万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年10月17日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー四世 第一部・第二部』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 04:47

この版では、一部・二部がそれぞれ一巻本になっているが、話は完全に繋がっているので一つの記事にした。

エドワード黒太子の子リチャード2世から王位を奪って、ランカスター朝を創始したのがいとこのヘンリ4世で、その簒奪行為に協力しつつも、やがて疎んじられたノーサンバランド伯パーシー家の反乱と鎮圧、ヘンリ4世の死去までを描いた史劇。

もっともヘンリ4世が主人公とは言いがたく、実質的にはその息子で皇太子のハル(ヘンリ)が物語の中心。

放蕩無頼の限りを尽くすドラ息子といった感じのハルが突如その英雄的資質を表わし、反乱を鎮定、父王死後ヘンリ5世として即位、後に百年戦争を再開して最も英国優位の情勢を作り出すことになる。

またこの作品では、ハルの取り巻きの一人で、道化じみた悪徳騎士フォールスタッフのキャラクターも極めて有名。

フォールスタッフらの毒舌・雑言の中に潜むウィットは、現代人が読んでも笑いを誘う。

権力の栄枯盛衰を背後から操る世論の問題というテーマが中心となっているように思える作品だが、その重苦しさを笑いで中和してくれている。

なかなか良い。

シェイクスピア史劇では、少なくとも『ヘンリー五世』よりは印象に残るし、『リチャード二世』と並んで良い。

 

「噂」登場、一面に舌の模様を描いた服をつけている。

さあ、耳を開いて聞きな、それがし、「噂」が大声で

しゃべろうってんだ、耳に蓋するわけにはいくまい?

日の昇る東のかたより日の沈む西の涯まで、

風を早馬に仕立てて乗りまわし、この地上に起こる

あらゆる出来事を伝えひろめるのがおれの役目だ。

悪口、中傷をひっきりなしにこの舌先にのせ、

それを世界各国のことばでしゃべりまくり、

人々の耳に偽情報を詰めこむのがおれの商売だ。

たとえばおれが天下泰平だと言うのは、かくれた敵意が

平和の微笑のかげに刃を秘めてこの世を傷つけてるときだ。

また、大きくふくれあがった世界の胎内から

いまにも暴虐な戦争が生み落とされると思わせ、

兵隊集めや防衛準備に狂奔させておいて、実は

なにごともなし、なんて騒ぎを起すのも、このおれ、

「噂」の仕業でなくてなんだ?「噂」とは

疑心暗鬼、揣摩憶測が吹き鳴らす笛だ、それも

穴をおさえて吹くだけでいとも簡単に音が出るので、

あっちへふらふらこっちへふらふらする大衆ってやつでも、

むやみに吹き立てることができるんだ。いや、いまさら

天下衆知のおれの実体をご説明する必要はなかったな、

あんたがたはおれの身内なんだから。・・・・・・

 

大司教

・・・・・・わが国民はいまやみずから選んだ王にいやけがさしている、

あまりにもむさぼるように愛したため食傷している。

うつろいやすい民衆の心を土台にして家を建てるものは、

ぐらついてあぶなっかしい住居に身をおくことになる。

ああ、愚かな大衆どもめ、おまえたちはかつて、

おまえたちの望みどおりボリングブルック[ヘンリ4世]が王座につく前は、

天を拍つ歓呼の声をもって彼に祝福を与えたものだった!

ところがいま、彼がおまえたちの望んだ栄光に包まれると、

なんという食い意地の汚さだ、もう彼に食い飽いて、

みずから胸をむかつかせて彼を吐き出そうとしている。

そう言えば、おまえたち野良犬は、その貪欲な胸から

故王リチャード二世を吐き出したくせに、いままた

その反吐の死体をもう一度食いたがり、捜し求めて

うるさく吠え立てている。こういう連中が信じられるか?

リチャード王在位中はその死を願っていたやつらが、

いま、その墓に熱い恋心を捧げているのだ。故王が、

世の賞賛を一身に集めたボリングブルックのあとに従い、

傲然とかまえたロンドン市中を溜息ながらに引きまわされた

あのとき、その頭上に汚物を投げつけたおまえたちが、

いま、「大地よ、あの王を返し、この王をのんでくれ!」

とわめいているのだ。人の心の、なんと呪わしいことか!

過去と未来は美しく見え、現在はもっとも醜いと思うのだ。

広告

2016年6月23日

近藤和彦 『イギリス史10講』 (岩波新書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 08:45

イギリス史の起源としての初期中世、5~8世紀の時期を「暗黒時代」とする解釈に替わって、「ローマ後」「亜(サブ)ローマ」期あるいは「古代末期」「ポスト=ローマ」という区分が提出される。

8世紀末から9世紀にかけて、第二次民族大移動でヴァイキング侵入。

そのヴァイキングを「触媒」にして、アルフレッド大王と曾孫エドガーによる統一が達成される。

同時期のスコットランド、ウェールズ、アイルランドでは群雄割拠の状態のままであり、イングランドのみ統一達成、これが後世まで甚大な影響を残す。

962年オットー1世、987年ユーグ・カペー、973年エドガー、と英仏独三王国成立時点は、かなり近似している。

そしてノルマン征服による変化が加えられ、スカンディナヴィアとの繋がりからフランスとのそれへ変更し、中世ヨーロッパ中心部と直結、中央集権化とフランス文化が移入。

アンジュー(プランタジネット)朝で、大陸の領土との複合君主制が成立、百年戦争まで継続。

以後もブリテン各地方で複合君主、同君連合が組織される。

バラ戦争終結とヘンリ7世の治世を近世史の始まりと見ずに、中世との継続性を重視。

1530年代の宗教改革・統治革命によって近世史が始まったとの見方が提示されている。

ローマ教会からの自立、修道院とカトリック文化の解体によって、貴族とジェントリが地域の実権を持つ名望家社会、信教国家、主権国家が成立。

名望家の支持の上に立っていたのが「絶対主義君主」であり、その名称とは裏腹に官僚制と常備軍を持たず、議会と名望家との実質的には共同統治。

イングランドの宗教改革は世俗的で不純とされるが、ドイツでも宗教改革は神聖ローマ帝国内の主権問題と不可分だった。

メアリ1世の短期の迫害がかえってプロテスタンティズムを根付かせる。

対照的に見られがちなエリザベス1世とジェームズ1世の治世の継続性を指摘。

17世紀の国制革命について、ホイッグ史観とマルクス主義の二つの進歩史観の問題点を指摘。

二つの進歩史観による十七世紀史は、いずれもステュアート朝の四代の国王が連続して専制と破滅の一本道を歩み、ピューリタンと議会が自由と民主と生産力を代表していたかのように述べる。どちらの場合も、イングランド以外の経過は添えものか不純物のような扱いだった。

本書では、ブリテン諸島の信仰とアイデンティティという観点から、イギリス革命を「三王国戦争」として捉える見解を示す。

アイルランドのカトリック住民対プロテスタント移住者、スコットランドのプレスビテリアン、イングランドのピューリタンと国教徒、という複合君主制の運営にチャールズ1世は失敗。

だがその収拾は、幸運にも「古きよき伝統への復帰」という形でなされることになった。

この[名誉]革命に社会契約と抵抗権の思想をこめた者もいたが、ロックのように少数である。権利の宣言にも権利の章典にもそれを明示する表現はない。名誉革命を導いたのは、長老派でもピューリタンでも共和主義者でも社会契約論者でもなく、「古来の国制」を信じるホウィグとトーリだった。「血まみれメアリ」と三王国戦争と共和制の記憶が古来の国制を選択させたのである。

17世紀末から18世紀初めにかけて、オランダ・ハノーヴァーとのプロテスタント同君連合によるルイ14世への対抗が組織され、中央銀行・直接税・消費税・関税が整備、議会による国民のコンセンサスが形成され、「財政軍事国家」が成立。

これにより英仏第二次百年戦争を勝ち抜き、覇権国として台頭。

産業革命について、国内生産成長率は、1780年代は1.3%、1801年からは1.97%。

20世紀の高度成長から見れば非常に緩やかであるが、しかし

世界史の分岐、そして人類史の画期となった産業革命は、たとえ国際生産の成長率が年一%あまりであろうと、それが数十年続いたのだから、「革命」という名がふさわしい。

アジアとヨーロッパの力関係を永続的に変化させたのだから、なおさらだ。

近現代史に入ると、この種の通史概説書の例に漏れず、あまり取り上げるべき点は無い。

ただ一点、サッチャー政権について。

首相と異なる意見、とりわけディズレーリ以来の保守党のアジェンダであるone  nationの和合を閣議で主張したなら、彼はwet(軟弱派)とされ、やがて排除されてしまう。サッチャ時代(1979~90)が残したのは、イエスマンの保守党、歴史を捨て人材の痩せ細った保守党である。

マネーゲーム以外に未来のみえない、そして「敵」をつくって固まろうとする保守党でなく、自由と連帯、連邦主義の復権をうたう新労働党を有権者は選んだのである。

私もかつてのように、1980年代のレーガン、サッチャー、中曽根の新保守主義政権を礼賛する気は無くなっています。

むしろ伝統的保守主義の決定的変質・衰退の始まりではなかったか。

個人的なことですが、私は有権者になってから国政選挙・地方選挙問わず、自民党以外の政党に投票したことが無い時期が、相当長期間ありました。

しかし自民党が新自由主義者と排外的民族主義者に乗っ取られ、その伝統擁護姿勢がただのファッションとアリバイ作りに過ぎなくなってしまった今となっては、かつては毛嫌いしていたよりリベラルな政党に投票せざるを得なくなりました。

一度など、ある地方選挙で、自民党と新自由主義的な富裕層の傀儡政党だけが主要候補を出しており、あまりに選択肢が乏しく、もう少しで共産党に投票しそうになって慌てたことがあります。

ブレア労働党政権も最後にはイラク戦争を支持して散々な末路を辿ったとは言え、日本でもリベラルな勢力によって異常な格差を解消し国民統合を回復する方向に何とか行かないものかと思いますが、財力で事実上統制された新旧メディアによって、こうまで衆愚政治がシステム化・ビジネス化されてしまった現状においては、それは100%空しい期待に終わるでしょう。

 

 

まあまあの出来ではある。

しかし、新しい研究動向の紹介に興味深い点がないでもないが、いまひとつ食い足りない。

隔靴掻痒の感が強い。

このシリーズではやはり『ドイツ史10講』が圧倒的に素晴らしく、次いで『フランス史10講』、それに並ぶかやや劣るくらいで本書が来ます。

悪くはないが、特別勧める気にもなれない。

2016年5月1日

フリードリヒ・エンゲルス 『イギリスにおける労働者階級の状態  19世紀のロンドンとマンチェスター 上・下』 (岩波文庫)

Filed under: イギリス, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:27

再読だったかな?

学生時代買った記憶はおぼろげながらあるが、通読したかどうかは憶えていない。

1845年刊行。

著者はもちろんカール・マルクスの盟友で、共に「科学的社会主義」、共産主義思想を作り上げた人物。

ドイツ・ラインラントの富裕な繊維工場経営者の家に生まれる。

イギリス・マンチェスターにも工場を持っており、その関係でイギリスにおいて得た見聞を元にした作品。

まず産業革命前の社会状況から筆を起こすが、そこでのっけから強い違和感を持つ。

前近代農村での織工たちは、過度の自由競争に晒されず、牧歌的で余裕のある生活を送っていた。

プロレタリアではなく、穏やかな信仰を持ち、上層階級には従順な態度を保持。

にも関わらず、著者エンゲルスは、「彼らは精神的に死んでいた」「・・・・・ロマンティックで居心地はよいが、人間には値しない生活」「彼らはまさに人間ではなく、そのときまで歴史をみちびいてきた少数の貴族に奉仕する、作業機械にすぎなかった」と書く。

こういう決め付けはどうかと・・・・・。

それが産業革命の大波に飲み込まれ、階層分解と大多数のプロレタリアへの転落に追い込まれる。

その貧窮の有様は真に衝撃的である。

「非人間的な冷淡さ」「私的利害への各個人の非常なまでの孤立化」「偏狭な利己心」「個々別々の生活原理と、個々別々の目的とをもった単子への人類の分解」「社会的な戦争、つまり万人対万人の戦争」に覆い尽くされる社会。

恐るべき貧困、過当競争による労働条件の果てしない切り下げ。

公正概念からの逸脱が常態となり、そのような状況下での「自由」は形式化する他無い。

児童・女性の酷使などの惨状を見ると、エンゲルスが「社会的殺人」という言葉を使ったのも断じて誇張とは思えない。

だが、その状況を批判する「未完成なトーリー的ブルジョア」を「工業的・自由主義的ブルジョア」と区別しているが、それならもっと前者を積極的に評価して良いのでは?

それにしても以下の文章には迫力があり、ますます市場主義的価値観に浸食されるばかりの現代社会にも通じるものがある。

この国では社会戦争が全面的に勃発している。だれもが自分のことだけを考え、自分自身のためにすべての他人と戦っている。また公然の敵であるすべての他人に損害をくわえるべきであるかどうかは、自分にとってなにがもっとも有利であるかという利己的な打算にだけかかっている。平和な方法で隣人と意思を通じあうことは、もはやだれにも思いつかない。意見の衝突はすべて脅迫や、自助や、裁判によって処理される。要するにだれもが他人を排除しなければならない敵と見ているか、あるいはせいぜいのところ、自分の目的のために利用する手段と見ているにすぎない。

労働災害、健康被害、詐欺、早死の蔓延など、本書が記す状況は搾取としか言い様がない。

国際競争、自由貿易も労働者にとって災いでしかない。

自分たちの飢えによってイングランドの靴下編工までも失業させることは、ドイツの愛国主義的な靴下編工にとって喜びとしなければならないのではないか?また彼らはドイツ工業の名声をいっそう高めるために、誇りと喜びをもって飢えつづけるのではないか?ドイツの名誉といっても、それは彼らの皿がなかばからっぽであることを要求するからである。ああ、競争とは、「諸国民の競いあい」とは、なんとすばらしいことか!

