門(アモイ)事件は、政府の方針にブレと曖昧さがあったゆえに起ったことであり、児玉・後藤の独断専行による軍事的冒険ではないとの評価は、小林道彦『児玉源太郎』と同じ。

後藤は対外膨張論者だが、経済力を背景に持たない武断的進出は否定している。

日本の台湾領有とほぼ同時期にフィリピンを占領し、門戸開放宣言で日本の対中進出を牽制したアメリカへの対抗を、後藤は主張したが、それは米国を不倶戴天の敵と見なすのではなく、同一原理の上にある競争者としての対応であり、そのための日中露の提携も、米国との対立を相互利益の共有に変えてゆくとの見通しがあってこその手段と考えていた。

帝国主義全盛時代においても国際政治をゼロサム的ゲームとして見ずに、国益の妥協点を探る努力を惜しまない後藤の姿勢は珍しい美質と思われると、著者は評している。

日露戦争では早期講和を支持、戦後1906年南満州鉄道株式会社初代総裁に。

日露戦後、朝鮮よりの第三国勢力の排除が達成されたが、それゆえに戦略自明性が消失、元老の調整力の低下と相まって(桂太郎と西園寺公望は「作られた元老」であって、明治国家を作った元勲たちとは違う)、国家機構の官僚化と国家目標の合意形成が困難になる。

日露再戦への恐れと共に、日清・日米・日英関係も徐々に悪化するが、その中で軍部の反対を押さえ込み満州軍政を断固として廃止させた伊藤博文の見事なリーダーシップが光る。

ここで満鉄について概観。

1897年シベリア鉄道より清国領を通ってウラジオストックに至る東清鉄道会社設立。

1898年旅順・大連が租借され、ハルピンより両地に至る南部支線が出来るが、むしろこちらが本線のような形勢になる。

ポーツマス条約で日本が得たのは、この東清鉄道南部支線の4分の3、長春から旅順まで。

朝鮮の安東から奉天までも清から獲得。

満鉄は単なる鉄道会社ではなく、東インド会社のような植民地経営組織。

児玉の死後、第一次西園寺内閣の下での総裁就任。

陸軍の関東都督府、外務省領事館、満鉄の三頭政治の中で主導権確保に努力。

これまでの中心的海港である営口よりも大連を中心とした発展を企図。

この時期の後藤が抱いていたのが「文装的武備」との考え。

租借地・植民地経営において、軍備増強と軍の発言権拡大ではなく、鉄道中心の経済発展が軍事的効果の面でも有効であって、現地住民の支持も得られ、清国の反発も抑えられるとする主張。

広義の安全保障の意味はあるが、狭い軍事的色彩は薄い。

利益の共有による対立の解消という視点は後藤において一貫している。

日中露と米国を念頭にした、「新旧大陸対峙論」という構想もその流れ。

1907年英露協商および日露・日仏協約により、東アジアで日英仏露が結びつき、清米の主張を退け、独墺と対立する情勢が生まれる。

満鉄併行線問題では米清連携排除だけでなく、満鉄株式を清国にも保有させる、満鉄の貨車・客車を米国から購入するなど、一方的圧迫ではなく利益誘導に重点を置く。

1908年高平・ルート協定(太平洋現状維持、中国領土保全と機会均等、ただ満州での日本の特殊権益は暗に承認)によって、日米対立は一段落する。

この手の日米協定では、他に1905年桂・タフト協定(韓国とフィリピンの支配を相互承認)、1917年石井・ランシング協定(中国本土の領土保全・機会均等という原則と日本の中国での特殊権益承認)があるが、高平・ルート協定は一番知名度が低いか。

満鉄経営と日本の対外公債支払の順調さを示し、日米関係を安定化させた。

後藤と原敬は対米関係重視で一致、しかし原はイデオロギーと世論が国際政治で大きな力を得つつあることも認識し、対米協調を第一に考慮したが、後藤は対中露連携の上で日米関係の調整を考えた。

1908年第二次桂内閣に逓信大臣として入閣、電気事業と電話普及を拡大。

西園寺前内閣で1906年出された鉄道国有法に基き、鉄道院が新設されるとその総裁も兼任。

セオドア・ルーズヴェルト政権は、高平・ルート協定に見られるように満州での対日強硬論を抑えたが、1909年タフト政権になると満鉄と東清鉄道を米国が貸与した資金で清国に買収させる満鉄中立化計画を主張するようになる。

これに対して日露はさらに接近、1910年第二次日露協約で対抗、この締結にも後藤は貢献。

なお韓国について、後藤は、外交権をすでに収めた以上、国王や官僚による悪政があったとしても内政には不干渉を貫く方針でよいと主張していた。

1911年第二次西園寺内閣が成立すると退任し在野へ。

同年辛亥革命。

後藤は辛亥革命に際して清朝支持を主張、これは利権や出兵目的ではなく、内紛回避と日清連携継続のため、以後の大陸の動乱でもある勢力を特に支持することはなかったという。

この時期の内政は桂園時代と呼ばれ、桂・寺内ら長州閥と政友会の二大勢力による対立と部分的連携が中心。

第二次西園寺内閣はより政党内閣色が濃い。

政友会の勢力伸張は、第二党の憲政本党(1910年以降は立憲国民党)が藩閥への非妥協的抵抗姿勢を崩さなかったため。

しかし徐々に、薩派と海軍が政友会に接近、それらと陸軍長州閥および国民党改革派が対立する情勢となる。

大陸への関与では前者が漸進的、後者が積極的。

この変化の背景には、政友会に融和的な桂・寺内に対して、陸軍中堅層と長老山県有朋の双方が不満を募らせていたことがある。

1912年桂が内大臣・侍従長に就任。

著者はこれを大きな失敗と見なす。

桂の個人的キャリアの上だけではなく、有力な政治家を当時の日本が失うことになったので。

直後の陸軍二個師団増設問題は、桂が黒幕ではない、桂は陸軍強硬派に同意せず、田中義一など中堅層はむしろ桂を批判していた、実は桂は軍拡延期と軍部大臣現役武官制廃止、植民地総督武官制廃止など大胆な改革を準備して世論にアピールし政党に対抗する意図だった、しかし新党結成準備が政友会を刺激、盟友西園寺とは妥協の見込みがあったが、西園寺も党下部よりの突き上げで身動きが取れず、議会外での大衆的反対運動も政友会がコントロール不能な程高まっており、結局大正政変に至った、と書かれている。

このような記述を読むと「第一次護憲運動の噛ませ犬」のイメージしかない第三次桂内閣のイメージが変わりますし、大衆運動がどんな政治勢力も制御できない程激化したと述べられていると、大正政変が「輝かしい民主主義の一里塚」ではなく非常に不吉なものに思えてくる。

新党、立憲同志会は、加藤高明・若槻礼次郎・浜口雄幸など錚々たる面々と国民党の過半(大石正巳や河野広中ら)と中央倶楽部(大浦兼武ら)を含んで結成。

人材第一主義で必ずしも政党内閣論者ではなかった後藤は、同志会を党利党略に囚われざるを得ない通常の政党ではなく、政治的国民教育機関を目指すべきであるとして、党内で孤立、脱党。

薩派・海軍・政友会が支持する第一次山本権兵衛内閣で、原敬は満鉄をも例外にしない官吏政党化を目指すが、後藤は党利党略への懸念からそれに反対。

シーメンス事件での倒閣の後、反政友会の思惑から井上馨主導で、立憲同志会・長州閥・陸軍が支持する大隈重信内閣成立(明治の隈板内閣があるから、これは第二次だ)。

後藤も同内閣をひとまず支持するが、同志会との軋轢は続く。

第一次大戦勃発にあたって、大隈内閣を誕生させた山県・井上・寺内らは、内閣の中国政策がいかなるものになるのか、大戦を国民支持獲得に利用していないかとの懸念を抱く。

元老らは日英仏露同盟緊密化と中国への特使派遣を要求するが、加藤高明外相は拒否。

1914年末総選挙で同志会が圧勝すると、大隈政権は、15年二十一カ条要求という最悪の愚行を為す。

元老と寺内・後藤はこれを強く批判、加藤外相更迭も検討されるが、政友会復活を恐れる元老は決断できず。

だが山県系官僚は反政府側にまわる。

1916年には袁世凱打倒が計画され、そのために清朝復興派と革命派の双方に援助を与える冒険主義的政策を大隈内閣は採用するが、これに対して著者が、二十一カ条要求よりも強い批判的筆致を取っているのが面白い。

山県系・寺内・後藤はいよいよ倒閣運動に乗り出す。

その中で、大隈後の加藤後継は拒否するが、同志会との協力は維持し政友会に対抗すべきとの意見が(山県も含め)あったが、中国政策の転換を最重要視する後藤は断固反対。

大隈辞任後、山県・大山巌・松方正義・西園寺の(この時点でもう四人しかしない)元老が協議して、結局寺内を総理に推薦。

後藤の意見通り、超然内閣として組閣、後藤自身は内相就任(戦前日本では内相は首相の幕僚で副首相格)、外相は親露仏派の本野一郎。

1916年立憲同志会は憲政会となる。

寺内内閣は、同志会結成に加わらなかった犬養毅の国民党を与党化し、政友会とも部分的に連携し、17年総選挙で憲政会を大敗させる。

外交調査会を設置、有力者を国務大臣待遇で参加させるが、加藤高明は除外。

満蒙・山東の特殊権益拡張を目指すと同時に、中国の領土保全と内政不干渉を尊重する政策に転換、日中協力を推進するが一方で黄禍論を招かないように列国協調も同時に追求。

前内閣とは逆に中国の対独参戦を推進、ただ段祺瑞内閣への西原借款は内政不干渉という後藤の主張に反する面があり、後藤も途中から反対にまわる。

米国とも石井・ランシング協定で中国での特殊権益を認めさせるという成果を挙げる。

この寺内内閣も教科書的には「米騒動を引き起こして倒れた、原敬政党内閣の露払いの非民主的超然内閣」というイメージしかないが、本書の記述を読むと、実際には大隈前内閣よりもはるかにまともな施策を取ってますよ。

日中・日米関係を修復することに成功したが、そこでロシア革命という驚天動地の出来事が起る。

失敗に終わった干渉戦争は、当初は1918年ブレスト・リトフスク講和以後、ロシアの穏健派を政権の座に就け、対独戦線を再構築する意図からなされた。

本野が病気で、後藤が外相に就任、寺内も病に罹っていたので、後藤が後継首相になる可能性もあった。

反ボリシェヴィキ勢力を過大評価して積極的出兵論を主張した後藤だが、原敬は対米関係も考慮して慎重。

結果としては、イデオロギー対立と内戦という時代を正確に見抜き、有効に対処したのは、後藤ではなく原だった。

寺内辞職、原内閣成立、後藤は欧米旅行に出かけ、米国台頭と欧州没落、ウィルソン主義敗北と厳しい国際対立、ヴェルサイユ体制の脆弱性を目撃。

帰国後、1920~23年4月まで(月まで書いたのは、要は関東大震災の前だと言うこと)東京市長を務める。

戦後のアジア・太平洋地域はワシントン体制下に置かれたが、その弱点として(1)列強の権益維持と中国ナショナリズム抑圧、(2)中国内部の不統一と内乱、(3)ソ連の不参加と反対傾向、がある。

しかし、後藤によれば、ワシントン体制は戦前の国際関係を否定する消極的なもので、積極的に列強協調で何をするかが明確でなく具体策がない、日中露連携を持論とする後藤からすれば米英と組み中ソを抑えるワシントン体制は倒錯したものに映った。

1919・20年のカラハン宣言を皮切りに、ソ連は中国ナショナリズムに訴えようとしており、日米英vs中ソの状況が固まれば、(たとえ米英の支持があった場合でも)日本にとって最も重要な満州の権益が危うい、ネップ採用後のソ連は(かつての帝政ロシアと同様)冷静な交渉を通じた連携可能な相手と後藤は見た。

1923年ソ連からヨッフェを招請、会談を行い、これが日ソ非公式協議の契機になり、25年日ソ国交樹立。

ワシントン体制と中ソの反帝国主義が正面衝突するような情勢を避け、既得の満州利権だけは承認するような、反帝国主義的でない緩やかな日中ソ結合を後藤は目指し、米英と共に中国に圧力をかけるというワシントン体制内の方法を採らず。

ここでもゼロサム的思考法をしない後藤の特質が現われている。

孫文が死の直前に日本で行った大アジア主義演説も、著者によれば日本のあらゆる権益を否定するものというより、ワシントン体制からの離脱を呼びかける現実的な意味合いがあったという。

23年8月加藤友三郎首相が死去、政友会は分裂気味で憲政会も弱体、山県閥のような強力な非政党勢力も無く、第二次山本権兵衛内閣成立、政友会・憲政会・革新倶楽部の三党から入閣予定、後藤内相、田中義一陸相、犬養毅逓信相、だが直後に関東大震災発生。

