万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年2月20日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:00

最終巻。

冷戦と第三世界、日中印三ヵ国を中心とするアジア情勢、冷戦終了後の世界秩序について。

本文に入ると、まず現代アジア史を、イデオロギー的視点から離れた、極めて巨視的な観点から大掴みする記述がある。

第二次世界大戦後、アジアの多くの国が植民地支配を脱し、次々に独立していきました。その結果、植民地時代の政治的・文化的影響は急速に消滅していきます。たとえばインドでは、イギリス支配のもとで一度は実現していたインド亜大陸の政治的統一が、大戦終了から二年後の独立時に崩壊しました。東南アジアの国々も同じです。たとえばインドネシアには強力な中国人(華僑)コミュニティが存在したため、国全体の進路が中国本土の動向に大きく左右されるようになったのです。

そうした事情を考えると、実はアジアの大部分の国々にとって、西洋列強による植民地支配もその終焉も、それほど重大な歴史上の転換点ではなかったように思えます。数世紀にわたり、アジアの広大な地域がヨーロッパ人によって支配されたことは事実ですが、本当の意味でヨーロッパ文明の影響を受けたのは、どの国でもごく少数の支配者層だけでした。アジアでヨーロッパ文明を待ち受けていたのは、おそらく世界のなかでもっとも強力な文化と伝統をもつ社会だったのです。

アジアの文化はアメリカ大陸やアフリカ大陸の文化とは異なり、ヨーロッパ文化の侵入によって一掃されることはありませんでした。ヨーロッパ人がアジアにヨーロッパ文化をもちこもうとしても、あるいは現地の指導者たちがみずからヨーロッパ文化をとり入れようとしても、いずれも大きな障害にぶつかることになったのです。近代教育を受け、古い伝統からすでに脱却したと自認していた人びとでさえ、さらに深い部分ではその伝統的な思想や行動様式になんら変化はありませんでした。大学教育を受けたインド人も日本人も、出産や葬儀の際には伝統的な習慣にしたがい、中国の共産主義者たちの意識から伝統的な中華思想が消えさることもなかったのです。

インドから東側のアジアは、大きくふたつの文化圏に分けることができます。ひとつは南アジア(インド亜大陸)および東南アジアです。この地域は古くから三つの文化-ヒンドゥー文化、イスラーム文化、ヨーロッパ文化-の影響を受けてきました。ヨーロッパ文化はこの地域に、かなり古くから交易や布教とともに伝えられ、のちの植民地支配によってさらに広まっていきました。

ふたつ目の文化圏は、中国を中心とする東アジアです。中国自身が膨大な人口と国土を有することはもちろんですが、加えて周辺諸国に移住した華僑の存在、さらには二〇〇〇年以上も前から日本や朝鮮半島、インドシナ半島などにあたえてきた文化的影響も、この地域における中国の重要性を理解するうえで忘れてはなりません。このふたつ目の文化圏は、ひとつ目の文化圏にくらべるとヨーロッパ諸国に直接支配された期間が短く、その弊害も前者ほど大きくありませんでした。

結局、アフリカとアメリカの固有文明はヨーロッパ文明の進出によって圧倒され、ほぼ消滅することになったが、インドを中心とする南アジアと中国を中心とする東アジアはその存在を守り抜いたことになる(西アジアのイスラム圏もそのはずだが、ヨーロッパとの距離が近い分、[南アジアと同様]政治的には劣勢を強いられたということか)。

ヨーロッパの進出に最もよく抵抗した東アジア文明の動きの先鞭をつけたのは日本だったが、第二次大戦後、それを受け継いだのが中国。

一九六〇年までにアジアで起きた最大の変化は、中国が大国として復活をとげたことだったといえるでしょう。一方、共産主義勢力を排除して西側陣営に属していた日本と韓国は、中国が共産主義国となったおかげで、欧米諸国に対する政治的立場を強めていきました。

伝統的に東アジア諸国は、ヨーロッパ人の侵略に対し、インドや東南アジア諸国よりもうまく対処したといえるでしょう。第二次世界大戦後も東アジア各国は、共産主義国、非共産主義国ともに独立を維持することに成功し、中国から支配されることもありませんでした。これには逆説的ながら、古くから中国を模範としてきた日本社会や韓国社会に深く根づいた、東アジア特有の保守性が関係しているように思えます。

社会の規律、集団としての結束力、個人的権利の軽視、権威と階級の尊重、西洋文明とはまったく異なる文明に属しているというプライド・・・・。東アジアの社会には、中国革命の基盤となった共産主義思想などよりも、はるかに根深い文化的伝統が存在します。実は中国革命そのものも、そうした文化的伝統のなかでとらえて、はじめて理解できるものなのです。

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中国革命ほまちがいなく、人類が行なったもっとも壮大な試みのひとつといえます。世界史全体を見渡してみても、二〇世紀の中国革命に匹敵する出来事は、七世紀のイスラーム教の拡大や、一六世紀以降の近代ヨーロッパ文明の世界進出以外にありません。しかも中国革命が大きく異なっていたのは、それが特定の指導者によってコントロールされ、方向性が定められていたという点です。また無数の民衆の熱気に支えられながら、その一方で国家の指導なしには成立しえなかったという点にも、中国革命のもつ特異性を見ることができます。

中国人は伝統的に権威を重んじ、その権威に高い精神性を求めつづけた人びとでした。これは西洋では遠い昔に失われた現象といえます。個人よりも集団が重視されるべきこと、政府が国家事業のために国民を動員する権限をもつこと、公共の利益のために行使されるかぎり政府の権威は絶対であることを、中国はどの大国よりも長いあいだ、民衆に納得させてきました。国家の権威に対する反抗は、文明全体を崩壊させる恐れかおるため、中国人には受け入れられませんでした。つまり中国では集団としての急進主義はありえても、個人の人権の拡大を求める西洋型の革命は考えられなかったのです。

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中国では権力は「天(天帝)」から授かったものであり、統治者は民衆のために善政を行ない、伝統的な中国文明の価値観を守るかぎりにおいて、その正統性を民衆から認められるという文化的伝統がありました。他の文明圈からは理解しにくい毛沢東という存在は、そうした伝統にのっとって解釈される必要があるのです。

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中国革命のもつ本質的な意味も、その後中国とソ連がすぐに対立するようになったところによく現れています。つまり中国革命は、たしかに歴史上きわめて重要な革命だったものの、実はそれはアジア全体が西洋支配に対して示した拒否反応のひとつだったのです。皮肉なことに、その拒否反応はアジアのどの国でも、ナショナリズムであれマルクス主義であれ、西洋からとり入れた思想や概念をもちいて表現されることになったのですが。

中国の共産主義政権が、主にその最初の30年間で、どれほど多くの犠牲者を生みだしたか、著者は百も承知だろうが、極端な全体主義体制から現在のような権威主義体制に移行した状態を見るならば、中国革命の意義を以上のように大国としての復興と伝統的「王朝」体制への回帰、とまとめることも可能かと思われる。

一方、それに比して現代インドに対する著者の評価はかなり低い。

経済であれ、軍事であれ、政治であれ、諸外国に対して大きな影響力をもつ国を大国とよびますが、インドがそのような国際的地位にないことは、一九八〇年代までにすでにあきらかになっていました。これはよく考えてみると、二〇世紀後半に起きたもっとも驚くべき現象のひとつだったといえます。一九四七年に独立したインドは、その時点ではほかの新興国や敗戦後の混乱期にあった日本などよりも、はるかに有利な条件に恵まれていました。インドにはイギリス植民地時代の遺産である効率的な行政機関と訓練の行きとどいた軍隊、高い教育を受けたエリート層、優秀な大学(約七〇校もありました)などが存在し、国際社会の善意と協力に恵まれ、冷戦構造のなかで米ソの対立を利用することもできたからです。

貧困や栄養不良、公衆衛生の立ち後れといった問題はあったものの、その点では中国も同じだったといえます。ところが一九八〇年代までにインドと中国のあいだには、誰の目にもあきらかなほど大きな格差が生じてしまったのです。中国の都市部の住民たちは一九七〇年までに、ほぼ全員がまともな服(質素でしたが)を着用するようになっており、栄養状態も良好でした。それに対してインドの都市部の住民たちは、そのころになってもまだ貧困と栄養不良に苦しめられていたのです。

独立後のインドの歴史をふり返ると、マイナスの現象ばかりが目につきます。大きく成長した産業もあったものの、その成果は人口の増加によってかき消されてしまいました。一九四七年の独立から長い年月が過ぎても、国民の大半は当時と同じくらいに貧しいか、ごくわずかに生活が改善されたにすぎませんでした。

インド社会にはあらゆる面で歴史と伝統が重くのしかかり、変革の兆しはなかなか現れませんでした。ちょうど同じような状況にあった中国では、毛沢東が修正を加えたマルクス主義によって過去の伝統を一掃したのですが、インドにはそのような強力な思想も運動も出現しなかったのです。とくに独立後はイスラーム教徒がパキスタン建国によって分離したこともあり、インド社会はさらにヒンドゥー色を強めていきました。

現在でも、インドは依然として近代化を達成したといえる段階には達していません。植民地時代にもちこまれた西洋式の政治制度と伝統的なヒンドゥー社会のあいだには、いまなお大きな溝が横たわっています。ガンディーやネルーをはじめとするすぐれた指導者たちが数々の偉業を達成した一方、特権、不正、不平等など、インド社会に根づいた負の遺産は依然としてこの国に重くのしかかり、その発展を妨げているのです。

かなり厳しい評価ではあるが、著者は同時に以下のようにも記している。

・・・・・もっともインド社会の内包する多様性を考えれば、国家としての統一を維持したこと自体が偉大な業績だったともいえます。

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一九四七年、独立とともに明るい未来を思い描いた人びとは、長い歴史をもつインド社会に根本的な変化を起こすことが、どれほど困難で痛みをともなうか、おそらく理解していなかったのでしょう。けれどもインド文明のもつ偉大なる多様性と継続性、異文化に対する同化吸収能力を考えれば、彼らが近代化の過程で足踏みをつづけているからといって、私たちが批判するのはお門違いといえるのかもしれません。

そして、同様に停滞と混乱を続けるイスラム圏について、巨大な宗教共同体と部族集団という大小両極の間で揺れ、その中間の国民国家という政治組織を安定して発展させることが出来ないことを指摘。

なぜ高い教育を受けた学生たちがイスラーム原理主義者の反動的な主張を支持しているのか、西洋人からはほとんど理解できませんでした。けれどもそうした状況を理解するには、イスラーム世界においては長らく西洋式の国家、あるいはいかなる西洋式の政治組織も存在しなかったことをよく認識しておく必要があります。

たとえ有能な政府が存在しようと、その政府が民衆にとって何か望ましい結果をもたらそうと、全イスラーム教徒を包含する宗教共同体「ウンマ」を基本原理とするイスラーム世界にとって、西洋式の国民国家は正統な権威にはなりえませんでした。社会主義的な政権の樹立を求めた急進派の若者たちも、実際のところ国家に本質的な価値を見いだしておらず、たとえば青年将校カダフィが起こした一九六九年のリビア革命でも、その後樹立された新しい「国家」は、西洋式の国民国家の概念からは大きくかけ離れたものでした。部族主義と「ウンマ」の理念にもとづいて維持されてきたイスラーム世界の伝統が、今後どのような形で存続していくのか、それは現在のところ誰にもわからない問題です。

アラブ諸国の多くで見られる暴力的な政争は、抑圧的な独裁制と原理主義運動が敵対した結果として起こるケースが多いようです。一九八〇年代のモロッコとアルジェリアがその典型的な例でした。そうした状況をさらに危険なものにしているのが、アラブ諸国における高い出生率です。人囗にしめる若者の比率と、彼らのもつ不満とエネルギーがあまりにも大きすぎることが、アラブ世界の平和の実現を困難にしているという面もあるのです。

 

 

本文の内容はここまで。

最終巻である本書には、「日本版の刊行に寄せて」という文章が載せられている。

簡単にいえば、本書では伝統的に重要とされてきたテーマを時代順に網羅していくという手法はとりませんでした。過去の事実を網羅するのは百科事典の仕事だからです。その代わりに、「もっとも多くの人びと」に「もっとも重大な影響」をあたえた出来事だけをとりあげ、その相互の関連性を示したいと考えたのです。

そのため本書は年代的にも地理的にも、かなりの偏りをもっています。もちろん私は第一版の刊行後も多くの時間と労力をついやして、ユカタン半島の壮大な遺跡やジンバブエの廃墟、イースター島の神秘的な巨像などについて調査を行なっています。そのような文化について知ることが望ましいのは、いうまでもないでしょう。

しかし世界の歴史という観点からすれば、これらの社会は実はあまり重要とはいえません。サハラ以南のアフリカや、コロンブスが到着する以前のアメリカ大陸についても同じことがいえます。たとえばブッダやキリスト、プラトン、孔子などの教えは、二〇〇〇年ものあいだ、地球上で暮らす無数の人びとに影響をおよぼしてきました。けれどもヨーロッパ人がやってくる前のアフリカやアメリカでは、世界の歴史に大きな足跡を刻むような出来事が起きた証拠は、いまのところ発見されていないのです。

いずれにせよ、世界史に関する膨大な資料をすべて把握することなど不可能です。本書は、「有名」な出来事ではなく、「本質的に重要な」出来事に焦点を当てています。たとえばフランスのルイー四世はヨーロッパ史ではもっとも有名な人物のひとりですが、本書中の彼に関する記述はごく短く、逆に二〇世紀前半に起きた中国革命についてはかなりくわしく説明してあります。そうした視点は現代史を見るうえで、いままで以上に必要になっているといえるでしょう。ある出来事が「有名」だから、つまり大きく報道がなされているからといって、それが重要だとはかぎらないのです。

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もちろんそのような視点には、私自身のもつ文化的バックグラウンドが大きく影響しています。私はイギリスの中産階級に属する白人男性としてしか、歴史書を書くことができません(今回の全面改訂版では、それに「初老の」が加わります)。もし皆さんがそれをあまりにも重大な欠陥だとお考えになるなら、ほかの歴史家が別の視点から書いた歴史書を探されたほうがよいでしょう。

しかし正直にいえばどのような歴史書であれ、結局は著者本人の個性を離れては存在しえないものなのです。私は自分の視点がどのような偏りにおちいりがちかということを、つねに念頭におきながらこの本を書きました。そうすることで、歴史家アクトンのいう「すべての国々を網羅した歴史とは異なった」歴史を皆様に提供し、文明の偉大なる豊かさと多様性を示すことができたのではないかと思っています。

このシリーズを読み通して、著者の以上の様な史観をはっきり感じることができたし、それに対して特に違和感は感じなかった。

 

 

こういう通史ではありがちだが、近現代史の部分は内容が粗くなって効用が薄れる。

本書もそれを免れているとは言えないが、まだ大分マシな方だと思う。

全10巻を読み切りましたが、通読はものすごく楽。

読んだ価値は間違いなくあった。

全体的な感想は別の記事で述べることにします。

2017年2月3日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 7 革命の時代』 (創元社)

Filed under: ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 04:25

フランス革命と19世紀ヨーロッパ史の巻。

まず、キリスト教を中心とする伝統文化を(のちには)変化させ、政治的変革の思想的前提となった17世紀科学革命について。

当時の研究が既存の技術によって観察と計測が可能な分野に限られていたため、特定の分野では大きな進歩が見られたものの、ほとんど関心がむけられなかった分野も数多く存在しました。たとえば物理学と天文学が急速に進歩したのに対して、化学はあまり発展しませんでした(もっとも一七〇〇年の時点では、さすがに四元素説を支持する人はほとんどいなくなっていたようですが)。物理学と天文学は急速な発展を見せたあと勢いが衰えましたが、それでも一九世紀になるまで着実に進歩をとげ、やがて新たな研究方法のもとでふたたび大きく発展していくことになります。

一七世紀の科学革命はさまざまな点て大きな業績をのこすことになりましたが、そのもっとも大きな成果は新しい世界観(宇宙観)を生みだしたことだったといえるでしょう。ヨーロッパでは古くから、あらゆる事象は神によって生みだされたものであり、予測不能なものであると考えられていました。こうした伝統的な世界観に代わって、宇宙を機械にたとえる新しい世界観が生まれ、世界のあらゆる事象は普遍的な法則にもとづいて起こっていると考えられるようになったのです。

ここで誤解していただきたくないのは、この新しい世界観は、決して神の存在を否定するものではなかったということです。個別の事象は普遍的な法則にもとづいて起こると考えられた一方で、その法則が存在する宇宙という「偉大な機械」をつくりだしたのは、あくまで神であると信じられていたからです(その意味で、神はしばしば「偉大なる時計職人」にたとえられました)。

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一七世紀の科学革命によって新しく誕生した世界観(宇宙観)は、神の偉大さと神秘性を強調するという点では、それまでの古い世界観となんら変わりがありませんでした。アリストテレスの思想が中世のキリスト教神学に受け入れられたように、当時の科学者たちは、自分たちが構築した新しい世界観もキリスト教の体系内に収まることを信じて疑わなかったのです。

そして、より直接的に社会の変化を促した啓蒙思想について。

英語の「啓蒙」という言葉には、暗闇に光を投げかけるというイメージがあります。しかし、ドイツの哲学者カントは有名な論文のなかで、「啓蒙とは何か」という問いかけに対し、それは「みずからがもつ未成熟な状態からの脱却である」と答えています。この答えの核心には、あきらかに権威を疑う姿勢が存在しています。啓蒙思想がのこした最大の遺産とは、そうしたすべての物事を批判的に見る懐疑的な態度だったのです。

その結果、あらゆるものが検証と批判の対象になっていきました。神聖なものなど何ひとつないと考えた人びともいます(もっとも、啓蒙思想の特徴である批判精神そのものは、何の疑問も検証もなく受け入れられていたのですが)。

上記末尾の文章には著者の皮肉を感じる。

19世紀産業革命と違い、通史ではあまり触れられることのない、18・19世紀ヨーロッパの農業革命について。

文明を根本から変化させるような出来事は、そうめったに起こるものではありません。しかし一八世紀のヨーロッパで起きた変化は、まちがいなくそうした変化だったといえるでしょう。食料の生産量が、かつてなかったペースで増加し始めたのです。そのころすでに中世の二倍半に達していた農業生産量は、一九世紀に入るとさらに飛躍的な伸びを見せていきました。ヨーロッパでは一八〇〇年ごろから農業生産量が毎年一パーセントずつ増加するようになったのですが、これは過去の成長率とは比較にならないくらい高い成長率だったのです。

さらに同じころ工業と商業も発達したおかげで、世界各地から豊富な食料を調達できるようになりました。このころ起きた生産性の向上も外国からの食料の輸入も、同じプロセス、つまり生産活動に対する投資が増大した結果として生まれたものでした。そして一八七〇年までにはヨーロッパとアメリカ合衆国に、世界中でもっとも多くの富が集まるようになっていたのです。

一七五〇年から一八七〇年にかけて起こった農業生産量の急増(もちろんその後はさらに急増していきました)は、「革命」というような強烈な言葉でなくては表現できません。しかし同時にそれは、非常に複雑なプロセスの結果としてもたらされたものでもありました。ヨーロッパにおける農業革命は、ヨーロッパ大陸だけでなく、南北アメリカ大陸とオーストラリアなども巻きこんだ世界的な経済変化の一環だったのです。

産業革命よりも、この農業革命の方が、人類にとっては真に実質的な進歩と幸福をもたらしたと言えるのかもしれない。

人々が餓死の恐怖から解放されたことは、やはり大きな前進だと思われる。

一方、産業革命は巨大な生産力を解放した陰で、深刻な社会問題も生んだ。

こうした都市化が伝統的な社会の枠組みを崩壊させる要因となったことも、まずまちがいのないところです。一九世紀になるとヨーロッパの各都市で、伝統的な行動様式が破壊され、新しい社会制度や思想が次々に誕生していきました。

都市で暮らす人びとは、農村社会において日々の生活を監視していた聖職者や大地主や隣人たちの目から、のがれることができました。さらに読み書きが庶民のあいだに普及するにつれ、新しい考え方が既成の社会通念を次々に破壊していくようになります。一九世紀にヨーロッパの上流階級がとくに衝撃を受けたのが、都市において無神論や無宗教が広がっていったことです。そのことで危機に瀕しているのは、宗教上の教義だけではありませんでした。なぜならヨーロッパにおけるキリスト教は、古くから伝統的な道徳と社会秩序の守り手でもあったからです。

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このように、産業革命がもたらした変化は物質面だけにはとどまりませんでした。これまでにあきらかになっているかぎりでは、近代文明は特定の宗教への信仰を中核にもたない最初の文明といえます。その誕生の経緯を解明するのはかなりむずかしい作業ですが、おそらく科学と哲学が知識人に信仰心を失わせたように、都市での生活が伝統的な信仰の形態を崩壊させてしまったことも原因のひとつなのでしょう。

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産業革命は生活のリズムを変化させただけでなく、労働自体の意味も変えていきました。この点について考える際には、むずかしいことではありますが、過去の時代の生活に対して感傷的にならないことが必要です。単調な仕事、個人的な判断の排除、資本家による搾取など、工場労働の実情を知れば知るほど、昔はよかったという気もちになることはたしかです。しかし中世の農民の暮らしも単調なものでした。彼らはたいてい領主から搾取されていたうえ、日々の農作業もかならずしも楽だったとはいえません。日の出から日の入りまで働きづめでしたし、景気の変動はともかくとして、天候の影響はつねに受けていたからです。

いずれにしても、産業革命によって人間の日々の暮らしは一変することになりました。その結果をそれ以前の生活とくらべてどう判断するかは、意見の分かれるところですが。

ヨーロッパから遠く離れた場所で、実験国家として誕生し、孤立状態の中で力を貯えていったアメリカ合衆国について。

当時、古典を勉強したヨーロッパ人なら誰でも、古代の共和政が多くの賞賛を集める一方で、その政体が腐敗と派閥争いにおちいりやすかったことを常識として知っていました。その後もイタリア半島には共和政国家が成立していますが、どれも古代ギリシアのアテネや共和政時代のローマ以上に学ぶべき点はなく、一八世紀のヨーロッパには、それほど成功しているとはいえない少数の共和国が存在しているだけでした。共和政は小国でしか成功しないという意見も強かったようですが、アメリカは地理的に孤立していたため、大国でも例外的に共和政を維持できるのではないかと考えられたのです。

