万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年7月15日

プラトン 『ゴルギアス』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:52

「弁論術について」という副題あり。

初期・中期・後期に分かれるプラトンの著作のうち、初期の比較的おそい時期に書かれたとみられる。

史上有名なソフィストであるゴルギアス、その弟子ポロス、政治家のカリクレス、ゴルギアスとソクラテスの共通の知人カレイポンが登場し、そのうち前三者がソクラテスと問答を繰り広げる。

以下、議論の概略。

 

 

 

ソクラテス:(ゴルギアスに対して)貴方は何者ですか。

ゴルギアス:自分は弁論家であり、他人にも弁論術を教えて弁論家にすることができる。

ソクラテス:弁論術とは何についての技術なのか。

ゴルギアス:言論についての技術だ。

ソクラテス:その言論は何についての言論か。例えば健康に関する言論なら、それを医術と呼ぶべきだし、身体の状態の良し悪しについてなら体育術となる、その他もろもろの技術も言論に関係がある。

ゴルギアス:それら手仕事の類を含まない、すべて言論を通じてなされる技術が弁論術だ。

ソクラテス:絵画術や彫刻術は言論をほとんど含まないものだが、数論や幾何学、計算術などは言論によってほぼ全てを成し遂げている、しかし貴方はそれら数論などを弁論術とは言いませんね。

ゴルギアス:その通り。貴方は正しい理解をしてくれている。

ソクラテス:では言論のみによって成り立つ技術のうち、数論は数字を対象とする技術であり、天文学は天体を対象とする技術ですが、弁論術は何を対象とするものなのですか。

ゴルギアス:人間に関わるもので、最も重要で最も善いものだ。

ソクラテス:その最も善いものについてはいろいろ意見があって、健康や美しい身体、財産などを挙げる人がいる、すると医者や体育教師や実業家が、自分たちこそ「最も善いもの」を作り出すのだと名乗り出るのではないですか。

ゴルギアス:私の言う「最も善いもの」は自分自身に自由をもたらし、自分の国において他人を支配することができるようになるもの、つまり言論によって人びとを説得できる能力だ。

ソクラテス:しかし弁論術だけが説得を作り出すとは言えないはず、例えば数論家は数について我々に教える際、説得もするのではないですか、貴方の言う説得はどのような性質のものなのですか。

ゴルギアス:法廷や集会における、正や不正についての説得だ。

ソクラテス:「学んでしまっている」ことと「信じ込んでいる」は別のものであり、知識は常に真であるが、信念には真実のものと虚偽のものがあることを認めますか。

ゴルギアス:認める。

ソクラテス:学んでしまっているものも、信じ込んでいるものも、説得されている点では同じであり、説得には知識をもたらす説得と、信念だけをもたらす説得があるのではないですか。

ゴルギアス:それでいいだろう。

ソクラテス:弁論術が作り出すのは、どちらの説得ですか。

ゴルギアス:「信じ込む」方の説得だろうね。

(ここでゴルギアスが、弁論術は知識をもたらす方の説得も作り出せる、と強弁しないのが意外だが、そのすぐ後でソクラテスが、あれだけ多くの人びとに極めて重要な事柄を短時間のうちに教えることは不可能ですからね、と付け加えているのに、ゴルギアスは同意しており、さすがにそうは言えなかった模様。)

ソクラテス:国家が、医療整備、造船、城壁建築、軍事行動などを行う際にはそれぞれの専門家を呼んで意見を述べさせるが、弁論家は何を提案することができるのか。

ゴルギアス:それらの具体的事業を真に推進したのは、医師や船大工や職人たちではなく、それを提案した弁論家たちだ、それこそが弁論術の力だ。その気になりさえすれば、どんな専門家たちよりも大衆を効果的に説得することが出来る。それほどの力を持つゆえに、格闘術と同じように、弁論術もそれを悪用する人間がいる、だがそうであってもそのことで弁論術を教えたものが責任を問われるようなことがあってはならない、弁論術の教師はそれを正しく用いることを前提にして教えたのだから。

 

ソクラテス  あなたにも、ゴルギアス、数多くの討論の経験がおありだろうし、そしてそれらの際には、次のような事実を、充分に見てこられただろうと思うのです。すなわち、話し合いをする人たちは、どんなことについて話し合おうとしているのであれ、そのことについて、互いに教えたり教えられたりしながら、双方の納得のゆくまでその事柄をはっきりさせて、そうしてから、その対談を終りにするということは、なかなか容易にはできないことなのです。いな、もし両者が何らかの点で意見を異にし、その一方が、他方の言うことの正当さを認めなかったり、あるいは、その言い方は明瞭でないと言ったりすれば、そう言われたほうは、腹を立ててしまい、それは自分と張り合うために言われたことであって、その議論で問題になっている事柄は少しも探究しようとはせずに、ただ議論に勝ちたいばかりにそう言っているのだと、こう考えるものなのです。そしてなかには、結局は、とても見苦しい別れ方をする者だってあるわけです。つまり、その場に居合わせた人たちでさえも、どうしてこんな連中の話を聞こうと考えていたのかと、自分自身のためにやりきれない気持になるようなことを、彼らは互いに言ったり言われたりしながら、悪態のかぎりをつくしたのちに、別れるというわけなのです。

・・・・・わたしが恐れるのは、あなたを反駁することで、わたしがその事柄そのものを目ざして、それが明白になることを狙っているのではなく、あなたという人を目標にして、議論に勝ちたいばかりにそう言っているのだと、こうあなたが受けとられるのではないかということなのです。だから、わたしとしては、もしあなたという方も、このわたしと同じような人間の一人であるのなら、よろこんで、あなたに最後まで質問をつづけさせてもらいますが、そうでなければ、これでやめることにしたいと思うのです。

ところで、そういうわたしとは、どんな人間であるかといえば、もしわたしの言っていることに何か間違いでもあれば、こころよく反駁を受けるし、他方また、人の言っていることに何か本当でない点があれば、よろこんで反駁するような、とはいっても反駁を受けることが、反駁することに比べて、少しも不愉快にはならないような、そういう人間なのです。なぜなら、反駁を受けることのほうが、より大きな善であるとわたしは考えているからです。それは、自分自身が最大の害悪から解放されるほうが、他の人をそれから解放するよりも、より善いことであるのとちょうど同じ程度に、そうだからです。・・・・・

2400年前のギリシアにおいて既に、言論の自由をめぐるジレンマは存在していたことが痛感される。

発言者がこういう心構えを持っている場合にのみ、言論の自由は意味のあるものとなる。

言うまでもなく、言論の自由は尊重すべきものではあるが、それはあくまで、真理に到達するための「手段」としての尊さである。

内心の真摯さという前提を課さず、ルールやマナーも無しに、言論の自由を自己目的化すれば、現在の日本のネット世論におけるように、最も粗暴で幼稚で野卑で低俗で悪意に満ちた群集心理が多数派を僭称し、社会と国家を奈落に落とすことになるのが当然です(引用文 西部邁11 内田樹7)。

 

ソクラテス:あなたに弁論術を学んだものは、大衆という一般に物事を知らない人たちの前では、例えば医師という専門家よりも説得力があるのですね。

ゴルギアス:その通りだ。

ソクラテス:すると弁論術は、事柄そのものについては何も知る必要がなく、物事を知らない人の前で知っているように「見える」説得の工夫をすればいいだけということですね。

ゴルギアス:それなら弁論術は大変便利なものということになるのではないのかね。

ソクラテス:では弁論術は、正・不正、美・醜、善・悪については、健康や他の技術と同じように扱うのでしょうか。貴方に就いて弁論術を習ったものは、それらについても学ぶことになるのでしょうか。

ゴルギアス:学ぶことになる。

ソクラテス:では弁論の心得のある者は、大工のことを学んだ者が大工になり、医学のことを学んだ者が医者になるように、正しいことを学んだのだから正しい人になるわけですね。

ゴルギアス:そうなるようだね。

ソクラテス:だが先ほど、弁論術を不正に用いた者があったとしてもその教師の責任は問われるべきではないと言われたが、それと弁論家が正しいことを学んだ以上、常に正しい人であるはずだ、との想定と矛盾することになりますね。

ここで、弟子のポロスが怒り出す。

ポロス:ゴルギアスさんは正・善・美について知らない人が自分のところに来た場合には自分が教えてやるだろうと、きまりが悪いから言っただけなのに、ソクラテスはそのことをつかまえて、話の中に矛盾を見つけてしてやったりと喜んでいる、非常に失礼だ。

ソクラテス:では君が議論の相手をしてくれ給え、質問したければ君からどうぞ。

ポロス:では貴方は弁論術は何だと主張するのか。

ソクラテス:弁論術は真の技術ではなく、「迎合」という働きを持つ経験に過ぎない。人間の魂と身体について、魂に関する技術を政治術と呼び、それは立法術と司法術に分かれ、身体に関する技術(これには統一的名称は無い)は医術と体育術に分かれる。体育術は立法術に相当し、医術は司法術に相当する。この善を目指す四つの技術に対し、無知な人びとに迎合し欺く、醜いまがい物が存在する。医術には料理法が、体育術には化粧法が、立法術にはソフィストの術が、司法には弁論術が、存在する。弁論術は政治術の一部門の影のようなものだ。

ポロス:では弁論家は迎合する下らないものだと言うのですか、国で一番力のある者ではないのですか。弁論家は独裁者がするように、誰でも死刑にしたり、財産を没収したり、国外追放したりしている。

ソクラテス:弁論家や独裁者は最も微力な者だ。彼らは、自分たちに一番よいと思われることをしているが、真に望んでいることをしていない。薬を飲んで苦い思いをすることは、健康になることを真に望んでいるのであって、苦い思いをすることそのものが望みではない、現にしていることではなく、その目的こそが真に望んでいることだ。「現にしていること」を思い通り行う力を持ったところで、善の追求という「真に望んでいること」に合致しないことはいくらでもあり得る。

ポロス:あなたときたら、そうした権力を持つことが少しも羨ましくないようですね。

ソクラテス:不正な仕方で人を死刑にする者は不幸な人間であり、正当な理由にもとづいて人を死刑にする者も別に羨むに足りない。不正を行う者よりも、不正を受ける方がまだしも不幸は少ない、不正を行いしかも罰を受けないのは最大の不幸だ。

ポロスはそれに反論して、当時伯父と従兄弟と異母弟を殺害して王位に就いていたマケドニア王アルケラオスを例に挙げる。

ポロス  むろんあなたは、ペルディッカスの子の、ほら、あのアルケラオスが、マケドニアを支配しているのを、見ておられるでしょう。

ソクラテス  さあね、見てはいないにしても、とにかく、話には聞いているよ。

ポロス  それなら、あなたにはどう思われますか、あの人は幸福でしょうか、それとも不幸でしょうか。

ソクラテス  それはわからないよ、ポロス。だって、あの人とはまだつき合ったことがないのだから。

ポロス  なんですって?つき合ってみたなら、わかるだろうが、そのほかの仕方では、あの人が幸福であることは、即座にはわからないのですか。

ソクラテス  わからないね、ゼウスに誓ってもいい。

ポロス  それではもちろん、(ペルシアの)大王が幸福であることもわからないと言われるのでしょうね、ソクラテス。

ソクラテス  そうなんだ。それでしかも、僕の言うことに間違いはないはずだよ。というのは、教養と正義の徳の点で、彼がどのような状態にあるかを、ぼくは知らないのだから。

ポロス  え?なんですって?幸福の全体は、そのことにかかっているのですか?

ソクラテス  そう、ぼくに言わせるなら、そういうことになるね、ポロス。なぜかといえば、立派な善き人が、男でも女でも、幸福であるし、反対に、不正で邪悪な者は不幸である、というのがぼくの主張だからね。

ソクラテス:(不正な仕方で王位に就いたものの、今もその地位を守っているマケドニア王を誰も不幸とは思わない、と言うポロスに対し)どれほど多くの同意者を並べられても、論証の力で自分が納得されなければ自分の意見は変えられない、同様に君一人を自分に同意させられなければ何一つ自分は成し遂げられないことになると考えている。もし不正に独裁者になろうとして、成功し栄華を誇っている者と失敗し死刑になった者とでは、両者とも不幸だが、前者の不幸がより大きい。

ソクラテス  ・・・・・君のその態度は、何かね? ポロス。君は笑っているのか?それがまたもう一つの、反駁の方法だというわけかね、人が何かを言い出せば、反駁はしないで、あざ笑うというのがだよ。

ソクラテス:君は不正を与えるより、不正を受ける方がより悪い(害になる)と言うが、より醜いのはどちらかね。

ポロス:不正を行う方です。

ソクラテス:身体や声の美しさというのは有益さや快的なものにおいて秀でているということであり、醜いということは逆の苦痛と害悪によって定義され、それは身体や声だけでなく、法律や風俗習慣においても同様のはずだ。

ポロス:ええ。

ソクラテス:ではそれを前提にすると、不正を行う人が不正を受ける人よりもっと苦痛を感じているということはあり得ない、しかしより醜いのは、君も認めたように前者の方なのだから、つまり不正を行う人の害悪が苦痛の小ささの程度を補えない程上回るということだ。害悪の大きい方を選ぶのは自ら不幸になることに等しい。

続いて不正とその裁きについて。

ソクラテス:正しいことはそれが正しいことである限り美しいことである。そして行為については、それを「する」人と「される」人がいる。例えば激しく、速く殴る人に相応して、激しく、速く殴られる人がいる、すなわち、「する」方の性質に従ったことを「される」方は受けることになる。同様に裁きをする人は正義に従ってそれを行うのだから、それによって懲らしめられる人は正しいことを「される」ことになる、先に見たように正しいことは美しく、そして美しさは快さと有益さのどちらかによって定義され、裁かれることは快いことではないはずだから、つまり不正を懲らしめられることはその本人にとって有益さの面で大きく秀でているということになる。裁きを避けようとするのは、治療の表面的一時的苦痛を思って医者にかかるのを恐れる患者のようなものだ、それによって魂の劣悪さという最大の悪から解放される機会を逸しているのだから。

ここでカリクレスが話に割って入る。

カリクレス:ポロスは先ほどのゴルギアスと同じ罠にはまって、世間体から「不正を行う方が、不正を受けることより醜い」ということを認めてしまったので、ソクラテスに言いくるめられただけだ、自然本来においては弱肉強食がその掟であり、強者が全てを支配し押し通すのが当然なのだ、法律習慣は多数の弱者が自らの利益を慮って作り出したものに過ぎない。ソクラテス、私は貴方に好意を持っているから言うのだが、いい歳をして哲学に没入するようなことは止め給え、さもなければいつか悪意ある敵に貴方は告発され、裁判に引き出され、無力のうちに破滅するかもしれないぞ。

ここでのカリクレスは余りに露骨な「強者の正義」を説いている。

ソクラテス:君のように知識と好意と率直さを兼ね備えた友人を説得することが出来れば真理の究極に達したと言えるだろう。では聞くが、「より強い」と「より優れている」は同じことなのか。

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:では自然本来においては一人よりも多数者の方が強いのだから、多数者の作った法律習慣も尊重すべき優れたものではないのかね。

カリクレス:(呆れつつ)自分の言う「強者」は体力以外何の取り柄の無い連中の集まりではない、思慮があり、立派で優れた人のことだ。

ソクラテス:では機織りについて思慮のある者が一番大きな着物を持つべきであり、履物について思慮のある靴屋が誰より大きな履物を持つべきであり、卓越した立派な農夫が多くの種子を取るべきなんだろうね。

カリクレス:(怒り出す)私が言っているのは国家公共の事柄について思慮があり勇気がある人のことだ。

ソクラテス:その人たちは「自分自身を支配する者」なのだろうか?

カリクレス:真の強者は「自分自身に打ち克つ」と称する節制家なのではない。

カリクレス  いや、ソクラテスよ、真実には――その真実を、あなたは追求していると称しているのだが――こうなのだ。つまり、贅沢と、放埓と、自由とが、背後の力さえしっかりしておれば、それこそが人間の徳(卓越性)であり、また幸福なのだ。しかしそれ以外の、あなた方の言うようなあれらのものは、上べを飾るだけの綺麗事であり、自然に反した人間の約束事であって、愚にもつかぬもの、何の価値もないものなのだ。

ソクラテス:人が心に思っていても口には出さないことを、君のようにはっきり述べるのは結構だ。しかし、貪欲な人間とは、魂の中で欲望が宿っている部分が孔の開いた甕になっている、その中にある貴重なものを失うことを恐れて常に苦痛に苛まれているという話もあるのではないか。

カリクレス:いや、自分はそんな例え話で説得されることはない。

ソクラテス:では、君が言う欲望を満たす快的な生活とは、渇いている時に飲む、というようなことだね?そして快と善は同じものだと主張するのだね?

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:健康と病気、強さや弱さ、幸福と不幸、善と悪といったものは、一方に近付けば、他方から離れる、という性質があり、もし我々が同時にそれから離れ同時にそれを持つような性質のものを見つけ出したとすれば、それは善と悪ではありえない、ということに同意するかね。

カリクレス:同意する。

ソクラテス:「渇いている」ことは苦しいものであり、「飲むこと」は快いものだね。

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:すると「渇いている」時に「飲む」ことは、苦痛を感じているのと同時に快楽を感じていることであり、そしてその行為が成し遂げられた途端に、苦痛も快楽も同時に消えてしまう、するとそうした性質を持つ快楽と苦痛は、善と悪ではあり得ない。また別の仕方でも調べてみよう。思慮と勇気のある人も無思慮で臆病な人も、愉快や苦痛を感じる点では同様だが、例えば戦場において敵が退却して行った時には、双方とも愉快がるのかね。

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:敵が攻めてきた時は、どちらの人間が苦痛なのかね。

カリクレス:臆病な連中の方が苦痛に感じるだろう。

ソクラテス:その敵が退却した時には、臆病な連中の方が一層愉快がるのではないか。

カリクレス:多分。

ソクラテス:すると快が善であるならば、無思慮で臆病な人が(敵が退却した際には)思慮と勇気を持つ人よりも善い人間であることになるし、(敵が攻めてきた場合を考慮しても)少なくとも同程度には善い人間ということになってしまう。

カリクレス:貴方は、私がある種の快楽は善だが、他の種の快楽は悪であることを考えていないと思っているのか?