後藤は復興院総裁としても活動。

政友会勢力を打破するために普通選挙導入を支持するが、虎の門事件で内閣総辞職、同事件で懲戒免職となった元内務省警務部長の正力松太郎に資金を与え、正力は読売新聞経営に乗り出すことになる。

政党政治・多数政治批判と政治の倫理化を政党内閣時代にも説き続ける。

1925年北京関税会議が失敗、日米英主導のワシントン体制下での中国発展は困難との印象を深めた中国国民党は前年からの国共合作を継続し翌26年には北伐を開始、革命外交を展開し列強の諸権益の一方的回収に向かう。

ワシントン体制が中ソによって崩され、少なからぬ権益を破壊された米英は一時中国と不和になるが、後に関係を改善し逆に中国の歓心を買うような態度を見せ、一方満州で米英よりもはるかに重要な権益を持つ日本が抜き差しならぬ日中対立に追い込まれ孤立化するというその後の歴史の展開は、後藤が懸念した通りだと言えないこともない。

1927年訪ソした後藤は、スターリンの現実主義をある意味信頼し、一貫してイデオロギーを過大視せず、ソ連とコミンテルンの活動を区別していた、と書かれているのを見ると、少し甘いのでは?との疑念も持たないではない。

だが陸軍、特に関東軍のソ連への過剰警戒が満州事変やその後の華北分離政策に繋がり、それが結果として大日本帝国を破滅させたことを思えば、もし日ソ関係が現実主義的な相互了解によって安定していれば、無謀な対外膨張が試みられることもなかったかもしれない、日ソ関係の不安定が戦前の安保上の弱点であったことは事実なのだから、と本書では記されている(もちろん異常なイデオロギー国家であるソ連との正常で安定した外交関係はどこの国にとっても難しく、一方的に日本の責任では決してありえないにしても)。

それに繰り返し強調されるように、後藤の旧大陸協調論は米国との全面対立ではなく最終的には両者の利益の統合・共有を目指すものであり、

松岡洋右の三国同盟プラス日ソ中立条約を、後藤の新旧大陸対峙論の新版と見ることは、その意味で誤りである。

最後に著者は「防衛主義的積極主義」という言葉を取り上げ、日本本土、朝鮮半島、満州、華北、中国全土と、正当な防衛意識から出発したはずが、近接する領土への懸念から防衛線をどこまでも拡大してかえって自らへの脅威を増してしまう誤りを指摘している。

まして、特に20世紀以降、交通・運輸技術と兵器の発達によって、どの国にとっても「無条件生存可能性」は消滅したのに、実現不可能な「絶対不敗国防圏」を作ろうとして、中国ナショナリズム、ソ連軍事力、米経済力のすべてを敵に回した、実際にはその三者に一切脅かされない体制など現実にはあり得ない、過剰警戒とゼロサム的発想で国策を決定したために、とてつもなく悲惨な結果がもたらされた、それを考えれば、後藤の外交ヴィジョンにも現在学ぶところがあるとされている。

 

 

 

サブテキストのつもりで読んだが、背景説明が非常に有益。

異様に詳しいメモを取ったが、それだけの価値はある。

ご一読をお勧めしておきます。

2015年9月7日

齋藤健 『増補 転落の歴史に何を見るか』 (ちくま文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 06:49

2002年ちくま新書刊、2011年文庫化。

著者は経済産業省(旧通産省)官僚出身で、現自民党衆議院議員だという。

1905年奉天会戦から1939年ノモンハン事件までの34年間の転落を、統帥権の独立という(明治にもあった)制度の弊害とだけ説明するのではなく、他の要因を探るもの。

 

 

一章、ジェネラリスト的政治家の消滅。

専門的軍事教育のみで作られたスペシャリストが台頭。

陸軍大学校出身の軍令系統の軍人が陸軍省の軍政分野に進出し、それを牛耳る。

それを統御すべき政治家の中で格段に優秀だったのが原敬。

原が不幸にして暗殺されたのが1921年、その翌年には山県有朋が死去。

著者はここに大きな転換点を見る。

武士道精神が衰退し、ノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)という感覚が失われていった。

以後の社会では、見通しの甘い希望的観測の蔓延、硬直した主義への執着、大勢への抵抗力の弱さが目立つようになる。

危機において自然と有為な人材が出るというのは幻想であり、必要な準備が無ければずるずると破滅に向かうしかなくなる。

 

 

二章、組織論。

合理性より仲間意識の尊重、「間柄」重視の日本的集団主義。

しかも「個々人が摩擦回避の精神に浸っているうちに、やがて声が大きく精力的な『ボス』と呼ばれる人間が登場し、リンチなどの有形・無形の暴力的行為によって属人的な組織支配を確立する・・・・・その結果、合理性の追求とか本質的な議論の展開とか人権の尊重といったことが、二の次、三の次とされるようになる」。

異分子排除と独創性軽視、日常の自転、縦割り主義のセクショナリズム、お題目主義、甘い人事処分、適材適所の人材抜擢が行われず、中堅層の下剋上が跋扈、戦略研究の基礎となるはずの戦史の不正確さ。

 

 

三章、現在について。

政か官かの二元論を否定、それ以前にエリートの存在の重要性を強調。

まあ平凡だが、理解できる考えではある。

しかし一箇所、新自由主義的構造改革を支持するような文章があり、そこには心底ゲンナリした。

次いで情報マネジメントと原敬についての小論、福田和也との対談、秦郁彦と寺島実郎との鼎談があって終わり。

 

 

全く期待していなかったが、そこそこ面白い。

あっという間に読める。

2015年9月1日

工藤美知尋 『海軍良識派の研究  日本海軍のリーダーたち』 (光人社NF文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:14

このレーベルを記事にするのは初めてかな。

以前光人社NF文庫の戦記物を読むだけで数年かかると書きましたが、数十年とした方がいいかもしれませんね。

明治初期、1872年に兵部省が陸・海軍省に分離、78年参謀本部、93年海軍軍令部設立。

帝国海軍では、陸軍とは異なり軍令に対して軍政が統制を明確に及ぼし、軍令部に対する海軍省の優位が確立していた。

本書での海軍良識派とは、海軍省派、条約派、国際協調派である。

勝海舟、西郷従道を創設者として、以後帝国海軍を担った山本権兵衛、斎藤実、八代六郎、加藤友三郎、岡田啓介らの経歴を紹介。

昭和期に入ると、軍縮条約をめぐり艦隊派と条約派が対立、加藤寛治・末次信正ら艦隊派の横槍に対して、財部彪海相は指導力に欠け、33年大角(岑生海相)人事で山梨勝之進・堀悌吉・左近司政三ら条約派が予備役編入。

32年に艦隊派は伏見宮博恭王を担いで軍令部部長とし、翌33年軍令部の長を「総長」とし、権限を拡大、海相に対する独立性を強める。

この際、これに反対した井上成美軍務局第一課長に、南雲忠一が怒鳴り込んできたというエピソードが記されている。

「ミッドウェーの敗将」というマイナスイメージが染み込んでいるのは気の毒だが、南雲へのそうした同情もやや失せてしまう。

以後の海相にも、吉田善吾・及川古志郎・嶋田繁太郎ら識見を欠く人物が多く、石川信吾ら中堅層の「第一委員会」という親独強硬派の跳梁を許し、戦争への道を止められず。

この時期の良識派と言える米内光政・山本五十六・井上成美らは三国同盟に反対したが、一方で米内の第二次上海事変拡大とトラウトマン工作打ち切り支持、山本の過去の艦隊派的言動について本書で触れられていないのは不満である。

井上成美は日米開戦直前に新軍備計画論を打ち出し、海軍の航空化を提案、それも航空母艦ではなく陸上基地の航空隊整備に海軍も重点を置くべきとの大胆な主張で、さらに艦隊決戦よりも上陸・防御戦を重視、海上交通路確保と潜水艦戦に重点を置いた軍備を構想した。

終戦時には米内海相を支え、1975年没。

あと、終戦実現の為に開戦以来の嶋田繁太郎海相更迭に努力し、東条首相暗殺も計画した高木惣吉に触れている。

ちょっとごちゃごちゃしていて読みにくい。

一般の通史であまり触れられない海軍の役職名をチェックしながら読んでいけば、それなりには有益か。

サブテキストとして読む分にはいいのかも。

2015年8月12日

池田清 『海軍と日本』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 08:20

1981年刊。

著者はJ・ジョル『ヨーロッパ百年史』の訳者。

1925年生まれで、重巡洋艦「摩耶」および戦艦「武蔵」の元乗組員。

第一部海軍と戦争。

言い尽くされたことだが、「大艦巨砲主義」への固執と航空主兵論への転換の遅れ、艦隊決戦を想定した「海戦要務令」の聖典視、国力の相対的劣勢から採用された個艦優秀主義・少数精鋭主義への過度の傾斜などを指摘。

「物量作戦に敗れた」というのは一面的であって、人的ミスの要因も大。

大いに喧伝された帝国海軍の砲術技量も実際には低調。

さらに旧軍においてあれだけ突撃精神が強調されたにも関わらず、実際の戦場では攻撃の不徹底と戦果拡大の失敗という現象が、第一次ソロモン海戦、レイテ沖海戦で見られた(しかし珊瑚海海戦での井上成美司令をその例として挙げるのは、空母艦載機の残存機数からすると当っていない気がする)。

大局的戦争指導も不統一であり、戦争終結への見通し無し、開戦時の英米可分論は無理であり、フィリピンを攻撃せずマレーと蘭印にのみ攻め込んでも無駄だったろうとされている。

第二部海軍と政治。

ワシントン会議で加藤友三郎が見事なリーダーシップを発揮したが、加藤寛治はそれに反対。

ロンドン軍縮会議では加藤寛治が軍令部長となり、末次信正次長と共に条約に反対。

それに対峙したのが海相財部彪(たけし)、次官山梨勝之進、軍務局長堀悌吉、軍事参議官岡田啓介だが、海相の財部は決断力を欠き、加藤・末次らは海軍長老の東郷平八郎元帥と伏見宮博恭王を担ぎ出し、条約反対派(「艦隊派」)への支持を煽り立てる。

1933年大角岑生(みねお)海相の下、大角人事で条約派の多くが予備役に編入、陸軍の下剋上状態と共に軍の国政専断の原因となる。

対外的には中国認識の貧弱さから二度の上海事変を引き起こし、陸軍を掣肘するどころか共に日中関係を袋小路に追い込む役割を果たしてしまった。

特に第二次上海事変は盧溝橋事件を日中全面戦争に拡大するきっかけになったものであり、その際良識派のはずの海相米内光政の責任は大きい。

石川信吾、神重徳ら親独的中堅層が推進した海軍の南進政策の致命的悪影響も指摘。

39年2月海南島占領、40年9月北部仏印進駐、同月三国同盟、41年7月南部仏印進駐。

「山海関[満州と中国本土との境界]を越えたゆえに支那事変となった。鎮南関(中国・仏印国境の町)を超えたがゆえに大東亜戦争がおきた」との言葉を紹介し、日米戦争は中国政策のみではなく、欧州での第二次大戦勃発後に日本が行った武力南進と東南アジアをめぐる帝国主義国同士の対立で起ったとしている。

第三部海軍の体質。

「根なし草の国際主義」との指摘。

陸軍のような露骨な政治介入はないものの、その代償としての政治力の欠如も。

「デモクラティックな陸軍」と「リベラルな海軍」という対比。

(旧陸軍のどこがデモクラティックかとおっしゃる向きがあるかもしれませんが、昭和陸軍青年将校らの下剋上と統制拒否こそ、まさに「民主的」現象です。)

海軍は志願兵の多さとエリート集団としての自意識から陸軍のような暴走には至らず、合理性を重視していたが、学校秀才タイプのみが集まり、臨機応変の才に乏しく、陸軍とは逆の極端に陥ってしまった。

昭和期の海軍トップであった岡田啓介は惜しくも加藤友三郎の力量には及ばず、国運を転回させる程の存在感を示せなかった。

その少し前、大正期に山本権兵衛、斎藤実は海相八代六郎の決断によりシーメンス事件で現役を退く。

東郷元帥の反対を押し切ってこの措置を断行した八代の見識を評価して著者は本書を締め括っている。

暇潰しのつもりで読んだが、それほど悪くはなかった。

200ページ余りですぐ読めるのも良い。

2015年7月10日

坂野潤治 『昭和史の決定的瞬間』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 16:04

単刀直入にいきましょう。

本書の表題である「昭和史の決定的瞬間」とは何か?