グローバル化による過当競争に投げ込まれ、ますます労働条件が悪化するにも関わらず、拝金主義的メディアが煽る粗暴なナショナリズムによって、その「国際競争上の必然性」を洗脳され、結果として一部富裕層の思うがままに行動している(米国・韓国・日本などの)国民を思うと、以上の文章は今も深刻すぎる意味を持っている。

醜いブルジョワ社会に抗した「尊敬に値する例外的な態度を示した少数のブルジョアジーの成員」(これにはエンゲルス自身も含まれると個人的には思う)と「人道主義的なトーリー」としてディズレイリカーライルの名が挙がっている。

それを見て現在の新自由主義者は喜び勇んで「左右両翼の全体主義的親和性」を言い立てて、市場主義・リバタリアニズム(自由至上主義)の擁護を主張するだろうが、私はそんなものに同意するつもりは一切ない。

初期資本主義のもたらした恐るべき社会的荒廃こそが、共産主義という狂信を生みだした最大の原因であり、自由(放任)主義こそ、共産主義との真の「共犯」だ。

マルクス主義の全体系を妄想と片付け、その著作を人類史上最悪の犠牲者をもたらした独裁政治の原因となった悪魔の書として弾劾しても一向に構わないが(私もそうする)、本書だけは現在でも読む価値がある。

過去に学び、それを現在に生かすのが歴史を読む目的ならば、その意味で本書は重要な歴史書であると言える。

ご一読を勧めます。

2015年12月18日

塚田富治 『近代イギリス政治家列伝  かれらは我らの同時代人』 (みすず書房)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 16:43

「近代」とタイトルにあるが中身は近世17世紀の政治家に限られる。

ロバート・セシル、バッキンガム、ロード、ピム、クロムウェル、ハイドの6人。

 

 

まずプロローグ。

イギリスにおける伝記文学の伝統に言及。

私的生活を暴いたり、業績を羅列するのではなく、深い洞察力と豊富な知識によって書かれた伝記は、愉しく有益な、政治学の最良のテキストたり得る。

マキャヴェリのヴィルトゥ(政治的力量)という概念。

状況の変化を把握し、慎重に振る舞いつつ、必要な決断を的確に下す、共同体の福祉と自由への関心、私的利益と日常的道徳判断からの超越などがその内容。

舞台となる17世紀イギリスについて。

暴力装置の後退と常備軍の不在。

宗教が現代の憲法のように人々をまとめていた。

その下で宮廷と議会が多元的で均衡の取れた政治運営を行う。

一方、その外で民衆の政治への登場が始まりつつあった。

ただ「現代では庶民は存在せず、皆が政治家となっている」とベイコンが嘆いたように、それは必ずしも肯定的なことではない。

 

 

第一章、「二世政治家の功績と限界  ソールズベリィ伯ロバート・セシル」

1563年生まれ。

エリザベス1世治下、最大の政治家バーリィ卿ウィリアム・セシルの息子。

いとこがフランシス・ベイコン。

父の後ろ盾で政界へ。

1590年秘書長官ウォルシンガムが死去、後任を寵臣エセックス伯と争う。

結局父のバーリィ卿が就任。

1592年枢密参議官。

いとこでライバルのベイコンを引き離す出世。

エセックス伯ロバート・デブルー(レスター伯派を受け継ぐ)との対立。

スペイン・アイルランド遠征での不首尾に焦ったエセックスは1601年ロンドン市街で反乱を計画、逮捕処刑される。

1598年父バーリィ卿死後、女王の全面的信頼を得る。

スコットランド国王ジェームズ6世と極秘接触、1603年エリザベス1世死去後、平穏な王朝交替を実現し、ジェームズからも信認を得る。

1604年ソールズベリィ伯爵に叙せられる。

1608年大蔵卿に就任、後見権と徴発権という二つの国王大権を放棄する代わりに恒常的税収を王に保証するという財政改革を推進。

王領と封建特権による収入で国家財政を賄い、不足分を議会との折衝による臨時課税で補うというこれまでの方式から、国民への恒常的課税による収入への転換で近代的租税国家への脱皮を目指すもの。

だが、議会の反対に直面、政府内でも法務次官だったベイコンは国王大権を商人のように臣下と取り引きすることへの疑問を呈し、財務府長官ジュリアス・シーザー(すごい名前だ。英語の綴りは知らないけれど)は「君主制にとってはもっとも致命的な敵である民主制への道を用意する」と批判した。

平穏な王朝交替を実現した功績は絶大だが、この改革は(長期的な方向性は正しくとも)急進的過ぎて危険だったという解釈で良いか?

マキャヴェリ『リヴィウス論』から以下の引用が置かれていることからしても。

「災いを見つけても、それをやみくもに叩きふせたりしないで、うまくあしらって時間をかせぐほうが、賢明なやり方だと思う。というわけは、このようにうまくあしらって時間をかけているうちに、その兆候が自然消滅することもありうるし、さもなければ、すくなくともその危険の襲来を、はるか後にひきのばすことができるであろう」

問題の種類にもよるだろうが、決まり文句のようにお手軽に「抜本的改革」が叫ばれる現代日本(特に右派や保守を自称する連中が)においては貴重な言葉ではある。

失意のうちに1612年ロバート・セシルは死去する。

 

 

第二章、「史上最低の政治家 バッキンガム公ジョージ・ヴィリヤーズ」

治世前半のジェームズ1世は、ロバート・セシル、フランシス・ベイコンを登用した明君と言えるが、治世後半のジェームズとチャールズ1世はそうではないとの評価が述べられる。

ヴィリヤーズは1592年ジェントリ階層の生まれ。

宮廷に入り、ジェームズ1世と同性愛の噂を立てられる。

当時親カトリックのハワード家と親プロテスタントのカンタベリィ大主教アボット、ペンブルック伯、サザンプトン伯が対立、ヴィリヤーズは後者に担がれる。

1617年バッキンガム伯爵になるという異例の出世。

同年枢密参議官、1618年海軍総司令官。

ベイコンはバッキンガムに以下の進言・忠告を行う。

まず中庸を得たプロテスタント信仰を堅持し、カトリックや再洗礼派のような左右の過激派を退けること。

コモンロー(慣習法)によって国王と国民の双方が拘束される統治を継続し、その意味で議会の重要性を認識すること。

現代の内閣に当る枢密会議が慎重な外交と防衛的軍事政策を採ること。

内戦への警戒を怠らず、それを防止するため、公正な統治と治安対策を整備すること。

重商主義と適切な植民政策、浪費を排した財政を目指すことなど。

だがバッキンガムはその賢明な言葉には従わず、身内びいきで派閥を形成し、国政を私物化。

独占権を乱発、それを身内に集中したことが議会との対立を招く。

大法官ベイコン、財務長官クランスフィールドなど有能な人物もいたが、むしろベイコンが失政のスケープ・ゴートにされ弾劾される。

バッキンガムは外交でも失態を重ねる。

ジェームズの娘がファルツ選帝侯に嫁いだが、ドイツ三十年戦争の端緒をファルツがひらく。

皇太子チャールズとスペイン王女との結婚によりファルツの失地回復を目指す方針を採るが、スペイン宰相オリヴァレスに足元を見られあしらわれる。

その反動で皇太子、バッキンガム、そして反カトリックに燃える世論は対スペイン宣戦に向かい、反対するクランスフィールドをベイコンと同様に弾劾し失脚させる。

ジェームズ1世はバッキンガムに「本当におまえは愚か者だ。近い将来、おまえはこの愚行を悔い、おまえが利用しているこの民衆の気まぐれが、おまえを打つ鞭になることに気づくだろう」と言ったという。

結局チャールズはフランス王女アンリエッタ・マリアと結婚。

リシュリューとの交渉で、宮廷内で王女周辺のカトリック信仰が容認され、子供は13歳までカトリック教徒として教育されることになったが、これに世論は激しい反発を示す。

しかもこの妥協に関わらず、フランスは三十年戦争への(新教徒側への)参戦について判断の自立性主張を押し通し、イギリスが貸与した艦船を国内のユグノー攻撃に使用する行為に出た。

1625年ジェームズ1世死去、チャールズ1世即位。

スペインのカディス遠征に失敗、国内にも窮状が広がる。

宗教政策では、イギリス国教会はカルヴァン予定説の教義を採択していたが、これにアルミニウス派という反対派が出現。

人間の自由意志を強調し、聖職者や外的儀式と威容を重視する。

あくまでプロテスタントではあるが、カトリックに近い。

図式的に言えば、真ん中に国教徒がいて、右側にカトリック、国教徒とカトリックの中間にアルミニウス派、一方、国教徒の左側にはピューリタンがいて、その中で右から左へ長老派・独立派・水平派に分かれているというのが17世紀イギリスの宗教分布イメージ(カトリックを除き、アルミニウス派から水平派までは大きく言ってカルヴァン派プロテスタント)。

(ピューリタン革命で左側へ軸が大きく揺れた後、復古王政で真ん中の国教会に戻り、名誉革命では国教会かカトリックかが問われ、結局中道に落ち着くという結果になった。)

アルミニウス主義をバッキンガムは容認し、その流れで次章の主人公ロードを重用。

「信仰の革新」という極めて危険な行動に乗り出すことになる。

1627年単独でスペインと和平を結んだフランスを攻撃し失敗、仏西両国を同時に敵に回す外交的失敗を喫する。

1628年「権利の請願」提出。

同年、再度のフランス攻撃準備中、昇進について不満を持った将校の手によってバッキンガムは暗殺される。

結局バッキンガムという政治家は、成り上がり者の派閥形成によって地方有力貴族の不満を醸成し、宗教政策の失敗と共に国内分裂の火種を撒き、ピューリタン革命を準備することになってしまった。

本書での評価は章題通り、最低である。

 

 

第三章、「権力を手にした学長 ウィリアム・ロード」

1573年衣服商の息子として平民に生まれる。

オックスフォード大学入学。

主流のカルヴァン主義に反発しつつ、学内で昇進。

バッキンガムの知己を得て政界にも進出。

急進的カルヴァン派と異なり、ローマ・カトリックを教会としては認め、カトリック教徒も救われ得るとしたが、教皇無謬説、偶像崇拝、化体説は当然認めず。

聖書と使徒信条以外の自由裁量を容認、しかし個々のキリスト者が判断するのではなく、聖職者の会議に拠るべきとし、外面的儀式も重視。

イギリス国教会自体が教義はカルヴァン派プロテスタントだが、儀式はカトリック的と、教科書には書かれているが、ロードはその中でさらにカトリック寄りということのようです。

1627年枢密参議会入り、1628年ロンドン主教、1630年オックスフォード大学学長。

ピューリタンを排除、風紀粛清に努め、中央集権的大学運営を行う。

1633年にカンタベリィ大主教となりイギリス宗教界の最高位に登り詰め、政界でも同時代のリシュリュー、マザランと並んで聖職者出身の権力者となる。

1630年代に仏西と和平を結び、財政を改善、囲い込み等を抑制する経済統制を進める。

内政上は議会を敵視。

マグナ・カルタを「簒奪による卑しい素性のものであり、反乱によって世に示されたる文書」と酷評した。

ロードによれば君主制だけが正統的で正当な制度だとのことだが、貴族制、民主制との均衡ではなく、その両者の全面否定によってかえって君主制を危うくしてしまっている。

ピューリタンへの抑圧と同時に宮廷内のカトリックにも警戒の目を向けたが、こちらは必ずしも成功せず。

盟友ストラフォード伯(この人名は憶えておいた方が良い)と共にアイルランド・スコットランドへ礼拝形式を強要、スコットランドに反乱が勃発しピューリタン革命へ。

当時の宗教信仰は現代の憲法のようなものだった。

エリザベス、ジェームズ時代は公式教義に様々な解釈の余地を残し、人々をまとめ上げていた。

ロードの信仰革新で厳密な解釈が定められると国教会からはじき出された人々が敵意や憎悪を持って反抗するに至る。

ここで著者は、わが国の現行憲法の曖昧さも、このような視点からむしろ肯定的に評価している。

1640年反抗する議会を解散したが、翌年ロードはロンドン塔に監禁され、内乱中の1644年に処刑された。

妥協と説得、懐柔、寛容などを知らない学者政治家の悲劇だったと評されている。

 

 

第四章、「自由のための権謀術数家 ジョン・ピム」

教科書ではピューリタン革命時の指導者として、チャールズ1世とクロムウェルという両端の人物しか出てこないが、議会派の主要政治家として、このピムの名は結構重要。

私もアンドレ・モロワ『英国史』を読むまで知りませんでしたが。

1584年庶民院議員も務めた有力ジェントリの子として生まれる。

カルヴァン主義の強い信仰を持ち、議会入り、バッキンガムを批判。

1628年「権利の請願」提出、議会指導者はクック(コーク)やジョン・エリオット。

意外にもピムはこれらの行動には必ずしも同調せず、妥協的な面を見せる。

しかし徐々に国王への不審を募らせていく。

1640年短期議会および長期議会でハンプデンらと共に指導者となる。

1641年ストラフォード死刑とする法案を通し処刑、ロードを反逆罪で告発。

三年議会法、解散反対法、星室庁廃止などを通過させる。

直後勃発したイングランド内乱の解釈について述べられる。

絶対王政から民主政への移行のための戦い、あるいはマルクス主義的史学ではジェントリを中心とするブルジョワ階級が封建階級に対して戦う革命、ということになる。

しかし王政復古以降、内戦・革命の成果が破棄され、内戦前の諸原則による統治が続き、民主化や革命が起こったはずが、実際には以降2世紀にわたって国王と保守的な議会がイギリスを統治することになった。

そのため、上述の進歩主義史観に対して、1970年代以降のリヴィジョニスト歴史家は「内戦を民主化や革命への過程ではなく、むしろ革新や変化を避け、神の意志にそった公正な権威の確立を求める広範な国民の保守的態度が生みだしたものと解釈している。」

議会は明確な革命的理念など持たずに、状況に押し流されて武力衝突に至った。

その際、カトリックによる陰謀という真偽入り混じった情報によるパニックが大きな役割を果たした。

1641年「大抗議書」採択、これも反カトリックが主要動機だが、議会は急進派と穏健派に分裂、翌42年内戦突入。

ピム自身は議会派の財政基盤を整備する仕事を成し遂げた後、43年に死去。

議会と協調しプロテスタント信仰に支えられた君主政には、ピムは全く忠実だったはずであり、バッキンガムとストラフォードおよびロードによる抑圧的で親カトリック的なものに変化させられたチャールズ1世の統治には反抗したピムを、著者は(マキャヴェリが理想とした)「自由の戦士」であるとしているが、本章で記されている反カトリックのあまりに煽情的な言動やストラフォード抹殺時の煽動などはあまり感心できるものではない。

それがもたらした結果が余りにも悲惨すぎる。

もちろん、チャールズ1世の側にも大いに責任はあるでしょうが。

 

 

 

