万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年9月8日

ジョン・バイロン ロバート・パック 『龍のかぎ爪 康生  上・下』 (岩波現代文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 05:14

中華人民共和国、中国共産党の公安・秘密警察関係を牛耳った最高幹部康生の伝記。

1898年山東省膠州湾近くの地主の家に生まれる。

五・四運動に影響され、急進的ナショナリズム思想を抱き、のち江青と改名して毛沢東夫人となる李雲鶴と知り合う。

上海大学に通い、1925年共産党加入。

同年、五・三〇事件に参加。

続いて、北伐軍に呼応した暴動を成功させるが、1927年上海クーデタに遭う。

以後、上海で国民党と血で血を洗う暗殺テロの応酬を繰り広げる。

共産党指導者は、陳独秀が解任された後、瞿秋白、向忠発、李立三とめまぐるしく替わり、1931年王明が事実上のトップとなる。

モスクワ留学組で親ソ派。

康生は巧みに主流派に乗り、共産党秘密警察の実力者に。

1933~37年王明と共にモスクワ滞在。

瑞金には行かず。

大粛清の最盛期に邪魔者となる中国人同志などを密告して生き残る。

1937年延安に帰国するや、毛沢東に乗り換え、王明派を徹底攻撃。

毛と江青の結婚を擁護。

1942年整風運動発動。

これはどう考えても粛清と言うしかない、ヒステリーじみた迫害であって、他の共産国と違う牧歌的な思想改良運動と言うことはできない(私が若い頃はまだそんな解釈がまかり通っていました)。

権力の座を完全に固めた毛の側近となるが、日中終戦から国共内戦の時期には、ややその権勢は後退。

一時公安関係から離れ、内戦勝利前の土地改革に従事。

地主階層に対する最も残酷で強硬な措置を命令。

上巻末尾の書誌に、ある共産党活動家夫妻の話が載っている。

日本軍に二人の姉を陵辱された夫が、国民党に妻を殺され、しかも地主出身の両親に自身の双子を預けていたが、激烈な土地改革闘争の中で、その子を共産軍が井戸に投げ入れて殺したのを知り、共産主義にも絶望する、という悲痛極まりない事実が記されている。

建国後は数年間表舞台から退き、実権を失うが、部分的自由化措置「百花斉放」に続く弾圧である「反右派闘争」の過程で復活。

破滅的な結果をもたらした「大躍進」政策も支持。

中ソ対立では徹底した対ソ強硬派として振舞う。

同様の立場を鄧小平も取っていたが、このことは改革開放期になると隠されることになる。

「大躍進」政策による経済破綻を受けた、調整政策の主導者は、劉少奇、周恩来、鄧小平、彭真だが、対ソ方針については、前二者と後二者の間には溝があったようだ。

60年代前半、文化大革命前夜にも康生はイデオロギー闘争とそれに伴う迫害を引き起こそうと、毛の意に迎合しそれを煽る。

その被害者の一人として、現最高指導者習近平の父習仲勲の名が挙がっている。

文革を江青、林彪と共に指導。

汪東興、謝富治らを使い、公安部門を再度掌中に置く。

70年頃、毛と林の間の齟齬を見てとるや、穏健派唯一の支柱となっていた周恩来と協力し、71年林は失脚、逃亡中事故死。

しかし、この頃から康生は癌に冒されはじめる。

その後の周と江青ら四人組との権力闘争で、最晩年に判断が不安定になっていた毛が一時的に周支持に傾くと、驚くべきことに康生は、江青の過去の国民党スパイ疑惑を再び取り上げ、この盟友を裏切ろうとしていたという。

一方、現実主義実務派で、73年復活し、周の片腕となっていた鄧小平への批判・攻撃も準備する。

同73年には康生自身副主席となり、形式的序列では毛・周に次ぐ第三位になるが、病が進行し、75年12月死去。

周の死、(第一次)天安門事件、鄧再失脚、毛死去、四人組逮捕、と建国以来最大の激動に見舞われた1976年を迎えることなく死んだ。

もう少し康生が寿命を保っていたら、どうなっていたか?

これほどの悪行を為した人間が、それにふさわしい裁きと断罪を受けなかったのは残念であるが、後に鄧小平体制下で党総書記となった胡耀邦は、康生が生きていれば四人組は逮捕できなかったのではないか、と述べていたという。

さらに恐ろしい可能性として、康生自身が最高指導者の地位に就く可能性すらあったという見方もある。

周が毛より長生きして最高位に就き、四人組・康生を一網打尽にするのがベストだっただろうが、そうはならなかった。

だが著者の推測では、もし76年に生きていれば康生は四人組を打倒する側に加わっただろうと言う。

その場合、現実には汪東興が果たした役割を康生が果たすだけになる。

ほぼ唯一失脚しなかった将軍で軍長老の葉剣英が中心となり、華国鋒(毛死去直前に指名された後継者)と汪東興ら文革右派(もしくは非上海グループ)と協力して、文革左派(上海グループ)の四人組を打倒した。

77年復活した鄧小平が、翌78年には完全に実権を華国鋒から奪い、改革開放路線を確立。

その過程で汪は失脚したものの、極端に厳しい断罪は免れた。

康生も恐らくそうなっていただろう、というのが著者の見方である。

 

 

原著は1992年刊と割と古い(第二次天安門事件は起こった後ではあるが)。

これ以外、まあ日本語で読める伝記は無いでしょう。

中国共産党の権力闘争のあらましをわかりやすく知ることはできる。

ただ、気軽な読み物といった感じで、あまり学術的に思えない印象もある。

余裕があれば一読して下さい。

損はしないと思います。

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2016年9月4日

岡本隆司 『袁世凱  現代中国の出発』 (岩波新書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 03:36

塚本哲也『メッテルニヒ』の記事で書いた通り、ジョン王やフランコなどと並んで、高校世界史レベルでも最高度にイメージの悪い人物の一人が、この袁世凱でしょう。

1859年河南省生まれ。

名門に生まれながら、科挙受験を放棄、一族のつてで李鴻章率いる淮軍の一部隊に入隊。

当時の清朝下における社会情勢は、著者によれば、「督撫重権」の言葉で表される(『中国「反日」の源流』)。

18世紀の人口爆発の結果、民間社会が膨張、非合法的な秘密結社と伝統社会の側でそれに対抗する「団練」が衝突し、「社会の軍事化」が進行、そのうち巨大化した団練義勇軍の長が地方大官(総督・巡撫)として実権を握り、中央政府は自らの権限を狭め、それら大官をオーソライズして乗っかり、王朝の延命を図る、というシステム。

西太后政権はそれを本質とし、「同治中興」を成し遂げた。

袁世凱は、若くして参謀格で朝鮮に派遣され、壬午軍乱・甲申事変に対処、日本の勢力を抑え、清国優位の情勢を維持することに成功。

しかし、東学党の乱に当たっては、日本の強硬姿勢を見誤り、日清開戦。

敗戦後、李鴻章は一時失脚するが、袁は巧みにその忠誠を実力者栄禄に乗り換え、「新建陸軍」(略して新軍)という西洋式装備の最精鋭部隊の長となる。

「辛亥革命での策謀」と並んで袁の悪名を高めたのは「戊戌変法への裏切り」だが、面白いのは、本書では光緒帝と康有為ら変法派への評価がそもそも高くないこと。

西太后も当初から変法弾圧を目論んでいたわけではなく、まず変法派が先制攻撃を計画して、首都近郊の最精鋭軍を指揮したまたまキャスティング・ヴォートを握る立場にあった袁を抱き込もうとしたのだが、完全に栄禄の配下にある袁を協力させようとしたこと自体が現実離れしており、袁は当然拒否、これは客観的には「裏切り」とは言い難いとされている。

政変後、光緒帝は幽閉されるが、列強と地方督撫の反対で廃位はできず。

中央政府強化の動きと排外主義の高まりが同時に進行。

戊戌の政変とは何か、と問われれば、光緒帝・「変法」派の側がやろうとしていた権力集中を、そのまま西太后・反対派が引き継いだにすぎない、といえる。極論すれば、そのめざす先に改革があったかどうか、が時と場合により、異なっていただけである。そして実情に沿うか否かにかかわらず、改革をめざしたら列強は好意的で、そうでない場合、露骨に嫌悪した。政変後の北京が、排外に一変するゆえんである。

 

 

戊戌の政変で、光緒帝は権力を失い、西太后を頂点とする体制が復活した。のみならず、実施されはじめた「変法」は、ほぼ白紙にもどった。北京にみなぎっていた改革の空気は、弾圧をへて急速に減退する。

程度の差こそあれ、当時なにがしかの改革が必要だという認識は、多くの官僚・人士が共有したところだったはずである。そうであればこそ、本心は明らかではないながら、西太后も光緒帝主導の「変法」の進展を見守る姿勢をつづけていた。その意味で、「戊戌変法」における康有為派の性急な手法は、かえって改革をはばむ結果となったのであって、中国の変革にとっては、惜しみてもあまりある。

もっともそうしたみかたは、どうも一般的になっていない。守旧派が「変法」派の改革を一方的に圧殺した、とみるのが常である。

ひとつには、当時から康有為派がジャーナリズムを利用し、猛烈な宣伝活動を続けていたからである。自己の弁護、正当化のためには、文書や勅命の偽造改竄まで辞さなかった。しかもそれがそのまま、当時をうかがう史料にもなったために、かれらを中心に歴史をみる習性が、こちらに抜きがたくついてしまっている。

