万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年4月3日

ショーペンハウアー 『読書について』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 07:43

岩波文庫版で既読のものを今回この版で再読。

表題作と「自分の頭で考える」「著述と文体について」を併録。

再読して何より強い印象を受けたのが、読書論についてのあれこれではなく、匿名の誹謗中傷的言論に対する徹底的な批判。

現代社会最大最悪の宿痾が、近代の始まりにおいてすでに賢明な人には見えていたんだと思った。

それを知ると、何とも言えない焦燥感と嫌悪感に駆られる気持ちがやや落ち着くが、同時にこの種の悪を防ぐことはもう何をしても不可能なんだなとの乾いた絶望感も感じる。

 

なによりも、物書きの悪行の盾となっている匿名性が廃止されねばならない。評論雑誌が匿名性を採用した口実は、読者に警告する正直な批評家を、著者やそのパトロンの遺恨から守ることだった。だがこの種のケースが一件あれば、自分で言ったことの責任を負えない者が、あらゆる責任をのがれるために匿名にするケースや、金でいいなりになる卑劣漢が、出版業者から酒手をかせぐために、悪書を読者に推奨し、その破廉恥な行いをかくすために匿名にするケースは、その百倍あるだろう。また単に、批評家のどんよりした脳みそ、無価値・無能ぶりを覆い隠すのにも用いられる。信じがたいことだが、匿名の陰で身の安全がはかれるとなると、連中は無礼きわまりなく、ひるむことなくペンでどんな悪事でもくりだす。

 

ルソーは『新エロイーズ』序文に「名誉心ある者なら、自分が書いた文章の下に署名する」と書いている。この逆も言える、すなわち「自分が書いた文章の下に署名しないのは名誉心なき者だ」。これは攻撃的文書におおいにあてはまり、たいていの批評がそうだ。だからリーマーが『ゲーテにまつわる報告』(序文29ページ)で言ったことは正しい。「面と向かって率直に発言する相手は、名誉心ある穏健な人物だ。そういう人物なら、お互いに理解し合えるし、うまく折り合い、和解することができる。これに対して、陰でこそこそ言う人間は、臆病な卑劣漢で、自分の判断を公言する勇気すらない。自分がどう考えたかはどうでもよく、匿名のまま見とがめられずに、うっぷんを晴らし、ほくそ笑むことだけが大事なのだ」。これはゲーテの意見でもあった。ゲーテの意見はたいていリーマーの報告にそのまま引かれている。

 

匿名の評論雑誌はそもそも、無学が学識をさばき、無知が分別をさばいても処罰されない無法地帯であり、一般読者をあざむき、悪書をほめそやして時間と金をだまし取っても見とがめられない場だ。匿名は物書き、とくにジャーナリズムのあらゆる悪事の堅固な城塞ではないか。

こうした匿名批評家の特に愚かしくあつかましい言動は、国王のように〈Wir〉〈われわれ〉と一人称複数形で話すことだ。

こうした生業は金をもたらすが、名誉をもたらさない。攻撃する匿名氏はとりもなおさず卑劣漢で、請け合ってもよいが、名乗ろうとしないのは公衆をあざむこうという魂胆だからだ。ただ匿名の著者に対しては、匿名で批評する権利が与えられる。そもそも匿名を撤廃すれば、あらゆる物書きの悪事は九九パーセント存在しなくなるだろう。

[原注より]

匿名批評家がおかした罪に対しては、編集者自身が書いたかのように、編集者に直接、責任を負わせるべきだ。それは徒弟がへたな仕事をしたときに、親方に責任を取らせるのと同じだ。こんな稼業の連中など、鼻であしらえばいい。匿名は文筆の世界のならず者だ。すぐさま「ならず者め、ひとの悪口を言いながら、それを自分の仕業とみとめる気がないのなら、その中傷の口を閉じろ!」という言葉を浴びせればいい。匿名批評には匿名の手紙ほども価値がないのだから、そんなものは匿名の手紙に対するのと同じ不信の目で応じればいい。そうしないと匿名の書き手に誠実さをみとめ、匿名協会会員として容認することになってしまう。決してそんなことがあってはならない。

2016年2月23日

門谷建蔵 『岩波文庫の赤帯を読む』 (青弓社)

Filed under: 読書論, 文学 — 万年初心者 @ 04:34

1997年刊。

岩波文庫海外文学の「赤帯」を、60歳近い市井の一読者である著者が、買いまくって読みまくった記録をそのまま本にしたという怪著。

16ヶ月で1100冊(800点)を約四十万円で買い、少なからず読んだという。

著者の独断と偏見による分野別ベストなども面白い。

(キリスト教的記述を無条件で切り捨てるのにはやや違和感があるが。)

