万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年10月29日

プラトン 『饗宴』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

結局これを読まないわけにはいかないんでしょうねえ・・・・・。

主要著作の中では一番読む気がしないのだが、新訳でもあることだし、この版を手に取った。

ペロポネソス戦争中の前416年、ソクラテスが参加した宴席が舞台として設定されている。

出席者が愛を司るエロス神を賛美する演説を重ねていくのだが、その中で、太古の人間は頭が二つ、手足がそれぞれ四本の二身同体の存在だった、しかし神々の怒りに触れ真っ二つにされた、それからかつての片割れを求めて、愛する人を求めるようになったのだ、という有名な寓話の語り手が、喜劇作家のアリストファネスであることは今回読んで初めて知った。

ただ、現実のアリストファネスは保守的な人物でソフィストとデマゴーグを徹底批判したが、なぜかソクラテスをその一員として辛辣に描くという、とんでもない誤解もしており、この作中の彼はプラトンの脚色が強い、と訳者は書いている。

これらの話に対して、ソクラテスは、エロスは美・正と醜・悪、また神々と人間の中間に位置する精霊であり、後者から前者への向上力をもたらすものだとする。

そしてその美しくよきものを永遠に保とうとして、子を成すことを通じて不死を達成しようとする。

これは肉体的な意味でだが、精神上の良き魂と徳を育み継承することについても言え、それがより尊いものである。

ここで酔っ払ったアルキビアデスが登場、ソクラテスの賛美を始める。

ソクラテスに心酔するようになったアルキビアデスが、当時の風習に従い、彼と少年愛の関係を結ぶ決心をしたが、ソクラテスはアルキビアデスの肉体的美しさには全く目もくれず自制したこと、その後戦場に市民の義務として出征した際、ソクラテスがいかに勇敢で忍耐強かったかが雄弁に語られる。

そして以下のような気持ちを述べる。

・・・・ぼくは、この人と一緒にいるときだけ、ある気分にとらわれる。ぼくがそんな気分にとらわれるなんて、思いもよらないだろう――誰かに対して自分を恥じるなんて。だが、ぼくはこの人に対してだけ、自分を恥ずかしいと感じるのだ。

ぼくにはよくわかっている。ぼくは、この人の命じることをやらなければならず、逆らうなんてできない。でも、この人のもとを離れると、ぼくは、大衆に賞賛されたいという誘惑に負けてしまうのだ。だから、ぼくはこの人から離れて、逃げる。しかし、この人の姿を見ると、かつて自分が認めたことを思い、わが身を恥じるのだ。

ぼくはしばしば、この人がこの世から消えてしまえばいいのにと考える。しかし、ぼくにはよくわかっているのだ。もし、本当にそうなったら、ぼくはいまよりずっと苦しむことになるだろう。だからぼくは、この人をどう取り扱ったらいいのかわからない。

こういう殊勝な考えを持ち続けていればよかったんですがねえ・・・・・。

この翌年、前415年アルキビアデスは無謀なシチリア遠征を煽動し、あるきっかけから祖国を裏切り、スパルタに投じる。

以後アテネは衰亡の一途を辿り、前404年ペロポネソス戦争に敗北。

アルキビアデスも同年暗殺。

前399年ソクラテスは裁判にかけられ刑死。

その背景として、ソクラテスがアルキビアデスやクリティアス(敗戦後、「三〇人政権」として暴政を敷いた人物)との親交を批判されており、プラトンはそれへの反論を行う必要があったという。

しかし本書について言えば、アルキビアデスを一方的に非難するようなものではない、とのこと。

 

 

思っていたよりもはるかに面白かった。

訳文は素晴らしくわかりやすいです。

それも面白く感じられた理由として大きいでしょう。

これだけ有名な著作を読まないわけにはいかないので、新しい訳の本書であっさり済ませましょう。

2016年7月20日

T・S・エリオット 『文化の定義のための覚書』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 07:06

トマス・スターンズ・エリオットは、1888年米国セントルイス生まれの詩人。

『荒地』『四つの四重奏』が代表作だが、一般にはミュージカル『キャッツ』の原作者と言った方が一番通りがいいか。

1927年英国に帰化、国教会に入信、1948年ノーベル文学賞受賞、1965年没。

この人の保守思想家としての一面は西部邁『思想の英雄たち』で知った。

恥ずかしながら、一時D・H・ロレンスと混同していたことがあった。

(むしろ基本的には対立する関係だったのに。)

本書冒頭の解説は本文の要約として適切。

「文学上は古典主義者、政治上は王党派、宗教上においてはアングロ・カトリック」という自己定義は有名。

(ここでの「アングロ・カトリック」はイギリス国教会のこと。)

(1961年版の[本書初版は1948年])序文でも「・・・・・著者のいまの立場を表すのは、君主制を現在も採用しているあらゆる国が、その制度を保ち続けることに賛成であるということであろう。」と記されている。

(私自身も21世紀の現在において全く同じことを思います。)

本文に入ると、まず文化の総合性を指摘。

個人や集団の文化の総和ではない、一体となった社会全体の文化を把握する必要を説く。

時代の進化にともない職能上の複雑化と専門化が生じても、その必要性は変わらない。

意識化の度合いの高まり、過度の分化が、諸分野の関係断絶状態を通じて、文化の全体性喪失と崩壊に繋がる。

それを防ぐ文化の基盤として、宗教の存在が挙げられる。

文化とは一国民の宗教の化身であるとされる(ただし文化と宗教の完全な同一視には著者は反対している)。

懐疑主義そのものは不信心や破壊性を意味するものではなく、必要なものではあるが、絶対懐疑主義は弱さの表われで文化を死に至らしめる。

社会の分化自体は必然であり、そこから諸階級が生まれる。

その階層性を否定し、原子論的社会観に立つと、結局エリート集団による能力主義的な選抜と競争を通じた統治が行われるしかない。

エリート諸集団の専門化・孤立化が進行し、相互作用が欠如する。

かつての社会では、階級が「器・母体・基盤」として存在し、社会全体の文化の継続性・一貫性を確保し、そこから選び出された少数のエリートが文化の硬直化を防いでいた。

だが、一つの平板な原子的個人の集まりからだけ抽出されるエリートには、そうした役割は望めない。

能力が卓越しているという理由だけで個人として[階級と無縁に]のし上がってきた人たちで構成されたエリート集団においては、文化的素地の相違が甚だしいので、その構成員たちはその辺にころがっている共通の関心事だけによって結びつき、ほかのあらゆる点ではばらばらの状態にあるということになる。

その時の実利的社会状況に適合しているだけの「能力的卓越性」を持った人間が、「その辺にころがっている共通の関心事」で結合しても、文化は低質化する一方である。

そもそも文化伝達の主要な経路は、依然として家族である。

そして過去と未来への畏敬の念が階級を構成する。

伝統と慣習によって与えられる無意識のレベルも重要。

限定された目的ではない文化の全体に通じることができない以上、階級的背景を欠いた能力主義的エリートのみによる支配は必ず失敗する。

その具体例として、ソ連のプロレタリア独裁と並んで、南北戦争後の米国における金権政治上のエリート支配と格差拡大、絶対王政下フランス貴族の無力化とブルジョワへの同化、仏革命後第三共和政の不安定を挙げているのは面白い。

ジョージ・オーウェルの書評(本書解説で紹介されている)のように、この主張を特権階級の一方的擁護論だとの批判に対し、著者は以下のように応える。

ここでいえるのは、支配階級は、たとえどれほどひどいやり方でその役割を果たしていたとしても、強制的に除去されれば、その階級の役割が完全に別の集団によって引き継がれることはないということである。

階級構造のある社会の擁護論、そういう社会は、ある意味で「自然な」社会であるとして、これを肯定する論は、われわれが、貴族階級と民主主義を対照的に捉えて、催眠術をかけられたような状態に陥ってしまっていると、毀損される。もしわれわれが、これら二つの語を対蹠的に用いれば、問題全体は歪曲される。著者が提示したのは、「貴族階級の擁護」などではない。――つまり社会の一つの組織の重要性を強調することなどではない。そうではなくて、他のすべての階級が独特の、本質的に重要な役割を果たしているように、貴族階級も独特の、本質的に重要な役割を果たすような形態の社会の必要性を申し立てることなのである。大切なのは、「最上層」から「底辺」に至るまで、幾層もの文化レベルが相接して存在する社会的構造である。上層をなすレベルは下層をなすレベルよりも多量に文化を蔵していると見なすべきではなく、上層をなすレベルは意識化の度合いの高い文化、より専門化した文化を表しているに過ぎないということを心に留めておくのは重要である。

筆者は、真の民主主義はこうしたさまざまに異なる文化のレベルを包含していなければ、維持されえないという見方に傾いている。比較的レベルが高くて比較的小規模の集団が、比較的レベルが低くて比較的大規模の集団と同等の力をもつ限り、文化のレベルはまた、力のレベルのように見なされえよう。というのは、完全なる平等は無責任の遍在を意味する、という主張は成立可能だからだ。しかし筆者が思い描くような社会では、個人はそれぞれ自分が引き継いだ社会的地位に応じて、国家に対する責任を、大小の差はあれ、引き継ぐことになるだろう。すなわちそれぞれの階級がいくらか差異のある責任を負うことになろう。すべての人がすべての事柄において等しい責任を負うような民主主義であったら、それは良心的な人々にとっては抑圧的なものとなるであろうし、残余の良心的でない人々にとっては、やりたい放題やれるという底のものとなるであろう。

ある社会の中で多様な階層性の存在が重要なことと全く同じように、文化の繁栄のためには、また地域の統一性と多様性のバランスも重要。

中央と地方の相互依存と対立と求心力が均衡していなければならない。

国際社会においても同様。

世界文化がもし実現すれば、それは悪夢としての画一的文化でしかない。

だが、仮構としての統整的理念としてなら有用。

著者は、宗教においても多様性擁護の観点から近世宗教改革の新旧教分裂を肯定的に捉え、プロテスタントにおける国家と教会の分離もよしとする。

三十年戦争、ピューリタン革命など、宗教戦争の悲惨もあったが、英国内の正統はあくまで国教会であるとし、しかし他の教会が豊かな貢献をしていることも十分認めている。

文化の枠組みの中に政治が位置づけられている限り、政治への関心や実践はすべての人の務めとは言えない。

あるいはそうであったとしても、同程度・同平等責任ではない。

ここでも階層性による役割の違いがあって然るべき。

もしそれが無ければ、最も低質で凡庸な意見の勝利がもたらされるだけである。

文化が重層構造をなしている社会、権力や権威が重層構造をなしている社会においては、政治家は発言を行う際に、少なくとも手垢のついた言葉は使うまいとする気構えをもつかもしれない。なぜらなその場合、政治家は少数ながら、散文の規準というものを維持し、批判力に富む人々の見識に対して尊敬の念を抱き、そうした人々の嘲笑を恐れる気持ちを抱くからである。

現在のようにネットというメディアで、すべての発言が相対化されて評価されるようになれば、その価値判断の規準は目を覆いたくなるほど低級化するしかない。

本書では、その規準を保つ上層階級における古典古代の歴史と政治学教育の重要性を主張。

そこには、現代社会の思考上便利な道具となっている民衆という巨大な非人格的エネルギーではなく、個々の人間の情熱が取り上げられているからである。

ごく最近になって現れた政治理論の類いは、従来の政治理論に比べると、人間性にさして関心を払っていない。この種の政治理論は、最も好ましいと見なされる政治形態であれば、それがどのようなものであれ、これに適合するように常に新たに作り直されうるものとして、人間性を扱う傾向がある。・・・・・大衆という空漠としたものの中にのみ人間性を見つけようとしているので、それは倫理から離脱する傾向がある。

社会主義はもちろん、自由民主主義の理論についても当てはめるべき言葉だ。

続けて、教育への過大評価を批判。

知恵と学問への敬意を与えることを越えて、政治的動機付けを行う過剰教育が過少なそれと同様に不幸の原因となりうることを指摘。

機会均等と能力主義の観点から教育の重視が言われるが、教育が普及しないせいで名も無きミルトンが埋もれている可能性が確かにあるものの、その代わり流血の惨事をもたらしたクロムウェルのような人物も生まずに済んでいる面もあるはずだ、と著者は述べる。

加えて、その教育自体が産業社会の効率性への過剰適応によって歪められている。

社会階層の区別が消滅するにつれて、形式的平等社会の中でむしろ醜い妬みとエゴが拡大する。

流行の政治社会理論が大衆の頭に注入され、古典的伝統的学問の継承が断絶。

そこにやって来るのは、歪んだ学歴社会である。

諸階級を保全した上で、その内部で下層階級から優れたものを選び出し、例外的に階層を引き上げることは有益だが、のっぺらぼうの大衆社会から実利的関心だけによって選ばれたエリートは文化的には劣弱と言う他無い。

エリート集団に牛耳られた社会への完全な適合を目指す教育制度は、教育を社会的成功につながるもののみに限定し、社会的成功を、その制度の内部において優等生であった者のみに与えることにもなろう。いくつかの試験に合格し、心理学者によって考案されたテストにおいて優秀な結果を示した人々のみによって支配され、方向づけられる社会の先行きは、安心できるものではない。

「識者」や経済界の圧力で、大学教育をビジネスに適合的なものに「改革」するというような報道に接すると、日本も本格的な衰亡期に入ったなとつくづく感じます。

そうした「改革」を推進する勢力が「保守」を自称し、むしろリベラルな人々がそれに反対しているのを見ると、もう口を開く気も無くなります。

 

 

著作が入手しにくい思想家について手頃で読みやすい本はありがたい。

中公クラシックスの中でも特に嬉しい収録作。

初心者でも十分読みこなせる内容。

堅実な良書。

2016年7月8日

ヒューム 『人性論』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:47

表題作は一行も読んでいない。

哲学者としてのヒュームについては何も理解する能力が無い。

冒頭の解説を読んで何となくイメージをつかむのが精一杯だ。

本書で読んだのは末尾に付録のような形で収録されている「原始契約について」という30ページ余りの政治小論。

社会契約説を批判したもの。

君主による政府を神聖不可侵なものとして、どれほど圧政的であろうともそれへの反抗は許されないとするトーリー党と、政府を人民の同意と原始契約によってのみ作られたものとして、抵抗権を主張するホイッグ党の両者をともに退ける。

まず前者への批判。

政府は普遍的制度であり、すべては神の摂理によるものであるから、君主の権能だけが神聖化される謂われは無い、下級官吏も国王と同じく神の委任に基いて権力を行使していると考えるべき。

一方、社会契約説について。

いかなる権力も多数者の同意と黙諾がなければ存続できないのは確かだろうが、それは平和と秩序がもたらす利益から自然に生まれた習慣的なもので、明示的な契約に基くものではない。

歴史上そのような契約の存在がはっきり確認できる例は無い。

しかも父祖の同意がその子孫をはるか後まで拘束するという、本来共和制の立場を取る著述家にとっては到底承認されえないはずの仮定が含まれている。

実際の政府樹立は征服という力の行使によるところが多い。

政府が成立した後でも、選挙制度による同意機能が過大評価されている。

「扇動的な首謀者の尻馬にのる多数者の熱狂」に終わるものに、政府の唯一合法的な基礎を認めることはできない。

むしろ政府の完全な解体と人民の自由選択の極大化による無秩序が独裁的軍事支配の契機になってしまう。

名誉革命の成果に幻惑されるべきではない、それは政府全体ではなく王位継承のみが変革され、しかも一千万近い人民のうち、それに関与・決定したのは七百人ほどに過ぎなかった。

アテネ共和制も参政権を持ったのは服従義務を負っていた人間の十分の一にも満たず、属領の住民はもちろん排除されていたが、それでも常にその政治は放恣と混乱を極めていた。

最初の政府は暴力、征服によって樹立されたが、長い間秩序が保たれると服従が自発的かつ慣習的なものになる。

しかしそれは個々人の自由意志による契約と選択と見なされうるようなものではない。

ある君主の支配下に暮らしていて、出て行こうと思えば出て行けるのにその国に留まっていることが、契約と同意の証しだという主張もあるが、外国の言葉も習慣も知らず、その日その日をようやく過ごしている貧しい圧倒的多数の一般国民に自国を去るような選択の自由など実質的には無い。

その自由がある場合でも人口の減少が甚だしくなれば、君主は移住を抑制するだろう(本書に記されてはいないが、これは人口減による弊害が大きくなれば他国への移住を選ばなかった国民の権利が損なわれるから正当だということか?)。

人間は突然かつ一気に世代交代をするのではなく、新旧世代が混じり合って生き死にし、しかも不完全で思慮分別を持っているとは必ずしも言えない、よって既存の政体に順応することが必要、父祖の世代の足跡に概ね従うことは避けられない。

人間が制定したものにはある程度の革新はつきものだが、暴力的な革新は危険で不幸なもの。

立法府によって多数の同意を得ていると思われるものであっても、危険なことは変わりなく避けるべき(例として挙げられているのはヘンリ8世による国教会成立やピューリタン革命)。

王位簒奪者と旧君主が交替した時、しばしば気まぐれに両者に支持を与えるような人民の同意にそもそも大きな意味は無い。

ローマの拡大と共和制危機において、アウグストゥスの支配権確立を人民は感謝、支持し、その後継者にも従順の態度を示した。

しかし帝位が一つの家系によって久しく規則的に継承されるということがなくなり、暗殺と反乱によって皇帝の家系が絶え間なく断絶を繰り返すようになったことは、人民にとって不幸なことであり、帝室断絶の度に内乱と皇帝乱立状態となった。

その不幸は、人民に皇帝選択権が与えられていなかったからではなく、規則的に交替し合う一連の支配者を戴くことが出来なかったからである。

この記述には盲点を突かれた。

確かに、ローマ帝国は初代ユリウス・クラウディウス朝以来、安定した世襲継承を確立できなかった。

約500年続いたのに、世界史上の帝国・王国でもかなり異例だ。

にもかかわらず、それを何とも思わず無視するか、あるいは塩野七生氏のように逆にそれを専制王朝とは違う帝政ローマの長所として評価するかである。

安定した世襲王朝を確立できなかった(さらに欲を言えば、統一を象徴する君主と実際的な権力が分離した英国・日本のような史的展開が見られなかった)ことが、ローマ帝国の短所とすべきではないかと思える。

人間は原初的本能のみに導かれれば放埓な自由に耽り、他人を支配することを望む。

そこで経験と反省の力で、平和と社会秩序のために統治者の権威と服従、「忠誠」の必要が出る。

「誠実」すなわち約束尊重の義務は、「忠誠」と同じく人間社会の明白な利益と必要のために生まれたものであり、両者は同格の存在、後者を前者によって基礎づける想定を行う必要は無い。

これに対して、われわれが君主に服従しなければならないのは、あらかじめわれわれが、暗黙の中に、そのような約束を与えているからだ、と答えられるだろう。だが、なぜわれわれは約束を守らねばならないのだろう。これに対しても、もしも人々が契約を尊重しなかったならば、現に莫大な利益をもたらしている、あの人類間の商業取引がなんの保証も得られなくなるからだ、と主張されるに違いない。だが、そのように言われうるとすれば、そこからまた、もしも強者が弱者を、無法者が公正者を侵害することを防ぐ法律や統治者や裁判官が存在しなかったならば、人間は社会生活を、少なくとも文明的な社会生活を送ることはできないだろうという事も、等しい権利をもって言われうるはずである。

忠誠の義務と誠実の義務とは全く同等な力と権威を持つものであるから、一方を他方に還元してみたところで、なんの得るところもない。両義務を確立するものは社会の一般的利益と必要とであり、それで十分である。

政府に服従しなければならない理由を問われた場合、私だったら、なんのためらいもなく、そうしなければ社会が存続できないからだ、と答える。この答えは、明快で全人類にとってわかりやすいものである。ところが諸君の答えは、われわれは約束を守らねばならないからだ、である。だがそんな答えは、哲学的な理論に習熟した人ででもない限り、だれにも理解されないし、また歓迎されもしない。そのうえ、なぜわれわれは約束を守らねばならないのか?と反問されれば、たちまち諸君は返答に窮してしまうだろう。かりに諸君がまともに返答できたとすれば、その答えは忠誠義務を直接的に、なんらのまわり道もしないで、説明するもの以外ではなかったはずである。

その忠誠の対象は誰にされるべきか?