そんなわれわれはまた、変革・「変法」を正当・正統とする観点に慣れてしまって、それを疑わない。変革の潮流を妨げた以上、無条件に悪役なのであって、当時の事情に思いをめぐらせることがなかなかできないのである。しかもわれわれは外国人であり、自らの観点や政体を当然だと思うがゆえに、それに反する行動をとった西太后の側に、どうしても批判の目を向けがちになってしまう。

それは現代ばかりではない。当時の外国もまた同じである。列強は自らの政体に近い、より好ましい交際相手を生みだすものとして、「変法」の動きを評価していたため、政変には大いに失望し、光緒帝と「変法」派に同情を隠さなかった。康有為らの亡命・助命に手を貸したのも、その一例である。

現代も当時もしょせんは外国、中国の内政には無責任な立場であり、また理解も十分ではなかった。それがいっそうの悲劇を生み出す契機をなしてゆく。

山東巡撫に任じられると、義和団を中央の方針に反して抑圧。

列強への宣戦布告と敗北後、李鴻章の死去を受けて、直隷総督兼北洋大臣に就任。

老齢の張之洞、劉坤一らの巡撫に替わり、政府の第一人者となり北洋軍育成。

国内でナショナリズムが高揚するものの、中央と地方の対立現象は変わらず。

1908年西太后死去、宣統帝即位。

翌年、袁は失脚。

辛亥革命で再起用、北方清朝側は南方革命勢力に対し軍事力では優勢だが、内戦時の列強干渉を恐れる。

「立憲」の一点でまとまることができず、君主制と共和制の対立を解消できず。

こうなると、袁が野心を持って策謀をめぐらしたというより、自然と南北和解と政権統一のために、袁総統が誕生したと言うべき。

果たして、南方の非妥協性は賢明だったか?、「種族的復仇」に囚われ過ぎではなかったか、と本書は問いかけている。

1913年国民党を弾圧し、第二革命も鎮圧。

1915年日本に二十一ヵ条要求を突きつけられた後、帝政運動を始め、「洪憲」を称するが、立憲制は維持。

第三革命が勃発、1916年帝政を取り消した後に死去。

 

以前、「スペイン内戦はフランコが勝って良かったんじゃないか」というとんでもない意見を書きましたが、ここでも正直「中華帝国」・袁帝政が続いた方が良かったんじゃないか、と思えなくもない。

その後の、泥沼の軍閥混戦、凄惨な国共内戦、その挙句の共産党独裁体制成立で、一体何千万人が死んだのか。

日本も中国現代史の悲劇には大いに責任があるのだから、あまり軽々しく口に出すことではないが・・・・・・。

もちろん袁帝政の存続は現実性があまりに乏しかったんでしょう。

やはり清朝統治下での近代化が成功せず、革命という歴史の断絶を経なければ国民国家を成立させ得なかったことが中国の不運だったと思える。

 

 

辛亥以前の時期を重視したコンパクトな伝記。

読みやすく、評価はまあまあ。

やや食い足りない印象もあるが、紙数の制約も考えればこんなもんでしょう。

2015年8月16日

宮城谷昌光 『草原の風 上・中・下』 (中央公論新社)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 07:16

後漢の光武帝劉秀を描いた歴史小説。

読売新聞連載。

著者の本では以前『長城のかげ』『楚漢名臣列伝』を紹介済み。

前漢最盛期武帝の後、一時的衰運を立て直した中興の祖が宣帝。

その次が元帝だが、その王皇后の甥が王莽で、ここでもう不吉な名が出てくる。

成帝、哀帝、平帝、孺子嬰ときて、簒奪が行われ、王莽の新(8~23年)。

劉秀は荊州南陽郡出身。

兄の劉縯と挙兵。

当初、緑林という勢力と共闘。

新への叛乱としては山東から起った赤眉の乱が有名だが、直接王莽を滅ぼしたのは旧緑林系勢力。

その過程で劉秀は兄を緑林に殺されるが、隠従忍耐を通す。

同族の劉玄(更始帝)が緑林に擁立される。

半独立の形勢を維持しつつ、河北遠征を命じられた劉秀は、成帝の子と称し劉子與と名乗る卜者の王郎の蜂起で一時危機に陥るものの、冀州・幽州を掌握することに成功、王郎を討ち取る。

そのうち、赤眉軍が長安に侵攻、更始帝は殺害され、劉盆子が擁立。

その前に劉秀は光武帝として即位、25年洛陽を都に定める。

元号は建武(中国の年号の場合、読み方は「けんむ」もしくは「けんぶ」どちらでも可)。

この1300年後、日本の「建武の新政」は、後醍醐天皇が光武帝に倣う意図を示したもの。

光武帝は赤眉を打倒、涼州の隗囂を攻撃、隗は病死、益州の公孫述も建武十二年に討たれ、ほぼ天下平定。

功臣は朱祐、鄧禹、呉漢、馮異、耿純ら。

皇后となり、二代皇帝明帝を生んだのは陰麗華。

外戚による弊害が目立つ後漢だが、陰氏は謙虚な振舞を貫いた。

なお、倭の奴国王遣使は光武帝死の直前。

後漢は北宋・南宋と並んで文弱という印象が強い。

光武帝、明帝以降は幼帝・若年死の皇帝が続き、三国志の動乱を迎え、中国古代文明自体が崩壊する。

だがやはり光武帝にはいいイメージあり。

寛容、温和、謙虚、常識・・・・・。

言わば成功した劉備か。

劉邦、劉秀、劉備と並べると、やはりそれぞれに魅力的で懐の広い好人物に思える。

三人目の劉備が前二者のような成功に恵まれなかったことが惜しまれる。

中国全土の支配王朝としては短期間存続しただけの秦の跡を受けた、実質的な最初の統一王朝の漢帝室がたとえ名目上でも継続できなかったことの意味は小さくないように思える。

「皇帝たりえるものは劉氏に限る」というような原則が打ち立てられていれば、易姓革命による破壊と混乱の繰り返しによる、中国史を周期的に襲う悲惨な被害を多少とも軽減できたかもしれない。

本書を読むと、そんな儚い空想に誘われる。

さらに言えば、日本やイギリスのように、君主が実質的・世俗的統治者の役割からは徐々に退き、国家の統一と国民統合の象徴という精神的・超越的存在になればもっと良かったんでしょうが、そこまでの幸運は望み過ぎか。

 

 

すらすら読めて分量は気にならないが、ページ配分が変だ。

即位から全国統一までが駆け足過ぎる印象。

失礼ながら、作者の構成力を疑ってしまう。

後漢と光武帝を描いた本は、三国時代はもちろん前漢に比べても圧倒的に少ないので貴重ではあるが、あまり出来がいいとは感じない。

でも毎日新聞で連載されていた同じ著者の『劉邦』はいつか読んじゃうんだろうなあという気がします。

2015年8月8日

宮崎市定 『中国史の名君と宰相』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 04:06

久しぶりに宮崎氏の本の文庫化(2011年11月)。

「世界伝記大事典」という本の項目(宮崎氏の全集にも未収録)を中心に、他のいくつかの論文をあわせた本。

「南宋末の宰相賈似道」「宋江は二人いたか」「張溥とその時代」など。

あと、平凡社東洋文庫『鹿洲公案』の解題もあり。

このうち、張溥は明末の東林党の流れを汲む文人で、在野にあって郷紳層に多大の影響力を持ち、崇禎年間に中央政界の人事すら世論の力で動かした人物。

だが、著者の評価は厳しい。

反権力闘争に従事しながら、自身権力欲の強いジャーナリスト的存在であり、その硬直した中華・攘夷思想が明・清(後金)間の対等外交・和平路線と内政整備を妨げたとしている。

久しぶりに宮崎氏の本を読んだが、やはり文章がいい。

生き生きとした躍動感があり、実に清々しい。

特にこの著作がということはないが、他の本と同じく、どんどん読み進めていくのが望ましい。

2015年7月29日

渡邉義浩 『関羽  神になった「三国志」の英雄』 (筑摩選書)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 05:06

著者名に見覚えがあると思ったら、『儒教と中国』(講談社選書メチエ)の著者だった。

「関帝」という信仰対象になった原因についての本。

日本での定番、吉川英治『三国志』は曹操と孔明中心。

「本場」中国での毛宗崗版『三国志演義』は、「奸絶(絶=きわみ)」の曹操、「智絶」の孔明、「義絶」の関羽中心。

韓国では、壬辰の乱での明援軍によって国王に関帝廟礼拝が強要されたので、関羽よりも趙雲に人気がある。

中国以外では華人ネットワークによる信仰も広まる。

本書1章は三国志と演義概観、2・3・4章は関羽の生涯、5~8章は関帝信仰の展開。

正史『三国志』は魏正統、『演義』は蜀正統、司馬光は魏正統、朱熹は蜀正統。

『演義』をまとめた毛綸・毛宗崗父子は康煕年間の人物。

関羽の出身は山西省解県、塩池で有名。

天下の勇将だが、呂布には劣るとの評あり。

三国分立を導いた呉蜀の同盟においては呉の魯粛がキーパーソンであり、その死後呉蜀は決裂、そのあおりで関羽も死ぬ。

なお、それ以前に曹操に降伏した後、劉備の下に戻った関羽を称える文脈で「呉三桂は康熙帝に殺害されている」(79ページ)とあるが、三藩の乱を起こした直後の病死では?