第五章、「好機をつかんだ軍人政治家 オリヴァー・クロムウェル」

まず確認。

英国史上、有名なクロムウェルは二人いるんですよ。

ヘンリ8世時代に宗教改革を断行したトマス・クロムウェルの甥がオリヴァーの祖父という関係。

この二人の血縁があるのかないのか、かなり前から疑問だったんですが、本書でようやくわかりました。

1599年やや没落した、中流ジェントリに属する家に生まれる。

熱心なカルヴィニストの教育を受け議員になるが、ハンティンドン市の政争に巻き込まれ、ヨーマンに転落。

母方の伯父からの遺産で家計を改善。

1640年時点では無名の一議員に過ぎず、内戦で台頭。

1643年マーストン・ムアの戦い、1644年「ニュー・モデル」軍設立。

「辞退条例」=議会メンバーが軍の指揮権を執ることを禁じる法により和平派議員を排除、クロムウェルが軍を指揮(超法規的に、と書いているが、この時期クロムウェル自身もまだ議員だったから、ということか?)。

1645年ネーズビーの戦いに勝利、1646年和平交渉が行われ、内戦はほぼ終結。

47年軍の反抗にクロムウェルは自制を説くが、結局反軍派の議員は追放され、議会は軍の影響下に置かれる。

クロムウェルと軍の下での和平交渉案では、国王の地位保証、宗教寛容、大赦など意外なほど穏健な内容で、急進派の主張は退けられていた。

しかし国王は妥協せず、軍の拘束を脱しスコットランドへ向かい、第二次内戦。

これに勝利したクロムウェルは(当時では皆ある程度そうだが)やや神がかり的独善に傾き、1648年「プライドの追放」で長老派議員を排除、以後の議会は「残部議会」と呼ばれる。

1649年国王処刑。

一方、リルバーンら水平派も弾圧。

1653年議会を解散、護国卿(ロード・プロテクター)独裁。

所々穏健な態度を見せてはいたが、結局こうなる。

護国卿は国王より強大な権限を持ち、議会の権限は骨抜き、それでも反抗する議会を1655年再度解散、実質的に厳しい軍管区制を敷くことになる。

対スペイン戦の財政補助を求めて開かざるを得なかった議会は軍管区制を否定、その代わり王位の提供を申し出るが、軍の意向を慮ったクロムウェルは拒否。

しかし伝統的王政と変わらないように護国卿制を変化させることは受け入れ、同時に議会の特権も維持される。

1658年クロムウェル死去。

次章の主人公であるハイドは、クロムウェルを邪悪と非難しつつ、以下のような態度も示したいたという。

ハイドは、政体の変革にさいしてマキアヴェッリが勧める旧政体の統治者の血筋を絶滅させるという血なまぐさい方法をクロムウェルがとらなかったことを好意的に紹介している。「将校評議会で一度ならず、統治を揺るぎないものとするただひとつの方策として、王党派すべての大量虐殺が提案されたとき、クロムウェルはそれに同意することはなかった」と記し、ハイドはクロムウェルが「血にまみれた男ではなく、マキアヴェッリの方法を全面的に拒否した」・・・・ことを評価する。敵である王党派にたいするこうした寛大な処置は、王制の復活にさいして大量の報復を招くことなく、国民的な和解を容易にする下地となったのである。

そしてピューリタン革命の総括として、著者は以下のように述べる。

同時代の、そして後世の人々のクロムウェルにたいする評価は分かれている。しかしクロムウェルがくりかえした革命的実験は、イギリス国民各層に消しがたいトラウマを残しつつ、それ以降の世代に貴重な教訓を与えることとなった。いつの時代の革命もそうかもしれないが、十七世紀のイギリスの革命がもたらした最大の果実は、革命は絶対に回避すべきという逆説的な教訓である。このとき以降、イギリスは忠実にこの教訓を守りつづけ、革命という痙攣的な社会の再編成を試みることはなかった。かつて革命がなければもたらされないと思われていた変化を、イギリスの人々は長い期間にわたる改革の積み重ねをとおして実現していくことになるのである。

名誉革命は実際には革命ではない、ということでしょう。

エドマンド・バークが『フランス革命の省察』で、名誉革命は世襲王政原理を何ら否定していない、カトリック復活と議会制度破壊を目論んだジェームズ2世こそが既存の伝統的原理を断絶しようとした「革命家」だ、いう意味の主張を展開していたことを思い出した。

考えてみれば、名誉革命でステュアート朝が終わったわけじゃないですしね。

ウィリアム3世もメアリ2世もアン女王もステュアート朝の君主です。

バーク曰く、君主の血統による王位継承に国家の安定が決定的に拠っているということを名誉革命の指導者たちは一瞬たりとも見失わなかった、それがピューリタン革命・フランス革命と名誉革命の差だ、と『省察』に書かれていました。

 

 

 

第六章、「内戦と革命の傷をいやす政治的力量 クラレンドン伯エドワード・ハイド」

本書の最後を復古王政の政治家ハイドで締めくくったこと自体が示唆的である。

イギリスに世界史上初の議会制民主主義をもたらした名誉革命をグランド・フィナーレとして、ピューリタン革命はその不可欠な前段階、復古王政は本来あるべきではなかった余分な回り道という通俗的史観から、完全に訣別していると感じる。

王政復古の立役者ハイドを著者は極めて高く評価している。

ハイドは1609年生まれ。

堅実なジェントリの家出身。

古典教育を受け、法学を学び、豊かな人文主義的教養と宗教的寛容の考えを持つ。

同時代を生きたホッブズへの批判もハイドは述べている(保守派のホッブズ評価については、クイントンの引用文参照)。

議会内穏健派として大抗議書に反対。

議会外の民衆運動と急進派の支配を懸念し、国王と議会の和解仲裁を目指すが、結局ヨークの国王陣営に身を投じる。

議会主権に反対し、あくまで立憲王政を主張。

「われわれ先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制、民主制の三つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が三つの身分間に存在するかぎり、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築きあげてきた。君主制の長所はひとりの支配者のもとに国民を統合し、その結果国外からの侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国のもっとも有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」

この言葉には完全かつ心の底から共感する。

これを先のロードや現代の凡庸な民主主義者の見解と比べれば雲泥の差がある。

常に妥協と和解を説いていたハイドだが、面白いことに1645年の時期には、軍の指揮権委譲や主教制度廃止を要求する議会側提案を拒否した。

この時期の妥協は王政の全面的後退を招きかねないとの理由で。

長期的に、規制された立憲王政復活の道を探る。

皇太子と共に大陸に亡命、亡命宮廷で地位を向上させ、宮廷のカトリックへの傾斜を阻止。

クロムウェル死後、国内が混乱する中、実力者モンク将軍と交渉、高校世界史でも出てくるブレダ宣言はハイドが起草したもの。

王政復古後、「三年議会法」は破棄されたが、星室庁や後見権などは復活せず、租税制度も革命時のものを引き継いだ。

1661年クラレンドン伯爵となり、大法官に就任。

元は寛容な宗教観を持っていたものの、クラレンドン法典と呼ばれる取締法規を制定。

クロムウェル時代に得たダンケルクを仏に売却。

第二次英蘭戦争(ハイド自身は和平派)での経済難で国民の不評を招く。

チャールズ2世の不興も買い、1667年失脚、亡命。

『イングランドの反乱と内戦の歴史』を執筆。

ハイドは、古典古代的教養、法学知識、マキャヴェリズムへの理解を混合させた優れた政治家であったと評されている。

「法の支配」「国王と議会の間の力の均衡」「政治と宗教を融和させた国教会」に支えられた伝統的国制が以後19世紀半ばまで安定と繁栄をもたらしたと評価。

ピューリタン革命が進歩への重要な契機と見なされていた頃、ハイドへの評価は低かった。

ウィッグ史観のトレヴェリアンもそう。

(だが上記リンク先での引用文で書かれている国体はまさにハイドが理想としたもので、言葉の真の意味での「共和政」であると思われる。)

しかし、調停と妥協を旨とするハイドの力量こそ、現代で最も必要なはず、と著者は記している。

 

 

 

エピローグ。

革命を含む、人類の試行錯誤が結果として民主化と進歩をもたらした。

よほどの超保守主義者や反動家でないかぎり、試行錯誤の総決算は政治の世界では今までのところは、黒字となっているはずである。

が、それは19世紀までの話で、20世紀以降は違う。

革命や戦争はもはや有効ではない。

(個人的には、果たしてそうか?、もう1789年以後の決算は赤字なのではないか?、と思ってしまうが。私は「よほどの超保守主義者」で「反動家」らしい。)

そうであるなら、強権的指導者、心情倫理に従う宗教家、視野の狭いテクノクラートを排し、慎重で冷静に妥協と協調と説得を行う政治家と国民に著者は期待をかけ、本書を締め括っている。

 

 

 

みすず書房らしい、しっかりとした堅実な作りで、実に安心して読める。

一つ一つの章は小伝といった具合の分量だが、読みやすく含蓄のある文章になっている。

類書が少なく貴重、かつ読書効用が極めて高い。

強くお勧めします。

2015年8月14日

冨田浩司 『危機の指導者 チャーチル』 (新潮選書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:23

著者は現役外交官の方。

時系列的な通常の伝記ではないが、通読すると大体チャーチルの生涯が見通せるようになっている。

しかし、前半はひたすらだるい。

知っていることが多くて退屈。

スペイン継承戦争の英雄マールバラ公ジョン・チャーチルを始祖に持ち、父ランドルフ・チャーチルは、自由党から転じたジョゼフ・チェンバレンと並ぶ保守党のホープで、蔵相まで務めた。

ランドルフと米国人の妻との間に、1874年ウィンストン・チャーチル誕生。

インド、スーダン(マフディの乱鎮圧)、ボーア戦争での従軍と冒険を体験し、妻クレメンティーンとは仲睦まじい理想的な夫婦関係を築く。

1900年保守党下院議員となるが、1904年には自由党に移籍。

貴族院たる上院だけでなく、下院も支配階級の子弟が無償奉仕する場となっており、19世紀末では下院議員は無給、結局議会政治の最先進国イギリスでは200程度の貴族の名家が社会を動かしていた。

(これが決して否定的に見るべきものではないことはユーゴー『レ・ミゼラブル』の記事参照。)

ロイド・ジョージと協力し、1911年海相就任。

第一次大戦中、1915年ダーダネルス海峡作戦失敗で海相更迭(ただしその後の上陸作戦での多大の犠牲はチャーチルの失敗ではないとされている)。

1917年ロイド・ジョージ挙国一致内閣で軍需相に就任するが、戦後1922年には落選の憂き目を見、1924年保守党に復党。

ボールドウィン内閣蔵相として金本位制復帰を断行するが、この政策は失敗というしかない。

ナチス・ドイツ台頭にあってはイーデン、ダフ・クーパーらと宥和政策に反対。

1939年9月開戦とともに海相として入閣。

当時のチャーチルの主張は排他的なほど空軍力増強に集中すべきだとするもので、軍事戦略的には大陸での決戦ではなくイギリス本土防衛に重点を置いた孤立主義的アプローチ。

戦略爆撃の威力を強調することは、チャーチルの意図とは逆に、宥和主義を助長した面もある。

チャーチルの主張通り、実際に空軍力だけでドイツを抑止できたかは疑問だとされている。

また、1938年ミュンヘン会談時点での戦略的優位は英仏と独のどちらにあったのか、という宥和政策の賛否に関わる重大問題がある。

一時的宥和によって稼いだ時間によって、新型戦闘機「ハリケーン」および「スピットファイア」を1940年のバトル・オブ・ブリテンに投入することが可能になり、それがイギリス本土防空戦の勝利をもたらしたことは事実である。

しかし、その間ドイツの軍拡ペースも向上していた、ミュンヘン協定破棄によってチェコのスコダ軍需工場もドイツは手に入れた、バトル・オブ・ブリテンはそもそも英仏海峡対岸をドイツが支配しなければ戦う必要が無かったものだ、という三点がチャーチルの宥和反対の論拠。

本書によれば、最新の研究でも結論は出ていないとのこと。

チャーチルの外交方針について、日本とイタリアに対しては宥和的姿勢を見せており、反ナチではあるが一貫して反ファシズムとは言い切れない、ただしドイツに対してはヒトラー政権成立以前から厳しい態度を示していた。

米英ソの「大連合」を基本的に楽観していたが、スターリンの判断には不透明な面があり、東欧諸国はミュンヘン以後でも反独より反ソ政策を優先する可能性があった。

一方、ネヴィル・チェンバレンの外交について。

チェンバレンは彼以前の戦略的曖昧さを放棄して、「戦略的宥和政策」から「確信的宥和政策」に転換したと評されている。

これはヒトラーを合理的取り引き可能な相手と見なすもの。

しかし、ズデーテン危機に当っては従来の「戦略的宥和政策」に則って、チェコと同盟関係にあったフランスに対応を一任し、仏独開戦の場合におけるイギリスの態度は事前に明言しない、という行動を採った方が、ヒトラーを抑止できたとの説を著者は紹介している。

もし「確信的宥和政策」を採るのなら、ミュンヘンで不可侵条約、軍縮交渉開始などより明確な代償をチェンバレンはヒトラーに要求すべきだった。

それは、イギリスの軍備の不充分さを考慮して弁護できるとしても、ミュンヘン以後もさらに宥和に拘ったのは明らかに不適切(最終的な開戦理由となったポーランドへの保障も、「ポーランドの独立」に対してのものであって「領土の一体性」ではなかった)。

チェンバレンは大英帝国の全般的地位低下を視野に入れ、最大限妥協して平和的環境を手に入れることを重視し、世論もそれを支持したが、ヒトラーは余りにも異常すぎた。

開戦後、ドイツは加担したソ連と共にポーランドを粉砕するが、西部戦線は「奇妙な戦争」と呼ばれる小康状態を保つ。

イギリスには、対外拡張抜きのナチズムの反共防波堤的性格を評価する向きがあり、ドイツ国内での軍クーデタによるヒトラー排除への期待感も持ちつつ、得られた貴重な時間で空軍力拡張を着々と進める。

1940年5月、ドイツ軍がノルウェー侵攻、西部戦線での大攻勢が始まる。

ここで(ミュンヘン協定には反対したものの)宥和派に近いと見られていた外相ハリファックスではなく、チャーチルが首相に就任したことは決定的意味を持つことになった。

ハリファックス自身が辞退したことと、国王ジョージ6世の任命が誠に当を得ていた。

機甲師団を中心に電撃戦を展開するドイツにフランスが惨敗する状況の中、まだ未参戦だったイタリアへ参戦阻止のメッセージが送られ、対独交渉自体にもハリファックスは含みを残すが、チャーチルは断固拒否。

