万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年6月19日

松本佐保 『バチカン近現代史  ローマ教皇たちの「近代」との格闘』 (中公新書)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 01:53

近世以来の教皇権の衰退は、「教皇のバビロン捕囚」と「シスマ(教会大分裂)」を経て、宗教改革が勃興、三十年戦争とウェストファリア条約でカトリックとプロテスタントが同権となる、と進んできたが、本格化はフランス革命後。

本書も主にそれ以降の時期を扱っている。

以下、近代における歴代教皇の概略。

 

 

ピウス6世(在位1775~1799年)

ナポレオンのイタリア遠征で教皇領占領。

1797年逮捕されフランスに連行、1799年死去。

 

 

ピウス7世(1800~1823年)

教皇領が一時返還され、1801年ナポレオンとコンコルダート(政教条約)締結。

1804年ナポレオン皇帝戴冠式に出席。

その後、教皇領は再占領され、7世は軟禁。

ウィーン会議で旧領回復、ロンバルディア・ヴェネトと共にイタリアの実質的支配者となったオーストリアの保護下に入る。

 

 

レオ12世(1823~29年)

ゼランティ(非妥協派)と呼ばれる超保守主義を堅持。

 

 

ピウス8世(1829~30年)

前任者と同様の立場。

ルイ・フィリップの七月王政を承認せず。

 

 

グレゴリウス16世(1831~46年)

自由主義的な親仏派と保守的な親墺派の対立が伊国内で顕著になる。

バチカン内でもゼランティと穏健改革派が対立。

教皇自身は超保守派で、メッテルニヒの忠告すら聞かず。

 

 

ピウス9世(1846~78年)

即位当初は穏健自由主義の親仏派と見られ、「覚醒教皇」と呼ばれる。

しかし1848年革命では対オーストリア戦に中立を維持。

教皇領で蜂起が勃発し、ローマ共和国が成立するが、ルイ・ナポレオンに倒される。

以後教皇は保守的になり、サルデーニャ王国の統一政策と対立。

1869~70年第一次バチカン公会議(300年ぶりの公会議)を開催。

1870年普仏戦争中にイタリア王国軍がローマを占領、翌71年にはローマに遷都。

以後教皇は「バチカンの囚人」としてイタリア王国と対立。

だが、1882年三国同盟成立で、オーストリアによる支援の希望も少なくなる。

 

 

レオ13世(1878~1903年)

伊首相クリスピ(任1887~91、93~96年)の親独政策に対し、仏に接近。

1891年「レールム・ノヴァールム」回勅。

労働者保護を主張したもので、これがキリスト教民主主義とカトリック系労働組合運動に繋がる。

仏、西、ベルギー、カナダでの保革両派の対立を調停。

独とも関係を改善し(本書で文化闘争への言及が無いのは奇妙)、英国国教会とも接近。

ただし、米国台頭には批判的視点を持つ。

また、大日本帝国憲法制定に当たって、その宗教の自由保障に祝福の手紙を日本に送ったとのこと。

 

 

ピウス10世(1903~14年)

保守的で前任者の施策の多くを後退させる一方、ブラジル・ボリビア・ペルーの国境紛争を調停、ロシアとの交渉ではポーランド・カトリック教会の状況を改善し、ポグロム(ユダヤ人迫害暴動)を毅然として非難。

社会主義台頭に際して、信徒の政治活動参加禁止を緩和、伊国内の自由主義与党ジョリッティと協力。

 

 

ベネディクト15世(1914~22年)

第一次大戦に中立、伊参戦に反対したため親独的との非難を受ける。

英のパレスチナ外交に警告、平和外交を推進。

1919年ストゥルツォ神父のイタリア人民党結成。

 

 

ピウス11世(1922~39年)

共産主義の脅威に直面。

ムッソリーニはカトリックの影響力回復を代償に人民党を解体していく。

のちに戦後イタリアの首相となるデ・ガスペリは人民党内で社会党とも団結し、ファシスタ党と対決することを主張したが容れられず、地下に潜行、バチカン市内にかくまわれ、ストゥルツォは英国に亡命。

1926年人民党解散、29年ラテラノ条約、バチカン市国成立。

1933年7月にはナチス・ドイツとも政教条約締結。

しかしファシストの暴力やナチの人種主義を非難する回勅も発している。

1937年「とてつもない懸念とともに」では、人種・民族・国家の神格化を批判した。

 

 

ピウス12世(1939~58年)

批判者からは「ヒトラーの教皇」との非難すら浴びせられる人物。

独ソ戦では独に近い立場だったとも言えるが、1940年にはドイツに占領されたオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの各君主に同情の手紙を送っている。

また仏のレジスタンスを保護、ナチの暴状が激しくなると米英に接近。

ソ連には一貫して警戒と批判を保つ。

この教皇が原爆投下を糾弾したことは日本人として忘れてはならないだろう。

1943年8月ナチがローマのゲットーに侵入した際にはバチカン内にユダヤ人を保護。

ホロコーストへ一定の抗議は行っていたが、それが100万単位の規模とは認識していなかったかも、と記されている。

冷戦下、米国と急接近、元はプロテスタント国家のため疎遠だったが、ニューヨーク大司教スペルマン枢機卿を通じ、ジョゼフ・ケネディ(大統領ジョンの父)ら米政界とも親交を深める。

戦後伊国内ではキリスト教民主党を支援。

 

 

ヨハネ23世(1958~63年)

1962(~65)年第二次バチカン公会議開催。

エキュメニズム(教会統一)を推進。

無神論と物質主義に対抗して、他宗派・他宗教との協力と寛容を説く。

(現実の共産主義国家との共存を説いた「地上の平和」回勅については本書では記述無し。)

その没後、スペルマンが後任教皇に就任する見方もあったが、米国のヴェトナム介入支持発言がネックとなり実現せず。

後の破滅的結果を見れば、それで良かったと言える。

 

 

パウロ6世(1963~78年)

公会議第二会期を継続。

リベラル派ジョン・コトニー・マリー(『ルネサンスの歴史』でルターを評価するカトリック権威者として少しだけ名前が出てくる)と保守派のヨーゼフ・ラッツィンガー(後のベネディクト16世)が対峙。

ラテン語が義務化されていたミサにおいて、各国語を正式に許可。

教皇の行動範囲制約を解除し、世界各国を積極訪問。

西ドイツの東方外交と連携し、東欧共産圏と交渉を持つ。

ただし、ラテン・アメリカで急進的な聖職者が説く「解放の神学」にはジレンマに満ちた対応をせざるを得ず。

 

 

ヨハネ・パウロ1世(1978年)

在位わずか34日。

伝統派と改革派の対立の中、改革派として登位したが、直後に病死。

 

 

ヨハネ・パウロ2世(1978~2005年)

保革両派の妥協で選出。

ポーランド人で、非イタリア人として450年ぶりの教皇。

パウロ6世の理念に忠実だが、「解放の神学」は許容せず。

「解放」とはあくまで資本主義的唯物論からの脱却であり、それは政治闘争では達成され得ないと唱える。

これは非常に立派な見識だと思う。

物質的欲求を精神の上位に置く点では、共産主義者も新自由主義者も変わりない。

その意味で、米国にこの教皇を褒め称える資格があるのか疑う。

1981年暗殺未遂に遭遇。

東欧共産圏への影響力拡大を恐れるソ連KGBが関与したと見られる。

1989年には東欧共産圏が崩壊。

日本を含む多数の国を訪問。

中南米では急進的聖職者と権威主義的政府の双方を批判。

ユダヤ・イスラム教との和解を推進、東方正教会とも関係を改善、エルサレムの中立化を主張。

発展途上国での信者が急増(1978年3億4000万から2005年11億)。

 

 

ベネディクト16世(2005~2013年)

保守派のラッツィンガー枢機卿。

ドイツ人で生前退位。

 

 

フランシスコ(2013年~)

アルゼンチン出身、初の南米出身者教皇。

あと、イエズス会出身で初の教皇だということは本書で初めて知った。

 

 

 

読みやすい。

手ごろ。

テンポ良く読み進められる文章。

高校世界史の空白を埋めてくれる良書です。

2013年2月6日

ムッソリーニについてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, イタリア — 万年初心者 @ 12:42

ニコラス・ファレル『ムッソリーニ 下』(白水社)記事続き。

1939年9月1日、独がポーランド侵入、9月3日第二次世界大戦勃発。

イタリアは中立を声明。

グランディは、ドイツが防共協定・鋼鉄条約双方を破ったと主張。

同年末には、ファシズム大評議会などにおいて、バルボが同盟の切り替えを公然と主張、チァーノは反独的と見なされる演説を行う。

(このチァーノは少し前には参戦に傾いていたような態度も示しており、本書での評価は甚だ低いが。)

実際、イタリアの軍備は主要国としては全く貧弱極まるもので、その基盤となる工業力を中心とする基本的国力も劣勢であった。

本書で例示されている数字では、39年時点の鋼鉄生産量は、伊が240万トンであるのに対し、英1340万、独2250万。

この状況では、前回記事で示したような心理的外交戦の段階であればまだしも、実質的な軍事力だけがものをいう戦時においては、イタリアが持っていた行動選択の余地は極めて限られたものにならざるを得なかった。

1940年1月、ムッソリーニは、ソ連との不可侵協定破棄と英仏との交渉開始を、ヒトラーへの書簡で提案している。

3月、仏首相がダラディエからレイノーへ交代、5月にはチャーチルが英首相に就任。

戦局の推移に伴い、ムッソリーニも徐々に独寄りの姿勢を見せ始めるうちに、40年5月西部戦線でドイツが大攻勢に転ずる。

フランスが降伏寸前となった6月、ついにイタリアも宣戦布告。

あくまで短期での勝利を予測してのことだが、結果として破滅への決定的な一歩となった。

インドロ・モンタネッリは、彼のイタリア史シリーズ中の1940~43年を扱った巻の序文で、その巻を書くことが彼にとって他の何より辛い思いで満たした――その辛さはムッソリーニや彼の配下の将軍たちだけでなく、イタリア国民自体から、「わが国の人々の欠点のなかでも軍事的特質が完全に欠けていること」からもたらされた、と書いている。

何度も書いていますが、モンタネッリのイタリア史を全巻翻訳で出してもらえませんかねえ。

訳者の藤沢氏も亡くなってしまいましたが。

参戦後、即座にマルタ島・コルシカ島・エジプトへ軍事行動を起こすのが有効だったと思われるが、実際にはそうせず、ヒトラーは仏降伏後のペタン政権への配慮から仏南部や北アフリカを即時占領しなかったが、もしこれを実行に移していれば英国は地中海から完全に一掃されていただろうとされている。

7月、バトル・オブ・ブリテンで、英本土上陸作戦失敗。

9月、独の短期勝利が無くなったことを悟らなかった日本が決断したことによって、日独伊三国同盟が結ばれたが、10月には仏ペタン、西フランコの両者とも参戦を拒否。

ここで有無を言わせずジブラルタルや北アフリカを占領して仏・西を巻き込んでいれば、また違った展開も考えられたという。

日本と仏・西の命運が決定的に分かれたのはこの時期ですが、フランコらはナチス・ドイツの大攻勢を身近に見ていたのに分別のある選択をしたと言うべきか、あるいは身近に見ていたからこそその先行きが見通せたと言うべきなのか。

戦前日本がスペインと同じ道を歩めなかったのは、何度考えても痛恨の極みです(戦前昭和期についてのメモ その5参照)。

しかし考えてみれば、フランスだって下手すりゃハンガリー・ルーマニア・ブルガリア等の従属的枢軸同盟国の一員という立場で終戦を迎える可能性があったわけで、俗な言葉で言えば、たとえハッタリ半分でもフランスに戦勝国の地位を確保することに成功したド・ゴールはやはり大したもんです(エリック・ルーセル『ドゴール』参照)。

伊はバルカン支配を企図し「並行戦争」を遂行、10月ギリシアに侵攻(同国はファッショ的なメタクサス政権下にあったのだが)。

6月のソ連によるバルト三国併合とルーマニア北東部奪取を受けて、同じ10月ドイツはルーマニアに進駐、同国の油田を手に入れる。

独伊の戦略が全くバラバラで、ヒトラーがソ連打倒を考え始めたのに対し、ムッソリーニは地中海方面を重視していた。

これはまだしもムッソリーニの方が正しかったと評されている。

確かに対ソ戦開始はヒトラーにとって致命傷となりましたし、それよりエジプトから中東地域に侵攻し、一年後参戦する日本と連携してインドになだれ込んで対英独立を煽り、米英世論へ衝撃を与えるというシナリオの方が、枢軸国にとってはまだしも良かったのかもしれないが、果たしてそれがどこまで現実的だったのかと言えば心許ない。

「並行戦争」では、伊軍の失態続く。

侵攻したギリシアで苦戦、40年11月タラント軍港が英軍に空襲され、主力戦艦3隻が一気に行動不能となり(このタラント空襲を見て山本五十六が真珠湾攻撃を構想する)、9月のエジプト侵入は即撃退される。

