万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年4月26日

今井宏平 『トルコ現代史  オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 (中公新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 05:16

分野的に類書が極めて少ない、ケマル・アタテュルク以後のトルコ現代史の本。

第一次大戦敗北後、1920年のセーヴル条約に反対し、抵抗運動を組織したムスタファ・ケマルが勝利、1922年スルタン制を廃止、23年トルコ共和国建国、ローザンヌ条約締結、24年カリフ制も廃止。

以後、ケマルの独裁的指導と与党共和人民党(昔はトルコ国民党と訳されてましたね)の一党支配体制が続く。

政教分離(世俗主義)、民族主義、国家資本主義を指針として、イスラム圏では稀有な急進的西洋化・近代化政策を推進。

1938年ケマルが死去(まだ57歳だったことにやや驚く)、イノニュが後継大統領に就任。

第二次大戦では慎重な中立政策を採り、最末期まで連合国に加わらず。

戦後、複数政党制を認め、民主党が結成。

1950年選挙で民主党が圧勝、政権交代し、メンデレスが首相に就任。

同時にイノニュも大統領職から退くが、ここから行政権の主体が大統領から首相に移行した模様。

このメンデレス政権がちょうど10年続く。

米ソ冷戦が始まり、トルコはトルーマン宣言の支援対象国とされ、西側陣営に加わり、1952年NATO加盟。

メンデレス民主党政権は、経済的門戸開放政策と地方の利益増進などで成果も挙げたが、世俗主義の部分的見直しが波紋を呼び、また民主党自身が権威主義化し、共和人民党を圧迫。

これに反発する軍部が1960年クーデタを実行、建国以来の第一共和政は終焉。

ギュルセル主導の短期の軍政の後、第二共和政成立。

主要政治勢力は四つ。

イノニュおよびエジェヴィト率いる中道左派的な共和人民党。

デミレル率いる中道右派的な公正党(民主党の後身)。

エルバカン率いる親イスラム系の国民救済党。

右派的トルコ民族主義を掲げる民族主義者行動党。

これらの勢力で政権が運営されるが、60年代末から左翼的学生・労働運動の勃興で治安が悪化、71年には軍部の圧力で内閣が総辞職するという「書簡クーデタ」が起こり、74年にはトルコ系住民保護の為、キプロスに軍事介入、西側諸国との関係が悪化。

石油ショックによる経済危機も加わり、結局1980年再度軍事クーデタ発生、第二共和政は崩壊。

それ以後、現在までが第三共和政である。

その前半をリードしたのが、多様な勢力を糾合した祖国党とそのカリスマ的指導者オザルである。

オザルは1983~89年まで首相、89~93年大統領を務め、新自由主義的政策を採用、経済成長を遂げるが、その代償として格差と腐敗も広がる。

共和人民党、(そこから生まれた)民主左派党、(公正党の後身)正道党は、祖国党への明確な対立軸を打ち出すことが出来ず、国民の不満が高まる中、主要政党は没落、第三共和政後半では、その間隙を縫って、親イスラム政党である福祉党および後身の美徳党が台頭する展開となる。

革命以来の世俗主義の守り手を自任する軍部は、96年連立政権の首相となったエルバカンに圧力をかけ翌年辞任に追い込むが、EU加盟交渉での外圧や軍による謀略の暴露などで、その影響力は低下していく。

2000~01年の金融危機を経て、01年美徳党の若手・革新グループであるギュルとエルドアンを中心に結成された公正発展党が02年総選挙で大勝、単独政権を樹立、ギュルが首相就任。

2003~14年にはエルドアンが首相として長期政権を実現、2007年には大統領にもギュルが就任、その後継として14年大統領に転じたエルドアンは、行政権の主体を首相から強大な権限を持つ大統領に移すことを主張。

国内の対立が深まる中、2016年軍部のクーデタが発生するが失敗、かえってエルドアン体制が盤石になる形勢となっている。

 

 

この国は、1789年以来君主制を放棄した国々の中では、ブラジルと並んでひとまず破滅的な結果をもたらさなかった国として、個人的には評価していたのだが、本書の叙述によって内実を見ていくと、必ずしもそうとは言えない模様。

ケマリズムと西洋化政策の恩恵を受けたエリート層とそこから取り残された大衆層との深い断絶が革命以来続き、その矛盾が親イスラム勢力の台頭という形でじわじわ表面化してきた感がある。

しかし、国内の緊張と対立が深まる中、ポピュリスト的指導者が台頭し、これまで象徴的役割だった国家元首に実質的権限が集中していく、という展開は不吉だなあと思わざるを得ない。

スルタン制はともかく、カリフ制だけは温存し、伝統的な制度と信仰を保存し、より漸進的な形での近代化政策を進める展開になっていれば・・・・・というのは都合が良すぎるか。

そんな状況では全くなかったんでしょうねえ。

世の中のことは大抵どうしようもないんでしょう。

人間というのは本当にやっかいな生き物です。

 

 

 

手軽に読める類書がほぼ無いはずなので、極めて貴重な本。

こういう知識の隙間を埋めてくれる本は非常に有り難いです。

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2018年3月22日

池田美佐子 『ナセル  アラブ民族主義の隆盛と終焉』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 04:33

戦後、中東の地域大国エジプトで、実質的な初代指導者となった政治家の伝記。

ちょうど100ページくらい。

後継者のサダト、ムバラクは含まず、ナセル単独の伝記なので、分量はまあ適当か。

内容はごく平均的です。

1952年自由将校団によるエジプト革命、表看板のナギブを排してナセルが実権掌握、55年バンドン会議参加、中東条約機構(METO)への対抗意識から東側諸国への接近、56年スエズ運河国有化と第二次中東戦争(スエズ戦争)での政治的勝利、58年シリアとの政治的統合とアラブ連合共和国成立でアラブ民族主義の旗手としてその勢威は絶頂を迎えるが、61年シリア離脱、60年代の「アラブ社会主義」の名の下に推進された産業国有化政策は行き詰まり、ムスリム同胞団と共産主義勢力を抑え込む為の厳しい政治的統制が敷かれる中、67年対イスラエル強硬論に流されてティラン海峡封鎖措置を取るや、イスラエルは先制攻撃に転じ、第三次中東戦争勃発、エジプトなどアラブ諸国は空前の惨敗を喫し、シナイ半島・ガザ地区・ヨルダン川西岸・ゴラン高原を占領され、ナセルの威信は失墜、70年に死去する。

戦後の中東史については、イスラエルと周辺アラブ諸国の対立、および穏健派諸国と急進派諸国の相克で捉えるのが基本。

1948年、56年、67年、73年の四次の中東戦争の年代をまず記憶。

48年パレスチナ戦争の敗北がアラブの旧体制を動揺させ、52年エジプト革命が急進的アラブ民族主義の原点となる。

で、58年イラク革命、69年リビア革命、79年イラン革命、と君主制が倒れるごとにその国が急進派に加わる。

君主制を維持したサウジアラビアとペルシア湾岸諸国およびヨルダン、ケマル・パシャ以来の世俗主義共和国で西側陣営に属するトルコは一貫して穏健派。

急進派内部の対立も激しく、58年の革命で成立したイラクのカセム政権はナセルと激しく対立、シリアは上述の通りエジプトと合邦し「アラブ連合共和国」を結成した(南北ヴェトナムや東西ドイツ、南北イエメンのような明白な分断国家が統一されたのとは違い、別々の主権国家が完全統合した、戦後では珍しい例)が、エジプト優位の体制への反発からわずか3年で崩壊、その後シリア・イラク両国で成立したアラブ統一と社会主義を掲げるバース党政権も、アラブ民族主義の主導権を争ってナセル政権とも、両国同士でも対立。

シリアではアサド政権、イラクではサダム・フセイン政権、リビアではカダフィ政権が独裁体制を敷くが、79年のシーア派によるイラン革命は「イスラム原理主義」を初めて体制として出現させ、急進・穏健派を問わず、周辺のスンナ派アラブ諸国すべてと対立(と書いたものの、急進派イラクと穏健派サウジの双方と対立したのは事実だが、イラン・イラク戦争中、急進派でも直接「イスラム革命輸出」の脅威を受けなかったシリアとリビアはイランと一部協力していたはずだから、厳密に言えばこれも不正確か)。

そうした中、エジプトは、ナセルの後継者サダトがソ連軍事顧問団を追放した後、自力で第四次中東戦争の(緒戦での)勝利をもぎ取り、威信を確保した後、イスラエルとの和解に乗り出し、79年平和条約を締結、穏健派諸国の強力な支柱に変貌した。

よって私にとってはナセルよりもサダトの方が偉大な政治家に思える。

 

 

まあ普通です。

記述はよくこなれていて読みやすい。

史的評価も穏当。

サブテキストとして読むのも悪くない。

2017年11月12日

私市正年 佐藤健太郎 編著 『モロッコを知るための65章』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 04:40

アフリカ北西端、マグリブ諸国の中で一番西にある国。

まずチェックすべきなのは、君主制国家だということ。

日本名はモロッコ王国。

首都はラバトだが、他にもカサブランカ、フェス、マラケシュなどの有名都市があり。

帝国主義時代の二度のモロッコ事件で出てくるタンジェ(タンジール)とアガディールも。

宗教的にはもちろんイスラム教スンナ派。

民族はアラブ人とベルベル人が半々くらい。

アトラス山脈がもたらす降雨により、農業が繁栄、リン鉱石などの資源にも恵まれ、漁業も盛ん。

ギリシア、フェニキア(カルタゴ)の活動を経て、ローマ支配下に入り、その後ヴァンダル族が侵入、東ローマがヴァンダル王国を滅ぼす。

7世紀末からイスラム時代。

789年モロッコ初のイスラム王朝である、シーア派のイドリース朝建国。

それが衰退すると、後ウマイヤ朝とファーティマ朝による侵入をしばしば受ける。

11世紀半ば、ムラービト朝が大勢力となり、アンダルス(イスラム支配下のイベリア半島)にも進出。

12世紀半ばにはムワッヒド朝が後を継ぐ。

その支配も永続せず、モロッコにはマリーン朝が成立(1248~1465年)。

大旅行家イブン・バットゥータは、この時代、1304年にタンジールで生まれている。

続いてワッタース朝が生まれるが、その統治は弱体で、大航海時代のポルトガルにセウタなどの沿岸都市を奪われる(セウタはスペインのポルトガル併合時代にスペイン領となり、ポルトガル再独立後もスペイン領有のまま)。

1492年レコンキスタ完了で、ナスル朝が滅亡したアンダルスから多数のムスリム亡命者がモロッコに移住。

そうした中、シャリーフ(ムハンマドの後裔)を名乗るサアド朝が16世紀後半にワッタース朝を滅ぼし、モロッコを統一。

ポルトガルとオスマン朝の攻撃を退け、トンブクトゥに遠征し、ソンガイ王国を滅ぼし、サハラ貿易を独占。

17世紀にはサアド朝が衰亡し、一時の分裂状態に陥った後、同様にシャリーフ家系のアラウィー朝が1659年成立、この王朝が現在まで続く。

19世紀帝国主義時代、タンジールのみを貿易港とする「鎖国政策」がヨーロッパ諸国の非難の的となり、隣国アルジェリアでフランスの植民地化に抵抗するアブドゥルカーディルを支援したこともあって、1844年フランスと戦うことになるが敗北、以後不平等条約を押し付けられ、列強の圧迫を受け続ける。

アルジェリア・チュニジアを植民地化したフランス、大西洋・地中海対岸のスペイン、ジブラルタルを領有するイギリスの三者が主だが、そこにドイツが割り込み、対仏威嚇と1904年締結の英仏協商の強さを瀬踏みしようとして起きたのが、1905年第一次モロッコ事件(タンジール事件)、1911年第二次モロッコ事件(アガディール事件)。

結局、1912年、中部の主要地帯はフランス、北部と(現西サハラを含む)南部はスペインによって保護国化。

アラウィー朝自体は存続したが、主権は喪失し、実質的には植民地化。

だがアラウィー朝スルタンは、独立運動の過程で団結の契機と象徴として威信を保つ。

北部のスペイン領モロッコでは、アブドゥルカリーム率いるベルベル農民らがリーフ戦争の名で知られる反乱を起こしたが、1926年鎮圧。

結局、1956年フランス領と北部スペイン領を併せた領土で独立達成、主権回復、スルタンは国王と称号を変え、ムハンマド5世として即位、君主権の強い立憲君主制国家として発足。

以後国王は、ハサン2世(1961~99年)、ムハンマド6世(1999年~)と続く。

チュニジアも似たような経緯で独立したものの、君主制は廃されてしまったが、この違いが何からもたらされたかはもっと詳しい本を読まないと分からないでしょう。

なお、北部のセウタおよびメリーリャは小さな飛び地であるが、現在もスペイン領のまま。

スペイン南端のジブラルタルは現在もイギリス領だが、スペインもモロッコにこの二つの飛び地領土を持っているわけである。

より重要な問題として、西サハラ問題がある。

スペインの南部保護領の一部だった西サハラ地域は、スペインが自治領として維持しようとし、また隣国モーリタニアも一時領有権を主張。

1975年スペイン民主化時代に、スペイン軍は撤退、モーリタニアも領有権を放棄したので、実質的にモロッコ領となったが、武装勢力が独立運動を展開、1984年「サハラ・アラブ民主共和国」がアフリカ統一機構(OAU)に加盟を認められると、モロッコは猛反発してOAUを脱退。

この問題は現在も解決を見ず、モロッコはOAUの後継組織、AU(アフリカ連合)にもアフリカ大陸で唯一非加盟を貫いている。

私が子供の頃のアフリカ地図では西サハラとナミビアだけが非独立地域の意味で白色のままだったのを覚えていますが、後者が独立した今となっては、西サハラだけが未確定領土として残っているわけです。

他に外交的には、イスラム諸国の中では比較的イスラエルに宥和的姿勢を保ち、プラグマティックな親米・親西側路線を採ることが多い。

 

 

メモする必要があるのは、まあこんなもんでしょ。

細かな王朝名は別にして、以上のようなことが常識的にわかっていれば良し。

2017年10月27日

宮田律 『物語イランの歴史  誇り高きペルシアの系譜』 (中公新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 05:23

かなり前の記事だが、ここここで相当腐した記憶のある、この本を通読。

2002年刊。

 

ペルシア民族は、アケメネス朝・ササン朝という二大帝国をもって古代オリエントに君臨。

イスラム勢力の爆発的膨張によって、中東全域がアラブ民族の居住地域になるが、ペルシア人はイスラム教とアラビア文字は受容したものの、言語と民族の独自性は守り続ける。

それは、サファヴィー朝がシーア派を国教とし、イスラム世界で圧倒的多数のスンナ派への対抗軸を打ち立てたことで、さらに明確になった。

サファヴィー朝は、もう一つの非アラブ系主要民族であるトルコ人のオスマン朝による中東の政治的統一を阻止することにも成功。

「シーア派イスラム」と「“古代ペルシアの栄光”以来のイラン民族主義」という、二つのアイデンティティが、時の体制の思惑や世論の流れによって、交互に表舞台に表れる。

18世紀、サファヴィー朝滅亡後、その末にカージャール朝が成立するが、その歴史はほぼ全てイラン国家の衰退期といった感じで、イギリスとロシアによって半植民地に転落。

イラン人一般のカージャール朝への評価は極めて低い、と本書でも書かれているが、まあそりゃそうなんだろうなと思った。

第一次世界大戦後の混乱期に、レザー・ハーンがパフラヴィー朝(私の世代では「パーレヴィ朝」の表記がしっくりくる)を建国。

1941年レザー・シャーの親独傾斜を見たイギリス・ソ連両軍がイランに進駐、国王は退位し、モハンマド・レザー・パフラヴィーが二代目国王に即位、イラン革命まで四十年近く在位。

普通、「パーレヴィ国王」と言えば、この二代目の人物を指す。

第二次大戦後、モサデク政権の石油国有化政策は米英が援助したクーデタで失敗、国王は「白色革命」という名の上からの近代化政策を推進するが、経済格差の拡大と急激な西洋化が国民の反発を買い、1979年イラン革命で王政は崩壊し、神学者ホメイニ率いるイスラム原理主義政権が樹立される。

厳格なイスラム主義的な統制が国と社会を覆ったが、ホメイニ死後はその改革を求める勢力と保全を主張する勢力が均衡し、神学者である最高指導者による制約はありつつも、選挙で政権が正常に交替する、中東では数少ない国でもある。