長年続く家系に連なる君主である場合が最も幸福である。

その起源が暴力による権力奪取であったとしても、そうである。

王権にしても私有財産にしても、はるかに遠いその起源において何の不正の痕跡もないことはほとんど無いが、それでも我々はそれを社会の安定のために尊重しなければならない。

もしもわれわれが、可能な限りのあらゆる観点から、ありとあらゆるあげ足取りの論理規則を駆使して、せんさく吟味する似非哲学の跳梁を許すならば、たとえどんな徳、どんな道徳的義務であっても、たちどころに欠陥をさらさないようなものはないからである。

ローマ帝国史における帝位継承時の混乱と専制政府という両極端の危険。

一方、君主制・貴族制・民主制の各要素が並立共存している自由な政府の安定性。

あらゆる革命や政体変革に伴う無秩序を避けるために、王位の継承性が最大限に重んじられるべき。

結局、合法的な政府はすべて原始契約と人民の同意に基かねばならないという理論は、人類一般の感情に反した、あらゆる時代の、あらゆる国民の慣行に反する奇論である。

例えばロックは「絶対王制は市民社会と相容れない、したがってそれは、けっして市民政府のひとつの形態ではあり得ない」(『統治論』)と述べるが、ごく最近まで政府の基礎は契約だなどと考える人はほとんどいなかった、そのようなことはありえない。

 

 

面白い。

私のレベルではやや論旨が読み取りにくいところもあるが、通読に困難は感じない。

ヒュームの政治経済論として、岩波文庫で『市民の国について 全2巻』が出ているが、ひとまずこの小論を読むだけでもいいでしょう。

2016年5月1日

フリードリヒ・エンゲルス 『イギリスにおける労働者階級の状態  19世紀のロンドンとマンチェスター 上・下』 (岩波文庫)

Filed under: イギリス, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:27

再読だったかな?

学生時代買った記憶はおぼろげながらあるが、通読したかどうかは憶えていない。

1845年刊行。

著者はもちろんカール・マルクスの盟友で、共に「科学的社会主義」、共産主義思想を作り上げた人物。

ドイツ・ラインラントの富裕な繊維工場経営者の家に生まれる。

イギリス・マンチェスターにも工場を持っており、その関係でイギリスにおいて得た見聞を元にした作品。

まず産業革命前の社会状況から筆を起こすが、そこでのっけから強い違和感を持つ。

前近代農村での織工たちは、過度の自由競争に晒されず、牧歌的で余裕のある生活を送っていた。

プロレタリアではなく、穏やかな信仰を持ち、上層階級には従順な態度を保持。

にも関わらず、著者エンゲルスは、「彼らは精神的に死んでいた」「・・・・・ロマンティックで居心地はよいが、人間には値しない生活」「彼らはまさに人間ではなく、そのときまで歴史をみちびいてきた少数の貴族に奉仕する、作業機械にすぎなかった」と書く。

こういう決め付けはどうかと・・・・・。

それが産業革命の大波に飲み込まれ、階層分解と大多数のプロレタリアへの転落に追い込まれる。

その貧窮の有様は真に衝撃的である。

「非人間的な冷淡さ」「私的利害への各個人の非常なまでの孤立化」「偏狭な利己心」「個々別々の生活原理と、個々別々の目的とをもった単子への人類の分解」「社会的な戦争、つまり万人対万人の戦争」に覆い尽くされる社会。

恐るべき貧困、過当競争による労働条件の果てしない切り下げ。

公正概念からの逸脱が常態となり、そのような状況下での「自由」は形式化する他無い。

児童・女性の酷使などの惨状を見ると、エンゲルスが「社会的殺人」という言葉を使ったのも断じて誇張とは思えない。

だが、その状況を批判する「未完成なトーリー的ブルジョア」を「工業的・自由主義的ブルジョア」と区別しているが、それならもっと前者を積極的に評価して良いのでは?

それにしても以下の文章には迫力があり、ますます市場主義的価値観に浸食されるばかりの現代社会にも通じるものがある。

この国では社会戦争が全面的に勃発している。だれもが自分のことだけを考え、自分自身のためにすべての他人と戦っている。また公然の敵であるすべての他人に損害をくわえるべきであるかどうかは、自分にとってなにがもっとも有利であるかという利己的な打算にだけかかっている。平和な方法で隣人と意思を通じあうことは、もはやだれにも思いつかない。意見の衝突はすべて脅迫や、自助や、裁判によって処理される。要するにだれもが他人を排除しなければならない敵と見ているか、あるいはせいぜいのところ、自分の目的のために利用する手段と見ているにすぎない。

労働災害、健康被害、詐欺、早死の蔓延など、本書が記す状況は搾取としか言い様がない。

国際競争、自由貿易も労働者にとって災いでしかない。

自分たちの飢えによってイングランドの靴下編工までも失業させることは、ドイツの愛国主義的な靴下編工にとって喜びとしなければならないのではないか?また彼らはドイツ工業の名声をいっそう高めるために、誇りと喜びをもって飢えつづけるのではないか?ドイツの名誉といっても、それは彼らの皿がなかばからっぽであることを要求するからである。ああ、競争とは、「諸国民の競いあい」とは、なんとすばらしいことか!

グローバル化による過当競争に投げ込まれ、ますます労働条件が悪化するにも関わらず、拝金主義的メディアが煽る粗暴なナショナリズムによって、その「国際競争上の必然性」を洗脳され、結果として一部富裕層の思うがままに行動している(米国・韓国・日本などの)国民を思うと、以上の文章は今も深刻すぎる意味を持っている。

醜いブルジョワ社会に抗した「尊敬に値する例外的な態度を示した少数のブルジョアジーの成員」(これにはエンゲルス自身も含まれると個人的には思う)と「人道主義的なトーリー」としてディズレイリカーライルの名が挙がっている。

それを見て現在の新自由主義者は喜び勇んで「左右両翼の全体主義的親和性」を言い立てて、市場主義・リバタリアニズム(自由至上主義)の擁護を主張するだろうが、私はそんなものに同意するつもりは一切ない。

初期資本主義のもたらした恐るべき社会的荒廃こそが、共産主義という狂信を生みだした最大の原因であり、自由(放任)主義こそ、共産主義との真の「共犯」だ。

マルクス主義の全体系を妄想と片付け、その著作を人類史上最悪の犠牲者をもたらした独裁政治の原因となった悪魔の書として弾劾しても一向に構わないが(私もそうする)、本書だけは現在でも読む価値がある。

過去に学び、それを現在に生かすのが歴史を読む目的ならば、その意味で本書は重要な歴史書であると言える。

ご一読を勧めます。

2016年3月6日

トマス・アクィナス 『君主の統治について  謹んでキプロス王に捧げる』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:38

専門の研究者でもない限り、トマスの主著『神学大全』は絶対に読めない。

中央公論「世界の名著」(現在では中公クラシックスにも収録)の抄訳でもまず無理でしょう。

本書はトマスによる唯一の政治論的著作とのこと。

人間が政治的動物であり集団生活をせざるを得ない以上、統治の必要は歴然としている、と述べた後、アリストテレスに倣って、支配者の数に基き、正しい支配を君主制(王制)・貴族制・政体(ポリティア=すべての支配形態に共通の名称)、不正な支配を僭主制・寡頭制・民主制に分類。

(最後のものはそれぞれ民主制と衆愚制でないことに注意。)

そのうち、力と意志を集中させ得ることから、正しい支配の中では君主制が最善であり、不正な支配では僭主制が最悪であるとする。

現代の「常識」では君主制が最善とは信じられないだろうし、不正な支配の中では民主制の悪が最も少ないというのなら、危険の少ない政治体制として多数者の支配たるデモクラシーを理想としていいのではないかと考えるでしょう。

しかしトマスは、最悪の支配体制である僭主制、それもその中でも最悪である過度の独裁制は、君主制からではなく、民主制(とそれに不可避的に付きまとう党派争いから生まれた寡頭制)からこそ、しばしば生じるものだと鋭く指摘する。

ところで、危険のさし迫った二つのもののうち、どちらかを選ばねばならぬ場合、より少ない悪の生じるもののほうを選ぶべきであろう。君主制はたとえそれが僭主制に転じることがあるとしても、そこから生じる悪は多数の貴族たちによる支配が腐敗して生じる悪に比べれば、より少ないものである。

というのも、多数の支配から生じる対立はあらゆる社会集団にとって最重要な価値である平和という善を破壊するものだからである。しかし、この平和という善は僭主制によって必ずしも壊されるわけではない。というのは僭主制の下で最も影響を受けるのは個々人の利益にすぎないからである。もちろん、その僭主制が社会全体を隷属に陥れるような過度の僭主制でなければの話であるが。そういうわけで、これら二つのものがともに危険を孕むものとしても、一人の支配のほうが多数の支配よりも優先されるべきである。

また、重大な危険が頻繁に起こるような類いのものは極力これを避けるべきであるように思われる。多数者にとっての最大の危険は一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でより頻繁に生じるものである。というのも一人の支配の下でよりも、多数の支配の下でのほうが、人が共通善への配慮から遠ざかることが多いからである。そして数名の支配者たちのなかの或る者が共通善への配慮から遠ざかる場合、その者は配下の集団を対立の危険に晒すことになる。支配者たちの間の確執は集団の対立を生じさせるものだからである。これに対して、一人の人間が支配する場合には、その人間は共通善に大いに注意を向けるものである。そしてたとえかれがそうした共通善への配慮を欠くとしても、そのことが直ちに、かれが民衆を抑圧し、上述のごとく悪しき支配の最悪の形態である絶対的な僭主制になるというわけでもない。したがって、多数の支配から生じる危険は一人の支配から生じる危険よりももっと避けねばならないのである。

さらには、一人の支配よりも多数の支配のほうが僭主制に転落する可能性が稀であるどころか、むしろ頻繁である。というのも多数の支配の下で一度対立が生じると、人はしばしば他の人間たちに抜きん出ようとし、ひとり民衆の支配を恣(ほしいまま)にしようとするからである。このことはかつて実際に起こった事柄からしてはっきり見てとれるところである。すなわち、ローマ共和国の歴史がふんだんに示しているように、ほとんどすべての多数支配は僭主制に終わっているのである。というのもローマ共和国は長い間多数の政務官によって治められていたが、その後、陰謀や対立、あげくは内乱まで引き起こし、最も残虐な僭主の手に落ちたのである。一般的にいって、人がもし過去の出来事や現在ただ今起こっている事柄をよく検討してみるならば、僭主制が栄えるのは一人の支配の下においてよりも、多数の支配の下にある土地においてであることが明らかとなるであろう。

以上の認識が、プラトンらの古代政治哲学、バークのような近代保守主義、コーンハウザーなど20世紀の大衆社会論の叡智と知見に完全に一致していることに感嘆する。

上記引用文中にあるように、ローマ史が教える最大の教訓は、民主化が独裁政治を生むという逆説的真理です(私が塩野七生『ローマ人の物語』を絶賛する気が失せたのは、著者が前期帝政を無条件に肯定しており、それを「民意と世論に基く独裁制樹立」と見る史観をほぼ完全に欠いているからに他なりません)。

そうした古代以来の常識が失われたのが、近代という時代なんでしょう。

義務と忠誠の観念によって階層的に秩序付けられた社会を構成し、その最上層の君主には、伝統的信仰による、現世を超えた拘束を課すという、中世の政治観が至極真っ当に思える。

その表面的な不平等に関わらず、君主制・貴族制・民衆制の三者はいずれもその勢力を保ち、均衡して社会を成り立たしている。

君主による権力の乱用は、貴族と民衆という世俗的要素と教会という宗教的要素によって抑制され得る。

その均衡状態こそ、「真の意味での共和制」と呼ぶべきもの。

だが、そうした階層性を排し、君主と貴族を消滅させ、世俗化によって信仰心をすり潰して教会を無力化し、根無し草の原子的個人だけで構成された(一般的意味ではあるが、実は偽の意味での)共和制が成立した後、民衆煽動の混乱状態から生まれたのが、ファシズムと共産主義という(かつての君主制とは比べ物にならないほど無制限の権力を行使する)左右の全体主義的独裁政治と醜い衆愚世論および拝金主義的資本主義が跋扈する「自由社会」です。

 

 

本文は100ページ余りで、半分以上が訳注と解説なので、読み通すのは楽。

是非にとは言いませんが、一読すれば、その堅実な常識的思考に深く納得するでしょう。

2016年2月5日

田中美知太郎 『ソクラテス』 (岩波新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:01

またえらい古い本を持ち出してきました。

初版は1957年。

著者はギリシア哲学の泰斗。

ソクラテスの「四福音書」、『弁明』『クリトン』『パイドン』『饗宴』への前書き、補註のような著作であり、もし可能ならばプラトン翻訳の抜粋でもう一章付け加えたかったとある。

ソクラテスは前399年に刑死、およそ70歳。

裁判で281票対220票で有罪、刑の申し出において法廷を意図的に怒らせて361票で死刑、脱獄拒否。

前470~468年ごろ生まれ。

プラトンとの年齢差は40年以上。

父はソプロニスコス、母はパイナレテ、妻はクサンチッペ(とミュルト?)、子はランプロクレス、ソプロニスコス、メネクセノス。

父がアリステイデスとと親交あり。

ソクラテス父子が石工であったとの説はあやしい。

アテネ成人男子1人に18人の奴隷がいたという説を否定。

奴隷人口は自由人の半数もしくは全人口の三分の一か四分の一。

クサンチッペ悪妻説もあやしい。

ある一面が拡大解釈された観があり。

アリステイデスの娘ミュルトが後妻(あるいは先妻)ということはまずありえない。

年齢的におかしい。

アリストファネス『雲』では、ソクラテスをソフィスト扱いして非難。

保守的立場より有害な新教育代表者として、啓蒙思想、自然哲学、弱論強弁の詭弁家として。

ソクラテスが自然学を学んだ可能性は高い(晩年はそれに言及しなかったが)。

それで誤解を受けたか。

また空論家ではなく実践と知行合一で死を迎える。

加えて伝統的宗教の否定という罪状も被せられた。

「ダイモンの合図」を語っていたことは事実。

それは禁止的形式で与えられ、占者として受け取るが、それ以外の行動では自分が最善と思うことを行う自由は保持。

ダイモンは神で、ソクラテスは通俗的宗教家などではない。

ペロポネソス戦争でのアルキビアデス、戦後成立した三〇人僭主政権の首領クリチアスがソクラテス的教育の産物と疑われて裁判にかけられる。

裁判においてはダイモンは沈黙、自由は死であると悟ったソクラテスは死を決す。

一生涯自分を律し続けた。

有名なデルフォイ神託「ソクラテスより智慧のある者はない」から「無知の知」という認識に至る。

神のみが智者、人間の無智をあばいて神の智を明らかにする使命を自分に課し、それが原因で死に追いやられた。

そして金銭や身体より精神を良くすることが大事だというソクラテスの言葉に続いて以下の文章が記される。

今日のわれわれにとっては、これはむしろ平凡な教えであると考えられるであろう。こういう話は、もう聞き厭きたような気がしないでもない。われわれはやはり金銭や肉体や名誉や評判を気にせざるを得ない。精神をすぐれたものにするよりも、金銭をできるだけ多く集めることに、気をつかわずにはいられない。しかしそれだからこそ、やはりソクラテスの言行が、好悪いずれにしても、われわれの気がかりとなるのである。かれはわれわれと反対のことを信じ、われわれと反対のことを言い、われわれと反対のことを行って、そして殺されてしまったからである。

ゾピロスという人相見が、ソクラテスの顔を見て、知見も狭く、情欲に傾く性質であると言ったので、その場の人が笑い出したところ、ソクラテスがこれを制して、ゾピロスの言うことは、みな当っている、ただわたしにはそういう傾向があるけれども、ロゴスによって、これに打ち克っているのであると言ったという、半ば創作的な話も伝わっている。いずれにしても、われわれがここに見るのは、外面と内面の著しい矛盾である。そしてこれに対比されるのが、世人の同様な矛盾である。かれらは外面の美や力によって飾られているが、しかしそれらは空しいものであって、その内面は無なのである。このかれらがソクラテスと接触する時、内面が暴露されて、最初の優劣が逆転する。自分の富、自分の強さ、自分の美しさ、自分の才能を頼みにして、この世をわがもの顔に生きている人たちの目には、貧しく醜いソクラテスは、笑うべきもの、軽蔑すべき存在に過ぎなかった。しかしそのソクラテスの前に、やがてかれらは、その自負心を失い、底知れぬ不安を感じなければならぬ。・・・・・われわれはかれらの、そのような無力化に応じて、ソクラテスの内面が、一種の力を得て来るのを感じる。この転換は、しかしながら、ソクラテスの卑しげな顔、話すことの平凡さ、貧しげな様子などを、一つの仮面に変えてしまう。だから、この外見にあざむかれたと思う人たちは、自分の愚をせめるよりも、ソクラテスの外見そのものを、アイロニーとしてにくんだのである。かくて、ソクラテスの存在そのものが、ひとつのアイロニーとなって、ひとびとを不安と絶望に陥れたのである。それは少数の人たちには、哲学への途をひらくことになったかも知れないが、多数の人々は、かくの如き仕方で、自己の無を知ることを、死の如くに恐れたであろう。ソクラテスが呪われ、殺されなければならぬ所以のものが、そこにあるとも言われるであろう。『弁明』・・・・のソクラテスは、自分をあぶにたとえて、人々を目ざめさすために、このアテナイという、図体は大きいが、にぶいところのある馬に、神によって附着せしめられたものだと言っているが、アテナイ市民は、「眠りかけているところを起された人たちのように、腹を立てて」、うるさいかれを叩いて、殺してしまったのである。

