万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年3月16日

佐藤賢一 『ヴァロワ朝  フランス王朝史2』 (講談社現代新書)

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『カペー朝』の続編。

2014年刊。

本書を読む上で、当然全ての国王を憶えることを目標にする。

以下、内容メモ。

 

 

 

フィリップ6世(1328~1350年)

王権を大いに伸長したフィリップ4世の子、ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世(とルイ10世の嬰児ジャン1世)が次々に死去。

王朝成立以来、奇跡とも呼ばれる単線的な父子継承を続けてきたカペー朝もさすがに断絶。

フィリップ4世の兄弟ヴァロワ伯シャルルの子フィリップ6世が即位、ヴァロワ朝が成立。

と言っても、要は従兄弟に王位が移っただけである。

ここで前著『カペー朝』の記事末尾で、私が書いた疑問に触れられている。

なぜこの程度の継承が王朝交替と見なされるのか、後述のヴァロワ朝内部の継承では、より不自然なものが見られるのに、という疑問です。

結論は、英国王エドワード3世が異議を唱え、王位継承権を主張し、百年戦争という大事件が勃発したため、結果として王朝交替と見られるようになった、ということです。

フィリップ4世の娘で三国王の姉妹イザベルがエドワード2世と結婚、そこから生まれたのがエドワード3世。

先代エドワード1世がウェールズ征服を成し遂げたのに対し、エドワード2世はスコットランド王のロバート・ブルースに大敗、イザベルは、このように失政の多かった夫を宮廷クーデタで廃位し、息子の3世を王位に就けている。

1339年フランドル伯領の争いも絡んで百年戦争勃発。

ブルターニュ公国の継承争いにも英仏が介入。

1346年、北仏を西から東に荒らしまわるエドワード3世にフィリップ6世が応戦し、最初の決定的な戦闘、クレシーの戦いが起こる。

英軍が国王の命令一下、騎兵が下馬して敵を待ち受けたのに対し、統制の取れない仏軍は中世騎士の習いでただただ突進するだけ。

左右に配置された英軍の長弓兵の餌食となり、その後騎兵の突撃を受けて、仏軍は大敗。

王弟、フランドル伯など重要人物の戦死も相次いだが、その中にボヘミア(ベーメン)王ヨハンがいたことを記憶しておく。

ヨハンはルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子で、のちの皇帝カール4世の父、ジギスムントの祖父に当たる。

このクレシーの戦いが1346年です。

年号をもう一度見て下さい。

「何か、もうすぐとんでもないことが起きそうだなあ」と感じませんか。

思いません?

出来れば思いついて欲しいんですが。

 

 

 

 

1348年前後の黒死病の大流行です。

(1648年ウェストファリア条約、1848年仏二月革命・独三月革命など全欧規模の革命、と並んで憶えるべき「三つの48年」の一つです。)

ヨーロッパ全域で人口の三分の一が失われたとも言われる、破滅的な災厄となった。

フィリップ6世はドーフィネ候領を購入して獲得するなど(フランス王太子の称号ドーファンの語源)、手堅い政治的手腕を見せたこともあったが、その治世はやはり散々なものと言わざるを得ない。

1350年崩御、子のジャンが跡を継ぐ。

 

 

 

ジャン2世(1350~1364年)

高校世界史では用語集にだけ名前が出るレベルの国王だが、正直、ローマ帝国のヴァレリアヌス帝やオスマン朝のバヤジット1世と並んで、「捕虜になった人」というイメージしかない。

父王に比べれば軍事的才能には恵まれており、国王の命令が貫徹される軍の設立を目指す。

1356年ポワティエの戦いが勃発。

友軍との合流に失敗した黒太子エドワードをジャン2世が捕捉、英軍六千、仏軍三万と数では圧倒的にフランス優位。

今回は仏軍騎兵も国王の命令で下馬したが、徒歩であっても単純な突撃戦法は変わらず、前回同様長弓の餌食となり、大敗を喫する。

ジャン2世自身も捕虜となるが、厳しい監禁生活は強いられず、王侯にふさわしい待遇を受ける。

この戦いで奮戦した王の末子フィリップが「豪胆公」と呼ばれるブルゴーニュ公の祖となったことは要記憶(他の本では「剛勇公」の訳語を当て、「豪胆公」(あるいは「突進公」)は四代目ブルゴーニュ公のシャルルに与えるものもある)。

危機の中、王太子シャルルは全国三部会を招集。

ところが、パリ商人頭(市長)のエティエンヌ・マルセル率いる平民議員は顧問会議による王権の掣肘を主張、王太子の側近が殺害されるなど、革命の様相すら見せ始める。

農村では1358年ジャックリーの乱が起こる。

王太子は両反乱を何とか鎮圧。

イギリスとの交渉では、ポワトゥー、アキテーヌ、カレー市周辺など王国の三分の一と莫大な身代金を代償にジャン2世解放。

で、履行保証のため、国王の身代わりに第二・第三王子などが人質になったのだが、第二王子が逃亡し外交問題になると、傑作なことにジャン2世は海を渡り、自発的に再度捕虜になった。

本書でも記されているように、一国の統治者としては軽率な振る舞いかもしれないが、戦争に国民的憎悪が不在で、名誉とフェア・プレイを重んじる中世の理想が存在していたことは称賛に値すると言うべきかもしれない。

ジャン2世はそのままロンドンで客死。

 

 

 

シャルル5世(1364~1380年)

初代、二代目と散々な治世が続いたヴァロワ朝だが、このシャルル5世の時代に顕著な立ち直りを見せる。

神聖ローマ皇帝カール4世は母方の伯父にあたり、王太子時代に金印勅書発布の場にも居合わせたという。

病弱ではあるが、頭脳明晰、着実に事を進める堅実さを持つ。

タイユ(人頭税・直接税)、エード(消費税・間接税)、ガベル(塩税・間接税)という大革命に至るまで王国財政の基礎となる恒常的全国課税制度を確立。

それまで直接支配する王領の年貢収入25万リーヴルほどに頼っていた王国の予算は、次代シャルル6世時代にかけて200万リーヴル規模に拡大したという。

デュ・ゲクランという小貴族を王国軍総司令官に抜擢、傭兵隊の弊害を避けるため、小規模ながら常備軍を整備。

フランドル伯継承者の女子と末弟ブルゴーニュ公フィリップ(捕虜から解放された際の父ジャン2世によって跡継ぎの無かった公に据えられていた)を結婚させ、ネーデルラントとブルゴーニュを結びつける(中世末期ブルゴーニュはフランスに併合、ネーデルラントは政略結婚政策でハプスブルク家領に)。

各地の要塞を整備、パリにバスティーユ要塞を建設したのもこの王。

ナバラ王国、ブルターニュ公領、カスティリャ王国にも介入。

イギリスとも再戦し、カレー、ボルドー、バイヨンヌなどの港湾都市とその周辺にのみ、英領を封じ込める。

1377年エドワード3世没、孫のリチャード2世即位。

1378年アヴィニョンとローマに両教皇並立(~1417年。教会大分裂[大シスマ])。

ブルターニュの併合には失敗した後、1380年シャルル5世崩御。

 

 

 

シャルル6世(1380~1422年)

シャルル5世の治世に大きく立ち直ったフランスだが、このシャルル6世時代にその国威はどん底にまで落ちてしまう。

11歳で即位。

叔父のアンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公が補佐するが、その中でブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)が台頭。

ブルゴーニュ公に対し、バイエルン公家出身の王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールと王弟ルイ(のちオルレアン公になり、ミラノ公ヴィスコンティ家の娘と結婚)が対抗、両者のバランスの上に、シャルル6世は親政を開始する。

だが、1392年頃から王は不幸にして精神異常の兆候を見せ始め、定期的に正気と狂気の間をさまようようになる。

国王という要を失った国は、ブルゴーニュ派とオルレアン派に分裂していく。

英仏間は長期間の休戦協定が結ばれ、シャルル6世の王女が英国王リチャード2世に嫁いだが、1399年リチャードは王位を奪われ、従兄弟のヘンリ4世が即位、ランカスター朝が成立。

1404年ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公が病没、子のジャン無畏公が登位。

ジャン無畏公はパリを占拠し、オルレアン公ルイとイザボー王妃は地方へ逃れる。

一時和解が成立したが、1407年オルレアン公がブルゴーニュ派に暗殺され、いよいよ両者の対立はのっぴきならないものとなり、宮廷内の勢力争いから、武力衝突を伴う内乱のレベルになってしまう。

新たにオルレアン公となったのは子のシャルルで、その後ろ盾になったのが義父の有力諸侯アルマニャック伯だったので、以後オルレアン派はアルマニャック派と呼ばれるようになる。

両派ともにイギリスに支援を求めるという致命的行為を為し、それに消極的だったヘンリ4世が1413年死去すると、替わったヘンリ5世は再度フランスに上陸。

ブルゴーニュ派は「カボッシュの乱」という混乱を引き起こしてしまい、パリを退去、替わってアルマニャック派が入城、中央政権を奪取。

このアルマニャック派政権とヘンリ5世軍が激突したのが、1415年アザンクールの戦い。

クレシー、ポワティエと同じく、数では四分の一以下のイギリス軍が長弓兵の威力で圧勝、仏軍は惨敗する。

さらに、王太子と弟が病没、シャルル6世の末息子シャルルが王太子に昇格、アルマニャック派の旗印になる。

王太子は政争の種となってきた母イザボーを追放するが、イザボーはブルゴーニュ派に投じ、パリを奪還、再びブルゴーニュ派がフランス王家を代表することになる。

これまで親イングランド政策を続けてきたジャン無畏公だが、ヘンリ5世がパリ進軍の気配まで見せるようになると、さすがにアルマニャック派との和解に動く。

王太子シャルルとの会見が準備されたが、そこでジャン無畏公が暗殺されるという衝撃的事件が起こる。

この破滅的事件で内乱への最後の箍が失われてしまった。

激昂したブルゴーニュ派と三代目の公フィリップ(善良公)は「アングロ・ブールギィニョン同盟」を締結、アルマニャック派を不倶戴天の敵と見なし、フランス王国の保全よりもアルマニャック派への復讐を優先するようになる。

後世から見て、党派争いの為に敵国と結ぶのは「裏切り」「売国」の印象が強く、百年戦争におけるブルゴーニュ派にはどうしてもそのイメージが付きまとうが、ナショナリズムと国民国家成立前にはそれが奇異で嫌悪すべきものとの感覚が共有されていなかったし、そもそもブルゴーニュ公も三代目となると、フランス人というより重要な領地であるフランドル人としての自己意識の方が強かったのではないかと本書では述べられている。

1420年トロワ条約締結。

将来のシャルル6世死後、その王女と結婚したヘンリ5世がフランス国王となり、英仏両王国は統合され、同君連合を結び、王太子シャルルは廃嫡される、との内容。

もしこれが実現していたら、世界の歴史は全く変わっていたはずである。

しかし、運命の女神はそのような道を許さなかった。

1422年ヘンリ5世は35歳の若さで死去、その後同年中にシャルル6世も亡くなるが、わずか二ヵ月の差で、ヘンリ5世はフランス王にはなれず。

後継ぎのヘンリ6世はまだ赤子に過ぎず、もしヘンリ5世が強健なまま、王太子シャルルと対峙していたら、との空想は興味深い。

 

 

 

シャルル7世(1422~1461年)

身体能力に恵まれず、外見もぱっとせず、利発とも言えないこの王が百年戦争を勝利に導くことになる。

父シャルル6世の摂政に指定されたアンジュー公家の娘と結婚、賢夫人と定評のある義母ヨランド・ダラゴンの影響を受ける。

父の死後、フランス国王即位を宣言したが、イングランド・ブルゴーニュ派からは「ブールジュの王」と呼ばれる。

ただ、教科書などでは、このシャルル7世の即位当初のフランスを「崩壊寸前」と描写しているものも多いが、この最悪の時期でも中部から南部にかけて、フランス王国の半ば以上はシャルル7世の支配下にあり、あまり窮状を誇張すべきでもない、という意味のことが書かれている。

とは言え、アルマニャック派内部の政争もあり、厳しい状況だったのは確かである。

そこに1429年ジャンヌ・ダルクが登場し、オルレアンの包囲を解いて入城する。

ジャンヌが王と会見し、信頼を得たのはヨランド・ダラゴンの手引きであり、王に語ったのは母イザボーの奔放な振る舞いから、本当は自身が父王の子ではないのではないかとの疑惑を払拭するに足る出生の秘密ではなかったか、との説もあるが、この辺の真相は永遠に不明でしょう。

オルレアン包囲戦について、ジャンヌの戦術自体は単純で、持久戦となり、各砦に戦力を分散させ過ぎていたイングランド軍を、ジャンヌの登場で戦意が向上していたフランス軍が各個撃破した、というもの。

その背景として、長年続いた戦争とその被害によって、フランスの国民意識が固まりつつあったこと、そのナショナリズムの象徴がまさにジャンヌ・ダルクだったとされている(ジャンヌ自身、ブルゴーニュ公には同じフランス人として和平を勧める手紙を送っている)。

オルレアン解放後、ランスでシャルル7世の戴冠式が挙行されるが、1430年ジャンヌは捕虜となり、31年火刑に処されてしまう。

だが、1435年アラスの和で、ブルゴーニュ派との和平達成、翌36年にはパリ回復。

残るはノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)の二地方だが、シャルル7世は焦らず、大商人ジャック・クールを用い財政制度と常備軍を整備。

ブルターニュ公を親仏派に転向させた上で、1450年ノルマンディーを征服、1453年ボルドーを陥落させ、ギュイエンヌも解放、これで遂に百年戦争が終結。

戦後、王国の行政制度を整え、1461年シャルル7世没。

即位時と崩御時の王国の状況は天と地ほど異なっている。

やはり「勝利王」の名に値する国王であると思われる。

 

 

 

ルイ11世(1461~1483年)

シャルル7世とフランソワ1世の間に在位した三人の王は最も馴染みがない。

「シャルル7世から即8世に行かず、二人のルイが挟まっている」と憶える。

百年戦争終結前後のフランスの課題は、ブルゴーニュ公とブルターニュ公に代表される諸侯の勢力を削減すること。

だが、王太子時代のルイ11世は父シャルル7世にしばしば逆らい、それら大諸侯と共謀し、王に反抗している。

シャルル7世死去時には、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の下に身を寄せていた。

即位後は前王の側近を追放、恣意的・強権的統治を敷き、「暴君」との評も得る。

だが、ブルゴーニュ公、ブルターニュ公らの反抗を圧伏することでは、かつての父王と同じ立場に立つことになった。

フィリップ善良公死後、後を継いだシャルル突進公と衝突を繰り返す。

シャルル突進公はますます独立傾向を強め、ブルゴーニュとフランドル間の地域も併合し、独仏間に強大な独立王国を建設することを目論むが、それに対してロレーヌ公、アルザス諸都市、スイス諸州が立ちはだかる。

1477年シャルル突進公は、ロレーヌ公とスイス諸州の連合軍に敗れ、戦死。

細かな話だが、ブルゴーニュは西のブルゴーニュ「公」領と東のブルゴーニュ「伯」領に分かれ、東の伯領は「フランシュ・コンテ」と呼ばれる。

突進公戦死後、ブルゴーニュ公領はフランス王国に併合される(フランシュ・コンテが仏領となるのは1679年オランダ戦争を終結させたナイメーヘン条約によって)。

しかし、突進公の一人娘マリーは身柄を拘束されることなくフランドルに逃れ、ハプスブルク朝皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンと結婚、これでフランドルはハプスブルク家のものとなってしまう。

だが、アンジュー公親王家の断絶を機に、元は神聖ローマ帝国に属していたプロヴァンス伯領の併合に成功。

北東部でフランドルを失い、南東部でプロヴァンスを得て、中世フランス王国と現在のフランス共和国の領域変化が概ね完成。

最晩年のルイ11世は異常なほど信心深くなり、半狂乱に近かったとも言われる。

 

 

 

シャルル8世(1483~1498年)

ルイ11世47歳の時の子。

そのせいもあってか、厳重に保護され、外の世界と接触しないまま育てられる。

1483年13歳で即位、当初は王姉夫妻が実質統治、オルレアン公ルイ2世(初代ルイの孫、二代目シャルルの子、後にルイ12世として王位に就く)と勢力争いを演じる。

それまで、北仏のラングドイルと南仏のラングドックに分かれて開かれていた三部会が、文字通り全国三部会として開催されるようになる。

ブルターニュ公が死去、後を継ぐ男子はおらず、公女アンヌとシャルル8世が結婚、これでブルターニュの併合が既定路線となる。

親政を開始したシャルル8世は、幼少期の反動からか、空想とロマンに突かれた言動を見せ、それがフランス王国をイタリア戦争に導く。

1494年から1559年まで断続的に続いた近世初頭におけるヴァロワ朝フランスとハプスブルク朝神聖ローマ帝国(とスペイン)間のこの大戦争は、主権国家体制の確立に大きな影響を与えたが、結局イタリアがスペインの支配下に置かれて終結する。

13世紀、神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝断絶後、その領地だった南イタリア王国をルイ9世の弟でアンジュー伯のシャルル・ダンジューが支配。

フランス支配に反発する「シチリアの晩鐘」という反乱が勃発、シチリア島はアラゴン王家出身者が統治、ナポリはアンジュー家が支配するようになるが、中世末期シチリア王国がナポリを併合。

これを継承権の根拠に、1494年イタリア侵攻を開始。

大軍を擁し、ナポリ入城を果たすが、イタリア内外の諸列強が連合し、ナポリを確保できず。

シャルル8世は1498年城の改築中に柱を頭にぶつけて、28歳の若さで事故死、ヴァロワ朝の直系は途絶える。

 

 

 

ルイ12世(1498~1515年)

シャルル6世の弟が初代オルレアン公ルイ、子がシャルル、孫がこのルイ12世。

即位でヴァロワ・オルレアン朝が成立したとの見方もある。

冷静沈着で温厚寛容な人柄で名君との評も得たが、減税の為に「官職売買」という、大革命に至るまで大きな弊害を残す制度を始めてしまう。

イタリア戦争を継続、初代オルレアン公の妃がミラノ公ヴィスコンティ家出身だったことを根拠に、スフォルツァ家統治に替わったミラノの継承権も主張。

一時ミラノ占領に成功、続いてナポリにも出兵するが、奪回され、以後特にナポリはヴァロワ朝諸王の手には二度と入らないことになる。

1515年死去。

 

 

 

フランソワ1世(1515~1547年)

初代オルレアン公ルイ1世の次男が初代アングレーム伯、その孫がフランソワ1世。

分家の分家が後を継いだわけだから、以後の王統はヴァロワ・アングレーム朝とも呼ばれる。

身長2メートルを超え、陽性で派手好き、活動的な性格、絢爛豪華なルネサンス君主として君臨する。

1519年神聖ローマ帝国皇帝位を争い敗れ、即位したカール5世は終生の宿敵となり、イタリアで死闘を繰り広げるが、1525年パヴィアの戦いで惨敗、フランソワ1世自身が捕虜となる。

内政ではレオナルド・ダ・ヴィンチを招くなどルネサンス文化を保護したが、カルヴァンらの宗教改革については徐々に厳しい姿勢を見せ始める。

1547年死去した際には、オスマン朝やドイツの新教徒との連携も空しく、イタリアは失われており、悪化した財政が残された。

その華やかなイメージは強い印象を与えるが、治世の実績はあまり芳しくないと言わざるを得ないかもしれない。

 

 

 

アンリ2世(1547~1559年)

フランソワ1世まで来ると、後はかなり楽。

その子と三人の孫でヴァロワ朝が終わるので(最後に三兄弟が相次いで即位するというのは、奇しくもカペー朝と同じ展開である)。

まず子のアンリ2世が即位。

妻がメディチ家出身のカトリーヌ・ドゥ・メディシスだったことは当然要チェック。

父のフランソワ1世が捕虜になった際、解放の代償として人質に出され、スペインで一時囚人のような扱いを受ける。

その復讐心もあってか、イタリア戦争を再開、シュマルカルデン戦争中のドイツ新教徒と連携、フランソワ1世の父がサヴォワ家の女性と結婚していたことを根拠に、フランスと隣接し保持しやすいピエモンテに食指を動かす。

