万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年7月10日

西村貞二 『リッター  (人と思想126)』 (清水書院)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 04:46

ゲルハルト・リッターが戦前戦後を通じて活動し、伝統的政治史を叙述した歴史家であることは、林健太郎氏の著作で知っていた。

あと、ホイジンガ『朝の影のなかに』では、ファシズムに反対するにも関わらず、国家の道義的自立を説いている、とやや批判的に引用されていることによっても。

生没年は1888~1967年。

フライブルク大学に奉職。

ワイマール共和政を「最小限度の悪」として消極的に許容。

シュタイン伝、ルター伝、フリードリヒ大王伝、『権力のデモニー』などを著わし、ひそかなナチ批判を込める。

「第三帝国は道徳的価値の伝統的な組織を失効させたばかりではない。善悪を区別するドイツ人の能力をも鈍磨させた。この行為者には絶対的なものにたいする責任意識がない」

カール・ゲルデラーや告白教会など抵抗グループと関係。

1944年11月逮捕され強制収容所へ。

釈放後、フライブルク大学に戻り、ナチに協力した教授たちを可能な限りとりなす。

最も有名なのはハイデッガー。

ヤスパース宛ての手紙で

「ハイデッガーは強い性格ではない。かれは絶対的に正しいというわけではない。とはいえ、けっして卑劣な密告者ではない。1934年1月30日以来はナチスのはげしい敵対者だった。かれを1933年に不吉な誤ちにみちびいたヒトラーにたいする信頼をまったく失った」

とある。

戦後、ゲルデラー伝、『国政術と戦争技術』を刊行。

アデナウアーとCDUを支持。

途中で記されている著者の西村氏による以下の文章に深く共感。

わたくしの独断と偏見かもしれないが、現代の歴史学者は物語的歴史を見くだす風がある。だが歴史の原初形態は物語的歴史なのである。時には素朴、時には荒唐無稽だが、それにもかかわらず、ヘロドトスから今日までつづいている。歴史には科学性がなければならない。が、物語性を追放したことが結果的に歴史を面白くなくしてしまったのではないか。

リッターは、マキャベリ的権力主義とモア的道義主義の双方の均衡をよしとする。

ボダン、ボシュエのようなフランスの絶対王政擁護者も、神の法による王権の拘束を説いていた。

その均衡を崩したのがフランス革命である。

人間の善性への軽信と伝統的束縛の排除が、結果として無制限の権力拡張たるジャコバン独裁とナポレオン戦争を生む。

フリードリヒ大王とヒトラーの関係も同じ。

フリードリヒ大王の「プロイセン軍国主義」は、実は、冷静な国家理性による政治指導、制限された手段と限定された目標に基づく戦争、完全な国家破壊に至る「無条件降伏」によらない外交交渉による戦争終結をその規範としていた。

戦争は常に政治の意のままになる道具に過ぎず、「総力戦」による敵の殲滅などは目指さない。

ビスマルクもフリードリヒ大王と同じ。

そうした「総力戦」と「国民戦争」が生まれたのはフランス革命以後。

技術の発達と民主化の進展が、戦争の大規模化と徹底化、国家権力の極大化、全体主義化をもたらす。

第一次大戦のドイツ帝国の戦争目的について、その世界制覇を志向する野心を強調する新説をめぐるフィッシャー論争に参加し、フィッシャーに反対する論陣を張る。

その後、リッターとマイネッケの関係を記した章が続くが、正直内容が複雑でよくわからない。

マイネッケの理念史とリッターの政治史はともに、戦後大いに盛んとなったアナール派の構造史・社会史と大きく異なる。

リッターは、主流に抗して物語史・事件史をあえて重視。

アメリカの歴史家が、「客観性」を拒否し民主主義的理想を支持する立場から、歴史を生に直接奉仕させようとする傾向も、リッターは批判。

社会史・経済史の重要性ははっきり認めながら、政治史を「表面的歴史」として排除することには反対した。

 

 

そこそこ面白い。

私が歴史に対してぼんやりと持っている考えとも近いので、共感する所が多い。

興味のある方はどうぞ。

2017年6月22日

飯田洋介 『ビスマルク  ドイツ帝国を築いた政治外交術』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 01:43

「国民的英雄」と「ナチズムの先駆者」という両極端の評価を退け、等身大の実像を描き出そうとした伝記。

2015年刊。

ベルリンより100キロほど西のシェーンハウゼンで、1815年ナポレオンの百日天下の最中に生まれる。

ユンカー出身。

ウィーン体制下で、プロイセンはラインラントを獲得、ドイツ連邦が設立される。

ビスマルクは酒と喧嘩に明け暮れる破天荒な大学生活を経て官吏になるが、離職、ユンカーの農場経営に入る。

結婚を期に信仰を深め、1847年プロイセン議員となり政界進出。

ゲルラッハ兄弟ら強硬保守派に接近。

翌48年ドイツ三月革命勃発。

その際成立した自由主義内閣を一時容認するかのような発言もするが、総体的にはもちろん反革命の闘士として活動。

19世紀ナショナリズム・自由主義への反抗を、議会・新聞・協会という近代的手段で繰り広げる。

生涯を通じて外的環境の変動を受けて、伝統的保守的価値を革新的手段で擁護しようとした。

フランクフルト国民議会へも敵意を示す。

19世紀ドイツ史においては、君主・貴族など国家の保守的な上層部が民族統一運動に消極的・警戒的だったのに対し、民衆の中の進歩的自由主義的勢力がそれを熱狂的に追い求めたことはしっかりと頭に入れておく。

もちろん後者が勝利を占め、その結果20世紀に破滅的事態がもたらされた。

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は国民議会から提供されたドイツ帝冠を拒否。

ドイツ統一よりもプロイセンの利益を最優先。

ビスマルクは、さらに、国王側近らの「連合」政策=上からの小ドイツ的統一政策にも反対する。

ドイツのもう一つの大国オーストリアの反発で、1850年オルミュッツ協約が結ばれ、「連合」政策も失敗。

ビスマルクはオルミュッツ協約を肯定、オーストリアとの協調を重視した。

しかし、これは正統主義イデオロギーからのものではなく、国益の観点からの主張であるとされている。

1851年から、ビスマルクはドイツ連邦議会のプロイセン代表となる。

ここでその生涯で極めて重要な転機が訪れる。

反オーストリア的姿勢への転換である。

結果、それまで近かった強硬保守派との軋轢が生じる。

ウィーン会議で設立されたドイツ連邦は国際的な君主同盟に近いもので、連邦統一国家とは言えない。

「ドイツ同盟」という訳語を当てる場合も近年はある。

普墺両国の事実上の拒否権があり、他国からの侵略への防衛体制としては機能しており、これが可能な限り続いた方がドイツとヨーロッパにとって良かったんでは・・・・・と思える。

民衆的ナショナリズムの要求に国家上層部が押し流されるようにして達成されたドイツ統一がもたらした動乱を考えると・・・・・。

だがメッテルニヒ失脚後、オーストリア宰相となったシュヴァルツェンベルクは、小ドイツ統一政策への反発からか、プロイセンを露骨に「ジュニア・パートナー」として扱い、プロイセン朝野の反感を買う。

クリミア戦争でオーストリアがドイツ連邦を動員して対露宣戦を目論むが、プロイセンの反対で挫折。

ビスマルクももちろん反対したが、これを彼の功績に帰するのは過大評価だとされている。

ナポレオン3世と接し、1858年王弟ヴィルヘルム(のち1世)が摂政になると、59年駐露公使に任命。

同年イタリア統一戦争でもオーストリアを支援することに反対。

1861年ヴィルヘルム1世が即位。

ビスマルクはドイツ・ナショナリズムへの接近とその利用を主張。

軍制改革で自由主義政党であるドイツ進歩党の反抗で政治危機発生。

62年ビスマルクがプロイセン首相に就任。

有名な「鉄血演説」は全体的には自由主義勢力への妥協を求めるものだったが、この部分だけが失言として取り上げられたもので、言わば失敗の記録。

ドイツ関税同盟で経済的優位を占める普に対し、ドイツ連邦改革で対抗しようとする墺。

1863年ポーランド反乱でビスマルクは露に配慮し協力、これには内外ともに反対が多く、墺の威信が回復する。

また、社会主義者ラサールと接近、普通選挙ではあるが、納税額別の三級選挙制度を完全な平等直接選挙に改めることを検討するが、これは中間層市民の自由主義に対し、保守的農民を取り込むのが目的。

外交面ではドイツ連邦強化を目論む墺に対し、より統一色の濃い主張で対抗、ドイツ・ナショナリズムを味方につけようとする。

ビスマルクが陥った内外の苦境を対外危機が救う。

1864年シュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐるデンマーク戦争、66年普墺戦争。

プロイセンの大勝利で、進歩党から国民自由党が、保守党から自由保守党(のちの帝国党)が分離し、両党ともビスマルクの与党となる。

当時オランダと同君連合関係にあり、ドイツ連邦に加入していたルクセンブルクを代償にフランスにドイツ統一を認めさせようとするが、ドイツ世論の反発で失敗、フランスにはかえって遺恨を残す。

北ドイツにおけるプロイセンの覇権確立が当初の目的だったが、ナショナリズムの利用で完全なドイツ統一事業を推進せざるを得なくなった。

ナショナリズムを統御できず、かえって自身の政策・行動が規定されてしまった。

その結果起こった普仏戦争は、近年「独仏戦争」と呼ぶ方が適切とされている。

攻守同盟によって南ドイツ諸邦も参戦しているので。

後世に禍根を残したアルザス・ロレーヌ併合は、ビスマルク自身は反対しておらず、フランスの感情を和らげるよりも復讐への備えをした方がよいとの判断をしたからだとされている。

「大プロイセン」を目指したビスマルクの政策が「小ドイツ」の統一に帰結した。

・・・・・ドイツ史における画期的な転換点である1871年のドイツ帝国創建は、ビスマルク自身の根幹ともいえる伝統的なプロイセン主義というこれまで受け継がれ培ってきた要素と、それとは相反するドイツ・ナショナリズムという全く新しい要素が奇妙な形で融合した産物であったといえよう。ビスマルクからすれば後者によって前者を擁護・発展させたことになるのかもしれないが、恐らくは後者によって前者が(彼自身を含め)変質を余儀なくされたというのがより実態に近いのかもしれない。

ドイツ帝国議会は男子普通選挙で選出(各邦議会では三級選挙などが存在)。

当時としては先進的。

英国に比して、独仏の方が民主的制度を保持していた、だからこそ独仏は「失敗」したんだ、という見方については『レ・ミゼラブル』の記事参照。

保守党・帝国党・国民自由党が与党。

帝国宰相(首相ではない)が組織する政府は、よく知られているように責任内閣制ではない(個人的にはこのことを強調するのはバランスに欠けているように思えるが)。

統一達成後、国内に敵を作り出す「負の統合」手法が採られる。

70年代にはカトリック敵視の文化闘争。

しかしヴィントホルスト率いる中央党は、70年代後半には議席の約四分の一を占めるまでに成長。

続いて1878年社会主義者鎮圧法。

これも失敗。

社会主義労働者党は着実に勢力拡大。

1879年は内外政策の転換点、保護関税導入と国民自由党との連携解消。

替わって中央党と協力、両党の勢力関係が入れ替わる。

社会政策も推進したが、社会主義勢力減殺という目的通りの政治的効果は得られず。

外交では、フランスの孤立化を最重視し、ドイツ自身は「充足国家」として平和外交を推進。

1873年、三帝協定締結(軍事的約束ではなく友好協力関係宣言に過ぎないので、高校世界史で用いられる「三帝同盟」の語は当たらないとされている)。

この独墺露の協力がビスマルク外交の基本だが、不幸にしてウィーン体制下のように君主と貴族という各国の上層部が保守的価値観を共有して破局的な全面対立を避けるという事態はもはや過去のもので、粗暴で過激なナショナリズムに煽られた国民世論が無分別に敵意をぶつけ合い、国家指導層もそれを制御できず、近代技術によって国家そのものを破滅させるような悪魔的とも言える総力戦に突入する時代となっていた。

結局、ビスマルク以後、ドイツは墺露両国および墺伊間の衝突を回避できず、外交的孤立と敗北に向かうこととなる。

フランスへの予防戦争威嚇は、英露の反対で失敗。

すると、ビスマルクはオスマン帝国を犠牲にして英墺露に東欧・中東への進出を促す。

その結果、各国が対立し合えば、フランスを除く全ての列強がドイツを必要とするようになる、と考えた。

1878年ベルリン会議でそれを実現できたが、ロシアの強い不満が残った。

それへの「急場しのぎ」で1879年独墺同盟締結。

これでかえってロシアは独に接近してくる。

次にビスマルクは、それまで自身が否定していた海外植民地獲得に乗り出す。

1884年アフリカ分割に関するベルリン会議開催。

ナミビア、トーゴ、カメルーン、タンザニア、ルワンダ、ブルンジなどを取得。

この政策転換の原因について主に二つの説がある。

内政的要因を重視するものとしては、ドイツ国内の社会的緊張を隠し、現存秩序を安定化させるためとする説。

外政的要因説は、当時ビスマルクが一時的に採用していた親仏反英政策(「親仏」とはフランスに海外植民地獲得を勧め、欧州での対独復讐欲を逸らす目的)の一環であり、ヨーロッパの勢力均衡をグローバルに拡大するための持ち駒として植民地を獲得したのだとするもの。

実は、内政的要因説の変種として、もう一つの説がある。

「皇太子テーゼ」と呼ばれるもの。

ヴィルヘルム1世の子で、英ヴィクトリア女王の長女と結婚していた親英派の皇太子フリードリヒの即位をにらんで、自身の政治的影響力を維持するため、意図的にイギリスとの対立を作り出そうとしていたとの説。

何やら表面的・非学問的に思えるが、著名なジャーナリストで独創的な歴史家でもあるセバスティアン・ハフナーは、この「皇太子テーゼ」が真実に最も近いのではないかと判断している(『ドイツ帝国の興亡』)。

少し話が戻って、1881年ビスマルクは第二次三帝協定を締結、その外交の基本的枠組みを復活させることに成功。

翌82年にはフランスのチュニジア占領に反発したイタリアを誘って、独墺伊三国同盟を樹立。

83年には独・墺・ルーマニア間のもう一つの「三国同盟」(独墺羅三国同盟)も締結(これは完全に高校世界史範囲外だが)。

このように、三帝協定の崩壊という最大の窮地に対して「急場しのぎ」で対処した結果、ビスマルクは念願の三帝協定を復活させるだけでなく、イタリアやルーマニアとの間にも同盟関係を構築し、結果的には一八八〇年代前半の中東欧にドイツを中心とした(秘密条約に基づく)同盟網を築いたのである。これによってドイツはフランスから攻撃を受けた場合には、ロシアとオーストリア・ハンガリーからは好意的中立を、イタリアからは軍事的援助を得られるようになった。フランスからの軍事的脅威に対するドイツの安全保障は、一応ここに確保することができたのである。当初から目指していたわけではないにもかかわらず、結果としてこのような同盟網を築いて(十分ではないものの)ドイツの安全保障を確保したビスマルクの外交的手腕は、見事としかいいようがない。

しかしながら、この同盟網はロシアの出方によって、その存続が著しく左右されるものでもあった。ロシアがライヴァル国イギリスと衝突した場合には、ドイツは第二次三帝協定に基づいてロシア寄りの立場に立つため、イギリスとの対立を惹起しかねなかった。また、ロシアがバルカン半島をめぐってオーストリア・ハンガリーとの対立を再燃させた場合には、ドイツの安全保障を一気に脅かしかねなかった。そのためビスマルクは、一八八〇年代を通じて、イギリスとの友好関係を維持するとともに、ロシアとオーストリア・ハンガリーの関係を緊迫させないように調整し続けなければならなかったのである。

この後、上述の80年代半ばドイツ自身の植民地政策推進の記述が来る。

ビスマルクの「反英」植民地政策はあくまで内政的考慮から出た一時のもので、基本的にはエジプトへの進出を後援するなど、協力関係の維持を目指していた。

だが、結果は以下のようなものとなる。

彼の動機を特定するのは非常に困難なのだが、それが何であれ、ここで重要となるのは彼の動機ではなく、むしろ結果の方であろう。いったん植民地政策が始動すると、植民地獲得をめぐる動きは――このときドイツが獲得した植民地のほとんどが、経済的価値が乏しかったこともあって――彼の想定をはるかに超えて展開していくことになる。こうした「日のあたる場所」を求める動きは、彼が退陣した後、ヴィルヘルム二世の下での積極的な帝国主義政策、いわゆる「世界政策」の下で箍が外れたかのように加速し、ヨーロッパ外で他の列強との衝突を繰り返すようになる。しかも、植民地行政がさらに肥大化し、右記の理由と相俟って、行政・財政両面で帝国に大きな負担をかけるようになっていくのである。

こうして見ると、内政的なものであれ外政的なものであれ、帝政期に入って培ってきたものを守るためにビスマルクが利用しようとした帝国主義的な要素は、彼の手に負えるような代物ではなかったということになろう。

80年代後半、ヨーロッパ内部で再度の危機発生、ビスマルクは植民地政策を二の次にし、またもや欧州外交再構築を迫られる。

ブルガリアの王朝交替をきっかけに墺・露対立が再燃、対独融和的な仏首相フェリーが失脚し、ブーランジェが陸相に就任したことで、独仏間も緊張。

これに対応して、ビスマルクは再度同盟網を構築。

1887年、英・伊・墺の間で地中海協定成立を斡旋(独自身は参加せず)。

ロシアがブルガリアないしボスフォラス・ダーダネルス海峡に進出することを阻止するためのもの。

同年中に成立した第二次協定では武力行使も想定され、「オリエント三国同盟」とも呼ばれる。

さらに同年墺・伊の意見を調整し、三国同盟を更新。

そして「独露再保障条約」も締結。

この「二度目の三帝協定崩壊」危機に対するビスマルクの対応について、少々長いが重要な内容と思われる本文を以下に引用する。

こうした「急場しのぎ」の対応の結果、ヨーロッパには「ビスマルク体制」と称される国際秩序が姿を現した。それは、フランスを外交的に孤立させた、ドイツを中心とした同盟網であった。だが同時にそれは、ドイツの安全保障を確保するために同盟や協定が複雑に入り組んだ同盟システムであり、フランスを孤立させた点を除けば、ビスマルクが当初想定していたイメージとは大きくかけ離れたものであった。以前、ドイツの歴史家W・ヴィンデルバントがこの同盟システムを最初から一貫した統一的なシステムと評価したことがあったが、これに異論を唱える歴史家は数多く、今日ではすでに見てきたように、二度の三帝協定崩壊という事態に急ごしらえで対処した「急場しのぎシステム」としてビスマルクの同盟システムを評価するのが一般的である。

だが、この同盟システムでは様々な同盟や協定が複雑に入り組んでおり、それぞれの同盟や協定が整合するのかという疑問が生じる。まさにこの点がビスマルク外交研究の大きなテーマであり、先行研究において一番関心が集まったのが、ロシアとの再保障条約が絡んだ次の二つのケースであった。

一つ目は、再保障条約と第二次地中海協定である。先述のように、ビスマルクは再保障条約の秘密付属議定書においてロシアのブルガリア、さらにはダーダネルス・ボスフォラス両海峡への進出を容認し、第二次地中海協定においてバルカン半島における現状維持を支持している。両者は明らかに内容の面で抵触するのだが、第二次地中海協定にドイツが参加していないため、表面的にはかろうじて整合性が保たれている。だが、バルカン問題をめぐってロシアがイギリスとオーストリア・ハンガリーに対して戦争を起こした場合、果たしてビスマルクはどのようなスタンスをとるのだろうか。

二つ目は、再保障条約と独墺同盟である。先に見てきたように、再保障条約は独墺同盟と抵触しないように条約の文言が作成されている。ロシアがオーストリア・ハンガリーを攻撃した場合には、ドイツは独墺同盟に基づいてオーストリア・ハンガリーを軍事支援するが、その逆の場合には再保障条約に基づいてドイツはロシアに対して好意的中立を保つことになる。だが、実際にロシアとオーストリア・ハンガリーの間で戦端が開かれてしまった場合、例えばロシアが挑発してオーストリア・ハンガリーに先制攻撃させた場合、そして戦局が推移してロシアがオーストリア・ハンガリーに攻め込む事態が生じた場合、果たしてドイツはどのような立場をとるのか。

まさにこの点こそが、ビスマルク退陣後のドイツ政府首脳を悩ませた問題であり、一八九〇年に期限切れを迎える再保障条約を更新しないという判断を下す理由となったのである。だがこの判断が、ビスマルクが最も恐れていたロシアとフランスの軍事同盟を惹起することにつながったことはよく知られている。露仏同盟は、一八九四年に現実のものとなった。