ソクラテス:それを認めてくれるのは結構なことだ。快と善は別のものであり、善を目的として、その為になる種の快だけを選ぶべきだ。それは料理や詩などの営みだけでなく、政治においても変わりない。思えば、テミストクレス、ミルティアデス、キモン、そしてペリクレスといったアテネで大政治家と呼ばれた人びとも、結局民衆の欲求に迎合するだけで、彼らの魂を善きものにするという真の仕事は為し得なかった。アリステイデスだけがその例外だった。様々な専門職の人についてはその技術が吟味されるのに、政治においては物質的な国富や表面的な国威のみが問題にされ、市民を善き人間にするという真の目標は忘れられている。何か不調が起これば、民衆は自らに忠告する人びとにその責を負わせて迫害し、真の責任者たる迎合的指導者を依然褒めそやすだろう。自分も法廷に引き出されるかもしれないが、自ら不正を行わなかったことに誇りを持ち、堂々と死後の裁きを受けるつもりだ。

 

 

 

最高に面白い。

内容的にも主著『国家』に繋がる重要性を持っており、その準備として必読。

訳文はそれほど新しいものではないはずだが、非常に分かりやすい。

強くお薦めしておきます。

2017年7月2日

モンテスキュー 『法の精神』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:46

これも全訳だと長い。

岩波文庫全3巻だが、読めないこともないかもしれない。

そんな気がする。

しかし無理をせず、この抄訳版に取り組んでみる。

「世界の名著」シリーズのモンテスキューの巻に収録されていたもので、原著の三分の一程度を訳出したもの。

うん、これは普通に読める。

三権分立論を説いた古典として、中学校教科書にすら載っている。

まず、全ての政治体制を三つに分類する。

そう言われると、ほとんどの現代人は、君主制、貴族制、民主制と挙げるはずである。

しかし、モンテスキューの分類は違う。

君主制、共和制、専制となる。

大概の人は「何か変だなあ、君主制と専制って似たようなもんじゃないの?」と思うかもしれない。

しかし、モンテスキューによると、前二者が穏和で正常な政治体制であるのに対し、専制は異常で劣悪な体制である。

共和制の中で、人民の一部が主権を持つものが貴族制で、人民全体に主権があるものが民主制。

君主制は一人による統治とは言うものの、法と慣習に則り、貴族や教会をはじめとする様々な中間団体に制約されたもの。

それに対し、専制は独裁的支配者による恣意的支配で、統治者以外は全て奴隷的存在であり、しかもその支配の緩みが即統治者自身の破滅に直結する、不安定かつ抑圧的な体制。

それぞれの体制は、共和制が「徳」、君主制が「名誉」、専制が「恐怖」という発条的精神を持つ。

同じ正常な体制でも、共和制は小規模で質朴な風習を持つ国にしか適合しないので、著者はフランスを含む君主制国家が専制に陥ることなく、抑制と均衡に基づいた国政を敷くことを願っている。

面白い。

同じ政治思想の古典でも、社会契約説の著作より、今読むとはるかに興味深い。

実質的に得るところが多い。

この抄訳でも読んでおけば、かなり有益。

普通にお薦めできます。

2017年6月7日

トマス・ホッブズ 『リヴァイアサン 1・2』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:22

ロックとルソーの主著が適切な長さなのに対し、このホッブズの代表作はかなり長い。

岩波文庫の全訳で全4巻。

初心者が取り組むには、やや長すぎる。

この版は中公クラシックスの多くがそうであるように、元々「世界の名著」シリーズの翻訳を収録したもの。

抄訳ではあるんですが、正直これでも長い。

全体の構成としては、第一部が人間論、第二部が国家論、第三部と第四部が教会の国政介入への批判、ということになっている。

よって考えた結果、第二部だけ読むことにしました。

内容的にはさして興味深いものではない。

これも既知の論旨を原典に当たって確認するだけのことです。

人間の性悪性を真正面から見据えたことには共感できるが、その解決策としてホッブズが提示した、伝統・慣習・教権に一切拘束されない、様々な中間団体の抑制を廃した絶対的主権者という構想は、それ自体が破滅的だと言うしかない。

教科書的には、ホッブズの思想は結局絶対王政の擁護に終わったとされることが多いが、その面だけをもってロックとルソーとの決定的断絶を見るのは皮相的に思える。

政治権力を自由で合理的な個人の契約によって成立したものだとした時点で、ホッブズの絶対的主権者は、世襲君主よりも狂信的民意がもたらす無秩序から生まれた独裁的な「人民の指導者」に親和的なものになっている。

実際、この『リヴァイアサン』は1651年の刊行当初より、王党派からの強い批難を蒙っており、ホッブズは同年亡命先からクロムウェル政権下のイギリスに帰国している。

引用文(クイントン1)の記事で触れた通り、本書の思想が、伝統的保守主義からは大きく離れた、相容れないものであることが理解できていればよい。

これもネームヴァリューだけは凄いから、「とりあえず読みました」という事実だけは作ったほうがいいんでしょう。

でも、感心したり、心底面白いと思うことは、まあ無かったです。

2017年5月20日

ジャン・ジャック・ルソー 『社会契約論  ジュネーヴ草稿』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:23

これも岩波文庫版は読了済み。

「ジュネーヴ草稿」の方は完全に無視。

感想はロック『市民政府論』と全く同じ。

多少興味深い点もないではないが、特にこだわりをもって言うこともない。

初読の際よりは、ひとまず内容をつかみながら読めた。

これだけ著名な作品なので、一読しておくのはもちろん悪くない。

普通に読める難易度だし、300ページ弱だから時間もさしてかからない。

「間違いなく最後まで読みました」、ただそれだけです。

2017年5月2日

アレクシス・ド・トクヴィル 『アメリカのデモクラシー  全4巻』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:55

この作品については、以前、中央公論「世界の名著」シリーズ中の『フランクリン ジェファソン マディソン他 トクヴィル』に収録されている抄訳を読了済み。

(現在では、中公クラシックスから単独で『アメリカにおけるデモクラシーについて』として出ている。)

デモクラシーの到来を必然としながら、その弊害を予見、予防することを目指し、20世紀大衆社会の出現を予言した名著であることは、以前から知っており、やはり全訳を読むべきなのかなあ、でも長いなあと思っていた。

講談社学術文庫に全訳があったのだが、相当古い訳で読みにくそうだったので敬遠していたところ、2005年からこの新訳が出た。

原著の第一巻と第二巻をそれぞれ上・下に分けて、計4冊にしている。

いい機会だと考え、気合を入れて全巻を通読しました。

独立後、半世紀を経て、建国の父たちの精神を失い、「多数の専制」の弊に陥りつつあった、ジャクソニアン・デモクラシー時代のアメリカを活写した政治・社会論。

よって、民主主義批判が盛大に繰り広げられているのかと思ったが、確かにそうした記述が節々に見られるものの、多くの場合、それへの留保や例外が同時に述べられ、何やら隔靴掻痒の感が拭えない。

本書については、以下のような評価があるようだ。

『アメリカにおけるデモクラシー』に即していうと、その「前半」が民主主義を擁護しているのにたいし、その「後半」が民主主義を批判している、というトックヴィル理解が今も罷り通っている。私は、ここにすでに、トックヴィル研究者たちの及び腰が示されているとみる。・・・・・

トックヴィルは「地位の平等」が、一方における権利の完全分与としての人民主権と、他方における権利の完全剥奪としての専制権力とをもたらしうるとわかっていた

「前半」において彼がアメリカを支持しているようにみえるのは、そこにおいては、後者の(全体主義的な)専制権力ではなく前者の(自由主義的な)人民主権が採用されているからであり、そしてその比較のかぎりにおいてである。人民主権は、専制権力との相対でいえば首肯しうるものであろうが、それ自体のうちに何かしら良き事態をもたらすポテンシャルがあるというわけではない、これがトックヴィルの基本的視点なのであった。

・・・・・

あとでもふれるように、「後半」はアメリカ批判を盛大に展開していると受けとられているが、それについてもトックヴィルは注意深く留保をつけている。まとめていうと、公平な「法学者精神」が堅持されているなら、健全な「宗教心」が保守されているなら、そして質朴な「家庭」が維持されているなら、アメリカン・デモクラシーにも望みがあるということだ。逆にいうと、これらのモーレス(風習)が融解の過程に入るならば、人民主権もまた堕落の途へ入るほかないとトックヴィルは見抜いていた。その炯眼は「前半」と「後半」をつらぬいているのであり、だから、両者の違いをことさらに強調するようなトックヴィル研究の眼は曇っているのだといってさしつかえない。その曇りは、おそらく、人民主権と聞いただけでそのドグマに拝跪する、という長きにわたる知識人のモーレスから漂ってくるものなのであろう。

西部邁『思想の英雄たち』より)

本書を読む上では、著者が、社会的平等と自由民主主義の弊害を抑止していると見た健全性が、その後のアメリカ(および日本を含む全ての民主主義国)で雲散霧消する一方だった、ということを常に頭に入れておく必要があるでしょう。

その「健全性」としては、まず、独立革命という形で建国したアメリカ合衆国の建国の父たちが、急進的熱狂的民衆運動の危険性を熟知していたこと。

合衆国の革命は、自由に対する成熟した、思慮深い好みが生み出したものであり、漠然として無限定な独立衝動が生んだものではない。騒乱の熱に支えられることは少しもなかった。それどころか、革命は秩序と合法性を愛する気持ちとともに歩んだ。

それゆえ合衆国では、自由な国では人は何事をもなしうると主張する者はなかった。それどころか、ここでは他の国以上に種々雑多な社会的諸義務が人に課された。社会の力を原理において攻撃し、社会の権利に異を唱える発想はなく、執行において権力を分割するにとどめられた。

・・・・・

すでに示したように、連邦の立法者はほとんどすべて学識に秀で、それ以上に愛国心において目立っていた。

彼らはみな、自由の精神が支配者の強権と不断に戦い続けた社会的危機の中で成長した。戦いが終わったとき、よくあるように、情念をかきたてられた民衆がとっくになくなった危険となお執拗に闘おうとしたのに対して、彼らは立ち止った。祖国をより静かなもっと鋭い目で眺め、決定的な革命はすでに終わり、人民を脅かす今後の危険は自由の乱用からしか生じえないことを認めたのである。彼らはその考えを口に出す勇気をもっていた。彼らこそ、この自由を心底から真摯かつ熱烈に愛していたからである。自由を破壊しようとは思っていもいないことに確信があったからこそ、その制限をもあえて口にした。

違憲立法審査権という特筆すべき武器をもって、法律家集団が疑似貴族階層として君臨し、民衆の衝動的動きを制約した。

法曹身分こそ、民主主義本来の要素と無理なく混じり合い、首尾よく、また持続的にこれと結びつくことのできる唯一の貴族的要素である。法律家の精神に固有の欠陥を知らぬわけではない。にもかかわらず私は、法律家精神と民主的精神のこの混合なくして、民主主義が社会を長く統治しうるとは思わないし、人民の権力の増大に比例して法律家の政治への影響力が増さないとすれば、今日、共和政体がその存続を期待しうるとは信じられない。

加えて、地方自治の発達が、専制君主に対する貴族階層のように、中央集権政府の専横に対する防壁となっていることも指摘する。

宗教がもたらしていた人心の安定も重要な要素であり、それが失われた場合の危険性を以下のように述べる。

ある国民の宗教が破壊されると、国民のもっとも知的な部分が懐疑にとりつかれ、その他の部分も懐疑のために心が半分麻痺してしまう。誰もが同胞と自分自身の最重要の関心事について混乱した移ろいやすい考えしかもたぬ状態に慣れ、自分の意見をうまく擁護できず、簡単にこれを捨て去る。人間の運命が提示するもっとも重要な諸問題を自分の力だけで解くことはできないと絶望し、無気力にもそうしたことがらを考えなくなる。

このような状態は間違いなく魂を柔弱にする。意志の活力を弛緩させ、市民に隷従を受け容れる用意をさせる。

このとき、市民は手を拱いて自由を奪われるに任せるだけではない。しばしば自ら進んでこれを譲り渡す。

政治におけると同じように宗教に関しても権威が存在しなければ、人々はやがて際限のない独立の様相に怖じ気づく。あらゆる事物のこうした動揺は彼らの心を不安にし、疲労させる。精神の世界ではすべてが揺れ動いているので、せめて物質世界は堅固で安定して欲しいと願い、かつての信仰を取り戻しえないので、自ら主人を戴く。

私としては、人が果たして宗教におけるまったき独立と政治における完全な自由とを同時に保持しうるものか疑わしく思う。人間は信仰をもたないならば隷属を免れず、自由であるならば、宗教を信じる必要があるとする考えに傾くのである。

・・・信仰の光が暗くなるにつれて、人間の視野は狭まり、人間行動の目的は毎日すぐにも実現できるように見えてくる。

死後の運命への無関心にひとたび慣れてしまうと、人間は容易に獣とかわらぬ未来に対する完全な無関心に陥るが、この無関心がまた人類のある種の本能とぴたりと適合的なのである。遠い将来に大きな希望をいだく習慣を失うと、人はやがて当然のように矮小極まりない欲求を瞬時に実現したくなり、永遠を生きることに絶望したその瞬間から、一日しか生きられないと決まっているかのような行動に傾く。

不信仰の広がる世紀には、だから、人々が日ごとに変わる欲求に流されるのを常に怖れるべきである。長期の努力なしに達成し得ないものの獲得をまったく諦めて、偉大で安定し持続するものは何一つ築けなくなることをいつも憂慮しなければならない。

このような傾向にある国民のもとで、社会状態が民主的になると、私の指摘する危険はさらに増大する。

誰もが絶えず居所を変えようとし、万人が巨大な競争に巻き込まれ、富がデモクラシーの喧騒の中で瞬時に蓄積されては消失していく、このようなときには、幸運は突然簡単に舞い込み、一財産つくるのも容易だがこれを失うのも早いという考え、つまり偶然のイメージがあらゆる形で人間精神に現われる。社会状態の不安定性が欲求の本来の不安定性を増幅する。境遇がこのように永遠に浮き沈みを繰り返すうちに、現在が拡大する。将来は現在に隠されて姿が見えず、人は明日のことしか考えようとしない。

当時の上院と下院の質的差異について。

ワシントンの下院議場に入ってみれば、この大会議場の俗っぽさに驚愕の思いがするであろう。往々にして、どんなに目を凝らしてもそこには一人の著名人も見出せない。ほとんどすべての議員は無名の人物で、名前を聞いてもどこの誰とも分からない。大半は田舎弁護士や小売商人で、最下層の階級に属する人々さえいる。教育がほとんどあまねく行き渡っている国で、人民の代表がつねに正しく字を書けるとは限らないという。

この議場のすぐそばに上院の扉が開いており、その狭い議場の中にアメリカの著名人の大多数がいる。そこにいるどの一人をとってみても、名声が記憶に新しい人がほとんどである。雄弁な弁護士、すぐれた将軍、有能な法律家、またよく知られた政治家が議員となっている。この議場から発せられる弁舌は悉く、ヨーロッパの最高の議会論争に劣るまい。

この奇妙な対照は何に由来するのか。なぜ国民中のエリートはこの議場にだけいて、もう一つの議場には見られないのだろう。第二院が才能と学識を独占するように思われる一方、第一院にはどうしてこうも低劣な要素がたくさん集まるのか。にもかかわらずどちらも人民に淵源し、普通選挙の産物であって、これまでのところ、上院が人民の利益の敵であると主張する声はアメリカであがったことがない。では、この巨大な相違はどこから来るのか。その説明として私には、ただ一つの事実しか見当たらない。下院の構成を決める選挙は直接選挙であるのに、上院を生み出すそれは二段階の手続きを踏むようになっている。市民全員が各州の立法議会を選出するが、連邦憲法の規定によって、今度はこれら各州の議会が選挙母体となって、その投票によって上院議員が選ばれる。つまり上院議員は、間接的にではあれ、普通選挙の結果を表現しているのである。なぜなら、上院議員を任命する立法議会は、その存在自身によって選挙権を有する貴族集団や特権団体では決してなく、本質的に市民全体の意志に依存するものだからである。州議会は一般に毎年改選されるから、市民はそのたびに新しいメンバーをその中に入れて、選択の方向をいつでも示すことができる。ただ人民の意志は、この選出された合議体を通過するだけでいわば練りあげられ、より気高くより美しい形をとって出てくるのである。それゆえこのようにして選ばれた人々は、支配者である国民の多数の意志をつねに正しく代表している。ただしそれが現しているのは、国内に流通する高邁な思想、国民を動かす高潔な本能だけであり、時として国民を騒がす矮小な情念、その面汚しとなる悪徳ではない。

(なお、上院議員も1913年直接選挙に改められ、現在に至る。)

アメリカが、独立以来、その250年弱の歴史の中で、最初の半世紀間のみ、まともな民主主義国でいられたのは、何のことは無い、これら非民主的要素が多く残存していたからに過ぎない。

現代の社会で、選挙権の制限が現実的では無い以上、まともで公正な議論による政治を取り戻すには、多段階の間接選挙に拠るしか方法が無いでしょうが、「左翼」を口汚く罵っても民主主義と自己への懐疑は持とうとしない馬鹿右翼は聞く耳を持たないでしょうし、右派的ポピュリズムがこれほど蔓延していても非民主的制度には条件反射で反対する馬鹿左翼も同様でしょう。

メディアを制御する大資本とその手先の情報技術屋は、そうした間接選挙すら巧みに操ろうと匿名の闇の中でうごめくのは間違いない。

どう考えても、現代の自由民主主義は袋小路だし、このまま成り行き任せに滅びるしかない。

健全と思われていた時代のアメリカですら、以下のような醜悪な一面が見られたことを、トクヴィルは原注で記している。

1812年の戦争に際し、多数の専制から生じうる行き過ぎの著しい例がボルティモアで見られた。当時ボルティモアには好戦的気分が高まっていた。戦争に強く反対したある新聞がそのために住民の怒りを買った。民衆は集団で印刷機を破壊し、記者の家々を襲撃した。当局は民兵を招集しようとしたが、民兵はこれに応じなかった。そこで、世論の憤激にされされた不幸な被害者を救うために、彼らをまるで犯罪者のように留置場に収監する措置がとられた。この予防措置も無駄であった。夜のうちに民衆が新たに集結し、民兵の招集には失敗し、留置場は襲撃され、その場で記者の一人は殺され、生き残った記者も後に死んだ。しかも告発された加害者は、裁判で無罪放免となったのである。

私はまたある日、ペンシルベニアの一住民と次のような問答をしたことがある。「クェーカー教徒によって建設され、寛容で名高い州で、どうして解放黒人に公民権の行使が許されないのか、説明していただけませんか。彼らは税金を払っているのでしょう。投票権があって当然ではありませんか。」「われわれの立法者が不正で不寛容なそういう仕打ちをしたとお考えになるとは、私たちへの侮辱です」と彼は答えた。「では、お国では黒人も投票権をもっているのですか。」「もちろんですとも。」「では、今朝の選挙人会で黒人を一人も見かけなかったのはどうしてでしょう。」これに対してアメリカ人は次のように答える。「それは法律のせいではありません。黒人にもたしかに選挙に行く権利はあるのですが、彼らは投票を自発的に控えるのです。」「黒人はずいぶん遠慮深いのですね。」「いや、彼らは投票に行くのを嫌がるのではなく、投票所でひどい目にあうのを恐れているのです。私たちの国では、多数者が支持しない法律は効力を失うことが間々あります。そして多数者は黒人に対してこのうえない偏見に囚われており、これに対して当局者は、立法者が黒人に与えた権利を実際に保障するだけの力がないと思い込んでいるのです。」「それでは法を制定する権利をもつ多数者は、また法に違反する特権をももとうとするわけですか。」

その後、黒人への待遇は大いに改善されたと言っても、多数者の偏狭な激情が赴くまま、ありとあらゆる問題で理不尽な抑圧が渦巻く大衆民主主義社会の実状は、現在でも何も変わっていない。

アメリカ人はほとんどいつも落ち着き払って冷静な様子を崩さないが、しばしば唐突な情熱に駆られ、あるいは軽率な意見に引きずられて、理性の限界をはるかに超えてしまうことがある。驚くほどの軽はずみを本気でしでかすところが彼らにはある。

この対照に驚くべきではない。

情報の過剰から生まれる無知というものがある。専制国家では、誰も何もいわないので、人は行動の術を知らない。民主国では、ありとあらゆることを言われるので、人はでたらめに行動する。前者は何も知らず、後者は言われたことを忘れる。