内政では後に職務別大臣制の先駆となる地域別の国務卿を設置、諸州巡察制度を整備し、権限の大きな州総督も設置するが、自身の治世中はその独立傾向を抑制し得た。

ギーズ公(当主フランソワ)派とモンモランシー元帥派(甥のコリニー提督を含む)の党派対立が激しくなる。

主戦派のギーズ公がイングランドからカレーを奪回、大陸の最後の英領が消滅。

だが戦局は好転せず、1559年カトー・カンブレジ条約締結、これによって半世紀以上続いた、長い長いイタリア戦争がようやく終結。

シャルル8世以来のイタリア戦争の細かな経緯が本書でも記されているが、憶えるのはかなり苦しい。

結局、ミラノもナポリもサヴォイアも、継承権を主張した地域は全く得ることができず、イタリアはスペインの実質的支配下に入ったことだけをチェック(イタリア統一支持の代償にサヴォイアだけは第二帝政時代に仏領となったのは高校世界史で既出)。

和平後、ドイツのプロテスタントと同盟したアンリ2世は、国内のユグノーに対しては強硬姿勢で抑圧に向かう。

ユグノーはすでに王家にも信者を持ち、フランソワ1世の姉妹マルグリットとナバラ王との間の娘ジャンヌ・ダルブレはそうであり、その夫アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは態度を明確にしなかったが、その弟コンデ大公ルイ・ドゥ・ブルボンは新教徒であることを公言。

1559年アンリ2世は騎馬試合に出場した際、事故で槍が頭部に刺さり、事故死。

この死をノストラダムスが予言していたとされているのは有名。

アンドレ・モロワ『フランス史』を読み返して気付いたのが、このアンリ2世に対する評価の意外な高さ。

16世紀前半、結局敗れたとは言え、スペインとオーストリアの両ハプスブルク帝国に対し戦いを挑み、ヨーロッパの一国支配阻止と勢力均衡維持に貢献したヴァロワ朝フランスが、世紀後半には国内の宗教戦争で混迷を極め、そのバランサーとしての役割をイギリスとオランダに譲ることになったのは、このアンリ2世の不慮の死という偶然も与っているのかなと思った。

 

 

 

フランソワ2世(1559~1560年)

アンリ2世とカトリーヌ・ドゥ・メディシスとの間の王子で順当な即位だが、極めて病弱で、ごく短い在位。

この王については、妻が誰であったのかを必ず記憶しておく。

スコットランド女王メアリ・ステュアート。

イングランドを睨んだ政略結婚だが、メアリ・ステュアートの母はギーズ家出身なので、ギーズ公フランソワは叔父、ギーズ公アンリは従兄弟に当たる。

ギーズ公派は熱心な旧教徒としてユグノーを弾圧。

フランソワ2世と母后カトリーヌは融和策に努めたが、フランソワ2世は病死。

子の無いメアリ・ステュアートは母国に送り返され、後に王位を失い、イングランドに逃亡して捕らわれ、最後は処刑される(ただしその子がジェームズ1世として英国王となる)。

 

 

 

シャルル9世(1560~1574年)

フランソワ2世の弟が即位。

母后カトリーヌが実権を握る。

まず頭の中で「カトリーヌ・ドゥ・メディシス=サン・バルテルミの虐殺の実行者=狂信的カトリック」という図式がもしあれば(私は高校時代このようにイメージしていました)、それを一度完全に白紙にして下さい。

少なくとも当初カトリーヌが追求したのは、新旧両派の融和と王国の安定。

三部会を招集し、新教の限定的容認を定めたが、非妥協的な党派感情が激化する一方で、不幸にして実を結ばず、1562年ユグノー戦争勃発。

旧教側がギーズ公、新教側がコリニー、コンデ大公が中心、モンモランシーとナバラ王アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは旧教側に付く。

この内乱が以後断続的に世紀末まで続く。

ギーズ公フランソワが暗殺され、ナバラ王が戦傷死した後、一時戦火は収まるが、折から1568年オランダ独立戦争が勃発、この国外の事件を機に再度対立が深まる。

コンデ大公が戦没、ギーズ公アンリは王妹マルグリットとの醜聞で失脚、王弟アンリが旧教側の指導者として台頭。

コリニーと並ぶ新教徒の指導者で、アントワーヌの子ナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンと王妹マルグリットとの結婚が両宗派和解の為に決められるが、1572年その婚礼時に勃発したのが、サン・バルテルミの虐殺。

コリニーら多くの新教徒指導者が惨殺され、ナバラ王は捕らわれの身に。

母カトリーヌからの影響を脱し、エキセントリックで異常な行動を見せるようになったシャルル9世の決断と見られる。

王弟アンリが、ヤギェウォ朝断絶後選挙王制となっていたポーランドの国王に選出され、国を離れる。

新教徒はフランス南西部を中心に徹底的に抵抗。

1574年半狂乱に近い状態でシャルル9世は死去。

 

 

 

アンリ3世(1574~1589年)

またもや弟が即位。

兄の死を聞くと、王位に就いていたポーランドを抜け出し、帰国。

即位前は強硬な旧教派だったが、国王となると強硬派だけに密着するわけにはいかなくなる。

モンモランシー家など穏健派カトリックが第三勢力として台頭、宗派よりも政治優先という意味で「ポリティーク派」と呼ばれるようになり、王弟フランソワが担ぎ上げられる。

オランダの君主としてフランソワを迎える動きもあったが、結局実現せず、フランソワは病死。

こうなると、子が無く、男色家の噂のあるアンリ3世の死後、最も近い王位継承者はナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンということになる。

ナバラ王の父の家系ブルボン親王家は、はるか昔、ルイ9世の六男を祖としており、しかもその分家筋だから、王家の末裔とは言え、ずいぶん離れている。

母方はやや近く、上述の通りフランソワ1世の姪ジャンヌ・ダルブレがナバラ王アンリの母であり、そして王妹マルグリットと結婚している。

新教徒とポリティーク派が同盟、旧教派のギーズ公アンリと激突。

アンリ3世とカトリーヌは旧教派に担がれているものの、本心では妥協を求め、右往左往するばかり。

1588年(スペイン無敵艦隊敗北の年だ)パリを中心にますます強硬になる旧教派は事実上のクーデタを起こし、実権を掌握、アンリ3世はパリを逃れる。

激昂した王は側近に命じ、ギーズ公アンリを暗殺させる。

翌1589年カトリーヌが死去、追い詰められたアンリ3世はナバラ王と手を結び、パリを包囲。

しかしここでアンリ3世は旧教派の報復の刃に倒れ、暗殺される。

ナバラ王アンリが、アンリ4世として即位、ブルボン朝が始まることになる。

 

 

 

 

末尾でヴァロワ朝の治世が総括されている。

14世紀から15世紀前半の百年戦争、15世紀後半のブルゴーニュ戦争とブルターニュ戦争、16世紀前半のイタリア戦争、16世紀後半のユグノー戦争、と戦いと国難の連続だった。

しかし、豊かな国土と膨大な人口を持つ、中近世におけるヨーロッパ最大の国家であるフランスはその都度、すぐさま再起することが出来た。

カペー朝の王権拡張と国家統一政策を引き継いだヴァロワ朝は、ブルゴーニュとブルターニュの二大公国を併合、オルレアン公領やアングレーム伯領もルイ12世、フランソワ1世の即位により王領となり、ヴァロワ朝末期には王権に対して実質的独立性を持つ有力諸侯はもはや存在しなくなった。

確かに依然フランスの一体的国家意識よりも地方郷土のアイデンティティを優先する感情は強かったし、カトリックあるいはプロテスタントの信仰を国家統一より重視する考えも濃厚だった。

それがヴァロワ朝末期のユグノー戦争で爆発することになった。

王権を神聖化することによって、それらの障害を克服し、完全な中央集権的統一国家を創り上げることが、次代のブルボン朝の課題となる。

 

 

 

前巻と同じく手堅い良書。

史実を要領よく叙述しているし、その評価も分かりやすい。

効用の高い啓蒙書。

次は『ブルボン朝』が出るんでしょうけど、ブルボン朝の場合、馴染みの無い国王はいないし、『聖なる王権ブルボン家』も既読だから、それは手に取らないかもしれません。

2013年9月23日

遅塚忠躬 『フランス革命を生きた「テロリスト」  ルカルパンティエの生涯』 (NHKブックス)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 15:45

遅塚氏は『フランス革命 歴史における劇薬』引用文1)の著者。

カバーの紹介文で「フランス革命史の大家の遺作」とあるのを見て、ああ亡くなったのか、そう言えばかなり前の新聞で訃報欄にお名前が載っていたかなと思う。

ジャン・バティスト・ルカルパンティエという革命家の生涯を通じて見たフランス革命とテロリズムの考察。

はしがきで歴史認識の方法論を述べた後、序章で革命的テロリズムと反抗的テロリズムの区別などを論じて本文へ。

ルカルパンティエは、コタンタン半島(シェルブールを含む)近くの村の、「耕作農民」=中規模以上の農家の生まれ、下級司法官職に就いた後、国民公会議員になる。

国王二体論(自然的身体と政治的身体)の立場から、後者の政治的身体をどう扱うかが問題の核心だとして、ルイ16世処刑に賛成、「国王弑逆者」の汚名を着る。

自由権だけでなく、生存権=社会的デモクラシーの理念を保持。

1793年マンシュ県に派遣され、多くの反革命容疑者を摘発・逮捕し、パリ革命裁判所へ送致する。

ただし、大量処刑を自ら行った、「リヨンの霰弾乱殺者」フーシェや、「ナントの溺殺刑執行人」カリエなどとは同一視できない、と著者は指摘している。

テルミドール反動後に投獄されるが、1795年大赦で出獄。

王政復古後、1816年に大赦法が成立するが、弑逆者で、かつナポレオン百日天下加担者は例外として永久国外追放となり、ルカルパンティエも同様の措置を受ける。

しかし、密かに帰国し潜伏していたところを、1819年に逮捕、現在は美しい観光地だが当時は牢獄として使われていたモン・サン・ミシェルに収監され、1829年に獄死。

その死は七月革命直前であり、あと少し生き延びていれば再び出獄できた可能性が高いという。

著者は、ルカルパンティエが不屈に信念を貫いたことを称える論調で記すが、そう言われても私は特に感慨は持てない。

本書では、この後に二つの「付論」がついていて、実は本文よりこちらの方が興味深い。

付論1「ルソー、ロベスピエール、テロルとフランス革命」。

まずフランス革命の意義を全否定する論調を批判した後、諸学説の紹介。

「ジャコバン学派」とも言うべき流れでは、まずオーラールが周囲の敵に包囲された「軍事キャンプ」論で恐怖政治を説明し、マティエが階級間の「社会革命」としての分析を導入、ルフェーブルは「アリストクラートの陰謀」という観念と「防衛的反作用」という心性を述べ、ソブールは「民衆的テロルの収拾としての恐怖政治」という視点を提出する。

最後のものは、中公新版世界史全集の『アメリカとフランスの革命』の記事で書いたように、パリの民衆運動とジャコバン政権を同一視せず、両者の相克・対立を見逃さない立場のようです。

以上は全て「状況」からの説明と言える。

これに対して著者は、「内面」の論理を重視し、事件と構造の相互作用を観察し、そこにおける「言説」の重要性を指摘。

ルフェーブルの複合革命論、すなわちフランス革命をアリストクラート・ブルジョワ・都市民衆・農民という四者の自律的革命運動の複合体として理解する主張を取り上げ、この構造の中での「共通の利害発見の困難さ」と、それが「排除と自己権力正当化」の言説を導きやすかったことを論じている。

(著者は、「排除の言説」はジャコバン独裁だけでなく、ブルジョワ共和派にも共通しているとし、その例としてル・シャプリエ法[労働者の団結禁止法]を挙げている。)

その際、ルソーの一般意志概念、多数決原理と代議制に対する疑念が悪用された。

なお、フランソワ・フュレら修正派の見解については、聞くべきところがあるとしながらも、著者はあまり高く評価していないようである。

この付論1は、結構面白いと思うんですが、私の曖昧なメモではそれが伝わりにくいですね・・・・・・。

付論2「ボワシ・ダングラース――フランス革命期のあるプロテスタントの生き方」。

ボワシ・ダングラースは穏健共和主義の1795年憲法起草者。

富裕な名望家に生まれ、三部会に選出、中道的立憲派で、国民公会ではジロンド派と山岳派の中間を占める「平原派」に属した。

ルイ16世処刑に反対、監禁と和平確立後の追放を支持。

テルミドール後には信仰の自由保障と政教分離を確立する法令を作成。

1795年4・5月、ジャコバン残党の民衆蜂起が起こり、国民公会議場に乱入した暴徒が議員を殺害、その首を槍先に刺して当時議長だったボワシに突きつけたが、彼は毅然とした態度を示したという。

こうした経験から、無産者による直接民主制の危険性を指摘、有産者による代議制を支持。

王政復古下での「憲章」起草者の一人となり、百日天下後の白色テロに反対、恩赦の取り成しに努力する。

1826年没。

彼は、単なるオポチュニストではなく、フランスにおける「憲政的リベラリズムの父」である、と評されている。

確かに王政復古など万に一つもありえなくなった19世紀末以後のフランスからすれば、左右の過激主義を排して穏健共和主義を貫き、議会主義的デモクラシーと信仰の自由を確立するために努力した人物として、著者自身も含め、最大公約数的な支持を得やすい存在なんでしょう。

しかし、そうして得られた自由が止めどなく低俗化し、伝統的信仰を失った民衆が醜悪な世俗的イデオロギーを狂信し、多数決原理を利用して、前近代社会では決してありえなかった最悪の事態をもたらしたことを我々は知っている(木崎喜代治『幻想としての自由と民主主義』間宮陽介『ケインズとハイエク』)。

そう考えると、こういう誰からも批判されない穏健な人物でも、著者のようには、素直に肯定できない気分が残ってしまう。

やはり、著者とは根本的に考え方の違う部分がある。

1789年については、戦前昭和期についてのメモ その4の後半で書いたようなイメージしかない。

一人物を通じてみた、入門書的なフランス革命史では、伊東冬美『フランス大革命に抗して』の方が良いと思う。

とは言え、読み通して不快感がほとんど無いのは、著者の筆致ににじみ出る、人徳と品格ゆえでしょうか。

決して悪い本ではないと思います。

2013年8月11日

ローラン・ジョフラン 『ナポレオンの戦役』 (中央公論新社)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 15:12

ナポレオンの生涯における、八つの戦いを取り上げて、細かな戦史を叙述した本。

本文に入る前に、ナポレオンの前歴と列強による対仏大同盟を整理しておく。

ナポレオン・ボナパルトは1793年南仏トゥーロン港攻略で名を挙げるが、94年ジャコバン政権崩壊と共に一時投獄、しかし95年ヴァンデミエールの王党派反乱を鎮圧し、96年イタリア方面軍総司令に任命される。

対仏大同盟、第1回は1793年ルイ16世処刑を機に結成、英露墺普西蘭が参加、95年普仏間のバーゼル条約と97年仏墺間のカンポ・フォルミオ条約で消滅、ベルギーと北伊チザルピナ共和国が仏勢力下に入り、ヴェネツィアが墺領に。

第2回はナポレオンのエジプト遠征を受けて1798年英露土・両シチリアで結成、1801年リュネヴィル条約でオーストリア軍はイタリアより排除、ライン左岸が仏領に、1802年アミアン条約で英とも講和成立。

第3回は1804年第一帝政が樹立されると05年英露墺が結成、アウステルリッツの三帝会戦後、1805年プレスブルク和約で伊・南独のオーストリア領放棄。

第4回、神聖ローマ帝国解体で1806年英露普が結成、イエナ・アウエルシュテット戦後、1807年ティルジット条約でウェストファリア王国と普領から割いたワルシャワ大公国が成立、露は大陸封鎖令に協力。

第5回、スペイン反乱を機に、1809年英墺が結成、ワグラムの戦いの後、シェーンブルンの和で、墺はザルツブルク・南チロル・イリリア・西ガリツィアを失う。

第6回、ロシア遠征の失敗で1813年英露普墺で結成、同年ライプチヒの戦いで連合国勝利。

第7回、ナポレオンのエルバ島脱出で結成、1815年ワーテルローで百日天下粉砕。

高校世界史では、4回目と5回目が省略されていて、6回目が第4回として記述され、7回目は言及無し。

ナポレオンの軍略に一貫しているのは、自軍を分散させ、各軍が相互に援助できる距離を保ちつつ急速に進軍し、敵の予想外の地点で全軍を集中し敵を撃破すること。

配下の将軍としては、オージュロー、ベルティエ、ダヴー、ネイ、ミュラ、ベルナドット、ランヌ、スルト、マクドナルド、マッセナ、マルモン、グルーシーらの名前を、覚えなくてもいいが、目に慣らしておく。

以下、本文の八つの戦いにごく簡単に触れるが、上記の対仏大同盟メモを見て、どういう政治情勢下の戦いだったのかをチェックしつつ読みましょう。

(1)1796年ロディ橋の戦い

アルプスを越え、ピエモンテ・オーストリア両軍を分断、ピエモンテを降伏させた後、ロディ橋でオーストリア軍と激突、勝利。

(2)1798年ピラミッドの戦い

これは年号をしっかりチェック。

近代イスラム・中東史の起点の年1798年(大革命の下二桁をひっくり返した年)。

オスマン朝治下の総督が指揮するマムルーク兵と戦って勝利、しかしアブキール湾の戦いで仏海軍がネルソン率いる英艦隊に惨敗(戦列艦13隻中11隻喪失)、ナポレオンが去った後のエジプトではムハンマド・アリーが台頭することになる。

(3)1800年マレンゴの戦い

1799年第一統領に就任したナポレオンが第2次イタリア遠征を敢行、モロー将軍による対ドイツ方面の陽動作戦を行った上で大サン・ベルナール峠でアルプス越え、オーストリア軍の意表を突くが、ナポレオンの予想に反して、墺軍は撤退せず正面対決を求め、その際軍を分散させていた仏軍は大苦戦、前半戦はほとんど敗北、ナポレオン神話もこの時点であわや終わりかという状況だったが、援軍が辛くも間に合い、ようやく勝利。

(4)1805年ウルム、アウステルリッツの戦い

まずウルムで、オーストリア軍の背後に出て小規模な戦闘の後、墺軍を降伏させる。

続いてウィーン占領。

補給難を克服するため、後退するとの偽情報や休戦提案によって、露墺軍を短期決戦に仕向ることに成功。

ウィーン北東アウステルリッツで、北に主力を置いた仏軍が南の仏軍を攻撃する露墺軍の脇腹を突き大勝。

別名「三帝会戦」だが、「三帝」はナポレオン1世、アレクサンドル1世、フランツ1世。

神聖ローマ帝国滅亡が翌1806年だから、「神聖ローマ帝国が滅んだから、最後の皇帝フランツ2世が、オーストリア皇帝フランツ1世を名乗った」と覚えたのは勘違いだったか。