12月にはバドーリョが参謀本部長から解任される。

40年11月から41年3月にかけて三国同盟にハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが加入。

41年2月、ロンメル率いる独アフリカ軍団が上陸。

4月、エチオピア喪失、三国同盟に加入を拒否したユーゴに侵攻、同月ギリシアが降伏。

最後の電撃戦勝利となったユーゴで、旧構成国のクロアチアは従属的独立国となり、ウスターシャと呼ばれるファッショ的政党が支配。

これら占領地域でユダヤ人狩りが行われるが、伊がしばしば介入しユダヤ人を救う。

すでに独伊が運命共同体になっていたと通常は思われるこの時期、ムッソリーニが抱いていた、ヒトラーとドイツへの不信感には驚かされる。

「わたしは・・・・ドイツ人には吐き気がする・・・・個人的にはヒトラーと彼のやり方にはうんざりだ。会談の前にベルを鳴らす、あのやり方は好きになれない。ベルを鳴らすのは給仕を呼ぶときだ。そしてあの会談ときたら、いったい何なのだ?退屈で無意味な独り言に五時間もつきあわなくてはならないのだから。・・・・アルプスの渓谷の要塞化をずっと続けているが、いつか役に立つだろう。」

「ヴェネト川沿いに数千門の大砲を並べなければならない。なぜならあのあたりからドイツ軍はイタリアに侵入してくるだろう。アルト・アディジェの険しい峡谷は簡単に封鎖できるから、あそこからは来ないだろう・・・・だが、われわれはふたつのことを祈らねばならない。戦争がドイツにとっては長く消耗するものになることと、妥協で終わることだ。そうすればわれわれは独立を保てる。」

41年6月22日、独ソ戦開始。

日本だけでなく、ムッソリーニも全く予期していなかった。

英国勝利の可能性や、将来の対独戦まで口にするようになる。

12月、モスクワ郊外での赤軍の反撃で、ヒトラーの短期決戦の目論見は潰え、ほぼ同時に日米開戦、独伊は対米宣戦。

42年中、補給路を扼す重要拠点であったマルタ島攻略に失敗、北アフリカ戦線で敗北。

42年11月、ペタンを排し、仏全土とチュニジアを占領。

ムッソリーニは、占領地での独による強圧的な政策を懸念し、42年11月にヒトラーに独ソ講和を進言している。

この独ソ戦には伊軍も従軍していたが、当時亡命中の伊共産党指導者トリアッティが伊軍捕虜に対して極めて冷酷な態度を示していたことが記されている。

著者によると、ムッソリーニは(仏ヴィシー政権とは異なり)、ホロコーストへの協力はせず、フランコも独に懸念を示したという。

(ただしイタリアからユダヤ人の移送が全く行われなかったように書いているのは著者の明らかな事実誤認だ、と訳者は指摘していたと思う。)

また、ムッソリーニが、かつての個人的友人で、戦後イタリア政界で活躍することになる、社会主義者ピエトロ・ネンニを保護したことも記している。

ここで、ヴァチカンの指導者、教皇ピウス12世(在位1939~58年)がホロコーストを公然と非難しなかったとの近年の批判は当たっていない、ヒトラーがヴァチカン接収計画を持っていたことが明らかになっており、もし公然の反対行動を取れば、それが実行され、カトリック教会が水面下で行っていたユダヤ人保護が不可能になり、より多くの犠牲者が出たかもしれない、アングロ・サクソン系メディアのように、白黒をはっきり割り切って道徳性を判断することは不当だ、と書かれているのは非常に興味深い。

43年1月、トリポリ陥落、カサブランカ会談で日独伊に無条件降伏を求めることをルーズヴェルトとチャーチルが決定。

ムッソリーニは、親独派の参謀本部長カヴァッレーロ元帥を解任、アンブロージョ将軍に替え、チァーノ、グランディ、ボッタイも更迭、PNF書記長にはスコルツァ就任。

43年3月、北伊で大ストライキ発生、5月、チュニジア喪失。

時期が明確に読み取れなかったが、秘かに単独講和を打診してきた伊に対して、チャーチルはやや柔軟な姿勢をみせたが、イーデン(40年12月よりハリファックスに替わって再度外相就任)が拒否したと書かれている。

本書で印象的なのが、このイーデンに対する評価の低さ。

この人は、長い間チャーチルの影に隠れ、戦後やっと首相になった際はスエズ動乱介入という失策を犯して短期間で辞任したわけで、その名声の大部分は戦前の反宥和派政治家としてのキャリアから来ているはずですが、本書のように戦前の言動を批判的に見られては立つ瀬がないですね。

43年7月、連合国軍がシチリア上陸、8月全島占領。

中学レベルの基本事項確認ですが、日独の降伏が1945年であるのに対し、伊は43年に決定的時期を迎えたことをチェック。

敵軍が伊本土に迫る状況で、国王と上記アンブロージョを中心とする軍、およびファシスト内部でのグランディら、という二つの陰謀が進行するが、この両者には直接・密接な関係は無かったとされている。

これらの計画は行動方針が不明確であり、ムッソリーニを完全に排除するのか、それとも彼に分離講和を結ばせるのか、休戦後に対独宣戦布告をするのか、それとも中立を守るのか、で意見は一致せず。

一方、親独的なファリナッチによる陰謀も存在した。

7月24日、ファシズム大評議会(ちなみにメンバー28人と記されているが、私はこの機関を国会に替わった同種のものと見なしていたので、もっと構成人数が多かったと思っていた)で、統治権を国家機関と分け合い、軍指揮権を国王に返還する動議を、グランディが提出。

この動議は、表向き王室批判の印象を与えていて、さらに事前にムッソリーニと協議した際、彼にとっても利益になると見せかけていた。

(王室に批判的なのに軍指揮権を国王に返還するというのは、危機的状況であるのに国王が安穏として自らイニシアティヴを取ろうとしないことを非難するといったニュアンスだったと思うが、確かではないです。この辺うろ覚えで申し訳ありません。)

上述の通り、グランディはファシスト内部での反ムッソリーニ計画の紛れも無い中心人物である。

この人の名は、塩野七生『サイレント・マイノリティ』で知ったが、これほど重要な役割を果たしていたとは本書で初めて気付いた。

裏切りを自覚しつつ、ムッソリーニは強硬措置に出ず、微妙な状況のまま採決が行われ、グランディ、デ・ボーノ、チァーノ、左派ファシストのボッタイら19人が賛成、事前謀議に関与していながら態度を翻したスコルツァら7人が反対、1人が棄権。

これは体制内部の政変であり、左派のレジスタンス神話は完全な虚構だとされている。

7月25日、国王謁見時にムッソリーニ逮捕。

バドーリョ政府成立、PNFなどを解散。

グランディはスペイン・ポルトガルを通じた講和打診のため出国、このため結果的に命が助かり、60年代まで伊に戻らず、後に自己正当化の色彩の強い文章を残している。

ムッソリーニは、ナポリ湾のポンツァ島からサルデーニャとコルシカ間にあるマッダレーナ島を経て、アペニン山脈のグラン・サッソ山へ幽閉される。

ちょっと詳しい概説書では、「大評議会での解任決議→国王による逮捕」という流れは載っているが、両者間はそもそも事前計画において密接な関係があったわけでなく、因果関係は明確ではない、前者は法的正当化の根拠となったのみで、決定的なのは後者の方だったとされている。

(しかし、モンタネッリの著書では、ファシスト内部の反抗を評価し、国王と軍には低い評価のみを与えているそうで、著者もそれに異を唱えるような記述は無く、この辺ちょっと不可解。)

このような伊内部での激変にも関わらず戦争は継続、イーデン(また出た)の主張によって爆撃が強化、8月にミラノ・トリノが空襲を受ける。

モンタネッリはこれを連合国の「盲目的な官僚的犯罪」と呼んでいるそうですが、伊でそうなら、東京大空襲や原爆投下で日本もいくらでも文句が言えます。

あくまで無条件降伏を要求する連合国とドイツ軍の脅威との板ばさみとなり、どっちつかずの態度をとるうちに、独軍が侵入し伊軍を武装解除。

9月、国王とバドーリョはローマ脱出、連合国と休戦、国民解放委員会(CLN)結成(反王政派が多数)。

結局10月に対独宣戦を行ったが、より早い段階で断固としてそうしていれば、独の抵抗を排除し、2年間の戦争と内戦を避け得たとされている。

9月にドイツが特殊部隊によってムッソリーニを奪還、以後のムッソリーニはペタンと同じく、傀儡色の強い役割を果たすことになる。

12月、サロでイタリア社会共和国を宣言、ナポリ以南のバドーリョ政権と対立するが、この両者が傀儡的存在だったと著者は評している。

サロ共和国では、左派ファシストによる社会主義政策が推進され、44年1月、チァーノ、デ・ボーノが処刑される。

同月南部での主権を認められたバドーリョ政権に、スターリンとトリアッティは暫定的支持を与えるが、6月にはボノーミ挙国一致政権に交替。

この時期の共産系パルチザンの活動はしばしば逆効果であり、不必要な報復を招いただけだった、サロ派もレジスタンスも少数派であり、大多数のイタリア人は中立派だったと書かれている。

44年6月、ローマ奪還、ノルマンディ上陸作戦。

45年4月になると、内戦は最終段階に達し、北伊に連合軍進入、ミラノへ政府移動。

連合軍はムッソリーニを生きたまま引き渡すよう指令していたが、捕らえられたムッソリーニは共産系パルチザンの独断によって処刑される。

当初それを堂々と明言し大いに誇っていた共産党が、法的手続きを無視した処刑方法と愛人のクラレッタ・ぺタッチまで惨殺したことに批判が高まるようになると、言葉を濁すようになる。

トリアッティに次ぐ共産党指導者ロンゴによる指示かとも思われる処刑は、4月28日に執行され、遺体はミラノ・ロレート広場で晒しものになる。

ジャーナリストのモンタネッリはその日、ロレート広場に居合わせた。彼はその日の光景について次のように書いている。その場面は「それを望んだ連中、それを許した連中、そして哀れな死体に向かって侮辱の言葉を投げかけ、つばを吐き、さらに悪質な形で汚した興奮した群衆の名誉を傷つけていた。《民衆》は、ほんの数ヵ月前まで喝采を浴びせていた男に対して、残忍な振る舞いにおよんでいたのだ」。

こうした、「多数者たる民衆の責任」を完全に欠落させた醜い復讐劇と集団リンチを取り上げて、「イタリアは戦争犯罪を自ら裁いたが、日本はそれを放棄した」なんて言うのはやはり当を失していると思う。

この2年間の内戦期間中、ドイツ軍は報復として1万人のイタリア人を殺害している。

一方、パルチザンによる殺害も2~3万人に及び、その少なからぬ部分が戦争終了後の大衆による犯罪と見なさざるを得ないと書かれている。

また、戦後ユーゴの指導者チトーがイストリア在住の(決してファシストとは言えない)イタリア人を1万人殺したことも指摘している。

4月30日、ヒトラーが自殺、欧州での戦火はようやく止む。

やっと終わりました・・・・・・。

訳者あとがきによりますと、本書の英語版は2003年刊、著者は自身をムッソリーニ批判派でも擁護派でもない「真実重視派」だと述べているが、実際にはこの記事でも引用した保守派ジャーナリストのモンタネッリや修正主義的な歴史家として知られたレンツォ・デ・フェリーチェの影響を受け、やや偏った立場も見受けられるとのことです。

だが、私はあまり気にならなかった。

下巻も400ページを超え、相当キツイが外交史・戦史の記述が多くなり、実に興味深く読める。

上巻はかなりだるい部分もあったが、通読してみるとやはり読んで良かったなと思う。

骨は折れるが、それだけの見返りはある。

かなり値段が張るが、図書館で借りればいいか。

しかし、貸し出し期間が2週間じゃ、延長無しでは読み切れないかも。

私は、上・下巻合わせて、3週間かかり切りになった。

欠点としては、やはり長過ぎること。

初心者は、ロマノ・ヴルピッダ『ムッソリーニ』(中央公論新社)でワンクッション置いた方がいい。

それで、余裕があれば取り組んで下さい。

2013年2月2日

ニコラス・ファレル 『ムッソリーニ  下』 (白水社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 00:45

上巻記事の続き。

本巻では、まず娘エッダの夫で、重要な協力者でありながら、最後にはムッソリーニと袂を分かち、1944年銃殺されたチァーノを登場させた後、1935年10月のエチオピア侵攻の重要性が強調されている。

この出来事によって、ナチ政権成立当初には明確に反独的姿勢を保っていたファシスト・イタリアが英仏両国から離反し、枢軸陣営結成に向かうのだから、確かに現代史上いくつかある、極めて重大な岐路だと言ってもいいでしょう。