 

 

以前、この本をざっと眺めた時には、「近現代史に偏重し過ぎだろう、これは『イラン現代史』と題して出すべき本だ」という感想を持ったのだが、通読してみると、前近代だけでなく近現代の部分も含めて、とにかく内容が粗く、物語性に乏しい。

重要史実にはとりあえず触れられているが、重点が感じられない、通り一遍の記述なので、強い印象を受けたり、事実が頭に刻み込まれるようなことが、ほとんど無い。

『イラン現代史』というタイトルだとしても、不満足である。

著者は、やはり現代イランの研究者であり、歴史研究者ではないのでは・・・・・。

『物語~の歴史』シリーズのコンセプトに合ってない。

これはやっぱり失敗なんでは・・・・・。

シリーズ内の貴重な一国を費消してしまった感がある。

最初に悪い印象を受けていたので、先入観があり、以上のような見方は厳し過ぎるのかもしれないが、やはり他人に推薦したくなる本ではありませんでした。

2017年8月22日

鷹木恵子 編著 『チュニジアを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 03:42

このシリーズで引き続きアフリカ史を強化するつもりで手に取ったが、考えたらこの国はカテゴリとしてはイスラム・中東か。

 

北アフリカで、東はリビア、西はアルジェリアに挟まれた国。

地図で見ると、本当に「挟まれた」感が強いです。

首都はチュニス、古代都市カルタゴの遺跡があることでも有名。

他の主要都市はカイラワーンなど。

もちろんスンナ派イスラム教徒が98%と圧倒的多数。

民族的にもアラブ人が98%。

ベルベル人は1%のみ。

私は勘違いしていたが、他のマグリブ諸国(アルジェリア、モロッコなど)でもベルベル人は2~4割ほどらしい。

 

イスラム化以後の歴史としては、まず800年アグラブ朝がアッバース朝から自立。

909年にアグラブ朝を滅ぼし、有名なシーア派政権ファーティマ朝が建国。

ファーティマ朝がエジプトを征服した後、スンナ派のズィール朝がカイラワーンに成立、ファーティマ朝と戦い、11世紀から分裂割拠の情勢となる。

1149年西からムワッヒド朝が侵入・占領。

1228年その総督が自立、ハフス朝成立。

1270年ルイ9世率いる十字軍が侵攻。

ハフス朝はイスラム世界最大の歴史家イブン・ハルドゥーンを生んだことでも有名。

1574年ハフス朝滅亡、チュニジアはオスマン帝国支配下に入る。

その軍長官が自立して1705年フサイン朝が成立。

これが形式的には独立後の1957年まで続くことになる。

1830年フランスがアルジェリアを占領すると、それに脅威を感じたフサイン朝はオスマン朝との関係を強化するようになる。

タンジマートに倣って、1861年には憲法(ドゥストゥール)も制定。

しかし、1881年フランスが外交・財政権を握り、83年正式に保護領化(教科書的には81年が保護国化の年とされているようだ)。

20世紀に入り、独立運動が活発化、1920年チュニジア立憲自由(ドゥストゥール)党結成。

党内対立を経て、ハビーブ・ブルギバがネオ・ドゥストゥール(新立憲)党を主導。

このブルギバという人名だけは要記憶。

結局、1956年独立達成、初代首相ブルギバ。

翌57年フサイン朝を廃し、共和制移行、ブルギバが初代大統領に就任、この政権が30年続く。

ブルギバ政権は世俗的近代化政策を進め、アラブ世界で唯一の、一夫多妻制禁止の家族法などを制定。

対外的には、一時フランスとの緊張もあったが、資源の乏しさもあり西側諸国との全面対立は避け、東西等距離・全方位外交を展開。

国家主導の統制経済が行き詰まると、逆に経済開放・自由化政策へと揺れ動き、国民の不満が高まる中、70年代末から80年代にかけてイスラム過激派が伸張。

1987年クーデタが勃発、ブルギバは失脚し、ベン・アリ政権樹立、イスラム主義者含む反体制派を強権体制で鎮圧。

だが、政治的抑圧の現実は紛れも無くあるものの、とりあえずは社会の安定と経済の成長をベン・アリ政権はもたらした、と本書では評されている。

 

私が読んだ本書の初版が出たのは2010年と、いわゆる「アラブの春」の直前である。

このベン・アリ政権の打倒こそが「アラブの春」の契機になった。

アラブ諸国の、その後の経緯を見ると、やはり手放しで礼賛するような動きでは無かったのではないか?という思いを禁じ得ない。

無秩序と宗派・党派対立が内戦の危機すらもたらし、それを収拾するために以前の政権よりも強権的な体制が生まれる、という世界史上全ての急進的改革がはまり込む隘路に陥っている。

チュニジアはまだ踏み止まっている方らしいが、リビアなんてあの異常なカダフィ体制の崩壊すら惜しむ人々が出るほどの状況のようだ。

そして何よりシリアの惨状。

ああいう結果になることが分かっていたとして、それでも反体制の蜂起を選択する国民が果たしていただろうか。

もちろんバッシャール・アサド政権の抑圧性は、内戦の前でも後でも歴然としている。

だが、確たる成功の見通しも無しに、それへの反抗を外部の人間が称揚し支援するのは、やはり無責任であると思う。

もちろんカダフィ政権含め、既存の体制がそのまま何の変化も無く続いていれば良かったんだと言うつもりはさすがにありません。

しかし、激情的な民意に基づく急激な変化をとにかく礼賛するような態度は、歴史について何も学んでいないに等しいです。

数年前、湾岸産油国についてのメモという記事で書いたような懸念が当たってしまっている。

 

ネット上のSNSが民意を可視化し、より善き民主主義をもたらす、というような能天気な楽観論(と情報技術産業の利益擁護という隠された意図)を見ると、心底うんざりして、もう人類も長くないなと思います。

民意なり、民主主義なり、自由なりを根本から疑わない限り、近現代の世界史から何一つ学んでいないことになりますよ、と無駄を承知で言わずにおれません。

 

 

このシリーズの使用法は全て同じ。

1.アフリカ、(メキシコ以外の)中米、(キューバ以外の)カリブ海諸国など、通史がまず出ないような国の巻を選ぶ。

2.歴史と現代政治の部分だけを集中して読む。

3.民俗、生活、経済、言語、文化、宗教などの章は興味のあるものだけ読み、後は軽く流すか、全く飛ばしても可。

通読する必要は無し。

それより数をこなすことが大事。

2017年1月16日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』 (創元社)

Filed under: イスラム・中東, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:03

本巻の監修者あとがきを書いた、後藤明氏によると、本巻原書の表題の直訳は「伝統の分岐」だと言う。

古代オリエントに始まる「文明の伝統」がギリシア・ローマに繋がり、ローマ帝国滅亡後、その流れがイスラム・ビザンツ・西欧の三つに分岐したと著者は捉えている。

また本書の中の一章は「対立する文明」と題されている。

これまでの巻で叙述されたように、前3000年に文明が誕生し、前500年頃までに各地で独自の主要文明が成立、それが変容・分岐を経つつ、1500年前後のヨーロッパの世界進出開始まで、均衡・並立状態を続ける。

その紀元前500年~1500年までの二千年間、諸文明は様々な接触・交流を持ちつつも、基本的にはその独自性を守ることになった。

しかし、時には文明同士が衝突し、大きな影響を与え合うこともあった。

その大きな要因は、著者によれば、二つある。

遊牧民族の活動、およびイスラム文明の膨張である。

先史時代から存在した地域ごとの文化の違いも、しだいに大きくなっていました。ユーラシア大陸とアフリカ大陸では、紀元前三〇〇~二〇〇年ごろからさまざまな地域に文明が生まれ、それぞれ独自の発展をとげていたのです。各文明のあいだには、ときにひかえめな接触はありましたが、基本的にそれは貿易商や学者、外交官、伝道師など、個人の力に頼った交流にすぎませんでした。そうした接触だけでは、もちろん文明全体に影響をあたえるのは難しかったことでしょう。

世界に点在するそのような文明は、様式や細かな点では多くの違いをもっていましたが、その一方、基本的な部分ではかなり似通っていたということもできます。たとえばごく最近まで、すべての文明は農業によって支えられていましたし、利用できるエネルギーも人間や動物の力のほかは、風力や水力に頼るしかなかったのです。また、どの文明も長いあいだ、ほかの文明に対して決定的に優位に立てるほどの強みをもつことはできませんでした。特定の文明が遠く離れた別の文明を完全に圧倒するようになるのは、ずっと先の時代の話なのです。

多くの場合、文明と文明が大きな影響をおよぼしあうのは、民族の移動によって異なった民族どうしが直接接触するようになったときや、遊牧民族が定住型社会へ侵入したときなどに限られていました。そして、最初は衝突をくり返し、やがて共存するようになっていったのです。そうした文明どうしの接触が人類の歴史に大きな進歩をもたらしてきたことは、これまですでにお話ししてきた第三巻までの物語のなかでも見てきたとおりです。

けれどもその一方で、異民族の侵入が文明に破滅をもたらしたり、悪影響をおよぼすケースがあったことも事実です。その代表的な例として、中央アジアから中東や東欧に何度も侵入し、多くの破壊を行なったモンゴル人の影響をあげることができます。

逆に異民族の侵入が、息の長い建設的な結果を生みだしたケースもあります。アジアの奥地から小アジアに進出し、やがてビザンツ帝国を滅亡させて一大帝国を築いたトルコ民族がそのよい例といえるでしょう。

そうしたさまざまな文明の衝突のなかでも、この第四巻でとりあげるイスラーム文明をめぐる衝突こそは、世界の歴史のなかでも、もっとも重要な文明の衝突のひとつだといえます。

その結果、スペインからインドネシア、また北アフリカから中国にいたる広大な地域の民族が影響を受けることになります。しかしその一方でこの衝突は、異なった文明の相互作用が豊かな文化を醸成することを示す、大きな例にもなったのです。

再び、監修者の後藤氏によれば、遊牧民族とイスラム文明に関する本書の叙述には、(特に前者についての)日本の学界を含む最新の研究成果が反映されているとは言えず、著者の力量は十分認めつつも、監修者としてやや不満が残る、という感じだそうです。

しかし、イスラムのことは後で述べるとして、本書での遊牧民族についての記述に大きな「偏見」を感じることは、個人的には無かった。

そもそも私は、司馬遼太郎氏を始めとして、杉山正明氏などの、モンゴルを含めた遊牧騎馬民族に対して、何かロマンティックな思い入れをする人の気持ちが全然わからない。

もちろん、世界史上で、農耕民は粛々と生産と建設に従事する「文明人」だが、遊牧民は略奪を生業にして定住社会に常に侵略者として現れる「野蛮人」だ、なんてとんでもない偏見が今通用するはずもない。

昔、司馬遼太郎氏が、遊牧民族を農耕社会への一方的侵入者として描くのは間違っている、農耕民による草原の農地化こそ、遊牧民にとっては自らの死活問題になる「侵略」だ、と喝破したことに対して、深く得心したことがあります。

ですから遊牧民族の活動を頭から有害視するのは間違いでしょう。

しかし、「モンゴルによる世界制覇のおかげで安全が保障され、ユーラシアの交易が一大盛況を迎えた、モンゴルによる破壊行為を強調するのは誇張に基づく偏見だ」というような、最近よく聞く見解には、どうしても眉に唾を付けて聞いてしまう。

そんなふうに思えるのは、我々の祖先が曲がりなりにも元寇を撃退できたからでしょう。

もしユーラシア大陸の他地域のように、あの時点で日本がモンゴルの支配下に入っていたことを想像すると、全くゾッとする。

現在の遊牧民に対して偏見を煽ったりすることは決してあってはならないし、今のモンゴル国民がチンギス・ハンを英雄視する自由はもちろんあると思うが、歴史上遊牧騎馬民族の活動が文明に対してしばしば破壊的作用をもたらした、とする評価自体は暴論とは思えない。

その遊牧民について本書の記述。

ここで少し遊牧民についてご説明しておきましょう。遊牧民の歴史は、その全容を知ることも個々の事実を知ることもともに難しいのですが、そのなかでひとつだけあきらかな事実があります。それは中央アジアの遊牧民が一五〇〇年もの長期にわたって、世界の歴史を大きく動かす要因でありつづけたということです。彼らは何度も世界を大混乱におとしいれ、その結果、西方でのゲルマン民族の大移動や、東アジアにおける中国王朝の交代といった巨大な歴史的変化をひき起こすことになりました。

遊牧民について語る場合には、まず地理的な話から始めたほうがよいでしょう。

遊牧民誕生の地とされる「中央アジア」という地名は、実はあまりよい名称とはいえず、「内陸アジア」とよんだほうがその実情をよくあらわしています。というのも「海岸線から遠く離れている」ことこそが、この地域を規定するもっとも重要な要素だからです。

海岸から遠く離れた内陸部だからこそ、特有の乾燥した気候が生まれ、近代にいたるまでその土地で暮らす人びとが、外部からの政治的な圧力にさらされることもほとんどありませんでした。その一方、仏教やキリスト教、イスラームなどがこの地域にも伝わっていることから、外部からの文化的な影響には開放的な地域だったこともわかっています。

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モンゴル人の歴史を年代や領土によって区分するのはあまり意味がありません。この遊牧民族は驚くほど短期間に、中国、インド、中東、ヨーロッパへと勢力を拡大し、世界中に大きな爪跡をのこしたからです。また、ゲル(移動型家屋)に張られたフェルト製の天幕のほかには、特筆すべき文化ものこしていません。巨大な嵐のように荒れ狂い、地球上のほとんどの文明に脅威をあたえ、人類の歴史のなかで二〇世紀だけが匹敵しうる大規模な殺戮と破壊をひき起こしたあと、彼らは現れたときと同じように、短期間で消え去ってしまったのです。こうしてモンゴル人は、もっとも恐ろしい最後の遊牧民征服者として、長く記憶されることになりました。

そして、諸文明の衝突・変容のもう一つの主因となったイスラム文明の誕生と拡大について。

この時代の征服は、イスラームが世界にあたえた衝撃の始まりにすぎませんでした。イスラーム勢力圏の広がりと多様性は、その後、人類の歴史のなかでも特筆すべきものとなります。

世界中のあらゆる地域でイスラーム化が避けて通れないように思われた時期さえありました(実際はそうなりませんでしたが)。

そしてこの偉大な文明の伝統は、その後もまた、新たなる征服のうえに築かれていくことになったのです。

世界の三大宗教の中で最後に登場したこの宗教は確かに、その拡大の速度と広がりは正に爆発的と言ってよいほどだし、一度改宗した地域での持続性も圧倒的なものがある。

(一度政治的支配下に入ったものの、その後イスラム化が後退した地域と見られるイベリア半島やバルカン、インドなどは多数派住民が改宗したとは言えないでしょうし、インドではパキスタン・バングラデシュ地域は今も完全にイスラム圏として残っている。)

しかし、宗教的・文明的には強靭性を持ち、社会にしっかりと根付いたイスラム文明だが、その基礎の上に立つ王朝という政治構造は脆弱であるという面も持っていた。

(このブログでも以前イスラム王朝の短命性について書きましたが、本書でもそれに近い記述があって、自分の感想もそれほど的外れでもないかと思えました。)

こうしてイスラーム文明が繁栄を謳歌していたとき、その政治体制はすでに衰えを見せ始めていました(崩壊が始まっていたといってもいいでしょう)。カリフ政権の要職に、しだいに非アラブ人の改宗者がつくようになったこともその原因のひとつでした。そしてアッバース朝は最初は帝国周辺の州で支配力を失い、それから帝国の中心だったイラク(メソポタミア)で支配力を失いました。

七世紀の中ごろ世界の歴史に突如登場したアラブ帝国は、こうしてきわめて早い時点でピークをむかえ、八世紀の末にはすでに衰退にむかい始めたのです。

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アッバース朝は、九四六年にペルシア人の将軍であるブワイフ家のアフマドがカリフを廃し、新しいカリフを擁立したときに実権を失ってしまいました。形式的には王朝は存続していましたが、実質的にはブワイフ家がときのカリフから「大アミール」に任命されて新しい政権を樹立した段階で、アッバース朝は滅亡したといってよいでしょう。こうしてアラブ・イスラーム世界は分裂し、約三〇〇年にわたって維持された中東地方の統一も、ふたたび崩壊することになりました。