『角川世界史辞典』を引いたら、オーストリア皇帝を名乗ったのは、ナポレオンの皇帝即位に対抗してだと書いてあった。

(5)1806年イエナ、アウエルス(シュ)テッドの戦い

対プロイセン戦。

有名なのはナポレオン自身が普軍を破ったイエナの戦いだが、それより大規模の普軍をダヴーがアウエルステッドで破る。

仏軍はベルリン入城。

(6)1807年アイラウの戦い

ロシア軍と残留プロイセン軍との戦い。

仏軍は、伝令が捕らえられて作戦が筒抜けになり、中央攻撃が失敗、皇帝本陣にまで敵が迫り、騎兵突撃でようやく戦局を挽回するも被害甚大、辛勝。

(7)1809年ワグラムの戦い

1808年スペイン反乱に続く戦い、09年墺と開戦、精鋭部隊を欠いていたが、火砲の集中で勝利、翌1810年オーストリア皇女マリ・ルイーゼと結婚。

(8)1815年ワーテルローの戦い

ベルギーでの会戦。

英軍と普軍を分断し、緒戦は勝利、しかし普軍の捕捉に失敗、ウェリントン率いる英軍に敗北。

私はこの戦いを、英軍が仏軍の猛攻を耐え忍んでいるうちに、ナポレオンが派遣した別働隊が捕捉できなかった普軍が戦場に殺到して勝敗を決したと理解していたのだが、確か本書では普軍の動きがそれほど決定的要因では無かったというような感じの記述だった。

これはちょっと意外な気がして強く印象に残った。

感想は、「普通」ですかね。

ロシア遠征やライプチヒの戦いに触れられていないのは残念。

巻末に作戦図が有り、本文を読む際参照するといいが、それほどわかりやすいものではない。

ナポレオン時代の政治事項を復習しつつ読むのなら有益か。

是非にとお勧めする気は無いです。

2013年5月31日

八幡和郎 『愛と欲望のフランス王列伝』 (集英社新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 16:05

いかにも俗受けを狙ったタイトルで、雑学風の本。

普段なら自分のレベルは棚に上げて、絶対読まない。

しかしざっと眺めたところ、面白そうなので借りてみる。

著者のお名前は「やわた・かずお」とお読みするようです。

この方は日本史関係でかなりの数の、そこそこ面白い歴史読み物を書かれていて、フランス史は専門外ではないかと思ったが、略歴を見るとフランス国立行政学院(ENA)留学とあるから、そうでもないのか。

内容はタイトル通り、王統を順番に省略無く、ひたすらたどっていくもの(大革命以後も記述有り)。

そうした形式にこだわった理由を著者は以下のような文章で記しているが、これには全く同感。

・・・・学校の「世界史」では、中世などなじみのない時代を軽く飛ばしてしまうので、流れがぼやけてしまうし、民衆の生活が大事だという流行は、血湧き肉躍る武勲も恋愛も気高く感動的な精神の発露も隅に追いやって、歴史を無味乾燥な分かりにくいものにしてしまった。

本文に入ると、まずメロヴィング朝の歴史を記していくが、オーギュスタン・ティエリ『メロヴィング王朝史話』の記事で書いたように、この辺は高校世界史範囲外で難解複雑極まる部分なので、本書の叙述はこの上なく貴重。

だが内容を詰め込みすぎで、読むスピードは遅くなり、細部を正確に記憶するのは難しい。

クローヴィス1世死後、フランク王国は四子に分割、北仏東部のアウストラシア(ソワソンが中心)と西部ネウストリア(ランスが中心)、パリとオルレアンの四つ。

そのうちパリとオルレアンは早期に断絶、アウストラシアとネウストリアが抗争を続ける。

記述はネウストリア中心に進むが、著者はネウストリアを日本の南北朝時代の南朝に、アウストラシアを北朝に喩えている(カロリング家はアウストラシアの宮宰として台頭)。

クロタール、シギベルト、ダゴベルト、キルペリク、テウデリクの各○世など、王名が山ほど出てくるが、初めはともかく、特に最後の方の王位移動は複雑すぎて、正確な経緯を記憶するのはやはりほぼ不可能。

一応要点だけでもメモしようかと思ったが、あまりにも骨が折れる。

751年のカロリング朝成立までは適当に流さざるを得ない。

ちなみにこの751年近辺で、世界史でもう一つ極めて重要な王朝交替がありましたよね。

すぐ思いつくでしょうか?

ほら、ヨーロッパと隣接する地域で。

750年ウマイヤ朝滅亡とアッバース朝成立ですね。

翌751年はカロリング朝成立と共に、タラス河畔の戦いで唐朝が負けたこともチェック、この少し後755年には安史の乱で唐はさらに退潮。

つまりタラスで勝ったのはアッバース朝、カロリング朝を建てたのは小ピピン(ピピン3世)、ということはその父カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間で破ったのはウマイヤ朝軍だ、という具合に次々と事項を関連付けて記憶していくことを、高校世界史同様に続けていきましょう。

以下、気になった部分だけ全く脈絡無くメモ。

時々挟まれているコラムが結構役立つ。

南仏の地名について、ボルドー周辺がギュイエンヌ、ボルドー南東がガスコーニュ、ボルドー北がアキテーヌだが、三者がしばしば混同して用いられるので、明快正確な区別は難しいと書いてあって、返って曖昧に感じていたことがスッキリした。

次に、近世における東部国境拡張について。

1559年カトー・カンブレジ条約でイタリア進出放棄の代償にロレーヌの要地メッス、ヴェルダン、トゥールを支配、1648年前三者とアルザス南部を正式併合、1659年ピレネー条約でルシヨン・アルトワ併合、1668年アーヘン条約でリール併合、1678年ナイメーヘン条約でフランシュ・コンテとカンブレ併合、1681年頃までにアルザス北部とストラスブール帰属、1697年ライスワイク条約でストラスブール正式併合。

なお、ロレーヌとコルシカを領有したことによってほぼ現領土と等しくなったことや、ほぼ同時期のイギリスも米国独立という大失策を犯していることから、普通大革命を準備した腐敗した時代と見なされがちなルイ15世の治世を著者は評価している。

ナポレオン時代も(第二帝政含め)高く評価。

しかし、

ナポレオン戦争は、最後に負けたということでは失敗ではあるが、軍事的なやり方がまずかっただけで、もし、ナポレオンが成功していたら、ドイツはより自由主義的な国になり、ロシアはタタール的な帝国ではなく西欧的な文明国として発展しただろうし、スペインも20世紀後半を待たずして西欧の一員になったはずだ。ポーランドは独立を維持でき、イタリアはもっと早く統一されただろう。

と言うのは、いくら何でも贔屓の引き倒しというものではないでしょうか?

英米で主流のナポレオン否定論に反発するというのはわかりますが、この部分は到底素直に頷けない記述であった。

この後では、第三共和政以後の王族についての叙述が面白かった。

当時、シャルル10世の次男ベリー公の子で、公が暗殺された後に生まれたシャンボール伯アンリがブルボン王家当主。

第三共和政初代大統領に就任したのは王党派のマクマオンだったので、王政復古が有力視されたが、シャンボール伯が国旗として白地に百合の花をあしらったアンリ4世旗にこだわり三色旗を拒否したため、実現せず、「アンリ5世」即位は幻に終わる。

内心王党派的心情で記されたピエール・ガクソット『フランス人の歴史』の該当箇所では、シャンボール伯は国民に与えられたのではない自立した王権を求めたのであろうが、当時においてはそれはやはり非現実的だったというような筆致で記していたと思う。

これによって王政復古の可能性は残念ながら(とあえて書かせて頂きます)永久に去った。

シャンボール伯には子が無く、ブルボン本家は断絶。

現存する王家はオルレアン家ルイ・フィリップの孫パリ伯フィリップの系統とスペイン現王室のブルボン家ということになる。

新書とは思えぬほど情報量が多い。

詳細で貴重な知識を得られるが、場合によっては消化不良を起こしそう。

著者の史的評価にも、かなり首を傾げる部分があった。

積極的にお勧めする気は起きません。

2012年6月1日

エリック・ルーセル 『ドゴール  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物7)』 (祥伝社)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

このシリーズでベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』に続いてこれを読む。

ドゴールの伝記ではラクーチュール村松剛の著書を通読済み。

あと福田和也『第二次大戦とは何だったのか』での小伝も。

ドゴール家はパリのブルジョワ家系。

高祖父は高等法院検察官、革命で財産の大部分を失う。

曽祖父は国民公会によって投獄され、百科全書派思想に失望、のちにナポレオン軍の軍職に就く。

祖父ジュリアン・ドゴールはリールに移住し古文書学者になる。

以前、チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』の記事において、冗談半分で、南ネーデルラント継承戦争でリールを獲得してなければドゴール出現も無かったのだから、「ルイ14世の征服戦争」も利点があったと書きましたが、以上の経緯と年代を考えると、ジョークとしても的外れでしたね。

貧窮生活の中、一家は厳格なカトリック信仰を守り通す。

父アンリ・ドゴールは理工科学校(エコール・ポリテクニック)を経て内務省に入るが、第三共和政の反教権主義により辞職、教職に転ずる。

「ジョゼフ・ド・メーストルの言葉によれば、革命は宗教改革と同じく悪魔的なものであった。革命を愛することは神から遠ざかることである」

だが、ドレフュス事件にあたってはドレフュスの有罪を疑い、それを公言、極右団体アクシオン・フランセーズがヴァチカンから断罪されると、その日刊紙の購読を止める。

このアンリの次男として1890年に生まれたのが、シャルル・ドゴール。

1909年サン・シール陸軍士官学校に入学、卒業後入隊した部隊で当時大佐のフィリップ・ペタンと知り合う。

第一次大戦に従軍、1916年ヴェルダン攻防戦のドゥオモン保塁で三度目の負傷、捕虜になる。

なお、1966年になってドイツの旧兵士が、当時ドゴールは抵抗もせず降伏したとメディアで主張したが、ドゴールは無視した。

第二次大戦時に敵国が宣伝材料として利用しなかったことを見ても、これは虚偽の主張だろうと著者は判断している。

バイエルンのインゴルシュタット収容所に送られ、そこでのちの同志カトルーや、ソ連赤軍の英雄となるトゥハチェフスキーと知り合う。

ここでドゴールの政治思想の解説。

一言で言うと、不本意ながらの共和主義者。

家系が示すように18世紀啓蒙思想への不信を持つが、20世紀になっての王政復古の可能性は信じていない。

この点、クロワ・ド・フー(火の十字団)のラロックと類似している(剣持久木『記憶の中のファシズム』参照)。

モーリス・バレス、シャルル・モーラスなど、アクシオン・フランセーズの極右思想家の著作を読むが、反ユダヤ主義の領域に引き込まれることは拒否する。

1919、20年にポーランド軍顧問団への配属を志願し、ソヴィエト軍と戦う(これもラロックと共通)。

ペタンの推挙によって軍内で昇進を重ねる。

第三共和政への不信を持つが、軍によるクーデタなどは否定するリアリズムと賢明さを持つ。

ドゴールは、戦車を集中配備した機甲師団創設を主張(ただし空軍力の重要性は必ずしも十分に認識せず)し右派議員ポール・レイノーの賛同を得たが、ブルム内閣国防相のダラディエが反対、ペタンとも決裂する。

第二次世界大戦開戦、大統領アルベール・ルブランの下、1940年3月に首相がダラディエからレイノーに交代。

5月にドイツ軍が大攻勢、ドゴールは一部機甲師団を指揮し反撃。

最高司令官はガムランからウェイガンへ交代、ペタンが副首相、ドゴールは国防次官になる。

ドイツ軍の侵攻によって政府はパリからトゥール、さらにボルドーに移転。

ウェイガンとペタンは休戦を唱えるが、ドゴールはあくまで英国と連携し、米国の支援に期待をかけ徹底抗戦を主張。

このフランス降伏直前時に、フランスの抗戦意欲を維持するために、英仏の単一国家への合邦という驚きのプランが検討され、国民国家の独立を何より重視するドゴールも同意するが、これは全くの画餅に終わる。

首相レイノーは辞任、ペタンが後任となり、ドゴールはロンドンに亡命、6月18日BBC放送での史上有名な抗戦アピールを行う。

英にはフランス海軍力の後背への懸念と配慮があり、当初ペタン政権を完全に否認できなかったが、6月末ドゴールの自由フランス政府を承認、7月メルセルケビール作戦で仏海軍への攻撃に踏み切る。

ジャン・モネらのように抗戦派だが反ドゴールの立場を採った人物もいたが、ガストン・パレフスキー、ルネ・プレヴァン、ミュズリエ提督、ジャック・スーステル、カトルー(インドシナ総督を解任された)、ピエール・メスメール、ルクレール、ジャック・マシューらが参集。

7月ヴィシー政府成立、8月ヴィシーはドゴールに死刑宣告。

9月自由フランス政府によるダカール奪取作戦が失敗するが、チャド、ガボンは自由仏派へ。

ドゴールにとっては、フランスの正統性と代表権を主張し、国内レジスタンスの主導権を可能な限り共産系から奪うことが課題になる。

また、ヴィシーも完全な傀儡政権ではなく、対独協力の一方、水面下で英国と接触し、12月には親独派のラヴァルを解任するなど、微妙な舵取りを採る。

12月シリア・レバノンのヴィシー側高等弁務官との交渉で、当地域が英仏軍統治下に入る。

ドゴールは、同志たちの多くが抱いていた通俗的共和主義とは違い、第三共和政への軽蔑を隠さず、「自由・平等・博愛」の信条に「祖国と名誉」を加え、集権化制度への支持と革命前後を含むフランスの全ての歴史を許容するという立場を示し、モーラスの思想すら、政府の役割と世界におけるフランスの地位については受け入れた。

そのため、「反民主的」との疑念にさらされることにもなった。

自由フランス内ではミュズリエとの勢力争いが発生、同盟国のイギリスとの軋轢も絶えず、ドゴールを実権の無い象徴的地位に祭り上げようとする動きが起こる。

アメリカも、この時期ヴィシー政権の穏健化と対独離間策を主な政策としていた。

米国政府内でもリーヒー提督ら反ドゴール派が存在し、当時米国に滞在しており、後年ドゴール政権で外相・首相を務めるモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルもそれに異を唱えない状況だった。

41年に入り、独ソ戦が始まり、真珠湾攻撃で米国が参戦するなど、情勢が好転する中、現実政策の面からソ連へ接近、ジャン・ムーランによる国内レジスタンス統一に際しては、共産系へ譲歩。

42年11月米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、本格反抗が始まるが、米国はドゴールよりむしろ、ドイツから脱走してきたジロー将軍を支持。

アルジェのダルラン提督は米国との交渉に踏み切りペタンによって解任、独軍は仏南部に侵入しヴィシーは完全に傀儡化。

12月にダルランが暗殺されるが、これにドゴールが関与していたかは不明とされている。

43年1月モロッコのカサブランカで、チャーチル、ルーズヴェルト、ドゴール、ジローの四者が会談、ジローのアルジェ掌握が決まるが、成立した国民解放フランス委員会は巻き返しがあり、11月にはドゴールの主導権が確立する。

戦勝国によってフランスに軍政が敷かれ占領扱いになることにドゴールは強硬に反対、イーデン、アイゼンハワーらの理解を得て主張を貫くことに成功。

44年6月ノルマンディー上陸作戦、同月国民解放フランス委員会は臨時政府に改組、8月パリ入城。

45年2月ヤルタ会談には参加できなかったが、国際連合安保理常任理事国の地位とドイツ占領権は得る。

戦勝国の一員となったものの、インドシナなどの植民地では反乱が続発(ここで高校世界史では出てこない人名だがチュニジアのブルギバ[1957~87年大統領]を覚えておきましょうか)。

45年秋の選挙で、共産党が国民共和運動(MRP)と社会党(SFIO)を抑えて第一勢力に。

46年1月ドゴールは臨時政府首班を辞任、社会主義者のグーアンが後任、10月憲法採択、社会党ヴァンサン・オリオール大統領の下、第四共和政成立。

47年3月社会党ラマディエ首相就任、5月に共産党閣僚を追放。

同年3月ドゴールは自前の政治組織として、フランス国民連合(RPF)を組織。

一時支持を集めたRPFだが、植民地の独立要望に対する曖昧な態度や、冷戦進行で非現実的になったドイツ分割政策への固執、51年調印(52年発効)のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)など欧州統合への反対、過度の反共主義によって、徐々に党勢は後退。

不遇のうち、引退状態になったドゴールだが、アルジェリア危機に際して58年首相復帰。

59年大統領権限を大幅に強化した第五共和政樹立、初代大統領に。

(第五共和政は成立後50余年で、まだ第三共和政の方が長いが、おそらく近代フランス最長の政治体制になるでしょう。)

復帰してからの10年はよく知られているんで、流します。

UNR(新共和国連合)が与党、ミシェル・ドブレ、モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル、シャバン・デルマス、ジョルジュ・ポンピドゥー、ヴァレリー・ジスカールデスタンらが側近。

政権復帰の発端であったアルジェリア問題ではサハラの石油への固執も持ったが、結局独立を承認(しかし同時に、本書では親仏派現地人への冷酷とも言える対応についても記している)。

対米自立外交を繰り広げながらも、62年キューバ危機に際してはケネディ政権の対応を全面的に支持。

68年五月危機も乗り切ったかに見えたが、69年辞職、70年死去。

末尾辺りで、印象深い文章がある。

彼に言わせれば、国家の改革はきわめて困難である。なぜならば、1789年の絶対君主制の崩壊以来、国家は堕落したからだ。いま、国家に内在するただ一つのスケールの大きい能力は、直接普通選挙によって共和国大統領を選出することである。「それはフランスが大統領制を採用することを意味するのではない」と彼はさらに強調する。フランスは根底から君主制的な国家であり、そのことは政党や利害による避けがたい日常的な騒ぎを超えた行政権を要請する。

また、以下の述懐も。

「フランス人なんて、嗚呼、つまらないものだ。イタリア人でもアメリカ人でも同じことだ。ソヴィエト人も次第にそうなっていくだろう。それが時代の要請であり、法則だからだ。現代人は英雄ではない。私が去ってからというもの、国際レベルでは何もかも停滞してしまった。」

さらに、引退後の内輪での会話として記されている言葉。

「私の人生で心残りなのは、君主制をやらなかったこと、そのために必要なフランス王家のメンバーがいなかったことだ。実際には、私は10年間、君主だった。フランスの政治というものを持っているのは私だけなのだ。」

これはちょっと妙である。

20世紀初頭の時点で、父親の王党派的信念にも関わらず、王政復古はもはや現実的ではないと判断しているのに、さらに万に一つの可能性も無くなった20世紀後半に内輪話とは言え、このように発言しているのだが、どこまで本気なのかかなり疑わしい。

しかし、興味深い言葉ではあります。

細かな史実にも触れ、内容は充実しているが、少し読みにくい。

普通の日本人読者にとっては最低限の予備知識が無いとわかりにくいでしょう。

訳文もこなれておらず、文脈からすると肯定・否定が逆でないと意味が通らないのでは? と思われる部分もいくつかあった。

戦後史は、渡辺啓貴『フランス現代史』の方がいいかもしれない。

個人的には結構面白かった気がするが、是非お勧めしますと断言できないのが辛いところであります。

2011年2月7日

ルイ16世についてのメモ その6

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

その5に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

1793年1月、ルイ16世の最期についての描写。

処刑判決を告げられた際。

王は判決を告げられても微動だにせず、その冷静さはエベールを含めてその場にいた者たち全員に感銘を与えた。エベールはほんの数日前、別名「裏切り者ルイ」のルイ・カペーの死刑を要求し、元国王を「夜は糞尿まみれの寝藁の上の豚のように鼾をかく」酔漢と呼び、「オーストリアの雌虎」であるマリー・アントワネットを「雌猿」に、その子供たちを「尾巻き猿の子供」に譬えて憚らなかった。きわめて過激な主張と野卑な言葉遣いで有名なあの「デュシェーヌ親爺」紙の創設者であり、王に対する好意があるなどと誰からも疑われるはずもないエベールは、判決告知の場面を称賛と感動をこめて伝えている。

「王は稀に見る沈着な様子で判決の言い渡しに耳を傾けた。その態度と言葉には敬虔、尊厳、気高さ、威信が満ちていたので私は堪え切れなかった。狂おしい涙が私の瞼を濡らした。王の眼差しと物腰には明らかに、人間を超えた何かがあった。止めようと思っても流れ落ちる涙をぬぐうため、私はその場を立ち去った。この職務はこれまでにしようと、と覚悟した」