実際、この瞬間ヒトラーは最も勝利に近づいていたかもしれない。

なぜなら当時ヒトラーが提出したであろう講和条件はイギリスにとって(少なくとも表面的に)破滅的とまでは言えないから。

ヨーロッパ大陸のドイツ、西半球のアメリカ、海洋帝国のイギリスで世界を三分する構想で、イギリスが海空軍力を制限し、親独的政権を樹立するなら、イギリスの独立自体は認めたはず。

しかし、チャーチルはこのような講和を断固拒否し、国民的団結を固めることに成功。

戦争指導について。

バルカンから攻め入る「地中海戦略」はあくまで限定的攻勢を目指したものであり、戦後のソ連の脅威も想定して東欧に米英軍を入れることを重視したとの考えは過大評価であり、あくまで当時の状況への対応に過ぎないとされている。

武器貸与法と第二戦線問題でルーズヴェルトと協調、スターリンへの「宥和」とフランスへの肩入れを持ち前の雄弁を振るって遂行。

1942年、戦後の福祉国家路線を敷いたベヴァリッジ報告を支持。

45年7月十年振りに行われた総選挙で敗北、退陣、51~55年に第二次政権を率いた後、65年死去。

前半と最後がややだるいが、中盤の外交論は面白い。

この記事でもそこを主にメモした。

予想よりは良かったが、しかしまずは(かなり古いが)河合秀和『チャーチル』(中公新書)を読んだ方がいいかもしれない。

2015年8月10日

小林章夫 齋藤貴子 『諷刺画で読む十八世紀イギリス  ホガースとその時代』 (朝日選書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 07:30

普段なら絶対手に取らない分野の本。

ウィリアム・ホガースという画家の絵を「読解」して18世紀イギリス社会を描写した本。

ホガースは1697年生まれ。

その生涯中にイギリスは、王統はステュアート朝からハノーヴァー朝に替わり、ウォルポールが責任内閣を組織し、フランスとの植民地争奪戦に勝利する一方、南海泡沫会社事件などの経済危機や政治腐敗も目だってきた。

ピューリタニズムの反動として信仰心が後退する傾向が見られたものの、同時にメソディストも台頭していた。

文学以外のイギリス芸術は長らく大陸出身者が主導しており、ヘンリ8世に仕えたホルバインや、チャールズ1世時代のファン・ダイクなどが代表者。

イギリス美術自立の先駆けとなったのがホガース。

代表作の「ビール街」と「ジン横丁」は見たことがある人もいるか?

そこでは賭博と動物虐待、酒の害と売春など、社会の暗部も描かれている。

ホガースは「芸術と道徳の不可分」を信じ、自ら社会慈善事業も行った。

 

読みやすい。

必読とまでは言わないが、社会史の本では悪くない。

気が向いたらどうぞ。

 

2014年12月5日

君塚直隆 『ジョージ五世  大衆民主政治時代の君主』 (日経プレミアシリーズ)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 08:03

『ヴィクトリア女王』(中公新書)と同じ著者。

イギリスの君主名は、高校世界史では中国王朝の皇帝名と並んで、かなりの数が出てくるが、それでもジョージ1世のハノーヴァー朝成立以後は、(ジョージ3世と?)ヴィクトリア女王を例外にして消えてしまう。

立憲君主制(議院内閣制)が定着し、政治的実権が失われていくからでしょう。

本書の主人公ジョージ5世も高校世界史では全く触れられない人物。

ヴィクトリア女王の孫で、第一次世界大戦前夜から戦間期にかけて(1910~1936年)在位した英国王。

皇太子アルバート・エドワードの次男として1865年誕生。

兄の死で王位継承者第二位に。

ヴィクトリア女王の長女がドイツ皇帝フリードリヒ3世(ヴィルヘルム1世の子)と結婚、その両者との間に生まれたのが有名なヴィルヘルム2世。

すなわち、ジョージ5世とはいとこの関係。

別のいとこが露ニコライ2世と西アルフォンソ13世に嫁いでいる。

ジョージ5世自身の第一子はエドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドリュー・パトリック・デイヴィッドと名付けられ、愛称は末尾の「デイヴィッド」。

次男はアルバート・フレデリック・アーサー・ジョージで愛称「バーティ」。

青年時代にバジョット『イギリス国制(憲政)論』を学び、自由党党首グラッドストンに親しむが、双方ともヴィクトリア女王自身は気に入らないものだったという。

語学と外交には苦手意識を持つ。

1901年ヴィクトリア女王崩御、ジョージの父エドワード7世即位。

王朝名を女王の夫でエドワード7世の父であるアルバート公の実家ザクセン・コーブルク・ゴータの英語名サックス・コーバーク・ゴータに変更。

ウィンザー朝への改名は高校教科書にも出てくるが、この時点での変更は無視されている。

似た事例として、マリア・テレジア女帝以降のオーストリアも、単なるハプスブルク家から、夫の出身を加えた、ハプスブルク・ロートリンゲン家に変わったはず。

エドワード7世は、即位同年に自治領となったオーストラリアを訪問、同時にニュージーランド、カナダへも立ち寄る。

1905年インドも訪問し、人種偏見に囚われない立場から現地住民との融和を模索する。

(ヴィクトリア女王は自身の即位50周年記念式典で、ハワイのリリウオカラーニ王女をエスコートすることを拒もうとした従弟のベルギー王レオポルド2世[コンゴでの圧制で国際的非難を受けた]を叱責し、エドワード7世もヴィルヘルム2世の人種的発言に不快感を持っていたという。)

完全独立には反対だが、インドにも自治権を与えるべきとの考えを抱いたという。

1905年ノルウェーがスウェーデンより平和的に独立、初代国王ホーコン7世と末の妹が結婚。

1910年ポルトガル共和革命、マヌエル2世は英国に亡命。

第一次世界大戦前には、ヨーロッパにおいても共和国は、スイス・フランスとこのポルトガルの3ヶ国のみである。

(サンマリノのようなミニ国家を除く。オランダは独立時にはネーデルラント連邦共和国だがオラニエ家が総督として君臨、ウィーン会議後は正式に立憲王国になっている。)

二度の世界大戦を経て、君主制を維持している国家は激減しましたが、これを「進歩」と呼ぶべきなのか、個人的には全く疑問です。

現在も立憲君主国家である、英・北欧・ベネルクス諸国と共和制になった大陸国家の歩みを比較すれば、そう考えざるを得ない。

英国の政権は、1895~1902年第三次ソールズベリー保守党内閣の長期政権の後、1902~05年バルフォア(保守)、1905~08年キャンベル=バナマン(自由)、1905~16年アスキス(自由・15年以降は挙国一致)、1916~22年ロイド=ジョージと変遷。

1906年労働党が結成され、議会にも進出。

1908年アスキス自由党内閣、ロイド=ジョージが蔵相、チャーチルが内相。

(チャーチルは1900年保守党員として政界入り、1904年自由党に移り、1924年保守党復帰。)

1909年不動産の相続税を増税する、いわゆる「人民予算」を提出。

煽情的な臭いのある内容に、地主貴族だけでなく、中産階級にも反対少なからず。

国王エドワードとジョージも不快感を持つ。

1910年総選挙で、自由党275議席、保守党273。

「人民予算」自体は貴族院を通過。

同年、再度の総選挙で自由・保守両党とも272で同数、労働党42、アイルランド国民党84の支持で自由党政権存続。

さらに1911年議会法(議院法)が成立。

予算・課税法案は下院通過のみで成立、それ以外の法案でも下院で三会期通過すれば成立すると規定。

加えて下院の任期を7年から5年に短縮。

下院の貴族院に対する優位を定めた歴史的な法と言える。

1910年政界混乱のさなかエドワード7世死去、ジョージ5世即位。

死の前、エドワード7世は保守党党首バルフォア、貴族院の保守党指導者ランズダウンに慎重な対応を促しており、これが翌年の議会法成立に大きく影響した。

著者はこれを極めて賢明な妥協と政治的調停であるとし、それによって貴族制は完全な破壊を免れたと評価している。

私は、政治に民意を(特に直接的に)反映させることが無条件で善であるという考えを一切持たないので、この辺の歴史を読んで、「下院の優位」が確定して民主化が進展したので目出度し目出度し、などとは全く思わないのだが、まあとりあえずは著者の言う通りなんでしょう。

民主主義の進展は(私の考えでは、本当に残念ながら)歴史の必然でしょうから、それに真正面から反対してぶつかるより、妥協と譲歩で、救えるものは救った方がまだマシです。

英国は今でも世襲と勅選による上院を(おそらく世界で唯一)維持してるんだから、それだけでも大したもんです。

日本でも数年前まで衆参両院の多数政党が異なることから生じる、「ねじれ国会の弊害」がよく言及されていました。

その時私が密かに思っていたのは、「いやそんな問題より、そもそも二院制の起源は、君主の下に貴族の代表である上院と庶民の代表である下院が集って、正当な議論と妥協によって政治を運営することが最も賢明だと経験的に知ったことでしょう、そもそも両院とも民衆の選挙で選ぶんなら二院制の意味が無い、下院は人口比例で、上院は州や県ごとで選ぶというのも本質から外れてる、実現可能性はゼロでも本当なら華族身分を復活させて、その世襲議員と勲功によって勅選される議員から上院を形成し、それを国民が選ぶ下院と並立・均衡させるべきなんですよ」ということでした。

まあ自由や民主主義が疑いの無い絶対的正義とされて、それに関する議論が一切許されない世の中では、狂人扱いされるのがオチですから、このブログ以外では何も言いませんがね。

外交面では、エドワード7世は1903年フランスを訪問、これが翌1904年英仏協商の露払いの役を果たす。

アスキス内閣外相グレイは、ジョージ5世にも仏訪問を進言。

国王自身は「共和国ごとき」に気を遣う必要は無いとして反対。

しかし即位翌年1911年第二次モロッコ事件で英仏はさらに接近。

1914年4月、最初の公式訪問はやはりパリとなった。

3ヵ月後にはサラエボ事件が起こり、偶然とは言え、この訪問は英仏間の結束を固めるのに重要な意味を持つことになった。

大戦中には、海相チャーチルと衝突、国王が懸念を持った1915年ガリポリ作戦は失敗し、その不安は的中する。

アスキスは優れた内政家ではあるが、外交・軍事面では指導力が無く、自党のロイド=ジョージ派とも決裂。

1916年、国王は、アスキスとロイド=ジョージ、ボナ=ロウとバルフォア(保守党)、ヘンダーソン(労働党)間を調停、そしてロイド=ジョージ挙国一致内閣が成立する。

1917年ロシア革命、ニコライ2世の亡命について、世論の反応を懸念したジョージ5世は反対、昔はロイド=ジョージが反対したと考えられていたが、最近の研究では逆だという。

1918年第四回選挙法改正で男子普選実現(女性は30歳以上、28年第五回で男女同権)。

大戦後、米国が圧倒的力を現わしてくるが、ジョージ5世は「アメリカの世紀」への嫌悪感を持ち、ウィルソンについて「あの男には我慢ならん。なんて冷徹な教授様なんだ。鼻持ちならん!」と語り、「粗野なアメリカ人(ヤンキー)」が大嫌いだったという。

二度の大戦を乗り切る為にはやむを得ない部分が多々あったとは言え、米国との国柄の違いを無視し、自国を同じ「民主主義国」と定義し、両国間の「特別な関係」を誇るようになってから、英国の本格的衰退が始まったと思えるのは、たぶん私の気のせいではないはずです。

1922年ボナ=ロウ保守党内閣、総選挙では労働党が野党第一党となり、アスキス派・ロイド=ジョージ派に分裂した自由党の没落が始まる。

1923年ロウが健康問題から辞任すると、国王は保守党内の対立を表面化させず、カーズンではなくボールドウィンに大命降下。

1924年マクドナルド率いる労働党内閣成立にも冷静に対処、意外にも国王とマクドナルドとは厚い信頼関係に結ばれるようになった。

ただしソ連承認問題では対立し、いわゆるジノヴィエフ書簡事件によって第二次ボールドウィン内閣成立(1924~29年)。

このボールドウィンというのは何か「合間の人」という印象ですね。

マクドナルドやネヴィル・チェンバレンという著名政治家の間に組閣しており、イメージがすぐ思い浮かばない。

実際さしたる手腕を発揮した人ではないそうですが。

マクドナルドと違い、個人的関係ではジョージ5世とボールドウィンはしっくりいかなかったが、1925年外相オースティン・チェンバレンが締結したロカルノ条約には満足の意を表明。

28年大病を患い、死の淵から生還。

29年第二次マクドナルド労働党内閣、この年もちろん世界恐慌。

31年失業手当削減をめぐって内閣危機、国王はマクドナルドを励まし、挙国一致内閣成立をサポートする。

この国王の行動について、学者のラスキらは、国制違反との疑義を呈したが、著者によると、国王は独断で首相を決定したのではなく、主要三政党指導層との会談を経ているし、時機を見て総選挙を行うことも決めていたという。

その総選挙で挙国一致派与党が圧勝、この結果に国王は歓喜した。

同じ年、31年に日本は満州事変という危機に直面していた。

細かな点を見れば状況は全く違うし、単純比較はもちろんできないが、表面的に見れば日本では政友会・民政党の大連立政権構想が挫折し、軍部を抑制することが以後著しく困難となった。

この場合、日本とイギリスの運命を分けたのは、イギリスが日本より「民主的」だったからではなく、逆に、平時においては庶民が従順どころか上層指導層に徹底的に不満をぶつけ反抗しても、危機においては象徴的国王の下に国民全体が一致団結する傾向を何とか維持したことによるのではないかと思える。

31年ウェストミンスター憲章、英連邦(コモンウェルス)成立、32年オタワ会議、スターリング・ブロック形成、35年ボールドウィン挙国一致内閣。

36年1月ジョージ5世崩御。

長男デイヴィッドがエドワード8世として即位するが、離婚歴のあるアメリカ人女性シンプソン夫人と結婚しようとしたため、退位、次男ジョージ6世が即位(1936~52年)。

「デイヴィッド」なのに「エドワード8世」になったのは上で記した長い本名から。

かなり前の新聞のベタ記事で、チャールズ現皇太子が「チャールズ3世」という名では即位したくない(1世・2世のイメージが良くないので)と書かれていましたが、これも長い本名があるのかな。