関羽は唐代に仏教神として祀られ、宋代には王朝から王号・神号が与えられ、南宋では朱子学が蜀正統論を唱え、明清代には出身地の山西商人が台頭し信仰を広める。

当初道教世界の支配者として扱われていたが、清代には儒神として崇拝。

王朝側だけでなく、白蓮教・天理教・天地会など反乱者側も信仰。

海外華人の信頼協力関係確立の手段として関帝信仰が行われる。

 

特筆すべき点は無いが、読みやすい。

二日あれば十分。

前半を読むと『三国志蜀書』を読み返したくなりました。

2014年12月17日

笹川裕史 『中華人民共和国誕生の社会史』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 16:28

最終的に中国共産党の勝利と中華人民共和国成立に到ってしまった、日中戦争当時の社会変動について、主に四川省を中心に定点観測した著作。

四川省は国民政府の臨時首都重慶の存在地(ただし省都は成都)。

日本軍の空襲は受けたが、直接的地上戦の戦火は免れた。

だが、日中戦争と国共内戦という二つの総力戦による社会的激動に晒される。

通常、近代的総力戦においては、国家統制の深化による「強制的均質化」が進み、社会階層が平準化する傾向があるが、国民国家が未成熟な中国では逆に、国家が社会を全く統制できず、私的な不法行為や暴力行為が蔓延し、貧富の格差がむしろ異常に拡大されていった。

戦争によって生まれた、当時の一部富裕層の利己的行動は、共産党が宣伝する「土豪劣紳」そのものと言わざるを得ない様相だったという。

こうした状況下では、当然富裕層への敵意の高まりが見られ、それがマスメディアによって(一部過剰に)増幅され、共産党にとって有利に働くことになる。

ただ最近の研究では、平時の地主制に一定の評価を与え、それとあくまで戦時下の過酷な状況での地主制を区別する見解があるそうです。

1949年人民共和国成立後行われた土地改革については、『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』で以下のように記されている。

土地改革という広汎な運動の真の目的は、実際には、何よりもまず政治的次元のものであり、次に経済的次元のものであり、最後に初めて社会的次元のものであった。土地の40%は再分配されたが、農村の特権層の数が少ないのと、とりわけ、大部分の農村における人口密度が極度に高いために、貧農がさほどの裕福さを手に入れる結果にはならなかった。改革後も、彼らの平均経営面積はわずか0.8ヘクタールにすぎなかったのである。アジア地域の他の諸国(日本、台湾、韓国)は、同じ時期に、中国よりも不平等性の大きかった農村において、中国と同様に徹底的な農地改革を成功裡に実現した。われわれの知るかぎり、そこにはただ一人の死者も出なかったし、土地を没収された者には多少とも納得のいく補償が与えられた。

中国の土地改革に見られた恐るべき暴力は、したがって、改革そのものを目的としたのではなく、共産党機関による権力の全面的な奪取をめざしていたのである。言葉を換えれば、党員または幹部になるはずの少数の活動家の選別と、処刑にかかわった多数の村民との「血盟」が狙いであり、最後に、これ以上ないほど極端なテロルを操る共産党の能力を反抗分子や軟弱分子に見せつけることこそが目標だったのだ。

著者はこうした側面を認めつつ、しかし戦中の敵意と怨恨感情を昇華させるために、あえて生産性の低い小農・失業者・難民に土地を分配した戦後処理の面もあると指摘。

(日本では実際的経営能力を持った小作人に土地を与えて社会政策と生産性向上が両立できた。)

こうした共産党政権による農村支配に対して、屈従した「開明地主」がいる一方、自暴自棄の反抗に走った地主もおり、これが共産党に以後の極端で過激な政策を正当化する口実を与えた。

共産体制下では、戦時とは逆に国家が社会を押しつぶす状況となり、多くの悲劇が生まれる。

 

すぐ読めてなかなか有益。

エピローグで要領良く要旨をまとめてくれているのも親切。

一昔前の革命史観でも、最近の反中史観でもないのが良い。

私自身、本書で描かれたような中国を見下すような心境は、十数年前と違ってもはやありません。

中国(と韓国)に対して「不幸な国だな」と昔も今も思ってはいますが、ここ十二、三年ほどの日本を省みると、そんな優越感もどんどん薄れてきます。

ますます彼我が、伝統も慣習も信仰も捨て去り、拝金主義を軸に「大衆ヒステリーとその煽動者が支配する国」という意味で類似した存在になりつつあります。

こんな状況下で、隣国を口を極めて罵り、無邪気にナショナリズムを謳歌できる人間は幸せだなあと思う一方、心底からの嫌悪と軽蔑も覚えます。

昨今の日中関係について私が思うことについては服部龍二『日中国交正常化』(中公新書)の記事後半をご覧下さい。

2013年12月27日

『孫子』 (中公クラシックス)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 15:34

珍しく中国古典の記事。

冒頭に湯浅邦弘氏(『諸子百家』(中公新書)の著者)の解説。

春秋時代、呉王闔廬(こうりょ)に仕えた孫武の著とされる。

戦国時代に、他にもう一人、「孫子」と称された人物による、『孫臏(そんびん)兵法』もあった。

中国古典思想でも普遍性・合理性の高さでは際立っており、多くの翻訳がある。

岡崎久彦氏が、本書をクラウゼヴィッツ『戦争論』より上だとどこかで書いていた。

読んではみました。

比較的楽に読み通せました。

しかし、『論語』の記事(「世界の名著」シリーズ)でも書いたように、私にとっては本書も「片言隻句のあつまり」にしか思えない。

歴史上の実例に本書の文句を当てはめて教訓を得るというふうな読み方は、私には無理でした。

全部で100ページ余りとごく短く、全13篇のうち、本訳書ではほとんどが10ページ以下と、分量的には楽なので、とりあえず読んでおいても良い。

『孟子』、『老子』、『荘子』、『墨子』、『韓非子』などの類書のうちでは、本書が圧倒的に読みやすいはず。

誰でも知ってる中国古典の一つをとりあえず読了したという事実だけは作ることができる。

それだけですね。

私のレベルではそんなもんです。

2013年10月8日

仁木英之 『李嗣源  上』 (朝日文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 08:52

著者については全く知らない。

『僕僕先生』シリーズ著者とのこと。

同じ朝日文庫に『朱温』が収録されていて、そちらの方が明らかに有名人を描いているが、本書の方が短いので選んだ。

タイトル見て、「こんな人物、知らんなあ・・・・・」と思う方が大多数でしょう。

唐滅亡後の五代、二つ目の王朝、後唐の皇帝。

唐末、875~884年黄巣の乱で、突厥が唐側の援軍として参戦。

その突厥沙陀族の長が朱邪赤心(李国昌)で、その子が李克用。

乱鎮圧後の華北では朱温(朱全忠)と李克用が対立する情勢となり、江南は楊行密らが割拠。

907年唐滅亡、同年李克用死去、朱全忠が後梁を建国するが、息子朱友珪に殺され、さらに弟朱友貞が帝位を奪う。

李克用の実子李存勗(りそんきょく)が、契丹の耶律阿保機の圧力を受けながらも勢力を拡大して、後梁を打倒、後唐の荘宗として即位。

五代のうち、真ん中三つの後唐・後晋・後漢は突厥沙陀部の王朝だというのは、高校世界史で習った通りです。

本書主人公の李嗣源は李克用の仮子(養子・義子)であって、荘宗に代わって明宗として即位することとなる。

五代では、最後の後周も太祖郭威、世宗柴栄が養子継承。

本巻の最後の方では、若き馮道が顔を出す。

ここでちょっと話を戻して、北アジア史の復習。

高校世界史で覚えさせられたこととして、755~763年安史の乱では唐朝にウイグルの援軍、875~884年黄巣の乱では同様に突厥の援軍がそれぞれあった、というのがあります。

しかし、北アジアでの遊牧国家興亡の順番は、まずモンゴル系かトルコ系か不明の匈奴・鮮卑・柔然、その次がトルコ系の突厥・ウイグル・キルギス、以後はモンゴル系の契丹・元とツングース系女真族の金・清の覇権交替となる。

つまり、突厥とウイグルは、唐の援軍として来た順序と遊牧国家として台頭した順序が逆になってる。

年代をチェックすると、552年突厥建国、583年早くも東西分裂、630年東突厥が唐に服属、7世紀末西突厥滅亡、744年東突厥も滅亡、以後のモンゴル高原はウイグルの支配下に入っている。

つまり、黄巣の乱で唐を援助した時の「突厥」は、西突厥系統の末裔としての沙陀部であり、すでに北アジアを支配する統一遊牧国家ではなくなっている。

ウイグルも840年にはキルギスによって滅ぼされ、西走してイラン系住民が多数派だった中央アジアに定住してトルキスタンが成立、イスラムに改宗して10世紀半ばにカラ・ハン朝建国、999年イラン系サーマーン朝を滅ぼす、という流れになります。

以上、本書の内容と直接関係無いことをあれこれ書きましたが、実際どうもこの小説から得るところは少ないです。

後半の三分の一くらいからやたら細かい戦況の描写が延々続き、まるで正史の抜き書きを読まされているようで、砂を噛む思いがする。

江南の十国の記述なんかはほとんど不要なんじゃないでしょうか?