著者によれば、それは1937(昭和12)年1月宇垣一成内閣の流産である。

昭和一二年一月の宇垣内閣の流産が、日本の対外政策に与えた影響・・・・それは日本の将来を「平和」から「戦争」に転換する上で、決定的な意味を持つものであった。

・・・・昭和一二年一月の宇垣内閣の流産が、「戦争」と「平和」、「ファシズム」と「立憲制」の対立において、事態を決定的に「戦争」と「ファシズム」の方向に進めた・・・・

まずは、その前提となる政治情勢をさかのぼって検討。

昭和戦前期における二つの大きな危機と転換点は1931・32(昭和6・7)年(満州事変および五・一五事件)と1936・37(昭和11・12)年(二・二六事件および日中戦争)。

前者の危機は「戦争」に始まって「テロ」に終わり、後者は「テロ」に始まり「戦争」に終わっている。

社会情勢としては前者の時期は大恐慌による深刻な不安が社会を覆っていた一方、後者では不況からの回復に一応成功してはいたが、その結末が対外全面戦争だった点では後者の危機の方が、日本の運命にとって決定的。

しかしこのことは、政党勢力が1931・32年には強く、1936・37年には弱かったことを意味しない。

満州事変前後の政党勢力が対外膨張と国政介入を企図する軍部に対してじりじりと後退を続けたのに対し、日中戦争直前までの政党勢力は公然と軍部に反対し、そのための内閣の樹立を目指しながら敗北したのである。

「平和と民主主義」の守りに徹して敗北した最初の危機と、その復活をめざして攻勢に転じた上で敗北した二度目の危機とを比較した場合、著者の関心は後者の昭和一一・一二年の危機の方に向かってしまうのである。

まず著者は、五・一五事件後成立した二代の挙国一致内閣、斎藤実内閣および岡田啓介内閣の性格の違いを指摘する。

この内、真の挙国一致内閣は前者の斎藤内閣のみである。

1934年7月岡田内閣が成立した頃から、青年将校叛乱、経済恐慌、対中・対米英関係の緊張という三つの危機が一応収束に向かったことにより、危機を理由に斎藤挙国一致内閣に結集していた諸勢力が自己主張を抑えられなくなってきた。

1936年2月に予定されていた総選挙に自党に近い内閣で臨みたい政友会は野党的立場を採り、民政党は事実上岡田内閣の単独与党となり、この対立に陸軍内部の「皇道派」と「統制派」の対立が連動、さらに合法無産政党の進出が絡む展開となる。

1935年天皇機関説問題で政友会と陸軍皇道派が岡田内閣とそのブレーン美濃部達吉を攻撃。

衆議院第一党の政友会がこのような行為に出たことは政党政治にとって自殺行為であると言えるが、著者はここでこの時期の美濃部がすでに政党内閣制の主張を捨てていたという微妙な事実を指摘する。

美濃部は、議会多数党に基礎を置く政党内閣ではなく、政党・軍部・財界・労働者代表の円卓巨頭会議で重要問題を決定する一種の職能代表制を提唱していた。

戦前日本の憲法の下では、政府は国防と外交については議会に諮[はか]らなくていいことになっていた。美濃部の提唱に従って、さらに「財政および経済」が議会の手から奪われ直接に各界の指導者の協議に移されるならば、政党内閣制だけではなく、議会制度そのものが否認される。

したがって天皇機関説排撃と共にあくまで議会多数派に内閣の基礎を置くべきとする「憲政常道論」も掲げた政友会の態度にも一理はあるとする著者ではあるが、それでも同党(特に久原房之助派)と陸軍皇道派の連携については到底擁護できるものではない。

急進派青年将校を背後から支持し軍部の勢力拡大を目論む真崎甚三郎ら皇道派は、合法的に軍の発言権拡大を目指す統制派に対し、当時徐々に劣勢となっていた。

ここで問題なのが、軍備増強・近代化の一環として資本主義の修正を合法的に行うとする陸軍統制派の主張を、当時最大の無産政党社会大衆党(1932年結成)が「広義国防論」の名の下に支持したこと。

岡田内閣下、1935年5月に国策立案機関として「内閣調査局」が陸軍統制派と社会政策に熱心な「新官僚」主導で設立され、水面下で社会大衆党・日本労働総同盟とも連携。

さらに政友会以外の政党員・財界人・閣僚・学識経験者で構成される「内閣審議会」が設置されるが、当時議会過半数を占めていた政友会は総裁鈴木喜三郎の下、これを天皇と議会双方を軽視する「天皇機関説」が具現したものとして激しく反発。

同じ35年中には、7月真崎が教育総監を林銑十郎陸相によって罷免(後任渡辺錠太郎)、8月相沢事件で統制派中心人物の永田鉄山が斬殺されるなど、皇道派・統制派の対立はさらに激化。

・・・・昭和一〇年五月から八月にかけて、各種のエリート集団は両極に分かれていった。一方の極には陸軍皇道派、青年将校、平沼系右翼、そして過半数政党政友会が集った。他方の極には、陸軍統制派、新官僚、民政党、社会大衆党、それに「重臣」と呼ばれた天皇側近と総理大臣経験者が結集していた。このようなエリート諸集団の両極分解の中で、元老西園寺公望だけが、意図的にか、あるいは老齢のためか、その立場を鮮明にしていなかった。

ただし、政友会も一枚岩ではなく、同党離脱後も影響力を保ち続けた蔵相高橋是清は陸軍内穏健派の宇垣一成を擁立した政・民二大政党協力を構想する。

これは総選挙で雌雄を決することを求める民政党総裁町田忠治や陸軍内宇垣支持派の反対で実現しなかったが、同時に真崎と久原が目論んだ総選挙前の内閣交代も実現せず。

1936年2月20日の総選挙結果は、政友会大敗(242→171)、民政党勝利(127→205)、社会大衆党躍進(5→17)。

しかし数日後、二・二六事件勃発。

青年将校の叛乱によって国家機関は一時的に麻痺し、正常時には執行機関ではなく諮問機関に過ぎなかった軍事参議官会議や侍従武官長がにわかに発言権を持ち、前者に属する真崎、後者の本庄繁ら決起将校に近い人物が事態を把握するかと思われた。

しかし天皇は、ここからがんばった。二・二六事件について語られるとき必ず引用される、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当らん」という天皇の言葉(二月二七日)を、この深い孤立感とあわせて読むとき、「天皇制」と「ファシズム」を組み合わせた「天皇制ファシズム」という言葉を気安く使いたくはなくなる。皇道派や青年将校の「天皇親政」の企ては、「親政天皇」のがんばりでかろうじて抑止できたのである。

しかしこの事件の後遺症は絶大で、「天皇側近」もしくは「重臣」の影響力喪失を著者は極めて重視している。

二・二六事件後、陸軍皇道派は中央から排除されたものの、主導権を握った統制派は、広田弘毅内閣の下、露骨な政治介入を拡大し、軍事予算を大拡張する。

議会では民政党の斎藤隆夫が有名な「粛軍演説」を行い、陸軍に果敢な抵抗を試みるが、社会民衆党の麻生久は「広義国防論」に拠って、軍拡と共に社会政策の実現を要求する立場を採る。

これまでの日本近代史研究では、言うまでもなく斎藤隆夫が「善玉」で麻生久が「悪玉」である。斎藤は反戦で反軍であり、麻生は「好戦」とまではいわないまでも、「親軍」であったことは確かだからである。しかし、斎藤と麻生のどちらがより「民主的」であったかといえば、軍配は麻生に挙がる。

進歩的自由主義を奉ずる民政党が、労働者の生活向上の為の施策に極めて冷淡で無理解だったことは本書で度々批判的に記されている。

一方、広田内閣は36年8月「国策の基準」を策定、北進南進論を併記、陸海両軍の大拡張を是認、11月日独防共協定に調印。

さらに10月、陸軍による議会制度改革案が報道される。

これは(米国流に)行政権と立法権を完全に分離することによって政党内閣制を明示的に否定し、議会を立法・予算の審議に専念させること、議会に職能代表議員を進出させること、戸主や兵役義務経験者に選挙権を制限することなどを内容とする。

議会主義を完全に骨抜きにしかねない、この陸軍案に対し、民政党だけでなく、これまで親軍的傾向に流されがちであった政友会にも、猛然と反対機運が盛り上がる。

この二大政党の協調機運について、著者は少々驚くべき見解を述べる。

政友会と民政党の連携は「日本版人民戦線」であると。

対外的に無謀な軍事的膨張政策を回避し、国内的に議会制度擁護の一点で協力し、幅広い勢力が大同団結するという、この動きは「人民戦線」と名付けてもよいとする。

もちろん、フランスなど実際に人民戦線内閣が成立した国との違いはある。

・・・・フランスの場合には、第一に、事は共産党と社会党の間の問題であったのに対し、日本には共産党は実質上なく、社会大衆党と民政党(フランスで言えば社会党と急進党)の間での問題であった。

国民運動を伴わなかったという致命的な弱点を持つ「日本版人民戦線」は、もう一つの大きな弱点を持っていた。人民戦線の中核になるべき日本の社会党(社会民衆党)が反資本主義、反ブルジョア政党の立場を堅持したため、「日本版人民戦線」の実態は、政友会と民政党という二つのブルジョア政党の握手による反ファッショ戦線でしかなかったという点である。

本書はそれでも、昭和一二年一月の宇垣一成の組閣失敗までの数ヵ月、日本でも「人民戦線」論が盛んであったこと、宇垣一成内閣が政友会と民政党に支えられて、対ソ戦と対中戦の抑制に向かえば、「日本版人民戦線内閣」と言えないことはないという立場に立つ。保守党(政友会)と自由党(民政党)の「人民戦線」には胸は躍らないが、「平和」のためには役立つ内閣だったろうと考えるからである。時代状況によっては、「平和」が最優先である瞬間もあったのである。

上記引用文の通り、社会民衆党は二大政党との協力を既成勢力を擁護するものとして拒否し、むしろ社大党より左翼側にいた労農派マルクス主義者(日本共産党からは「異端」として排除されていた)や労農無産協議会(戦後は日本社会党左派となる加藤勘十、鈴木茂三郎ら)が軍ファシズム反対の立場から人民戦線論を唱えていた。

私は、昭和一一年の二・二六事件から一二年七月の蘆溝橋事件までの時期においては、「反資本主義」よりも「反戦」が重要であり、「反既成政党」よりも「反陸軍」の方が優先課題であったという立場に立っている。しかし当時の社会大衆党員や労働総同盟の身になってみれば、反ファッショのために資本家や政友会や民政党と手を握れと言われた時の彼らの反発も、よく理解できる。

しかし、二・二六以降の陸軍主流・新統制派が対ソ戦の為の本格的軍拡に乗り出すと、社大党が「広義国防論」の名の下に期待した軍拡と社会生活改善の両立が困難となってくる。

この頃から流行りだした「狭義国防」という言葉は、すでに紹介したように、当初は社会大衆党の麻生久が衆議院における同党の代表質問で、陸軍の軍拡至上主義を批判して使った言葉である。しかし、陸軍が本気で対ソ戦準備の大軍拡を始め出したとき、陸軍や財界にとって、同じ言葉が肯定語として使われ出す。対ソ戦準備のための財源と、飛行機や戦車の製造に必要な重工業の育成ができるならば、陸軍は国内の政治経済体制の変革までは要求しないという意味で、「狭義国防」という言葉が使われ始めたのである。

1937(昭和12)年1月、政友・民政二大政党は、有名な浜田国松の「割腹問答」で陸相寺内寿一を攻撃、広田内閣を退陣に追い込む。

宇垣一成に大命は降下し、政友・民政大連立の上に宇垣内閣と思われたが、よく知られているように石原莞爾ら陸軍中堅層による妨害があり、二・二六事件でのテロの後遺症から内大臣湯浅倉平ら宮中側近らも宇垣支持を貫き通すことができず、宇垣内閣は流産。

この失敗した宇垣政権構想の長期的意味を著者は以下のように考察。

・・・・五・一五事件から二・二六事件にかけての中心的な政権構想はは、「立憲独裁」と「憲政常道」であり、どちらも一長一短のものであった。

斎藤・岡田両挙国一致内閣は、衆議院の過半数政党と陸軍内の極右勢力という二方面からの抵抗を乗り切るために、形式的には議会軽視の統治方針を採った。議会はもちろん、場合によっては内閣すらも形骸化させかねない内閣審議会・調査会は、形式的には非民主的なことは否定できないものだった。

行政学者蠟山政道は、岡田内閣の統治方針を「立憲独裁」と名付けたが、自由主義者石橋湛山は手続き民主主義重視の立場からこれを批判し、あくまで議会多数党が内閣を組織する「憲政常道論」を主張した。

しかし他方で、形式ではなく政策内容に重点を置いてみれば、過半数政党政友会と陸軍皇道派の組み合わせは最悪であった。・・・・・両者の接近は、昭和六年末の犬養毅内閣成立の時から連綿とつづいてきたものであった。将来における陸軍皇道派の内閣をめざす陸軍青年将校やその理論的指導者北一輝らは、その第一段階として、昭和六年一二月の犬養政友会内閣の樹立を支持していたのである。

この問題は、本書が対象とする昭和の第二の危機とは直接には関係しない第一の危機の問題ではあるが、それがわからないと、石橋湛山の筋の通った批判にもかかわらず、「立憲独裁」にはそれなりの存在理由があったことが理解しにくい。・・・・・形式上は正当な「憲政の常道」が、内容的には「平和」も「民主主義」も損ねかねなかった・・・・・

