万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年11月24日

栗生沢猛夫 『図説ロシアの歴史』 (河出書房新社ふくろうの本)

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ロシア史も、個々の皇帝や政治指導者についての本はいろいろあるが、単独の通史となると、すっと思い浮かぶものがない。

バーナード・ペアーズが書いた古典的ロシア史の(仄聞するところによると、ソヴィエト政権に宥和的となった晩年ではなく、それ以前の版の)翻訳が出ないかなと長年思っていたが、その気配が全くないので、『図説ハンガリーの歴史』に続いてこのシリーズを読むことにする。

私が読んだのは2014年刊の増補新装版。

著者は、中公新版世界史全集の傑作『ビザンツとスラヴ』も書いている人だから、期待できそうである。

 

 

まず、我々がロシア史に持つイメージについて。

東スラヴ系ロシア人の国家形成と歴史への登場は9世紀以降であり、西ヨーロッパに比してよく言われる後進性は否めず、ロシア人自身のコンプレックスにもなっている。

ただ、カトリックではなく、ビザンツ帝国から東方正教を受け入れたことを過度に強調するのは適切ではなく、ロシアがイスラム教ではなくキリスト教国家となったことが何より重要な事実であるとして、さらにロシアのキリスト教の特徴として鷹揚で柔軟で包容的で、過度の教義論争や制度的締めつけが、少なくとも当初は無かったことを挙げている。

また、君主権や国家権力が圧倒的に強力であったという点についても、ロシアが農業国でありながら、同時に、自然の防壁の無い広い平原地帯で防衛する必要から、早くから都市を発展させており、その都市においては14・15世紀に至るまで民会が大きな力を持っており、古代的な民主制の伝統がロシアに絶無だったとするのは、むしろ歴史の連続性を無視した議論だ、としている。

ただ、「後進性」克服の為に、「上からの革命」がしばしば行われたが、それは多くの場合不徹底に終わるか失敗し、急激な革命が起こるという、「極端から極端へ」走る気質があることは否めない。

過剰な防衛意識は、歴史上外部からの攻撃を繰り返し受けたことの裏返しであるし、多民族を支配する帝国でありながら、支配層には多くの非ロシア系民族が同化・混入している。

ユーラシア国家と言われることもあるが、ロシアは一貫して正教国家であり続けており、19世紀知識人の西欧派とスラヴ派の論争も、ロシアがキリスト教国家であり、ヨーロッパに属することを大前提として西ヨーロッパ的な道を歩むのが是か非かを論じたものに過ぎない。

 

 

862年ノルマン系ヴァリャーギ人のリューリクが東スラヴ諸族に招かれ、ノヴゴロドを中心に北ロシアを統治、これがロシア史の起源となる。

これをノルマン人の征服活動の結果と見ることは適切ではなく(ナチ時代のドイツの学者はスラヴ人に国家形成能力は無いとして最も極端な見方を示した)、東スラヴ人の長期にわたる政治活動を経てノルマン人が触媒的役割を果たした、と見るべき。

高校世界史レベルではあまり意識しないことだが、ロシア史においては、このリューリク朝とロマノフ朝の二つしか王朝が無い。

「リューリク朝」という言葉自体が高校世界史では出ないはずなので、ピンとこないでしょうし、前近代のロシア史は、ノヴゴロド公国、キエフ公国、モスクワ大公国と違う国が次々興亡を繰り返したイメージがあると思いますが、実はこれら諸国の君主は初代のリューリクから全部系図で繋がっている。

20ページにあるリューリク朝の系図は本文を読む際、頻繁に参照した方が良い。

この系図、高校世界史でも教科書か史料集かに載せて欲しいですよね(今は載ってるのかな)。

882年リューリクの子イーゴリを擁してオレーグが南下しキエフ公国を建国。

このオレーグも系図には入らないが、あくまでリューリク朝の一族とされている。

イーゴリの子スヴャトスラフは南方の遊牧民ペチェネグ族と戦い戦死、その子が有名なウラジーミル聖公で、キリスト教を受容、ウラジーミルの子ヤロスラフ賢公はペチェネグ族を打ち破りキエフ公国最盛期を現出。

ヤロスラフ賢公死後、孫のウラジーミル・モノマフが一時盛期を築くが、ペチェネグに代わる遊牧民ポロヴェツ人が脅威となり、キエフ公国自体も継承方式の曖昧さから分解する傾向となり、諸公国が並立する分領制期に入る。

その中で有力なのは、北東部のロストフ・スーズダリ公国(のちのウラジーミル・スーズダリ公国。「ウラジーミル」と急に人名が入ってくるのは妙だなと思ったが地図にウラジーミルという都市名が載っていた)、南西部のガーリチ・ヴォルイニ公国、北西のノヴゴロド共和国(誤記にあらず。後述)。

この26ページにあるキエフ公国分裂時の地図は有益。

ウラジーミル・スーズダリ公国内部でトヴェーリなど他の有力都市を制しモスクワが台頭。

なお、この時期のノヴゴロドは、公は雇われ軍事指揮官とも言うべき存在で、実権は民会が握っており、実質的には共和国であった。

13世紀に入ると、西からはスウェーデンとドイツ騎士団が、東からはモンゴルが押し寄せてくる。

この危機に立ち向かったのが、ノヴゴロド公でのちのウラジーミル大公であるアレクサンドル・ネフスキー。

ネヴァ河畔でスウェーデン軍を(ネフスキーの由来)、1242年チュード湖上の戦いでドイツ騎士団を撃破。

一方、モンゴルに対しては服従の態度を取り、衝突を避ける。

この態度について、屈辱的と非難する立場と、宗教的には寛容で納税だけで満足するモンゴルよりも西方のカトリック勢力の方がロシアにとって真の脅威だったとして擁護する立場が対立してきたが、著者はアレクサンドルを一方的に非難することも聖人・英雄扱いすることも共に一面的であるとして退けている。

1237年バトゥの侵入後、キプチャク・カン国が建国されるが、そのロシア支配は各公を通じた間接的なもので、ロシアがその侵入で大きな被害を受けたことは事実であるし、その後の専制政治体制をモンゴルから学んだ点も間違いなくあるが、肯定的・否定的に関わらずモンゴル支配の影響を過大視するのは誤りであり、「タタールのくびき」がロシアの後進性を決定的にしたとか、「アジア的野蛮」に転落したと主張するのは誇張であり、ロシア人は当時も以後も正教徒であり続けており、少なくとも宗教的精神的にはモンゴルの影響は決定的ではなかったとされている。

アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニールがモスクワに拠点を置き、同市は急速に発展、キプチャクのカンと緊密な関係を築き、その子のイヴァン1世カリター以後ウラジーミル大公位はほぼモスクワ公が占めることになり、モスクワ自体が大公国と呼ばれるようになる。

イヴァン1世の孫ドミトリー・ドンスコイはキプチャク・カン国への貢納を停止、侵攻してきたカン軍を1380年クリコヴォの戦いで破る。

この戦いでモスクワが完全に独立したわけではなく、以後の貢納が完全に停止されたのでもなかったが、モスクワ大公は大きく威信を高める。

子のヴァシーリー1世はカンの意向を問うことなく大公国を世襲地として受け取るが、その子ヴァシーリー2世時代に大公位継承争いが勃発、ペスト流行も重なり、大きな危機を迎えるが、ヴァシーリー2世は何とか内戦に勝利。

この間、ロシア正教会の頂点に立つ府主教がキエフからウラジーミル地方、さらにモスクワへと居を移し、滅亡直前のビザンツ帝国が西方カトリックとの教会合同を実行しようとすると、それに距離を置き、ロシア正教会は完全に独立。

ヴァシーリー2世の子がイヴァン3世である(1462~1505年在位)。

名目上独立を保っていたトヴェーリなどの諸公国を併合、ノヴゴロド共和国も滅ぼし、代官によって統治。

分裂状態のキプチャク・カン国への貢納を停止、1480年出撃してきたカン軍を領内に侵入させず、カンからの独立を達成。

最後のビザンツ皇帝の姪と再婚、クレムリンの宮殿・寺院を建設。

子のヴァシーリー3世時代にも領土を拡大、北東ロシアの統一を完了。

次いで1533年イヴァン4世(雷帝)即位、1584年まで半世紀以上在位。

公式に「ツァーリ」を名乗り、士族という新興軍人貴族を重用、中央集権化と専制体制確立を目指し諸改革を推進、カザン・カン国、アストラハン・カン国を征服(有名なイェルマークによるシベリア・カン国征服は治世晩年)。

しかし、バルト海沿岸のリヴォニア地方をめぐる、ドイツ系リヴォニア騎士団、リトアニア・ポーランド、スウェーデンとの戦いには敗北。

このリヴォニア戦争の失敗から、雷帝の統治はおかしな方向に向かう。

オプリーチニキと呼ばれる親衛隊による恐怖政治が行われ、門閥貴族層の逮捕・処刑が頻発、当時の府主教すらも殺害され、多くの都市住民・農民も犠牲になった。

オプリーチニナは暴力的であったが、国家と皇帝権の強化のためには必要な政策であったと主張する歴史家がいる。とくにスターリン時代に多かった考え方である。しかしリヴォニア戦争、凶作、飢餓、悪疫が続くなか、それが国政の混乱、国土の疲弊につながったことは否定できない。暴力と圧政を恐れた農民、都市民の逃亡が相次ぎ、廃村・棄村が常態化した。

モスクワは「大荒廃」の時代を迎えた。貴族の「横暴」を抑え、分領制の遺制を克服し、中央集権化をはかることは、別の方法でも可能であった。「選抜会議」政府は基本的にそのような目的をもっていた。その意味でオプリーチニナはツァーリのせっかちて非歴史的な思考が生んだ非現実的政策であった。それはツァーリ権力の恐ろしさを国民に叩き込んだかもしれない。皇帝権がロシアにとって不可欠の存在であるかのような幻想の始まりとなったかもしれない。しかしそれは皇帝と臣民との間の溝を大きく広げ、皇帝権の真の強化には寄与しなかった。何よりも国家を著しく弱体化させてしまった。雷帝と呼ばれるにいたったイヴァンの死後まもなく始まる「動乱」の原因は、雷帝自身にあったといわなければならない。

これを読むと、高校教科書にも載ってるんだからと、イヴァン雷帝を漠然と名君と見なしてきた考えが修正を余儀なくされる。

1584年雷帝没後、統治能力に欠けるフョードルが即位したが、后の兄ボリス・ゴドノフが実権を握り、フョードルの死によってリューリク朝は遂に断絶、ボリス・ゴドノフがツァーリに即位。