果たして、実際に戦争が生じたときに、この同盟システムは機能したのだろうか。ビスマルク在任中にそのような事態に至っていないために何ともいえないが、ビスマルク退陣後に再保障条約不更新を決定するまでの外務省内のプロセスを見ていると、同盟システムが機能不全に陥ってしまい、ドイツが外交的に苦境に立たされる可能性は十分あったと思われる。だがここで注意したいのは、この同盟システムが、実際に戦争が起こった場合を想定して築かれたのではなく、いかにして戦争を起こさせないかという抑止の論理に基づいて築かれたものであるという点である。その意味で見たときに、初めてビスマルク外交を「平和外交」と評価することが可能なのかもしれない。

ただし、いずれも秘密条約であり(独墺同盟は一八八八年に公表される)、しかもこの同盟網の全体像を把握していたのは、ビスマルクを含めほんの一握りでしかなく、同盟システムにおけるビスマルクの真意が外務省幹部間でも共有されていたかというとそうではなかった。やはり、このシステムはビスマルク並みの「術」がなければ、機能させるどころか、存続させることさえも不可能なものであり、結局のところ、ビスマルクあっての国際秩序でしかなかったのである。

本来彼は、領土補償という極めて伝統的な外交手法で、列強が抱く領土・植民地獲得欲を利用しながら、五大国間の勢力均衡を保つことで、ドイツの安全保障の確保を目指していたはずであった。しかしながら、ビスマルクといえども列強の領土・植民地獲得欲を完全に統御することはできず、思わぬ形で到来した外政面での危機に対処すべく「急場しのぎ」で同盟システムを構築したのである。たとえ「急場しのぎ」であったとしても、あれだけ複雑な同盟網を瞬く間に構築した彼の外交手腕は、確かにもっと高く評価されてしかるべきであろう。だが、それは本来彼が目指していたものではなく、内政面のみならず外政面でも、彼は自身の抱くイメージを完全な形で実現させることはできなかった点を見落としてはいけない。

1888年ヴィルヘルム1世死去を受けて、フリードリヒ3世が即位するが、在位99日で死去。

新皇帝ヴィルヘルム2世はロシアへの強い危惧の念を持ち、親露路線のビスマルクと対立。

1890年ビスマルク退陣。

ヴィルヘルム2世の「世界政策」はドイツを孤立化させ、第一次大戦の破局に至る。

歴史家のヴェーラーは「内政優位」の観点から、ビスマルクに代表される権威主義的・伝統的エリート支配層が、再保障条約を結びながら一方で保護関税を強化するなどロシアへ不確実性を思わせる態度を採ったため、すでにビスマルク外交で和解不可能な敵となってしまっていたフランスとロシアの接近を招き寄せた、その原因は国内が議会主義化しておらず、責任ある政治が確立されていなかったからだ、とする(私には、世論が国政に反映されていれば、より好戦的で国際協調に配慮しない外交政策が採られていたように思えてならないが)。

一方、「外政優位」の観点に立つ史家ヒルデブラントは、ビスマルクは第一次大戦に向かう動きに、その外交術で抵抗しようとしていた、欧州の中央部に位置するという地理的不利と帝国主義という時代潮流に対して、「充足した大国」として自制的態度を示し、平和を維持することがドイツの安全を保障すると考えたが、世論を含め周囲から受け入れられず、結果として「急場しのぎ」の同盟システムを構築する以外になかった、とする。

引退後、皇帝親政批判を暗に行いつつ、1898年に死去。

生前行った、ある演説での「我々ドイツ人は神を恐れるが、それ以外の何ものをも恐れない」との一節を、その後にあった「神への恐れから、すでに我々は平和を愛し育んでいるのです」という言葉を省いて引用するような、歪んだ崇拝神話に死後包まれる。

保守的価値を近代的手段で守護しようとし、状況の変化にすばやく大胆に対応する「術」には長けていたが、結局手段の方に振り回されてしまう展開になった生涯、と評されている。

 

 

古くはエーリヒ・アイク『ビスマルク伝 全8巻』(ぺりかん社)から、エンゲルベルク『ビスマルク 生粋のプロイセン人・帝国創建の父』(海鳴社)、ガル『ビスマルク 白色革命家』(創文社)、最近ではジョナサン・スタインバーグ『ビスマルク 全2巻』(白水社)などの伝記が出ているが、どれも大部なので、こういうコンパクトな本の方がとりあえずいいでしょう。

個人的生涯・内政・外交について過不足なく書かれた印象があって手堅いです。

良書。

安心してお奨めできます。

2017年4月20日

板橋拓己 『アデナウアー  現代ドイツを創った政治家』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:02

第二次大戦後、ドイツの「西欧化」を決定付けた政治家を描いた評伝。

内政面では自由民主主義を定着させた。

ヴァイマル共和国の人民投票的民主主義と価値相対主義を排し、代表制を徹底させ、民主主義を破壊する勢力には寛容を適用せず闘う姿勢を取り、首相権力を強化した宰相民主主義を確立。

外交面では「西側結合」路線を選択。

それまでのドイツ外交は、東西を股に架ける「ブランコ外交」や、東方ロシアと結ぶ「ラパロ外交」、中東欧を自己の勢力下に収める「中欧政策」が主流だった。

 

 

コンラート・アデナウアーは1876年ケルンの中級官吏の子として生まれる。

敬虔なカトリック信仰を持つ環境で育つ。

ケルンのカトリック教徒は比較的リベラルで社会改良的。

ウィーン会議後、ケルンを含むラインラントがプロイセン領になったことは、高校世界史の範囲内で既知のことでしょう。

アデナウアーが成長した頃には文化闘争も終息しており、自治権も強く、反プロイセン感情は強くなかったという。

ケルン名門一族の娘との結婚を機に出世、中央党の支持を得て、1909年ケルン副市長となり、第一次大戦中1917年に市長就任。

翌1918年ドイツ革命勃発、当初レーテ勢力抑圧を試みるが、情勢を見て、革命勢力と決定的に対立せず、かつ主導権を奪われないよう巧みに実務能力を発揮し、革命の統御と急進化阻止に成功。

戦後イギリス占領軍と良好な関係を築く。

ここでラインラント分離構想問題が出てくる。

この問題について、戦後の混乱期に、四つの立場が現れた。

(1)「併合」路線=フランスへの併合

(2)「分離」路線=中立の「ライン共和国」独立

(3)「自律」路線=ラインラントをドイツ国家内の一州としてプロイセンから分離

(4)現状維持=これまで通りプロイセンの一部に留まる

アデナウアーは(3)の立場だったが、(2)の勢力とも一時連携を図ったことがあるため、「分離主義者、売国奴、戦勝国の手先」との非難を受ける。

しかし、アデナウアーはラインラントのドイツからの分離ではなく、プロイセンからの分離を主張しただけであり、これによってフランスの対独恐怖に配慮し、それを和らげることができると考えた。

(2)の勢力との接触も、単に政治的考慮からで、自己の信念とは関係が無いとされている。

ちなみにアデナウアーの構想は、第二次大戦後、ノルトライン・ヴェストファーレン州成立で実現されている。

ヴァイマル共和国時代も継続してケルン市長。

市のインフラ整備、大学再建に努める。

ナチ政権よりも前に、ケルン・ボン間のアウトバーンを建設して成果を上げるが、やや放漫財政の傾向もあった。

政党では中央党に所属していたものの、党人色は強くない。

1921年賠償問題での組閣難で、アデナウアーに首相就任の打診が来る。

「相対的安定期」の1926年にも社会民主党から人民党までの大連立内閣での首班となる打診があった。

双方とも、アデナウアーが首相の絶対的人事権を主張したため、流れる。

1933年ナチ政権成立、首相就任1ヵ月にもならないヒトラーのケルン訪問時に出迎えをせず、市道のナチ旗を撤去したことを切っ掛けに市長を罷免。

ナチに迎合する一部カトリックや中央党を冷ややかに眺める。

翌34年レーム事件時に逮捕され、一時拘留される。

以後引退し、年金生活へ。

44年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件で逮捕され、収容所送りとなる。

生き延びたものの、終戦時にはすでに69歳であった。

米軍によって再度ケルン市長に任命される。

しかし45年6月占領軍がイギリス軍に替わると、それと衝突し10月に罷免。

結果的にはケルン市長の業務に没頭することを避けることができ、個人的キャリアにはプラスとなった。

政治信条としては、国家の神格化、物質主義、ナショナリズムへの傾倒を批判、政治におけるキリスト教倫理的基盤の回復を主張。

工業化・都市化による個人の「根無し草化」が物質主義を通じて国家と権力への崇拝を生んだ、マルクス主義もその一種であり、ナチズムとスターリニズムは同一の範疇に属するとする。

個人主義(というより人格主義の言葉を用いた方が適切かもしれないと著者は記す)を擁護し、徹底した反共主義を貫く。

ただ、ソ連を批判して「アジア的」と表現するのは、ドイツ人の悪い癖だなあと個人的には感じる。

戦後、カトリック・プロテスタントの枠を超えた超宗派的政党結成の機運が盛り上がり、45年7月ベルリン、ケルン、フランクフルトなどでキリスト教民主党(CDP)が結成される。

この地方レベルでの自生的な動きを全国レベルで組織化することが目指されるが、その過程でベルリン・グループ指導者ヤーコプ・カイザーらとアデナウアーの主導権争いが生じる。

45年12月キリスト教民主同盟(CDU)結成、アデナウアーは、綱領でキリスト教社会主義色を排除し、外交面でも東西間の架け橋を目指すとするカイザーらに反対。

ソ連占領地域において、共産党が社会民主党を吸収合併して成立した独裁政党、社会主義統一党(SED)の圧力でカイザーがCDU議長を解任され、ベルリン党の影響力が減退。

CDUとキリスト教社会同盟(CSU バイエルン州のみを基盤とする、より保守的な党派)が共同議員団を結成。

自由民主党(FDP)と北ドイツの保守政党ドイツ党(DP)と連携し、社会民主党(SPD)を排除することをアデナウアーは目指す。

1947年冷戦が進行し、トルーマン宣言とマーシャル・プランが発せられる。

48年2月チェコが事実上のクーデタで共産化、3月ドイツの西側占領区統合と西ドイツ国家創立決定。

同48年通貨改革とベルリン封鎖。

(憲法ではなく)暫定的性格の「基本法」制定会議議長にアデナウアーが就任。

占領軍との「特権的対話者」の位置を占め、ドイツ国内での調停者的立場の有利さも享受する。

1949年5月基本法採択。

首都はフランクフルト・アム・マインではなく、ボンと定められる。

ボン基本法にはヴァイマル憲法の反省が盛り込まれる。

ヴァイマル共和国時代、まず民意を正確に反映するとされた比例代表制が小党分立による政治の不安定化を招いた。

ナチ、共産党ら反議会主義勢力が過半数を占めると議会政治が麻痺し、人民投票に基づく強大な大統領権力に依拠した政権運営が行われた。

ボン基本法では、大統領は名誉職化し儀礼的存在とされ、さらに国民の直接投票ではなく議会による選出とされる。

「建設的不信任」制度を採用し、内閣不信任案の成立には、議会で後任内閣を支持する勢力を準備する必要を課し、議会解散も厳重に制限。

国民発案(イニシアティヴ)、国民票決(レファレンダム)など、直接民主主義制度を廃止。

「闘う民主主義」の立場から、「憲法敵対的」政党を禁止、共産党とネオナチ政党が実際に禁止判決を受けている。

首相の「基本方針決定権限」(65条)を制定、首相権限を強化。

基本法条項ではないが、選挙法において「5%条項」を定め、5%以下の得票率の政党には議席を与えず、小党分立による混乱を回避。

 

 

こういう施策を見て、どう思います?

「ドイツはナチスを生んだ反省から、第二次大戦後、より民主化した政治制度を採用した」と思いますか?

逆ですよね。

国民投票など直接民主主義的制度を退け、国家元首を人民の直接投票で決めることも止め、政治の安定化のため実質的権力者である首相の地位と権限を強化し、死票が増えることも厭わず完全比例代表制を捨て、結社・言論の自由を(たとえ一部たりとも)制限する。

戦後ドイツがやったことは「民主化の徹底」ではなく、「民主主義の制限」です。

そうとしか言い様がない。

狂信的な大衆運動がナチズムを生んだことへの反省から、そうした衆愚が政治に与える影響を少しでも抑止しようと、民主主義を、特に直接民主主義を制限したんです。

(政治的立場の左右を問わず、だが、最近では特に右寄りの)多数派民意を絶対視し、それをありとあらゆる問題に反映すれば、すべては解決すると考え、重要課題はすべてネットの国民投票で決めろと言う(残念ながら現在の世界、特に日本では圧倒的多数を占める)人間は、近現代の世界史と日本史から何一つ学ぶことができない、本来なら政治について何の発言権も持つべきではない愚か者です。

「いや、そんなことはない、戦後、我々は過去への反省から、民衆の意志を権力の正当性を保障する唯一の源泉と考え、民主主義を選んだんだ」というドイツ人がいたら、「今のご発言は、“我々は国民の51%が望めば、再び、断固として、ヒトラーに権力を与える”と私は解釈しますが、それでよろしいですか?」と問い詰めたいです。

 

 

1949年8月第一回連邦議会選挙が行われ、CDUは「社会的市場経済」を掲げ、SPD党首シューマッハーと対決し、勝利。

9月大統領にFDP出身のホイス就任、アデナウアーを首相として、CDU、CSU、FDP、DP政権樹立。

何より注意すべきなのは、この時点でのドイツ連邦共和国(西ドイツ)は主権国家ではないこと。

米英仏の高等弁務官が軍事・外交・最終警察権を留保し、外務省も建国時にはなく、軍隊もなし。

49年10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、大統領はピーク、首相はグローテヴォールだが、実質的最高指導者はウルブリヒトか。

首相となったアデナウアーは「西側結合」外交を最重視し、西ドイツ主権回復とヨーロッパ統合を同時に追求。

本書ではここで『ドイツ再軍備』が薦められている。

50年5月仏外相シューマンと計画庁長官ジャン・モネが立案したシューマン・プランが提出され、同年6月勃発の朝鮮戦争がもたらした危機感の中、51年欧州石炭鉄鋼共同体条約調印、欧州統合の第一歩が踏み出される。

安全保障面では、50年10月仏首相の発案によるプレヴァン・プラン発表。

「欧州防衛共同体(EDC)」を設立し、その統制下で西ドイツの再軍備を行うというもの。

このEDCは、「失敗し、成立しなかったことが重要史実である」という珍しい例。

高校レベルでは出てこないが、初歩的な国際政治史では必ず出てくる。

西ドイツ内での再軍備議論が激しくなり、内相ハイネマンは再軍備に反対し辞任(のちにSPD入りし、1969年には大統領となる)。

「ブランク機関」が設けられて再軍備の研究・準備が進行、それが国防省となる。

51年外交権回復、外相はアデナウアーが兼任。

ドイツの復興と西側陣営の結束を見たソ連は52年スターリン・ノートを提示。

東独の共産主義政権を事実上放棄し、ドイツの再統一を容認する代償に、中立化を要求。

自由選挙と国防に必要な軍事力を容認するもの。

これは西側への揺さぶりや「平和攻勢」ではなく、真剣な取引の可能性があった。

空想的平和主義者や親共主義者ではない、現実主義者からも交渉を主張する人々がいた。

与党内のカイザー、ブレンターノらもそれを支持。

だが、ソ連崩壊後の最近の研究では、「西側同盟内で再軍備した西ドイツよりは、東ドイツを犠牲にしてでも、再軍備した中立・統一ドイツをソ連は好んだ」という主張は支持されず、この時点でドイツ再統一の好機を逸したとは考えられていない、と書かれている。

ただ、アデナウアーの方針が正しく、ソ連の意図を見抜いたのではなく、自身の見解に固執しただけ、との評も記されている。

53年訪米、アイゼンハワー政権の国務長官ダレスと意見一致。

同年スターリン死去、東ベルリン暴動が起こり、対共産圏強硬姿勢への支持が高まり、第二回議会選挙で圧勝。

基本法の連邦権限に国防義務を補充。

54年仏議会が上記EDC批准を拒否、英外相イーデン(第二次チャーチル政権)の主導で、48年調印のブリュッセル(西欧連合)条約に独伊を加入さた上で、パリ協定を締結、西ドイツのNATO加盟と主権回復を達成(ただし統一とベルリンについての権利と責任は留保)。

西独は核・生物・化学兵器を条件付きで放棄。

55年国防省設立、外相にブレンターノ就任。

同年東側ではワルシャワ条約機構設立。

フルシチョフ政権はドイツ統一と中立化よりも、ドイツ分断固定化と東ドイツの維持・安定化を目標とするようになる。

55年アデナウアーはソ連を訪問、国交を樹立。

外務次官の名を取ったハルシュタイン・ドクトリンを採用、(ソ連を例外として)東ドイツと外交関係を持つ国とは断交するとの方針。

57年対ソ和解したユーゴスラヴィアが東独を承認すると、断交を実施。

同年ザールラントが復帰し、独仏間の懸案が取り除かれる。

ベルギー外相スパークの提案でさらなる欧州統合が計られ、原子力問題での自立性や米英協調志向の経済相エアハルトらの反対を押し切り、アデナウアーは57年欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(ユーラトム)条約調印(翌年発効)。

イスラエルとの和解の一歩へも踏み出し、52年ルクセンブルク補償協定に調印、イスラエルとユダヤ人団体への補償を行い、イスラエル首相ベン・グリオンと協力、56年スエズ戦争時、ダレスの要請にも関わらず支払いを停止せず(それぞれの後任、エアハルトとエシュコル間は関係が険悪であった)。

ただ、ドイツ人の集団的罪責は否定し、ドイツ人もナチの被害者と位置付ける傾向があったとの批判も受けた。

外交面での華々しい活動に比して、内政面では閣僚・議会任せの感もあり。

宰相民主主義と呼ばれる、首相権力の安定化・強化に努力。

それに協力した首相府次官グロプケは、実は悪名高きニュルンベルク法の注釈を書いた人物であり、一部で非難を浴びた。

これはやや暗い名だ。

CDU組織の脆弱さを逆に利用、調停者として自己の権威を高めることに成功。

DPなど右派小政党を吸収。

反共の立場のSPDを、やや不当にも反マルクス主義宣伝で批判。

50年代奇跡的経済成長を達成、社会保障制度を整備。

57年第三回選挙でも圧勝。

後継者として台頭した経済相エアハルト(より自由主義経済の原則に忠実な専門化タイプ)と対立。

59年大統領ホイスが任期満了、ホイス三選を目論むが失敗、次にエアハルトを大統領職に祭り上げようとして失敗、さらにはアデナウアー自身が立って閣議への参加権などを定め、大統領が実質的権力を持つという、かつて自身が禁じていた方針を目指し、さらに失敗、権威を失墜させる。

結局農相リュプケが大統領就任。

58年ド・ゴール政権成立、第二次ベルリン危機、米英ソの頭越しの妥協を恐れ、それを牽制するため独仏枢軸路線を採用。

61年ケネディ政権誕生、ベルリンの壁構築、第四回選挙で辛勝。

米国との懸隔が生じ、独仏枢軸による一定の対米自立を目指す「ゴーリズム」と対米協調を最重視する「大西洋主義」のうち、前者を選択。

SPDは59年バート・ゴーデスベルク綱領を採択、マルクス主義と絶縁、国民政党として政権担当能力を示す。

62年NATO機密報道をめぐって雑誌『シュピーゲル』編集長らを逮捕、この事件で一時FDPが連立離脱。

63年エリゼ条約(独仏友好協力条約)調印。

同年ド・ゴールはナッソー協定(米潜水艦ミサイルの対英供与)を批判し、英のEEC加盟を拒否。

しかしエリゼ条約も一部修正され、結局「EEC=NATO体制」を大枠で確認するものに留まる。

同63年アデナウアーは首相を辞任、67年に死去。

 

 

最後にアデナウアーの西側結合の永続性についての評言。

ブラント政権の東方政策は「中欧路線」という伝統と「西側結合」との統合と言えるが、ドイツにとって西側との協力はもはや「国益」を超えた「国家理性」となった。

内政で、国民をあまり信用しなかったアデナウアーが権威主義的とも言える指導によって基本法秩序を安定させ自由民主主義を定着させた。

ドイツの歴史問題について、内心ではナチへの集団的罪責を認めていた面もあるが、それへのナショナリズムの反動を恐れ公にはせず。

しかしそれでも「過去の克服」の出発点を築いた、と著者は評価する。

そして著者は、本書末尾で、自国民のナショナリズムを煽り、迎合する「保守」政治家がのさばる日本へのやり切れなさを記している。

これは、政治史研究者としては失格の、時代も国際環境も無視した稚拙な所感だが、そう思ってしまったのだから仕方ない。

昔の私なら反発していたであろう記述だが、今の余りに酷い世論状況を見ると、そんな気持ちも無くなります。

 

 

非常に良い。

コンパクトながら、内容は極めて充実している。

初心者にとって有益な知識が吸収しやすい形で配されている。

『アデナウアー回顧録 1』『同 2』を以前紹介しているが、入手も通読も困難なので、本書を読んだ方がいいでしょう。

効用の高い入門書として十分お勧めできます。

2016年5月20日

徳善義和 『マルティン・ルター  ことばに生きた改革者』 (岩波新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 15:57