とはいえ、建国の時点でこの新しい国の未来を楽観視していた人は、ほとんどいなかったといってよいでしょう。そのため、のちにアメリカ合衆国が大きな成功を収めたとき、共和政に対する評価も一変することになります。従来の政治体制に批判的なヨーロッパの知識人は、共和政のもつ持続力や、政治のコストが安あがりであること、共和政と切りはなせないと誤解されていた自由主義などについて、強い関心を示し始めました。そして共和政という政治形態は、北米大陸から、まもなく南米大陸へも広かっていったのです。

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・・・国民主権の原則は、一七世紀に一部の植民地で制定された憲法(もっともそれらは、あくまで王政の枠組みを超えるものではありませんでしたが)の流れをくむものでしたが、この原則によってアメリカ合衆国は、イギリス本国の政治体制と決定的に決別することになります。イギリスの立憲君主政はもともと国民の意思によって決定されたわけではなく、慣習にもとづくものだったからです。イギリスの憲法学者メートランドの説にしたがえば、イギリス人は国家原理に代わるものとして、国王の権威を受け入れていたということになります。

私には、ジャクソン時代以降のアメリカは、「腐敗と派閥争い」という共和政の典型的失敗例にしか思えない。

それより、「慣習にもとづく立憲君主政」の方がよほど優れた政体だと確信している。

フランス革命について。

三部会の開催から10年をへた一七九九年になると、フランスが中世の伝統とほぼ完全に断絶したことが、誰の目にもあきらかになっていました。なかでも法律の改正が急速に進んでいました。主要な改正の大半は、少なくとも原理的な部分については一七八九年に制定されていたものでした。封建制度や法律で認められた特権の廃止、王権神授説にもとづく絶対主義の廃止、さらには個人を主体とし、宗教に基盤をおかない社会の創設が、「八九年の原則」のおもな内容だったのです。

こうした原則の盛りこまれた「人間および市民の権利の宣言」(いわゆる「人権宣言」)は、一七九一年に公布された憲法の前文として書かれたものでした。これにより、法のもとでの平等、個人の権利の法的保護、教会と国家の分離、信教の自由が保障されることになったのです。こうした一連の法律を実現したのが国民議会です。国民主権の原則にもとづくこの議会が制定した法律は、いかなる地域や社会階層の特権も認めませんでした。彼らは新しい体制のもとで、王政時代よりもはるかに悪化した財政危機(とりわけ国家財政の破綻と通貨の急落)を乗り越え、啓蒙専制君主には夢見ることしかできなかった大規模な行政改革に成功したのです。

末尾の文章の通り、革命は伝統的君主政には不可能だった程の中央集権化された行政権を生み出した。

そして伝統的君主政が破壊された後も、宗教に対する愛着だけは民衆の間に強く残存したことが述べられる。

・・・大規模な変化のあとには、かならず分裂が起こるものです。なぜなら人間の意識が変化するためには、法律や政治体制が変化するよりもはるかに長い時間を必要とするからです。たとえば農民は封建的な地代の廃止を喜ぶ一方で、それまで使用してきた共有地の利用権がなくなったことに強い不満を感じていました。こうした保守的な反応は、宗教問題においても重要な展開を見せることになります。中世からフランス国王の戴冠式でもちいられてきたランス大聖堂の聖器が、恐怖政治の時代に政府によって破壊され、ノートルダム大聖堂にはキリスト教の祭壇に代わって、「理性の祭壇」が設置されることになったのです。

多くの聖職者たちが激しい迫害に会いました。フランスはもはや伝統的な意味でのキリスト教国ではなくなり、「神聖な存在」としての国王をなつかしむ国民はほとんどいなくなりました。しかしその一方で、教会に対する迫害がほかの何にもまして、革命に対する民衆の反感を買っていたことも事実です。結局、一部の革命家が広めようとした「理性」に対する崇拝は根づかず、カトリック教会が正式に復権したときには、多くのフランス人がそれを心から歓迎しました。すでに各教区では、そのはるか以前から、住民の自発的な行動によって教会が実質的に復権をはたしていたのです。

革命の総括的記述。

一九世紀になると、「普遍的な現象としての革命」は、「すべての場所につねに存在する力である」とする人まで現れるようになりました。これはもっとも極端なイデオロギーですが、今日でもこの種の考えがなくなったわけではありません。

反乱や破壊活動の是非は、個別の状況を無視して判断されるべきだと考える人びとが、現在でも依然として存在しています。こうして革命は神話となり、いくつもの悲惨な状況を生みだしていきました。そして最初はヨーロッパが、つづいてヨーロッパが支配した世界が、この神話に情緒的に反応するやっかいな人びとをかかえこむことになりました(かつて宗教上の対立という愚かな現象をかかえこんだのと同様に)。

こうした思想が現在まで存続してきたのも、フランス革命の影響がいかに大きかったかの証拠だといえるでしょう。

ナポレオン時代の意義について。

・・・ブルボン朝が復活したといっても、フランス革命以前の体制が復活したわけではありません。政教条約も県制度もそのまま存続し、法のもとでの平等は守られ、代議制度も継続されることになりました。革命がもたらした変化は、そのころにはすっかり確立された秩序となっていたのです。逆にいうと、そうした状況が定着するために必要な時間をフランス社会に提供したのが、ナポレオンだったということもできます。フランス革命のなかから後世に引きつがれたものは、すべてナポレオンの承認をへたものだったのです。

革命の精神を受けついだという点で、ナポレオンは伝統的な君主だちとは大きく異なっていました。しかしその一方で彼は新しいものを信用せず、保守的な政策を次々に打ちだしていきました。いわばナポレオンは、「民主的な専制君主」だったといえるでしょう。彼は国民投票という正式な手続きをへて権力を握るとともに、国民の支持を得て強力な軍隊を編成することにも成功しました。こうしてみるとナポレオンの政治スタイルは、かなり二〇世紀の支配者たちに近いものだったといえます。

国際舞台におけるフランスの力を、かつてなかったほど高めたことについて、ナポレオンはこれまでルイー四世とともに自国内で高い評価を受けてきました。ただしこの点でもまた、両者には重要な違いがあります。ナポレオンはルイー四世のはたせなかったヨーロッパ支配をなしとげただけでなく、その支配は「革命という洗礼」を受けていたため、たんにフランスが他国を軍事的に支配したという以上の意味をもっていたのです。

けれどもその点を美化するのは、あまり適切ではないかもしれません。ヨーロッパの解放者であるとか、偉大な天才といったナポレオン像は、後世になってつくられた伝説にすぎないからです。一八〇〇年から一四年までのあいだにナポレオンがヨーロッパ諸国にもたらしたものは、何よりもまず血なまぐさい戦争であり、混乱でした。しかもそうした戦争や混乱は、いずれも彼の異常なまでの権力欲と誇大妄想的な資質によって引き起こされたものだったのです。とはいえ、意図的なものも、そうでないものも含めて、ナポレオンが貴重な副産物を後世にのこしたことは事実です。

革命後の歴史を動かす原動力となった、ナショナリズムと自由(民主)主義について。

・・・ヨーロッパの政治思想のなかに、「歴史的」であると認識された国民(民族)の利益を、政府が守り発展させるべきであるという考えが、急速に広まっていきました。それとともに、どの国民が歴史的に重要であるのか、彼らの利益をどのように定義すべきかなどといった問題について、激しい論争が行なわれることになったのです。

一方、ナショナリズムのほかにも重要な原則がありました。それらの原則は実際には「民主主義」や「自由主義」といった言葉ではとうてい表現しきれないのですが、ほかに適切な表現がないので、ここではそうした言葉をもちいることにしておきます。

ヨーロッパでは、より多くの人びとの政治参加を実現するために、代議制度を採用する傾向が各国に広まっていきました(形式だけの場合もありましたが)。自由主義者と民主主義者はほぼ一貫して、選挙権の拡大と代議制度の改善を要求していました。同時に先進国の政治制度と社会制度は、以前にも増して個人に基盤をおくようになり、地域社会や宗教、職業、家族などの一員であることよりも、個人としての権利のほうが重視されるようになりました。

こうして、たしかに自由が拡大していったわけですが、逆に以前よりも自由を失った面もありました。国民国家においては、国家が国民に対してかつてなかったほど法的に強い立場に立ったため、国家は国民をより効果的に支配できるようになっていったのです。

現代でも、我々は基本、この二つの原理の下で暮らしているわけだが、その弊害も極めて大きい。

国家権力の増大が生みだしたことは、以下の引用文の通り、19世紀後半においては「革命の衰退」であり、ひとまず肯定的に見ることができるが、20世紀に入り、国家の大衆民主主義化と共に、国家自体が恐るべき暴走を始めることになる。

一七世紀にフランスがスペインにとって代わったように、いまやドイツがフランスに代わってヨーロッパ大陸における最強国となりました。しかしこの変化のなかに、厳密な意味での「革命の影響」はほとんど見ることができません。一九世紀の革命家たちは、カブールやビスマルクに匹敵する業績は何ひとつのこすことができず、ナポレオン三世とくらべてもかなり見劣りのする成果をあげることしかできませんでした。この時期に革命によせられていた期待や、あるいは恐怖を考えれば、それは奇妙な現象だったといわざるをえません。いずれにしても、この時期に革命が成功したのはヨーロッパの周辺地域に限られており、しかもまもなく衰退の兆しさえ見せ姶めたのです。

一八四八年までは、陰謀やクーデターだけでなく、ヨーロッパ中で革命があいつぎました。しかし一八四八年以降は、一八六三年のポーランドをのぞくと、大国が支配する地域では一八七一年まで一度も革命が起こらなかったのです。

もっとも、革命の勢いが衰えたのは、それほど不思議なことではありませんでした。結局、革命はフランス以外の国ではほとんど成功しなかったといえますし、フランスでも最終的にはナポレオンによる独裁体制が誕生したのですから。

その一方、革命が目標としたもののいくつかは、別の方法で達成されつつありました。カブールとその後継者たちがイタリアを統一する様子を見て、マッツィーニはさぞ悔しがったにちがいありません。それは革命家たちが認めることのできない形での国家統一だったからです。ビスマルクも一八四八年の革命とは別の方法で、自由主義者たちが望んでいたドイツの統一を達成し、ドイツをまぎれもない大国の地位に押しあげることに成功しました。

その後、かつて革命家たちがかかげていた目標のいくつかは、経済発展によっても達成されていくことになります。貧困に対する恐怖は依然として存在していたものの、一九世紀のヨーロッパは着実に豊かになり、人びとの暮らしも向上していきました。そうした流れをさらに加速させた個別の出来事もありました。一八四八年にカリフォルニアで金鉱が発見され、それによって一八五〇年代から六〇年代にかけて、世界経済が活性化されることになったのです。この二〇年間は、社会に自信がみなぎり、失業率が低下して、秩序もおおむね維持された時代となりました。

社会に革命が起こりにくい状況が生まれていたことも、革命が減少した理由のひとつだったといえるでしょう。おもに軍事技術の進歩によって、どの国の政府も以前よりも容易に反乱を鎮圧できるようになっていたのです。一九世紀に入ると近代的な警察制度が誕生し、鉄道と電信の普及によって、遠くで起こった反乱にもすばやく対処できるようになりました。さらに軍隊も武器を強化して、以前よりも確実に反乱を鎮圧できるようになっており、たとえばフランスでは政府が正規軍を掌握していれば、かならずパリを制圧できることが、一七九五年の総裁政府による民衆の鎮圧によってすでに示されていました。

一八一五年から四八年までつづいた長い平和のあいだに、各国の軍隊のおもな任務は、外国軍と戦うことから、国内の反乱や暴動を鎮圧し、治安を維持することに移っていきました。一八三〇年と四八年にパリで革命が成功したのは、軍の重要な部隊が持ち場を離脱したからです。政府が軍部を掌握していさえすれば、一八四八年の六月蜂起のような事件はかならず失敗に終わりました。実際、この年を最後に、ヨーロッパの主要国では民衆による革命が成功することは一度もなかったのです。

1871年パリ・コミューンも、そうした軍の治安維持機能を示した事件だったのだが、社会主義思想の台頭で、逆に革命神話を強化する働きを果たすことになってしまった。

一方、西欧に比し後進的存在であったロシアでも、自由主義的・社会主義的思想の流入によって変化と混乱に向かいつつあったが、体制の改革に否定的だった皇帝ニコライ1世への本書の評価は厳しい。

独裁国家においては、反体制運動はすなわち地下活動を意味します。一八二五年にアレクサンドル一世が亡くなると、そうした地下活動をつづけてきた秘密結社がクーデターを企てました。(デカブリスト(一二月党員)の乱」とよばれたこのクーデターは結局失敗に終わりましたが、それは新皇帝ニコライ一世をふるえあがらせるにじゅうぶんな出来事でした。その結果、ニコライ一世は歴史的に見てきわめて重要な時期に、自由主義をつぶそうとして、ロシアのその後の運命を大きく狂わせることになります。

ニコライ一世の治世は、ピョートル大帝の治世と並んでもっともロシアの運命を左右した時代だったといえるかもしれません。その理由のひとつは、彼が変革を拒否したことでした。独裁政治の信奉者だったニコライ一世は、権威主義的な官僚制、文化活動の管理、秘密警察による支配などといったロシアの伝統を、ほかの保守的な大国が不本意ながらその種のものを廃止しようとしていたときに、逆に強化してしまったのです。

だが、その著者も、アレクサンドル2世による農奴解放令に対しては、極めて高い評価を与えている。

一七世紀以降に強化されたロシアの農奴制は、ロシア社会の最大の特徴となっていました。ニコライ一世でさえ、農奴制はロシア社会がかかえる最大の悪弊であると認めていたほどです。ニコライ一世の時代は農奴による暴動がとくに頻発し、地主を襲撃し、穀物を焼き、家畜を傷つけていました。貢納の支払い拒否などは、もっともおだやかな抵抗であったとさえいえます。

ところがこの巨大な制度を廃止するのは、とてつもなく困難なことだったのです。というのも、ロシア人の大半が実は農奴だったからです。たんに法律をつくったからといって、一夜のうちに農奴を賃金労働者や自作農に変えられるはずもありません。さらには荘園制度がはたしてきた行政的な役割が廃止され、その代わりになるものがないとしたら、国家が突然大きな負担を背負うことになってしまいます。ロシア政府にそれはどの力はありませんでした。

そのためニコライ一世はあえて何もしなかったのですが、アレクサンドル二世は行動を起こしました。数年間をかけて、さまざまな廃止方法を研究し、それぞれの長所と短所を検討したうえで、一八六一年についに農奴解放令を発令したのです。ロシア史にのこるこの画期的な決断により、アレクサンドル二世は「解放皇帝」のよび名をあたえられることになります。ロシアの農奴解放令は、ロシア皇帝がもつ絶対権力が効果的にもちいられた、もっとも顕著な例といってよいでしょう。

農奴解放令により、ロシアの農民は人格的自由を認められ、土地にしばりつけられた労働形態は消滅しました。しかし土地を獲得し所有するためには、買いもどし金を支払わねばなりませんでした。そして彼らが買いもどし金をたくわえるため、また急激に自由労働市場に移行して混乱を起こさないために、解放令のあとも農民たちは各地の農村共同体のもとにほぼとどまりつづける結果となりました(農村共同体には、土地を家族単位で割り当てる仕事が託されていました)。

まもなく農奴解放のやり方や条件に対して批判が噴出します。しかし、ロシアの農奴解放には評価すべき点も数多く存在しますし、歴史的に見ても偉大な出来事だったといってよいでしょう。数年後にはアメリカ合衆国でも奴隷解放宣言がなされ、ロシアよりはるかに経済発展の可能性のあるアメリカで、ロシアの農奴よりもはるかに少ない数の黒人奴隷が解放されました。しかしそれでも、そのとき奴隷を労働市場に突然放りだし、完全な自由放任経済にまかせたため、その結果にアメリカ社会は今日もなお悩まされつづけているのです。

一方、ロシアでは今日までの歴史でも例をみないような巨大な社会変化が、大きな混乱をともなうことなく実現されることになりました。そして世界最強国となる巨大な可能性を秘めたロシアに、ようやく近代化への道が開かれることになったのです。ロシアが長く慣れ親しんできた農業社会から工業社会へむかうためには、農奴解放は必要不可欠なステップだったのです。

確かに我々は、後の革命と帝政の崩壊という視点から、農奴解放令の「不徹底」性をあげつらうことに慣れすぎているのかもしれない。

民主主義特有の党争の弊害から国家を二分する内戦に突入し、莫大な犠牲を払わなければ黒人奴隷を解放できなかったアメリカに比べて、それ以上に社会に深く食い込んでいた農奴制を整然と廃棄した専制君主制下のロシアの方が、少なくとも19世紀の時点では成功していたとする史観があってもよいように思える。

続いて、地理的な孤立という共通点を持つ米英両国が、独立革命後、反発しつつも徐々に関係を改善していったこと、南北戦争によって合衆国の統一が維持され世界的強国に発展したこと、イギリスは産業革命と民主化を政治的断絶無しに達成することに成功したことを述べる。

以下の文章を読むと、私にはやはり米国よりも英国の方が好ましく、価値ある国家と社会であったと思える。

イギリスの政治体制は、主権を「議会の決定にしたがう国王」におく立憲君主政・・・です。たしかに当時のヨーロッパの基準からすると有権者の数は多いほうといえましたが、イギリス人にとって「民主主義」という言葉は否定的なニュアンスをもっており、その実現を求める勢力はほとんど存在しませんでした。イギリス人にとって民主主義とは、フランス流の革命と軍事専制政治を意味していたのです。

・・・・・・

諸外国にはイギリスの政治制度に大きな関心をよせる人びとが少なくありませんでした。工業都市の悲惨な実態にもかかわらず、イギリスが民衆による反乱をうまく切りぬけたことは、それができなかった国々にとって大きな驚きとなっていたからです。他国で革命が起こりそうになるたびにイギリスは意図的に大規模な制度改革を行ない、自由主義の原則をさらにはっきりと示すことで、国力の強化と豊かな社会の実現に成功していたのです。そして政治家も歴史家も、イギリス社会の基盤は自由にあると誇らしげに語っていたのです。

イギリスは、アメリカのように地理的に完全に孤立していたわけでも、広大な土地をもっていたわけでもありません。そのアメリカですら革命を阻止するために悲惨な南北戦争を経験しだのに、イギリスだけがなぜ革命を回避することができたのか。これまで多くの歴史家が、その答えをさがし求めてきました。

けれどもこの問いかけには、革命はある種の条件が整えばかならず起こるものだ(そしてイギリス社会はその条件を満たしていたはずだ)という無意識の前提があるようです。しかし、そもそもこの前提そのものがまちかっているのでしょう。急速に変化しつづけるイギリス社会において、革命が起こる可能性は、おそらくまったくなかったはずです。フランス革命によってヨーロッパ諸国にもたらされた変化の多くは、イギリスでは数世紀も前から実現していたものだったからです。時代をへるにつれ、そこに不合理なしがらみがまとわりついていたとしても、イギリスには新たな変化を許容するだけの基本的な政治体制がすでにできあかっていたのです。

イギリスの下院も上院も、ヨーロッパ諸国の議会のような閉ざされた組織ではありませんでした。両議院ともに一八三二年の議会改革以前に、すでに社会の新しい要望に柔軟に対応する能力があることを証明しています。たとえば最初の工場法(その内容自体はお粗末なものでしたが)が可決されたのは一八〇一年のことでした。さらに一八三二年以降は、人びとは議会に強く働きかければ、どのような改革でも実行できると考えるようになっていました。議会が改革を実行するうえで、法的な制限はいっさい存在しなかったからです。

当時の社会のなかで抑圧され、怒りをかかえた人たちでさえ、この点については認めていたようです。一八三〇年代から四〇年代にかけて(貧困層の暮らしがとくにきびしくなった時代でした)、過激な暴動が頻発し、数多くの革命家が登場しました。しかし当時最大の民衆運動であった「チャーティスト運動」でさえ、「人民憲章」をかかげて議会制度の民主化を求めたものの、議会の廃止までは要求していなかったのです。

けれどもそうした民衆運動だけでは、おそらく議会に改革を実行させることはできなかったでしょう。ここで重要な点は、工場法をのぞくと、ヴィクトリア時代の大きな改革はすべて、労働者階級と同じくらい中産階級の利益にもつながるものだったということです。イギリスの中産階級は、ほかのヨーロッパ諸国の中産階級よりもひと足先に政治的な発言力を獲得しており、その力を利用して要求を実現できる立場にありました。そのため彼らは革命という手段に訴える必要がなかったのです。

一方、一般の民衆のあいだでも革命を求める気運が高まりを見せなかったという事実は、今日まで左翼の歴史家たちの頭を大いに悩ませてきました。それはイギリスの労働者があまりにも貧しすぎたからなのか、それともそれほど貧しくなかったからなのか、あるいは労働者がバラバラで、ひとつの階級としてまとまっていなかったからなのか・・・・・。イギリスに革命が起こらなかった理由について、これまでさまざまな説がとなえられてきました。

しかし、ただ一点だけあきらかなのは、イギリスでは伝統的な行動様式が依然として根強く存続していたという事実です(イギリスではこの時代になってもなお、身分の高い人間に身分の低い人間が服従する習慣がありました)。

さらには革命という手段に訴えなくても、イギリスの労働者は労働組合によってみずからの権利を主張することができたのです(自助、思慮、倹約、謹厳を重んじたという意味では、この時期の労働組合も「ヴィクトリア風」だったといえるでしょう)。