陸軍青年将校は犬養内閣を一先ず容認したが、それに飽き足らない海軍将校らが五・一五事件で犬養首相を暗殺。

だが上記の通り、「戦前最後の政党内閣」犬養政友会政権に対する著者の評価は著しく低い。

これまでの通説的理解では、五・一五事件により政党内閣時代が終焉させられたとするものである。単純な事実においてはそうであるが、海軍青年将校が倒した政友会内閣は、その成立以来、後の陸軍皇道派と深い関係にあり、満州事変に対しても強い支持を表明していた内閣であった。

もちろん、どんな内閣であろうと現役の海軍将校などが武力でこれを倒すことは許されない暴挙であるが、軍人テロの非業さが、倒された内閣の正当性を証明するわけではない。五・一五事件で内閣の座を追われた立憲政友会は、これ以後昭和一一年二月の総選挙までの約四年間、衆議院の過半数を占め、それを根拠に「憲政の常道」による政党内閣の復活を要求しつづけるが、同じ期間一貫して陸軍内復古派の「皇道派」と近い政策を唱えていた・・・・・

著者の総括的結論は以下の通りである。

「立憲独裁」は政策内容においては「平和」重視のゆえに評価できても、議会と政党を軽視するために、政治体制としての非民主性は否めない。反対に、衆議院に過半数を占める政友会に政権をよこせという「憲政常道論」を、手続き民主主義の観点から否定することは不可能だが、陸軍皇道派に支持された政友会が政権に就けば、対外的にも対内的にも、何をするかわからない。昭和七年の五・一五事件から昭和一一年の二・二六事件までの四年弱の日本の政治は、政策内容と政権形式の矛盾に悩まされたのである。

そのような中で、形式と内容の双方において相対的に問題の少ない政権構想が、いつもその裏に宇垣一成の顔が見える「協力内閣」構想である・・・・・

「協力内閣」は「挙国一致内閣」とも「立憲独裁」とも違って、政友会と民政党という二大政党の連立内閣構想である。この二大政党が連立してしまえば、衆議院においては競争原理が働かなくから、政党内閣時代ならば政権選択の自由が失われるというマイナスが目立つ。しかし、軍部や官僚が突出してくる危機の時代においては、両党の連立内閣は少なくとも民意にもとづいた政権であり、手続き民主主義というハードルは最低限越えることができる。

1931年満州事変直後にも二大政党大連立の動きがあり、当時宇垣は朝鮮総督で、宇垣派直系であった陸相南次郎、参謀総長金谷範三が事変不拡大に努めていた。

昭和六年の場合には、九月の満州事変と、一〇月の未遂に終わった陸軍のクー・デタ計画とにより、英米協調と民政党内閣とが同時に危機に瀕していた。昭和一二年初頭の場合は、前年二月の総選挙で復活の勢いを示した民政党が、二・二六事件と日中戦争の危険に直面していた。内政、外交両面における陸軍支配の増大が「協力内閣論」台頭の一因であるが、どちらの場合にも二大政党の中で民政党が政友会に対して優勢であった。

・・・・・・

昭和七年以来、過半数政党政友会が唱えてきた「憲政常道論」は、昭和一一年二月二〇日の総選挙での同党の敗北により意味を失った。過半数を大きく割り、第二党に転落した政友会は、もはや「憲政の常道」によっては政権に就けなくなったからである。

他方、岡田内閣に典型的に表われた、天皇側近、陸軍統制派、新官僚、財界、民政党、社会大衆党などが議会を迂回して政治を行う「立憲独裁」も、二重の意味で継続が困難になってきた。一方では二月二〇日の総選挙で第一党の地位を回復した民政党や、この総選挙で大躍進した社会大衆党には、議会を迂回する必要がなくなった。他方では「立憲独裁」を支えてきた天皇側近は、二月二六日の青年将校のクー・デタの直接的な攻撃目標とされたことで、以後の政治的影響力をいちじるしく縮小させられた。

「憲政常道」も「立憲独裁」も機能しなくなった昭和一一年三月以降に残されたのは、二大政党の支持を得た「協力内閣」か、その反対の文字通りの「軍部独裁」であった。昭和一二年一月に宇垣一成に組閣の大命が下ったのは、その意味では当然の成行きであり、また宇垣の組閣を挫折させたのが石原莞爾ら陸軍の中堅であったことも、同じように当然の成行きであった。

昭和一二年二月に成立した文字通りの「軍部独裁」内閣たる林銑十郎内閣は、昭和七年の五・一五事件以後、政治秩序の安定化をめざして試みられてきた三つの政権構想(憲政常道、立憲独裁、協力内閣)が、対外危機の増大と陸軍の国内政治への発言力の増大とにより、すべて挫折したことを象徴するものであった。

 

1937年2月、「軍部独裁」の林銑十郎内閣が成立した。

では、この内閣が最低最悪の政権であったのかというと、著者の評価はそれともやや違う。

林銑十郎自体、満州事変時朝鮮軍司令官としての独断「越境」の悪名だけが有名で、それすら忘れ去られる存在であるが、皇道派の真崎甚三郎を罷免したのも陸相だった林である。

また、林内閣外相の佐藤尚武は外務省内で当時稀なほどの対中融和派だった。

さらに、蔵相結城豊太郎は広田内閣で膨張する一方だった軍事費にひとまずは歯止めをかけ、財界重鎮で日銀総裁に就任した池田成彬と共に経済安定に努力した。

教科書で「軍財抱合」と呼ばれる陸軍と財界の接近は、陸軍の「狭義国防論」への転換によってもたらされた。

長期的な対ソ戦準備の為の工業化を最優先とし、そのために財界等既成勢力と協力、陸軍による急進的な国政改革は手控え、対外的にも対ソ以外の多正面戦争と米英の介入を避けるために中国に対しては慎重策をもって臨むという路線。

政治評論家馬場恒吾はこれを国内政治正常化の一歩として歓迎し、いずれ軍部は財界だけでなく政党にも妥協的姿勢を取り政党政治復活の芽も出てくるであろうと予測した。

なお当時の雑誌に見られる論調では、陸軍の軍拡路線を日本の産業構造を転換し重工業化を進めるとして歓迎する経済アナリストが多数派だったが、それが戦争の危機を生み、すべてを失わせる可能性を見なかったのは、エコノミストの視野の狭さを物語っていると著者は述べているが、これはかなり示唆的である。

また極めて問題なのが、慎重な対中政策が陸軍全てで共有されていたわけではなく、参謀本部の石原莞爾らはそれを支持したものの、出先の東条英機ら関東軍実力者の間では1935年頃からの華北分離政策をさらに推し進めようとの動きがあり、これが結果的に破滅的な事態をもたらすことになる。

そして、馬場の予想と期待に反して林内閣は二大政党との協調には向かわず、各方面に人気の高い近衛文麿および政友会でも非主流派の前田米蔵、中島知久平、民政党非主流派の永井柳太郎らと連携し、国会解散に打って出る。

1937(昭和12)年4月総選挙の結果は、民政党減(204→179)、政友会微増(171→175)、政府与党の小三会派たる昭和会・国民同盟・東方会は減、社会大衆党再躍進(20→36)。

この選挙でも社大党は政・民二大既成政党批判の姿勢を崩さず、「人民戦線論」に与しなかったが、陸軍が財界と組んで国民生活改善より軍備拡張を最優先する「狭義国防論」に転換していた当時、社大党の「広義国防論」は(党指導部の意図を超え)かつてとは逆に反軍的色彩のスローガンとなっており、国民が支持を与えたのはこの反軍的姿勢だ、この選挙が戦前日本の民主化の最高潮と見なすべきだと著者は判断している。

だが、わずか数ヵ月後に盧溝橋事件が勃発、近衛内閣は事態を泥沼化させ、総力戦体制を整備、議会政治は戦後まで圧殺されることになる。

 

 

かなり詳しく本書の内容をなぞってみたが、やや不満に思うのが、政党だけでなく陸軍もまた世論の支持によって浮沈を繰り返す政治的プレイヤーに過ぎないという視点が無いのではないかと思えること。

表面的には国内の実力組織である軍部が直接的暴力行使やその威嚇で民主的な議会政治を破壊したように見えても、「政党政治の腐敗・堕落」に憤りその破壊を是とする過激な世論の支持が必ずあったはずである。

そもそも、満州事変を熱狂的に支持し、1932年総選挙で親軍的傾向の政友会を圧勝させ、五・一五事件の実行犯たちへの減刑嘆願を殺到させる国民心理が無ければ、本書が描く1935年における政治集団の両極化で、青年将校の潜在的テロと皇道派の圧力を避ける為に天皇側近と民政党が陸軍統制派に接近せざるを得なくなることも無かったはずである。

皇道派排除後にますます増長し国政に介入する統制派の支配を振り払う為に、政党勢力と宮中が成立を目指した、幻の宇垣内閣が「人民戦線内閣」だったと言っても、それを潰したものまた人民(の少なからぬ部分が支持した陸軍)だ。

最終的に議会政治の息の根を止めた日中戦争も、「暴支膺懲」という感情論に流されて大衆ヒステリーに陥った国民の多数派が支持したからこそ生じたものである。

著者は、東条英機を中心とする関東軍の対中強硬姿勢をあまり明らかに出来なかったので、日中戦争が「天災」のように降りかかって戦前の民主主義を押し潰したような感を与えたことを本書の短所と認めているが、それにも長年の惰性と化した対中蔑視・対中敵視の衆愚的世論による支持があったことは間違い無い。

その民衆世論こそが悪しき主導者であり、結局民主主義自体を根底から疑う姿勢を持たない限り歴史の真相は見えてこないと思えてならない。

とは言え、読み終えての評価はやはり「素晴らしい」の一言に尽きます。

坂野氏の本を読むたび思いますが、歴史解釈の鋭利さに本当に圧倒されます。

本書は2004年刊で、存在は知っていたのに、十年以上放置していた自分は怠惰にも程があると反省しました。

坂野氏が同じちくま新書で書かれている『日本近代史』も絶対に読むべき本だと確信しました。

このブログで記事にできるのはいつになるかわかりませんが、皆様は即座に取り組まれることを強くお勧めしておきます。

2015年6月19日

小林道彦 『児玉源太郎  そこから旅順港は見えるか』 (ミネルヴァ日本評伝選)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 03:28

司馬遼太郎『坂の上の雲』では秋山兄弟に次ぐヒーローとして描かれている陸軍軍人。

しかし、瀧井一博『伊藤博文』伊藤之雄『山県有朋』での記述を読むと、ややマイナスイメージも抱いてしまう。

1852年徳山藩士として生まれる。

長州は本藩が萩、支藩が徳山と長府。

翌年ペリー来航、尊攘論を唱えた父は閉門の上憤死、義兄も斬殺。

この経験から政治的イデオロギーから距離を置くようになる。

戊辰戦争に従軍、上官はのちに準元勲となった山田顕義、明治3年陸軍任官、桂太郎、寺内正毅と共に昇進。

明治7(1874)年佐賀の乱鎮圧に加わり、重傷を負う。

明治9(1876)年神風連の乱、熊本鎮台兵を建て直し鎮圧に成功。

翌年西南戦争、熊本城籠城戦。

この時の鎮台スタッフは錚々たるもので、司令谷干城をはじめ、樺山資紀、川上操六、奥保鞏(おくやすかた)、大迫尚敏、品川弥二郎、児玉らがいた。

戦後、千葉佐倉で連隊長を務めてから、明治18(1885)年参謀本部に出仕。

この際、軍制における「フランス派」の谷と「ドイツ派」の児玉の対立という図式を立てる論者が多いが、これは成り立たない、この時期の児玉は「遅れてきたフランス派」だったと書かれている。

だが、同年ドイツ軍人メッケルが陸軍大学校に招聘されると児玉もドイツ派へと傾斜、フランス派のエース寺内も転向、これにより山県有朋・桂・児玉・寺内という陸軍主流派が形成され、谷干城、曾我祐準(そがすけのり)、三浦梧楼、鳥尾小弥太ら非主流派(いわゆる「四将軍派」)と対立する情勢となる。

主流派は山県と大山巌を頂点に陸軍省を中心とした藩閥であるのに対し、四将軍派は参謀本部を強化し藩閥を解体することを目論む。

四将軍派は、自らの意向が陸軍人事に反映されないことに不満を持つ壮年の明治天皇と宮中勢力を抱き込み、参謀次長の川上操六を更迭し、代わりに曾我を就任させることに成功。

しかし、主流派は児玉と桂が連携し巻き返す。

四将軍派は、児玉は山田顕義配下の人材で、山田は自派加入を説得可能だと誤認していたが、児玉はすでに山県に傾斜しており、山田自身も四将軍派とは距離を置く。

四将軍派の「陸主海従」路線に反発する海軍も山県派に合流、初代首相となっていた伊藤博文も主流派を支持、結局四将軍ら非主流派は追放される(「明治十九年の陸軍紛議」)。

児玉が主流派に与したのは、陸軍の政治的中立性を重視したゆえであり、四将軍派が明治十四年の政変で官有物払い下げ中止と憲法制定を求める行動を起こしたことへの批判を持っていたためだと本書では評されている。