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イスラーム国家の特徴として、宗教的な権威と政治的な権力が分離した状態は、長くつづかないということがあります。だからこそシーア派の軍事政権であるブワイフ朝も、スンナ派アッバース朝のカリフから「大アミール」の称号を受ける必要があったのです。

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こうしたイスラームによる「社会革命」は、もちろん宗教を中心として行なわれたものでした。しかしイスラームはユダヤ教のように生活から切り離された宗教ではなく、生活のあらゆる側面をつつみこむ教えだったのです。イスラームにはキリスト教では当然と見なされている聖と俗の区別や、精神世界と現実世界の区別を表現する言葉がありません。イスラーム教徒にとって宗教とは、社会そのものだったからです。だからこそその教えは、さまざまな政権が乱立する時代を超えて生きのびていったのでしょう。イスラームは「奇跡」を重視する宗教ではなく(いくつか奇跡的事件を伝える伝承はありますが)、人びとの暮らしにたしかな生活の規範をもたらしてくれる現実的な教えだったのです。

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こうして、ごく少数のアラブ人の信仰から始まったイスラーム勢力の拡大は、世界の歴史に驚くべき結果をもたらすことになりました。しかし、その偉大なる歴史にもかかわらず、アラブ国家は一〇世紀以降、イスラーム世界の統一を実現することはできませんでした。アラブ人が悲願とするアラブ世界の統一でさえ、現在はまだ夢でしかないのです。

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すでにお話ししたとおり、ビザンツ帝国は中東に侵入したさまざまな民族の標的となりましたが、それをなんとか乗りこえ、宿敵であるアラブのアッバース朝より長く生きのびることになりました。アッバース朝もまた、異民族からの攻撃を受け、衰退と分裂の道をたどり始めていたのです。

こうして一〇世紀以降の中東は混乱の時代に突入していくわけですが、その時代のアッバース朝に何が起きたかを簡単に説明するのはとうてい無理な話です。ひとついえるとすれば、たしかに商業が栄え、支配者階級に属さない裕福な人びとが出現するようになりましたが、その結果としてもたらされるべき持続的な経済成長は起こりませんでした。その根本的理由は、気まぐれなアッバース朝政府の方針とその搾取にあったといえるでしょう。

しかし、支配者や侵略者が現れては消えていったにもかかわらず、結局のところイスラーム社会の土台が揺らぐことはありませんでした。その結果、地中海東岸からヒンドゥークシュ山脈にいたる広大な地域が、歴史上はじめてイスラームというひとつの文化圏にのみこまれ、その文化は長く引きつがれていくことになったのです。この地域でキリスト教文化が大きな勢力をたもっていたのは一一世紀までで、その後は小アジアのタウルス山脈の西側に封じこめられてしまいました。それ以降、中東ではイスラーム勢力から存在を許された小さなキリスト教徒の社会だけが、かろうじて生きのこることになったのです。

イスラームが社会や文化に深く根をおろし、安定した制度を生みだしたことは、世界史的に見ても非常に重要な事件でした。カリフの権威の衰退期には、形式的にはカリフを主権者としながらも、半独立の王朝が実権を握るようになっていきます。しかし、イスラームがもつ強力な秩序は、これらの半独立王朝がかかえていた弱み(おもに政治や行政面での)を補ってあまりあるものだったのです。一〇世紀以降のそうした王朝については、あまりくわしくとりあげる必要はないでしょう。ただしそれらの諸王朝が、時代の転換点を象徴する存在だったことはたしかです。

引用末尾の諸王朝のうちで注目すべきものを、本書の記述の中から挙げると、まず、十字軍とモンゴルという二つの脅威を撃退し、イスラム世界の中心を一時エジプトに移す偉業を成し遂げたマムルーク朝。

次に、キリスト教文化圏に脅威を与え、その輪郭形成を促し、ヨーロッパの東西を分かちつつ、バルカンでのキリスト教徒を比較的寛容に扱ったことによってビザンツ帝国の遺産をスラヴ人が受け継ぐことを可能にしたオスマン朝。

そして、シーア派を国教とすることで、中東地域でのセム系アラブ人の大海の中で、印欧語族系ペルシアの独自性を、民族・言語だけでなく宗教においても守ることになったサファヴィー朝。

宗教自体の爆発的膨張にも関わらず、政治的統一は正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の三代を合わせても約300年弱しか続かず、遥か後年、トルコ系遊牧民の力を借りて、オスマン朝による中東地域統一はほぼ達成されたものの、それにもシーア派のサファヴィー朝ペルシアという重大な例外が存在していた。

これらの王朝に比して、モンゴルによる征服活動の余喘とも言えるティムール朝への著者の評価は低く、ネストリウス派とヤコブ派というアジアのキリスト教徒をほぼ絶滅させたことと、オスマン朝を破ることによって、ビザンツ帝国の滅亡を半世紀ほど遅らせたことだけだ、としている。

そして、イスラム文明の知的側面について。

著者はもちろんその全般的レベルの高さを認めている。

各地のモスクや宗教指導者を育成する学院で、高度な学術研究も行なわれていたようですが、それらはすべて宗教と密接な関係をもっていたため、その評価は非常に難しくなります。当時のイスラーム文明が客観的にどのようなレベルに達していたかについては、はっきりとしたことはいえません。ただ八世紀以降、好奇心にあふれた、自己に対する批判的な視点をもつ文化の種がイスラーム世界にまかれたことは事実です。

だが、本書では以上の文章に続けて、以下の一文をさりげなく記している。

その種が大きな花を咲かせることは、あるいはなかったのかもしれませんが。

これもイスラム教へのありきたりな「偏見」と片付けることはできない気がする。

イスラム文明の大拡張と(西)ヨーロッパ文明の成長の陰で、もう一つの「分岐した伝統」であるビザンツ文明は、政治的には衰退の一途をたどる。

だが、その衰亡の過程である民族集団が後継者として姿を現わしてくる。

こうしてビザンツ帝国は約一〇〇〇年の歴史に幕を閉じようとしていたわけですが、その遺産の大半は将来にむけて、すでに別の場所に「保存」されていました(ビザンツ帝国の人びとが誇りを感じられる形ではなかったかもしれませんが)。正教会がスラヴ人のあいだに根をおろす過程で、ビザンツ文明の遺産は彼らのなかに確実に受けつがれていたのです。この事実は現在にいたるまでのヨーロッパの歴史を、大きく左右することになりました。現在のロシアをはじめとするスラヴ系国家は、そもそもスラヴ人がキリスト教に改宗していなければ、今日ヨーロッパの一部と見なされることもなかったでしょう。

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初期のスラヴ芸術を見ると、スラヴ人が異民族の文化や技術を進んで吸収した人びとだったことがわかります。しかもスラヴ人は、その文化や技術を教えてくれた人びとが滅んだあとも生きのびていく、強い生存能力に恵まれていました。

そうした点を考えると、七世紀にスラヴ人と強大なイスラーム勢力の交流が、そのあいだにいたハザール族とブルガール族によってはばまれていたことは、世界の歴史において決定的に重要だったといえるでしょう。

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歴史的に見れば、このころロシアの歴史は決定的な分岐点にさしかかっていたといえるでしょう。いまだに北欧のヴァイキングの神々を信奉するロシアは、東方の正教会と西方のカトリック教会のはざまで、とちらについてもおかしくない状態にあったからです(イスラームはこの重大な時期に、ユダヤ教国家のハザールによって勢いをそがれていました)。

同じスラヴ人が建国したポーランドは、すでにカトリックを国教としていました。また、ドイツのカトリック教会も東方への布教を行ない、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。すでに分裂があきらかになっていた東西いずれのキリスト教会にとっても、ロシアはのどから手がでるほど手に入れたい存在だったのです。

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ビザンツ帝国やスラヴのキリスト教国は、文化的に分断されていたため、ヨーロッパの西部まで影響をおよぼすことはほとんどありませんでした。ただしこの両者は、ヨーロッパの西部が遊牧民やイスラームからの影響を受けずにすむ緩衝地帯の役割をはたしたといえるでしょう。もしもこのころロシアがイスラーム化されていたら、ヨーロッパの歴史はおそらく大きく変わっていたにちがいありません。

著者は、「ロシアのカトリック化」、あるいはもっと極端なケースである「ロシアのイスラム化」の可能性を示唆し、読者の想像力をかき立てる。

結局、キエフ公国のウラジーミル大公がギリシア正教に改宗、後にロシアは東方キリスト教会の最重要構成国家となる。

ハザールと共にイスラムとの接触からロシアを遮断したブルガール人もスラヴ化して正教会に改宗。

一方、上述の通り、スラヴ人の中で、ロシアと並んで早期に国家を形成する能力を持っていたもう一つの重要民族ポーランド人は西方カトリック教会に改宗。

ただし、ポーランドはこのことによって、東方に向かっては正教会に対するカトリックの前線基地、西方に向かってはドイツ人の植民に対するスラヴ民族の防波堤という二つの過剰な負担を背負うことになり、歴史上しばしば大きな悲劇に見舞われることになってしまった。

そして著者は、ポーランドだけでなく、スラヴ民族全体に付きまとう、「西方のラテン系・ゲルマン系諸民族に対する後進性と、東方のアジア系遊牧民に対する脆弱性」という二つの要因がもたらす「不幸な民族」という漠然としたイメージを肯定するかのように、以下の文章を記す。

思えばスラヴ人のなかで最大勢力となったキエフ公国にしても、その能力に見あうだけの発展をとげたとはいえません。

一一世紀以降の内紛と分裂によって国力をそがれ、その後はクマン人(ポロベッツ人)の攻撃に苦しめられることになったからです。さらにキエフ公国は一二〇〇年までに黒海の交易ルートの支配権を失い、北方に後退して、やがてロシアの歴史の中心はモスクワ大公国へと移っていくことになります。

そして、大きな苦難の時代がスラヴ人を待ちうけていました。ヨーロッパのスラヴ世界に、かつてない巨大な悲劇が襲いかかろうとしていたのです。同じころ、すでにお話ししたように、ビザンツ帝国にも悲劇がおとずれていました。一二〇四年に十字軍兵士がコンスタンティノープルを攻略し、正教を奉じてきた世界帝国が崩壊したのです。ところが、悲劇はそれだけでは終わりませんでした。それから三六年後には、同じく正教を奉じるキエフ大公国もまた、恐るべきモンゴル人の襲撃を受けることになったのです。

初期の西ヨーロッパ世界も外部から深刻な脅威を受けた脆弱な文明に過ぎなかった。

西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパはビザンツ帝国やイスラーム諸国の勢力圏にくらべて、すっかり後進地域になってしまいました。その勢力圏もすぐに、かつての西方キリスト教世界より、はるかに狭められたものとなります。

当時、西ヨーロッパに住むキリスト教徒は、自分たちが「敵の真っただ中にとりのこされた」と感じていたようですが、事実そのとおりだったといえるでしょう。中東やアジアへつづく道はイスラーム勢力によって分断され、南部の地中海沿岸もアラブ人の攻撃によって防戦一方となっていました。八世紀以降は、ヴァイキングとよばれるスカンディナヴィア人の襲撃に悩まされ、さらに九世紀になると、東部の境界が異教徒のマジャール人に脅かされるようになりました。このように初期のヨーロッパ世界は、さまざまな異民族の敵意にとりかこまれるかたちで形成されていったのです。

ローマ滅亡後のヨーロッパ世界については、ゲルマン民族の侵入だけでなく、その後もイスラム、ノルマン(ヴァイキング)、マジャールという数波の侵入があったことを常に意識する必要がある。

中世封建社会はゲルマン侵入直後ではなく、むしろその後の侵入者への自衛の為に、ゲルマン系の支配層が形成したもの、というイメージを持った方がよい。

11世紀の中世盛期までに起こった三つの変化を本書は指摘。

1.地中海地域からライン川とその支流流域への中心地帯の変化。

2.過去のローマ帝国の領域をも遥かに超えた、ヨーロッパ東部へのキリスト教の拡大。

3.マジャール、ヴァイキングの改宗を含む、異民族からの脅威減退。

そして著者は、当時の西ヨーロッパのキリスト教世界を三つに分類。

1.ライン川を中心とする仏独。

2.イタリア、南仏など地中海沿岸。

3.北部スペイン、イングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランド、スカンディナヴィア諸国など、西部から北部にかけての新しいキリスト教国。

考えればこの区分は常識的ではあるが、北スペインを新興キリスト教国ということで、英国と北欧グループに入れているのが、何か違和感がある。

もっとも、以後の叙述でこの区分を意識することはほとんど無いのだが。

ヨーロッパ世界がキリスト教を中心に形成されたことは言うまでもないし、結果として西欧のカトリック教会の歴史は「数ある宗教史のなかでもとびぬけて華々しい成功の歴史ではあります」と著者も述べているが、それでも外部の異民族、内部の異教的風習、配下の聖職者の無知・腐敗、世俗権力者の圧迫など、複雑で多くの困難に満ちたものだったとされている。

なお、本巻では、9世紀後半に一時的に教皇権を強化した教皇として、ニコラウス1世を挙げており、高校世界史レベルの有名教皇に加えて、この人名を記憶しておきますか。

その教皇と協調と対抗を繰り返した国王の地位について、国民国家の統治者と違い、中世の王は諸侯の中の第一人者に過ぎず、様々な制約を課せられ、その権力は限られたものだった、とよく世界史では教えられる。

「前近代の支配者なら、何ものにも制約されない専制君主だったはず」という偏見を一度頭の中から振り払うには、その事実も重要だが、だがそのイメージが行き過ぎることも間違いの元である。

とはいえ、抜け目のない王であれば、多少力が弱くとも、貴族からの圧力に容易に屈するわけはありませんでした。特定の貴族に離反されても、まだほかに多くの封臣をかかえていたのですから。賢明であれば一度にすべての封臣と対立するような愚かなことはしないでしょうし、そのうえ王の地位はやはり特別なものでした。即位時に聖職者から塗油を受けることによって、王権は神聖でカリスマ性を帯びたものとなっていたからです。華やかでかつ重厚なその儀式によって、王はあきらかに一般の人びとからは、かけ離れた強力な存在となっていました。中世の政治において、儀式というのは現代でいう条約の締結と同じような重大な意味をもっていたのです。それに加えて広大な領土を所有していたのですから、やはり王の権力はとびぬけて高いものだったにちがいありません。

君主政の伝統がどの国よりも深く根付いていた、と著者が指摘するイングランドが他のどの国よりも早く中央集権的国民国家への道を歩み始め、強大な王権が在ったがゆえにその制限に向かう道も開ける、という逆説が以後の歴史で生じることになる。

 

 

終わりです。

イスラム文明の誕生、およびそれとのビザンツ、ロシア、モンゴル、ヨーロッパの相互関係が主題であり、なかなか興味をそそる巻でした。

通読は全然余裕。

この先も、まず挫折しないでしょう。

2015年10月27日

ギー・ペルヴィエ 『アルジェリア戦争  フランスの植民地支配と民族の解放』 (白水社文庫クセジュ)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 05:18

フランスのアルジェリア占領は1830年より。

19世紀後半からの本格的帝国主義時代よりかなり前で、インドシナ・サハラ地方・セネガルとはやや異なる性質を持つ植民地。

イギリスの植民地のうち、アメリカ独立は反植民地主義というよりアメリカ国民自身が先住民の征服者であった。

カナダ・オーストラリア・ニュージーランドは白人が多数派を占める「本当の植民地」。

それらとインド・アフリカとの中間が南アフリカと南ローデシアで、ここでは入植白人と先住民の激しい対立があった。

フランスの場合、ニューカレドニアを例外として大規模な植民はなし。

そもそも19世紀半ば以降人口増加が止まった唯一の国。

アルジェリアのフランス人人口は帰化ヨーロッパ人と現地ユダヤ教徒を合わせても最大14パーセント、1954年では10パーセント未満だった。

トルコ私掠船への攻撃から始まったアルジェリア出兵に対し、アブドゥル・カーディルが抵抗、それを退けたが、上記の通り完全な入植・同化政策には失敗。

1920年代から独立運動が本格化するが、細かな組織名は煩瑣なので省略。

急進派を率いたメサーリー・ハーッジュと穏健派のフェルハート・アッバースという二人の人名と、アラブ・イスラム的アイデンティティを追求したアルジェリア・ウラマー協会と合わせて、三つの流れがあったことだけを確認。