本書を手元に置いて、時たま開き、読書意欲をかき立てるのも良い。

私の好きな小説は歴史小説である。それも主人公は歴史上の人物ではなく別にいて、あくまでも正確な歴史的事実と時代的描写を背景に、別の面白い物語が展開されるのがいい。英雄の横顔がちらっとみえるのが好ましい。例えばバルザックの『暗黒事件』でのナポレオンやフーシェである。A・K・トルストイ[レフ・トルストイとは別人――引用者註]の『白銀公爵』では、イワン雷帝はですぎるのでボリス・ゴドゥノフがいい。『三銃士』や『パルムの僧院』は、あまりに架空で歴史を離れているから面白くない。ツワイクの『マリー・アントワネット』『ジョゼフ・フーシェ』は、歴史そのものすぎてつまらない。『静かなドン』は面白かった。トルストイの『戦争と平和』にはおおいに期待しており、一番最後にとっておく。

『神々は渇く』もそういう私の好きな種類の歴史小説である。・・・・・

以上の引用には深く共感する。

私も「歴史そのまま」と「歴史離れ」の中間に位置する小説が一番好きです。

上記例の他では、プーシキン『大尉の娘』などがそれに当る。

加えて何といってもシェンキェヴィチ『クォ・ヴァディス』がそう。

『神々は渇く』と並んで、歴史小説の最高傑作です。

 

 

読書ノートを書くことについて。

本書の内容を書くために読むという誘因が働く、と書かれてある。

私もこのブログをやったおかげで、読書量が激増しました。

著者曰く、原稿用紙5枚を取り、題・岩波文庫の整理番号のあと、いつ、どこで、いくらで買ったか、映画化されたものを見たとか、昔の再読だとか、そういう記述で何とか1枚半を埋めたといい、1冊で1枚の感想を書くのも最初は無理だと思っていたそうだ。

面白いか下らないか、保存するかしないか、くらいで昔は済ませていたという。

私もそれだけならかなり楽だ。

本当に読むだけでいいから。

あとはタイトルを記録して読んだということを確実にわかるようにするだけ。

史書と違って文学書ならそれでもいいかと思うが、しかし何も身につかない感じがどうしても付きまとう。

ものすごく大雑把でいいから、登場人物名と粗筋と背景を記した上で、自分の作品への評価を残すという形が良いのかも。

このブログの文学カテゴリの記事も概ねそうしている。

面倒ですけどね・・・・・。

2016年2月1日

小谷野敦 『 『こころ』は本当に名作か  正直者の名作案内』 (新潮新書)

Filed under: 読書論, 文学 — 万年初心者 @ 04:32

日本人向けの、文学作品のキャノン(正典)案内。

詩は苦手だが、小説・戯曲を読み、十年くらいは意図的に未読のものを読みまくって大体読了したという。

叙事詩はともかく抒情詩は翻訳で読んでどれだけ意味があるか疑わしい、と書いている。

文学作品の良し悪しに普遍的基準は無し。

作品が「分かる」というのは、単に「面白いと思う」の意味だと考えればよい。

名作と言われるものでも、分からなければ正直にそう言うべき。

再読も忙しい現代人には難しい。

前近代の文人、学者が古典を何十回読んでいたとしても、それは他に読むものが少なかったから。

途中で挫折したら、間に十年挟まっていても、再挑戦の際はその続きから読めばよい。

著者も『ジャン・クリストフ』を学生時代に1巻読み、二十年後2巻を読了したという。

あらすじ本も活用してもいいし、それでもつまらなければ放り出すべき。

日本人にキリスト教的背景の作品(ドストエフスキーなど)は向かない。

等々の記述の後、具体的作品のランク付けに入る。

 

 

 

 

「日本人必読の名作」

 

『源氏物語』

シェイクスピア

ホメロス

ギリシア悲劇(喜劇アリストファネスは別、笑いは文化依存的)

以上最高峰の古典はほぼ前近代のもの。

 

 

 

 

「トップクラスの名作」

 

セルバンテス

スウィフト

ゲーテ『ウェルテル』『ファウスト』ではない、小品では『ヘルマンとドロテーア』を勧めている)

ルソー『孤独な散歩者の夢想』

オースティン『プライドと偏見』『エマ』

バルザック『従妹ベット』『ゴリオ』はまだいいが、他は到底これに及ばない)

ユーゴー『レ・ミゼラブル』

ディケンズ『荒涼館』(最高傑作はこれ、『二都物語』『デイヴィッド・コパフィールド』では全くない)

シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』(エミリ・ブロンテ『嵐が丘』よりもこれを)

ポオの短編

メルヴィル『白鯨(モービィ・ディック)』

アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』

トルストイ『クロイツェル・ソナタ』『戦争と平和』は今では大して面白くない、『アンナ・カレーニナ』はまあまあ、『イワン・イリッチの死』は名作)