読み進めていっても、少しも史実の概略や人物像が頭に入ってこず、歴史小説の役割を果たしていない。

下巻を読むのはやめました。

いくらなんでも中途半端かとも思うが、読むべき本は他に山ほどあるし、古典的著作でもないのに、自分に向いていない本を嫌々読むことに時間を費やせないと判断。

主人公の動向にのみ焦点を絞った叙述で、頭に深く印象付けることにより、基礎事項を着実に記憶に留めてくれるようにしてもらいたい。

田中芳樹氏の中国歴史小説と比べると、技巧的に雲泥の差がある。

私に忍耐力が無さ過ぎるのは事実でしょうが、少なくともどんな初心者にも勧められるという本ではないです。

2013年10月1日

田中芳樹 『天竺熱風録』 (祥伝社文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 15:58

田中氏の中国歴史小説は何点か紹介済み(『蘭陵王』『海嘯』『奔流』)。

本書は東西交渉史上の人物の一人、王玄策を描いたもの。

この王玄策は、私が高校生だった頃の『新世界史』では脚注で名前が載っていた記憶があるんですが、今の教科書で載っているのはゼロのようです(『世界史B用語集』)。

頭も使わず、集中力も要らず、ボーっとしながら読み通せます。

そう言っても、著者自身があとがきで以下のように書いていますので失礼には当たらないでしょう。

・・・・・[本書は]驚異的な史実にもとづいた、単なる娯楽小説である。ひたすら楽しく読んでいただくことが、作者にとって唯一の望みであり喜びである。

主人公の王玄策は、三度インドに入り、二度目の渡印でヴァルダナ朝ハルシャ・ヴァルダナ(在位606~647年)死後の、都カナウジを支配した王位簒奪者をネパールおよび吐蕃の軍を借りて倒したとされる人物。

ちなみに、ハルシャ・ヴァルダナ在位時に渡印したのが、玄奘三蔵法師。

中国の渡印僧って、結構細かいことまで高校世界史で暗記させられましたよね。

まず、東晋の法顕がグプタ朝チャンドラグプタ2世(超日王)時に行きは陸路、帰りは海路で(ということまで覚えさせられた)渡印、著書は『仏国記』。

唐僧玄奘はハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)時代に行きも帰りも陸路で渡印、『大唐西域記』を著す。

同じく唐僧の義浄が渡印したのは北インドの分裂時代、行きも帰りも海路(シュリーヴィジャヤに寄る)、『南海寄帰内法伝』を記す。

インド史の大雑把な流れとしては、アレクサンドロス大王のインダス流域侵入からマウリヤ朝の統一、北のクシャーナ朝と南のサータヴァーハナ朝によるローマと漢を繋ぐシルク・ロードと海の道の交易繁栄、4世紀前半から6世紀半ばまでのグプタ朝の統一(東西の古代帝国たるローマと漢朝の繁栄期からずれて、すでに両者が衰亡していた時期にインド最後の古代帝国が存続したことを少し意識しておく)、そのグプタ朝はエフタル侵入によって衰退、エフタルは突厥とササン朝に挟撃され滅亡、といった具合のことは頭に入れておきましょう。

登場する同時代人は、まず唐の太宗李世民。

享年49才となっていて、さして長命とは言えないんだなとやや意外な印象。

(在位は626~649年だからハルシャ王死後まもなく崩じている。)

功臣の李勣と長孫無忌、次代の高宗に則天武后、帝室一族の文成公主、吐蕃のソンツェン・ガンポ(奇しくも太宗と同じ649年死去)。

なお、他地域の世界史で7世紀前半と言えば・・・・・。

何があったでしょうか?

この時期の世界で大々的に目立っていたのは何と言ってもアレでしょう。

以後の世界史の様相が一変しました。

表面的観察では、古代以来の地域文明圏ごとの歴史で、ヨーロッパによるラテン・アメリカ文明覆滅以上の不連続がこの時期起きた感があります。

ほら、アレですよ。

やたら引っぱりますけど。

すぐ出てきますでしょうか。

ユーラシア大陸の西側で。

そこから生まれて、他地域へも大膨張を遂げ、現在に至る永続的影響を与えました。

そう、イスラムの興隆ですね。

(622年ヒジュラ、632年ムハンマド没。)

一方、西欧ではメロヴィング朝フランクの分裂時代で、特筆すべき事件や人物は無し、あえて言えばグレゴリウス1世(在位590~604年)くらいか。

日本では、聖徳太子から蘇我氏専横、そして大化改新です。

他の田中氏の著作と同じく、本書も極めて読みやすく、気軽に手に取れる。

主人公はそれほどの有名人ではなく、筆致は平凡と言えば平凡だが、別に損をした気にはならない。

気が向いたらどうぞ。

こういう通俗的中国歴史小説は本当に山ほどあるので、何を読むかより何を読まないかが重要です。

著者の作品は、その中でもかなり良質な方だと思います。

しかし考えてみると、中国史は、その気になれば歴史小説だけで全時代の大雑把な概略的知識を得ることが可能なわけです。

そんなの、自国史である日本史以外では考えられないでしょう。

外国の歴史についての通俗的物語がこれだけ有り余るほど存在するというのも、少し考えると不思議な感じがします。

日本人にとっての中国史はやはり、ヨーロッパ人にとってのギリシア・ローマ史みたいな存在なんですねえ。

2013年7月11日

岡本隆司 『中国「反日」の源流』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 16:07

『世界のなかの日清韓関係史』と同じ著者。

1970~80年代の「日中友好第一主義」の裏返しで、それと同じくらい硬直しており、同じくらい馬鹿げている「反中原理主義」にはまり込んだ、最近腐るほどいる低俗な(自称)右派みたいなおどろおどろしいタイトルだが、中身は至極まとも。

20世紀における日中の正面衝突には軽く触れるだけで、17~19世紀の両国関係と内部の社会構造から対立の源流を探るというもので、近世の描写が大部分を占める。

以下、一応メモは取ったんですが、曖昧さや誤読があるかもしれません。

本書の論旨を一言で言うと、日本は公権力と社会との距離が近く、中国は国家と社会の遊離が顕著だ、というもの。

明代中国では、海禁政策と長城建設による現物主義の財政経済が行われる一方、社会の商業化と流動化は進行し、その矛盾が北虜南倭という破局を導く。

それに続く清は、民間の既成秩序に立ち入らない方針を採り、徴税も請負制で国家が個々の民衆を把握するのではなく、大口の少数者より取り立てる体制となっていた。

康熙時代のデフレから乾隆時代のインフレに変化する中で、中国が大きな繁栄を謳歌する一方、日本では逆に18世紀にデフレと経済的下降局面に入る。

しかし、日本では、そこから鎖国の下での輸入代替化の進行、自給自足的なクローズド・システムの確立、産業革命(インダストリアル・レヴォリューション)ならぬ勤勉革命(インダストリアス・レヴォリューション)が起こり、上下一体の凝集性を備えた社会が成立、近代化に適合的な条件を得る。

それに対して、中国社会は、流動的開放的官民乖離をその特徴とする。

多数の同郷・同業団体が力を持ち、聚落形態においても、権力の及ばない村落が中国では際立って多い。

こうした状況下で、中国は西欧の衝撃を受けたが、よく言われる中華思想もあり、本来日本よりも海外経験は多かったにも関わらず、西欧の文明と科学技術について、国家の上層部は無関心であり、一方民間では実用に特化した関心しか持たれず、国家全体としての体系的摂取には至らなかった。

社会の形態から言って、中国は柔構造、日本は剛構造であり、同じく西欧の衝撃を受けた日本では剛構造ゆえの脆さから、有機的結合の破綻がもたらされたが、それが同時に維新へのきっかけになり、新たに再編された官民協同の凝集的社会が上下一体となって近代化を推進できた。

太平天国の乱前後、漢人官僚の「督撫重権」は武装中間団体を政府側が組織し地方を確実に把握しようとするものであり、官民一体の凝集的社会を作り出そうとする試みと見なし得る。

ここから外交面に話は移る。

1871年日清修好条規が結ばれ、これは対等の国際条約だが、清は依然として朝鮮・琉球・ヴェトナムなどに対して朝貢国の概念を保持。

72年琉球藩設置、74年台湾出兵、75年江華島事件、76年日朝修好条規、79年沖縄県設置(琉球処分)を経て、1880年代、清は日本に対抗し、朝鮮において、これまでの「属国自主」のうち、「属国」を実体化し「自主」を名目化しようとする。

これが日本との対立をもたらし、82年壬午軍乱、84年甲申事変、94年日清戦争につながる。

内政に話が戻って、李鴻章らが推進した洋務運動について、「中体西用論」に立ち、「変法」(制度改革)を意図しなかったので失敗したという定説にやや疑問を投げかけ、李鴻章も制度改革の必要性は認識していたが出来なかった、当時の清朝の「官民懸隔」と西欧(および日本)の「君民一体」「上下一心」との距離が大き過ぎて、漸進的な改革の推進すら不可能になっていたとされている。

これを克服するために、中間団体の存続基盤を潰す社会構造の変化が必要だったと述べている。

普通、社会の中にあり、国家に対抗する中間団体というものは、自由の保障として肯定的に評価されるが(コーンハウザー『大衆社会の政治』等参照)、本書では逆。

まあ、国家の権力があまりにも弱体で、中間団体が武装化すら行い、単なる私的欲望の集合体として専横の限りを尽くすような状況はマイナスでしかない、という具合に理解しておきましょうか。

そこそこ面白くはあるが、なぜか強く勧める気にならないというのは前著と同じ。

普通ですかね。

上記の他にメモしようかと思うことはあったんですが、面倒なのでパス。

この記事を読んで、気になった方だけどうぞ。

2013年2月23日

渡邉義浩 『儒教と中国  「二千年の正統思想」の起源』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 10:00