一つ一つの絵の輪郭が無数の細部の中に埋もれて見えないのである。

自由な国家、とりわけ民主的な国家で、公的な立場にある人物は時に暴言の限りを尽くして何の非難も受けない。これには驚かされる。絶対王政にあっては不用意に二言三言洩らしただけで、徹底的に追及され、身の破滅を招いても手の施しようがない。

この事実は先に述べたことで説明できる。大勢の人間で喋るときには、たいていの話は聞き取れず、聞こえても記憶からすぐ消えてしまう。だが口をつぐんでじっと沈黙を守る人々の中では、ほんのかすかな囁きでも耳に入る。

デモクラシーにおいては、人は決して同じ場所にいない。無数の偶発事が絶えず人々の居所を変えさせ、なんとも思いがけず、いわば突発的な出来事がほとんどいつも生活を支配している。そのため、彼らはしばしば、よく分からぬことを行い、何も理解していないことを喋り、長い訓練を受けて準備した経験のない仕事に就くことを余儀なくされる。

・・・・・

好奇心は飽きることがないが、またわけなく満たされる。深く知るより早く知りたがるからである。

時間がないので、やがて深く追求する気持ちを失う。

・・・・・

持続的に注意を払わない習慣は民主的精神の最大の欠陥と考えるべきである。

以下の文章を読んで、傲岸不遜で夜郎自大の自民族中心主義と痴呆的な一方的自国賛美という大衆社会特有の精神的病理に罹っている日本の現状を省みると、本当に何も言う気が無くなります。

あらゆる自由な人民は自分たちに誇りをもっている。だがお国自慢がどこでも同じように現れるわけではない。

アメリカ人は、外国人と接すると、どんな些細な非難も我慢できず、何が何でも褒めちぎられたがっているように見える。取るに足らぬお世辞に相好を崩し、褒めちぎっても滅多に満足しない。人に褒めてもらうために質問攻めにし、こちらが話題に抵抗すると、自分で自分を褒める。まるで、自分自身の価値に疑いをもっていて、だからこそ、始終自分の姿を目に浮かべたいのではないかというふうに見える。彼らの虚栄心は欲張りなばかりか、落着きがなく妬み深い。彼らの虚栄心は要求するばかりで、与えるものがない。物欲しげでかつ争い好きである。

アメリカ人に向かって、お住みになっているこの国は美しいですねと言うと、返事はこうである。「そうですとも、こんな国は世界中にありません。」そこに住む人々の享受する自由を賛嘆すると、こう答える。「自由こそは天の貴重な贈り物です。でも、これを享受するに相応しい国民はとても少ないのです。」私が合衆国の醇風美俗を指摘すると、「他のあらゆる国々に見られる頽廃に衝撃を受けられた外国の方が、この有様に驚かれるのは分かります」と答える。私も最後は突き放して、彼が自分の考えに沈むのに任せる。ところが、またやってきて、言ったばかりのことを私にもう一度繰り返させるまで放してくれない。これほど不愉快でうるさい愛国心は想像がつかない。これを称賛するものをさえうんざりさせる。

イギリス人はまったく違う。イギリス人はその国の有する実際の、また想像上の長所を自分の目で確かめ、静かにこれを味わう。他の国民に長所を認めないとしても、自国の長所を外国人に認めさせようとはしない。外国人の批判に心を騒がせず、御世辞に舞い上がるところは少しもない。外の世界全体に対して侮蔑と無知に満ちた無関心なままである。イギリス人の高慢は養分を必要とせず、独りで育つ。

 

 

 

分量が多い分、以上で引用した以外の部分にも、注目すべき文章は多い。

だが、「多数の暴政」という本書の主張の肝は、中公版の抄訳でも読み取ることが出来るかもしれない。

これだけ重要な名著なのだから、全訳を読んだ方がいいのは間違いないだろうが、初心者にとってそれが必須か、といえばかなり迷う。

余裕のある方は取り組んでみて下さい。

2017年4月6日

ジョン・ロック 『市民政府論』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:58

はるか昔、学生時代に岩波文庫版を通読済み。

もう記憶も完全に薄れているので、この新訳で再読。

他に中公クラシックスにも収録されているが、訳は「世界の名著」シリーズからのもので、新しくはない。

あと、現在の岩波文庫には第一篇も含めた新しい全訳が収録されています。

最近の邦題は『統治論二篇』としている場合が多いが、この訳書は昔ながらのタイトルを採用している。

読んでみましたが・・・・・予想通り全然面白くない。

難解で何を書いてあるのか分からない、ということはない。

初心者でも多少の忍耐を持ってすれば、普通に読める。

だが内容的には感心したり、心に残るところはほとんど無い。

家父長権からの類推を根拠に絶対君主制を擁護するフィルマーら王権神授説論者への批判に説得力を感じないでもないが、歴史上実際の「絶対王政」は諸身分の様々な特権によって制約され、恣意的な独裁権力には程遠かったわけですから。

「自然状態」と「社会契約」という仮構に基づき、平等な原子的個人からのみなる社会を目指した近代の果てに何があったか。

ロックの叙述から「多数の専制」への懸念がほとんど感じられないことに改めて驚く。

自由で平等な個人の多数派が易々と低劣・野蛮な狂信に囚われ、いかなる世襲君主も及びもつかないほどの圧政を敷く独裁者を生み出すことになるとは、ロックには想像だに出来ないことだったんでしょうか。

「自由民主主義の標準的テキストブック」という以上の印象を持つことは難しい。

高校・大学で学んだ内容を原典に当たって確認することに多少の意味はあるでしょうが、まあそれだけですね。

訳文は流暢で読みやすいが、解説は特にどうと言うこともない。

むしろ、ロックを現在のリバタリアニズムの祖として評価するかのような記述は、正直ちょっと気持ち悪いです。

まあ、これだけ有名な著作ですから、知的見栄の為に一読しておくのも決して悪くないでしょう。

2016年10月29日

プラトン 『饗宴』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

結局これを読まないわけにはいかないんでしょうねえ・・・・・。

主要著作の中では一番読む気がしないのだが、新訳でもあることだし、この版を手に取った。

ペロポネソス戦争中の前416年、ソクラテスが参加した宴席が舞台として設定されている。

出席者が愛を司るエロス神を賛美する演説を重ねていくのだが、その中で、太古の人間は頭が二つ、手足がそれぞれ四本の二身同体の存在だった、しかし神々の怒りに触れ真っ二つにされた、それからかつての片割れを求めて、愛する人を求めるようになったのだ、という有名な寓話の語り手が、喜劇作家のアリストファネスであることは今回読んで初めて知った。

ただ、現実のアリストファネスは保守的な人物でソフィストとデマゴーグを徹底批判したが、なぜかソクラテスをその一員として辛辣に描くという、とんでもない誤解もしており、この作中の彼はプラトンの脚色が強い、と訳者は書いている。

これらの話に対して、ソクラテスは、エロスは美・正と醜・悪、また神々と人間の中間に位置する精霊であり、後者から前者への向上力をもたらすものだとする。

そしてその美しくよきものを永遠に保とうとして、子を成すことを通じて不死を達成しようとする。

これは肉体的な意味でだが、精神上の良き魂と徳を育み継承することについても言え、それがより尊いものである。

ここで酔っ払ったアルキビアデスが登場、ソクラテスの賛美を始める。

ソクラテスに心酔するようになったアルキビアデスが、当時の風習に従い、彼と少年愛の関係を結ぶ決心をしたが、ソクラテスはアルキビアデスの肉体的美しさには全く目もくれず自制したこと、その後戦場に市民の義務として出征した際、ソクラテスがいかに勇敢で忍耐強かったかが雄弁に語られる。

そして以下のような気持ちを述べる。

・・・・ぼくは、この人と一緒にいるときだけ、ある気分にとらわれる。ぼくがそんな気分にとらわれるなんて、思いもよらないだろう――誰かに対して自分を恥じるなんて。だが、ぼくはこの人に対してだけ、自分を恥ずかしいと感じるのだ。

ぼくにはよくわかっている。ぼくは、この人の命じることをやらなければならず、逆らうなんてできない。でも、この人のもとを離れると、ぼくは、大衆に賞賛されたいという誘惑に負けてしまうのだ。だから、ぼくはこの人から離れて、逃げる。しかし、この人の姿を見ると、かつて自分が認めたことを思い、わが身を恥じるのだ。

ぼくはしばしば、この人がこの世から消えてしまえばいいのにと考える。しかし、ぼくにはよくわかっているのだ。もし、本当にそうなったら、ぼくはいまよりずっと苦しむことになるだろう。だからぼくは、この人をどう取り扱ったらいいのかわからない。

こういう殊勝な考えを持ち続けていればよかったんですがねえ・・・・・。

この翌年、前415年アルキビアデスは無謀なシチリア遠征を煽動し、あるきっかけから祖国を裏切り、スパルタに投じる。

以後アテネは衰亡の一途を辿り、前404年ペロポネソス戦争に敗北。

アルキビアデスも同年暗殺。

前399年ソクラテスは裁判にかけられ刑死。

その背景として、ソクラテスがアルキビアデスやクリティアス(敗戦後、「三〇人政権」として暴政を敷いた人物)との親交を批判されており、プラトンはそれへの反論を行う必要があったという。

しかし本書について言えば、アルキビアデスを一方的に非難するようなものではない、とのこと。

 

 

思っていたよりもはるかに面白かった。

訳文は素晴らしくわかりやすいです。

それも面白く感じられた理由として大きいでしょう。

これだけ有名な著作を読まないわけにはいかないので、新しい訳の本書であっさり済ませましょう。

2016年7月20日

T・S・エリオット 『文化の定義のための覚書』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 07:06

トマス・スターンズ・エリオットは、1888年米国セントルイス生まれの詩人。

『荒地』『四つの四重奏』が代表作だが、一般にはミュージカル『キャッツ』の原作者と言った方が一番通りがいいか。

1927年英国に帰化、国教会に入信、1948年ノーベル文学賞受賞、1965年没。

この人の保守思想家としての一面は西部邁『思想の英雄たち』で知った。

恥ずかしながら、一時D・H・ロレンスと混同していたことがあった。

(むしろ基本的には対立する関係だったのに。)

本書冒頭の解説は本文の要約として適切。

「文学上は古典主義者、政治上は王党派、宗教上においてはアングロ・カトリック」という自己定義は有名。

(ここでの「アングロ・カトリック」はイギリス国教会のこと。)

(1961年版の[本書初版は1948年])序文でも「・・・・・著者のいまの立場を表すのは、君主制を現在も採用しているあらゆる国が、その制度を保ち続けることに賛成であるということであろう。」と記されている。

(私自身も21世紀の現在において全く同じことを思います。)

本文に入ると、まず文化の総合性を指摘。

個人や集団の文化の総和ではない、一体となった社会全体の文化を把握する必要を説く。

時代の進化にともない職能上の複雑化と専門化が生じても、その必要性は変わらない。

意識化の度合いの高まり、過度の分化が、諸分野の関係断絶状態を通じて、文化の全体性喪失と崩壊に繋がる。

それを防ぐ文化の基盤として、宗教の存在が挙げられる。

文化とは一国民の宗教の化身であるとされる(ただし文化と宗教の完全な同一視には著者は反対している)。

懐疑主義そのものは不信心や破壊性を意味するものではなく、必要なものではあるが、絶対懐疑主義は弱さの表われで文化を死に至らしめる。

社会の分化自体は必然であり、そこから諸階級が生まれる。

その階層性を否定し、原子論的社会観に立つと、結局エリート集団による能力主義的な選抜と競争を通じた統治が行われるしかない。

エリート諸集団の専門化・孤立化が進行し、相互作用が欠如する。

かつての社会では、階級が「器・母体・基盤」として存在し、社会全体の文化の継続性・一貫性を確保し、そこから選び出された少数のエリートが文化の硬直化を防いでいた。

だが、一つの平板な原子的個人の集まりからだけ抽出されるエリートには、そうした役割は望めない。

能力が卓越しているという理由だけで個人として[階級と無縁に]のし上がってきた人たちで構成されたエリート集団においては、文化的素地の相違が甚だしいので、その構成員たちはその辺にころがっている共通の関心事だけによって結びつき、ほかのあらゆる点ではばらばらの状態にあるということになる。

その時の実利的社会状況に適合しているだけの「能力的卓越性」を持った人間が、「その辺にころがっている共通の関心事」で結合しても、文化は低質化する一方である。

そもそも文化伝達の主要な経路は、依然として家族である。

そして過去と未来への畏敬の念が階級を構成する。

伝統と慣習によって与えられる無意識のレベルも重要。

限定された目的ではない文化の全体に通じることができない以上、階級的背景を欠いた能力主義的エリートのみによる支配は必ず失敗する。

その具体例として、ソ連のプロレタリア独裁と並んで、南北戦争後の米国における金権政治上のエリート支配と格差拡大、絶対王政下フランス貴族の無力化とブルジョワへの同化、仏革命後第三共和政の不安定を挙げているのは面白い。

ジョージ・オーウェルの書評(本書解説で紹介されている)のように、この主張を特権階級の一方的擁護論だとの批判に対し、著者は以下のように応える。

ここでいえるのは、支配階級は、たとえどれほどひどいやり方でその役割を果たしていたとしても、強制的に除去されれば、その階級の役割が完全に別の集団によって引き継がれることはないということである。

階級構造のある社会の擁護論、そういう社会は、ある意味で「自然な」社会であるとして、これを肯定する論は、われわれが、貴族階級と民主主義を対照的に捉えて、催眠術をかけられたような状態に陥ってしまっていると、毀損される。もしわれわれが、これら二つの語を対蹠的に用いれば、問題全体は歪曲される。著者が提示したのは、「貴族階級の擁護」などではない。――つまり社会の一つの組織の重要性を強調することなどではない。そうではなくて、他のすべての階級が独特の、本質的に重要な役割を果たしているように、貴族階級も独特の、本質的に重要な役割を果たすような形態の社会の必要性を申し立てることなのである。大切なのは、「最上層」から「底辺」に至るまで、幾層もの文化レベルが相接して存在する社会的構造である。上層をなすレベルは下層をなすレベルよりも多量に文化を蔵していると見なすべきではなく、上層をなすレベルは意識化の度合いの高い文化、より専門化した文化を表しているに過ぎないということを心に留めておくのは重要である。

筆者は、真の民主主義はこうしたさまざまに異なる文化のレベルを包含していなければ、維持されえないという見方に傾いている。比較的レベルが高くて比較的小規模の集団が、比較的レベルが低くて比較的大規模の集団と同等の力をもつ限り、文化のレベルはまた、力のレベルのように見なされえよう。というのは、完全なる平等は無責任の遍在を意味する、という主張は成立可能だからだ。しかし筆者が思い描くような社会では、個人はそれぞれ自分が引き継いだ社会的地位に応じて、国家に対する責任を、大小の差はあれ、引き継ぐことになるだろう。すなわちそれぞれの階級がいくらか差異のある責任を負うことになろう。すべての人がすべての事柄において等しい責任を負うような民主主義であったら、それは良心的な人々にとっては抑圧的なものとなるであろうし、残余の良心的でない人々にとっては、やりたい放題やれるという底のものとなるであろう。

ある社会の中で多様な階層性の存在が重要なことと全く同じように、文化の繁栄のためには、また地域の統一性と多様性のバランスも重要。

中央と地方の相互依存と対立と求心力が均衡していなければならない。

国際社会においても同様。

世界文化がもし実現すれば、それは悪夢としての画一的文化でしかない。

だが、仮構としての統整的理念としてなら有用。

著者は、宗教においても多様性擁護の観点から近世宗教改革の新旧教分裂を肯定的に捉え、プロテスタントにおける国家と教会の分離もよしとする。

三十年戦争、ピューリタン革命など、宗教戦争の悲惨もあったが、英国内の正統はあくまで国教会であるとし、しかし他の教会が豊かな貢献をしていることも十分認めている。

文化の枠組みの中に政治が位置づけられている限り、政治への関心や実践はすべての人の務めとは言えない。

あるいはそうであったとしても、同程度・同平等責任ではない。

ここでも階層性による役割の違いがあって然るべき。

もしそれが無ければ、最も低質で凡庸な意見の勝利がもたらされるだけである。

文化が重層構造をなしている社会、権力や権威が重層構造をなしている社会においては、政治家は発言を行う際に、少なくとも手垢のついた言葉は使うまいとする気構えをもつかもしれない。なぜらなその場合、政治家は少数ながら、散文の規準というものを維持し、批判力に富む人々の見識に対して尊敬の念を抱き、そうした人々の嘲笑を恐れる気持ちを抱くからである。

現在のようにネットというメディアで、すべての発言が相対化されて評価されるようになれば、その価値判断の規準は目を覆いたくなるほど低級化するしかない。

本書では、その規準を保つ上層階級における古典古代の歴史と政治学教育の重要性を主張。

そこには、現代社会の思考上便利な道具となっている民衆という巨大な非人格的エネルギーではなく、個々の人間の情熱が取り上げられているからである。

ごく最近になって現れた政治理論の類いは、従来の政治理論に比べると、人間性にさして関心を払っていない。この種の政治理論は、最も好ましいと見なされる政治形態であれば、それがどのようなものであれ、これに適合するように常に新たに作り直されうるものとして、人間性を扱う傾向がある。・・・・・大衆という空漠としたものの中にのみ人間性を見つけようとしているので、それは倫理から離脱する傾向がある。

社会主義はもちろん、自由民主主義の理論についても当てはめるべき言葉だ。

続けて、教育への過大評価を批判。

知恵と学問への敬意を与えることを越えて、政治的動機付けを行う過剰教育が過少なそれと同様に不幸の原因となりうることを指摘。

機会均等と能力主義の観点から教育の重視が言われるが、教育が普及しないせいで名も無きミルトンが埋もれている可能性が確かにあるものの、その代わり流血の惨事をもたらしたクロムウェルのような人物も生まずに済んでいる面もあるはずだ、と著者は述べる。

加えて、その教育自体が産業社会の効率性への過剰適応によって歪められている。

社会階層の区別が消滅するにつれて、形式的平等社会の中でむしろ醜い妬みとエゴが拡大する。

流行の政治社会理論が大衆の頭に注入され、古典的伝統的学問の継承が断絶。

そこにやって来るのは、歪んだ学歴社会である。

諸階級を保全した上で、その内部で下層階級から優れたものを選び出し、例外的に階層を引き上げることは有益だが、のっぺらぼうの大衆社会から実利的関心だけによって選ばれたエリートは文化的には劣弱と言う他無い。

エリート集団に牛耳られた社会への完全な適合を目指す教育制度は、教育を社会的成功につながるもののみに限定し、社会的成功を、その制度の内部において優等生であった者のみに与えることにもなろう。いくつかの試験に合格し、心理学者によって考案されたテストにおいて優秀な結果を示した人々のみによって支配され、方向づけられる社会の先行きは、安心できるものではない。

「識者」や経済界の圧力で、大学教育をビジネスに適合的なものに「改革」するというような報道に接すると、日本も本格的な衰亡期に入ったなとつくづく感じます。

そうした「改革」を推進する勢力が「保守」を自称し、むしろリベラルな人々がそれに反対しているのを見ると、もう口を開く気も無くなります。

 

 