ゴンチャロフ『オブローモフ』

マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』『王子と乞食』

ヘンリー・ジェイムズ『鳩の翼』

『水滸伝』その他中国白話小説(日本モノは省略)。

 

 

 

 

ここで、推理・SF小説についてのコラムがあり、著者はホームズを好まず、クリスティやクイーンももう一つとし、SFについてはヴェルヌやウェルズならいいが、それ以降はいけないと書いてある。

 

 

 

 

「二位級の名作」

 

ロンゴス『ダフニスとクロエ』

ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』

ラクロ『危険な関係』

フロベール『感情教育』

ゾラ『ナナ』『居酒屋』

ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』

プルースト『失われた時を求めて』

ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』

ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』

シェンキェヴィチ『クォ・ヴァディス』(優れた大衆小説と評されている)

ヘンリー・ミラー『北回帰線』

E・M・フォースター『ハワーズ・エンド』

 

 

 

 

 

「私には疑わしい名作」

 

漱石、鷗外

ドストエフスキー(後期はミルトン、ダンテ並みのキリスト教作家でシェイクスピア、ユーゴーのような普遍性無し)

スタンダール

トーマス・マン

ワイルド

フォークナー

ヘミングウェイ(『老人と海』はよい)

フィッツジェラルド

テネシー・ウィリアムズ

ダンテ

 

 

 

 

 

十五年くらい前からの古典主義者で、まず古典作品を読めと言ってきたと言う著者の断言ぶりが面白い。

一部首を傾げるところもあるし、ドストエフスキー評価のように全く意見を異にするところもあるが。

なお、本書よりはるかにレベルが低いですが、当ブログでも30冊で読む世界文学というブックガイドを書いています。

2015年12月28日

鹿島茂 『成功する読書日記』 (文芸春秋)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 03:43

引用文1で触れた本だが、改めて単独で記事にしてみる。

久しぶりにページを手繰ってみると、結構重要な内容があったので。

これまでの人生で三回ほど、読書日記というかメモのようなものをつけたことがあります。・・・・・いずれも、備忘録代わりにつけはじめたもので、毎回、タイトルや著者・・・名くらいをメモしていたにすぎないのですが、どの日記でも、やっているうちに必ずどこかで「コレクター感情」とも呼ぶべき不思議な気持ちが起こってきたことを覚えています。

つまり、ある程度、記載された量がたまってくると、その量が自動的に拡大を要求してくるのです。たんに、読んだ本・・・を書きとめているというよりも、むしろ「収集」しているのではないかという感覚になってきました。

そうなると、「収集した」本や映画をジャンル別にまとめてみようかとか、このジャンルのこの部分は弱いからここを集中して読もうかとか、体系化への志向というものが生まれてきます。たとえば、・・・大長編小説は、露、仏、米を制覇したから、今度はイギリスと日本を片付けなければならない、といった類です。・・・・・これは、自分の好きなものだけを好きなときに読み・・・散らしていたときとは、あきらかに違う心理です。気ままな読書・・・をしていたときと比べると鬱陶しいといえば鬱陶しいのですが、それを補ってあまりある快楽もあります。すなわち、「コレクション」を完成するという喜びです。

「コレクション感情」を利用して読書意欲を刺激するというのは、自分の経験を考えても、確かにかなり使える手段だと言える。

その後、引用文1の文章に続き、

引用に慣れたら、次にチャレンジしていただきたいのは、引用だけからなるレジュメ(要約)です。自分の文章はあまり使わずに、その本のエッセンスとなるような箇所を何ヵ所か選び出し、その引用だけで本を要約するのです。・・・・・この引用だけのレジュメに習熟したら、次になすべきことは、物語や思想を自分の言葉で言い換えて、要約してみるということです。フランスの教育では、これをコント・ランデュ・・・と呼び、引用を使ってするレジュメとは区別しています。これをやると、引用の中にある言葉や句を使ってはいけないので、語彙を豊かにするのに役立ちます。

これも、内容をしっかり把握し記憶するために有益でしょう。

私は、飛ばし読みOK、とあえて答えたいと思います。なぜなら、一行たりとも省略せずに通読しようとしたあげく、冒頭部分だけで投げ出してしまう読み方よりも、読みにくいところは飛ばし読みしても、最後までたどりつく読書のほうが数倍、実り多いものになるからです。

たとえば、黒岩涙香の『噫無情』の訳名で知られるヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』ですが、この作品は、冒頭から読者を引きつけ一気に物語の核心へと導くようには書かれていません。一見、物語とはなんの関係もなさそうなディーニュの司祭ミリエル神父の生涯の叙述から始まります。しかも、それが延々と続きます。その結果、多くの読者は主人公のジャン・ヴァルジャンが登場する前に挫折してしまいます。