ソクラテス告発の理由の一つは民主制批判。

公職抽選制について、船長、大工、笛吹きを抽選で決めないのに、国政をそれに委ねることを批判。

ペロポネソス戦争敗北後のアテネでは、戦勝国スパルタの威を借りる亡命帰国派クリチアス、中間派アニュトス、民主派が対立。

クリチアスを中心とする三〇人政権の恐怖政治が敷かれるが、民主派トラシュブロスの反撃で内戦となり、結局既往を咎めない条件で内戦終結、しかし膨大な数の死者が出た。

クリチアスとの関係を理由にアニュトスが中心となってソクラテスを告発。

しかし、ソクラテスは民主制を根本的に批判したが、かと言って盲目的スパルタ崇拝とは無縁。

ダイモンによって政治に関わることを禁じられている。

「諸君なり、あるいは他の大多数の者なりに、正直一途の反対をして、多くの不正や違法が、国家社会のうちに行われるのを、どこまでも妨害しようとするならば、人間だれも身を全うする者はないだろう。むしろ本当に正義のために戦おうとする者は、それで少しの間でも、身を全うしていようとするならば、私人としてあることが必要なのであって、公人として行動すべきではない」

2500年前のアテネでも現代の日本でも同じですね。

多数の愚者・劣者が作り出す悪を変更不可能な環境とせず、正面からぶつかったら、命が幾つあっても足りません。

だが政治の方が彼に掴み掛かってくる。

人々へ呼びかける哲学である以上、どうしても政治的になることは避けられない。

ソクラテスは、どのような権力者に対しても独立不羈を貫いた。

戦中、406年アルギヌウサイ海戦の処置で、狂信的な圧倒的多数の民衆世論に逆らい、ただ一人指揮官の処刑に反対、告発される危険を冒す。

逆に、戦後の非民主的で寡頭制的な三十人政権の命令も断固として無視。

もし三十人政権が倒されなかったら、かれの死は三九九年ではなくて、四〇三年であったろう。

と書かれているのを見て、やはりそうだったんだと深く納得した。

にも関わらず、復活した民主制の下で死刑を宣告され、堂々と従容として死を迎える。

 

 

随分古い本だが、ずっしりくる読後感があり、読んで良かった。

入門書としては決して凡庸なものではない。

碩学の尊い威光に触れることができます。

2016年1月22日

トマス・カーライル 『過去と現在  (カーライル選集3)』 (日本教文社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 03:38

1843年刊。

カーライルはイギリスの評論家・保守思想家で、『フランス革命論』などの著作あり。

本書は、拝金主義と享楽(快楽)主義という二つの悪魔のひき臼にすり潰されていく近代という時代の全面的批判と、中世という宗教的信仰が人間に確固とした価値観を提示していた時代の擁護を内容とする。

統治の義務と責任を果たそうとせず不労所得による享楽に明け暮れる貴族と、金銭勘定以外の価値観を持たず俗悪な趣味に溺れる新興産業資本家、チャーティスト運動など急進的社会変革運動にのめり込む労働者階級の三者を(労働者階級については産業革命後のその悲惨な境遇には深く同情しつつ)共に批判。

キリスト教的信仰を中核とした形而上的価値の復興を強く訴えている。

功利主義の否定も含め、個人的には全く違和感の無い主張だが、個々の具体的史実についての記述にはやや引っかかりを覚えないでもない。

繰り返し穀物法が貴族階級のエゴイズムの象徴として攻撃されているが、果たしてそう単純に言い切れるものかなと思う。

自由貿易を絶対視するというのは本書の論旨と合わないのでは?

またカトリックへの軽侮、クロムウェルへの礼賛(ピューリタン的価値観を徹底したからか?)、アヘン戦争正当化(これも自由貿易の為という文脈)、黒人・遊牧民への蔑視(時代状況を考えればこれは言っても仕方ないところがあるが)など。

さらにより根本的には、民主主義を批判して「英雄崇拝」と「賢人政治」を復活させなければならないという主張には同意するが、それは歴史的伝統に可能な限り沿う形で、という前提条件を付けなければ(その意味で本書での既存の貴族階層への批判は厳しすぎると感じる)、表面上民主制を否定しつつ実はその徹底と純化に過ぎない右翼全体主義の罠にはまることになりかねないのではないか。

後世のファシズムの先駆だという平板な批判は当らないと思うが、上記の観点からしてある種の危険があるという考えには肯ける。

ただし、言論の自由・民主主義的多数決制・規制無き市場経済の三位一体を揃えて自由放任を貫けば、自動的予定調和的に永遠の進歩がもたらされるのだから、それにいかなる恣意的介入も為すべきではない、それが「保守」というものだ、などという反吐の出そうな風潮への解毒剤には十分なる。

また自由放任的資本主義の弊害を抑制するため、「労働の組織化」の必要を主張しているが、これをもって集産主義への危険な傾向だと(ハイエク『隷従への道』のように)批判する気には全くなれない。

むしろ初期資本主義がもたらした恐るべき社会的荒廃を矯正することがあまりにも遅かったがゆえに共産主義という最悪の狂信が生まれたと解釈すべき。

最近の新自由主義の跋扈によって同じ誤りが繰り返されるのではないかと強く危惧します。

本書は、労使の協調、さらに共同経営すら示唆する「進歩性」を持ち、そのために断固とした国家介入を支持する。

それを指導するものこそ真の貴族であるとする。

イギリスはまだよくやった方か・・・・・。

自らは原則だけを提示し、具体的指針を出すのは適切ではないと書いてあるのだから、なおさら集産主義との批判は当らないと感じる。

もう一つの論点は、すべてが世論の動向次第となり、偽の価値観が横行する近代社会の批判。

広告宣伝と財力が結合し、社会の支配勢力となることの醜悪さ。

第一巻は序言、現状認識と主要論旨、第二巻は中世修道院を例に採ったキリスト教的政治社会の擁護、第三巻は近代イギリスの現状批判、第四巻は将来への展望と諸提案という構成。

読みにくい部分が多く、例示されている固有名詞に馴染みのないものがかなりある。

しかし、全体的印象はやはり素晴らしい。

是非ご一読を勧めます。

 

われわれは、最近、世界は労賃を労働に配当する才能の点で退歩した、といってよいものか?世界は、よかれ悪しかれ、いつもそういう才能をもっていた。かつて手工業者ごときが、マンチェスター暴動によって世界にたいし要求を公表する必要などなかった時代もあった!――世界は、諸国の富、需要供給の法則の類によって、ちかごろ労働と賃金の問題にたいしひどく不注意になっている。世界があわれにもこの点においても退歩した、とはいうまい。むしろわれわれはこういおう。世界はますます多くの仕事をしようと、まっしぐらに突進するあまり、賃金の分配など考える余地がないのである。そうして、弱肉強食の法則、需要供給の原則、自由放任主義など、さまざまのくだらぬ法則、無法によって、賃金が争奪されるままにしている――仕事をなしとげるのに急ぐあまり、それでよろしい!といっているのである、と。

 

なるほど、今日、われわれが、拝金主義の福音によって、奇妙な結論に達していることを、認めざるをえない。われわれは社会とよぶが、全くの分離、孤立を公言してはばからないのである。われわれの生活は、相互に役立つというものではなく、むしろ、「公正な競争」とかなんとかいう名前をつけられた、正当な戦争法規におおわれた相互敵視であるといってもよい。われわれは、「現金勘定」が唯一の人間関係でないことを、いたるところで、すっかり忘れてしまった。われわれは、なんの疑いもなく、「現金勘定」が人間の契約のいっさいを解除し一掃するものと、考える。「飢えかかっている労働者だって?」と金持の工場主は答える、「おれは、やつらを正当に市場でやとったではないか?契約しただけのものを、何からなにまで、やつらに払っているではないか?これ以上、やつらをどうしなければならぬというのか?」――まさに拝金主義とはゆううつな宗旨ではないか。カインは、自分一個のために、アベルを殺して、「弟アベルは、どこにいますか?」と問われたとき、「わたしは弟の番人でしょうか」と、かれもまた答えたのであった。わたしはわたしの弟に、かれが当然受けとるべき労賃をはらってやったではないか?

 

ブル[イギリス国民]は生まれながらにして保守主義者である。このゆえにまた、わたしは言い表わせぬほどかれを尊敬するのである。すべて偉大な国民は保守主義者である。容易に新奇を信せず、現実の状況における多くの過ちをゆるし、法律や、かつて厳粛に確立され、今日にいたるまで長いあいだ正当で決定的なものとして見なされてきた習慣のなかに、偉大なものの存在することを、深く、永久に確信するのである。急進的改革者よ、なるほど正しくいって、最終的習慣などは、どこにもない。それは絶対にないのである。だが諸君は、あらゆる文明諸国において、最終的と考えられている習慣のあることにお気づきであろう。のみならず、古代ローマでは、それは、「モレス」という名のもとに、道徳、徳、神その人の「おきて」と考えられていたのである。いわば、習慣の多くは、こういうものである。ほとんどすべての習慣はこういうものであった。そして「かつては厳粛に認められた習慣」のすべてを、最後の、神聖なものとして、人間が歩くための規則であることをいささかも疑わず、詮議立てしようとしない、まじめな人を、わたしは大いに尊敬したい――諸君は馬鹿というかもしれぬ、が、それはそれにしても良い性質の馬鹿、最良の馬鹿であろう。

 

すべてを利己心や、強欲な金銭欲や、快楽欲、名声欲にゆだねよ――というのが、絶望の福音である。そうなると、人間は新案特許の消化器械となる。たんに自由貿易、自由に消化する場所を与えて、それからおのおの手に入れられるだけのものを消化し、あとは運命にゆだねるというわけであろうか!わが不幸な、働く拝金主義の兄弟よ、より不幸な、のらくろな道楽者の兄弟たちよ、かつて世界がこんなふうに長いあいだまとまっていたことは一度もなかった。・・・・・結局、みんな飢えから泣き叫び、「不可能」となり、狂水病にかかった無数の犬のように、自滅的な狂気に陥るのである。

 

じつのところ、さきに述べざるをえなかったように、「同胞から圧迫を受けない自由」は、人間自由の欠くべからざる一部であるとはいえ、いかにもつまらぬ微々たるものである。ことさらの理由もなしに、だれひとり諸君に圧迫を加える者はなく、諸君に苦役を課したり、酷使できない。なるほど、諸君は、あらゆる人間から自由である。しかし、諸君自身と悪魔にたいしてはどうか?諸君より賢い人も、賢くない人も、諸君を駆使することはできない。けれども、諸君自身の軽薄、錯乱、誤った金銭欲、ウィンザーのジョージ王などはどうであろうか?ああ、自由独立の選挙民諸君、諸君に圧迫を加える者は一人もない、だがこの下らぬビールのビンは、諸君を悩まさないだろうか?どういう人間も諸君を駆使することができない。だが、このばかばかしい麦芽醸造酒のビンは、それができる!諸君はサクソン人セドリックの奴隷ではないが、諸君自身の獣欲や、この光った容器の酒の奴隷である。それでいて、諸君は諸君の「自由」についてむだ口をたたく。なんという大たわけであろう!

 

人間の行き当たるあらゆる道のうちで、いついかなるときにも、まただれにとっても「最善の道」の存在することは、たしかである。この時この場で、なすべきもっとも賢明なことは一つある、――もしかれが、指導によるにせよ強制によるにせよ、ともかくそれを行うことができれば、それはとりもなおさず、いわば「人間らしく」やったのであり、すべての人と神がかれに同意し、じつのところ、全宇宙をあげて、かれによくやったと叫んでいるのである!そうしたばあい、かれの成功は完全であり、その幸福は絶頂に達する。この道は、この道を見いだしそこを歩いて行くことこそ、かれにとって欠くべからざる、唯一の道である。かれをその道に押しすすめるものが、たとえ殴打やけ飛ばした形でくるにしても、すべてそれは自由である。かれを妨げるものが、区理事会、教区総会、投票所、満場の拍手かっさい、川のような麦芽醸造酒であるにしても、すべて隷属なのである。

 

人間の自由が、選挙所で投票し、「見よ、おれも、国会討論会の弁士の一人に二万分の一関係がある。神々は、おれに親切にしてくれるではないか?」というところにあるという考えは、――いかにもこっけいきわまるものではないか!それにもかかわらず自然は、現在のところ親切である。そして多くの、ほとんどすべての人びとの頭にそれを植えつけている。とくに社会的孤立と、だれもがみな別々に分かれて、現金勘定以外、「全く関係をもたぬ」ことによってかちとった自由、こういう自由は、これまでこの世ではほとんど見られなかったものであり、――諸君がいかに勧めても、全世界がこれ以上耐えられぬものである。この自由は、すべての人びとに歓呼をもって迎えられながら、それほど活動をつづけぬうちに、幾百万の労働階級にとって、それが食料の欠乏で死ぬ自由であることがわかる。一方、無数ののらくろ者のばあい、それは、仕事なしに生きること、つまり、この神の世界においてもはや真面目なつとめを持たぬという、もっとも有害な自由である。こういう苦境に立たされる人間はどうなるのか?地上の法は沈黙を守っている。そして天上の法は口をきくが、その声は聞こえぬ。仕事のないことと、仕事の根深い必要とが、まさしく驚くべき新らしい人生観と処世術を生ずる!道楽半分、無頓着、男だて、など、ときにはおそらく半狂乱になったバイロン風の反抗の爆発となって現われる。・・・・・兄弟よ、われわれは、長年の立憲政治をへた現在でも、自由と奴隷の意味が、完全にはわかっていないのである。

 

民主主義、つまりこのような方向へ自由を追求することは、ともかく行きつくところまで行かねばなるまい。あの「馬脚」閣下でも、あるいはその一党のだれひとりとして、それをとどめることはできぬ。あくせくと働く幾百万の人は、指導の必要を痛切に感じ、それを本能的に激しく望むあまり、ニセの指導をしりぞけ、一時的にせよ、指導なんか要らないとさえ考える。しかしそれも一時にすぎない。人間隷属の最小のものは、ニセの長上者によって人間が圧迫を受けることである。もっとも明白であるが、しょせんは最小のものであろう。そうした圧迫をふりとばして、憤然と足でふみつけるがよい。わたしはかれを責めない。あわれみ、称賛する。しかし、ニセの長上者による圧迫を振りとばしても、まだ、解決すべき大問題は残っている。それは真の長上者による統治を見いだすことである!ああ、われわれのように行き暮れて、困惑し、小ばかにし、冷笑し、神を忘れた不幸な者が、どうしてその解決を知るであろうか?それは数世紀にわたる仕事であり、苦難、混乱、暴動、障害によって、われわれは教えられる。災害や絶望によってでないとはいえぬ!それは、他のいっさいの教訓を含む教訓であり、あらゆる教訓のうちで学ぶのにもっとも困難なものである。

 

労働時間法、工場法その他、同様の法案について、筆者は語る資格がない。どういう特殊の方法によれば、法律で、労働者と労働者の親方のあいだに干渉できるものか、わたしは知らない。それはわたし以外の人のなすべきことである。――ただ、わたしに理解できるのは、すべての人たちも理解しはじめているように、法律の干渉、それもかなりの干渉が絶対必要であり、こうした方面のことは、もはや無法乱脈な需要供給として、たんなる賃金相場にだけまかせておけぬ、ということである。・・・・・干渉はすでにはじまっている。それは永続されなければならない。ひろく拡大され、鋭くされなければなるまい。こうした問題は、むなしく暗黒のなかに放置して、人目につかぬままに、しておくことはもはやできない。天はそれを見ているのである。天の祝福ではない、のろいが、それを見ようともしない人びとにふりかかるのである。

 

マンチェスターのような全産業都市はいずれも、その煙とすすをすっかりもやし、全世界におよぶ征服を押しすすめながら、百エーカーばかりの樹木の茂った、自由に出入りできる緑地を確保し、そこに小さな子供たちを遊ばせ、またいっさいを征服する労働者に、そこでたそがれどきの微風に息をつかせるべきではなかろうか?諸君はそのとおりだというにちがいない!議会にやる気さえあれば、実行をもってこたえることができるのである。・・・・・そして「おれのもうけがなくなる」といって反対するような「既得利権」にたいしては、ことごとく――議会にやる気があれば、こう答えるであろう、「そうだよ、しかしわが国の子供たちが健康と、生命と、魂を得るのだ。」――「それじゃ、われわれの綿紡績業はどうなるのか?」と、工場法が提出されると、ある紡績業者はさけんだ、「われわれの大切な綿紡績業はどうなるのか?」イギリスの人びとは断固として答える、「これらの幼児の弱々しい滅びそうな魂をすくうべきである、おまえの綿紡績業は成行きにまかせておくがよい。一つは神さまの命じていることだし、もう一つは別段神さまの命じていることではない。われわれは、悪魔と組むようなことまでして、綿紡績業を繁栄させることはできない!」

2015年11月22日

マイケル・サンデル 『それをお金で買いますか  市場主義の限界』 (早川書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 00:23

1980年代以降、西側世界を制覇した市場主義を批判した本。

非市場的規範が律してきた公共的部門である教育・医療・治安・司法・安全保障・環境政策に入り込み、さまざまな問題を引き起こす。

これに反対する二つの理由がある。

一つは不平等。

貧しい人々が不当に不利な扱いを受ける、というもの。

もう一つは腐敗。

たとえ条件が平等でも、それらの分野の商品化自体が社会的善を腐敗させてしまう、とするもの。

結果、現代社会は、市場経済を持つ状態から市場社会である状態に陥ってしまった。

市場の論理も、独特のやり方で公共生活から道徳的議論を排除する。市場の魅力の一つは、市場が満たす嗜好について判断を下さないことだ。ある善の評価の方法がほかの方法よりも高等かどうか、あるいは価値があるかどうかを問わないのだ。誰かがセックスや腎臓を金で買いたいと思い、同意する成人が売りたいと思えば、経済学者が問うことはただ一つ、「いくらで?」だ。市場は駄目を出さない。

市場は立派な嗜好と低俗な嗜好を区別しない。

取引をする両者は、交換するものにどれくらいの価値を置くかをみずから決めるのだ。

価値判断を避けるこうした姿勢は、市場の論理の中心にあって、その魅力の大半を説明する。しかし、市場を信奉してきたことと、道徳的・精神的議論に関与したがらない姿勢のために、われわれが支払った代償は大きかった。公的言説から道徳的・市民的エネルギーが失われ、こんにち多くの社会を苦しめているテクノクラート的で管理主義的な政治がはびこる羽目になったのだ。

人生のあらゆる問題を個々人の物資的利害と効用に還元する経済学的アプローチとそれに基くインセンティブ政策乱発の欠陥を著者は指摘。

経済学は価値判断をしない学問であり、道徳哲学とも政治哲学とも無関係だという考え方は、つねに疑問視されてきた。だが、経済学が思い上がった野望に燃えるこんにち、この主張を擁護するのはとりわけ難しくなっている。市場の範囲が生活の非市場的領域に広がれば広がるほど、市場はますます道徳的問題にかかわるようになるのだ。