著作が入手しにくい思想家について手頃で読みやすい本はありがたい。

中公クラシックスの中でも特に嬉しい収録作。

初心者でも十分読みこなせる内容。

堅実な良書。

2016年7月8日

ヒューム 『人性論』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:47

表題作は一行も読んでいない。

哲学者としてのヒュームについては何も理解する能力が無い。

冒頭の解説を読んで何となくイメージをつかむのが精一杯だ。

本書で読んだのは末尾に付録のような形で収録されている「原始契約について」という30ページ余りの政治小論。

社会契約説を批判したもの。

君主による政府を神聖不可侵なものとして、どれほど圧政的であろうともそれへの反抗は許されないとするトーリー党と、政府を人民の同意と原始契約によってのみ作られたものとして、抵抗権を主張するホイッグ党の両者をともに退ける。

まず前者への批判。

政府は普遍的制度であり、すべては神の摂理によるものであるから、君主の権能だけが神聖化される謂われは無い、下級官吏も国王と同じく神の委任に基いて権力を行使していると考えるべき。

一方、社会契約説について。

いかなる権力も多数者の同意と黙諾がなければ存続できないのは確かだろうが、それは平和と秩序がもたらす利益から自然に生まれた習慣的なもので、明示的な契約に基くものではない。

歴史上そのような契約の存在がはっきり確認できる例は無い。

しかも父祖の同意がその子孫をはるか後まで拘束するという、本来共和制の立場を取る著述家にとっては到底承認されえないはずの仮定が含まれている。

実際の政府樹立は征服という力の行使によるところが多い。

政府が成立した後でも、選挙制度による同意機能が過大評価されている。

「扇動的な首謀者の尻馬にのる多数者の熱狂」に終わるものに、政府の唯一合法的な基礎を認めることはできない。

むしろ政府の完全な解体と人民の自由選択の極大化による無秩序が独裁的軍事支配の契機になってしまう。

名誉革命の成果に幻惑されるべきではない、それは政府全体ではなく王位継承のみが変革され、しかも一千万近い人民のうち、それに関与・決定したのは七百人ほどに過ぎなかった。

アテネ共和制も参政権を持ったのは服従義務を負っていた人間の十分の一にも満たず、属領の住民はもちろん排除されていたが、それでも常にその政治は放恣と混乱を極めていた。

最初の政府は暴力、征服によって樹立されたが、長い間秩序が保たれると服従が自発的かつ慣習的なものになる。

しかしそれは個々人の自由意志による契約と選択と見なされうるようなものではない。

ある君主の支配下に暮らしていて、出て行こうと思えば出て行けるのにその国に留まっていることが、契約と同意の証しだという主張もあるが、外国の言葉も習慣も知らず、その日その日をようやく過ごしている貧しい圧倒的多数の一般国民に自国を去るような選択の自由など実質的には無い。

その自由がある場合でも人口の減少が甚だしくなれば、君主は移住を抑制するだろう(本書に記されてはいないが、これは人口減による弊害が大きくなれば他国への移住を選ばなかった国民の権利が損なわれるから正当だということか?)。

人間は突然かつ一気に世代交代をするのではなく、新旧世代が混じり合って生き死にし、しかも不完全で思慮分別を持っているとは必ずしも言えない、よって既存の政体に順応することが必要、父祖の世代の足跡に概ね従うことは避けられない。

人間が制定したものにはある程度の革新はつきものだが、暴力的な革新は危険で不幸なもの。

立法府によって多数の同意を得ていると思われるものであっても、危険なことは変わりなく避けるべき(例として挙げられているのはヘンリ8世による国教会成立やピューリタン革命)。

王位簒奪者と旧君主が交替した時、しばしば気まぐれに両者に支持を与えるような人民の同意にそもそも大きな意味は無い。

ローマの拡大と共和制危機において、アウグストゥスの支配権確立を人民は感謝、支持し、その後継者にも従順の態度を示した。

しかし帝位が一つの家系によって久しく規則的に継承されるということがなくなり、暗殺と反乱によって皇帝の家系が絶え間なく断絶を繰り返すようになったことは、人民にとって不幸なことであり、帝室断絶の度に内乱と皇帝乱立状態となった。

その不幸は、人民に皇帝選択権が与えられていなかったからではなく、規則的に交替し合う一連の支配者を戴くことが出来なかったからである。

この記述には盲点を突かれた。

確かに、ローマ帝国は初代ユリウス・クラウディウス朝以来、安定した世襲継承を確立できなかった。

約500年続いたのに、世界史上の帝国・王国でもかなり異例だ。

にもかかわらず、それを何とも思わず無視するか、あるいは塩野七生氏のように逆にそれを専制王朝とは違う帝政ローマの長所として評価するかである。

安定した世襲王朝を確立できなかった(さらに欲を言えば、統一を象徴する君主と実際的な権力が分離した英国・日本のような史的展開が見られなかった)ことが、ローマ帝国の短所とすべきではないかと思える。

人間は原初的本能のみに導かれれば放埓な自由に耽り、他人を支配することを望む。

そこで経験と反省の力で、平和と社会秩序のために統治者の権威と服従、「忠誠」の必要が出る。

「誠実」すなわち約束尊重の義務は、「忠誠」と同じく人間社会の明白な利益と必要のために生まれたものであり、両者は同格の存在、後者を前者によって基礎づける想定を行う必要は無い。

これに対して、われわれが君主に服従しなければならないのは、あらかじめわれわれが、暗黙の中に、そのような約束を与えているからだ、と答えられるだろう。だが、なぜわれわれは約束を守らねばならないのだろう。これに対しても、もしも人々が契約を尊重しなかったならば、現に莫大な利益をもたらしている、あの人類間の商業取引がなんの保証も得られなくなるからだ、と主張されるに違いない。だが、そのように言われうるとすれば、そこからまた、もしも強者が弱者を、無法者が公正者を侵害することを防ぐ法律や統治者や裁判官が存在しなかったならば、人間は社会生活を、少なくとも文明的な社会生活を送ることはできないだろうという事も、等しい権利をもって言われうるはずである。

忠誠の義務と誠実の義務とは全く同等な力と権威を持つものであるから、一方を他方に還元してみたところで、なんの得るところもない。両義務を確立するものは社会の一般的利益と必要とであり、それで十分である。

政府に服従しなければならない理由を問われた場合、私だったら、なんのためらいもなく、そうしなければ社会が存続できないからだ、と答える。この答えは、明快で全人類にとってわかりやすいものである。ところが諸君の答えは、われわれは約束を守らねばならないからだ、である。だがそんな答えは、哲学的な理論に習熟した人ででもない限り、だれにも理解されないし、また歓迎されもしない。そのうえ、なぜわれわれは約束を守らねばならないのか?と反問されれば、たちまち諸君は返答に窮してしまうだろう。かりに諸君がまともに返答できたとすれば、その答えは忠誠義務を直接的に、なんらのまわり道もしないで、説明するもの以外ではなかったはずである。

その忠誠の対象は誰にされるべきか?

長年続く家系に連なる君主である場合が最も幸福である。

その起源が暴力による権力奪取であったとしても、そうである。

王権にしても私有財産にしても、はるかに遠いその起源において何の不正の痕跡もないことはほとんど無いが、それでも我々はそれを社会の安定のために尊重しなければならない。

もしもわれわれが、可能な限りのあらゆる観点から、ありとあらゆるあげ足取りの論理規則を駆使して、せんさく吟味する似非哲学の跳梁を許すならば、たとえどんな徳、どんな道徳的義務であっても、たちどころに欠陥をさらさないようなものはないからである。

ローマ帝国史における帝位継承時の混乱と専制政府という両極端の危険。

一方、君主制・貴族制・民主制の各要素が並立共存している自由な政府の安定性。

あらゆる革命や政体変革に伴う無秩序を避けるために、王位の継承性が最大限に重んじられるべき。

結局、合法的な政府はすべて原始契約と人民の同意に基かねばならないという理論は、人類一般の感情に反した、あらゆる時代の、あらゆる国民の慣行に反する奇論である。

例えばロックは「絶対王制は市民社会と相容れない、したがってそれは、けっして市民政府のひとつの形態ではあり得ない」(『統治論』)と述べるが、ごく最近まで政府の基礎は契約だなどと考える人はほとんどいなかった、そのようなことはありえない。

 

 

面白い。

私のレベルではやや論旨が読み取りにくいところもあるが、通読に困難は感じない。

ヒュームの政治経済論として、岩波文庫で『市民の国について 全2巻』が出ているが、ひとまずこの小論を読むだけでもいいでしょう。

2016年5月1日

フリードリヒ・エンゲルス 『イギリスにおける労働者階級の状態  19世紀のロンドンとマンチェスター 上・下』 (岩波文庫)

Filed under: イギリス, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:27

再読だったかな?

学生時代買った記憶はおぼろげながらあるが、通読したかどうかは憶えていない。

1845年刊行。

著者はもちろんカール・マルクスの盟友で、共に「科学的社会主義」、共産主義思想を作り上げた人物。

ドイツ・ラインラントの富裕な繊維工場経営者の家に生まれる。

イギリス・マンチェスターにも工場を持っており、その関係でイギリスにおいて得た見聞を元にした作品。

まず産業革命前の社会状況から筆を起こすが、そこでのっけから強い違和感を持つ。

前近代農村での織工たちは、過度の自由競争に晒されず、牧歌的で余裕のある生活を送っていた。

プロレタリアではなく、穏やかな信仰を持ち、上層階級には従順な態度を保持。

にも関わらず、著者エンゲルスは、「彼らは精神的に死んでいた」「・・・・・ロマンティックで居心地はよいが、人間には値しない生活」「彼らはまさに人間ではなく、そのときまで歴史をみちびいてきた少数の貴族に奉仕する、作業機械にすぎなかった」と書く。

こういう決め付けはどうかと・・・・・。

それが産業革命の大波に飲み込まれ、階層分解と大多数のプロレタリアへの転落に追い込まれる。

その貧窮の有様は真に衝撃的である。

「非人間的な冷淡さ」「私的利害への各個人の非常なまでの孤立化」「偏狭な利己心」「個々別々の生活原理と、個々別々の目的とをもった単子への人類の分解」「社会的な戦争、つまり万人対万人の戦争」に覆い尽くされる社会。

恐るべき貧困、過当競争による労働条件の果てしない切り下げ。

公正概念からの逸脱が常態となり、そのような状況下での「自由」は形式化する他無い。

児童・女性の酷使などの惨状を見ると、エンゲルスが「社会的殺人」という言葉を使ったのも断じて誇張とは思えない。

だが、その状況を批判する「未完成なトーリー的ブルジョア」を「工業的・自由主義的ブルジョア」と区別しているが、それならもっと前者を積極的に評価して良いのでは?

それにしても以下の文章には迫力があり、ますます市場主義的価値観に浸食されるばかりの現代社会にも通じるものがある。

この国では社会戦争が全面的に勃発している。だれもが自分のことだけを考え、自分自身のためにすべての他人と戦っている。また公然の敵であるすべての他人に損害をくわえるべきであるかどうかは、自分にとってなにがもっとも有利であるかという利己的な打算にだけかかっている。平和な方法で隣人と意思を通じあうことは、もはやだれにも思いつかない。意見の衝突はすべて脅迫や、自助や、裁判によって処理される。要するにだれもが他人を排除しなければならない敵と見ているか、あるいはせいぜいのところ、自分の目的のために利用する手段と見ているにすぎない。

労働災害、健康被害、詐欺、早死の蔓延など、本書が記す状況は搾取としか言い様がない。

国際競争、自由貿易も労働者にとって災いでしかない。

自分たちの飢えによってイングランドの靴下編工までも失業させることは、ドイツの愛国主義的な靴下編工にとって喜びとしなければならないのではないか?また彼らはドイツ工業の名声をいっそう高めるために、誇りと喜びをもって飢えつづけるのではないか?ドイツの名誉といっても、それは彼らの皿がなかばからっぽであることを要求するからである。ああ、競争とは、「諸国民の競いあい」とは、なんとすばらしいことか!

グローバル化による過当競争に投げ込まれ、ますます労働条件が悪化するにも関わらず、拝金主義的メディアが煽る粗暴なナショナリズムによって、その「国際競争上の必然性」を洗脳され、結果として一部富裕層の思うがままに行動している(米国・韓国・日本などの)国民を思うと、以上の文章は今も深刻すぎる意味を持っている。

醜いブルジョワ社会に抗した「尊敬に値する例外的な態度を示した少数のブルジョアジーの成員」(これにはエンゲルス自身も含まれると個人的には思う)と「人道主義的なトーリー」としてディズレイリカーライルの名が挙がっている。

それを見て現在の新自由主義者は喜び勇んで「左右両翼の全体主義的親和性」を言い立てて、市場主義・リバタリアニズム(自由至上主義)の擁護を主張するだろうが、私はそんなものに同意するつもりは一切ない。

初期資本主義のもたらした恐るべき社会的荒廃こそが、共産主義という狂信を生みだした最大の原因であり、自由(放任)主義こそ、共産主義との真の「共犯」だ。

マルクス主義の全体系を妄想と片付け、その著作を人類史上最悪の犠牲者をもたらした独裁政治の原因となった悪魔の書として弾劾しても一向に構わないが(私もそうする)、本書だけは現在でも読む価値がある。

過去に学び、それを現在に生かすのが歴史を読む目的ならば、その意味で本書は重要な歴史書であると言える。

ご一読を勧めます。

2016年3月6日

トマス・アクィナス 『君主の統治について  謹んでキプロス王に捧げる』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:38

専門の研究者でもない限り、トマスの主著『神学大全』は絶対に読めない。

中央公論「世界の名著」(現在では中公クラシックスにも収録)の抄訳でもまず無理でしょう。

本書はトマスによる唯一の政治論的著作とのこと。

人間が政治的動物であり集団生活をせざるを得ない以上、統治の必要は歴然としている、と述べた後、アリストテレスに倣って、支配者の数に基き、正しい支配を君主制(王制)・貴族制・政体(ポリティア=すべての支配形態に共通の名称)、不正な支配を僭主制・寡頭制・民主制に分類。

(最後のものはそれぞれ民主制と衆愚制でないことに注意。)

そのうち、力と意志を集中させ得ることから、正しい支配の中では君主制が最善であり、不正な支配では僭主制が最悪であるとする。

現代の「常識」では君主制が最善とは信じられないだろうし、不正な支配の中では民主制の悪が最も少ないというのなら、危険の少ない政治体制として多数者の支配たるデモクラシーを理想としていいのではないかと考えるでしょう。

しかしトマスは、最悪の支配体制である僭主制、それもその中でも最悪である過度の独裁制は、君主制からではなく、民主制(とそれに不可避的に付きまとう党派争いから生まれた寡頭制)からこそ、しばしば生じるものだと鋭く指摘する。

ところで、危険のさし迫った二つのもののうち、どちらかを選ばねばならぬ場合、より少ない悪の生じるもののほうを選ぶべきであろう。君主制はたとえそれが僭主制に転じることがあるとしても、そこから生じる悪は多数の貴族たちによる支配が腐敗して生じる悪に比べれば、より少ないものである。

というのも、多数の支配から生じる対立はあらゆる社会集団にとって最重要な価値である平和という善を破壊するものだからである。しかし、この平和という善は僭主制によって必ずしも壊されるわけではない。というのは僭主制の下で最も影響を受けるのは個々人の利益にすぎないからである。もちろん、その僭主制が社会全体を隷属に陥れるような過度の僭主制でなければの話であるが。そういうわけで、これら二つのものがともに危険を孕むものとしても、一人の支配のほうが多数の支配よりも優先されるべきである。

また、重大な危険が頻繁に起こるような類いのものは極力これを避けるべきであるように思われる。多数者にとっての最大の危険は一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でより頻繁に生じるものである。というのも一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でのほうが、人が共通善への配慮から遠ざかることが多いからである。そして数名の支配者たちのなかの或る者が共通善への配慮から遠ざかる場合、その者は配下の集団を対立の危険に晒すことになる。支配者たちの間の確執は集団の対立を生じさせるものだからである。これに対して、一人の人間が支配する場合には、その人間は共通善に大いに注意を向けるものである。そしてたとえかれがそうした共通善への配慮を欠くとしても、そのことが直ちに、かれが民衆を抑圧し、上述のごとく悪しき支配の最悪の形態である絶対的な僭主制になるというわけでもない。したがって、多数の支配から生じる危険は一人の支配から生じる危険よりももっと避けねばならないのである。

さらには、一人の支配よりも多数の支配のほうが僭主制に転落する可能性が稀であるどころか、むしろ頻繁である。というのも多数の支配の下で一度対立が生じると、人はしばしば他の人間たちに抜きん出ようとし、ひとり民衆の支配を恣(ほしいまま)にしようとするからである。このことはかつて実際に起こった事柄からしてはっきり見てとれるところである。すなわち、ローマ共和国の歴史がふんだんに示しているように、ほとんどすべての多数支配は僭主制に終わっているのである。というのもローマ共和国は長い間多数の政務官によって治められていたが、その後、陰謀や対立、あげくは内乱まで引き起こし、最も残虐な僭主の手に落ちたのである。一般的にいって、人がもし過去の出来事や現在ただ今起こっている事柄をよく検討してみるならば、僭主制が栄えるのは一人の支配の下においてよりも、多数の支配の下にある土地においてであることが明らかとなるであろう。

以上の認識が、プラトンらの古代政治哲学、バークのような近代保守主義、コーンハウザーなど20世紀の大衆社会論の叡智と知見に完全に一致していることに感嘆する。

上記引用文中にあるように、ローマ史が教える最大の教訓は、民主化が独裁政治を生むという逆説的真理です(私が塩野七生『ローマ人の物語』を絶賛する気が失せたのは、著者が前期帝政を無条件に肯定しており、それを「民意と世論に基く独裁制樹立」と見る史観をほぼ完全に欠いているからに他なりません)。

そうした古代以来の常識が失われたのが、近代という時代なんでしょう。

義務と忠誠の観念によって階層的に秩序付けられた社会を構成し、その最上層の君主には、伝統的信仰による、現世を超えた拘束を課すという、中世の政治観が至極真っ当に思える。

その表面的な不平等に関わらず、君主制・貴族制・民衆制の三者はいずれもその勢力を保ち、均衡して社会を成り立たしている。

君主による権力の乱用は、貴族と民衆という世俗的要素と教会という宗教的要素によって抑制され得る。

その均衡状態こそ、「真の意味での共和制」と呼ぶべきもの。

だが、そうした階層性を排し、君主と貴族を消滅させ、世俗化によって信仰心をすり潰して教会を無力化し、根無し草の原子的個人だけで構成された(一般的意味ではあるが、実は偽の意味での)共和制が成立した後、民衆煽動の混乱状態から生まれたのが、ファシズムと共産主義という(かつての君主制とは比べ物にならないほど無制限の権力を行使する)左右の全体主義的独裁政治と醜い衆愚世論および拝金主義的資本主義が跋扈する「自由社会」です。

 

 

本文は100ページ余りで、半分以上が訳注と解説なので、読み通すのは楽。

是非にとは言いませんが、一読すれば、その堅実な常識的思考に深く納得するでしょう。

2016年2月5日

田中美知太郎 『ソクラテス』 (岩波新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:01

またえらい古い本を持ち出してきました。

初版は1957年。

著者はギリシア哲学の泰斗。

ソクラテスの「四福音書」、『弁明』『クリトン』『パイドン』『饗宴』への前書き、補註のような著作であり、もし可能ならばプラトン翻訳の抜粋でもう一章付け加えたかったとある。