ところが、そこを抜けると、物語はにわかに緊張をはらみ始め、あとは全編、波瀾万丈のストーリーが展開し、ジャン・ヴァルジャンという主人公を介して十九世紀全体の見取り図がわれわれの前に現れてくることになるのです。もちろん、途中で何度か退屈な脱線もあるのですが、そうした箇所は読む勢いがつけば自然にクリアできます。ですから、冒頭は飛ばしてもいいから物語に入り込め、これが私がお勧めしたい『レ・ミゼラブル』の読書法です。

これはあまり同意できない感じ。

一部でも飛ばすと、読後の充実感が大幅に削がれる。

難渋あるいは無味乾燥な部分は、完全に飛ばすより、力を抜いて字面を目で流すようなに軽く読み飛ばすことに慣れた方がいいかもしれない。

読書日記をつけるということは、自分で定める〆切の一つになり得ます。高校時代に、いつまでも、読書日記が空白のままで「読了」の一文字を書きつけることができないのを不愉快に思い、一気にケリをつけようとして、『戦争と平和』を集中して読んだことを思い出します。・・・・・人間というのは、まことに怠惰なもので、この〆切がないと、ついついなにもしないで人生を過ごしてしまうものなのです。・・・・・読書日記をインターネットで公開すれば、それは確実に「〆切」の様相を帯びてきます。そして、「〆切」ができれば、自動的に「読み終えようという確固たる意志」も生まれてくるのです。

これにも深く共感。

このブログも、読書のペースメイカーとして、自分なりの「〆切」を作るためにやっているようなものです。

さて、いろいろと、本の処理法について、理想と現実を並べてきましたが、結局のところ、スペースが限られている以上、いくら工夫を重ねても本の増殖に勝つことはできないということになってしまいそうです。

したがって、考え得る究極の方法は、自分では一切本を持たず、図書館の本を徹底利用するということになってきます。つまり、私が読書日記のところで例として出したフランスの学生のように、図書館で借りた本から必要な部分はすべて引用しておき、読書ノートを書庫の代わりとするのです。

ただ、この方法を取るには、一つ、クリアしなければならない関門があります。それは、図書館をいつでも利用できるように、すぐその近くに住むということ、もう一つは、自分の執筆の時間を図書館の開館時間に合わせるということです。最寄りの図書館が自宅から一時間以上もかかるところにあるとか、夜中に仕事をする癖があるというのでは、図書館を自分の書庫代わりにすることはできません。

しかし、この点がクリアできたなら、膨大な蔵書を誇る図書館が書庫の代わりになりますから、お金はかからないわ、スペースはいらないわで、こんなにいいことはありません。蔵書に苦しみぬいた人にとって、これも本に勝つ一つの方法ではあるのです。

ただ、それには、読書日記をつける習慣を身につけたうえで、引用レジュメやコント・ランデュをしっかりと構成できるということが前提となります。

書庫なし、書棚なしの「理想の生活」を送るにも、読書日記をつけるという習慣が不可欠なのです。

読書ノートをつける効用として、読書意欲の刺激の他に、ノートへの記載によって「所有欲」を満足させて、本を借りて済ませ、費用と置き場所を節約できることがある。

これは本当に大きい。

以前は「本気で通読する本は買わないと駄目だ、後でいつでも参照できるように手元に置いておくことが必要だ」という考えからなかなか抜け出せなかったが、読書ノートを書くようになってからは、驚くほど吹っ切れて、本の所有自体にはこだわらないようになった。

こればっかりはやってみないとわからない。

皆様にも一度お試しになるよう薦めます。

 

 

 

短い書評的記述を含む読書日記が大半を占める本だが、所々載っている著者の読書論には参考になる点が多い。

一度手に取ってみて下さい。

2015年12月11日

佐藤優 『読書の技法』 (東洋経済新報社)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 06:23

作家・評論家として多くの連載を持つ著者による実践的読書論。

冒頭で著者の書斎と書棚の写真が載せられているが、その充実ぶりにうらやましさでため息が出る。

本文の内容は、高校レベルの基礎知識の重要性、限られた時間で熟読する本を厳選する必要、読書中の鉛筆・シャーペンでの傍線チェック、読後のノート作成等々。

かなり面白い。

これまで読んだ読書術の本で最も共感したのは小谷野敦『バカのための読書術』だったが、本書はそれと並ぶくらいである。

一度図書館で借りてみることをお勧めします。

 

最初に読書の面白さを教えてくれたのは、中学1年生から通い始めた学習塾の国語の先生だった。

早稲田大学商学部出身の元出版社勤務の先生で、「中学1年生も大学生も、国語力はあまり違わない。漢字だけきちんと覚えて、よい作品に幅広く触れることが大切だ」と、生徒に小説を読むことをすすめてくれた。