雷帝の子ですでに不慮の死を遂げていたドミートリーを名乗る「偽ドミートリー」がポーランド貴族に支持されロシアに侵入、ロシアは「動乱」時代に突入。

1605年ボリス帝が没すると、「偽ドミートリー」がモスクワに入城し即位するが、わずか一年後に殺害される。

その後、第二、第三の偽ドミートリーが出現、ポーランド軍が侵入し、モスクワを2年にわたって占領、ロシアは国家存亡の危機に立たされる。

1612年国民義勇軍がモスクワを解放、翌年イヴァン雷帝最初の后の出身家門であるミハイル・ロマノフをツァーリに選出、ロマノフ朝が成立。

当初、全国会議という身分制議会が大きな役割を果たしたが、ロマノフ朝の安定に伴い、17世紀後半には消滅する。

帝位はアレクセイ、フョードルに引き継がれ、その間農奴制が法的に完成、都市暴動も頻発、シベリア征服は続きオホーツク海にまで達しているが、ステンカ・ラージンの乱が勃発、総主教ニコンの典礼改革によって「古儀式派」が分離、ロシア正教会の分裂はその国家や社会への影響力をますます弱めた。

古儀式派は20世紀初頭で人口の15%以上を占め、社会の分裂を深めた。

17世紀末、フョードル帝死後、兄弟のイヴァン5世と幼少の異母弟のピョートル1世が共同即位、数年後宮廷クーデタでピョートル単独統治時代が始まる。

清朝とネルチンスク条約を締結し、スウェーデンとの北方戦争を遂行、門閥貴族の地位を低下させ、絶対主義国家を志向、啓蒙専制君主として君臨したが、臣民には重い負担を強いる結果となる。

ピョートル死後は妻のエカチェリーナ1世が初の女帝として即位、その後はピョートル大帝の別の后の孫ピョートル2世、イヴァン5世の娘アンナ女帝を経て、5世の曽孫のイヴァン6世が一年の在位で帝位を追われ、大帝とエカチェリーナ1世の娘エリザヴェータ女帝の治世が20年続き、その後甥のピョートル3世が即位したが、七年戦争での親プロイセン政策が反発を買い宮廷クーデタが発生、妻のエカチェリーナ2世が即位する、といった具合に18世紀のロシアは女帝の時代となった。

エカチェリーナ2世はアンハルト・ツェルプスト候という家出身で生粋のドイツ人であるが(ピョートル3世も父はドイツ人)、正教に改宗し、ロシア語を学び、ロシアを代表する啓蒙専制君主として受け入れられた。

ポーランド分割とクリミア併合を実行、ロシア帝国の対外進出が本格化。

しかし、この時期で重大な事態は、西欧では中世末から近代にかけて消滅ないし廃止された農奴制が、ロシアでは強化されたこと。

フランス文化が流入した華麗な上層社会と圧倒的多数を占める貧しい農奴という社会の亀裂と分断が深まる。

ピョートル大帝の改革は様々な無理や矛盾があったものの基本的には正しい方向であり、以後農奴制の改革とその漸進的廃止によって諸身分間に一定の平等性を確保することによって安定した国民国家建設に向かうべきだったのだが(身分制の全面否定と平板で平等な大衆社会には大きな危険が伴うが、余りに硬直した階級社会では近代国民国家に必要な活力も生まれない)、その後の歴史で貴族・領主層に妥協的になったことが問題だった、と個人的には解釈したが、それで正しいのか?

エカチェリーナ2世死後、その息子パーヴェルが即位したが、最後の宮廷革命が起こり、パーヴェルは殺害され、アレクサンドル1世が即位。

ナポレオン打倒に最大の貢献を成したが、初期の自由主義的改革姿勢は後期には「アラクチェーエフ体制」と呼ばれる専制主義的統治に変貌した。

後を継いだニコライ1世の治世冒頭にデカブリストの乱が勃発、ニコライ帝はあらゆる革命・改革思想の弾圧を自らの使命とし、国外にも反革命的干渉を行い、ロシアは「ヨーロッパの憲兵」との異名を得る。

この流れがねえ・・・・・。

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』『同 7 革命の時代』での評価のように、エカチェリーナ2世、ニコライ1世の時代に(特に後者の治世で)漸進的な改革が行われなかったことが、ロシアの不幸な歴史の原因となったと見なすことはもちろん可能ではある。

しかし上記リンク先の記事で思いつつも結局書かなかったことを今書いてしまうと、プガチョフの反乱のような巨大な民衆暴力、国外で悲惨な恐怖政治を生み出したフランス革命を受けてエカチェリーナ2世が強い警戒心を抱いたのは当然と思われるし、ニコライ1世時代の過激で暴力的な革命運動が政府内の反動派の力を強めたという面も間違いなくあるだろうし、体制側だけを責めても始まらないでしょうという感想も同時に持つ。

さらに、帝政ロシアの「圧政」については、本書でも以下のように述べられている。

・・・・・ニコライ治世が「最も暗い時代」であったにせよ、それはのちの二〇世紀になって人類が経験するような徹底した全体主義的統制とはまったく次元の異なるものであった。実際この時代、作家たちはいわゆる「イソップの言葉」を用いるなどさまざまな工夫をして、検閲の網を何とかかいくぐろうと苦闘し、またある程度それに成功したのである。検閲当局もそれなりに厳格に職務を遂行したが、作家たちはむしろそれゆえに自らの思索を深化させ、永続的な価値の創造のために苦闘したのであった。

君主政による圧政など、それを打倒して成立した人民の名における全体主義的独裁による被害に比べれば、ほとんど言うに足りない。

世界の現代史上、どこでもそうだが、ロシアほどそのコントラストが明確な国も無い。

クリミア戦争の敗北が改革の必要性をロシアの各層に痛感させ、アレクサンドル2世の農奴解放令に至る。

上記『革命の時代』の記事で書いたように、まさに同時期南北戦争という凄惨極まりない暴力を経なければ黒人奴隷を解放できなかったアメリカに比べて、このロシアの改革はもっと評価されてしかるべきと思われる。

本書では農奴解放の不徹底性や問題点が指摘され、司法・軍制改革などは成功とみなされ得るにせよ、ゼムストヴォと呼ばれる地方自治体設置は議会制への移行として中途半端であり、専制体制全般を変革する志向に乏しかったと記されているが、改革が急進的でありさえすれば革命という社会の破局が避けられたというものでもない気がする。

むしろ、こうした諸改革に対し、アレクサンドル2世暗殺という暴挙で応えたインテリゲンツィア出身の狂信的革命家たちに強い嫌悪感を持つ。

その後、順調な経済発展が見られた時期もあったが、体制当局が社会の分断と混乱を適切に管理し得たとは残念ながら言えず。

帝政ロシア最後の発展期と言える、ストルイピン時代について。

ストルイピン・・・・の時代と改革事業はどのように評価されるであろうか。ソヴィエト時代には、その革命運動に対する弾圧政策が厳しく断罪され、農業改革も否定的に評価されるのが通例であった。ストルイピン改革は農村を根本的に変えることができず、むしろ地主と農民のみならず、富農と貧農の対立をも引き起こしたこと、その時代にみられた一定の工業発展と資本主義化も結局は社会を安定させることができなかったことなどが指摘された。

ソ連邦崩壊後こうした見方は後退し、彼の改革はロシアを近代国家に成長させる可能性のあったことを指摘して、これを肯定的に評価する傾向が出てきた。それは歓迎すべき傾向といえる。ただこうした立場を突きつめ、その後に起こった一七年の革命を必然的でも、合法則的でもなく、むしろ改革による自然で順調な発展を暴力的に終了させたものとして、ただちに逆の判断にいたるのも問題であろう。当時のロシア国内の深刻な矛盾、革命運動の激化、帝国主義諸国家間関係の悪化、皇帝政府内の混乱などを過小に評価することになりかねないからである。

現代史はばっさり省略だ。

第一次世界大戦という総力戦の負担に耐えかねた帝政は崩壊、革命と共産主義独裁によってロシアはこの世の地獄に転落する。

人民の名において統治者となった革命家が、どんな悪逆非道なツァーリよりもおぞましい虐待を国民に加えたことだけは指摘しておく。

独ソ戦によってナチズムの打倒に貢献したことは事実だが、あえて俗っぽく、低レベルな言い方をすれば、悪と悪が食い合っただけの話だ。

ソ連の勝利は、絶滅収容所にいたユダヤ人を例外にすれば、東欧の人々にとって「解放」ではなかったはずだ(その例外が極めて重大だったことはむろん認めるが)。

ソ連崩壊後も、その権威主義的統治は、「秩序ある自由」と正常な議会政治から遠いものと判断せざるを得ない。

19世紀文学を頂点とする豊かな文化と、恐るべき苦境に耐えて国の存続を確保する力強い生命力など、多くの尊敬すべき面を持っているものの、漸進的な改革が効果を上げず、極端から極端に走る不幸な歴史を持った国、と決めつけるのはもちろん偏見だろうが、そのような見方に全く根拠が無いわけではない、というのが読後の感想です。

 

 

面白い。

ある特定の固定観念に囚われるのを避け、まず史実を正確に辿った上で、冷静な歴史的評価を下すという手堅さを持っている。

本書くらいの厚さでそれを成し遂げているのは大したものだと思う。

特に前半の前近代史の部分は非常に貴重で役に立つ。

この「ふくろうの本」というシリーズは、写真と図版が満載で文章量が少ないので、実は少々軽く見ていたのだが、『図説ハンガリーの歴史』に続いてこれを読んで、ものによっては非常に有益であると知った。

本書もハンガリー史と並んでお勧めです。

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2018年10月20日

エドワード・ハレット・カー 『ロシア革命  レーニンからスターリンへ、1917―1929年』 (岩波現代文庫)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 02:25

著名なソ連研究家の著者が、『ボリシェヴィキ革命』『一国社会主義』など四部から成る自らの大著『ソヴィエト・ロシア史』から、そのエッセンスを「蒸留」して、一般読者向けの入門書として書き上げた作品。

副題通り、叙述範囲は十一月革命からスターリンの権力確立まで。

ざっと読んだが、内容的にはごく平凡。

可も無く不可も無いが、手際のよい叙述で、コンパクトにまとめられている。

解説では、冷戦時代にソ連当局からは「反共的」、西側では「容共的」と見なされつつも、学界では高い評価を得たカーの研究が、ソ連崩壊後にロシア革命以後のすべてを否定的に捉える「清算主義的」な全体主義論によって、無価値とのレッテルを貼られたが、それには歪みや行き過ぎがある、と記されている。

この辺のことについて、個人的判断は留保します。

 