こうして社会が急激に変貌するなかで、変化しないものの象徴でありつづけたのが、議会と国王でした。議会が開催されるウェストミンスター宮殿が焼失し、新しく建て直される際には、「議会制度の母国」としての伝統の古さを強調するために、中世のゴシック様式がわざわざ採用されています。これはイギリス史上まれにみる変革の時代が、伝統と慣習の衣におおわれていたことをまさに象徴する出来事だったといえるでしょう。

議会とともに、変化しないものの象徴だったのが国王です。ヴィクトリア女王が即位した時点で、イギリスの君主政はヨーロッパでは教皇制度についで古い歴史をもつ政治制度となっていました。しかし、その実態は時代とともに変化しています。ジョージ三世のあとをついだジョージ四世は、イギリス史上最悪の国王と評され、つぎの国王も人気を回復することができませんでした。そして、つづくヴィクトリア女王と夫のアルバート公がようやく威信を回復したものの、女王自身の気質はどちらかといえば立憲君主政には適さないものでした。女王は政治的に中立であることを好まず、その姿勢を隠そうとしなかったからです。

にもかかわらず、イギリスの王権が政治問題から手を引くようになったのは、ヴィクトリア女王時代のことでした。女王は「王室」を一般家庭のお手本に仕立てあげ、ジョージ三世の時代以来、はじめて「王室」という言葉がその実態をもつことになったのです・・・・・。

 

 

残り3巻。

順調です。

2017年1月28日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』 (創元社)

Filed under: ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 01:47

近世ヨーロッパ史の巻。

この巻からは、特に気になった部分を断片的に引用するだけにし、他の部分はできるだけ省略して行くので、これまでの巻にも増して、全体的に少し脈絡に欠く記事になるかもしれません。

 

紀元前500年頃から紀元後1500年まで続いた諸文明の均衡状態が崩れ、ヨーロッパ文明の進出による世界の一体化が始まる。

ただし、その本格化は19世紀を待たなければならない。

世界の歴史に、新しい時代が始まりつつあることを示す数々の兆候が、紀元1500年前後からあいついで現れるようになりました。そのうちのいくつかについては、これまでの巻ですでにお話ししてきたとおりです。ルネサンスの本格的な開花、活字印刷術の発展、アメリカ大陸の「発見」とスペインやポルトガルによる海外植民地の建設などを、そうした例の代表としてあげることができるでしょう。

そのような出来事は、いよいよ人類の歴史が本当の意味で「世界史」の時代に入り、その中心にはヨーロッパで誕生した「強力な」文明が位置するという、新しい時代の本質をよくあらわしています。ヨーロッパ人の活動によって、世界中で起こる出来事が、しだいに有機的な関連をもつようになっていきます。そしてヨーロッパ人は自分たちも気づかないまま、ほかのすべての大陸に干渉を加え、世界に「近代化」を強要する道を歩み始めることになるのです。

「近世」という時代区分について。

「近代」とは、私たちにとってなじみの深い言葉です。しかし、それがさし示す年代は、つねに一定だったわけではありません。かつては古代ギリシア人やローマ人が活躍する「古代史」からあとの時代を、すべて「近代史」としてひとくくりに考えていました。事実、オックスフォード大学などはいまでもこの時代区分を採用しており、「近代史」の講座には、いわゆる「中世史」も含まれています。

その後、「中世史」が近代史から切りはなされるようになり、現在ではさらに細かく分けられるようになりました。歴史家たちは「近代」をふたつに分け、その前半を「近世」とよぶことが多いからです。この用語を歴史家たちが使うとき、そこにはひとつの重要な歴史的推移が表現されているといってよいでしょう。つまり「近世」とはヨーロッパにおいて、神に支配された閉鎖的な中世キリスト教世界から、合理的精神に満ちた「近代社会」が成立するまでの移行期をさして使われることが多いのです。

そのような歴史上の変化が起きた時期は、国によってさまざまでした。イギリスやオランダでは一七〇〇年ごろまでに移行したといえるかもしれませんし、スペインでは一八〇〇年ごろまでは、まだ不完全なものだったようです。また東ヨーロッパの多くの国では、一九〇〇年ごろになっても、ほとんどそうした変化は起きていませんでした。しかし時期はさまざまだったとしても、広く起こったこの一連の変化が、世界史におけるヨーロッパの覇権を決定づけたことはたしかなのです。

その大きな歴史の流れをこれから見ていくにあたって、ひとつのごく単純な視点をもっておくことが、あるいは重要かもしれません。つまり現在までの人類の歴史において、ほとんどの時代、人間は「安全な暮らし」と「じゅうぶんな食料」を確保するための選択肢をもっていなかったという事実です。そうした状況に変化をもたらし、人びとに選択肢をあたえるきっかけとなったのが、近世ヨーロッパで起こった変化、それもいわゆる西ヨーロッパとよばれるエルベ川から西側のヨーロッパで起こった経済的な変化だったのです。

その経済的変化を象徴する、いわゆる「価格革命」について。

インフレは社会に重大な影響をもたらすことになりました。資産家たちのなかにも、利益を得た大もいる一方で、ひどい目にあった人たちもいました。地主のなかには地代を引き上げることでインフレに対抗した者もいましたが、その一方、土地を売りに出さなくてはならなくなった地主たちもいました。そうした結果、現代の社会でもしばしば起こる現象ですが、インフレが社会の流動性を高めるという現象が起こり始めたのです。・・・・・どこの土地でも、インフレによる打撃をもっとも強く受けたのは、社会構造の両極に位置する人びとでした。つまりインフレによって貧困層が飢えに追いやられる一方、王侯たちもこの新しい事態に対処するため、誰よりもお金を使う必要にせまられたのです。

歴史家たちは約一〇〇年間つづいたこの物価上昇を説明するために、これまで多くのページをついやしてきました。その原因のひとつは、よくいわれているように、スペイン人が南米の鉱山を開拓したために、大量の銀がヨーロッパに流れこんだことにあったのでしょう。ただし、新大陸からもたらされた大量の銀が状況を悪化させたことはたしかですが、ヨーロッパのインフレがそのはるか以前から始まっていたことも事実です。おそらく、もっとも根本的な原因は人口の増加にあったものと思われます。この時期、農業生産が横ばいのときも、人口ほつねに増えつづけていたのです。

近世最先進国となったイギリスの社会構造について。

イギリスでは、フランスで存続していたような「商業化された封建制度」でさえも、一八〇〇年を待たずにすたれてしまいました。貴族たちには議会に出席する権利をのぞけば、いかなる法的特権もあたえられていなかったのです(さらに貴族たちは、下院議員の選挙では投票できないという法的制限を課せられていました)。

イギリスの貴族階級の特徴は、それが非常に小さな集団だったということです。一八世紀末の時点で、イギリスの上院議員の総数は二〇〇名以下でした。彼ら上院議員の地位は世襲制で、直系の相続人だけが継承することを許されていました。つまりイギリスの貴族階級は、ほかのヨーロッパ諸国のように、ひとつの社会階層を形成するような大規模なものではなかったのです。

イギリス以外のヨーロッパ諸国では、どの国にも数多くの貴族がいて、自分たちを庶民層からはっきりと区別し、数々の法的特権を享受していました。革命前夜のフランスには、おそらく二五万人もの貴族が存在し、そのすべてが何らかの法的な特権を保持していたものと思われます。しかしイギリスではそうした特権をもつ貴族は、オックスフォード大学の講堂に入りきる程度の人数しか存在せず、さらに彼らのもつ法的な特権も、それほど大きなものではありませんでした。

一方、イギリスでは貴族階級のすぐ下に、「ジェントリー」とよばれる境界のあいまいな上流階級が誕生していました。この階級は上の方では貴族と、下の方では富裕な農業経営者や商人たちとつながっていたのです。

この高い身分とも低い身分ともつながりをもつジェントリーという社会階層が、イギリスの社会に結束力と流動性をもたらすうえで、大きな役割をはたすことになりました。なぜならジェントリーという身分は、富の蓄積や職業上の成功によっても手に入れることが可能だったからです。

ジェントリーのあいだでは、騎士道精神にもとづく倫理観が非常に重視されていました。つまりジェントリーとは、イギリス貴族の伝統を受けつぐ一方で、従来の排他的な階級制度に風穴をおける役割をはたしたというわけです。そしてこのジェントリー階級が、近代イギリス社会の成立において、大きな役割をはたすことになるのです。

「絶対王政」下の主権国家体制確立に向かう動きについて。

当時のヨーロッパ諸国の統治形態にはさまざまな形のものがありますが、それには惑わされないようにしてください。重要なのはこの時期、ヨーロッパの人びとが、国家の最高権力である「主権」という概念を考えだし、それを国家の基礎として位置づけることで、強力な近代国家を成立させていったという事実です。「主権」の担い手が誰で、その権力はどのような範囲にまでおよぶかという点については、さまざまな議論がありました。しかしヨーロッパではしだいに、もし「主権」が正当な担い手の手中にあるならば、その立法権にはいかなる制限もあってはならないと考えられるようになったのです。

そこには従来の考えとは大きな断絶がありました

「無制限の立法権をあたえられた統治者(主権者)」という概念は、中世ヨーロッパ人の目には、神学的には冒瀆であり、社会的にも従来の既得権(さまざまな特権など)を侵害するものと映ったことでしょう。

その結果、当時そうした「主権」を行使する地位にあった王たちに対して、まったくちがったふたつの立場から批判が起こるようになります。ひとつは「保守的」な立場から、中世的な「自由」を守ろうとするものでした。もうひとつは近代的な「自由主義」の立場から、「主権」が王の手中にあるのはまちがいであるとするものでした。しかし実際にはのちのフランス革命でも見られるように、このふたつの立場は渾然一体となっていたのです。

ヨーロッパにおける近代的な主権国家の登場は、多くの国が君主政(王政)を採用していたために、その革新性が目だたなくなっています。

けれども法的原理についての議論から目を移すと、近代ヨーロッパにおける国家の発展は、王権の強化と一体となって進んでいったことがよくわかります。中世後期に多くの国で採用されていた代議制がすたれてしまったことは、そのひとつの現れといえるでしょう。

代議制が衰退する傾向は一六世紀に始まり、フランス革命が起きた一七八九年には、西ヨーロッパの多くの国は、議会などによって制約を受けることのない王によって支配されるようになっていました(イギリスは例外でしたが)。各国の王たちが一六世紀以降手にするようになった権力は、中世の領主や市民だちから見れば非常に強大なものに思えたことでしょう。

ところでこうした現象は、よく「絶対王政」の台頭と表現されることがあります。この言葉の使用自体に異議をとなえるつもりはありませんが、その場合は王たちがみずからの意向をどれだけ実現できていたかという点に、よく注意しておく必要があります。というのも現実には「絶対王政」の王権に対しても、中世の王権と同じく、多くの抑止機能が働いていたからです。

しかし、王たちのもつ権力が一六世紀以降、あらゆる面で大きくなっていったことは事実です。各国の王たちは新しい財源を見つけては常備軍や大砲を整備し、私兵をもつ余裕のない大貴族たちを押さえつけようとする一方で、芽ばえつつあった国民意識を臣民と共有することもありました。大まかにいえば、一五世紀末ごろには多くの国で、秩序と平和が保証されるなら、そうした強力な王権を受け入れてもよいとする認識が生まれていたようです。もちろん国によって事情はさまざまでしたが、ほとんどすべての国にいえるのは、王たちがこの時期、「もっとも有力な貴族」から、それ以上の存在へのしあがることに成功したということです。そして彼らは武力と徴税権をもちいて獲得した権力によって、新しい統治形態を確立していくことになるのです。

宗教改革も同様に国民国家の萌芽期を促進する役割を果たしたが、その絶対王政、「ルネサンス国家」を襲った「17世紀の危機」について。

このような国内の反乱は、いずれも経済的な困窮に端を発したものでした。つまり財政面では「ルネサンス国家」は、まったく成功していなかったのです。一七世紀になって、ほとんどの国で常備軍が創設されたことも、財政を圧迫する大きな原因となっていました。たとえばこの時期にフランスの国民に課せられた税は、イギリスとくらべて、はるかに過酷なものだったようです。

イギリスは内戦と国王の処刑、一時的な君主政の終焉といった重大な危機をすでに経験していましたが、国土の荒廃はそれほどではありませんでした。イギリスで頻発した物価の上昇を原因とする暴動も、一七世紀に起きたフランスの小作人の蜂起などとは、くらべものにならないほど小規模のものだったのです。逆にイギリスではピューリタンなどの急進派が国家や教会と対立していましたが、そうした信仰上の問題はスペインには存在しませんでしたし、フランスでもずいぶん前に解決済みでした。実際、フランスのユグノーにはさまざまな権利があたえられており、彼らは国王が自分たちを保護してくれていると考えていたため、フロンドの乱のときにも国王側についていたのです。

すでにのべたとおり、一六六〇年にはイギリスで王政復古によってチャールズニ世が王位に復帰し、その翌年にはフランスでルイー四世の親政が開始されます。これはヨーロッパの歴史にとって、大きなターニングーポイントとなりました。フランスではこれ以降、革命が起こる一七八九年まで、大規模な国家的混乱は起きませんでしたし、とくにルイー四世が一七一五年に死去するまでの半世紀は、比類のない軍事力と外交力が発揮された輝かしい時代となったのです。イギリスでも、一六八八年に名誉革命が起こったものの、内乱は二度と起きませんでした。

イギリスでは一六八九年に制定された「権利の章典」のなかで、個人の権利がはっきりと確立されましたが、国家の主権の問題はまだ決着していませんでした。それに対し、フランスではすべての人が王権の絶対性に同意していました。ただし法律家たちだけは、国王にも法的にできないことがあると指摘しつづけていたのです。

この混乱は、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、勢力均衡原則に基づく講和が結ばれることによって終息、長年続くヨーロッパの政治地図が現れる。

一方、西欧に比して後進的存在となった東欧、その中心たるロシアのツァーリズムについて。

こうしてロシア正教会がツァーリに服従した結果、ロシアの政治形態に最後の変革がもたらされ、ロシア型の専制政治が誕生することになりました。この変革の特徴を列挙すると、つぎのようになります。

「法的な制限を受けることのない半ば神格化された支配者(ツァーリ)の存在が認められたこと」、「ツァーリへの奉仕が全人民に課せられた義務として強調されたこと」、「土地保有がその奉仕義務と結びつけられたこと」、「権力の分散がない巨大な官僚機構が発展したこと」、「軍事上の要請が最優先されるようになったこと」などです。

こうした特質は研究者からも指摘されているように、専制政治が始まった時点ですべて存在していたわけではありません。また、すべての特質がいつも同じように効力を発揮していたわけでもありません。それでもロシア型の専制政治は以上のような特質によって、西ヨーロッパ型の君主政とは、はっきりと区別することができるのです。

西ヨーロッパでは、はるか中世の時代から、都市や各階級の人びと、ギルドなどの団体が、さまざまな特権を享受していました。そうした伝統の上に、のちの立憲政治が築かれていったのです。ところがかつてのモスクワ大公国では、最高位の役人ですら、「奴隷」あるいは「召し使い」を意味する役職名でよばれていました(同じ時期のポーランドやリトアニアですら、そうした立場の人びとはすでに「市民」とよばれていたのですが)。

ヨーロッパでもっとも強大な「絶対王政」を確立したフランスのルイー四世でさえ、個人的には王権神授説を信奉していたかもしれませんが、みずからの権力がつねにさまざまな法的権利や既得権、神の法などによって制限されていることをはっきりと自覚していました。またフランスの国民もルイー四世を「絶対君主」だとは思っていましたが、「専制君主」であるとはまったく考えていなかったのです。

一方、イギリスでは、すでにのべたように議会のコントロール下におかれた立憲君主政が誕生しつつありました。たしかにイギリスの君主政とフランスの君主政では、その方向性はまったくちがっていたかもしれません。しかし、どちらの国王もロシアのツァーリとくらべれば、はるかに多くの制約を受け入れていたことは事実なのです。

・・・・・・

ロシアの社会構造もまた、他国との違いがきわだっていました。ロシアはヨーロッパのなかでも、農奴制を最後まで廃止しなかった国です。ほとんどのキリス卜教国では一八世紀に奴隷的な強制労働が衰退していたにもかかわらず(アメリカ合衆国とエチオピアは例外ですが)、ロシアでは逆に農奴制が広がりを見せていたのです。その理由はおもに、広大な土地に対して労働力がつねに不足していたところにありました。驚くべきことにロシアでは、土地の価値は広さではなく、「魂」の数、つまりその土地に属する農奴の数で決められていたのです。

このようにロシアの専制帝政を批判的な筆致で記す著者ではあるが、その成立にはそれなりの歴史的経緯があったことも記し、一方的な見方には陥っていない。

もっとも歴史をふり返ってみれば、ロシアにはこのロシア型の専制政治が実に適していたといえるでしょう。一八世紀の学者たちは、「広くて平らな国には専制政治が似合う」という言葉をのこしています。これはいささか単純すぎる意見かもしれませんが、ロシアのようにあまりにも多様な地域と人びとをかかえる大国には、つねに分裂へとむかう政治的なベクトルがはたらきます。「ツァーリ」を中心としたロシア型の専制政治には、強大な力で国をひとつにまとめあげるという大きな役割があったのです。

著者は、ロシアの近代化の端緒となったピョートル1世の治世をやや肯定的に評価するものの、もう一人の代表的君主エカチェリーナ2世への視線は厳しい。

エカテリーナ二世の統治はピョートル一世よりも華々しいものとなりましたが、改革の推進という点では見劣りがします。たしかにエカテリーナも学校を設立し、芸術や科学を庇護したことは事実です。けれどもピョートルが実質的な改革を進めたのに対し、エカテリーナは啓蒙君主としての名声を、政権の運営に利用しただけだったという見方もできます。見た目は進歩的でしたが、実際には保守的だったといってよいでしょう。

・・・・・・

長い目で見ると、貴族たちと専制政治が手を結んだことは、ロシアにとって大きな弊害となりました。エカテリーナ二世のもとで、ロシアが社会のだかをきつくしめ始めたとき、ほかのヨーロッパ諸国はすでにそれをゆるめ始めていました。そのためロシアはつぎの半世紀に連続して起きた危機と変化に、ほかの国のように柔軟に対応することができなくなってしまったのです。

経済的および宗教的な「強い動機」を持つヨーロッパ人が、他の文明に抜きん出て海外進出を達成。

その初期に最大の植民地を誇ったスペインだが、広大な新大陸領は銀の産出以外には目立った利益を生まず、面積的にははるかに小さいカリブ海の島々の方が強い重要性を持っていた。

一方、イギリスの北米植民は、後発の存在にも関わらず、成人男性だけでない家族での移住とタバコ栽培の成功により、自立的な農業植民地としての成功を収める。

文明史的に、大きな視野に立てば、西半球新大陸は完全に「ヨーロッパ化」「キリスト教化」される道を歩むことになり、イスラムなど他の宗教・文明が影響を与えることはほぼ無くなることになる。

 

 

終わり。

一巻まるごとヨーロッパ史だが、一見単調に見えて、ついつい読み飛ばしてしまうところに、実は重要で興味深い視点や評価が含まれていることが多いので、注意が必要。

この巻もそこそこ面白いです。

2017年1月22日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 01:37

中国、日本、インドなど非イスラム圏のアジアと中世ヨーロッパの巻。

 

 

まず、古代から近代の入り口に至るまでの中国史がざっと片付けられる。

中国文明が、世界史上まれに見るほどの継続性と独立性をもちえた理由は、実はそれほど複雑なものではありません。中国の地理的な位置を思い浮かべてみてください。東側の海岸は太平洋にむけて大きく開けていますが、近代以前に西方世界からそこに海路で到達することは、ほとんど不可能でした。一方、西側の国境は、数々の山脈や砂漠によって守られており、ごく最近になるまで、わずかな隊商が荷物を運んで行き来することしかできなかったのです。

つまり中国は、オリエントや地中海、西アジアといった古代文明の先進地から完全に孤立した場所にあり、ほかの大文明から政治的安定を乱されることが、ほとんどなかったというわけです。そのよい例がイスラーム文明の影響です。七世紀以降、いくつも誕生したイスラーム国家の盛衰は、インドの歴史には大きな変化をもたらしましたが、中国の王朝の興亡にはほとんど影響をあたえませんでした。

インドではバラモン教からヒンドゥー教へといたる強固な宗教的伝統と、その過程で誕生したカースト制度が、文明の強力な安定要因として働いていました。一方、中国文明に安定をもたらしていたのは、儒教にもとづく高度な官僚制度です。統一王朝の出現後、かなり早い段階で誕生したこの統治システムが、たび重なる王朝の交代をくぐりぬけ、中国文明に強い継続性をもたらしつづけていたのです。

・・・・・・

中国の官僚たちは、社会全体をおおう儒教の影響力のもとで、政治と社会におけるさまざまな役割を一手に引きうけていました。彼らは役人であると同時に、儒教の教えをもっともよく知る「学者」であり、また芸術においても指導的な役割をはたす「文化人」でもあったからです。

中国では、おそらくほかの世界(イスラーム世界をのぞきます)とはくらべものにならないほど、特定の教義(儒教)が深く国家運営の中枢に組みこまれていました。そして中国の官僚たちは、ヨーロッパのキリスト教の聖職者にも似た倫理的な行動をとることを求められていたのです。

官僚制度の基盤である儒教は、きわめて保守性の強い教えであり、行政のおもな目的は既成の秩序を維持することと考えられていました。中国で、統治に際して何より優先されたのは、多様性に富んだ広大な帝国――多くの地方行政官は担当地域に言語の異なる人民をかかえていました――に一定の基準を普及させて、帝国全土に秩序をもたらすことでした。こうした実に保守的な目標を達成するにあたって、中国の官僚制度は驚くほどの成功を収め、その基本的な性格はあらゆる王朝の危機を乗りこえ、無傷のまま生きのびていったのです。