著者の立場は、戦争への覚悟が無いなら宥和政策を採るべきだったとのもの。

(そもそも1923年エチオピアの国際連盟加盟時には、同国の奴隷取引の存在や無政府状態を理由に英国は反対しており、むしろイタリアが加盟を支持していた。)

仏外相ラヴァルが採った、イタリアへの宥和姿勢に英国世論は反発したが、一方英国民は自国の軍備拡張とその負担は拒否し、前年34年のオーストリア危機と35年4月のストレーザ戦線では道義的支持以上のものを与えようとせず、35年3月の独再軍備宣言にもかかわらず、同年6月には英独海軍協定という宥和策を自ら率先して採っているのは、極めて偽善的だったと著者は評している。

ここで驚くのが、ヒトラーがエチオピアへの武器援助を指令していたという記述。

元々持っていた親英感情や、英伊間の離反を誘う意図があったとのこと。

1935年当時の英仏の政治指導者は英首相マクドナルド、外相サイモン、仏首相フランダン、外相ラヴァル。

6月に英はボールドウィン政権に交代、チャーチルと並ぶ反宥和派政治家のイーデンが入閣。

だが、このイーデンは賢明ではない反伊感情に囚われ、実際にはさして対ヒトラー強硬論を貫き通したわけでもなく、むしろムッソリーニにより厳しい態度を採るという、大きな過ちを犯した人物として描写されている。

国際連盟は対伊制裁を決議するが、最重要戦略物資である石油は禁輸項目に含まれず。

これには事前にイタリアが行った、石油禁輸は戦争に繋がるとの警告が相当与ったようだが、日本も1941年南部仏印進駐前に同じことを大々的に宣言して、米英世論に釘を刺しておくべきでした。

結局この制裁措置は、イタリアの行動を抑止・撤回させることは全く出来ず、伊国内を強硬論一色でまとめ上げ、体制を一層強固にしただけに終わった。

米国からの石油輸入は、制裁前よりむしろ増加している。

単細胞的反米主義から言ってるつもりはありませんが、この不名誉な事実は記憶しておきましょう。

12月ホーア・ラヴァル協定、侵攻当初に用意された妥協案よりもはるかに広大な領域を伊に与えるとの案で、この内容が漏れると世論の猛反発が起きる。

しかしこの現在では悪名高い案にも、閣内で反宥和派のイーデンが内実は同意していたと著者は指摘、やがてイーデンは外相に就くが、彼の枢軸国全体に対する一貫した反宥和派との輝かしいイメージは必ずしも当たっていないとしている(上述の通り、著者はイーデンの反伊姿勢の過剰と反独姿勢の過少を批判する立場だが)。

36年5月仏でブルム人民戦線内閣、デ・ボーノから指揮を引き継いだバドーリョ(バドリオ)がアディス・アベバを占領、6月チァーノが外相就任。

(後にデ・ボーノはチァーノと共に反対派にまわり、44年1月銃殺される。)

イタリアのエチオピア統治が、英仏の平均的植民地支配に比しても残酷で圧政的であったことは著者も認めている。

しかし結局、著者は、真の脅威であるナチス・ドイツと対決するために、ムッソリーニのイタリアへの宥和政策をはっきりと支持し、当時の英世論・イーデン・英労働党を批判している。

行間からは「エチオピアを見捨てろ」という著者の意見がはっきり読み取れる。

これは相当物議を醸すであろう見解だし、異論反論が山ほど出そうではある。

しかし、当時賭けられていたものの重大性を認識するために、あえて以下のような「歴史のイフ」を想定してみる。

エチオピア戦争にもかかわらず、英仏伊の三ヵ国連合は堅持される。

ムッソリーニの黙認が無い限り、ヒトラーはオーストリアを併合できず、権威主義的右派のシューシュニク政権の下、同国も反独陣営に加わる。

この状況下では、異様な猜疑心と権力欲の持ち主であるスターリンも、実際の史実ではそうなったように英仏と独を両天秤にかけることはできず、35年5月締結の仏ソ相互援助条約は実効性を帯びる。

加えて、仏チェコ間の相互援助条約によって、チェコスロヴァキアという東欧随一の工業国が、各個撃破されることなく、独への抵抗拠点としての役割を十分に果たす。

ポーランドは反独反ソ二重対決路線を採り独自の中立的立場を保つかもしれませんが大勢に影響は無いでしょうし、ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが甚大なリスクを冒してわざわざ独陣営に駆け込むことはほとんど考えられず、親独派と反独派が拮抗し実際にはクーデタが発生したユーゴスラヴィアはむしろはっきり英仏側に傾くでしょう。

史実通りスペイン内戦が勃発して、ドイツが反乱軍側を援助をするとしても、シニカルな現実主義者のフランコは、その「恩義」など、実際の史実以上に弊履の如く捨て去って一顧だにせず、平然とヒトラーの破滅を傍観するはず。

結局、ドイツは第一次世界大戦時以上に完全に孤立し包囲される。

それを日米両国も間接的に支えるか、少なくとも中立的立場を取る。(1935年に英国がイタリアだけでなく日本に対しても、中国幣制改革への協力と満州国承認を交換条件とした宥和政策を試みていたことに注目。戦前昭和期についてのメモ その4参照。)

ヒトラーは、慎重に行動の時期を探り、敵陣営の不和と不一致に付け込むという狡猾さを持っていた一方で、国家戦略のタイムテーブルを自分の寿命に従属させるという、恐るべき非合理的な面も持っていた。

対独包囲網にいかなる綻びも見出せず、自身の死までにドイツの覇権を確立する見通しが立たず焦りをかき立てられ、結局しびれを切らしたヒトラーが不用意な軍事行動に出て、周辺諸国から袋叩きに合いドイツは早期敗北、ナチ体制崩壊、あるいはその前にドイツ軍部のクーデタが勃発してヒトラー失脚という展開が、もしかしたら見られたかもしれない。

「いやいや、イタリアの軍事力なんて、実際の第二次世界大戦で明らかになったように、貧弱極まるものでドイツの足手まといになっただけだろう、そのイタリアに英仏と独との間でキャスティング・ヴォートを握るような力があったわけないよ」とおっしゃる向きもあろうかと思います。

しかし、ここで問題になっているのは、過去の史実で明らかになった軍事力の実勢ではなく、当時の人々が心の中に持っていたイメージであり、それが英仏の世論に対独戦への揺るぎない意志を固めさせるか、ドイツの参謀本部を中心とする高級軍人たちに自国の徹底的敗北を避けるためにヒトラーを排除することを決意させるか、という純粋に心理的な影響なわけです。

そうであるならば、この時期のイタリアの向背が世界の運命を握っていたとの著者の主張が俄然真実味を帯びてくる。

上述のシナリオがもし実現していれば、ドイツは保守的な軍事政権がナチズムという大衆運動を鎮圧し徐々に国内体制を正常化、欧州情勢は安定への道をたどり、同時に満州国の是非を棚上げした上で日本と中国は和解し、1914~18年の戦争は「第一次」の付かない世界大戦と呼ばれるようになり、ホロコーストという狂気は生まれることがなく、共産主義は冷戦を経ることなく封じ込められ、ロシアにおいてのみ行われた無謀な実験という評価となり、大衆民主主義という怪物をどうにか飼い慣らした世界は、20世紀における政治による大量死の相当部分を避けることに成功する・・・・・・。

ですが、そうそううまくは行かないでしょうかね。

歴史の女神はもっと意地の悪い存在でしょうから・・・・・・。

ある程度まで詳細な具体的史実を身に付けた後で、本書のように比較的良質で思考実験の材料を提供してくれるテキストを自分なりに考えながら読むと、「反実仮想」(ジョセフ・ナイ『国際紛争』参照)を使って史実や人物の決断を評価することができるようになり、歴史を学ぶ愉しみも増すと思います。

極めて幼稚で、多くの過誤を含んでいる可能性があり、場合によっては無意味になりかねないものですが、上記はその一例のつもりで記しました。

なお、想定される「歴史のイフ」が、真に有益で意味のあるものであるためには、その前提としてもちろん、無味乾燥にも思える年号暗記を含む、多くの具体的史実の習得が必要なことは言うまでもありません(引用文(内田樹6))。

基本的史実の確認と、「有り得たかもしれない、もう一つの歴史」を想定した上での史実評価、この両者をバランス良くこなしていくのが、歴史を学ぶ醍醐味を味わえる王道ということでしょう。

閑話休題。

36年3月ラインラント進駐。

この時期のフランス政府は、一応メモを取った形跡はあるんですが、訳がわからない。

フランダンやラヴァルやサローが首相になったり、外相になったりと、ついていけません。

第三共和政の内閣は、いくつかの重要政権以外はとてもじゃないが記憶していられませんね。

1936年はスペイン内戦とベルリン・ローマ枢軸成立の年だが、著者はそれぞれ一枚岩のファシズム陣営vs共和派という図式を否定し、依然ムッソリーニは、イギリスとドイツを両天秤にかけていたとしている。

第二次大戦へのイタリア参戦は1939年ではなく、フランスが降伏寸前となりヒトラーの欧州制覇が疑いの無いものに思えた40年6月であることを考えれば、さして意外なことでもないのかもしれない。

もし英伊同盟が成立していたなら、第二次世界大戦は起こらなかった、と著者は主張している。

1937年5月ネヴィル・チェンバレンが英首相に。

イタリア国王は反独的見解を持っていたが、ムッソリーニはいよいよ親独路線の兆しを見せ始める。

37年11月、日独間の防共協定に伊も加入、12月、伊も連盟脱退。

この時期、反宥和論者のはずのイーデンも、仏当局者へチェコ防衛のための軍事援助に難色を示している。

チェンバレンが独伊双方に宥和的だったのに対し、イーデンはドイツよりイタリアに強硬な態度で、むしろムッソリーニよりもヒトラーを交渉可能な相手と見なしていた節があると記されている。

チェンバレンは、可能ならば英伊間の了解を取り付け、独に対抗しようと図るが、その交渉が進展しないうちに38年3月独がオーストリア併合(その前、2月にはイーデンが辞任し閣内から去っている)。

ムッソリーニは、かつてあれほど徹底して阻止しようと考えていたオーストリア併合を黙認。

エチオピアとスペインでの国力の疲弊、あくまで反対した場合、第一次大戦でオーストリアから獲得したトレンティーノ(南チロル)の返還要求を独が持ち出してくることへ恐怖があったためとされている。

その支持が本心からのものでなかった証拠として、当時ムッソリーニがヴァチカンにヒトラーを破門するよう秘かに働きかけた史料が存在しているという。

38年4月英伊間に協定成立、英がエチオピア併合を承認する見返りに、伊はスペインよりの撤兵、リビアでの軍備削減を行うという内容。

著者は、この協定をさらに深化させ、仏領のチュニジアなどを譲ることを条件に、何としても英仏伊間の同盟を締結すべきだったと主張している。

38年5月、ヒトラーがイタリアを訪問するが、ムッソリーニは独伊の軍事同盟を渋る姿勢は変えず。

同年9月、ズデーテン危機とミュンヘン会談。

宥和政策の頂点とも言うべきミュンヘン協定については、一般的には最悪の愚策という評価が定着していますが、一方で、ヒトラーとの交渉による平和は有り得ないことを疑問の余地なく示して世論の抗戦意志を固め、その時点で独に対して劣勢だった軍備を拡張する貴重な時間稼ぎになったことをもって、意外にも一定の肯定的評価を下す見方もあります(ナチについてのメモ その4参照)。

著者は、この新説には否定的で、38年なら英仏側が勝った、開戦を決断しなかったことは致命的誤りだった、としている。

(この場合、伊が曖昧な中立的立場でも英仏単独で勝てたと想定することは、上述の如く伊との連携を最重要視する著者の立場と相反するかもしれないが、第一次大戦に懲りて平和主義的ムードの強い英仏の世論が確固たる決意を持って独との対決に乗り出すための心理的前提として伊との同盟が必要だ、たとえそれが無くとも英仏は開戦を決断すべきだったが実際にはそうならなかったのだから、やはり伊との連携が決定的に重要だったと見なすべきだ、あるいは英仏伊三国同盟によって勝利がより確実となり、実際の戦争に至る前に、ドイツで反ヒトラー・クーデタが成功する可能性が高まるから、と考えれば矛盾は無いか。この辺、突き詰めて考えると辻褄の合わない部分が出るかもしれません。皆様もご自身でお考え下されば幸いです。)

ムッソリーニは英仏への軽蔑を深め、やや独へ傾斜。

もっとも人種主義や反ユダヤ的政策は伊国内では徹底せず。

1933年、ムッソリーニは駐独イタリア大使に、政権掌握間もないヒトラーに対して、反ユダヤ主義の放棄を促すよう指示している。

「反ユダヤ主義の問題はヒトラーの敵たちだけでなく、ドイツのキリスト教徒たちまで動揺させかねない」

とのムッソリーニの言葉が紹介されている。

ただ、イタリアからも高名な物理学者でユダヤ人の妻を持つエンリコ・フェルミが亡命し、アメリカで原爆開発に携わることになる。

アインシュタインを始めとして、亡命した物理学者たちの顔ぶれを見ると、ヒトラーの反ユダヤ主義が無ければ、米国ではなくドイツが最初の原子爆弾を開発したかもしれないとのハフナー『ヒトラーとは何か』での想定が頭に浮かぶ。