すみません、挫折した本です。

このブログを続けているうちに、多少は忍耐力がついたので、一旦読み始めた本を途中で投げ出すのも久しぶりです。

重厚な研究書ならともかく、一応一般向け読み物に属する本を挫折しちゃいけませんよね。

立ち読みの時点ではやや煩瑣かなあと思いつつ、効用が高そうなので借りてみた。

まず序章、儒教経典の概論および、「伝」「注」「疏(そ)」という三段階の注釈について。

続いて第一章、儒教が秦代の法家、漢初の黄老思想(道家・黄帝)を押しのけ、正統思想になった経緯について。

本書では、武帝期に董仲舒によって儒教が国教化されたという、高校教科書以来お馴染みの定説を否定し、国教化ははるかに下って、後漢の章帝期であるとしている。

前漢時代、『春秋』の伝について、武帝期には王者の諸侯に対する絶対的地位・攘夷思想・譲国の賛美を特徴とする『公羊伝』が、宣帝期には長幼の序・華夷混一の理想・法刑併用を内容とする『穀梁伝』が、元帝・成帝期には漢の始祖を堯の末裔だとする解釈の根拠とされた『左氏伝』が、それぞれ重視されたことを指摘。

そしてその理由と背景を、当時の政治状況を具体的に描写しながら、説明しているのだが、ここはかなり面白い。

ここらあたりまではまだ快調だったのだが、第二章に入って儀礼の話が延々続くと、つい面倒くさくなって放棄。

飛ばし読みしつつ、力業で読了するかとも思ったが、他にいくらでも読まなきゃならない本はあるし・・・・・という感じで止めてしまった。

以後のページを適当に手繰ると、所々興味深い記述もあるようだが・・・・・。

私の根気の無さは確かに問題だが、少なくとも初心者向けの本ではない。

細かな所は飛ばして、主要な論旨だけ読み取るつもりなら、手にとってもいいでしょう。

2011年7月31日

佐竹靖彦 『項羽』 (中央公論新社)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

2010年刊。

同じ著者と出版社で、先に『劉邦』も出ているが未読。

とりあえずこれだけ読む。

通説を常に再検討し訂正しながら話を進めていく伝記。

劉邦の臣下であった陸賈の『新語』とそこから生まれた『楚漢春秋』、およびそれらを史料にした司馬遷『史記』の記述と実際の史実とのズレを考察し、さらに班固『漢書』に至ってより大胆な歴史の再編が行なわれたことを指摘している。

その例としては、項羽が天下を取った際の称号は「西楚の覇王」ではなく「楚王」だったはずだとか、項羽の最期においては「四面楚歌」ではなく「四面斉歌」という状況だったとか、「垓下の戦い」ではなく「陳下の戦い」だったとか、項羽は恐らく陳下で戦死したはずで烏江のほとりで自刃したのは史実ではない、等々。

叙述範囲は、前210年始皇帝の死から前209年陳勝・呉広の乱を経て、前202年項羽敗死と漢王朝成立まで。

なお、本書では陳勝は字(あざな)を取って、常に「陳渉」と表記。

『史記世家』でも「陳渉世家」で立てられている。)

秦末動乱と楚漢戦争の過程は、説明が丁寧なのと地図が豊富なので、類書の中ではたぶん一番わかりやすいと思います。

読んでいく上で、人名では、項羽の配下にいた范増、鍾離昧、黥布、司馬龍且、周殷、曹咎、呉芮(ごぜい)、陳嬰、呂臣など、独立的勢力としては張耳、陳余、田儋(でんたん)、田栄、秦嘉(と景駒)などをチェックするとよいでしょう。

(項羽の臣で後に劉邦に降った季布が出てこないのがやや不思議。)

上記のうち、田儋・田栄は斉の実力者ですが、斉には他にも田姓の人物がやたら出てきて、その政治的立場も様々なのでややこしいことこの上無い。

概括的記述としては、初めの方に出てくる以下の文章が非常に面白かったので引用。

周王朝が成立してから、本書で問題にする漢王朝の成立まで、一千年近い歴史を通観すれば、そこには周秦王朝の継続的成立に示されるように、そのときどきの歴史の波動を含みながらも、巨視的には一貫した西方の優位、かつて毛沢東が現代はアジアがヨーロッパを圧倒する時期であるとして、これを「東風が西風を圧倒する」と表現した言葉をもじっていえば、「西風が東風を圧倒する」という状況が存在した。

歴史的に見たときに、項羽が果した最大の功績は、この一千年にわたる西高東低の地政学的状況に終止符を打ったことであろう。かれ自身は、新しい状況をふまえた継続的な政治体制を樹立することはできなかったが、東西の統合あるいは融合の形勢はいっそう深化するとともに、地政学的な重心もまたこれに対応して東遷した。項羽の奮闘は一千年来の中国の基本的な政治状況に、最終的な変化をもたらしたのである。

この周秦一千年の東西関係の地政学は、前漢、後漢の約四百年のあいだに進行した東西の統合あるいは融合の形勢のなかで、その歴史的役割を終えた。この間に徐々に姿を現してきたのが、南北関係の地政学である。この南北関係の地政学は、前漢、後漢の約四百年の萌芽期をへて、徐々に力を増してくる北方遊牧民勢力の伸張によって、南北朝期にははっきりとその北高南低の姿を現した。

中華三千年の歴史を概観すれば、周王朝の成立以来、項羽の秦王朝打倒までの約一千年弱が西高東低の地政学の時期であり、前漢、後漢あわせて約四百年の東西融合と南北関係の確立の時期をへて、魏晋南北朝隋唐五代のこれまた一千年弱が第一次の北高南低期となる。この時期の北高南低の気象は、さまざまに入り組んだ動乱のなかで進行するが、この巨視的に見たときの過渡期をへて、宋代から清代にいたる一千年弱の北高南低の安定的な地政学的気象が確立する。ただし興味深いのは、ここで西高東低といい、北高南低というのは、政治的・軍事的優位を基準とした呼称であり、すべての時期を通じて、経済的・文化的には正反対の状況が出現していることである。

元々好きな時代を詳細に論じている本なので、私にとっては面白い。

ただし、そもそも漢楚争覇のあらましを知らない人にはあまり興味が持てないかも。

とりあえず、これまで何度勧めたか分からないくらいですが、司馬遼太郎『項羽と劉邦』(新潮文庫)をお読み下さい。

さらに気軽なものとして横山光輝の漫画『項羽と劉邦』(潮出版社)もあります。

横山氏の漫画では、有名な『三国志』よりも私はこちらの方が好きです。

これらの本で準備作業をすると、司馬遷『史記列伝』で関連する人物の伝を読むのが楽しくてしょうがなくなります。

本日までの記事数が998です。

年末の記事で申し上げた通り、1000記事目までいったら、当分更新を停止します。

残り2回は少し毛色の変わった記事を上げようかと考えています。

2011年1月10日

宮城谷昌光 『楚漢名臣列伝』 (文芸春秋)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

この方は司馬遼太郎亡き後、歴史小説の大家扱いで、月刊「文芸春秋」に『三国志』を、読売新聞に後漢・光武帝の小説を連載してますが、私はその膨大な著作のうち、『長城のかげ』しか読んでません。

他の本はどうも読む気がせず、上記『長城のかげ』と同じく、個人的に好きな秦末漢初の時代を扱った本書を手にとってみた。

これは小説というより評伝。

最初、「楚漢の時代」という簡単な時代説明があって、そのあとの10章で一人ずつ描かれる。

10人は、張良、范増、陳余、章邯、蕭何、田横、夏侯嬰、曹参、陳平、周勃。

范増が項羽配下の謀臣、章邯が秦将、陳余と田横が独立勢力である他は皆劉邦の臣。

以上、高校世界史では誰一人出てこない名だが、私にはすっかり馴染みになっている。

三国志の登場人物よりも、これらの名前の方により親しみを覚える。

内容自体はまあ普通。

知っている話が多いせいで、特に引き込まれることもないが、時々重要と思う指摘がある。

まず超基本事項のチェックとして、春秋時代が前770~403年、戦国時代が403~221年。

春秋時代が370年弱なのに対して戦国時代は180年余りと、こちらの方がかなり短い。

著者は、春秋時代は晋と楚の南北朝時代だと評している。

それに対し、戦国時代は秦と魏の戦いの時代と見なすことができ、秦に対して最も非妥協的で連衡策に乗らず激しく抵抗した魏の滅亡によって戦国時代の特色は失われたと書いてある。

戦国の七雄のうち、秦以外の六国の滅亡順を書くと、まず前230年に韓滅亡、次に225年魏滅亡、223年楚、222年趙・燕が相次いで倒れ、最後に残った斉が221年滅んで、秦王政の全国統一完成。

一部に趙の滅亡を前228にしている本もあるが、これはどういう史実を考慮しているのか不明(調べるのが面倒なのでパス)。

なお、劉邦が、自身の最初の根拠地とした、沛の位置から、魏人としての意識を持っていたということも書いてました。

以下の指摘も面白い。

魏は春秋時代の超大国であった晋を引き継いだという誇りが高く、この名門意識が為政者に濃厚にあったため、王族と貴族の力が強く、他国から魏に移った頭脳あるいは異能を活用しなかった。兵事だけではなく、司法と立法に巨大な才能をもっていた呉起を楚に亡命させ、秦で富国強兵をなしとげるまえの公孫鞅を無視し、比類なき天才兵法家の孫臏を斉へ逃がし、中山の名将であった楽毅を厚遇せず燕王へゆずった。呉起、公孫鞅、孫臏、楽毅など歴史上の偉才は、魏にいたのである。