こういう超有名人でも、手頃な、いい伝記というのはなかなか無いものです。

私が最も感心したのは、モンタネッリ『ルネサンスの歴史』下巻に記されているルター伝だが、2012年にこれが出た。

著者は1932年生まれで、ルーテル神学校を卒業、ルター著作集の共訳者だそうです(お名前の漢字が全部いい文字ですね)。

1483年マルティン・ルターはハンス・ルダーの子として生まれる(父親はルダー姓、改革者として立ち現れた頃からルターの名を使用するようになる)。

ドイツ中東部のザクセンおよびテューリンゲンで主に活動。

農民から鉱夫を経て実業家にまでなった父の期待を受けて法学を修めるが、突然修道士となる。

1517年ザクセンのヴィッテンベルク大学で「九十五箇条の提題」を発表、宗教改革の烽火が上がる。

1521年教皇に破門されるが、当時ザクセンで発達していた鉱業を管理する宮廷顧問官など、ドイツの新興官僚ら勃興しつつあった社会的諸勢力の支持を受け、ローマ教会への抵抗を続ける。

結果、ローマ・カトリック一色だったヨーロッパ世界が、主に四つに分裂。

カトリック=フランス、イタリア、スペイン、アイルランド、ドイツ南部、オーストリアおよびポーランド、チェコ、ハンガリー。

ルター派=北ドイツとデンマークおよびスカンジナヴィア諸国。

カルヴァン派=オランダ、スコットランドおよび西ドイツの一部。

英国国教会=イングランド。

高校世界史の範囲内だが、この宗教改革後の宗派別色分けは、すぐ頭に浮かぶようにしておいた方がよい。

まず宗教改革の代表格であるルター派の範囲が実は余り広くないことをイメージしておく。

結局プロイセンを含む北ドイツと、そこから北に向かってデンマーク、スウェーデンの北欧諸国のみ。

カルヴァン派も、フランスのユグノー、イングランドのピューリタンという極めて強力な少数派を形成したが、一国の国教的地位を占めたのはオランダとスコットランドだけ。

だが後にアメリカ合衆国という巨大国家の多数派教派となる。

で、この範囲外、バルカン半島南部とロシアはもちろんギリシア正教会の管轄。

プロテスタント勃興により、古代の教父ヒエロニムスによるラテン語訳「ウルガタ」聖書(元々旧約はヘブライ語、新約はギリシア語[コイネー]で編纂)の解釈を教会が独占し、民衆の精神生活がその庇護下に置かれていた中世時代は終焉、人々が母語に翻訳された聖書を通じ、直接神に向き合う時代が訪れた。

以下、ウォルムス喚問で皇帝に対し、神と自らの良心の名の下に、敢然と反抗したルターの決断について。

ヨーロッパの近代は、思想的には、個人の人格、主体性、信念や信条を尊重することを基本に発展したが、ルターのこの発言はその先駆けとなったともいえるだろう。ただし、ルターの言う「良心」とは、神という絶対的な存在を前にしての良心であって、近代の思想家たちが考える、人間を主体とした良心とは異なることに注意が必要である。ルターには、人間は罪を犯さざるをえない存在であるという認識があった。そういう存在である人間の良心は、自ら善きものになれるものではなく、神のことばにとらえられることで初めて善きものになれる。ルターの回答の最後、「神よ、私を助けたまえ」という言葉は、そのことを語っているのである。

この結果をどう見るか。

贖宥状の乱発に象徴されるように、当時の教皇庁の堕落が目に余るものだったことは疑い得ない。

しかし、カトリックという普遍的教会の束縛を脱して、新教の各派教会に属すると、あるいは教会という媒介無しに個人として存在するようになると、後には信仰や良心自体を投げ捨てるようになったのが、近現代の民衆なわけです。

主観的には真摯な信仰から発したものであっても、結局宗教改革は近代の世俗主義が蔓延る契機になってしまったという印象が強い。

そうなると、プロテスタントの誕生自体をなかなか肯定的に見ることができなくなってしまった。

フランスはカトリックに留まりつつ、ローマ教皇と政教協約を結び、独自の国教会に近いものを作り上げているが、せめてそのくらいに収まらなかったものかと、やや無責任だが、そう感じてしまう。

ルターのドイツ語著作が、新発明の活版印刷によって史上初のマスメディアとして機能したと書かれてあるのも、嫌な感じです。

情報技術の発達について、活版印刷は宗教戦争を、新聞は帝国主義戦争と共産主義を、ラジオはファシズムを、テレビは先進諸国の衆愚社会化をもたらしたと言える。

ではインターネットは、となると怖くなってくるので、考えるのは止めておきます。

ルター自身が、後世破滅的な結果をもたらしたものの萌芽で苦しんでいる。

聖書の言葉に縛られず、自らの意思が神の霊と直結していると考え、自身の行為を絶対化する「熱狂主義者」である。

ヴィッテンベルク大学の同僚で急進派のカールシュタットは、ルターの権威で押さえ込むことができたが、1525年ドイツ農民戦争が勃発。

・・・・・見解を求められたルターは「勧告」を執筆し、まず諸侯の責任を指摘し、中立、公平な仲介者を得て、事態の平和的な解決に努めるように求めた。ルターの主張は、キリスト教の名の下に社会的要求を掲げてはならないこと、ただし農民たちの要求の中には正当なものもあるので、諸侯はこれを認める努力をすべきこと、事態の解決に当たって実力行使は行ってはならないことなどであった。

ところが、状況は急激に悪化し、一揆は一気に暴動状態へとエスカレートしていった。急転回する事態に対応できず、荒れるに任せていたなかで、ルターは急遽、『農民の殺人・強盗団に抗して』を執筆して、暴徒の鎮圧を諸侯に求める。かつてヴィッテンベルクの騒乱に直面した際には、「力によらず、ことばによって」の基本に立ち、事態を平和的な解決に導いたルターであったが、このときは、信仰においては一切妥協しないという厳しい一面を見せた。ルターにとって、福音の名の下、暴力によって要求が押し進められるのは、認め難いことだったのである。

よく批判的に言及されるが、このルターの態度自体は非難に値するとは思えない。

こうしか仕様が無いと思える。

しかし、以下のユダヤ人に対する態度には首を傾げる。

ユダヤ人のキリスト教への改宗は、ルターの生涯の課題であった。・・・・・かつてローマ・カトリック教会が支配していた時代には、キリストの福音は正しく教えられていなかった。だから、ユダヤ人はキリスト教に改宗するのが困難だったのだ。このように論じるルターは、ユダヤ人として生まれたイエス・キリストの説いた福音が、宗教改革によって明らかにされた以上、ユダヤ人もいまやキリストの教えの下に身を寄せることができるだろうと説く。

「いやいや、そんなわけないでしょう」と思わず言いたくなる。

実際には改宗者はほとんど生まれず、ルターは反ユダヤ的発言を残し、それが後世ナチに利用されることになってしまう。

ルターの教義内容については、以下の文章のみを引用しておく。

ルターの宗教改革的発見は、聖書を人間に実現可能な掟の書として見ないと捉えたことになる。律法のことばは、人間を自分の弱さに徹底的に直面させる。ルターは絶望のどん底の中で、ようやくそのことに気づかされた。そして、その絶望のふちから、聖書のもうひとつのことばである「福音」へと一挙に反転跳躍する。律法から福音へ。この転回運動が人間に救いをもたらすのであり、キリストがその死と復活によって、すなわち十字架によって人間に示したことである。ルターは聖書のことばとの格闘から、そういう理解に到達したのだった。

こうして聖書の読み方が変わった。対照的、対立的に捉えれば、伝統的な教会の読みは人間の能動的な行いを強調し、ルターの読みは人間の受動的な受け入れを強調したといえるだろう。強調点の置き方は異なっても、律法を福音と並んで重視する点では、伝統的な読みも、ルターの新しい読みも、なんら変わるところはない。ルターの読みが画期的なのは、律法に注目して人間の行いを重視するあまり、福音を見失っていた伝統的な読みの道すじを一八〇度逆転させたことであった。律法による絶望の下で、福音は新しく姿を現す。神はこの道を、キリストによってすでに備えていた。ルターによる発見が、「福音の再発見」と呼ばれる所以である。

以上の文章の通り、だから教会の教えに従う能動的行為を強調する点で、カトリックの方が人間の自由意志の重要性を認めているという見方ができるわけである。

1546年、ルターは死去。

同年シュマルカルデン戦争勃発。

1555年アウグスブルク(アウクスブルク)の宗教和議を、ルターは知ることがなかった。

 

 

悪くはないんですが、ちょっと物足りない。

決定版伝記という感じはしない。

もっと詳しい内容が欲しいところだが、その分読みにくくなるか。

まあ普通です。

2015年11月30日

大澤武男 『ヒトラーの側近たち』 (ちくま新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 01:55

2011年11月刊。

『ユダヤ人とドイツ』『ヒトラーとユダヤ人』(講談社現代新書)などの著書あり。

冒頭、ヒトラーの生い立ちなどは省略して、いきなり第一次大戦従軍時の描写から入る。

表題の側近たちのうち、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラーなどを除き、あまり知られていない人名をメモする。

ヘルマン・エッサー(1900~81年)=最初期の従者的側近。

ディートリヒ・エッカルト(1868~1923年)=父親的存在の右翼思想家。

エルンスト・ハンフシュテングル(1887~1975年)=上層階級との人脈づくりに貢献した協力者、のちにヒトラーと対立し1937年イギリスに亡命。

女性では、パトロン的存在のベッヒシュタイン夫人とブリュックマン夫人、リヒャルト・ワーグナー未亡人コージマ、長男ジークフリートと結婚していたヴィニフレットなど。

人種主義思想家H・S・チェンバレンはワーグナーの女婿、元イギリス人のコージマはジークフリート死後ナチに急接近する。

フォン・エップ=中将の右翼軍人、ナチに入党、その最初期の国会議員になる。

ヴィルヘルム・フリック=ヒトラー内閣成立時の内相。無任所相兼プロイセン内相のゲーリングと並んで数少ないナチ閣僚。授権法など法的正当性の外面的形式的維持に努めるが、のちの完全なテロ支配に抵抗できず、法務官僚は後退する。

ナチ政権初期の旧体制出身協力者として、国防相のブロムベルクと外相のノイラートはチェックしておく。

経済政策成功に貢献したシャハトも(本書91ページに「自由民主党[DDP]創立者の一人と書かれているが、ドイツ民主党では? 自由民主党だと戦後の政党になってしまう)。

帝国銀行総裁と経済相を兼任。

36年四ヵ年計画に反対し37年経済相、39年総裁辞任、1944年7月20日事件(ヒトラー暗殺未遂)で逮捕、1970年没。

1938年ズデーテン危機に際して、保守派のクーデタが計画され、陸軍参謀総長ベック、後任のハルダー、陸軍最高司令官ブラウヒッチュ、外務次官ヴァイツゼッカー(戦後大統領の父)が加わるが、ミュンヘン会談後腰砕けになる。

とは言え、カイテル、ヨードルらの盲従にも関わらず、軍から反ヒトラーの動きが生まれた。

ナチの恐るべき所業としてホロコーストのほかに、身体・精神障害者と遺伝病保持者に対する安楽死政策が挙げられるが、それを39年戦時突入後実行したのはボウラー総統官房長官。

41年8月ミュンスター司教ジョン・ガーレンがこれに勇気ある糾弾を加え、停止させる。

「ユダヤ人問題の最終解決」としての大量虐殺の実行者としてヒムラー→ハイドリヒ→アイヒマンの系統は憶えておくべき。

42年6月のハイドリヒ暗殺後の後任はカルテンブルンナー。

シュペー(ア)=軍需相。統制経済組織者としては極めて有能で、41年生産の戦闘機9540機、戦車2900台を44年には35350機と17300台に高めたが、燃料の不足からその効果も減殺され敗北に繋がる。

経済恐慌で国民の不満が異常に高まり、最も大衆に受け入れられ易いデマゴギーを駆使できた極右過激派が進出。

特に目立つのが若年層の暴走。

自身の経験や歴史を参照する姿勢に乏しく、易々とナチの宣伝活動の餌食となる。

またナチス自体も、政権獲得時の側近たちの平均年齢が40歳を少し上回る程度だった。

 

 

山ほどあるナチ、ヒトラー関連本の一つで、ありきたりの著作だろうと全く期待していなかったが、そこそこ良かった。

教科書レベルの次に読むのならコンパクトで適切。

『ヒトラーの共犯者』などを読む前の準備としてはいいかも。

ただし、あとがきで東日本大震災以後の日本について、ドイツは迅速な政策決定を行っているとしつつ、日本の政治家と官僚の無能をかなり一方的に非難しているのが気になる。

確かに見方によってはそういう面もあると言えるんでしょうが、よりによってナチについての本で、群衆心理に基く「決断主義」を煽りかねない文章を書くのはどうかと・・・・・・。

それ以外では特に違和感無し。

ごく普通の出来の入門的啓蒙書です。

2015年10月6日

牧野雅彦 『ロカルノ条約  シュトレーゼマンとヨーロッパの再建』 (中公叢書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 15:33

『ヴェルサイユ条約』(中公新書)と同じ著者で、その続編的作品。

アメリカ主導のヴェルサイユ体制に対し、独仏共同で生み出したロカルノ体制は、ドーズ案という経済的後ろ盾は依然米国に頼っていたものの、通説では大恐慌襲来後もラインラント進駐まで約十年間存続した。

そのロカルノ前史から崩壊までのヨーロッパ史を、独のシュトレーゼマンと仏のブリアンという二人の政治家を中心に描く。

 

 

アリスティド・ブリアンは1862年ナント生まれ。

戦闘的サンディカリストとして政界入り。

1899年ワルデック・ルソー内閣で、社会主義者がブルジョワ内閣に入閣することの是非をめぐるミルラン問題が論争になり、ジャン・ジョレスは入閣支持、ジュール・ゲードは反対、ブリアンはジョレスを支持。

1905年ブリアン主導で有名な政教分離法制定、仏とヴァチカンとの政教条約破棄、宗教団体への公的補助禁止、しかし修道会の教育からの完全排除と修道院そのものの解散は避けられる。

ブリアンは社会主義から離れつつ、1906年クレマンソー内閣の宗務大臣からのちに法相を務め、1909~11年には早くも首相になっている。

(フランスは社会主義者の穏健化がスムーズに進んだ印象があります。)

1913年ポワンカレ大統領の下でも短期間首相を務め三年兵役法を推進、大戦前夜に「主戦論者」との非難を受ける。

大戦中、1915年10月~17年3月首相在任。

辞任後、「ランケン事件」という対独講和秘密交渉に関わる(ランケンは独外交官の名)。

ブリアンはアルザス・ロレーヌ併合と懲罰的でない額の賠償を要求する代わりにライン左岸には手出しせずとの条件を主張、一方ドイツ側はアルザス・ロレーヌの一部割譲承認を提起したという。

こういう交渉も戦時における狂気に近い好戦世論の前ではあまりに無力だったんでしょう。

首相クレマンソーは、カイヨー元首相を逮捕することまでして講和派を弾圧、1918年大戦に勝利。

20年ポワンカレ大統領任期満了、クレマンソーが出馬、これにブリアンは反対しカトリック勢力の支持も取り付け、クレマンソー当選阻止。

仏第三共和政の大統領は本来名誉職的扱いだが、ここでクレマンソーが勝利していれば、その変質もあり得たと著者は評している。

右派のミルラン「国民ブロック」政府をブリアンも支持。

ミルランが大統領に選出されると、強硬派のポワンカレは英国との協調の点で難があり、ブリアンが21年1月から22年1月首相となったが、ブリアン自身もこの時期は対独強硬派。

賠償問題・ポーランド国境問題で報復的立場を採る。

ワシントン会議に参加するが、米国は海軍軍縮と東アジア問題にのみ集中しヨーロッパへの積極的関与を拒否、英国もライン流域安保には貢献の意思を見せるが中東欧国境維持へのコミットメントは避け、ソヴィエト政権はドイツとラパロ条約を結び孤立からの脱出を図る。

結局、戦後の敵愾心に駆られた対独強硬論は行き詰まりを見せ、ラパロ後首相を辞任したブリアンは違う対応を迫られる。

 

 

グスタフ・シュトレーゼマンは1878年ベルリンのプロテスタント中産階級の家に生まれる。

左派自由主義を奉ずるフリードリヒ・ナウマンの国民社会連盟に一時参加、実業界団体での活動を経て、国民自由党(ビスマルクの統一事業を支持して進歩党から分離)に入党、議員当選。

シュトレーゼマンはあくまで国民的自由主義者で、帝政やプロイセン君主制への忠誠は副次的なものとされている。

戦時には併合主義的態度を採り、敗戦後成立した中道政党、民主党には参加せず。

元国民自由党の基盤から生まれた、ドイツ人民党を結成。

国家人民党と同じく、ワイマール共和国での代表的右派政党だが、反共和制的な国家人民党とは距離を置く。

内閣の順や政権与党の内容などはさすがに煩雑なので以下省略。

通史としては林健太郎『ワイマル共和国』(中公新書)という名著中の名著がありますので、そちらをご覧下さい。

屈辱的講和条約と莫大な賠償支払いを耐え忍ぶ「履行政策」への批判が高まり、エルツベルガーやラーテナウら政治家への極右勢力による暗殺事件も続発。

こうした危機的状況でシュトレーゼマンと人民党は過激団体を取り締まる「共和国保護法」に賛成。

ここで党内重工業グループを率いる大実業家のフーゴー・シュティンネスによる「私の見るところではラーテナウ暗殺は君主制を撃った」という言葉が紹介されているが、極右の暴力が巻き起こした危機感が「理性の上での共和主義者」を増やし、帝政の復活をかえって不可能にしたという力学は非常によく理解できるところだ。

22年1月成立した仏ポワンカレ内閣によって23年1月ルール占領、ワイマール共和国に一大危機が襲来する。

ルールは独仏国境の北部にある、エッセン・ボフム・ドルトムントが中心の地方。

これによる経済麻痺と超インフレ、極右・極左の地方政権成立と半内乱状態が勃発。

なお、この時点ではルールだけでなく、そもそもラインラントが戦勝国によって占領中だったこともチェック。

ここにおいて、8月シュトレーゼマン大連立内閣が成立、「受動的抵抗」を停止、レンテンマルク導入によるインフレ収束、極右・極左勢力の鎮圧を見事に成し遂げる。

なお地方の過激派政権抑圧に当っては「左に厳しく、右に甘い」という傾向が指摘されるが、著者はこれをやむを得ないものとしている。

続いてドーズ案で賠償問題も小康状態に。

ナチスと共産党はドーズ案に反対したが、国家人民党内で賛否が割れ、受諾が決まる。

なお25年には大統領エーベルトが死去、シュトレーゼマンはやや適切さに欠ける行動を採り、ヒンデンブルクが大統領当選。

ワイマール共和国大統領は通常は儀礼的役職だが、憲法上は能動的活動の余地も持っており、ヒンデンブルクが就任したのは結果としてシュトレーゼマンの失敗であるとされている。

とは言え、右派が共和政を受け入れる上でプラスになった面もあり、当初は悪影響は表面化せず。

外交では、ようやく国際協調の機運が盛り上がり、1925年10月ロカルノ条約調印。

英仏独伊ベルギーの地域的安全保障・西方国境現状維持・ラインラント非武装、ドイツと仏・ベルギー・ポーランド・チェコとの個別仲裁条約、仏・ポーランド間、仏・チェコ間の相互援助条約の総称。

ドイツは西方国境の維持を約したが、東方国境については平和的変更の可能性を残した。

このロカルノ条約を成立させた人々としては、英仏独各国の首相ではなく外相を記憶しておく。

シュトレーゼマンとブリアン、そしてイギリスのオースティン・チェンバレン。

英国はボールドウィン保守党内閣時代だったはずだが、仏独の首相パンルヴェとハンス・ルターは本書を読んでもすぐ出てこないし、憶えなくていいでしょう。

でもイタリアの首相の名前はわかりますよね?