ムッソリーニが、結局ドイツとの同盟を決断したのは、「恐怖と貪欲」、すなわち独への懸念ゆえにかえって反対陣営に与することができなかったことと、仏への敵意と地中海での拡張政策を目指す決意が生まれたからだとされている。

ただし即時参戦は企図せず(実際そうなった)。

39年3月チェコスロヴァキア解体、ヒトラーは前年英仏にミュンヘンで強要した、あれほど自国に有利な協定すら遵守するつもりが無いことを世界に示す。

イタリアへの事前通告は無し。

この辺の記述から読み取れるのは、「世界支配」の野望に燃え、ヒトラーと一心同体となり貪欲に拡張政策を採る自信過剰の独裁者というより、自分の地位と自国の安全を確保する道を必死に探し求めて右往左往する気弱で優柔不断で哀れな為政者としてのムッソリーニの姿である。

同じ39年3月、スペイン内戦終結。

もしフランコが敗北していたならスペインは共産化していただろう、と著者が推定しているのが興味深い。

ここで、相当以前から漠然と考えていて、色摩力夫『フランコ スペイン現代史の迷路』茨木晃『スペイン史概説』そして本書を読んだ後にはかなりはっきりと感じるようになったことを、思い切って言ってしまおうかと考えたものの、しかしやはり一般的にはとんでもない意見でしょうから、小声でつぶやく感じで言うだけにしますが、      「スペイン内戦って、結果フランコが勝って良かったんじゃないですかね?」

共和政府側が勝利したとして、スターリニスト、トロツキスト、アナーキストらの暴状と相互殺戮がある段階までに止まるであろうとの想定が、どうしても出来にくい。

実際の史実では、フランコ死後に立憲君主制という政治的安定装置を準備した上で、正常な議会政治へ漸進的に移行するという、ほぼベストの展開になったのだから、結果OKじゃないでしょうか。

もちろん、もしフランコが第二次大戦に参戦していれば、答えは完全に異なったものになっていたでしょうが、その最悪の選択肢は避けられたわけですし。

数年前でしたか、スペインでフランコの銅像を撤去するかどうかで賛成・反対両派の感情的対立が深まり深刻な問題となっている、と新聞の外報面で報じられていて、そんな例を考えるだけでも、現在も極めて微妙で慎重な配慮を必要とする問題であって、外国人が軽々しく口を出すようなことではないとはわかってはいますが、個人的な意見を言えば上述のようなものになってしまいます。

内戦終結後、伊はバレアレス諸島から撤兵。

ムッソリーニは非妥協的な膨張政策を突き進んでおり、交渉可能な相手ではないとするイーデンの論拠はこれで崩れたと言える、と本書では書かれている。

39年4月、伊はアルバニア占領。

バルカンでの独の進出を危惧したための行動で、独には事前通告を行わず。

英外相にハリファックス就任。

5月、独伊「鋼鉄条約」締結。

ムッソリーニの主観的意図では、これは防衛条約であり、これによってかえって独を掣肘するつもりであった。

実際、ポーランド攻撃の意図をヒトラーはイタリアに通告していなかった。

チァーノとグランディ(駐英大使)は同盟破棄を求めるが、「1915年の裏切り」の汚名再来とドイツの報復進撃をムッソリーニは恐れた。

8月23日独ソ不可侵条約にあたってはやはり対独不信感が一部で広まり、来るべき大戦には不参戦の態度を貫く、というのがイタリア指導層のコンセンサスになっていた。

ところが、40年フランス敗北という驚天動地の出来事に目を晦まされ、三国同盟という致命的な道を選択してしまうことになるのは、日本と全く同じです。

終わらねえ・・・・・・。

以前、規則的に2、3日に一回更新していた時は、一冊の本で複数記事を書くことも珍しくなかったのですが、今のような気ままな更新状況では、たとえ長くなっても一冊一記事にした方がいいのかとも考えていました。

ですが、さすがに長すぎるので、第二次大戦勃発後は次回にまわします。

(追記:続きはこちら→ムッソリーニについてのメモ

2013年1月25日

ニコラス・ファレル 『ムッソリーニ 上』 (白水社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 21:30

自らを中立的立場と規定する、英国人の手に成る伝記。

全2巻。

まず、冒頭に以下の文章有り。

ムッソリーニが犯した致命的な失敗は彼自身が軽蔑していたヒトラーとの同盟だったが、この同盟は不可避のものではまったくなかった。というのも、ファシズムと国家社会主義(ナチズム)は(イタリア人とドイツ人と同様に)チョークとチーズほどに異なっていたからである。イタリアとドイツは同一の戦略的目標すら共有してはいなかった。鋼鉄条約はヒトラーに対するムッソリーニの恐怖からもたらされたのであり、言うまでもなくユダヤ人絶滅や世界支配の野望から生まれたものではなかった。

ユダヤ人を救うためにドイツと戦争状態に入った戦勝国がひとつもなかったように、ムッソリーニもユダヤ人を絶滅させるために参戦したのではなかった。実際にはホロコーストが始まると、彼とファシストたちはユダヤ人たちをナチスの絶滅収容所に移送することを拒否して数千人のユダヤ人の命を救った――それはオスカー・シンドラーが救ったユダヤ人の数をはるかに上回っている。

1883年にベニート・ムッソリーニは生まれる。

ちなみに後の正妻ラケーレは1979年まで生き、末子のロマーノは2006年没、イタリア下院議員となったアレッサンドラはこのロマーノの子。

父親のアレッサンドロは社会主義者、母親は信心深いカトリック教徒という家庭に育つ。

割と有名だが、名前はメキシコの政治家ベニト・フアレスにちなんでの命名。

現在では「ベニト」と聞くと、まずムッソリーニの名が思い浮かびますから、フアレスには気の毒ですね。

幼年期から青年期の描写においては、「残忍・冷酷なファシスト」というステレオタイプを避けた中立的記述を心掛けているようだが、それでも私が極めて悪い印象を持つのがムッソリーニの宗教への侮蔑。

以下の文章を思い出さずにはいられなかった。

保守主義者は、主として、確固たる正統性から離脱した人間はなんらかの混乱や平衡感覚の喪失に陥りやすいという十分に根拠のある確信に基づいて、宗教を支持した。バークが息子宛の手紙に書いているように、宗教は「人間の砦であり、これがなければ世界は不可解で、それゆえ敵対的となっていたであろう。」トクヴィルは、個人的には生粋のローマ教会信仰をもっていたにもかかわらず、臨終の信仰告白まではそれをひけらかさないように心に決めていたが、その彼の鮮かな説明によれば、政府と社会にとっての、また自由にとっての、宗教の価値は次の点にある。

「政治における以上に宗教において権威の原理がもはや存在しないとき、たちまち人々は無拘束の独立状態に驚かされることになる。周囲のあらゆるものの絶え間ない動揺が人々に警告し、彼らを消耗させる。・・・・・わたしには、人が完全な宗教的独立と完全な政治的自由とを同時に保持しうるかどうか疑わしいように思われる。だから、わたしは、信仰が欠けているとき、人は服従しなければならない、また自由であるとき、人は信仰をもたなければならない、と考えたいのである。」

ロバート・ニスベット『保守主義』より。)

伝統的信仰を迷信とあざ笑い捨て去った後、それよりはるかに恐ろしい狂信に易々と飛び込んでいったのが20世紀以降の大衆であり、ムッソリーニもその代理人に過ぎないという印象を受ける。

父と同じく社会主義運動に加わり、スイスに出国、1904年にレーニンと出会っている。

当時オーストリア帝国領だったトレンティーノへ行き、同地のイタリアへの併合を主張。

そこで、親オーストリア派でカトリックの代表者デ・ガスペリ(戦後の首相)と論争している。

ここでのムッソリーニによる口汚いレトリックは不快の一言に尽きる。

あと、書くことと言えば女性関係ですかね。

通俗的イメージ通り、まあお盛んではある。

社会党の集会に子供を連れた愛人が現れて捨てられたと叫んだり、後の戦争中、負傷入院した病院で妻と愛人が鉢合せ、周囲の爆笑の中、取っ組み合いの喧嘩になったなんてエピソードは苦笑するだけで、別に嫌悪感も持たないが、どう考えてもこれはレイプだろというような行為が一箇所で書かれている。

1911年伊土戦争勃発、首相ジョリッティはリビアを占領するが、ムッソリーニは上述のようなナショナリスト的傾向にも関わらず、これには反対する。

1912年男子普通選挙実現、社会党改良派のボノーミらが追放され、ムッソリーニは執行部入り、機関紙『アヴァンティ!(前進)』の編集長となる。

上層部と衝突するうちに、1914年第一次大戦勃発、ムッソリーニは当初の絶対中立の立場から「能動的中立」支持へと変化、党を追放されるや、公然と参戦を主張。

『イル・ポポロ・ディターリア』紙を創刊するが、これには英仏両政府および両国の社会党からの資金援助があったことが、今日では明らかになっている。

しかし、これはムッソリーニの立場からすれば贈賄ではない、ムッソリーニは完全な政治的孤立を覚悟しても、参戦という自身の信念に従って行動しただけだ、もしイタリア社会党がフランス社会党・ドイツ社会民主党のように参戦を支持していれば、戦後ムッソリーニを指導者として社会党政権が成立していただろう、と著者は評している。

首相が保守派サランドラに交代、イタリアは1915年に参戦するが、17年10月カポレットの戦いで大敗を喫するなど、戦場では終始精彩を欠く。

戦後、1919年、新たな政治組織として、ドン・ストゥルツォ率いる人民党(戦後のキリスト教民主党の前身)が結成。

カトリック政党だが、ヴァチカンの全面的支持は受けず。

同年ムッソリーニが「戦闘ファッショ」結成(これが通常「ファシスタ党」と呼ばれるものか)。

女性を含む普通選挙・比例代表制、王室・上院・世襲称号の廃止、8時間労働、戦時利得と教会財産の没収がその主な主張だが、総選挙では敗北。

同年ダヌンツィオのフィウメ占領あり。

社会党の反教権主義のため、社会党・人民党の連立政権は成立せず、首相は自由主義派のニッティのまま。

20年北部での工場占拠続発。

共産主義革命への危機感が、ファシストの支持者を著しく増やすことになる。

21年社会党から統一社会党(マッテオッティら)が分離、さらに共産党が分離・結成、ボノーミらの改良主義社会党と合わせて、4つの社会主義政党が乱立する結果となる。

左右両派の暴力行為で国内が騒然とし、人民党と社会主義勢力の対立、社会主義勢力内での分裂が重なり、政治的危機と分極化が進行する中、自由主義=保守派勢力(ジョリッティ、サランドラ、ニッティ、オルランドら)は首相に再登板したジョリッティの下、ファッショと「国民ブロック」を形成し共闘関係に入るという致命的失策を犯し、自ら没落への道を踏み出してしまう。

同21年ファッショは正式に政党への転換、「全国ファシスト党(PNF)」を名乗る。

そして、運命の1922年、ジョリッティとの協力をストゥルツォが拒否、首相はファクタに交代、「アンシャン・レジームの崩壊」へと突き進む。

「ファシスト四天王」と呼ばれた、バルボ、デ・ヴェッキ(この人物は王党派)、デ・ボーノ、ビアンキらによる「ローマ進軍」という示威行為の末、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニを首相に任命。

この時の国王の行動を批判することはもちろん可能ですが、それが意味のあるものであるためには、民主主義という立場から以外のものでなければいけないはずですよね?