エドワード8世は謹厳実直なジョージ5世とは正反対の性格で、しかももっと悪いことに親独派の傾向があったので、結果としてはこれで良かったんでしょう。

ジョージ6世が第二次世界大戦を乗り切り、娘のエリザベス2世現国王が在位60年以上になります。

ハロルド・ニコルソン(『外交』の著者)が書いた『ジョオジ五世伝』を小泉信三が今上陛下に献上し、立憲君主の手本として共に読まれたそうです。

本書の第一次大戦前の王室外交の叙述を見ると、古き良き時代への郷愁に囚われる。

私は一般論として、立憲君主制の方が共和制より優れた政治制度だと確信している。

なぜなら君主や貴族が存在し、非民主的な国家の方が、「真の共和国」には近いと考えるから(『レ・ミゼラブル』の記事参照)。

もちろん君主の中にはヴィルヘルム2世のような暗君もいる。

この従兄弟がジョージ5世に比して思慮分別に欠け、国を誤ったことは間違い無い。

しかしヴィルヘルム2世の何が悪かったのかと言えば、統一後ドイツに蔓延する低俗・軽薄で夜郎自大のナショナリズムを抑制するどころか、その尻馬に乗って攻撃的な外交を繰り広げ、自国を孤立させたからだ。

このナショナリズムの主動者は下層民衆を含めた社会全体であり、ごく一部の指導者がドイツの国政を歪め、破滅に導いたとは絶対に言えないはずだ(『ドイツ史を考える』『ナチズム』等参照)。

大所高所に立ち、しばしば世論に逆らっても必要な措置を取ることこそ必要だった。

それをしなかったヴィルヘルム2世は非民主的だったのではなく、民主的だったとしか言いようが無い。

父のフリードリヒ3世の治世が長く続いていればとも言われるが、君主の主体的行動の余地がますます狭まり、世論に逆らうことがほとんど不可能になった近代社会で、果たして何ができたか・・・・・。
日本も似たようなものだったじゃないですか(古川隆久『昭和天皇』)。

 

あるドイツ人記者が「ドイツは第一次世界大戦で君主制の時代を乗り越えたが、日本はまだその段階にある」と発言したのを読んだことがあります(別の人物が書いた文章で知ったことなので、正確ではないかもしれませんが)。

それを読んで、言うを憚る感情に囚われたのを覚えています。

1913年のドイツ帝国と1949年の連邦共和国を比べて、「少なくともカイザーはいなくなったんだから、間違いなくそれだけは進歩だ」というのは、私には異常な歴史観に思える。

二度の大戦もホロコーストも赤軍の暴虐も東半分の共産化も、そのための試行錯誤だとでも言うつもりか。

ナチズムを含め、近現代の世界を滅亡寸前まで追い込んだ邪悪と狂信は、前近代的な支配層の中からではなく、すべて大衆の真っ只中から生まれたものである。

私ならば、ナチズムの起源は1862年(ビスマルク)でも1871年(ドイツ帝国)でも、1517年(ルター)でもなく、1793年(ジャコバン独裁)と1871年(パリ・コミューン)だ、我々の祖先はそれを否認し鎮圧する誇り高い立場だったんだと言うでしょう。

 

 

『ヴィクトリア女王』に比べるとやや物足りない気もするが、標準的で手頃な伝記。

初心者が読むテキストとしては十分。

お勧めします。

2013年2月26日

桜井俊彰 『イングランド王国前史  アングロサクソン七王国物語』 (吉川弘文館)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 11:59

「歴史文化ライブラリー」というシリーズの第308巻。

このレーベルでは以前『スカルノ』を読んだことがある。

本書は6世紀後半から10世紀にかけて存在したイングランドのアングロサクソン七王国(ヘプターキー)についての、極めて平易な概説。

著者は大学の研究者ではなく、個人的英国史研究家といった方らしい。

そのせいか、非常に平易で親しみやすい文体。

これ以上無いほど読みやすい歴史物語となっている。

この前の、『儒教と中国』に比べると、その差が際立つ。

あー、自分はやはりこういう本の方が向いてます。

まず、超初心者レベルの事項を確認。

いわゆる「イギリス」は、イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの四つから成る。

後ろ三つがケルト系、イングランドはアングロサクソンでゲルマン系と大掴み。

地理的には大ブリテン島とアイルランド島があって、大ブリテン島の中南部がイングランド、北部がスコットランド、西部のやや狭くへばり付いている感じの地域がウェールズ。

民族区分では、まず最初に居たのがケルト人。

正確には文字通りの先住民族ではなく、ケルト人自身、他地域より移動してきたものだが、歴史記録を残したローマ人と接触したときに、ブリタニア・ガリア・ヒスパニアなど西欧地域に広く分布していたため、何となく「ヨーロッパの先住民」のようなイメージがある。

最も巨視的に見ると、ケルト→ローマ(ラテン)→ゲルマンという民族推移と三者の融合がヨーロッパで行なわれたが、この三者はすべてインド・ヨーロッパ語族。

他に欧州に侵入した民族として、フン・アヴァール・マジャール・フィンなどが非印欧系、イスラム化の流れに乗って攻め入ったアラブ人はもちろんセム系、加えてユダヤ人もセム系。

ブリテン(ブリタニア)に焦点を移すと、まずケルト系のブリトン人が在住。

ユリウス・カエサルの遠征後、1世紀にクラウディウス帝によって恒久的にローマ帝国の一部となり、ブリトン人がローマ化。

その北部のピクト人と、アイルランドのスコット族は頑強にローマに抵抗し、その支配下に入らず。

ピクト人は民族系統不明、ケルト系との説もあるが確証は無く、バスク人のように全く系統不明らしい。スコット族はケルト系。この両者が融合してスコットランド人が生まれる(森護『スコットランド王国史話』参照)。

5世紀にローマが衰退するとブリトン人がピクト人の侵入に対抗するためアングル・サクソン・ジュートなどのゲルマン系諸民族を呼び寄せる。

イングランドではブリトン→ローマ→アングロサクソン→デーン→ノルマン(朝)と、侵入者・征服者の層が積み重なっていく。

(デーン人というのはイングランドでのノルマン人の呼び名ですから、最後の矢印は変かもしれませんが、ノルマン・コンクェストという大きな区切りがあったということでこう書きました。ヴァイキングという呼び名もありますので、ノルマン=ヴァイキング=デーンと頭に入れておいて、この三者は基本的に同一の民族を指すんだと憶えておく。)

史料として、ベーダ『イングランド人民の教会史』と『アングロサクソン年代記』、アッサー『アルフレッド大王伝』(中公文庫に翻訳あり)の書名を軽くチェックした後、高校世界史で出てくる以下の人名を整理。

アーサー王=アングロサクソンと戦ったブリトン人の伝説的指導者。

エグバート=七王国を統一したウェセックス王(アングロサクソンの)。

アルフレッド大王=デーン人を撃退したウェセックス王(アングロサクソンの)。

クヌート(カヌート)=イングランド・デンマーク・ノルウェーを支配したデーン人の王。

ウィリアム1世=クヌート死後復活したアングロサクソン王国を征服したノルマンディー公。

アーサー王、アルフレッド大王、クヌートで、侵入側と防御側が一つずつずれていることを確認。

再度、ヨーロッパ史を巨視的に見ると、ゲルマン民族大移動で西ローマ滅亡→各地にゲルマン諸国家成立→内紛と東ローマの反撃、イスラム侵入などでその多くが滅亡→フランク王国による統一(800年カール戴冠)→大帝死後の分裂→ノルマン(北ゲルマン)とマジャールによる第二次民族大移動→ノルマンディー公国とそのイングランド征服、シチリア王国、ノヴゴロド国成立、封建制に基づく各地の中世王国形成、という具合になり、こういうストーリーを頭の中で再現できるようになれば基礎は身に付いたと言える。

(「第二次民族大移動」という言葉は最近の教科書ではあまり見ない気がしますね。なぜだろう。)

七王国の名前と位置は、ドイツ金印勅書の七選帝侯と違って、高校世界史では出てこない。

まず大陸に最も近い南東部に、国教会の中心地カンタベリーを擁するケント。

その西側で、北にロンドンのあるエセックス、南にサセックス。

さらに西に向かうとウェセックス(ウェスト・サクソンの意。するとサセックスは南サクソン、エセックスは東サクソンか)。

北に向かい、北海に面したイングランド東部で瘤のように突き出た地域がイーストアングリア。

その西、中央部にマーシア、さらに北上してピクト人に接する地域がノーサンブリア。

上記七王国のうち、ケントはジュート族、エセックス・サセックス・ウェセックスはサクソン族、イーストアングリア・マーシア・ノーサンブリアはアングル族の国。

本書では、エセックスとサセックスは史料・エピソード共に乏しいので、単独の章では扱われていない。

以後、残り五つの王国について叙述されており、かなり細かい経緯と王名が記されているが、さすがに面倒なので、ここでメモするのは止めておく。

覇王の順として、サセックスの始祖アエラ→ウェセックスのケアウリン→ケントのエゼルベルト→イーストアングリアのレドワルド→ノーサンブリアのエドウィン→同オスワルド→同オスウィ→ウェセックスのエグバートという名だけ書く。

エグバートは802年即位、一時王位を追われ、シャルルマーニュの下へ亡命、復位後イングランドを統一。

その孫のアルフレッドが871年即位、デーン人に王宮を追われるほどの苦境から逆転し大勝、デーン人と協定を結び、イングランド北部と東部への定住化とキリスト教への改宗を義務付ける。

899年の死までイングランド統一に努める。

イギリス史上、「大王」の称号を持つのはアルフレッド一人だと書いてあって、ああそう言えばそうかと思った。

なお、シェイクスピア『ヘンリー五世』の記事で、男系女系に拘らなければノルマン朝以後のイギリス王室もある意味「万世一系」だと書きましたが、本書によるとウィリアム1世の妻がアルフレッド大王の血筋なので、正確にはこのウェセックス王国から「万世一系」との事。

現王室の源流としてウェセックスを含むアングロサクソン王国があることから、王室ファミリーでもチャールズ、ヘンリよりもエドワードという名に、国民は特別な感情を持ってきたと書いてある(チャールズ[シャルル]、ヘンリ[アンリ]はフランス起源の名でエドワードはアングロサクソン名)。

ここで思い出したのが、「フィリップ」はフランスではありふれた名前であり、それで古代ギリシア史でアレクサンドロス大王の父「フィリッポス2世」を高校教科書で見たとき、何となく違和感を覚えたものですが、当然これは年代から見て逆で、そもそもフィリッポスがギリシアでありふれた名であり、それがビザンツ帝国とフランス王室との婚姻関係でフランスに持ち込まれ、当初「フィリップ」という名は極めて異国風に響いたと、佐藤賢一『カペー朝』に書いてあったこと。

非常に良い。

著者も言うように、一般読者向けの七王国の本は、これまでほぼ絶無なので、本書はこの上なく貴重。

ただし初版では細かなミスもあり。

9ページに「アントニス・ピウス帝」とあるが、これはもちろん「アントニス」です。

31ページにアーサー王のモデルとなった可能性のある人物として「アンブロシウス・アウレリヌス」という名が出ているが、その4行ほど後には「アウレリアヌス」 とあって、どっちが正しいんですかとがっくりくる。

校正の方にもう少し頑張って頂きたい事例です。

そういう瑕疵もあるが、基本的には良書。

できればクヌートやノルマン征服まで書いて欲しかったが紙数からいって無理か。

しかし、熟読玩味する価値のある書。

強く勧める。

2010年10月17日

杉浦昭典 『海賊キャプテン・ドレーク  イギリスを救った海の英雄』 (講談社学術文庫)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:00

この人もそこそこの重要人物の割には手ごろな伝記が無いなあと思っていたところ、少し前にこれが出たので借りてみた。

あとがきと巻末の記述を見ると、1987年に中公新書で刊行されたものの文庫化とのこと。

不覚にも新書で出ていたことに全然気付いていなかった。

最初はマゼランを中心とした大航海時代の概略。

この人物についてはシュテファン・ツヴァイク『マゼラン アメリゴ』(みすず書房)という最高に面白い本がありますので、それを強くお勧めします。

地理的なことで、大航海時代初期にスペイン・ポルトガルの拠点となった大西洋の島嶼名をここで少しメモ。

まずアフリカ北西岸沖にマデイラ諸島。

そこから北西に進むとアゾレス諸島。

マデイラから南下してカナリア諸島。

さらに南に進み、アフリカ最西端沖にあるのがヴェルデ岬諸島。

以上のうちカナリア諸島のみスペイン領、他はみなポルトガル領となる。

本書の主人公フランシス・ドレークは1540~45年の間に生まれる(下層階級出身なので正確な生年すらはっきりしない)。

小作農民でプロテスタントの熱心な信徒の家。

そのためメアリ1世時代(1553~58年)には息を潜めるように暮らす。

1558年エリザベス1世即位。

この時期のイギリスの有名な航海者としてまずウィリアム・ホーキンズがいる。

ブラジル・ギニアへの密貿易で成功、プリマス市長となり、のちに同名の息子ウィリアムも同市長になっている。

もう一人の息子がジョン・ホーキンズで1562年より数度にわたって新大陸への奴隷貿易を行い、交易を拒否された場合は武力で攻撃・略奪・貿易強制を遂行した。

このホーキンズの下で、ドレークは航海者としての活動を始める。

1572~73年にドレークは中米パナマでシマローン(逃亡奴隷)と協力して大量の金銀を奪取することに成功。

ちょうどこの頃は、ユグノー戦争(1562年~)、オランダ独立戦争(1568年~)、サンバルテルミの虐殺(1572年)など新・旧教国間の対立が激化していた時期だが、エリザベス1世はスペインとの決定的対立を避け、ドレークもしばし姿を消す。

1577年再び海に出たドレークはスペイン領を荒らし回りながら1580年にかけて世界周航を達成。

帰国後、プリマス市長と下院議員に。

1585~86年には西インド諸島を攻撃、87年にはスペインのカディス襲撃。

そして運命の年1588年にメディナ・シドニャが指揮するスペイン無敵艦隊(アルマダ)が出撃。

迎え撃つのは英海軍長官チャールズ・ハワードが司令を務める下に、ホーキンズ、ドレーク、フロビッシャーの三提督。

アルマダは同年7月に英国沿岸に達するが懸念されたプリマスへの即時攻撃は行わず、オランダで戦うパルマが指揮する陸兵との合流を目指す。

艦隊はカレー沖に投錨するが、すぐ近くのパルマ軍はオランダ海軍に押さえられて合流できず、その間に英国海軍が焼き討ち船を突入させてアルマダは大損害を受ける。

続く追撃戦であるグラーベリーヌ海戦でもイギリスは大勝。

アルマダは英国諸島を北回りに迂回して逃げ帰る。

スペイン到着時には艦隊の船は半分、3万の人員は1万になっていたという。

主な戦いは、以上カレー沖海戦とグラーベリーヌ海戦の二つだが、高校時代から不思議に思うことに、この戦争の総称としては地名が付かない「無敵艦隊の敗北」か「アルマダ海戦(戦争)」と呼ぶしかないようです。