 

「英仏独の首相の名前も知らんのに、イタリアの首相を知ってるわけがないだろ」という言葉が聞こえてきますが、いやそんなことないでしょう。

 

皆さん、絶対ご存知のはずです。

 

ほら、あの人物ですよ。

 

 

 

 

そう、ベニト・ムッソリーニです。

 

「ローマ進軍」は1922年、ムッソリーニはすでに政権の座について数年を経ています。

1920年代後半の国際協調の一角で、ムッソリーニのイタリアが堅実にその役割を果たしていたことは記憶する価値がある。

ドイツ内政の安定と国際的地位回復のために奮闘したシュトレーゼマンだが、左派社会民主党は最大の国民政党としての役割を自覚せず旧王侯財産・秘密再軍備・政教分離教育・装甲巡洋艦建造などの問題で彼の足を引っ張り、右派は右派でより露骨な利己的政策を主張、国家人民党では過激派フーゲンベルクが党首に就任、伝統への忠誠ではなく排外的ナショナリズムを優先させナチと共闘、保守派とドイツ全体を破滅の道へと誘い込むことになる。

29年暫定的なドーズ案に替えて提出されたヤング案に右派は反対闘争を展開、シュトレーゼマンは、現状のままに危機が再来すれば中間層の消滅とコンツェルンと隷属的人間が生まれるのみ、そして自分の代わりにヒトラーのような人物が台頭するだろうと反論したが、この警告は空しかった。

シュトレーゼマンは同年10月死去。

大恐慌襲来後、30年からドイツは、中央党出身のブリューニング「大統領内閣」時代に入り、31年苦し紛れにオーストリアとの関税同盟を発表するが、根回しなしの突然の公表に仏は猛反発し、計画は頓挫、独仏協調は崩壊する。

内政ではブリューニングの緊縮財政・デフレ政策が恐慌を深刻化させナチを台頭させたとの批判もあるが、賠償問題解決のため、あえて不況と支払い不能状態を諸外国に示す意図もあった、さらに当時のドイツ財政で積極的なケインズ政策の余地がどれだけあったか疑問だと著者は書いているが、後者はあまり首肯出来ない意見のように感じた。

ブリアンも国際連盟での満州事変処理を最後の仕事にして、32年3月死去。

 

その後の展開について。

35年の英独海軍協定は宥和政策の端緒として評判が悪いが、これはロカルノ諸国が再軍備宣言を行ったドイツを地域的安保の枠組みに引きとめようとする試みと解釈できる、とされている。

一般的に36年ラインラント進駐によってロカルノ条約は破棄されたと見なされるが、これ以後もオーストリアをめぐる対独牽制体制として変容しつつロカルノ体制は機能していたと著者は書く。

ただ、これはイタリアが反独陣営に留まっていることが大前提となる。

1938年、イタリアの黙認に基く、オーストリア併合と独伊枢軸確立によって、ロカルノ条約体制は完全に崩壊したと本書では評されている。

 

「あとがき」で、著者は前著で描いたウィルソン米大統領に好感を持てないと書いていた(私はむしろ著者の記述を読んで逆にややウィルソンを見直したのだが)。

どのような理想を奉じていようとも、額に青筋を立てたり眉間に皺を寄せた指導者を国民の多数が支持するという事態は、それが合衆国大統領であれ一九三三年の独裁者であれ、国民にとってあまり幸福なことではない。

 

 

 

読みやすく面白い。

脚注にも有益な情報と批評が含まれているのは前著と同じなので、飛ばさず読んだ方が良い。

巻末の年表も詳しい上に見やすいので便利。

ロカルノ条約という単体の歴史的出来事ではなく、戦間期の詳しい通史として使える。

『ワイマル共和国』との併読を薦める。

2015年7月31日

三宅正樹 新谷卓 石津朋之 中島浩貴 編著 『ドイツ史と戦争  「軍事史」と「戦争史」』 (彩流社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 05:35

軍事史より広義の概念の戦争史の上に立った論文集。

第一部は、統一戦争から冷戦までの通史。

第二部は、戦争史と思想家・戦略家。

第三部は、軍組織と陸海軍概説。

第四部は、トルコ・中華民国・日本などへの世界的影響。

 

第一章。

対デンマーク、オーストリア、フランスとの戦争をまとめて統一戦争と呼ぶ。

普仏戦争は最近では独仏戦争という表現が強調される。

エムス電報事件ではプロイセンだけでなく全ドイツ的憤激とナショナリズムが巻き起こった。

統一後、軍事予算審議は7年に一度だけ(七年制予算)となり、通常これは議会の敗北とされてきたが、逆に兵員数が固定化され増員が難しくなり、仏露に対して常備兵力劣勢の傾向。

また、参謀本部の役割がこれまでは強調され過ぎてきた、皇帝・軍事内局・陸軍省も重要であると書かれている。

全般的に、軍国主義=プロイセン→ナチズムという単線的な見方は本書では批判的に捉えられている。

軍の政治介入より、国家・社会で軍事的価値観を受容する普通の人々の心性こそが重要。

第一次世界大戦直前、陸軍増強を主張する小モルトケに対して、ヴィルヘルム2世と陸軍省は反対した。

なぜなら貴族や上層市民以外から将校・下士官を採らざるを得なくなり、軍が「民主化」される危険があると考えたから。

実際そうなった。

そこから極右的ナショナリズムとナチズムが生まれた。

戦争と社会的平等は親和的である。

 

第二章。

第一次および第二次大戦についての、望田幸男氏による手際よい記述だが特にノートすべき点は無し。

 

第三章。

冷戦について。

この章は『アデナウアー回顧録 Ⅰ』『同 Ⅱ』『ドイツ再軍備』のよい復習になる。

西ドイツ再軍備関連のキーパーソンとしてシュパイデル、ホイジンガー、ブランクなどの人名を軽くチェックしておく。

 

第四章。

リュヒェルとシャルンホルスト。

シャルンホルストは(ビスマルクやフリードリヒ2世と異なり)ドイツ史において常に肯定的に評価されてきた。

有名なプロイセン軍制改革の前、1806年以前の改革を主導したのがリュヒェル。

これまでクラウゼヴィッツのリュヒェルへの酷評が定着していた。

イエナ・アウエルシュテットの戦いでナポレオンに大敗したこともあって、この以前のリュヒェルの改革は全く評価されてこなかった。

しかし、シャルンホルストとリュヒェルは実は互いに評価し合っており、共通点も多い。

以下、リュヒェルの言葉。

国家を構成する者は誰にでも、それぞれの分に応じた持ち場があり、それは必要という強い法則によって守られています。各人がそれぞれの持ち場でなす功績にしたがって、全体の幸福のためには誰もがなくてはならない存在なのです。玉座からあばら屋にいたるまで。

私は今、玉座からあばら屋にいたるまでといいましたが、それは異なる階層のすべての――法則にしたがえば、それは自由ではあるが平等ではない、それどころか不平等にならざるをえない――位階を表現したいためでありまして、それらの諸階層による相互扶助によって、国家の幸福はもたらされるのです。

至極真っ当な認識だ。

こういう見識が平板な平等主義に批判・否定され、大衆社会のカオスに陥り、そこから生まれたのがナチズムだ。

シャルンホルストは無能な貴族への憤りをもちつつ、既成の諸身分と社会階層をある程度前提にした国民統合を構想。

その前提には彼のフランス革命に対する幻滅があった。

シャルンホルストとリュヒェルには確かに違いがあるが、その距離は極端に遠いものではない。

シャルンホルストはその軍制改革において、教養層に農民・下層市民の模範を求めた。

「既存の身分的隔たりに対して教養を軸にした新たな社会的隔たりを敷設する」。

こうした認識はリュヒェルの啓蒙専制主義との共通性を持っている。

 

第五章。

モルトケとシュリーフェン。

18世紀から19世紀にかけて、社会的上層部のみが主導する「官房戦争」から、ナショナリズムを通じ全国民を巻き込む「国民戦争」への移行。

フランス革命が国民戦争を生み、ウィーン体制下では官房戦争に止まるが、普仏戦争で再び国民戦争化。

官房戦争に指導力を発揮したモルトケが国民戦争に翻弄され十分な解決策を見い出せず。

「平和を脅かすものはもはや君主の野心ではなく、各国の国民の世論であり、国内状況についての不安であり、とりわけそれらの代表者である各党派の煽動である。」

モルトケがこうした透徹した認識を持っていたにも関わらず、矯激で野蛮なナショナリズムに火をつける危険性を無視して、普墺戦争でウィーン入城や普仏戦争でアルザル・ロレーヌ併合を主張したのは思慮に欠けると言わざるを得ない(前者は未遂に終わったが)。

加えて対仏予防戦争の主張も。

これがシュリーフェン、小モルトケに悪影響を与える。

そしてシュリーフェン論争について。

「シュリーフェン計画」は実在したか?

ちょっと論旨が読み取りにくい。

計画自体は存在し、第一次大戦後、ドイツ軍国主義の象徴的表れとして批判の的になった。

一方で、勝利を確実にする完璧な軍事計画だったのが、小モルトケの不手際によって骨抜きにされドイツ敗北に繋がったとする見方も事実とは言い難い。

結局、批判派も擁護派も計画の意義を過大評価しているのではないか、ということか?

 

第六章。

ルーデンドルフの戦争観。

ヒンデンブルクと並ぶ第一次大戦の「国民的英雄」。

大戦末期の軍部独裁の主導者。

大戦後には極右勢力と結び、ヒトラーのミュンヘン一揆にも参加。

1937年死去したが、最晩年にはナチスと距離を置いていたという。

その総力戦理論は戦争指導から政治的要素を放逐し、「戦争は政治の一手段」というクラウゼヴィッツの思想を倒立させてしまっていると評されている。

 

第七章。

ドイツ陸軍。

一般兵役義務と国民意識形成についての学説紹介。

 

第八章。

ドイツ海軍。

この章では19世紀末からの英独建艦競争以前の発展について。

当初の仮想敵国はデンマーク。

日清戦争での北洋艦隊主力の「定遠」「鎮遠」もドイツ建造。

ドイツの海軍と言っても、一般的に全くイメージのわかないこの時期だが、過小評価はできないと主張。

 

第九章。

イギリスから見た英独建艦競争。

この建艦競争は、イギリスにおいては、多分に「ドイツの脅威」を政治利用し世論を煽動するために起こったという側面が大きい。

急進的軍人がジャーナリズムへの暴露を繰り返し、ドイツと同じプロパガンダで「海軍恐怖」を煽った。

正直イギリスですらこうなのかと幻滅を感じた。

実際には正確な戦力把握、適切な示威行動、着実な建造(「ドレッドノート」級戦艦[1905年~])によって、1912・13年には英国が競争に勝利していた状況だった。

 

第十章。

ドイツ空軍。

1935年再軍備宣言と共に成立。

初代参謀総長ヴェーファー(用兵)、航空次官ミルヒ(造兵)。

36年ヴェーファー事故死。

ゲーリングが司令を務めたが軍で最もナチ的とは言い難い。

途中、「ユダヤ系のミルヒ」という我が目を疑う記述があった。

その他、戦略爆撃と戦術空軍の相克について。

 

第十一章。

メッケルと日本帝国陸軍。

戦時中の著作から生まれたメッケル神話の歪み。

1885~88年陸軍大学校で教鞭を取り、その功績大、本人も後々まで日本からの留学生を支援し日本に親近感を持っていた。

しかし明治十年代末から二十年代初めにかけては他のドイツ人教官も同じ位評価されており、教授内容もドイツ兵学の高度なものではなく、基礎に過ぎない、そして当時の日本陸軍のレベルは実際その程度だったと評されている。

 

第十二章。

コルマール・フォン・デア・ゴルツとオスマン帝国陸軍。

アブデュルハミト2世に招かれた軍事顧問団。

(大モルトケもかつてオスマン帝国に勤務。)

1897年希土戦争勝利への貢献。

スルタンによる改革妨害と教え子による1908年青年トルコ革命。

第一次大戦では同盟国側指揮官としてドイツ顧問活動。

 

第十三章。

アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンと中華民国陸軍。

義和団事変に従軍、1930年に退役した軍人。

ワイマール共和国時代には右翼政党、国家人民党とその関連団体鉄兜団に加入するが、両者がナチと協力するようになると脱退。

1932年8月当時国防相でヒトラーを利用しようとしていたシュライヒャーに反ナチの立場を採るよう説得。

ナチの表面的ナショナリズムに騙された保守派(ナチについてのメモ その5参照)にならずに済んだことは注目と称賛に値する。

1928年よりドイツから中華民国へ軍事顧問派遣、ファルケンハウゼンもゼークトの後任として軍事顧問に就任、日中戦争が勃発すると対日戦を指導。

(義和団事件時を例外として、ドイツの東アジア政策は[外務省・軍ともに]ほぼ常に日本より中国を重視していた。)

40年三国同盟が成立するとファルケンハウゼンの活動に日本が抗議、当時彼は私人の立場だったが、国籍剥奪までちらつかせて外相リッベントロップが帰国させる。

 

 

おしまい。

硬い論文集だが、初心者が全く読めないわけではない。

それなりに有益で面白い。

買う必要は無いが、図書館にあればどうぞ。

2015年4月17日

アンドレ・モロワ 『ドイツ史』 (論創社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 09:03

2013年刊。

これを行きつけの大型書店の棚で見つけた時は、誇張でなく本当に衝撃を受けた。

モンタネッリ『物語ギリシャ人の歴史』の場合は、『ローマの歴史』および『ルネサンスの歴史』以外のイタリア史シリーズの翻訳が出ていないと思っていただけで、原著の存在は知っていたのですが、本書についてはこんなものが存在すること自体全く知らなかったので。

『英国史』『フランス史』『アメリカ史』のいわゆる自由主義諸国三部作の良さについてはこのブログで度々申し上げていますが、まさかモロワの手に成るドイツ史が存在していたとは・・・・・。

訳者によると、原著は1965年刊で、モロワは67年に没、文章量としては三部作の約半分くらいだそうだ。

以下、ざっと本文を眺めてみる。

 

まずゲルマン人時代。

アッティラをカタラウヌムの戦いで撃退した「最後のローマ人」アエティウスのおかけで西欧は救われた。

(やはり普通「最後のローマ人」というとスティリコではなくアエティウスを指すと思うのですが・・・・・[塩野七生『ローマ世界の終焉』]。)

フランク・ブルグンド・ゴート諸族のローマへの敬意が、ガロ・ローマ人との協力を生み出す。

クローヴィス死後のメロヴィング朝は、本書でも簡略に済まされている(この時代、まともに取り上げるには複雑過ぎです)。

カール大帝による統一、ゲルマン・ローマ・キリスト教の三要素の合体。

大帝は、ランゴバルド・ザクセン・バイエルン・アヴァールを征服、ハルン・アッラシードと使節交換。

ルートヴィヒ1世後、分割相続で東フランクがドイツとなる。

フランス語でドイツを「アルマーニュ」と言うが、これは「アラマン人の国」の意。

一方、ドイツ語で自国を指す「ドイッチュラント」は「人民の国」の意。

西フランク王シャルル2世と東フランク(ルートヴィヒ2世の子)カール3世肥満王による一時的統一回復があったものの、カールの甥アルヌルフを経て、その子ルートヴィヒ4世幼童王の死によってカロリング朝断絶。

フランケン公コンラート1世を挟んで、ザクセン朝ハインリヒ1世即位、その子がオットー大帝。

カール大帝によるザクセン征服と改宗から百年ほどであり、驚くべきことと著者は評している。

続いて「イタリア政策」の功罪に言及。

彼が力を入れたドイツとイタリアの間のこの緊密な関係は、これら二つの国民の利益に合致していたろうか?多くのドイツ人は、自分たちの国に秩序を回復し、東方蛮族の侵略から西欧を守り、教皇を支えている君主を誇りに思ったし、ローマ教会がこの君主を支える堅固な保障になってくれるのを期待した。しかし、なかには、王がイタリア問題に関わり、ローマから種々の影響がもたらされることによって自分たち本来のドイツ的性格が損なわれることを危惧する人々もいた。事実、フランスやイギリスでは、世襲制が王国の安定的堅固さを保障していったのに対し、ドイツでは、皇帝が選挙で決められることが不安定さをもたらしていった。

ザクセン朝が断絶すると、フランケンのコンラート2世選出、サリイ系フランクなのでザリエル朝と呼ばれる。

その孫ハインリヒ4世時に有名な叙任権闘争が最高潮を迎える。

だが著者は、この華々しい事件の陰で同時期に行われた東方植民こそ、中世ドイツの最も重要な事績だったとしている。

文化面では、トマス・アクィナスの師アルベルトゥス・マグヌス、神秘思想家エックハルトなどの名を挙げている。

次いでホーエンシュタウフェン朝コンラート3世即位。

第二回十字軍参加とギベリン党形成。

これに対抗するのが、バイエルンのヴェルフェン家で、「ヴェルフェン」から訛ってゲルフ党という名が生まれる。

注意すべきなのは、このギベリン、ゲルフというのは、ドイツ国内でのことではなく、イタリアでの党派を指す言葉だということ。

そして普通、ギベリンが皇帝派、ゲルフが教皇派ということになっているが、あくまで具体的な政治闘争での色分けなので、必ずしもそれぞれが理念的に皇帝・教皇を無条件に支持し続けるというわけでもない。

シュタウフェン朝フリードリヒ1世がバイエルンのハインリヒ獅子公と対立、第三回十字軍参加、レニャーノの戦いでロンバルディア都市同盟に敗北。

続くハインリヒ6世は、英国王リチャード1世が十字軍帰路捕らわれたのを利用、シチリア王国獲得。

その死後、獅子公の息子オットー4世が即位するが、教皇インノケンティウス3世と対立、英国王ジョンと同盟してブーヴィーヌの戦いで仏国王フィリップ2世に大敗、失意のうちに死去。

帝位はシュタウフェン朝に戻り、フリードリヒ2世即位。

近代的な官僚制統治の萌芽を見せるが、その死でシュタウフェン朝は終わり、ドイツの統一的傾向は衰退、ハンザ同盟の繁栄はあったものの、分裂期に入り、大空位時代を迎える。

その後、いよいよハプスブルク家のルドルフ1世が即位。

高校世界史だと、ハプスブルク=オーストリアのイメージだが、本拠はもともとスイス、アルザス、シュヴァルツヴァルトとかなり西の方。

それがボヘミア王オタカル2世を敗死させオーストリアを領有することになったが、アルブレヒト1世が身内に暗殺されてしまい、以後一時帝位から離れる。

ボヘミアを領有するルクセンブルク家ハインリヒ7世が即位。

その死後はハプスブルク家とヴィッテルスバッハ家バイエルンのルートヴィヒ4世が対立。

モルガルテンの戦いでスイス独立、ハプスブルク家は発祥の地を失う。

ルクセンブルク朝が復位し、カール4世は金印勅書発布。

そこで定められた選帝侯はケルン・マインツ・トリール・ボヘミア・ファルツ(ライン宮中伯)・ザクセン・ブランデンブルクの七つ(これは全く不変のものというわけではなく、後世バイエルンなどは追加でその地位を得ている。ただ以下引用文の通りオーストリア・ハプスブルク家自身は最後まで選帝侯ではない)。

『金印勅書』においては、オーストリアのハプスブルク家は選挙人ですらない。彼らは、これを修正させようとしたが、実現はできなかった。逆に、彼らは、新しいタイプの地方的君主制を世襲的君主制として整備することになるのだが、そのプロセスはゆっくりしており、オーストリア王家は、まだ長い間、兄弟間の分割の原則によっていくので、その力は弱体化し続ける。しかしながら、1291年から1437年まで皇帝の座から遠ざかったことが、逆に彼らに益した。この時間的ゆとりのおかげで広大な領土を形成し、帝冠が自分たちのもとに戻ってきたとき、これを一門のなかに永く維持できる力を養うことができたのであった。

ジギスムント帝がフス戦争によって自領を荒廃させて死去した後、ハプスブルク家のアルブレヒト2世即位、以後ハプスブルク家が安定的に帝位世襲。

続くフリードリヒ3世の時代、プロイセンがポーランドの宗主権下に入ったり、シュレスヴィヒ・ホルシュタインがデンマーク領になったり、スイス独立を事実上承認するなど、強力な君主とは言い難いが、その婚姻政策は大成功を収め、息子マクシミリアンとブルゴーニュ公女との結婚でヨーロッパ屈指の経済先進地域ネーデルラントを得て、さらに孫の結婚で新大陸を領有するスペイン王位まで手に入れる。

だが16世紀、宗教改革という驚天動地の出来事が発生。

一時はドイツ全体がプロテスタント国家になるかと思われたが、そうはならなかった。その理由の一部は、ジュネーヴに本拠を置く別の形のプロテスタント信仰である《カルヴィニズム》がルター主義と折り合わず、選帝侯ライン宮中伯が自分の都ハイデルベルクをドイツにおけるカルヴィニズムのセンターとしたこと、他方、カトリシズムが予想外の抵抗力と回復力を示したことである。

17世紀、宗教改革による国内分裂が極限に達し、三十年戦争が勃発、第一期はベーメン(ボヘミア)反乱とファルツ選帝侯の戦い敗北、第二期はデンマークが新教側に加わるが撃退、第三期スウェーデン王グスタフ・アドルフが参戦するが、ヴァレンシュタインと共倒れ、1635年フランス参戦で、1648年ヴェストファーレン条約。

本書では、この戦争によってドイツの途方も無い荒廃と近代化の遅れがもたらされたという伝統的見方を取っている。

この時期、徐々にプロイセンが台頭。

国名は「プロイセン」だが、そもそも、ベルリンなど中心的地域はブランデンブルク辺境伯領。

ホーエンツォレルン家も元はシュヴァーベンのニュルンベルク城伯に過ぎず、それが15世紀より辺境伯となり、さらにドイツ騎士団領が世俗化しプロイセン公国になった際の団長がたまたまホーエンツォレルン家出身者だったということもあって、後に両者が合体することになった(両地域を隔てる西プロイセンは1772年ポーランド分割で併合)。

イタリア統一の主力となったサルディニア王国の中心がサルディニア島では全くなく、トリノであり、王家発祥の地のサヴォイはフランスに譲渡されたのと、奇妙に似てますね。

18世紀はドイツ文化の黄金期とされ、確かにライプニッツ、カント、レッシング、ゲーテ、シラー、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンと並べられると、納得です。