以上の通り保守的・静的な中国史上で、例外的に最も劇的な経済成長を遂げたのは、宋代。

宋王朝が存続した紀元一〇世紀から一三世紀にかけて、中国では人口が増えつづけたにもかかわらず、ほとんどの中国人の実質所得は増加していたものと思われます。つまり、かなりの長期にわたって、経済成長が人口の増加を大きく上まわっていたようなのです。それを可能にした理由の一つが、新しい稲の品種の発見だったことはまちがいないでしょう。

この新しい稲の導入により、じゅうぶんに灌漑された土地からは年に二度の収穫が、春だけ灌漑する丘陵地からも年に一度の収穫が見こめるようになりました。農業以外の産業の生産性も飛躍的に向上しました。ある学者は、中国は一一世紀の段階ですでに、六〇〇年後の全ヨーロッパの生産量に匹敵するほどの鉄を生産していたと推測しています。また繊維製品の生産能力も、水力による紡績機械が導入された結果、飛躍的な発展をとげていました。

宋王朝の時代になぜこのようなめざましい経済成長が起こったかを説明することは、実は容易ではありません。さまざまな史実の評価について、まだ意見が分かれているからです。公共事業、なかでも大運河の修復など、交通網に対する政府の積極的な投資が経済を活性化させたことは、おそらくまちがいないでしょう。また、長いあいだ他国からの侵略や内乱が起こらなかったことが、経済成長をうながす大きな要因になったこともたしかです。

しかし、たとえば内乱についていえば、逆に経済が成長したおかげで内乱が起きなかったと説明することもできます。結局、もっとも大きな理由は、市場の拡大とさまざまな要因によって、貨幣経済が盛んになったことだと思われますが、その根底にあったのは農業生産力の飛躍的な向上でした。農業生産力の向上が人口の増加を上まわっているかぎり、つまり民衆がじゅうぶんな食料を手に入れているかぎり、王朝から「天命」が去ることもなく、社会が混乱におちいることもありませんでした。こうした社会的な安定のなかで蓄積された資本が、さらなる労働力の活用をうながし、設備投資にもまわって新しい技術の開発も行なわれるようになりました。その結果として、人びとの実質所得もふくれあがっていったというわけです。

しかし、その成長には一定の限界があり、それを超えて文明が質的変化を遂げることは無かった。

宋王朝の時代に起こった急激な経済成長が、その後、停滞してしまった理由についてはよくわかっていません。それから五世紀近くのあいだ、中国人の平均実収は上昇することがなく、生産高は人口の増加に見あう水準をたもつのがやっとでした(農民の収入は、低下の一途をたどりました)。

しかし宋王朝の時代以降に起きた経済停滞は、ヨーロッパ人がいうところのいわゆる「アジア的停滞」を中国にもたらした真の理由ではありません。たとえば印刷術の進歩にもかかわらず、中国の民衆は二〇世紀にいたるまで、ほとんど読み書きができませんでした。また中国の大都市は経済成長をとげ、活発な商業活動を展開していたにもかかわらず、ヨーロッパのように民主的または自由主義的な市民社会を生みだすこともありませんでした。紀元前の戦国時代には、すでに諸子百家とよばれるさまざまな新しい思想が開化していたのですが、その後の中国文明は、ヨーロッパのような啓蒙思想を生みだすこともなかったのです。技術分野でも大きな進歩が起こっていたものの、それらが社会に革命的な進歩をもたらすこともありませんでした。

宋王朝の時代の船乗りたちは、すでに羅針盤を使用していました。しかし、一五世紀に明王朝の武将である鄭和が七度の大航海を行なって、インド、タイ、インドネシア、ペルシア湾、東アフリカなどに艦隊を派遣したとき、その目的はあくまでも明王朝の権威を誇示するところにあり、さらなる遠洋航海そなえて情報を集めることはありませんでした。

中国では紀元前二千年紀(紀元前二〇〇〇~一〇〇一年)にはすでに青銅器の傑作が生みだされ、またヨーロッパより一五〇〇年も早く鉄の鋳造が行なわれていました。しかし、こうしたすぐれた冶金術の伝統は、鉄の製造量がめざましく増大したにもかかわらず、新たな技術の開発にむかうことはありませんでした。さらにいえば、一三世紀に元王朝をおとずれたマルコ・ポーロは、「黒い石のようなもの」が燃えていたのを見たと書いています。実はそれは石炭だったのですが、鉄も石炭も大量に産出していた中国に、蒸気機関が誕生することはついにありませんでした。

このような例をあげていくと、きりがありません。おそらく中国文明は進歩ではなく、何か別の目標を達成しようとしていたのでしょう。ひとことでいうと継続性、つまり社会の安定の維持こそが、中国文明がめざした最大の価値だったのです。

儒教の思想を中心として、早い時代に確立された官僚制度も社会体制も、社会に変革を起こさないことをもっとも大きな目的として生みだされたものでした。第二巻のなかでも少しふれましたが、非常に早い段階で高度な文明を成立させたことと、地形的な孤立、文明圏の内部だけで経済的繁栄が可能だったことなどがあいまって、彼らは外の世界から何かを学ぶ必要を感じなかったのでしょう。

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中国文明がかかえていた矛盾点は、ヨーロッパ世界との接触が本格化する一九世紀までには、すでに誰の目にもあきらかになっていました。つまり中国人は多くの分野で、ヨーロッパ人よりも数百年、ときには一〇〇〇年以上も早くさまざまな技術を開発していたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国の介入を阻止できるだけの科学的発展にいたることは、ついになかったのです。

火薬がそのよい例です。中国人は世界に先がけて火薬を発明したにもかかわらず、ヨーロッパの大砲に匹敵するような武器を生みだすことはできませんでした。それだけでなく、ヨーロッパの職人が製造した大砲を有効に使うことさえできなかったのです。すでにのべたとおり、有効に活用されなかった中国の知的財産をあげていくときりがないのです。

その問題点は、実にはっきりしています。中国人が発明を実用化することに関心がなかった理由は、儒教を基盤とした官僚中心の社会体制にありました。中国の社会体制においては、ヨーロッパのように社会的地位の高い人びとと職人(技術者)たちのあいだに知的交流が生まれることがなく、そのため各分野での技術の発展が、文明全体を前進させる結果をもたらさなかったのです。

偉大な伝統文化に対する自負心のため、中国人はなかなか自国の文化が内包する欠陥を認めることができませんでした。おそらくそのせいで、彼らは外国人(中国人にとってはそのすべてが「野蛮人」でした)から何かを学ぶということが非常にむずかしかったのでしょう。さらに事態を悪化させたのは、儒教の伝統のため、中国文明が軍人や軍事技術者を軽視する傾向にあったことです。その結果、中国は外の世界からの脅威が増大した時代に、対応を大きくまちがえてしまうことになるのです。

 

 

そして、日本がこのシリーズで初めて登場。

まず、その全歴史の前提となった、地理的条件を述べる。

イギリスでは一時期、日本をアジアにおける大英帝国にたとえる議論が盛んだったことがあります。さまざまな観点から共通点が論じられ、なかにはあまり説得力のない説もありましたが、そこにはひとつだけ、反論の余地のないあきらかな事実がありました。それはこの両国が、いずれも海にかこまれた島国であり、国家の運命がその島国という条件によって大きく左右されてきたという事実です。

イギリスの歴史も日本の歴史も、海峡をへだてた大陸とは別の道を歩むことが可能だった一方で、やはり大陸からの影響を強く受けざるをえませんでした。もっとも日本と朝鮮半島のあいだに横たわる対馬海峡は、その距離がドーバー海峡のほぼ五倍あるため、日本はイギリス以上に大陸からの影響を受けずにすんだといえるでしょう。けれどもイギリスがそうであったように、日本もまた対岸、つまり朝鮮半島に強大な政治勢力が出現すると、時の政権は動揺することになりました。そうした状況は、イギリスが対岸のオランダなどへの敵対勢力の侵入を何よりも警戒していたことと、たしかに似ているように見えるのです。

そして、天皇の存在によって権威と権力の分立が成り立ったこと、戦乱期にも順調な発展が見られたことを述べ、前近代の日本が最終的に到達した江戸時代の幕藩体制を、以下のように高く評価する。

江戸幕府とは、ちょうど前章でご紹介した中国の儒教体制と同じく、それぞれの身分に応じた義務を徹底させ、階級にしばりつけることを最大の目標とした政権でした(事実、儒教の影響を受けていました)。それがどれくらい抑圧的なものであったかは、いまとなってはよくわかりませんが、社会に安定をもたらすという点では非常に有効な体制だったといえます。そして長い戦乱の時代のあとで、日本が安定を必要としていたこともたしかだったのです。江戸時代は、人びとがみずからの分(立場や義務)をわきまえることと、規律、勤勉、禁欲が強く求められた時代であり、この政権がうまく機能していたとき、たしかにそれは人類社会におけるもっともすぐれた社会体制のひとつだったといえるでしょう。

「前近代においては」という前提付きの話だろうが、それにしても驚くほどの高評価である。

江戸時代の二六五年間で、農業の生産高は約二倍になりました。一方、人口の伸びはその半分以下にとどまっています。江戸幕府はいわゆる「小さな政府」であり、新たに生まれた富を搾取しつくすような政権ではなかったため、その富は社会にとどまり、投資にまわったり、国民の生活水準を引き上げる役割をはたしたりしたのです。

同時代においてこのような自律的経済成長をとげた社会は、日本のほかにはヨーロッパしかありません。アジアのなかでなぜ日本だけがこうした経済的繁栄をとげたかという問題については、いまだに論争がつづいています。冒頭にお話ししたように、地形的な条件もたしかに大きかったことでしょう。アジア大陸の豊かな国々が、草原の遊牧民たちからたび重なる略奪を受けていたのに対して、日本は海にかこまれているためにそうした略奪を受けずにすみました。さらに江戸幕府が戦乱を終結させて、長い「天下泰平」の時代をもたらしたことは、もうひとつの大きな原因だったといえます。農業分野でも大きな進歩が見られました。耕地の開墾が強力に進められ、灌漑設備に資金が投じられ、ポルトガル人が伝えたアメリカ原産の作物がとり入れられたことも、人びとの生活水準を高めるうえで大きな役割をはたしました。

さらにそうした個々の要素が、相互にあたえた影響についても見ておく必要があります。すでにお話ししたように、江戸幕府が江戸に大名とその家族(さらに家臣たち)を強制的に住まわせたのは、政権の安定のためでした。しかしその結果、大名たちは米を市場に出して現金を手に入れねばならず、資本の流通が刺激されることになりました。また、そうして日本中から集められた資本(貨幣)が江戸で集中的に消費されることで、巨大な消費市場が成立することになったのです(江戸時代の武士とは経済的に見れば、いっさいの生産を行なわず、消費のみを行なう人びとということになります)。

さらに日本が二七〇もの地方政権(大名)によって分割されていたこともあり、各地で特色のある産業が発展していきました。産業革命初期のヨーロッパと同じように、日本の産業やさまざまな製品の製造も、最初は地方から始まったものなのです。幕府もそれを奨励していました。江戸時代のはじめには幕府主導で灌漑事業が進められ、度量衡と貨幣の統一も実施されています。

そして江戸幕府には、社会を統制しようという強い熱意はありましたが、実際の支配力はそれほどではなかったため、経済成長が妨げられることがなかったものと思われます。江戸幕府は、その最盛期にはあたかも絶対君主のように見えたときもありましたが、本質的には各地の地方政権の勢力均衡の上に位置する、大名連合の盟主ともいうべき存在だったからです。

一九世紀後半にヨーロッパからの脅威を受けるまでは、この体制は実にうまく機能していたといってよいでしょう。華やかな都市文化が開花し、のちにヨーロッパの印象派の画家たちにも大きな影響をあたえる浮世絵や、歌舞伎などの大衆芸術が庶民たちの大きな人気を集めるようになっていきました。一八〇〇年当時の日本人の平均所得と平均寿命は、イギリス人とほぼ同じ水準にあったと考えられています。

やがて一九世紀の後半に、日本は欧米諸国から開国をせまられ、明治維新を成立させて近代国家への道のりを歩み始めることになります。この巻ではそこまでふれませんが、それはほかの国には例を見ないような、急激で痛みをともなう自己改革の道だったといえるでしょう。

もっとも、すでに見てきたような経済成長を考えると、たとえ欧米諸国からの圧力がなくとも、幕藩体制が生き長らえることはなかったように思えます。日本では、江戸時代の末期にかけて、すでにさまざまな問題が噴出していました。また幕府の家臣や地方の有力大名のなかには、中国や朝鮮まで視野に入れて、東アジア全体の防衛構想を模索する人びとも出現し始めていました。そしてほかのアジアの民族と同じく強大なヨーロッパ文明の脅威にさらされたとき、日本が選択した道は、同時代の中国の清王朝やインドのムガル帝国とは、まったく異なった道だったのです。

 

 

続いて、インド。

インド史において、マウリヤ朝をはじめとする政治的統一が長期間存続しない理由を以下のように説明。

マウリヤ朝があっけなく衰退してしまった最大の原因は、おそらくインドの長い歴史を通じてつねに存在する、非常に根本的な問題にあったものと思われます。つまりインド社会は家族とカースト制度を基盤として成立しているため、インド人は王朝や国家といった抽象的な存在に忠誠心をもつことは、その後も現在にいたるまで、ほとんどなかったようなのです。そのため民衆がたとえば食料の問題などで不満をもつようになると、帝国の崩壊を食いとめようとする力は、どこにも存在しなかったということなのでしょう。

アショーカ王が帝国全域に「ダルマ」という新しいイデオロギーを広めようとしたとき、成功を収められなかった背景にも、おそらく同じ問題があったのでしょう。さらにいえば、こうしたインドの社会制度、とくにカースト制度は、その後も長くインドの経済発展を妨げつづけることになります。生まれによってすべての社会的行動が規定されるカースト制度のもとでは、経済が停滞し、人びとの活動の意欲がそがれてしまうことは、まったく当然のことだからです。

宗教を中心とする基盤としての文明の強靭性と、その上に立つ王朝・国家の脆弱性というコントラストは、インド文明とイスラム文明に共通するように思われる。

そして、その文明が持つ、強い独自性について。

ここまで見てきたように、ダルマの思想も、また『カーマスートラ』における性愛の肯定も、キリスト教世界やイスラーム教世界のもつ戦闘的でかつ禁欲的な文明の伝統とは、まったくかけ離れたものでした。インド文明はおそらく中国文明などよりももっと、西方の文明とは異なった系譜に属する文明だといえるでしょう。またそこにこそ、インド文明のもつ活力と、外来文化に対する抵抗力の秘密があったのです。

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ヒンドゥー教と仏教はこうした変化を刺激として、最盛期をむかえることになりました。ふたつの宗教が成熟したのは、イスラーム教徒がインド北部を支配するようになる少し前のことでしたが、それ以後もインド文明の根幹をなす基本原理は、異なった文明にいささかも屈することなく、驚くほど強固に受けつがれていきました。インド哲学の中心にあるのは、きわめて大まかにいってしまえば、輪廻転生と梵我一如の思想でした。そこから生まれる世界観は、ヨーロッパ人のような高みをめざして上昇していく直線的な歴史観ではなく、時の流れを超え、無限に循環運動をつづける宇宙観です。

このような基本思想がインドの現在までの歴史にどのような影響をおよぼしたかという問題については、あまりにも大きすぎて、把握するのはほとんど不可能かもしれません。しかし、インド哲学の高い思想性は認めるにしても、その世界観が現実世界に反映されたとき、それは人間の行動の可能性ではなく、限界を強調する方向に作用したという点は指摘せざるをえないのです。

この強靭な独自性を持つインド文明の地に、強力な伝播力を持つイスラム教が侵入し、最終的にはムガル帝国成立に至る。

すでにイスラーム教はインド亜大陸にしっかりと根をおろしており、その後もイスラーム教徒による数多くの地方政権が誕生していったのです。おそらくイスラーム教は、インド文明の長い歴史を通じても、その巨大な同化吸収能力にとって最大の脅威だったといえるかもしれません。

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ムガル帝国の帝位は、一八五八年の滅亡までバーブル帝の子孫に継承されていきました。しかし、第三代皇帝だったアクバル帝のあと、重要な皇帝はほとんどつぎの三人だけといえます。というのも、第四代皇帝のジャハーンギール帝と第五代のシャー・ジャハーン帝のもとでムガル帝国は最大の領土を支配するようになり、第六代のアウラングゼーブ帝の治世に一気に衰退へとむかい始めたからです。

アクバル帝の宗教宥和政策によって、ムガル帝国の統治はようやく安定、続くジャハンギール、シャー・ジャハーン両帝治下で、重税化など衰退の予兆が見られても、その宥和策が何とか維持されていた限り、帝国が根底から揺らぐことは無かった。

だが、次代アウラングゼーブ帝の愚行が全てを暗転させる。

しかし、そうしたシャー・ジャハーン帝による過酷な徴税も、第六代皇帝となったアウラングゼーブ帝(在位:一六五八~一七〇七年)の偏狭な宗教政策にくらべると、はるかに弊害は少なかったといえるでしょう。

この皇帝は、ムガル朝の最大版図を実現したこともあり、高校世界史レベルでは最盛期の君主と見なされがちだが、本書での評価は全く違う。

当ブログでも以前に書きましたが、実際、アウラングゼーブ死後のムガル朝の急激な衰退は世界史的に見ても異常に思える。

結局それは、それぞれ同化力が極めて強い、インド文明とイスラム文明が衝突し、アクバル帝の宗教宥和策があった間は微妙な均衡が保たれ、何とか小康状態を維持していたが、それが放棄されるや、元々極度の社会的緊張状態の上に立っていたムガル帝国は崩壊の道をたどった、ということなんでしょう。

そして、インド、イスラム両文明の衝突が再激化しつつあった時期に、ヨーロッパ人が来航しており、漁夫の利を占めたイギリス人の手によって、オスマン朝・サファヴィー朝・清朝・ムガル朝の近世アジア四大帝国の内、インドだけが完全に植民地化されるという憂き目に遭うことになる。

ところで、ヨーロッパ人がインドで成功を収めることになった責任の一端は、おそらくアクバル帝にもあったといえるでしょう。アクバル帝の時代にヨーロッパ人との本格的な接触が始まったにもかかわらず、彼は早い段階で危険の芽を摘みとることをしなかったからです。驚いたことにムガル帝国は、海軍の創設を考えたこともなかったようです。その結果、アウラングゼーブ帝の治世には、早くもヨーロッパ人のせいで、沿岸での船積みやメッカへの巡礼交易までが危険にさらされることになったのです。

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こうしてインドはみずからの歴史を歩むのではなく、世界の歴史のなかで翻弄される時代をむかえようとしていました。この時期までに起きたさまざまな出来事が、そのことを示していたのです。

しかし実際のところ、ムガル帝国に終焉をもたらした原因は、ヨーロッパ人の到来ではありませんでした。ムガル帝国はみずからの内部要因によって崩壊へとむかい、ヨーロッパ人はただその場に居合わせたにすぎなかったのです。けれどもそのことが、のちに非常に重大な意味をもつことになるのです。

 

 

この後、「孤立した世界」と題して、アフリカ大陸とアメリカ大陸を扱った章がある。

アフリカ大陸とアメリカ大陸は、ほかの地域とはまったく異なるリズムで文明化への道をたどることになりました。もちろんアフリカとアメリカでは、事情は大きく違います。南北両アメリカ大陸は、氷河期以降、ほかの大陸とは海で完全にへだてられており、長いあいだまったくの孤立状態にありました。

一方、アフリカ大陸はその北岸部、つまり地中海沿岸部は古くから文明の先進地でした。それ以外の地域も、かなり孤立した状態だったとはいえ、七世紀以降はイスラーム勢力など外部との接触が始まっています。ほとんど沿岸部に限られていたものの、最初はアラブ商人、つづいてヨーロッパの商人たちとの交易関係も、わずかながら行なわれるようになっていたのです。

けれども大きな視点からいえば、アフリカ大陸の大部分は一九世紀後半まで、世界史の本流に組みこまれることはありませんでした。そうした孤立状態のため、アフリカ大陸とアメリカ大陸の歴史には、いまなお解明されない部分が数多くのこされているのです。

アフリカについては、それが持っていた地理的自然的条件が文明化への大きな障害になったことを指摘。

農業の歴史を見てみると、アフリカ大陸がその過酷な自然環境のために、文化的な発展を阻害されていたことがよくわかります。とくにサハラ以南のアフリカは、地形や気候、疫病などが重い足かせとなって、大きな発展を望むことはむずかしかったようです。アフリカの歴史において、鉄器の製造法や新しい農作物は、つねにオリエントやアジア、インドネシア、アメリカなどからもたらされたものでした。また蒸気機関や医薬品は、一九世紀にヨーロッパから伝えられたものです。そうした外来の技術がなければ、アフリカの過酷な自然に対処するのは非常に困難なことだったでしょう。

アフリカ最初の国家がクシュ王国、それを滅ぼしたアクスム王国があったエチオピアは北部以外のアフリカで唯一のキリスト教国となり、その後イスラム教が伝わり、多くの王国で信仰されるが、それには一定の限界もあった。

いくつか確実なこともあります。たとえばネグロイド(黒色人種)系の国においては、王や支配階級がイスラーム教を信仰していたときも、一般の民衆は土着の宗教を信じつづけていたということです。社会慣習も、すべてがイスラーム化したわけではありませんでした。アラブの旅行者や商人たちは、マリ王国の少女たちが衣服をつけず、裸で人前に出ていることに非常にショックを受けていたようです。

著名なガーナ、マリ、ソンガイなどの他、サハラ以南の諸王国の名が知られているが、そのどれもがある段階以上の発展を遂げることは無かった。

こうした王国の痕跡は、いまではほとんどのこされていません。またそうしたアフリカの諸王国には、長いあいだ、役人や常備軍も存在しませんでした。王たちは伝統や習慣に沿って国を治めており、その権力はあまり大きなものではなかったようです。そうした理由から、アフリカで興った多くの「国家」が短命に終わったことは、ほぼまちがいありません。長い歴史をもつクシュ王国は、エジプト以外のアフリカの国としては、まったく例外的な存在だったのです。

 

 

続いて、アメリカ文明。

ヨーロッパ人到達以前の北米については、アフリカ史に関しての黒色人種と同様、先住民族への偏見・差別に繋がらないよう、細心の注意を払った上で、客観的に全世界史を叙述すれば、文明的にはほぼ白紙と見なさざるをえない。

北アメリカの先住民の文化には、たしかに尊敬に値するところもあるのですが、それが文明とよべるほどのものでなかったことも事実です。アメリカ大陸でそのような段階にまで達していたのは、つぎの三つの文化だけでした。つまり、中央アメリカのユカタン半島周辺に生まれたマヤ文明、同じく中央アメリカのメキシコ盆地に生まれたアステカ文化、もうひとつは南アメリカのペルー(中央アンデス地方)に生まれたインカ文明です。

そのうち、アステカ文化に対する著者の評価は鮮明である。

アステカの宗教は、その身の毛もよだつ儀式――犠牲から生きたまま心臓をとりだしたり、首を切り落としたりしていました――によって、ヨーロッパ人に大きな衝撃をあたえました。

アステカ人は祭儀に必要な犠牲には、戦争捕虜をあてていました。またアステカの戦士たちは戦闘で死ぬと、太陽神がつかさどる楽園に行けると信じていました。そのため、アステカ王国にとって平和とは、長くつづいてはならないものだったのです。アステカ人は従属国の統治をなおざりにし、反乱が起きればこれ幸いと攻撃をかけ、犠牲のための捕虜を手に入れていました。これでは従属国からの忠誠心など、得られるはずもありません。アステカがヨーロッパ人に滅ぼされたとき、従属国の人びとはさぞかし喜んだことでしょう。

アステカ人の信仰はまた、ヨーロッパ人との最初の接触において、皮肉な役回りを演じることになりました。というのも、彼らは偉大なる神ケツァルコアトルが、東方からもどってくるという信仰をもっていたのです。白い肌をもち、ひげを生やしたケツァルコアトル神は、アステカ人に文化を教えたあと、東方の海岸で姿を消したと伝えられていました。そのため、コルテスひきいるスペイン軍を見たアステカ人は、彼らをケツァルコアトル神の再来と考え、戦うことをためらったのです。

アステカ文化を全体として見ると、すぐれた美術品をのこし、高度な社会を営んでいたにもかかわらず、野蛮で魅力に乏しい文化だったといわざるをえません。民衆にあれほど大きな負担を強いた文化は、ほかにはほとんど存在しないからです。

これをアメリカ先住民を侵略したヨーロッパ人の側に立つ暴論と言えるだろうか?