余勢を駆って翌1589年ドレークはリスボン(1580年以降だから当時のポルトガルはスペインに併合されている)を攻撃するが、これには失敗、ドレークはしばらく陸に上がる。

一方この時期にイギリスの私掠船活動は最高潮に達し、その収益は年間輸入額の10倍にもなったなんて「ホントですか?」と思うようなことが書かれている。

1595年ドレークとホーキンズは中米遠征に出発するが、ホーキンズは病死、思わしい戦果が得られないままドレークも病に倒れ現地で死去する。

割と良い。

量的にちょっと物足りない気がしないでもないが、楽に読めるのは長所。

ざっと読んで知識を仕入れるのに適した本でしょう。

2010年8月3日

イギリス東インド会社についてのメモ

Filed under: おしらせ・雑記, イギリス, インド — 万年初心者 @ 06:00

浜渦哲雄『イギリス東インド会社』(中央公論新社)の記事続き。

ベンガル・ビハール・オリッサ徴税権を手に入れたものの、統治費用の増大から東インド会社はかえって倒産の危機に陥る。

イギリス政府が支援に乗り出し、1773年ノースの規正法制定。

政府が会社の監督を強化、ベンガル総督を設置しボンベイ、マドラスの上位にあって全インドを総攬することとする。

1784年ピットのインド法でインド庁設置、会社権限をさらに縮小。

1813年東インド会社の(インドでの)貿易独占権廃止、33年中国での貿易独占も廃止、商業活動を停止(この二つは高校教科書にも載っているが、たいていインド植民史とイギリスの自由主義改革の部分に分かれて出てくる)。

軍隊について。

国王軍と会社軍の並立。

国王軍はイギリス人のみで構成、会社軍は白人兵のみの部隊もあるが、数の上では将校がイギリス人、兵士がインド人の部隊が圧倒的。

宗教・カースト・民族が違えばイギリス人の指揮下で同じインド人と戦うのもさしたる抵抗が無かったのだろうが、考えてみればイギリスが長州・薩摩人を率いて徳川幕府を倒し日本を植民地化するようなものですよね。

根本的な価値観の共有と同胞意識の涵養がいかに重要かを再認識します。

官僚制について。

ICS(インド高等文官)制度に関して、初期は会社役員の縁故採用が多かったが、のちにイギリス本国の官吏採用よりも早く公開試験制を導入したとか、そのようなことが書いてある。

末尾は簡略なインド総督列伝。

最初はまだ総督ではなくベンガル知事のクライヴ(1758~60、65~67年)から。

プラッシーの英雄、社員の綱紀粛正に取り組むが敵も多く、帰国後反ネイボップ(インド成金)感情もあって汚職と権力濫用を議会で糾弾され自殺。

ウォーレン・ヘイスティングス(1772~85年)=ベンガル知事から初代ベンガル総督に就任。マイソールのハイダル・アリ、ハイデラバードのニザーム(藩王)、マラータ諸侯の間を離間し、マイソールに攻撃集中。

チャールズ・コーンウォリス(1786~93、1805年)=第3次マイソール戦争でハイダル・アリの息子ティプ・スルタンを破る。インドに来る前は確かアメリカ独立戦争で英軍を率いて敗れているはず。

ジョン・ショア(1793~98年)=不介入政策、財政健全化。

リチャード・ウェルズリー(1798~1805年)=1799年第4次マイソール戦争に完全勝利、ティプ・スルタン敗死。ワーテルローの英雄ウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)は弟。(ウェリントンの本名とこのベンガル総督の存在は知っていたが血縁関係自体は全然知らなかった。)

ミントー(1807~13年)=ナポレオン戦争中にジャワ占領、配下のラッフルズが1819年シンガポール建設、東南アジア英植民地の端緒を作る。

モイラ(1813~23年)=グルカ(ネパール)戦争、第3次マラータ戦争。

アマースト(1823~28年)=第1次ビルマ戦争。

ベンティンク(1828~35年)=サティ(寡婦殉死)禁止、会社の商業活動停止、ベンガル総督の名称がインド総督へ。

オークランド(1836~42年)=第1次アフガン戦争。

エレンボロー(1842~44年)=アフガン撤兵、インダス川下流シンド地方併合。

ヘンリー・ハーディング(1844~48年)=第1次シク戦争。

ダルフージ(1848~56年)=第2次シク戦争・パンジャーブ併合、第2次ビルマ戦争。

チャールズ・カニング(1856~62年)=インド大反乱、会社解散。

以上細かな年代はともかく、イギリス支配地が18世紀半ばベンガル→18世紀末南インド・マイソール、19世紀第一四半期中部インド・マラータ→19世紀半ば北西インド・シクと広がっていったことを戦争の順番と共に憶えるといいでしょう。

それほど悪いとも思わないが、かと言って特筆すべき内容があるわけでもない。

浅田實『東インド会社』(講談社現代新書)と比べると新しい知識や見解が盛り込まれてはいるんでしょうが、私のような初心者がそれを十分汲み取れるかというと心もとない。

それと、この薄さの単行本で定価2310円というのも随分高く感じる。

まあ普通ですね。

2010年8月1日

浜渦哲雄 『イギリス東インド会社  軍隊・官僚・総督』 (中央公論新社)

Filed under: イギリス, インド — 万年初心者 @ 06:00

本文200ページ足らずのごく短い本。

著者には『英国紳士の植民地統治』(中公新書)、『大英帝国インド総督列伝』(中央公論新社)などの著作有り。

後者を読もうとしてそのまま放ったらかしだった。

前書きで、これまでイギリスのインド統治は否定的に捉えられがちであったが、最近のインドの急速な経済発展とともにその遺産が再評価されているとの記述にややギョッとする人もいるかもしれないが、本文中にはそうした視点は強く浮き上がってはこない。

「インド史の最大のアイロニーに一つは、インドがイギリス政府でなく、民間人が所有する特許会社によって征服されたことである」(T・パーソン)

という記述を裏書して、その過程を辿っている。

イギリス東インド会社は1600年ちょうどという憶えやすい年代に設立。

ロンドンと東洋(アフリカ喜望峰と南米ホーン岬間)の貿易独占特許を持つ。

オランダ東インド会社が1602年、フランス東インド会社が1604年と二年刻みの設立だというのは高校世界史でも出てきます。

フランス会社が不振で即解散したのは周知ですが、航海ごとに出資・清算を繰り返していたイギリス会社もこの時期はオランダに圧倒されていた。

1623年アンボイナ事件が起こるが軍事力劣勢のためオランダへの報復を断念、東南アジアから撤退しインド進出を目指す。

インドでのイギリスの三大拠点は、名前はもちろん位置関係も高校レベルでも確実に記憶しなけりゃいけませんでしたね。

ガンジス川下流ベンガルにあるカルカッタ、東海岸コロマンデル海岸沿いのマドラス、西海岸北寄りのボンベイ。

恥を忍んで言うと、高校生の頃しばらくの間、ヴァスコ・ダ・ガマが到達した西海岸マラバール海岸沿いのカリカットと上記カルカッタを混同してました。

これに対しフランスの拠点二ヶ所も重要暗記事項。

カルカッタ近くのシャンデルナゴル、マドラス近くのポンディシェリ(「近く」といっても全インドが入る地図で見ればの話ですが)。

高校時代どっちがどっちだったかなと迷ったときには、五十音順で「シ~」が上(北)、「ポ~」が下(南)だと無理やりゴロ合わせしてました。

イギリスの最初の拠点はボンベイのさらに北にあるスーラトと、マドラスよりかなり北のマスリパタム。

それぞれ1613年、1611年に商館建設(前者には異説があるらしい)。

ムガル朝はアクバルが1605年死去、ジャハンギール帝時代(~27年)。

マスリパタムの商館建設に許可を出したのはゴールコンダ王国という地方のイスラム政権。

この王国は後にアウラングゼーブ帝に滅ぼされる。

スーラト進出後、先行していたポルトガルとの衝突が起こる。

ムガル帝国はその最盛期においても海軍は弱体で、この時期アラビア海の制海権はポルトガルに握られ、メッカ巡礼や紅海貿易にはポルトガルの許可証が必要だったと書かれてある。

数度の戦闘と交渉の後、イギリスが制海権把握。

1640年マドラスに要塞建設、1661年チャールズ2世がポルトガル王室キャサリンと結婚、その婚資としてボンベイ獲得。

1664・70年マラータのシヴァージーがスーラトを襲撃、大きな被害が出ると、英国の西海岸の拠点はボンベイへ移る。

進出が遅れていたベンガルにも1697年カルカッタに商館兼要塞を建設。

フランスは1664年コルベールが東インド会社を復興させた後、イギリス嫌いのアウラングゼーブ帝の支援を得てシャンデルナゴル、ポンディシェリに拠点獲得。

18世紀初頭アウラングゼーブ死後、ムガル帝国は分裂・崩壊、群雄割拠の状態となりここから東インド会社の領土的拡大が始まる。

高校時代から思ってましたが、このムガル朝分裂の急激さは一種異様とも感じます。

古代以来の最大版図からあまりに極端な転落は世界史上極めて例が少ないような・・・・・・。

何か理由があるんでしょうか?

英仏が南インドで衝突、オーストリア継承戦争、七年戦争と連動して1744~63年三次に亘るカーナティック戦争。

インド植民地化の過程で起こった戦争は第○次と付くものが非常に多く、それがややこしいんですが、とりあえずは細部はパスしますか。

ムガル朝から事実上独立していたベンガル太守がイギリスと対立、太守に妥協的姿勢をとったフランスと連携、1757年有名なプラッシーの戦いが起こる。

ロバート・クライヴ指揮の英軍が太守・仏連合軍を破り、インド植民地化の基点となった戦いだが、その規模は極めて小さく小競り合い程度。

兵力こそ英側3000、太守側5万を動員しているが、戦死者が英側7人、太守側16人と書かれているのを見ると、「ホントかよ???」と目を疑ってしまう。

上記アンボイナ事件と並んで、実際の規模と後世の影響とが著しく乖離した出来事と言えるのかもしれない。

1758年クライヴがベンガル知事に就任。

クライヴが一時帰国中、イギリスが立てたベンガル太守が反抗、ムガル朝および隣国アワド国王と同盟、1764年バクサルの戦いで三者連合が英軍に敗北。

ヨーロッパの軍事的優勢をまざまざと示したものとしては、プラッシーよりもこのバクサルの戦いの方が重要だと、中公世界史全集の『ムガル帝国から英領インドへ』では書いてあった。

インドに戻ったクライヴの交渉を経て、65年ベンガルとそれぞれ北西と南西に隣接するビハール、オリッサの徴税権を獲得、実質領土化。

ベンガル獲得がプラッシー戦の直後ではなくワンクッション置いていることは頭の片隅に入れておいた方が良い。

この短い本で複数記事を書くとは思ってませんでしたが、終わらないので続きます。

(追記:続きはこちら→イギリス東インド会社についてのメモ

2010年1月21日

ウィリアム・シェイクスピア 『リチャード三世』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 06:00

『ヘンリー五世』に続けてこれを読む。

ランカスター朝と同じく、ヨーク朝の国王も3人。

まずエドワード4世、エドワード5世父子。

次がエドワード6世ならランカスター朝国王の名が皆ヘンリなのと同じく記憶しやすかったのだが(しかも○世の部分まで対になってる)、最後はエドワード4世の弟で5世の叔父に当たるリチャード3世。

(「実際のエドワード6世」はヘンリ8世の病弱な息子で、続けてメアリ1世、エリザベス1世が即位することになる。)

このリチャード3世は、最後にヘンリ7世ことリッチモンド伯ヘンリ・テューダーに敗れたということからくる過度の脚色もあるんでしょうが、とにかく極悪非道・残忍・狡猾な怪物的暴君としてその名を知られている。

イギリス史上、失政のオンパレードだったジョン王の後、「ジョン2世」は結局現れませんでしたが、リチャードという名の王も、このリチャード3世以後出てこない。

チャールズ皇太子とダイアナ妃との間のお子さんは、確かウィリアム王子とヘンリ王子でしたから、近い将来「リチャード4世」が登位する可能性も無い。

それはひょっとして、このリチャード3世のイメージが悪過ぎるからかなと想像してしまう。

本作品の記述に従えば、とにかくやることなすこと、恐ろしい醜行の連続である。

まずグロスター公として、兄エドワード4世に従い、ヘンリ6世の息子エドワードを敗死させ、ヘンリ6世を捕らえ幽閉した後殺害。

エドワード4世の病が重くなると、王に讒言し、もう一人の兄クラレンス公ジョージを投獄させ、密かに暗殺者を派遣してこれを殺害。

1483年エドワード4世が死去し息子のエドワード5世が登位するが、リチャードは即、甥から王位を奪い、ロンドン塔に幽閉、4世王妃で5世の母エリザベスの弟と連れ子(王妃は再婚だったので)を殺害。

エドワード5世と弟のヨーク公リチャードも結局殺害。

かつて自らが敗死させたヘンリ6世の皇太子エドワードの妻アン・ネヴィル(「キング・メーカー」国王製造人と呼ばれ、最初ヨーク家陣営の有力者だが、その後内部対立から一時ヘンリ6世を復位させ、次いで敗れたウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘)を、リチャード3世は言葉巧みに籠絡し彼女と再婚していたが、この妃も本書の描写によればリチャードに殺されたことになっている。

おぞましい悪行がこれでもかと述べられていくと、読者は誰でもヘンリ7世を救い主と感じるでしょう。

(しかし福田恆存『私の英国史』によれば、以上のリチャードの行為とされるものには証拠が無く疑わしいものも含まれているので慎重な検討が必要だとのことです。)

ヘンリ7世ことリッチモンド伯ヘンリはランカスター家に連なる人物。

仏国王シャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)とヘンリ5世が婚約したことは『ヘンリー五世』の記事でも触れましたが、両者の間にヘンリ6世が生れて、ヘンリ5世は短い治世で死去。

カトリーヌ王妃がオーウェン・テューダーという人物と再婚し、そこから生れたリッチモンド伯エドマンド・テューダーがヘンリ7世の父。

母方の家系を辿ると、ランカスター家の祖であるジョン・オヴ・ゴーントの息子で、ヘンリ4世の腹違いの兄弟に当たるサマセット伯ジョン・ボーフォートという人物がおり、その孫のマーガレット・ボーフォートがヘンリ7世の母。