日本では、朝廷の存在そのものを原理的に否定する政治思想はそれまで事実上存在しなかった。幕末維新の政治的激動は、「玉」(天皇)の争奪戦を経て、最終的には「王政復古」を建前として収拾されていったし、神風連も自由党左派も、西郷隆盛も板垣退助も、いずれも天皇の存在を自明の前提として、その行動原理を決定していた。政治がいかに変化しようとも、天皇という「普遍的・超越的存在」に軍隊を直結させておけば、軍隊の政治化には一定の歯止めがかかるに相違ない。開国進取の国是を定めた今日、もはや尊王論の暴走はあり得ないし、天皇の存在が「革命原理」となることはない。児玉はそう考えていたのである。

しかしながら、1917年(大正6)のロシア革命をきっかけに、君主制の存在を真っ向から否定する一連の「危険思想」が、内外で大きな影響力を振るうようになると、児玉の構想した枠組み全体が大きく動揺し始める。そして、「赤化」の脅威=国体そのものの危機は、国体論の急進化を引き起こし、ひいては軍内に鬼胎を、児玉があれほどその存在を厭わしく思っていた「政治的運動」そのものを、産み落とすことになるのである。

天皇を親裁君主ではなく、調停的君主として捉えた上で、(現在では悪名高き)「統帥権の独立」をあえて唱えたのは以上のような観点から。

これは私にとっては十分得心できる考えだ。

井上寿一『山県有朋と明治国家』の記事でも書いたように、戦前日本の軍国主義の根本的原因は民衆世論の暴走であって、統帥権の独立はむしろそれを防ぐために構想されたものである。

それが、「多数派国民の意思の正しさ」という虚偽の前提から、むしろ諸悪の根源扱いされてしまっている。

結果として統帥権の独立が軍の暴走をもたらしたことは間違いない。

だがそれは軍が排外主義と現状革新志向の過激で愚劣な世論に影響されたからだという、最も重要な事実は完全に無視されてしまっている。

結果的に明治の指導者が作り上げた防御手段が想定通りに機能しなかったからといって、それに悲劇の責任を負わせて、煽動による多数派国民の衆愚への転落という真の原因には頬かむりである。

上の引用文で言えば、「危険思想」に易々と影響され社会不安を造成して国家を脅かし、その反動で逆の極端に走り極右的国家改造運動を熱狂的に支持した民衆世論に対する根底的批判も無しに、「戦前の明治憲法体制の非民主性」などあげつらうのは、途方も無い欺瞞に思える(戦後、馬鹿気た左翼的観念の蔓延にろくに抵抗を示さなかったくせに、ここ十年来また極端から極端に走り、排外的民族主義と右派的ポピュリズムに明け暮れる今現在の見下げ果てた大衆がそうするのはさらに醜悪です)。

1891年からの洋行留学でブーランジェ事件の顛末を知り、嫌悪感を持ち、軍の政治的中立性維持への確信をさらに強める。

この時期問題になったのが、大山巌陸相による帷幄上奏権の恣意的拡張。

1889年内閣官制を山県が制定、首相権限を弱めるが、児玉はそれに批判的。

何やら大山に悪いイメージを持ってしまうが、ただ『坂の上の雲』のように一つの本だけである人物に善玉イメージを持ったり、逆に走ったりすることが愚かなのかもしれません。

1892年第2次伊藤内閣で陸軍次官に就任、上奏権の縮小を目指すが、大山陸相が阻止。

日清戦争では山県・大山が出征したため、事実上児玉が陸相の任をこなす。

明治二十年代を通じて、山県を頂点とする陸軍長州閥が形成、桂・児玉・寺内・田中義一ら。

それが日清戦争後には郷党の違いを超えて政党勢力に対抗する「山県系官僚閥」に変化。

一方、西郷隆盛亡き後の薩派は、黒田清隆・大山・西郷従道・高島鞆之助(とものすけ)らによる集団的指導下にあり、制度的統制力に欠けた。

薩派陸軍の実務的トップが参謀本部の川上操六。

長州系が欧米協調を重視し自由党系と連携したのに対し、薩派はアジア主義的で改進党系と連携する傾向があった。

児玉は、阪谷芳郎(のち第1次西園寺内閣蔵相)との交流で、国家財政についての広い視野を得て、軍拡一本槍の軍人にはならず。

思想的にもドイツ一辺倒ではなく、英米流知識人とも交流。

日清戦争復員兵の検疫で後藤新平を起用。

ここで大山が下士官・文官の給与という純行政的事項を上奏で決定し、閣議に諮る。

さらに伊藤の警告を無視して平時編制もまた事後報告にしたため、伊藤は激怒した。

児玉は大山に同意したわけでなく、当時療養中のため諫止できなかった。

明治31(1898)年台湾総督就任、後藤新平を民政長官にし、新渡戸稲造を招聘。

立見尚文ら武断派を抑え、フィリピン独立運動への軽率な関与を理由に左遷。

同年日本国内の憲政党政権(隈板内閣)の崩壊を横目で見ながら、軍が政治闘争から超越していることの重要性を噛みしめる。

ここで私が最も著者の見解を知りたい厦門(アモイ)事件の記述が出てくる。

義和団事件で各国が清に出兵、第2次山県内閣の訓令があいまいだったこともあり、児玉は台湾から厦門に出兵するが、指示を受け撤退。

この時期の児玉は来るべき日露戦を想定せず(ロシア軍の満州占拠は義和団事件がきっかけなんだからそりゃそうでしょうが)、再度の混乱時に南清への出兵を企図していたという。

だが著者は、後の石原莞爾と違い独断専行ではなく、政府による正規命令に則った行動であり、

厦門事件は、関東軍の独走の「小さな雛型」などではないのである。

と強調している。

1900年第4次伊藤内閣に桂の後任として児玉が陸相として入閣。

伊藤と山県の板挟みになった上での決断。

児玉は政党内閣論者ではないが、伊藤が結成した政友会は挙国一致の観点より好意的。

翌1901年桂の組閣に奔走し、陸相留任。

八甲田山遭難事件を適切に処理。

山本権兵衛海相と協力し文民権限を拡大する軍制改革を構想。

だが帷幄上奏権の制限問題でまたも大山と衝突、陸相辞任。

この問題で優柔不断な態度を示した桂と一時距離ができるが、急速に関係を回復、寺内陸相とのトライアングルで陸軍を把握。

一方、政友会の実状を見て批判的になり、伊藤とはやや疎遠な関係になる。

日本外交の一大転機となった日英同盟締結だが、それを推進した桂・児玉・小村も当初は日露必戦とは想定せず。

児玉は内相兼文相として再入閣するが、田村怡与造参謀次長死去後の後任という降格人事を受け入れる(1903年)。

来るべき対露開戦に向け、陸軍の増強と海軍の攻撃時期を調整。

これについて、ドイツのシュリーフェン・プランに比してより外交に配慮された柔軟なものだったと著者は評価している。

開戦となるや、児玉は大本営の戦地派遣計画と人事権および旅順攻撃の第三軍を直接指揮する強力な外征軍司令部を置くことを大山と共に主張し、山県・桂・寺内の反対を受ける。

これは統帥権独立の主張ではなく、首相・陸相との十分な意思疎通の上で戦時に限り強大な権限の外征軍を置くべきとの考えで、平時は全く別で、児玉は大山に抗して、むしろ軍への統制強化を目指す伊藤に同意していたのは上述の通り。

結局、満州軍総司令部が設立され、第一軍から第四軍までの人事権を寺内陸相経由で実質的に行使することになり、留守は山県が参謀総長として預かる体制となる。

大きな犠牲を出した旅順攻防戦について、正面攻撃を主張したのは乃木希典、伊地知幸介(大山の姻戚)だけでなく大山・児玉も同様だった。

要塞攻撃についての楽観論は陸軍内すべてに共通していたことで、乃木指揮下の第三軍も肉弾白兵主義一本槍ではなく砲火の集中による攻略を企図したが、弾薬不足で果たせず、しかも海軍がバルチック艦隊の襲来時期を誤認しており、そのプレッシャーが一層無理な攻撃を繰り返す要因になってしまったと書かれている。

以上の通り、旅順要塞での苦戦をすべて乃木司令部の資質に求めることはできないと思われるが、乃木はほぼ不眠不休を続け、スタッフもそれにつれ疲労の度を深くしたと書かれているのをみると、個人としては称賛に値しても、やはり乃木は近代戦の指揮官としてはどうなのかと思わざるを得ない。

通説とは異なり、攻撃目標を二〇三高地に転換すべきと主張したのは児玉よりも、本国にいた山県や寺内の方が早かった。

旅順攻略の戦略目標は港内ロシア艦隊の無力化だったが、実はロシア軍艦の備砲の多くが取り外されて陸上用に転用されていたという。

結局、第三軍は本国の大本営に任せた方が良かったと評されている。

シベリア鉄道によってロシア軍が日々増強されるのを見て早期開戦論を唱えた児玉だったが、同時に日本の国力の限界を強く認識し、妥協的な早期講和論を主張する徹底したリアリストでもあった。

日比谷焼き打ち事件にあって、「多数愚民に臨むには相応の政策」がいるとの言葉を残している。

政府と国家上層部が現実を見つめ講和を決断したのに対し、多数の下層民衆が蜂起したこの日比谷事件は、昭和軍国主義の真因は何だったのか、四十年後大日本帝国を滅ぼしたのは誰だったのかを考える上で非常に示唆的だと思います。

日露戦後、児玉は、首相権限拡張によって軍への統制を強化しようとする伊藤の大宰相主義復活のパートナーとなる(1907年公式令制定)。

他に、参謀本部縮小、文民である(韓国)統監の軍隊指揮権制定など。

これらの改革は寺内も支持(寺内は初代朝鮮総督にもなる)。

本書の記述を読むと、大正時代超然内閣を組織した印象しかない寺内正毅という人物の別の好ましい一面が浮かび上がってきます。

ロシアとの再戦を必然視する山県の大軍拡路線にも児玉は反対。

立憲主義的軍人の代表として立ち表れた児玉は桂首相の後継首班にも擬せられた。

なお、しばしば問題となる満州軍政継続をめぐる児玉と伊藤との対立だが、これは満州経営への積極性と消極性の差。

伊藤は清の排外主義的民衆運動を強く危惧したのに対し、児玉は「土着的社会」への浸透ができれば清朝崩壊後も権益保全は可能とみた。

そして満鉄をイギリス東インド会社のような植民会社に見立てた上で、後藤新平を満鉄初代総裁に就任させる。

伊藤と児玉は満州問題では対立したが、明治憲法体制改革では両者は協力し、山県に対抗する立場だった。

いずれ伊藤・児玉が山県系官僚閥と正面衝突する事態も予想されたが、その前に児玉は1906年7月死去。

50代半ばとは、いかにも若い。

明治末年か大正期に首相になって、昭和期に元老になっていても全然おかしくない。

あまりにも残念。

1931年、即位まもない昭和天皇を元老として補佐して、満州事変の危機を巧みに収拾する79歳の児玉(と75歳の原敬)が見たかった。

そうであれば、我々は今も大日本帝国に暮らしていたでしょう。

私はその方が、少なくとも今のこの国よりはるかに良かったと考えます。

 

 

非常に良い。

様々な面での知識の追加、穴埋めが期待できる。

末尾のシリーズリストを見ると、既刊で伊藤之雄『明治天皇』、室山義正『松方正義』、小林道彦(本書と同著者)『桂太郎』、小林惟司『犬養毅』、川田稔『浜口雄幸』といくらでも読むべき本がありますね。

少しずつでもこなしていきたいもんです。

2015年4月5日

戸髙一成 『海戦からみた太平洋戦争』 (角川oneテーマ21)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 08:05

著者には『海戦からみた日清戦争』『海戦からみた日露戦争』もあり。

それぞれ黄海海戦・日本海海戦が中心。

太平洋戦争では膨大な戦いが積み重ねられたので、同様の叙述は不可能。

あえて言えば、決定的海戦は1942年のミッドウェー海戦ではなく、1944年マリアナ沖海戦およびレイテ沖海戦であり、それ以前は個々の戦闘経過記述よりも背景説明に重点を置いている。

1907年帝国国防方針によって米国を仮想敵国とし、侵攻してくる米艦隊に対し邀撃(ようげき)・漸減作戦を採るものとされていたが、山本五十六は開戦当初での徹底攻撃を主張。

山本は36年12月~39年8月まで海軍次官(以後は連合艦隊司令長官)。

37年2月~39年8月の米内光政海相、37年10月~39年10月井上成美(しげよし)海軍省軍務局長と共に日独伊三国同盟に反対を貫く。

40年以降は(1月~7月は米内内閣にもかかわらず)海軍も開戦に積極的となる。

真珠湾攻撃が不徹底だったとの指摘について。

山本以外の幕僚はやはり伝統的漸減作戦に固執しており、短期決戦に持ち込むため「敵士気を喪失させる」というところまで考えず。

山本の真意はあくまで避戦だったが、軍人としての功名心との葛藤。

空母を主要目標としないことは山本自身が決定。

敵士気喪失が狙いなので、あえて当時主戦力と考えられていた戦艦を目標とした。

しかし(大使館による通告遅れという想定外の事態があったものの)米世論を完全に読み違え、対日報復感情を激化させてしまった。

こうした山本ははたして「知米派」か?