ある程度予想はしていたが、本書によって新たに得た知識や知見は特に無い。

もっとも、これまで読んだ本の中で、著者の研究によって定着した見方に、知らず知らずのうちに接しているのかもしれないが。

かと言って、一部に邦訳のある『ソヴィエト・ロシア史』に取り組もうなんて気は全く起きない。

カーについては、歴史思想に関する書『歴史とは何か』も、国際政治学を確立したと言われる『危機の二十年』も読んだが、どちらも強い感銘を受けるほどでもなかった。

本書についても同じである。

結局、私にとってのカーは、『カール・マルクス』という優れた作品を書いた伝記作家という位置づけです。

2018年9月8日

アレクサンドル・プーシキン 『大尉の娘』 (未知谷)

Filed under: ロシア, 文学 — 万年初心者 @ 06:38

高校生の頃、岩波文庫版を読んで以来、数十年振りの再読。

他社の翻訳が無いかなと探していたら、2013年にこれが出ていた。

しかし、元は1969年講談社版『世界文学全集』の中に収録されていたものを校訂したものだそうで、訳自体はそれほど新しくない。

200ページ余りの分量で、ストーリー展開が速く、読みやすい。

登場人物は皆精彩に富んで、生き生きしている。

プガチョフとエカチェリーナ2世という史上の著名人物の肖像も非常に興味深い。

 

面白い。

もの凄く面白い。

家庭小説としても歴史小説としても、最高の傑作だ。

通読難易度は著しく低いが、完成度は素晴らしい。

『青木世界史B講義の実況中継 5 文化史』で、著者が本書を皮切りに世界文学に耽溺するようになったと書かれているが、さもありなんという感じだ。

文学初心者の入門書としても良好。

決定稿からは外された補遺の章で、プーシキンは以下のように記している。

神よ願わくは、このロシヤ的反乱――不条理で無慈悲な――をもう見ることのないようにしてください。不可能な大変革をわが国で企てる人々は、年若くてわが国民を知らない連中か、あるいは自分の首を一コペイカぐらいに考え、他人の首なら四分の一コペイカぐらいに思っている残忍な連中なのである。

プーシキンは専制政治と農奴制への批判、デカブリストへの共感を咎められ、監視された謹慎生活を送っていた人だが、しかしこの文章は当局の検閲を意識したものというより、作家の本心からのものだと思える。

プーシキンの生きた時代から一世紀後、「不可能な大変革をわが国で企てる人々」が起こした「ロシヤ的反乱」によって、ロシアと世界はこの世の地獄に突き落とされた。

眼前に見る残酷な階級社会の不平等をそのまま肯定することなど出来るはずもないが、だからといって急進的な破壊運動がすべてを解決するという狂信に陥ってはならないことは、どんな社会においても肝に銘じるべき真理だと思う。

 

 

これは再読して正解だった。

素晴らしい作品。

私個人の仮想「世界文学全集」には必ず収録されるべきものと思えます。

2018年5月17日

廣瀬陽子 『アゼルバイジャン  文明が交錯する「火の国」 ユーラシア文庫5』 (群像社)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 04:15

カテゴリに迷う。

「イスラム・中東」でいいかもしれないが、旧ソ連構成国ということで、「ロシア」にします。

中公新書で『物語アゼルバイジャンの歴史』は出そうにもないし、出ても読むかどうかわからない。

明石書店のエリア・スタディーズ『~を知るための〇〇章』でもこの国は見たことはない(たぶん)。

で、たまたま書店で見かけたこれを記事にする。

2016年刊。

アゼルバイジャンは、西の黒海、東のカスピ海に挟まれたコーカサスにある国で、東はカスピ海、西はグルジア(ジョージア)とアルメニア、南はイランに接する。

言語はアルタイ語族でトルコ語に近い。

イスラム教徒が九割以上、そのうち七割がシーア派、三割がスンナ派。

キリスト教を奉ずる、隣国アルメニア、グルジアとこの点異なる。

首都はバクー、石油と天然ガスを産出し、資源は豊か。

民族の起源としては「コーカサス・アルバニア人」説(このアルバニアはバルカン半島の国とは無関係)と「トルコ人」説がある。

独立していた時期は短く、古代からメディア、ササン朝、サファヴィー朝とイラン勢力の支配下にある時期が長い。

1828年トルコマンチャーイ条約でアゼルバイジャンはカージャール朝ペルシアとロシア帝国との間で南北分割、その為、現在でもイラン北部に多数のアゼルバイジャン人が在住。

帝政ロシア治下で、アゼルバイジャン人とアルメニア人の対立が生まれる。

ロシア革命で短期間の独立を経験したが、1920年赤軍がバクー制圧、1922年コーカサス三国がザカフカスとしてソヴィエト連邦加入国に(36年にザカフカスは分解)。

ソ連時代末期、アゼルバイジャン出身者ヘイダル・アリエフが中央指導層の一員に加わるが、ペレストロイカを推進するゴルバチョフからブレジネフ派の残党と見なされ、解任される。

共産党独裁体制弱体化の中で、アルメニアとの民族対立が激化、アゼルバイジャン領内にあり、アルメニア系人口が多いナゴルノ・カラバフ自治州が焦点となる。

1991年ソ連崩壊に伴い、独立。

92年アルメニアがナゴルノ・カラバフを占拠、現在でもこの状態が続いているという。

独立時、最後の共産党第一書記ムタリボフが初代大統領に就任したが、抗議運動で辞任、92年反共産党勢力「人民戦線」のエルチベイが大統領に当選。

しかし、民主的な理想主義者ではあるが、ロシアとイランという南北の大国を敵視する一方、米国とトルコとの連携を重視し、CIS(独立国家共同体)から脱退し、経済混乱も収拾できなかったエルチベイは、93年クーデタで政権の座を追われる。

替わったのは、上記ヘイダル・アリエフであり、経済と社会の安定について一定の成果は挙げたが、その政治は著しく権威主義化し、2003年のアリエフ死後は息子のイルハム・アリエフが後継者となり、「大統領君主制」とも言うべき体制が続いている。

 

 

この国について知っておくべきことは、以上くらいでいいでしょう。

100ページほどのパンフレットみたいな本だが、これで十分。

読む労力とテーマの重要性の兼ね合いから言って、適切な本です。

2018年4月11日

池田嘉郎 『ロシア革命  破局の8か月』 (岩波新書)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 03:16

副題の「8か月」は、1917年二月革命(三月革命)から十月革命(十一月革命)までの期間を指す。

帝政崩壊からボリシェヴィキの権力奪取まで存在した臨時政府に焦点を当てた著作。

オクチャブリスト(十月党=1905年市民的自由と議会[ドゥーマ]開設を宣言した十月勅書から名付けられた党派、ロジャンコ、グチコフら)と立憲民主党(通称カデット、ミリュコーフら)を中心とする自由主義者と、トルドヴィキ(農村志向で平和的手段による変革のみを主張した党派、ケレンスキー[のちに後記エスエルへ移籍]ら)、社会革命党(通称エスエル、チェルノフら)、メンシェヴィキ(チヘイゼ、ツェレテリら)など社会主義者が主役。

同じく反専制を掲げていても、改革志向の社会的エリートである「公衆」を代表する自由主義者と、労働者・農民・兵士という「民主勢力」を代表する社会主義者との間の断絶は極めて大きかった。

史上初の総力戦となった第一次世界大戦への参戦が致命傷となり、脆弱な帝政ロシアの社会体制は崩壊、自然発生的に生まれた騒乱により、二月革命が起こって帝政は崩壊。

リヴォフ公を首相とし、カデットを中心とした臨時政府が誕生したが、英仏等西側諸国の支援を失うことを恐れて戦争からの離脱を決断できず、臨時政府は最初から途方もない重荷を背負って存続することになる。

戦争継続と軍紀回復をめぐる対立から、外相ミリュコーフは辞任、ペトログラード・ソヴィエトで多数占めるトルドヴィキ、エスエル、メンシェヴィキの社会主義者が入閣。

ウクライナなど旧帝国周辺民族への自治権についても、それに慎重なカデットは、社会主義大臣およびソヴィエトと対立。

自然発生的で、時期尚早な「七月危機」の鎮圧成功で、臨時政府にも好機が訪れるが、カデットもエスエルもメンシェヴィキも、強固な権力意識と決断力、反対派を排除する徹底性に決定的に欠けていた。

エスエルとメンシェヴィキら穏健社会主義者は、ボリシェヴィキに対して鋭く対立しつつも、帝政時代共に弾圧を受けた立場からの(後から見ればどう考えても誤った)仲間意識を持っており、その指導者を逮捕しても政党活動自体は禁止せずにいたが、その後、独裁体制を確立したボリシェヴィキは、スターリン時代に彼らのほとんどを文字通り抹殺することになる。

首相がケレンスキーに替わるが、前線の崩壊、農村と都市での社会的無秩序化は止まらず、その危機の中、コルニーロフの反乱が勃発。

(本書ではケレンスキーとコルニーロフの間で首都への軍派遣と戒厳令布告について合意が出来ており、それが連絡不備と相互の疑心暗鬼から制御不能な対立関係に至ったとされており、コルニーロフ側が一方的に「反革命的陰謀」を企てたわけではないと書かれている。)

よく知られているように、これでボリシェヴィキは復活、ソヴィエトでも多数派を支配、党内の異論を押し切ったレーニンとトロツキーはついに武装蜂起し、十月革命で権力を奪取、以後ロシアはその長い長い独裁政権の下で呻吟することになる。

本書は、1917年の臨時政府の崩壊とボリシェヴィキの勝利の理由を、エリート社会と民衆世界の断絶という、ロシア史の構造的要因に帰しているが、私は、著者が一部支持を留保している、「民衆の暗愚とボリシェヴィキの煽動を重視する」「ソ連崩壊後にあちこちで見られた反ボリシェヴィキ史観」に近い考え方を持ってしまう。

帝政崩壊を機に、前線では命令無視や将校殺害、農村では土地の奪取、都市では工場資産の接収など、民衆の一方的暴力行動が頻発し、誰にも社会の無秩序化を制御できなくなる。

長年の専制と総力戦体制下で苦しんできた民衆は同情に値するが、この行為は明らかに行き過ぎで自分達自身の首を絞めるに等しいものだ。

混乱時には、噂やデマが蔓延し、極論が思うままに宣伝され、眼前の不都合の責任を押し付けるための「敵」を見い出し、彼らへの暴力衝動が煽動される。

最も無責任で、最も他罰的で、最も煽情的な党派が、群衆の表面的世論に迎合し、その感情を支配した瞬間、暴力的手段によって権力を握る。

そうして独裁体制を確立した後では、反対党派も、かつての支持者である民衆も、いくらでも弾圧できる。

実際、こうしたメカニズムは、1917年のロシアであろうと、1933年のドイツであろうと、(そして近未来の日本であろうと)全く同じである。

ボリシェヴィキが、十月革命直後に選出された憲法制定議会で少数の支持しか得られず、それを解散し、一党独裁への道を歩んだことはよく知られている。

そのことをもって、ロシア革命の「非民主性」を言うことは、たやすい。

冷戦時代、「社会主義・共産主義は、自由主義よりも進歩した民主主義であり、将来の人類の必然の道だ」などという、左翼のたわけた主張が漠然と多くの人々に信じられていたことを思えば、はっきりと「十月革命は真の民主的変革ではなく、民意の支持を得ていない、ボリシェヴィキによる軍事クーデタに過ぎない」と断言することは痛快である。