私にはそうは思えない。

著者が言及しているのは、あくまでアステカ文化に関してだけであり、インカ文明については何も言っておらず、そのアステカ文化への評価に違和感は感じない。

西洋文明を絶対視し、それ以外の全ての文化を野蛮視するのはもちろん間違いだが、極端な文化相対主義に立って、文明間のあらゆる価値判断を放棄するのも間違いだ。

人身御供や拷問、奴隷制、女性と子供への虐待が広範に見られる文化とそうでない文化の優劣は間違いなくある。

その際、表面的なイメージに動かされないよう、慎重に判断する必要があることは言うまでもないが、基本はそう考えるしかない。

著者の章末尾の文章にも同意せざるを得ない。

このように、すべてのアメリカ文明は基本的な部分で、アジアやヨーロッパで成立した文明とは大きな違いをもっていました。インカ人は独自の記録法をもちいて複雑な行政機構を維持していましたが、高度な読み書きの能力を身につけることはありませんでした。技術についても、特定分野の技能は高い水準にあったものの、ほかの文明に影響をあたえるほどの技術を生みだすことはありませんでした。そのため、アメリカの諸文明は独自の文明を形成することはできましたが、彼らがその文明を通じて世界の歴史に貢献することは、それほど多くはなかったのです。

もっとも、文明が出現する以前になしとげられていた、世界に対するアメリカ大陸の貢献は、非常に大きなものでした。はるか昔にアメリカ大陸の人びとは、トマトやトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャを栽培する方法を発見し、人類の食料資源を大いに増やしてくれていたのです。アメリカ大陸ではそれらの食料資源をもとに、マヤ、アステカ、インカなど、きわめて興味深いいくつかの文明が築かれていきました。しかし、それらの文明は、最終的には世界史の辺境に、美しくめずらしい遺跡をのこすだけで終わる運命にあったのです。

 

 

続いて、中世ヨーロッパ。

「中世」という言葉は、ヨーロッパ以外の文化圏でもごく一般的に使われているようですが、もともとこれはヨーロッパ独自の歴史観にもとづく、かなり否定的な意味をもった言葉でした。つまり、「現代(近代)」と「古代」の中間に位置する、ほとんど重要性のない時代という意味を含んでいたのです。

最初にこの「中世」という言葉を考えだしたのは、一五~一六世紀のヨーロッパ人でした。当時彼らは、長く忘れ去られていた古代ギリシア・ローマ文明を「再発見」し、はるか昔に存在したその偉大な文化にすっかり魅了されていたのです。その一方で彼らはまた、自分たちの暮らす社会にも新しい変化が起こりつつあることを感じ始めていました。その結果、当時のヨーロッパ人のあいだに、自分たちの生きる時代は、かつての偉大なる古代の「再生」であり、そのあいだに横たわる期間はたんなる空白期間にすぎないという考えが生まれることになったのです。

けれどもヨーロッパの歴史において、約一〇〇〇年もの時間をしめるこの中世という時代・・・・がたんなる空白期間ではなかったという認識が、やがて少しずつ広まっていきます。そしてあるとき大転換が起こり、まるでそれまで無視してきた埋めあわせをするかのように、ヨーロッパ人はこの「失われた一〇〇〇年」を賛美し、理想化するようになったのです。

騎士道を題材にした歴史小説が人気をよび、地方には中世貴族の城をまねた新興富裕層の大邸宅が建ち並ぶようになりました。さらに重要だったのは、中世の文献研究が盛んになったことです。しかし、そうした多くの進歩が見られる一方で、本質的な理解を妨げるような弊害ものこることになりました。その一部は、現在でも依然としてのこされています。つまり中世キリスト教社会に存在した宗教的統一性や表面的な安定性を理想化するあまり、その奥に隠された多様性が見えにくくなってしまったのです。

とは言え、中世という時代は、何よりもキリスト教の時代であり、その影響が18世紀末に至っても残っていたことを著者は認める。

この巻では11世紀中世盛期から15世紀末までを、近世への変化を生み出した「ヨーロッパ世界の第二の形成期」「最初の革命の時代」として捉える。

その主題はもちろん国際的勢力としてのローマ教会の衰退と近世的国民国家の形成。

個々の教皇の無能・腐敗よりも、教皇制度そのものがイタリア以外の国から民族的反発を買うようになったことが、ローマ教会の衰退を招いたが、キリスト教信仰そのものは近世に入っても社会の中で大きな役割を果たしていたことも、本書では強調される(だからこそ宗教改革が起こったわけだから)。

少し話は変わりますが、私たち現代人は、もちろん国家という概念になじみをもっています。世界は固有の領土をもつ国家によって分割されており、各国にはそれぞれ外部から干渉されることのない「主権」が存在するという合意が広く認められています。また国家はある程度、民族的なまとまりにもとづいて構成されているという一般的な認識も存在しているといってよいでしょう。

このような考えは、実は紀元一〇〇〇年ごろのヨーロッパ人には、まったく理解できないものでした。ところが一五〇〇年ごろになると、かなりの数の人びとがそのことを理解するようになっていたのです。おそらく近代という時代の幕開けを示すもっとも重要な指標のひとつが、この国民国家という概念の成立だといえるでしょう。

そしてヨーロッパ史が持つ特殊性として、自立的なブルジョワ階級の存在を挙げる。

中産階級の出現をもたらした歴史的経緯は、よくわかっていません。・・・・・おそらく都市文化が開花した背景には、ヨーロッパ特有の要因が数多く存在していたのでしょう。どんな古代文明(古代ギリシア文明は例外とします)においても、またアジアやアメリカの社会でも、ヨーロッパのように都市生活のなかから新たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起こりませんでした。その理由のひとつとしては、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象となることが非常にまれだったという点が指摘できるかもしれません。ヨーロッパの政治権力は長く分断されていたため、権力者たちはライバルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガチョウ」を大切にするようになったのです。一方、たとえばアジアの大半の地域では、戦闘があるたびに都市がくり返し略奪されていました。

もちろん、それだけですべてが説明できるわけではありません。階級こそあったものの、ヨーロッパにはインドのようなカースト制度もなければ、中国の儒教のような人間の進歩を妨げるような思想もなかったことは、おそらく重大な意味をもっていました。さらには、ほかの文明圏では都市の住民たちは、たとえ裕福な人びとであっても社会的に低い地位に甘んじていたようです。ところがヨーロッパでは、商人や職人、弁護士、医師たちがそれぞれの仕事に誇りをもち、土地を所有する貴族たちからただ支配されるだけの存在ではなくなっていました。ヨーロッパの社会は変化や進歩に対して扉を閉ざしておらず、軍人や宮廷の官僚以外にも出世の道を開いていたというわけです。

知的側面でも、著者は中世ヨーロッパがイスラム文明から多くの影響を受けたことを通説どおり認めつつ、中国とインドの両文明がヨーロッパに影響を与えることが無かったことを指摘。

イスラーム文明のもつ文化的な受容能力と伝達能力を考えると、その存在がヨーロッパと東アジアのあいだに障壁をつくっていたとは考えられません。それよりも中国やインドの文明が、そうした距離を乗りこえてまでヨーロッパに影響をおよぼすだけの力がなかったというほうが事実に近いのでしょう。結局のところ、交流がさほどむすかしくなかった紀元前のヘレニズム時代でさえ、中国やインドの文明がヨーロッパに大きな影響をおよぼすことはほとんどなかったのです。

そしてルネサンスというヨーロッパ文明の自己革新について、少なくともその初期・中期においては中世との断絶との見方に強く釘を刺し、以下のように記す。

ルネサンスについて語る場合、この用語を使える文脈には限界があることをよく認識しておいたほうがよいでしょう。もしもルネサンスを、中世のキリスト教文明と一線を画す新しい伝統という意味で使ってしまうと、それは歴史をゆがめる行為となります。ルネサンスは有効な神話でしたし、現在でも有効な神話です。人間が自己を正しく認識し、行動するうえで非常に有効な考え方のひとつです。しかし、いかなる形であれヨーロッパの歴史において、ルネサンスと中世のあいだに線を引くことはできません。

なお、中世末から近世にかけての技術の中で、「たったひとつの技術上の革新がこれほど大きな変化をもたらした例は、人類の長い歴史のなかでも印刷術のほかにはなかったといえるでしょう。」と述べ、その意義を強調している(長期的に見て、以後の情報技術の発達が全てそうであるように、その弊害も桁違いだと私には思えるが)。

こうして中世を潜り抜け、近世に達したヨーロッパ文明の力量の総括。

逆境にくじけずに耐え、過去の文明の残骸や異民族から伝わった文化を集めてキリスト教世界を築いたヨーロッパ人は、知らぬまに巨大な文明の基盤を構築することに成功していました。しかし、それがさらなる発展をとげるためには、まだまだ時間が必要でした。一五〇〇年の時点では、未来がヨーロッパ人のものになるという兆候はほとんど見えていませんでした。ほかの民族の文明に対して、ヨーロッパの文明があきらかに優位にあるという証拠はどこにも存在しなかったからです。たとえば先陣を切って海外へ進出したポルトガル人は、西アフリカで現地の住民から砂金や奴隷を略奪していましたが、その一方ではペルシアやインドで遭遇した大帝国に圧倒されていたのです。

16世紀時点では、サハラ以南のアフリカと新大陸アメリカの先住民文明に対しては圧倒的優位に立てたヨーロッパ文明だが、アジアの諸帝国に対しては正面から戦えるような状態ですらない。

それが可能になるのは、19世紀、産業革命以後である。

日本を考えても、16・17世紀に帆船で来た「南蛮人」は簡単に追い払い、鎖国できたが、19世紀に「黒船」という蒸気船で来た欧米人に対しては開国せざるを得なかった。

最後にキリスト教思想の影響について。

この時代を理解するためには、それほどまでに変化にとぼしかった巨大な時の流れをよく認識しておく必要があります。おそらくそうしたヨーロッパの中世社会と、その奥深くに埋もれていた近代社会との関係を解く鍵は、キリスト教が本質的にもっている二元論のなかに見いだすことができるのでしょう。つまり魂とその牢獄である肉体、苦難に満ちた現世と幸福な来世、汚れた地上の国と輝ける天上の国という対立です。この二元論はやがて宗教的な思想を離れ、過去から進歩した現在、現在から進歩した未来という歴史観を生み、無限の進歩をめざすヨーロッパ文明の大きな武器となっていくのです。

このくらいの話になると、私の頭ではもう理解できないし、その是非も判断できない。

 

半分終わりました。

以後も続けます。

2017年1月16日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』 (創元社)

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本巻の監修者あとがきを書いた、後藤明氏によると、本巻原書の表題の直訳は「伝統の分岐」だと言う。

古代オリエントに始まる「文明の伝統」がギリシア・ローマに繋がり、ローマ帝国滅亡後、その流れがイスラム・ビザンツ・西欧の三つに分岐したと著者は捉えている。

また本書の中の一章は「対立する文明」と題されている。

これまでの巻で叙述されたように、前3000年に文明が誕生し、前500年頃までに各地で独自の主要文明が成立、それが変容・分岐を経つつ、1500年前後のヨーロッパの世界進出開始まで、均衡・並立状態を続ける。

その紀元前500年~1500年までの二千年間、諸文明は様々な接触・交流を持ちつつも、基本的にはその独自性を守ることになった。

しかし、時には文明同士が衝突し、大きな影響を与え合うこともあった。

その大きな要因は、著者によれば、二つある。

遊牧民族の活動、およびイスラム文明の膨張である。

先史時代から存在した地域ごとの文化の違いも、しだいに大きくなっていました。ユーラシア大陸とアフリカ大陸では、紀元前三〇〇~二〇〇年ごろからさまざまな地域に文明が生まれ、それぞれ独自の発展をとげていたのです。各文明のあいだには、ときにひかえめな接触はありましたが、基本的にそれは貿易商や学者、外交官、伝道師など、個人の力に頼った交流にすぎませんでした。そうした接触だけでは、もちろん文明全体に影響をあたえるのは難しかったことでしょう。

世界に点在するそのような文明は、様式や細かな点では多くの違いをもっていましたが、その一方、基本的な部分ではかなり似通っていたということもできます。たとえばごく最近まで、すべての文明は農業によって支えられていましたし、利用できるエネルギーも人間や動物の力のほかは、風力や水力に頼るしかなかったのです。また、どの文明も長いあいだ、ほかの文明に対して決定的に優位に立てるほどの強みをもつことはできませんでした。特定の文明が遠く離れた別の文明を完全に圧倒するようになるのは、ずっと先の時代の話なのです。

多くの場合、文明と文明が大きな影響をおよぼしあうのは、民族の移動によって異なった民族どうしが直接接触するようになったときや、遊牧民族が定住型社会へ侵入したときなどに限られていました。そして、最初は衝突をくり返し、やがて共存するようになっていったのです。そうした文明どうしの接触が人類の歴史に大きな進歩をもたらしてきたことは、これまですでにお話ししてきた第三巻までの物語のなかでも見てきたとおりです。

けれどもその一方で、異民族の侵入が文明に破滅をもたらしたり、悪影響をおよぼすケースがあったことも事実です。その代表的な例として、中央アジアから中東や東欧に何度も侵入し、多くの破壊を行なったモンゴル人の影響をあげることができます。

逆に異民族の侵入が、息の長い建設的な結果を生みだしたケースもあります。アジアの奥地から小アジアに進出し、やがてビザンツ帝国を滅亡させて一大帝国を築いたトルコ民族がそのよい例といえるでしょう。

そうしたさまざまな文明の衝突のなかでも、この第四巻でとりあげるイスラーム文明をめぐる衝突こそは、世界の歴史のなかでも、もっとも重要な文明の衝突のひとつだといえます。

その結果、スペインからインドネシア、また北アフリカから中国にいたる広大な地域の民族が影響を受けることになります。しかしその一方でこの衝突は、異なった文明の相互作用が豊かな文化を醸成することを示す、大きな例にもなったのです。

再び、監修者の後藤氏によれば、遊牧民族とイスラム文明に関する本書の叙述には、(特に前者についての)日本の学界を含む最新の研究成果が反映されているとは言えず、著者の力量は十分認めつつも、監修者としてやや不満が残る、という感じだそうです。

しかし、イスラムのことは後で述べるとして、本書での遊牧民族についての記述に大きな「偏見」を感じることは、個人的には無かった。

そもそも私は、司馬遼太郎氏を始めとして、杉山正明氏などの、モンゴルを含めた遊牧騎馬民族に対して、何かロマンティックな思い入れをする人の気持ちが全然わからない。

もちろん、世界史上で、農耕民は粛々と生産と建設に従事する「文明人」だが、遊牧民は略奪を生業にして定住社会に常に侵略者として現れる「野蛮人」だ、なんてとんでもない偏見が今通用するはずもない。

昔、司馬遼太郎氏が、遊牧民族を農耕社会への一方的侵入者として描くのは間違っている、農耕民による草原の農地化こそ、遊牧民にとっては自らの死活問題になる「侵略」だ、と喝破したことに対して、深く得心したことがあります。

ですから遊牧民族の活動を頭から有害視するのは間違いでしょう。

しかし、「モンゴルによる世界制覇のおかげで安全が保障され、ユーラシアの交易が一大盛況を迎えた、モンゴルによる破壊行為を強調するのは誇張に基づく偏見だ」というような、最近よく聞く見解には、どうしても眉に唾を付けて聞いてしまう。

そんなふうに思えるのは、我々の祖先が曲がりなりにも元寇を撃退できたからでしょう。

もしユーラシア大陸の他地域のように、あの時点で日本がモンゴルの支配下に入っていたことを想像すると、全くゾッとする。

現在の遊牧民に対して偏見を煽ったりすることは決してあってはならないし、今のモンゴル国民がチンギス・ハンを英雄視する自由はもちろんあると思うが、歴史上遊牧騎馬民族の活動が文明に対してしばしば破壊的作用をもたらした、とする評価自体は暴論とは思えない。

その遊牧民について本書の記述。

ここで少し遊牧民についてご説明しておきましょう。遊牧民の歴史は、その全容を知ることも個々の事実を知ることもともに難しいのですが、そのなかでひとつだけあきらかな事実があります。それは中央アジアの遊牧民が一五〇〇年もの長期にわたって、世界の歴史を大きく動かす要因でありつづけたということです。彼らは何度も世界を大混乱におとしいれ、その結果、西方でのゲルマン民族の大移動や、東アジアにおける中国王朝の交代といった巨大な歴史的変化をひき起こすことになりました。

遊牧民について語る場合には、まず地理的な話から始めたほうがよいでしょう。

遊牧民誕生の地とされる「中央アジア」という地名は、実はあまりよい名称とはいえず、「内陸アジア」とよんだほうがその実情をよくあらわしています。というのも「海岸線から遠く離れている」ことこそが、この地域を規定するもっとも重要な要素だからです。

海岸から遠く離れた内陸部だからこそ、特有の乾燥した気候が生まれ、近代にいたるまでその土地で暮らす人びとが、外部からの政治的な圧力にさらされることもほとんどありませんでした。その一方、仏教やキリスト教、イスラームなどがこの地域にも伝わっていることから、外部からの文化的な影響には開放的な地域だったこともわかっています。

・・・・・・

モンゴル人の歴史を年代や領土によって区分するのはあまり意味がありません。この遊牧民族は驚くほど短期間に、中国、インド、中東、ヨーロッパへと勢力を拡大し、世界中に大きな爪跡をのこしたからです。また、ゲル(移動型家屋)に張られたフェルト製の天幕のほかには、特筆すべき文化ものこしていません。巨大な嵐のように荒れ狂い、地球上のほとんどの文明に脅威をあたえ、人類の歴史のなかで二〇世紀だけが匹敵しうる大規模な殺戮と破壊をひき起こしたあと、彼らは現れたときと同じように、短期間で消え去ってしまったのです。こうしてモンゴル人は、もっとも恐ろしい最後の遊牧民征服者として、長く記憶されることになりました。

そして、諸文明の衝突・変容のもう一つの主因となったイスラム文明の誕生と拡大について。

この時代の征服は、イスラームが世界にあたえた衝撃の始まりにすぎませんでした。イスラーム勢力圏の広がりと多様性は、その後、人類の歴史のなかでも特筆すべきものとなります。

世界中のあらゆる地域でイスラーム化が避けて通れないように思われた時期さえありました(実際はそうなりませんでしたが)。

そしてこの偉大な文明の伝統は、その後もまた、新たなる征服のうえに築かれていくことになったのです。

世界の三大宗教の中で最後に登場したこの宗教は確かに、その拡大の速度と広がりは正に爆発的と言ってよいほどだし、一度改宗した地域での持続性も圧倒的なものがある。

(一度政治的支配下に入ったものの、その後イスラム化が後退した地域と見られるイベリア半島やバルカン、インドなどは多数派住民が改宗したとは言えないでしょうし、インドではパキスタン・バングラデシュ地域は今も完全にイスラム圏として残っている。)

しかし、宗教的・文明的には強靭性を持ち、社会にしっかりと根付いたイスラム文明だが、その基礎の上に立つ王朝という政治構造は脆弱であるという面も持っていた。

(このブログでも以前イスラム王朝の短命性について書きましたが、本書でもそれに近い記述があって、自分の感想もそれほど的外れでもないかと思えました。)

こうしてイスラーム文明が繁栄を謳歌していたとき、その政治体制はすでに衰えを見せ始めていました(崩壊が始まっていたといってもいいでしょう)。カリフ政権の要職に、しだいに非アラブ人の改宗者がつくようになったこともその原因のひとつでした。そしてアッバース朝は最初は帝国周辺の州で支配力を失い、それから帝国の中心だったイラク(メソポタミア)で支配力を失いました。