第二次大戦後、活動を活発化させたメサーリーの急進派地下組織は、パレスチナ戦争に忙殺されたアラブ諸国の支持を得られず弱体化、メサーリーは反主流派に転落、ここで主流派の一員として有名なベン・ベラの名前が出てくる。

1954年民族解放戦線(FLN)と民族解放軍(ALN)結成、独立戦争開始。

同年ジュネーヴ協定でインドシナから撤退したフランスはすぐさま別の植民地戦争を戦うことになった。

鎮圧・平定作戦は進捗せず、国内対立は激化、その危機的状況の中でド・ゴールが復帰し、第五共和政を創設、自らを担ぎ出した過激右派の主張を排して、アルジェリア独立を1962年エヴィアン協定で認めたのは周知の通り。

ド・ゴールの決断は、根本的にフランスがアルジェリアのムスリム人口を吸収するのは不可能だという認識に立ってのもの。

「私の村はコロンベイ・レ・ドゥ・エグリズ(・・・・「二つの教会のあるコロンベイ」)ではなく、コロンベイ・レ・ドゥ・モスケ(「二つのモスクのあるコロンベイ」)になってしまうだろう」

勝利を目前にしたFLNも分裂が激しく、メサーリー派は弾圧され、アッバースは解任、後任のベン・ハッダとベン・ベラおよびブーメディエン(ALN総司令官)の権力闘争が発生、ベン・ベラが勝利し独立後の指導者となる。

悲惨な戦争の中で、フランスはFLNより多くのアルジェリア人ムスリムを殺し、FLNはフランス人よりも多くの「裏切者」アルジェリア人(ハルキ=仏軍のムスリム補充兵を含む)を殺していると、本書では指摘されている。

 

 

あまり読み易くない。

フランス人向けの入門書と、日本人向けのそれとでは、大きな差がある。

あまり細かな点をメモする気にもなれない。

類書が少ないので貴重ではあるが・・・・・。

2015年1月21日

山口直彦 『新版 エジプト近現代史  ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 16:45

「世界歴史叢書」というシリーズの中の一冊。

著者は日本貿易振興機構の方。

まず中東地域でエジプトという国が持つ重みについて述べる。

非西欧世界の近代化政策では明治維新に先行もしくは平行するものとしてオスマン朝のタンジマート、清朝の洋務運動、タイのチュラロンコーン改革などが挙げられるが、それらの中でエジプトのムハンマド・アリーの改革が、時期的に見れば一番早いと書いてあって、そう言われればそうかと、盲点を突かれた気になった。

ムハンマド・アリーについては、以前清水新書の伝記を紹介したことがある。

細かな経緯はさておき、アルバニア人非正規部隊副隊長から身を起こし、輸入王朝を創始したこと、事実上の独立支配権を持っていても、エジプトの(宗)主権はあくまでオスマン朝にあったことはチェック。

この前後のオスマン朝スルタンは、セリム3世(1789~1807年)、マフムト2世(1808~39年)、アブデュルメジト1世(1839~61年)。

1831年第一次シリア戦役(本書では日清戦争に例えられている)時トルコ側には顧問としてあの大モルトケがいた。

ムハンマド・アリーの長子イブラーヒームは優れた将才の持ち主で、父と異なり明確に反オスマン思想とエジプト人意識を持っていた。

アナトリア中部にまで進攻するが、ロシアに続き英仏も介入、33年に総督の資格でシリア領有を認められる。

39年アデンを英国が占領、33年ウンキャル・スケレッシ(ヒュンキャル・イスケレシ)条約でロシアのボスポラス・ダーダネルス海峡自由航行権が認められたことに英国は警戒の念を持ち、オスマン帝国保全策を取る一方、エジプトの専売制・保護貿易政策とも衝突。

この時期、イギリスは自由党内閣(30~34年グレイ、34・35~41年メルボーン)で外交はほぼパーマストンの指導下にあった。

39年第二次シリア戦役、モルトケの進言はまたも受け入れられず、オスマン軍惨敗、その最中マフムト2世死去。

(ちなみにこのマフムト2世在位中の領土喪失として「アルジェリア 1830」とあるのを見て、「これは地方支配者が事実上分離独立したとか、そういうことかな」などと考え、少し後でフランスのアルジェリア出兵の史実を忘れていたことに気付き、かなりショックを受けました。やはり苦手カテゴリで全く関連書を読まない期間を長くつくると駄目ですね。)

教科書から受けるイメージとは異なり、この二度のシリア戦争でオスマン帝国は軍事的には滅亡の瀬戸際まで追い詰められていたと本書では記されている。

もしオスマン朝が百年早く滅んでいて、中東主要地域がムハンマド・アリー朝エジプトによって統一されていたらどうなったか、というのは興味深い歴史のイフです。

しかし、実際にはエジプトは英国の虎の尾を踏んだ形になり、40年英普墺露のロンドン条約、親エジプトの仏は完全に孤立(これはエジプトにとっての日清戦争と三国干渉と例えられている)。

英海軍の海上封鎖圧力で41年エジプト・スーダンの総督職世襲のみが認められる。

英国はギュルハネ勅令以後のオスマン朝を保全する政策を取り、フランスはエジプトを支持。

幕末日本では英は薩長支持、仏は幕府支持で、既存体制と現状打破勢力のどちらを支持するかが、中東と日本ではちょうど逆になっている。

戦後、ムハンマド・アリーは綿花栽培奨励、工業化推進政策を進めるが、40年の譲歩でオスマン朝と同様の貿易協定や軍備制限を受け入れていたため、大きな挫折を経験、国営工場設置・近代的教育設備建設も後退する。

1848年イブラーヒーム死去、続いて49年ムハンマド・アリーも死去。

イブラーヒームの甥アッバース・ヒルミー1世即位(~54年)。

その治世下で近代化政策は後退、クリミア戦争では旧敵トルコを支援、最期は何者かによって謀殺される。

この人物について多くの史家は反啓蒙主義的で退嬰的だとして批判的だが、後に一方的欧化政策と経済的門戸開放で植民地化を招いた後継者よりも先見の明があったとも言えるとして、著者は一定の評価を与えている。

叔父ムハンマド・サイード即位(1854~63年)。

積極財政で近代化政策推進。

このサイードの元家庭教師だったのが有名なレセップス。

外交官でナポレオン3世皇后ウージェニーの縁戚。

54年スエズ運河開削権が、破格に運河会社側有利の条件でレセップスに認められる。

「ポート・サイド」という街はこのサイードに因むもの。

続いて甥イスマーイール(イブラーヒームの子)即位(1863~79年)。

67年「総督」ではなく「副王」の称号をオスマン朝に認めさせる。

40年ロンドン条約のうち、非政治的条項と軍備制限の撤回、カピチュレーションの漸進的廃止を目指す。

奴隷制廃止を大義名分として南下政策開始、ゴードンらを雇う(1876年時点でアフリカの植民地は11%のみ。教科書に載っているアフリカ分割図は19世紀末の極めて短期間に実現したものであることを頭の片隅に入れておく。)

エチオピアと交戦するが、敗北。

治世の特徴として「ムハンマド・アリーとイブラーヒームは和魂洋才、イスマーイールは脱亜入欧」と本書では評されている。

諮問的役割の議会を開設。

69年スエズ運河開通式典、ウージェニー后、墺帝フランツ・ヨーゼフ、ゾラ、イプセンらが出席。

この式典がエジプトの国力のピークとなり、以後国運は一方的な下り坂となる。

アメリカ南北戦争中、南部を代替する綿花ブームが起こったが、戦争終結でバブル崩壊。

75年、教科書でも出てくるように、エジプト政府所有の国際スエズ運河株をディズレーリ政権の英国に売却。

以後は、財政危機⇒公債暴落⇒債務不履行⇒英仏による財政管理という、お定まりのパターン。

78年には英国人が財務大臣、フランス人が公共事業大臣になる「ヨーロッパ内閣」が成立。

純然たる外国人が自国の大臣になるんですよ。

明治日本も一歩間違えればこうなっていたのかと考えると背筋が寒くなる・・・・・。

79年英仏に反抗してイスマーイールは廃位される。

その治世下にエジプトは半植民地的、従属的地位に転落してしまったが、ここで彼とイラン最後のシャー、ハーレヴィ2世との共通点が指摘される。

綿花あるいは石油輸出を担保にした外債で急激な近代化を推進しようとして失敗したことが挙げられている。

ちなみにパーレヴィの最初の妻はイスマーイールの孫ファウジア(後述ファルーク国王の妹)だそうである。

ここで、とりあえずは近代化に成功したとされる明治日本と失敗したエジプトの相違が述べられる。

まず為政者の判断ミス。

三国干渉などで難しい譲歩をあえて行った日本に対し、エジプトは40年の外交的敗北で専売制廃止と関税自主権喪失を余儀なくされた。

イスマーイールは外債依存を進めたが、日本は極めて慎重であり、国の存亡をかけた日露戦争でも十分な配慮をして外債を募集した。

また君主専制の弊で非合理的な政策決定がなされる。

ムハンマド・アリーとイブラーヒーム以外は実質的統治者として有能とは言い難いとされていて、やはり君主は明治日本のように国家統合の要として君臨し、具体的政策課題については調停的役割のみを果たすべきだったと思った。

加えて、ヨーロッパに近接し、地政学的経済的重要性があったことが仇となる。

日本は「極東」にあって助かった。

トルコ・チェルケス系君主がアラブ系エジプト人の上に君臨するという輸入王朝ゆえにナショナリズムの核になり切れなかったことも大きい。

さらに1870年代初め、日本の人口は3480万人だったのに対し、エジプトは520万、この人口差が中産階級の厚みに直結したとされている。

ヨーロッパの圧迫への反抗者として、まずアフガーニーが現れる。

名とは異なりアフガン人ではなくイラン人だが、シーア派であることを隠すために名乗ったと思われる。

セポイの乱、タバコ・ボイコット運動を経験、イスラム思想家としてパリ・カイロで活動。

続いてムハンマド・アブドゥフ。

エジプト人でサラフィーヤ(サラフ=先人・祖先)と言われる復古主義者だが、ワッハーブ派のような単純な原理主義ではなく、イスラムと近代文明・合理主義の調和を主張。

イスマーイールの後、子のタウフィークが副王即位(1879~92年)。

軍内アラブ系士官のリーダーとしてアフマド・オラービー大佐が台頭。

軍内対立が深まり、内閣交代で一時沈静化、しかし英仏が副王支持を表明するとさらに急進化し民族主義政権が成立、オラービーが軍事大臣就任。

治安悪化を懸念した英仏が艦隊派遣、内閣は交代するがオラービーは留任。

偶発的衝突から反外国人暴動勃発、第二次グラッドストーン内閣による本格派兵で鎮圧、オラービーはスリランカへ流刑、エジプトは軍事占領され事実上の植民地へ。

エジプト側では、穏健立憲主義者とイスラム改革派、副王処刑と共和政を主張する急進的士官の間での分裂が顕著。

今でこそ民族主義的先駆者とされているオラービーだが、当初は英国の軍事占領を招いたとしてその評価は低かったという。

エジプト支配下スーダンではオラービーの反乱と同時にマフディーの乱勃発。

その指導者ムハンンマド・アフマドは85年死去するが、これでマフディが滅んだわけではなく、最終的な鎮圧は1898年、それを遂行したキッチナー軍と仏マルシャン遠征隊とが衝突したのがファショダ事件。

1883~1907年「総領事兼代表」の肩書きで実質クローマー卿の統治。

経済・財政立て直しでは成果を挙げるが、しかし当然工業化や教育軽視との批判も受け、エジプト軍も解体、綿花モノカルチャー化もさらに進行。

1892年タウフィーク死去、子のアッバース・ヒルミー2世即位、しかし第一次大戦で2世がトルコ・同盟国側に加担する気配を示すと、エジプトを完全に保護領化し、叔父のフセイン・カーメルをスルタンの称号で即位させ、1517年以来のオスマン朝との関係が完全に断絶する。

戦後「1919年革命」と呼ばれる民族主義の高揚を受けて、英国も譲歩、1917年即位していたカーメルの兄弟フワードに1922年国王を名乗らせ、独立を与えるが、スエズ駐留権、エジプト防衛権、スーダンの実質英国統治継続、外国権益・マイノリティ保護を留保。

独立の中心となったワフド党だが、サアド・ザグルール、ナハスらの政治指導は安定せず、専制志向の国王とワフド党の対立、ワフド党内部の党派対立、非力な非ワフド党内閣の倒壊、英国の内政介入続く。

36年、英・エジプト同盟条約でスエズ以外から英軍撤兵、ほぼ完全独立達成、フワードの子ファルーク即位、彼が実質最後の国王。

第二次大戦では親英派・親枢軸派が対立。

42年「二月四日事件」、英軍は王宮包囲、反英である以上に反独的だったナハスの首相就任を強要。

王権もワフド党も権威を失墜させる。

英大使ランプソンは一時の勝利を占めるが、しかし長い目で見て、これがエジプト革命を誘発する一因となり、スエズ動乱で大英帝国の息の根を止めることになる。

28年ムスリム同胞団、39年頃自由将校団という次代の主役になる二つの反体制団体が生まれる。

45年アラブ連盟結成、本部カイロ。

48年第一次中東戦争(パレスチナ戦争)、兵器・補給の不備もあり新興国家イスラエルに惨敗、王の権威失墜。

ファルーク王はサウジのアブドゥルアジズ王、ヨルダンのアブダッラー王のように戦後の荒波を乗り切ることは出来なかった。

52年エジプト革命、ナギブ、ナセルら自由将校団による王政打倒。

亡命する王と握手してナギブが「陛下、二月四日事件まで軍は国王と王室に忠誠を誓っていました。だが、その後の状況によってこうした行動をとらざるを得なかったのです」と語ると、ファルーク王は「わかっている。あなた方の任務は困難なものだ。エジプトを統治すること、それは容易なことではない」と答えたという。

戦後の中東地域では、ひとまず君主国が穏健派、共和国が急進派と色分けできる。

で、革命で君主制が倒れる度に、その国が急進派諸国に加わる。

第一波がこの52年エジプト革命、第二波が58年イラク革命、第三波が69年リビア革命、第四波が79年イラン革命。

最後のイラン革命については、前3者がアラブ民族主義と親社会主義を指導理念とするものだったのに対し、異質なイスラム原理主義に基づく革命で、イスラム復古主義が始めて「体制」になった点でその衝撃は大きかった。

よって、後述するが、その少し前にエジプトが急進派から穏健派に変化したことは極めて大きな意味を持つことになった。

革命後、旧政治家の排除が進み、53年には名目的に在位していたフワード2世を廃し、共和政に移行、改革が急進化すると共に革命勢力の分裂が進行、ナギブは非政治的な軍を主張したが、ナセルは軍が改革を主導し政治に直接関与する体制を唱える。

結局ナギブは権力闘争に敗れ、56年ナセルが実に99.9%の得票で大統領就任。

これをどう解釈するか。

数年前、「アラブの春」と言われた民主化運動が最高潮に達していた時期に、湾岸産油国についてのメモ その2の記事で、私は以下のように書きました。

ムバラク体制を崩壊させた民衆運動を無条件で称揚するような言説に接すると、「その体制の源流である1952年のエジプト革命も民衆の歓呼の声で支持されたんじゃないんでしょうか」と嫌味の一つも言いたくなる。

実際、本書の記述を読んでも、これはナセルら軍部が国民投票で賛成を強要したというより、国民自身が王政打倒革命の興奮に流されたとの印象がどうしても拭えない。

ナセル政権は、55年バグダード条約機構への参加拒否、同年バンドン会議に参加、徐々に反西側路線に傾斜、56年スエズ運河国有化、第二次中東戦争に(政治的に)勝利、アラブ民族主義の雄としてその威信は絶頂に達し、58年にはシリアと合邦、国名を「アラブ連合共和国」とする。

しかし、61年にはシリア脱退、62年イエメン内戦介入も失敗、産業国有化政策による経済困難も加わる。

私は新自由主義的な市場主義イデオロギーには根本的疑問を持っているが、硬直した社会主義的政策にはやはり問題があったと言わざるを得ない。

67年第三次中東戦争で惨敗、失意のうちに死去、70年サダトが大統領就任。

このサダトは、本書での紹介紙数は少ないが、個人的にはナセルよりはるかに偉大な存在に思える。

71年政権内親ソ派を排除、続いてソ連軍事顧問団も追放、その上で73年第四次中東戦争で善戦、そしてさらに偉大なことに77年アラブの宿敵イスラエルを訪問し、和解への第一歩を印す。