ソクラテスは前399年に刑死、およそ70歳。

裁判で281票対220票で有罪、刑の申し出において法廷を意図的に怒らせて361票で死刑、脱獄拒否。

前470~468年ごろ生まれ。

プラトンとの年齢差は40年以上。

父はソプロニスコス、母はパイナレテ、妻はクサンチッペ(とミュルト?)、子はランプロクレス、ソプロニスコス、メネクセノス。

父がアリステイデスとと親交あり。

ソクラテス父子が石工であったとの説はあやしい。

アテネ成人男子1人に18人の奴隷がいたという説を否定。

奴隷人口は自由人の半数もしくは全人口の三分の一か四分の一。

クサンチッペ悪妻説もあやしい。

ある一面が拡大解釈された観があり。

アリステイデスの娘ミュルトが後妻(あるいは先妻)ということはまずありえない。

年齢的におかしい。

アリストファネス『雲』では、ソクラテスをソフィスト扱いして非難。

保守的立場より有害な新教育代表者として、啓蒙思想、自然哲学、弱論強弁の詭弁家として。

ソクラテスが自然学を学んだ可能性は高い(晩年はそれに言及しなかったが)。

それで誤解を受けたか。

また空論家ではなく実践と知行合一で死を迎える。

加えて伝統的宗教の否定という罪状も被せられた。

「ダイモンの合図」を語っていたことは事実。

それは禁止的形式で与えられ、占者として受け取るが、それ以外の行動では自分が最善と思うことを行う自由は保持。

ダイモンは神で、ソクラテスは通俗的宗教家などではない。

ペロポネソス戦争でのアルキビアデス、戦後成立した三〇人僭主政権の首領クリチアスがソクラテス的教育の産物と疑われて裁判にかけられる。

裁判においてはダイモンは沈黙、自由は死であると悟ったソクラテスは死を決す。

一生涯自分を律し続けた。

有名なデルフォイ神託「ソクラテスより智慧のある者はない」から「無知の知」という認識に至る。

神のみが智者、人間の無智をあばいて神の智を明らかにする使命を自分に課し、それが原因で死に追いやられた。

そして金銭や身体より精神を良くすることが大事だというソクラテスの言葉に続いて以下の文章が記される。

今日のわれわれにとっては、これはむしろ平凡な教えであると考えられるであろう。こういう話は、もう聞き厭きたような気がしないでもない。われわれはやはり金銭や肉体や名誉や評判を気にせざるを得ない。精神をすぐれたものにするよりも、金銭をできるだけ多く集めることに、気をつかわずにはいられない。しかしそれだからこそ、やはりソクラテスの言行が、好悪いずれにしても、われわれの気がかりとなるのである。かれはわれわれと反対のことを信じ、われわれと反対のことを言い、われわれと反対のことを行って、そして殺されてしまったからである。

ゾピロスという人相見が、ソクラテスの顔を見て、知見も狭く、情欲に傾く性質であると言ったので、その場の人が笑い出したところ、ソクラテスがこれを制して、ゾピロスの言うことは、みな当っている、ただわたしにはそういう傾向があるけれども、ロゴスによって、これに打ち克っているのであると言ったという、半ば創作的な話も伝わっている。いずれにしても、われわれがここに見るのは、外面と内面の著しい矛盾である。そしてこれに対比されるのが、世人の同様な矛盾である。かれらは外面の美や力によって飾られているが、しかしそれらは空しいものであって、その内面は無なのである。このかれらがソクラテスと接触する時、内面が暴露されて、最初の優劣が逆転する。自分の富、自分の強さ、自分の美しさ、自分の才能を頼みにして、この世をわがもの顔に生きている人たちの目には、貧しく醜いソクラテスは、笑うべきもの、軽蔑すべき存在に過ぎなかった。しかしそのソクラテスの前に、やがてかれらは、その自負心を失い、底知れぬ不安を感じなければならぬ。・・・・・われわれはかれらの、そのような無力化に応じて、ソクラテスの内面が、一種の力を得て来るのを感じる。この転換は、しかしながら、ソクラテスの卑しげな顔、話すことの平凡さ、貧しげな様子などを、一つの仮面に変えてしまう。だから、この外見にあざむかれたと思う人たちは、自分の愚をせめるよりも、ソクラテスの外見そのものを、アイロニーとしてにくんだのである。かくて、ソクラテスの存在そのものが、ひとつのアイロニーとなって、ひとびとを不安と絶望に陥れたのである。それは少数の人たちには、哲学への途をひらくことになったかも知れないが、多数の人々は、かくの如き仕方で、自己の無を知ることを、死の如くに恐れたであろう。ソクラテスが呪われ、殺されなければならぬ所以のものが、そこにあるとも言われるであろう。『弁明』・・・・のソクラテスは、自分をあぶにたとえて、人々を目ざめさすために、このアテナイという、図体は大きいが、にぶいところのある馬に、神によって附着せしめられたものだと言っているが、アテナイ市民は、「眠りかけているところを起された人たちのように、腹を立てて」、うるさいかれを叩いて、殺してしまったのである。

ソクラテス告発の理由の一つは民主制批判。

公職抽選制について、船長、大工、笛吹きを抽選で決めないのに、国政をそれに委ねることを批判。

ペロポネソス戦争敗北後のアテネでは、戦勝国スパルタの威を借りる亡命帰国派クリチアス、中間派アニュトス、民主派が対立。

クリチアスを中心とする三〇人政権の恐怖政治が敷かれるが、民主派トラシュブロスの反撃で内戦となり、結局既往を咎めない条件で内戦終結、しかし膨大な数の死者が出た。

クリチアスとの関係を理由にアニュトスが中心となってソクラテスを告発。

しかし、ソクラテスは民主制を根本的に批判したが、かと言って盲目的スパルタ崇拝とは無縁。

ダイモンによって政治に関わることを禁じられている。

「諸君なり、あるいは他の大多数の者なりに、正直一途の反対をして、多くの不正や違法が、国家社会のうちに行われるのを、どこまでも妨害しようとするならば、人間だれも身を全うする者はないだろう。むしろ本当に正義のために戦おうとする者は、それで少しの間でも、身を全うしていようとするならば、私人としてあることが必要なのであって、公人として行動すべきではない」

2500年前のアテネでも現代の日本でも同じですね。

多数の愚者・劣者が作り出す悪を変更不可能な環境とせず、正面からぶつかったら、命が幾つあっても足りません。

だが政治の方が彼に掴み掛かってくる。

人々へ呼びかける哲学である以上、どうしても政治的になることは避けられない。

ソクラテスは、どのような権力者に対しても独立不羈を貫いた。

戦中、406年アルギヌウサイ海戦の処置で、狂信的な圧倒的多数の民衆世論に逆らい、ただ一人指揮官の処刑に反対、告発される危険を冒す。

逆に、戦後の非民主的で寡頭制的な三十人政権の命令も断固として無視。

もし三十人政権が倒されなかったら、かれの死は三九九年ではなくて、四〇三年であったろう。

と書かれているのを見て、やはりそうだったんだと深く納得した。

にも関わらず、復活した民主制の下で死刑を宣告され、堂々と従容として死を迎える。

 

 

随分古い本だが、ずっしりくる読後感があり、読んで良かった。

入門書としては決して凡庸なものではない。

碩学の尊い威光に触れることができます。

2016年1月22日

トマス・カーライル 『過去と現在  (カーライル選集3)』 (日本教文社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 03:38

1843年刊。

カーライルはイギリスの評論家・保守思想家で、『フランス革命論』などの著作あり。

本書は、拝金主義と享楽(快楽)主義という二つの悪魔のひき臼にすり潰されていく近代という時代の全面的批判と、中世という宗教的信仰が人間に確固とした価値観を提示していた時代の擁護を内容とする。

統治の義務と責任を果たそうとせず不労所得による享楽に明け暮れる貴族と、金銭勘定以外の価値観を持たず俗悪な趣味に溺れる新興産業資本家、チャーティスト運動など急進的社会変革運動にのめり込む労働者階級の三者を(労働者階級については産業革命後のその悲惨な境遇には深く同情しつつ)共に批判。

キリスト教的信仰を中核とした形而上的価値の復興を強く訴えている。

功利主義の否定も含め、個人的には全く違和感の無い主張だが、個々の具体的史実についての記述にはやや引っかかりを覚えないでもない。

繰り返し穀物法が貴族階級のエゴイズムの象徴として攻撃されているが、果たしてそう単純に言い切れるものかなと思う。

自由貿易を絶対視するというのは本書の論旨と合わないのでは?

またカトリックへの軽侮、クロムウェルへの礼賛(ピューリタン的価値観を徹底したからか?)、アヘン戦争正当化(これも自由貿易の為という文脈)、黒人・遊牧民への蔑視(時代状況を考えればこれは言っても仕方ないところがあるが)など。

さらにより根本的には、民主主義を批判して「英雄崇拝」と「賢人政治」を復活させなければならないという主張には同意するが、それは歴史的伝統に可能な限り沿う形で、という前提条件を付けなければ(その意味で本書での既存の貴族階層への批判は厳しすぎると感じる)、表面上民主制を否定しつつ実はその徹底と純化に過ぎない右翼全体主義の罠にはまることになりかねないのではないか。

後世のファシズムの先駆だという平板な批判は当らないと思うが、上記の観点からしてある種の危険があるという考えには肯ける。

ただし、言論の自由・民主主義的多数決制・規制無き市場経済の三位一体を揃えて自由放任を貫けば、自動的予定調和的に永遠の進歩がもたらされるのだから、それにいかなる恣意的介入も為すべきではない、それが「保守」というものだ、などという反吐の出そうな風潮への解毒剤には十分なる。

また自由放任的資本主義の弊害を抑制するため、「労働の組織化」の必要を主張しているが、これをもって集産主義への危険な傾向だと(ハイエク『隷従への道』のように)批判する気には全くなれない。

むしろ初期資本主義がもたらした恐るべき社会的荒廃を矯正することがあまりにも遅かったがゆえに共産主義という最悪の狂信が生まれたと解釈すべき。

最近の新自由主義の跋扈によって同じ誤りが繰り返されるのではないかと強く危惧します。

本書は、労使の協調、さらに共同経営すら示唆する「進歩性」を持ち、そのために断固とした国家介入を支持する。

それを指導するものこそ真の貴族であるとする。

イギリスはまだよくやった方か・・・・・。

自らは原則だけを提示し、具体的指針を出すのは適切ではないと書いてあるのだから、なおさら集産主義との批判は当らないと感じる。

もう一つの論点は、すべてが世論の動向次第となり、偽の価値観が横行する近代社会の批判。

広告宣伝と財力が結合し、社会の支配勢力となることの醜悪さ。

第一巻は序言、現状認識と主要論旨、第二巻は中世修道院を例に採ったキリスト教的政治社会の擁護、第三巻は近代イギリスの現状批判、第四巻は将来への展望と諸提案という構成。

読みにくい部分が多く、例示されている固有名詞に馴染みのないものがかなりある。

しかし、全体的印象はやはり素晴らしい。

是非ご一読を勧めます。

 

われわれは、最近、世界は労賃を労働に配当する才能の点で退歩した、といってよいものか?世界は、よかれ悪しかれ、いつもそういう才能をもっていた。かつて手工業者ごときが、マンチェスター暴動によって世界にたいし要求を公表する必要などなかった時代もあった!――世界は、諸国の富、需要供給の法則の類によって、ちかごろ労働と賃金の問題にたいしひどく不注意になっている。世界があわれにもこの点においても退歩した、とはいうまい。むしろわれわれはこういおう。世界はますます多くの仕事をしようと、まっしぐらに突進するあまり、賃金の分配など考える余地がないのである。そうして、弱肉強食の法則、需要供給の原則、自由放任主義など、さまざまのくだらぬ法則、無法によって、賃金が争奪されるままにしている――仕事をなしとげるのに急ぐあまり、それでよろしい!といっているのである、と。

 

なるほど、今日、われわれが、拝金主義の福音によって、奇妙な結論に達していることを、認めざるをえない。われわれは社会とよぶが、全くの分離、孤立を公言してはばからないのである。われわれの生活は、相互に役立つというものではなく、むしろ、「公正な競争」とかなんとかいう名前をつけられた、正当な戦争法規におおわれた相互敵視であるといってもよい。われわれは、「現金勘定」が唯一の人間関係でないことを、いたるところで、すっかり忘れてしまった。われわれは、なんの疑いもなく、「現金勘定」が人間の契約のいっさいを解除し一掃するものと、考える。「飢えかかっている労働者だって?」と金持の工場主は答える、「おれは、やつらを正当に市場でやとったではないか?契約しただけのものを、何からなにまで、やつらに払っているではないか?これ以上、やつらをどうしなければならぬというのか?」――まさに拝金主義とはゆううつな宗旨ではないか。カインは、自分一個のために、アベルを殺して、「弟アベルは、どこにいますか?」と問われたとき、「わたしは弟の番人でしょうか」と、かれもまた答えたのであった。わたしはわたしの弟に、かれが当然受けとるべき労賃をはらってやったではないか?

 

ブル[イギリス国民]は生まれながらにして保守主義者である。このゆえにまた、わたしは言い表わせぬほどかれを尊敬するのである。すべて偉大な国民は保守主義者である。容易に新奇を信せず、現実の状況における多くの過ちをゆるし、法律や、かつて厳粛に確立され、今日にいたるまで長いあいだ正当で決定的なものとして見なされてきた習慣のなかに、偉大なものの存在することを、深く、永久に確信するのである。急進的改革者よ、なるほど正しくいって、最終的習慣などは、どこにもない。それは絶対にないのである。だが諸君は、あらゆる文明諸国において、最終的と考えられている習慣のあることにお気づきであろう。のみならず、古代ローマでは、それは、「モレス」という名のもとに、道徳、徳、神その人の「おきて」と考えられていたのである。いわば、習慣の多くは、こういうものである。ほとんどすべての習慣はこういうものであった。そして「かつては厳粛に認められた習慣」のすべてを、最後の、神聖なものとして、人間が歩くための規則であることをいささかも疑わず、詮議立てしようとしない、まじめな人を、わたしは大いに尊敬したい――諸君は馬鹿というかもしれぬ、が、それはそれにしても良い性質の馬鹿、最良の馬鹿であろう。

 

すべてを利己心や、強欲な金銭欲や、快楽欲、名声欲にゆだねよ――というのが、絶望の福音である。そうなると、人間は新案特許の消化器械となる。たんに自由貿易、自由に消化する場所を与えて、それからおのおの手に入れられるだけのものを消化し、あとは運命にゆだねるというわけであろうか!わが不幸な、働く拝金主義の兄弟よ、より不幸な、のらくろな道楽者の兄弟たちよ、かつて世界がこんなふうに長いあいだまとまっていたことは一度もなかった。・・・・・結局、みんな飢えから泣き叫び、「不可能」となり、狂水病にかかった無数の犬のように、自滅的な狂気に陥るのである。

 

じつのところ、さきに述べざるをえなかったように、「同胞から圧迫を受けない自由」は、人間自由の欠くべからざる一部であるとはいえ、いかにもつまらぬ微々たるものである。ことさらの理由もなしに、だれひとり諸君に圧迫を加える者はなく、諸君に苦役を課したり、酷使できない。なるほど、諸君は、あらゆる人間から自由である。しかし、諸君自身と悪魔にたいしてはどうか?諸君より賢い人も、賢くない人も、諸君を駆使することはできない。けれども、諸君自身の軽薄、錯乱、誤った金銭欲、ウィンザーのジョージ王などはどうであろうか?ああ、自由独立の選挙民諸君、諸君に圧迫を加える者は一人もない、だがこの下らぬビールのビンは、諸君を悩まさないだろうか?どういう人間も諸君を駆使することができない。だが、このばかばかしい麦芽醸造酒のビンは、それができる!諸君はサクソン人セドリックの奴隷ではないが、諸君自身の獣欲や、この光った容器の酒の奴隷である。それでいて、諸君は諸君の「自由」についてむだ口をたたく。なんという大たわけであろう!

 

人間の行き当たるあらゆる道のうちで、いついかなるときにも、まただれにとっても「最善の道」の存在することは、たしかである。この時この場で、なすべきもっとも賢明なことは一つある、――もしかれが、指導によるにせよ強制によるにせよ、ともかくそれを行うことができれば、それはとりもなおさず、いわば「人間らしく」やったのであり、すべての人と神がかれに同意し、じつのところ、全宇宙をあげて、かれによくやったと叫んでいるのである!そうしたばあい、かれの成功は完全であり、その幸福は絶頂に達する。この道は、この道を見いだしそこを歩いて行くことこそ、かれにとって欠くべからざる、唯一の道である。かれをその道に押しすすめるものが、たとえ殴打やけ飛ばした形でくるにしても、すべてそれは自由である。かれを妨げるものが、区理事会、教区総会、投票所、満場の拍手かっさい、川のような麦芽醸造酒であるにしても、すべて隷属なのである。

 

人間の自由が、選挙所で投票し、「見よ、おれも、国会討論会の弁士の一人に二万分の一関係がある。神々は、おれに親切にしてくれるではないか?」というところにあるという考えは、――いかにもこっけいきわまるものではないか!それにもかかわらず自然は、現在のところ親切である。そして多くの、ほとんどすべての人びとの頭にそれを植えつけている。とくに社会的孤立と、だれもがみな別々に分かれて、現金勘定以外、「全く関係をもたぬ」ことによってかちとった自由、こういう自由は、これまでこの世ではほとんど見られなかったものであり、――諸君がいかに勧めても、全世界がこれ以上耐えられぬものである。この自由は、すべての人びとに歓呼をもって迎えられながら、それほど活動をつづけぬうちに、幾百万の労働階級にとって、それが食料の欠乏で死ぬ自由であることがわかる。一方、無数ののらくろ者のばあい、それは、仕事なしに生きること、つまり、この神の世界においてもはや真面目なつとめを持たぬという、もっとも有害な自由である。こういう苦境に立たされる人間はどうなるのか?地上の法は沈黙を守っている。そして天上の法は口をきくが、その声は聞こえぬ。仕事のないことと、仕事の根深い必要とが、まさしく驚くべき新らしい人生観と処世術を生ずる!道楽半分、無頓着、男だて、など、ときにはおそらく半狂乱になったバイロン風の反抗の爆発となって現われる。・・・・・兄弟よ、われわれは、長年の立憲政治をへた現在でも、自由と奴隷の意味が、完全にはわかっていないのである。

 

民主主義、つまりこのような方向へ自由を追求することは、ともかく行きつくところまで行かねばなるまい。あの「馬脚」閣下でも、あるいはその一党のだれひとりとして、それをとどめることはできぬ。あくせくと働く幾百万の人は、指導の必要を痛切に感じ、それを本能的に激しく望むあまり、ニセの指導をしりぞけ、一時的にせよ、指導なんか要らないとさえ考える。しかしそれも一時にすぎない。人間隷属の最小のものは、ニセの長上者によって人間が圧迫を受けることである。もっとも明白であるが、しょせんは最小のものであろう。そうした圧迫をふりとばして、憤然と足でふみつけるがよい。わたしはかれを責めない。あわれみ、称賛する。しかし、ニセの長上者による圧迫を振りとばしても、まだ、解決すべき大問題は残っている。それは真の長上者による統治を見いだすことである!ああ、われわれのように行き暮れて、困惑し、小ばかにし、冷笑し、神を忘れた不幸な者が、どうしてその解決を知るであろうか?それは数世紀にわたる仕事であり、苦難、混乱、暴動、障害によって、われわれは教えられる。災害や絶望によってでないとはいえぬ!それは、他のいっさいの教訓を含む教訓であり、あらゆる教訓のうちで学ぶのにもっとも困難なものである。