たしかに国王はファシズムに共感していたから、戒厳令への署名を拒否したのではない。二十八日に彼はあらゆる政権の選択肢をまず試みた。だが、戦後のイタリアで次から次へと無能な政権が続いたあとでは、哀れな国王がムッソリーニを起用したことを誰が責めることができるだろうか?そうすることで国王はイタリア人の多数派が望んでいること、必要と感じたことと一致していたのだ。

結局ファシズムを含む左右の全体主義を、言論の自由と多数決原理による予定調和的進歩を前提にする自由民主主義という立場から根本的に非難することは不可能です。

また、本書には以下の文章もある。

ファシズムを右翼とする広く流布した定義は、たとえムッソリーニが1922年にそれを「右派のものである」と説明したとしても、誤解を招きやすい。ファシズムの背後にある知的原動力は左翼のものだ。ファシストのほとんどは社会主義者かサンディカリストのどちらかだった。ファシズムの表現形態がどれほど右翼的であったとしても、その導きの星はつねに左翼的だった。社会主義に対するファシズムの反対の姿勢は右翼的と評されるかもしれないが、その共和主義的傾向は左翼的だった。議会制民主主義の原理に対するファシズムの反対は右翼的と見なされるが、イタリア議会の非民主主義的現実に対する反対は左翼的だった。その私的所有権擁護の姿勢は右翼的だったかもしれないが、資本主義を抑制するために強力な国家を支持する――協同体国家をめざす――姿勢は左翼的だった。

この文章も一応は示唆的ではあるが、だからといって「小さな政府」と自由放任的市場を絶対視する新自由主義的「正義」に取り込まれないようにしたい。

全体主義の真の反対物は、自由・民主主義・市場経済ではなく、伝統・慣習・身分・信仰・自己懐疑・諦観・前近代のはず。

その意味で、ムッソリーニが普通選挙や民主主義をやたら痛罵するのは不可解である。

自分ではそれらを破棄する役目を負ったと考えていても、その実、彼はその直接的帰結であり、副産物に過ぎないのだから。

政権獲得後は、下部のファシスト急進派の暴力を抑制するために政府権限を強化する流れで、徐々に独裁権力を確立。

この自らの党派の暴力を抑えたいとの意図はムッソリーニの本心だと、本書では主張されているが、たとえそうでも、客観的に見るならば、やはり単なるマッチポンプだ。

具体的には1924年上記マッテオッティが暗殺され、アヴェンティーノ派下院議員の議会ボイコットなど、一時は危機的状況に陥るが、結局これを奇貨としてファリナッチら急進派ファシストと反ファシストの双方を抑圧。

数度の暗殺未遂とその失敗が返ってドゥーチェ崇拝感情を巻き起こし、25年末に首相への議会の不信任投票権は廃止され、26年反体制的刊行物の禁止、一党体制、政令により法律を作成する権利が首相に与えられる。

これらの事態に、非妥協派ファシストの王政転覆論が圧力となって国王は沈黙、ムッソリーニは常に混乱の収拾者、秩序回復者、公平な調停者の役を演じて独裁を確立した。

ただし、党を国家の上に置こうとする非妥協派は結局排除され、独裁確立後の死刑執行は一年に2件の割合で、ナチスやソ連、そしてフランス革命における死者と比べればほとんどゼロに近い数字だ、と本書では述べられている。

22年(公式には23年)組織されたファシズム大評議会が28年最高機関とされ、29年ピウス11世とラテラノ協定を締結、人民党復活の芽を摘む。

ムッソリーニは若い頃の無神論から転換し、それはカトリックへの過度の反発のためだったとする。

こうして安定期に入ったムッソリーニ体制を称賛する外国人もおり、その中にはチャーチルやバーナード・ショーも含まれる。

精神・文化面での葛藤・衝突は続いたものの、平均的に見た、当時のイタリア人のファシズム受容について、著者は、最終的にはともかく当時としては格別邪悪ではなくありうることだったと評している。

ただ、その理由付けとして、ナチは反近代・過去志向であるのに対してファシズムは未来志向だからという言い方に極めて大きな違和感を覚える。

もっとも、「大衆の動員解除」と過去の復活を目指す権威主義的右派とファシズムを区別している部分は極めて適切。

大恐慌の襲来も何とか乗り切り、ファッショ的諸団体が社会に浸透していく。

ここで、無線電信の発明者マルコーニがファシズムを支持していたとの記述に軽い驚きを覚える(マルコーニは1937年没)。

この人、高校教科書レベルでは、ルネサンス時代以来の文化史で、久しぶりに名前の出るイタリア人科学者ですよね。

あと、ファシズム宣伝歌の指揮を拒否したトスカニーニが平手打ちされたというエピソードが載ってるんですが、そのたたいた人間の名が何とレオ・ロンガネージと記されている。

塩野七生『サイレント・マイノリティ』での記述からは考えられないような話ではあった。

外交面では、いわゆる「相対的安定期」の協調外交を象徴する1925年ロカルノ条約締結が、ムッソリーニ時代であることは記憶に留めておく価値があるでしょう。

1933年ナチス・ドイツの国際連盟脱退に激怒し、34年のオーストリア危機に際しては、ドイツに対して英仏よりも強硬姿勢を示し、実際にブレンネル峠に軍を動員し、圧力をかける。

その直前に、ムッソリーニとヒトラーは会談を行っている。

その場で、地中海民族より北方民族の方が優秀だと語るヒトラーに対し(こんなこと、よくイタリア首相の目の前で口にできるなと思いますが、それがヒトラーという人物なんでしょう)、ムッソリーニは、ヒトラーの教会とユダヤ人への迫害は常軌を逸していると堂々と警告している。

数年前でしたか、ムッソリーニの会談録が発見されて、自分の反ユダヤ主義は終始一貫しており、ヒトラーの模倣ではない、という発言が新聞で報じられまして、個人的にはムッソリーニへの失望を禁じえなかったのですが、この時期にはまだ正気を保っていたということでしょうか。

出来ることなら、「反ナチ・反ヒトラーを貫き通したムッソリーニ」を見てみたかった気がする。

これは、ほとんどの人が即座に思うほど、馬鹿げた空想ではないと思う。

やっと上巻が終わった・・・・・。

とりあえずは良書だとは思うが、450ページはきつい。

ですが、下巻も続けて記事にする予定です。

(追記:下巻記事はこちら

2010年12月3日

塩野七生 『わが友マキアヴェッリ  フィレンツェ存亡  3』 (新潮文庫)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

1巻2巻の記事続き。

第3部「マキアヴェッリは、なにを考えたか」、著作執筆時代を叙述。

この時期の西欧は絶対君主の下、中央集権的体制を採る領土国家が台頭、フィレンツェのような都市国家は徐々に頽勢に向かう。

1516年スペイン王カルロス1世即位、1519年にはカルロスが神聖ローマ皇帝カール5世となり、スペイン・オーストリアがハプスブルク家統治下に。

1515年仏王ルイ12世死去、フランソワ1世即位。

1509年には英王ヘンリ8世が登位している。

ちなみに1517年にはルターの95ヵ条の論題、同年オスマン帝国がエジプト征服、1520年スレイマン1世即位。

マキャヴェリはこれら大国に対抗するために独自のイタリア統一構想を抱く。

ただしそれは現在のイタリア領土の範囲ではなく、まず独立性の極めて強いヴェネツィアを除外、またミラノなどロンバルディアへのフランスの野心、ナポリにおけるスペインの勢力を考慮してこれらの地域も外し、一先ず中部イタリア統一を目指すもの。

1514年『君主論』、1517年『政略論』、1518年喜劇『マンドラーゴラ』、1520年『戦略論』執筆、この年からメディチ家との関係が好転し、その依頼を受けて書いた『フィレンツェ史』が1525年完成。

1521年レオ10世死、22年ハドリアヌス6世を挟んで、1523~34年教皇位はレオのいとこ、もう一人のメディチ家出身者クレメンス7世に。

前巻、前々巻でも見た通り、16世紀に入ってからのイタリアは、ミラノ・ジェノヴァを勢力圏とするフランスと、ナポリ・シチリアを拠点とするスペインが覇権を争う情勢。

1525年パヴィアの戦い、フランソワ1世率いる仏軍と、仏からスペインに寝返ったシャルル・ド・ブルボン指揮のスペイン軍が激突、スペイン大勝、フランソワ1世捕虜に。

この結果、ミラノにスフォルツァ家が復帰するが、スフォルツァが反カルロス行動を企てると、スペイン軍はミラノ包囲。

1526年フランソワ釈放、同年コニャック同盟締結、仏・教皇・ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ・ジェノヴァ・英が参加する広範な反スペイン・皇帝同盟。

だが各国の思惑がバラバラで同盟は機能せず、ルター派プロテスタント兵を主力とする皇帝軍が南下。

メディチ家の分家筋と女傑カテリーナ・スフォルツァとの間の子、ジョヴァンニ・デ・メディチなどが軍を指揮するが、教皇クレメンス7世は決断力に欠け戦機を完全に逸する。

(本書ではクレメンスに対して相当厳しいことが書かれている。)

ミラノは降伏・開城、ジョヴァンニは戦傷死。

1527年に皇帝軍はローマ包囲、攻城戦で司令官シャルル・ド・ブルボンは戦死するが、皇帝軍は防衛線を突破してローマ市内に乱入。

史上「サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)」と呼ばれ、イタリア・ルネサンスの終焉を象徴する出来事。

メディチ教皇と一体化していたフィレンツェでは再度メディチ家追放、マキャヴェリはこの時の公職復帰に望みをかけるが、浪人時代の態度が親メディチと判断され、国会で書記官選出反対が多数票を占める。

マキャヴェリは失意の内に同年死去。

1526年モハーチの戦い、1529年第1回ウィーン包囲でオーストリア・ハプスブルク帝国はバルカンの脇腹からオスマン朝の脅威を受ける。

1529年クレメンスとカルロスの講和。

イタリアでのスペインの覇権が確立。

講和の条件としてカルロスがメディチ家の復帰を支援し、1530年クレメンスの私生児とも言われるアレッサンドロがフィレンツェ公となり共和国滅亡。

1534年クレメンス死去、パウルス3世即位、1545年トレント公会議開始、反宗教改革時代、ルネサンスの中心はアルプス以北の西欧諸国へ。

1537年上記ジョヴァンニの子コジモがフィレンツェ公を継ぎ、1569年トスカナ大公国成立、コジモが大公就任、フィレンツェはトスカナの単なる首府となる。

スペインがブルボン朝に替わった後、イタリアはオーストリアの覇権下となり、それが19世紀半ばイタリア統一戦争時代まで続く、と。

とにかく読みやすいことは間違いない。

分量を全く気にせず、驚くほどスラスラ読める。

しかし塩野氏の著作を何でも手当たり次第に読みたい、あるいは他人に薦めたいとは思えなくなって久しいし、まして月刊『文芸春秋』などのエッセイで現在の諸問題についての著者の御託宣を有難がって盲信するといった心情からは遥かに隔たっている。

本書自体はそれなりに面白く役に立つとは思うが、是非にと強く薦める気にもなりません。

2010年12月1日

塩野七生 『わが友マキアヴェッリ  フィレンツェ存亡  2』 (新潮文庫)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

1巻の続き。

この巻は第2部「マキアヴェッリは、なにをしたか」収録で、マキャヴェリの官僚・政治家としての活動を記す。

マキャヴェリの公職時代は1498年サヴォナローラ破滅から1512年メディチ家復帰まで。

共和国第二書記局書記官に就任、他に大統領付秘書官などの役職にも就く。

この時期のフィレンツェ共和国は、サヴォナローラ時代の親仏政策とイタリア内の孤立化状態を清算できず。

1498年仏王シャルル8世死去、ルイ12世即位、婚姻関係からナポリだけでなくミラノの継承権も主張し、ミラノも反仏政策に転換。

1499年仏軍がミラノ入城。

フィレンツェは1500年ピサ奪回に失敗。

この頃教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアが仏の後援を得て教皇領内ながら半独立の領主の多かったロマーニャ地方を次々と征服、中央集権化を進める。

このチェーザレ・ボルジアは明晰かつ果断で冷酷無比な専制君主として、マキャヴェリの『君主論』でも中心的に扱われている。

しかし1503年に教皇が死去するとチェーザレも没落、短期間のピウス3世を挟んで、後継教皇にはボルジア家のライバル、ジュリアーノ・デラ・ローヴェレがユリウス2世として即位。

フィレンツェでは1502年終身大統領にピエロ・ソデリーニが選出・就任、国制改革を進める。

傭兵制度に強い批判を持つマキャヴェリが中心となって、周辺農村から徴兵した国民軍を創設、その力で1509年ピサ再領有に成功。

1508年ヴェネツィアの外交失敗から教皇・皇帝・スペイン・フランスすべてが参加した反ヴェネツィアのカンブレー同盟結成。

1509年アニャネッロの戦いでフランス軍がヴェネツィアに大勝、北イタリアを制圧。

1510年フランスの優位に不安を感じたユリウス2世が同盟から脱落、翌11年にはヴェネツィア・皇帝・スペインと共に反仏神聖同盟結成。

1512年ラヴェンナの戦いで再度仏軍が勝利するが総司令官が戦死、ルイ12世は軍をミラノに撤退させ勝機を逸す。

敗北したスペイン軍の残兵をメディチ家が利用し、フィレンツェに圧力をかける。

そうこうしているうちに、フィレンツェ内部で親メディチ・クーデタが発生、政権崩壊、ソデリーニは逃亡、同1512年メディチ家が復帰。

当時のメディチ家は、ロレンツォの子ピエロはすでに亡く、ピエロの弟ジョヴァンニ枢機卿の時代。

マキャヴェリも免職・追放され、直後に反メディチ・クーデタ未遂に関与した疑いを持たれて一時投獄される。

翌1513年ユリウス2世死去、ジョヴァンニが教皇に即位、これが史上有名なレオ10世。

塚本哲也『メッテルニヒ』(文芸春秋)で、「高校世界史レベルで何となくイメージの悪い人」を取り上げましたが、贖宥状を乱発してルターの宗教改革を誘発したとされるこのレオ10世を忘れてましたね。