19世紀、ナポレオン戦争がもたらす激動へ突入、その過程では各国のナポレオンとの個別講和が目立ち、それがナポレオンを利したイメージを強く持つ。

ナポレオン支配下で領邦が多数併合・簡略化され、結果としてそれがドイツ統一につながりやすくなった。

以後の近現代史の叙述は、この種の通史的概説書にありがちではあるが、あまり得るところがない。

多少とも印象に残った断片的記述だけをメモ。

ドイツを「確固たる国境も一つの安定した中心もない『中央の帝国』」と定義。

ビスマルクがいなければドイツは自由主義国になっていただろう、1862年のプロイセン自由主義者たちの敗北が西欧の没落とヨーロッパの兵営化を告げるものとなったとの著者の見解は、あまりに定型的で凡庸に思えて感心しない。

ニーチェについて、

この精神の貴族は、自分の哲学が後世にはゆがめられて、彼が間違いなく「我慢ならない凡俗性」と軽蔑したような人々、彼が責めた大衆運動を組織している連中に利用されるのを見たら衝撃を受けたであろう。

としていますが、ゴーロ・マンも全く同じことを書いてました。

著者は、ワーグナー、トライチュケの偏狭さにも触れつつ、それでもコッホ、ヘルムホルツ、レントゲン、ダイムラーなどの自然科学上の大成果を挙げ、諸国民の第一級であり得たドイツが汎ゲルマン主義によって災厄のどん底に引きずり込まれた、と書いている。

第一次世界大戦は集団的な狂気による自殺行為であり、低俗なナショナリズムだけが幅を利かせ、知性と和解と良識の声に耳を貸す人間が余りに少なかったと嘆いているが、多数者による決定ではそれが必然なのでは?とも思えてくる。

最後に全くの豆知識。

ワイマール共和国初期に起こったカップ一揆のカップは、父が1848年革命でアメリカに亡命し、息子が1900年帰国、その後反共和制反乱を起こしたそうです。

 

 

訳者あとがき。

モロワは歴史の専門学者ではない広汎な著述家、本書もドイツ史を専門的に学ぶ人にはあまり参考にならないかもしれないが、一般読者には役に立つ。

訳者も三部作を愛読し、本書を二十年ほど前に知り、邦訳を志したそうである。

その眼力と見識には脱帽します。

ただ本体価格5800円は高い。

内容的にも、分量がやはり少なめで三部作ほどの効用は期待できない。

地図がほとんど無いのも欠点。

30冊で読む世界史で挙げた坂井栄八郎『ドイツ史10講』(岩波新書)の代わりに定番として採用することはやはり難しいか。

とは言え、三部作と共通する良質さを持っている。

政治史を基本に物語性を保ちつつ、人物の個性描写も放棄せず、時代順に叙述を行い、なおかつ経済史・社会史・文化史の項目を適時挿入して内容の豊富さを確保し、複雑な歴史の総体を垣間見せてくれる。

三部作は、一国の通史としては私の知る限り、最も完成度が高い。

邦訳は1950年代新潮文庫で刊行、それが1993~94年に復刊され、私が買ったのもこれ。

何とか再復刊するか、出来れば中央公論新社あたりが新訳を出して頂けないでしょうか。

最近、新刊情報について記事で触れることはしていませんでしたが、いくつかの名著が復刊しています。

野田宣雄『ヒトラーの時代』西部邁『大衆への反逆』が文春学芸ライブラリーで、福田恆存『私の英国史』が中公文庫で復刊され、宮崎市定『中国史』も近々岩波文庫に入るようです。

アンドレ・モロワの著作も淡い期待を持って、見守っていきたいです。

 

2013年6月21日

E・マホフスキー 『革命家皇帝ヨーゼフ2世  ハプスブルク帝国の啓蒙君主1741-1790』 (藤原書店)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 15:32

原著が1980年刊、本書は2011年刊。

200ページほどの通常の伝記でない逸話集。

啓蒙専制君主として名高いオーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝。

母親はマリア・テレジア。

カール6世が領土不可分と女系継承を定めたプラグマティシュ・サ(ザ)ンクツィオン(国事勅[詔]書)を制定し、その娘マリア・テレジアが即位。

フランツ・シュテファンと結婚、以後王朝名はハプスブルク・ロートリンゲン家に。

1733~35年ポーランド継承戦争で、オーストリアは両シチリアをスペイン(この時期はすでにブルボン朝)に割譲する代わりにパルマ・トスカナを得る(フランスはロレーヌ併合)。

1740~48年オーストリア継承戦争、同時期(1744~48年)植民地ではジョージ王戦争(この「ジョージ」はハノーヴァー朝英国王ジョージ2世)、1748年アーヘン和約でオーストリアは北伊パルマをブルボン系統君主に割譲、フリードリヒ2世のプロイセンはシュレジエン領有。

1756~63年七年戦争(植民地ではフレンチ・インディアン戦争)でもプロイセンからシュレジエンを奪還できず。

1765年フランツ1世死去、ヨーゼフ2世が母マリア・テレジアと共同統治、1780年母の死によって単独統治開始、農奴解放令・宗教寛容令発布。

以後の啓蒙君主としての言動を、本書ではあれこれのエピソードで描写している。

その具体例はすっ飛ばして、以下気になったことを。

最初の方に、「マリア・テレジア時代のハプスブルク帝国」という地図がある。

そこでは「失った領土」がガリツィア(ポーランド分割による)・トスカナで、「獲得した領土」がシュレジエン・パルマという色分けになっているのですが、上に記した史実からして、ひょっとしてこれ表示が全く逆になっているんでは・・・・・?

何度確認してもそうなってる。

ヨーゼフ2世の最初の妻は確かにパルマ公女だが、それによって領土を取り戻したとは思えないし、それに他の部分の辻褄が合わない。

また、末尾の監修者倉田稔氏の解説の中に以下の文章がある。

ハプスブルク家は、「神聖ローマ帝国」の皇帝でありつづけた。それゆえ王の中の王であった。また皇帝位にある家であったから、ローマ法王とは兄弟の契りを結び、カトリックの盟主である。地理上の区分では、ヨーゼフ二世の時代には、帝国は、スペインと、東・中央ヨーロッパに分かれていた。

うん?

最後の一文、16世紀カール5世(カルロス1世)時代は確かにそうでしょうが、18世紀初頭のスペイン継承戦争の後なんだから、マリア・テレジア、ヨーゼフ2世の時代には、もうスペインはブルボン朝に変わっているでしょう?

スペイン系のハプスブルク家が断絶したから継承問題が生じたはずで、分家が他の小国を統治していたという意味で上の文章が記されているとも思えない。

二刷以降は直っているのかもしれないが、二つ共々、藤原書店のような良心的出版社とは思えぬ脱力モノのミスではある。

なお、スペイン継承戦争の結果をチェック。

1713年ユトレヒト条約で、スペインのブルボン家フェリペ5世による継承承認、ただし仏西合邦永久禁止、英国はジブラルタルをスペインから、ニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を仏から獲得。

1714年神聖ローマ帝国とのラシュタット条約。

結論を言えば、スペインとアメリカ・フィリピン等の海外植民地のブルボン家継承は認めるが、ヨーロッパにおける本国以外の領土はオーストリア・ハプスブルク家に引き渡すというもの。

具体的には南ネーデルラント・ナポリ・サルディニア島。

そのうち南ネーデルラントはウィーン会議でオランダが併合、七月革命後にベルギーとして独立。

シチリアは1714年時点ではサヴォイが領有、1720年サルディニアと交換の形でオーストリア領となるが、1735年上述の通りポーランド継承戦争の結果、ナポリと共にスペイン系ブルボン朝の領有となり、このブルボン朝の両シチリア王国がガリバルディによる征服まで存続することになる。

サルディニアを得たサヴォイは王号を名乗り、サルディニア(サルデーニャ)王国になり、ニースと共に王家発祥の地サヴォイをナポレオン3世に割譲して、北伊のオーストリアと南伊のブルボン家、中伊の教皇領と対決し、イタリア統一運動の中心となる。

ああ、これでややこしい領土移動の歴史が高校世界史の記述と繋がった。

以上の経緯は藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)などを参考にしました。

楽に読めるが、通常の伝記ではないので知識が断片的過ぎる。

良心的で臣民思いの君主の人となりは十分伝わってくるが・・・・・。

特には勧めません。

2013年2月13日

小林正文 『指導者たちでたどるドイツ現代史』 (丸善ブックス)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 13:31

2002年刊。

著者はボン特派員を経験した元読売新聞記者。

同じ丸善の黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』と同じく、首相を任期順に並べて叙述する形式の第二次世界大戦後の現代史。

西ドイツおよび再統一ドイツの首相と就任年度は、初心者でも全て暗記が必要。

そして、『アデナウアー回顧録』の記事で一部記したような、ボン基本法、5%条項、ハルシュタイン・ドクトリン、ベルリン管轄権、建設的不信任制度、社会的市場経済、東方外交(政策)、オーデル・ナイセ線、大西洋派と独仏派といった用語の意味を理解した上で記憶すること。

加えて、主要政党名も。

CDU、CSU、SPD、FDPという略称から正式な党名と政治的立場がすぐ思い浮かぶでしょうか?

順に、キリスト教民主同盟、キリスト教社会同盟、社会民主党、自由民主党。

保守のCDUと左派のSPDが二大政党、CSUはバイエルン州のみを基盤とするCDUの兄弟政党、中道のFDPが小政党ながらCDUともSPDともしばしば連立しバランサーとしてドイツ政界の両極化を阻止する絶妙な役割を果たす。

ドイツ語を一言も知らなくても、政党名を英訳すれば、それぞれの略称は記憶できますよね(SPDのみアルファベットの順序に注意)。

それらにプラスして、(1980年代以降の)緑の党、(旧東ドイツの社会主義統一党の後裔)民主社会党とそれを継ぐ左派党もチェック。

以上、高校世界史より少し詳しいぐらいのレベルですが、これらを理解しておけば、新聞・テレビの国際ニュースでわからないところはほとんど無くなります。

さて、具体的な史実で気になったところを適当に取り上げてみると、1949年ドイツ連邦共和国が成立するが、この時点では法的にはまだ完全な主権国家ではない。

米英仏の軍政長官が高等弁務官に変わった上で存在しており、非軍事化・ルール管理・外交・難民・連合国の安全保障などが、連合国選管事項とされた。

(西ドイツ建国当初は外相は置かれず、外務省が設置されたのは1951年以降。)

「安全保障または民主的秩序の維持」「三国の国際的義務」から必要とされる場合は米英仏三国が全権を掌握するとされていた。

50年シューマン・プラン提案、51年ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)調印、52年発足。

このECSCみたいに、その基になった条約調印と組織発足の年度がずれるのは、ややこしいですね。

ヨーロッパ経済共同体(EEC)も確か57年ローマ条約調印、58年発足でしたよね。

そう言えば、19世紀のドイツ関税同盟も、1833年調印、34年発足でしたか。

上記、欧州統合は順調に進展するが、安全保障面では、50年プレヴァン・プランと欧州軍構想が提案され、52年欧州防衛共同体条約が調印、しかし54年仏議会が批准を拒否して挫折、結局同年パリ協定が締結され、それによって西ドイツのNATO加盟と主権回復が成されることになる(岩間陽子『ドイツ再軍備』。このパリ協定も発効は翌55年)。

ただし、ここでもベルリンおよびドイツの再統一、最終的平和条約については、連合国が権利を留保する形になっており、これが1989~90年にかけて意味を持つことになる。

55年西独とソ連は国交を回復しているが、ということは東独と外交関係を持つ国とは断交するというハルシュタイン・ドクトリンは、ソ連だけは例外としていることになると、意外な盲点を本書では指摘してくれている。

西独は東独の国家存在自体を認めず、ベルリン封鎖の十年後、58年のベルリン危機はソ連がベルリンでの権限を東独に委譲することによって西側に東独承認を強要しようとして生じたもの。

結局、事態はソ連の思惑通りにはならず、61年ベルリンの壁が建設される。

71年、しばしば強硬策をソ連に突き上げた東独指導者ウルブリヒトが解任され、同年四カ国ベルリン協定で東西ベルリンの状況は一応安定、72年には東西ドイツ基本条約締結。

この基本条約においても、東西ドイツは国家間関係を持つが同民族のため通常の外国同士ではないという解釈を西独は建前としては守っている。

なお、内政面について、日英などと違い、首相に議会の解散権が無いことをチェック。

信任案が否決され、なおかつ別の首相が選出できなかったときなど、特定条件においてのみ象徴的役割の大統領が解散。

1990年のドイツ再統一前後の叙述では、モドロウ、クレンツ、デメジエールなどの人名に懐かしさを覚えます。

首相名の記憶に当たっては、当然(しばしば連立となる)与党も同時に覚える必要がある。

近年について、比較的ややこしいのが、1998年にSPDと、初めて政権に参加した緑の党が連立してシュレーダー内閣成立、それが2005年にCDUとSPDの大連立となったメルケル内閣に代わり、2009年以降は大連立を解消した、CDU・FDP与党のメルケル政権となる。

非常に読みやすくて良い。

170ページ程なので分量的にも楽。

初心者向けの良質なテキストだし、中級者以上が知識の確認のために読んでも有益。

手堅い良書と言えましょう。

2012年4月9日

谷喬夫 『ヒムラーとヒトラー  氷のユートピア』 (講談社選書メチエ)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

2000年刊。

著者の下のお名前は「たかお」とお読みするそうです。

本書において、20世紀は世俗的イデオロギー(擬似宗教)をめぐる宗教戦争の時代と捉えられる。

18、19世紀以後、啓蒙時代に社会の意味と共存していた理性が、自然科学の発達と共に対象の数量化のみに係わる「道具的理性」に変質し、世界全体の意味との結びつきを失う。

社会的には、伝統的信仰を失い、情緒的・欲動的・非合理的に行動する大衆が台頭し、彼らは技術合理的産業社会の成果に依拠しながら、ナショナリズム・社会ダーウィン主義・人種主義などの擬似宗教にのめり込む。

それら低劣なイデオロギーを煽るブラック・ジャーナリズムがほとんど制限無しに許容され、大衆・モッブ(無頼の徒)をますます悪質な存在にしていく。

こうして科学と非合理的イデオロギーが矛盾せずに共存、「文明の再野蛮化」ともいうべき事態が進行。

ナチズムの持つ合理性はあくまで19世紀進歩思想の後継者であり、無限の進歩と完璧な社会を目指す意味では両者は同根。

(しかしここで著者がナチズムの特性として「反近代」という言葉を用いていることには違和感を持った。)

19世紀の科学技術発展が物質的繁栄を導き民主化が進行、加えて帝国主義の風潮が高まる。

それらを支持したのは産業社会形成により解放された、ブルジョワジーより下の階層に属した大衆であり、こうして社会全体の欲望が無限に解放されたが、同時に不平不満も鬱積。

民主化により、大衆・モッブの意向を無視して何事も行い得なくなり、彼らが俗流ダーウィン主義や人種理論に染まれば、それを止める手段が全く存在しなくなってしまう。

有史以来、何千年も人間精神を律してきた宗教的信仰が後退すると、大衆は即、このような醜悪な世俗的イデオロギーに捕われたわけである。

加えて、君主や貴族の消滅は、野卑で粗暴なナショナリズムを振りかざす大衆による、史上最悪の殺戮戦争に繋がった。

「自由・平等・進歩・革新・デモクラシー・世論・民意・合理・世俗化・個人主義」と「宗教・伝統・慣習・保守・世襲原理・身分制秩序」を比べて、どちらが全体主義と親和的かと尋ねたら、通俗的イメージからして、ほぼ全ての人が後者だと言うでしょうが、本当は全く逆なんですよね。

むしろ後者の抑制要素を破壊し続け、前者の奇麗事に身の程知らずに没入した民衆が全体主義を生み、世界戦争を引き起こしたと言うべき。

とは言え、(本当に無念で嫌悪すべきことですが)やはり民主化は歴史の必然ですから、もう人類に救いの道は無いでしょう。

あと200年程もてばいい方じゃないでしょうか。

全般的思想的解釈の後、ドイツ史の具体的事例が叙述される。

気になったところを何点か取り上げると、まずナチ支持者の中での若年層の比率の高さが指摘されていた。

100年以上の単位でなくても、わずか一世代で、古い世代の伝統的信仰を「迷信」と嘲笑った若年層が、自分たちはそれより遥かに醜悪な擬似宗教を軽信して、その愚かさに気付きもしないという現象が見られるのは興味深い。

上述の対比に「若さ」と「老成」も加えるべきでしょうか。

あと、人種至上主義のヒトラーは国家そのものには決定的重要性を認めず、この点でドイツの伝統とは完全に異質だと述べられている。

考えてみれば、ヒトラーの人種主義をナショナリズムの現われと誤認した保守派の致命的錯誤がドイツを破滅に導いたとも言える(ニッパーダイ『ドイツ史を考える』ナチについてのメモ その5)。

さらに具体的記述でナチ親衛隊組織について。

頂点に親衛隊帝国指導者兼ドイツ警察長官のハインリヒ・ヒムラーがいる。

その下に作戦本部と帝国保安本部があり、作戦本部下に一般親衛隊と武装親衛隊が存在し、武装親衛隊にいわゆる髑髏部隊が属する。

帝国保安本部から保安部(SD)と特別行動隊(アインザッツグルッペン)とジポ(保安警察)が分かれ、ジポの下に悪名高いゲシュタポ(秘密国家警察)がある。

あとは、反ユダヤ主義と生存圏構想、戦時の東方住民強制移住や「最終的解決」についてあれこれ述べられているが省略。

本文はここまでだが、あとがきに以下の重要な文章がある。

ナチズムを批判しつつコミュニズムを擁護するという進歩主義が完全に破綻したことを記したあと、

ナチズムとコミュニズム、すなわち、人種・民族のユートピアとプロレタリアート世界革命の国際主義ユートピアは、なるほど人類の歴史にかつてない蛮行の痕跡を残した。それでは、今日そのどちらも批判的に考察しうる立場は、巷にいわれるように、両者に勝利した自由主義と市場経済ということになるのであろうか。しかし、思想的にみた場合、自由・民主主義は、フランシス・フクヤマ(『歴史のおわり』・・・・)のいうように、歴史の終焉を意味するほど普遍的かつ魅力的な思想なのであろうか。

わたしは、昨今の自由主義と市場経済の生み出した精神とは、競争と効率の物神化、生を金と名誉に還元する俗物根性の肯定でしかないのではないか、という疑念を払拭することができない。なるほど自由主義が伝統を有する所では、リベラリズムには、大衆民主主義にはない精神の自立性と優れた秩序感覚が継承されている。

しかしわが国のように(同じような国が多数派だと思うが)、リベラルな細胞を発見するためには、顕微鏡でも覗かねばならないような所では、自由主義が単なるエゴイズムの代名詞にしかならない可能性は限りなく大きい。わが国では、自由主義は、その内部に、それ自身に対する原理的、超越的批判を絶えず組み込んでおかない限り、とんでもない俗物精神に転化するしかないのである。

いずれにせよ、「先進」諸国の公共空間では、当分ユートピアの電圧は低下したまま推移するであろう。それに代わって、自由主義と市場経済の低俗さに飽き足らない心情は、行くあてもなく、群小の新興宗教やカルト集団などのなかで、ますます奇形的な夢を紡ぐことになるのであろう。

素晴らしく透徹した認識。

実はこのあとがきを先に読んで、通読する気になった。

しかし中盤で、プラトン『国家』を全体主義的ユートピアの例として挙げているのは極めて不適切に感じる。

カール・ポパーが『開かれた社会とその敵』という著作で、プラトンを全体主義の祖として非難していることは、無知な私でも仄聞しているが、それに準じる形で何の留保も付けずそう記すのは、上記引用文とも整合的ではない。

コーンハウザーの社会の四類型を使えば、「多元的社会」から「大衆社会」、さらには「全体主義社会」への転落がほとんど必然とも思えるほど、歴史上に醜い惨劇が満ち満ちている以上、「多元的社会」を無条件で善と見なすのを止め、「共同体的社会」を可能な限りそのまま維持して「多元的社会」への移行を阻止すべきだという考えが生まれてきて当然である。

その「共同体的社会」を維持するための規制や拘束や束縛を、「全体主義社会」の抑圧と同一視するのは完全に倒錯している。

プラトンの思想もその文脈に沿って理解されるべきであり、むしろ自由民主主義への平板な肯定と民意への安易な信頼こそが、全体主義を生み出す素だと考えるべき。

むしろ以下の文章を読むと、われわれ民衆という生き物は、2500年前から何の反省も自己懐疑も無しに同じ過ちをますます大規模かつ深刻に繰り返して来ているんだなと思わざるを得ない。

「民主制国家は何を善と規定していると言われるのですか?」

「<自由>だ」とぼくは言った、「じっさい、君はたぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう――この<自由>こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである、と」

「ええたしかに」と彼は言った、「そういう言い草は、じつにしばしば人々の口にするところですね」

「では、いま言いかけていたように」とぼくは言った、「そのようなことへのあくことなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、僭主独裁制の必要を準備するのではないだろうか?」