私も以前そう考えていたことがありました。

しかし、本当にボリシェヴィキが民衆の支持を得ていなかった、と言えるのか。

レーニンらが、実現不可能なものも含め、「平和」「土地」「パン」といったことに関する、ありとあらゆるデマゴギーを振りまき、ソヴィエト内での多数派を獲得し、都市部では大きな流血を伴うことなく権力を奪取した事実は消えない。

激しい内戦があった農村でも、白衛軍が戻り、土地を奪われることを恐れられたこと、また干渉軍への民族主義的反感から、最終的には赤軍が勝利した。

もちろん戦時共産主義による徹底した強制徴用・徴発、赤色テロによる反対者の惨殺、威嚇によって、ボリシェヴィキが暴力的に否応なく国民を引きずっていった側面は間違いなくあるだろうが、それで全て説明がつくとも思えない。

臨時政府時代にも、内戦時代にも、反ボリシェヴィキ勢力は四分五裂し、遂に団結して、ソヴィエト政権を打倒することが出来なかったし、多くの民衆もそれらを支持しなかった。

もちろん「無併合・無賠償の講和」提唱は暴力の停止自体を目標にしたものではなく、他国にロシアと同じような暴力革命を起こすことを目論むものであったし、「土地とパン」を与えると約束された農民たちは、内戦終了後、事実上の国家奴隷となり、過去どんなツァーリの治世でもあり得なかったほどの搾取と飢餓に苦しめ抜かれることになった。

真の断絶は、帝政派と反帝政派、自由主義者と社会主義者の間ではなく、全体主義と暴力を信奉するボリシェヴィキとその他すべての党派の間にあったのだが、それが自覚されることは無かった。

パイプス『ロシア革命史』では、内戦での多数派民衆の立場は中立・傍観的であり、赤軍がロシア中央部の人口稠密で資源豊富な地域を押さえていたのに対し、白軍は地域的・民族的に分裂していたという「客観的」要因が前者の勝利を説明すると書かれているが、それは結局ボリシェヴィキの支配がこれまでの旧体制とは桁違いの圧政をもたらすことを民衆が全く理解していなかったことを示している。

そうした政治的言説の歪みも含め、やっぱり1917年のロシアは「民衆世論が致命的に間違った道を選択し、破局に至った」んです。

私にはそうとしか思えない。

当時のロシア国民には酷な言い方だが、旧体制を急激に崩壊させた後、もたらされた混乱に耐えかね、民衆はボリシェヴィキのヴィジョンに「賭けた」のでしょう。

その結果が数十年にわたる地獄の沙汰であり、その後遺症から今もロシアは抜け出し得ないように思われる。

伝統的な旧来の政治・社会体制に、どれほどの欠陥があろうとも、急進的変革と秩序崩壊がどれほど危険なものか、その際における民衆の選択がどれほど信頼できないかということを、百年前のロシア革命の歴史は示している気がしてならない。

 

 

私の感想とはややズレるが、ごく真っ当な史観に貫かれた良書。

(しかし、岩波書店もこうした本を出すのが半世紀遅かったんじゃないですかと言いたくなる。)

通読は容易だが、中身は濃い。

一日、二日で読めるので、一度図書館で借りてみるのもよいでしょう。

2017年8月12日

トロツキー 『わが生涯  上・下』 (岩波文庫)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 04:38

何でこんなもの読もうと思ったんだろ?

1930年刊。

レーニン死後、スターリンとの権力闘争に敗れ、ソ連国外に追放されていた時期に執筆されたもの。

本名レフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン。

ユダヤ人で比較的富裕な中農出身。

マルクス主義革命家として、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとの間で独自の立場を取っていたが、十一月革命ではレーニンに従いこれを主導、ブレスト・リトフスク条約を交渉・締結、陸海軍人民委員として赤軍を建設、内戦に勝利。

しかし、1928年スターリンによって国内流刑となり、29年には国外追放。

スターリンの政敵ナンバー1だが、権力闘争初期に国外追放されたおかげで、30年代における狂気の大粛清に巻き込まれず、しばらく生き延びることができた。

だが、1940年には亡命先のメキシコで刺客により暗殺される。

 

トロツキーは本書で自身が革命家となった経緯を記すが、そこで描かれる帝政ロシアの矛盾と抑圧を見て、私自身何も感じないわけではない。

蔓延する汚職と腐敗、農民の厳しい生活、少数民族への差別など。

例えば、印象的な以下の記述。

リュビーモフという歴史の教師が、ポーランド人の生徒に対し、白ロシアとリトアニアでのポーランド人カトリックによるロシア正教徒の迫害について、やけにしつこく質問した。ミツケヴィチという、浅黒い痩せた少年は、すっかり青ざめ、歯を食いしばって立っていたが、一言も言葉を発しなかった。

「うん、どうなんだ」、リュビーモフは、明らかに快感をにじませながら答を促した――「どうして黙っているのかね?」

生徒の一人が我慢できずに言った――「ミツケヴィチはポーランド人でカトリックなんです」。

「ああ・・・・そう・・・・」、リュビーモフはわざとらしく驚いたふりをし、間のびした調子で言った――「だがここでは分けへだてしないことにしている」・・・・。

ここに象徴されるツァーリズムの抑圧性から、その全面的打倒を企てるのだが、しかしそれは旧体制が持つ悪というより、人間性一般の限界からくる悪ではないのか。

自分たち革命家もそれを無縁でいられるのかという自己懐疑が全く無い。

そんな懐疑心などは下らぬ気取りに過ぎない、と切り捨てる傲慢さが全編にみなぎっている。

マルクス主義と唯物論という「絶対的真理」の立場に立っているという感覚がそれをもたらすんでしょうね。

本書に限らず(ドストエフスキーやトルストイなどの文学書も含めて)、末期の帝政ロシアから感じるのは、「近世から一切変わらぬツァーリズムの残酷さ、強固さ」ではなく、資本主義の急激な流入がもたらす旧社会秩序の崩壊と個人の原子化である。

君主・貴族への忠誠は衰え、宗教的信仰は薄くなり、一方無制限の自由が西欧より概念として流入し、ありとあらゆる現状変革的急進的思想が社会にヒステリー的に広まる。

この事態に対しては、ツァーリズムの抑圧など(私に言わせれば残念ながら)無力である。

革命家たちの「不屈の闘志」など無くても、体制は自壊していた。

西欧から度々批判されたロシアの専制と弾圧など、実際には穴だらけである。

帝政時代、トロツキーが受けた流刑など、彼が後に作り上げたソ連における強制収容所とは比べものにならない穏和さだ。

正気とは思えぬ残酷さを持つソ連時代の収容所からは、トロツキーが実行したような脱獄など、全く不可能だ。

また亡命時代にレーニンとロンドンで出会った際のエピソードにも感じることがある。

ある日曜日のこと、私とレーニンとクルプスカヤ[レーニンの妻]はロンドンの教会に出かけた。そこでは社会民主主義者の集会が賛美歌の合唱のあいだにはさまれて行われていた。弁士はオーストリア帰りの植字工だった。彼が社会革命についてひとしきり話し終わると、一同は立ち上がって歌いだした。

「全能なる神よ、王者も貧者もなくしたまえ。」

私は自分の目と耳を疑った。レーニンは、教会から出てきたとき、この点について次のように説明した。

「イギリス・プロレタリアートの中には革命と社会主義の要素が数多く散在しているが、それらはすべて保守主義や宗教やさまざまな偏見と結びついている。そこを突破して一般的な認識に到達することがなかなかできないんだ。」

しかし、レーニンが軽蔑と優越感を持って語った、「偏見」だらけのイギリス労働者たちが真に実質的な社会改良を成し遂げたのに対し、レーニンとトロツキーはロシアにこの世の地獄、それもツァーリの下では決してあり得なかった地獄をもたらしたと言うしかない。

加えて、暴力革命と一切の妥協を排した急進的変革という自分たちのヴィジョンに同意しなかった社会主義者への憎悪もあからさまで、実に嫌な感じがします。

カウツキー、ヒルファーディング、ベルンシュタイン、ハーゼ(ドイツ独立社会民主党)、マクドナルド、カール・レンナーおよびヴィクトル・アドラー(レンナー、アドラーはともにオーストリア社会民主党)という面々を毒々しく切り捨てている。

ベーベル、ジャン・ジョレス、ユージン・デブス(デブスはアメリカ社会党)など、少々好意的に書かれている人々もいるし、急進派のローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトなどは称賛されているが、彼らも状況次第では、激しい批判と、それどころか肉体的抹殺の対象にすらされたのではないかと思われてならない。

結局、私がトロツキーに対して持っている印象は、概ね以下のパイプス『ロシア革命史』でのトロツキー評がすべてである。

歴史には、敗者が、彼を滅亡させた人々よりも道義的に優れていたとみられて、後世の共感を得るという例がたくさんある。トロツキーに対しては、そのような共感を呼び起こすのは難しい。確かに、彼は、スターリンとその侍従たちより教養があり、知的により興味深く、人格的により勇敢で、共産主義者の同僚との応対においても、立派であった。しかし、レーニンと同様に、彼のもつそのような美徳は、もっぱら党内で示された。外部のもの、およびより大きな民主主義を求める党内の人々に関しては、彼はレーニンおよびスターリンと考えは同じであった。つまり、彼らに対しては、正規の倫理的基準は通用しないと、信じていたのである。他のボリシェヴィキと同じく、彼は、政治の世界に、組織犯罪者の仲間に通用する集団的忠誠という規範をもち込み、ボリシェヴィズムとそれを真似た全体主義体制を特徴づける政治の犯罪化に貢献したのである。従って、彼は、自らを破滅させる武器の鍛造に手を貸したことになる。というのも、彼は、異論を唱える少数派のなかに自らがいるのに気付くと、直ちに、外部のもの、従って、公正な扱いを求める資格のない敵となったからである。彼は、レーニンの独裁へ反対した人々に与えられた運命――彼は心の底からそれに同意したのであるが――、それと同じ道をたどることになった。カデット、社会革命党員、メンシェヴィキ、赤軍のために戦うことを拒否した旧ツァーリ体制下の将校たち、労働者反対派、クロンシュタットの水兵、タムボフの農民、聖職者たちの運命をである。全体主義が彼を直接脅かしたときに、漸く彼はその危険に気付いたにすぎない。彼が党内民主主義へ突如として改心したのは、自己防衛の一つの手段であり、原則を擁護してのことではなかった。