この証言は貴重だが、しかしこう決意したはずのエベールが、数ヵ月後のマリー・アントワネットの裁判では、王太子との近親相姦疑惑まででっち上げて卑劣の限りを尽くすのだから呆れる。

下劣な誹謗中傷マニアの心性は、やはり死んでも直らないと言うべきか。

こいつが1794年3月に死刑に処された時の見苦しい取り乱し方は、威厳に満ちた態度で従容と死を迎えたルイ16世とマリー・アントワネットとは完全に対照的であり、失笑を禁じえない。

同じジャコバン派指導者でも、奔放で非教条的側面を持つダントンや、残忍・冷酷であると同時に高潔・清廉であったことも間違いないロベスピエールに一種妖しい魅力があることは認めるが、このエベールに対しては心底からの嫌悪と軽蔑以外の何物も感じない。

国民公会よりの使者が退出した後、監視の役人たちにルイ16世はこう述べたという。

「私は恐れることなく死を迎える。私の死がフランス国民に幸福をもたらし、不幸を遠ざけてくれることを願う。民衆がさまざまな徒党の犠牲者となり無政府状態に苦しめられ、犯罪が相次ぎ、フランスを引き裂く対立が続くことを私は予感している」

この予言は、その後第三共和政の安定まで100年間、フランスで的中し続けたとしか言うほかないし(引用文(トクヴィル1))、見方によっては現在に至るまで、フランスだけでなく他の民主主義国家すべてで的を射ているとも言える。

やっと終わりました。

プティフィスの伝記の縮刷版みたいな内容。

より短く、分量的に適切。

訳文がよくこなれていて、流れるように読める。

巻末にある年表もちょうどよい詳しさ。

眺めることで本文の復習ができる。

なお、私が書いた記事では、やたら「反革命的」傾向が読み取れるかと思いますが、これは私の関心と解釈から他の本の記述も引用してまとめたものですので、その点お含み置き下さい。

著者はフランス革命の意義を全面否定することはしていませんし、ある時期以降のフランスで共和政以外の政体の選択肢があったとは考えていないようです。

(これは現在のフランス人としては当然だと思います。プティフィスの本も同じく。)

よってこのブログの記述から本書についてある種の先入見は持たれない方が宜しいかと思われます。

(ただし、本書の叙述と全く相反し、関係無いことを記事で書き連ねたつもりもございません。)

かなり良く出来た伝記だと思いますんで、機会があればお手に取って下さい。

2011年2月5日

ルイ16世についてのメモ その5

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

その4に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

ルイ16世は革命の動乱の中で翻弄され、結局不幸な最期を迎えることとなる。

本書では1789年10月の「ヴェルサイユ行進」について以下のように記されている。

この事件は、卑しいデマゴーグに煽られたパリの下劣な気狂い女どもが集団でヴェルサイユに押し寄せ、王妃マリー・アントワネットを殺害しようとし(未遂)、多数の衛兵を虐殺した上、国王一家をパリに強制的に連行したもの。

民衆の暴動が勝利を収めたのは、動き始めた歴史の歯車の力と勢いによるものだったのは間違いないだろうが、道徳の原理原則にあくまで忠実なルイ16世が手段を選ばない秩序の回復、すなわち民衆に発砲してでも王政を救うことを望まなかったからでもある。性格の弱さもしくは自身の名誉のために、臣民の血を流すことを拒否したのだ。この強硬手段拒否の代償をやがて自分の血で支払うことになろうとは、実に残酷な運命である。

こういう記述を読むと、「陛下、いくら何でも人が善すぎますよ・・・・・・」と言いたくなる。

狂った民衆にいくら譲歩しても、図に乗ってますます理不尽な要求を突き付けてくるだけ。

畜生以下の存在に成り下がった奴らに理解できる言葉は、剣と銃弾だけです。

この後起ったことを考えれば、思い切った強硬措置と正面突破の弾圧を試みていれば、ルイ16世と王室のみならず、フランス国民全体にとっても、現実より遥かにマシな展開になっていたのではないかと思えてならない。

しかしルイ16世はそうした手段に出るにはあまりに穏健で善良過ぎた。

89年7月のバスティーユ襲撃、10月のヴェルサイユ行進、92年の8月10日事件と、エスカレートする一方の民衆による暴力には、明らかに以下のような心理的メカニズムが働いている。

群衆の現わす感情は、よかれ悪しかれ、極めて単純でしかも極めて誇張的であるという、二重の性質を示す。この点についても、他の多くの点についてと同じく、群衆中の個人は原始人に似ている。微妙な差違を解し得ず、物事を大まかに見て、推移の過程を知らない。感情は、暗示と感染とによって非常に早く伝播し、それが一般の賛成を得ると、著しくその力を増大するのであるが、群衆における感情の誇張は、この事実によっていよいよ強められる。

群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、ただちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それがたちまち異論の余地ない明白な事実に化してしまうのである。反感や不服の念がきざしても、単独の個人の場合ならばさして強くはならないであろうが、群衆中の個人にあっては、それは、たちまちはげしい憎悪となるのである。

群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人の場合にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである。群衆のなかにいれば、愚か者も無学者もねたみ深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じにとってかわるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。

群衆における誇張癖は、不幸にもしばしば悪質の感情にも及ぶことがある。この悪質の感情は、原始人の本能の遺物であって、単独の、責任観念を持つ個人ならば、罰を恐れるがゆえに、これを抑制せざるを得ないのである。こうして、群衆が最も悪質の過激行為に走りやすい理由も説明される。

ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』

より一般的に言って、君主や貴族や宗教など民衆を罰するものが消滅し、民衆のやることならどんな醜悪で残忍なことでも正当化される、近代というろくでもない時代が始まり、その最初の犠牲者がルイ16世とマリー・アントワネットだったと思える。

あるいは次のような観点から見てもよい。

民主政において、多数者市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができます。激しい分裂がその種の国家組織内に遍く拡がる時は、(実際縷々そうならざるを得ないのですが)、何時でもそうなのです。

そして、少数者に対するその抑圧は、たった一本の王笏の支配からおよそ懸念され得る殆ど如何なる抑圧よりも遥かに多くの人々に及び、しかも遥かに激烈に行使されるのです。こうした民衆による迫害の下では、個々の受難者は、他の如何なる場合よりも何層倍も悲惨な境遇に置かれます。一人の暴虐な君主の下では、彼らには傷の痛みを和らげてくれる人類の心安まる同情があります。苦しみの下にあっても、その高邁な堅忍不抜を鼓舞する人々の喝采があります。ところが多数者の下で悪に苦しむ人々は、あらゆる外からの慰めを剥奪されるのです。人間種属全体の陰謀に打ちひしがれ、彼らは人類から見捨てられた如くに見えるのです。

エドマンド・バーク『フランス革命の省察』

啓蒙思想と言論の自由が広まるにつれ、上記多数者による抑圧はまず王室に加えられた。

国王と王妃の苦しみを、冷酷かつ卑劣極まりない心性で「見世物」としか受け取らなかった民衆は、制御不能となった「多数の暴政」に飲み込まれ、自らが現世地獄の悲惨を味わうこととなる。

そして、現在一見正常に思える民主主義国家でも、その内情は以下のような次第である。

アメリカほど一般に、自主独立の精神と真の言論の自由(が支配すること)の少ない国を私は知らない。・・・・・・アメリカでは、多数が思想にきびしい枠をはめている。その範囲内では、文筆にたずさわるものは自由であるが、あえてそれからはずれようとすると災難である。火あぶりの刑の恐れはないが、あらゆる種類の不快と、日々の迫害の的となる。政界での活躍の途は封じられる。それを開きうる唯一の権威を傷つけたからである。名声にいたるまで、すべてのものが拒まれる。その意見を公表するまでは味方がいると信じていたのに、すべての前に自己を明らかにしたいまでは、もはや味方はいないかに見える。非難する人々の声は高く、見解を同じくする人々は、それを公表する勇気に欠け、沈黙して遠ざかるからである。彼は譲歩し、そしてついには日々の営みに身を屈し、あたかも真理を語ったのを悔いるかのように、沈黙にかえる。

鉄鎖と死刑執行人、これが往時の圧制の粗野な用具であった。(君主)専制に、もはや何も学ぶ必要がないかに見えていたのであるが、今日では文明によって専制までが完璧になった。君主は、暴力を、いわば物理的に(使用)した。(これに対し)今日の民主的共和政は、みずからが抑制したいと思う人間の意思が理知的になるのとひとしく、暴力を知能的にした。個人の絶対支配、すなわち、専制は、人の魂にまで立ち入るために、肉体にはげしい打撃を加えた。魂はその打撃を逃れて、肉体を超えて輝かしく高揚した。しかし、民主的共和政では、圧制の過程はこれと全く違う。肉体を措いて、直接、魂に向かう。主人は「私と同じに考えろ。でなければ殺されるよ」とはもういわない。「おまえが私と同じ考えでないのは自由だ。生命にも、財産にも、すべてに異状は生じない。しかし、私に楯ついたその日から、おまえは異邦人だ。市民としての特権が依然としてあるが、そんなものは無用になる。選挙において同胞の支持を求めても、誰もおまえを支持はすまい。自分を認めてくれるだけでよいといっても、同胞は口実をもうけて拒むだろう。おまえは社会には住むが、人としての権利を失うであろう。仲間に近づこうとしても、仲間は何かけがらわしいものかのようにおまえを避けるだろう。無実を信じる人々でさえ、おまえを見捨てるだろう。さもないと、今度は自分が忌避されるから。安心して行け。おまえの命はとらぬが、その日々は死よりも辛いことだろう」という。

絶対君主政は専制を不名誉にした。民主的共和政がそれを復権させ、少数の人々にはこれを重い負担とする一方、大多数の眼にはその忌むべき堕落の様相をおおいかくす。そんなことにならぬよう注意しよう。

トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』

すべての人間が平等であるということが無条件的に真理とされ、それに対して疑いを持つことすらタブーとなるような状況では、その平等な人間の多数派が支持するものは絶対視されるに至る。

卑劣・矮小・醜悪な煽動者が印象操作と大衆迎合によって作り上げた「民意」が、自由で平等で合理的な市民全体の意志であると僭称し、絶対的支配権を要求する。

社会の下層に位置する、精神的な(つまり言葉の真の意味での)賎民を操るデマゴーグがほとんど無敵の存在となり、既存の支配層を押し退け、過去のどんな権威主義的政治も及ばないほどの独裁的権力を握る。

上記のようなことは、この時期のフランスだけでなく、どの時代のどの国にでも起こり得るし、結局長期的に見れば、自由主義と民主主義はどこまでも肥大化した挙句、自己崩壊しその反対物をもたらす滅びの道なんでしょう(ナチについてのメモ その5)。

そんなことは人類史上初の民主主義の実験であるアテネの惨状を見たプラトン『国家』)がすでに見抜いていたことですが、そうした知見は全く引き継がれず近代の200余年が過ぎ去ったわけです(引用文(西部邁6))。

フランス革命というのは、歴史的大事件である分、本当にいろいろな教訓を与えてくれるもんだとつくづく思います。

やっぱり終わりませんでしたね。

次こそは終わります。

2011年2月3日

ルイ16世についてのメモ その4

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その3に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

フランス革命について高校レベルの事項を確認。

まず革命勃発の年1789年から2年ごとの奇数年、91年・93年・95年に憲法が制定されたことをチェック。

91年憲法が立憲君主政、93年が急進共和政、95年が穏健共和政。

革命の過激化が進行し、それが極限まで行った後、一定の揺り戻しがあったことをイメージ。

この前後関係で様々な事件を把握するのが基本で、偶数年の90年・92年・94年にどういう転機があったのか(あるいは無かったのか)を確認する。

95年以降は穏健的ブルジョワ共和派の総裁政府がジャコバン残党と王党派によって左右に揺さぶられながら存続するうちに、軍部が台頭、革命勃発からちょうど10年後の1799年ブリュメール18日のクーデタにより統領政府成立、ナポレオン時代へという流れ。

ここの細かな事項は後回しでもよいと思われるので、とりあえず89~95年の7年間に何があったのかを一年刻みで頭に叩き込む。

 

 

まずすべての始まりの年、1789年。

5月三部会招集、6月第三身分が国民議会を名乗り、さらに「球戯場の誓い」があって、憲法制定会議と称する。

7月14日バスティーユ襲撃、8月4日封建的特権の(有償)廃止、8月26日フランス人権宣言(この三つは教科書にも日付が載ってますね。ちなみにアメリカ独立宣言は1776年7月4日)。

ここで場所だけチェック。

三部会やら国民議会やら人権宣言やらはすべてヴェルサイユで行われた話。

この時期、議会も国王もパリではなくヴェルサイユにいる。

バスティーユ襲撃だけがパリでの事件。

それが10月ヴェルサイユ行進で国王一家が無理やりパリに向かわされ、テュイルリー宮殿に入る(国王の滞在場所はヴェルサイユ宮殿→パリのテュイルリー宮殿→パリのタンプル塔への幽閉の順)。

議会もパリに移り、以後パリ下層民の民衆運動による圧迫を常に受けることになる。

この時期の革命指導者はラファイエット、ミラボー、シェイエス、バイイら。

この年、農村では貴族や領主が「ごろつき」を集め農民を襲撃するという噂が広まり(実際はデマ)、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態に陥った農民が逆に領主を虐殺する事態となる。

革命初年の農村暴動での死者が93年恐怖政治の犠牲者より多かったというのは、サイモン・シャーマ『フランス革命の主役たち』で読んで以来頭から離れない史実である。

社会のあらゆる人々が、煽動者に操られるままに利己心の虜になり、不平不満を爆発させ暴力を正当化し、隣人に襲い掛かる・・・・・。

ここここで引用した旧約聖書の一節を思い起こします。

あるいは、遥か後年、ドイツ国民が同じ病に罹ったときに、正気を保った人々によって広められた以下の詩も。

 

 

毒虫がほこりと

乾いた泥の中に、

軽い灰の中の焔のように

じっとかくれている。

雨と微風に

悪しき生命は目覚め

無から悪疫、

熱と煙が立ち上がる。

暗いほら穴から盗賊が

徘徊しようと立ちあらわれる。

獲物を求めようとして、

もっとよいものを見つける。

無意味な争いと

惑える知識と

ちぎれた旗と

愚かな民衆とを。

その行くところ、必ず

貧しき時代の空虚に会い、

厚顔無恥に歩み得て、

かくて盗賊は予言者となる。

塵芥の山に

悪の足ふみしめ、

呆れ顔の世間に

舌を鳴らしてあいさつする。

雲に包まれるように

卑劣に身を包み、

民衆の前の虚言者は

やがて巨大な権力をつかむ。

これに従う手下あまた。

位の高きも低きも、

機をうかがいつつ

頭にとり入ろうとする。

彼らは頭の言葉を、

かつて神の使徒が

五個のパンでしたように広め、

それは汚ならしくはびこってゆく。

はじめはかの犬めが欺いただけなのに

今は彼ら数千がそろって欺く。

嵐がふきまくるように、

今、彼の才は時を得て肥えふとる。

蒔いた種は高く伸び

国の姿は変りはて、

民は恥辱の生を生き

下劣な行いを意に介しない。

はじめはでたらめと思ったことが、

今や現実と化した。

よき人々は姿を消し

悪しき人々が群がっている。

いつかこの苦難が

遠く氷のようにとけたとき、

黒死病のように

語られることだろう。

子らは野に出て

藁人形をつくり、

苦しみを焼いて楽しみとし、

古き恐怖を焼いて光としよう。

ヘルマン・グラーザー『ドイツ第三帝国』

 

 

1790年。

この年は唯一と言える小康状態の年。

行政区画改定や経済自由化、メートル法導入検討などいくつかの改革が行われたのみ。

ただし「聖職者民事基本法」が制定され、以後聖職者は公務員と見なされ、教皇にではなく国家に忠誠を誓わされることになる。

これが敬虔なカトリック信者のルイ16世を大いに苦しめることになる。

 

 

1791年。

不気味な地滑りの予兆の年。

6月ヴァレンヌ逃亡事件、9月制限選挙・立憲君主政の1791年憲法、憲法成立と同時に立法議会召集。

この立法議会では明確な党派対立が生れる。

立憲君主主義のフイヤン派と穏健共和主義のジロンド派。

このうちフイヤン派はあくまでこの立法議会成立後の名称なので、代表者としてはラファイエット、バルナーヴ、デュポールらで、同じ立憲君主主義者でもすでに死亡しているミラボーは生前フイヤン派とすると間違いになるのか。

ジロンド派はボルドーを中心とするジロンド県選出議員が主導したためついた名称。

指導者はブリソ、ロラン夫妻ら。

ジロンド派が威勢よく共和政樹立と革命輸出のための対外戦争を主張したのが、この91年から92年。

しかし93~94年にはもう多くの指導者がギロチン送りになるか自殺する有様となる。

個人的感想ではこの一派は救いがたい阿呆というイメージです。

 

 

1792年。

革命急進化の最大の転機になった年。

4月ジロンド派主導で対オーストリア宣戦、8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃)、9月国民公会召集、第一共和政樹立。

前議会の立法議会では左派だったジロンド派がこの国民公会では右派となり、左派のジャコバン派に脅かされる情勢。

ジャコバン修道院を集会場にしたジャコバン・クラブという政治一派(ついでに、フイヤンも集会場所の修道院名)はもともと立憲君主派だったのがジロンド派が主流となり、ついで同派が脱退した後は最過激派の山岳派(議場の高い場所に議席を占めたことから)が残ったため、普通ジャコバン派と言えばイコール山岳派となる。

しかし本書ではジロンド派が分離する前、立法議会でフイヤン派と対立していた時のジャコバン・クラブを「ジャコバン派」と表現していたところが確か一箇所あったはず。

これはちょっと翻訳で配慮して避けて欲しかったところではある。

大衆による暴力支配に対する最後の防波堤が決壊した観のある8月10日事件については、プティフィスが要領よくまとめている。

8月10日は、第二のフランス革命、立憲議会によって整備された政治制度を打ち壊すという目標をもった、騒々しく、熱狂的で、荒々しい革命が誕生した日なのである。実際に勝利したのは、人民の主権などではない。過激派、いやむしろ暴力的で不寛容な諸分派の連合体、それに、権限もないのに人民の名において意思表示をする権利を奪取した数千の連盟兵と地区の民衆が勝利したのである。自由と人権にもとづき、諸特権が廃止された社会を作ろうとした1789年の革命は息絶えた。合法性や法治主義の尊重といったことには頓着しないもっと急進的な運動がそれに取って代わったのだ。・・・・・フランス革命の歴史において、決定的な断絶は、89年と93年、すなわち立憲議会と公安委員会の独裁のあいだにあるのではなく、89年と92年のあいだにある。というのは、この八月の動きというのは、ある特異な形態の権力、ジャコブ・レブ・タルモンの言葉を借りれば「全体主義的民主主義」の到来を告げるからである。(プティフィス『ルイ16世 下』

 

 

1793年。

ジャコバン独裁と恐怖政治でフランスが地獄に堕ちた年。

1月ルイ16世処刑、6月ジロンド派追放→ジャコバン派独裁。

93年憲法、封建的特権の無償廃止、公安委員会による恐怖政治、マリー・アントワネット処刑。

 

 

1794年。

恐怖政治の絶頂から、急転直下ジャコバン派の没落の年。

エベール、ダントン粛清、ロベスピエール独裁、7月テルミドール9日の反動。

 

 

1795年。

ブルジョワ共和派の支配確立の年。

95年憲法、国民公会解散、上下両院と総裁政府。

革命史のおさらいしただけでまた一記事。

たぶん、次の記事で終わります。

たぶん、ですけど・・・・・・。

2011年2月2日

ルイ16世についてのメモ その3

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その2に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