七世紀の中ごろ世界の歴史に突如登場したアラブ帝国は、こうしてきわめて早い時点でピークをむかえ、八世紀の末にはすでに衰退にむかい始めたのです。

・・・・・・

アッバース朝は、九四六年にペルシア人の将軍であるブワイフ家のアフマドがカリフを廃し、新しいカリフを擁立したときに実権を失ってしまいました。形式的には王朝は存続していましたが、実質的にはブワイフ家がときのカリフから「大アミール」に任命されて新しい政権を樹立した段階で、アッバース朝は滅亡したといってよいでしょう。こうしてアラブ・イスラーム世界は分裂し、約三〇〇年にわたって維持された中東地方の統一も、ふたたび崩壊することになりました。

・・・・・・

イスラーム国家の特徴として、宗教的な権威と政治的な権力が分離した状態は、長くつづかないということがあります。だからこそシーア派の軍事政権であるブワイフ朝も、スンナ派アッバース朝のカリフから「大アミール」の称号を受ける必要があったのです。

・・・・・・

こうしたイスラームによる「社会革命」は、もちろん宗教を中心として行なわれたものでした。しかしイスラームはユダヤ教のように生活から切り離された宗教ではなく、生活のあらゆる側面をつつみこむ教えだったのです。イスラームにはキリスト教では当然と見なされている聖と俗の区別や、精神世界と現実世界の区別を表現する言葉がありません。イスラーム教徒にとって宗教とは、社会そのものだったからです。だからこそその教えは、さまざまな政権が乱立する時代を超えて生きのびていったのでしょう。イスラームは「奇跡」を重視する宗教ではなく(いくつか奇跡的事件を伝える伝承はありますが)、人びとの暮らしにたしかな生活の規範をもたらしてくれる現実的な教えだったのです。

・・・・・・

こうして、ごく少数のアラブ人の信仰から始まったイスラーム勢力の拡大は、世界の歴史に驚くべき結果をもたらすことになりました。しかし、その偉大なる歴史にもかかわらず、アラブ国家は一〇世紀以降、イスラーム世界の統一を実現することはできませんでした。アラブ人が悲願とするアラブ世界の統一でさえ、現在はまだ夢でしかないのです。

・・・・・・

すでにお話ししたとおり、ビザンツ帝国は中東に侵入したさまざまな民族の標的となりましたが、それをなんとか乗りこえ、宿敵であるアラブのアッバース朝より長く生きのびることになりました。アッバース朝もまた、異民族からの攻撃を受け、衰退と分裂の道をたどり始めていたのです。

こうして一〇世紀以降の中東は混乱の時代に突入していくわけですが、その時代のアッバース朝に何が起きたかを簡単に説明するのはとうてい無理な話です。ひとついえるとすれば、たしかに商業が栄え、支配者階級に属さない裕福な人びとが出現するようになりましたが、その結果としてもたらされるべき持続的な経済成長は起こりませんでした。その根本的理由は、気まぐれなアッバース朝政府の方針とその搾取にあったといえるでしょう。

しかし、支配者や侵略者が現れては消えていったにもかかわらず、結局のところイスラーム社会の土台が揺らぐことはありませんでした。その結果、地中海東岸からヒンドゥークシュ山脈にいたる広大な地域が、歴史上はじめてイスラームというひとつの文化圏にのみこまれ、その文化は長く引きつがれていくことになったのです。この地域でキリスト教文化が大きな勢力をたもっていたのは一一世紀までで、その後は小アジアのタウルス山脈の西側に封じこめられてしまいました。それ以降、中東ではイスラーム勢力から存在を許された小さなキリスト教徒の社会だけが、かろうじて生きのこることになったのです。

イスラームが社会や文化に深く根をおろし、安定した制度を生みだしたことは、世界史的に見ても非常に重要な事件でした。カリフの権威の衰退期には、形式的にはカリフを主権者としながらも、半独立の王朝が実権を握るようになっていきます。しかし、イスラームがもつ強力な秩序は、これらの半独立王朝がかかえていた弱み(おもに政治や行政面での)を補ってあまりあるものだったのです。一〇世紀以降のそうした王朝については、あまりくわしくとりあげる必要はないでしょう。ただしそれらの諸王朝が、時代の転換点を象徴する存在だったことはたしかです。

引用末尾の諸王朝のうちで注目すべきものを、本書の記述の中から挙げると、まず、十字軍とモンゴルという二つの脅威を撃退し、イスラム世界の中心を一時エジプトに移す偉業を成し遂げたマムルーク朝。

次に、キリスト教文化圏に脅威を与え、その輪郭形成を促し、ヨーロッパの東西を分かちつつ、バルカンでのキリスト教徒を比較的寛容に扱ったことによってビザンツ帝国の遺産をスラヴ人が受け継ぐことを可能にしたオスマン朝。

そして、シーア派を国教とすることで、中東地域でのセム系アラブ人の大海の中で、印欧語族系ペルシアの独自性を、民族・言語だけでなく宗教においても守ることになったサファヴィー朝。

宗教自体の爆発的膨張にも関わらず、政治的統一は正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の三代を合わせても約300年弱しか続かず、遥か後年、トルコ系遊牧民の力を借りて、オスマン朝による中東地域統一はほぼ達成されたものの、それにもシーア派のサファヴィー朝ペルシアという重大な例外が存在していた。

これらの王朝に比して、モンゴルによる征服活動の余喘とも言えるティムール朝への著者の評価は低く、ネストリウス派とヤコブ派というアジアのキリスト教徒をほぼ絶滅させたことと、オスマン朝を破ることによって、ビザンツ帝国の滅亡を半世紀ほど遅らせたことだけだ、としている。

そして、イスラム文明の知的側面について。

著者はもちろんその全般的レベルの高さを認めている。

各地のモスクや宗教指導者を育成する学院で、高度な学術研究も行なわれていたようですが、それらはすべて宗教と密接な関係をもっていたため、その評価は非常に難しくなります。当時のイスラーム文明が客観的にどのようなレベルに達していたかについては、はっきりとしたことはいえません。ただ八世紀以降、好奇心にあふれた、自己に対する批判的な視点をもつ文化の種がイスラーム世界にまかれたことは事実です。

だが、本書では以上の文章に続けて、以下の一文をさりげなく記している。

その種が大きな花を咲かせることは、あるいはなかったのかもしれませんが。

これもイスラム教へのありきたりな「偏見」と片付けることはできない気がする。

イスラム文明の大拡張と(西)ヨーロッパ文明の成長の陰で、もう一つの「分岐した伝統」であるビザンツ文明は、政治的には衰退の一途をたどる。

だが、その衰亡の過程である民族集団が後継者として姿を現わしてくる。

こうしてビザンツ帝国は約一〇〇〇年の歴史に幕を閉じようとしていたわけですが、その遺産の大半は将来にむけて、すでに別の場所に「保存」されていました(ビザンツ帝国の人びとが誇りを感じられる形ではなかったかもしれませんが)。正教会がスラヴ人のあいだに根をおろす過程で、ビザンツ文明の遺産は彼らのなかに確実に受けつがれていたのです。この事実は現在にいたるまでのヨーロッパの歴史を、大きく左右することになりました。現在のロシアをはじめとするスラヴ系国家は、そもそもスラヴ人がキリスト教に改宗していなければ、今日ヨーロッパの一部と見なされることもなかったでしょう。

・・・・・・

初期のスラヴ芸術を見ると、スラヴ人が異民族の文化や技術を進んで吸収した人びとだったことがわかります。しかもスラヴ人は、その文化や技術を教えてくれた人びとが滅んだあとも生きのびていく、強い生存能力に恵まれていました。

そうした点を考えると、七世紀にスラヴ人と強大なイスラーム勢力の交流が、そのあいだにいたハザール族とブルガール族によってはばまれていたことは、世界の歴史において決定的に重要だったといえるでしょう。

・・・・・・

歴史的に見れば、このころロシアの歴史は決定的な分岐点にさしかかっていたといえるでしょう。いまだに北欧のヴァイキングの神々を信奉するロシアは、東方の正教会と西方のカトリック教会のはざまで、とちらについてもおかしくない状態にあったからです(イスラームはこの重大な時期に、ユダヤ教国家のハザールによって勢いをそがれていました)。

同じスラヴ人が建国したポーランドは、すでにカトリックを国教としていました。また、ドイツのカトリック教会も東方への布教を行ない、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。すでに分裂があきらかになっていた東西いずれのキリスト教会にとっても、ロシアはのどから手がでるほど手に入れたい存在だったのです。

・・・・・・

ビザンツ帝国やスラヴのキリスト教国は、文化的に分断されていたため、ヨーロッパの西部まで影響をおよぼすことはほとんどありませんでした。ただしこの両者は、ヨーロッパの西部が遊牧民やイスラームからの影響を受けずにすむ緩衝地帯の役割をはたしたといえるでしょう。もしもこのころロシアがイスラーム化されていたら、ヨーロッパの歴史はおそらく大きく変わっていたにちがいありません。

著者は、「ロシアのカトリック化」、あるいはもっと極端なケースである「ロシアのイスラム化」の可能性を示唆し、読者の想像力をかき立てる。

結局、キエフ公国のウラジーミル大公がギリシア正教に改宗、後にロシアは東方キリスト教会の最重要構成国家となる。

ハザールと共にイスラムとの接触からロシアを遮断したブルガール人もスラヴ化して正教会に改宗。

一方、上述の通り、スラヴ人の中で、ロシアと並んで早期に国家を形成する能力を持っていたもう一つの重要民族ポーランド人は西方カトリック教会に改宗。

ただし、ポーランドはこのことによって、東方に向かっては正教会に対するカトリックの前線基地、西方に向かってはドイツ人の植民に対するスラヴ民族の防波堤という二つの過剰な負担を背負うことになり、歴史上しばしば大きな悲劇に見舞われることになってしまった。

そして著者は、ポーランドだけでなく、スラヴ民族全体に付きまとう、「西方のラテン系・ゲルマン系諸民族に対する後進性と、東方のアジア系遊牧民に対する脆弱性」という二つの要因がもたらす「不幸な民族」という漠然としたイメージを肯定するかのように、以下の文章を記す。

思えばスラヴ人のなかで最大勢力となったキエフ公国にしても、その能力に見あうだけの発展をとげたとはいえません。

一一世紀以降の内紛と分裂によって国力をそがれ、その後はクマン人(ポロベッツ人)の攻撃に苦しめられることになったからです。さらにキエフ公国は一二〇〇年までに黒海の交易ルートの支配権を失い、北方に後退して、やがてロシアの歴史の中心はモスクワ大公国へと移っていくことになります。

そして、大きな苦難の時代がスラヴ人を待ちうけていました。ヨーロッパのスラヴ世界に、かつてない巨大な悲劇が襲いかかろうとしていたのです。同じころ、すでにお話ししたように、ビザンツ帝国にも悲劇がおとずれていました。一二〇四年に十字軍兵士がコンスタンティノープルを攻略し、正教を奉じてきた世界帝国が崩壊したのです。ところが、悲劇はそれだけでは終わりませんでした。それから三六年後には、同じく正教を奉じるキエフ大公国もまた、恐るべきモンゴル人の襲撃を受けることになったのです。

初期の西ヨーロッパ世界も外部から深刻な脅威を受けた脆弱な文明に過ぎなかった。

西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパはビザンツ帝国やイスラーム諸国の勢力圏にくらべて、すっかり後進地域になってしまいました。その勢力圏もすぐに、かつての西方キリスト教世界より、はるかに狭められたものとなります。

当時、西ヨーロッパに住むキリスト教徒は、自分たちが「敵の真っただ中にとりのこされた」と感じていたようですが、事実そのとおりだったといえるでしょう。中東やアジアへつづく道はイスラーム勢力によって分断され、南部の地中海沿岸もアラブ人の攻撃によって防戦一方となっていました。八世紀以降は、ヴァイキングとよばれるスカンディナヴィア人の襲撃に悩まされ、さらに九世紀になると、東部の境界が異教徒のマジャール人に脅かされるようになりました。このように初期のヨーロッパ世界は、さまざまな異民族の敵意にとりかこまれるかたちで形成されていったのです。

ローマ滅亡後のヨーロッパ世界については、ゲルマン民族の侵入だけでなく、その後もイスラム、ノルマン(ヴァイキング)、マジャールという数波の侵入があったことを常に意識する必要がある。

中世封建社会はゲルマン侵入直後ではなく、むしろその後の侵入者への自衛の為に、ゲルマン系の支配層が形成したもの、というイメージを持った方がよい。

11世紀の中世盛期までに起こった三つの変化を本書は指摘。

1.地中海地域からライン川とその支流流域への中心地帯の変化。

2.過去のローマ帝国の領域をも遥かに超えた、ヨーロッパ東部へのキリスト教の拡大。

3.マジャール、ヴァイキングの改宗を含む、異民族からの脅威減退。

そして著者は、当時の西ヨーロッパのキリスト教世界を三つに分類。

1.ライン川を中心とする仏独。

2.イタリア、南仏など地中海沿岸。

3.北部スペイン、イングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランド、スカンディナヴィア諸国など、西部から北部にかけての新しいキリスト教国。

考えればこの区分は常識的ではあるが、北スペインを新興キリスト教国ということで、英国と北欧グループに入れているのが、何か違和感がある。

もっとも、以後の叙述でこの区分を意識することはほとんど無いのだが。

ヨーロッパ世界がキリスト教を中心に形成されたことは言うまでもないし、結果として西欧のカトリック教会の歴史は「数ある宗教史のなかでもとびぬけて華々しい成功の歴史ではあります」と著者も述べているが、それでも外部の異民族、内部の異教的風習、配下の聖職者の無知・腐敗、世俗権力者の圧迫など、複雑で多くの困難に満ちたものだったとされている。

なお、本巻では、9世紀後半に一時的に教皇権を強化した教皇として、ニコラウス1世を挙げており、高校世界史レベルの有名教皇に加えて、この人名を記憶しておきますか。

その教皇と協調と対抗を繰り返した国王の地位について、国民国家の統治者と違い、中世の王は諸侯の中の第一人者に過ぎず、様々な制約を課せられ、その権力は限られたものだった、とよく世界史では教えられる。

「前近代の支配者なら、何ものにも制約されない専制君主だったはず」という偏見を一度頭の中から振り払うには、その事実も重要だが、だがそのイメージが行き過ぎることも間違いの元である。

とはいえ、抜け目のない王であれば、多少力が弱くとも、貴族からの圧力に容易に屈するわけはありませんでした。特定の貴族に離反されても、まだほかに多くの封臣をかかえていたのですから。賢明であれば一度にすべての封臣と対立するような愚かなことはしないでしょうし、そのうえ王の地位はやはり特別なものでした。即位時に聖職者から塗油を受けることによって、王権は神聖でカリスマ性を帯びたものとなっていたからです。華やかでかつ重厚なその儀式によって、王はあきらかに一般の人びとからは、かけ離れた強力な存在となっていました。中世の政治において、儀式というのは現代でいう条約の締結と同じような重大な意味をもっていたのです。それに加えて広大な領土を所有していたのですから、やはり王の権力はとびぬけて高いものだったにちがいありません。

君主政の伝統がどの国よりも深く根付いていた、と著者が指摘するイングランドが他のどの国よりも早く中央集権的国民国家への道を歩み始め、強大な王権が在ったがゆえにその制限に向かう道も開ける、という逆説が以後の歴史で生じることになる。

 

 

終わりです。

イスラム文明の誕生、およびそれとのビザンツ、ロシア、モンゴル、ヨーロッパの相互関係が主題であり、なかなか興味をそそる巻でした。

通読は全然余裕。

この先も、まず挫折しないでしょう。

2015年9月14日

八木谷涼子 『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 08:56

キリスト教内の各教派を解説した本。

翻訳者・作家向けアドバイスというのが各項にある。

以下、内容抜き書き。

単性論=イエスの神性のみを強調。エジプトのコプト正教会、アルメニア・エチオピア・シリアの正教会の教義。人性強調のアリウス派の反対。

教会政治の形態=中央集権化されている順に、監督制・長老制・会衆制(組合制)。カトリック教会の位階制は監督制よりもさらに上か。

東方正教会=コンスタンティノープル総主教は名誉上のトップで、ローマ教皇のような存在ではない、実態は国家の管轄地域ごとの自治制で、ロシア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア等の正教会が存在。なお「東方教会」と言う場合、上記単性論派教会を含むことがある。

西欧最大の教会はもちろんローマ・カトリック、他にルター派(ルーテル教会)、聖公会(アングリカン教会、英国教会)、改革派・長老派(カルヴァン派)など。

会衆派・組合派という教派は独立派とも呼ばれるが、これはピューリタン革命における政治党派であると同時に教派か?

メイフラワー号で北米に渡ったのも、この会衆派。

以下、近世宗教改革が一段落した後に生まれた教派の中でよく名を聞くものを紹介。

バプテスト=17世紀に生まれた大衆的プロテスタント。幼児洗礼を否定。属する有名人はキング牧師、カーター、クリントンなど。

メソジスト=18世紀ウェスリー(ウェスレー)によってイギリス国教会より分離。自由意志による救済を強調。蒋介石、サッチャー、ブッシュなど。

メノナイト系=再洗礼派からの分離(? メモが曖昧で自信が無い)。その一派が独自の生活習慣を守り通していることで有名なアーミッシュ。

クェーカー=17世紀に生まれたプロテスタントの一派だが、予定説とは逆に万人の救済を主張、非戦・社会改革にも熱心な教派。リカード、フーヴァー、ニクソン、新渡戸稲造など。

ユニテリアン(ユニヴァーサリスト)=三位一体やイエスの神性、奇跡や聖書の無謬性を認めない、アリウス派的な自由主義神学。ここまでくるとこの教派をキリスト教外のものとする説も強い。だが代表人はすごい面々が揃う。ニュートン、フランクリン、スティーヴンソン、エマーソン、ホーソーン、メルヴィル、ダーウィン、ナイティンゲール、政治家ではジェファソン、アダムス父子、タフト、ネヴィル・チェンバレンとくる。

福音派=元々この言葉はルター派を意味したが、現在では主に米国のキリスト教右派・原理主義者を指す。その意味で教派を縦断した概念であり、非宗教的進歩派リベラルと共にカトリック教徒をも敵視しているのが特徴。

モルモン教=米国でジョセフ・スミスとブリガム・ヤングが創始。『モルモン書』という文書を「発見」したことで生まれた新興教派。ユタ州ソルトレイクシティが中心。かつて一夫多妻を実践していたことも含め、異端視されることが多い。元大統領候補ロムニーら。

 

 

世界史を学んだり、国際ニュースを知る上での、一般常識を提供してくれるのが良い。

飛ばし読みでも可。

一度目を通すことを薦める。

2015年9月12日

土井健司 『キリスト教は戦争好きか  キリスト教的思考入門』 (朝日選書)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 01:56

クリスチャンで神学部教授の著者が、タイトルに代表されるようなキリスト教へのマイナスイメージに答える本。

第一部は五世紀半ばくらいまでのキリスト教の歴史、第二部で一神教、戦争、貧困、生命についての論考を記す。

第一部は阿刀田高『新約聖書を知っていますか』より簡略だが、なかなか良好。

三位一体説は多神論はもちろん様態論(父・子・聖霊は一つの神の三つの側面)でもない。

アウグスティヌスは、ドナトゥス派の棄教者復帰拒否を批判して、秘蹟における人効論否定、事効論採用。

教会の聖性は、それに属する者が聖なのではなく(属する者はあくまで罪深き人間に過ぎない)、教会全体が聖霊に導かれていることの由来するもの。

(この辺の話については堀米庸三『正統と異端』が非常に興味深いので一読を薦める。)

ペラギウス派との論争では、人間は自らの行為によってではなく、神の恵みで救われる、原罪のため自力での救済は不可能と主張。

第二部ではまず一神教の問題について。

よく言われるように唯一神の観念は偏狭で排他的なものなのか?

一神教より多神教を寛容さに勝るがゆえに善しとする人々がいるが、多神教はあくまで、ある同一宗教内における多神であって、外部の神を認めるものではないはずと著者は指摘。

それと本書にあることではないが、多神教内部でも最高神や神々の序列はあるのとの文章も読んだことがあり、一神教と多神教を峻別して後者の優位を説くような言説には違和感を感じる。

はっきり言えば、塩野七生『ローマ人の物語』におけるような一神教・キリスト教批判は、今となっては全く共感できるところが無い。

また、多神教的日本の宗教的寛容を自画自賛するような薄っぺらなナショナリズムにも、もはやついて行けません。

今の日本を見ると、厳格な宗教意識が無い日本人の「欠陥」をあげつらうという、かつてあれほど忌み嫌っていた言説にも一理はあるとすら思えてくる。

続いて戦争について。

キリスト教は好戦的か?