トロツキーは、ジャッカルの一群に引き倒された誇り高いライオンとして自らを描くのを好んだ。そして、スターリンが怪物のごとき本性をみせればみせるほど、ロシアの内外で、理想化されたレーニン主義を救い出したいと思っている人々にとって、そのトロツキーのイメージは、説得力があるものと思われた。しかし、記録によれば、彼の活動の全盛期には、彼もまた、ジャッカルの群れの一員だったのである。彼の敗北に、それを崇高たらしめるものは何もない。彼は、政治権力を求める汚い闘いにおいて、知謀に負けた故に敗北したのである。

トロツキーが、スターリンとエピゴーネン(亜流)によって打倒されたのも自業自得と思える。

だが、この文章には自由民主主義そのものに対する懐疑が無い(そんなものをアメリカ人に求めるのがそもそも間違いだろうが)。

トロツキーは本書で以下のように言う。

のちにヴィッテは回想録の中で、1905年には「ロシア人の大多数の人々が正気を失ったかのようだった」と書いている。だが、革命が保守主義者にとって集団的精神錯乱に見えるのは、ただ革命が社会的諸矛盾の「通常」の狂気を最高度に緊迫させるからにすぎない。それはいわば、大胆な風刺画に描かれた自分の姿を人が認めたがらないのと同じである。だが、現代の発展過程は全体として、諸矛盾を凝縮させ、緊張させ、先鋭化させ、その諸矛盾を耐えがたい状態に持っていって、ついには、大多数の人々が「正気を失う」ような状態を準備する。しかしこの場合、この「狂気の」多数派が「利口な」少数派に拘束服を着せるのである。そして、こうすることで歴史は前進していくのだ。

この文章は括弧を全て取り去り、末尾の「前進」を「破滅」にでも変えた方が良い。

1789年以後の歴史がそれを証明している。

結局、トロツキーも「人民の多数派による変革」を絶対的に信じている。

米国・西欧の民主主義への敵意も、それら「ブルジョワ民主主義」が真の民意ではなく、支配階級の意思を反映していると考えたがゆえに過ぎない。

個人的には実際それに根拠が無いわけではないと思う。ただし私はそもそも「民意」の正しさを根本的に疑っている。

そして、人間を物質的利害に基づく行動主体としてのみ捉えることにおいて、共産主義も自由民主主義も違いは無い。

前者をトータルに否定するためには、後者も否定しなければならない。

 

 

もちろん無理して読む必要があるような本ではない。

気が向いたら、図書館で借りて飛ばし読みしてもよい。

共産主義者の手に成る、無味乾燥で不毛・退屈な文章の集積の中では、まだしも読むに耐える部分はあると思われますので。

2016年11月2日

横手慎二 『スターリン  「非道の独裁者」の実像』 (中公新書)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 02:00

ごくごくオーソドックスな形式の伝記。

史的解釈においても極論を避け、至極穏当な見方を導き出している。

読みやすいが、特筆すべき点は無い。

個人的にノートしておくべきと思った具体的記述は無し。

本当に、何にも書くことが無い・・・・・。

コンクェストの伝記のほうが面白いが、初心者はまず本書を読んだ方がいいか。

まあ普通です。

2014年11月7日

トルストイ 『戦争と平和  全6巻』 (岩波文庫)

Filed under: ロシア, 文学 — 万年初心者 @ 07:21

説明不要の有名な古典。

この版は2006年頃刊行の新訳。

途中で訳者によるコラムが挿まれている。

全6巻で、各巻が中編小説並みの長さなので、気ばかりあせって細かな描写を味わう余裕なんて無い。

冒頭からかなりだるい。

19世紀初頭のロシアの貴族社会全般を描くのだが、かなり退屈。

アウステルリッツの戦いの描写は中々の迫力だが、ちょうど真ん中あたりからはものすごく大雑把なあらすじだけつかめればいいやという気分になり、かなり粗いとばし読みになった。

実はそこで一回挫折してます。

最近はかなりの数の文学書を読了できていたのですが、さすがにこれは長すぎました。

かなり自信を失ってしまった。

ですが、もう一度気合を入れ直して、最初から読み始めました。

主要登場人物は、まずピエール・ベズーホフ、アンドレイ・ボルコンスキー、ニコライ・ロストフの三人、そしてアンドレイの妹マリア、ニコライの妹ナターシャ。

他に当時の上流階級の堕落した悪しき側面を象徴するワシーリィ・クラーギン公爵家の人々。

歴史上の実在人物では、ナポレオン、アレクサンドル1世、クトゥーゾフ、バグラチオン(後ろの二者はロシアの将軍)等が描かれている。

私は、他の文学ジャンルに比べて、歴史小説や史劇はまだ読み易く感じる方だが、それでもこれだけの大長編となるとやはり苦しい。

トルストイの歴史観を説いた非小説的部分よりも、貴族社会の各一家の生活を長々と描写した部分がキツイ。

なお、偉人・英雄の自由意志で歴史が創られるのではなく、複雑で捉えがたい必然こそが歴史の原動力であり、人々はその道具に過ぎないというのがトルストイの史観。

それを理解しないナポレオンと、登場する実在人物としては唯一それを理解していたクトゥーゾフが対比して描かれている。

ナポレオンのロシア遠征失敗を経て、物語の末尾ではデカブリストの乱が暗示されている。

あとよく言われるように、エピローグ後半でのトルストイ自身の史観説明部分は蛇足の感がある。

何とか通読した・・・・・・。

より分量が多いのを勘案しても、『カラマーゾフの兄弟』のような凝集力が無いから、本書の方が通読ははるかに難しい。

しかも3週間から1ヵ月かかりきりになる。

とりあえず読み通したことで、難解な思想小説や言語実験めいた小説でない限り、大概の文学書を読了できるという自信はついたが、さすがに疲れました。

そして、ストーリーの展開に手に汗握って目も離せない程のめり込むことも無かったし、トルストイの歴史観に深い感銘を受けるということも残念ながら無かった。

これが私の限界です。

とてもじゃないが、「さあ、次は『アンナ・カレーニナ』だ」なんて気分にはなれませんでした。

これも、読了したという事実が最大の収穫です。

それだけでも自分を誉めたい。

しかし残念ながら、私にはこの永遠の傑作の真価を理解する能力はありませんでした。

2013年11月24日

松戸清裕 『ソ連史』 (ちくま新書)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 15:53

ごく簡潔なソ連通史。

今の若い人は「ソ連」という国を教科書でしか知らないんですよねえ。

私が年を取ったというだけの話なんですが、何とも不思議な感じがします。

ここでも書いたんですが、以前はむしろ「ロシア」の方が、「昔はあったけど今は無くなった国」みたいな感覚でした。

閑話休題。

本書は全6章のうち、スターリンの死まででわずか2章。

戦後史の比重が高い。

だが1917(1922)~1991年のソ連邦全体の歴史を考えればかえってバランスがいいと言うべきか。

内容的にも特色があり、政治史だけではなく経済史にも多くのページを割く。

具体例としては、処女地開拓、国民経済会議設立、MTS(機械・トラクターステーション)改組。

他にもコルホーズの大規模化、付属地(私的使用可能地)制限、コルホーズ農民のソフホーズ並みの待遇改善等々。

「一党独裁の非民主的国家」としか言いようが無いソ連ではあったが、少なくともスターリン時代以後は、国民生活の向上を求める民意に配慮する(せざるを得ない)一面があったことが記述されている。

末期の章では『ゴルバチョフ回顧録』からの引用が多数載せられている。

あの分厚い本はとても読めないですから、これもまあ良い。

なお、経済・社会史については大体の雰囲気が解かればいいですが、政治史については少なくとも最高指導者の順番だけはきちんと憶えて下さい。

1917年十一月革命とレーニン政権、24年レーニン死とスターリン体制への(数年をかけた)移行、53年スターリン死とフルシチョフ台頭、64年ブレジネフ、82年アンドロポフ、84年チェルネンコ、85年ゴルバチョフ、91年共産党クーデタ失敗とソ連崩壊、ロシアのエリツィン政権、という順序と年代は、初心者でも(アンドロポフとチェルネンコはまあ除いていいとしても)必ず暗記が必要です。

それにソ連と対峙した米国の戦後大統領の順序なども一般常識として頭に入れておくべき。

1945年トルーマン、53年アイゼンハワー、61年ケネディ、63年ジョンソン、69年ニクソン、74年フォード、77年カーター、81年レーガン、89年ブッシュ(父)、93年クリントン、2001年ブッシュ(子)、09年オバマ、と何も見ずにそらでスラスラ出てこないと困る。

任期4年、再選で8年、その加算年で替わっていない2人は何か変事(暗殺とウォーターゲート事件)が起こったということ。

で、どの大統領が共和党で民主党かは当然すぐわかりますよね?

わからないという方はもう少し基礎固めに時間を費やして下さい。

加えて、戦後イギリスの首相とその与党(保守党か労働党か)[黒岩徹『イギリス現代政治の奇跡』]、第五共和政以降のフランス大統領とその支持基盤(保守か左派か)[渡辺啓貴『フランス現代史』]、(西および統一)ドイツの首相と与党(キリスト教民主同盟と社会民主党と他党との連立形態)[小林正文『指導者たちでたどるドイツ現代史』」、それから日本の首相[福永文夫『大平正芳』]も、それぞれ任期順と就任年度を記憶することが望ましいです。

中国についても、1949年人民共和国成立、58年「大躍進」政策開始とその大失敗、60年代初頭の調整政策、66年文化大革命発動、71年米中接近と林彪失脚、76年毛沢東死と四人組逮捕、78年改革開放政策確立、89年天安門事件といった具合に、「穏歩」と「急進」のサイクルを年代とともに捉えておく。

これだけ暗記した上で、戦後史の概説書を読むと、非常に史実の見晴らしがよくなって、理解度が大きく向上します。

そして、戦後世界史の時代区分 その1 と 同 その2 という記事で書いたようなストーリーを頭の中で再現できればよい。

私もあやふやなところがあるので、あまり偉そうにお勧めできる立場でもありませんが、少なくとも、この引用文でも書かれてある通り、「歴史は流れがわかればそれでいいんであって、年号などを暗記させるのはナンセンス」といった意見には私は徹頭徹尾反対です。