不幸にして81年サダトは暗殺され、ムバラクが大統領になり、2011年民衆デモで打倒されるまで政権を維持することになります。

その後、ムスリム同胞団系の大統領が罷免され、軍部が主導して秩序回復に乗り出しているようですが、これを「軍が民主主義を再び抑圧している」と見なすのは皮相な見解に思えてならない。

正確には、「自由を得て、ありとあらゆる方向に分裂した民意が相互に激しい党派対立を引き起こし、収拾がつかなくなって、(少なからぬ民衆の支持を得た)軍が乗り出した」と言うべきではないでしょうか。

さすがの私も「ムバラク政権があのまま何の変化も無く続くことがベストだったんだ」とは言いません。

しかし急進的な民主化を無条件で善として、その急激な変化をただ無邪気に歓迎するなんていう態度はどうしても取れません。

ましてや、外部からの軍事力を含む圧力で民主化を慫慂するなんて、ろくでもない事態になるに決まっている。

米国によるイラク戦争と中東民主化構想が十年余りを経て、一体何をもたらしたか。

大量破壊兵器開発を実は放棄していたサダム・フセイン政権を打倒した結果、凄まじい内戦で恐るべき数の死者を出した挙句、安定した体制はできず、宗派対立は激化する一方。

その暴力と無秩序の中から生まれた超過激派が国土の多くを占拠。

あの「イスラム国」の野蛮と暴虐は、イラン・ヒズボラ・ハマス・タリバンなどこれまで存在したイスラム原理主義の体制・組織も顔色なからしめる程だ。

私が上記リンク記事で、ひとまずは肯定的に捉えたカダフィ政権崩壊後のリビアですら、収拾のつかない内戦の瀬戸際にいるようだ。

状況はイラク戦争後に根本的に悪化している。

私は、イラク戦争後、以前は持っていた「アメリカの保守派への漠然たる敬意」を完全に捨て去りました。

というか、むしろあんな国に真の保守派など存在しないと確信するようになりました。

そしてその米国の政策を支持した日本も同様だと考えます。

 

 

400ページほどもあるが、読みやすく、量的には負担に感じない。

(しかしメモを取るのはきつかった。メモからこの記事を作成する際にもだるくなって少し省略しました。)

日本や他国の事例との比較・比喩が多く、理解を助ける。

登場人物の個性を的確に描写し、事件を十分整理された形で叙述しており、マイナー国の通史にありがちな、データ羅列的で退屈な記述の弊を免れている。

ただ、定価5040円は高い。

個人で買うのは躊躇する。

図書館で在庫があれば借りて下さい。

巻末の広告で本書と同シリーズの『バングラデシュの歴史』『レバノンの歴史』『ネパール全史』『南アフリカの歴史』が載っているが、特に前二者は機会があれば何とか読んでみたいと思いました。

2013年11月17日

森本公誠 『イブン=ハルドゥーン』 (講談社学術文庫)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:28

「高校世界史のイスラム文化史で出てくる、イブンなんとか」の一人である歴史家についての著。

原本は1980年に「人類の知的遺産第22巻」として刊行。

このシリーズは、中央公論社「世界の名著」と違って、古典の翻訳部分は一部だけで、編者の解説の方が主という構成になっている。

1冊も読んだことがないくせに、今まで「何となくパッとしないシリーズだなあ」などと失礼な感想を抱いていた。

本書では、全450ページ中、翻訳は200ページ余りと半分ほどで、あとは森本氏の解説。

1部は思想分析の叙述、2部は伝記、3部が原典の抄訳、4部は後世への影響分析。

イブン・ハルドゥーンは『歴史序説(世界史)』の著者として有名。

田舎と都会の文明を対比し、アサビーヤ(連帯意識)による王権の成立とその消滅による堕落・崩壊を述べる。

1332年マグリブのチュニス生まれ。

鎌倉幕府滅亡と百年戦争の直前。

近隣の状況では、1250年成立のマムルーク朝は1382年にバフリー・マムルーク朝からブルジー・マムルーク朝に替わる。

マグリブではムワッヒド朝が1269年滅亡、モロッコのマリーン朝、西部アルジェリアのザイヤーン朝、東部アルジェリア・チュニジア・トリポリタニアのハフス朝の三国鼎立時代になる。

各王朝内部は不安定だが、とりあえずマリーン朝が優勢。

イブン・ハルドゥーンも政治に関与するが、細部はさすがに省略。

グラナダのナスル朝にも仕え、マムルーク朝にも出仕。

ダマスカス攻撃の際にはティムールとも会見している。

史上有名な1348年の黒死病で両親はじめ多くの親族を亡くす。

『歴史』の執筆を開始。

第一部は理論、第二部はアラブと東方イスラム世界、第三部がアラブとベルベル人の西方イスラム世界の具体的記述。

このうち第一部に「まえがき」と「序論」を加えたものが、通常『歴史序説』と呼ばれ刊行されている。

岩波文庫から森本氏の手に成る全4巻の分厚い翻訳が出ていますが、イスラム・中東カテゴリにある本のレベルを見れば、私ごときが読めるような本でないことはお解かり頂けるかと思います。

本書での抄訳を読んでも・・・・・・率直に言って素人が読んで感銘を受けるようなものではない。

ただ部分的には、以下の引用のように考えされられる文章もあります。

およそ人間の魂は、さまざまな社会習慣に染まって、もはやその精神状態は宗教面においても世俗面においても、善良なものとはいえなくなっている。いまやまったく抜きがたいほど奢侈的な風潮に染まってしまったために、信仰心がもてず、また奢侈的な生活をするにはあまりにも多くの物質を必要とするにもかかわらず、所得がこれに伴わないがために、まともな世俗的行為ができない。

・・・・・これはすべて奢侈的文化の極度の発達がもたらす結果である。このような発達は、生産ならびに商業活動、文明という点での都市全体の堕落を招くのであるが、一方住民の個々人も堕落してしまう。すなわち、奢侈的生活を営もうとするために労苦に疲れ、またそうした生活に要するものを得ようとする場合に染まりやすい悪に染まって、一つの悪徳を得てしまうと、他の悪徳も得ようとするというように魂は傷つく。それで生計を立てるに当たっての不道徳、悪事、不誠実、ごまかしといった行為がそのものずばりで、また形を変えて住民のあいだにはびこる。人はそのような生計の立て方に全力を傾けて熟慮し、目的のためにはどんな策略も用いるようになる。虚言、賭博、詐取、詐欺、窃盗、偽証、高利貸が横行し、さらに奢侈のもたらす多くの欲望や快楽のために、あらゆる種類の不道徳的行為、不道徳さとその動機の公言、ひどいときには家族や親戚や婦人とのあいだにさえ行われる猥談などに長じる。これは田舎や砂漠の生活では非難すべきこととされている。また狡猾老獪で、身にかかる圧力や不正行為に対する懲罰から身を守ることにたけ、ついにはこれが住民の大半の習慣となり性質となって、そうでない者は神の教えに救われた者だけとなる。

・・・・・よく理解し注目しなければならないのは、文明発展の頂点は文化と奢侈であり、頂点に達した文明は、生物の寿命と同じように、破滅へと向きを変えて老衰し始めるという点である。奢侈的文化にはぐくまれた人間の性質は、まさに堕落の目ということができる。人間はみずから有益なものは取り入れ、有害なものは退け、それが当然のこととして努力できてこそ一人前の人間である。それなのに、都会の人間は自分のことを自分ですることができない。安息に過ごしすぎたために軟弱であるか、贅沢三昧な環境に育ったために尊大であるか、であって、このいずれも非難すべきことである。

・・・・・またこのような堕落は道徳面でも同じで、奢侈的生活とその心酔から堕落し、魂はそうした生活に染まってしまう。都会の人でこれに巻き込まれない者は少ない。体力、さらには性格や宗教心について堕落してしまった人間は、もはやその人間性を堕落させてしまったわけで、事実畜生に変わってしまったのである。

14世紀のマグリブでも21世紀の日本でも全くこの文章の叙述通りのことが起こっている。

伝統や慣習、身分と信仰といった拘束が力を失い、自由を得た(精神的な)下層民衆が、邪悪な欲望を満たすため、数の力で専横を極め、思いのままに振る舞うとき、どんな国や文明も滅びるしかない。

民衆全体の腐敗と堕落にはもうどんな手も打ち様が無い。

最近では、そういう視点を持たない史論に対しては、たとえどんなに世評の高いものでも、個人的には本格的関心が持てなくなりました(例えば塩野七生『ローマ人の物語』)。

イブン・ハルドゥーンが指摘するように、有史以来人類は同じことを繰り返してきたんでしょうが、特に、彼が知らずに済んだ近代以降は、君主や貴族や宗教といった民衆への抑制手段を破壊することが進歩とされてしまったので、一層悲惨なことになっている。

この倒錯を是正することはもはや全く不可能ですから、やはり人類にはこの先いかなる希望も無いでしょう。

日本のアサビーヤも今世紀に入る辺りで完全に失われたようです。

まったく、どんな滅び方するのやら・・・・・・。

世界史教科書で必出の歴史家についての貴重な概説と作品抄訳だとは思うが、あまり得たものは無い。

ちょっと微妙な評価になってしまいました。

2011年2月23日

湾岸産油国についてのメモ その2

Filed under: おしらせ・雑記, イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

その1に続き、松尾昌樹『湾岸産油国』(講談社選書メチエ)より。

7章「湾岸産油国の未来」。

著者はこれまでも、大学の講義や講演会において、本書の内容と同様の議論を紹介してきた。幸いなことに、受講者の多くはその内容を理解してくれるのだが、最後には決まって一部から同じ質問が出された。「お話はよく分かりました。ところで、湾岸産油国の君主制はいつまで維持されるのですか」と。

当然のようになされるこの質問は、実は大きな問題を含んでいる。すなわち、なぜこのような問いが当然のようになされてしまうのか、ということだ。まさか、アメリカの現代政治に関する講演を聴いた人が、「オバマ大統領の政策はよく分かりました。では、アメリカの大統領制はいつまで続くのですか」と質問することはないだろう。湾岸産油国のような統治体制、経済社会体制が、近いうちに崩壊すると頭から決め付けられているということが大きな問題なのだ。

誤解を招かないように最初に明言しておくと、著者は湾岸産油国の体制転換を前提とすることを否定することで、これらの諸国に対して過度に肯定的な評価を与えようとしているのではない。現地調査を行い、それぞれの「生の」地域の情報を用いて研究活動を行う地域研究者の一部には、自分が研究対象とする地域に対する批判(特に西洋の価値観に基く批判)を受け入れずに、その地域を肯定的に説明する傾向があるといわれる場合がある。中東地域研究者の池内[恵]は、このような傾向に「肯定的本質主義」という名称を与えて説明した。池内によれば、一部の中東地域研究者が、一方では中東地域の社会を批判的に捉える言説を「ヨーロッパ中心主義」や「オリエンタリズム」として退け、他方で中東地域を欧米とは異なる「オルタナティブ」として持ち上げるため、結果として建設的な批判が成立しなくなる状況が生じているとされる。「肯定的本質主義」は批判と賛同をあわせて多くの議論を巻き起こしたが、どちらの立場に立つにせよ、地域研究者は池内の主張を肝に銘じておかなければならないだろう。

非民主的な政治体制が存続することが奇妙な現象であり、そのような現象は近い将来に崩壊するはずだという見方・・・・・に対して著者が懐疑的なのは、それがヨーロッパ中心主義に基いているからではない。・・・・・「崩壊説」に根拠がないと考えられるからで、・・・・・民主化を歴史の必然のごとく捉える必要はないということだ。確かに地球上の多くの君主制は崩壊したが、今日でも非民主的な共和国は多く存在し、また一度は民主化したと評価された国が、その後権威主義化するという事態も確認されている。「民主化するはずだ」という前提は、「民主化して欲しい」「民主化しなければならない」という願望や理想と区別することができず、論理的な考察につながらない。

このように述べるのに加えて、著者は湾岸産油国の現体制の多くがそう簡単に崩壊しないと判断する具体的理由を列挙している。

そのうち、石油枯渇説については、確かに小規模輸出国には脅威であるが、生産量の減少に伴う価格上昇は大規模輸出国にとっては有利な条件であり、そのような状況下では大規模輸出国よりも日本を含む輸入国の方が先に危機を迎えるはずであり、「崩壊説」はより危機の可能性の高い国が低い国の将来を悲観視する奇妙な見方だとしている。

また湾岸諸国の急速な経済成長へのやっかみが「崩壊説」の流行に繋がっているのではないかとも書いている。

奇しくもちょうどこの記事を書いてる最中に、湾岸産油国を含む中東地域で大きな変動が起こっているわけですが、ここで個人的感想を書くと、我々から見て極めて奇異で望ましくない体制であっても、基本的に外部からとやかく言うのは控えるべきだと思われる。

もし圧力をかけて民主化した場合、著者も指摘するように過激なイスラム主義勢力が自由選挙で躍進したり、国内の利害対立が制御不能となり内戦が勃発したり、その後往々にして民主化前の政府よりも遥かに抑圧的な体制ができたりしても、民主化を唱導した外部の人間が責任など取りようもない。

どこかの国みたいに、その時はその時で、再び自由の使徒面で新たな非民主国家を非難するだけで、後は平然としているような厚顔無恥な真似はしない方がいいでしょう。

王制国家ではないものの、最近チュニジアとエジプトで大きな政治的変化がありましたが、世界史を真摯に省みれば「民主化されて全てが目出度し目出度し」なんて単純な物語は全く成り立ちようがないと思うんですが・・・・・。

ムバラク体制を崩壊させた民衆運動を無条件で称揚するような言説に接すると、「その体制の源流である1952年のエジプト革命も民衆の歓呼の声で支持されたんじゃないんでしょうか」と嫌味の一つも言いたくなる。

「中東における民主主義の勝利」が、暴走する民意を基盤にした、別種の新たな独裁政治を生み、五度目の中東戦争の契機になる可能性も十分ある(その場合、頑迷にも和平を拒否してきたイスラエルと、それを放置し中東民主化を安易に称揚した米国は自業自得の大損害を蒙るんでしょう)。

もちろん現体制で国際常識・慣習を超える抑圧があった場合、そこからの政治的難民や亡命者を受け入れるのは正しいことだと思いますが。

それに一支配家系の統治といっても、北朝鮮のような「失敗国家」、全体主義体制とは全く異なるでしょうし。

余談ですが、北朝鮮のことを、国名は「民主主義人民共和国」なのに実態は「金王朝」だと揶揄することがありますが、そういう言い方はあまり感心しません。

本当の前近代的王朝なら、あれほどの悪政を敷く前にとっくの昔に打倒されてますよ。

無制限の自由や平等を追求する運動があり、それが生み出した伝統破壊と無秩序の中から出現した独裁だからこそ、権威主義体制ではありえない、途方もない暴虐を為し得る。

近代においてうんざりするほど多いこの実例の一つであることを思えば、「朝鮮民主主義人民共和国」という国名はある意味適切です。

ついでに言えば、中国の現体制を民主主義に反するとして批判する言説にも実は違和感を感じる。

そもそも人間社会の一切の不平等を永遠に消滅させると称して民衆の相当数の支持を得た狂信的運動から生まれた体制を果たして民主主義という立場で根本から批判できるのかという疑念がまず一点。

特に保守とか右派とかを自称している人々が米国の尻馬に乗って自由や民主主義を絶対視するのを見ると、ちょっと言うを憚るような感情を持つ。

加えて、「あの国が民主化して、本当に大丈夫か」とも正直思う。

言論の自由と民主主義が生み出したカオス状態から、制御不能な内乱や今より遥かに過激なナショナリスト政権がもし生まれたら、真っ先に被害を受けるのは日本ですからね。

それにこの30年間、最低限度の程度の自由が認められたからこそ、中国の民主化運動が広く報道されるようになったとも言える。

つまり、様々な抑圧と制限があるにせよ、民衆が抗議の声を上げ、それが国外で報道されるということは、逆説的だがその国が自由の一切無い完全な全体主義国家でないことを証明している。