フランスに亡命していたリッチモンド伯ヘンリがイギリスに上陸、1485年ボズワースの野でヘンリとリチャード3世との決戦が行われ、ヘンリが勝利、リチャードは敗死。

ヘンリ7世が、殺害されたエドワード5世とヨーク公リチャードの妹エリザベスと結婚、ここにランカスター家の赤バラとヨーク家の白バラが一つに結ばれ、テューダー朝が成立、両者からはヘンリ8世が生れる。

非常に面白い。

どこまでが史実でどこからがフィクションか慎重に構える必要もあるが、リチャードのあまりに凄まじい人物造形に、強烈な印象を受ける。

文学的な価値を十分鑑賞できたかはともかく、強く心に残る作品だったのは間違いない。

シェイクスピアの史劇を比較的短期間に三つ読みましたが、どれも興味深く読めました。

バラ戦争の複雑な過程を頭に入れるのに非常に適切な本です。

台詞の中でさりげなく登場人物の家系や相関図を述べており、それらが無理なく頭に入る。

本書の末尾の系図も大変見やすく整理されているので、頻繁に参照すべき。

上記『私の英国史』も詳細でしっかりとした記述が役に立つ本ではあるが、説明が凝縮されているので、一読しただけだと人物とストーリーを頭に入れることが難しい。

本書のような文学作品で地ならしをしてから取り組むと、より記憶しやすいでしょう。

2010年1月14日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー五世』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 06:00

『リチャード二世』に続いてこれを読む。

リチャード2世廃位でプランタジネット朝が終焉した後を継いだランカスター朝の国王は3人。

ヘンリ4世、ヘンリ5世、ヘンリ6世。

全員名前が「ヘンリ」で、しかも王位継承が二回とも、ストレートな父子継承なので覚えやすい。

(これよりも「一つ前のヘンリ」はジョン王の息子で、シモン・ド・モンフォールに反乱を起こされたヘンリ3世、「次のヘンリ」はバラ戦争を終結させテューダー朝をひらいたヘンリ7世。)

シェイクスピアの作品には、『ヘンリー四世』と『ヘンリー六世』もあるが、前者は2部構成、後者は3部構成で読むのが面倒臭いというひどい理由で本書を選んだ。

リチャード2世からヘンリ4世への王位の移動は確かに「簒奪」としか言い様の無いものだが、エドワード3世→ジョン・オヴ・ゴーント→ヘンリ4世と男子直系で繋がっており、この前の佐藤賢一『カペー朝』(講談社現代新書)の記事で、カペー・ヴァロワ両王朝について書いたのと同じく、これで王朝が変ったことになるのかなあと思った。

福田恆存『私の英国史』でも、ランカスター朝とヨーク朝を単にプランタジネット朝の継続と見なす見解が紹介されていた。

そもそも中国の「易姓革命」のように、基本的に前王朝と何の血縁関係もない一族が新たに王朝を建てるという感じではない。

男系・女系に拘らなければ、ノルマン朝から現王朝までのイギリス王室も(カペー朝から大革命までのフランス王室も)、ある意味「万世一系」である。

本書の主人公、ヘンリ5世はヘンリ4世の息子で、1413~22年の間在位。

(当時、ドイツではジギスムントがコンスタンツ公会議を開いていて、中央アジアではティムール没後間もなく、中国では明の永楽帝が在位していた頃。)

在位期間は短いものの、この王の治世は、百年戦争でイギリスが最も優位に立った時代である。

英仏間の休戦が破棄され、1415年アザンクールの戦いで、戦争初期のクレシーおよびポワティエの戦いに並ぶ、決定的勝利を得る。

1420年トロワ条約で、ヘンリ5世はシャルル6世の娘カトリーヌと結婚、フランス王位継承権を獲得、とうとうヘンリの下、英仏両国が合併するのかと思われたが、わずか二年後ヘンリ5世は死去、イギリスの勝利は水泡に帰す。

ヘンリ6世(1422~61年)が跡を継ぐが、同1422年仏国王シャルル6世も死去、ジャンヌ・ダルクが登場し、王太子だったシャルル7世が戴冠する。

結局フランス優位のうちに1453年百年戦争終結、その同じ年にヘンリ6世は精神に異常をきたす。

(ヘンリ6世は上記仏王女カトリーヌの子なので、同じく精神を病んだ祖父シャルル6世の遺伝とも言われる。時期がかなりずれるが英仏とも[ヘンリとシャルル]「6世」が精神を病み国政が乱れて、「7世」が混乱収拾と覚える。)

百年戦争終結から間もない1455年バラ戦争が始まり、61年ヨーク家のエドワード4世が即位、その後も紆余曲折があったが(ヘンリ6世が捕虜になったり、救出されて復位したり、また敗れて捕らえられたり、この経緯は上記『私の英国史』を読み返すと頭が痛くなります)、最終的にヘンリ6世は幽閉・殺害される。

リチャード2世の廃位から始まったランカスター朝がこういう終わり方を迎えたのは因果応酬というべきか。

ヨーク家の系図は、エドワード3世→ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリー→ケンブリッジ伯リチャード→ヨーク公リチャード・プランタジネット→エドワード4世。

ランカスター家は、エドワード3世→ジョン・オヴ・ゴーント→ヘンリ4世→ヘンリ5世→ヘンリ6世。

よってエドワード4世は、ヘンリ6世と概ね同世代か。

直接本書と関係無いことをあれこれ書きましたが、これもなかなか面白いです。

『リチャード二世』ほどには感銘を受けませんでしたが。

フランスとの戦争再開決断から始まり、後半部クライマックスのアザンクールの戦いを経て、仏王女との婚約が成就するところでおしまい。

基本、人生の浮き沈みの無い、王の成功を描写しているので強い印象は受けない。

よってイギリスの王位継承争いを知るには『ヘンリー六世』を読んだ方がいいのかもしれないが、上記の複雑さを思うとつい面倒だなと感じてしまう。

気が向いたら、いつかは読もうと思います。

2009年12月27日

ウィリアム・シェイクスピア 『リチャード二世』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 06:00

シェイクスピアの作品で読んだものと言えば、大分前に記事にした『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』の他には『ハムレット』だけです。

文学的素養ゼロの私としては、正直どれも面白さがわからなかったので、他の作品を読もうという気はこれまで全然起きなかったのですが、高坂正堯氏が『大国日本の世渡り学』『世界史の中から考える』で、イギリス議会政治の背景を知るためにシェイクスピアの史劇を読むことを薦めていたので、ひとまず本書を手に取ってみた。

訳者は小田島雄志氏。

巻末にある全集の広告を見ると、シェイクスピアのイギリス史劇では、『ジョン王』を除けば、これが一番古い国王を扱ったもののようだ。

歴代のイギリス国王は他の国の君主に比べれば、高校教科書でもかなり名前が出てくる。

プランタジネット朝以降ではヘンリ2世・リチャード1世・ジョン王・ヘンリ3世ときて、以後エドワードという名前の国王が三代続き、エドワード1世・エドワード2世・エドワード3世。

このうちエドワード2世のみが教科書範囲外だが、他の国王は全て重要で高校レベルでも暗記すべき事項と言えるでしょう(ついでだし、エドワード2世も覚えるに越したことはない)。

以上、リチャード1世→ジョン王が兄・弟間の継承だった以外は、すべて父子継承。

本作品の主人公リチャード2世は、高校世界史で出て来る国王ではない(ただし2002年版『詳説世界史』では本文中にはもちろん記されていないが、欄外の系図で後継のランカスター朝・ヨーク朝の王と共に名前が出ている)。

系図を確認すると、百年戦争を始めたのがエドワード3世、その子が勇武で知られたエドワード黒太子。

このエドワード黒太子は父親より先に死去し国王には即位せず(即位してたらそもそも黒太子ではなく、「エドワード4世」と呼ばれていたはずだから当たり前ですが)。

リチャード2世はこの黒太子の子で、祖父のエドワード3世を継いで1377年即位。

百年戦争ではシャルル5世(1364~1380年)時代にフランスがやや形勢を挽回し、シャルル6世の幼い娘イザベラとリチャード2世が婚約し、英仏間は休戦状態に入る。

黒太子の弟にランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントという人物がおり、その息子でリチャード2世のいとこに当たるヘンリ・ボリングブルックが反旗を翻し1399年リチャードを廃位、自ら王位に就きヘンリ4世となる。

(リチャードは翌年死亡。本作品ではヘンリの意を読み取った部下による暗殺、福田恆存『私の英国史』では餓死。)

リチャード2世にてプランタジネット朝は終わり、ヘンリ4世からランカスター朝が始まる。

なお、ジョン・オヴ・ゴーントと同じく黒太子の弟で、ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーという人物がおり、この人が後のヨーク王家の祖となる。

結局、リチャードは阿諛追従の徒に囲まれ賢臣を遠ざけ、重税を課して国民各層に見放され、王位を簒奪された愚かな暗君というのが本書での描写を含めた一般的イメージのようですが、私はこの人にあまり悪い印象がない。

それはおそらく、アンドレ・モロワ『英国史』で読んだ、以下のエピソードからあまりに強烈な印象を受けたからだろうと思う。

リチャードが即位して間もなく、1381年に史上有名なワット・タイラーの乱が起こっている。

王が塔から出ていた間に、叛徒はそこへ押入った。カンタベリー大司教の首と大蔵長官の首が、ロンドン橋の袂に晒された。血に狂い、我を忘れたこの群集を、なんとでもして遠ざけることが必要だった。

農民の多くは自分たちの憲章に満足して、既にその日のうちに市から去った。まだ数千人が残っていたが、これらは疑いもなく最も悪質の連中で、掠奪を続けようと思っていたのである。しかし各処から、騎士や都邑の公民が王に荷担すべく到着した。

翌日の新しい会見の場所としてスミスフィールドの馬市場が叛徒に通達された。少年の王はその広場へ騎馬で、ロンドン市長その他の護衛の一隊を引連れて乗込んだ。広場の向うの端には『百姓兵』どもが弓を武器に控えていた。彼等の首領ワット・タイラーは、乗馬のまま王の一行を出迎えた。

そこで何が起ったか?年代記作家たちは各々違ったことを書いている。確かにこのタイラーは傲慢な態度を示したに相違なく、ロンドン市長は突然怒りだし、隠し持った武器の一撃で、彼を打ち倒した。彼が倒れるや否や、王の供奉者は彼を取巻いて、広場の向う側にいる一味の者から見えないようにした。しかしこれを見てとった彼等は早くも戦闘隊形を作って、弓を引絞った。

その時、この若い王は、思いがけない英雄的な、行動に出た、それが事態を救ったのである。彼は供奉の人々に、『ここに居れ、誰もついて来るな』と言いおいて、たった一人で彼等を離れた。そして叛徒の方に向って行きながら言った、『お前たちの隊長は余以外にない。余はお前たちの王だ。静かにせよ』。落着き払った態度で何の不安も見せず自分たちの方へやって来る美少年を見て、首領も計画もない叛徒は武器を棄てた。リチャードは彼等の先頭に立って、彼等を市の外に導いた。ともかく、フロアサールの語るところは上述の如くである。

ちなみに、この文章の後、以下の記述が続く。

殺人者と掠奪犯人は、憐憫に値しない。しかし1381年の農民の中には、正義を擁護するのだと思っていた正直な人間が多かった。この連中が、感動し信頼し切って、やがては処刑の目に遭わされるとは露知らず、この美少年王の後からついて行ったのだと思うと、誰かよく感慨なきを得よう。けだし、その弾圧たるや、この暴動に劣らず残酷なものとなったからである。

想像していたよりもはるかに面白かった。

人物造形の巧みさと台詞まわしの深みは、私のような人間でも十分感じ取れた。

前半部、傲慢で無思慮な王であるリチャードが、廃位され悲劇的境遇に落ちてから尊厳の兆しを見せる後半部とのコントラストが見事。

短いので楽に読めるし、高坂先生のおっしゃる通り中世から近世のイギリス史の雰囲気を知るには、シェイクスピアの史劇は非常に適切だと思います。

2009年10月18日

水谷三公 『王室・貴族・大衆 ロイド・ジョージとハイ・ポリティックス』(中公新書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:00

著者の水谷氏については、以前『丸山真男 ある時代の肖像』(ちくま新書)を飛ばし読みしたことがあった。

本書の書名だけ見ると何の本だかわからないし、サブタイトルを見てもはっきりしないでしょう。

中身は19世紀末から20世紀の第一四半期における、イギリスの政治・社会史。

「はしがき」に以下のような文章がある。

現在世界には三十足らずの王制国家があるという。意外に残っているともいえるし、戦後だけで二十以上が姿を消したと聞けば、王政消滅は世界史の大勢といった、平凡な議論に説得力が感じられもする。

それはともかく、王政廃止が、政治や暮らし向きを向上させるのに不可欠だったか、あるいは現実に廃止してみて、政治や生活がよくなったといえるか、疑いは残る。王政を廃止し、人類進歩の先頭に立ったと宣言したのはフランス革命だが、その後に訪れたナポレオン独裁を支えた治安警察の長官フーシェは、貧弱な警察体制が王政崩壊の原因だったと言っている。政治的抑圧は、王政廃止後に徹底したことを教える。・・・・・西ヨーロッパでも、王政を続ける国々が、共和制国家とくらべて、政治的・経済的パフォーマンスで見劣りするとも思えない。

もっとも、どちらでもたいして変わらないなら、わざわざ王政を残さなくとも、という意見も出る。ヴィクトリア朝イギリスについて、このあたりの事情を説明したのがバジョットである。バジョットによれば、パフォーマンスの意味が狭すぎるのである。政治の実質に興味もなければ、理解能力にも恵まれない大衆にとって、「女王様が支配されている」という説明は、わかりやすく人間味に溢れている。女王が現実にやれることといえば、政府に報告を求め、助言と警告を与えるくらいで、女王統治は神話に過ぎない。ところがこの点が長所で、大衆の思いちがいのおかげで、政治家は安心して政界の実務、つまりはハイ・ポリティックスに専念できる。一八六七年の『英国憲政論』は、大統領を戴く共和制にくらべた、王政パフォーマンスの優越をこう説明している。

・・・・・本の出版と同時に第二次選挙法改正が実施され、翌年の労働組合全国組織の結成もあって、「大衆」の交渉力は底上げされた。公的初等教育も浸透し、識字率は上がり、それまでほとんど名も知られなかったマルクスが読まれる素地もできた。そのマルクスは、労働者に祖国はない、と叱咤したが、識字率や生活水準の向上は、予期に反してナショナリズムを強める方向に働き、社会主義と並んで、近代王政の脅威となる。ヴィクトリア女王も、自分の後は「大洪水」というつぶやきを残して世を去った。