この人も感じの悪さでは相当なもの。

ただし、塩野氏の『神の代理人』(中公文庫)ではルターの「狂信」に批判的な、ルネサンス文化の良き理解者といった感の描写でしたね。

メディチ家教皇誕生で沸くフィレンツェで、マキャヴェリも大赦で出獄。

この巻はここまで。

極めて読みやすいのは前巻と同じ。

しかし第1巻に載っていた地図が無いのは不便。

三分冊になったんだからやはり各巻に入れて欲しい。

当時のイタリアの、相当細かな政治情勢をスラスラ読ませて理解させる文章力はさすがに認めざるを得ない。

しかし何を差し置いても強く勧めるといった気分になれないのも事実。

とりあえず第3巻に進みます。

2010年11月28日

塩野七生 『わが友マキアヴェッリ  フィレンツェ存亡  1』 (新潮文庫)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

塩野氏のイタリア史関連の著作は、『海の都の物語』『ルネサンスの女たち』『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』『神の代理人』などを読んできたが、本書は手に取ったことが無かった。

以前中公文庫の分厚い一巻モノに気後れしていた。

それが新潮文庫に移って3分冊に。

だがはっきり言って中公に比べれば好きな版元ではないので、買う気は全く無かったのが、たまたま図書館で見かけたので借りてみた。

ちょうど本文の1、2、3部ごとに巻が分かれている。

この第1巻は第1部「マキアヴェッリは、なにを見たか」が収録されており、マキャヴェリの生誕から公職に就くまでの人生と、同時代のフィレンツェ史概説。

例によって超基本事項の確認。

当たり前過ぎるが、14・15世紀ルネサンスの中心がフィレンツェで、マキャヴェリもこの都市出身であることをチェック。

そして当時のイタリアの五大国、ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・ローマ教皇領・ナポリ王国の名前を、「公国」「王国」「共和国」の部分も含めて頭に叩き込む。

当然位置関係もチェック。

イタリア半島の長靴の後ろの付け根、イタリアとバルカンに挟まれたアドリア海の奥にあるのがヴェネツィア。

反対側、ティレニア海の付け根にジェノヴァがあるが、この時期はもう大国ではない。

ジェノヴァ北側に接するのがロンバルディア地方にあるミラノ。

そのさらに西にはサヴォイア公国。

首府はトリノで、のちにサルデーニャ王国としてイタリア統一の原動力となる国だが、王国名が「サルデーニャ」と言っても中心はあくまで本土のピエモンテ地方。

ミラノから南下して太ももあたりの内陸部にあるのがフィレンツェ。

そこから西に向かい、ティレニア海への出口になるのがピサ。

太ももを北東から南西へ横断した形でローマ教皇領が広がる。

そのうち、フィレンツェの東側はロマーニャ地方。

半島のひざ辺りから南はすべて広大なナポリ王国。

他の地名はその都度巻頭の地図で確認すればよいが、以上くらいは頭に入れておかないと読み進むのが面倒なので記憶。

各国の特徴としては、まずヴェネツィア共和国が対内的安定性、対外的独立性のどちらでもずば抜けており、イタリアで全くの例外であることを強烈に印象付ける。

他国のほとんどが実質君主制あるいは僭主制に移行したのに対し(教皇領を君主制というのは変ですが)、ヴェネツィアのみは伝統的に寡頭制的共和政体を維持。

あと少し面倒だが、ナポリとシチリアの支配者の系譜だけ軽く確認。

ノルマン人の征服でイスラム教徒から取り返された後、婚姻関係でドイツの皇帝家ホーエンシュタウフェン朝領土になるが、フリードリヒ2世死後、仏王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューが征服。

フランス支配への反乱である「シチリアの晩鐘」事件で、アラゴンから王族が迎えられ、シチリアはスペイン系、ナポリはフランス系王国に。

そこから確かナポリもスペイン系の支配になったはず(この辺あやふやです)。

よってこの近世初頭の時期は南イタリアは親スペイン的な統治者による支配。

それに対して英仏百年戦争を終えたフランスが、ナポリの継承権を主張してイタリアに勢力を伸ばし、スペイン(少し後ではスペイン・オーストリアのハプスブルク帝国)と覇権争いを繰り広げるというのがイタリア政治の基本構図になる。

ニコロ・マキャヴェリは1469年生まれ、名門出身ではなく、大学も出ていない。

フィレンツェは1434年以降はコジモ・デ・メディチが実質君主として君臨。

任期一年の大統領に当たる「正義の旗手」という名の最高職をはじめとする共和国の政体は維持しながらも実質メディチ家の僭主制下。

コジモ自身は「正義の旗手」には三度就任したのみで、他の面で国政を動かす。

1464年コジモ死去、子のピエロが継いだ後、1469年孫のロレンツォが弱冠二十歳で当主となる。

この時期フィレンツェとメディチ家は全盛期を迎え、ロレンツォ・デ・メディチは「イル・マニフィコ」(偉大な人)とあだ名される。

イタリア内の小国保全と現状維持、勢力均衡に努め、西欧で台頭しつつあった領土大国のイタリア介入を阻止、イタリア・ルネサンスの繁栄をもたらす。

1478年パッツィ家の陰謀、教皇シクストゥス4世も絡んだ反メディチ・クーデタが失敗。

ヴェネツィア、ミラノ、フランス(ルイ11世)は親メディチの態度を採るが、ナポリは反メディチ陣営に加わり、教皇と組んでフィレンツェと開戦。

ロレンツォは自らナポリ王フェランテと直談判し和解、オスマン朝の脅威が高まりつつあったこともあり、講和に成功。

1483年仏王シャルル8世即位。

1484年には教皇インノケンティウス8世即位、フィレンツェ・ローマ間の関係が大きく改善。

1492年のロレンツォの死によってイタリアに暗雲が立ち込める。

この年はもちろんレコンキスタ完了とコロンブスのアメリカ到達の年、ちなみに新教皇にボルジア家のアレクサンデル6世が即位。

メディチ家はピエロが継ぐが父の才覚は全く無し。

1494年ナポリ王フェランテ死去を機に、シャルル8世率いるフランス軍がイタリア侵入、(広義の)イタリア戦争開始。

ミラノ公国の実力者ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)、ジュリアーノ・デラ・ローヴェレ(次の教皇ユリウス2世)などがシャルルの軍を引き入れる役割を果す。

仏軍侵入への恐怖の中で同年フィレンツェのメディチ支配は崩壊、修道士サヴォナローラの支配確立。

仏軍はイタリアを縦断してナポリに入城するが、1495年反仏同盟樹立、これにはイル・モーロも加わり、結局シャルルはイタリアを撤退。

親仏政策を続けたフィレンツェは孤立化、ピサも独立して海への出口を失う。

1498年サヴォナローラの神政政治崩壊、サヴォナローラが火刑に処せられるところで本書はおしまい(この年ヴァスコ・ダ・ガマがカリカット到達、インド航路発見)。

2、3巻に続きます。

2009年9月14日

塩野七生 『ローマ亡き後の地中海世界 下』 (新潮社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

上巻に続き、即この下巻に取り組む。

しかし、だるい・・・・・。

気乗りしないまま、380ページ超の分量をこなすのは辛い。

ついだらだらサボりがちになり、読み終えるのに一週間かかった。

本書の叙述対象範囲もかなり狭く、実質16世紀初頭から1571年レパントの海戦までの西欧とオスマン・トルコ関係史。

海洋民族ではなかったトルコがその海軍力の多くを依存したのはやはり北アフリカの海賊たち。

「赤ひげ」というあだ名の方が有名になったハイルディーンなどの海賊がイタリア半島・シチリア島・サルディニア島・コルシカ島・南仏・スペインを荒らしまわる。

近世初頭、大航海時代真っ只中のこの時期でも、ヨーロッパ側が一方的守勢に立ち、甚大な被害を蒙っていたことに驚く。

中学までの歴史教育でのイメージだと、1500年を境に世界が一変して、西欧が圧倒的優位を保ちながらアジア・アフリカを次々と植民地化していくという印象があるが(私はそうでした)、実際には、南北アメリカの先住民は確かに為す術なく衰退・屈服してしまった一方、オスマン朝、サファヴィー朝、ムガル朝、明および清朝という近世初頭におけるユーラシアの四大帝国の繁栄の前にはヨーロッパは全く手が出せなかったわけである。

オスマン帝国の公認を得た海賊たちに立ち向かったのは、ジェノヴァ出身で後にスペイン海軍総司令官に就任した名将アンドレア・ドーリアと、国家として最も組織的に海賊退治に取り組んできたヴェネツィア共和国海軍。

上記と同じようなステレオタイプのイメージだと、大航海時代に入るとイタリアの都市国家はスペイン・フランス・イギリスなど諸大国の圧迫を受け、即座に没落した印象があるが、これも必ずしも正しくない。

中谷臣『世界史A・Bの基本演習』から引用すると

このルネサンスを担ったイタリア都市が「地理上発見」「商業革命」によって、またたくまに衰退するのではない。15世紀までの資本の蓄積があり、危機に対しては毛織物・絹織物・ガラス工芸・出版業・・・・・の振興で対処した。16世紀後半には香料貿易も再燃し、建築ブーム・宝くじブームが起こった。レパント海戦の勝利者にヴェネツィア艦隊もあったことを想起されたい。

とある。

この時代の背景として、イタリア五大国(ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・ローマ教皇領・ナポリ王国)の名と位置関係は押さえておくべき。

(これは高校世界史の範囲内なので確実に。なお五大国にジェノヴァが入っていないことにご注意。)

16世紀中にミラノとナポリはスペイン勢力下に入り、トスカナ大公国と変わったフィレンツェは統治者のメディチ家がスペインの支援を受け、反宗教改革を遂行するローマ教皇も同様といった次第で、独立を維持したのはヴェネツィアだけで、イタリアは実質スペインの支配を受け、18世紀初頭スペイン継承戦争後はオーストリアに統治され、それが19世紀イタリア統一運動の時代まで続くことになる。

こういう経緯を知るには、やや煩瑣な部分もあるが、モンタネッリの『ルネサンスの歴史』が適切と思われます。

当時のスペインおよびオーストリア統治者で神聖ローマ皇帝だったのはカール5世(カルロス1世)であり、それに対峙したのはフランス国王フランソワ1世だが、本書ではこの両者に対する評価ははなはだ低い。

カール5世については、例えば、イタリアの完全支配の妨げとなっているヴェネツィアを利することを避けるため、1538年プレヴェザ沖の海戦でスペイン海軍司令のドーリアに不可解な消極策を取らせたことなどが批判されている。

このプレヴェザ海戦はオスマン帝国全盛期にスレイマン1世の治世を飾る勝利として高校教科書にも載っているが、どうも奇妙な海戦で、キリスト教徒側とトルコ側が真正面からぶつかってキリスト教徒側が惨敗したという感じではない。

西欧側海軍の構成は、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇と、後のレパント海戦と同じ顔ぶれだが、少しの小競り合いがあった後、ドーリア率いるスペイン艦隊が撤退し、やむを得ず他の海軍も戦線を離脱したという状態で、キリスト教徒側の損害は大きくはなかったが、その心理的敗北感とトルコへの恐怖は大きく、以後海賊がますます跋扈することになる。

フランソワ1世に至っては、スペイン・オーストリアのハプスブルク帝国に対抗するためトルコと軍事同盟を結び、海賊行為を黙認することさえした。

1565年トルコ軍がマルタ島の攻略に失敗したことなどから、西欧とトルコとの力関係に変化が生じ、1571年有名なレパントの海戦が闘われる。

西欧側でこの海戦に参加した、当時の戦艦(この「戦艦」は軍艦の中の一艦種の意味)であるガレー船の数を並べると、ヴェネツィア110隻・スペイン72隻・教皇12隻だそうです。

これだけ見ても、ヴェネツィアがイタリア都市国家の中であらゆる意味で別格の存在なのがわかります。

レパントでの勝利によってヨーロッパの心理的余裕が回復され、海賊への抵抗が活発化し、その被害が軽減されていくことになるところで、本書の幕は閉じます。

あれこれメモはしたが、やはりあまりいいとは思えない。

著者は同じ時代を扱った自著のうち、『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』を微視的な、『海の都の物語』をヴェネツィアを中心にした巨視的著作として、本書を地中海全般に目配りした作品と説明しているが、良さが感じ取れない。

以上挙げた著作と他の材料を適当に混ぜて薄めた本といった感が拭えない。

発売から8ヶ月ほど経って、図書館での予約も減り始めた頃だろうから、買わずに借りるだけでいいでしょうし、そもそも無理して読むこともないかもしれません。

2009年9月11日

塩野七生 『ローマ亡き後の地中海世界 上』 (新潮社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

去年の年末にこの上巻が出て、今年初めに下巻が出ました。

一昨年まで続いた『ローマ人の物語』の続編を思わせるようなタイトルで装丁もそっくり。

私は途中から『ローマ人~』の単行本は買わなくなって、今は文庫版で揃えており、現在読んでいるのは単行本の12巻に当たる『迷走する帝国』までです。

(次の『最後の努力』が最近文庫化されましたが、私は未読。)