経済効率について考えてみよう。それを気にするのはなぜだろうか。おそらく、社会的効用を最大化するためだろう。この場合、社会的効用とは人々の選好の総和として理解されている。マンキューが説明するように、資源の効率的な分配は社会のあらゆる構成員の経済的福祉を最大化する。では、社会的効用を最大化するのはなぜだろうか。ほとんどの経済学者はこの問題を無視するか、さもなくば何らかの形の功利主義的な道徳哲学に頼る。

だが、功利主義はいくつかのおなじみの反論にさらされる。

市場の論理に最もかかわりのある反論は、選好の道徳的価値にかかわらず、それを最大限満たすべきだとする理由を問う。オペラが好きな人もいれば、闘犬や泥んこレスリングが好きな人もいる場合、われわれは本当に価値判断を避け、功利計算においてこれらの選好を同列に扱わねばならないのだろうか。

市場の論理が、たとえば自動車、トースター、薄型テレビといった有形財にかかわるとき、この反論は大きな意味を持たない。商品の価値は消費者の好みの問題にすぎないと想定するのは、理にかなっている。だが、セックス、出産、育児、教育、健康、刑罰、移民政策、環境保護などに市場の論理が応用される場合、あらゆる人の選好が同じ価値を持つと想定するのが妥当とは言いにくい。道徳的負荷のあるこうした領域では、善を評価するある方法のほうが、別の方法より高級で適切かもしれない。

もしそうだとすれば、われわれが選好の道徳的価値を追求せずに、それを見境なく満たすべきだとする理由ははっきりしなくなる(子供に読書の楽しみを教えたいという願望と、至近距離でセイウチを撃ちたいという隣人の願望を、本当に同じように扱うべきだろうか)。

道徳的問題の領域に市場原理を導入することによって、社会的善が取引の中で腐敗する。

経済学者は利他心や連帯心などの美徳を「節約」して市場では解決できない問題に当てた方が良いなどと、利いた風な口をきくが、このアナロジー(類推)は著者によれば不適切である。

それらの美徳は使うと減るようなものではなく、鍛えられて強くなる筋肉のようなもので、使わなければ退化するはずだ、と。

 

 

具体的事例が多く、それが内容の中心。

それゆえ、読みやすく面白いと一応は言える。

そこで描かれるアメリカ社会の実態はもう狂ってるとしか言い様がない。

そして日本もこのような国になりつつある、というかほぼなってしまったことにぞっとする。

自由と市場の名において、最低最悪の醜い利己主義を正当化し、恬として恥じない経済学者と新興起業家という人種に、心底からの嫌悪と軽蔑を感じる。

そしてそれを矯正するどころか、迎合して「左翼」を批判した気になっている自称「保守」「右派」には反吐が出る思いだし、もう「(国民を道連れにせず自分達だけ)地獄に落ちろ」と言いたい気分だ。

 

 

『これからの正義の話をしよう』『公共哲学』に比べると、テーマが限られており、やや食い足りないが、それでも良質な読み物であることに変わりはないでしょう。

2015年5月10日

プラトン 『メノン  徳について』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 16:32

テッサリア出身でゴルギアスの弁論術を学んだ若者メノンが、前402年ごろソクラテスと対談したという設定の著作。

メノンはこの直後、ペルシア帝国の皇位争いに加わったギリシア傭兵の撤退戦である「アナバシス」で敗死したという。

一応内容をノートしてあるんですが、自分で書いていながら読み返すとよくわからない部分がある。

「解読」に苦労しながら、たぶんこういうことだろう、こうすれば何とか意味が通る、と考えてこの記事を書く。

いつもの如く、私が書く内容紹介はあまり信頼せず、ご自身でお読みになる際の参考に止めて下さい。

 

本書はまず徳について三種の考え方を提示。

(1)伝統的人々=優れた人のあり方を示す徳という言葉に当てはまる慣習に従うだけで、それ以上突き詰めて考えようとしない。

(2)ソフィスト=人々を支配し統率する力が徳、知恵を教える賢者と自らを規定(ゴルギアスにはやや慎重な部分があるが)。

(3)ソクラテス=徳は単に有益なものではなく探求の対象、無知の知の自覚の重要性、徳はソフィストが主張するように職業的に教えられるようなものではない、しかし広い意味での教育は重視する。

(1)の立場にはアニュトスがいて、この人物はペロポネソス戦争での敗北後アテネに成立した「三十人僭主」政権が打倒された後、前399年民主派政治家としてソクラテス裁判を主導する。

対談では、まずメノンが、徳は教えられるか?と尋ね、それに対しソクラテスは、それ以前に徳とは何なのかと問い返す。

メノン:男・女・子・年長者・自由人・奴隷にそれぞれの立場に応じた徳(アレテー=卓越性)がある。

ソクラテス:それらに共通する徳があるはず、また単なる卓越性でなく正義と節度といった条件もまた付く必要がある、その条件も徳である。

メノン:美しい立派なものを欲し、それを獲得する力があることが徳。

ソクラテス:「美しい立派な」ものはそれを「よい」と思うから欲するのであって、逆に悪いものを欲する人間も本人はそれを「よい」ものと思っているから欲している、「悪いものを欲する人」はいない、「よい」「悪い」を真に識別する知こそが重要、またそれを獲得する能力に問題を移せば、例えば富や要職を不正に手に入れるのは悪徳だ、正義や節度といったアレテーの「部分」が伴わねば不徳に陥る、しかしそう考えると「部分」が伴っているか否かで徳・不徳が決定されることになり、部分で全体を定義している矛盾に陥る、もっとも自分も徳そのものが何であるかを知ってはいない。

メノン:「探求のパラドクス」を提示。すでに知っていることを人は探求しようとはしない、一方知らないことはこれから何を探求するかさえ知らないので探求できない、という考え方。

ソクラテス:怠惰および論争のための論争の口実となるこのパラドクスを否定、魂の不死という立場から、「学習」とは実は「想起」であるとの説を提示。適切な問答で正しいドクサ(ここでは考え・判断・思惑・推測)に達し、自分で自分の中の知識を「再獲得」するのが学びだ。そして徳とは何かに戻って、それは教えられるものなのか、知識なのかを考察。徳はよい、有益なものだが、健康・強さ・美・富という有益なものも正しい使用が無ければ有害、勇気も単にある種の「元気」に過ぎなければしばしば有害、節度やものわかりの良さも同じ、これらすべては知によって導かれる限り有益で幸福、したがって徳は知であると言えるが、しかしこの「知」は果たして教えられるような知識か?、と疑問を呈する。

ここでアニュトスが登場(この対話は明らかに架空で事実ではないとのこと)。

アニュトス:ソフィストを批判。

ソクラテス:自身もソフィストに批判的だが、しかし何も知ろうとせずに非難することをたしなめる。

アニュトス:立派で優れたアテネ人に付き、教えを受けさえすれば立派な人間になれる。

ソクラテス:テミストクレス・アリステイデス・ペリクレスという偉人の息子たちが優れた人物になれなかった、もし徳が教えられるようなものなら、彼らがあえて自分の息子に教えないということがあり得るだろうか?

(アニュトスは怒って退場。)

ソクラテス:具体的行為の正しさについては知が導かなくても「正しい考え(ドクサ)」があればよい。ただし「正しい考え」は魂に長期間留まらないことが多く、原因の推論を行う知のように安定的に持続するものではない、アニュトスが挙げたような人々は知恵ある賢者ではなくドクサによって政治的統率を行っているだけ、だから他者を教え諭し自身と同様の優れた者にできない、彼らは知の点では託宣者・預言者と何ら変らない、彼らに対する称賛の言葉「神のごとき人」とは実は「神懸かりの人」とでも解釈すべき。もちろんソフィストも徳の教師ではない。結局徳そのものが何であるかは、無知の知の自覚に基づく徹底した自己探求によって知るしかない。

 

 

短いので読みやすい。

訳者解説が半分を占める。

『プロタゴラス』と同様、初心者も気後れせず読了していけばいいかと思います。

2014年11月12日

ジョン・スチュアート・ミル 『自由論』 (日経BP社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 07:00

原著は1859年刊で、有名な「愚行権」および「他者危害の原則」という概念を打ち立てた自由主義思想の古典。

「他者に明白な危害を与えない限り、たとえ社会通念上愚かで自身に損害を与えるような行動でも、基本的にその人間の自由にさせるべきであり、社会や国家が干渉すべきでない」という考え方。

現代社会の我々も基本そう考えて日々暮らしているわけですが、これはどうなんですかねえ・・・・・・。

こうした一見無秩序で放任的な自由が、実は社会の進歩を促す貴重な前提になるというが、自由を保障しさえすれば(それを行使する多数者の資質を問わずとも)必ずより良い変化がもたらされるという進歩主義的考えに全くついていけない。

ミルには、多数派による(世論の)専制を批判する視点もあり、それは大いに説得的なのだが、形式主義的な自由こそ、そうした「多数の専制」を生み出す大前提になってしまっているのではないか。

ミル自身のように優れた少数者から多数者たる民衆に自由が拡がった時、一体何が起こるのか、19世紀の楽観的自由主義者が考えたのとは天と地ほど異なる事態が20世紀以降生じたと言うしかない。

19世紀の進歩的自由主義と20世紀の全体主義の関係は「原因と結果」です。

伝統と宗教から解放され自由を得た民衆が精神的アパシーに陥り、左右の狂信的イデオロギーに囚われ、ありとあらゆる愚行と惨劇を繰り広げて、人類自体を滅亡寸前まで追い込んだことが、ここ100年余りの世界史の実像です。

それを「進歩に逆らう一部の前近代的反動勢力によってもたらされた悲劇」と片付けるのは詭弁もいいところだ。

例えば本書には以下のような文章があります。

論争者がおかしうる罪悪のうち最悪のものは、自分と対立する意見をもつのは悪人、不道徳な人間だと決めつけることである。こうした誹謗中傷でとくに打撃を受けるのは、不人気な意見をもつ人である。一般に人数が少ないし影響力がなく、公平に扱われているかどうかに関心をもつのは当事者とその仲間だけだからである。そしてこの誹謗中傷という手段は、その性格上、主流の意見を攻撃する人は使うことができない。この手段を使えば、自分自身が危険にさらされることになるし、また、危険にさらされることなく使えたとしても、自分の主張が信用されなくなるだけである。一般的にいって、主流の意見に反対する側は、つとめて穏当な言葉を使い、不必要な刺激を注意深く避けることによってはじめて聞き手を獲得できるのであり、この基準を少しでも踏み外せば、ほぼかならず立場が悪くなる。これに対して主流の意見を主張する側は、反対意見に対して無制限に誹謗中傷を浴びせる方法で、反対意見を表明したり、反対意見に耳を傾けたりするのをためらわせることができる。したがって、真理と正義のためには、少数意見を主張する側が使う誹謗中傷より、主流の意見を主張する側が使う誹謗中傷の方がはるかに、抑制する必要が高い。たとえば、どちらかを選択する必要があるのであれば、宗教に対する暴言より無神論に対する暴言の方が、止めさせる必要性がはるかに高いといえるだろう。

「愚かで卑怯な多数者が、賢明で冷静な少数者を誹謗中傷という言論の暴力で圧迫する危険が常にある」という意味でなら、上記の文章は形式的には何ら反対するところが無い。

しかし実際の歴史に即して考えれば、自由主義思想の普及により国家と政府による抑制が徐々に取り除かれるや、一般民衆は伝統や身分や宗教による束縛を排除し、(上記の文章で言う)19世紀における主流意見の宗教擁護と少数意見の無神論の関係を逆転させ、後は自分達の気の向くまま、(共産主義からファシズム、人種主義的ナショナリズムから市場原理主義的新自由主義に至る)あらゆる種類の世俗的イデオロギーに基づく狂信を誹謗中傷によって広め、(ミルが必要と考えた)一切の自制を示すことなく、多数派世論の専制を完成させて現在に到っています。

19世紀の少数者(象徴的に言えば「無神論」、あるいは民主主義でも物質主義でも進歩主義でも何でもいい)を自由の美名の下に寛容に扱ったのはいいが、それらが異常増殖して20世紀に主流にのし上がった後は、この低劣・無残な新しい多数派は自由や寛容などには何の配慮も払わない存在に化していた。

その結果が、全体主義的独裁と自由の根底からの喪失であり、それを避けられた場合でも無秩序で低俗な放縦を自由と取り違えるような社会なのだから、やはり近代においてどこかで自由の制限があってしかるべきだったのではないか。

本書の末尾には佐藤光氏という方の解説が載っているのだが、これは非常に重要です。

「危害原則」は低劣な自由を正当化するものではないとした上で、

自分も権力者の一人であることを忘れ、「権力者」のわら人形を仕立てて血祭りに上げ、相互に寛容であるからこそ各人が気ままな生活を送れることを理解せず、言い分が通らないからといって、突然多数の通行人を殺傷し、議論はおろか、あいさつさえ嫌って、閉め切った部屋の中でインターネットにしがみつくといった人間たち・・・・・・

また「危害」をどう定義するかについては、

ミルが活躍した時代は、イギリスの全盛期ともいえるビクトリア朝時代に重なるが、当時のイギリスには、こうした「境目」を暗黙のうちに誰の疑問の余地もなく決める「醇風美俗」が、うっとうしいまでに分厚く残っていたものと思われる。ミルは、こうした「醇風美俗」、あるいは「常識」「慣習」「習慣」などを「世論」と一緒くたにして、しばしば激しく非難しているが、何が、公権力の介入を必要とする「危害」あるいは「犯罪」なのか、何が、単なる「弁証法」における不快感の表明に留めるべきことなのか、などの境界は、「常識」「慣習」「習慣」、あるいはマイケル・ポランニーの言葉を借りれば、明示的な言葉や理性を超えた「暗黙知」によって決められる。というより、良くも悪くも、それらによって決められるほかのないものなのである。その「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」の力が、今日では弱まりつつある。

私が本書で最も不満に思うところを極めて明確に示してくれた文章です。

結局、言論、表現、契約、結社、経済活動等の様々な自由は、自らの基盤を成す、こうした「常識」「慣習」「習慣」「暗黙知」を弱体化させる、自己破壊的性質を持っているのではないか。

実定法がそうした「常識」の代わりになると楽観するのは、脱法的な社会悪がこれ以上無いほど蔓延している現状を見れば全く説得力を持たない(荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ))。

そもそも、自由な合理的個人による契約のみが社会秩序の源泉だと考えること自体が妄想だ。

自由を行使する人間の資質を問わなければ、社会は止めどなく堕落していく一方である。

自由主義は自らの原則の外にあるものの支えが無ければ、実は成り立たないのではないか。

顕著なのは進歩主義のイデオロギーである。個人や集団による自由の発動が、必ずや、個人の人格的発展と社会の調和的前進をもたらすであろうという思込みである。人間の不完全性を自覚すれば、つまり「無知の知」を知れば、社会全体を合理的に設計することが不可能だと分り、したがって社会主義やケインズ主義の間違いもわかる。しかし同時に、その人間の不完全性にかんする自覚は自由にかんする自己懐疑をも促すはずではないのか。とりわけ市場的自由によってもたらされる生活の変化をつうじて、慣習的な規則がどんどん形骸化し、ますます動揺するかもしれぬという懐疑がわいて当然ではないのか。この懐疑を封じるものこそ進歩主義の思想である。実は、新自由主義もその思想から自由だというわけではない。新自由主義が実際の経済活動に指針を与える際にレッセ・フェールに与しがちであるのは、それが自由への懐疑を失って進歩を信仰している点にあると思われる。またそれの主張する法と秩序がエスタブリッシュメントのための法制定を弁護するのに終わりがちなのも同じ理由による。つまり、政治の場面におけるレッセ・フェールを支持する結果、強者の論理がまかり通るのである。自由主義は、その新旧を問わず、自由の内包する自己破壊的な性質について、つまり自由の依って立つ基盤である慣習的な普通法が自由によって掘り崩されるという可能性について、無頓着である。

西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社)より)

そのことを自覚している保守的自由主義になら私も共感を抱く。

しかし、本書のような進歩的自由主義に対しては、建前上の綺麗事といった感が拭えず、保守的立場からして反面教師としての読み方しかできない。

本書には、以下のように極めて注目すべき文章もあるにはある。

個人間の違いをなくしていく要因として、以上の要因すべてとくらべてもさらに強力なのは、イギリスをはじめとする自由な国で、世論が政治を支配する状況が確立したことである。以前なら社会的地位の高さに守られて大衆の意見を無視できる人がいたが、いまではそうした地位が徐々に低下しているし、大衆の意思がはっきりしているときに、必要ならその意思に反対するという考え方自体を現実的な政治家がもたなくなってきている。このため、大勢に順応しない姿勢は社会の支援を受けられなくなった。社会のなかである程度の力をもつ勢力が数の支配に反対していて、大衆のものとは違った意見や傾向を保護しようとする状況ではなくなっているのである。

この認識は極めて鋭いが、ここまで見通しておいて、なぜ民衆への自由の拡がりを楽観視できるのか?