「真珠湾で沈められた戦艦が浮揚修理されたので、攻撃は無意味」とするのは山本の真意からずれているが、山本の米国理解に問題あり。

開戦後、連合艦隊司令部に軍令部が振り回され、前者は夢想的な積極策を立案するが、しかしハワイ攻略や、ましてや米本土上陸など不可能。

その積極策が完全に挫折したミッドウェー海戦での第一航空艦隊の護衛戦力が戦艦2隻、重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦9。

いかにも少ない。

空母に随伴できる速力を持つ艦艇はすべて張り付けるくらいじゃないと・・・・・。

ミッドウェー敗北以後は(実際には43年制定の)「絶対国防圏」(いわゆる内南洋と西ニューギニア)で守勢戦略を採るべきで、ソロモン・ギルバート・マーシャル諸島は放棄すべきだった。

現実には42年後半から44年前半にかけて後者で激烈な消耗戦が行われ、日本海軍は戦力を劇的に低下させてしまう。

まず南ソロモンのガダルカナル島での攻防。

ここでの損害ももちろん大きかったが、43年2月撤退後もソロモン諸島とニューギニアで航空戦力を消耗。

ガダルカナル戦半年間で海軍機2076機喪失だが、その後1年間のソロモン諸島攻防戦で9697機喪失と記されている数字に驚く。

この後者の損害こそが致命的であり、44年前半から、戦力を大拡充し満を持して内南洋のカロリン・マリアナ・パラオ諸島に侵攻してきた米軍に対する大敗に繋がった。

結局、日米の今大戦は太平洋上に点在する洋上航空基地をめぐる攻防戦になったが、日本側は陸海軍の連携不備で、海軍は「敵艦隊撃滅」に固執しすぎ、陸軍の方がまだしも合理的と思われる面すらあった。

44年前半、せっかく整備した内南洋の基地航空隊も米機動部隊に各個撃破され、海上補給護衛の不備はただでさえ乏しい生産能力を一層低下させた。

射程が長く航跡が見えにくい酸素魚雷は、日本が開発した中でも技術的に隔絶して優れたものだったが、それがかえって突撃精神を奪った面もある。

なお、ある歴史雑誌で、「珊瑚海海戦」「ミッドウェー海戦」「第2次ソロモン海戦」「南太平洋海戦」「マリアナ沖海戦」という日米間の五つの空母決戦のうち、日本側が戦術的勝利を収めたとされる「珊瑚海海戦」と「南太平洋海戦」でも戦略目標達成には失敗しているのだから(前者は「ポートモレスビー攻略」、後者は「ガダルカナル島奪還」)、結局日本海軍は空母戦で米国に事実上全敗しているとの記事を読んで衝撃を受けたことがあったが、考えてみれば確かにそうとも言えるか。

惨敗した「ミッドウェー海戦」と「マリアナ沖海戦」では、それぞれ「ミッドウェー島攻略と米空母撃滅」および「サイパン島死守と日本本土の米長距離爆撃圏内化阻止」という戦略目標はもちろん失われているし、引き分けの「第2次ソロモン海戦」でも「ガダルカナル島奪還」に失敗している。

44年6月のマリアナ沖海戦で帝国海軍の空母部隊は事実上壊滅し、日本の敗北が決定的となる。

続くレイテ沖海戦では戦艦部隊も消滅、特攻作戦でわずか数機で護衛[小型]空母撃沈1隻撃沈の戦果を挙げるが、これは隙を突いた好条件に恵まれたからで以後は成り立たず。

最後、原爆を輸送した帰り、日本軍潜水艦に撃沈された米重巡洋艦インディアナポリスの例を引き、将兵の権利と義務、責任の所在についての話をしておしまい。

 

ざっと読んだが、悪くない。

そもそも一冊で太平洋海戦史を語るのは不可能。

これはまだいい方でしょう。

2015年2月6日

吉次公介 『日米同盟はいかに作られたか  「安保体制」の転換点 1951―1964』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 04:40

池田勇人内閣期(1960~64年)に重点を置いた日米同盟史。

まず著者は、「改憲・復古」志向で強硬な「反共」姿勢の岸信介首相が60年安保で退陣、その後継の池田は「寛容と忍耐」を唱えて「所得倍増計画」を掲げ、「吉田ドクトリン」と「経済中心主義」を戦後日本の基本路線として再定着させた、との一般的対比イメージは適切ではないと指摘。

1950年4月吉田茂内閣蔵相の池田が訪米、独立後の米軍駐留を認める意向を伝える。

6月朝鮮戦争勃発、8月警察予備隊発足。

当時の日米交渉の過程で、米国は基地の自由使用を主張しながら日本防衛義務を明確にせず、日本の再軍備加速を求める。

敗戦国の立場を考えれば独立時の吉田の言動も理解できるが、在日米軍の存在が「恩恵」で、日本はそれに「貢献」するという論理が日米安保体制に埋め込まれたことは問題だと、著者は指摘。

日米の力関係の格差、米側ダレスの巧みな交渉術、先の池田ミッションの悪影響もあり、講和と独立は促進したものの、日米安保の交渉では不利にはたらく。

51年サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約。

以後も、特に陸上兵力拡充を求める米国に対し、日本は抵抗。

52年保安隊発足(海上は警備隊)。

53年アイゼンハワー政権成立、国務長官ダレス就任。

同年池田・ロバートソン会談が行われ、米側が求めた30万人ではなく18万規模の再軍備が約束される。

これは通説では、米側の急速な再軍備要求をかわして経済立国主義を貫いた吉田路線の成功例とされてきたが、本書ではむしろ米国が当面の目標と考えた18万人規模を日本が呑まされたと評価されている。

だたし吉田も漸進的再軍備が真の独立達成のために必要であるとは認識。

54年自衛隊発足、吉田内閣退陣、鳩山一郎政権成立。

55年自由民主党結党、左右社会党再統一、「55年体制」成立。

重光葵外相はより対等な立場に向けた安保改定を米側に提議するが、ダレスは拒否。

「ニュールック戦略」「大量報復理論」を掲げるダレスは、米国の核戦力を補完するものとして、むしろ日本を含む同盟国の通常戦力増強を求め、国外の米地上軍撤退を志向。

56年石橋湛山内閣に続き、57年岸内閣、安保改定には成功するが、60年安保反対運動で退陣。

後任の池田内閣は、防衛・安保問題でのタカ派イメージを避けつつ中立主義的外交路線の主張を排し、総選挙に勝利。

基地反対運動の高まりに直面したマッカーサー2世(元帥の甥)駐日アメリカ大使は本国に妥協的対応を進言。

61年成立したケネディ政権は日米関係について「イコール・パートナーシップ」と「負担分担」を掲げ、エドウィン・ライシャワーを駐日大使に任命。

それに応えた池田自身にも「大国」意識があり、日米欧の自由世界の三本柱論を唱える。

米国一辺倒だった日本外交の地平を広げるため、西欧との関係を強化、欧州を歴訪しアデナウアー、ド・ゴール、マクミラン、ファンファーニ(伊)の各国首脳と会談。

国内では第二次防衛力整備計画を策定。

国際政治上の軍事力の決定的性格および自主防衛への志向は、「経済中心主義外交」の池田にも実は共有されていたが、米国の圧力と財政的制約、国内革新勢力の反発という三者の板挟みとなって、防衛力の漸進的増強路線に落ち着く。

62年の(第二次)中印国境紛争によって中国脅威論がアジアの自由主義陣営に広まるが、日本は中国の軍事力を過大評価せず、近接する東南アジアにおいて軍事的対応ではなく経済開発支援で対抗すべきと主張。

これはヴェトナムでの悲劇と米国の大失敗を考えれば、今見ても米国より正しい見解だ。

同年日中間のLT貿易開始。

アメリカはこの決定に反発するが、日本側としては国内の過度の中国ブームを冷ます必要もあった。

大局的に見れば、中国封じ込め政策を継続しても共産政権を打倒する見込みは無く、中国を国際社会に取り込んでその内外政策の穏健化を促すしかない。

71年以降の米国のそうした政策を当時の日本は先取りしていた。

池田は日米間の「核密約」を確認し、自国の軍備強化の他に対外援助を拡大、アジアにおいて(軍事的対応を優先しない)柔軟な反共外交を展開。

隣国韓国とも62年「金・大平メモ」を交わし、65年の国交正常化の道筋をつける。

ケネディ政権は東南アジア・南アジアにおいて地域大国のインドを最重視したが、日本は必ずしもそれに同意せず、ビルマ重視路線を取る。

62年クーデタ以後のビルマ軍事政権は中立と社会主義を掲げ米と疎遠になったが、共産主義とははっきり一線を画しており、日本はビルマと友好関係を維持、タイやラオスへも積極的に援助。

多くが独立から間もなく、中立志向の強い東南アジア諸国に対し、経済協力によって自由世界に引き付け、その過激化を柔軟な形で阻止することが当時の日本の外交政策だった。

ここで問題になったのがインドネシア。

スカルノ政権が内外政策を急進化させ、中国に接近、63年には反マレーシア外交を展開し、日本の仲介も功を奏せず。

しかし日本の行動も無意義ではなく、65年スカルノ失墜後のインドネシアの安定に寄与した。

また南ヴェトナムでは情勢が悪過ぎ、長期的にみて共産化は必至であったが、米国の要請で人道・民生援助は行った。

このように概観すると、アジアの冷戦には池田政権下の日本も明白に関与しており、ただその「戦い方」で日米の違いがあったに過ぎない。

結論として著者は、冷戦期における日本の貢献を列挙し、「空想的平和主義と国内革新勢力の圧力で日本は過去安全保障面でアメリカに全面的に依存していた」というような一方的な負い目を持つ必要は無い、と主張する。

昨今の日本が外交的にますます対米従属路線を深め、その軍備増強と法整備が、自主防衛力強化という真っ当な方向ではなく、米国の独善と利権のための戦争に協力する目的で行われ、そのことへの反対が「反日」「左翼」などという下賤なレッテル貼りとデマゴギーで沈黙させられているのを見る時、本書の主張はより一層貴重で有益なものになるでしょう。

 

面白い。

対象を思い切って池田政権時代に絞っているのが良い。

その分、かなり細かな史実が叙述されているが、それはそれで非常に興味深いものがある。

最後の外交論の部分は特に面白い。

堅実で役に立つ良書。

お勧めします。

2015年1月11日

鳥海靖 『逆賊と元勲の明治』 (講談社学術文庫)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:49

1970年代に書かれた文章をまとめて、1982年に単行本として刊行。

それを2011年に文庫化したもの。

 

第一章「『逆賊』たちの明治」。

明治31(1898)年の西郷隆盛銅像除幕式から筆を起こす。

西南戦争で挙兵した罪を許された結果だが、その西南戦争の死者は約1万3000人、戊辰戦争は1万人以下。

これに対して、アメリカ南北戦争の戦死者は60万人以上、パリ・コミューンでの死者は約3万人。

欧米に比べ、日本では政治的変動に伴う流血の少なさと反対者への寛容が目立つ。

(以下引用、一部表記上の変更あり。)

周知のように、明治の政治家たちは、しばしばフランスを、現代風の言葉を使えば「反面教師」としてとらえていた。それは必ずしも一般に信じられているように、フランスの共和政治の原理が天皇を中心とする日本の「国体」に相容れない、と考えたばかりではない。そうした政治原理の問題としてよりも、むしろ、フランスにおける極端な専制支配と、その反動としての革命による残忍な報復的流血のくりかえしが、絶えまない政治的不安定と人民の困苦を招いたとする、フランスの歴史的現実に対する厳しい評価にもとづくものであった。

欧米視察旅行から帰ってまもない明治6(1873)年11月、大久保利通は「立憲政体に関する意見書」を起草したが、その中で彼は、「夫レ民主ノ政[共和政治]ハ天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽(あま)ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者」として、原理的には、民主共和政治の大きなメリットを認めていたが、同時に、「然レドモ、其弊党ヲ樹テ類ヲ結ビ、漸次土崩頽廃ノ患モ亦測カル可カラズ」と、その弊害をも指摘し、その具体的事例として、「往時仏蘭西ノ民主政治、其兇暴残虐ハ君主擅制ヨリ甚ダシト」と述べ、「名実相背ムクニ及ンデハ亦此クノ如シ、是亦至良ノ政体ト謂フ可カラズ」と、日本が民主共和政治を採用することを否定するのである。