「世の中で起きていることをそのまま記述していく、それが近代的な小説の基本で、小説は物の考え方の基本になる。だから自然主義からスタートしたほうがいい」と最初に指定されたのは、モーパッサンの短編「首かざり」(『モーパッサン短編集2』所収)だった。先生は解説が優れ、ルビが丁寧な旺文社文庫版をすすめたが、家の近くの本屋には新潮文庫版しかなく、それを買った。

小説をきちんと読んだのは初めてだったが、その中で描かれている登場人物の虚栄心に驚き、それが読書を面白いと思った最初の経験だった。

次に、同じ新潮文庫で太宰治の『晩年』を読み(中学校で配られた副読本に一部が載っていた)、島崎藤村の『破戒』、田山花袋の『蒲団』、夏目漱石の『こころ』と続いた。どれも入学試験に出るものばかりで、読み終わるたびに先生が作品について解説してくれ、『こころ』については「人間の内面の問題に入っていく、それが近代と関係している」と教えてくれた。

その後、フロベール、カミュ、ツルゲーネフ、チェーホフなど世界文学を読み漁り、気がつくと、学校から帰ると本を読み、学習塾の往復でも読む生活になっていた。その結果、学校の成績も上がり、このころ、理系から文系少年になった。

両親は読書を強要はしなかったが、反対することもなかった。「本は借りて読むものではない」と、父親は欲しい本は惜しみなく買ってくれた。

中学校入学前にはまったくなかった本棚が、1年生で1本でき、3年間で4本になった。学習参考書が50冊ほどあったが、3年間で合計800冊ほど読んだことになる。

 

 

ロシアの知的エリートは、大学入学前に徹底的に教科書を読み込む。特に歴史と国語の教科書は、質量共に日本語の教科書を遥かに凌駕している。1年ずつかけて古代史、中世史、近代史、現代史を学ぶが、それぞれの教科書が500ページほどある。国語の教科書はそれ以上に厚い。

日本でも、大学受験のために歴史を丸暗記する学生は少なくない。しかし、歴史の論理を理解しないまま丸暗記するので、大学入学後しばらくすると、ほとんど忘れてしまう。ロシアやイギリスの知的エリートは、きちんと理解したうえで徹底的に暗記につとめるので、その知識が血肉となり、将来応用が利くものになる。

筆者自身、鈴木宗男事件に連座して、「鬼の特捜」(東京地方検察庁特別捜査部)に逮捕され、512日間の拘置所生活を送ったが、そこで学術書を中心に220冊を読み、抜き書きや思索メモなどを綴った読書ノートを62冊作ったことは、後々の読書生活と執筆活動に大きくプラスに作用している。

 

 

 

標準的なビジネスパーソンの場合、新規語学の勉強に取り組む必要がなく、「ものすごく時間がかかる本」がないという条件下で、熟読できる本の数は新書を含め1カ月に6~10冊程度だろう。つまり、最大月10冊を読んだとしても1年刊で120冊、30年間で3600冊にすぎない。

3600冊というと大きな数のように見えるが、中学校の図書室でもそれくらいの数の蔵書がある。人間が一生の間に読むことができる本の数はたいしてないのである。この熟読する本をいかに絞り込むかということが読書術の要諦なのである。

 

 

 

「ノートを作る時間があったら他の本を読んだほうがいい」「その時間がもったいない」と主張する論者もいるが、筆者はその意見には与しない。

・・・・・

ゆるい形で本を読む習慣が身についてしまうと、いくら本を読んで知識を取り入れても、頭の中に定着していかない。本を読んで、「あっ、自分も知っている」という感覚は味わえても、「では、どう知っているのか」と突っ込んだ質問を改めてされると答えられないのだ。それは、取り込んだ知識が自分の中で定着していない証拠である。

10冊の本を読み飛ばして不正確な知識をなんとなく身につけるより、1冊の本を読み込み、正確な知識を身につけたほうが、将来的に応用が利く。

 

 

「コメントに書くことが思い浮かばない」という相談も受けるが、最初は、「筆者の意見に賛成、反対」「この考えには違和感がある」「理解できる、理解できない」など自分の「判断」を示すもので十分である。

「わからない」「そのとおり」「おかしい」の一言でもいい。何らかの「判断」を下すことが重要だ。

次のステップとしては、自分の「判断」に加えて、「意見」も書き込むようにする。

「私はこうは思わない」「この部分は、あの本のパクリだ」「同じデータに関して、あの専門家は別の評価をしている」など自分の「意見」も書き込めるようになれば、十分理解して自分で運用できる水準になっている。

2012年4月2日

引用文(豊﨑由美1)