 

 

(少数派の)思想・言論の自由、個性尊重、個人に対する社会の権威の限界という、本書で展開されている主張は、20世紀以降、民衆の多数派によって加えられる抑圧への抵抗としては首肯したいが、本書が書かれた肝心の19世紀の状況については適用するのをためらう。

むしろ、伝統や常識を一顧だにしない、予定調和的進歩を能天気に想定する自由(放任)主義が、恐るべき結果をもたらし、その悪影響をほとんど払拭できない状況下で現在の我々も生きていると言うべき。

 

 

さほど難解ではなく普通に読める。

少なくとも初心者であっても、論旨が全く読み取れないということは無いはず。

社会思想史上、有名な古典ですし、読了しておくのも悪くない。

ただし、上述の通り、私はあまり感銘を受けるようなことはありませんでした。

2014年2月19日

西部邁 『ソシオ・エコノミックス』 (イプシロン出版企画)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:24

原本は中央公論社から1975年に刊行。

西部氏の処女作か。

理性的な原子論的個人と社会的均衡・完全競争市場の仮定に基づく新古典派(主流派)経済学を批判する書。

これはきつい。

途中までは何とか通読できたが、第3章あたりからはやむを得ずとばし読み。

以下、印象深い部分だけ引用。

マルクス経済学がフェティシズムつまり物神崇拝の病理の世界を資本の運動法則とやらで否定的に隠喩する弁証であるのにたいし、近代経済学はヘドニズムつまり快楽主義の世界を市場競争の効率性とやらで肯定的に暗喩する論理である・・・・・・

マルクス経済学が論理的に欠陥だらけでその実践の結果、史上最悪の全体主義的独裁政治がもたらされたことは絶対に間違いないが、近代経済学の人間観・社会観も途方も無く歪んでいることに違いは無い。

新自由主義的・リバタリアン的政策がもたらす社会の荒廃を描写するに当たっては、マルクス経済学をあくまで直感的な批判の道具として用いるだけならば有効性すら感じないこともない(引用文(佐伯啓思3)参照)。

実際、今のアメリカ(や日本を含む先進民主主義国)の社会のあり方を見ると、マルクス主義が戯画化した資本主義社会とあまりにも近似していることに寒気を覚える。

カネがカネを生む投機的活動だけが跋扈し、それが実体経済を歪め破壊しているのに、財力と金権による政治と情報産業の支配によって何の対策も取られず、富める者は益々富み、貧しき者はますます貧しくなり、「下部構造」が「上部構造」を決定するように、社会内の全ての言動が金銭的動機から行われ、言論の自由は形骸化し、拝金主義と市場主義・競争主義が蟻地獄のように全国民を引き込み、極少数の富裕層を除き、煉獄の苦しみを与えているにも関わらず、それに対する根源的批判はデマゴーグ的多数決原理によって自動的に排除されるシステムが出来上がってしまっている。

著者は、近代経済学の中で、自由市場の欠陥に相対比較として自覚的かと思われる公共経済学においてすら、以下の錯誤があることを指摘し、それを超える非個人主義的・非市場主義的な「参加原理」という視点を提示する。

公共経済学は「市場の失敗」という概念を中心にして構成されている。費用-便益アプローチによるテクニカルな分析からいくつか有益な情報がえられたことは認めなければならないとしても、市場をコミュニティ全体の中にどのように位置づけるかという最も基本的な点で、公共経済学はわれわれと逆の捉え方をしている。公共的諸問題を市場の部分的機能障害(すなわちパレート効率性からの逸脱)とみなす個人主義的見地は、それを貫こうとすると、機能障害に対する社会的解決の基準を、これまた個人主義的な多数決の場に求めるほかない。そこでは理性的個人の「自由」が最大限に重んじられる。たとえ平等とか安全とかいった類の制限が自由に課されたとしても、それらの制限の実質的内容を規定するのはやはり(政治の場における)自由な活動にあるとされる。だから、残されるのは自由の態様にかんする判断の差異だけである。消費者主権と市民主権がどの程度発揮されているか、それを客観的に判定するための証拠は少ないのが通常であるから、評価の主観性をめぐってとめどない議論が続く。

これに対し、参加原理は、公共的諸問題を諸個人の個別的活動に対する前提条件として解釈する。それは、いわば共同の容れ物である。平等や安全にまつわる諸条件は、諸個人に自由な活動を許すための先決条件だとみなされる。そして、それらの実質的内容は(具体的な量的水準についての決定はともかくとして)範囲としてはコミュニティの全成員に共通なるものとして客観的に定まると考えるわけである。公共的諸問題の重大化は、市場の失敗ではなくて、むしろ、市場の前段階にある共同的秩序の形成における失敗である。

市場が正当性を付与された制度として存在するのは、それが諸個人の自発的意志にもとづく平和的交換のシステムだという了解があるからである。人々におしなべて自発性を保証するのは、交換が何がしか平等であり安全であるという社会的通念である。この交換の前提となる通念こそ、参加条件の確保によってえられたものである。むろん、参加条件を考慮することなしに市場的交換や多数決の活動を営んだとしても、参加原理が必ずしも保証されないわけではない。ただ、「市場の失敗」論の欠陥は、その個人主義への行き過ぎた偏りのために、問題が効率の次元から公正の次元に移行したとき、すなわち参加条件の危機が明瞭になったとき、コミュニティの全成員にとって一致した規準をどこにもみつけられないという点にある。諸個人の社会的重要度にかんするウェイトづけを多数決にまかせる仕方は、現状肯定的もしくは容認的態度につながりやすい。なぜなら、表面に観察される社会的決定はすべて多数決だからである。多数決の場に構造的安定性を与えるのが、ほかならぬ公正を実現することだという認識は公共経済学において見出し難いのである。

他者の健康、他者の教育、他者の所得について一定水準が確保されていなければ(すなわち他者がコミュニケーションの構造的要素として登場することを予想できるのでなければ)、社会的コミュニケーションは困難になる。また、交通施設や環境がある程度以上備えられていなければ(すなわちコミュニケーション・チャンネルが不足していれば)、コミュニケーションが狭隘になってしまう。このような平凡な社会的事実の上に、公共的諸問題の解決規準が組み立てられなければならない。多数決による決定はこの事実に具体的表現を与えるにすぎないのであって、それに根本的に代りうるものではない。あるいは、代りうるという迷妄にとり憑かれたときに、コミュニティの統一性が危うくなりはじめるといった方が適切かもしれない。

卑しい新自由主義者の市場競争主義でも、愚鈍な進歩的左翼の福祉主義でもない、保守主義者によるナショナル・ミニマムとしての社会保障という著者の考えが処女作から一貫していることに感嘆する。

そして、個人主義的自由論と「自由で理性的な個人」への身の程知らずの過大評価、それに基づく現代のビジネス文明と市場社会の持つ根本的欠陥を述べる。

・・・・・・新古典派の人々は、どんな消費選好もそれが強制されたものでない以上は本質的に自立的なのだ、とみなそうとする。しかし個人の消費選好は、消費財に付与されるイメージ特性を媒介にして、文化の場における拘束を受けているのだから、選好の自立性はそう安直に主張できることではない。もちろん、新古典派といえども、文化による拘束を認めないわけではない。むしろ、それをあっさりと認めた上で、「しかし自由な選択は自立的である」というふうに理路をたどる。だが新古典派の弱点は、実は、文化の拘束を当り前のこととして前提してしまい、その実質的意味について深くは考えない、という姿勢の中にこそ隠されている。この姿勢によって、文化の問題は新古典派に特徴的な個人と社会にかんする個人主義的解釈を覆すほどの重要性を持っているのではないか、という方向での推理が封じこめられてしまう。消費選好の問題に限定していえば、文化による拘束の問題は、次の二点で新古典派の個人観と社会観とに抵触するはずだと思われる。

一つは無意識の問題である。文化は、法律や道徳のように諸個人にとって外在的な規範システムとしてあるばかりでなく、諸個人の知覚、感情、および思考の共有パターンとして、(諸個人のパーソナリティを構成する最も基底的な層として)諸個人に内在するものである。そして当然のことであるが、諸個人は自らに内在する文化を、完全に理性的に認識することは不可能であり、文化の一部はつねに、無意識の形で保有される。たとえば、習慣的あるいは情動的といわれる行為を分析することによって、われわれは無意識の世界の構造を窺うことができる。

現代の技術的環境が、このようにして諸個人の行動をその深層においてパターン化していると考えるならば、表層においてみられる自由選択の個人性をもって“自立的”と呼び、さらにはその延長戦上に「効率的」という「望ましさ」にかんする形容詞をもってくるのは、一種の誤魔化しのレトリックだといわれても仕方ない。レトリックの話ならば、自動車を乗り回す快楽に浸っている人々を自立的な人々だと呼ぶのがおかしいのは、ちょうどトーテム崇拝を守りつづけている未開人を指して自立的だと呼ぶのがおかしいのと同じである、ということもできる。社会科学としては、あらゆる選好を社会心理の現れとして客観的に分析することができるだけであり、あれこれの規範概念を探すのは実践倫理に属することなのである。

もう一つは、すでにふれた、変化を公共イメージとする文化の問題である。物理的特性とイメージ特性がともに安定している静態的文化の下でならば、文化の実質的内容は時間を通じて不変であるから、自由選択にみられる個人差に関心が集中するのもうなずけるところである。そこでは、文化の内容はあらゆる人々にとって(分析者にとっても)、特別に考慮する必要のない自明のこととしてあり、むしろすべての思考の前提をなすようになる。未開の占い師や中世の神学者は、ほぼそのような前提の下で思考してきた。しかし、変化することそれ自体を新たなイメージとして取り入れた現代文明の下では、文化についても明示的に考慮することが要求される。変化のイメージにおいては、変化の実質的内容は生産者によって一方的に決められる。したがって、われわれが消費の実質的変化の自立性を問うときには否応なく変化の形式に吸い寄せられている消費者と経済計算にもとづいて変化の実質を誘導している生産者との間の、互いに異化された関係を分析しなければならない。そして、変化のイメージがその他の慣習的イメージなどといかに衝突し、さらには、自然の秩序をいかに破壊するかを調べなければならない。

ともかく、二つの論点が示しているのは、文化に拘束された消費者の自由選択が自立的だといえるためには、消費者が文化の総体を反省的に認識するというもう一つの意識過程がなければならない、ということである。しかし、変化のイメージの真の恐しさは、無限に複雑化・細分化していく変化の予感の中に人々を投げ入れ、このようなトータルな反省的認識を阻害するところにある。だから、現状の選択が自立的だという結論は受け入れられない。観察される消費は、ガルブレイスのいうように「虚偽の欲望」でもなく、新古典派のいうように「自立的欲望」でもない。それは、技術的環境の中で技術的イメージによってパターン化された人々が、変化のイメージにつき動かされながら、マージナルなところで個別性を競い合っていることの結果である。このようにいう著者自身もその一人なのである。

共同の企てはあくまで潜在的なものであるから、それが実際の活動として顕現するときには、多数決や市場的交換を経由しなければならない。しかし、表面に観察された現象だけをみて、世界をホッブズ的なものとして描くわけにはいかない。多数決や市場的交換を成り立たせる同意や契約のシステムそのものが、諸個人の葛藤から派生した第二次的な産物なのではなく、彼らのコミュニカティブな相互作用を可能にする最も基礎的な枠組なのだ。そしてこの枠組を安定的に保つためには、参加と統合の保証が何がしか必要になる。ルソーのいう一般意思、すなわち、常に不平等を志向する諸個人の特殊意思に枠をはめて全員一致の平等を志向する一般意思とは、歴史の始源における合意なのではなく、コミュニケーション・システムにおいて保証せざるをえないこのような条件のことであろう。

初心者には通読困難だが、極めて重要な視点が含まれている。

上記に引用した部分だけでも、いろいろ深く考えさせられた。

機会があれば、ご一読下さい。

2014年2月1日

マイケル・サンデル 『公共哲学  政治における道徳を考える』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 16:06

以前ベストセラーになった『これからの正義の話をしよう』と同じ著者と訳者。

本文は380ページ超だが、全30章なので、比較的短い章が多く、読みやすくはある。

第1部でアメリカの政治的伝統の考え方を概観し、第2部では個々の具体的問題について論じ、第3部でリベラルな政治理論の検討。

第1章は「道徳を法制化する」ことへの反対について。

現代社会で普通尊重すべきと考えられているのは、「価値中立的自由」。

要するに、他者に明白で直接的な危害を加えない限り、何をするのも自由だという考え方。

その典型として、リベラル派が主張するのが政教分離、保守派は市場介入への反対。

それに対して、米国の建国理念の一つである「共和主義」は、自由を「自己統治の分かち合い」に支えられたものと見なす、個人主義的自由を超える概念であることを著者は指摘。

(普通共和主義という言葉は、単に世襲の君主制や貴族身分の存在に反対する政治的立場を指すが、この通俗的定義はひとまず忘れて下さい。)

この意味での「共和主義」が目指すものは、国家を単に個人的自由の保障と経済的利益の分配のための機械的装置と見なす「手続き的共和国」とは異なるもの。

ジェファソンはそのための条件として農業立国主義と工業化への懐疑を持っていたが、20世紀初頭、アメリカが一大工業国となると、資本と経済力の集中が巨大企業の専横を招き、社会の自己統治を危機に陥れる。

それに対して、いわゆる「革新主義」時代に、セオドア・ルーズヴェルトは連邦政府の権限強化と大企業の規制を行い、ウィルソンも同様に反トラスト法などの政治介入による経済力の分散に努める。

これらはまだ「共和主義」理念に基づいていたと言えるが、一方30年代のニューディールと(俗流)ケインズ主義は単に経済成長と配分的正義にのみその関心を集中させたものであり、それが60年代の対抗文化による社会秩序の弛緩・紊乱に繋がる。

これに反発した人々が、80年代レーガン政権下の草の根的な「市民的保守主義」を支持することになったが、著者はこれを真に「共和主義」的ものとは認めない。

なぜなら、それは「大きな政府」のみを批判の対象とし、「大きな企業」は放任し、民間活力との美名の下、巨大企業によるコミュニティの破壊をただ傍観しているからである。

一方、それに抗すべきリベラル派は、個人主義的な権利と自由のレトリックに囚われ、コミュニティと中間組織再建への道筋を提示できず、自らの長期低落の傾向を止められなかった。

この第1章の要旨を頭に入れて、以後の文章を読むと良い。

伝統的価値観を何よりも蝕むのは、リベラル派の裁判官ではなく、保守派が無視している現代経済の特徴なのだ。たとえば、自由な資本の移動は、地域、都市、町への破壊的な影響を及ぼす。大企業に力が集中しているのに、そうした企業は事業の場となるコミュニティに説明責任を負わない。

文化的保守派が、人を堕落させる大衆娯楽の影響を懸念するのは間違いではない。こうした娯楽は、それを売り込む宣伝と相まって、人びとを衝動的な消費に走らせたり、市民道徳と食い違う政治に従わせたりする。だが文化的保守派が何より強力な力を、つまり制限のない市場経済の腐食力を無視するのは間違いだ。企業がみずからの力を利用して、減税、建築規制の変更、環境政策の譲歩などを、雇用を切望する市や州に押しつければ、かつてのどんな連邦政府命令よりも大幅に、コミュニティの力を奪うことになる。貧富の差の拡大に伴い、公立学校、公園、公共交通機関から富裕層が逃げ出し、特権的な領域に閉じこもってしまえば、市民道徳を維持するのは困難になり、共通善は視界から消える。コミュニティを復興させるためのいかなる試みも、社会組織を食いつぶす文化的勢力はもちろん、経済的勢力とも戦わなければならない。われわれに必要な政治哲学が問うのは、自己統治やそれを支える市民道徳にふさわしい経済制度は何かということだ。

市民は顧客ではないし、民主主義とは単に人びとに望むものを与えることではない。自己統治が適正に行われれば、人びとは自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改めることができる。顧客とは違い、市民は公共善のために自己の欲求を抑えることもある。それが政治と商業の違いであり、愛国心とブランド・ロイヤリティの違いなのだ。政府が漫画のキャラクターや最先端の広告から拝借した人気に頼りすぎると、支持率は上がるかもしれないが、公共部門の尊厳と権威は失われてしまう。公共部門の手入れを怠れば、民主的市民が市場の力や商業的圧力を制御することはまず望めない。こうした力や圧力は日ごとに勢いを増し、無数のやり方でわれわれの生活の形を決めているのである。

上記の文章は極めて重要な意味を持っていると思う。

昨今の日本社会の有様が、ますます米国(と韓国)に似たものになりつつあることに恐怖を覚える。

左翼・進歩派・リベラルに対する罵詈雑言は溢れているが、それは伝統に基づく真の保守主義の勝利を全く意味しない。

保守的立場からの、市場経済への規制や暴力に等しいような粗暴な言論の制限の主張は、「左翼」とのレッテル貼りと誹謗中傷の的になり、自動的に退けられる構造が完成してしまっている。

結果、真の同胞意識など持てないほど貧富の差は拡大し、究極の格差社会に転落する。

それを誤魔化すために、薄っぺらで安易極まる粗暴なナショナリズムと奇矯で愚かな宗教的原理主義が、大企業と富裕層の財力で新旧のメディアで煽られ、それ自体が「商売」になる。

国民は「自己の欲求について反省し、対立する視点を踏まえてそれを改める」ことなど全くせず、ただ大々的な宣伝に煽られ、表面上は言論の自由が保たれているように見えつつ、実質的にはごく一部の勢力の思うがままに行動することとなる。

その大きな流れの中では、著者のような立場の言論すら、単にアリバイ作りやガス抜きとして利用されるためにのみ、その存在を許されるという具合になるんでしょう。

結局、アメリカに(そして日本にも)真の保守派はいない、いるのは卑しい市場原理主義者と愚劣な右派的ポピュリストだけだ、ということになってしまいました。

著者はコミュニタリアン(共同体主義者)として、上記の(通俗的)「保守派」批判の後、リベラル派をも批判し、それを超える視点を以下のように示す。

リベラル派がしばしば主張するのは、共通善の政治は、特定の忠誠、義務、伝統に頼らざるをえないため、偏見と不寛容への道を開くということだ。現代の国民国家はアテネの都市国家ではないと彼らは指摘する。現代の生活の規模と多様性のせいで、アリストテレスの政治倫理は、よくて郷愁をそそるもの、悪くすれば危険なものになってしまった。どんなやり方にせよ、善の構想によって統治を行おうとすれば、坂道を転げ落ちるように全体主義へと誘い込まれる可能性が高いのである。

コミュニタリアンの反論は次のようなものだが、私はこの意見が正しいと思う。すなわち、不寛容が蔓延するのは、生活様式が混乱し、社会への帰属意識がゆらぎ、伝統が廃れるときだというのだ。現代において、全体主義への衝動は、確固とした位置ある自己の信念から生じているわけではない。そうではなく、ばらばらにされ、居場所を失い、フラストレーションを抱えた自己の困惑から生じているのだ。こうした自己は、共通の意味が力を失った世界で途方に暮れているのである。ハンナ・アーレントはこう述べている。「大衆社会の存立がこれほど難しいのは、そこに含まれる人びとの数が多いからではない。あるいは少なくとも、それが主要な原因ではない。人びとのあいだを埋める世界が、彼らをまとめ、結びつけ、また引き離す力を失ってしまった事実が原因なのだ」。公共生活が衰退するかぎり、われわれは共通の充足感を徐々に失い、全体主義を解決策とする大衆政治に陥りやすくなる。共通善派の権利派に対する反論は以上のようなものだ。共通善派が正しいとすれば、われわれにとって喫緊の道徳的・政治的課題は、わが国の伝統に内在するが現代では姿を消しつつある、市民共和制の可能性を蘇らせることである。

リベラリズムは、善に対して正を優先し、道徳的宗教的中立を保とうとする。

それに対して、狭く単純な意味のコミュニタリアニズムは、共同体の多数派の価値を法制化することを正当と見なす立場だが、著者のそれは、社会の中の多様で異なる信念・価値観の対話を重視する熟議型の相互尊重を目指すものだという。

その例として、本書では言論の自由とヘイトスピーチの問題が論じられている。

ホロコーストの犠牲者遺族が多く住む地域でのネオナチ集会と、人種差別主義の強い南部でのキング牧師の集会という、両極端の集まりがもたらす混乱に対して、国家と社会はどう対峙すべきか。

リベラリストは形式的観点から両方の自由を認め、(通俗的)コミュニタリアンは双方を認めないとするしかない。

しかし、その言説が何を推進し、何を目的としているのか、それが共同体の善にかなうのかを論じなければならない、ネオナチのヘイトスピーチと人種間の平等を説くキング牧師の演説は価値的に同じではない、それについてどれほどの困難があろうとも冷静に熟慮しながら議論を重ねていき、それを行動の原則とするしかないというのが著者の立場。