改革開放路線以前の中国なら、今存在しているレベルの民主運動家すら、即座に闇から闇へ葬られていたはず。

朴政権の権威主義体制下の韓国と、金日成独裁の全体主義体制下の北朝鮮で、西側のメディアで表面上非難の対象になる頻度は(実際の抑圧度とは全く逆に)、前者の場合が遥かに多かった。

ミャンマー(ビルマ)の軍事政権は、自由抑圧とアウンサン・スーチー氏への扱いに関して、常に国際社会から批判されている(さすがの私もあの体制が結構なものだと言うつもりはございません)。

しかし北朝鮮にはスーチー氏はいない。

いたとしても一日たりとも生存することはできない。

よって、国家の抑圧的性格について、ミャンマーと北朝鮮では極めて大きな差があるはずだが、言論の自由が保証されているはずの国のメディアでその違いが明確にされることは殆ど無い。

中東でも、チュニジア、エジプト、湾岸諸国と、それらより遥かに異常な独裁国家であるリビアとの対比についても上記のような事情がごく最近までは当てはまる。

(リビアでも反体制運動勃発が報道されているものの、映像がここ1、2日くらいまであまり伝わってこなかったことが、表面的イメージとは逆に抑圧の厳しさを窺わせる。カダフィ政権の異常性があまりに際立っているので、私はあの国の体制変換だけは[実現するならば]ほぼ手放しで肯定的に捉えることができると思うが、それも収拾不可能な混乱・内戦とアルカイダ系のテロ組織浸透という最悪の事態が生じないということを前提にしての話。)

私は中国共産党にいかなる意味でも一切好意を持たないが、あの国は事実として全体主義ではなく、すでに権威主義の段階にある。

放っといても長続きしませんよ、あの体制は。

国益を考えず民主化の慫慂を自己目的にするようなことは止めた方がいいと思いますね。

むしろ民主化以後に何が出てくるかを警戒して慎重に対処することを考えた方がいいでしょうし、そもそも自分たちの自由民主主義の現状がそんなに誇るに足るものなのか自省すべきではないでしょうか。

閑話休題。

中々よくまとまっていて面白い。

短いページ数にも関わらず、効用は高め。

知識の不十分な分野を補強するのに十分使える。

岡倉徹志『サウジアラビア現代史』(文春新書)と相互補完できるのも、ちょうど良い。

お勧めします。

2011年2月21日

湾岸産油国についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

松尾昌樹『湾岸産油国』(講談社選書メチエ)の記事続き。

第2章の具体的国家形成の叙述より。

まずオマーンから。

この地域ではウマイヤ朝崩壊期の749年以来、イバード派による国家が断続的に存続してきた。

18世紀半ばに現王朝ブー・サイード朝が成立。

この王朝でイマームに就任したのは初代のみ、以後は世俗有力者として統治。

18世紀末以降、イギリス東インド会社および英領インド政府と密接な関係を持つ。

現UAEの湾岸地域では諸勢力が海上交易権をめぐって抗争を繰り広げる。

イギリスはこれら勢力を「海賊」と規定し攻撃、19世紀前半に数度の「休戦条約」を強要したため現状固定化の効果を持つ。

結局19世紀後半に現UAEとバーレーンの首長勢力は実質イギリスの保護国となる。

このため湾岸への勢力拡大の道を閉ざされたオマーンのブー・サイード朝はザンジバルなどに進出し、東アフリカ海上帝国を建設することになる。

(そのことは以前三省堂の世界史教科書の記事でちょっと触れてますね。ただ時期が「19世紀初頭」と書いているが・・・・・・。よくわからん。)

以後オマーンでは継承争いと内乱が続き、衰退、20世紀初めにはここも実質英保護国に。

17世紀半ば、アラビア半島中央部ナジュド地方からアラブ人の一派ウトゥブ族が移動を開始し、カタール・バーレーンを経由してクウェートへ移住。

18世紀後半までにサバーハ家がクウェート支配を確立。

他のウトゥブ族の一部はカタールへ再移住。

1783年カタールのウトゥブ族のうちハリーファ家がペルシアから(年代から判断するとサファヴィー朝の後のアフシャール朝か?カージャール朝は1796年成立。)バーレーンを奪取。

しかし1780年代末からサウード・ワッハーブ王国の攻撃を受け、ハリーファ家はカタールを放棄し、征服したバーレーンへ避難。

カタールではサウード王国、オスマン帝国、復帰を目論むハリーファ家のせめぎ合いの中からサーニー家が台頭。

なお、上記サウード・ワッハーブ王国は1744年頃建国し、1818年エジプトのムハンマド・アリーによって一時滅亡、1823年再建されるが1889年再度滅亡、イブン・サウードが1902年リヤドを奪回して再々建国、1924年ヒジャーズ王国(「フサイン・マクマホン協定」のフサインが1916年建てた国)を滅ぼして、一語加えたヒジャーズ・ネジド王国を建設、それが1932年サウジアラビア王国に改称という流れでしたね。

18世紀末からサウード朝の脅威を受けたクウェートのサバーハ家は19世紀後半オスマン帝国を支配者として承認し自家の実質統治権を得るが、19世紀末には親オスマン政策から親英政策に転換、1899年英保護国化。

カタールのサーニー家もハリーファ家復帰を阻止するため当初はオスマン帝国に頼ったが、これも英国に乗り換え、1913年オスマンは領有権を放棄し英保護国に。

第二次世界大戦後、石油生産が本格化。

まず1961年クウェートが独立。

1968年イギリスがスエズ以東からの撤退を声明。

1967年第3次中東戦争でのイスラエルの圧倒的勝利によってアラブ民族主義の勢いに陰りが見えており、それが急進的民族主義勢力による体制転覆を恐れる湾岸君主国にとっては幸いした。

1971年にバーレーン、カタール、UAE、オマーンが独立。

第2章の歴史的経緯のおさらいをするだけでこれだけかかった。

長過ぎるので、以後の章はかなり端折ります。

本書副題にもある「レンティア国家仮説」とは、外生的で非稼得性の高い収入(レント収入)が国内経済に密接に関係しない形で直接政府に流入することで租税収入に依存しないレンティア国家が成立し、そこにおける国民はアメリカ独立運動の標語をもじって言えば「課税なくして代表なし」という状態に置かれ、それが湾岸諸国において経済発展が民主化に結びつかない状況を説明するというもの。

我々の一般的イメージからすると、こういう国家には当然あまりいい印象を持たないが、著者の視点はあくまで中立的。

次に「王朝君主制」。

これは通常の君主制とは区別された概念。

君主が単独で統治するのではなく、支配家系が君主と一体になり、内閣の要職、特に首相・内務相・防衛相など「主権の諸省」を占めて統治する形態のこと。

これは支配家系内部で交渉によるポストの配分を行うことにより内部紛争を抑止し、外部からの脅威には団結して対抗する分、強靭な体質を持っている。

中東に過去存在したが現在は崩壊したエジプト・イラク・リビア・イラン・アフガンの君主制と湾岸産油国の王朝君主制が対比して検討されている。

現在、中東の反政府運動の波に湾岸諸国も洗われているわけですが、果たしてどうなるか・・・・・・?

「国民統合」について言えば、君主と国民の間には、石油・天然ガスによるレント収入だけでなく、「国史」や文化がやり取りされ、それが既存の体制維持に貢献している。

著者は各国の公定の「国史」について、その恣意性を指摘しつつも、それが一方的強制や意志に反した服従であるとは断定できないと慎重な留保を付け加えている。

「エスノクラシー」、多数の外国人労働者が在留しているが、自国民とは極めて大きな賃金格差があり、両者間の交流もほとんど無く、同化も全くありえない状態。

当然予想されるように外国人労働者の権利が侵害される例がしばしば伝えられる。

各国政府は自国民をまず公的部門で雇用し、民間部門では高い待遇で雇用されるよう「自国民プレミアム」を適用している。

この章での著者の筆致は他の章と比べてもやや厳しく感じられる。

しかし外国人労働者の数が極めて多い分、その置かれた状況にも大きな差があり、外国人労働者の生活をあまりに悲惨一辺倒で描くことは誤解を招くかもしれないと、註で記している。

また少子高齢化が進む日本で人口を維持するため大規模な移民を受け入れた場合、湾岸産油国のように労働人口の半分が外国人で占められるような事態が起こり得るというデータを示して、その時日本人は外国人と対等の立場を受け入れるだろうか、それとも「自国民プレミアム」を要求しないであろうか、と問いかけている。

こういうふうに、批判的観点は維持しつつも、一方的な論難や糾弾になっていないところは、本書の大きな長所だと思います。

最後の一章が残ってますね。

引用したい少し長めの文章があるので、また次回に続きます。

2011年2月19日

松尾昌樹 『湾岸産油国  レンティア国家のゆくえ』 (講談社選書メチエ)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

イスラム・中東史の本は何と一年ぶりですか。

ただでさえ手薄なカテゴリなのに・・・・・。

しかし最初の頃はもっと酷かった。

本書はペルシア湾南岸、アラビア半島北東部にある湾岸産油国についての概説。

純粋な歴史書とは言えないが、少しでも苦手分野を補強するために通読。

取り扱われる国はクウェート(クウェイト)、バーレーン(バハレーン)、カタール(カタル)、アラブ首長国連邦(UAE)、オマーンの五ヵ国(サウジアラビアは含まれない)。

産油国であることの他に、君主制を敷いていることなどの共通点がある。

まず位置関係を頭に入れないとどうしようもない。

ペルシア湾の一番奥に位置し、イラクとサウジに挟まれるのがクウェート。

首都はクウェート市。

国名と首都名が同じなのは、シンガポールのような都市国家やヴァチカン市国のようなミニ国家を除くと、このクウェートのほか、メキシコ・メキシコ市くらいか(あとルクセンブルク?)。

私の世代だと、この国は1991年湾岸戦争のせいで絶対忘れない国になった。

そこから南東へ大分下がって、ペルシア湾の真ん中あたりでアラビア半島から突き出た小半島にある国がカタール(首都ドーハ)。

その西側に浮かぶ小さな島国がバーレーン(首都マナーマ)。

さらに外洋に向かって進み、アラビア半島から角が突き出て最も狭いホルムズ海峡を形作っているところにあるのがアラブ首長国連邦(UAE)、その東でインド洋に面する比較的広い国がオマーン(ただし上記角の最先端部分はオマーンの飛び地になっている。これは本書の地図を見るまで気付かなかった)。

UAEの首都はアブダビ、他の都市ではドバイが最近では有名か。

オマーンの首都はマスカト(マスカット)。

各国の概略を述べると、クウェートはサバーハ家が支配家系。

バーレーンはハリーファ家。

この国でシーア派人口が6、7割と多数派を占めることは、桜井啓子『シーア派』(中公新書)で読んだ。

それへの配慮からか、少し前の新聞の国際面で湾岸君主国の中では例外的に、最近イランに宥和姿勢を取っているみたいなことを読んだ記憶があるが、うろ覚えです(それともカタールだったかな?)。

カタールはサーニー家支配。

衛星TV局アルジャジーラが本拠を置いていることでも有名。

UAEは七つの首長国の連合だが、アブダビとドバイを覚えるだけでいいでしょう。

アブダビはナハヤーン家、ドバイはマクトゥーム家統治。

石油資源はアブダビに集中、ドバイは金融・不動産・観光・中継貿易などで開発が進んでいたが、先年バブル崩壊と「ドバイ・ショック」があったのは御記憶の通り。

オマーンはこの地域では最大の領土と人口を持つがその分開発は遅れている。

上記の国の支配層がスンナ派であるのに対し、この国はイバード派が6割を占める。

イバード派については菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』(講談社選書メチエ)でちょっとだけ出てきました。

イスラム最初の分派でアリーとムアーウィヤの双方を敵視したハワーリジュ派の生き残りということでした。

当たり前過ぎることを書きますが、セム語族のアラブ人と印欧語族のペルシア人とアルタイ語族のトルコ人の三者の絡み合いの中でイスラム以後の中東史は理解すること。

五ヵ国ともアラブ民族が主流派で当然アラビア語を話す。

シャイフ(首長)、スルタン、マリク(王)などの称号を持つ君主制国家。

石油輸出収入への依存が大きく、人口は少ない。

最大のオマーンでも178万、バーレーンに至っては40万。

これに対し、サウジは2200万、イラクは3000万、イランは7000万の人口を抱える。

また外国人労働者が極めて多く、人口の半ば以上を占める国もある。

経済的豊かさは特筆すべきものがあり、一人当たりGDPでは、クウェートは日本と同じ、カタールは2倍強に達する。

ここまでが第1章の概略的部分。

第2章で「国家形成への道のり」と題し、湾岸諸国の歴史を略述し、続く3、4、5、6章で「レンティア国家仮説」「王朝君主制」「国民統合」「エスノクラシー」という四つの分析点を叙述、最後の第7章「湾岸産油国の未来」で近未来の事態を検討という構成。

第2章において、まず中東に存在する君主国はイスラム誕生以後古くから起源を持つものではなく、存外「新しい国」で歴史の浅いことを指摘。

湾岸五ヵ国に加え、サウジ・ヨルダン・モロッコのうち、モロッコ・オマーンを除けば、成立はすべて19~20世紀。

そもそもイスラムの教義は君主制を積極的には認めない。

スンナ派にとっての指導者はムハンマドとその後継者であるカリフのみであり、それ以外の統治者について積極的に正統性を付与する教義解釈をイスラム法学者は生み出さず、事後承認的に認めただけ。

シーア派にとってはアリーの子孫のイマームのみが指導者であり、イバード派は信徒集団が選出したイマームがそう見なされる。

それに比べれば、既存の地上の権威を神が定めたものとしてそれへの服従を説き、神寵帝理念や王権神授説を生み出したキリスト教の方が君主制に余程親和的に思える。

だからイスラム教が退嬰的で、世俗の権力への屈従を強い、専制政治を容認するというのは当然偏見ということになる。

しかし地上の権威を認めず、信仰に直結した権力しか認めないというのは逆にイスラムの弱点であり、それが結果として秩序ある自由を妨げ専制を生み出してしまう一因なのではないかとふと思った。

もちろんこんなのはただの素人の思いつきに過ぎませんが。

あー、またですね。

ごく普通の厚さの本で複数記事を書きます。

1000記事目まで、多分こんな感じになると思います。

(追記:続きは以下

湾岸産油国についてのメモ その1

湾岸産油国についてのメモ その2

2010年1月12日

シーア派についてのメモ その2

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前回に続き、菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』より。

第7章。

アッバース朝時代、政権による弾圧で、イマームの召喚と幽閉が続く。

11代イマーム没後、息子の12代イマームが幽隠ののち、マフディー(メシア)として再臨すると信じるのが12イマーム派。

実在が確認できるのは11代イマームまでで、12代目の息子の年齢や名前をめぐって対立があり、小分派が乱立、現在の12イマーム派も当初はそうした一分派の一つだった。

10世紀はブワイフ朝とファーティマ朝の支配によって、「シーア派の世紀」とも言われる。

そのうち、ファーティマ朝の創始者は、イランでイスマーイール派に属していたアブドゥッラー(通称ウバイドゥッラー)。

当初はイスマーイールの息子の代理人を名乗り、各地で教宣組織をつくり、地下活動を続けるが、のちにイマームは自分自身であると宣言。

この主張切り替えが、元のイマームからの委任に基づくものなのか、それとも実は自身がイスマーイールの血統に属することを根拠にしたのか本書では明確に記されていないようなので、わからない。

この方針転換を受け入れず、激しく反発した一派がカルマト派と呼ばれる。

ウバイドゥッラーは北アフリカに逃亡後、909年チュニジアにファーティマ朝を建国。

12イマーム派のブワイフ朝が、946年バグダードに入城してからも現実主義を採り、アッバース朝カリフの権威を認め、自らは大アミール位についただけなのに対し、ファーティマ朝は自らカリフを称し、アッバース朝の完全な打倒を目指す。

第4代カリフ、ムイッズの治世である969年エジプトを征服、のちにメッカ・メディナの二大聖地やシリアも版図に入れるが、ブワイフ朝はカルマト派と同盟、イラクのアッバース朝までは到達できず。

このころには過激なメシア主義は後退し、既存のイスラム法尊重が主流になるが、第6代カリフ、ハーキムを神格化したドゥルーズ派などの揺り戻しも見られた。

11世紀に入ると、ガズナ朝君主マフムードやセルジューク朝によるスンナ派の反撃が始まる。

第8章。

以上のシーア派各派に対抗して、多数派が自己認識を形成した結果生れたのがスンナ派。

スンナ派とシーア派は、結局、指導者論以外では教義上大きな違いは無い。

スンナ派が、個人の無謬性を預言者ムハンマドのみに認め、以後は宗教共同体全体の一致、ウラマー全体の合意を無謬としたのに対し、シーア派はムハンマドに加え、その子孫のイマームを無謬とした。

第9章。

シーア派内分派について。

イスマーイール派から分離したニザール派がイランに移り、いわゆる「暗殺者教団」に。

ドゥルーズ派とアラウィー(ヌサイリー)派は現在シリアとレバノンに居住。

両者ともイマームだけでなく一般信徒の輪廻を信じ、コーラン以外の聖典を保持する特異性がある。

ドゥルーズ派はレバノンにおいてマロン派キリスト教徒、スンナ派イスラム教徒と並んで宗派別権力分配に預かるグループとして、他の本でよく名前が出てくる。

アラウィー派は、1970年以来シリアで政権を握ったハフェズ・アサド、および2000年その跡を継いだバッシャール・アサド父子が属する宗派として有名。

現在ではイエメンのザイド派にのみ政治権力を掌握するイマームがいる、と書かれているが、外務省の各国情勢で確認すると、イエメンが南北に分かれていた頃、北イエメンは元王国だったが共和政に変わり、南イエメンはソ連に接近し人民共和国を名乗っていて、それが冷戦終結後の1990年に統一されて現在も共和国とのことなのだが、それじゃあこのイマームというのは何なのだろう・・・・・?