「どのようにしてですか?」と彼はたずねた。

「思うに、民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たちをけしからぬ連中だ、寡頭制的なやつだと非難して迫害するだろう」

「ええ、たしかにそういう態度に出るものです」と彼は答えた。

「他方また」とぼくはつづけた、「支配者に従順な者たちを、自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱めるだろう。個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような指導者たち、支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね?」

「そうならざるをえないでしょう」

・・・・・・・

「そういうことのほか」とぼくは言った、「次のようなちょっとした状況も見られるようになる。すなわち、このような状態のなかでは、先生は生徒を恐れて御機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」

「ほんとうにそうですね」と彼。

・・・・・・・

「すべてこうしたことが集積された結果として」とぼくは言った、「どのような効果がもたらされるかわかるかね――つまり、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律さえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも、自分の上にいただくまいとしてね」

「よく知っています」と彼は言った。

「それではこれが、友よ」とぼくは言った、「僭主独裁制がそこから生まれ出てくる、かくも立派で誇り高い根源にほかならないのだ。ぼくの考えではね」

「たしかに誇り高くはありますね」と彼は言った、「しかし、それから後はどうなるのですか?」

「寡頭制のなかに発生してその国制を滅ぼしたのと同じ病いが」とぼくは言った、「ここにも発生して、その自由放任のために、さらに大きく力強いものとなって、民主制を隷属化させることになる。まことに何ごとであれ、あまりに度が過ぎるということは、その反動として、反対の方向への大きな変化を引き起こしがちなものだ。季節にしても、植物にしても、身体にしても、みなそうであって、そして国家のあり方においても、いささかもその例外ではない」

「当然そうでしょう」と彼。

「というのは、過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだからね」

「たしかにそれは、当然考えられることです」

「それならまた、当然考えられることは」とぼくは言った、「僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ」

プラトン『国家 下』より)

非常に読みやすい。

中盤の具体的事例はあまりメモしなかったが、それなりに有益。

それより全般的史観の点で教えられるところが多い。

しかも高校レベルでも十分取り組める難易度。

お勧めします。

2011年1月16日

ハプスブルク家についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

河野淳『ハプスブルクとオスマン帝国』(講談社選書メチエ)の記事続き。

対オスマン最前線として「兵営化」していたクロアチアの軍事植民制について。

軍役の替わりに土地を与えられ、在地領主の支配を免れ、ハプスブルク家に直属、裁判・行政においても大幅な自治。

クロアチアはカトリック圏であるにも関わらず、植民者の正教信仰維持が認められ、これは最大の宗教戦争である三十年戦争中でも撤回されなかった。

クロアチア諸侯は中世以来の「人体としての国家論」に基づく王国の一体性を主張し、軍事植民者の自治廃止を訴えたが、国境防衛の重要性の見地から現実論を説くハプスブルクに拒否される。

中世的思弁政治から近代的実証主義政治への移行の前提となる心性について。

「数量化革命」=中世後期からルネサンスにかけて、ものの性質を問題にする考えから、その数量を問題にする考えへと人々の心性が変化したことを示す言葉、クロスビーの論。

「16世紀文化革命」=山本義隆が主張、数量化にとどまらない経験的知のあり方が文字利用の拡大を背景に社会に普及、実践的知識が古典的知をおしのけたことを示す。

その実戦的知が大学というハイカルチャーの場でさらに発展し、17世紀「科学革命」(この言葉は高校教科書にも出てる)に繋がる(ニュートン、ボイル、ホイヘンス、ラヴォワジェ、ハーヴェーなど)。

近代政治は立憲政治のことか?という問題提起。

憲法・国制など抽象的概念装置が公的なものとして秩序を保つことは近代的とは言えない、中世キリスト教共同体の役割を個別の世俗国家が受け継ぎ完成させただけであり、立憲政治自体、イギリスのように目に見えない国王に対する信仰を出発点にしており、立憲的要素とは中世的なものである。

実証主義政治は近世前半の思想のない政治。

英=上記の通り思弁政治が主、17世紀内乱を経て実証主義政治へ。

仏=「ナショナルな聖性」が王権神授説で継続、大革命で実証主義政治に向かうが、同時にナショナリズムという別の思弁政治を生み出す。19世紀以降の他国と同じく思弁・実証主義両政治の共存。

ハプスブルク=オスマンという外圧により実証主義政治に。

フェルディナント1世、マクシミリアン2世の非宗教的実証主義政治。

マクシミリアンの子ルドルフ2世、その弟マティアスに続く、いとこのフェルディナント2世(在位1619~37年)は帝国の再カトリック化という思弁政治的行動を採り三十年戦争へ(しかし対オスマン戦では実証主義政治を維持[クロアチア軍事植民者の自治特権維持])。

1683年第二次ウィーン包囲撃退、1699年カルロヴィッツ条約でオスマンの脅威は大きく後退。

続くスペイン継承戦争で世界帝国を再建するという思弁政治的行動が出るが、18世紀半ばのマリア・テレジア、ヨーゼフ2世時代には実証主義政治が定着。

途中から箇条書きのメモになったので、何やら訳がわからない部分もあるでしょうが、まあ気になる方は実際にお読み下さい。

事前に思っていたよりは面白かったので、書名一覧での評価は予想の2から3にするか迷う。

しかし、最近「評価3、易」が多過ぎるかもしれないので、あえて2にしますか。

特に強い印象を受けなかった本は、つい3にする癖がついてしまっている。

「3」の範囲がやたら広くて、「2」「4」が狭く、「1」「5」はめったに付けません。

以後少しはメリハリを利かせることを心がけます。

難易度についても、最近はやや根気がついて、わからない部分は飛ばし読みすることに慣れてきたので、「易」が多い。

まあ古典的著作は大抵「難」を付けますが、これも少し歯ごたえのあるものは「中」を意識して付けることにします。

追記:

当記事とは全然関係無いんですが、A・J・P・テイラー『第二次世界大戦の起源』(中央公論社)が講談社学術文庫で復刊されたようです。

初心者には少々厳しい内容ですが、やはり重要な本だと思いますんで、未読の方はこれを機に通読するか、もしくは品切になる前にとりあえず購入されては如何でしょうか。

それにしても、中央公論刊だった名著の版権譲渡が目立ちます。

営業上の御判断に口を挟むつもりはございませんが、買収前の中央公論社の世界史関連書籍に大いに親しんだ者としては、幾ばくかの物悲しさを覚えます。

そういえば、高坂正堯氏も最晩年はあまり中公から著作を出されませんでしたね。

どうせ読売傘下に入ったのなら、『ジョージ・F・ケナン回顧録』(読売新聞社)なんかは中公名義で復刊してくれませんかね。

今でも、とりあえずは一番応援したい出版社ではあるので、良書復刊とその長期在庫に淡い期待を持ち続けることにします。

2011年1月14日

河野淳 『ハプスブルクとオスマン帝国  歴史を変えたの発明』 (講談社選書メチエ)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

世界史関係で手頃な良書揃いで、このブログでも度々記事にする講談社選書メチエからまた一冊。

と言っても実は本書は立ち読みでの印象はあまり芳しくなかったが、たまたま手元に読む本が無かったので通読。

近世初頭、オスマン帝国の脅威を受けたオーストリア・ハプスブルク帝国の政治を分析した本。

まずウォーラーステインの「世界システム論」から筆を起こし、それが市場原理の自動的働きにより「中心」「周縁」「半周縁」という国際的地位が形成されたことを説く理論であるのに対し、本書では国家の政治的軍事的行動の重要性を強調、ハプスブルク家がオスマン朝をバルカンに押し止めたことが近代世界システムの確立に決定的であったと評価している。

具体的史実を挙げた部分に沿ってメモすると、まず1389年コソヴォの戦いでセルビアがオスマン支配下に入り、1453年ビザンツ帝国滅亡。

1440年フリードリヒ3世以後、神聖ローマ帝国帝位は常にハプスブルク家に。

子のマクシミリアン1世がブルゴーニュ公女マリアと結婚してネーデルラント獲得。

その子フィリップ美公がスペイン王女フアナと結婚して両者から生れたカール5世(カルロス1世)がスペイン・オーストリア両国を統治(他にネーデルラント、ナポリ、それに加えて新大陸領土も)。

カールの弟フェルディナントがボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚、妹マリアは同国王ラヨシュ2世と二重縁組が結ばれる。

このラヨシュ2世はヤゲウォ家出身。

高校世界史だと、「ヤゲウォ朝=ポーランド(とリトアニア)」というイメージだが、近世初頭には一時ボヘミアとハンガリーを含め、中東欧四ヵ国の王位を占めていた(中公新版世界史全集『ビザンツとスラヴ』参照)。

ところが1526年モハーチの戦いでラヨシュ2世はオスマン軍に敗死、ブダ(現首都ブダペストの一部)を含むハンガリーの主要部分はオスマン領となって、ボヘミア・ハンガリー王位は上記婚姻関係によりハプスブルク家に転がり込んでくる。

(ちなみにヤゲウォ朝は1572年ポーランドでも断絶、選挙王制に移行。)

1556年カール5世退位後、スペインは子のフェリペ2世、オーストリア・ハンガリー・ボヘミアは弟のフェルディナント1世が継ぐ。

フェルディナント1世の次がマクシミリアン2世(在位1564~76年)。

本書後半ではこのマクシミリアン2世の治世が多く扱われている。

ハプスブルクを脅かしたオスマン朝軍のうち正規軍はシパーヒーとイェニチェリに分かれる。

シパーヒーはティマール(封土)を与えられた封建的騎兵。

それに対しイェニチェリは元キリスト教徒子弟から徴集した火器を装備した歩兵で、こちらが軍の主力となっていく。

ハンガリーの多くがオスマン領になったこの時期、ハプスブルク帝国防衛の最前線はクロアチア。

この国は中世以来ハンガリーと同君連合を形成していた(南東欧諸国史概略)。

(それに対し同じ旧ユーゴ構成国のスロヴェニアは近代に至るまで独自国家形成せず。)

近世のイギリスなどは中世封建制を打破し徴税制度を導入と常備軍整備を成し遂げた「財政・軍事国家」モデルとして理解される。

クロアチアは多大の軍備が置かれたものの財政基盤は到底それを支え得るに足らず、「財政なき軍事国家」とでも言うべき状態。

しかし一国単位ではなく神聖ローマ帝国全体を眺めると、帝国内の軍事力の弱い中小領邦が対オスマン防衛費用を負担、各国の分業と機能分化が認められる。

クロアチアは「財政なき軍事国家」であると同時に「開かれた軍事国家」であり、他領邦は「開かれた財政国家」であると言える。

この防衛費用負担に当たって、キリスト教世界全体の統治者というフィクションを持つ皇帝は英仏国王のような「ナショナルな聖性」を発揮することができず、「公益」や「共通の危機」を訴え、具体的情報を提示し、事実に基づく現実主義的心性を育み、それが近代政治の誕生に繋がるというのが本書の主要テーマ。

帝国に「トルコ税」(防衛費)を課すため、民衆レベルではパンフレットなどでオスマンの脅威をしばしば実態以上に誇張した形で宣布。

帝国議会レベルでは上記現実主義的心性による議論のあり方が認められ、それが中世的「思弁政治」と区別される近代的「実証主義政治」の始まりであるとされている。

この帝国議会は選帝侯部会、諸侯部会、都市部会の三つに分かれ、どの部会にも皇帝自身は参加できないが、ハプスブルクはオーストリア大公として諸侯部会に参加しているし、提議・意見修正要求・決議拒否による議論の誘導が可能であった。

マクシミリアン2世即位後の、オスマンとトランシルヴァニア侯連合軍に対するハプスブルクの戦争についてかなりの紙数を割いて書かれているが、細かな具体例はパスして、以上のような視点を確認できればそれでよいでしょう。

それほど長々とメモしたい本でもないんですが、一つの記事にするにはちょっとだけきついんで、続きます。

(追記:続きはこちら→ハプスブルク家についてのメモ

2011年1月2日

ナチについてのメモ その7

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

明けましておめでとうございます。

今年一発目は、その6に続き、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』より。

SA(突撃隊)の党上層部への批判が不穏な空気を醸し出す中、1934年6月、副首相パーペンが体制批判的な演説を行い、外相ノイラート、財務相シュヴェーリン・フォン・クロージクと共に辞表を提出。

演説は、顧問のエトガー・ユングが執筆したもの。

聴衆は目を見開いて、この反ナチの狼煙になったかもしれない演説に耳を傾けた。連立パートナーである保守派がヒトラーの党に苛立っていたことのすべてが、ここには述べられていた。「政治が宗教的領域に干渉するなら、その対象となった人々は、反自然的な無制限の権力支配に対して、宗教的理由から拒否せざるを得ない」・・・・・「ドイツ国民は暴力と不正に敏感である。偽りの美化によって欺こうとする無様な試みを嗤う。声高なプロパガンダであっても、それだけで長期的に信頼を維持することはできない」・・・・・かつてヒトラーの首相任命にあたって保守派は不名誉な役割を演じたが、副首相はその事実をなかったことにしたいかのようだった。当時、ゲーテの描く「魔法使いの弟子」のように、パーペンは暗黒の力を御することができると思い込んでいた。今、おそらく彼にはわかったのだろう。実はヒトラーこそが魔法使いの師匠であり、鉄の箒でもって舞台から敵を一掃するつもりであったのだ、と。

パーペンに対して当然ながら峻厳な評価を下している、ゴーロ・マン『近代ドイツ史』でも、この演説についてだけは誉めている。

即座にゲッベルスが報道管制を敷き、ヒトラーがいつもの通り、冷静さと余裕を装った、嘲笑と侮蔑に満ちた反論を吐いたが、事態は予想以上に流動的。

ヒンデンブルクと国軍もSAの暴状に不満を募らせていることが伝えられる。

ここで、大統領・保守派・軍部の連携が実現し、戒厳令布告、ナチ政権排除、権威主義的軍事政権樹立となっていれば、ドイツも世界も救われたはずなのだが、残念至極にもそうした展開にはならなかった。

ヒトラーはSA粛清の態度に決し、それを条件に大統領と軍を宥め、保守派勢力を孤立化させ排除するという手段にでる。

6月30日、レームらSA幹部を電撃的に逮捕、処刑。

同時にナチ体制への潜在的反対者をも抹殺する。

まず、上記エトガー・ユングが殺害、パーペンはあやうく死を免れる。

ナチ党の元反ヒトラー派グレゴール・シュトラッサー、かつてミュンヘン一揆を鎮圧したバイエルンの右翼政治家カール、前首相で軍の実力者だったシュライヒャー将軍も抹殺された。

宣伝組織は、ナチ体制の芳しからぬ事象の罪をすべてSAに被せ、SA粛清があたかもヒトラーが「穏健化」した証拠であるかのような錯覚をヒンデンブルクと軍、そして一般国民に植え付けることに成功する。

実際には、トカゲのしっぽ切りそのもので、自らの卑劣・野蛮・醜悪な意志を忠実に実行していた手先を、冷酷無残に切り捨てただけに過ぎないのに。

正規軍に取って代わる野望を抱いていたSAが排除されたことで、国家の唯一の実力組織の地位を維持したことに満足し、シュライヒャーの殺害すら受け入れた、国防相ブロムベルク、陸軍統帥部長官フリッチュ、ライヘナウらの軍主流派はあまりにも愚かだった。

国軍の独立性など現実には存在せず、SAに替わり、ヒトラーに絶対的忠誠を誓うSS(親衛隊・長官ヒムラー)が台頭、国家のナチ化は取り返しのつかない地点にまで進む。

34年8月大統領ヒンデンブルク死去、ヒトラーは「首相兼総統」として全権を握り、それが国民投票で承認される。

(高校時代、「総統」が大統領と首相の権限を併せた職名だと説明されていた気がしましたが、本書では大統領は故ヒンデンブルクの称号として残し、自らは首相兼総統と呼んでほしいというヒトラーの言明が載せられていますから、総統というのはナチ党党首の称号に過ぎないのか?)

この国民投票では、なお一割の反対票があったことが記録されているが、適切な代表制を通じて選ばれ、確固とした特権に守られた議員による議会での自由かつ穏当な議論が無い国家での人民投票など、独裁のカモフラージュと正当化に使われるだけである。

まだ自由な反対者が存在する余地があるかのような誤解を国内外で与える恐れがある分、より悪いとすら言える。

1938年にはノイラート、ブロムベルクがナチの陰謀であるスキャンダル工作によって解任され、この年から「平時のナチズム」は終わり、ヒトラーはかねてからの戦争政策を推し進めることとなる。

ようやく終わりました。

通読していくと、いやーな汗が出てきたり、恐ろしくなって思わずページを閉じ、沈思黙考してしまう箇所が、あまりに多い本でした。

まるで寄生虫的エイリアンが人間の体内に侵入し、外見上何も起っていないかのように見えるうちに、内臓を次々貪った末、ついには腹を食い破って出てくるかのような歴史である。

「昔は言論の自由が制限され民主化も不十分で、社会の中に君主制や貴族制の残滓である前近代的・非民主的な要素が多かったせいでファシズムが生まれたけれども、今は民衆が主権者となり民主主義が完全に定着したから、もうあんなことは起りえないですね、目出度し目出度し」という物語に安住することが、どれほど愚かで危険なことかを思い知らされる。

率直に言って、こうした事態は現在の民主主義国でも、いや民主主義国だからこそいつ繰り返されてもおかしくないと思います。

本書も実に読みやすく、面白い。

しかし本文の外に枠で囲って置かれている同時代人や登場人物の親族の証言が通読にあたって邪魔に感じる。

写真が多いせいもあり、本文は結構速く読み進められるのに、それでペースを乱される感がある。

それ以外は短所はほとんどありません。

関連書としては、まず何と言っても林健太郎『ワイマル共和国』

気付けば初版刊行後、半世紀近くにもなる本で、一部古い箇所も見受けられるんでしょうが、しかしこの本の初心者向け物語的史書としての完成度は本当にすごいです。

初めて読み終えた時の感動と充実感は今も決して忘れられません。

同じく、セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』も絶対のお勧め。

この二つは、このブログで取り上げた全ての本の中で、ベスト30はもちろん、ベスト10にも入ります。

それらを読んだ後、本書に取り組めば、得るものが多いと思います。

2010年12月31日

ナチについてのメモ その6

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

その5に続き、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』(中央公論新社)より。

1933年1月の首相就任後、ヒトラーは当面最も警戒すべき軍部を軍備拡張の約束で懐柔、すでに自然回復の兆しをみせていた経済情勢もプロパガンダに利用。

2月国会議事堂放火事件。

本書ではこの事件自体はナチの陰謀ではなく、やはりアナーキスト的傾向を持つオランダ人共産党員リュッベの単独犯だとしている。

もちろんこれをナチが自らの独裁確立のため最大限に利用したことも事実であり、「国民と国家の防衛のために」と題した緊急令発布。

報道・言論・集会の自由は失効し、司法手続抜きの「保護拘禁」が容認される。

3月「ポツダムの日」、歴代プロイセン王墓前での国会開会式典と宗派別祭典が行われる。

大統領ヒンデンブルクに対するヒトラーのうやうやしいお辞儀に象徴される、ナチの口先だけの伝統擁護の姿勢にほとんど全国民が騙された。

実のところポツダムの大芝居は、まさに保守派による例のヒトラー飼い馴らし計画を実演したもののように見えた。ヒンデンブルクがヒトラーの「任用責任」を引き受けたのも、根底にはこの計画があったからだ。ヒトラーがプロイセンの伝統に表面的には膝を屈したことにより、彼は旧来の保守主義の網にかかったかに見えた。愛国主義的なドイツ・ブルジョワが安堵の息をつくのがはっきり聞こえた。お涙頂戴の芝居は「国民覚醒」に伴うありとあらゆる醜悪な現象を隠蔽してしまった。

ヒトラーは自己の本質的な邪悪さを隠し、保守派に自らを誤魔化し現状を追認する余地を与えて、陰で舌を出していたことだろう。

その直後、国会に全権委任法提出。

政府に立法権と憲法改正権を与え、法令の認証・告知の権限を大統領から首相に移し、外交権も政府にのみ属するとする、途方もない法案。

四年間の時限立法で、効力は「現行政府のみ」との条件がついているが、もちろん反対派への気休めと目くらましでしかない。

連立パートナーのパーペンとフーゲンベルクは弱々しい異議を発するが、大統領のヒンデンブルクはヒトラーを伝統的国家の守護者と誤認し、もはや放任する決意だった。

採決の鍵を握る中央党では、元首相ブリューニングが反対を唱えるが、党首カース司教は屈服。

クロル・オペラ劇場で開かれた国会では、周囲をナチSA(突撃隊)、SS(親衛隊)が包囲、議員たちにありとあらゆる罵声と脅迫を浴びせ、一部の社会民主党議員は道すがら逮捕される。