面白い。

『これからの正義~』を読んで、著者についてもっと読みたいという場合は、本書を勧める。

続刊の『それをお金で買いますか』(早川書房)が、立ち読みしたところ、もう一つ食い足りない印象があったので。

アメリカ的限界があっても、自由民主主義を前提とせざるを得ない以上、著者のコミュニタリアニズムはあの国の中で最も良心的な思想だと思います。

2013年10月23日

西部邁 『ケインズ』 (岩波書店)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 09:03

1983年刊。

著者名と出版元を見比べると驚いてしまいますね。

個人史、価値観、学問論、政治論、経済学の五章。

思想的部分や経済学的解説で、難しい部分があっても、そこは飛ばし読みでいいでしょう。

第四章の政治論を中心に読めばいい。

過度の市場的活動が、限定的合理性しか持たない諸個人の支えである慣習体系を動揺させ、社会は不均衡・分裂・動乱に見舞われる。

共産主義のような恐るべき狂信的運動が惹起する中、それを避けるためケインズが構想した経済への国家介入政策が生まれる。

それが「大きな政府」の弊害を生み出したのは確かだが、そもそもそれは原子的個人主義と教条的市場主義、自由放任主義が生み出した社会の弊害に耐えかねた大衆が自ら求めたもの。

にも関わらず、1970年代後半から80年代以降、新自由主義者が反エリート主義と大衆の自発的活動への信頼を掲げてケインズ批判に乗り出したのは途方も無い偽善・欺瞞・独善・虚偽であり、保守派がそれに合流するのはまぎれもない堕落であり、保守主義の大衆化をもたらし、大衆の趣味性向が絶対視されるいかがわしい市場への警戒心を放棄する自殺行為である。

そもそも「個人の原子化」「社会の中の中間団体と階層性の破壊」という点において、新自由主義(および前代の自由放任的資本主義)と左右の全体主義は強い親和性を持つ双生児であり、はっきり言って前者が後者の勝利をお膳立てしたとしか言いようが無い。

こうして「社会」を、私的個人同士の相互活動で出来上がる薄い膜のようなものへと縮小することは、今日、リバタリアンや自由市場主義者の野望として提示されています。しかし、わたしたちが忘れてはならないのは、それが何よりもまずジャコバン派、ボリシェヴィキ、そしてナチスの夢であったということです――もしわたしたちを、共同体あるいは社会として結び合わせるものがないならば、わたしたちは完全に国家に依存するしかない、というわけです。・・・・・

こうしたプロセスに、不可解な部分などまったくありません。それはエドマンド・バークのフランス革命批判のなかで、十分に述べられています。彼が『フランス革命についての省察』のなかで書いているのですが、国家の骨組みというものを破壊してしまうような社会は、すぐにも「個人性という粉塵へと空中分解してしまう」に違いありません。公共サービスを骨抜きにし、それらを民間供給者のネットワーク委託という形にまで縮小することで、わたしたちは国家の骨組みの解体に手をつけたのです。「個人性という粉塵」について言えば、それこそ正にホッブズのいう、万人の万人に対する戦争にそっくりで、そこでは多くの人びとの生活が孤独で、貧しくて、少なからず不快なものになってしまうのです。

トニー・ジャット『荒廃する世界のなかで』より)

言論の自由や市場活動に適切な規制と制約を課そうとする動きに対して、新自由主義者が「左翼」だの「全体主義」だのとレッテルを貼り、聞くに耐えないような罵詈雑言を浴びせているが、これほど卑怯下劣で見下げ果てた行為も無い。

こうした論旨に、個人的には衷心より同意する。

もう今の日本に社会主義的左翼の脅威など、どこにも無い。

むしろ自由と市場を絶対視する新自由主義者(というかその正体は、ただの拝金主義・快楽主義・物質主義者)が社会を混乱と窮乏に導いているにも関わらず、財力と金権を最大限に用いたデマゴギーによって世論を実質的に支配し、極少数の富裕層だけを「勝ち組」にする政策が推し進められている。

現在「オピニオン・リーダー」面をして、新旧のメディアでそのような政策の「必然性」を説くネオリベ的経済学者には激しい嫌悪と軽蔑しか感じない。

このまま行ったら、またしても逆の狂信的運動が生まれて、ある種の破局がこの国を見舞うのではないかという恐怖を感じます。

著者の作品のうち、特にこの本が、ということはないが、以下の引用文のように、心にずっしり応える部分は間違いなくあります。

『経済倫理学序説』間宮陽介『ケインズとハイエク』との併読を勧める。

・・・・・錯綜がありながらも、経済学の本流は自由放任の思想に偏っていたのであり、それはまた、一般庶民の素朴もしくは低俗な自由思想と呼応していたのである。というのも経済学は社会的慣習の重みについて、人間の知的および道徳的不完全性について、そして自由と平等のあいだの葛藤について、あまり真面目な考慮を払ってこなかったからである。総じていえば、“選択の自由”にたいする制約をできるだけ弛く解釈するのが経済学のやり方であり、それは“われらをして自由になさしめよ”という大衆の野蛮な叫びと軌を一にしているといってよい。ケインズは、経済学者たちと一般公衆のあいだに瀰漫していたこの堕落せる自由思想に痛撃を与えようとしたのである。

・・・・・ケインズは・・・・・自由放任への反発のあまり社会計画に安易に飛びついたとの感を免れがたいのである。その結果、彼は国家機構の懐にふかく抱かれた人物なのだという印象を世人に与えつづけてきた。だからこそ、大きな政府に反対する経済思潮が反ケインズ主義の形をとっていま吹き荒れているわけである。私自身は、大きな政府は大衆が国家の庇護を要求したことの結果にほかならないと考えている。したがって、そのような非自律的な大衆が市場機構の野に放たれて小さな政府ができたとて、経済学の純粋理論が教えているような自由の理想郷に入りうるなどとは毫も考えていない。

・・・・・旧制度における物質的不幸と社会的不平等それ自体は可能なかぎり、治癒されてしかるべきものであったろう。しかしそこには、凡庸なるもの、低俗なるもの、画一的なるもの、満悦的なるもの等々、つまりは大衆的なるものへの懐疑がまだ残されていた。その懐疑を保守しつつ物質的幸福と社会的平等の水準を高めること、それがケインズにおける大衆への二面作戦なのであった。彼が経済学の領土に自らを封じこめずに、より広い言論活動へと旅立っていったのもそのためと思われる。というのも、彼のみるところ、経済学は大衆性への懐疑を提供してくれるような種類の学問ではないからである。経済学は、たかだか、物質的幸福と社会的平等の問題にかかわるにすぎないとされていた。それらに伴う精神作用について、たとえば大衆的精神の横行が文明の殷盛を示すのかそれとも衰退の兆であるのかなどについて、解釈し懐疑するのは経済学の仕事とはみなされなかった。したがって、ケインズの幅広い言説が彼の亜流たちによってケインズ経済学という形に縮退させられてしまったとき、彼が高度大衆社会を飾る一柱のトーテムに祭り上げられたのも仕方ないところである。

2013年7月21日

佐伯啓思 『20世紀とは何だったのか  「西欧近代」の帰結 現代文明論(下)』 (PHP新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 15:20

かなり前に読んだ上巻の続き。

以下に内容メモ。

箇条書きに近いので、意味不明なところもあろうかと思います。

まえがき。

「文献を隈なく渉猟することにはさして関心がなく、・・・・・文献としては、たとえば岩波文庫の古典と中央公論の『世界の名著』、それに二十世紀の古典がいくつかあれば十分・・・・・」とあって、「あっ、それでいいのか」とも思うが、当然私のレベルではそれすら全く不可能ですので、本書のような解説書は助かります。

1章。

19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパの中心性が崩壊して、真の意味で「世界史」が成立。

バラクラフ『現代史序説』が挙げられているが、これも読まなきゃいけないなと思いつつ、放置したままです。

近代の始まりを、1648年ウェストファリア条約で宗教的権威から世俗権力が独立したことに置く。

絶対王政を擁護したホッブズの思想だが、個人の自由契約がその出発点である以上、結局近代民主主義に繋がらざるを得なかった。

ホッブズの思想が、保守主義の観点から決して首肯すべきようなものでないことは、引用文(クイントン1)参照。

合理と普遍性の追求が啓蒙思想を生み、それが帝国主義によって非ヨーロッパ世界に拡散、米国とソ連の台頭をもたらす。

ウォーラステインによると、フランス革命によって、自由主義・社会主義・保守主義の三思想が生まれ、それぞれが米国・ソ連・西欧の主流となる。

表面上の対立に関わらず、伝統破壊と反貴族主義において米ソの共通性有り。

2章。

キルケゴール曰く、近代は「反省・水平化の時代」。

ニーチェ曰く、弱者のルサンチマンと隠された権力欲に基づく「奴隷革命」の時代。

彼の言うニヒリズムは東洋的無常観・諦念観ではない。

「目的の崩壊」=個人が意味を偶然性に与えることができなくなる。

「統一の崩壊」=集団・世界にも意味付けが失われる。

「真理の崩壊」=デカルトの合理的認識論→表象としての世界・真理とは言えない。

世界は「存在」するのではなく「生成」するもの、懐疑主義・静寂主義という消極的ニヒリズムを超え、「力への意志」を持ち新たな価値を創り出す「能動的ニヒリズム」=「超人」。

しかし、ハイデガー曰く、ニーチェのニヒリズム論も結局はデカルト主義、「人間-世界」を「主体-客体」として定立、主体性の形而上学であるのは同じだとして、(自身も一時支持した)ナチによるニーチェ思想の利用を説明している。

ニーチェは「奴隷道徳」に対して「貴族道徳」というものを考案してみた。これは「畜群」や「奴隷」を見ると「吐き気がする」という感覚のあり方を斥力として、人間を向上させようという戦略である。「げ、あんな連中といっしょにしてほしくないぜ」という嫌悪感をバネにして人間的成長をはかろうというのである。論理的には整合的なのだが、『道徳の系譜』を書いたときにニーチェがまだ気づいていなかったことがあった。それは、「畜群」というのは「畜群を見ると吐き気がする」というような「貴族のマネ」も簡単にできるタフな生物だった、ということである。その一世紀後に「オレ、ニーチェ読んで、あのバカども殺さないかんつうことが分かったわけ」とほざく子どもたちが輩出するとは、かの天才も想像できなかったであろう。大衆はニーチェが思っているより「もっとバカ」だったのである。その惨憺たる帰結はご存じのとおりである。

内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)

ニーチェの近代批判は、その民主主義批判に典型をみるように、鋭利をきわめているようにみえる。だがその道徳・宗教批判は矯激に跳ねている。それは、おそらく、人間の生が道徳・宗教への関心(ということは価値への模索)をぬきにしては成り立たぬということを軽視したためであろう。

西部邁『思想の英雄たち』(文芸春秋orハルキ文庫)

3章。

ハイデガー『存在と時間』について。

世界を超越して外から見るのではなく、世界の中にすでに投げ込まれてその中で世界をみる「現存在」。

そのことの意味を問うことをしないのが「頽落」。

人間は共同存在であるから、ほとんどを大勢に従うことになり、中性的な「人」DasMannの言うがままとなる。

それに対して、死を意識して(「先駆的覚悟性」)、過去を取り戻しつつ(「反復」)、「本来性」を回復し、集団による共同の企て(「運命」)を引き受けることが必要。

しかし、結局これも近代の「主体性」の哲学を一層徹底化させたものに過ぎなくなってしまい(後のサルトルらも含めて)、通俗・平俗化されればナチスのような大衆運動に利用されることになる。

晩年のハイデガーは、人間を活動し選択し決断するものというより、観照し待望し何かに仕えるものであると考えるようになった。

4章。

ファシズムが、平等化の進展による階級社会消滅と大衆社会化によって生まれたことを指摘(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

伝統的共同体と宗教的信条を無くした根無し草の平等な個人が、政治的アパシーに陥り、あきれるほど簡単に他者に同調することによってファシズムが生まれる。

空っぽの大衆の頭に、カリスマが「国民的問題」とエセ世界観を注ぎ込み、達成不可能な情緒的目標で煽動された大衆が全体主義運動の道具となる。

それに抗すべきエリートや知識人も、反伝統主義・反既成支配層の感情から大衆に合流し、煽動者の手先に成り下がる。

著者は、「ナショナリズムからファシズムが生まれた」という考えを否定し、国民国家と帝国主義(および排外的民族主義、人種主義)とは全く違うことを強調する。

少数民族を包摂し統合するのが真のナショナリズムであり、移民や少数民族への野蛮な排斥はむしろナショナリズム=国民統合形成からの逸脱であるとする。

この国民国家的ナショナリズムに対置されるのが、種族的ナショナリズムであり、ナチは自らの軸足を後者に置き、そして皮肉というか理不尽というか、ユダヤ人も後者を基礎にする集団であると想定して徹底的な攻撃・撲滅の対象とした。

5章。

19世紀自由主義改革による民主政治は「指導者民主主義」であり、かつての国王と貴族の統治のような世襲制ではないが、依然エリートによる大衆の指導を内実にする政治であった。

それが産業革命以後の、中間層の拡大、複製技術革命が起こり、文化の商品化が進むと、他人の真似を自分の意見であると思い込む大衆が画一的でステレオタイプ化された世論を生み出し、大衆の欲望・野心・情念・偏見を動員することに成功した者が世界を動かすようになる(ルボンタルド)。

オルテガが指弾するように、凡庸なものがほとんど無制限の権利を要求し、政治について全く自覚も無く一切の努力もしない大衆が「生まれながらの権利」に基づき主張を押し通す社会となる。

さらに経済学者にその典型をみるがごとく、エリートとされる知的専門家こそが、大衆的存在に成り下がっている。

優れた少数者は特権者として否定され引き摺り下ろされてしまう(「奴隷一揆」[ニーチェ])。

6章。

政治だけでなく、経済も大衆化が進む。

所有と経営の分離、株式・債券市場の発達により、金融部門が拡大。

長期的スパンの実物経済が短期のシンボル経済に変化。

価格・賃金の安定という点で、大企業体制と大衆社会の蜜月関係が築かれるが、失業の不安が付きまとう。

ケインズの不確実性の概念。

不安な状況の中、人々は貨幣だけを信頼(「流動性選好」)。

実体経済への投資より金融市場での投機が横行し、経済は停滞。

貨幣は交換手段とは別に価値保蔵機能を持つ。

貨幣は交換価値しかなく、使用価値はない特殊な商品であり、根本では集団心理によって支えられるだけの存在。

金融市場の極度の不安定性からして、この貨幣を大衆心理へ委ねるのは危険であり、中央銀行・政府のエリートに依存するしかないというのがケインズの考え。

有効需要を増やす公共事業も、ケインズ自身は、民主的ではないエリートによる配分を想定していた。

社会民主主義とリベラル左派の論拠ではなく、大衆社会へのアンチテーゼとして、保守的立場からケインズを再評価するのが著者の主張。

7章。

アメリカ文明について。

(古典的)共和主義は王権とも対立するが、民主制へも批判的。

公的自由=徳を持つ公的活動。

私的自由=中身はブラックボックスで一切問われない。

本来共和主義が擁護したのは公的自由だったはずが、いつの間にかそれとすり替わった私的自由がほぼ無制限に主張される。

具体的日常的コミュニティでの健全な民主制が普遍化することで形骸化する。

技術主義・消費社会・方法化・ニヒリズムが蔓延し、手段の目的化・絶対化が止めどなく進行。

多文化主義を唱える主流派に対し、あくまでヨーロッパ文化を中心とする保守派。

人間中心主義(ヒューマニズム)も結局ニヒリズムに過ぎないものと化す。

適当過ぎるメモなので、読み返すと自分でもよくわからない部分があります。

しかし、本書自体は非常に読みやすく、中身の濃い本ですので、是非実際にお読み下さい。

2013年6月11日

プラトン 『プロタゴラス  あるソフィストとの対話』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 15:22

このレーベルは初めてか。

『ソクラテスの弁明 クリトン パイドン』『国家』に続けてこれを読んでみる。

表題となっているプロタゴラスは、「人間は万物の尺度」という価値相対主義的考えを唱えたソフィストとして、高校世界史でも出てくる人物。

アテネに滞在中の、60歳くらいのプロタゴラスを、当時36歳ほどと思われるソクラテスが友人と共に訪ね、ヒッピアスやプロディコスなど他のソフィストも同席する中、議論を行う。

(以下、議論の流れの概観。あまり上手くまとまっておらず、誤読や意味不明な所もあろうかと思います。)

まずプロタゴラスが、自分は専門教科ではなく、策を練る力、政治の技術を教えることができると主張。

それに対してソクラテスは、そうしたことは教えることができない、アテネでは非政治的な技術的問題は専門家だけが発言するが、国家政策は誰もが口にし議論する、また優れた人が息子に徳(アレテー)を伝授できないのも、その証拠だとする。

プロタゴラスは、そもそもエピメテウスが各種の生物に能力を分配した際に、人間だけが無防備な状態にされ、そこでプロメテウスが知恵を火と共に与えてくれた、さらにゼウスがヘルメスを通じて政治の技術として道義心と謙譲心を人間に与えて国が出来た、よって全ての人がアレテーを持っている、そうでなければそもそも国家自体が成り立たない、不正に対する罰とは本来のアレテーを取り戻すようにするためのもの、だが持って生まれた能力によってアレテーが劣っていることがある(これが偉人の不肖の息子)、こうしたアレテーの不均衡に対して、自分のような立派な教師がそれを伸ばすことができると主張。

ここでソクラテスが、徳は多性か一性か、と問う。

プロタゴラスは、アレテーは一つだが、正義・節度・敬虔などの部分に分かれ、それぞれに役割が違う、「勇気はあるが不正」、「正しいが知恵なし」などの例が見られるので、と答える。

対してソクラテスは、アレテーの一つの部分は他の部分と同一でないのなら、正義は不敬虔で、敬虔は不正なのかとたたみ掛け、また一つのものには一つの反対物しか無いという事にプロタゴラスの同意を得た後、無分別の反対は知恵だ、また同時に無分別の反対は節度だとも言い得る、すると「一つの反対物は一つしかない」という先程の原則からして、「知恵=節度」でありアレテーは完全に一性だとしなければ矛盾すると主張。

(途中で、シモニデスの詩の解釈について議論があるが省略。)

プロタゴラスが、徳=知恵・節度・勇気・正義・敬虔の五つのうち、勇気だけは他とは違う性質を持つ、不正・不敬虔で節度を欠き知恵も無いが勇気のある人間がいると述べる。

ソクラテスは、快いものが正、その反対が不正とする、世間で快楽に征服されて不正なことをしてしまうと言うが、結局それが不快をもたらすことを見通せないのがむしろその原因であり、計量の技術の欠如、すなわち知識の無いことからくる、よって知が最も重要、「自分に支配される」のが無知、「自分を支配する」ことが知恵だ、そして勇気とは「最終的に不快をもたらす」「真に恐ろしいもの」を知ることに他ならない、したがって勇気も他の徳と同じものだと結論するが、ところが勇気=知恵となるとアレテーは教えることが出来ないという自身の最初の主張と矛盾することになると認めて、対話を終えている。