この点では私は極めて頭が固く、時代錯誤とか頑迷固陋とか何と言われようと自分の意見を変えるつもりはありません。

年号を含む細かな事実を理解した上でなければ、「歴史の流れ」と言いつつ、ごく単純化され偏向したストーリーに知らず知らず足を捕られてしまう惧れが大きいと思います。

話が逸れ過ぎました。

本書の感想に戻ると、特筆すべき点は無いもののコンパクトで読みやすい。

教科書レベルの次に読む本としてはいいかもしれない。

史観もバランスが取れている印象で、特に違和感は無い。

もうソ連型社会主義に幻惑される人間などいるわけ無いのだから、終始共産主義への糾弾口調で記す必要も無いでしょう。

本書を読み終えたら、以後ケナン『レーニン・スターリンと西方世界』ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』メイリア『ソヴィエトの悲劇』パイプス『ロシア革命史』クルトワ『共産主義黒書 ソ連篇』などを読み進んでいって下さい。

2009年11月12日

クリヴィツキー 『スターリン時代 元ソヴィエト諜報機関長の記録』 (みすず書房)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:00

著者はオランダ・ハーグに駐在していた元ソ連秘密警察諜報員。

1937年10月に亡命、39年に本書を出版したが、41年2月にアメリカのワシントンでこめかみに銃弾を受けた死体が発見され、警察は自殺と発表したが、ソ連工作員による暗殺が強く疑われる。

こういう刊行経緯自体かなり恐いが、内容も凄まじい。

亡命した一工作員の手記という成り立ちが与える微視的で信頼性の低い暴露本というイメージとかなり異なる。

相当重要な情報に接する立場にあった著者が、凄惨な大粛清期のスターリン体制の暗部を迫真の筆致で抉り出している。

第1章、スターリンが、ヒトラー政権成立後、西欧民主主義国家との同盟を求めず、(ミュンヘン会談以後ではなく)ごく初期の段階から対独宥和を目指していた実態を暴露している。

第2章、コミンテルンにおけるソ連の独裁的支配と外国人共産主義者に対する弾圧。

第3章、結果としてフランコの勝利に貢献した、スペイン内戦中のトロツキスト・アナーキストに対する人民戦線内の赤色テロ。

第4章、五ヵ年計画中の外貨不足を補うため、ソ連が国家レベルで行なったドル紙幣偽造について。

ボリシェヴィキは政権掌握前にも、スターリンの指導で資金集めのため銀行強盗などの普通犯罪に手を染めている。

ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(これは必読書)では、メンシェヴィキや西欧社会主義者からの批判に対して、レーニンは表向き批判を受け入れたものの、陰では同様の活動を黙認し続けていたという叙述だったと思う。

第5章、秘密警察の内情。

名称はチェカ→合同国家保安部(OGPU)→内務人民委員部(NKVD)に変わる。

大粛清期にヤゴダ、エジョフ指揮下に全国民を恐怖に陥れたが、トップの両名も秘密警察構成員自身も次々に抹殺されていく。

冒頭、1926年に著者が秘密警察ではなく、赤軍諜報部に在籍していた時のエピソードが恐ろしい。

諜報部の許可証に押すための印章が紛失し、秘密警察が調査に乗り込み、アリバイのある、明らかに無実の通訳の青年が連行された。

数日後印章が見つかったが、著者はこれを赤軍内にもその権限を広げようとする秘密警察が仕掛けた陰謀だと確証している。

なお、連行された青年は「二度と帰ってこなかった」。

大粛清が始まる前ですら、ソ連社会がこのような状況だったことがわかる。

第6章、粛清された共産党幹部の心理状態について。

スターリンへの嫌悪にも関わらず、依然共産主義の教条に囚われており、客観的に反ソ勢力を利することと党支配体制を乱すのを避けるため、全く非現実的な自白を認めて銃殺されていった一部の幹部の心理を西側読者に解説している。

第7章、赤軍の粛清。

ソ連の内部攪乱の目的で、ゲシュタポが極秘に作成した偽情報であるのを知りながら、スパイ容疑でトゥハチェフスキーをはじめとする赤軍司令官を抹殺するためにそれを利用したスターリンの悪魔的策謀を記述している。

最後の第8章。

粛清の魔の手が著者自身にも迫り、一足先に亡命した親密な同僚の殺害に協力することを求められたのを期に、自らもスターリン体制と決別し、パリで亡命、暗殺者に怯えながらアメリカに渡る。

亡命直前、著者がソ連に一時帰国した際の出来事。

レニングラードの鉄道出札所で、わたしは旧友であり、同志である男にであった。

「ところで、どんなぐあいだね?」と、わたしは、かれに尋ねた。

かれは、あたりを見まわしてから、低い声で答えた。

「逮捕、ただ逮捕だ。レニングラード地区だけでも工場長の七割以上が逮捕された。軍需工場もふくめてた。これは、党委員会がおれたちに知らせた公式の情報だ。誰も安全じゃない。誰も、人を信用していないんだ。」

隣室に住んでいた親友は、徹底したスターリン主義者であり、著者に対して熱心に粛清を擁護したが、まもなく彼も逮捕・連行され姿を消した。

なかなか良い。

スターリン時代のソ連の実態を知るために適切な本。

コンクェスト『スターリンの恐怖政治』の前に読んでおいてもいいかもしれない。

以下、訳者解説より。

クリヴィツキー、ライスの同僚でロンドン駐在のハンガリー出身のテオドール・マリ(クリヴィツキー回想録中ではマンとなっている)が、モスクワへの帰途、パリにライスをたずねた。ベルジン、スタシェフスキーが、待ち受けている運命を知りながら、なぜ帰ったのだろうと、ライス夫人は信頼するマリに尋ねると「帰らねばならなかった」と繰り返して言った。「それで、あなたは帰るの」、という問いには「帰る」という答えが返ってきた。「なぜなの、何が待っているか、ご存じでしょう、銃殺されるわよ」、「わかっている。あちらであれ、こちらであれ、殺されるだろう、あちらで死んだほうが良い。他の者には違うだろうが、自分は連中に殺させるつもりだ」と言って、その理由を次のように説明した。

「第一次大戦中私は従軍牧師だった。カルパチア地方で捕虜になった。あらゆる種類の恐怖を体験した。塹壕で足が凍傷になって死んでいく若い兵士たちをみとった。収容所を転々として、飢えを経験した。皆虱にたかられ、多くはチフスで死んだ。神への信仰を失い、革命が勃発するとボルシェヴィキに加わった。過去とは完全に絶縁した。もうハンガリア人でもなく、牧師でもなく、キリスト教徒でもなく、誰の子でもなくなった。いわば作戦行動中行方不明の兵士となった。

共産主義者となっても、それ以来かわってはいない。白軍、人民の敵、僧侶から、革命を守るため作られたチェカに入り、国内戦を戦った。一日のうちに同じ村が敵と味方に入れ代わりたち代わり占領され、燃え落ちた。国内戦は恐ろしい。わが赤軍支隊は、白軍と全く同じやり方で、村を掃討した。白軍に協力したかどで村に残った老人、婦人、子供たちが機関銃で薙ぎ倒された。女たちの泣き声が我慢できなかった。味方が村を掃討する度に、猛烈な下痢に襲われた。掃討が終わるまで隠れていた。こうして自分は革命を守ったのだ。

集団農業化の時代には、どれだけの農民が収容所に送られ、また殺されたかを知っている。それでも、自分はチェカに残りつづけた。自分がしたことで、いつか罪を償う機会がくるものと希望していた。ある日、ジャガ芋を盗んだ罪で、一人の百姓に死刑を宣告した書類が回ってきた。よく読むと、その男は小さな袋にはいったジャガ芋を盗んだだけで、それも子供に食べさせるためだった。自分と一緒にチェカに入ったハンガリア人の上司の所に行って、男はもう十分罰を受けていると言い、男の妻に面会の許可を求めた。上司は書類を見て同意し、死刑の代わりに、禁固刑に減刑した。男の妻に夫が助かったことを告げ、これで自分は贖罪になったと思った。それから二週間、出張から帰ってきて、何よりも先に、この一件がどうなったかを調べた。書類は見付からなかった。上司と一緒になって書類の行方を追った。やっと見付けた書類には走りがきがしてあった。処刑ずみ、と。

秘密警察の外国部に行って、国外勤務を志望したのはその翌日だった。過去に何度も国外勤務を断ってきたが、もうとてもソ連で生活するのはたえられなかった。どこかへ逃げたかったし、牧師としての過去を蘇らせたいとさえ思った。銃殺されるために、帰る理由が分かるだろう。今となって、いったいどこにかくれるのか。」

2009年5月20日

小野理子 『女帝のロシア』 (岩波新書)

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1994年刊。

18世紀のロマノフ朝ロシアでは、女帝の治世が非常に多かった。

まずピョートル大帝の死後、妻のエカチェリーナ1世が即位したのを皮切りに、姪のアンナ、娘のエリザヴェータが間を置いて在位し、エリザヴェータの甥で養子となったピョートル3世と結婚したエカチェリーナ2世がトリを務める。

タイトルからすると、これら4人の女帝をすべて取り上げてくれているのかなとも思ったが、最初の3人はほんの付け足しで、実質的にはエカチェリーナ2世単独の伝記となっている。

この点、ややガックリきたが、内容自体は悪くない。

著者は、アンリ・トロワイヤ『女帝エカテリーナ 上・下』(中公文庫)に記されている淫蕩で策謀家で抑圧的な専制君主というイメージを本書の中で何度も批判している。

しかし、私個人の印象では、以上のトロワイヤの伝記は同じロシア皇帝伝シリーズの中ではまだマシな方。

このトロワイヤという人は、革命後亡命した家族に生まれたロシア系フランス人という出自のせいでボリシェヴィズムだけでなく、ロシアの伝統に対しても「偏見」に近いような視線で眺めている気がする。

『イヴァン雷帝』『大帝ピョートル』は陰惨な記述があまりに多く(特に前者)、読んでいて嫌になる内容だし、だいぶ時代の下がった『アレクサンドル1世』にも西欧から一方的に見下した教条主義的批判を感じる。

しかし、上記の『女帝エカテリーナ』だけは明らかに読後感が違う。

賢明な啓蒙君主といった印象を強く受ける記述であり、ロマノフ朝では最高の名君ではないかとさえ思った。

トロワイヤの本の中では唯一強くお勧めできます。

話を『女帝のロシア』に戻しますと、この本でもやはりエカチェリーナ2世の功績を高く評価し、その人物に同情的な評価を与えています。

グリゴーリイ・オルローフ、スタニスワフ・ポニャトフスキ、グリゴーリイ・ポチョムキンらの寵臣、ヴォロンツォーフ家出身で後にロシア・アカデミー初代総裁となったエカテリーナ・ダーシコワなどの協力者たちの群像を交えて、その治世を手際よくまとめている。