国会でヒトラーは、大統領と教会の不可侵を約束し、中産階級と農民の救済による民族共同体再建を唱えると同時に、不吉な暴力的脅しを述べる。

議場内にもSA・SSのならず者が溢れかえり、議員に誹謗中傷を浴びせ脅迫する。

議員の独立性も何もあったものではない。

たとえどんなに不満があっても、議員・裁判官・官僚などに対する集団的攻撃や脅迫は、党派に関わらず、絶対に許してはならないし、もしそれを許したなら本当に取り返しのつかない事態が起こるということを深く実感させられる記述であった。

野次と罵声の中、社会民主党党首オットー・ヴェルスが勇敢かつ崇高な反対演説を行うが、ヒトラーは嘲笑と揚げ足取りと脅迫的言辞に満ちた反駁で応じる。

全権委任法がついに可決。

何十世代にもわたる諸身分の努力と試行錯誤が生み出した財産である法治国家が、ゴミクズ以下の大衆とその代理人によって、一瞬で破滅させられた。

勝利を得たナチは早速反ユダヤ主義的行動を爆発させる。

当初その醜悪な行為に困惑した国民も、大々的なプロパガンダによる同調圧力で徐々に正気を失っていく。

物質的欲望以外の価値観を持たない人間が、初歩的な煽動にすらどれほど弱いかを思い知らされる。

古い世代の信仰やタブーを迷信として嘲笑っていた新しい世代が、伝統的宗教より遥かに醜悪で愚劣な狂信に対して呆れるほど弱い抵抗力しか持たないという例がここでも見られる。

5月労働組合を弾圧、社会民主党禁止、7月には中央党なども解散、ヒトラーは一党国家を宣言。

これまで首相就任からわずか半年である。

驚くほど迅速に独裁体制を固めたナチスだが、その内部から反抗者が出る。

レーム指揮下のSAはナチの社会主義的・平等主義的傾向を強く代表する組織であり、この政権獲得期における既存エリート・保守層・軍部との妥協に批判的。

SAを軍事組織に格上げすることを狙うレームは国防軍と対立、33年10月の国際連盟脱退を経て、34年に入ってからも徐々にナチ体制内の不協和音が高まっていく。

まだ終わらないんで、本日はここまで。

同じ本についての複数記事の途中で年が変わるのがやや気持ち悪いですが、やむを得ずそうします。

今年も2、3日に一度の更新ペースを守れました。

(ただし、引用文に頼り過ぎだというのは、重々自覚してます。)

これまでの総記事数が950です(追記:更新のおしらせ等を削除したので現時点では違います)。

もし来年このペースが続いても、記事数1000まで行ったら、一度更新を止めると思います。

それまでに断念する可能性も大いにありますが、宜しければたまに覗いて下さい。

それでは皆様、よいお年を。

2010年12月28日

ナチについてのメモ その5

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』(中央公論新社)記事続き。

首相のシュライヒャー将軍は、ナチ党内の反ヒトラー派であるグレゴール・シュトラッサーと接触。

シュライヒャーは寝首をかくような陰謀でブリューニング内閣を倒し、権威主義体制樹立を目論み、当初ヒトラーを利用しようとナチに接近したのも事実だが、この段階では明確にヒトラーの政権獲得を阻止しようとしていた。

著者も、議会制を根底から破壊する勢力であるナチが政権の入口にまで迫っている以上、この時点での憲法停止と緊急事態令布告は現実的な選択肢の一つだと認めているようである。

しかし、寵臣のパーペンに動かされた大統領のヒンデンブルクはシュライヒャーの提案を拒否。

シュトラッサーを利用したナチ党分裂工作も完全に失敗。

一方、軍のもう一人の実力者ブロムベルクはナチへの宥和的態度を強める。

ナチは前年11月の総選挙敗北を帳消しにするため、小州の地方選挙運動や街頭での示威活動・暴力行為を活発化させ、それを当時の最新メディアであるラジオに乗せて発信、依然ナチズムが「未来の波」であるというイメージを作り上げ、世論に対して同調圧力をかけ続ける。

ついに1933年1月30日、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命することとなる。

プロイセンの伝統的軍人であり、かつてはヒトラーをオーストリア生れの粗野な成り上がり者と嫌っていたヒンデンブルクがこの挙に出たのは、高齢で気力の衰えた大統領がパーペンや息子のオスカー、大統領官房長官マイスナーなどの側近たちに説得されたからだというのがこれまでの定説。

それに対して本書では、ヒンデンブルクは依然独自の判断力を維持し、ヒトラーに国家の刷新を期待するという積極的評価を自ら下したからだと主張されている。

ヒトラー内閣において、首相のヒトラーの他のナチ閣僚は、内相のフリック、無任所相のゲーリングの二人のみ。

副首相にパーペン、国防相はブロムベルク、外相はノイラート、財務相シュヴェーリン・フォン・クロージク、経済相フーゲンベルク、労働相ゼルテ(国家人民党と友好関係にある右翼団体「鉄兜団」創設者)と多くの閣僚が保守派に属する。

ちなみに上記鉄兜団の指導者にデュスターベルクという人物がいるが、こういう右翼的立場の人物も、祖父がユダヤ系だったという理由でナチによって個人攻撃と誹謗中傷の対象になっていたというのだから、ナチの下劣さも底無しである。

政権獲得直前の交渉では、デュスターベルクと相対したヒトラーは、自分がやらせておいて、誹謗中傷は本意ではなかったと、白々しい弁明をしている。

表面上、パーペンが主張したようにナチが保守派によってたがをはめられ、封じ込められたようにも見えたが、これは恐ろしいまでの誤算だった(フーゲンベルクのみはかなり初期の段階でこのヒトラーとの取り引きの危険性に気付いているかのような記述だが、すべては遅過ぎた)。

ここで問題は、無任所相ゲーリングが同時にプロイセン州内相にも任命されたこと。

パーペン内閣時代、全国の五分の三の面積を占めるプロイセンの地方自治が廃止され、中央政府の直轄になったのは前回記事で書いた通り。

つまり内相フリックの権限と合わせ、軍が中立的・傍観者的立場を採った場合、それに次ぐ実力機構の警察が完全にナチの影響下に入るということになってしまった。

以後、SA(突撃隊)などのナチ組織が警察の後ろ盾を得て、反対派にあらゆる暴行を加えることになる。

伝統的保守派が、卑怯・愚昧・粗暴・野卑・低俗・驕慢・無恥・貪欲・残忍・冷酷・下劣・狂信、その他一切の人間悪の塊である極右的大衆運動を、左翼勢力に対抗するための協力者として自陣に迎え入れたとき、ドイツの運命は決した。

ヒンデンブルクもパーペンもフーゲンベルクもブロムベルクも、そしてナチのプロパガンダに協力していたという廃帝ヴィルヘルム2世の子アウグスト・ヴィルヘルム公も、保守派に属するすべての人々が致命的な思い違いをしていた。

ナチの極右的民族主義が、共産党などの左翼勢力と共に、所詮大衆民主主義という全く同じ幹から派生した二つの醜い枝に過ぎないことに気付かなかった。

彼らの表面上のナショナリズムが自己懐疑と自己抑制、そのための規範意識を一切持たない、「動物的」排外主義でしかないことがわからなかった。

極右的民族主義者の中に、あらゆる伝統的価値に対する嘲笑、既存の指導層に対する獰猛な不服従、それとは完全に対照的な自党派の指導者に対するグロテスクなまでの盲従、物質的利益以外に対する全くの無関心、一切の責任観念の拒否、その裏返しとしての醜悪で卑劣な他罰主義、内的倫理観の完全な欠如があることが見えなかった。

伝統の替わりに群衆心理を国の基礎に据え、適切な代表制を通じて選ばれた、真の意味で優れた少数者による責任ある統治を、賤しい暴民とそれを背後から操るデマゴーグの支配に替えることが、国家にどれほど恐ろしい破局をもたらすかを悟らなかった。

なお、以下の文章には蒙を啓かれた思いがした。

「ヒンデンブルクは保守派の利益を代表する者ではありませんでした」と、伝記著者のヴォルフラム・ピュータは断言する。「彼は厳密な意味で自分をプロイセン保守派だと思っていませんでした。彼が究極的に目指したのは国民の統合でした。この計画に背く人たちが排除されても、彼はそれを仕方がないと考えました」。

社会の階層性という大前提を捨て、平等主義的ナショナリズムという保守派にとっての劇薬を、愚かにも飲み干してしまったのかと思う。

社会の平等化が進み、成員の原子化が進行すればするほど、大衆煽動によって社会のバランスが崩れ、一党派が独裁的権力を振るう危険性が高まる(レーデラー『大衆の国家』コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

無制限の言論の自由が認められれば、単純・浅薄・皮相かつ最も粗野で邪悪で狂信的な意見が常に勝利を占める傾向となる(ル・ボン『群衆心理』ガブリエル・タルド『世論と群集』)。

そうした集団はそもそも過半数を得る必要も無い。

なぜなら原子化し孤立した個人しかいない大衆社会では、狂信的で邪悪な集団に一定数の支持者さえいれば、そうした集団には個人では誰も対抗できない。

民衆を超える権威が不在であれば、民衆の多数派、あるいは擬似多数派を止めるものは何も無く、多数の暴政への歯止めは原理的に存在しなくなる(トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』)。

よって民衆の中で特に愚かで下劣な層を煽動で動かす能力をもったデマゴーグは、たとえそれがどれほど卑劣・軽佻・矮小・醜悪な人物であっても、いやそうだからこそ、異様なまでの力を持つことになる。

そして不幸にして最悪の場合、この時期のドイツのように、醜悪な大衆組織が社会の下層から雪ダルマ式に膨張して遂には国家を乗っ取ることも可能となる。

だから君主制や貴族制などの非民主的制度や、様々な既得権で結ばれた中間団体、超越的価値を志向することにより現世の多数派が強要する価値観を相対化してくれる伝統宗教を、意図的に保存することが極めて重要なのだが、もちろんそんな知恵を持った民衆は絶無に等しい。

民衆は、つねに最も単純な、最も稚拙な、最も原始的な種類の公正さしか、つまりまわりくどいことなどいわずに、すべての人に同じものをあたえてくれる公正さしか、公正な制度であるとはおもわない。しかも、その原始的な公正を絶対的な公正であると思いこんでいるために、貴族主義的な法律にたいしては、なんでもかでも情熱的に反対するのが道徳的であると考えるこの情熱たるや、いかなる法秩序も完全ではありえないという意識をもつ者にはとうてい考えることもできないほど猛烈なものであって、おかげで、結局は民衆が勝利をおさめることになる。(トーマス・マン『非政治的人間の考察』

個人の自由と独立性、平等性が極限まで尊重された結果、事態は反転し、以下のような逆説的仕儀に立ち至る。

民主主義の陥りがちな多数者の専制という事態も、その元を辿っていくと、自然権に表わされるような人間の絶対視に行き着く。個々人が社会的な意見形成の究極の主体だとされ、しかもその個人が自己完結した不動の存在だとみなされれば、意見の決着には数を恃むよりほかなくなる。より良き見解に至ろうとすれば、相手を説得しようとするだけでなく、秀れた意見には説得される用意ができていなくてはならない。説得に応じるということは、自分より秀れた人間がいることを率直に認めることである。ところが、自足した人間には、これが不可能である。その結果、議論や討論は力と力の闘争に変じてしまう。数が力となり、勢い、人々は数を恃まざるをえなくなる。多数決は無限に長い意見形成過程に暫定的に終止符を打つための次善の策にすぎないのに、次第にそれは自己目的と化す。多いことは善いことだと考えられるようになるこうして「本来、民主主義の理想はすべての恣意的な権力を防止することを意図したものであるのに、新しい恣意的権力を正当化するものになってしまう」(『自由の条件』)のである。(間宮陽介『ケインズとハイエク』

そして次のような言葉は誰の耳にも届かない。

フランスの悲しい運命を 偉い人たちはとくと考えてほしい

だが それをもっとよく考えねばならないのは下々の者たちだ

偉い人たちは滅んだ―しかし民衆を民衆の手から

守るのは誰だ? フランスでは民衆が民衆の上に専制を布いた

(『ヴェネツィアのエピグラム(格言詩)』)

坂井栄八郎『ゲーテとその時代』

あらゆる時代のあらゆる国で同じような事態が進行し、「民衆が民衆の上に専制を布」き続け、悲惨な事例が繰り返し繰り返し生れるが、何が問題なのか民衆はその片鱗も理解できず、再び似たような行為を繰り返す、というのが1789年以降の世界史の基本線となる。

これだけ書いて、やっとヒトラー政権成立時までですか。

まだ続きます。

2010年12月25日

グイド・クノップ 『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』 (中央公論新社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

『ヒトラーの共犯者 上』『同 下』『ヒトラーの戦士たち』と同じ著者。

ただし出版元は違う。

本書はナチ独裁確立期に焦点を絞った本。

タイトルの「二〇ヵ月」は1933年1月ヒトラーの首相就任から34年8月ヒンデンブルク大統領死去まで。

本文に入る前にまず準備作業として、マックス・ウェーバー『社会主義』の記事でも書いた、ワイマール共和国の政党名をすべて憶える。

左派から右派への順に、共産党・独立社会民主党・社会民主党・民主党・中央党・人民党・国家人民党・ナチス。

以下各政党について簡単な説明。

政界で極左陣営を形成するドイツ共産党はコミンテルンを通じてソ連に盲従、極右のナチスと共に反議会主義的政党として、共和国末期には議会制を機能不全に陥れるのに貢献してしまう。

1917年反戦を旗印に多数派社会民主党から分離した独立社会民主党は、1920年ボリシェヴィキへの絶対服従を定めた規約に従いコミンテルンに加入するかどうかの問題で左右に分裂、両派がそれぞれ共産党・社会民主党に合流して、ごく初期の段階で存在が消滅。

社会民主党・民主党・中央党は「ワイマール連合」と呼ばれ、この中道・左派三党が共和国の主たる安定勢力となる。

最大政党はもちろん社会民主党だが歴代首相は中央党から出た人物が多い。

民主党は進歩的自由主義政党でマックス・ウェーバーやフーゴー・プロイス(ワイマール憲法起草者)など著名な知識人が加入。

中央党はもちろん、高校世界史でも馴染みのカトリック政党。

この政党は、一時文化闘争の標的となったビスマルク時代からヴィルヘルム2世親政時代、大戦期、共和国安定時代、大恐慌期としぶとく勢力を保持し続けた党で、宗教政党ならではの継続性を持つ。

中央党については、南ドイツのバイエルン地方にのみ「バイエルン人民党」という独自組織があり、これが中央党と友党関係にあった。

このバイエルンの独自性は戦後から現在に至る(西および統一)ドイツでもそうで、全国的保守政党のキリスト教民主同盟は、バイエルン州のみ「キリスト教社会同盟」名で活動していることを頭の片隅に入れておくといいでしょう。

バイエルン人民党は基本中央党と同一行動を取るが、本来中央党よりやや右寄りの政党であり、時に取る別行動が大きな結果を引き起こすこともあった(後述)。

既成政党の右派陣営を形成するのが人民党と国家人民党。

本書では国家人民党は「国家国民党」と訳されている。

普通の日本語の語感だと右派政党に「人民」の名は適合しないように思えるから、この方がいいのかもしれない。

(その場合人民党も「国民党」と訳すことになるのか。余談ですが林健太郎『昭和史と私』では、戦前の日本においては「人民戦線」という言葉が出てくる前は、「人民」は「臣民」に近い語感を持っていて、左翼の間では「民衆」「大衆」の言葉が多く用いられていたという意味のことが書いてあったのが意外でした。)

ただ、私は少々昔から耳に慣れているので、この記事では国家人民党のままにします。

人民党はシュトレーゼマンの所属政党であることをチェック。

帝政派的傾向を持つ両党だが、特に人民党はしばしば政権与党となり、シュトレーゼマンの指導で右から共和国を支えることになる。

しかし共和国末期には人民党と民主党(のち国家党と改称)は勢力・議席を激減させ、主要政党の座から転落する。

国家人民党も稀に政権に参加することがあったが、恐慌襲来後の危機の時代には党内穏健派が勢力を失い、フーゲンベルクという右翼政治家の下、ナチスとの危険極まりない協同関係に踏み出すこととなる。

ヒトラー政権樹立期の政治的プレイヤーとして、まずこのフーゲンベルクは要記憶。

大実業家で新聞・通信・出版社・広告代理店などを支配下に置く「メディア王」だと本書では評されている。

左翼勢力はデマゴーグ的なヒトラーより、大資本に基盤を持つフーゲンベルクこそが真の敵だと見なしていたというが、これはナチを利用しようとした保守派と同じくらい致命的な錯誤だった。

フーゲンベルクはヒトラー以前では最有力の右翼政治家だが、伝統的価値に縛られずより下劣なレトリックとプロパガンダを駆使し、建設的提案は一切せず無恥と無責任に徹してひたすら他党派を罵倒するだけのナチスに、国家人民党は支持基盤を侵食され続ける。

結局、国家人民党はロシア革命期に一時ボリシェヴィキと連立した社会革命党(エスエル)左派と同じような役割を果すことになってしまう。

ナチスは1929年以前は極右の泡沫政党でしかなかった。

大恐慌が襲来した時の政権は、1928年以来のヘルマン・ミュラー内閣。

社会民主党首班の内閣で、中央党・バイエルン人民党・民主党・人民党が与党。

大統領はもちろん、1925年エーベルト死後の選挙で勝利したパウル・フォン・ヒンデンブルクが在職。

ナチの政権獲得にはこのヒンデンブルクという個人の行動が大いに関わっているわけで、この時期別の人物が大統領ならとの思いを抱かずにはおれない。

左派・中道派統一候補を破ったヒンデンブルクの当選には独自候補に拘った共産党の行動が結果として貢献している。

共産党はナチ政権成立後は真っ先に残忍な弾圧を受けるし、本書におけるその描写を読むと確かに心動かされるものがあるが、この大統領選での方針、社会民主党を主敵とする「社会ファシズム論」、議会主義への軽蔑、モスクワへの盲従と暴力革命の主唱がドイツ国民に与えた恐怖感、それがナチへの支持を促進したこと、などを考えるとやはりヒトラー政権成立に対する共産党の責任というものも考えざるを得ない。

なおこの時、バイエルン人民党が中央党の方針に反してヒンデンブルクを支持したことも注目される。

共産党かバイエルン人民党の票が対立候補に入れば、確実に結果はひっくり返っていたと林健太郎『ワイマル共和国』には書いてあった。

(もっともその場合下記の32年大統領選でヒトラーを阻止できたかという問題が残るが、既成政党が右から左までナチスに対抗して団結することが何より重要で、そういう立場から統一候補を立てる展開になるべきだったんでしょう。)

経済破綻による混乱の中、ミュラー内閣は倒壊、1930年議会多数派に依存しない大統領内閣として中央党所属のブリューニングが首相就任。

同年総選挙でナチスが大躍進を遂げ、一躍第二党に。

ブリューニングは議会制維持とナチ政権成立阻止に奮闘するが、緊縮財政とデフレ政策に固執し経済状況はますます悪化。

1932年春の大統領選ではヒトラー当選を阻止するため、社会民主党など左派と中道派がヒンデンブルクを支持し、ヒンデンブルク再選。

32年6月国防軍実力者の将軍シュライヒャーがブリューニングを追い落とし、内閣崩壊、中央党最右派のパーペンがシュライヒャーの傀儡として組閣。

7月総選挙で遂にナチスが第一党。

同月全国の五分の三の面積・人口を占めるプロイセン州の地方政府をクーデタに近い方法で廃止、中央政府直轄に。

シュライヒャーは議会制廃止と独自の権威主義国家樹立のためにナチ運動を利用しようとするが、断固として全権を要求するヒトラーは拒絶。

11月当年二度目の総選挙でナチスは第一党の地位は守ったものの、議席を大きく減らし、さしものナチズムも退潮傾向かとの期待を抱かせた。

12月パーペンを見限ったシュライヒャーが倒閣、自らが組閣。

すると今度は、それを恨みに思ったパーペンがシュライヒャー政権打倒のため、ナチとの連携を目論むのだから酷いもんです。

ヒトラーに政権への道を開いた最も大きな短期的・直接的責任はこのパーペンにあると言える。

本当に最低最悪のボンクラ野郎です。

そしてドイツと世界にとって運命の年、1933年を迎える。

ダラダラ書いてたら、本書の内容に入るまでの準備で一つの記事になってしまいました。

以後かなり続きます。

(続きは以下

ナチについてのメモ その5

ナチについてのメモ その6

ナチについてのメモ その7

2010年11月13日

ナチについてのメモ その4

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

その3に続き、グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち』(原書房)より。

 

 

第6章「謀反人」ヴィルヘルム・カナリス。

帝政時代、ティルピッツ提督率いる海軍に入隊。

第一次大戦時、南米で乗艦が沈没した後、スペインで諜報活動に従事、続いてUボート艦長も務める。

戦後、ローザ・ルクセンブルク殺害犯の減刑に力を貸す。

ワイマール時代に、のちのSD(親衛隊保安諜報部)長官ラインハルト・ハイドリヒと知り合う。

両者は、緊張と対立を隠した、愛憎入り混じった複雑な親交を長く続けることになる。

35年国防軍諜報部長に就任。

ラインラント進駐やスペイン内戦に関して、ヒトラーに的確な情報を提供。

しかしこの頃からナチ体制への疑念を持つようになる。

「上から下まで、どいつもこいつも犯罪者だ。よってたかってドイツを潰そうとしている」このころカナリスは友人にそう言明している。人間は「損か得か、だけで」決断してよいわけではない、「根本的な倫理を守らねばならない」と。