ローマ帝国による公認を経て、キリスト教会は信者の軍務従事を容認するようになった。

そして、アウグスティヌスやトマス・アクィナスは精緻な論考でキリスト教的正戦論を組み立てた。

これに対し著者は絶対平和主義こそ真にキリスト教的考えであるとしているが、個人的には、歴史家ホイジンガが『朝の影のなかに』で、キリスト教的正戦論を守りながら、ナチの適者生存・生存闘争説、侵略戦争の美化・自己目的化に対し、満身の怒りを込めて火の出るような批判を加えていることに、深い感銘を覚える。

また著者自身も以下のように記している。

そもそも宗教というものにはどこか極端なところがあります。その極端な部分が現実の世界で利用され、大きな悲劇を生むことがありました。そのためキリスト者としては絶対的平和主義を支持するのですが、この社会のなかでそれを押し通してよいのかどうかは躊躇します。もしかすると古代のキリスト教会はそうした危険性を知っていたのかもしれません。四世紀まで見られる[軍事についての]曖昧さは古代教会の知恵であった可能性もあります。ただそれでも、戦争は反キリスト教的であること、そして戦争の悲惨さは訴えていかねばならないという思いに変わりはありません。

富について。

キリスト教が社会の主流になるにつれ、富者批判が後退していくが、これも軍務と同様、現実に即した対応と言え、個人的にはほとんど悪いイメージを持たない。

同時に古代以来、教会は救貧活動も活発に行い、その例として(背教者ユリアヌス帝の論敵としても有名な)ナジアンゾスのグレゴリウスによるハンセン病患者治療活動を挙げている。

一方、近代のピューリタニズムは貧困を単に怠惰の印と見る傾向が強く、それが現代アメリカの格差社会の背景を成している。

生命について。

キリスト教は人格的相互関係性を第一に尊重。

これはヴァイタリズム(生命至上主義)とは異なる。

また同時に個人の内在的能力のみを重視したクォリティ・オブ・ライフでもない。

そういう観点から、著者は脳死・臓器移植に懐疑的な見方を示している。

 

 

面白い。

とても良い。

共感できる点が多々あった。

私はクリスチャンでも何でもないが、皮相な一神教・キリスト教批判には距離を感じるし、むしろ(特にカトリックなど伝統的な)キリスト教に対する好意的関心は高まっているくらいなので。

皆様にもお勧めします。

2015年8月6日

下田淳 『居酒屋の世界史』 (講談社現代新書)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 05:12

金銭(現物貨幣を含む)と引き換えに酒を飲む場である居酒屋を通じて見た歴史。

通史編では、古代オリエント・ギリシア・ローマ、中近世ヨーロッパ、近現代ヨーロッパ、イスラム、中国・韓国、日本が扱われ、テーマ編では、教会・売春・芸人・犯罪と陰謀が記述される。

主要論旨をまとめた、三つのキーワードが提示される。

「農村への貨幣経済の浸透」=古代においては農村居酒屋は無し、都市・街道にのみ存在、それが中世以降農村にも出現。

「多機能性」=居酒屋が金貸し、裁判、冠婚葬祭、賭博、演芸、売春、商談、医療、職業斡旋などの場として機能する(これは主にヨーロッパのみ)。

「棲み分け」=上記機能が近代化・工業化とともに分離・独立していく。

 

古代においては商業・交通の盛んな都市と街道にのみ居酒屋が存在、また上流階層では無料接待が基本だったが、中世盛期以降、農村への貨幣経済浸透によって居酒屋が出現、共同体の様々な機能を併せ持つ場として成長、さらに近世の宗教改革で飲酒を伴う集会が教会から追放されたことにより、俗性の強い共同体機能が居酒屋に移り、最盛期を迎える。

しかし、近代化が深化するにつれ、その機能がカフェ、レストラン、ホテル、劇場などに分散して「棲み分け」が進行、居酒屋は単なる飲酒場に衰退していく。

あと、酒自体の話で、醸造酒と蒸留酒の区別、後者の普及が禁酒運動の一因になったとかいう話も。

非ヨーロッパ地域では、中国の茶館をやや例外にして、イスラムのカフェや日本の居酒屋には多機能性は無し、コミュニティセンターとしては日中韓・イスラムとも寺院が使用されていた。

ヨーロッパ世界での権力の分立が農村への貨幣経済浸透を阻止せず、これがヨーロッパ近代を生んだと書かれていて、何やら最後にずいぶん話が大きくなった。

 

全然期待せず、暇潰しのつもりで読んだが、中々良かった。

私が推薦する社会史関係の本は苦手な人にもお勧めです。

 

2014年2月22日

塩野七生 『十字軍物語 3』 (新潮社)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 09:05

1巻2巻を記事にしてから、ものすごく間隔が空きましたね・・・・・・。

何かめんどくさくて、読む気がしませんでした・・・・・・。

全3巻で、2巻において描かれたのが、第2回十字軍まで。

山場と言える第3回、第4回を残したままで、相変わらずペース遅いなあと思っていたら、案の定この3巻はやたら分厚い。

第3回十字軍の描写を読み始めて、まず驚いたのが、英国王リチャード1世の評価が相当高いこと。

「獅子心王」のあだ名通り、勇猛果敢で中世騎士の理想像であっても、猪突猛進の猪武者で、国王と政治家としては思慮分別に欠ける、というイメージがあり、クレバーな現実主義者を評価する著者の好みには合わない人物かと思っていたら、意外なほど好意的な筆致にびっくりする。

第3回十字軍参加者は、英王リチャード1世、仏王フィリップ2世、独帝フリードリヒ1世だが、フリードリヒはシリアに入る直前に事故で溺死(フリードリヒ指揮下の一部が現地に残留し、史上有名なドイツ騎士団となる。)。

フィリップと仲違いしたリチャードは単独でサラディンと互角以上に戦い、イェルサレムこそ奪還できなかったものの、イェルサレム巡礼の自由と安全の確保、ティロス・アッコン・ハイファ・カエサリア・アルスーフ・ヤッファの海港都市のキリスト教側確保という条件で休戦協定を結ぶ。

本書では、これは当時望みうる最善のものだったとされている。

確かに、史上屈指の名将サラディン相手にこれだけの条件を勝ち取れば、御の字でしょう。

高校世界史レベルでは、イェルサレムを奪還できなかったことをもって、単純に「失敗」と述べられている、この第3回十字軍の評価が変わります。

また、その途上で、当時ビザンツ帝国から半独立状態にあったキプロス島を征服し、西欧勢力の強力な拠点としたことも、リチャードの大きな功績とされている。

それに引き換え、リチャード1世と弟のジョン王を手玉に取って大陸から英国勢力をほぼ一掃することに成功した、冷徹なリアリストのイメージがあるフィリップ2世に対しては、その狡猾さと悪辣さを強調し、冷ややかな記述がなされている。

「先生、ちょっと個人的な趣味が入りすぎてませんか?」と言いたくなりますが、まあいいでしょう。

中東での西欧勢力をかなりの程度回復させたリチャードは1199年死去(奇しくも源頼朝没年と同年だ)。

著者は、十字軍研究の大家ランシマンの獅子心王への酷評に同意せず、キリスト教徒側の制海権を奪還・維持したリチャードを高く評価している。

第4回十字軍は、言うまでも無く教皇インノケンティウス3世の発案から、脱線してコンスタンティノープル攻略に至ったものだが、本書では、サラディンの弟アラディールと暗黙の了解に達し、攻撃目標をイスラム勢力ではなく、ビザンツに向けた、ヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロの怜悧な手腕を好意的に記している。

第5回十字軍は1218~21年。

これは高校世界史では数えないので、以後回数がずれる。

教皇ホノリウス3世主唱だが、ヨーロッパからの遠征は無く、パレスチナ現地のキリスト教勢力が主導し、エジプトのナイル・デルタの扇型、東端ダミエッタ(西端はアレクサンドリア)を攻撃。

この最中にアラディールが死去、息子のアル・カミールが即位。

ダミエッタ攻撃は、結局失敗に終わる。

この時の休戦交渉で、中世修道会創立で著名な聖フランチェスコが使者として出てくることに驚く。

名著、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)でのフランチェスコ伝の章では記されていたのか覚えていない。

第6回、神聖ローマ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世が遠征、アル・カミールと一戦もせず講和、教皇グレゴリウス9世と対立。

だがその条件は、内部対立を懸念するアル・カミールが妥協に傾いたせいで、意外なほど有利であり、イェルサレムのうち、東側三分の一のイスラム教徒側を除く地区を回復、巡礼・通商の自由安全確保、ティロスの北、シドン・ベイルート含め海岸部がキリスト教徒側であると確認し、その結果トリポリ・アンティオキアとも陸続きとなる。

ここでも、著者はランシマンの低評価に同意していない。

第7回、1248~54年、仏王ルイ9世主導。

始まった時には、フリードリヒ2世はまだ生きていた(没年は1250年)。

開始前に、1244年エジプト・アイユーブ朝に従わないシリア勢力がイェルサレムを占領している。

ルイは「聖王」と呼ばれ、内政では名君と言えるが、この外征は完全に失敗。

ダミエッタを攻撃するが、大敗し捕虜となる。

身代金を支払って釈放されるが、この敗北の巻き添えを食って、宗教騎士団も衰退。

この前後にイスラム世界では、大激動が続く。

まさにこの第7回十字軍の最中に、1250年エジプトの王朝がアイユーブ朝からマムルーク朝に交替。

1258年モンゴルのフラグ軍がバグダードに入城し、アッバース朝滅亡。

1260年アイン・ジャールートの戦いで、マムルーク朝バイバルスがモンゴル軍を撃退。

第8回、再びルイ9世が、今度はチュニスを攻撃するが、すぐに病死。

以後急坂を転げ落ちるように、アンティオキア公領・トリポリ伯領が消滅、1291年アッコン陥落、続いてシドン・ティロスも喪失。

昔の概説書だと、1291年のアッコン陥落が十字軍の終幕として書かれており、史的解釈としては現在でもそれで間違いないのかもしれないが、シドンとティロスの喪失は時期的にはアッコン陥落の後らしい。

これは本書を読むまで、気付かなかった。

本書でのアッコン陥落の描写は感動的であり、同じ著者の『コンスタンティノープルの陥落』(新潮文庫)と同じく、感慨深いものがある。

宗教騎士団のうち、ヨハネ騎士団はロードス島からマルタ島に移って存続、ドイツ騎士団は東方植民へ、テンプル騎士団は仏王フィリップ4世によってスケープゴートとされ弾圧、という流れになります。

本書では、最後にフィリップ4世の残酷さを厳しく指摘し、仏人教皇クレメンス5世とアヴィニョン教皇庁に触れてラストです。

まあ、いい方じゃないですか。

歴史読物としては良くできている。

分量が気にならない。

私程度のレベルではそれだけで有難いと思って、読了すればいいんでしょうが、やはりどうしてもかつてのようには絶賛する気は起きません。

著者は現在、本書でも登場する(13世紀の神聖ローマ皇帝であって、18世紀のプロイセン王ではない方の)フリードリヒ2世についての作品を書いているようですが・・・・・・。

一定水準は必ずクリアしているとわかっていても、即座に手に取るつもりにはなれませんねえ。

2013年1月20日

塩野七生 『十字軍物語 2』 (新潮社)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 04:30

1巻記事の続き。

まず宗教騎士団の話。

テンプル(聖堂)騎士団が聖ベルナール協賛の下に設立。

反イスラム色が極端ではあるが、一方では貸金業などでムスリムとの関係を維持していた面もあり、これが後に仏王フィリップ4世による弾圧の口実となる。

ヨハネ(病院)騎士団はアマルフィ商人によって設立されていたものが戦士集団となったもの。

十字軍以後はロードス島、次いでマルタ島に移転、長く命脈を保つ。

残るドイツ騎士団は、第3回十字軍での設立なので、本書には登場せず。

イスラム側ではゼンギ(ザンギー)がモスールを足掛かりに支配地域を拡大、アレッポも勢力下に入れる。

イェルサレム王国では、ボードワン2世の長女メリゼンダが、仏王ルイ6世の親族でもあるアンジュー伯フルクと結婚、フルクが4代目国王として即位。

このフルクはアンティオキアをビザンツ属領と認めるなどしたため、本書での評価は高くない。

しかし、有名な「クラク・ド・シュヴァリエ(騎士たちの城)」をはじめとする城塞建築には功があり、常に十字軍国家の弱点であった慢性的兵力不足をおぎなうことになる。

フルク死後、メリゼンダが女王として統治するうち、ゼンギによってエデッサが攻略される。

ゼンギは間もなく奴隷によって殺害されたが、第二回十字軍が上記聖ベルナールによって提唱される。

このベルナールはシトー派修道会出身で、アベラールを攻撃し破門したことでも有名。

1147~49年に仏王ルイ7世と独ホーエンシュタウフェン朝皇帝コンラート3世率いる軍勢が到着するが、ダマスカス攻略に失敗して撤退(石井美樹子『王妃エレアノール』参照)。

ゼンギの息子ヌラディンがダマスカスを支配しイラク北部からシリアを統一、強大化。

メリゼンダの子ボードワン3世、アモーリーが相次いで即位。

ヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァの、イタリア海洋国家の力を用いて王国を維持(イタリア海洋国家四大国のうち、アマルフィは当時すでに衰退)。

アモーリーの子ボードワン4世はいわゆる「ライ病」に罹るという深刻な不幸を負いながら、責任感の強い有能な君主として活躍する。

この時期、末期ファーティマ朝の内紛でヌラディンに救援要請が送られる。

それに応え、ヌラディンは、クルド族出身のシルクとその甥サラディンを派遣(これがサラディンが歴史の表舞台に出る最初)。

内紛を収拾したシルクが1169年宰相に就任したが直後に事故死し、同年サラディンが宰相就任、これが普通アイユーブ朝の成立とされる。

この時点では、一応形式的にはファーティマ朝カリフが在位しており、サラディンはヌラディンの配下という建前になっていた。

しかし1174年エジプトに攻め込もうとしていたヌラディンは病死、1186年にはサラディンがシリア・北イラクを併合することによって、イスラム世界盟主の地位を固める。

(ちなみに本書でアイユーブ朝を「アユーブ朝」と表記してあるのには何とも言えない違和感有り。)

このサラディンに対して奮闘するボードワン4世の姿は感動的ですらある。

正面対決は避けつつ、この稀代の名君とある程度まで互角に渡り合う。

(同時期のヨーロッパでは独帝フリードリヒ1世が北伊の自治都市[コムーネ]と激突、英国では上記エレアノールが再婚したヘンリ2世の圧力に抗して、トマス・ベケットが殉教。)

1185年ボードワン4世死去、それを継いだ姉の子ボードワン5世も86年に早逝。

結局姉の再婚相手ギー・ド・ルジニャンが即位するが、この国王の評価は極めて低い。

ルノー・ド・シャティヨンという無思慮な強硬派に動かされ、メッカ巡礼者を襲撃し、サラディンに攻撃のまたとない口実を与える。

1187年、「ジハードの年」と宣したサラディンが、ハッティンの戦いで圧勝、ルジニャンを捕らえ、シャティヨンを殺す。

このハッティンの勝利は見事ではあるが、相手に不足しており、戦闘(バトル)であって会戦(バトル・フィールド)ではなかったと評されている。

続いてイェルサレムを包囲したサラディンに対して、シャティヨンの強硬策に反対していた現実派のバリアーノ・イベリンが奮戦し、開城と引き換えに「フランク人」(キリスト教徒)の奴隷化を阻止、サラディンも彼に対しては寛大さを見せる。

イェルサレム陥落後、キリスト教側が保持していたのはアンティオキア、トリポリ、ティロスのみとなる。

(のちに十字軍最後の拠点となるアッコンもこの時点ではイスラム側の支配下。)

この事態を受けて、第三回十字軍が発動されることとなる。

全3巻だが、2巻ラストでまだ、第三回・第四回という大きな山場が丸々残っている。

似たような感想をほぼ常に持っていた『ローマ人の物語』シリーズでも結局キチンと収まったのだから、あれこれ言う必要は無いのかもしれないが、やはりペースの遅さは気になる。

大変失礼ながら、塩野氏はあまりページ配分は上手くないのではないかと・・・・・・。

あと、私が読んだ初版の204ページに気になる記述が。

この時代ではシーア派とスンニ派では民族的にもちがいがあり、シーア派ではセルジューク・トルコ民族が主流にのし上り、スンニ派ではアラブ人がいまだに権力をにぎっていたのである。

これ、完全な誤記じゃないでしょうか?

トルコ民族はほぼスンナ派のはずですし、セルジューク朝がシーア派のブワイフ朝を倒して、10世紀イスラム世界でのシーア派優位(後藤明『ビジュアル版イスラーム歴史物語』等参照)を覆すわけですから。

繰り返し確認してもそう書いてあるし、確か33ページにはこれとは逆の意味の文章があったはず。

増刷時には直されているかもしれませんし、自分の知識の浅さを棚に上げて、プロの作家のケアレスミスを大袈裟に言い立てて悦に入るのも卑しい行為ですから、これ以上は言いませんが、ちょっと残念。

そういう瑕疵はありながらも、内容自体はかなり良い。

1巻と同じくお勧め。

ただ、都合により3巻を記事にするのは相当後になると思います。

2013年1月15日

塩野七生 『十字軍物語 1』 (新潮社)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 00:47

2010年刊行開始のシリーズ。

全3巻。

本編刊行前に、『絵で見る十字軍物語』というものも出ているが、無視。

刊行されたことはもちろん知っていたが、今まで完全に放置していた。

昔だったら考えられないですね。

以前は、『ローマ人の物語』の発売日を指折り数えて待ち、発売当日に大型書店に行って、平積みから美本を選んで、喜び勇んで家に帰ったものでしたが。

最初に背景説明が叙述される。

第一回十字軍の提唱者ウルバヌス2世は、グレゴリウス7世と同じく、クリュニー修道会出身。

教科書では全く別々に出てくるから、あまり結び付けて考えないが、カノッサの屈辱が1077年で、クレルモン公会議が1095年だから、実は両者は年代的にかなり近い。

十字軍開始時の神聖ローマ皇帝は依然ハインリヒ4世である(1106年まで在位)。

そもそもウルバヌス2世が十字軍を提唱した動機の一つが、カノッサでの敗北から勢力を盛り返したハインリヒ4世によって、自身がローマにもほとんど入れないような、皇帝優位の状況を覆すことであった。

なお、中東への十字軍が行われていたこの時期、シチリアもノルマン人によってイスラム勢力から奪還されている(高山博『中世シチリア王国』)。

同じくノルマン人勢力の拡大ということでは、1066年イングランドのノルマン征服も同時期です。

話が形式的な方向にずれますが、1066年ノルマン・コンクェスト、1077年カノッサの屈辱、と並べて、「11世紀の下二桁ゾロ目」で重要年代が他にも確かあったんじゃないかという考えが頭に浮かぶ。

と思ったら、ありました。

まず、本書のテーマに直接関わるものでは、1099年にイェルサレム王国成立。

加えて、1055年。

これ、何の年かわかりますか?

高校世界史レベルでも、結構重要史実です。

十字軍とも全く関係が無いわけでもない。

ヒントは、イスラム世界での出来事。

思いつきません?

セルジューク朝のバグダード入城(ブワイフ朝滅亡)ですね。

あと、1044年には、ビルマ(ミャンマー)でパガン朝が成立してます。

他地域の11世紀は、インドではガズナ朝とゴール朝侵入による北部のイスラム化、中国では北宋・遼・西夏の鼎立と王安石新法、日本では摂関政治全盛から院政へ、というのが極めて大雑把な傾向です。

ちなみに、同じく1044年、北宋・西夏間に慶暦の和約が結ばれ、宋側が銀・絹・茶を歳賜として提供することになります。

話を本題に戻しましょう。

第一回十字軍は周知の通り、皇帝・国王の参加は無かった。

しかし、中世の真っ只中であり、近世以降の中央集権化以前のことなので、諸侯と皇帝・国王の実力差は大きくなく、軍勢の規模に格段の違いは生じなかったと本書では書かれている。

考えてみると当然かもしれないが、改めて指摘されると、盲点を突かれた気がして新鮮である。

十字軍を迎え撃つイスラム側は、セルジューク朝の宗主権下で、アレッポ・ダマスカス・モスール・アンティオキア等が事実上独立している、分立状態。

パレスチナはファーティマ朝支配下。

これらイスラム世界内部の相互対立が十字軍を利する結果となり、イェルサレムは奪還される。

南から順に、イェルサレム王国、トリポリ伯領、アンティオキア公国、エデッサ伯領という、4つの十字軍国家が建国される。

ここまでが、この第1巻の叙述範囲です。

細かな史実をメモするのは止めておきます。

ただ、内容メモ代わりに、以下に簡易人名リストを書いておきます。

なお、リストには挙げませんでしたが、ビザンツ皇帝アレクシオスや仏国王フィリップの後に「1世」と明記していないのは、不親切に感じました。

ヴェルマンドワ伯ユーグ=仏王弟。影の薄い存在。コンスタンティノープルへ交渉に赴き十字軍から離脱。2年後再びオリエントへ戻る。

ノルマンディー公ロベール=ウィリアム1世の長子。英国王は弟のウィリアム2世に引き継がれる。

ブロア伯エティエンヌ=アンティオキア戦より逃亡、その後再びオリエントに向かい戦死。ウィリアム1世の娘と結婚し、上記ノルマンディー公の義弟に当たる。

フランドル伯ロベール=小兵力ながら有能な将との評価。

以上4名は戦力的には寡兵。

トゥールーズ伯レーモン・ド・サン・ジル=本書では「サン・ジル」と呼ばれるが、普通は「レーモン」か。本書での評価は低い。アンティオキアで病死した教皇代理司教アデマールを同行する。自身はトリポリ攻撃中、戦傷死するが、トリポリ伯領の基礎を築き、子と孫がそれを引き継ぐ。

ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン=当時ロレーヌは神聖ローマ帝国の一部。高校世界史では唯一名前が出る人か。1099年イェルサレム王国の「聖墓守護者」(実質国王)に就任するが、翌1100年には死去している。

ボードワン1世=ゴドフロアの弟。エデッサ伯を経て、兄を継ぎイェルサレム国王に即位、1118年死。

ボードワン2世=上記二人のいとこ。ボードワン1世を継いでエデッサ統治、ジョスラン・ド・コートネーと協力、一時捕虜となるが、のちにイェルサレム王に即位。

プーリア公ボエモンド・ディ・アルタヴィッラ(オートヴィル)=ロベルト・グィスカルドの子。グィスカルドの弟ルッジェーロ1世はシチリア征服者。ボエモンドはアンティオキア公国を支配。南伊に戻りビザンツを攻撃するが失敗、失意のうちにイタリアで死去。

タンクレディ=ボエモンドの甥(ギボン『ローマ帝国衰亡史 9巻』では従兄弟)。ボエモンドを助け奮戦。1112年病死。

悪くはない。

イスラム史の記述がもうひとつ食い足りない印象だが、全体的には、事前に予想していたよりはかなり良かった。

ただし、続けて2巻に取り組むかは未定です。

2010年11月25日

マイケル・ハワード 『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』 (中公文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