 

労働時間法、工場法その他、同様の法案について、筆者は語る資格がない。どういう特殊の方法によれば、法律で、労働者と労働者の親方のあいだに干渉できるものか、わたしは知らない。それはわたし以外の人のなすべきことである。――ただ、わたしに理解できるのは、すべての人たちも理解しはじめているように、法律の干渉、それもかなりの干渉が絶対必要であり、こうした方面のことは、もはや無法乱脈な需要供給として、たんなる賃金相場にだけまかせておけぬ、ということである。・・・・・干渉はすでにはじまっている。それは永続されなければならない。ひろく拡大され、鋭くされなければなるまい。こうした問題は、むなしく暗黒のなかに放置して、人目につかぬままに、しておくことはもはやできない。天はそれを見ているのである。天の祝福ではない、のろいが、それを見ようともしない人びとにふりかかるのである。

 

マンチェスターのような全産業都市はいずれも、その煙とすすをすっかりもやし、全世界におよぶ征服を押しすすめながら、百エーカーばかりの樹木の茂った、自由に出入りできる緑地を確保し、そこに小さな子供たちを遊ばせ、またいっさいを征服する労働者に、そこでたそがれどきの微風に息をつかせるべきではなかろうか?諸君はそのとおりだというにちがいない!議会にやる気さえあれば、実行をもってこたえることができるのである。・・・・・そして「おれのもうけがなくなる」といって反対するような「既得利権」にたいしては、ことごとく――議会にやる気があれば、こう答えるであろう、「そうだよ、しかしわが国の子供たちが健康と、生命と、魂を得るのだ。」――「それじゃ、われわれの綿紡績業はどうなるのか?」と、工場法が提出されると、ある紡績業者はさけんだ、「われわれの大切な綿紡績業はどうなるのか?」イギリスの人びとは断固として答える、「これらの幼児の弱々しい滅びそうな魂をすくうべきである、おまえの綿紡績業は成行きにまかせておくがよい。一つは神さまの命じていることだし、もう一つは別段神さまの命じていることではない。われわれは、悪魔と組むようなことまでして、綿紡績業を繁栄させることはできない!」

2015年11月22日

マイケル・サンデル 『それをお金で買いますか  市場主義の限界』 (早川書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 00:23

1980年代以降、西側世界を制覇した市場主義を批判した本。

非市場的規範が律してきた公共的部門である教育・医療・治安・司法・安全保障・環境政策に入り込み、さまざまな問題を引き起こす。

これに反対する二つの理由がある。

一つは不平等。

貧しい人々が不当に不利な扱いを受ける、というもの。

もう一つは腐敗。

たとえ条件が平等でも、それらの分野の商品化自体が社会的善を腐敗させてしまう、とするもの。

結果、現代社会は、市場経済を持つ状態から市場社会である状態に陥ってしまった。

市場の論理も、独特のやり方で公共生活から道徳的議論を排除する。市場の魅力の一つは、市場が満たす嗜好について判断を下さないことだ。ある善の評価の方法がほかの方法よりも高等かどうか、あるいは価値があるかどうかを問わないのだ。誰かがセックスや腎臓を金で買いたいと思い、同意する成人が売りたいと思えば、経済学者が問うことはただ一つ、「いくらで?」だ。市場は駄目を出さない。

市場は立派な嗜好と低俗な嗜好を区別しない。

取引をする両者は、交換するものにどれくらいの価値を置くかをみずから決めるのだ。

価値判断を避けるこうした姿勢は、市場の論理の中心にあって、その魅力の大半を説明する。しかし、市場を信奉してきたことと、道徳的・精神的議論に関与したがらない姿勢のために、われわれが支払った代償は大きかった。公的言説から道徳的・市民的エネルギーが失われ、こんにち多くの社会を苦しめているテクノクラート的で管理主義的な政治がはびこる羽目になったのだ。

人生のあらゆる問題を個々人の物資的利害と効用に還元する経済学的アプローチとそれに基くインセンティブ政策乱発の欠陥を著者は指摘。

経済学は価値判断をしない学問であり、道徳哲学とも政治哲学とも無関係だという考え方は、つねに疑問視されてきた。だが、経済学が思い上がった野望に燃えるこんにち、この主張を擁護するのはとりわけ難しくなっている。市場の範囲が生活の非市場的領域に広がれば広がるほど、市場はますます道徳的問題にかかわるようになるのだ。

経済効率について考えてみよう。それを気にするのはなぜだろうか。おそらく、社会的効用を最大化するためだろう。この場合、社会的効用とは人々の選好の総和として理解されている。マンキューが説明するように、資源の効率的な分配は社会のあらゆる構成員の経済的福祉を最大化する。では、社会的効用を最大化するのはなぜだろうか。ほとんどの経済学者はこの問題を無視するか、さもなくば何らかの形の功利主義的な道徳哲学に頼る。

だが、功利主義はいくつかのおなじみの反論にさらされる。

市場の論理に最もかかわりのある反論は、選好の道徳的価値にかかわらず、それを最大限満たすべきだとする理由を問う。オペラが好きな人もいれば、闘犬や泥んこレスリングが好きな人もいる場合、われわれは本当に価値判断を避け、功利計算においてこれらの選好を同列に扱わねばならないのだろうか。

市場の論理が、たとえば自動車、トースター、薄型テレビといった有形財にかかわるとき、この反論は大きな意味を持たない。商品の価値は消費者の好みの問題にすぎないと想定するのは、理にかなっている。だが、セックス、出産、育児、教育、健康、刑罰、移民政策、環境保護などに市場の論理が応用される場合、あらゆる人の選好が同じ価値を持つと想定するのが妥当とは言いにくい。道徳的負荷のあるこうした領域では、善を評価するある方法のほうが、別の方法より高級で適切かもしれない。

もしそうだとすれば、われわれが選好の道徳的価値を追求せずに、それを見境なく満たすべきだとする理由ははっきりしなくなる(子供に読書の楽しみを教えたいという願望と、至近距離でセイウチを撃ちたいという隣人の願望を、本当に同じように扱うべきだろうか)。

道徳的問題の領域に市場原理を導入することによって、社会的善が取引の中で腐敗する。

経済学者は利他心や連帯心などの美徳を「節約」して市場では解決できない問題に当てた方が良いなどと、利いた風な口をきくが、このアナロジー(類推)は著者によれば不適切である。

それらの美徳は使うと減るようなものではなく、鍛えられて強くなる筋肉のようなもので、使わなければ退化するはずだ、と。

 

 

具体的事例が多く、それが内容の中心。

それゆえ、読みやすく面白いと一応は言える。

そこで描かれるアメリカ社会の実態はもう狂ってるとしか言い様がない。

そして日本もこのような国になりつつある、というかほぼなってしまったことにぞっとする。

自由と市場の名において、最低最悪の醜い利己主義を正当化し、恬として恥じない経済学者と新興起業家という人種に、心底からの嫌悪と軽蔑を感じる。

そしてそれを矯正するどころか、迎合して「左翼」を批判した気になっている自称「保守」「右派」には反吐が出る思いだし、もう「(国民を道連れにせず自分達だけ)地獄に落ちろ」と言いたい気分だ。

 

 

『これからの正義の話をしよう』『公共哲学』に比べると、テーマが限られており、やや食い足りないが、それでも良質な読み物であることに変わりはないでしょう。

2015年5月10日

プラトン 『メノン  徳について』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 16:32

テッサリア出身でゴルギアスの弁論術を学んだ若者メノンが、前402年ごろソクラテスと対談したという設定の著作。

メノンはこの直後、ペルシア帝国の皇位争いに加わったギリシア傭兵の撤退戦である「アナバシス」で敗死したという。

一応内容をノートしてあるんですが、自分で書いていながら読み返すとよくわからない部分がある。

「解読」に苦労しながら、たぶんこういうことだろう、こうすれば何とか意味が通る、と考えてこの記事を書く。

いつもの如く、私が書く内容紹介はあまり信頼せず、ご自身でお読みになる際の参考に止めて下さい。

 

本書はまず徳について三種の考え方を提示。

(1)伝統的人々=優れた人のあり方を示す徳という言葉に当てはまる慣習に従うだけで、それ以上突き詰めて考えようとしない。

(2)ソフィスト=人々を支配し統率する力が徳、知恵を教える賢者と自らを規定(ゴルギアスにはやや慎重な部分があるが)。

(3)ソクラテス=徳は単に有益なものではなく探求の対象、無知の知の自覚の重要性、徳はソフィストが主張するように職業的に教えられるようなものではない、しかし広い意味での教育は重視する。

(1)の立場にはアニュトスがいて、この人物はペロポネソス戦争での敗北後アテネに成立した「三十人僭主」政権が打倒された後、前399年民主派政治家としてソクラテス裁判を主導する。

対談では、まずメノンが、徳は教えられるか?と尋ね、それに対しソクラテスは、それ以前に徳とは何なのかと問い返す。

メノン:男・女・子・年長者・自由人・奴隷にそれぞれの立場に応じた徳(アレテー=卓越性)がある。

ソクラテス:それらに共通する徳があるはず、また単なる卓越性でなく正義と節度といった条件もまた付く必要がある、その条件も徳である。

メノン:美しい立派なものを欲し、それを獲得する力があることが徳。

ソクラテス:「美しい立派な」ものはそれを「よい」と思うから欲するのであって、逆に悪いものを欲する人間も本人はそれを「よい」ものと思っているから欲している、「悪いものを欲する人」はいない、「よい」「悪い」を真に識別する知こそが重要、またそれを獲得する能力に問題を移せば、例えば富や要職を不正に手に入れるのは悪徳だ、正義や節度といったアレテーの「部分」が伴わねば不徳に陥る、しかしそう考えると「部分」が伴っているか否かで徳・不徳が決定されることになり、部分で全体を定義している矛盾に陥る、もっとも自分も徳そのものが何であるかを知ってはいない。

メノン:「探求のパラドクス」を提示。すでに知っていることを人は探求しようとはしない、一方知らないことはこれから何を探求するかさえ知らないので探求できない、という考え方。

ソクラテス:怠惰および論争のための論争の口実となるこのパラドクスを否定、魂の不死という立場から、「学習」とは実は「想起」であるとの説を提示。適切な問答で正しいドクサ(ここでは考え・判断・思惑・推測)に達し、自分で自分の中の知識を「再獲得」するのが学びだ。そして徳とは何かに戻って、それは教えられるものなのか、知識なのかを考察。徳はよい、有益なものだが、健康・強さ・美・富という有益なものも正しい使用が無ければ有害、勇気も単にある種の「元気」に過ぎなければしばしば有害、節度やものわかりの良さも同じ、これらすべては知によって導かれる限り有益で幸福、したがって徳は知であると言えるが、しかしこの「知」は果たして教えられるような知識か?、と疑問を呈する。

ここでアニュトスが登場(この対話は明らかに架空で事実ではないとのこと)。

アニュトス:ソフィストを批判。

ソクラテス:自身もソフィストに批判的だが、しかし何も知ろうとせずに非難することをたしなめる。

アニュトス:立派で優れたアテネ人に付き、教えを受けさえすれば立派な人間になれる。

ソクラテス:テミストクレス・アリステイデス・ペリクレスという偉人の息子たちが優れた人物になれなかった、もし徳が教えられるようなものなら、彼らがあえて自分の息子に教えないということがあり得るだろうか?

(アニュトスは怒って退場。)

ソクラテス:具体的行為の正しさについては知が導かなくても「正しい考え(ドクサ)」があればよい。ただし「正しい考え」は魂に長期間留まらないことが多く、原因の推論を行う知のように安定的に持続するものではない、アニュトスが挙げたような人々は知恵ある賢者ではなくドクサによって政治的統率を行っているだけ、だから他者を教え諭し自身と同様の優れた者にできない、彼らは知の点では託宣者・預言者と何ら変らない、彼らに対する称賛の言葉「神のごとき人」とは実は「神懸かりの人」とでも解釈すべき。もちろんソフィストも徳の教師ではない。結局徳そのものが何であるかは、無知の知の自覚に基づく徹底した自己探求によって知るしかない。

 

 

短いので読みやすい。

訳者解説が半分を占める。

『プロタゴラス』と同様、初心者も気後れせず読了していけばいいかと思います。

2014年11月12日

ジョン・スチュアート・ミル 『自由論』 (日経BP社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 07:00

原著は1859年刊で、有名な「愚行権」および「他者危害の原則」という概念を打ち立てた自由主義思想の古典。

「他者に明白な危害を与えない限り、たとえ社会通念上愚かで自身に損害を与えるような行動でも、基本的にその人間の自由にさせるべきであり、社会や国家が干渉すべきでない」という考え方。

現代社会の我々も基本そう考えて日々暮らしているわけですが、これはどうなんですかねえ・・・・・・。

こうした一見無秩序で放任的な自由が、実は社会の進歩を促す貴重な前提になるというが、自由を保障しさえすれば(それを行使する多数者の資質を問わずとも)必ずより良い変化がもたらされるという進歩主義的考えに全くついていけない。

ミルには、多数派による(世論の)専制を批判する視点もあり、それは大いに説得的なのだが、形式主義的な自由こそ、そうした「多数の専制」を生み出す大前提になってしまっているのではないか。

ミル自身のように優れた少数者から多数者たる民衆に自由が拡がった時、一体何が起こるのか、19世紀の楽観的自由主義者が考えたのとは天と地ほど異なる事態が20世紀以降生じたと言うしかない。

19世紀の進歩的自由主義と20世紀の全体主義の関係は「原因と結果」です。

伝統と宗教から解放され自由を得た民衆が精神的アパシーに陥り、左右の狂信的イデオロギーに囚われ、ありとあらゆる愚行と惨劇を繰り広げて、人類自体を滅亡寸前まで追い込んだことが、ここ100年余りの世界史の実像です。

それを「進歩に逆らう一部の前近代的反動勢力によってもたらされた悲劇」と片付けるのは詭弁もいいところだ。

例えば本書には以下のような文章があります。

論争者がおかしうる罪悪のうち最悪のものは、自分と対立する意見をもつのは悪人、不道徳な人間だと決めつけることである。こうした誹謗中傷でとくに打撃を受けるのは、不人気な意見をもつ人である。一般に人数が少ないし影響力がなく、公平に扱われているかどうかに関心をもつのは当事者とその仲間だけだからである。そしてこの誹謗中傷という手段は、その性格上、主流の意見を攻撃する人は使うことができない。この手段を使えば、自分自身が危険にさらされることになるし、また、危険にさらされることなく使えたとしても、自分の主張が信用されなくなるだけである。一般的にいって、主流の意見に反対する側は、つとめて穏当な言葉を使い、不必要な刺激を注意深く避けることによってはじめて聞き手を獲得できるのであり、この基準を少しでも踏み外せば、ほぼかならず立場が悪くなる。これに対して主流の意見を主張する側は、反対意見に対して無制限に誹謗中傷を浴びせる方法で、反対意見を表明したり、反対意見に耳を傾けたりするのをためらわせることができる。したがって、真理と正義のためには、少数意見を主張する側が使う誹謗中傷より、主流の意見を主張する側が使う誹謗中傷の方がはるかに、抑制する必要が高い。たとえば、どちらかを選択する必要があるのであれば、宗教に対する暴言より無神論に対する暴言の方が、止めさせる必要性がはるかに高いといえるだろう。

「愚かで卑怯な多数者が、賢明で冷静な少数者を誹謗中傷という言論の暴力で圧迫する危険が常にある」という意味でなら、上記の文章は形式的には何ら反対するところが無い。

しかし実際の歴史に即して考えれば、自由主義思想の普及により国家と政府による抑制が徐々に取り除かれるや、一般民衆は伝統や身分や宗教による束縛を排除し、(上記の文章で言う)19世紀における主流意見の宗教擁護と少数意見の無神論の関係を逆転させ、後は自分達の気の向くまま、(共産主義からファシズム、人種主義的ナショナリズムから市場原理主義的新自由主義に至る)あらゆる種類の世俗的イデオロギーに基づく狂信を誹謗中傷によって広め、(ミルが必要と考えた)一切の自制を示すことなく、多数派世論の専制を完成させて現在に到っています。

19世紀の少数者(象徴的に言えば「無神論」、あるいは民主主義でも物質主義でも進歩主義でも何でもいい)を自由の美名の下に寛容に扱ったのはいいが、それらが異常増殖して20世紀に主流にのし上がった後は、この低劣・無残な新しい多数派は自由や寛容などには何の配慮も払わない存在に化していた。

その結果が、全体主義的独裁と自由の根底からの喪失であり、それを避けられた場合でも無秩序で低俗な放縦を自由と取り違えるような社会なのだから、やはり近代においてどこかで自由の制限があってしかるべきだったのではないか。

本書の末尾には佐藤光氏という方の解説が載っているのだが、これは非常に重要です。

「危害原則」は低劣な自由を正当化するものではないとした上で、

自分も権力者の一人であることを忘れ、「権力者」のわら人形を仕立てて血祭りに上げ、相互に寛容であるからこそ各人が気ままな生活を送れることを理解せず、言い分が通らないからといって、突然多数の通行人を殺傷し、議論はおろか、あいさつさえ嫌って、閉め切った部屋の中でインターネットにしがみつくといった人間たち・・・・・・

また「危害」をどう定義するかについては、

ミルが活躍した時代は、イギリスの全盛期ともいえるビクトリア朝時代に重なるが、当時のイギリスには、こうした「境目」を暗黙のうちに誰の疑問の余地もなく決める「醇風美俗」が、うっとうしいまでに分厚く残っていたものと思われる。ミルは、こうした「醇風美俗」、あるいは「常識」「慣習」「習慣」などを「世論」と一緒くたにして、しばしば激しく非難しているが、何が、公権力の介入を必要とする「危害」あるいは「犯罪」なのか、何が、単なる「弁証法」における不快感の表明に留めるべきことなのか、などの境界は、「常識」「慣習」「習慣」、あるいはマイケル・ポランニーの言葉を借りれば、明示的な言葉や理性を超えた「暗黙知」によって決められる。というより、良くも悪くも、それらによって決められるほかのないものなのである。その「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」の力が、今日では弱まりつつある。

私が本書で最も不満に思うところを極めて明確に示してくれた文章です。

結局、言論、表現、契約、結社、経済活動等の様々な自由は、自らの基盤を成す、こうした「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」を弱体化させる、自己破壊的性質を持っているのではないか。

実定法がそうした「常識」の代わりになると楽観するのは、脱法的な社会悪がこれ以上無いほど蔓延している現状を見れば全く説得力を持たない(荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ))。

そもそも、自由な合理的個人による契約のみが社会秩序の源泉だと考えること自体が妄想だ。

自由を行使する人間の資質を問わなければ、社会は止めどなく堕落していく一方である。

自由主義は自らの原則の外にあるものの支えが無ければ、実は成り立たないのではないか。

顕著なのは進歩主義のイデオロギーである。個人や集団による自由の発動が、必ずや、個人の人格的発展と社会の調和的前進をもたらすであろうという思込みである。人間の不完全性を自覚すれば、つまり「無知の知」を知れば、社会全体を合理的に設計することが不可能だと分り、したがって社会主義やケインズ主義の間違いもわかる。しかし同時に、その人間の不完全性にかんする自覚は自由にかんする自己懐疑をも促すはずではないのか。とりわけ市場的自由によってもたらされる生活の変化をつうじて、慣習的な規則がどんどん形骸化し、ますます動揺するかもしれぬという懐疑がわいて当然ではないのか。この懐疑を封じるものこそ進歩主義の思想である。実は、新自由主義もその思想から自由だというわけではない。新自由主義が実際の経済活動に指針を与える際にレッセ・フェールに与しがちであるのは、それが自由への懐疑を失って進歩を信仰している点にあると思われる。またそれの主張する法と秩序がエスタブリッシュメントのための法制定を弁護するのに終わりがちなのも同じ理由による。つまり、政治の場面におけるレッセ・フェールを支持する結果、強者の論理がまかり通るのである。自由主義は、その新旧を問わず、自由の内包する自己破壊的な性質について、つまり自由の依って立つ基盤である慣習的な普通法が自由によって掘り崩されるという可能性について、無頓着である。

西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社)より)

そのことを自覚している保守的自由主義になら私も共感を抱く。

しかし、本書のような進歩的自由主義に対しては、建前上の綺麗事といった感が拭えず、保守的立場からして反面教師としての読み方しかできない。

本書には、以下のように極めて注目すべき文章もあるにはある。

個人間の違いをなくしていく要因として、以上の要因すべてとくらべてもさらに強力なのは、イギリスをはじめとする自由な国で、世論が政治を支配する状況が確立したことである。以前なら社会的地位の高さに守られて大衆の意見を無視できる人がいたが、いまではそうした地位が徐々に低下しているし、大衆の意思がはっきりしているときに、必要ならその意思に反対するという考え方自体を現実的な政治家がもたなくなってきている。このため、大勢に順応しない姿勢は社会の支援を受けられなくなった。社会のなかである程度の力をもつ勢力が数の支配に反対していて、大衆のものとは違った意見や傾向を保護しようとする状況ではなくなっているのである。

この認識は極めて鋭いが、ここまで見通しておいて、なぜ民衆への自由の拡がりを楽観視できるのか?