フランスを「反面教師」とみたのは、単に政府側の政治家ばかりではない。フランス思想に強い影響を受け、急進的な自由民権論者として活躍した「東洋のルソー」中江兆民ですら、決してフランスの政治を日本が学ぶべき理想のものとは考えなかった。彼はフランスよりもむしろイギリス流の「君民共治」の政治を、日本が学ぶべき範としているのである。また、自由党総理板垣退助も、明治15~16年フランスを巡遊してその「政治社会の遅れ」を痛感し、それまで観念的に頭に描いていた「自由民権の母国」というバラ色の期待を裏切られたせいでもあろうか、それ以後は、日本の議会政治・政党政治のモデルとすべきはイギリスであって、フランスではない、ということを再三強調する。

「余は英・仏二国の近世史を読む毎に、未だ嘗て深く感慨を催さずんばあらず。夫れ反動より反動に移り、極端を去て極端に投じたるは、豈仏国の惨状を窮めし所以に非ずや。路易(ルイ)十四世より十六世に至る迄、極端の専制に反動したる民主党は大逆無道の極端に投じ、此極端に反動して奈破列翁(ナポレオン)の帝政を促し、奈破列翁一敗して査列斯(チャールズ[シャルル10世?])王の圧虐は殆んど又復讐的の極端に走り、此極端の圧虐も亦革命の反動を以て之を迎へられ、一起一仆、王党破れ、貴族敗れ、民主党亦破れずと謂ふを得ず。只此れ惨澹たる反動の禍乱は革命を以て革命に継ぎ、社会は終始極端の復讐に蹂躙せられて、民人其難に耐へざりしは実に寒心す可き一大鑒戒に非ずや。英国は之に反して、反動無きに非ずと雖も常に極端に抵(いた)らず、故に王者全敗せず、貴族全敗せず、民権亦全敗せざるの間に於て、能く数者の精神を色潤して、円滑なる立憲政体を挙ぐるに至りし者は、是れ或は偶然の結果ならんと雖も、至理の則る可きは自ら其間に存する也」(「東京日日新聞」明治二十八年十一月二十三日)

ここでも板垣は、フランスにおける反対派に対する苛酷な報復的弾圧のくりかえしを、何より厳しく批判しているのである。大久保にしろ中江にしろ板垣にしろ、共和政治下の不安定極まりないフランスの政治社会を実地に観察して来た人々である。それだけに彼等のフランス批判は、書物の上だけの単なる観念的な理解を超えて説得性が大きかった。

 

明治新政府が上記のような報復的措置を避けた結果登用された旧幕臣などの「逆賊」として、榎本武揚、大鳥圭介、林董(ただす)、陸奥宗光らが挙げられる。

明治維新を西欧の市民革命と比べて「不徹底な革命」と見なす史観が(特に本書刊行時には)一般的であったが、著者はそれに疑問を呈する。

旧支配層の温存という傾向は見られるものの、フランス革命でも土地の10%ほどの所有権が移動しただけであり、しかも結果として富農とブルジョワがそれを得ただけとの研究を指摘。

別の事例として著者が挙げるのは、議会開設時に「超然主義」を掲げた黒田清隆内閣に、外相として大隈重信(改進党の事実上の党首)が、逓相として後藤象二郎(民党の大同団結派の首領)が入閣していたこと。

これはすごい盲点だ。

高校日本史教科書で別々の箇所で出てくるので気付きにくいが、大隈外相の不平等条約改正交渉は、この黒田内閣時代である。

専制的・権威主義的とのイメージがある明治政府ではあるが、隈板内閣や原敬内閣以前でも政党関係者が堂々と入閣し、政策決定に参加していた。

一方、ほぼ同時期、ビスマルク時代のドイツでは議会第一党で与党的立場の国民自由党にも閣僚ポストを一つも与えることはなかった。

ただ、本書からやや離れた余談になりますが、この時の大隈の交渉自体はあまり芳しい評価ではないようだ。

伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)の記述では、外国人判事の大審院任用問題による国内からの「弱腰」批判があったが、大隈・黒田は、もし欧米各国が改正拒否の態度を取った場合には、条約の一方的破棄も辞さない強硬路線を突っ走ろうとして、冷静なリアリストの伊藤に深刻な懸念を与えるという描写だったと思う。

明治十四年の政変の経緯を考えれば、大隈と黒田は犬猿の仲でも不思議ではないと思うのだが、妙なところで意見が一致するもんです。

黒田清隆という人もよくわからない。

大久保利通亡き後、薩派の最有力者のはずだが、どうもパッとしない印象があります。

同輩で同じ元勲・元老の松方正義が、首相としてはともかく蔵相としての功績は明らかなのに比して、黒田の方はこの大隈条約改正交渉問題を始めとして何やら精彩に欠ける。

酔って妻を斬殺したなんてとんでもない噂もありますが、一度、手頃できちんとした伝記を出してもらって、人物の全体像を把握したい気がします。

話を戻すと、明治日本は天皇の権威の下、党派対立を抑制して集団指導体制を確立、反対派をも取り込む「柔構造」(坂野潤治『明治維新』参照)を持ち、近代化に伴う諸困難を乗り越えることに概ね成功したと本書では評価されている。

 

以後はメモをかなり省略。

第二章「維新の『舵』を取った指導者たち」。

大久保、西郷、木戸のいわゆる「維新の三傑」が、1871年廃藩置県を成し遂げた後、大久保、木戸は岩倉使節団に加わり、西郷は留守政府に残る。

留守政府では、井上馨、大隈重信、山県有朋ら実務的政治家によって、72年学制、太陽暦採用、国立銀行条例、73年地租改正条例、徴兵令と西洋化政策が推進。

それに違和感を持つ西郷と薩摩士族に司法予算を削られたことに反発する江藤新平が合流して征韓論政変に至る。

中短期的には内治安定を重視した大久保が正しいが、長期的には、安易な西洋化政策に没入することが国民精神に与える悪影響について西郷が持った懸念が当たっている。

 

第三章「明治の政界に君臨した両雄」。

伊藤博文と山県有朋。

山県は武断派とのイメージがあるが、第一議会では隠忍して予算を通し、衆議院解散をせず。

一方、伊藤は首相時代、三度も解散を行っている。

第二次伊藤内閣(1892~96年)は自由党と連携、以後「一枚岩の藩閥vs政党」という図式から政界の縦断的対立へ移行。

1901年桂内閣成立以後、伊藤・山県ら「元勲」が「元老」と呼ばれるようになる。

権力意志強固な山県に対し、政局上の技術では楽観的で見通しの甘い面もある伊藤。

「山県系官僚閥」は大正時代にまで影響力を持ったが、伊藤は確固とした派閥をつくることが出来ず、井上馨・陸奥宗光・西園寺公望・井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎・末松謙澄ら配下・盟友にも強固な団結は無かった。

 

第四章「草創期の政党指導者たち」。

藩閥の中でも、長州閥が比較的まとまりがあったのに対し、薩摩は大久保暗殺後結束力が乏しく、普通「薩摩閥」ではなく「薩派」呼ばれる(佐々木隆『明治人の力量』参照)。

大久保死後の伊藤博文・井上馨・大隈重信ら開明派三人組が明治十四年の政変で分裂。

下野した大隈の改進党の一派が犬養毅・尾崎行雄。

日本の近代政党史においては、1955年の保守合同・自由民主党結成まで、ずーっと自由党=政友会系と改進党=民政党系の二つの流れがあった。

犬養は、五・一五事件で暗殺された時は政友会政権の首相だったが、キャリアから言えばほぼ常に改進党系だったことをチェック。

(改進党→1896年進歩党→98年憲政党→同年憲政本党→1910年立憲国民党《→13年桂太郎・加藤高明らの立憲同志会に参加せず》→22年革新倶楽部と来て、25年政友会に合流。)

一方、自由党の派閥としては、土佐派=板垣退助・片岡健吉・植木枝盛、関東派=大井憲太郎・星亨、東北派=河野広中、九州派=松田正久。

自由党の「破壊党」から「為政党」への脱皮を星亨が主導。

星は腐敗政治家の典型のように言われることもあるし、それも事実無根とまでは言えないんでしょうが、自由党を責任政党として、日本の政党政治を確立した業績は正当に評価されるべきなんでしょうね。

 

第五章「明治天皇の元勲たち」。

肯定的あるいは否定的な天皇制研究に対して、著者は天皇個人の言動研究の重要性を指摘。

後に深い信頼関係で結ばれた明治帝と伊藤博文だが、明治初年伊藤が急進的開明派のように見られていた時期には、明治帝は伊藤にかなりの反感を抱いていた。

森有礼や陸奥宗光など欧化政策の主張者に対しても同様。

これも、西郷と同様に、長い目で見れば天皇の懸念が当たっていると思える。

で、この章のタイトルの元勲・元老はすべて憶えましょう。

長州の伊藤博文・山県有朋・井上馨、薩摩の黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巌、プラス桂太郎と西園寺公望。

明治の首相は第一次大隈内閣の4ヵ月間を除けば、西郷・大山以外の上記7人からすべて選ばれた。

 

第六章「隠された日露開戦反対論」。

山県の日露開戦慎重論を紹介した後、非現実的煽動によって動かされ、主戦論一色となった世論をそれと対比。

外交問題をめぐる論議では、おおむね政府側が、国際社会における日本の立場をよくわきまえて、慎重で列国協調的な姿勢を示すのに対し、反政府派・野党側が、「自主外交」や「国民外交」を唱えて政府の「弱腰」を攻撃し、新聞などジャーナリズムがこれに同調して対外強硬の主張をもって国民を煽り立てる、というのが、日本の近代史にあらわれるお定まりのパターンのようである。

こういう視点もなく、「民主主義が未成熟だったから、戦前日本は戦争を防げなかった」などという固定観念で歴史を読んでも、何一つ得るところは無いでしょう。

 

付章「長老たちと『危機の時代』」。

政治家の若返り待望論への疑問と、老人支配、「老害」批判の一面性について述べる。

これらの主張者がよく引き合いに出す、明治指導者の若さだが、当時の寿命の短さや、彼らが幕末以来得てきた重厚な経験を考えると、「若さ」からくる活力が明治指導者の成功要因とは考えられないと指摘。

昭和期に入ると、政治腐敗が糾弾され革新願望が高まり、そうした世論に動かされて、少壮幕僚・青年将校・革新官僚ら若年層が既存指導者を突き上げ、政策決定を歪め、日本は戦争への道を突き進むことになった。

危機の時代にこそ、威勢のいい若年政治家ではなく、老練な利害調整型リーダーが必要とされるはずだ、と著者は主張。

 

 

あまり期待していなかったが、かなり面白い。

視点が実に興味深いし、通史的知識の確認にも使える。

良書です。

2014年7月2日

伊藤之雄 『昭和天皇伝』 (文芸春秋)

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伊藤氏の本は『伊藤博文』(講談社)および『山県有朋』(文春新書)という重厚な二つの著作を紹介済み。

本書では、天皇を拒否権の無いロボットではなく、調停者的関与を行う政治的プレイヤーとして扱う。

ただし、それは昭和天皇が自らの個人的意志を貫徹できる絶対的存在であったことを主張するものではない。

例えば、戦前昭和期における最大の政治的課題であった軍の統制について、陸海軍大臣を罷免させたとしても、軍から後任者を得られないと政治過程は行き詰まり、かえって天皇と政党内閣が窮地に陥る。

著者には、「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」という題の論文もあるそうです。

本書において、総じて言えば、治世前半における為政者としての先帝への評価は高くない。

しかし、経験を積んだ大戦後期からは円熟した政治的判断を見せるようになる。

そうした先帝の政治的行動の障害となった風潮について、以下の文章。

右翼たちは天皇制を支持し、天皇親裁を唱えるが、彼らのあるべき天皇(またはその代理としての皇后・皇太子や皇族)像を持っており、それと異なると、なかなか従おうとはしない。後に即位して昭和天皇となった裕仁が苦しめられるのも、軍部や右翼のこのような態度である。

自らの底無しの卑しさと低劣さを棚に上げ、ここ十年来、皇太子殿下や雅子妃殿下に卑劣で醜悪な誹謗中傷を加えている恥知らずの大衆を見ていると、(戦前において軍部と右翼を熱狂的に支持した)一般民衆の愚劣さ・悪辣さは戦前・戦後・現在を通じて何一つ変わっていないと思える。

(私は、経済の長期低迷や政治の混乱ではなく、こうした皇室への品性下劣なバッシングが白昼堂々横行するようになったことに、何よりも日本の衰退と頽落を感じます。)

具体的叙述に入ると、大正期の原敬暗殺の悪影響を著者も指摘している。

昭和期に原が元老あるいは内大臣としてあれば、満州事変は起きないか拡大せず、太平洋戦争が無かった可能性すらあるとまで書かれている。

以前も書きましたが(井上寿一『山県有朋と明治国家』)、原や加藤友三郎、加藤高明が早すぎる死を迎える一方、伊東巳代治や金子堅太郎が長命を保ち、(本来民衆世論に抵抗すべき)枢密院を拠点に過激な世論に迎合して政府の穏健策の足を引っ張るのを見ると、何とも言えない気分になります。