エカチェリーナの出自や最後のポーランド国王との関係など、意外な史実がありますが、お読みになる前に皆様が興醒めしてはいけませんので、ネタバレはやめておきます。

枝葉の部分が多く煩瑣で冗長なトロワイヤの本よりも、本書の方がコンパクトで話の展開が速いので、退屈しない。

高校レベルの次に読む伝記としては、こちらの方がいいでしょう。

2008年10月19日

井上浩一 栗生沢猛夫 『ビザンツとスラヴ (世界の歴史11)』 (中央公論社)

Filed under: ビザンツ, ロシア, 全集, 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 06:00

前巻でウンザリさせられたのとは打って変わって、この巻はとても良くできている。

平易かつオーソドックスな通史としてかなりのレベルに達している。

第1部のビザンツ史では、『生き残った帝国ビザンティン』と同じ著者だけあって、歴代主要皇帝の事績を述べる政治史を主軸にしながらも、社会史・文化史的記述も付け加えて、より視野の広い通史を提供することに成功している。

高校世界史に出てくるビザンツ皇帝と言えば、ユスティニアヌス1世、ヘラクレイオス1世、レオン3世くらいですか。

(私が高校生だった頃は、アレクシオス1世、バシレイオス1世・2世も聞いた記憶がありますが。)

本書に出てくる皇帝名をできるだけ記憶して、その後ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の後半部を熟読すれば、歴代皇帝全てを暗記するのも不可能ではないと思われます。

相当苦しいでしょうし、メモ・ノート使用が必須でしょうが。

第2部の東欧史に入っても、実に良好な出来。

各民族の起源、属する語族、侵入・定住の過程、王朝の成立とキリスト教の受容の経緯、しばしば見られる他国との王朝合同・同君連合のいきさつなどを詳細に論じている。

それが、教科書よりはかなり詳しく、しかし初心者が読み解けないほど煩瑣でないレベルの、実に絶妙な叙述。

私のように、「難しいことは一切わからないが、外国の歴史が好きでたまに本を読む」といった程度の読者がどのような通史を求めているか、一番面白く読める史書はどのようなタイプのものかを完全に把握して書いてくれている。

最高。言うこと無し。

これまで読んだ当シリーズの中で、この巻はかなりの高評価。

しかし、巻によって当たり外れに差があり過ぎますね。

以下本書に記述されたユスティニアヌス以後のビザンツ皇帝のうち、目に付いたものをメモ。

マウリキウス帝がササン朝ペルシアと講和、アヴァール族をドナウ以北へ撃退。

フォーカスの簒奪と恐怖政治。

610年フォーカスを打倒し、ヘラクレイオス1世即位。即位直後ササン朝に奪われたシリア・パレスチナ・エジプトを奪還するも、636年ヤルムーク河畔で正統カリフ・ウマル時代のイスラム軍に惨敗、以上三地域は完全に失われる。

テマ(軍管区)制開始。辺境軍を小アジアに撤退させ、軍管区を設定し、その長官に軍事権と行政権を兼任させた。一種の非常防衛体制であり、実施当初は各テマが半独立の形勢を示したが、8世紀から9世紀にかけてテマの分割・細分化や中央軍団の強化、テマ長官の入れ替え、任期・権限制限などで分権傾向は阻止される。

717~718年イサウリア朝創始者レオン3世がウマイヤ朝の首都包囲軍撃退。聖像禁止令発布。

息子のコンスタンティノス5世も禁止令徹底。後世「コプロニュムス(糞)」と呼ばれる。

751年イタリア支配の拠点ラヴェンナがランゴバルト族に奪われ、南端部を除きイタリアを放棄。

同751年カロリング朝成立、750年アッバース朝成立と合わせてローマ帝国の旧地中海世界が分裂した後、ビザンツ・イスラム・ヨーロッパの三極体制が固まる。

女帝エイレーネーが聖像崇拝復活。その治世にシャルルマーニュが戴冠。

802年ニケフォロス1世、クーデタでエイレーネー打倒。財政再建に成功、ギリシア地域を再征服、テマを設置しスラヴ化を阻止。ブルガリア人との戦いで敗死。

867年バシレイオス1世即位、マケドニア朝創始。

963年ニケフォロス2世フォーカス即位。クレタ・キプロス・アレッポ・アンティオキア征服。

969年ニケフォロスを暗殺してヨハネス1世ツィミスケス即位。パレスチナ遠征、イェルサレムに迫る。

(以上二者は実質簒奪者だが前皇妃や皇妹と結婚しマケドニア朝自体は存続。)

976~1025年バシレイオス2世。妹がギリシア正教に改宗したキエフ公国ウラジーミル1世と結婚。

第1次ブルガリア帝国を滅ぼす。「ブルガリア人殺し」との綽名。

貴族層を抑圧、皇帝権力拡張。著者はこのバシレイオス2世時代を、版図ではユスティニアヌス1世時代に及ばないものの、帝国の全盛期としている。

その後11世紀前半バシレイオスの姪ゾエとその配偶者をめぐって帝位争いが続く。

1071年マンツィケルト(マラーズギルド)の戦いでセルジューク朝に惨敗、ロマノス4世捕虜。

1081年アレクシオス1世即位、コムネノス朝成立。

貴族層と妥協、プロノイア制導入、ヴェネツィアに商業特権授与、第一回十字軍招聘。

子のヨハネス2世はアンティオキア再征服、孫のマヌエル1世はイタリア征服を目論み神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と対立。

1204年第四回十字軍、帝国の一時的滅亡。

ラスカリス家の亡命ニカイア帝国成立。

1261年摂政・共同皇帝となっていたミカエル・パライオロゴスがコンスタンティノープル奪回、ラスカリス家より簒奪、ミカエル8世として即位、パライオロゴス朝を開く。

仏王ルイ9世の弟で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世死後のシチリア・ナポリを手に入れていたシャルル・ダンジューのラテン帝国復興の野望を「シチリアの晩鐘」反乱を支援して阻止。

第二代アンドロニコス2世と孫のアンドロニコス3世、および3世の息子ヨハネス5世と岳父ヨハネス6世カンタクゼノスの帝位争い。

1453年帝国滅亡、最後の皇帝コンスタンティノス11世敗死。

11世の姪がモスクワ大公イヴァン3世と結婚。

ああ、疲れた。

個人的に記憶の補助にしようと書いた鶏ガラみたいなメモなので、他の方の役に立つことはあまりないでしょうが、本書を読んだあと以上の皇帝名を少しでも丸暗記しておくと、ギボンの『衰亡史』など、より詳細な通史を読む際、理解や記憶の助けにはなります。

本当は東欧・ロシア史の部分についてもノートを取ろうと思ったのですが、あまりに面倒臭いので止めときます。(追記:←と思ったのですが、個人的に一番重要で面白いと思った部分だけ下の方で簡略に書き留めています。)

ただ、極めて明快でわかりやすい叙述であるということだけは言っておきます。

東欧史の場合、時代によって各国の記述が一部飛び飛びに出てきて少しだけ読みにくさを感じるのが唯一の欠点ですが、高校世界史程度の読者が読むには最高レベルの通史となっています。

最終的にハプスブルク家領有となる、近世のハンガリーとボヘミアの王朝変遷が非常に詳しく記されていて、本当に役立つ。

(単行本の)387ページにある(近世の)「東欧諸国の歴代君主」は極めて貴重で有益。

これを見ながら本文を復習すれば鬼に金棒でしょう。

14世紀に中東欧各国でハンガリーのアールパード朝、ボヘミアのプシェミスル朝、ポーランドのピャスト朝という建国以来の民族王朝が断絶し、それぞれナポリ系アンジュー朝、ルクセンブルク朝、ヤギェウォ朝の外来王朝が支配する。

アンジュー朝ハンガリーのラヨシュ1世(大王)の死後、ジギスムントがハンガリー王位・ボヘミア王位、神聖ローマ帝位を占め一時ルクセンブルク朝が優位となる。

ジギスムント死後、娘婿のハプスブルク家のアルブレヒトがハンガリー・ボヘミア王位に就くが、これも二年後病死。

その後ハンガリー・ボヘミア両国でそれぞれマーチャーシュ1世(・コルヴィン)、イジー・ポディエブラディという民族王朝一代を挟んで、ポーランド・リトアニア王家であるヤギェウォ朝の君主が即位し、15世紀末から16世紀初めにかけての一時期中東欧四ヶ国全てがヤギェウォ朝の統治下におかれる。

しかし、1526年オスマン帝国とのモハーチの戦いでヤギェウォ朝ハンガリー王ラヨシュ2世(ボヘミア王としてはルドヴィク1世)が敗死し、婚姻関係から両国の王位は結局ハプスブルク家のフェルディナント1世に移る。

ロシア史も短いページ数ながら、非常によくまとまっている。

キエフ公国分裂後の盲点になりやすい部分も比較的丁寧に説明されていてとても良い。

この全集では、今のところ第3巻のインド史、第8巻のイスラム史と並んで面白い。

しかし、これまでの世界史全集で中心だった西ヨーロッパ史と中国史ではイマイチな巻が多いですね・・・・・・。

2007年12月29日

ロバート・コンクェスト 『スターリンの恐怖政治 上・下』 (三一書房)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:00

スターリンによる大粛清の研究書。

この壮大な悲劇の様相を詳細に記しており、細かな事実を追っていくだけで(不謹慎ではあるが)非常に面白い。

レーニン死後のソヴィエト政権内の権力闘争をごく簡略化して言うと、まず有力後継者のトロツキーに対してスターリンとジノヴィエフ、カーメネフが同盟しトロツキーを追い落とす。

するとスターリンはジノヴィエフら左派(農民から資本を搾り上げて工業化を急速に進めようとした一派)を攻撃し、彼らがトロツキーと和解・接近し「合同反対派」を結成すると右派(農民と妥協し徐々に工業化を推進することを主張した人々)のブハーリン、ルイコフと手を組み、反対派を除名・追放する。

ところが1928年の第一次五ヵ年計画でスターリンのやったことは、かつての左派の主張をより極端にした政策で、あらゆる反対を暴力で押さえ込んで農業集団化を強行し、数百万人の餓死者という信じがたい犠牲を出して、極めていびつで非効率な形の重工業を建設した。

その中でブハーリンらは結局、各個撃破され屈服と自己批判を強いられる。

だが大粛清というのは以上の党内闘争の過程で起こったことではなく、スターリン派の勝利が疑いなく磐石なものとなっていた1930年代半ば以降に起こったことであり、それだけに一層不条理で理解不能な悲劇であった。

これまで党外の反対勢力に対してはいかなる残忍な弾圧を加えても容認されると、全ての共産党員が(その後自らが粛清の犠牲となった党員も含めて)考えていた一方、党内の反対派を肉体的に抹殺することだけはしないとの合意が政治的暴力に対する最後の歯止めとなっていたが、スターリンはその唯一の抑制要因すら外すことになる。