パリ条約と同年1783年、カロンヌが財務総監就任。

このカロンヌについては、脚注で(後世で言う)「ケインズ主義的」景気刺激策の主張者というようなことが書いてある。

その通り、モンゴリフェール(普通日本語訳のカタカナ表記は「モンゴルフィエ」か)兄弟の気球実験への援助やシェルブールの港湾施設整備などのプロジェクトを推進。

だが、やはり財政危機は放置できず、租税負担平等化、穀物流通自由化、土地所有者が選挙権を持つ議会創設などの本格的改革に向かう。

87年高等法院に対抗する意図で、政府が三身分から選出した名士会議招集。

しかしここでも特権層がまたも団結して抵抗、カロンヌは罷免、後任のブリエンヌにも強硬に反対、前述の国王自身が高等法院に出席することで勅令登録を強要する親臨法廷の効力すら否定する有様。

国王はパリ高等法院を追放するが、世論の反対でその撤回を余儀なくされる。

この時も、民衆は特権層の王権に対する反抗に拍手喝采し、カロンヌ・ブリエンヌ・王妃を憎悪の的にしてその肖像画を燃やして騒ぎ立てたというのだから、本当に頭がどうかしてますよ。

隠された意図を秘めたデマゴーグに煽られるままに、自分たちの利害と全く相反する政策を王政に強要したわけである。

それでいて、この少し後に三部会の票決方法で特権層と袂を分かつと、今度はいかなる調停も受け入れず、ただひたすら暴力で社会を転覆することに熱狂することになる。

どんな時代の、どんな国でも、「世論」なんてそんなもんです。

1788年、革命勃発前年、ルイ14世によるナントの勅令廃止(フォンテーヌブロー勅令)を撤回、プロテスタントに法的身分と私生活上における信仰の自由を認める。

本書ではその他にも、ユダヤ人解放の検討、拷問廃止など、ルイ16世の開明政策の例が多数挙げられている。

高等法院の権限を司法に限定する方針が立てられるが、当然これにも反発。

また新税は三部会の専権事項だとの主張が行われ、翌年の三部会招集が決定。

ブリエンヌが辞職、ネッケルが復帰。

ここで身分ごとの審議と身分ごとの投票か、一人一票の投票かの論争が起り、結論を見ないまま第三身分代議員の倍増だけが決まる。

もうこの時点で、各地で暴動が起こり騒然とした世相のまま1789年を迎える。

この時期ルイ16世は以下のように述懐している。

臣民の血を流し、対抗し、内戦を引き起こすには残忍な心が必要である。・・・・・あらゆる思いが余の心を引き裂いた。事を首尾よく運ぶために私が必要としたのは、皇帝ネロの心とカリグラ帝の魂であった。

しかし当然、ルイ16世はネロとカリグラの道は採らず、わが身の破滅を堪え忍ぶ道を選ぶことになる。

今日も短いですけど、ちょうど大革命直前まで行きましたんで、これまで。

さすがに長すぎるんで、革命期の描写は少しまとめます。

2011年2月1日

ルイ16世についてのメモ その2

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その1に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

ルイ16世即位が1774年、ということはそのすぐ翌年75年にレキシントン・コンコードの戦いでアメリカ独立戦争開始、翌々年76年に独立宣言となる。

まず七年戦争とフレンチ・インディアン戦争を終結させた1763年パリ条約の内容を復習。

最も重要なのは、カナダとミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスに割譲されたこと。

(この「ミシシッピ川以東の~」とか「以西の~」という言い方、高校世界史ではお馴染みで懐かしいですね。)

フロリダもスペイン領からイギリス領へ。

替わりにスペインはミシシッピ川以西のルイジアナ獲得。

カナダと広大なルイジアナを失ったフランスだけが大損である。

他にも西アフリカ拠点のセネガルをイギリスに奪われているから、もう踏んだり蹴ったり。

このパリ条約は近世における植民地争奪戦の最終決着であり、北米を中心としたイギリスの第一次帝国の頂点を形作るもの。

イギリスに対する復仇と海上勢力再建を目指すルイ16世はヴェルジェンヌ外相と協力して、77年サラトガの戦いでの独立派勝利を機に78年仏米同盟を締結し参戦、79年にはスペインが、80年にはオランダも対英戦に参加。

英米以外で参戦したのは上記3ヵ国の模様。

参戦はしなかったものの、80年結成で英国の海上臨検を拒否する「武装中立同盟」には、ロシア・オーストリア・プロイセン・デンマーク・ポルトガル・両シチリア王国が加わっているから、イギリスは完全な孤立状態。

フランスは遠征軍司令官ロシャンボー、海軍提督ド・グラース率いる軍を派遣。

81年ヨークタウンの戦いで大勝利。

この時の兵力は、コーンウォリス率いる英軍が9000、ワシントンの米軍が8800、ロシャンボーとラファイエットの仏軍が9000、他にグラースが上陸させた兵が3000と記されているから、確かに仏軍の存在は極めて重い。

ただし陸戦ではヨークタウン戦が決定的だったが、続く海戦ではイギリスが勝利しグラース提督が捕虜になっている。

結局1783年、上記七年戦争終結条約から20年後、同名のパリ条約で、イギリスはアメリカ独立承認。

フランスから奪ったばかりのミシシッピ川以東のルイジアナも、イギリスはアメリカに割譲。

スペインにはフロリダ、フランスにはセネガルを返還、カナダは保持したものの、それ以外の63年条約で得た領土はほぼ吐き出す。

しかし、以後イギリスは短期間で立ち直り、インドを中心とした第二次帝国確立に向かうことになる。

なおミシシッピ川以西のルイジアナについては、アンドレ・モロワ『アメリカ史 上・下』(新潮文庫)で確認したところ、ナポレオン時代初期に中部イタリアのトスカナと交換する形でスペイン領からフランス領となる(この経緯は高校世界史では出てこないはず)。

それに脅威を感じたアメリカと、圧倒的優位にあるイギリス海軍を向こうに回して海外領土を維持する見込みの無いフランスとの妥協が成立、1803年ジェファソン政権によるルイジアナ買収となるのは高校教科書の通り。

著者が示唆するように、ルイ16世という「専制君主」の決断が無ければ、アメリカ合衆国は今存在していないはずである。

本書では1993年ルイ16世処刑200周年にコンコルド広場で開かれた集会に、当時の駐仏アメリカ大使が公式の立場で花束を捧げたことが記されている。

アメリカ独立についてのくだりだけで一記事書いてしまった・・・・・。

こりゃまだまだ続きますわ。

今日は短めだったので、明日も更新します。

2011年1月29日

ルイ16世についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)の記事続き。

この頃、世論の中で王妃マリー・アントワネットの悪評が広まる。

本書でも、よく言われる浪費癖など、王妃にとって不名誉な事実が隠されているわけではない。

しかしそれを勘案しても、当時の世論における悪意の高まりは明らかに常軌を逸しており、狂的な異様さを感じる。

「絶対王政」という政体名からくるイメージとは全く異なり、王妃や王に対する下劣な誹謗中傷が卑しい民衆の「娯楽」として公認されていたかのような状態である。

恥辱的な風刺文やパンフレット、悪意のこもった歌のハミングは王妃の私生活を攻撃してやまなかった。姦通だの、乱交だの、同性愛だの、近親相姦だのが口の端にのぼった。この外国女の淫奔さを非難して回った。背徳的な放埓で、王室の褥を汚したというのだ。幻想を膨らませる的として、また性的禁忌の違反を責められる的として、彼女はそうしたものを禁じられている人々にとって、恰好のはけ口となった。・・・・・王妃はあらゆる悪徳の、貴族社会のあらゆる欠陥の象徴となってしまったのだった。この憎悪には、外国人嫌いとナショナリズムが、当然のように含まれていた。(ジャン・クリスチャン・プティフィス『ルイ16世 上巻』

上辺だけモラリストの仮面を被った匿名の民衆世論が自らの底無しの卑しさと下劣さを棚に上げ、ただその攻撃欲を満足させるという目的のためだけに、社会の上層部に対して理不尽な非難を加え続ける。

世論の中心には、とりわけ国民の最下層の人々のあいだには、異端審問官のような、道徳を説くことを好む風潮があった。おそらくジャンセニスト的な鋳型から生まれたこの風潮は、おそらくは革命下で、粛清をこととするピューリタニズムを、「清廉潔白な者たち」、つまりあの「善」の騎士たちの出現を、そしてギロチンの出現を予告するものであった。

人々は清い魂と善良な人間の役を演じていた。ありとあらゆる憤慨の言葉が口にされ、不品行、高位にある者たちの、いわゆる不品行を詰り、人々は彼らの頽廃ぶりに立腹したふうを装った。その実、彼らに関する好色な、もしくは猥褻な記事や、ポルノグラフィックな戯画を、楽しんでいたのである。

善良なルイ16世の治下、すでに行進を始めていた美徳は、恐怖(テルール)の序文を書きつつあったのだ・・・・・。(『同上』)

歯止めが効かず、ますます過激化する世論の標的は、最も注目を浴び逃れようの無い君主一家へ向かう。

こうした王妃に対する憎悪の高まりの中では、無頓着な彼女の、ほんの小さな軽率さ、媚態が鬼畜のごとき犯罪になり、女友達との無垢な友情がレズビアンとみなされてしまう。そして、何気ない言葉が皮肉たっぷりに歪曲され、彼女に跳ね返ってくるのだ。フーキエ・タンヴィル[革命裁判所検事]の前に出る前に、王妃はすでに、贖罪の生贄として民衆に提供されていた。そこでは、醜悪で狡猾なさまざまな問いが噴出した。

中傷、誹謗の恐るべき力、それは、今日、メディアを通じて著名人に襲いかかるときどれほどの効果を発揮するか誰もがよく知っているが、そうした力に、王妃と王は怯えていくことになる。それは獲物を捕らえて放さない地獄の罠である。興奮状態があるレヴェルにまで達すると、世論という法廷は荒れ狂い、熱狂と欲動を結晶させ、著名人に向かって社会的制裁を集中させる。

こうなってしまうと、その人間がたとえ何を言っても、また無実を叫び、それを証明するために、たとえどんなことをしても無駄で、ますます深みにはまり身動きが取れなくなってしまう。それはまるで罠にかかってもがき暴れる動物と同じで、人々はそれが死にいたるのを待っているのである(『同上』)

こうした雰囲気が生み出す、責任感と自己懐疑に一切欠けた、卑怯・愚劣な他罰主義的精神態度が、急進的社会変革への狂信とそのための暴力の正当化に結びつくのは容易に想像がつく。

しかし無制限の自由が予定調和的に進歩をもたらすと盲信した知識人と、それを盲信したふりをして実際上の利益を得る地下パンフレットの製作者などには、そんなことを言っても一切通じない。

「ブルジョワ的公共空間」の周辺では、教養がなく粗暴だといわれた下層民たちが、独自の記号、煽動的な風聞、「下品な言説」によって、調整役にも倫理にも欠いた不安定な域圏を作り出していた。嘘や中傷、偽りの噂は策動家や出版元を喜ばせ、真面目で客観的な情報と混じり合うことになった。ブルジョワと下層民の二つの域圏は、今のところは重なり合うことも対立することもないまま、権力に関する二とおりの見解、国民の二つの代表、二つの合法性の兆しを宿していた。この二つの合法性は、やがて革命のさなかに、下層民の言説を組織化したジャコバン主義が人民の名において語り始めたときに、周知のとおりの激しさでぶつかり合うことになる。(『同上』)

「専制政府」に対し啓蒙思想を説く「言論の自由」を擁護した「高尚な」人々は、同時に自分たちがどれほど卑しく恐ろしい獣を解き放ったのかを理解しなかった。

しかし上記の通り、いずれそのことを嫌というほど思い知ることになる。

この時期のフランスだけでなく、どの時期のどんな国でも、文明がある程度を越えて進んでしまい以下のような状態に達すると、何をしても止めようが無く、どんな救いもありえないようになるんでしょうね。

・・・・ヴィーコの歴史の見方は、各民族が原始社会から始まって万人平等の民主的な文明社会にいたるまで段階的に進歩・発展を遂げてゆく進歩史観の一つと思われるかもしれない。しかし、ヴィーコの歴史観のユニークな点は、すでに少し述べておいたように、こうして第三段階の民主的な文明社会に到達した民族が、ふたたび第一段階の原始状態に引き戻されると説く点である。彼は、ギリシアもローマもエジプトもフランスなどの西欧民族も、いずれも上記の三段階を経て発展するが、最後には、停滞し没落して出発点の原始状態に「再帰」せしめられると考える。

では、なぜ、第三段階の民主的な文明社会にまで到達した各民族は、出発点に「再帰」を余儀なくされるのか。それは、要するに、どの民族も折角手に入れた自由を乱用して堕落し、無政府状態におちいるからである。人間とは、自由を手に入れれば、それを無政府的あるいは無制限的に行使し、骨の髄まで堕落してゆくのである。そして、贅沢・柔弱・貪欲・嫉妬・傲慢・虚栄といった自分で抑制できない情念の奴隷と化してゆく。あるいは、嘘つき・ペテン師・中傷家・泥棒・臆病者・偽善者などのありとあらゆる悪習にまみれ切ってしまう。

腐敗した民族は、各自がまるで野獣のように自分自身の個人的な利益のことしか考えない習慣におちいってしまう。しかも、極端に神経質になるために、まるで野獣のように、ほんのちょっと気に障ることがあると、腹を立てていきり立つであろう。精神においても意志においても、市民たちは、この上なく深い孤独のなかで、各自が自分自身の快楽や気まぐれにしたがって生きている。そして、たとえ二人の人間の間でも、ほとんど合意に達することは不可能になってしまう。こうしたことすべてのために、彼らは執拗きわまる党派争いと絶望的な内乱を惹き起こし、都市を森と化し、森を人間の巣窟と化してしまう野田宣雄『歴史をいかに学ぶか』

少し話を戻すと、この辺の記述を読んで痛感するのが、啓蒙思想に侵食された末期の「絶対王政」がその安定をいかに世論に依存していたか、反抗の兆しを見せ始めた世論に対しいかに脆弱だったかということ。

コーンハウザーなどが説くように、前近代的な権威主義的専制政治は、その権力行使において必ず一定の限界を持っている。

真に恐るべきなのは、人民主権の理念浸透、言論の自由、民衆の政治参加、社会の平等化が進んだ後に(決して「前に」ではなく)、大衆煽動によって増幅された民衆の狂信と愚劣さを基盤にして(断じて「少数の伝統的支配層の悪意や野心や驕慢ゆえに」ではなく)出現する独裁政治であり、それだけが言葉の本当の意味で全体主義と呼ばれるに値する。

このブログは政治的意見の宣伝のためにやっているわけではないので、もし何か自分と全く異なる政治的見解があれば、「なんじゃこりゃ」と無視して下さればいいのですが、それでも私がたとえほんのわずかな数であっても、同意してくれる人が増えて欲しいと思っているのは、上記のような認識だけです。

2011年1月27日

ベルナール・ヴァンサン 『ルイ16世  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物3)』 (祥伝社)

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2010年刊行開始の新シリーズ。

店頭で初めて見たときに、「この版元にしては気の利いたもの出すじゃないか」と非常に失礼な感想を持ってしまった。

やや縦に長い版形の単行本で、300ページ余りと適切な長さ。

まず「はじめに」で全体を通じた視点を説明。

フランス革命は元国王の首を切り落とすだけでは満足しなかった。ルイ16世がどのような国王、人間であったかという記憶の大部分を抹消することで、元君主を二度殺したのである。切断された頭部を受けた籠には、ルイ16世の人となりと功罪も一緒に投げ込まれ、捨てられたのである。・・・・・・

歴史的に見て、ルイ16世の捻じ曲げられたイメージ――年齢の割には老けこみ、背が低く肥満体型、内向的で度量に欠け、首尾一貫せず優柔不断、お人よしで気弱、頭が悪く、決断力に欠けて無気力というのが一般的なイメージであろう――は、米国におけるジョージ・ワシントンのやはり捻じ曲げられたイメージと好対照であるが、本質的には同じである。片や欠陥の塊とされ、片や神格化されているが、どちらも現実とは異なる。こうしたイメージと、それらが隠蔽している真実とを隔てる煙幕はあまりにも厚い。だから、公正な立場を守りつつ真実を明らかにすることは無謀な企てであると同時に、一種の冒瀆でもある。これこそ、ルイ16世をめぐって本書が受けて立とうとする挑戦である。

ルイ14世は1754年誕生。

祖父がルイ15世、父は王太子ルイ・フェルディナン。

洗礼名はルイではなくルイ・オーギュスト、ベリー公の称号を与えられる(即位時にルイ16世ではなく、ルイ・オーギュスト1世を名乗る可能性があったと本書では書かれている)。

三人の男兄弟がいて、兄がブルゴーニュ公、弟がプロヴァンス伯(のちのルイ18世)とアルトワ伯(のちのシャルル10世)。

1761年兄が病死、1765年父も死去したことにより自身が王太子に。

1770年マリー・アントワネットと結婚、1774年祖父のルイ15世死去によりルイ16世として弱冠二十歳で即位。

在位期間の長かったルイ14世を継いだルイ15世は14世の曾孫、16世は15世の孫。

即位後15年で大革命を迎え、処刑されたときは39歳だったことになる。

この時期の時代背景としては、フランスはイギリスとの植民地争奪戦で決定的敗北を喫し、七年戦争を終結させた1763年のパリ条約で北米・インドの拠点をほぼ失っている。

ルイ16世の人となりについての記述では、ギボン『ローマ帝国衰亡史』の最初の3巻を自身でフランス語に翻訳したと書かれているのが目に付いた。

これは私の読んだ『衰亡史』邦語訳の解説では一つの仮説扱いだったはずだが、本書では断定されている。

いずれにせよ、高い知性を感じさせる逸話である。

(ちなみにギボンは1794年まで生きていたが、彼はフランス革命に対してこのような認識を持っていた。)

他は、一部の固定的イメージとは違って、実際には飽食とは無縁で、太ったのは単に遺伝的体質だとされている。

それと身長が190センチ以上あり、当時としてはまれな大男だったと書かれているのが意外だった。

背が高いようなイメージ、全然無いですよね?