1929年、張作霖爆殺事件をめぐる田中義一首相問責について、道義的善悪は別にして、陸軍首脳・与野党の方針を覆したのはまずい。

この時の牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長、一木喜徳郎宮内相の輔弼は当を得ておらず、先帝の右翼・軍部への威信を無くし、かえってそれらを統制困難にしてしまった。

むしろ田中に関係者の処分を遂行できなかったことを詫びさせ、3ヵ月ほどの時間をおいて辞任させ、穏やかに責任を問う方が良かった。

戦前日本に限らず、発展途上国での軍の統制はどこでも難しい問題だが、台湾出兵や日清戦争中の旅順虐殺の例を挙げ、これらの後には軍を暴走させることなく統制を強化できた、と著者は指摘。

強硬で一本槍な軍批判は逆効果であり、結果として軍の暴走を招きかねない。

戦後左翼に対抗して右派が、この時の先帝の言動を取り上げ、昭和天皇が平和主義者であった証拠であると主張しているが、著者はより広い視野からこの行動はやはり先帝の失策だったとしているわけ。

そしてこの田中首相問責を肯定的に捉える古川隆久『昭和天皇』(中公新書)の見解を手厳しく批判している。

続くロンドン海軍軍縮条約問題でも、やや一方的な浜口内閣支持と加藤寛治軍令部長の上奏拒否もまずい。

天皇の公平な調停者イメージが崩れ、自らの政治的基盤を掘り崩してしまった。

かつて、日清戦争直前、1893年に明治天皇は「和協の詔勅」を出し、海軍建艦計画についての、伊藤首相・民党・山県ら藩閥の三つ巴の対立を調停・緩和することに成功した(これは高校日本史教科書にも載っている)。

これに倣って、交渉妥結回訓のロンドン発電前に加藤軍令部長の上奏を受け、条約受諾とともに反対派も繋ぎ止める詔勅を出せば良かった、もっとも先帝の経験の浅さを考えれば明治帝とそのまま比較するのは酷だが、と著者は述べている。

なお、本書に記されていることではないが、このロンドン条約問題で、(アメリカが潜在的に日本の数倍の艦隊を揃えることができる国力を持っているのだから)対米7割の比率に拘った日本海軍の強硬派(いわゆる「艦隊派」)が愚かだったことは間違いないが、それを認めなかった米国も同様だと、高坂正堯氏は指摘していた。

しかし、ロンドン会議に悪い後遺症が残ったことの原因は日本側にだけあったのではない。視点を逆にして言えば、日本の反対論者がつまらない数字にこだわったのと同様、アメリカ側もそうであったと論ずることができる。ほぼ七割にするのなら、何故アメリカは対米七割という日本の主張を認めて、日本側に心理的に満足を与えなかったのかと言うこともできるのである。当時のアメリカに広い視野と大きな度量がなかったことは否定できない。

高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮選書)より

浜口退陣後の第二次若槻礼次郎内閣の組閣において、先帝は閣僚を直ちに裁可せず、生真面目で慎重な任用を求める。

これは先の浜口内閣時代からの先帝の民政党への肩入れという、右翼勢力の潜在的不満に配慮した可能性があるが、文民首相の権限を弱めるもので望ましくない。

先帝のこうした言動は汚職の過去のある人物の閣僚入閣時にも繰り返されることになるが、善意の空回りというか、区々たることに拘りすぎた観が否めない。

満州事変において、林銑十郎朝鮮軍司令官の支援部隊独断越境が行われた。

田中義一問責、加藤寛治上奏拒否両事件では、天皇・宮中が慣行を破ったのに対し、今回は逆に陸軍が破った。

さすがの陸軍も不利な立場に置かれ、弱気となり、南次郎陸相・金谷範三参謀総長の辞職論すらあった。

無分別な対外膨張主義を支持する衆愚的な民衆世論に支えられた陸軍への統制をわずかでも回復する好機である。

元老西園寺公望が主張したように、軍越境の事後承諾と引き換えに、時間をおいて陸相・参謀総長・朝鮮軍司令に辞表を出させて予備役編入をしていれば良かった。

だが、先帝と牧野ら側近は、奉天事件・ロンドン条約では強気になり過ぎたのとは逆に、今回は弱気になり過ぎ、(クーデタ未遂の)三月事件の影響もあって、若槻首相と共に機会を逸してしまった。

上記リンクした古川氏著でも、この際に先帝が断固たる行動を取るべきだったとしているが、古川氏が述べているのは「朝鮮軍司令官の即時罷免」であり、やはりより慎重な影響力行使を良しとする本書での主張とは距離があるとすべきか。

以後は矯激な世論の支持を受けた軍がやりたい放題の状況となる。

二・二六事件では先帝の断固たる鎮圧指示が三日間も実行されず。

しかし石原莞爾ら陸軍内の支持者の力を借り、ひとまず鎮圧に成功し、多少の自信を得る。

だが、先帝も西園寺も、近衛文麿の本質を見抜けなかったのはまずかった。

1935年頃より中国軍の増強が進むと、陸軍中央で「対中一撃論」が広まる。

満州事変以来の、現地軍が主導し、参謀本部が容認し、陸軍省が抑制する様式がちょうど逆になりつつあった。

近衛は、その破滅的危険を伴う冒険主義を抑えるどころか、積極的に迎合し、煽り立てた。

その結果が、泥沼の日中戦争。

先帝は三国同盟阻止のため陸海相人事に関与。

立憲君主制とは君主が完全にロボット的存在になることではない、1931年英国でジョージ5世がマクドナルド挙国一致内閣の成立に尽くしたように、抑制的政治関与は普通である、と著者は指摘。

先帝もおおむねこの立憲君主の枠内で苦慮し悪戦苦闘して、軍部・世論の抑制に努めた。

不幸にして、日中和平は成立せず、三国同盟締結を経て、日米開戦に至るが、その過程への著者の評価は明解である。

ローズヴェルト大統領やハル国務長官がヨーロッパ戦線の問題やアジアでのアメリカの威信を考慮し、日米戦争を避けようとする日本側の妥協案に応ぜず、ハル=ノートを日本に提示した。このことから見て、その時点で戦争を避ける可能性はほとんどなかったといえる。

このような結果になった原因には、日本の中国等への侵略がある。また、外交判断が未熟で、日本は1940年に不注意にも三国軍事同盟を結び、ヨーロッパの戦争と日本の大陸政策を結び付けてしまったことがある。それに加え、直接的には南部仏印進駐によって米国の対日石油全面禁輸などの日本にとって深刻な事態が起こることはないという、日本側の甘い判断があった。

しかし米国も、日米戦争を避けたいという日本の意図をほとんど理解できなかった。また日本の軍事力を過小評価し、日米開戦によって双方に生じる膨大な犠牲について深く考慮せず、ハル=ノートという原則的対応を日本に提示した。これらの点で、日本ほどではないが、米国も日米開戦の責任を負う。

以上のように日米開戦には、両国の相互誤解の結果、誘発された戦争という一面がある。

・・・・・・

太平洋戦争の結果を知っている私たちから見れば、ハル=ノートでも受け入れるべきだとの考えを抱くのが自然である。しかし、歴史の当事者たちを、当時の経過や情報の限界を無視し、後知恵から批判するのは、意味のある歴史評価とはいえない。

様々な政治的経験を得た先帝は、戦争末期、陸海軍の資源配分問題での深刻な対立や東条内閣退陣について、円熟した判断とリーダーシップを発揮する。

両問題とも、直ちに介入せず、前者では双方の主張を述べ合わせた後に調停を行い、後者では時期を待って倒閣を容認。

終戦においてもそうであり、第三国の仲介や米国からの打診が無い以上、陸軍のクーデタなどの混乱を避けるためには、先帝が主張したような「一撃講和論」しかない、と著者は判断している。

そして、原爆とソ連参戦で陸軍の抵抗が弱まった一瞬の機を捉えて終戦を決断。

なお、終戦の詔書の中にアジア民衆への加害の自覚が無いという戦後左派の批判に対し、陸軍の反乱を抑える必要があったのに、そんなものは無いものねだりだ、戦後の言動から先帝もアジアの被害を認識していたはずだ、と著者は反論している。

終戦直後のマッカーサー訪問で、自身の責任を認めた発言はあっただろうが、それは道義的責任であって、政治的実質的責任ではないと指摘。

木戸幸一(元内大臣)が戦犯として逮捕された後も宮中に招いたり、日米戦争の最大原因を米誌の取材で尋ねられ、「両国民の相互不信」を挙げているのには、占領下の悔しい状況の中で溜飲が下がる。

占領下での米国との外交交渉での、象徴天皇の枠を超える言動も、おおむね現実に沿った妥当なものとして、本書では批判されていない。

退位論については、マッカーサーや首相、宮内府幹部の勧めがあれば可能性はあったが、基本は新日本建設に尽くす決意だった。

なお、いわゆる「富田メモ」については以下の記述あり。

本書で述べてきたように、昭和天皇は東京裁判の正当性を認めていない。しかし天皇は、三国軍事同盟から南部仏印進駐、太平洋戦争開戦と戦争への道を推進した戦争責任のある人物と、天皇や木戸幸一(内大臣)・広田弘毅(首相・外相)・東郷茂徳(外相)らのように、その道を止められず、道義的戦争責任を負っている人物を区別している。

このことは、「富田メモ」で名が上がる形で特に批判されているA級戦犯が松岡洋右と白鳥敏夫であり、より有力で有名な東条英機の名が上がっていないことの理由にもなる。天皇は、松岡や白鳥を、三国軍事同盟を推進するなど戦争への道を進めた人物として、特に許すことができなかった。東条は天皇の意を汲み取り、首相として戦争回避に最後の努力をしてくれた人物として別の扱いをしているのである。・・・・・・天皇は、合祀されたA級戦犯の十四人すべてを嫌っていたのではない。しかし、戦争責任があると思っている松岡や白鳥の合祀にとりわけ憤りを覚え、潔癖で真面目な性格から、そのような者が混じって祀られている靖国神社に参拝することはできない、と考えたのだろう。それ以上に天皇は、戦後に戦争の道義的な責任を自覚し、日本の再建に取り組んできたのであり、道義的責任すら自覚できずに、反東京裁判という立場からA級戦犯を合祀してしまう感覚に立腹したのだろう。

表面的に繁栄の絶頂にあるかの如く見えた日本の行く末に悲観的な気持ちを持ちつつ、崩御。

明治天皇も晩年は厭世的になったとも読んだことがあるが、両帝没後、国民が何をやり始めたかを思うと、その懸念は当たっている。

国の頂点にある象徴的統治者として、何か感じ取ることがあったのだろうか。

「おわりに」で結論とまとめ。

明治憲法では、形式上、天皇は首相、閣僚を罷免することすらできる。

しかし後任が得られなければ窮地に立ち、事実上の屈服を強いられ、威信が低下する。

そのような状況下でさらに個人的意志を押し通そうとすれば、革命やクーデタを誘発する危険すら生じる。

立憲国家の枠内で天皇の意向を国政に反映させるには、明治天皇のように権威を確立し、権力行使を抑制しつつ、バランスのとれた調停的政治関与を続ける必要がある。

先帝は即位から十分に権威を確立できず、田中首相問責・ロンドン条約・朝鮮軍越境という三つの重大事件で対応を誤り、自らの意志に反して日中戦争・太平洋戦争への道を止められなかった。

ただし、若く経験の無いことを考慮すれば、これを先帝の資質に求めるのは酷。

牧野内大臣ら輔弼する集団に円熟した有力政治家がおらず、元老西園寺は高齢のため常時身近で先帝を支えることはできなかった。

原敬や加藤高明がいれば、昭和史は全く変わったものになっていたかもしれない。

しかし、徐々に経験を積んだ先帝は、終戦時に諸条件が整うのを待ち、「聖断」を下すことができた。

拙速に講和を口にし、失敗すれば、唯一陸軍を抑えこめる天皇の威信が低下し、さらに降伏が遅れる。

(沖縄、広島、長崎、満州での悲劇を思えば、もう少しでも早く降伏していれば、との思いに駆られるのは自然ではある。しかし逆に、陸軍の徹底抗戦派と米国のヒステリックな世論に挟撃されていた総合的状況の細かな分析抜きに、「天皇が数日早く決断していれば原爆投下は無かった、満州でのソ連軍の暴虐も無かった、数ヶ月早く決断していれば沖縄戦は無かった、東京大空襲も無かった」と単純に言い募るのは、冷静で意味のある歴史的判断とは言えないと思う。)

戦後には日米基軸外交定着もサポートすることになる。

著者は末尾で、英米両国での伝記的著作の本格さ・豊富さを挙げて、その利点を指摘しているが、個人的にも同感です。

 

 

読みやすく、面白い。

とばし読みした、同じ著者の講談社『日本の歴史22 政党政治と天皇』より、こちらの方が良い。

古川隆久『昭和天皇』(中公新書)と読み比べてみるのも面白い。

(私は、歴史解釈の妥当性は本書が、全般的印象では古川氏著が好ましいように感じました。)

現在、文庫化されているようですので、手軽だと思います。

御一読をお勧めしておきます。

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