全般的な筆致としては、項羽と劉邦の両者に対する冷めた視線が目立ち、兄の田栄と共に斉に依拠して奮闘した田横や、かつての「刎頚の交り」の友だが、劉邦足下となった張耳と対立し、趙で戦った陳余など、独立勢力の人物に好意的なのが印象に残る。

(項羽に降伏した後その配下となり、劉邦と戦って敗れた章邯も。)

そこそこ面白くはあります。

しかし、やはり司馬遼太郎『項羽と劉邦』の人物造型の巧みさ、素晴らしさは抜きん出ているなあと再認識したのも事実である。

日本人が書いた、中国歴史小説では最高傑作じゃないでしょうか。

宮城谷氏のこの本については、私のように漢楚争覇の時代が好きだという方にはお勧めしておきます。

2010年10月29日

田中芳樹 『奔流』 (祥伝社)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

『蘭陵王』『海嘯』に続く田中氏の歴史小説。

今回の舞台は6世紀初頭の中国南北朝時代。

華北を統一して久しい北魏と建国間もない南朝梁との間で起こった「鍾離の戦い」を主に記す。

登場人物はまず、梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)。

その下の若き将軍陳慶之が主人公。

梁側では他に韋叡、曹景宗など。

北魏は孝文帝死後の宣武帝時代。

帝室の一員である中山王・元英、猛将・楊大眼、梁の前王朝斉の元皇弟だった蕭宝寅などが北魏側登場人物。

以上のうち高校世界史では、孝文帝を除けば、梁の武帝がまあ何とか出てくるかなといった感じで、他は主人公含め完全に高校教科書範囲外。

こういうマイナーな時代と人物を題材にしながら、初心者が読んでも十分面白い歴史物語を本書でも展開してくれている。

以下魏晋南北朝時代についての復習。

常に重要年代を意識して、時代の大まかな長さを把握しながら基礎事項をチェック。

後漢滅亡が220年、隋の統一が589年。

西晋の統一が280年、八王の乱がそのちょうど十年後、290年。

西晋の統一崩壊から数えて約300年、黄巾の乱(184年)から数えると約400年間、中国がぐちゃぐちゃだった時代ということをまずイメージ。

(なお八王の乱は教科書では290~306年とあるが、『世界史年代ワンフレーズnew』ではその勃発を300年としている。最中の何かの史実をその基点としているのだろうが、教科書と合わない年代はやはりまずい気がしないでもない。)

西方でローマ帝国が崩壊するより少し早い4世紀初めから中国は大混乱に陥り、304~439年間が五胡十六国時代。

江南に逃れた東晋が317~420年と、およそ百年存続。

前秦・苻堅の一時的華北統一が破れた後、鮮卑・拓跋氏の北魏が439年華北再統一。

北魏の存続年代は386~534年だが、五胡十六国時代の終わりを画す439年華北統一の年代を憶えた方が良いか。

うまい具合にこの少し前420年に東晋が滅んでいて、中国の南北で時代の転換点を迎える。

よってこれ以後隋の統一まで南北朝時代となる。

南朝の王朝名順序、「宋・斉・梁・陳」は高校生もそれ以外の人も、とにかく理屈抜きで憶えるしかない。

声を出して、「そう、せい、りょう、ちん」「そう、せい、りょう、ちん」・・・・・と20回くらい繰り返したら暗記できるでしょう(病院に連れて行かれないように、周囲に誰もいないことを確かめた上で)。

(五代の後梁・後唐・後晋・後漢・後周、デリー・スルタン朝の奴隷王朝・ハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝・ロディー朝も同様。)

宋(420~479) 劉裕が建国  吉川忠夫『劉裕』(中公文庫)があり。

斉(479~502) 蕭道成

梁(502~557) 蕭衍(武帝)

陳(557~589) 陳覇先

上記の通り、斉と梁の帝室は同姓(武帝は斉帝室と血縁あり)、陳は国号と国姓が同じことに注意。

梁の武帝時代が南朝最盛期。

梁は一応6代続くが、最初の武帝時代が502~549年と在位半世紀に近く、以後は反乱でガタガタになりますから実質一代か。

次に北朝について。

北魏の孝文帝は南北朝時代通じて、高校教科書で唯一太字で載せられている重要人物だが、幼少で即位し33歳で死去したため在位29年のうち親政は最後の10年間のみ。

(死が499年なので、孝文帝時代が終わって、斉滅亡→梁の武帝となることを少しイメージしておきますか。)

即位後かなりの期間は祖母の馮太后が執政。

史上有名な均田制・三長制の実施などは、実はこの馮太后の政策であって、孝文帝自身の治績は衣服・言語・習俗・帝室改姓(拓跋→元)などの漢化政策のみと見るべきだと、宮崎市定『中国史』(岩波書店)などには書いてあります。

以後北魏は国運衰退、爾朱栄が朝廷の内紛を利用して専権を振るう。

帝室は爾朱栄暗殺に成功したものの、求心力の回復に至らず、爾朱栄配下の武将高歓と宇文泰が対峙する情勢となり、両者がそれぞれ北魏帝室の一員を担いで、534年高歓が東魏建国、翌535年宇文泰が西魏建国。

以後の話は、最初にリンクした田中氏の『蘭陵王』の記事参照。

高歓の部下だった侯景が梁に亡命した後、反乱を起こし仏教文化の華を誇った江南は荒廃、80代半ばに達していた老いた武帝は幽閉され餓死同然の悲惨な最期を遂げる。

侯景は結局滅んだが、梁の屋台骨は大きく揺らぎ、(東魏を継いだ)北斉と西魏およびそれに続く北周の圧迫を受けたのを機に、侯景討伐に活躍した陳覇先が簒奪、陳を建国。

北斉が550~577年、北周が556~581年、陳が557~589年だから三者とも6世紀半ばに成立と大掴みしておく。

なお本書では爾朱栄による混乱時代、主人公の陳慶之が一時洛陽を占領したことを記している。

他には「源氏」の起源・由来や、倭王「武」(雄略天皇)の梁武帝への朝貢など、意外な史実や逸話も紹介されているのが興味深い。

これも十分面白い。

歴史小説といっても、固有名詞のある人物は一部を除き、すべて実在とのこと。

自由奔放に見える登場人物の性格描写も、実は正史の記述にきちんと典拠を求めているところに感心させられた。

話のテンポが速く、快適なのも同じく。

今までのところ、田中氏の小説はどれもハズレじゃないです。

特に嫌いでなければ、初心者が読んで関連事項を復習するのも良いでしょう。

2010年10月7日

宮崎市定 『水滸伝  虚構のなかの史実』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

文庫・新書になっている宮崎氏の一般向け著作は大体目を通しているのだが、これは今まで読んだことがなかった。

『水滸伝』については、明代に成立した四大奇書の一つで、北宋末に山東の梁山泊に拠った宋江以下百八人の豪傑が政府軍と戦い、それを打ち負かした後朝廷に帰順し、それから方臘の乱を鎮圧した、といったあらすじ以外何も知らないし、『三国志演義』と違って原作を読もうなどという気は全然起きなかったので、本書にも興味が持てなかった。

しかし試しに読んでみると、なかなか面白い。

『水滸伝』の話の筋を知らなくても十分読めるし、単純に北宋末期の概説として使える。

まず北宋の皇帝名をチェック。

太祖趙匡胤から始まって、以後太宗・真宗・仁宗・英宗と続き、王安石の新法で有名な神宗に至る。

神宗死後、哲宗即位、祖母の高太皇太后が摂政となり旧法党復活。

哲宗親政開始とともに新法党が巻き返すが、哲宗は若くして死去。

弟の徽宗即位、母の向太后が新法・旧法両党均衡策を採るが、太后死後再度新法党政権に。

この時新法党強硬派として台頭したのが蔡京で、南宋の賈似道と好一対の奸臣とされる。

蔡京と宦官の童貫に誤られた徽宗は止めどない奢侈生活に耽溺し、靖康の変という亡国の事態を招くことになる。

『水滸伝』はこの徽宗時代を舞台にしており、本書では、宋江はじめ小説の中に出てくる人物と実際の史実との関わりについて細かく分析している。

なお「方臘の乱」は数ある中国の民衆反乱のうちでは、明代の「鄧茂七の乱」と並んでマイナーな部類に属し、高校世界史ではあまり出てきませんね。

後半ややめんどくさい部分があるが、煩瑣なところは飛ばし読みでいいでしょう。

宮崎氏の本を新規に読むのは久しぶりですが、やはり平明かつ豪快な筆致は素晴らしいと感じ、大いに堪能させて頂きました。

他の著作と同様、こちらも初心者が十分楽しめる本です。

2010年9月16日

南宋・モンゴルについてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, 中国 — 万年初心者 @ 06:00

その1に続き、モンゴル史について高校レベルの基礎的事項を復習してメモ。

まず、遊牧民族の風習で兄弟継承が多かったので、中国史の他の王朝と違い、系図をしっかり把握しないといけない。

チンギス・ハンの長子がジュチ、次子がチャガタイ、三男オゴタイ、末子がトゥルイ。

ジュチの子がバトゥ、オゴタイの子がグユク、グユクの甥がハイドゥ、トゥルイの子がモンケ、フビライ、フラグの兄弟。

これだけ頭に入れて、次に大ハン位の移動順とその在位中にどこの国が滅ぼされたのかをチェック。

まず1206年にはじまるチンギス・ハン時代だが、意外にも滅ぼされたのはホラズム朝と西夏だけ。

西遼(カラ・キタイ)領も手に入れているが、これはモンゴル高原から追い出したナイマンがまず西遼を簒奪して滅ぼし、そのナイマンをさらにチンギスが倒した形になっている。