マリー・アントワネットとの間に4人の子をもうける。

長男は革命勃発直前に亡くなり、次男が「ルイ17世」扱い、両親の処刑後も幽閉され1795年病死、長女は捕虜交換でオーストリアに引き渡され生き延び、次女は生後まもなく夭折。

1774年即位にあたって、モールパが国務大臣、テュルゴーが財務総監、ヴェルジェンヌが外務大臣に就任。

その治世前期において最大の難関となったのが、高等法院の問題。

当時、国王が出す勅令が効力を持ち適用されるためには高等法院による「登録」が必要とされていた。

特にパリ高等法院は全国の75%を管轄し、特権階層の牙城となって、王権が推進しようとする税負担の平等化などの穏健な近代化政策に徹頭徹尾抵抗していた。

それに対し、ルイ15世とモープーが1771年「君主革命」を断行し、その権限を剥奪し売官制度を廃止していた。

ところがルイ16世が即位するとその復活を強硬に要求する世論が猛然と高まる。

王権よりも高等法院が大衆の支持を集めていた・・・・・高等法院を支配していたのはいわゆる法服貴族であり、間違っても国民の代表とは呼べなかった。ルイ15世によって「追放」された法官たちは失った権限を奪還しようとしたが、その目的が民衆の切実な要望に応えることではなく、代々の特権の永続的な享受であったのは子供にでもわかる事実だ。自分たちの主張を正当化し、貧しい人々や台頭しつつあるブルジョワの共感を得るため、法官たちが当時の最先端思想を旗印にしていたことは確かであるが。最先端思想とは、自然権やルソーの唱えた「社会契約」の考え方であり、君主を王国の絶対的支配者ではなく単なる国家の受託者とみなすものである。このような戦略をとった法官たちは迂闊にも、自分たちの特権を脅かす点ではルイ15世の「君主革命」よりも恐ろしいもう一つの革命――1789年の共和革命とそれに続く恐怖政治――へ通じる扉を開けてしまったのだ。

このように国王の改革路線に反対した特権層も、それを支持した民衆も全く愚かではある。

本来自分たちの利益と全く相反する政策を、煽られるままに訳も解らず無分別にも支持し、特権層と共に漸進的改革を不可能にした民衆が、事態が当然の行き詰まりを見せると、この少し後では暴力で国王を責め立てるのだから、不条理・理不尽もここに極まれりである。

この時期の王権による改革が遂行されたとしても、それは諸身分間の経済的公正を追求するだけのもので、身分制の枠組自体は保存されたでしょうし、決して原子的個人しか存在しない不定形・不安定な社会をもたらしはしなかったでしょう。

日本も、廃藩置県や秩禄処分を遂行できなければ、こんな状態になったのかもとふと思った。

世界史の教科書で「啓蒙専制主義」って出てくるじゃないですか。

あれにいいイメージ持ってる方はあまりいないと思いますが、上記フランスのような袋小路に陥って最終的に国家の破滅を招き寄せるくらいなら、そういう政治も十分な正当性を持つんじゃないかと思いました。

結局、ルイ16世とモールパは譲歩し、高等法院を復活。

財務総監テュルゴーは優れた行政手腕を持っていたが、直近の不作を考慮せず穀物流通自由化に踏み切るなど、実務上のセンスを欠いていたと本書では評されている。

高等法院に国王が臨席し勅令登録を強制することが可能な「親裁座」によって、法服貴族らの抵抗を排除することを試みられるが、テュルゴーは王の信任を失い、1776年解任(この年アメリカ独立宣言)。

なお、治世期間中、こうした人事に対するマリー・アントワネットの介入がしばしば取り沙汰されるが、実際にはルイ16世は政治問題に対する王妃の介入は全くと言っていいほど許さなかったと著者は書いている。

これはオーストリアにとっては期待外れであり、王妃の兄で、啓蒙専制君主であると同時に冷徹なリアリストの面も持つヨーゼフ2世が、1772年第1回ポーランド分割に続いてバイエルンの併合を目論み、フランスへ見返りを提示してその承認を求めたが、国際関係の道義的側面を重視するルイ16世の断固たる拒否にあったことが記されている。

1777年ネッケルが財務長官就任(外国人[スイス人]でプロテスタントだったため「総監」ではなく「長官」)。

公債の発行により財政問題を一時沈静化させる。

より抜本的解決として、高等法院と地方長官の統治を地方議会のそれに置き換える改革プラン提示。

地方議会は聖職者、貴族、第三身分から成り、貴族階層では法服貴族より伝統的軍人貴族を優先する計画だったが、これも失敗、81年ネッケル辞任。

今日はとりあえずここまで。

この本の記事も長くなりそうです。

いくつ続くか、わかりません。

(追記:続きは以下

ルイ16世についてのメモ その1

ルイ16世についてのメモ その2

ルイ16世についてのメモ その3

ルイ16世についてのメモ その4

ルイ16世についてのメモ その5

ルイ16世についてのメモ その6

2010年8月15日

フランス二月革命についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, フランス — 万年初心者 @ 06:00

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)の記事続き。

革命後制定された憲法では大統領と議会の双方の権限が強力で、両者の関係を調整する手段が熟慮されておらず、大統領の再選も禁止されていたため、クーデタを誘発する可能性が高かったというようなことが書いてあった。

ルイ・ナポレオンが大統領として最初に任命した内閣はオルレアン派バロと正統王朝派ファルーの秩序党内閣。

国民衛兵と第一師団(パリ防衛を担当する常備軍)司令にはシャンガルニエ任命。

国民衛兵とは一定の財産資格を持つ市民からなる非正規民兵。

1849年5月憲法制定議会に替わる立法国民議会選挙でブルジョワ共和派激減、秩序党の勝利と社会民主派の進出。

6月小市民的民主派の武装蜂起、一年前に続く「もう一つの六月暴動」、シャンガルニエにより粉砕、ルドリュ・ロラン亡命。

小市民的基盤を持つ国民衛兵は一年前の「最初の六月暴動」では正規軍と共にプロレタリアを鎮圧したが、この「二度目の六月暴動」では自ら蜂起に加わり鎮圧される。

以後議会は秩序党が支配、それと権力を虎視眈々と狙うナポレオンが対立する情勢。

11月バロ内閣解任。

1850年5月新選挙法、三年間の居住規定で選挙権制限、普通選挙を事実上廃止。

これをボナパルト派が利用し、普通選挙復活のスローガンを世論対策に使うことになる。

この時期秩序党内部で正統王朝派とオルレアン派の対立が深まり、秩序党の解体が進む。

議会で多数を占めているのに二つの王朝の争いから王政復古の絶好の機会を逃すというのは第二帝政崩壊直後の第三共和政初期とも共通する展開だなと思った。

1851年1月軍総司令シャンガルニエ解任。

48年の四月総選挙と六月暴動で革命的共産主義者と社会主義者鎮圧、49年五月総選挙でブルジョワ共和派惨敗、同年「第二の六月暴動」で小市民的民主派鎮圧、秩序党は他党派の恨みを買って孤立した上に、上記内部抗争で分裂、結局ボナパルティスト優位の情勢が固まっていく。

大統領任期延長を可能にする憲法改正成立せず。

ルイ・ナポレオンは、安定と繁栄を望む議会外ブルジョワを籠絡し秩序党の支持基盤を切り崩し、確固たる利益代表者を持たなかった分割地農民(小農?)の支持も得て、各階級・各党派を操る。

12月クーデタ勃発。

翌1852年第二帝政開始。

末尾に柄谷行人氏による解説がある。

柄谷氏の名前は知っていたが、私が読めるレベルの著者ではないので、著作は一冊も読んだことがない。

しかしこの解説は意味を十全に読み取れたとは言えないが、それでも興味深く思う部分があった。

重要なのは、社会的諸階級が「階級」としてあらわれるのは言説(代表するもの)によってのみだということ、そしてその場合、つねに代表するものと代表されるものの関係に恣意性あるいは浮動性がつきまとうことである。そして、このことは普通選挙による代表制と切り離せない。・・・・・すべてがこのような形態のrepresentation、つまり代表制を通じてしかあらわれてこないということは、ファシズムあるいは今後の政治過程を見る上で、決定的に重要である。たとえば、ヒトラー政権はワイマール体制の内部から、その理想的な代表制のなかから出現した。さらに、しばしば無視されていることだが、日本の天皇制ファシズムも1925年に法制化された普通選挙ののにちはじめてあらわれたのである。

マルクスが見いだす「反復」は、ナポレオンが皇帝になるまでの過程がシーザーのそれを反復しているということである。もちろん、それはナポレオン自身がシーザーを模倣していたということだけでなく、そこには彼らの意識を超えた構造の同型性があるということだ。・・・・・「王殺し」ののちに成立した共和制があり、そこにおける欠落、不安定を埋めようとする運動が「皇帝」に帰結する。つまり、共和制(議会制)そのものが皇帝を生み出すのだ。ここでわれわれは「王」や「皇帝」を、それらの慣用的な意味から離れて考えなければならない。ここで定義を試みれば、「王」が生まれながらに王であるのに対して、「皇帝」は大統領と同じく諸階級の「代表」としてあるということを意味する。彼は国民に君臨しながら、同時に国民の代表者でなければならない。・・・・・

面白くないこともないが、皮肉や毒舌に満ちたわかりにくい文体なので、慣れるまで苦労する。

批判的比喩の意味を知るために訳注を頻繁に参照する必要があるのも面倒。

(同じページにあるのではなく、巻末にまとめてある昔ながらの形式なので余計。)

なおこの本では、前の記事で触れた政治党派と時代区分に関する表が無いと効用が激減すると思う。

(だから別の版で読むのは勧めません。)

ただ最後まで読めば、そこそこの面白みも有り、初心者にとって有益な点もあろうかと思います。

類書としては、まずマルクスの伝記としてE・H・カー『カール・マルクス』(未来社)

ルイ・ナポレオンについては鹿島茂『怪帝ナポレオンⅢ世』(講談社)が手ごろ。

二月革命については、何と言ってもアレクシス・トクヴィル『フランス二月革命の日々』(岩波文庫)に止めを刺す。

これは是非とも読むべき。

透徹した見解と迫真の事実描写が結合された傑作です。

本書で史実のあらましと主要人物像を頭に入れて準備運動をしてから取り組めばより良いと思います。

2010年8月13日

カール・マルクス 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 [初版]』 (平凡社ライブラリー)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

マルクス、エンゲルスの著作でこれまで読んだことのあるのは、『共産党宣言』、『空想より科学へ』、『賃労働と資本』、『賃金・価格および利潤』、『反デューリング論』くらい。

マルクスの本読むのも20年ぶりくらいですか。

その著作で歴史書に近いものというと本書のほかに、『ドイツ農民戦争』、『フランスの内乱』、『家族・私有財産・国家の起源』などがあると思いますが、本書が最も読みやすいでしょう(たぶん)。

2008年に手に取りやすい体裁で出た新訳なので、試しに読んでみることにした。

1848年フランス二月革命が1851年12月の軍事クーデタによってルイ・ナポレオンの独裁に帰着するまでの歴史を分析した本。

現在の歴史学からすると、本書の記述に対して数多くの異論が出ているんでしょうが、とりあえずマルクスが解釈した通りにその展開を追ってみることにする。

まず本文に入る前に、後ろの方に載っている「政治党派と階級的基盤」、「時期区分と階級闘争の構図」という二つの表をじっくりと眺める。

読む途中でも、常にこの表に立ち返って確認すると良い。

前者の表について以下にメモ。

正統王朝派=ブルボン王家支持、土地所有ブルジョワジー、代表的人物はファルー、ベリエ

オルレアン派=金融・大工業ブルジョワジー、ギゾー、ティエール、モレ、バロ、デュパンと多士済々、軍人ではシャンガルニエ

ブルジョワ共和派(純粋共和派)=中産階級、ラマルティーヌ、マラスト、ジラルダン、軍人ではカヴェニャック、ラモリシエール、ブドー

小市民的民主派(モンターニュ派)=ジャコバン派(山岳派)の流れを汲む、小商店主、手工業者、ルドリュ・ロラン

社会主義者=プロレタリアート、ルイ・ブラン、コシディエール

革命的共産主義者=プロレタリアート、ブランキ

ボナパルト派=ルンペンプロレタリアート、マニャン、モルニ公、モーパ

正統王朝派とオルレアン派は1848年5月以降「秩序党」を形成。

小市民的民主派と社会主義者は49年1月以降「社会民主派」を形成。

冒頭に私でも知っている有名な言葉有り。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。

人間は自分自身の歴史を創るが、しかし自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。

「第1次フランス革命」においては、主導権がフイヤン派(自由主義貴族・上層市民)→ジロンド派(中産市民)→ジャコバン派(下層市民・サンキュロット)という風に、より社会階層が下部で、急進的党派に移っていくが、二月革命においては全く逆に、まず労働者階層が六月暴動で鎮圧され、ブルジョワ共和派の支配も徐々に王党派連合に地位を譲り、最後は王党派がボナパルティストに支配権を奪われた、との指摘は面白いし、事実その通りに思える。

1848年2月革命勃発。

臨時政府首班ラマルティーヌ。

社会主義者ルイ・ブランも入閣したことは、昔から教科書に載っている。

当初はブルジョワ共和派・オルレアン左派・小市民的民主派・社会主義者の幅広い連立政権。

4月男子普通選挙で憲法制定国民議会選出。

議席をブルジョワ共和派・モンターニュ派・秩序党の三党派が分け合う。

教科書にある「農民が土地を失うことを恐れて社会主義者が大敗した四月総選挙」はこの憲法制定国民議会選挙のこと。

6月これも有名な史実だが国立作業場閉鎖の方針を知って蜂起したパリのプロレタリアートを、全権委任された行政長官カヴェニャックがラモリシエール、ブドーらと共に鎮圧した六月暴動。

カヴェニャックはこのことで「反動」のイメージが強いが、上記の通り正統王朝派でもオルレアン派でもなく、ブルジョワ共和派の属する人物であることにご注意。

11月憲法公布。

12月大統領選挙。

ルイ・ナポレオンが対立候補カヴェニャック、ルドリュ・ロラン、ラマルティーヌ、シャンガルニエらに圧倒的大差をつけて当選。

今日はここまで。

例によって続きます。

(追記:続きはこちら→フランス二月革命についてのメモ

2010年5月8日

内田日出海 『物語ストラスブールの歴史  国家の辺境、ヨーロッパの中核』 (中公新書)

Filed under: ドイツ, フランス — 万年初心者 @ 06:00

ライン河左岸、独仏国境沿いにあり、長年両国の争覇の舞台となったフランス・アルザス地方の中心都市ストラスブール(独名シュトラスブルク)の歴史を概観した本。

その起源は、ヨーロッパの多くの都市がそうであるように、ローマ帝国に遡る。

ローマ時代の名称はアルゲントラートゥム。

これは高校世界史レベルでは一切出てこない名前だが、「背教者」ユリアヌスが副帝時代に侵入してきたゲルマン人に決定的勝利を収めた場所として以前から知っていた。

以後、ゲルマン系アレマンニ族の定住、アッティラ率いるフン族の侵入と破壊を経て、496年クローヴィスの支配下に入り、フランク王国領へ。

カール大帝の子ルートヴィヒ1世死後、843年ヴェルダン条約で長子ロタール領(ロタリンギア王国・ロレーヌの語源)に。

870年メルセン条約で東フランク領となり、長いドイツ時代が始まる。

982年神聖ローマ皇帝より裁判権と司教領の完全承認を受けて、司教都市として自立。

1263年司教権力から独立、帝国直属の自由都市・都市共和国となり、さらにツンフト闘争を経て貴族・上層市民の権力独占が崩れる。

1514年訪問したエラスムスは「専制政治なき王国、党派争いなき貴族政、騒乱なき民主政、奢侈なき富、厚顔なき繁栄」を見たと、この都市を讃えている。

宗教改革時代にはルター派が優勢になる。

この時期、アルザス南部はほぼハプスブルク家領で、シュトラスブルクが属する北部は諸侯・司教領・自由都市・帝国騎士領がモザイク状に入り組む複雑な情勢。

地理を確認すると、アルザス南東にはスイスのバーゼルがあり、南西はフランシュ・コンテ。

北にファルツ、西(北西)にロレーヌ(ロートリンゲン)があり、ロレーヌを越えてさらに北西に行くとルクセンブルク・ベルギーに達する。

これらフランス国境東部地域の少なからぬ部分がルイ14世時代に仏領となっていく(チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』参照)。

まず1648年ウェストファリア条約で南部を中心とするアルザスの大部分と、ロレーヌのうちヴェルダン・メッツ(メス)・トゥールの三司教領を併合。

以上のうちトゥール(Toul)は、カール・マルテルがイスラム教徒を撃退したトゥール・ポワティエ間の戦いのトゥール(Tours)とは場所が全然違いますのでご注意。

次に1659年ピレネー条約でスペインからアルトワとルシヨンを獲得。

アルトワは北東部ベルギー近くの土地、ルシヨンは南西部スペイン国境沿い。

地図を見たらルシヨンとミニ国家のアンドラが接しているようだ。

さて、ここからがややこしい四つの「ルイ14世の侵略戦争」です。

1667~68年 南ネーデルラント継承戦争 (アーヘン条約)

1672~78年 オランダ戦争 (ナイメーヘン条約)

1688~97年 ファルツ継承戦争 (ライスワイク条約)

1701~13年 スペイン継承戦争 (ユトレヒト条約・ラシュタット条約[14年])

それぞれの名称と順番を憶えるのはさほど困難を感じないが最初三つの年号と和平条約名がね・・・・・。

それとクロムウェル時代の第1次英蘭戦争(1652~54年)に続く、1665~67年第2次英蘭戦争、1672~74年第3次英蘭戦争が重なっていることにも注意を払わなければいけない。

今回気付いたが、講和条約については最も著名なユトレヒト条約を外して考えると、「ア」ーヘン、「ナ」イメーヘン、「ライ」スワイク、「ラシ」ュタットだから、バルト三国の位置記憶法と同じく、五十音順だという語呂合わせが使えますね。

アーヘン条約でリール併合、ナイメーヘン条約でフランシュ・コンテとカンブレーなど併合。

(リールとカンブレーは北東部の土地でアルトワに接する。)

1679年にはシュトラスブルク以外の十都市同盟が併合されたと書いてあり、これもナイメーヘン条約の結果のようだが、フランスと神聖ローマ帝国間の帰属について曖昧な条項だったといったことが書かれていたと思う。

またこの条約ではライン右岸にあるフライブルクも一時フランス領になっている。

1681年には遂にシュトラスブルクもフランスの軍門に下り、旧来の自由と特権を維持するという条件でフランス領ストラスブールに。

ライスワイク条約ではストラスブールおよび上記アルザス残部のフランス領有を確認。

ただしフライブルクは返還され、この地域ではライン河が独仏間の国境となる(より下流ではもちろん違う)。

こうやってストラスブールを含むアルザスがフランス領になった後では話が簡単になるので、やれやれという気分になる。

なお、ロレーヌの併合については『ポーランド民族の歴史』の記事の真ん中辺りを参照。

(「何でポーランド史の本が出てくるんだ?」と疑問に感じられるでしょうが、実は関係あるんですよ。)

以後、普仏戦争の結果1871年独領に、第一次世界大戦の結果1918年仏領に、第二次世界大戦中1940年ドイツに占領され、1945年ドイツ敗戦の結果再度仏領に、とオセロゲームのように統治国が変わったのはご承知の通り。

1871年アルザス・ロレーヌが割譲され、エルザス・ロートリンゲンとなったわけですが、本書ではロレーヌのうち割譲されたのは北東部ドイツ語圏のみと書かれていて、教科書などの地図を見ると確かにロレーヌがアルザスの真西じゃなくて北西に偏っているようにも見えるから、その通りに思えるのですが、正確には未確認です。

なお、それ以後のドイツ帝国時代には、意外にも第三共和政のフランス時代よりも、地方自治が広く認められていたと書いてある。

ただし、それなりの軋轢はやはりあったようで、第一次大戦前夜の1913年には駐留軍の一部がアルザス住民を侮辱したことから中央政府や議会を巻き込むまでの対立に発展したサヴェルヌ(ツァーバン)事件が起こっている。

フランス領となった現在では、欧州議会の所在地として有名。

長年独仏間の係争地でありながら、同時に国際交流の中心でもあったこの都市を象徴している。

いつもの通り、政治史だけのメモですが、本書では経済・文化にも十分触れられている。

経済では前近代・近代を通じて、工業ではなく商業が繁栄の中心であったとか。

文化史もいろいろ書いてあるが、マインツ人のグーテンベルクが1434年から十年間この都市に滞在しており、その間に印刷術を発明したという説が一部にあるとか、19世紀以降の大学人に仏側ではフュステル・ド・クーランジュ、パストゥール、マルク・ブロック、リュシアン・フェーヴル、独側ではシュモラー、ブレンターノなどの著名人がいることくらいが記憶に残った。

割と良い。

一地方都市の歴史ながら、ヨーロッパ史の大きな流れと関連付けて語られており、中々参考になる。

読んでも損はしません。

2010年3月12日

ルネ・ミュソ・グラール 『クローヴィス』 (白水社文庫クセジュ)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

文庫クセジュは、どちらかと言うと苦手なのでできれば敬遠したいのだが、類書が少ないのでやむを得ずこれを読んだ。

メロヴィング朝フランク王国初代国王の伝記。

最初のフランス国王とは言えないが、本書カバーの言葉を借りれば、「フランスにおける最初の国王」なので、カテゴリはフランスで。

クローヴィスはサリー・フランク族に属する。

在位期間は481~511年。

西ローマ帝国滅亡が476年、東ゴート族によるイタリア征服が493年だから、オドアケルやテオドリック大王とほぼ同時代人か。

35ページに5世紀の東西ローマ皇帝の在位表が載っているんですが、名前を見た覚えはほぼ全ての人名であるのに、具体的人物像や在位順、即位と治世の経緯などは全然思い出せず、落ち込む。