 

 

(少数派の)思想・言論の自由、個性尊重、個人に対する社会の権威の限界という、本書で展開されている主張は、20世紀以降、民衆の多数派によって加えられる抑圧への抵抗としては首肯したいが、本書が書かれた肝心の19世紀の状況については適用するのをためらう。

むしろ、伝統や常識を一顧だにしない、予定調和的進歩を能天気に想定する自由(放任)主義が、恐るべき結果をもたらし、その悪影響をほとんど払拭できない状況下で現在の我々も生きていると言うべき。

 

 

さほど難解ではなく普通に読める。

少なくとも初心者であっても、論旨が全く読み取れないということは無いはず。

社会思想史上、有名な古典ですし、読了しておくのも悪くない。

ただし、上述の通り、私はあまり感銘を受けるようなことはありませんでした。

2014年2月19日

西部邁 『ソシオ・エコノミックス』 (イプシロン出版企画)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:24

原本は中央公論社から1975年に刊行。

西部氏の処女作か。

理性的な原子論的個人と社会的均衡・完全競争市場の仮定に基づく新古典派(主流派)経済学を批判する書。

これはきつい。

途中までは何とか通読できたが、第3章あたりからはやむを得ずとばし読み。

以下、印象深い部分だけ引用。

マルクス経済学がフェティシズムつまり物神崇拝の病理の世界を資本の運動法則とやらで否定的に隠喩する弁証であるのにたいし、近代経済学はヘドニズムつまり快楽主義の世界を市場競争の効率性とやらで肯定的に暗喩する論理である・・・・・・

マルクス経済学が論理的に欠陥だらけでその実践の結果、史上最悪の全体主義的独裁政治がもたらされたことは絶対に間違いないが、近代経済学の人間観・社会観も途方も無く歪んでいることに違いは無い。

新自由主義的・リバタリアン的政策がもたらす社会の荒廃を描写するに当たっては、マルクス経済学をあくまで直感的な批判の道具として用いるだけならば有効性すら感じないこともない(引用文(佐伯啓思3)参照)。

実際、今のアメリカ(や日本を含む先進民主主義国)の社会のあり方を見ると、マルクス主義が戯画化した資本主義社会とあまりにも近似していることに寒気を覚える。

カネがカネを生む投機的活動だけが跋扈し、それが実体経済を歪め破壊しているのに、財力と金権による政治と情報産業の支配によって何の対策も取られず、富める者は益々富み、貧しき者はますます貧しくなり、「下部構造」が「上部構造」を決定するように、社会内の全ての言動が金銭的動機から行われ、言論の自由は形骸化し、拝金主義と市場主義・競争主義が蟻地獄のように全国民を引き込み、極少数の富裕層を除き、煉獄の苦しみを与えているにも関わらず、それに対する根源的批判はデマゴーグ的多数決原理によって自動的に排除されるシステムが出来上がってしまっている。

著者は、近代経済学の中で、自由市場の欠陥に相対比較として自覚的かと思われる公共経済学においてすら、以下の錯誤があることを指摘し、それを超える非個人主義的・非市場主義的な「参加原理」という視点を提示する。

公共経済学は「市場の失敗」という概念を中心にして構成されている。費用-便益アプローチによるテクニカルな分析からいくつか有益な情報がえられたことは認めなければならないとしても、市場をコミュニティ全体の中にどのように位置づけるかという最も基本的な点で、公共経済学はわれわれと逆の捉え方をしている。公共的諸問題を市場の部分的機能障害(すなわちパレート効率性からの逸脱)とみなす個人主義的見地は、それを貫こうとすると、機能障害に対する社会的解決の基準を、これまた個人主義的な多数決の場に求めるほかない。そこでは理性的個人の「自由」が最大限に重んじられる。たとえ平等とか安全とかいった類の制限が自由に課されたとしても、それらの制限の実質的内容を規定するのはやはり(政治の場における)自由な活動にあるとされる。だから、残されるのは自由の態様にかんする判断の差異だけである。消費者主権と市民主権がどの程度発揮されているか、それを客観的に判定するための証拠は少ないのが通常であるから、評価の主観性をめぐってとめどない議論が続く。

これに対し、参加原理は、公共的諸問題を諸個人の個別的活動に対する前提条件として解釈する。それは、いわば共同の容れ物である。平等や安全にまつわる諸条件は、諸個人に自由な活動を許すための先決条件だとみなされる。そして、それらの実質的内容は(具体的な量的水準についての決定はともかくとして)範囲としてはコミュニティの全成員に共通なるものとして客観的に定まると考えるわけである。公共的諸問題の重大化は、市場の失敗ではなくて、むしろ、市場の前段階にある共同的秩序の形成における失敗である。

市場が正当性を付与された制度として存在するのは、それが諸個人の自発的意志にもとづく平和的交換のシステムだという了解があるからである。人々におしなべて自発性を保証するのは、交換が何がしか平等であり安全であるという社会的通念である。この交換の前提となる通念こそ、参加条件の確保によってえられたものである。むろん、参加条件を考慮することなしに市場的交換や多数決の活動を営んだとしても、参加原理が必ずしも保証されないわけではない。ただ、「市場の失敗」論の欠陥は、その個人主義への行き過ぎた偏りのために、問題が効率の次元から公正の次元に移行したとき、すなわち参加条件の危機が明瞭になったとき、コミュニティの全成員にとって一致した規準をどこにもみつけられないという点にある。諸個人の社会的重要度にかんするウェイトづけを多数決にまかせる仕方は、現状肯定的もしくは容認的態度につながりやすい。なぜなら、表面に観察される社会的決定はすべて多数決だからである。多数決の場に構造的安定性を与えるのが、ほかならぬ公正を実現することだという認識は公共経済学において見出し難いのである。

他者の健康、他者の教育、他者の所得について一定水準が確保されていなければ(すなわち他者がコミュニケーションの構造的要素として登場することを予想できるのでなければ)、社会的コミュニケーションは困難になる。また、交通施設や環境がある程度以上備えられていなければ(すなわちコミュニケーション・チャンネルが不足していれば)、コミュニケーションが狭隘になってしまう。このような平凡な社会的事実の上に、公共的諸問題の解決規準が組み立てられなければならない。多数決による決定はこの事実に具体的表現を与えるにすぎないのであって、それに根本的に代りうるものではない。あるいは、代りうるという迷妄にとり憑かれたときに、コミュニティの統一性が危うくなりはじめるといった方が適切かもしれない。

卑しい新自由主義者の市場競争主義でも、愚鈍な進歩的左翼の福祉主義でもない、保守主義者によるナショナル・ミニマムとしての社会保障という著者の考えが処女作から一貫していることに感嘆する。

そして、個人主義的自由論と「自由で理性的な個人」への身の程知らずの過大評価、それに基づく現代のビジネス文明と市場社会の持つ根本的欠陥を述べる。

・・・・・・新古典派の人々は、どんな消費選好もそれが強制されたものでない以上は本質的に自立的なのだ、とみなそうとする。しかし個人の消費選好は、消費財に付与されるイメージ特性を媒介にして、文化の場における拘束を受けているのだから、選好の自立性はそう安直に主張できることではない。もちろん、新古典派といえども、文化による拘束を認めないわけではない。むしろ、それをあっさりと認めた上で、「しかし自由な選択は自立的である」というふうに理路をたどる。だが新古典派の弱点は、実は、文化の拘束を当り前のこととして前提してしまい、その実質的意味について深くは考えない、という姿勢の中にこそ隠されている。この姿勢によって、文化の問題は新古典派に特徴的な個人と社会にかんする個人主義的解釈を覆すほどの重要性を持っているのではないか、という方向での推理が封じこめられてしまう。消費選好の問題に限定していえば、文化による拘束の問題は、次の二点で新古典派の個人観と社会観とに抵触するはずだと思われる。

一つは無意識の問題である。文化は、法律や道徳のように諸個人にとって外在的な規範システムとしてあるばかりでなく、諸個人の知覚、感情、および思考の共有パターンとして、(諸個人のパーソナリティを構成する最も基底的な層として)諸個人に内在するものである。そして当然のことであるが、諸個人は自らに内在する文化を、完全に理性的に認識することは不可能であり、文化の一部はつねに、無意識の形で保有される。たとえば、習慣的あるいは情動的といわれる行為を分析することによって、われわれは無意識の世界の構造を窺うことができる。

現代の技術的環境が、このようにして諸個人の行動をその深層においてパターン化していると考えるならば、表層においてみられる自由選択の個人性をもって“自立的”と呼び、さらにはその延長戦上に「効率的」という「望ましさ」にかんする形容詞をもってくるのは、一種の誤魔化しのレトリックだといわれても仕方ない。レトリックの話ならば、自動車を乗り回す快楽に浸っている人々を自立的な人々だと呼ぶのがおかしいのは、ちょうどトーテム崇拝を守りつづけている未開人を指して自立的だと呼ぶのがおかしいのと同じである、ということもできる。社会科学としては、あらゆる選好を社会心理の現れとして客観的に分析することができるだけであり、あれこれの規範概念を探すのは実践倫理に属することなのである。

もう一つは、すでにふれた、変化を公共イメージとする文化の問題である。物理的特性とイメージ特性がともに安定している静態的文化の下でならば、文化の実質的内容は時間を通じて不変であるから、自由選択にみられる個人差に関心が集中するのもうなずけるところである。そこでは、文化の内容はあらゆる人々にとって(分析者にとっても)、特別に考慮する必要のない自明のこととしてあり、むしろすべての思考の前提をなすようになる。未開の占い師や中世の神学者は、ほぼそのような前提の下で思考してきた。しかし、変化することそれ自体を新たなイメージとして取り入れた現代文明の下では、文化についても明示的に考慮することが要求される。変化のイメージにおいては、変化の実質的内容は生産者によって一方的に決められる。したがって、われわれが消費の実質的変化の自立性を問うときには否応なく変化の形式に吸い寄せられている消費者と経済計算にもとづいて変化の実質を誘導している生産者との間の、互いに異化された関係を分析しなければならない。そして、変化のイメージがその他の慣習的イメージなどといかに衝突し、さらには、自然の秩序をいかに破壊するかを調べなければならない。

ともかく、二つの論点が示しているのは、文化に拘束された消費者の自由選択が自立的だといえるためには、消費者が文化の総体を反省的に認識するというもう一つの意識過程がなければならない、ということである。しかし、変化のイメージの真の恐しさは、無限に複雑化・細分化していく変化の予感の中に人々を投げ入れ、このようなトータルな反省的認識を阻害するところにある。だから、現状の選択が自立的だという結論は受け入れられない。観察される消費は、ガルブレイスのいうように「虚偽の欲望」でもなく、新古典派のいうように「自立的欲望」でもない。それは、技術的環境の中で技術的イメージによってパターン化された人々が、変化のイメージにつき動かされながら、マージナルなところで個別性を競い合っていることの結果である。このようにいう著者自身もその一人なのである。

共同の企てはあくまで潜在的なものであるから、それが実際の活動として顕現するときには、多数決や市場的交換を経由しなければならない。しかし、表面に観察された現象だけをみて、世界をホッブズ的なものとして描くわけにはいかない。多数決や市場的交換を成り立たせる同意や契約のシステムそのものが、諸個人の葛藤から派生した第二次的な産物なのではなく、彼らのコミュニカティブな相互作用を可能にする最も基礎的な枠組なのだ。そしてこの枠組を安定的に保つためには、参加と統合の保証が何がしか必要になる。ルソーのいう一般意思、すなわち、常に不平等を志向する諸個人の特殊意思に枠をはめて全員一致の平等を志向する一般意思とは、歴史の始源における合意なのではなく、コミュニケーション・システムにおいて保証せざるをえないこのような条件のことであろう。

初心者には通読困難だが、極めて重要な視点が含まれている。

上記に引用した部分だけでも、いろいろ深く考えさせられた。

機会があれば、ご一読下さい。

2014年2月1日

マイケル・サンデル 『公共哲学  政治における道徳を考える』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 16:06

以前ベストセラーになった『これからの正義の話をしよう』と同じ著者と訳者。

本文は380ページ超だが、全30章なので、比較的短い章が多く、読みやすくはある。

第1部でアメリカの政治的伝統の考え方を概観し、第2部では個々の具体的問題について論じ、第3部でリベラルな政治理論の検討。

第1章は「道徳を法制化する」ことへの反対について。

現代社会で普通尊重すべきと考えられているのは、「価値中立的自由」。

要するに、他者に明白で直接的な危害を加えない限り、何をするのも自由だという考え方。

その典型として、リベラル派が主張するのが政教分離、保守派は市場介入への反対。

それに対して、米国の建国理念の一つである「共和主義」は、自由を「自己統治の分かち合い」に支えられたものと見なす、個人主義的自由を超える概念であることを著者は指摘。

(普通共和主義という言葉は、単に世襲の君主制や貴族身分の存在に反対する政治的立場を指すが、この通俗的定義はひとまず忘れて下さい。)

この意味での「共和主義」が目指すものは、国家を単に個人的自由の保障と経済的利益の分配のための機械的装置と見なす「手続き的共和国」とは異なるもの。

ジェファソンはそのための条件として農業立国主義と工業化への懐疑を持っていたが、20世紀初頭、アメリカが一大工業国となると、資本と経済力の集中が巨大企業の専横を招き、社会の自己統治を危機に陥れる。

それに対して、いわゆる「革新主義」時代に、セオドア・ルーズヴェルトは連邦政府の権限強化と大企業の規制を行い、ウィルソンも同様に反トラスト法などの政治介入による経済力の分散に努める。

これらはまだ「共和主義」理念に基づいていたと言えるが、一方30年代のニューディールと(俗流)ケインズ主義は単に経済成長と配分的正義にのみその関心を集中させたものであり、それが60年代の対抗文化による社会秩序の弛緩・紊乱に繋がる。

これに反発した人々が、80年代レーガン政権下の草の根的な「市民的保守主義」を支持することになったが、著者はこれを真に「共和主義」的ものとは認めない。

なぜなら、それは「大きな政府」のみを批判の対象とし、「大きな企業」は放任し、民間活力との美名の下、巨大企業によるコミュニティの破壊をただ傍観しているからである。

一方、それに抗すべきリベラル派は、個人主義的な権利と自由のレトリックに囚われ、コミュニティと中間組織再建への道筋を提示できず、自らの長期低落の傾向を止められなかった。

この第1章の要旨を頭に入れて、以後の文章を読むと良い。

伝統的価値観を何よりも蝕むのは、リベラル派の裁判官ではなく、保守派が無視している現代経済の特徴なのだ。たとえば、自由な資本の移動は、地域、都市、町への破壊的な影響を及ぼす。大企業に力が集中しているのに、そうした企業は事業の場となるコミュニティに説明責任を負わない。

文化的保守派が、人を堕落させる大衆娯楽の影響を懸念するのは間違いではない。こうした娯楽は、それを売り込む宣伝と相まって、人びとを衝動的な消費に走らせたり、市民道徳と食い違う政治に従わせたりする。だが文化的保守派が何より強力な力を、つまり制限のない市場経済の腐食力を無視するのは間違いだ。企業がみずからの力を利用して、減税、建築規制の変更、環境政策の譲歩などを、雇用を切望する市や州に押しつければ、かつてのどんな連邦政府命令よりも大幅に、コミュニティの力を奪うことになる。貧富の差の拡大に伴い、公立学校、公園、公共交通機関から富裕層が逃げ出し、特権的な領域に閉じこもってしまえば、市民道徳を維持するのは困難になり、共通善は視界から消える。コミュニティを復興させるためのいかなる試みも、社会組織を食いつぶす文化的勢力はもちろん、経済的勢力とも戦わなければならない。われわれに必要な政治哲学が問うのは、自己統治やそれを支える市民道徳にふさわしい経済制度は何かということだ。

市民は顧客ではないし、民主主義とは単に人びとに望むものを与えることではない。自己統治が適正に行われれば、人びとは自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改めることができる。顧客とは違い、市民は公共善のために自己の欲求を抑えることもある。それが政治と商業の違いであり、愛国心とブランド・ロイヤリティの違いなのだ。政府が漫画のキャラクターや最先端の広告から拝借した人気に頼りすぎると、支持率は上がるかもしれないが、公共部門の尊厳と権威は失われてしまう。公共部門の手入れを怠れば、民主的市民が市場の力や商業的圧力を制御することはまず望めない。こうした力や圧力は日ごとに勢いを増し、無数のやり方でわれわれの生活の形を決めているのである。

上記の文章は極めて重要な意味を持っていると思う。

昨今の日本社会の有様が、ますます米国(と韓国)に似たものになりつつあることに恐怖を覚える。

左翼・進歩派・リベラルに対する罵詈雑言は溢れているが、それは伝統に基づく真の保守主義の勝利を全く意味しない。

保守的立場からの、市場経済への規制や暴力に等しいような粗暴な言論の制限の主張は、「左翼」とのレッテル貼りと誹謗中傷の的になり、自動的に退けられる構造が完成してしまっている。

結果、真の同胞意識など持てないほど貧富の差は拡大し、究極の格差社会に転落する。

それを誤魔化すために、薄っぺらで安易極まる粗暴なナショナリズムと奇矯で愚かな宗教的原理主義が、大企業と富裕層の財力で新旧のメディアで煽られ、それ自体が「商売」になる。