制度上、君主ではないが、そうした宗教的存在がいるということか。

よくわかりません。

(追記:最近の北部での内戦について、以下の文章を見つけた。)

ル・モンド・ディプロマティーク  「イエメンの危機的状況」

やっとこさ、とりあえず終わりました。

最後、「おわりに」であった、原理主義についての文章が面白かったので、以下に引用。

長期にわたって学者たちが積みあげてきた学問的成果を軽視し、聖なるテクストを直解しようとする姿勢は、結果的には学問的に精密な分析よりは素人的で主観的な聖典解釈を生みだしがちである。その結果、本人たちの意志に反して、彼らの解釈は近現代の状況に縛られる。クルアーンやスンナを理解しようとする際、古典期までの学者たちは伝承資料に対して大いに批判的な精神を見せていたが、そのような批判精神は原理主義者には希薄である。時代状況への依存度が高く、主観性の強い原理主義の思想は、原点回帰を訴えてはいても、実際には近現代の状況の中で選び取られた、イスラーム教理解の一つのヴァリエーションでしかない。

2010年1月10日

シーア派についてのメモ その1

Filed under: おしらせ・雑記, イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

先日の菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』の内容メモ続き。

第4章。

ムハンマド・バーキル→ジャアファル・サーディク父子を支持するのがイマーム派で、12イマーム派とイスマーイール派に分かれる。

ジャアファル死去時、息子たちのうち、父より先に死去していたイスマーイールを支持したのがイスマーイール派、ムーサーを支持したのが12イマーム派。

ウマイヤ朝末期からアッバース朝初期にかけて、ムハンマド・バーキルとジャアファル父子はメディナで学究生活を送り、イマーム派の「信仰隠し(タキーヤ)」論の根拠となる。

これは少数派であるシーア派が現在まで存続する上で有益だったが、一方同時期に多数派に反抗し蜂起を繰り返していたザイド派などからは非難されることもあった。

イスラム教が厳格な一神教で、キリスト教徒がイエスを「神の子」と呼ぶのを非難し、預言者ムハンマドもあくまで人間であるとしていることは高校教科書にも出てきますが、この時期のイマーム派の中からは、精神的指導者尊崇の一線を越えてイマームを文字通り神格化したり、イマーム間の神霊の輪廻を信じたり、真理を会得したものによる既存のイスラム律法の軽視・廃棄を認めるような極端派が生れる(だが、これらはシーア派主流からは排除されていく)。

第5章。

イスラム教内のメシア思想。

省略。

第6章。

750年アッバース朝成立。(この年代は当然絶対暗記事項。結局ウマイヤ朝は100年続いてない。)

中央アジア・ホラーサーン地方でアブー・ムスリムがシーア派勢力の支持を得て蜂起したのがアッバース革命の始まり。

イブン・ハナフィーヤの息子がアッバース家の人間をイマーム後継に任命したとの伝承がつくられ、シーア派のうちカイサーン派をアッバース家が乗っ取る形になる。

第2代カリフ、マンスールの時代にアッバース朝とシーア派は決裂を迎える。

ハサン家の武装蜂起は鎮圧され、首謀者は処刑。

ファーティマを通じた預言者の血筋を何より尊ぶシーア派勢力に対し、マンスールは女系相続はありえず、アリーの父アブー・ターリブは結局改宗しなかったのに対し、同じくムハンマドのおじのアッバースはムスリムとなり預言者に親しく協力したゆえに、ムハンマドの継承権はアリー家ではなく、アッバース家にあると反論。

アッバース朝初期のこの時点で、王朝正統性の根拠が当初のシーア派的イマーム継承から、アッバース家の血統に変更されている。

その後、第3代マフディー、第5代ハールーン・アッラシード時代に、統治の根拠はイスラム法を護持・執行することに再度変更され、血統主張は後退。

多数派ウラマーの支持を得るため、正統カリフとして(アッバース家でないのはもちろんハーシム家出身でもない)アブー・バクルとウマルの権威を認める。

アリー家からはアリーを認めハサンを外し、ウマイヤ家からはウスマンを認めムアーウィヤを外す。

これで我々の知る四人の正統カリフとなる。

こういう認識は、できる限り支持基盤を広げるための妥協の産物だったのだろうと推測される。

まだ終わらない・・・・・。

次回に続きます。

2010年1月7日

菊地達也 『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』 (講談社選書メチエ)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

09年8月刊。

ムハンマドの死から11世紀ごろまで、シーア派の成立過程を丹念に追ったイスラム思想史。

タイトルが与える印象と異なり、難解な教義関係を微細に見るのではなく、一般的イスラム通史に触れながら一歩一歩話を進めていくので、非常にわかりやすい。

高校レベルからでも十分ついて行ける記述なので大変助かる。

初心者が是非消化しておくべき本と言えます。

と、全般的評価を済ませた後、以下、各章ごとの内容メモ箇条書きです。

第1章。

まず、基本事項として、預言者ムハンマドの家系と親族関係をチェック。

ムハンマドは、セム系アラブ民族クライシュ族の中のハーシム家に属する。

初期のカリフのうち、アリーはムハンマドの叔父アブ・ターリブの子で、ムハンマドのいとこ、アブー・バクルとウマルはクライシュ族の別の家、ウスマンはクライシュ族のウマイヤ家。

第3代正統カリフのウスマンがウマイヤ家出身なのは、高校世界史レベルだと盲点なので要記憶。

23ページの系図によると、ウスマンの父とアブー・スフヤーン(ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの父。初期布教期にムハンマドを圧迫した中心人物。)がいとこ同士なので、ウスマンとムアーウィヤは「はとこ」に当たるのか。

ムハンマドの子供のうち、男子はすべて夭折、ファーティマという娘が一人いるだけで、彼女がアリーと結婚。

ムハンマドのおじアッバースから始まるアッバース家はハーシム家に収まる。

これだけは押さえておかないと、話が繋がらない。

なお、正統カリフとはスンナ派にとっての「正統」で、シーア派はアリー以前の3人は簒奪者と見なす(ただし後述ザイド派などの例外あり)。

スンナ派のカリフとシーア派のイマームの区別。

カリフは血筋はあまり重視されず、前任者の指名または選挙で選出、政治と軍事の権限のみを持ち、宗教的権限はウラマー(学者)が持つ。

イマームはアリー家の血統と父子指名を最重視、共同体の統治者であるだけでなく、精神的にも絶対的指導者。

しかしアッバース朝期までは、宗教解釈権を行使したカリフも多かったとのこと。

このカリフ権限の説明ですが、大昔の高校世界史だと「カリフ=政教両面の指導者」、「スルタン=政治面のみの指導者」と習った記憶があり、整合しませんが私の習ったのは古い説なんでしょうねえ。

656年ウスマンが軍の反乱で殺される。

これがイスラム教徒による初のカリフ殺害(644年ウマルはキリスト教徒に暗殺された)。

アリーがカリフに登位するがシリア総督ムアーウィヤはこれを認めず、ムハンマドの寡婦アーイシャ(アブー・バクルの娘だったか)と教友ズバイルおよびタルハは反乱を起こし、第一次内乱始まる。

アーイシャらは鎮圧され、ズバイルとタルハは敗死。

アリーはイラクのクーファに移動しムアーウィヤと戦うが、657年スィッフィーンの戦い後、一時和議成立。

これを非難する一派がアリー派から分離、初の分派ハワーリジュ派成立。

ムアーウィヤだけでなく、それまでの指導者アリーをも悪と見なす極端な善悪二元論と攻撃性を持つ宗派で、アリー軍と戦って惨敗した後も、活動を続け暗殺者を派遣、ムアーウィヤ殺害は失敗するがアリー暗殺に成功、この661年をもってウマイヤ朝成立となる。

ハワーリジュ派はウマイヤ朝治下でも武装蜂起を繰り返し、弾圧を受け、現在では他派に比較的寛容なイバード派がオマーンに居住するのみ。

イスラム教を大きく分ける場合、スンナ派・シーア派にこのハワーリジュ派を加えるのが正確な言い方らしい。

第2章。

正統カリフのうち、ハワーリジュ派はアブー・バクルとウマルの権威のみ認め、他派にも同じ立場を採るものあり。

シーア派はアリーのみ。

シーア派以外ではアブー・バクルとウマルを否定するものはいないが、初期の伝承ではウスマンの失政をあけすけに語っているものもあり、「四代の正統カリフ」はアッバース朝以降の理解。

第3章。

アリー死後、ファーティマとの子ハサンがカリフ即位を宣言するが、ムアーウィヤとの交渉を経て、ハサンはメディナに隠遁。

ウマイヤ朝は、正統カリフ時代を終わらせ、有力アラブ部族のみを特権化した不平等な政治を行ったので、シーア派のみならずスンナ派からも後世の評価は芳しくない。

ムアーウィヤが死去し、ヤズィードが即位すると、ハサンの弟フサインがこれに反抗、メディナからクーファに移ろうとして、680年カルバラの戦いでウマイヤ朝軍に敗れ戦死。

兄のハサンがシーア派の静観主義、弟のフサインが行動主義・殉教主義を象徴。

683年アブドゥッラー・イブン・ズバイル(上記アーイシャ反乱の同志ズバイルの息子)がメッカでカリフ位を宣言。

685年クーファのシーア派勢力によるムフタールの乱。

ムフタールは、アリーがファーティマ以外の妻ともうけた子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤを担ぎ、政治党派ではなく宗教宗派と言える初のシーア派集団、カイサーン派を創始。

初期のシーア派では、現在消滅してしまったこのカイサーン派が最大勢力となる。

アラブ社会は基本的に男系社会なので、ファーティマを通じてムハンマドの血統が流れていることが当時は後世のようには重視されず、アリーの息子であることが主に強調されたため、ファーティマの子ではないイブン・ハナフィーヤが旗印に成り得た。

イブン・ズバイルはムフタールとは対ウマイヤ朝で共闘せず(父のズバイルがアリーに敗死しているので当然だが)、反シーア派の立場。

シリアのウマイヤ朝、イラクのムフタール、アラビア半島のイブン・ズバイルと、この第二次内乱は三つ巴の様相を呈するが、イブン・ズバイルがムフタールを覆滅した後、692年ウマイヤ朝第5代カリフ、アブド・アルマリクがイブン・ズバイルを倒し、内乱を終結させる。

(アブド・アルマリクの息子がウマイヤ朝最盛期カリフのワリード1世。ヤズィードの子で直系が途絶えて、ウスマンのいとこの系統にカリフ位が4代目から移っている。)

この内乱の期間、フサインの息子ザイヌルアビディーンはメディナで隠棲。

その二人の息子のうち、ザイド・イブン・アリーはウマイヤ朝末期に反乱を企て処刑され、もう一人の息子ムハンマド・バーキルは父と同じく静謐のうちに過ごす。

ザイドを支持したのがシーア派内のザイド派で、フサイン家だけでなくハサン家子孫にもイマーム継承権を認めるのが特徴。

アッバース朝時代になり、ハサン家出身イマームを擁したザイド派の反乱が、第2代カリフ、マンスールに弾圧される。

ザイド派は非シーアの多数派に支持を広げるため、「劣位のイマーム」の概念を導入、シーア派内では例外的に、正統カリフのうちアブー・バクルとウマルの権威を認める。

ザイド派はのちに北アフリカにイドリース朝(東京書籍『世界史B』に少しだけ記述有り)を建設、現在はイエメンに存在。

(上記ハワーリジュ派の現在居住地オマーンとイエメンは同じアラビア半島の端にありますが、位置関係は大丈夫でしょうか?「馬鹿にするのもいい加減にしろ」「低水準のお前の感覚でものを言うな」と言われそうですが。)

非常に内容の濃い本で、この際メモしとこうと思う部分が多いので、3章まででこの有様です。

続きは後日。

(追記:続きは以下

シーア派についてのメモ その1

シーア派についてのメモ その2

2009年10月28日

坂本勉 鈴木薫 編 『イスラーム復興はなるか (新書イスラームの世界史3)』 (講談社現代新書)

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1巻2巻であれこれ文句を付けた本だが、結局シリーズ全巻読むことになってしまった。

叙述範囲は、中東・イスラム圏の近代の開始を画した1798年ナポレオンのエジプト遠征から始まるのは定番だが、終わりは本書が出た1990年代前半まで行かずに、実質1920年代まで。

トルコ、アラブ、イラン、中央アジア、と地域別の章が四つ続いた後はメッカ巡礼とネオ・スーフィズムというテーマ的な章が挟まって、最後に全巻の結言が入るという構成。

第1章オスマン帝国。

50ページほどで、衰退期のオスマン朝史を手堅くまとめてあるが、特筆すべき点は無く、ごく普通の記述。

しかし相変わらず在位したスルタン名と主要史実を結びつけて憶えていないことにショックを受ける。

高校時代からこの辺苦手なんですよ・・・・・。

今更だが、復習すると1789年フランス革命勃発と同年即位したセリム3世が、西洋式新軍隊ニザーム・ジェディットを創設、ナポレオンのエジプト侵攻、1803年ワッハーブ王国のメッカ占拠、ムハンマド・アリー自立など国難が続く中、守旧派によって廃位。

マフムト2世(在位1808~39年)、1821~29年ギリシア独立戦争、1826年イェニチェリ全廃、エジプト・トルコ戦争(第1回・1831~33、第2回・1839~40年)。

アブデュル・メジト1世(1839~61年)、タンジマート開始(ムスタファ・レシト・パシャ)、1853~56年クリミア戦争。

アブデュル・ハミト2世(1876~1909年)、この人が実質最後のスルタン、ミドハト憲法、露土戦争、パン・イスラム主義、青年トルコ革命。

以上四人のスルタンは憶えましょうか。

本書ではタンジマート改革は、中国の洋務運動、日本の明治維新、タイのチャクリー改革に先立つ非西洋世界の近代化運動として評価されており、ムハンマド・アリー治下のエジプト、フランスに植民地化されたアルジェリア、独立運動が続くバルカンを除く、帝国本拠のアナトリア、シリア・イラク・ヒジャーズ・イエメン・ペルシア湾岸・リビアにおいて再集権化に成功したと述べられている。

ただし、この時代のオスマン帝国の政治家たちは、外交面ではヨーロッパ列強と互角に渡り合う能力を持っていたが、明治日本の指導者に比べて経済への関心が薄く、「タンズィマート改革は殖産興業策とそれによる富国策を欠く強兵策であり」、改革の財源を安易に外債へ依存したことが、財政破綻と列強への経済的従属に繋がったとも書かれている。