ギボン『ローマ帝国衰亡史』の5巻と6巻で、この辺はかなり面白く読んだはずなのだが、内容をしっかり憶えておくのはやはり厳しい。

塩野七生『ローマ人の物語』の最終巻が文庫化された時に気合を入れて頭に入れることにしましょう。

父親のキルデリクスの後を継ぎ481年即位。

38ページの地図を見ると、当時のガリアは南西部は西ゴート王国、東南部はブルグンド王国が占め、北部はローマ人残存勢力でキルデリクスと同盟していたアエギディウスとその後を継いだ息子シャグリウスの領域に三分されており、フランク王国はシャグリウス領のさらに北、大西洋岸の一部を占めるのみ。

クローヴィスはまずシャグリウス領を併合。

ブルグンド国王グンドバドの姪クロティルドと結婚。

496年カトリックに改宗。

これは山村良橘『世界史年代記憶法』では、「ヨー(4)、クロー(96)ヴィスの改宗」という絶対忘れない憶え方が載ってました。

この改宗が、アリウス派に属する支配層とカトリックのローマ系住民の軋轢に苦しんだ他のゲルマン王国を尻目に、フランクの勢力伸張をもたらしたというのは高校教科書通り。

本書では他に、東ローマとの関係についても考察。

451年(奇しくも西ローマ、カタラウヌムでの対アッティラ戦と同年)カルケドン公会議で異端とされたにも関わらず、クローヴィスと同時期に在位した東ローマのアナスタシウス帝が単性論に傾く中で、ローマ教皇が東ローマから独立した権威をクローヴィスに保証したことなどが記されている。

507年西ゴート王アラリック2世と戦い、アラリックは敗死、フランクは南ガリアを手に入れ、西ゴートは以後ヒスパニアのみを領有することとなる。

パリに王城を構え、510年「サリ法典」制定、511年オルレアン公会議を召集した後、死去。

なお、サリ法典で、ローマ人とフランク人がそれぞれ殺害された場合の罰金額が、後者が前者より高額に定められているのは、民族差別の表れではなく、当時フランク族の間で一般的だった私的復讐(フェーデ)を抑えるためであり、むしろ王国内での法の統一を志向したものと見るべきだ、といったことが書いてあったのが印象に残った。

クローヴィス死後、王国は四子に分割。

以後の歴史はティエリ『メロヴィング王朝史話』に書いてあるようですが、この本は私には到底読めません。

要は北東部のアウストラシア・北西部のネウストリア、南東部のブルグンド(534年フランクに併合される)、南西部のアクィタニア(アキテーヌ)の四つの部分が、独立したり統一したり、複雑極まりない経緯を辿ることになるようです。

150ページと短いのは良い。

他の文庫クセジュの本と同様、生硬さや(日本人にとっての)説明の物足りなさなどは感じるが、そこそこ役に立つという印象を受ける。

ただできれば、こういう中世初期をテーマにした日本人著者の新書がより多く出て欲しいですが。

2009年12月22日

佐藤賢一 『カペー朝 フランス王朝史1』 (講談社現代新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

著者は西洋歴史小説を数多く書いている人だが、『カエサルを撃て』(中公文庫)も、『剣闘士スパルタクス』(中公文庫)も、現在刊行中の『小説フランス革命』(集英社)もなぜか全然読む気がしない。

小説ではない平易な概説書の『英仏百年戦争』(集英社新書)はなかなか面白いと思ったので、本書を手に取る。

フランス最初の王朝の歴史。

メロヴィング朝とカロリング朝のフランク王国は「フランス」成立以前として外し、近代以降のナポレオン帝政とオルレアン朝も除くと、考えてみればカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝と、フランスには三つしか王朝がない。

高校教科書に出てくるカペー朝国王は初代ユーグ・カペー、フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の四人。

本書の長所は、これら有力国王に挟まれたマイナー君主を一人残らず紹介して、王朝全体の概観を与えてくれるところ。

ユーグ・カペーの即位と王朝創設は987年だが、ややこしいことに、それ以前にもこの家は始祖の「強者ロベール」の息子ウード(オドー)とロベール(1世)がカロリング朝の合間に王位に就いている。

ロベールの息子大ユーグはカロリング家国王を立てつつ実権は自らが握る(彼はオットー1世の皇女と結婚)。

西フランクのカロリング朝がシャルル1世(禿頭王)→ルイ2世(吃音王)→ルイ3世・カルロマン・シャルル3世(単純王)[以上三人は兄弟]→ルイ4世(渡海王)→ロテール→ルイ5世と続いた後に断絶、大ユーグの息子ユーグ・カペーが即位。

(ウードとロベールの即位はシャルル3世の前後、大ユーグがルイ4世を擁立。)

「カペー」の意外な語源なんて本書で始めて知りましたよ。

当初の王領はセーヌ川沿いのパリとその南、ロワール川沿いのオルレアンに挟まれたイル・ド・フランス(フランス島)のみ。

以後王権が着実に伸張していくが、それを可能にした要因として歴代国王の長寿と男子の跡継ぎに恵まれたことがある。

系図を見ると、初代ユーグ・カペー以来、10代以上にわたってきれいに直系男子の継承が続いている。

これは「カペーの奇跡」として、柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書)でも触れられており、一番単純すぎる理由ではあるが、前近代において極めて重要であったことも容易に想像がつく。

ユーグ・カペーの後は本書で「名ばかりの王たち」と書かれている弱体な王が三代続く。

ロベール2世(敬虔王) 996~1031年。

アンリ1世 1031~1060年。

フィリップ1世 1060~1108年。

特筆すべきこともない国王とは言え、上記の通り在位期間は長い。

フィリップ1世はおよそ半世紀在位、この人の長い治世の間にイングランドのノルマン征服・カノッサの屈辱と聖職叙任権闘争・クレルモン公会議と第一回十字軍という大事件が起こっている。

続いてルイ6世(肥満王) 1108~1137年。

著者はこの王の治世が王権拡張のターニングポイントだとして重視している。

家臣団の統制と領主貴族の討伐を進める。

なお本書全体を通じて、大諸侯の個人名などは覚えなくていいでしょうが、ブルゴーニュ・シャンパーニュ・ヴェルマンドワ・ノルマンディー・ブルターニュ・ブロワ・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・ポワトゥー・アキテーヌ・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・ラングドック・プロヴァンスなどという地方名が大体どこら辺りにあるのか、曖昧にでも頭に浮かぶようにした方がいいです(以上パリを中心に大体反時計回りに名を挙げているつもりです[あくまで大体])。

次がルイ7世(若王) 1137~1180年。

この人については、石井美樹子『王妃エレアノール』(朝日選書)を読んで、かなり知っている。

第2回十字軍と「アンジュー帝国」との戦い。

その息子が有名なフィリップ2世(オーギュスト・尊厳王) 1180~1223年。

カペー朝屈指の名君で、第3回十字軍と大陸のプランタジネット家領の多くを奪った功績は、高校教科書の通り。

リチャード1世にはしばしば敗れ、一進一退を繰り返すが、ジョン王には決定的勝利を得る。

高校世界史には出てこないが、極めて有名な1214年ブーヴィーヌの戦いでジョン王と同盟した神聖ローマ皇帝オットー4世の軍を破る。

(ジョン王自身はこの戦場にはおらず、南フランスから攻め込んで敗退。)

これでヴェルフ家のオットー4世は没落、帝位はシュタウフェン家に戻り、1215年フリードリヒ2世即位。

同年ジョン王はマグナ・カルタ承認。

高校世界史を履修した多くの人が思うでしょうが、これだけ敗北と失政を続けたジョン王ってある意味すごいなあ・・・・・と思います。

結局フィリップ2世時代にヴェルマンドワ・ノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・オーヴェルニュ・ポワトゥーの一部を王領に併合。

ルイ8世(獅子王) 1223~26年。

例外的に短い在位。先代が始めたアルビジョワ十字軍を続行、南仏で従軍中に赤痢で死去。

ルイ9世(聖王) 1226~1270年。

12歳で即位、第六回(本書では第七回)十字軍(エジプト・ダミエッタ攻撃)、第七回十字軍(チュニス攻撃)、チュニスで客死。

ソルボンヌ大学創立、トマス・アクィナスと交流。

モンゴルにルブルック派遣。

弟シャルル・ダンジューがシュタウフェン家に替わってナポリ・シチリア王に。

兄は聖人だが、この弟はかなりのクセ者といった感じ。

フランス支配に対する反抗(1282年「シチリアの晩鐘」)が起こり、シチリア島はアラゴン王家が迎えられ、南イタリアのナポリはフランス系王家が続くが、中世末にナポリもスペイン系支配下に入り、それを不服とした仏国王シャルル8世が1494年攻め込んでイタリア戦争が始めるという経緯だったはずだが、うろ覚えではっきりしない。

フィリップ3世(勇敢王) 1270~1285年。

相続関係でトゥールーズ伯領の王領編入に成功。

シャンパーニュ伯(兼ブロワ伯)を継承した女子と息子フィリップ(次王の4世)との結婚にも成功。

アヴィニョンを教皇に寄進。

ここに「教皇のバビロン捕囚」で教皇庁が移されたわけだが、南フランスにあるとは言え、形式的にはアヴィニョンは(大革命まで)フランス領ではなく教皇領の飛び地だったそうです。

教科書を見ると確かに「南フランスのアヴィニョン」に移したと書いてあって、「フランス領のアヴィニョン」に移したとは書いてない。

つまり後者の書き方をした問題文で正誤問題を作れるわけだが、さすがにこんな凶悪な引っ掛け問題はどこの私大でも出さないでしょう。

上記シチリア反乱を受けてアラゴンに遠征中、陣没。

フィリップ4世(美男王) 1285~1314年。

この人も、三部会・アナーニ事件・アヴィニョン教皇庁・テンプル騎士団弾圧という盛り沢山の治績が高校教科書に載っている。

ルイ10世(喧嘩王) 1314~1316年。

ごく短い治世で貴族の反乱に苦しむ。

この王が急死した後、初めて王位継承で支障が起こる。

死去の時点で王妃が妊娠しており、男子を出産、ジャン1世と名付けられ、またもや奇跡が続くかと思われたが、不幸にして数日後に死亡してしまった。

結局、ルイ10世の弟フィリップ5世(長身王)[1316~1322年]が即位、貴族反乱鎮圧のための軍資金徴収の目的もあって三部会重視の国政運営を行うが、息子は早世しており、男子を残さず死去。

さらに弟のシャルル4世(悪王)[1322~1328年]即位。

イングランド王エドワード2世に対し、アキテーヌ公領の没収を宣言、叔父(フィリップ4世の弟)ヴァロワ伯シャルルがアキテーヌ制圧。

結局エドワード2世は王太子エドワードに公の称号を譲り、公領の役人はフランス王が派遣するという高圧的取り決めが結ばれる。

エドワード2世の妃はフィリップ4世の娘でシャルル4世の妹イザベル。

イザベルが王太子エドワードを擁し、夫エドワード2世を廃位、息子をエドワード3世として即位させる。

シャルル4世が死去した時点で、またもや息子は早世しており、上記ヴァロワ伯シャルルの息子でシャルル4世のいとこに当たるフィリップ6世が即位、ヴァロワ朝を創始。

それに対してエドワード3世がフランス王位継承権を主張、1339年百年戦争を始めるわけで、それはまあわかるんですが、このヴァロワ朝の成立については、「こんなことだけで、王朝交代になるんですかあ?」という気がする。

国王兄弟が三人続けて死去するのは確かに「断絶」という印象を与えるが、フィリップ3世→ヴァロワ伯シャルル→フィリップ6世と男系で繋がっていて、そんな以前に枝分かれしたわけでもなく、一世代前の国王の弟の息子が即位しただけなのになあ・・・・・と思わぬでもない。

何かの本で系図を見て頂ければわかるんですが、ヴァロワ朝内部のシャルル8世からルイ12世、ルイ12世からフランソワ1世への継承の方が、よっぽど「不連続」を感じさせるのですが・・・・・。

この辺、結局よくわかりません。

分量が少なく読みやすい。

かなり重厚な本じゃないと載っていないような無名の国王を一人一人取り上げて解説してくれているのは大変貴重。

確実に押さえておくべき良書と言えます。

2009年5月13日

剣持久木 『記憶の中のファシズム 「火の十字団」とフランス現代史』 (講談社選書メチエ)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

両大戦間期のフランスで活動したクロワ・ド・フー(火の十字団)については、野田宣雄『ヒトラーの時代 上・下』(講談社学術文庫)にちょこっと出てくるので、名前だけは知っていた。

要は、フランスのファシズム団体なんでしょ、という理解であった。

しかし、退役軍人ラロック中佐に率いられたこの組織は、実際は共和政体支持・合法路線の尊重・対独宥和政策への反対・反ユダヤ主義の拒絶などを特徴とする、保守中道志向の穏健な結社であり、他の右翼団体とはかなり多くの面で区別され得るものであった。

その実態を詳説し、ファシズム・イメージがなぜ塗り付けられたかを考察する本。

本書の主人公、フランソワ・ド・ラロックは熱心な王党派の人物を父にして生まれ、第一次大戦に従軍、戦後ソヴィエト・ポーランド戦争に派遣されたフランス軍事使節団の一員としてピウスツキ将軍と協力し、後にモロッコでアブデル・クリム率いるリーフ共和国の鎮圧に従事する。

余談ですが、このリーフ共和国というのは、私の頃の『新世界史』(山川出版社)ではゴチック体で載っていた記憶が確かにあるのですが、今の教科書では全然載ってないみたいですね。

どうして重視されなくなったのか、よくわかりませんけど。

1927年結成された退役軍人組織「火の十字団」に加わり(ラロック自身は創設者ではない)、31年頃には最高指導者となる。

1934年2月6日、スタヴィスキー事件という汚職スキャンダルをきっかけにパリで右翼団体が主導した大規模なデモと暴動が起き、多数の死傷者を出すが、ラロックと火の十字団はデモには加わったものの、秩序を保ち非暴力的行動に徹し、他の右翼団体とは一線を画す。

この2月6日事件を脅威に感じた左派陣営が人民戦線結成へと向うが、そこでのイメージ戦略の一環で、むしろ穏健だが大きな勢力を持つラロックが「ファシスト」として攻撃を受ける。

実際はラロック自身は合法・穏健な保守中道路線を支持し、彼が打ち出した進歩的な社会政策は人民戦線側とも多くの共通点があったと記されている。

「私は伝統にたいしては心から愛着を抱いているが、進歩は左派にあると考えている。」

1936年ブルム人民戦線内閣成立、準軍事組織の極右団体解散を命ずる政令を発布、火の十字団も解散するが、これはかなり不当・不公平な措置であったとされている。

同年ラロックは合法政党「フランス社会党(PSF)」を立ち上げる。

これが、1905年結成された、誰でも知ってる左派政党の(統一)社会党と紛らわしい。

左派の社会党の正式名称は「労働者インターナショナル・フランス支部」で略称はSFIO。

第三インター下の各国共産党は、ソ連による極度の中央集権的支配に服従して、組織面でも、あくまでコミンテルンの支部という扱いだったのは知っていたが、緩やかな国際組織である第二インター時代に結成されたフランスの社会党がこういう名称なのを渡辺啓貴『フランス現代史』(中公新書)で初めて知ってかなり意外な感じがしたのを覚えている。

なお、この時期のフランスに存在した他の右翼団体を挙げると、まず戦前からの王党派団体アクシオン・フランセーズがある。

シャルル・モーラスを指導者とし、反ドレフュス派としても名を馳せた組織だが、その余りに過激な言動が災いして、1926年には教皇庁から破門され、37年には当時の王位継承者から絶縁宣言が出されるという、組織のレゾンデートルにも関わる失態を演じている。

ちなみに当時ラロックの兄弟が王位継承者に仕えていたが、絶縁宣言後、アクシオン・フランセーズはこの兄弟を「君側の奸」として攻撃し、ラロック本人へも中傷を行なった。

(ラロックは父と兄弟の信条にも関わらず、共和政を一貫して支持していたらしい。)

また軍内部で、カグール団という右派的軍人の秘密結社があり、隣国スペインで勃発した内戦をみてフランコをモデルにクーデタを目論むが、37年11月計画は発覚、関係者が一斉に検挙される。

スペイン内戦についてラロックは、フランコ側への共感を公言しつつ、「慎重な中立」を主張した。

「モスクワが欲する流血革命の危険は存在する。(しかし)反共結集がすべてを解決するという奇跡の万能薬は警戒せよ。」

共産党が人民戦線戦術に転換する前、ファシズムに対抗して社共統一行動を唱えた共産党幹部ジャック・ドリオは党指導者モーリス・トレーズによって追放される。

この離党経緯は至極マトモなんですが、その後ドリオが結成したフランス人民党(PPF)は、徐々に右へ右へと傾いていき、最後には最も確信犯的な対独協力者となってしまったので、評判の良かろうはずがない。

37年6月人民戦線内閣崩壊後、右派の大同団結の動きが強まるが、ラロックとPSFはそれを拒否、中道勢力の結集を目指す。

それを受けて右翼団体によるラロックへの攻撃・誹謗中傷が激しさを増す。

しかしPSFは党勢を順調に拡大させ、戦争で行なわれなかった1940年総選挙では第一党となる可能性もあったとまで言われている。

実際の1940年はフランスにとって屈辱的な敗戦の年となり、ドイツに占領される。

ラロックは国内に留まり、ペタンとヴィシー政権に是々非々の立場を取り、対独協力を拒否、密かにイギリス情報機関と接触する。

著者は、こうしたラロックをはじめとする人々を、ド・ゴール派や共産党系とはまた違った、ヴィシー派レジスタンスとしてその存在を認めている。

「ドイツの教義は国民の性質を人種主義起源に従属させている。われわれの教義はキリスト教文明の承認と国民的性質を同一視している。」

ヴィシー政権内で、戦前の外相ラヴァルが積極的対独協力派として台頭し、ダルナン率いるミリス(対独協力民兵)を組織すると、ラロックはフランス軍隊侮辱への反論として、厳しい検閲の中、以下の文章を発表する。

「これら侮辱者たちは、半可通なだけではない。犯罪者である。なぜなら彼らは、20年来のフランスの破壊において、多かれ少なかれ役割を演じてきた。・・・・・今日の彼らのナショナリズムは、かつての彼らの反軍国主義のお粗末な改悛に過ぎない。・・・・・あるいはむしろ、彼らの今日の下劣さはかつての失敗の自然な延長線上にある。ニシン樽はいつまでもニシン樽の臭いがするものである。」

これは対独協力者の多くが、両大戦間期には平和主義者だったことを揶揄しており、ラヴァルにたいする明白な攻撃になっている。

(このラロックの言葉、ここ5、6年の日本でも思い当たる節がありますなあ・・・・・。自分も含めてですけど・・・・・。)

1943年、ラロックはとうとうドイツ軍に逮捕され、収容所送りとなる。

戦後解放されるが、レジスタンスとしての実績は認められず、45年5月の帰国後はむしろヴィシー関係者として保護拘束という名の行政収容が行なわれた。

しばらくして釈放されるが、不遇のうちに46年4月死去。

ド・ゴール政権時代に名誉回復がなされる。

最後の章では、ラロックを“ファシスト”“反ユダヤ主義者”とする報道や著書に対して、遺族が反論権を行使し、粘り強く訂正を求めていった経緯について触れられている。

面白い。

極めて特殊なテーマにのみ関わる本かと思っていたが、読み通すと1930年代のフランス政治史について広く知ることができた。

文章も上手いし、話の運び方も巧みで、スラスラ読める。

相当強くお勧めできます。

2009年4月22日

石井美樹子 『王妃エレアノール』 (朝日選書)