ややこしくてすっきりしないがこの経緯は高校レベルでも出てくるだろうから、仕方ないので記憶。

実はホラズムも存続年代は1077~1231年で、滅亡はチンギスの死(1227年)以後なのだが、これは実質的にチンギス遠征時に滅亡したと考えていいのか。

中国華北から中央アジア・北西インドにまで侵攻しているが、チンギス一代では結局モンゴル統一とホラズム・西夏征服のみとチェック。

次にオゴタイ・ハン時代(1229~41年)。

バトゥの征西、ロシア征服と1241年ワールシュタットの戦い。

1234年(イチ、ニ、サン、シで憶えやすい)には金が滅亡、華北征服。

グユク・ハン時代は皇后の称制などを挟んでごく短期間、取り立てて何も無し。

モンケ・ハン時代(1251~1259年)は、まず何といっても弟フラグの征西、1258年バグダード入城とアッバース朝滅亡が最大事件。

1259年には高麗服属。

1254年に大理国滅亡、1257年にはタイでスコータイ朝が成立しているが、柿崎一郎『物語タイの歴史』(中公新書)では、この両者を直接結び付けるのは根拠が薄く、近代以降の「大タイ主義」の影響でそう考えられるようになった、みたいなことが書いてあったと思うが、うろ覚えです。

1260年フビライ・ハン即位。

1266~1301年のハイドゥの乱は、上記系図を踏まえて「末子トゥルイ系統のハン位継承が続いたことに対するオゴタイ系の反乱」という意味も記憶しておく。

1271年国号を「元」、1274年文永の役、1279年南宋滅亡、1281年弘安の役。

南宋滅亡が二度の元寇に挟まれていることをチェック。

元成立後はフビライに「ハン」を付けて呼ぶべきではないのか?

例えば、元寇時の元の君主は?と問われた場合。

受験時代に模試でそれでバツをくらった覚えがあるんですが。

1368年には明が成立しモンゴルは中国から追い出されるのだから、王朝の成立あるいは中国全土統一のどちらから数えても、結局元朝は100年も続いてない。

1284年からヴェトナムの陳朝とチャンパーを攻撃するが、両者は持ちこたえ、1287年(1299年としている本もあり)にはビルマのパガン朝滅亡、1292~93年にはジャワ遠征、元軍撤退後の1293年には最後のヒンドゥー王国マジャパヒト朝成立。

1294年フビライ死去。

以後の元朝については類書も少なく、全然頭に入っていないのでパス。

たまに復習しないと、以上程度のことすら所々忘れる。

私は関連本を読んだ時に教科書や用語集や年表を読み返してます。

それだと割りと頭に入りやすいので皆様にもお勧め致します。

2010年9月14日

南宋・モンゴルについてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, 中国 — 万年初心者 @ 06:00

前回記事、田中芳樹『海嘯』を読んだ後、年表・用語集等で確認した、高校レベルのごく基礎的な事項を以下にメモ。

まず宋について。

この辺、年代をあやふやなままにしていた部分があるので、まずそれを確認。

北宋成立が960年、遼との澶淵の盟が1004年、靖康の変が1126~1127年

この三つは当然暗記。(靖康の変と、永楽帝が即位した原因の1399~1402年靖難の変はもちろんしっかり区別。)

1127年に南宋成立、上記『海嘯』の記事のように滅亡は1279年

そうなると、北宋と南宋の存続期間はうまい具合にそれぞれ150年ずつほどとなる(北宋は160年を超えるが)。

しかしなぜか、南宋は盛期が短く、儚げなイメージが高校時代からある。

それはたぶん、1234年に金が滅ぼされ、以後の半世紀近く、モンゴルの軍事的圧力を常に受け続けていたからだと思う。

そう考えると平穏だったのは最初の100年だけか。

いや、初期には秦檜、岳飛の争いがあり、金の圧迫を受けていたのだから、盛期はもっと短いか。

女真族に華北を追われ、江南でやっと落ち着いたかと思いきや、もっと恐ろしい敵であるモンゴルに長年脅かされ、ついに滅ぼされるんですから、気の毒なイメージを拭い切れない王朝ですねえ。

南宋の文化人で最大の大物である朱熹の生没年が1130~1200年と書かれてあるのをたまたま見て、「この人、ちょうどうまい時に生まれて亡くなったんだなあ」という感想を持った。

次に皇帝位について。

徽宗の子で、欽宗の弟、高宗が初代皇帝。

この人には子が無く、北宋時代太祖趙匡胤の弟太宗系統の継承がここで終わる。

太祖の系統から孝宗、光宗、寧宗と三代が父子継承で順に即位。

その後、太祖の別系統から理宗が即位、この人の代に金が滅亡。

次が甥の度宗、度宗の子、恭宗が臨安で元に降伏。

恭宗の兄弟の端宗を擁して南宋残存勢力が南へ退避、端宗病死後、さらに兄弟の衛王(帝「へい」。漢字が出ない。たぶん「日」の下に「丙」だと思うんですが、違うのかな。)を立てるが厓山で滅亡。

次にモンゴルについて。

テムジンがチンギス・ハンに即位し、モンゴル帝国が成立した1206年は当然絶対暗記事項。

以下、四ハン国と元朝の存続年代をそのまま書き出してみる。

オゴタイ・ハン国  1225ごろ~1310年

チャガタイ・ハン国  1227~14世紀後半

キプチャク・ハン国  1243~1502年

イル・ハン国  1258~1353年

元  12711368年

1258年はイル・ハン国成立年代としてではなく、アッバース朝滅亡年度として暗記が必要。

オゴタイ・ハン国はチャガタイ・ハン国に併合。

キプチャク・ハン国はモスクワ大公国自立後、しばらく細々と存続。

要するに「13世紀はモンゴルの世紀で世界史上稀に見る大膨張を遂げるが、もう次の14世紀半ばにはロシアのキプチャク・ハン国以外はバタバタ倒れる」ということを頭の中でイメージしておく。

続きます。

2010年9月12日

田中芳樹 『海嘯』 (中公文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

『蘭陵王』に続けて読む、田中氏の中国歴史小説。

元の世祖フビライの攻撃による南宋の滅亡を描いたもの。

タイトルは「かいしょう」と読んで、津波の意。

モンゴル軍の怒涛のような侵攻の比喩。

なお「嘯」は難しい字ですが、「うそぶく」を漢字変換するとすぐ出てきます。

物語は前史を長々と語ることなく、いきなり南宋末の奸臣・賈似道の誅殺と首都臨安(杭州)攻防戦から始まる。

最低限の説明は後で出てくるし、この展開の速さは読みやすくて反って良い。

元軍に圧迫され、一部の帝室と忠臣が臨安から温州、福州、泉州と逃れ、最後に広州の南にある厓山で壊滅し、1279年南宋が完全に滅亡するまでをテンポの良い文体で記している。

南宋側の登場人物は、文天祥、陸秀夫、張世傑、李庭芝、陳宜中など。

文天祥は南宋滅亡直前に宰相となった人物で、後に元軍に捕らわれた時に作った「正気(せいき)の歌」で一番有名。

本書でも一応は主人公という扱いか。

しかしやや協調性を欠く性格で他の忠臣とのわだかまりもあり、海上に逃れて沿岸部を転々とした朝廷とは行動を共にせず、内陸部で転戦、元軍相手に奮戦するが、最後には捕らえられる。

陸秀夫と武人の張世傑は「海上朝廷」を大黒柱として支え続けたが、陸秀夫は厓山で死、張世傑は再起を目指して逃れるが、まもなく嵐で乗船が沈み死去。

最後の張世傑の猛烈な戦い振りは感動的ですらあり、本書の読み所かと思える。

李庭芝は長江北の揚州で元軍を防ぐが、敗死。

陳宜中は文官で国外に出て、チャンパー(占城)やラームカムヘン王時代のスコータイ朝に援助を求める。

この陳宜中は優柔不断で決断力に欠け、しばしば行動を誤る人物として描かれてはいるが、著者の筆致はある意味同情的でもある。

元側の登場人物はフビライの他、バヤン、アジュ、アラハン、サト、張弘範、呂文煥、范文虎、アリハイヤ、李恒など。

最初の四人はモンゴル人、次の三人は漢人、アリハイヤはウイグル人、李恒はタングート族で西夏の王族出身、と元軍らしく多民族構成。

臨安陥落まではバヤンが最高司令官で、以後南宋朝廷を追い詰め厓山で滅ぼしたのは張弘範。

張弘範はモンゴルで史天沢に次ぐ漢人将軍だった張柔の子。

呂文煥、范文虎は南宋降将で、呂文煥はかつて襄陽攻防戦で勇名を馳せ、范文虎は少し後1281年に二度目の日本遠征軍(弘安の役)の指揮官となる。

他に注目すべき人物として泉州(マルコ・ポーロの言うザイトン)を本拠に海上勢力を率いていた蒲寿庚(ほじゅこう)がいる。

アラブ人であったというのがこれまでの通説で、元に通じ、逃れてきた南宋朝廷を攻撃している。

これもかなり面白い。

最も有名な文天祥のみに注目するのではなく、多くの人物・事件に目配りし、ある特定の人物を極端に美化するのではなく、それぞれの登場人物の長所・短所をバランスよく描いていると思われる。