訳者解説では本文の議論がわかりやすくおさらいされている。

ソクラテスの最後の議論については、大衆の快楽主義的考えを認めた上で、快・不快の大小を量的に比較でき、「快楽に征服される」という現象は実は計算違い(無知)のことであることを示し、勇気と知恵を同一のものとし、知の重要性を主張したものとされている。

この部分は本文を読んで「あれ?」と思ったのだが、やはりこの解説でも、主知主義はソクラテスの思想と合致するが、快楽主義にはソクラテスは強く反対する立場のはず、恐らくプロタゴラスとの対話に沿って便宜的に出てきた仮説のようだと記されている。

面白い。

それほど難しくないので、初心者でも十分内容をつかみながら通読できる。

哲学などほとんど読んだことが無いという私と同じような方でも、気後れする必要は全然無いです。

たまにはこういう本を読むのもいいんじゃないでしょうか。

2012年6月17日

木崎喜代治 『幻想としての自由と民主主義  反時代的考察』 (ミネルヴァ書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

著者については、本書を手に取るまで何も知らず。

略歴を見ると、『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』(岩波書店)という著書とマルテーユ『ガレー船徒刑囚の回想』(岩波書店)という訳書が載っている。

本書は、「シリーズ現代思想と自由主義論 3」だそうです。

1995年に書かれた草稿を元にして2004年刊行。

以下、内容をよく示している章名・節名を挙げる。

([ ]内は私の補足。)

「『自由』は絶対的権威を持っている」 [が]

「人間は自由ではない」

「かつて『自由』は悪であった」

「すべては信仰の自由から始まる」 [そこから]

「人間万能主義の世界観が生まれる」

「自由と放縦は同じものである」

「自由のうちに積極的なものはない」

「種々の拘束のうちのどれを選ぶか」 [こそが真に問われるべきことである]

「自由な人間は社会性を持つことができない」

「自由は解体の原理であって、創出の原理ではない」

「自由を超えて自律を目指す」 [べきである]

「議会制民主政治は『賢人政治』である」 [議会主義と近いものは民主制ではなく貴族制である]

「『市民』と『大衆』とを区別する」

「民主主義の平等の原則は下降化作用を持つ」

「平等な人間は容易に自分に満足する」 [その結果]

「人間というものの水準は低いところに定められる」 [さらに]

「名誉の観念は消失する」 [結局のところ]

「民主主義は人間を上昇させる契機を持たない」 [そんな人間性の真実を直視すれば]

「表現の自由は最高の原則なのか」

文明が誕生してから、全ての人間社会では、宗教的基盤による自由の抑制こそが社会の基礎であり、その抑制が存在しなければ社会も有り得なかった。

ところが、文明の発達と人智の複雑化によって宗教改革と、教義をめぐる宗教戦争が戦われるようになり、その惨禍から「信仰の自由」という観念が生まれた。

それ自体はやむを得ぬ、切実な成り行きだと言うこともできるが、個人が自身の信仰を選択できるということになると、そこから人間が神の上に立つ存在だという、恐ろしく不遜な考えが生じてくる。

しかも、切実かつ高尚な、信仰面に限定されていた「自由」の観念が、私的欲望の追求を正当化するためにほとんど無限に拡大解釈され、その低俗化に全く歯止めがかからなくなる。

人間の不完全性を直視しない自由の称揚が社会の混乱と荒廃をもたらし、その必然的帰結が近現代における全体主義である。

これを自由と民主主義の名の下に非難することは根本的に歪んでる。

なぜならそれらの綺麗事こそが全体主義をもたらしたのだから。

[自由民主主義を批判し否認する著者に対する]全体主義との類似性という非難についてはつぎのように答えよう。自由とは拘束の不在のことであり、そして、個人主義とは、とくに現在の日本では、私的利益の追求とほとんど同義であり、そのゆえに、自由と個人主義の称揚は個人を孤立化させ、したがってまた弱体化させる方向へと引きずっていく。そして、このように孤立化し無力化した自由な個人こそが全体主義的権力の恰好の標的となり、その権力によって簡単に絡め取られてしまうのではないか。その権力が政治的であろうと、オカルト的宗教的であろうと、事情に変わりはない。自由な人間とは、これまで詳論してきたように、空虚な人間である。そのゆえに、かれらは他者と共感し連帯するための恒久的な絆を持ってはいない。そして連帯とは拘束以外のなんであろうか。自由な人間は連帯を嫌悪し、孤立化し、無力化し、そして、そのゆえに外からの権力に容易に絡めとられる。これを自由からの逃走と呼んでもよい。

それに反して、自律した人間は空虚な人間ではなく、かれ固有の積極的な原理を自分自身の中心に据えていて、その原理にしたがって強く生きている存在である。そのゆえに、かれはその原理を通じて他者たちと共感し連帯することができる。かれは孤立的人間ではなく、社会的人間である。全体主義的権力が、連帯している社会的人間を捉えるのは容易ではない。したがって、むしろ、今日では閉鎖的利己主義と一体化した個人的自由の高揚や個人主義の称揚こそが全体主義を呼び込んでいるのである。社会性の喪失の結果、個人は同胞に助けを求めることができず、その代わりに、上方の国家権力や宗教的権威に助けを求めざるをえないことになる。

また、以下の文章も、自分自身のことを振り返れば、実に得心のいくものである。

古来から、しばしば、人間とは弱いもの、間違いを犯すもの、邪悪なもの、愚かなものとして定義されることがあった。しかし、そのような定義はいわば消極的な性質のものであり、恥ずべき行為を犯してしまった人間を慰め励まし更正させるために用いられる秘かな口実であった。それが、いまや、そうした行為を弁護するために堂々と積極的に白昼のもとに掲げられるのである。この種の人間の平等の仮定が積極的原則となるやいなや、人間の精神の世界における果てしない下降過程が始まる。人間を計る尺度として、その生物学的特徴しか存在しないということ、あるいは、少なくともそれがもっとも強力な尺度であるということは、賢明な人間たちを計る尺度がうまく機能しないということである。したがって、人々は、卓越した考えを表明したり、立派な行為をしたりする人間を見てもただ困惑する以外にはない。どのように対応すべきかが分からないのである。そして、自分が理解できないことを未練なく忘れ去る最善の方法は、それを嘲笑することであるらしい。こうして人間の愚かな行為は人間的だとして容認され、他方では、美しい行為や見事な行為は理解を超えているゆえに嘲笑される。・・・・・・

他の叙述では、西欧(特に英国)の日本と米国に対する文明的な優位は、より「民主的」だからではなく、全く逆に、民主主義への抵抗力を持っているがゆえであると書かれているのが印象的。

また新聞からラジオ、テレビへと情報メディアが進歩すればするほど、情報の内容が空疎で愚劣化すると指摘している。

このくだりは、高坂正堯氏の『不思議の日米関係史』の中での、日露戦争後のアメリカにおいて、ハースト系の新聞がデマに等しいような対日警戒論を煽ったことを記した後の、以下の文章を思い起こさせる。

実際、アメリカでもヨーロッパでも、十九世紀末にはそれまでに考えられない大部数の新聞が出現し、世論に悪影響を与えたのであった。どうやら、情報産業というものは、新しい形態のものが現われるとき、必ず、なんらかの悪影響を及ぼすものらしい。

民主主義の発展によってこそ、社会的弱者および少数者が保護されてきたという見方については、それら被差別者の地位を向上させてきたのは、心ある少数派市民であり、多数派の民衆はむしろ彼らを迫害してきたのであって、大衆自身が権力者以上に迫害の主体であったと述べている。

これはたとえ嫌な事実であろうとも、真実を直視するなら妥当だと認めざるを得ない見解です。

加えて、参政権は、現状では酒や煙草を摂取する資格と同様にある一定の年齢に達するだけで与えられるが、車の運転免許にも試験があるのに、なぜ政治に関与する資格が何の資質も問われず、自動的に与えられるのかと疑問を呈している。

考えてみれば、本当にそうです。

政治に関わる言論においては、とにかく、ほとんど全ての国民が(その政治的立場の相違に関わらず)、下は一般公務員から上は政治家まで(もっと酷い場合は皇族に至るまで)、少しでも公的立場にある人々に対して、一方的に罵詈雑言、誹謗中傷、揶揄嘲笑を浴びせ掛ける傾向があります。

つくづく思うんですが、あれ一体何なんでしょうか?

言ってる本人の資格や資質が問われることは、ほとんど絶無でしょう。

自分たちは「納税者」で「主権者」だからということで、どんなに無責任で、非現実的で、理不尽で、皮相で、短絡的で、一方的で、バランスを欠き、ステレオタイプで、冗談半分に近いようなもので、愉快犯的で、真の切実さに欠けるくせにそれを装い、支離滅裂で、品性下劣で、自らのことを完全に棚に上げ、他人を攻撃すること自体を目的とし、それで自分の卑小さから目を逸らし、日常の憂さを晴らすための、卑怯極まりない非難であっても全てが正当化されてしまう。

しかし、「納税者」って、あなた税金いくら払ってるんですか、公務員一人の年収も到底賄えないんじゃないんですかと言いたいし、そんなことより、たとえ億万長者で莫大な額の税金を払っていようとも、これまでの何十世代にわたる努力と試行錯誤の結果である政治・社会・文化の上に立ってこそ、自身の経済活動があり得たんだから、個人として要求できる発言権なんて限りなく微少なものなんだとわきまえるのが、まともな大人というものじゃないでしょうか(たとえ少額の納税者でもその多数が寄り集まった集団的意志ならば絶対的に尊重されるべきだという理屈に対しても同様)。

「主権者」だから当然だって言うのなら、そんな民衆は君主や貴族という身分以上に、「生まれながらの不当な特権者」だと言いたいです。

私自身がそうだから書くんですが、「主権者たる国民」の平均的姿は以下に描写されているようなものじゃないでしょうか。

われわれは大衆人の心理図表にまず二本の線を引くことができる。すなわちその生の欲望を示す線、つまり大衆人自身の際限の無い膨張の線と、安楽な生存を可能にしてくれた一切のものに対する徹底した忘恩の線を。この二つの傾向は、例の甘やかされた子供の心理を作り上げているものである。

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?
前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。
ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。
だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』より)

個々の民衆の資質を問わずに、すべての個人が平等だとされれば、その平等な個人の多くが同意した多数意見が絶対視される。

「価値としての多数性」をトクヴィルは「知性に適用された平等理論」と名づけた。要約すると、「知性は各人に平等に配分されている」とすれば、「多数派のほうがより多量の知性を有している」という子どもの理屈である。そういう幼稚な判断に立つ者だけが「民主主義は多数決だ」と言い張って憚らないのである。

また、「国民は等しく主権者である」というヒューマニズムの前提に立てば、この子どもの理屈に到達するのも必然といってよい。と同時に、この前提から「少数派排除」という(いわゆる「いじめ」の論理と同種の)アンチ・ヒューマニズムが出てくるのであるから、民主主義は立ち往生せざるをえない。

[西部邁『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。  私の政治家見験録』(飛鳥新社)より]

・・・・・民主主義にあっては、多数性に(主権と呼ばれる)至高の価値をすら宛てがっています。今日では誰もわざわざ問うことを止めたのですが、多数性が最高の価値であるという命題は、誰も信じていないのに誰もが信じた振りをしている大嘘なのではないかと思われます。

トックヴィルは、その嘘を「知性に適用された平等理論」と呼んで批判しました。こういうことです。第一に、すべての人が知性を等しい質量で所有していると想定します。すると第二に、多数派のほうが(足し算として)より多い知性を保有しているということになります。したがって第三に、多数派の判断のほうがより優れているという結論になるのです。

日常生活にかんする慣習的な判断についてならば、ひょっとして、その平等理論は正しいのかもしれません。しかし、国家の政策をめぐる判断についてまでそれを主張するのは、やはり、歴然たる嘘というほかありません。

多数性にジャスティファイアビリティ(正当化可能性)はありません。もしあるというのなら、あらゆる政体が多数派の動向を気にして運営されてきたのですから、何万年も閲(けみ)した人類史は今や真善美の間近にまで達しているとみてよいということになってしまいます。しかるに、現代の文明は到る処で没落の兆候をみせつけているときています。少々なりとも敏感かつ正直な人なら、多数派にあってこそ(虚偽とはいわぬまでも)誤謬が大きい、と認めるに違いありません。歴史に進歩があったのだとしても、その進歩のアイディアやプランやプラクティスはどちらかというと、少数派の手によって担われてきたということも、あっさり承認するでしょう。

歴史の連続を保つものとしての伝統、それに精神的生命を吹き込んできたのは少数派のほうです。伝統によって生み出される権威、それを纏(まと)うのがオーソドキシー(正統)と呼ばれます。多数派は伝統から離れようとし、権威に逆らうこととしてのヘテロドキシー(異端)となります。

いや、通常の異端は慣習に抵抗する破壊主義的な少数派として歴史に登場するのです。そのあとを多数派が追う段階になって、伝統までもが失念されます。

そのとき、別種の異端が伝統の権威と権威ある正統の(反革命と俗称される)保守に起ち上がるという経緯を辿ります。ですから、多数性は正統性とも無縁とみてさしつかえありません。「ヘテロ」は「異なる」という接頭語で、その原義は「選びとる」ことです。変化という過去とは異なれるものを「選びとる」のが多数派の変わらぬ習性だといえます。

「知性に適用された平等理論」というあまりにも低俗な理屈を拒否してみると、多数性には正統性と正当性のそれぞれ一片も付与されていないとわかります。少なくとも、多数性が価値となるのは、権威の次元のことではなく、権力の次元においてのことにすぎないのは確実です。多数性は露骨きわまるフォース(物理的な力)にすぎません。

 それが(多数派の支持によって作り出される)法律によって正当化されるとき、そのフォースがパワー(権力)になります。状況の進展のなかで、法律にたいする多数派の恣意的な解釈が罷り通るようになると、そのパワーはヴァイオレンス(暴力)に転じます。「数の暴力」といわれているのがそれです。

「真理は細部に宿る」といわれるのと同じく、「真理は少数派の手にある」とみて大きく間違うことはありません。それにもかかわらず「知性に適用された平等理論」のまやかしが、多数派の故意か無知かによって守護されています。そして権力はすでに多数派の手にわたったのですから、この誤謬もしくは詐術の理論を社会のなかでつき崩すことは、あっさりいって不可能なのです。

 そのことに絶望する者が少しでも増えること、それ以外に希望はないというのがトックヴィルのいった「多数派の専制」ということなのだと思われます。

 

[西部邁『文明の敵・民主主義  危機の政治哲学』(時事通信社)より]

実際には「前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じている」人間の付和雷同に過ぎないものが、自立した諸個人が自由な討議を経て決定した賢明な結論だと偽装粉飾される。

そんな世論が全ての物事の価値判断の基準になれば、国や文明が滅びない方が不思議でしょう。

多数派の大衆が、良質な市民になることは全く期待できない。

そうである以上、民主主義を擁護して、「ポピュリズム」のみを批判することは無意味であり、やはり民主主義自体を否定する視点を持たない限りどうしようもない。

一人一人の国民が、伝統と慣習の束縛を脱し、かけがえのない平等な個人として自らの権利を自覚し、あらゆる物事を主体的に考え、自分自身の意見を持ち、その意見を何ものにも制限されず自由に表現し、異なる意見を縦横に戦わせ、その結果得られた多数意見だけを国家と社会の意志決定の基礎とする、という具合になればなるほど、社会は底無しの腐敗堕落に吸い込まれ、国家は確実に破滅への道をひた走ることになる。

様々な形態はありえるでしょうが、根本的に、社会の中で、できる限り長い時間をかけて自然に形成された、いくつかの階層に分かれ秩序付けられた少数者に特別な権利と義務を与える以外に、文明を安定させる方法は無いんじゃないでしょうか。

史書を読めば読むほど、上記の考えが確信に近いものになっている。

そういう真実を直視することを拒否して、社会を原子的個人のみからなる平板なものに再構成しようとする行為が、混乱と無秩序を通じて、かつて排除された伝統的階層性など及びもつかない、途方も無い格差を伴う独裁と社会自体の破滅を生むのではないでしょうか(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

しかも、そうして生み出された独裁が崩壊したならば、またもや民主主義の名の下に、平等社会を築こうとする運動が続き、結果として再び新たな独裁の土壌を準備することになってしまう。

文明社会が完全に破滅するまで、この種の大衆運動が永久に続き、誰も止めることができない。

結局、言論の自由や民主主義、人権、全個人の平等などが公認かつ自明の価値になってしまったら、どんな時代のどんな国も、不可逆な滅びの道に入るしかない。

1789年以降(今のアメリカを見れば、本当は「1776年以降」と言いたい)、5000年かけて文明を築いてきた人類社会全体が、遅かれ早かれ、その道に入ってしまったんでしょう。

極めて平易な表現で、自分が普段漠然と考えていたことを明確に叙述してくれている本。

ただ、事例が卑近過ぎたり、論理の運び方に鋭さが欠ける嫌いもあるが、それも私のレベルに合っているとも言える。

今日では、本書は、旧来型の左翼よりも新自由主義者・市場主義者・個人主義者への批判として読むべきと思われる。

非常に貴重で有益な書。

強くお勧めします。

2011年6月30日

佐伯啓思 『人間は進歩してきたのか  「西欧近代」再考  現代文明論(上)』 (PHP新書)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

2003年刊。

著者の勤務する京都大学の全学共通科目「現代文明総論」という講義を基にした本。

上下二分冊だが、互いに独立した著作のようです。

京大とは言え大学一回生が特別な予備知識無しに受講できるレベルとのことなので、大して難しくない。

取り上げられている思想家もホッブズ、ルソー、マックス・ウェーバーなど誰でも知ってる人が多い。

以下、バラバラなメモ書き。

網羅性はあまり無いので、ご注意を。

近代を17世紀以降、政治面での市民革命、経済面での産業革命、文化面での科学革命の複合体として把握。

本書の基本的視座は以下の通り。

人間の自由の拡大、つまり規範的なもの、権威的なものからの解放は無条件に善であり、人間の移動性が増して空間的な活動領域が拡大することは望ましく、富を手にすることは無条件によいことだ――そういう価値観がここにはあります。ということは逆にいえば、規制や権威は悪であり、土地や共同体への執着は悪であり、いかなる不平等も許されるべきではなく、貧困はそれだけで悪だということになります。これが西欧の近代主義、啓蒙主義が生み出した進歩という考え方の核心です。

しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。いっさいの規制や権威からの自由、共同体や土地から切り離された空間の無限の移動性(今日の情報ネットワークや世界を飛びまわる国際資本もそうです)、人間の自然的な差異を排したあらゆる意味での平等の達成、必要な生活をはるかに超えた過剰な生産や消費――こうしたことまでほんとうに無条件で是認すべきなのでしょうか。