Filed under: イギリス, フランス — 万年初心者 @ 06:00

『世界史のための文献案内』(山川出版社)を眺めてて、たまたまタイトルが目に付いたので、これを読んでみた。

12世紀に生きたフランス王妃の伝記。

1988年に平凡社から同じタイトルで出たものの増補改訂版で1994年刊。

この王妃は名前を知っている人の方が珍しいくらいだし、そもそも夫のルイ7世自体が高校世界史で出てくる人物ではない。

ルイの息子のフィリップ2世は必ず記憶しなければならない重要な国王だが、フィリップはルイと別の妃との間に生まれた子供であり、エレアノールの実子ではない。

では、なぜこういう人物を主人公にした結構な厚さの伝記を読む気になったのかというと、彼女がルイ7世と離婚し、実家である広大なアキテーヌ公領を婚資として、後にイギリス国王ヘンリ2世となるアンジュー伯ヘンリと再婚し、リチャード1世とジョン王の母となったため。

あの高校世界史でも出てくる、「フランスの西半分がイギリス王の封土」という状況を作った女性とも言えるのだから、考えてみれば超重要人物である。

アキテーヌ公爵家は代々ポワトゥー伯爵とガスコーニュ公爵を兼ね、現在のフランスのおよそ四分の一を占める大諸侯で、パリ周辺のイル・ド・フランスのみを領有するカペー王家よりも強勢を誇っていた。

王権強化のために、アキテーヌのエレアノールとカペー王家のルイの政略結婚が行なわれるが、夫妻揃って行軍した第2回十字軍が完全な失敗に終わった後、性格の不一致などがあり別離。

フランス東部の雄シャンパーニュ伯と並ぶ有力諸侯アンジュー伯ヘンリと再婚したことにより、ノルマン朝以来の支配地ノルマンディーを含めて、英仏海峡からピレネー山脈に至る広大な「アンジュー帝国」が出現する。

(息子の結婚で大西洋に突き出た半島のブルターニュも勢力下に入れたように書かれているから本当にフランス西半分全てがイングランドと同一の君主に統治された状態になっている。)

離婚後もルイ7世は男子に恵まれず、その娘がエレアノールとヘンリ2世の間の王子(名は父と同じヘンリ、のち父より先に死去)と結婚していたので、場合によっては英仏両国が完全に一人の君主の下に統合される可能性すらあったらしい。

しかしルイの三度目の結婚でフィリップ2世が生まれ、彼がジョン王から大陸の領土のほとんどを奪い返すのは高校教科書の通り。

その前から父のヘンリ2世およびヘンリ王子、リチャード、ジェフリー(ブルターニュ公女と結婚)、ジョンら息子の間には紛争が絶えず、この不和をフランス王に利用されて、アンジュー帝国はあっけなく瓦解する。

ちなみにエレアノールの娘とカスティリャ王アルフォンソ8世との間に生まれた娘がフィリップ2世の息子ルイ8世と結婚し、その両者から聖王ルイ9世が生まれることになります。

これはとても良い。

人物描写が非常に鮮やかで巧みであり、良質の歴史小説を思わせる。

大変読みやすく、史実が明解なイメージを伴って、頭に深く刻み込まれる。

話の本筋だけでなく、周辺的な事項も丁寧に論じられており、曖昧さを感じない。

この辺の時代は複数国に跨る王家間の婚姻関係が複雑でわかりにくいが、詳細な家系図を添え、親切に繰り返し言及するので理解しやすい。

400ページ超と選書にしてはかなり長いが、ほとんど苦にならない。

一日一章のペースで読めば無理なく通読できるでしょう。

中世ヨーロッパ史として相当の名著だと思います。

しかし、これが新刊書店で手に入らないのは痛い。

痛すぎる。

刊行から15年も経てばやむを得ないのかもしれませんが・・・・・。

まずは図書館で借り出して、ご一読下さい。

それで気に入って、ネット古書店で非常識な価格でなければ、注文して手元に置いておくのも悪くないと思います。

2008年12月2日

ジャン・クリスチャン・プティフィス 『ルイ16世 下』 (中央公論新社)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 06:00

上巻の記事の続き。

以下の文章も、私の読み違いや変なまとめ方があるかもしれませんが、ご容赦下さい。

大革命の数年前から、ルイ16世と財務総監カロンヌが税負担の平等化を目指した改革を進める。

著者が、このカロンヌをテュルゴーやネッケルよりも高く評価していると読める記述があったと思う(断言できないのが情けないですが)。

1787年召集された「名士会議」での特権階層の反対で、改革は否定され、上からの穏健な近代化政策は挫折し、大革命への道が開かれる。

ここで注目すべきは、当時の民衆の世論が、訳もわからず特権層の王権への反抗を支援したこと。

一般的にはほとんど無視されてきたこの奇妙な時期について、それを「前革命」と呼ぶ向きもあるが、現実には、社会の激動と暴力を見れば、すでに「革命」そのものであるのは間違いなかろう。そしてこの時期を特徴づけるのは、ある種の逆説である。国家の構造を合理化し、税をより公平に割り当て、近代的な改革を推し進めようとする権力が、国民の利害を十分に考慮しつつ振る舞いながら、貴族的であると同時に民衆的でもある、非常に異質で広範な反・絶対王政の連合に対して強権的な手段を行使せざるをえないという逆説!

第三身分の者たちは、権力に抵抗する人々に集団的な支持を与える傾向にあり、「反革命」の旗印のもとに、よく状況を考えず、みずから進んで加わってしまった。この拒否の戦線は、おそらく、本性に反する同盟であった(この同盟は、公平な税制を最も強く望んでいた恵まれない階級の人々を犠牲にして行動した)。

1789年三部会招集によって革命の幕が開きますが、有名な議決方法をめぐる対立によって、上記の特権階層と第三身分との不自然な同盟に亀裂が入る。

この時、王権が第三身分と同盟して貴族・聖職者の特権層を抑える策を取れていれば、革命の暴走も無かったとされるが、残念にも王権に世論を掌握し指導できるだけの力量は無かった。

ここまでで全体の三分の一くらいですが、以後革命の経緯を細かく述べていく部分になります。

これが非常に良い。

当時の政治情勢の概略と、焦点となっていた課題、革命諸党派の勢力分布、パリ・ヴェルサイユの中央情勢と地方および外国の形勢との関係などが実にわかりやすく詳細に叙述されている。

それらの舞台で活動する国王をはじめとする諸個人の描写も見事。

高校教科書に載っているような、事件の大体のあらましは事前に頭に入れておいた方がよいが、もしあやふやなら時々立ち止まりながら、一つ一つ確認すればよい。

本書の革命史はルイ16世処刑のところでとどまるが、一般的な通史としても非常に優れている。

革命勃発後の記述を読んでまず印象に残るのが、社会の無秩序化の急激な進行。

教科書レベルの記述を読んだだけだと、バスティーユ襲撃後も確固たる勢力を維持していた王権が、ひと固まりの議会勢力に対して幾度か反革命の攻勢をかけ、その都度撃退されて遂には打倒されるというイメージを持つが、本書では全く違うように思える。

まずバスティーユ襲撃のきっかけとなった軍隊の配置は、すでに起こっていた食糧暴動への対処のためであり、国民議会弾圧のためではなかったとする解釈が記されている。

悪意に解釈しても、議員に無言の圧力をかけるためであり、実際の武力行使は全く考慮に入れられていなかった。

民衆への発砲は可能な限り避けるように、との命令書が載せられている。

バスティーユ陥落後は、軍隊の規律と士気の崩壊によって、王権は急激に弱体化し、情勢を把握する術がほとんど無くなる。

7月14日以後初めてのパリ訪問の時点ですでに、国王は生きて帰れないかもしれないとの覚悟をきめるまでになっている。

かと言って、当時の国民議会(憲法制定議会)指導者で、少し後でフイヤン派と呼ばれるようになる、ラファイエット、バイイ、ミラボー、バルナーヴ、デュポール、ラメットが確固として主導権を取っているのではない。

浅薄で支離滅裂な世論によって情勢は急変し、間歇的にパリの下層民から湧いて出る暴民としか言いようの無い匿名の集団(言葉の真の意味での賤民と言うべきか)によって、革命の歯車が回されていく。

(指導者として何人かの名が挙げられているが、聞き覚えのあるのはサンテールくらい。)

不作による食糧不足など如何ともし難い災厄を「王室と貴族の陰謀」と思い込み、その種の妄想をもって自らを正当化し陰惨な暴力行為に走る民衆の心理的欠陥に著者は言及している(ル・ボン『群衆心理』等参照)。

よく知られた心理的メカニズムが、また始まった。つまり、食料不足から飢餓への不安が高まり、庶民は、「買占め人」、製粉業者、パン屋、農業経営者、町や村の職員、聖職者、貴族、こうした人々がグルになって悪意ある操作をしていると信じ込んでしまう。そして、パンのかわりとなるものがあると、それが土地を思わせるので、人々は悪意に対して激しく抗議し始める。そして、自然に、宮廷が民衆に対して陰謀を企てていると思い込んでしまうのだ。ルイ15世の時代にも同じような現象があった。しかし、政治的状況がまったく異なっていた。

またはっきりと明言されてはいないが、そういう民衆の暴力による無秩序自体が、経済情勢悪化の一因なのだから、この悪循環は全く醜悪極まりない。

その種の低劣な下層民の圧力を受けて議会でも、常により過激で暴力的な一派が勝利を占める傾向が止まらなくなっていく。

ここで著者の革命観に触れると、ジャコバン派の独裁や恐怖政治のように、フランス革命には20世紀の全体主義を思わせるような不吉で醜悪な一面が確かにあったが、それで人権宣言をはじめとする革命の意義を全否定するのは不当だ、というもののようで(恐怖政治が人権宣言の必然的帰結であったとの説は認め難いと書いている)、まあこれが今のフランス人の平均的意見というところなんでしょうか。

著名な革命史家のフランソワ・フュレが、ジャコバン独裁を「プロレタリア独裁」の先駆けとして評価するようなマルクス主義的革命史学に批判的な一方、その反動として共産主義の悲惨な失敗から「逆算」してフランス革命を全体主義の起源としてのみ捉え、革命の意義を一片たりとも認めようとしない立場にも反対していると何かの文章で読んだ記憶がありますが、著者の立場もそれに近いように感じました。

したがって極端な反革命派ではないはずなんですが、それでも教科書で名前だけ出てくる事件の実際を淡々と詳細に述べ、それがいかに凄惨で残酷なものだったかを記している。

例えば、89年10月の「ヴェルサイユ行進」や92年6月の王宮乱入事件、同年8月10日事件の描写を読むと、他の本であらましは知っていたが、改めて気分が沈みます。

ヴェルサイユ行進の記述を読むと、ヴァレンヌ逃亡事件の前に、もうすでにこういうことが起こっていたのだから、高校教科書のレベルですら、「この事件で国王は国民の信頼を失った」と書くのは少し公平さに欠くんではないかと思えてくる。

89年10月以降パリに移った国王一家だが、この時点で事実上虜囚に等しかった。

内戦を避けようとする気持ちから90年連盟祭での反攻の機会を逃し、パリからの退避も、オルレアン公フィリップ・エガリテ(平等公・七月王政の国王ルイ・フィリップの父)の策動を懸念し、決断には至らず。

実行は周知の通り、91年のヴァレンヌ事件となるのだが、不幸にして失敗。

本書では、残された演説草稿や行動経緯の分析から、この時の国王の目的は「国外逃亡と外国軍隊の武力を借りた反革命」ではなく、自身と家族の安全を確保した上で、パリの過激な政治クラブとサンキュロットの圧力を受けず、議会と憲法の制定について交渉することだったとしている。

これは以後の章でも何度か強調されることだが、89年以後死に至るまで、ルイが目指したのは、文字通りの「反革命」、すなわち絶対王政とアンシャン・レジームそのものへの復帰ではなく(王妃と王弟はまだその希望を棄ててはいなかったが)、諸身分の平等と憲法の制定を前提にした自由な立憲君主制だったと述べられている。

その治世を特徴付ける開明的姿勢は自身が革命に脅かされている最中でも全く変わっていなかった。

国王一家がパリに連れ戻され、1791年憲法が制定されると、民衆運動の過激化を懸念するフイヤン派が王党派に接近し、やや事態が改善したように思われた。

しかしここで対外戦争によって国内の緊張を高め、それを利用して共和政を樹立しようとするジロンド派が台頭し、強い圧力をかける。

主なメンバーはブリソ、ヴェルニヨ、ペティヨン、コンドルセ、ロラン夫人ら。

彼らは確かに1792年に宣戦と王政打倒に成功するが、あっという間にジャコバン派に主導権を奪われ、わずか1、2年で自分たち自身がギロチン送りになるか自殺に追い込まれることになる。

国王は長い間宣戦への圧力に抵抗するが抗し切れず、外国軍による解放か戦時における自身の求心力回復に望みをかけるが、この期待は空しかった。

前線での連戦連敗で恐怖に駆られた群集は集団ヒステリーを起こし、スケープゴートを求め、92年8月10日、国王一家のいるテュイルリー宮殿を襲撃、衛兵を虐殺する。

国王らは襲撃直前に議会に避難したが、この時暴徒と衛兵の戦力は拮抗しており、もし断固として防衛戦を戦っていれば、何か別の展開があったかもしれないと記されているのを読むと、切歯扼腕せずにいられない。

著者はこの8月10日事件をもって、フランス革命の肯定し評価すべき局面は完全に終わったとしている。

8月10日は、第二のフランス革命、立憲議会によって整備された政治制度を打ち壊すという目標をもった、騒々しく、熱狂的で、荒々しい革命が誕生した日なのである。実際に勝利したのは、人民の主権などではない。過激派、いやむしろ暴力的で不寛容な諸分派の連合体、それに、権限もないのに人民の名において意思表示をする権利を奪取した数千の連盟兵と地区の民衆が勝利したのである。自由と人権にもとづき、諸特権が廃止された社会を作ろうとした1789年の革命は息絶えた。合法性や法治主義の尊重といったことには頓着しないもっと急進的な運動がそれに取って代わったのだ。・・・・・フランス革命の歴史において、決定的な断絶は、89年と93年、すなわち立憲議会と公安委員会の独裁のあいだにあるのではなく、89年と92年のあいだにある。というのは、この八月の動きというのは、ある特異な形態の権力、ジャコブ・レブ・タルモンの言葉を借りれば「全体主義的民主主義」の到来を告げるからである。

君主や貴族の権力が制限されなければならないのと全く同じように(と言うかそれ以上に)、民衆の権力も制限されなければならないし、様々な非民主的要素と均衡させられなければならないという、ごく当たり前のことを認めるのを拒否した人々によって、革命は止めど無く堕落し、破壊的になっていった。

以後、国王はタンプル塔への幽閉、裁判を経て93年1月に処刑される。

この生涯最後の時期の叙述は深い感動を起こさせる。

著者は一般的な現代フランス人なのだから、王党派でもなんでもない(はず)。

実際のところ、王の悲劇的な最期が、古の君主制を懐かしむ気持ちをこの現代社会において呼び覚ますかといえば、もはやそういうことはありえない。

本書での国王処刑までの記述もありきたりの美辞麗句や大げさな悲嘆表現を用いているわけでなく、非常に冷静な筆致で事実を細かく描写しているだけである。

しかし、それが反ってルイ16世が持っていた威厳と勇気と寛大さを強く感じさせる。

著者も、能動的に支配すべき君主としては欠けるところが多かったルイが生涯の最後に示した偉大さを完全に承認し、賞賛している。

そしてこれが王政復古期に美化され誇張された作り話でないことを論拠を挙げて説明している。

上記の文章の後、著者はこう続ける。

ただし、われわれは、この国民的悲劇を思い出しただけで、記憶の影の部分が攪拌され、苦しい思いをすることは確かだ。誠実に、そして何の底意もなく王の死というものを評価し、それが本来もっている意味を考えることをわれわれは拒絶している。・・・・・ポワンカレはエリゼ宮[大統領府]を去ったあと、次のようなことを口にしている。「今こそ、われわれの病弊の原因が、ルイ16世の処刑にまで遡るものであるかどうか、熟考すべき時である」

(このポワンカレの言葉はピエール・ガクソット『フランス人の歴史』(みすず書房)にも引用されていた。)

下巻はややペースを落として読んで、途中丸一日サボったりしたので、読了まで一週間弱かかりましたが、上巻よりもスラスラ読めます。

特に後半三分の二以降は本当に息もつかせない面白さ。

上・下巻通じて、文章は読みやすく訳文は巧いと思う。

下巻巻末で索引が充実しているのは良いが、年譜は簡略過ぎてほとんど役に立たない。

ここはもうちょっと行き届いた詳細なものが欲しかった。

だが、総合的な評価はやはり「素晴らしい」と言えます。

上・下巻とも最初の100ページ辺りまではかなりツラいと思います。

そこをくぐり抜けるとかなり楽になりますので、何とか持ちこたえて下さい。

教科書レベルの次にいきなり読むべき本でないことは言うまでも無いが、手に入りやすくて平易な本でいうと例えばツヴァイクの『マリー・アントワネット』を通読した人なら、十分取り組んでいけると思う。

各巻600ページ超、定価3990円と、根気も費用も要る厄介な本ですが(私は買わずに借りました)、通読する価値は十二分にあることは保証致します。

(本書を読むのも記事にするのも少々疲れましたので、次の更新まで普段より少しだけ間隔を空けさせて頂きます。)

本来、国民に起源を有する唯一の主権と、それを体現する全能の議会という考えは、ひとつの恐るべき障害物となった。そして、この思想が、一連の革命の悲劇と、さまざまな暴発的出来事の上に重くのしかかってゆくことになるのだ。よく知られているように、一つのフィクションにすぎない絶対王政は、旧体制下のフランスにおいて存在していたいくつかの対抗勢力をたえず意識しつつ統治を行っていた。いま、この絶対王政に、もっとずっと強く恐ろしい新たな力が置き換わろうとしているのだ。それは、制度上ブレーキとして働いたり、あるいは束縛として機能したりする可能性のあるすべてを、ただちに厄介払いしようとしているのだ。その新しい力とは国民的絶対主義である。主権は、いままさに、王という一人の人物、実際に権力を行使するには、強い制限が働いている、一人の人物から、唯一の議会によって代表される国民へと移ろうとしている。だが、この国民なるものは、すぐにデマに踊らされ、過激な行動へ走る傾向になるのだ。一つの脆弱な権力―たしかにそれは恣意的な乱用の危険はある―が、強力な権力に場所を明け渡そうとしているのである。この権力は、原理的には、行政、立法、司法のすべての権限を保持しており、しかもそれは、その起源からして、またその本性からしても全体主義に傾きがちだ。1789年7月28日から、国家反逆罪という観念が王権反逆罪という観念に取って代わった。それがすべてを語っていよう。

主権について、それを法的正当性の占有といった「形而上学的」表現によってのみ問題提起することで、革命運動は、近代的民主主義の方向へ平和的に進んで行く可能性をみずからに断ってしまった。たとえば、一世紀早く、「権利章典」によって立憲王政を確立したイギリスのようにはいかなかったのである。これは、主権の起源についての抽象的な議論をせずに、王権の制限、しかも時代と社会の流れにつれて変化しうる制限を具体的に定めたのであった。今日でもなお、議会における女王は、議員たちの中にある女王でありながら、主権者として、すなわち、すべての権力の起源として尊敬されているのである。中世的な意味を含んだフィクションとしての王権は、世界で最も強固な現実の一つである民主主義的な現実の中で、人々にとって、一種の潜在的な支えとして役立っているのだ。アメリカの独立革命では、1787年の合衆国憲法によって、権力は厳密に分離され、イギリス同様に流血の惨事は避けられた。たしかにそれは、堅固な階級制度から解放された新しい社会だからこそ、十全に機能したのだが。

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