第2章アラブ世界。

近現代のアラブの政治運動における理念として、イスラム主義・アラブ主義・国民主義の三つを挙げ、それぞれがどの地域・時代で有力だったかを述べている。

例えば、ムハンマド・アリー朝治下のエジプトは国民主義に基づく国家建設とされ、1952年のエジプト革命はそれをアラブ主義に切り替えたことを意味すると解釈される。

その他、シリアやイラクがアラブ主義に向かったのに対し、帝国辺境部のアラビア半島・スーダン・マグリブではイスラム主義が有力(ワッハーブ派・マフディー運動など)。

第3章イラン。

ここも特に無し。普通。

カージャール朝がこの時代の主要舞台になるが、この王朝は建国が1796年。

まさに西洋列強の本格的進出が始まろうかという時点で建国された王朝としては、他にタイのチャクリー朝(1782年~)、ヴェトナムの阮朝(1802~1945年)がある。

カージャール朝は1828年トルコマンチャーイ条約でロシアに治外法権を認め、アルメニアの大半を割譲しているから、盛期というほどの時期もなく、建国後すぐに衰退期に入っている観がある。

第4章中央アジア。

18世紀前半、カザフの遊牧民は西から小オルダ、中オルダ、大オルダの三つの部族連合に分かれており、東から仏教徒でモンゴル系のジュンガルの攻撃に脅かされて小・中オルダがロシアへの帰属を誓約したのが、ロシア支配の始まり。

1820年代に入ると小・中オルダのハーン権力に替え、ロシア統治導入、大オルダも南からのコーカンド・ハン国の脅威を受け、ロシアに服従。

以上のみメモ。

第5章メッカ巡礼と周辺地域。

聖者・聖地崇拝をイスラムが禁じたはずの偶像崇拝として激しく排斥するワッハーブ派の攻撃を受けたスーフィズム(イスラム神秘主義)教団が自己変革を遂げて、メッカのイドリース教団、中央アジアのナクシュバンディー教団などが生まれ、それらがヨーロッパの進出への抵抗運動を組織する様を描写している。

最後に全巻の結語。

特に感想無し。

全巻読んでもやはり、あんまり良いとは思えない。

中公新版全集の『イスラーム世界の興隆』を読んだ時のような爽快感と充実感が無い。

大きな欠点も無いとは思うが・・・・・。

紙数が少なくて、興味を持たせるエピソードや挿話の類いに乏しい。

手堅い教科書的著作という感じで、あまり記憶に残らない。

類書の少ないイスラム史入門書としては、まだしも貴重で有益としておくべきなんでしょうが。

積極的にお勧めする気はあまり起こりません。

2009年8月29日

ジョン・エスポジト 編 『オックスフォード イスラームの歴史 1 新文明の淵源』 (共同通信社)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

原著は1999年刊、この翻訳は2005年刊。

全3巻で、ムスリムと非ムスリムの著者が入り混じっている。

例によってイスラム史を補強するために適切な本を探していたのだが、ネームバリューがありそうで内容もしっかりしていそうな本書を見つけたので手に取った。

この第1巻の目次を見ると、普通の政治史は第1章のみで、あとは広い意味での文化史に当てられている。

以前の私だったら、「ああこりゃ駄目だ、向いてない」といって即投げ出しているところだが、最近は少しは忍耐力が付いてきたので、とりあえず読み始める。

最初の100ページ弱がムハンマド以前のアラビアから13世紀のモンゴル侵入とアッバース朝滅亡までの政治史の素描。

この部分は非常に良く出来ている。

紙数からしてそれほど細かな固有名詞や説明は出てこないが、それでもよく整理された見通しの良い記述。

ムハンマドの統治とカリフ制の成立、地域ごとの諸王朝の系譜という、通史の一番基礎的な部分をわかりやすく提供してくれるので、非常な好印象を受ける。

第2章はイスラムの基礎的な教義と戒律についてあれこれ書いてある。

よくわからない部分もあるが、まあこんなもんかと流す。

第3章はイスラム法。

よく知られたシャリーアという言葉の他に、フィクフという用語が出てくる。

これはシャリーアを元にした「上部構造」としての実定法というくらいの意味らしい。

(定義が不正確かもしれないが、うまく読み取れない。)

コーランとスンナ以外に何を法源として認めるかといったことによって、『ビジュアル版イスラーム歴史物語』の記事で触れたような、ハナフィー派・マーリク派・シャーフィイー派・ハンバル派といった四大法学派が分かれていて、それぞれの学派の立場が説明されており、読んでるときは「あー、はいはい」と比較的楽に理解はできるが、その特徴をいちいち覚えるのはやはりつらい。

要はハンバル派が一番厳格で、今の言葉で言えば「原理主義的」ではあるが、一方柔軟な一面も持っていたみたいなことが書いてある(と思う)。

第4章は科学・医学・技術史。

前章にも増してわからない。

天文学やら暦やらに関する説明は私の頭では全く理解できずチンプンカンプンなので、全部飛ばし読み。

適当で表面的な感想だけ書くと、高校世界史レベルでも思ったことだが、イスラム文化史で出てくる人たちというのは多分野に通じていて何が専門なのかわからない人が多いなということを再確認。

この章の最初の節でプトレマイオスの『アルマゲスト』を吸収・発展させたイスラム天文学の成果が扱われているが、ビールーニー(2002年版『世界史B用語集』で頻度1、『インド誌』の著者としてのみ触れられている)、フワーリズミー(代数学)、イブン・シーナー(アヴィケンナ・『医学典範』・哲学)、イブン・ルシュド(アヴェロエス・医学・哲学)が天文学者として出てくるし、そこでは出てこないがオマル・ハイヤームも詩集『ルバイヤート』の著者であると同時に暦の制定者(と数学者)でもある。

第5章は美術と建築。

さらにわからない。

全然興味もない。

徹底して読み飛ばして挫折するのだけは避ける。

イスラムで偶像崇拝は禁じられていたが、人物画像自体は当初タブー視されておらず、私的な生活領域では作成・鑑賞されていたが、徐々にヨーロッパ人がアラベスクと呼ぶ、植物に題材をとった幾何学的文様に変化していったとか何とか、そんなことが書いてあるのか?

すみませんが、わからないので飛ばします。

第1章はなかなか面白かったのですが、以後は予想通りかなりきつかった。

私のような趣味・性向でない方にとって良質な入門書と言えるかどうかとなると・・・・・・。

ちょっとよくわからない。

歯切れが悪くて申し訳ありませんが、本書についての評価は留保させて頂きます。

2巻・3巻を読むかどうかも現時点では決めてません。

2009年8月22日

横田勇人 『パレスチナ紛争史』 (集英社新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

200ページほどの簡略な戦後パレスチナ通史。

著者は日本経済新聞の元カイロ支局長。

2004年5月初版なので、01年の9・11テロや03年のイラク戦争についての記述はあるが、それ以降のPLO議長アラファトとイスラエル首相シャロンの死などには触れられていない。

外務省HPで確認したら、アラファト死去は04年11月なので、寸での所で間に合わなかったようだ。)

ジャーナリストが書いた本らしく、今世紀(21世紀)に入ってからのごく最近の出来事に多くの紙数が割かれている。

ユダヤ人の歴史とイスラエル建国から1980年代末までの経緯は第1章で扱われている。

50ページほどの分量なので、あくまで概略に過ぎないが、最低限必要な史実には触れられており、まあよく整理されていて良い方だと思う。

それから、1987年第一次インティファーダ(民衆蜂起)開始、91年湾岸戦争とマドリード中東和平会議、93年オスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)、95年ラビン首相暗殺、00年第二次インティファーダというように記述は進む。

本書の刊行からでも5年が経ち、時事的著作としてはやや時代遅れになってしまいましたが、村松剛『血と砂と祈り』(中公文庫)藤村信『中東現代史』(岩波新書)の記述の後に繋げて読む本としては十分使えると思います。

あと、本書の特徴として、イスラエル・パレスチナ双方の主張をよく聞き、一方に偏した立場を取っていないことが挙げられます。

この分野はとにかく政治的対立が余りに先鋭なので、当事者間はもちろん、学者やジャーナリストでも党派的立場に囚われがちですが、著者の筆致は双方に批判と同情を併せ持つといった感じで、かなり公平だと感じました。

オスロ合意から2000年以降の和平交渉挫折までの期間が省略気味だったりするのがやや欠点かと思いますが、現代史の空白を埋める本として有益です。

2009年7月26日

鈴木董 編 『パクス・イスラミカの世紀 (新書イスラームの世界史2)』 (講談社現代新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

かなり前に第1巻を読んだ後、そのまま放置してあったシリーズの続巻。

13世紀モンゴル侵入から18世紀末辺りまでのイスラム史。

第1章モンゴル史の著者は杉山正明先生

いつもの調子で、イスラム史家が記したモンゴルの残忍・破壊は西欧史家・中国史家と同じく一切「偏見」と言わんばかりの叙述。

一応論拠は述べられていてそれなりに納得できるものではあるのですが、どうしてもそのまま素直に受け取れないと警戒してしまう気持ちは残る。

しかしここまで徹底されると、ある意味感心する。

もう誰も止めませんから、先生は行き着くところまで行って下さいという感じ。

第2章は東方イスラーム世界。

これは、モンゴル侵入以後500年間の、イラク・イラン・アフガン・西トルキスタンを併せた地域を指し、ペルシア語を共通語とし、軍事はトルコ系遊牧民が、民政はイラン系定住民(タージーク)が担当していたのが特徴。

教科書ではこの時期をイラン・イスラム文明の時代と名付けているが、本書ではトルコ・モンゴル系遊牧民が大きな役割を果たしていたので、この名称は使わないとしている。

王朝で言うと、イル・ハン国、ジャラーイール朝、ティムール朝、黒羊(カラコユンル)朝、白羊(アクコユンル)朝、サファヴィー朝。

支持基盤であるトルコ系遊牧民が持っていたかなり特殊な信仰であるキジルバシ的シーア主義と、統治下においたイラン系定住民の信仰との妥協点を見い出すため、サファヴィー朝が12イマーム派シーア主義を導入する経緯などはなかなか興味深い。

第3章はティムール朝。

中央アジアは歴史上常に被征服者の立場に置かれてきたが、ティムール朝において初めて自ら世界帝国の発祥となったと書かれていて、そう言われてみればそうかと気付いた。

16世紀の中央アジアで、ティムール帝国崩壊と大航海時代によってシルク・ロードの重要性が低下し、没落・停滞の様相が濃くなったという定説に疑問を投げかけている。

第4章はオスマン帝国。

有名な常備軍イェニチェリは、火砲を装備した歩兵集団であり、騎兵ではない。

これは結構盲点で、大学入試の引っ掛け問題で問われそう。

1514年、建国間もないサファヴィー朝とチャルディラーンで戦い、これを撃破。

当時在位していたスルタン、セリム1世は1517年のマムルーク朝エジプト征服でのみ、高校世界史では記憶されているが、上記チャルディラーンの戦いも結構重要と思われる。

オスマン帝国衰退の象徴を1571年レパントの海戦に見るのではなく、1683年第二次ウィーン包囲失敗と1699年カルロヴィッツ条約とハンガリー喪失に置くというのは、高校世界史でも出てきますね。

第5章オスマン支配下のアラブ。

オスマン治下時代を単純な暗黒時代としてではなく、アラブ有力者層の自立の時期として捉えて、各地域ごとの具体的様相を叙述している。

第6章ムガル帝国。

アウラングゼーブ死後の急激な分裂を考慮して、ムガル朝をインドの統一政権とは見ずにデリー・スルタン朝の継続に過ぎないとの見方を紹介しているのは非常に面白い。

第7章東南アジアのイスラム化。

実質マラッカ王国のみの記述。

短すぎてあまり書くべきこともない。

しかしマラッカの年代記において、自らの遠い始祖をアレクサンドロス大王としていると記されているのは意外だった。

(アレクサンドロス伝説はイスラム時代でも諸所に残されてるとの知識は事前にあったが。)

最後の第8章国際交易ネットワーク。

10世紀後半ごろ、イスラム圏の貿易・商業の中心がバグダードからカイロに移って以後の経済史。

無難で平易な叙述なので、素直に読む。

悪くはない。

悪くはないが、目の冴えるほど面白いとか、基礎から中級レベルの史実を洩れなく取り上げて、理解しやすい見解を添えて提示してくれるということはない。

以前も同じこと書きましたが、どうもイスラム史は初心者向けのいい本が少ない。

中公新版全集のイスラム史は全部読んだので、最低限の基礎は出来ていることにしようとも思うのですが、どうもすっきり理解できた気がしない。

あれこれと図書館の在庫本を検索して試し読みしてみるということが続きそうです。

2009年6月28日

桜井啓子 『シーア派 台頭するイスラーム少数派』 (中公新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 06:00

イラク戦争後の混乱が泥沼化していた2006年刊。

著者は岩波新書から『現代イラン』などの本も出している方ですが、同じ女性のイスラム研究者の酒井啓子氏と名前が妙に似てますね。

本書の構成として、冒頭から半分弱ほどがシーア派の歴史的来歴を語る部分で、残りで20世紀以降の展開が述べられている。

最初にまず現在のシーア派人口分布が載せられている。

中学以来、シーア派と言えば、「=イラン」で済んでいた。

イラクは支配層はスンナ派だが、住民の過半はシーア派だなんてことは、高坂正堯『外交感覚』を読んで初めて知った豆知識といった程度の認識だったのが、ブッシュ・ジュニアが滅茶苦茶やったお陰で広く知られる事実となってしまった。

他には、ペルシア湾岸の島国バーレーンがシーア派人口50パーセント超で、レバノン・クウェート・パキスタンも比率が高い。

さらにアゼルバイジャンが6割超と書かれているのを見て、「ええーっ」と思ってしまうが、イランと地続きで、イランからロシア支配下に編入されたことを考えると別に不思議でもないかと思い直した。

シーア派信仰におけるイランの地位は必ずしも絶対的なものではなく、アリー以下のイマームの墓廟も、サウジがメディナの一ヶ所、イランが東北辺境にあるマシュハド一ヶ所なのに対して、イラクにはバグダード南にあるカルバラ(第3代フサイン)、さらに南のナジャフ(初代アリー)、北部のカーズィマインおよびサマラと四ヶ所存在する。

また、サファヴィー朝成立時点では、イラン人の多くは依然スンナ派だったと書かれているのは新鮮。

なお、イラク南部のシーア派住民について、18世紀半ば以降のアラビア半島でのワッハーブ派運動から逃れてきた部族が集団でスンナ派から改宗したが、そうした人々も多く含まれていると書いてあったのが記憶に残った。

サファヴィー朝とオスマン朝、両国の衰退の間を縫って、バザール商人や商工集団などの支持を得て国家から相対的に独立した地位をシーア派聖職者が占めるようになり、その中から19世紀半ばマルジャア・アッ・タクリード(模擬の源泉)と呼ばれる最高権威が生まれる。

20世紀に入ると、これまでシーア派信仰の中心だったナジャフが非アラブ系の神学者や学生が増加したことにより、反って求心力を失い、スンナ派ハーシム王家の下でイラクが独立し、シーア派が国家建設から排除されたこともあって、ナジャフの地位はイランのコムに奪われる。

このコムからイラン・イスラム革命の指導者ホメイニが出ることになりますが、その「イスラム法学者の統治」という理論については、ホメイニ以外に並立する他のマルジャア・アッ・タクリードの中には否定的に捉える者も多かったと書かれてある。

後半部は、イラン革命という一大事件を軸に、各国の情勢を総覧していく記述。

ホメイニ治下のイランが試みた「革命の輸出」は失敗し、各国のシーア派の中でもイランから距離を置く勢力が主流となる。

インド・パキスタンやサウジ東部のシーア派など、あまり知られていない少数派運動を紹介してくれているところは貴重。

『ムガル帝国から英領インドへ』で少し触れた、アウラングゼーブ死後独立したアワド王国がシーア派だったとか、パキスタン指導者のズルフィカル・ブット(任1971~77年。この前暗殺された女性政治家の父親)がシーア派出身だったとかは本書で初めて知った。

イラクでは、サドルとかハキムとかスィースターニー(シスタニ)とか、新聞の国際面を眺めてると時々お目にかかる名前が載っているので、読めば非常に参考になります。

面白い。

難解な教義について深入りしてゴチャゴチャ述べた本ではなく、高校レベルからでもすんなり入っていける叙述。

巻末の人名・事項索引が親切で便利。

前半の前近代史と後半の現代史の部分のバランスが良好。

前半の記述は必要にして十分な知識を無理せず与えてくれるし、後半は複雑で微妙な地域情勢理解のために有益な情報を豊富に提供してくれる。

相当優れた入門書であろうかと思います。

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