原著は1976年初版、2009年改訂版刊行。

著者は有名な軍事史家だが、私程度では「何度か名前を聞いたことがあるなあ」と思えるくらい。

戦争の技術的側面にだけ着目するのではなく、常に社会との関係に留意した、簡潔・明解なヨーロッパ戦争史。

本文は、「封建騎士の戦争」→「傭兵の戦争」→「商人の戦争」→「専門家の戦争」→「革命の戦争」→「民族の戦争」→「技術者の戦争」という章建てで進んでいく。

それぞれの章が大体どの年代に当たるのか、そしてその時代の戦いの大まかな様相をイメージできるようになれば良い。

個人的感想を言えば、ヨーロッパの黄金時代はやはり19世紀ではなく18世紀(上記区分で言えば「専門家の戦争」の時代)ではないかと思えた。

当時は戦争の限定的性格が最も強かった時代で、民間への被害も少なく、戦争は王朝国家間の厳格なルールに則った一種のゲームであり、戦闘の規模も小さく、徹底性にも欠けていた。

戦争は、イデオロギーや熱狂に煽られた「世論」には基づいておらず、純粋に上層階級による国益の計算によって遂行された。

近世初頭の宗教的熱狂は後退し、フランス革命以後の民衆的ナショナリズムは未だ知られていない時期。

交戦状態にある国民同士が憎悪し合うこともなく、合従連衡の同盟の組み合わせも頻繁に変化した。

こういうバランスが崩壊して19世紀を迎え、そこで人類史上最悪の20世紀の悲劇が準備されたように思える。

それほど細かな史実が取り上げられているわけではないが、全くの初心者が読むには不適当と思われる。

他の概説などを一通り読みこなした人がざっと通読してイメージをより明確にするための本というべきか。

悪い本ではないです。

・・・・・軍国主義的ナショナリズムは純然たるブルジョワ的現象ではなかった。マルクスが労働者は国家を持たないと書いたとき、彼は実は初期産業革命の労働者について語っていたのである。彼らは、田舎の安定した社会から引き離され、都市に惨めな状態で群がっていたが、都市はいまだ一体感を発展させておらず、彼らを搾取する社会からまさしく疎外されていたのである。しかし、五十年後、国家教育、合法化された強力な労働組合、そして多分最も重要であった、安価で煽情的な新聞が、この状況を一変させた。二十世紀の初めまでに、労働者階級は、社会主義の刺激と少なくとも同じように、ナショナリズムの刺激に対しても進んで反応していた。その両方の主張を混ぜ合わせられる者が、最も成功した政治指導者となった。国境を越える階級統合の訴えは、1914年に一たびラッパが鳴り始めるや、雲散霧消してしまった。

一部の歴史家が示唆したところによれば、二十世紀初頭の熱狂的で軍国主義的なナショナリズムは、革命から大衆の支持を引き離して、彼らを既定の秩序の方に引き付けるように教え込もうとする、反動的支配階級によって引き起こされたものであった。しかしこれは粗雑な機械論である。ナショナリズムを最も信じなかったのは、実は、支配階級の中の最も反動的な人々であった。ヘーゲルとマッツィーニの思想はそれ自体の価値と主張を持っていたし、デモクラシーとナショナリズムとは互いに養分を与え合っていた。国事への参加意識が大きければ大きいほど、国家は国家を生み出した唯一無比の価値体系の具現化だと見なされるようになり、国家を守り国家に奉仕する責務はいよいよ大きくなった。その上、組織宗教の力が低調になってきた時代には、民族が人びとの忠誠の焦点として現われてきたのである。奇蹟の時代は卒業したが、流行歌スターの時代にはまだ入っていなかった人々は、国家によって、目的、生彩、刺激、威厳を与えられた。

・・・・・もし本当に社会の軍国主義化が古いエリートの用意周到な計略であったのならば、彼らは非常に悪い取引をした。というのは、彼らを滅ぼすようになったのは、不可能な勝利を求めてあらゆるものを犠牲にした、他ならぬ愛国的な民衆であったからである

以上、20世紀以降君主制・貴族制が崩壊した、多くの国で同じですね。

(日本も似たようなものか。)

それに比べて民主主義国はお気楽なもんです。

例えば、不確かな根拠で予防的先制攻撃を仕掛け他国に侵攻した指導者を民衆が圧倒的に支持しておいて、それがどう頑張っても弁護しきれない程の悲惨な状況をもたらすと一転反対党の候補を指導者に押し上げ、他国の膨大な犠牲者は忘れた素振りで「私たちは過ちも犯すが、それを正す力も持っている」と更なる自己満悦に耽る、と・・・・・・。

全く結構な政治体制です。

バークのこの引用文を思い出します。

2010年5月23日

フェルナン・ブローデル 『歴史入門』 (中公文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

大著『地中海』(藤原書店)の著者で、アナール派社会史学の泰斗ブローデルの本。

本文が140ページ余りと非常に薄いので、これなら挫折することもないだろうと手に取ってみた。

中身はブローデルのもう一つの大著『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)の内容に沿った講演を収録したもの。

15~19世紀ヨーロッパを中心にした経済史。

邦訳タイトルと内容が合ってないような気がします。

市・大市・取引所の発展、物質生活と市場経済と資本主義の区別、ヨーロッパと日本・イスラム・インド・中国との比較など。

大体何が書いてあるかは読み取れたが、迂闊に内容メモすると間違えそうなので止めときます。

一日あれば余裕で読める。

帯に「アナール派歴史学への最良の入門書」と書いてあって、確かに私でも全く理解できないということもなかったので、まあいい本だとは言えるんでしょう。

短すぎてそれほどの充実感も無いですが。

かと言って、私が『地中海』を読破するというのは・・・・・・まず無理でしょうね。

2010年3月23日

玉木俊明 『近代ヨーロッパの誕生  オランダからイギリスへ』 (講談社選書メチエ)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

大づかみ過ぎて内容がよくわからないタイトルで、副題を見てもはっきりしないでしょうが、中味は16世紀から18世紀までの近世ヨーロッパ経済史です。

読む前にまず前提として、極めて大雑把でいいから、世紀ごとに近世ヨーロッパ政治史の横の繋がりを確認。

16世紀は、スペインとオーストリアのハプスブルク家が大きな勢力を保ち、その両者とヴァロワ朝フランスが死闘を繰り返す。

イギリスはテューダー朝絶対王政下に繁栄の道を歩み始め、イタリアはルネサンスの栄光からスペイン支配下へ転落。

全体としてスペイン覇権時代と言えるが、世紀後半にはオランダが独立、次世紀の覇権を準備する。

東欧ではポーランドでヤギェウォ朝が断絶し選挙王制に移行、バルカンにはオスマン朝が進出し、ロシアがモスクワ大公国の下、統一への一歩を進める。

17世紀は、オランダの黄金時代。

スペイン、イタリアは没落、イギリスでは二度の革命、ドイツでは三十年戦争と各国で危機が続発する中、フランスはブルボン朝の下、世紀後半に覇権に手を伸ばす。

ロシアではロマノフ朝が成立するも、この時期の北欧の雄はスウェーデン。

18世紀、オランダが衰退、前世紀末に議会制的政治体制を整えたイギリスがフランスと激しい植民地争奪抗争を繰り広げる。

スペインがブルボン朝に変わるが、ルイ14世の野心は阻止される。

ドイツでオーストリア継承戦争、七年戦争を経てプロイセンが台頭、東・北欧ではピョートル大帝が北方戦争でスウェーデンを蹴落とし、同地域での覇権はロシアに。

植民地戦争で世紀半ばにイギリスが決定的勝利を得るが、アメリカ独立によってやや後退、世紀末にはフランス革命と産業革命、それを経て19世紀初頭にはイギリスの覇権が揺るぎないものとなる。

以上のような政治史を頭に入れて、本文を読み進むべき。

ざっと内容をメモすると、まず16世紀のヨーロッパ経済の中心は依然イタリア(特にヴェネツィア)で、それが同世紀後半にはブリュージュ・アントウェルペンからアムステルダムへ移行。

17世紀にはイタリアなど地中海諸国は明らかに衰退し、オランダ・イギリスの台頭が顕著となる。

著者はこれを、地中海貿易が衰微し、大航海時代からの大西洋貿易に取って代わられたからだと、単純に解釈することを戒める。

16世紀を通じてヨーロッパの人口が増大を続け、特に地中海諸国では穀物不足と食糧輸入への依存が高まる。

また森林資源も枯渇し、工業用材料・船舶用資材も不足。

地中海諸国がこれらをバルト海地方(特にポーランドの穀物)からの輸入に頼るようになり、そのバルトの商業・海運業をオランダに押さえられていたことこそ決定的であったとされている。

17世紀オランダの黄金時代には、遠距離のアジア貿易よりバルト海貿易の方が重要だったらしい。

著者は貿易収支だけに注目する従来の経済史研究を批判し、輸送料の重要性を強調する。

この時期のオランダは貿易収支の赤字を輸送料と貿易商人の利益が上回っている貿易構造。

また「中継貿易しかできない商業資本主義だったので、オランダは後に産業資本主義のイギリスに敗れた」という解釈は単純過ぎるとしている。

アムステルダムはヨーロッパの物流だけでなく、商業に関する情報・知識・ノウハウの中心となり繁栄を極める。

なお16世紀のいわゆる「価格革命」について、本書では以下のように書かれている。

かつて「価格革命」といえば、スペイン領アメリカからの貴金属流入量が大幅に増加したために生じたとする貨幣数量説の見解が主流であったが、こんにちではむしろ価格革命と呼ばれる現象自体存在しておらず、人口増のため農作物価格が工業製品の価格以上のスピードで上昇したという見方が一般的である。

これは教科書にある通説と全く異なる説明で、非常に面白いと思った。

18世紀、大西洋貿易の拡大とともにイギリスが台頭。

「分裂国家」オランダに対して、イギリスが中央集権的であったことが強調される。

日独など後発資本主義国が国家の主導・介入による経済発展を遂げ、先進国へのキャッチアップを果たしたのに対し、イギリスは自生的で国家介入のない産業発展が進行したと従来思われてきたが、現実にはイギリス自身がオランダに対して経済的には後進国であり、中央集権的「財政=軍事国家」として航海条令など重商主義政策を採用し、国家が企業の保護費用を負担したことが重要であったと述べられている。

オランダが支配していたバルト海貿易にイギリスも参入。

なお当時の北欧では、ロシアの主要貿易港は新首都サンクト・ペテルブルクの他に、はるか北の白海にあるアルハンゲリスクがある。

スウェーデンは現フィンランドの領域も有し、ノルウェーはデンマーク領になっている。

教科書で確認したら、ノルウェーはその後1814年にスウェーデン領に変わり、1905年平和的に独立と書いてあった。

この辺、武田龍夫『物語北欧の歴史』(中公新書)を読み返して確認する必要がありますね。

18世紀に入って、ヨーロッパの商業・金融の中心はアムステルダム一極集中からアムステルダム・ロンドン・ハンブルクの鼎立体制に変わる。

高校世界史では、この時期のハンブルクの繁栄は全く触れられていないはず。

英仏の植民地をめぐる争いの中、新大陸の物産を扱うボルドーが発展するが、著者は当時の三大経済都市の一つは、フランスとの関係が深かったハンブルクだとしている。

ここで、旧ハンザ同盟都市の位置関係を確認。

北ドイツ沿岸部で、ユトランド半島の東にあるのがリューベック、ハンブルクは西、そのさらに西にブレーメンがある。

ナポレオン戦争・大陸封鎖令の影響でハンブルクは衰退、19世紀初頭にはロンドンが首位を占めるようになる。

面白い。

著者の研究書を一般読者向けに語り直したものらしいが、非常に良い。

通説と最近の学説を常に比較対照するのが興味深い。

こういう経済史なら私でも読める。

高校教科書での経済史がごく大まかにでも頭に入っていれば、十分読み進められるレベル。

200ページ弱と短いのも何より。

堅実な良書であり、お勧めします。

2010年3月18日

ジャック・ル・ゴフ 『子どもたちに語るヨーロッパ史』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

著者はフランスの著名な中世史家。

アナール派社会史家で『煉獄の誕生』(法政大学出版局)などの著書で知られる、みたいなことは以前から知っていた。

大学で中世ヨーロッパ法思想史の講義を受けたとき、中世盛期に台頭著しい商人階層の救済のためにこれまでカトリックの教義には無かった煉獄という存在が生み出されて、何とかかんとかという話を聞いた際、ル・ゴフの名前も聞いた記憶がある。

上記本やその他の著作は私のレベルでは荷が重いので、たまたま目に付いたこれを読んでみた。

最近、やる気が出ないので、軽めのものばかり読んでますね・・・・・。

「子どもたちに語るヨーロッパ」と「子どもたちに語る中世」の2作品入り。

文字通り完全に子供向けのものなので、いくらヨーロッパ人読者を想定して書いたものでも内容については特にどうと言うことも無い。

自由で寛容で公正な統合ヨーロッパを目指そうとする著者の強い決意は心に迫るものがあるが、さすがに何か具体的史実で新たに知った情報は皆無。

ただ、中世の部分で、リューベックとハンブルクを中心としたハンザ同盟にロンドンが加入していたと読める文があり、「えっ?」と思って教科書で確認したら、単に在外商館があったというだけでロンドン自体は加盟していなかった。

あと、フランス革命の部分で、この短い紙数の中で、革命のプラス面だけでなくマイナス面にもきちんと触れているのは、極めて公平な態度だと思った。

260ページほどあるが、誰でも楽に通読できる。

是非読んでおくべきとは申しませんが、まあ機会があれば手に取っても損はしないんじゃないでしょうか。

2009年9月17日

梅田修 『世界人名ものがたり 名前でみるヨーロッパ文化』 (講談社現代新書)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

かなり前にこれを読んでいたのを、突然思い出した。

10年ほど前なので内容はよく憶えていないが、まあまあ面白かった記憶がある。

『世界人名~』というタイトルだが、実質ヨーロッパ人の名前だけについてあれこれ書いた本でしょう。

高校世界史で同じ人名でも国によって、チャールズ(英)、シャルル(仏)、カール(独)、カルロス(西)とか、ヘンリ(英)、アンリ(仏)、ハインリヒ(独)、エンリケ(西・ポ)とか呼び名が違いますが、そういうことも含むのか。

そういや、高校2年の時、世界史を担当してもらった先生はカール大帝やカール5世のことをチャールズ大帝、チャールズ5世とか言う人だったなと思い出した。

気さくでいい先生だったので今も感謝しているんですが、この呼び方は反ってややこしい。

さすがにヴィルヘルム1世や2世をウィリアムとは言ってませんでしたが。

すみません、書くことが無いので、今日はこれまでです。

2009年7月1日

ジョゼフ・ギース フランシス・ギース 『中世ヨーロッパの城の生活』 (講談社学術文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

同じ著者の『都市の生活』『農村の生活』の読後感が比較的良好だったので、これも読みました。

領主・騎士という支配層から見た中世ヨーロッパ社会点描。

主に、11世紀から13世紀の中世盛期におけるイングランドとウェールズの事例が取り上げられている。

このシリーズすべてに言えることですが、読みにくいと感じた部分は軽く流して、どんどん読み進んだ方がいいです。

途中から興味がわいてくる文章が出てきて、楽にページが手繰れるようになりますので。

本書も、上記二著と同じく、なかなか良い。

社会史関連で、中世ヨーロッパはかなり類書が多い分野だと思いますし、他にもいい本が幾らでもあるんでしょうが、とりあえず『刑吏の社会史』『魔女狩り』『ペスト大流行』とこのシリーズ三点を読むだけにしておきます。

村の人口の大部分を占める農奴にとって、理屈の上では領主が絶対的権力者だった。領主は農奴の地代や奉仕の義務を勝手に増やしたり、所有物を差し押さえたりすることができるとされていた。しかし、実際のところは、昔から積み重ねられた慣習が法律と同じような効力を持っていて、領主の法的立場を制限していた。それに、小作人の奉仕がなければ領主の暮らしが立ちゆかないという現実もあったから、小作人たちが逃げ出したり、反抗を企てたりするほど締めつける領主はまれにしかいなかった。小作人は奉仕の義務を怠らない限り、小作地を維持し、跡継ぎに譲ることができたのだ。森や荒れ地も厳密には領主の所有物ではあったにしろ、小作人は慣習によって決められた範囲内で開拓することもできたのである。・・・・・小作人と領主との関係は互恵的、現実的であり、その上、永続的なものだった。農奴は土地にしばられてはいたが、同時に、その小作地を奪ってはならないという慣習によって守られてもいたのだ。

それぞれの階級の枠内で機会が均等に与えられ、隣人同士が協力して働き、身分と血筋の維持が重視された村の共同体の理念は、何世紀にもわたって保たれた。これとは対照的に、中世の都市生活者が理想とし、職人ギルドが目指した理念―各人がそれぞれの職業に勤しみ、作ったものを売り、極端な金持ちも貧乏人もいない社会―は、ほんの短い期間、しかも不完全な形で実現したにすぎず、やがて商業の発達によって大商人が生まれ、貧富の差がますます開いていくことになる。

村の理念が長く続いたのは、主に貨幣経済の浸透が地方ではゆっくりと進んだからである。成功した都市住民を豊かにしたような新しい事業や産業を起こす場は、荘園制のもとでは生まれにくかったのだ。イングランドで資本家農民が出現し、耕作地が囲い込まれて牧草地となり、小作人が賃金労働者に変わったのは十六世紀になってからだった。そして、歴史家R・H・トーニーの言葉によれば、「農奴はいなくなったが、救貧法が制定される」ことになってしまったのである。

2009年4月25日

浜林正夫 『世界史再入門 歴史のながれと日本の位置を見直す』 (講談社学術文庫)

Filed under: アジア, ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

数ヶ月前に新刊情報の記事の中で、名前だけ出した本を通読。

さほど厚くない、一冊モノの世界史。

私程度の知識しか無い人間が、自分に合わないからといって一刀両断に切り捨てるのは、どんな本であれ宜しくないでしょうし、そんなのを読まされる方も鬱陶しいのはわかっているつもりですが、これについては言わずにおれない。

はっきり言って長所が全くわからない本でした。

「まえがき」で使用方法として、まず各章のまとめの節を先に読んでもらっても良いと書いてあって、こういうふうに明解な指針を読者に示してくれるのには好感が持てる。

しかし、そのまとめを読んでみても「うーん」と思うだけで、全世界史を一望の下に理解することができる認識軸を提示してくれているとは到底思えないし、さしたる感銘も受けない。

(著者には「そりゃ君の頭が悪いだけだ」と言われるかもしれませんが。)

その前後に記されている大まかな史実の流れは、高校教科書の記述を薄めに薄めた絞りかすみたいな文章で、全然面白くない。

最後の「補論 世界史像の再構成へむけて」はまあ興味深い点が無いでは無いが、著者と同じ考えを持てない読者にとっては「???」の連続ではないでしょうか。

(なお、現代史の部分で著者の相当に左派的な立場が打ち出されていますが、そういうことだけで文句を付けているのではありません。)

同じ世界史概説でも、ウィリアム・マクニール『世界史』(中央公論新社)(現在は中公文庫に上・下巻が収録)や宮崎市定『アジア史概説』(中公文庫)と比べれば、天と地ほどの差を感じる。

この両書とはそもそもページ数が違うと指摘されれば、やや対象範囲がせまいとは言え、同じく薄い文庫本である松田壽男『アジアの歴史』(岩波現代文庫)と比べても役に立つ視点が少な過ぎると言いたい。

「読む価値無し」と断言する気はありませんが、積極的にお勧めする気もゼロです。

2009年3月30日

ジョゼフ・ギース フランシス・ギース 『中世ヨーロッパの農村の生活』 (講談社学術文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

ちょっと前に記事にした『中世ヨーロッパの都市の生活』の姉妹編。

同じ講談社学術文庫に『中世ヨーロッパの城の生活』も収録されている模様。

本書では13世紀イングランドのエルトンという村を定点観測することで、中世農村の暮らしを再現している。

村の概観と領主の支配、村人の身分・階層別と日々の生活、共同で行なう農作業と牧畜、冠婚葬祭と教会、司法の実態などが史料に忠実に描写されている。

厳しい秩序と支配の下にありながら、慣習という強固な拠り所を武器にして、自らの利益を守る農奴と自由農民の姿が印象的。

現在よりもはるかに過酷で貧しい生活を送ってはいるが、本質的には我々とあまり変わらない心性を持った人々が織り成す悲喜劇が垣間見れる。

終章の黒死病とワット・タイラーの乱を経た中世末期の記述もなかなか面白い。

本書も、細かなところに引っ掛からずざっと一読してイメージをつかむための本なので、下手に何かを憶えようとしない方が良い。

最初はやや取っ付きにくいが、途中からは読むスピードも上がるでしょう。

結構面白いのでお勧めします。

2009年1月18日

ジョゼフ・ギース フランシス・ギース 『中世ヨーロッパの都市の生活』 (講談社学術文庫)

Filed under: ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

私にしては珍しく社会史の本。

中世ヨーロッパと言っても、時代も地域も広範囲に及ぶが、本書では西暦1250年におけるフランス・シャンパーニュ地方の都市トロワを取り上げ、その社会を詳しく描写している。

この地方の領主シャンパーニュ伯の系図などが出てきますが、こんなのは別に憶える必要は無いでしょう。

社会史の本ではあるが、具体的な事実を記した生活史であり、抽象的な心性史・精神史ではないので、私でも楽しく読める。

著者は専門の歴史研究者ではなくアメリカの作家で、原著は1960年代末に書かれたもの。

そのせいか、難解な部分は全く無く、平易で読みやすい。

当時の都市住民の衣食住と冠婚葬祭、市政の運営と広範な経済取引、教会の文化事業についてわかりやすく述べられている。

役人、職人、商人、聖職者、学生が織り成す様々な活動を生き生きと知らせてくれる。

なかなかの本だと思います。

中世ヨーロッパ史の副読本として、たまにはこういう本を読むのも良いでしょう。

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