この時代の雰囲気や大まかな流れを誰でも理解しやすいように提示してくれている。

上記『蘭陵王』と同じく、話の展開が速く、退屈な部分はほとんどない。

登場人物が相当多いが、さりげなく補足説明を交えて前出事項を思い出させてくれるので、ボーっとしながら読んでも、途中どんな人物だったのか忘れるということはまずない。

これは中々の腕だなあと感心した。

相当のスピードで読めて、基礎的知識が身に付くので便利。

これも初心者向け歴史小説として良好な出来だと思われます。

(追記:以下関連項目のメモ

南宋・モンゴルについてのメモ その1

南宋・モンゴルについてのメモ その2

2010年7月15日

藤田勝久 『項羽と劉邦の時代  秦漢帝国興亡史』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

著者には中公新書『司馬遷の旅』などの著作もあります。

私は中国史のすべての時代の中でこの秦末漢初が一番好きで、中国史のすべての人物のうちで劉邦が一番好きなので、これを読んでみた。

戦国時代の秦の台頭、南方の大国楚の社会と文化からはじまって、漢王朝の隆盛期まで。

秦の制度と楚などの風土・習俗との相克を常に対比させながらの叙述。

各国の興亡を指導者の個性ではなく、システムの違いに重点を置いて説明していく。

秦の郡県制が各地方の固有文化との軋轢の中で崩壊した後、項羽の分封体制となり、それが漢初の郡国制(中国西部は郡県制、東部は異姓諸侯分封から劉氏へ)を経て、景帝・武帝時代の実質郡県制へ、という大きな流れに沿った内容。

『史記』や『漢書』の記述を考古学的発見や他の史料によって補正しながら、話を進めている。

この時代の諸侯・将軍・謀臣などの固有名詞はかなり知っているが、改めて読むと結構記憶から抜け落ちていたり曖昧だったりする部分もあり、再チェックしながら通読した。

具体的記述については、以下一点だけ。

秦末の陳勝・呉広の乱について。

この二人は楚出身で、反乱後、国号を「張楚」とし、当初自分たちは楚の将軍項燕と始皇帝の子扶蘇であると称した。

項燕はともかく、温和な君子で人格者との世評があり、二世皇帝胡亥に自殺させられたとはいえ、あくまで敵国秦の人間である扶蘇がなぜ楚人の旗印になりえたのか、ということを考察しているのだが、それが中々面白く「ほう」と感心してしまった。

悪くはないが、上に書いた部分以外では目から鱗が落ちるといった感じは受けなかった。

私はそれなりに面白かったが、趣味の違う人にはやや退屈かも。

後半がやや落ちますか。

まあ普通の本です。

2010年7月10日

小前亮 『宋の太祖 趙匡胤』 (講談社文庫)

Filed under: 中国 — 万年初心者 @ 06:00

この前の田中芳樹『蘭陵王』の読後感が割りと良かったことに味を占めて、通俗的中国歴史小説のうち、たまたま目に付いたこれを読んでみる。

カバーの著者紹介で、「東京大学大学院修了。専攻は中央アジア・イスラーム史。在学中より歴史コラムの発表をはじめる。(有)らいとすたっふに入社後、田中芳樹氏の勧めで小説の執筆にとりかかり・・・・・」という文章があるが、「つまり、中国史は専門じゃないということですか・・・・・」と、大変失礼ながら不安な気持ちになる。

気を取り直して読み始めてみると、結構面白い。

この趙匡胤という人は中国王朝の建国者の中でもかなり良いイメージがある。

たぶん宋王朝自体が、前代の殺伐とした武断主義から文治主義に転換し、遼・西夏・金・モンゴルなど異民族に圧迫され通しで「文弱」という言葉が思い浮かぶものの、政治的には君主独裁制が成立し皇帝と臣下の力の差が隔絶し王朝支配体制は安定、経済的には新興地主の台頭と占城米などの導入、坊制市制崩壊による商業都市発達、火薬・羅針盤・活字印刷の三大発明など、大きな躍進を遂げ、文化的には宋学の誕生、と社会の各分野で華やかで繁栄した印象があるからでしょう。

禅譲のあと、前王朝の一族をほとんど殺さなかったことも好印象。

それに引きかえ、モンゴル族の元朝を飛ばした次王朝明の太祖朱元璋なんてイメージ最悪。

前王朝の帝室は漠北に逃げて北元を建ててますから殺せなくても、自らの功臣をいくらなんでも殺し過ぎ。

宮崎市定先生が『中国史 上・下』(岩波書店)で朱元璋のことを偏執狂的な「中国のスターリン」と評してますが、ほんとに滅茶苦茶ですよ。

ただ私の好きな漢の高祖劉邦も建国後は韓信はじめ功臣を随分殺してるじゃないかと指摘されたら、「いやいや、あれは全部、歴史上最悪の鬼嫁呂后のやったことです」と都合の良い解釈をするようにしています。

閑話休題。

本書は五代の四つ目、後漢王朝の時代から始まる。

後梁・後唐・後晋・後漢・後周という、五代の王朝名と順番は当然要記憶。

「後」の部分はすべて「ご」ではなく「こう」と読み、特に「後漢」は「こうかん」と呼んで、古代の前漢(ぜんかん)・後漢(ごかん)と区別する、と私は高校時代に習いましたが、皆様はどうだったでしょうか。

年代は唐滅亡と後梁の成立907年と、宋成立の960年だけはしっかり憶えましょうか。

あとは建国者名をチェック。

後梁の朱全忠、後唐の李克用と李存勗(そんきょく)[建国は存勗の代]、後晋の石敬瑭、後漢の劉知遠、後周の郭威。

後唐は「李」姓だから国号も唐、後漢は「劉」姓だから漢。

真ん中三つ、後唐・後晋・後漢は突厥沙陀部出身者が建国。

燕雲十六州を割譲したのは後晋、その後晋が遼の怒りを買い滅ぼされた後、契丹への抵抗を組織して建国されたのが後漢。

この後漢はわずか4年で滅び、中国の正統王朝の中では最も寿命が短いことで知られているが、後梁が16年、後唐が13年、後晋が10年、後周が9年だから、他もたいして変わらないか。

951年郭威が後周を建てると、後漢帝室の一族の劉崇が遼との国境地帯に北漢を建国、この北漢が「五代十国」の十国のうち、唯一華北にあった国。

太祖・郭威を継いだのが世宗・柴栄。

名前を見てわかる通り、実子ではなく養子。

名君が二代続き、国力は大いに伸張。

北は北漢を討ち、南は十国中最大の強国南唐を攻撃、長江以北の領土を併合。

悲願の全国統一も近いと思われたが、959年に世宗・柴栄は病死。

ちなみにこの世宗は「三武一宗の法難」の最後の仏教弾圧を行なった人。

960年禁軍司令官の趙匡胤が即位、(北)宋建国。

文官では趙普、弟の趙匡義、武官では石守信、高懐徳、曹彬などの助けを得て、民力の恢復と節度使権力の削減と中央集権化に努める。

この宋王朝成立については、

宋太祖が禅譲・・・の最後であったことは、皇帝独裁制の成立によって皇帝と臣僚との権力に大きい格差ができたことの証しでもあろう。以後は異民族の戦争によってしか王朝交代はおこらない。(中谷臣『世界史A・Bの基本演習』。赤文字引用者。)

ということは初心者でも要チェック。

ここで一応十国を整理しますか。

呉、南唐、呉越、荊南、閩、南漢、楚、前蜀、後蜀、一つだけ離れて北漢。

まず呉が滅んでから南唐が建国。

南唐は閩と楚を併合。

前蜀が滅んだあと、後蜀が建国。

ということで宋成立時に存続していたのは後蜀、荊南、南唐、呉越、南漢、北漢。

まず荊南を併合。

次に後蜀が降伏。

さらに、大陸南端、広州を中心にした南漢が降る。

975年には江南と称していた南唐も滅亡。

ここまでが太祖の時代。

976年太祖崩御、弟の趙匡義が即位し太宗に。

以後太祖の子孫は冷遇され続け、南宋初代皇帝の高宗が死去した後、ようやく太祖の子孫が帝位に就くことになる。

978年呉越併合、979年北漢併合で中国統一達成。

ややこしいことこの上なく、十国は基本的に南唐だけ押さえておけばOKでしょうが、まあ五胡十六国時代よりはかなりマシなので、可能ならばすべて憶えてもいいでしょう。

関連文献を挙げると、五代通史としては『馮道』(中公文庫)がかなり優れていると思います。

また本書のような中国歴史小説の場合、正史など原典史料と比較対照して、どこに典拠を採りどんなアレンジを加えているのかを観察する楽しみもありますが、残念ながら私には欧陽脩『新五代史』などを読む能力はもちろんありません。

私がそうした楽しみを味わえるのは陳寿『三国志 蜀書』だけです。

(追記:と思ったのですが、考えてみると『史記列伝』『世家』『本紀』で項羽と劉邦およびその臣下たちの記述を知っている逸話と比較するのは好きです。)

なかなか良い。

趙匡胤の武人としての活躍を描いているので、「なんかイメージ違うなあ」とも思うが、晦渋な部分も無く、スラスラ読める。

平易で印象深い人物描写を通じて、重要な史実が無理なく頭に入る。

私程度の初心者にとってやはりこういう歴史小説が与える効用は無視できない。

もっともののわかった人なら、こうした本は読まなくてもいいでしょうが、初学者はあまり馬鹿にせず気になったものは手に取ってみるといいでしょう。

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