国民は「自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改める」ことなど全くせず、ただ大々的な宣伝に煽られ、表面上は言論の自由が保たれているように見えつつ、実質的にはごく一部の勢力の思うがままに行動することとなる。

その大きな流れの中では、著者のような立場の言論すら、単にアリバイ作りやガス抜きとして利用されるためにのみ、その存在を許されるという具合になるんでしょう。

結局、アメリカに(そして日本にも)真の保守派はいない、いるのは卑しい市場原理主義者と愚劣な右派的ポピュリストだけだ、ということになってしまいました。

著者はコミュニタリアン(共同体主義者)として、上記の(通俗的)「保守派」批判の後、リベラル派をも批判し、それを超える視点を以下のように示す。

リベラル派がしばしば主張するのは、共通善の政治は、特定の忠誠、義務、伝統に頼らざるをえないため、偏見と不寛容への道を開くということだ。現代の国民国家はアテネの都市国家ではないと彼らは指摘する。現代の生活の規模と多様性のせいで、アリストテレスの政治倫理は、よくて郷愁をそそるもの、悪くすれば危険なものになってしまった。どんなやり方にせよ、善の構想によって統治を行おうとすれば、坂道を転げ落ちるように全体主義へと誘い込まれる可能性が高いのである。

コミュニタリアンの反論は次のようなものだが、私はこの意見が正しいと思う。すなわち、不寛容が蔓延するのは、生活様式が混乱し、社会への帰属意識がゆらぎ、伝統が廃れるときだというのだ。現代において、全体主義への衝動は、確固とした位置ある自己の信念から生じているわけではない。そうではなく、ばらばらにされ、居場所を失い、フラストレーションを抱えた自己の困惑から生じているのだ。こうした自己は、共通の意味が力を失った世界で途方に暮れているのである。ハンナ・アーレントはこう述べている。「大衆社会の存立がこれほど難しいのは、そこに含まれる人びとの数が多いからではない。あるいは少なくとも、それが主要な原因ではない。人びとのあいだを埋める世界が、彼らをまとめ、結びつけ、また引き離す力を失ってしまった事実が原因なのだ」。公共生活が衰退するかぎり、われわれは共通の充足感を徐々に失い、全体主義を解決策とする大衆政治に陥りやすくなる。共通善派の権利派に対する反論は以上のようなものだ。共通善派が正しいとすれば、われわれにとって喫緊の道徳的・政治的課題は、わが国の伝統に内在するが現代では姿を消しつつある、市民共和制の可能性を蘇らせることである。

リベラリズムは、善に対して正を優先し、道徳的宗教的中立を保とうとする。

それに対して、狭く単純な意味のコミュニタリアニズムは、共同体の多数派の価値を法制化することを正当と見なす立場だが、著者のそれは、社会の中の多様で異なる信念・価値観の対話を重視する熟議型の相互尊重を目指すものだという。

その例として、本書では言論の自由とヘイトスピーチの問題が論じられている。

ホロコーストの犠牲者遺族が多く住む地域でのネオナチ集会と、人種差別主義の強い南部でのキング牧師の集会という、両極端の集まりがもたらす混乱に対して、国家と社会はどう対峙すべきか。

リベラリストは形式的観点から両方の自由を認め、(通俗的)コミュニタリアンは双方を認めないとするしかない。

しかし、その言説が何を推進し、何を目的としているのか、それが共同体の善にかなうのかを論じなければならない、ネオナチのヘイトスピーチと人種間の平等を説くキング牧師の演説は価値的に同じではない、それについてどれほどの困難があろうとも冷静に熟慮しながら議論を重ねていき、それを行動の原則とするしかないというのが著者の立場。

面白い。

『これからの正義~』を読んで、著者についてもっと読みたいという場合は、本書を勧める。

続刊の『それをお金で買いますか』(早川書房)が、立ち読みしたところ、もう一つ食い足りない印象があったので。

アメリカ的限界があっても、自由民主主義を前提とせざるを得ない以上、著者のコミュニタリアニズムはあの国の中で最も良心的な思想だと思います。

2013年10月23日

西部邁 『ケインズ』 (岩波書店)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 09:03

1983年刊。

著者名と出版元を見比べると驚いてしまいますね。

個人史、価値観、学問論、政治論、経済学の五章。

思想的部分や経済学的解説で、難しい部分があっても、そこは飛ばし読みでいいでしょう。

第四章の政治論を中心に読めばいい。

過度の市場的活動が、限定的合理性しか持たない諸個人の支えである慣習体系を動揺させ、社会は不均衡・分裂・動乱に見舞われる。

共産主義のような恐るべき狂信的運動が惹起する中、それを避けるためケインズが構想した経済への国家介入政策が生まれる。

それが「大きな政府」の弊害を生み出したのは確かだが、そもそもそれは原子的個人主義と教条的市場主義、自由放任主義が生み出した社会の弊害に耐えかねた大衆が自ら求めたもの。

にも関わらず、1970年代後半から80年代以降、新自由主義者が反エリート主義と大衆の自発的活動への信頼を掲げてケインズ批判に乗り出したのは途方も無い偽善・欺瞞・独善・虚偽であり、保守派がそれに合流するのはまぎれもない堕落であり、保守主義の大衆化をもたらし、大衆の趣味性向が絶対視されるいかがわしい市場への警戒心を放棄する自殺行為である。

そもそも「個人の原子化」「社会の中の中間団体と階層性の破壊」という点において、新自由主義(および前代の自由放任的資本主義)と左右の全体主義は強い親和性を持つ双生児であり、はっきり言って前者が後者の勝利をお膳立てしたとしか言いようが無い。

こうして「社会」を、私的個人同士の相互活動で出来上がる薄い膜のようなものへと縮小することは、今日、リバタリアンや自由市場主義者の野望として提示されています。しかし、わたしたちが忘れてはならないのは、それが何よりもまずジャコバン派、ボリシェヴィキ、そしてナチスの夢であったということです――もしわたしたちを、共同体あるいは社会として結び合わせるものがないならば、わたしたちは完全に国家に依存するしかない、というわけです。・・・・・

こうしたプロセスに、不可解な部分などまったくありません。それはエドマンド・バークのフランス革命批判のなかで、十分に述べられています。彼が『フランス革命についての省察』のなかで書いているのですが、国家の骨組みというものを破壊してしまうような社会は、すぐにも「個人性という粉塵へと空中分解してしまう」に違いありません。公共サービスを骨抜きにし、それらを民間供給者のネットワーク委託という形にまで縮小することで、わたしたちは国家の骨組みの解体に手をつけたのです。「個人性という粉塵」について言えば、それこそ正にホッブズのいう、万人の万人に対する戦争にそっくりで、そこでは多くの人びとの生活が孤独で、貧しくて、少なからず不快なものになってしまうのです。

トニー・ジャット『荒廃する世界のなかで』より)

言論の自由や市場活動に適切な規制と制約を課そうとする動きに対して、新自由主義者が「左翼」だの「全体主義」だのとレッテルを貼り、聞くに耐えないような罵詈雑言を浴びせているが、これほど卑怯下劣で見下げ果てた行為も無い。

こうした論旨に、個人的には衷心より同意する。

もう今の日本に社会主義的左翼の脅威など、どこにも無い。

むしろ自由と市場を絶対視する新自由主義者(というかその正体は、ただの拝金主義・快楽主義・物質主義者)が社会を混乱と窮乏に導いているにも関わらず、財力と金権を最大限に用いたデマゴギーによって世論を実質的に支配し、極少数の富裕層だけを「勝ち組」にする政策が推し進められている。

現在「オピニオン・リーダー」面をして、新旧のメディアでそのような政策の「必然性」を説くネオリベ的経済学者には激しい嫌悪と軽蔑しか感じない。

このまま行ったら、またしても逆の狂信的運動が生まれて、ある種の破局がこの国を見舞うのではないかという恐怖を感じます。

著者の作品のうち、特にこの本が、ということはないが、以下の引用文のように、心にずっしり応える部分は間違いなくあります。

『経済倫理学序説』間宮陽介『ケインズとハイエク』との併読を勧める。

・・・・・錯綜がありながらも、経済学の本流は自由放任の思想に偏っていたのであり、それはまた、一般庶民の素朴もしくは低俗な自由思想と呼応していたのである。というのも経済学は社会的慣習の重みについて、人間の知的および道徳的不完全性について、そして自由と平等のあいだの葛藤について、あまり真面目な考慮を払ってこなかったからである。総じていえば、“選択の自由”にたいする制約をできるだけ弛く解釈するのが経済学のやり方であり、それは“われらをして自由になさしめよ”という大衆の野蛮な叫びと軌を一にしているといってよい。ケインズは、経済学者たちと一般公衆のあいだに瀰漫していたこの堕落せる自由思想に痛撃を与えようとしたのである。

・・・・・ケインズは・・・・・自由放任への反発のあまり社会計画に安易に飛びついたとの感を免れがたいのである。その結果、彼は国家機構の懐にふかく抱かれた人物なのだという印象を世人に与えつづけてきた。だからこそ、大きな政府に反対する経済思潮が反ケインズ主義の形をとっていま吹き荒れているわけである。私自身は、大きな政府は大衆が国家の庇護を要求したことの結果にほかならないと考えている。したがって、そのような非自律的な大衆が市場機構の野に放たれて小さな政府ができたとて、経済学の純粋理論が教えているような自由の理想郷に入りうるなどとは毫も考えていない。

・・・・・旧制度における物質的不幸と社会的不平等それ自体は可能なかぎり、治癒されてしかるべきものであったろう。しかしそこには、凡庸なるもの、低俗なるもの、画一的なるもの、満悦的なるもの等々、つまりは大衆的なるものへの懐疑がまだ残されていた。その懐疑を保守しつつ物質的幸福と社会的平等の水準を高めること、それがケインズにおける大衆への二面作戦なのであった。彼が経済学の領土に自らを封じこめずに、より広い言論活動へと旅立っていったのもそのためと思われる。というのも、彼のみるところ、経済学は大衆性への懐疑を提供してくれるような種類の学問ではないからである。経済学は、たかだか、物質的幸福と社会的平等の問題にかかわるにすぎないとされていた。それらに伴う精神作用について、たとえば大衆的精神の横行が文明の殷盛を示すのかそれとも衰退の兆であるのかなどについて、解釈し懐疑するのは経済学の仕事とはみなされなかった。したがって、ケインズの幅広い言説が彼の亜流たちによってケインズ経済学という形に縮退させられてしまったとき、彼が高度大衆社会を飾る一柱のトーテムに祭り上げられたのも仕方ないところである。

2013年7月21日

佐伯啓思 『20世紀とは何だったのか  「西欧近代」の帰結 現代文明論(下)』 (PHP新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 15:20

かなり前に読んだ上巻の続き。

以下に内容メモ。

箇条書きに近いので、意味不明なところもあろうかと思います。

まえがき。

「文献を隈なく渉猟することにはさして関心がなく、・・・・・文献としては、たとえば岩波文庫の古典と中央公論の『世界の名著』、それに二十世紀の古典がいくつかあれば十分・・・・・」とあって、「あっ、それでいいのか」とも思うが、当然私のレベルではそれすら全く不可能ですので、本書のような解説書は助かります。

1章。

19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパの中心性が崩壊して、真の意味で「世界史」が成立。

バラクラフ『現代史序説』が挙げられているが、これも読まなきゃいけないなと思いつつ、放置したままです。

近代の始まりを、1648年ウェストファリア条約で宗教的権威から世俗権力が独立したことに置く。

絶対王政を擁護したホッブズの思想だが、個人の自由契約がその出発点である以上、結局近代民主主義に繋がらざるを得なかった。

ホッブズの思想が、保守主義の観点から決して首肯すべきようなものでないことは、引用文(クイントン1)参照。

合理と普遍性の追求が啓蒙思想を生み、それが帝国主義によって非ヨーロッパ世界に拡散、米国とソ連の台頭をもたらす。

ウォーラステインによると、フランス革命によって、自由主義・社会主義・保守主義の三思想が生まれ、それぞれが米国・ソ連・西欧の主流となる。

表面上の対立に関わらず、伝統破壊と反貴族主義において米ソの共通性有り。

2章。

キルケゴール曰く、近代は「反省・水平化の時代」。

ニーチェ曰く、弱者のルサンチマンと隠された権力欲に基づく「奴隷革命」の時代。

彼の言うニヒリズムは東洋的無常観・諦念観ではない。

「目的の崩壊」=個人が意味を偶然性に与えることができなくなる。

「統一の崩壊」=集団・世界にも意味付けが失われる。

「真理の崩壊」=デカルトの合理的認識論→表象としての世界・真理とは言えない。

世界は「存在」するのではなく「生成」するもの、懐疑主義・静寂主義という消極的ニヒリズムを超え、「力への意志」を持ち新たな価値を創り出す「能動的ニヒリズム」=「超人」。

しかし、ハイデガー曰く、ニーチェのニヒリズム論も結局はデカルト主義、「人間-世界」を「主体-客体」として定立、主体性の形而上学であるのは同じだとして、(自身も一時支持した)ナチによるニーチェ思想の利用を説明している。

ニーチェは「奴隷道徳」に対して「貴族道徳」というものを考案してみた。これは「畜群」や「奴隷」を見ると「吐き気がする」という感覚のあり方を斥力として、人間を向上させようという戦略である。「げ、あんな連中といっしょにしてほしくないぜ」という嫌悪感をバネにして人間的成長をはかろうというのである。論理的には整合的なのだが、『道徳の系譜』を書いたときにニーチェがまだ気づいていなかったことがあった。それは、「畜群」というのは「畜群を見ると吐き気がする」というような「貴族のマネ」も簡単にできるタフな生物だった、ということである。その一世紀後に「オレ、ニーチェ読んで、あのバカども殺さないかんつうことが分かったわけ」とほざく子どもたちが輩出するとは、かの天才も想像できなかったであろう。大衆はニーチェが思っているより「もっとバカ」だったのである。その惨憺たる帰結はご存じのとおりである。

内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)

ニーチェの近代批判は、その民主主義批判に典型をみるように、鋭利をきわめているようにみえる。だがその道徳・宗教批判は矯激に跳ねている。それは、おそらく、人間の生が道徳・宗教への関心(ということは価値への模索)をぬきにしては成り立たぬということを軽視したためであろう。

西部邁『思想の英雄たち』(文芸春秋orハルキ文庫)

3章。

ハイデガー『存在と時間』について。

世界を超越して外から見るのではなく、世界の中にすでに投げ込まれてその中で世界をみる「現存在」。

そのことの意味を問うことをしないのが「頽落」。

人間は共同存在であるから、ほとんどを大勢に従うことになり、中性的な「人」DasMannの言うがままとなる。

それに対して、死を意識して(「先駆的覚悟性」)、過去を取り戻しつつ(「反復」)、「本来性」を回復し、集団による共同の企て(「運命」)を引き受けることが必要。

しかし、結局これも近代の「主体性」の哲学を一層徹底化させたものに過ぎなくなってしまい(後のサルトルらも含めて)、通俗・平俗化されればナチスのような大衆運動に利用されることになる。

晩年のハイデガーは、人間を活動し選択し決断するものというより、観照し待望し何かに仕えるものであると考えるようになった。

4章。

ファシズムが、平等化の進展による階級社会消滅と大衆社会化によって生まれたことを指摘(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

伝統的共同体と宗教的信条を無くした根無し草の平等な個人が、政治的アパシーに陥り、あきれるほど簡単に他者に同調することによってファシズムが生まれる。

空っぽの大衆の頭に、カリスマが「国民的問題」とエセ世界観を注ぎ込み、達成不可能な情緒的目標で煽動された大衆が全体主義運動の道具となる。

それに抗すべきエリートや知識人も、反伝統主義・反既成支配層の感情から大衆に合流し、煽動者の手先に成り下がる。

著者は、「ナショナリズムからファシズムが生まれた」という考えを否定し、国民国家と帝国主義(および排外的民族主義、人種主義)とは全く違うことを強調する。

少数民族を包摂し統合するのが真のナショナリズムであり、移民や少数民族への野蛮な排斥はむしろナショナリズム=国民統合形成からの逸脱であるとする。

この国民国家的ナショナリズムに対置されるのが、種族的ナショナリズムであり、ナチは自らの軸足を後者に置き、そして皮肉というか理不尽というか、ユダヤ人も後者を基礎にする集団であると想定して徹底的な攻撃・撲滅の対象とした。

5章。

19世紀自由主義改革による民主政治は「指導者民主主義」であり、かつての国王と貴族の統治のような世襲制ではないが、依然エリートによる大衆の指導を内実にする政治であった。

それが産業革命以後の、中間層の拡大、複製技術革命が起こり、文化の商品化が進むと、他人の真似を自分の意見であると思い込む大衆が画一的でステレオタイプ化された世論を生み出し、大衆の欲望・野心・情念・偏見を動員することに成功した者が世界を動かすようになる(ルボンタルド)。

オルテガが指弾するように、凡庸なものがほとんど無制限の権利を要求し、政治について全く自覚も無く一切の努力もしない大衆が「生まれながらの権利」に基づき主張を押し通す社会となる。

さらに経済学者にその典型をみるがごとく、エリートとされる知的専門家こそが、大衆的存在に成り下がっている。

優れた少数者は特権者として否定され引き摺り下ろされてしまう(「奴隷一揆」[ニーチェ])。

6章。

政治だけでなく、経済も大衆化が進む。

所有と経営の分離、株式・債券市場の発達により、金融部門が拡大。

長期的スパンの実物経済が短期のシンボル経済に変化。

価格・賃金の安定という点で、大企業体制と大衆社会の蜜月関係が築かれるが、失業の不安が付きまとう。

ケインズの不確実性の概念。

不安な状況の中、人々は貨幣だけを信頼(「流動性選好」)。

実体経済への投資より金融市場での投機が横行し、経済は停滞。

貨幣は交換手段とは別に価値保蔵機能を持つ。

貨幣は交換価値しかなく、使用価値はない特殊な商品であり、根本では集団心理によって支えられるだけの存在。

金融市場の極度の不安定性からして、この貨幣を大衆心理へ委ねるのは危険であり、中央銀行・政府のエリートに依存するしかないというのがケインズの考え。

有効需要を増やす公共事業も、ケインズ自身は、民主的ではないエリートによる配分を想定していた。

社会民主主義とリベラル左派の論拠ではなく、大衆社会へのアンチテーゼとして、保守的立場からケインズを再評価するのが著者の主張。

7章。

アメリカ文明について。

(古典的)共和主義は王権とも対立するが、民主制へも批判的。

公的自由=徳を持つ公的活動。

私的自由=中身はブラックボックスで一切問われない。

本来共和主義が擁護したのは公的自由だったはずが、いつの間にかそれとすり替わった私的自由がほぼ無制限に主張される。

具体的日常的コミュニティでの健全な民主制が普遍化することで形骸化する。

技術主義・消費社会・方法化・ニヒリズムが蔓延し、手段の目的化・絶対化が止めどなく進行。

多文化主義を唱える主流派に対し、あくまでヨーロッパ文化を中心とする保守派。

人間中心主義(ヒューマニズム)も結局ニヒリズムに過ぎないものと化す。

適当過ぎるメモなので、読み返すと自分でもよくわからない部分があります。

しかし、本書自体は非常に読みやすく、中身の濃い本ですので、是非実際にお読み下さい。

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