1934年秘密警察がNKVD(内務人民委員部)に再編され恐怖政治の手足になる。

同年党内反対派の処刑に消極的な「穏健派」と見られていたスターリン派の実力者キーロフが(おそらくスターリンの秘密指令により)暗殺されたが、これが反対派によるテロと主張され徹底的な弾圧を正当化するために利用される。

36年まずジノヴィエフ、カーメネフらが大々的な見世物裁判の後処刑され、右派の有力人物トムスキーは自殺した。

その後NKVD長官ヤゴダが解任され、悪名高いエジョフが取って代わる。

急進的政治姿勢で有名であったがボリシェヴィキの暴力的権力奪取を批判し長年亡命していた文豪マクシム・ゴーリキーはソヴィエト政権と和解し数年前に帰国しており、反対派に対する寛容を訴えていたが、この時期に死去。著者はこれもスターリンによる暗殺の可能性を強く示唆している。

37年元トロツキストの中で極めて有能な人物であり、後にスターリンに忠誠を誓ったピャタコフが同じく逮捕・裁判を経て処刑。

同年赤軍の英雄的存在であったトハチェフスキー元帥を始めとする軍司令官らが処刑され、幹部の多くを抹殺された赤軍は大打撃を受け、わずか四年後の独ソ戦序盤で恐ろしい代償を支払うことになる。

38年には右派の裁判が始まりブハーリン、ルイコフらも処刑。

29年に国外追放処分を受けていたお陰でしばらく生き延びていたトロツキーも、40年亡命先のメキシコで暗殺された。

スターリン直系グループでもキーロフと同じく「穏健派」と思われたクイブイシェフ、オルジョニキーゼは不審な状況で死を迎え、ルズタク、コシオル、ポストイシェフは銃殺され、以後の最高指導部を形成したモロトフ、カガノヴィチ、ヴォロシーロフ、ベリヤ、ジュダーノフ、カリーニン、ミコヤン、フルシチョフ、マレンコフらもスターリンの猜疑心に怯えながらようやく生き延びる。

下級党員、一般国民に対しても「テロ・スパイ・政治的偏向・サボタージュ」など妄想そのものの罪状によって逮捕・処刑・収容所行きが命令され、ピーク時には全国民の5%が逮捕され、100万人以上が処刑されるという狂気の嵐が吹き荒れた。

38年末エジョフが解任されベリヤが後を襲い、前任者ヤゴダと同じく処刑された頃から、ようやく一番極端な粛清は終わりを告げたが抑圧的な体制は続き、あの地獄のような独ソ戦の始まりに挙国一致の雰囲気が育成されたがゆえに多くの国民が救いと解放感を覚えたと記されている。

内容が非常に詳しいので初心者がいきなり読む本ではなく、まず同じ著者のスターリン伝を読んだ方がいいと思いますが、機会があれば是非ご一読下さい。

事実の持つ重みに圧倒されます。

どこか別の版元から再版してもらえませんかねえ。

2007年10月17日

黒川祐次 『物語ウクライナの歴史』 (中公新書)

Filed under: ロシア, 東欧・北欧 — 万年初心者 @ 06:00

最近中公新書ばっかりですね。

楽に読めるもので冊数を稼いで誤魔化してるという面は確かにあるんですが、以前書いたように世界史初心者にとって中公は新書も文庫も宝の山ですからある程度は仕方ありません。

本書も非常に良く出来てる。

単独では馴染みの無い国の歴史を、高校世界史でも扱われている周辺国の有名史実と組み合わせて面白く読める通史に仕上げている。

特定の時代に偏ることもなく、スキタイ族が史上初の遊牧民族として活動していた古代から、ソ連崩壊後の独立国家樹立までを満遍なく叙述しており、適切な知識を得られる。

ロシアの起源としてのノヴゴロド公国から派生したキエフ公国はウクライナの起源でもあり、むしろその後の歴史の経緯と史家の解釈によってロシアに「奪われた」という見方が紹介されており、なかなか面白い。

中世および近世での、リトアニア・ポーランドとの闘争やコサック勢力の自立を経て、ロシア・オーストリア両帝国に服属する過程も興味深い。

ただ、この国の現代史は悲惨としか言いようが無い。

ロシア革命後の独立も束の間、ドイツ・ポーランド・デニキンのロシア白衛軍・ボリシェヴィキと赤軍などの外部勢力が侵攻し大混乱に陥る。

国内でも主流の独立派社会主義者とマフノ率いるアナーキスト農民軍の内部対立が激しく、民族団結の核も存在せず、結局最も過激で狂信的なボリシェヴィキが他の勢力を各個撃破しウクライナ全土を支配下に入れる。

スターリン時代には大粛清と農業集団化による人為的大飢饉で恐るべき犠牲者を出し、独ソ戦では国土の大半を破壊された。

長い抑圧と屈従の果てに、ようやく1991年ソ連共産党クーデタ失敗を受け独立を達成する。

いやー、面白い。

著者は元駐ウクライナ大使の外交官であり、悪い意味で学者的ではなく、叙述のレベルも適当で初心者でもわかりやすい。

しかしこの『物語~の歴史』シリーズは本当に使えますねえ。

これを最初に企画した編集者を強く賞賛したいです。

もっともたまにはハズレもありますが。

イランとかスペインとかアメリカは今出てるものを絶版にして、新しい著者でもう一度出してもらえないかと思うくらいです。

2007年6月29日

川又一英 『イヴァン雷帝』 (新潮社)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:00

トロワイヤ『イヴァン雷帝』(中公文庫)の記事で「いつか通読しよう」と書いたこれを読む機会があった。

なかなか良いです。

治世全般に亘って平易な表現でわかりやすく叙述されている。

イヴァン3世の子ヴァシリー3世の嫡子として生まれ、幼年で即位、成人後はカザン・アストラハン両汗国を征服し、最晩年にはイェルマークを派遣しシビル汗国も滅ぼすものの、バルト海への出口を求めてリトアニア・ポーランド王国およびスウェーデンと戦ったリヴォニア戦争では苦杯を舐め、オスマン・トルコを後ろ盾にしたクリミア汗国には一時モスクワにまで攻め込まれ首都が灰燼に帰す。

外交面での苦境を脱するため、白海沿岸にイギリス船が漂着したのを期に、英国との同盟締結を計り、エリザベス1世に結婚を申し込むが拒否される。

内政面では名門貴族の勢力を削ぎ、忠実な士族層(新参の勤務貴族)に土地を分与し、中央集権化を徹底させる。(ちなみにイヴァンの皇妃アナスタシアの実家ザハーリン家もそうした新参貴族で、この一族が後にロマノフ家と改名し、新たな王朝を築くことになる。)

記述テーマによって時系列が前後することが多く、そこだけがやや欠点と言えるが、全体的には瑕疵に過ぎないでしょう。

当時のロシアの基準からしても極端な専制君主制を志向し、親衛隊オプリチニキを手足として、大貴族を多数殺害しノヴゴロド市を壊滅させた暴君としての側面と、神を畏れ自らの使命を確信し晩年にはかつての弾圧政策の犠牲者の名誉回復を行った信心深い側面の両方をバランスよく記述している。

著者はあとがきでトロワイヤの『イヴァン雷帝』を「大仰な俗流小説表現が作品を文学から遠いものにしている」と評しているが、全く同感です。

トロワイヤの本より、こちらをお勧めします。

2007年6月10日

斉藤勉 『スターリン秘録』 (扶桑社)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:00

あんまり面白くないです。

取り上げられているエピソードも別の本で読んだことのあるものがほとんどで、あまり興味をそそられない。

スターリン伝としては以前記事にしたロバート・コンクェスト『スターリン ユーラシアの亡霊』(時事通信社)が一番良いと思うので、それに加えて本書は特に読む必要は無いと思う。

アイザック・ドイッチャー『スターリン 政治的伝記』(みすず書房)は一種の古典ですから私もいつかは通読した方がいいのかなと思ってますが。

産経新聞で連載していたこのシリーズではやはり『毛沢東秘録』がずば抜けて面白い。

それから大分落ちて『ルーズヴェルト秘録』となり、本書はそれよりさらに落ちます。

特にはお勧めしません。

2007年5月11日

バーナード・ハットン 『スターリン その秘められた生涯』 (講談社学術文庫)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:00

スターリンの私的生活にやや重点をおいて、その人間性の醜悪な面を暴いた簡略な伝記。

面白くないことはないが、学術的とは言いがたいかもしれない。

暇な時一読するのも悪くはないが、それより去年の7月13日記事にしたロバート・コンクエスト『スターリン ユーラシアの亡霊』(時事通信社)をしっかり読んだ方が有益だと思う。

2007年4月4日

ソルジェニーツィン 『イワン・デニーソヴィチの一日』 (新潮文庫)

Filed under: ロシア, 文学 — 万年初心者 @ 06:00

スターリン時代の強制収容所での一日を克明に記した小説。

と言っても目をそむける様な残虐な描写があるわけではない。

むしろ極めて過酷な状況の中でも、希望を捨てず楽しみを見出し生き抜いていく人間の強さを描いている。

例えば本来劣悪そのもののはずの三度の食事の描写の旨そうなこと。

単調な重労働の毎日を必死で潜り抜けていく主人公の強固な意志に強い印象を受けた。

スターリン死後わずか数年にしてこのような小説が書かれたことに驚嘆する。

ご一読を強くお勧めします。

2007年2月19日

外川継男 『ロシアとソ連邦』 (講談社学術文庫)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:00

確か元は講談社旧版「世界の歴史」シリーズの一冊で、その文庫化。

ロシア史の標準的テキストとして適当かと思い、通読。

読了後の感想は・・・・・「普通」。あんまり面白くない。

最近こんなのばっかりですね。

最近記事にする本は、読んだのち売ったり処分したりした本がほとんどなので、勢い自分の中の評価は高くないものが多い。

心底面白いと思った本は各カテゴリの最初の方ですでに書いてしまってるので(一部例外あり)、なかなか強くお勧めしたいという本がない。

まあこれも途中で投げ出すほどでもないので、機会があればどうぞ。

2007年1月6日

司馬遼太郎 『ロシアについて』 (文春文庫)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 06:54

司馬遼太郎の外国に関する著作は数が少なく、何でも貴重だなと思うのでこれも買って読んでみた。

ロシア史への考察に鋭いものがるが、如何せん分量が少なすぎる。

後半はロシア史そのものより日露関係史が中心となり個人的に興味が薄れた。

まあ安いし楽に読めるし、ざっと一読しといてもいいんじゃないでしょうか。

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