Filed under: 読書論, 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

豊﨑由美『ニッポンの書評』(光文社新書)より。

粗筋や登場人物の名前を平気で間違える。自分が理解できていないだけなのに、「難しい」とか「つまらない」と断じる。文章自体がめちゃくちゃ。論理性のかけらもない。取り上げた本に対する愛情もリスペクト精神もない。自分が内容を理解できないのは「理解させてくれない本のほうが悪い」と胸を張る。自分の頭と感性が鈍いだけなのに。そういう劣悪な書評ブロガーの文章が、ネット上には多々存在する。それが、わたしのざっと読んでみての感想です。

不思議でならないのですが、匿名のブログやAmazonのカスタマーレビュー欄で、なぜ他人様が一生懸命書いた作品をけなす必要があるのでしょうか。卑怯ですよ。他人を批判する時は自分の本当の顔、どころか腹の中の中まで見せるべきでありましょう。都合が悪くなれば証拠を消すことのできる、匿名ブログという守られた場所から、世間に名前を出して商売をしている公人に対して放たれる批判は、単なる誹謗中傷です。批判でも批評でもありません(精読と正しい理解の上で書かれた批判は、この限りではありません。というのも、そういう誠実な批判の書き手の文章は、たとえ匿名であっても“届く”ものになっているからです。届く文章は、前段で挙げた劣悪な批判がまとう単なる悪口垂れ流しムードから逃れ批評として成立しうるものです)。

批判は返り血を浴びる覚悟があって初めて成立するんです。的外れなけなし書評を書けば、プロなら「読めないヤツ」という致命的な大恥をかきます。でも、匿名のブロガーは?言っておきますが、作家はそんな卑怯な“感想文”を今後の執筆活動や姿勢の参考になんて絶対にしませんよ。そういう人がやっていることは、だから単なる営業妨害です。

「まともなリテラシーを備えたブログ読者は低レベルの悪口書評なんか真に受けない」「コメント欄を設けているんだから、被害を受けた作家やその作品を擁護したい読者はそこで反論すればよい」という意見は一見もっともなようですが、「まともなリテラシーを備えないブログ読者も多々存在する」「なんで作者自身が、そんな程度の低いブログのとこまでいって、わざわざ反論なんていう面倒臭いことをしなきゃならないのか。そもそも、その書き手は当該作品を誤読、もしくは全然読めてないのだから、議論は不毛に終わるに決まっている」と答えておけば十分でしょう。

・・・・・・

これまでやってきたように、ネット上からいろんなタイプの評を拾い、引用しながらブログ書評について考えてみたいと思っていたのですが、それは編集部からストップがかかりました。素人の原稿を勝手に引用するのは問題があるのだそうです。ほら、守られてるじゃん。ブログで書評を書いている皆さん、あなたがたは守られてるんです。安全地帯にいるんですよ。そして、安全地帯に身をおきながらでは批評の弾が飛び交う戦争に参加することはできないのですよ。

・・・・・・

「何を書いてもオレの自由じゃん」

そのとおりです。けれど、自由の怖さや自由が内包する不自由さを自覚しない人間は、ただの愚か者とわたしは思います。

この前の、『ローマ人の物語』最終巻の記事でちょっと言い過ぎたかなと思いまして、主に小説を念頭に置いたものですがこの文章を引用しました。

自分のことを振り返ると忸怩たるものがあります。

ここ2、3年では、「酷評」に近い内容の記事でも、「こちらの感覚の方がおかしいのかもしれない」ということを少しは滲ませた書き方をしているつもりなんですが・・・・・(例えばこの記事とか)。

いずれにせよ、十分自戒したいと思います。

2011年1月12日

引用文(鹿島茂1)

Filed under: 読書論, 引用文 — 万年初心者 @ 06:00

鹿島茂『成功する読書日記』(文芸春秋)より。

『怪帝ナポレオン3世』の著者。)

・・・・・最初のうちは、最小限の情報を書きとめるに留めたほうがよいのです。読書日記だったら著者と題名、これだけでいいのです。

この段階で批評や感想を書くよりも、むしろ、読んだ文章を引用することをお勧めしたいと思います。

その昔フランス滞在中に一人のフランス人学生と知りあって、その学生のアパルトマンに遊びに行ったことがあります。すると驚いたことにアパルトマンには蔵書というものがほとんどないのです。・・・・・なんで本が一冊もないんだと尋ねると、その学生は、自分は貧しい家庭に育ったので、リセにいたときから、本は図書館で借りて読むようにしていた。そのときの癖で本を読んだら気になる箇所をノートに引用する習慣がついた。おかげで一発でバカロレアにも合格できたし、エコールノルマルというグランド・セゴールにも入学できた。僕の蔵書は、リセの図書館や国立図書館で写したノート数十冊分の引用、これだけだと胸を張って語っていました。