そのシリーズを読み終えてないのに、続編を先に読むというのも変な感じがしますが、あまり気にせず手に取る。

内容は、タイトルが与える印象ほどの網羅性は無いです。

古代末期以後の地中海世界全域の通史では全くなく、実質8世紀以降のイタリアとイスラム化された北アフリカとの関係史。

よってカテゴリは、ヨーロッパではなくイタリアで。

イスラムの海賊による被害に苦しめられるキリスト教世界の様相が主要テーマ。

読み進めていくと気付くのが、イスラム側の記述で王朝名がほとんど出てこないこと。

9世紀のイスラム教徒によるシチリア島征服について、この本の中盤で多くの紙数が割かれているが、これを遂行したチュニジアの都市カイラワーンのイスラム勢力は後藤明『ビジュアル版イスラーム歴史物語』によるとアグラブ朝という実質独立王朝のはずだが、本書ではただカイラワーン総督として名が出るだけ。

と言うか、そもそもウマイヤ朝やアッバース朝の名前すら出てこない。

9世紀、10世紀の西ヨーロッパはシャルルマーニュ死後の分裂期だが、本書で時々言及される国王が西フランク、東フランク、イタリアのどの王なのか不分明な場合があるし、ヴェルダン条約・メルセン条約についての説明もなし。

高校世界史では普通「神聖ローマ帝国」は962年オットー1世に始まるドイツ帝国を指すが、本書では800年シャルルマーニュの西ローマ帝国復興に使用していることに何とも言えない違和感。

以後、アマルフィ・ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアというイタリアの四大海洋都市国家の台頭、イングランドのノルマン・コンクェストと同じ11世紀に行われたノルマン人によるシチリア奪還、仏国王ルイ9世による第7回十字軍のチュニジア攻撃などの記述に進む。

最後にイスラムの海賊に北アフリカに拉致され、奴隷として酷使されたキリスト教徒を身代金を支払って解放することを任務とした修道会と騎士団のことが多くの興味深いエピソードと共に叙述されている。

このうち前者の熱心な後援者としてインノケンティウス3世の名が挙げられているが、これはこの教皇の意外な一面を堀米庸三『正統と異端』とともに示してくれている。

通して読むと中世にヨーロッパがイスラムから受けた被害の大きさに驚かされる。

著者がヨーロッパ側の視点に立っているからでもあろうが、一般的イメージとして定着しておらずあまり知られていない史実の一面を教えてくれるのは貴重ではある。

あと、全般的に言えることとして地図が多い。

似たような地図が何度も載せられており、好意的に見ればいちいち前のページに戻らなくても済むように関連文のある部分にはその都度掲げてくれているということでしょうが、巻末にある30ページにおよぶ海賊見張り塔のカラー写真集と並んで、ひょっとしてページ数稼ぎと価格上乗せ策じゃなかろうなという意地の悪い憶測が心に浮かんでしまう(本書は3150円もします)。

11世紀に十字軍・レコンキスタ・「商業の復活(商業ルネサンス)」・ドイツ東方植民など西ヨーロッパの反撃が始まる前、イスラムに対して一方的守勢に立っており、中世が真に暗黒時代であった頃のイタリアの状況概略を知るという限定された目的のためとすれば、比較的よく出来ていると思う。

相変わらず著者のストーリー・テラーとしての能力は大部を飽きさせずに読ませる(私は二日で読めた)。

しかし著者の専門であるイタリア以外の史実の扱われ方は非常に断片的でわかりやすくないし、得たものはほとんど無い。

周辺的テーマに紙数を割けないと言われればその通りかもしれないが、それを考慮しても物足りない。

『ローマ人~』というドル箱シリーズを手放してなるものかという出版社の嫌らしさを感じる。

そういう版元に推されて無理して書き下ろした結果、十分な内容を伴わなくなった本という印象が否めない。

(ちょっと言い過ぎかもしれませんが。)

すぐ続けて下巻も読むと思いますけど、是非読むべき本だとは思えませんでした。

2008年8月11日

塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』 (新潮文庫)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

『ローマ人の物語』刊行中の2001年に出た単行本の文庫化。

当時著者のルネサンス期イタリアを扱った作品の版権が中央公論から新潮社に移され(率直に言ってこれは非常に残念でした)単行本として刊行されており、それに合わせて書き下ろされた本。

対談の形式でフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアのイタリア・ルネサンスについて概説したもの。

文意は明解で非常に楽に読めます。

しかし内容に特筆すべき点はない。

ルネサンスに関する独創的な視点に驚かされたり感動したりということもなく、最後まで読んでも「あー、そうですか」という感じ。

こういう大御所に浅薄な一読者の私が文句をつけるのは噴飯ものだと承知しながら言わせてもらうと、至るところに出てくる執拗なキリスト教への批判がどうにも気になってしょうがなかった。

「反宗教改革」の代わりに最近用いられる「対抗宗教改革」という言葉は使わず、「反動宗教改革」とより悪いイメージの用語を選んで、それがイタリア・ルネサンスの息の根を止めたと断言している。

『ローマ人の物語』を読んでいる時にも感じたことだが、この人の一神教的宗教への非難は行き過ぎというか公平さを欠くというか、ちょっと素直に受け取れないものを感じる。

『ローマ人・・・』で、共和政から帝政への移行は自由の喪失でも歴史の退歩でもないと力説したり、ペリクレス治下のアテネが民主政のモデルとして評価されたのはフランス革命以後であり、それ以前はアウグストゥス治下のローマ帝国と同じく単に善政の模範として高く評価されていただけだったと述べたりした部分には、通俗的な価値観とは異なる良い意味での著者の独自性を感じたものだったが、それに対してキリスト教に代表される一神教の普及により人間精神の自由が抑圧され「暗黒の中世」を迎えたという見方は平凡過ぎて全然感銘を受けない。

チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)を読んだ後だとますますそう思える。

読んで損したとまでは思わないが、あんまり面白い本でもない。

本文が終った後、「主役たちの略歴一覧」というものが続き、ルネサンス文化人の肖像・作品の写真の下にごく短い紹介文が付せられている。

これはまあ便利ではあるが、同じような形式の列伝がある樺山紘一『ルネサンスと地中海』(中公文庫)の方がより印象的で頭に入る。

あと事実関係の記述でルネサンス期のローマ教皇が順に載せられており、良い機会なのでこれを以下メモしておきます。

まず全般的なことを言いますが、歴代ローマ教皇を全部覚えるなんて事は絶対に不可能です。

自分ができる見込みが全く無いことを皆様に偉そうに勧めるつもりは毛頭ございません。

高校世界史で出てくる教皇と言えば、初代のペテロはまあ別にして、レオ1世、グレゴリウス1世、レオ3世、ヨハネス12世、グレゴリウス7世、ウルバヌス2世、インノケンティウス3世、ボニファティウス8世、アレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世、パウルス3世くらいですか。

せめて叙任権闘争とシスマの時期、およびルネサンス期の教皇ぐらいは覚えようかと思うのですが、なかなかうまくいかない。

教皇位は国王と違って世襲ではないので前任者の死去後、年配の候補者が順に継いでいき、勢い在任期間が短く就任者が多くなる。

当然ながら王朝のように、ある王の息子が誰それで、その子が誰それと、系図のイメージで印象付けて覚えることもできない。

ただ人名を機械的に暗記する他ないのが苦しい。

地道に覚える努力をするしかないのですが、とりあえずルネサンス期の教皇は以下の通りです。

ピウス2世(1458~64年)

1453年のコンスタンティノープル陥落とビザンツ帝国滅亡を受け、十字軍再編成を企図するがイタリア諸都市の支持を得られず挫折。

パウルス2世(1464~71年)

ヴェネツィア出身。祖国の政策に呼応して前教皇の対トルコ政策を転換。

シクストゥス4世(1471~84年)

俗名フランチェスコ・デラ・ローヴェレ。最後のビザンツ皇帝の姪とロシアのイヴァン3世との結婚を斡旋。メディチ家を敵視、「パッツィ家の陰謀」を影で支持。「システィナ礼拝堂」はこの教皇の名に由来。

インノケンティウス8世(1484~92年)

俗名ジョヴァンニ・チボー。ジェノヴァ出身。ロレンツォ・デ・メディチと密接に協力。

アレクサンデル6世(1492~1503年)

俗名ロドリゴ・ボルジア。息子が有名なチェーザレ・ボルジア。シャルル8世のフランス軍侵入に対応。メディチ家追放後のフィレンツェを支配したサヴォナローラとの正面対決を避け、その自滅を待つ。

ユリウス2世(1503~13年)

アレクサンデル6世との間にピウス3世がいるが、本書では省略。俗名ジュリアーノ・デラ・ローヴェレ。シクストゥス4世の甥。ミケランジェロ、ラファエロのパトロン。

レオ10世(1513~21年)

俗名ジョヴァンニ・デ・メディチ。ロレンツォの次男。言わずと知れたルターの敵役。レオナルド・ミケランジェロ・ラファエロの三人が在位中短期間ながらローマに滞在。

ハドリアヌス6世(1522~23年)

オランダ出身。

クレメンス7世(1523~34年)

俗名ジュリオ・デ・メディチ。レオ10世のいとこ。1527年カール5世による「ローマ掠奪」の憂き目に遭う。のちカールと和解、その支援を得てフィレンツェにメディチ家支配を復興させ、フィレンツェは共和国から公国に変わる。

パウルス3世(1534~49年)

俗名アレッサンドロ・ファルネーゼ。即位早々ヘンリ8世のイギリスがカトリックから分離。イエズス会を認可。1545年トリエント公会議開催。ルネサンスの巨匠たちのなかで最後まで長命を保ったミケランジェロに「最後の審判」作成を依頼。本書ではルネサンス教皇はこの人まで。

2008年7月5日

藤沢道郎 『メディチ家はなぜ栄えたか』 (講談社選書メチエ)

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フィレンツェ共和国を事実上支配し、ルネサンスのパトロンとしても有名な一族の盛衰をコジモ・デ・メディチを中心に叙述した本。

14世紀末毛織物工業労働者の反乱であるチョンピの乱で、メディチ家は労働者に同情的態度を取り、寡頭的共和政の主導権を握る上流階級から白眼視されながらも、下層階級からは根強い支持を受ける。

15世紀初頭ジョヴァンニ・デ・メディチが家業の銀行業を大いに発展させ、教会大分裂(シスマ)時の混乱を利用して、自行を教皇庁のメインバンクにすることに成功、巨万の富を築く。

その子のコジモは一族最大の偉才であり、1434年ライバルのアルビッツィ家を打倒、共和制の政治システムを保存しながらも、実質的にはフィレンツェの君主となる。

ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・教皇領・ナポリ王国という当時のイタリア五大国のうち、特にフィレンツェとミラノは激しく対立していた。

コジモはミラノ公国のヴィスコンティ家断絶を見越してフランチェスコ・スフォルツァの公位継承を支援し、それに加えて1453年ビザンツ帝国滅亡によるトルコの脅威増大も梃子にして、1454年五大国すべてが参加するローディの和を締結。

以後、1494年フランス王シャルル8世がイタリアに侵攻し、イタリア戦争が勃発するまでの40年間平和が維持され、ルネサンスは全盛期を迎える。

他にコジモの文化面での功績として、ブルネレスキ、ドナテルロなどに対する支援について述べられている。

コジモ以後のメディチ家の歴史に関しては簡略な記述。

子のピエロがコジモの遺産を何とか守りきった後、孫のロレンツォ(イル・マニフィコ=「壮麗な」という添え名で知られる)の代となる。

この大ロレンツォの時代をメディチ家全盛期とする見方もあるが、著者はそう考えてはいないようだ。

ロレンツォ死後はシャルル8世の仏軍侵入のあおりを受け、メディチ家は失脚、サヴォナローラの神政的独裁が生まれる。

後、ロレンツォの次男のジョバンニが教皇レオ10世に、甥のジュリオがクレメンス7世に即位するが、メディチ家の企業家・文化のパトロンとしての活力は失われていった。

文章が明解でわかりやすく、なかなか面白い。

文化史の章は私には晦渋なところもあったが、大体何を言いたいかはわかる。

ごく良質な世界史啓蒙書と言えるでしょう。

なお藤沢道郎氏は『物語イタリアの歴史』『同 Ⅱ』の著者でもあります。

このうち前者は中公新書の『物語 歴史』シリーズの最高傑作だと思います。

カノッサ女伯マティルデ、作曲家ヴェルディなど高校世界史レベルではさして重要とは思えない人物を含む10人の伝記で各時代を生き生きと描き切り、しかも教科書に載っているような重要事件は洩れなく記述し網羅性は確保するという離れ業を見事に成功させている。