近代的価値観の未達成ではなく、過剰こそが様々な弊害を生み出している。

ポスト・モダン思想も、自由や平等の追求を核心とする近代主義を根底から疑ってはおらず、都合の良い「近代」で都合の悪い「近代」を攻撃しているだけ。

次に、近代の成立時期の考察。

16世紀初頭を境に中世から近代に移行したのではなく、中世は14世紀に崩壊し近代合理主義の誕生は17世紀、その間300年は空白期であり、危機の時代であるという見方の提示。

ルネサンス人文主義とデカルト、ガリレイらの合理主義を区別する。

デカルト的思考は、共同体・人間関係・教育の中で育まれる、古典古代的な合理性ではなく、空白・危機の時代に対応して、社会の混乱と世界観崩壊の中、確信・信念を持ち得ない状況下での抽象的精神としての合理性。

宗教改革がローマ教皇と神聖ローマ皇帝の権威を否定、国王・領邦君主の自立を促し、聖書翻訳によって国家意識を生み出し、意図せざる結果として神中心の宗教的秩序から人中心の世俗的秩序への転換を進める役割を果す。

続いて、ホッブズ、ルソーの思想検討に入るが、ここでは結論部の以下の文章のみ引用。

まとめていえば、もともと、近代的な民主主義は古典的な共和主義の復活として出てきた。ところで古典的な共和主義は、市民的美徳をもって公共精神を宿し、共同体への愛着をもった市民を想定している。しかし、近代社会には、こうした市民を持ち込むことはすでにできなくなっている。そこで、その代用として、市民が一致して関心をもつ「公的なもの」を仮構せざるをえない。それが「国民の意思」です。現代的にいえば「世論」です。共和主義の支えを失った近代民主主義は、このようなフィクションを持ち込まざるをえない。そして、そのフィクションがあたかも実体であるかのように民主政治が営まれたときに、その民主主義は全体主義に転化してしまうのです。民主主義のなかには、あらかじめ何か全体主義的なものが含まれてしまっているといわねばなりません。

ルソーの「一般意思」概念が全体主義的独裁確立に利用されたというのは保守派のルソー批判の定番で、本書でもそうしたことは書いているが、同時にルソーの思想のうち、古典古代的共和主義再構成の面はアメリカ独立革命に、社会契約説と人民主権論の徹底という面はフランス革命に繋がっているとされ、前者に対しては一定の肯定的評価が与えられている。

古典古代的共和主義とは、国家の構成員の主体的政治参加を是とする立場。

しかしそれには共同体への防衛への献身、勇気・自己制御・節制・思慮・正義感など市民的美徳の涵養への義務が各個人に課されることが大前提。

この意味での「共和主義」は往々にして民主主義とは逆の内容を持つ。

『ザ・フェデラリスト』でハミルトンなどアメリカ建国の父たちが、自分たちが作ろうとしているのは民主政ではなく共和政だと繰り返し書いていたのを思い出した。

「デモクラシー」という言葉を偶像視するというか、呪文のように述べる今のアメリカ人とはえらい違いです。

ケナンのような「真のアメリカ人」とでも言うべき人はもう存在しなくなったんでしょうね。

・・・すべての政府システムを縦断し、他のすべてに勝る意義を持つ基本的な相違がある。それは「民主的」と「非民主的」な政府の違いと説明すれば最もわかりやすいだろうし、米国では特にそうだ。私個人としては、この関連で「民主的」という用語を使うのが嫌いだ。この用語は、そもそも米国の建国の父の多くが、建設中のシステムを説明するのに使おうとはしなかったろう。当時ですら「民主主義」という言葉は相当多くの意味になり、代表制政府の制度の強力な支持者ですら、軽蔑的に用いることがあった。さらに近年になると広く乱用されて、かってどんな意味があったにせよ、その大半が失われるに至った。(ジョージ・ケナン『二十世紀を生きて』(同文書院インターナショナル)

かつてアレグザンダー・ハミルトンは民衆を「巨大な野獣」と呼び、「人民の声は神の声だと言われ、この格言は広く引用し、また信ぜられているが、実際上の真理ではない。人民は乱暴で移り気なものである。正しい判断と決定を行うことはできない」と述べている。(アンドレ・モロワ『アメリカ史 上』(新潮文庫)。ただしモロワはハミルトンよりライバルのジェファソンを評価している。)

現在ではこんなこと正面切って主張されたら、奇異の念を抱くか強い反発を覚えるという方がほとんどでしょうが、アメリカ建国の父たちの、少なくとも半分がこのような考え方の持ち主であったからこそ、大規模な民衆運動がとりあえずは独裁や終わり無き内乱に転化しなかったのだとも思える。

そうでなければアメリカは、十数年後のフランスより先に、人類史上初の全体主義を生み出したという汚名を着たはずである。

ところがこうした精神は建国後、約半世紀しか続かず、1830年代のジャクソニアン・デモクラシーで決定的な堕落を遂げ、トクヴィルが指摘するような大衆民主主義国家に成り下がったとある人が評していたが、確かにそう思える。

われわれ民衆が無条件で主権者だとされるのは、君主や貴族という身分の存在よりも「生まれながらの不当な特権」だと言いたい。

少数者の特権と違って、それを抑制することや相応しい義務を課すことが不可能に近いだけ、一層タチが悪い。

個人的には言葉の真の意味での「共和国」には君主と貴族が不可欠だとすら言いたいくらいである。

言ってみれば、「真の共和政」は君主制と貴族制と民主制の三者が相互に抑制し合って均衡を保つ状態だとする見方もありうると思うのだが(引用文(中江兆民1))、実際には民主制のみが突出した国家が共和国と呼ばれ、なぜか「共和主義=民主主義」ということになってしまっている。

閑話休題。

以上が本書前半部の粗っぽい内容メモ。

(省略した論点もかなりあります。)

後半部は、カルヴァン主義と資本主義成立の関連を述べた、ウェーバーの有名な仮説や、フロイトの「自我」「エス」「超自我」の関係などについて。

プロテスタンティズムがローマ教会の階層性的権威を否定し神を内面化して自己制御・自己陶冶するキリスト教的個人主義を成立させ、それが近代的個人主義に繋がるが、信仰心の後退によって内面の支えがなくなり、利己主義を抑える術を失った個人主義が資本主義と近代市民社会を根底から堕落させていく、みたいなことが書いてある。

上記の内容メモは適当過ぎますが(最近根気が続かない)、本書自体はかなり面白いです。

実際に講義を聴いているような気分になれます。

下巻も機会があれば是非読みたい。

話し言葉でスラスラ読めるのも長所。

お勧めします。

2011年6月24日

P・F・ドラッカー 『「経済人」の終わり』 (ダイヤモンド社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

1939年刊のピーター・ドラッカーの処女作。

これも以前から読もうと思ってはいたが、確か2、3回挫折しているはず。

この程度の長さと難易度の本を投げ出しているようではいけませんね。

今回はしっかり通読。

ファシズム全体主義分析の書。

文章はさして難しくないのだが、初心者はやや論旨がつかみにくい。

以下、誤読があるかもしれないが、とりあえず内容メモ。

キリスト教普及後のヨーロッパでは自由と平等がヨーロッパの二大基本概念となっていた。

まず初めはこの二つが精神的領域において追求された。

死後の彼岸ではあらゆる人間が平等であり、この世は死後の真の人生の準備期に過ぎないとする見方を全ての人間が受け入れていた。

この時期においては、人間は「宗教人」として理解されていたことになる。

それが、近世宗教改革以後、知性による聖書理解と個人による運命決定が押し進められ「知性人」に移行。

さらに自由と平等が社会的領域に求められるようになり、まず「政治人」が、そして「経済人」の概念が現れた。

「経済人」の概念とは人間にとって経済的地位、報酬、権利、利得を至上のものとする考え方。

それがブルジョア資本主義の背景を成していたが、20世紀に入り戦争と恐慌により、それへの確信が崩壊。

合理化・機械化・唯物化の進展が独自の力を持ち、人間には制御不能の存在になったことが示されたため。

さらに、ブルジョア資本主義と同様にマルクス社会主義も、ソ連の現状が知られるにつれ、もはや自由と平等を達成できないことが明白になった。

かつて「宗教人」の概念をもって人々を静かな諦観と従容と死後の救済を待つ態度に導いたキリスト教も、この情勢において大衆を導くことに失敗。

著者は通説とは異なり、19世紀を宗教的信仰復興の時代と捉えている。

実際、キリスト教的社会活動家によって労働条件を改善しブルジョア資本主義の弊害を是正する動きが多く見られた。

しかし20世紀においては、キリスト教は個人の貴重な避難所を提供することはできたが、社会全体を導くことはできず、反ってファシズムの本質を見誤り、それに親近感を持ち、ブルジョア資本主義・マルクス社会主義のみを否定しがちになる。

この「経済人」概念を中心とする旧秩序崩壊と新秩序不在の状況下、絶望した大衆が求めたのがファシズム全体主義。

本書ではファシズム特有の病的症状として、(1)積極的信条を持たず、他の信条への攻撃・排斥・否定を旨とする、(2)権力と組織の自己正当化・自己目的化、(3)仮の信条と公約の矛盾、不信にも関わらず、むしろそれゆえに絶望した大衆が支持を与えること、の三点を挙げている。

ファシズムは「英雄人」という人間規定を掲げるがその内容は空疎であり、もちろん真の社会の安定をもたらすことはできない。

著者はファシズムを支持する大衆を、夢幻と忘却を求める麻薬中毒患者に喩えている。

西側民主主義諸国は以上ファシズム台頭の真因を理解し、「経済人」を超えた理想を作り上げなければならない、といったことが書いてあるのか?

ざーっと読んで、あとはほとんど(特に後半部は)見返すことなく、おぼろげな記憶に頼って書いたので、変なことをメモしているかもしれません。

以上の記事はいつにも増して信用しないで下さい。

これも期待が大き過ぎて、読後感はあまり良くない。

同じドラッカー著なら、『傍観者の時代』の方がずっと面白かった。

特にはお勧めしません。

2011年3月6日

正義論についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)の記事続き。

第9章、道徳と責任について。

まず道徳的個人主義の考え方。

これは、習慣・伝統・受け継がれた地位でなく、一人ひとりの自由な選択がわれわれを拘束する唯一の道徳的責務であるとする立場。

カントの自律的意志、ロールズの無知のベールに覆われた仮説的同意の双方とも、この道徳的個人主義に基づき、独自の目的や愛着から独立し、自己の役割・アイデンティティを考慮しない個人を前提としている。

そこには愛国心・同胞愛・家族愛など、われわれが本能的に尊重すべきであると考える価値が入る余地は無い。

実際には、自己は社会的歴史的役割や立場から切り離せず、目的論的特性を帯びた物語の中で自分の役割を見出す存在だと、著者は主張する。

ここで著者は道徳的責任の三つのカテゴリーを提示。

1.自然的義務:普遍的 合意を必要としない

2.自発的責務:個別的 合意を必要とする

3.連帯の責務:個別的 合意を必要としない

1は殺人の禁止など、最も原初的な義務。

2は契約に基くもので、平等志向のリベラル派はしばしばこの段階に留まる傾向がある。

3は物語的説明から生れるもので、著者の大いに強調する部分。

第10章、「正義と共通善」、全体のまとめとして、以下の文章を引用。

この探求の旅を通じて、われわれは正義に対する三つの考え方を探ってきた。第一の考え方では、正義は功利性や福利を最大限にすること――最大多数の最大幸福――を意味する。第二の考え方では、正義は選択の自由の尊重を意味する――自由市場で人びとが行なう現実の選択(リバタリアンの見解)であれ、平等な原初状態において人びとが行なうはずの仮説的選択(リベラルな平等主義者の見解)であれ。第三の考え方では、正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる。もうおわかりだと思うが、私が支持する見解は第三の考え方に属している。その理由を説明してみたい。

功利主義的な考え方には欠点が二つある。一つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の対象としていることだ。二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないことだ。自由に基づく理論は一つ目の問題を解決するが、二つ目の問題は解決しない。そうした理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的考慮に勝るかという点では一致しないものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では一致する。だが、尊重に値する権利を選び出すことはせず、人びとの嗜好をあるがままに受け入れる。われわれが社会生活に持ち込む嗜好や欲求について、疑問や異議を差し挟むよう求めることはない。自由に基づくそうした理論によれば、われわれの追求する目的の道徳的価値も、われわれが送る生活の意味や意義も、われわれが共有する共通の生の質や特性も、すべては正義の領域を越えたところにあるのだ。

私には、これは間違っていると思える。公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。

面白い。

明快な論旨の流れに引き込まれる思いがする。

本書の正義観も、結局個人主義に基礎を置いているという評も読んだことがあるし、いかにもアメリカ的だなあと興醒めする部分もないではないが、それでもリバタリアンの御託宣を聞かされるより、何十倍もマシである。

ただ、訳者による解説・あとがきの類が一切無いのは残念。

それが唯一の欠点か。

とは言え、読んで損はありません。

お勧めします。

2011年3月4日

マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう  いまを生き延びるための哲学』 (早川書房)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 06:00

このブログではよくある、「おいおい、どこが世界史ブックガイドなんだよ」という記事。

ブームになってから随分経つが、県立図書館の貸出予約がようやく減ってきたので借りられたという次第。

ハーヴァード大学の学部生向け政治哲学講義を基にした本。

政治と道徳をめぐる問題について現代の具体的事例と理論的考察を常に往還しながら、議論を進めていく構成。

第1章、全体の導入部、正義の基準として何を重視するかについての三つの考え方を提示。

まず(1)幸福(の最大化)を追求する功利主義。

次に(2)自由(の尊重)を優先するアプローチ。

この「自由」派で現在優勢なのは市場主義的なリバタリアニズム(自由至上主義)だが、著者は一見それとは全く対照的なリベラル的平等主義者もこのグループに属するとしている。

リバタリアンが自由市場で人々が行う現実の選択を尊重するのに対し、リベラル的平等主義者は平等な原初状態において人々が行うはずの仮説的選択を想定し重視するがゆえに平等の主張を導き出しているとしている。

最後が(3)美徳(の涵養)を重視するコミュニタリアニズム(共同体主義)で、本書の主張もこれに基く。

第2章、功利主義の検討。

ベンサムに代表される考え方とその限界について述べる。

その思想に基き、あらゆるものを社会全体の快楽と苦痛の計算で判断すると、少数派の抑圧や社会の質的低落をしばしば無視することになる。

その欠陥を是正しようとしたジョン・ステュアート・ミルの努力は、実際功利主義自体の枠を乗り越えた概念に依存せざるを得なかったことなどを叙述。

第3章、リバタリアニズムの紹介、フリードマン、ハイエク、ロバート・ノージック(『アナーキー・国家・ユートピア』の著者)など。

リバタリアンの言うように、自分を自分自身の完全な所有者と見なすと、合意による殺人と人肉食(実際そういう例がドイツであったそうです)のように、どうしても正当化し難い事例への非難の根拠が無くなることを指摘。

第4章、前章に続き、リバタリアンが絶対視する市場が、不可避的に道徳的限界を持っていることを述べる。

富裕国が貧困国に代理母妊娠を委託するビジネスや奴隷売買の例を挙げ、各個人の「無制限の自己所有権」という考え方に反対している。

第5章、ここではカントの著『道徳形而上学原論』を採り上げ、その正義観を論ずる。

カントは、上記(1)幸福、(2)自由、(3)美徳の各アプローチの中では「自由」派に属する。

しかし、その自由観・正義論はリバタリアンとは全く異なる。

カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の基準にすべきではないと言う。こうした要因は変わりやすく、偶然に左右されるため、普遍的な道徳原理(普遍的人権など)の基準にはとうていなりえない。選好や欲望(たとえ幸せになりたいというものでも)を道徳原理の基準にすると、道徳の本質を見誤るという根本的問題である。

われわれは自由を、何にも妨げられずに、したいことをすることだと考えがちだが、カントの考えは違う。カントの自由の概念は、もっと厳しく要求が多い。

道徳については義務と傾向性、自由については自律と他律、理性については定言命法と仮言命法、観点については英知界と感性界を対比し、それぞれ前者に価値を置く。

第6章、カントと同じく、(2)自由のアプローチを採りながらリバタリアンとは全く異なる考え方を展開するジョン・ロールズ(『正義論』著者)の思考紹介。

まず原初的社会契約における「無知のベール」という有名な想定。

次に社会で最も不遇な人々の利益になるような不平等のみを認めるという格差原理。

続いて以下四つの社会原理を比較。

1.封建制度=生まれに基く固定的階級制度。

2.自由主義=形式的機会平等を伴う自由市場。

3.実力主義=公平な機会平等を伴う自由市場。

4.平等主義=ロールズの格差原理。

個人の才能については、どんな才能が社会的に評価されるのかは自己決定の範囲外で時代情勢や偶然に左右されるし、個人的努力についても、その少なからぬ部分が生育環境や遺伝的特質に負う以上、努力や才能は個人の完全な所有物ではなく、実力主義社会は必ずしも公正な社会とは言えないとして、著者はロールズの平等主義を評価している。

第7章、アメリカで長年喧しい問題となっているアファーマティブ・アクション(少数派優遇措置)をめぐる論争について。

第8章、アリストテレスの正義論。

ここから(3)美徳のアプローチに入る。

まずアリストテレスの考え方を目的論的思考と定義。

これは、公正・正しさに関する問いを名誉・徳・道徳的真価から切り離すようになった近代以降衰退した考え方。

近代における分配の正義が所得・富・機会に関するものなのに対して、アリストテレスにおいては地位と名誉の分配こそ重要であった。

こんにち、われわれは、政治を特有の本質的目的を持つものとは考えず、市民が支持できるさまざま目的に開かれているものと考える。だからこそ、人びとが集団的に追求したい目的や目標をその都度選べるようにするために、選挙があるのではないだろうか?政治的コミュニティにあらかじめ何らかの目的や目標を与えれば、市民がみずから決める権利を横取りされることになる。誰もが共有できるわけではない価値を押しつけられるおそれもある。われわれが政治に明確な目的や目標を付与するのに二の足を踏むのは、個人の自由への関心の表われだ。われわれは政治を、個人がみずから目的を選べるようにする手続きと見ている。

アリストテレスは政治をそのようには見ない。アリストテレスにとって政治の目的は、目的にかかわらず中立的な権利の枠組みを構築することではない。善き市民を育成し、善き人格を養成することなのだ。

あらゆる都市国家(ポリス)は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、善の促進という目的に邁進しなければならない。さもないと、政治的共同体は単なる同盟に堕してしまう・・・・・。また、法は単なる契約となってしまう・・・・・「一人ひとりの権利が他人に侵されないよう保証するもの」となってしまう――本来なら、都市国家の市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきなのに。

アリストテレスには奴隷制容認のような、現在から見て明白な誤りもあったにも拘わらず、リベラル派の選択と合意の倫理に従うよりも、アリストテレス的な目的と適性の倫理に従った方が、より社会の道徳的基準の厳格化に資する場合もあると、著者は示唆している。

残り2章は次回。

(追記:続きはこちら→正義論についてのメモ

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