引用のためのアドバイスをしておけば、気になった箇所のページは読みながら、端を折っておくといいと思います。貴重な本や図書館で借りた本であれば、付箋を貼っておくといいでしょう。

考え得る究極の方法は、自分では一切本を持たず、図書館の本を徹底利用するということになってきます。つまり私が読書日記のところで例として出したフランスの学生のように、図書館で借りた本から必要な部分はすべて引用しておき、読書ノートを書庫のかわりとするのです。

膨大な蔵書を誇る図書館が書庫の代わりになりますから、お金はかからないわ、スペースはいらないわ、でこんなにいいことはありません。

数年前、これを読んだとき、「こんなことはとてもできない、自分には全然向いていない、やはり本気で精読するつもりの本は買って手元に置いておかないとダメだ、ノートを取るより本に直接線を引いたり書き込んだ方がずっと効率がいい」と考えていました。

しかし最近このブログをノート替わりに使って上記のやり方にかなり近い読書法になってしまっている。

読みたい本を全部買ってたら、さすがに金も続かないし、狭い部屋では置き場所もすぐ限界が来る。

たまたま買って所有している本でも、貧乏性のため、なかなか気軽に赤ボールペンで線を引くという気持ちになれない。

ただし、「どうしても」という本はこれからも買うつもりですし、再読する際に線を引くものもあるでしょうから、結局折衷的やり方になりそうです。

2010年9月10日

津野田興一 『世界史読書案内』 (岩波ジュニア新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 06:00

このブログでは、ど真ん中ストレートで対象になる本。

著者は都立高校で世界史を教えていらっしゃる先生だそうです。

ジュニア新書ということで、主として高校生向けに合計92冊の本を紹介している。

最初と最後に、「はじめに」と「終章 歴史の中で生きてゆく」で概括的に各2冊の本を挙げて、それ以外は四部に分かれた構成。

「第1章 国民国家が生れて、広がる」で近代史14冊。

「第2章 二〇世紀という時代」で現代史25冊。

「第3章 世界各地の「個性」がつくられた!」で前近代の各地域の歴史33冊。

「第4章 世界がひとつにつながった!」で近世以降の世界の一体化に関係する16冊。

巻頭の全リストを見ると、宮崎市定先生の『科挙』『大唐帝国』などを始めとして、このブログで紹介した本ともかなり重なっている(数えたら26冊にもなった)。

やはり基本、高校レベルの本しか読んでないのかと、我ながら苦笑。

本文を読むと、簡潔平易な説明ながら、どれも面白く、読む気を起こさせて、考えさせる文章が多い。

当ブログのように興醒めなネタバレも無い。

本の選択もざっと見たところ何と言うか、センスがいい(偉そうな言い方で恐縮です。ただし私が読んでる本が多いからという自画自賛的理由ではございません)。

通常の歴史書だけでなく、小説(歴史小説に限らず)・雑学的解説書・ブックレット・古典的著作など様々な種類の本が採り上げられていて、一部には漫画もある。

これも退屈さを避けるという意味で、全然悪い印象は受けない。

ブックガイドとして社会人にも向いている。

これを目安に一部を取捨選択した上で、2、3年かけて全巻読破を目指してもよい。

類書で『世界史のための文献案内』もあるが、あまりにも膨大な数の本が挙げられていて、初心者はそれに気圧されてやる気が削がれる恐れがある。

この種の読書案内では、思い切って数を絞って「最低限これだけ読めば大丈夫」というリストを提出してくれた方が、初心者にとっては有益。

例を挙げると、この記事で触れた中嶋嶺雄『国際関係論』(中公新書)巻末の文献案内は必読書30点を明示してくれているのが何よりの長所となっている。

このブログも採り上げた本の数はそこそこ増えているが、それで反って利用しづらくなっているのかもしれない。

全記事から抽出した30~50冊くらいのリストを提示した記事が必要なのかなと考える今日この頃です。

本書は非常に良い。

借りてもいいが、買う価値も十分あります。

手元に置いて暇な時に眺めて、気になるものは一つ一つ読破していきましょう。

2008年3月16日

ショーペンハウエル 『読書について』 (岩波文庫)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 06:00

確か大学時代に読んだはず。

だが、細かな内容はほとんど記憶に無い。

わりと面白かったという印象が残るのみ。

他に書くことも無いのですが、ゴーロ・マン『近代ドイツ史』(みすず書房)で大きな特色を成している思想家に関する章のうち、読んでいて個人的に一番好感が持てたのが、ハイネでもマルクスでもニーチェでもなく、ショーペンハウエルだった。