大学時代、刊行当初の本書を偶然生協書店で見かけて何の気無しに通読し、そのあまりの面白さに驚嘆しました。

初心者が絶対に読むべき本の一つだと思います。

他の著作としては『ファシズムの誕生 ムッソリーニのローマ進軍』(中央公論社)がありますが、こちらは非常に大部な本で、ムッソリーニ政権成立時にのみ特化した史書のようですので今のところ敬遠しております。

藤沢氏のもう一つの顔はインドロ・モンタネッリの『ローマの歴史』および『ルネサンスの歴史』の訳者であります。

この二つの著作も初学者必読。

『ルネサンスの歴史』の訳者あとがきで藤沢氏は以下のように述べています。

普通の人間が歴史に興味を持つ動機は、何と言っても歴史に登場する人物の魅力であって、歴史法則でもなければ思想の流れでもなく、いわんや経済社会的な統計資料でもない。明治以来戦前まで、『プルターク英雄伝』の翻訳が、西洋古代史への日本人の関心をかき立て、その知識の普及にいかに寄与しかかを思い出すのも無駄ではあるまい。

こういう観点から一般常識としての平易な歴史書を出版する意義を強調していた方で、個人的には本当に心から共感し感謝していた方でした。

先日書いたことの繰り返しで、しつこくて申し訳ありませんが、このモンタネッリのイタリア史シリーズの翻訳を何とか完結させてもらえないでしょうか。

「実は藤沢氏が試訳を残されてましたので、適切な監修者が手を入れて出版します」なんてことがあれば最高なんですが、それはいくらなんでもあり得ない勝手な空想でしょう。

中央公論新社編集者の方に新規翻訳を是非企画して頂きたいものであります。

2008年6月12日

マックス・ガロ 『イタリアか、死か』 (中央公論新社)

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カヴール、マッツィーニと並んでイタリア統一の三傑であるジュゼッペ・ガリバルディの伝記。

著者は社会党所属のフランス国会議員。

訳文は流暢で読みやすいが、500ページ超の分量はちょっとキツイ。

日本人著者が書いた新書版の伝記が欲しいところだが、無いから仕方ない。

ガリバルディはニース出身。

マッツィーニの青年イタリアに加わり、当局の取り締りを逃れて南アメリカに亡命。

当地でブラジルからの分離を目指す南部の共和国を支援したり、独立間もないウルグアイ軍に加わり、アルゼンチンの独裁者ロサスと戦ったりしている。

1848年革命にあわせてイタリアへ帰国。

1849年ローマ共和国防衛のため、フランス軍と戦うが敗北、再度アメリカ大陸へ亡命。

この後、急進的空論家の傾きのあるマッツィーニと距離を置きはじめ、共和主義の主張を棚上げしてピエモンテ・サルデーニャ王国のイタリア統一事業に協力する。

1859年イタリア統一戦争に参加。

60年中部イタリア併合の代償として故郷のニースがサヴォイアと共にフランスに割譲されることに憤慨しながら、カヴールの微温的な態度を横目に赤シャツ隊(千人隊)を率いてシチリア島上陸。

シチリアを制した後、半島南部に侵攻しナポリに入城、両シチリア王国を征服して、サルデーニャ王に献上する。

1861年イタリア王国が誕生し、教科書的にはここでガリバルディは御役御免ですが、本書では以後の生涯も詳しい。

61年以後も未統一地域征服のため義勇軍を組織し、ローマ教皇領に二度侵攻を企て、オーストリア領チロル奪還のためにも戦っている。

66年のオーストリアへの攻撃は失敗し、成果なく撤退。

62年ローマ侵攻の一度目は教皇領に入る前にフランスとの全面戦争を恐れるイタリア政府軍に鎮圧されガリバルディも負傷、その後仏伊間の協定で教皇領から仏軍は撤退するが、67年二度目の侵攻の際ガリバルディの義勇軍は急派された仏軍に惨敗。(70年普仏戦争時、撤退したフランス軍はこの時派遣されていたものらしい。)

なお、教科書では教皇領の併合は70年となっているが、歴史地図をみると教皇領のうちアドリア海に面した北側三分の二くらいは60年併合というような表示になっている。

それについては本書でも説明が無いのでよくわからない。

その他、イタリア統一と同年勃発したアメリカ南北戦争で北軍への参加を仄めかしたり、普仏戦争ではフランス側に義勇軍として実際に従軍したりと派手な行動は生涯変わらず。

そうした直情的行動家の一面がある一方、妥協と漸進主義の実際家としての性格も強かった。

シチリア・ナポリ征服の際、共和国を宣言するようにとのマッツィーニ派の働きかけを無視し、民族統一を最重視して同地をサルデーニャ王に献上。

民族の独立と統一のためには武器を取ることをためらわなかったが、国内の階級闘争を暴力で解決することには反対し、シチリア遠征の際、地方役人を虐殺した反乱農民を絞首刑に処している。

筋金入りの共和主義者として王政への強い反感を持ち、カヴールをはじめとするその下僚に辛らつな非難を浴びせたが、イタリア統一の象徴たるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世王個人への攻撃は避けた。

最晩年には社会主義への共感を持つが、プロレタリア独裁などの概念は否定する。

19世紀ヨーロッパで自由主義進歩派の偶像といえるほどの人気を博したガリバルディだが、こうした民族問題最重視と階級闘争軽視の姿勢に対してブランキやマルクス、エンゲルスは批判の言葉を残している。

以上のような面をもって、ガリバルディの「限界」とみるか、それとも革命家にしては分別があるとみるかは人によって意見が分かれるでしょう。

通読にやや骨が折れるが、その分内容は豊富。

なかなか良好な出来と言っていいんじゃないでしょうか。

類書としては、ロザリオ・ロメーオ『カヴールとその時代』(白水社)がありますが、とんでもない値段と分厚さなので、私には到底通読できません。

森田鉄郎『イタリア民族革命の使徒マッツィーニ』(清水書院)は手軽な新書版ですが、立ち読みしたところ、評価がやや教条的かなと感じたので未だ読んでおりません。

他に何か適当な本がありましたら、ご教示下さい。

2007年6月3日

高山博 『中世シチリア王国』 (講談社現代新書)

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ノルマンディー、ノヴゴロド、イングランドとともに第二次民族大移動の中でノルマン人が勢力を得た地域である南イタリア・シチリア王国を扱った本。

この両シチリア王国はラテン・カトリック、ビザンツ・東方正教、アラブ・イスラムの三文明が混交した特異な地域であるとともに、中世においては異例なほど官僚制が整備され中央集権化が進んでいた国として一般には著名なようだ。

ノルマンディー出身のオートヴィル家が本書の主役であり、まず稀代の奸雄ロベルトゥス・グイスカルドゥス(ロベール・ギスカール)が南イタリアに強大な基盤を築く。

叙任権闘争の最中の教皇グレゴリウス7世と提携し巧みな交渉によって自らの勢力を認めさせたあと、ビザンツ帝国征服をも企み、バルカン西部の帝国領を荒らしまわる。

その子のボヘモンドゥス(ボヘモン)はゴドフロワ・ド・ブイヨン、トゥールーズ伯レーモンと並んで第一回十字軍の主要参加者で初代アンティオキア公となる。

(ギスカール、ボヘモン父子についてはギボン『ローマ帝国衰亡史』9巻に詳しい記述あり。)

ギスカール死後、ボヘモンと異母兄弟の相続争いなどがあり、ノルマン人勢力の指導権はギスカールの弟ロゲリウス(ルッジェーロ)1世に移る。

彼は10世紀以後ビザンツからイスラム支配下になっていたシチリア島を内紛を利用して奪取し、首都パレルモを中心とした豊かで強力な領地となすことに成功。

後を継いだ子のルッジェーロ2世は半島部の領域も併せ、王号を手に入れ初代シチリア国王に即位するとともに北アフリカにまで遠征を行い、トリポリ・チュニスなどを奪取し、広大な領域を治める君主として地中海に君臨する。

ルッジェーロ2世の子ウィレルムス(グリエルモ)1世、孫のウィレルムス2世の治世は続発する反乱に悩まされながらも王国の統一を保持し、独特の文化と広範な貿易で繁栄を維持する(ただし北アフリカの領土はムワッヒド朝に奪われる)。

だがウィレルムス2世死後継承争いが起こり、結局ウィレルムス1世の妹で2世にとって叔母にあたるコンスタンティアが神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世(フリードリヒ1世バルバロッサの子)と結婚していた縁で、シチリアはドイツ・シュタウフェン家の統治下に入ることとなる。

ハインリヒとコンスタンティアの息子である皇帝フリードリヒ2世の治世で本書は幕を閉じる。

紙数の都合もあっただろうが、できればフリードリヒ死後のシュタウフェン朝断絶、フランス・アンジュー家およびスペイン・アラゴン家の統治にまで筆を進めてもらいたかった。

それが残念ではあるが、新書版の啓蒙書としてはかなり良い部類に入ると思う。

教科書でごく簡略に触れられているだけの史実の細部が興味深く記され、断片的な知識が組み合わさって一つの物語が成り立っていく過程の快感が味わえる。

私にとってはそれが歴史を学ぶ醍醐味である。

本書はものすごく面白いわけではないが、以上の楽しみを平均以上で与えてくれる良書と言えます。

2007年4月14日

ジェンティーレ 『イタリア現代史』 (世界思想社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:00

第二次世界大戦後のイタリア政治史。

それ自体類書が少なく貴重だが、本書は保守的イタリア人著者が、小党分立による政治の不安定となし崩しの左傾化を慨嘆するという視点がユニークなので買った。

何とか読み通しましたが、基礎知識の無い人間には相当苦しい。

やはりこういうマイナーなテーマでは、日本人著者が噛み砕いてわかりやすく書いた入門書が欲しいですね。

2006年11月29日

塩野七生 『神の代理人』 (中公文庫)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:22

ルネサンス期のローマ教皇4人の評伝。

特にレオ10世の章は面白かった記憶がある。

『ルネサンスの女たち』『チェーザレ・ボルジア』に比べれば、より取っ付きやすいテーマか。

機会があれば、私も再読したいです。

2006年11月9日

塩野七生 『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』 (新潮文庫)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:41

悪名高いボルジア家の教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアの親子を主人公にした本。

チェーザレの人物像には確かに魅力を感じないでもないが、『ルネサンスの女たち』でも書いたように、どうもこの辺の群小都市国家の歴史はゴチャゴチャしていて読むのが面倒臭い。

何とか読み通したが、少々の忍耐が要る本であった。

まあ好きな人にはいいんでしょう。

私は多分再読はしないと思う。

2006年10月26日

塩野七生 『ルネサンスの女たち』 (中公文庫)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 06:40

『ローマ人の物語』のあまりの面白さに驚き、塩野氏の他の著作も読んでみようとまず手に取ったのがこれ。

四人の高い身分の女性の伝記で当時のイタリアの政治情勢を浮かび上がらせる本。

面白くないとは言わないが、如何せんテーマとしてマイナー色が抜けきらない。

個人的にどうもこの辺の近世イタリアの群小都市国家の歴史というのは興味が湧かない。

それをマイナーと決め付ける私にも問題があるのだろうが・・・・。

まあ本書が良書かどうかは、ご自身で読んで判断してください。

2006年9月4日

藤沢道郎 『物語イタリアの歴史 Ⅱ』 (中公新書)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 18:29

1巻が素晴らしすぎたので、これはもう一つか。

NHK語学テキストに連載されていたもので、前巻よりかなり短く、まとまりがない気がする。

とは言え読書リストから外すのはもったいないと思わせるだけの内容を持っている。

2006年8月28日

ロマノ・ヴルピッタ 『ムッソリーニ』 (中央公論新社)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 18:43

前日の『フランコ』よりもっと物議を醸しそうな在日イタリア人によるムッソリーニの弁護論的伝記。

ページ配分が適当でムッソリーニの全生涯が詳しく記されていて便利なので、必ずしも著者の主張に得心のいかない読者でも、通読する価値はある。

今新刊として手に入る日本語で書かれたムッソリーニ伝としては一番良いと思う。

ところでイタリア本国では著者のような立場に反対する勢力ももちろん多いだろう。なかなか興味深いので、イタリアでの「歴史認識論争」の詳細も誰か中立的立場の人が紹介してくれないだろうかと思う。

2006年7月25日

塩野七生 『レパントの海戦』 (新潮文庫)

Filed under: イタリア, スペイン — 万年初心者 @ 19:10

塩野氏の戦記三部作の最後。

教科書ではフェリペ2世治下のスペイン最盛期の事例として出てくる海戦だが、本書を読むと西欧側の戦いの主力はむしろヴェネツィア艦隊だったようだ。

これだけメジャーな事件を抜群に面白く再構成してくれているのだから、やはりこれは外せないでしょう。

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