38年夏ズデーテン危機。

この時、参謀総長ハルダー、その前任者ベック、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー、前ライプチヒ市長カール・ゲルデラーらによるクーデタ計画にカナリスも協力。

しかしミュンヘン会談での英仏の屈服、国内でのヒトラーの威信高揚によってクーデタは挫折。

ここで以下のような文章が記されている。

運命は、ヒトラーに味方すると決めたようだ。チェンバレンの歴史的訪問によって、独裁者は、知らないうちに二つの危機を同時に切りぬけていたのである。一つはヒトラーがのぞんでいた戦争の危機。このとき戦争をしていれば、それは1938年にドイツの敗北で終わっていただろう。軍事史家は今日そう考えている。そしてもう一つは、目前にせまっていた国内での失脚の危機。「ヒトラーにとどめをさせるはずだった」。阻止された反乱者のひとり、カール・ゲルデラーは、あきらめたようにそう言った。

こうした見方は同じ著者の『ヒトラーの共犯者 下巻』での記述と著しく異なる。

本書の記述では、38年時点での軍事情勢は英仏(とチェコ)が独に対して優勢であり、開戦すればドイツは敗北しヒトラー政権は崩壊するという、考えうる限りベストの展開になったことになる。

国内クーデタ勃発の場合はいくつかの可能性を以下に空想。

(1)クーデタが成功し、ナチ体制が崩壊、軍人たちの政権の下、徐々にドイツの国内体制が正常化していくのが、最も望ましいパターン。

しかし国内での反乱が新たな「匕首」「背後の一突き」伝説を連想させ、それに力を得てナチが巻き返し、政権を再度奪還する可能性もある。

(2)しかしヒトラーさえ亡き者とされていれば、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラー、ヘスなど誰が後継指導者であっても少なくともホロコーストがあれ程の規模と徹底さで遂行されたとは想定できない気がする。

「ホロコースト抜きの第二次大戦」でも現実に起こったことよりは遥かにマシでしょうね。

あるいは後継者が膨張政策を一時ストップして、国際関係は小康状態が続く一方、国内ではナチ体制が存続することも考えられる。

この場合はどういう結末になるのか、想像しにくい。

(3)しかしヒトラーがクーデタを鎮圧し、生き延びた場合は史実よりもより完全にドイツ国家を掌握して戦争を始めることになる。

だが軍事情勢が英仏優位で、加えて肝心の両国の抗戦意志が固いという想定なら、(後継者が開戦に踏み切った場合の)二つ目と三つ目の場合でも、どの途ドイツの早期敗北は動かないか。

と言う事は、どのように考えてもチェンバレンの宥和政策はやはり間違いだったという結論になるのか。

結局38年時点の各国軍事力をどう評価するのかで結論が根本から変わってきますよね。

「東欧随一の工業国で議会主義が唯一順調に発達した国」と高校教科書にも出てくるチェコがその侮りがたい軍事力で抵抗するうちに英仏軍がドイツになだれ込みナチ体制崩壊となればいいですが、史実より二年早く仏敗北、本土レーダー網と戦闘機隊の未整備な英国にドイツ陸軍上陸成功、なんて事態になってたら・・・・・・。

本書の記述は上記本と整合的ではないが、結局どう解釈すべきなのか、不明です。

ミュンヘン会談後、ドイツ全土で「総統崇拝」がますます高まり、クーデタなど考えられない情勢となる。

カナリス自身もそれにある程度影響された。

彼は依然としていまの体制を、ドイツで考えられるかぎり君主制に次いでベストだとみなしていたので、その体制に逆らう計画をこれ以上ねらなくてもよいことに安堵したのである。また特筆に値することだが、いわば職務上のルートでテロを阻止できる、カナリスはひきつづきそう考えていた。・・・・・ナチの犯罪をリストアップして上官に送ることを、もちろんカナリスはやめることはなかった。帝政時代の、法にもとづいた安定性こそが、めざすべきノーマルな状態であると信じるカナリスは、わらにもすがる思いで、法と秩序にかんする自分の考えを譲らなかった。

しかし第二次大戦開戦後、その期待は完全に裏切られる。

・・・・・開戦から一週間後、親衛隊の特別行動部隊が組織的に大量射殺を行っているという知らせも、とくに誇張したものではないことを、ハイドリヒがカナリスにうちあけた。「そのへんの人間に手を出すつもりはない」と、この乗馬仲間は冷ややかに言った。「だが貴族や坊主、それにユダヤ人は始末しなければならん」。

クラウゼヴィッツの言うように、戦争とは「別の手段をもちいてすすめる政治」であるとすれば、ヒトラーのポーランド侵攻は、もはや戦争ではなかった。ここでは血なまぐさいイデオロギーが戦っていた。そのめざすところは勝敗を決することではなく、生きのびるか殲滅するか、であった。帝政時代に士官候補生だった男は、いまや新しい大元帥の穿った奈落の底を覗き見ていた。「ありとあらゆる道徳を片っぱしから無視して戦争をやっても、勝てるわけがない。この世には、神の定めたもうた摂理があるのだ」と、彼は部長代理のビュルクナーに語っている。

残虐行為への抗議を込めた上申書はカイテルによって無視され、カナリスは自らの職権を用いてユダヤ人など迫害にさらされた人々が逃亡するのを助ける。

フランス降伏後、ドイツが表面的に最も優勢だった時に会談した旧知のフランコには、スペインの中立を密かに勧め、軍内レジスタンスにも接触。

44年2月に解任、軟禁状態におかれる。

同年7月20日事件後、逮捕。

45年4月強制収容所内で絞首刑。

米軍が到着するわずか数日前だったという。

どの章も興味深いエピソードを積み重ねた記述で、実に面白い。

分量のわりに通読は極めて楽。

訳文もよくこなれていて読みやすいが、ごくまれに誤植と思われる部分があった。

できればウーデットを外して、グデーリアンかハルダーを入れてくれればより良かったかとも思うが、まあいいでしょう。

最低限の基礎ができたら、手にとってみるのも良いです。

2010年11月10日

ナチについてのメモ その3

Filed under: おしらせ・雑記, ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち』(原書房)の記事続き。

 

 

第3章「戦略家」エーリヒ・フォン・マンシュタイン。

第二次世界大戦時のドイツで最も有能な将官とも言われる人物。

プロイセンの由緒ある軍人家系の出身。

第一次大戦での従軍と戦後の国防軍への参加は他の人物と同じ。

自分の奉じるプロイセン保守主義とヒトラーの国家社会主義との間にどれほど深い溝があるか、マンシュタインには長い間わからなかった。早い時期にナチ政府の人種政策と衝突し、国防省の決議に公然と抗議していたにもかかわらず。1934年2月28日、国軍相ヴェルナー・フォン・ブロムベルクは、「アーリア人条項」を陸軍にも導入することを決めた。・・・・・この条項に反対するには市民として信念を主張する勇気が必要だった。・・・・・マンシュタインがはっきり反対したのは、ただこの条項をさかのぼって適用すること、つまりすでに戦友であるユダヤ人を追放することに対してのみであった。それを将来に適用すること、つまり今後ユダヤ人の入隊を認めないということには、彼もさほど問題視しなかったようだ。

34年レーム事件の折、過去ヒトラーの政権奪取を妨害しようとしたシュライヒャー、ブレドウ両将軍が殺害される。

これに対するマンシュタイン、参謀総長ベックの抗議は不発、ヒンデンブルク死去によって軍はますますヒトラーとその運命を結び付けられる。

38年戦争への危機が高まる中、ベックは辞任、後任はハルダー。

40年の対仏戦、当初シュリーフェン・プランと同じくオランダ・ベルギー方面に主力を置く作戦が採られるところだったが、そのように見せかけて戦車通過不可能と見られていたアルデンヌの森を突破し大西洋岸まで進出、オランダ・ベルギー方面にひきつけた仏軍大部隊を分断・孤立化させるというマンシュタインの案が採用、これが大成功を収め6月にフランス降伏。

独ソ戦では最南端を行く軍を指揮、クリミア半島とセヴァストポリ要塞制圧成功。

以下はその時期のエピソード。

マンシュタインは「総統」に、ユダヤ人に何が起きているのかを質問した。この同じころ、アウシュヴィッツ-ビルケナウでは、数万、数十万ものひとびとが虐殺されていたというのに、ヒトラーは(ピッカーによれば)こう答えた。「ユダヤ人には自前の国家を作ってやらねばならん。はじめはパレスチナを、それからマダガスカル島を考えた。だがユダヤ人国家はわれわれがコントロールできるものでなければならん。そこでポーランド総督領のルブリンに作ることにした。そこならユダヤ人国家をわれわれがコントロールできる」。「絶滅」にはひと言も触れなかった。マンシュタインはこの回答に満足し、それ以上追求しなかった。

本書では、前線の背後で行われていた絶滅収容所以外での虐殺についても、マンシュタインは薄々気付いてはいたが深く知ることを拒否したと、批判的に記している。

ソ連赤軍のスターリングラード包囲網突破に失敗、軍事作戦上ヒトラーと度重なる衝突。

43年7月クルスクで大戦車戦が行われるが、より早期の決戦を主張していたマンシュタインの意見は容れられず、戦機を逸し敗北。

以後戦争の主導権を赤軍に完全に奪われる。

44年3月にヒトラーにより解任。

ロンメルと同じく、軍内レジスタンスと接触しその行動を黙認するが、自身は積極的行動を起こさず。

戦後49年になってイギリスの軍事法廷に告発され禁固刑を受けるが、戦勝国からもチャーチルなどが抗議の声を挙げ、53年釈放。

その後西ドイツ再軍備にあたって徴兵制などについてアドバイスを請われる。

1973年に死去。

第4章「虜囚」フリードリヒ・パウルス。

1890年官吏の両親の間に生まれ、陸軍入隊。

このパウルスが戦略教官として、のちに「電撃戦」の主力となった装甲部隊(機甲師団とも言うか)をグデーリアンと共に育成した一人であることは、意外に無視されていると記されている。

ヒトラー政権成立前から親ナチ派軍人として目立っていたライヘナウの下に勤務。

参謀本部第一部長に就任。

独ソ戦二年目、東部戦線南方での攻勢開始にあたって、第六軍司令官に(推薦者のライヘナウはこの時病死)。

42年8月スターリングラード攻撃開始。

市街戦に入って進撃停滞、11月には赤軍によって包囲される。

補給を断たれ、救援も失敗、適時撤退もヒトラーに拒否され、43年1月末降伏。

長くソ連の捕虜となり、プロパガンダの道具に使われる。

53年には東ドイツに「帰国」、自身は共産主義的信念は持たないが、西ドイツ再軍備・NATO加盟への反対意見などを公表する。

57年に死去。

第5章「パイロット」エルンスト・ウーデット。

少年時代からライト兄弟に憧れ、パイロットの道に進み、第一次大戦で戦闘機乗りに。

有名な「レッド・バロン」ことマンフレート・リヒトホーフェンの隊に加わる。

(この時期ゲーリングと知り合う。)

敗戦後、航空ショーのパイロットや映画出演で著名人に。

ミュンヘン一揆後、リヒトホーフェン戦隊戦友会がゲーリングを除名したのを支持したような立場だったが、ヒトラー政権成立後、1933年5月にナチ入党。

知名度を生かして、国内外でナチの広告塔の役割を果す。

批判的なアメリカのジャーナリストの質問に対し、彼は大口をたたいて請けあった。「ドイツでのヒトラーの立場が、外国では理解されていないし、正しく評価されていない。ヒトラーは自分がのぞむことをしているのではない。そうではなくて、彼の後ろにいる4000万ドイツ人がのぞむことをしているのだ。ドイツで起こっていることは、誇大に報告されている。確かなことが一つある。皇帝が復位することはないだろうということだ。そうした時代は終わった。ユダヤ人がひどい扱いを受けたケースもいくつかはあるが、実際より大げさに取りざたされている。ドイツのユダヤ人は自分で自分の面倒をみる良き市民であり、危害をくわえられることはない。そして他のひとびともみな、共産主義政党にくわわっていなければ、普通に、平穏に暮らしている。世の中の動きは、共産主義勢力の膨張と蔓延に対し、何らかの手を打たねばならない段階に達したからね。」

のちに電撃戦の勝利に貢献したシュトゥーカ(急降下爆撃機)の評判を高めるために利用される。

35年ドイツ再軍備宣言、ヴェルサイユ条約で禁止された空軍の存在を公表。

ちなみに、第二次大戦において、イギリス・ドイツは独立の空軍が存在したが、日本・アメリカは航空戦力はすべて陸軍または海軍に所属していたことを頭の片隅に入れておく(フランス・イタリア・ソ連などは・・・・・忘れた・・・・・)。

同時期ウーデットも空軍入り。

長い年月親密な友人同士であったカール・ツックマイヤーとエルンスト・ウーデットにとって、1936年は別れの年となった。「この国を永久に立ち去って外国へ行くんだ。もどってきてはならない。この国にはもはや人間の尊厳など存在しない」。ウーデットは友人にそう頼んだ。[ツックマイヤーはユダヤ人であった]。「で、きみは?」とツックマイヤーはたずねた。「ぼくは空を飛ぶことのとりこだ――もう逃げられない。でもいつの日か、悪魔がぼくたちみんなをさらって行くだろう」。ふたりは二度と会うことがなかった。

技術局長を経て、39年空軍装備局長に。

ライバルである元ルフトハンザ取締役エアハルト・ミルヒが航空省次官。

ゲーリングはウーデットとミルヒを意図的に競わせる態度を採る。

しかしウーデットはあくまで元パイロットで、技術的側面には造詣が深くとも、空軍力生産機構を組織する能力には欠け、次第に追い詰められていく。

40年英本土上空の決戦で、独空軍は英空軍に完敗。

ウーデットは41年11月に自殺。

テスト飛行中の事故死と公表される。

あと一人分終わりませんので、また続きます。

2010年11月7日

グイド・クノップ 『ヒトラーの戦士たち  6人の将帥』 (原書房)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:00

『ヒトラーの共犯者』下巻が済んだ後にこれも読む。

原著は1998年刊。

本書では軍人を扱う。

副題の「6人」は、ロンメル、カイテル、マンシュタイン、パウルス、ウーデット、カナリス。

やはり本書でも一人だけ全く未知の人名がある。

ウーデットは著名パイロット上がりの空軍装備局長。

 

 

第1章「英雄」エルヴィン・ロンメル。

1891年シュヴァーベンの教養市民層の家に生れる。

軍に入隊、第一次大戦で各地を転戦、多くの勲章を受ける。

ワイマール共和国でも軍に留まるが不遇。

そしてヒトラー政権樹立を迎える。

ヒトラーが権力を固めたナチ政権の初期は、とりわけ軍ヒエラルキーにおいて旧エリート層に考慮する必要があったので、ロンメルの目には体制の肯定的な面しか見えなかった。服従・規律・秩序といった軍隊的な美徳を政権は尊重するらしい。多くのひとびとと同じように、彼もまたそのことを歓迎した。たとえ最終的にその政権が崩壊して、ドイツに対し世界中が軽蔑を浴びせることになるとしても・・・・・・

ただし自身はナチ党には最後まで入党しなかった。

1940年の対フランス戦では装甲師団を指揮し、迅速果敢な進撃で殊勲を挙げる。

開戦当初中立を守っていたイタリアがこの年フランス降伏直前に参戦、同年9月イタリア軍がリビアからエジプトに進撃するが、英軍の反撃を受け反ってリビア東部キレナイカを占領される。

41年2月ロンメルが伊支援のためアフリカ上陸、一時英軍を押し戻すが結局後退。

42年に再度攻勢に出て、6月にキレナイカの英軍拠点トブルクを陥落させる。

その勢いのままエジプト領内に攻め込むが6月末エル・アラメインの戦いで撃退。

ちなみに42年6月と言えば、太平洋戦線ではミッドウェー海戦があった時期で、偶然にも両地域で戦いの転機を迎えている。

(そのちょうど二年後、大戦末期の44年6月にはノルマンディー上陸作戦とマリアナ沖海戦が同時期に行なわれていることは、児島襄『太平洋戦争 下』(中公文庫)記事で指摘済み。)

10月から英軍司令官モントゴメリーがさらなる反撃に出て、11月には米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、東西から独伊軍を挟撃。

ロンメルは撤退を進言するが、それを拒否するヒトラーと衝突、43年3月ロンメル解任・帰国。

5月ドイツ・アフリカ軍団は降伏。

アフリカの戦いがゲッベルスの大々的なプロパガンダで喧伝されたこともあって、ロンメルの人気は帰国後も衰えず。

しかし著者はロンメルの指揮能力は認めながらも、アフリカで戦ったドイツ師団は3個だったのに対し、東部戦線では150を超える師団が死闘を繰り広げていたとして、アフリカ戦線はあくまで副次的戦場だったとしている。

頑迷固陋な戦争指導を繰り返すヒトラーへの疑念が膨らんでいく。

自分の頭で考えることのできるロンメルのような人物が、ユダヤ人の国際的陰謀にかんするナチ・プロパガンダの理論に真剣に同調していたなどと、とうていありえることではない。だがナチ首脳部の考え方に対し、ロンメルの態度がどれほどナイーヴであったかは、1943年のあるエピソードによく現れている。あるときのヒトラーのテーブルトークにおいて、ドイツのユダヤ人政策が、外国での国際的威信の低下を招いていることを、ロンメルは強く言上する。ドイツの名声を取りもどすために、彼はこんな提案を行った。「ユダヤ人の大管区指導者がひとり生れれば、わが国の世界での立場は良くなるでしょう」。これはヒトラーの激昂をかった。「ロンメル、貴君はわたしの意志を何一つ理解しておらんのか」。ロンメルがその場を辞したあと、ヒトラーは信じられないといった風情であっけにとられていた。「ユダヤ人がこの戦争の原因であることが、あの男には理解できないのか?」と。実際ロンメルはそう理解してなどいなかったが。

連合軍のフランス上陸に備える西方軍の一つの軍集団の最高司令官に就任するが、44年6月のノルマンディー上陸作戦は阻止できず。

44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に連座したことはよく知られている。

反ヒトラー派と接触しながら、暗殺などの行為に関与することは拒否していたが、10月に自殺を強いられたのは、ライバルのカイテルなどの策略によると見られる。

本書では積極的レジスタンスに加わらず、表面的忠誠に囚われてヒトラー打倒のために必要な決断を為さなかった人物としてやや厳しい評価を下しているが、それでもやはり魅力的な側面を多く持っていたことは伝わってくる。

第2章「協力者」ヴィルヘルム・カイテル。

農場主の息子に生まれ、軍に入隊、第一次大戦中に参謀本部首席将校に。

この頃、後に国防相となるブロムベルクと知り合う。

敗戦後も新生国防軍に残留することに成功、陸軍編成局長に。

33年ヒトラー内閣が成立、ブロムベルクが国防相、ノイラートが外相。

このブロムベルクとノイラートは、保守派とナチとの(致命的な)連携の象徴として名前を憶えておいた方が良い。

カイテル自身はヒトラーの熱心な支持者に。

38年国防相ブロムベルク、外相ノイラート、陸軍総司令官フリッチュがいずれも解任され、保守派が追放。

後任国防相は置かれず、陸軍総司令官はブラウヒッチュ、外相はリッベントロップ、国防軍最高司令部が新設されその長官にカイテルが就任、アルフレート・ヨードルが作戦部長役に。

国防軍最高司令部長官とは大仰な名前だが、実際はヒトラーのイエスマンに過ぎなかった。

著者は、この事件によってヒトラーは軍を掌握し、完全な全体主義的権力を確立したとしている。

以後カイテルはヒトラーへひたすら追従し、捕虜・民間人殺害を正当化し、独ソ戦を「絶滅戦争」に転落させるのを不可避にする命令を発布。

・・・・・カイテルは、軍部にナチ「精神」を形成することにいそしんだ。たとえば彼は、かつて皇帝に仕える中尉であったというのに、ヴィルヘルム2世生誕80年祝典へ軍部の参加をいっさい禁じることにより、この精神形成に役立とうとしている。

ヒトラーは古きプロイセン軍を模範として国防軍に示すのを好んだが、当のプロイセン軍そのものは、不道徳な命令に従うことを重大な犯罪行為とみなしていた・・・・・。したがって犯罪的な命令を作成したり発行したりすることは、本当は軍隊の――もちろんプロイセンの――伝統とはもはや何のかかわりもなかった。それどころか、カイテルをはじめとする将校たちは、軍の伝統という基盤をとっくの昔に捨てていたことになる。

また戦局の悪化とともに脱走と見做された行為を裁判抜きの即時射殺で報いるよう命じている。

46年ニュルンベルク裁判で絞首刑。

まだ二人しか終わりません。

続きます。

(追記:続きは以下

ナチについてのメモ その3

ナチについてのメモ その4

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