主著である『意志と表象としての世界』などは、私の頭ではチンプンカンプンで絶対読めないので、この人の政治論をまとめた訳書がどこかから出てくれないかと思う。

白水社から出ていた全集では13巻に収録されている「法学と政治によせて」がその種の文章でしょうか。

今度図書館で借りてみようかと思います。

2007年7月30日

関連文献:読書論

Filed under: おしらせ・雑記, 読書論 — 万年初心者 @ 06:00

今、手元にある主な読書術の本というと以下の通りです。

(1)小谷野敦 『バカのための読書術』 (ちくま新書)

(2)呉智英 『読書家の新技術』 (朝日文庫)

(3)清水幾太郎 『本はどう読むか』 (講談社現代新書)

(4)渡部昇一 『知的生活の方法』 (講談社現代新書)

(5)立花隆 『ぼくはこんな本を読んできた』 (文春文庫)

(6)山内昌之 『「反」読書法』 (講談社現代新書)

(7)斎藤孝 『読書力』 (岩波新書)

(8)勢子浩爾 『自分をつくるための読書術』 (ちくま新書)

(9)福田和也 『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』 (PHP研究所)

読書法として、「本を買うか、借りるか」「読書ノートを取るか、本に書き込みするか」で別れますが、まず読む本について図書館で借りるものを主にすべきと書いてるのは呉氏の2だけで、あと8が一回しか読まない本は借りろと書いてるのを別にすれば、その他の著者は皆できるだけ本は買うべきだと言ってます。

読書ノートについても、2が積極的に書くべき(ただし本の細かな要約的なものでなく自分なりのポイントを明示したもの)としていて、その点3も同様の主観主義的なノートを取ることを勧めてます。9も最終的には何かメモして残しておくべきと書いてます。あとはどんどん本に線を引いたり書き込んだり付箋紙を貼れという人が多いようです。

私の場合、やはり読む本は買ってしまいます。図書館でも借りますが、その時点で通読するためというより、買って読むべき本か判断するための下調べの目的で予約することがほとんどです。

読書ノートについては、今までつける習慣が全くありませんでした。一度書こうと思ったこともあったのですが、全然長続きしませんでした。しかも貧乏性で本に傍線を引っぱったりするのにも抵抗があり、読んでも何もしないというのが常態でした。

しかし生来の物覚えの悪さから、読んだ本の内容を片っ端から忘れるといった次第で、さすがに悔しさが否めず、何とかしようと考え、9で紹介されていた方法ですが、これはと思った記述のあるページの角を折っておくということだけはここ数年するようになりました。これは一番気軽にできることなのでお勧めします。

それ以上のことは今でも滅多にしないのですが、このブログでタイトルと大体の感想以外に、少々細かな内容を記している記事がありますが、それが実質読書ノート替わりになってます。

時には「ネタバレ」に近い記述もあるかと思いますが、個人的には読んだ本のポイントの記憶を鮮明にするのに極めて便利な手段ですので、何卒ご容赦ください。

なお「読書論」カテゴリに吉田寅他・編『世界史のための文献案内』(山川出版社)を入れてますが、類似の本として高島俊男『独断 中国関係名著案内』(東方書店)と、花井等編 『名著に学ぶ国際関係論』(有斐閣)、猪口孝 『社会科学入門』(中公新書)、中嶋嶺雄『国際関係論』(中公新書)を挙げておきます。

2007年2月12日

吉田寅 他・編 『世界史のための文献案内』 (山川出版社)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 06:00

図書館で偶然見つけて借りたのだが、これは非常に有益である。

世界史の各分野ごとに相当数の日本語文献が挙げられており、一部に簡略なコメントが付されている。

やる気の出ないときパラパラと眺めてると、読書意欲を刺激されて良い。

さほど高くもないし、手元に置いておくと便利。

ただし「この本あったら、あの変なブログなんて見る必要ないな」とか身も蓋も無いことは言わないでください。

2006年7月26日

小谷野敦 『バカのための読書術』 (ちくま新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 19:10

今日はちょっと変則。

タイトルの「バカ」とは「哲学とか数学とか、抽象的なことが苦手」な人を指す。

そういう「いちおう学校を終えてしまって、しかしただのベストセラー小説を読んで生きるような人生に不満で、けれど難解な哲学書を読んでもわからない、というような人たち」に、歴史を中心とした読書を勧めている。

これまで読んだ10冊ほどの読書論の中で、一番しっくりくる本だった。

その後、小谷野氏の本はあまり買わなくなったのだが、本書は今も座右に置いて、よくパラパラ眺めている。

本書の歴史の学び方を扱った章の末尾に、歴史小説を中心に30冊ほどの本を掲げた、「難解でない日本史入門ブックガイド」が載っているのだが、世界史のそれは無い。

それなら僭越ながら自分で作ってみよう、というのが当ブログを始めた動機の一つ。

面白く読める、高校レベルからの啓蒙書を集めた世界史ブックガイドを目指しておりますので、宜しければ今後もご覧下さい。

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