民衆の大義を掲げて、国王の政治介入と貴族支配体制の打破を謳いあげ、大筋それに成功するのは、イギリスの場合、マルキストではなく、自由党急進派であり、とりわけロイド・ジョージである。ところが意外なことに、この過程で攻撃に回った自由党は潰滅状態におちいり、ロイド・ジョージは失脚する。受け太刀に回った貴族は、政治的実権を大幅に手放すという犠牲は払うが、いまもって年代物の魅力を振りまいて人を魅惑する。ヴィクトリア女王の近代王政は、ジョージ五世の下で大衆王政に脱皮を遂げて安定した。バジョットは一八六七年の王政については正確ではなかったとしても、二十世紀の大衆王政には、なかなか有益な教訓を残したことになる。

・・・・・イギリス大衆社会は、貴族に引退勧告をつきつけたが、スノッブは王室とともに健在である。「神より偉大な」貴族から御成婚番組に感動する庶民まで、スノッビズムにどっぷりつかった国民性。もしそれが「暴民(モッブ)」横行と「革命エリート」による大衆抑圧に代わる災いなら、甘受するに足るという判断も出てくる。そんなところが、この小著の底流にある気分である。

これを読んだ瞬間、この本は「当たり」だと思いました。

大衆民主主義の渦に押し流されて破局を迎えた日独伊などに対して、見事な退却戦を演じたイギリス王室と貴族を描いた本。

語られる出来事は、経済成長による大衆社会とマス・インテリの誕生、1909年「民衆予算」、1911年議会法、1917年ハノーヴァー(ザックス・コーブルク・ゴータ)からウィンザーへの王朝名改名、貴族の土地離れと新興富裕層との融合、大戦後の叙爵スキャンダルと自由党の没落など。

登場人物は、ヴィクトリア女王の子エドワード7世と孫のジョージ5世、自由党のアスキス、ロイド・ジョージ、チャーチル(当時は自由党所属)、保守党のバルフォア、ランズダウン、カーズンなど。

なかなか面白い。

著者の皮肉とユーモアに満ちた文体が興味を持たせる。

一部ダレ気味になるところもありますが、ごくわずかです。

熟読する価値のある良書と言えるでしょう。

2009年9月28日

森護 『スコットランド王国史話』 (中公文庫)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:00

『とびきり哀しいスコットランド史』の記事で名前を出したこれを通読。

大修館書店から単行本で刊行されたものの文庫化。

中身は非常に細かい王統史。

一人の国王も省略することなく、ひたすら王家の系図を辿っていく叙述。

こういう形式の歴史書を時代遅れとして馬鹿にする人がいるが、私はそうは思わない。

『ヴィクトリア女王』の記事でも書きましたが、初心者の第一歩としてはそれが一番適切である。

スコットランド史の人物と言われて、誰一人思い浮かばないような状態ならば、物語風の国王たちの歴史を読むことくらいから始めるしかない。

とは言え、すべての国王名を憶えるのはまず不可能。

よって、顕著な功績のあった君主か、イングランドとの関係上転機となったときの国王のみを憶えることになるでしょう。

以下、私的メモ。

ローマ帝国外にケルト系ピクト族が活動。

私はこのピクト族がスコットランド人に直接繋がると思っていたが、ローマ崩壊後隣接するアイルランドから渡って来た同じケルト系のスコット族が民族名の由来。

839年ケニス1世がピクト・スコット連合の王位に就きアルピン王家創設。

直系男子による継承が確立しておらず、王位は非常に不安定。

11世紀、マルカム2世が領土拡張と継承方式の確立を目指す。

1034年当時のイングランド王クヌートに通ずる勢力によりマルカム2世が殺害された後、孫のダンカン1世が即位、アサル王家樹立。

ダンカン1世が、シェークスピアの作品で有名な、従兄弟のマクベスに殺害され王位を奪われる。

ダンカンの息子マルカム・カンモーがマクベスを敗死させ、マルカム3世として即位。

この人は非常な名君だったようで、多くの紙数が割かれている。

ちなみにマルカム3世の治世中、1066年ノルマン・コンクェストでイングランドはノルマン朝統治下へ。

以後マルカムの息子たちが順に王位を継ぐが、末弟のデイヴィッド1世が特筆されている。

父と同じくイングランドの文化・制度を移入し、行政・司法制度の整備、貨幣鋳造、自由都市(バラ)の建設など数々の業績を挙げる。

13世紀末、アレグザンダー3世の落馬・事故死をきっかけにアサル王家断絶。

ウェールズを併合して意気上がるイングランド王エドワード1世が王位継承に介入、傍系のジョン・ベイリャルが即位。

傀儡扱いに耐えかねたベイリャルがフランスと結んで反抗すると、エドワードはスコットランドに侵攻し、ベイリャルを廃位。

イングランド支配の中、ウィリアム・ウォリス(ウォーレス)が蜂起するが鎮圧される。

元親イングランド派のロバート・ドゥ・ブルースが反旗を翻し、イングランドに大勝、独立を回復し、ロバート1世として即位、ブルース王家樹立。

ロバート死後、ベイリャル家・ブルース家の非力な王が続いて在位するが、実質的にはイングランドのエドワード3世の支配下に置かれる。

ペスト大流行、百年戦争の膠着状態のおかげで何とか独立維持。

1371年ロバート1世の娘とステュワート家の男子との間に生まれたロバート2世が即位し、ステュワート(ステュアート)王家が始まる。

ここまで来ると、ああやれやれという気分になる。

以後は面倒なので端折りますが、ロバート3世、ジェームズ1世~5世、メアリ・ステュアート、ジェームズ6世(エリザベス1世死後、イングランド王ジェームズ1世に)という順の国王の個性と治世のあらましがよくわかる記述になってます。

宗教改革の浸透が反イングランド色の濃かったこの国に親イングランド派の楔を打ち込んだとか、ジェームズ1世以後の国王で成人後即位した人物がおらず摂政設置時期と王権拡張期が繰り返され、その中で貴族層の内乱が絶えなかったことなどを押さえておけばよいでしょう。

通読するのに少々骨が折れるが、内容はなかなか良いです。

ちょっと細かな家系図に深入り過ぎかと思われる部分もありますが、叙述形式自体は悪くない。

最初に触れた『とびきり哀しいスコットランド史』を事前に読む必要はなく、いきなり本書から入るべき。

もし読むのなら、『とびきり~』の方は本書の記述を踏まえて各国王がどのように評価されているかを確認したり、ごく大まかな復習のために事後に読むといいでしょう。

基本的に初心者は、本書以上に詳しいスコットランド史は不要でしょう。

これ一冊あれば用は足ります。

2009年4月22日

石井美樹子 『王妃エレアノール』 (朝日選書)

Filed under: イギリス, フランス — 万年初心者 @ 06:00

『世界史のための文献案内』(山川出版社)を眺めてて、たまたまタイトルが目に付いたので、これを読んでみた。

12世紀に生きたフランス王妃の伝記。

1988年に平凡社から同じタイトルで出たものの増補改訂版で1994年刊。

この王妃は名前を知っている人の方が珍しいくらいだし、そもそも夫のルイ7世自体が高校世界史で出てくる人物ではない。

ルイの息子のフィリップ2世は必ず記憶しなければならない重要な国王だが、フィリップはルイと別の妃との間に生まれた子供であり、エレアノールの実子ではない。

では、なぜこういう人物を主人公にした結構な厚さの伝記を読む気になったのかというと、彼女がルイ7世と離婚し、実家である広大なアキテーヌ公領を婚資として、後にイギリス国王ヘンリ2世となるアンジュー伯ヘンリと再婚し、リチャード1世とジョン王の母となったため。

あの高校世界史でも出てくる、「フランスの西半分がイギリス王の封土」という状況を作った女性とも言えるのだから、考えてみれば超重要人物である。

アキテーヌ公爵家は代々ポワトゥー伯爵とガスコーニュ公爵を兼ね、現在のフランスのおよそ四分の一を占める大諸侯で、パリ周辺のイル・ド・フランスのみを領有するカペー王家よりも強勢を誇っていた。

王権強化のために、アキテーヌのエレアノールとカペー王家のルイの政略結婚が行なわれるが、夫妻揃って行軍した第2回十字軍が完全な失敗に終わった後、性格の不一致などがあり別離。

フランス東部の雄シャンパーニュ伯と並ぶ有力諸侯アンジュー伯ヘンリと再婚したことにより、ノルマン朝以来の支配地ノルマンディーを含めて、英仏海峡からピレネー山脈に至る広大な「アンジュー帝国」が出現する。

(息子の結婚で大西洋に突き出た半島のブルターニュも勢力下に入れたように書かれているから本当にフランス西半分全てがイングランドと同一の君主に統治された状態になっている。)

離婚後もルイ7世は男子に恵まれず、その娘がエレアノールとヘンリ2世の間の王子(名は父と同じヘンリ、のち父より先に死去)と結婚していたので、場合によっては英仏両国が完全に一人の君主の下に統合される可能性すらあったらしい。

しかしルイの三度目の結婚でフィリップ2世が生まれ、彼がジョン王から大陸の領土のほとんどを奪い返すのは高校教科書の通り。

その前から父のヘンリ2世およびヘンリ王子、リチャード、ジェフリー(ブルターニュ公女と結婚)、ジョンら息子の間には紛争が絶えず、この不和をフランス王に利用されて、アンジュー帝国はあっけなく瓦解する。

ちなみにエレアノールの娘とカスティリャ王アルフォンソ8世との間に生まれた娘がフィリップ2世の息子ルイ8世と結婚し、その両者から聖王ルイ9世が生まれることになります。

これはとても良い。

人物描写が非常に鮮やかで巧みであり、良質の歴史小説を思わせる。

大変読みやすく、史実が明解なイメージを伴って、頭に深く刻み込まれる。

話の本筋だけでなく、周辺的な事項も丁寧に論じられており、曖昧さを感じない。

この辺の時代は複数国に跨る王家間の婚姻関係が複雑でわかりにくいが、詳細な家系図を添え、親切に繰り返し言及するので理解しやすい。

400ページ超と選書にしてはかなり長いが、ほとんど苦にならない。

一日一章のペースで読めば無理なく通読できるでしょう。

中世ヨーロッパ史として相当の名著だと思います。

しかし、これが新刊書店で手に入らないのは痛い。

痛すぎる。

刊行から15年も経てばやむを得ないのかもしれませんが・・・・・。

まずは図書館で借り出して、ご一読下さい。

それで気に入って、ネット古書店で非常識な価格でなければ、注文して手元に置いておくのも悪くないと思います。

2009年4月20日

フランク・レンウィック 『とびきり哀しいスコットランド史』 (ちくま文庫)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:00

これもずいぶん前から存在には気付いていたが、そのまま放置してあったもの。

森護『スコットランド王国史話』(中公文庫)を読むのが面倒なので、まず簡略なこれを読んだ。

先史時代から1707年アン女王治下の大ブリテン王国成立までのスコットランド通史。

各章が2、3ページと短く、ユーモアとおふざけの入った文体に挿絵多数と、非常に取っ付きやすい形式。

しかし、その分さらっと読むだけでは何も頭に残らない恐れがある。

これだけを読んで、国王の系譜を憶えるのは相当難しい。

王家の系図や年表が無いのも不親切。

特に前者は是非付けて欲しかった。

登場人物のうち、マルコム2世、アレグザンダー3世、ウィリアム・ウォレス、ロバート・ブルース、ジェームズ1世(英国王ジェームズ1世[スコットランド王としては6世]の祖先)、メアリ・ステュアートなどを憶えればいいんですかね。

楽に読めたが、あまり得たものがない。

やはり上記の森氏の本を読んだ方がいいのかな。

2008年1月2日

アンドレ・モロワ 『ディズレーリ伝』 (東京創元社)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:00

明けましておめでとうございます。

本年最初の本は高校教科書にも太字で載っている19世紀イギリスの大政治家ベンジャミン・ディズレーリの伝記。

ネット上であれこれ検索していると、アンドレ・モロワがこういう本を書いているのに気付いたので読んでみた。

大英帝国絶頂期に保守党を率いて内閣を組織した大宰相とくれば、さぞかし由緒正しい名門貴族の出かと思うが、実際は全く違う。

祖父の代にイタリアから移住してきた改宗ユダヤ人であり(名前のディズレーリは「ド・イスラエリ」)、最初は小説家として世に出る。

ヴィクトリア女王即位と同年の1837年初当選を果たし、持ち前の雄弁で頭角を現すが1841年成立のピール保守党内閣ではポストを得られず冷遇される。

1846年ピールが従来の主張を棄て自由貿易主義に転向し穀物法廃止を決断すると、内閣は倒壊し保守党は分裂、ピール派は離党する(この時グラッドストンもピールと共に保守党を離れる)。

ディズレーリは分裂後の保守党内でダービー伯(スタンリー)に次ぐ地位を占める。

以後の政局は1846~52年ラッセル、52~55年アバディーン、55~58年パーマストン、59~65年第2次パーマストン、65~66年第2次ラッセルと自由党内閣が長期間続き、保守党政権は52年の短期間と58~59年の二度のダービー内閣のみ。

しかしその間ディズレーリは保守政治再興のために尽力し、保護貿易主義の党是を事実上放棄し、「進歩的」ではありながら新興産業資本家の利益を代表しがちな自由党に対抗して地主貴族を基盤とする保守党が労働者階級の利益を擁護すべきだとする「民衆的保守主義」を唱える。

1866年成立の第3次ダービー内閣では、67年自由党の機先を制し第2次選挙法改正を行い、都市労働者に選挙権を与える。

ダービーの禅譲を受けて1868年組織した第1次内閣は10ヶ月ほどの短命に終わるが、第1次グラッドストン内閣(68~74年)の後を継ぎ、1874年から6年間続く本格政権となる第2次内閣を成立させる。

任期中にスエズ運河株買収(75年)、インド帝国成立(77年)、ベルリン会議におけるロシア南下政策阻止(78年)、第2次アフガン戦争(78~80年)によるアフガン保護国化などを遂行。

元々ピール贔屓だったヴィクトリア女王は若い頃のディズレーリに強い不信感を持っていたが、その後は「小英国主義」を唱え英帝国の威信に無関心と思えるグラッドストンを嫌悪したため、ディズレーリに対しては深い信頼を寄せ、彼をビーコンズフィールド伯とし貴族院に移るように勧め議院での負担を軽くしてやる。

1880年総選挙で敗れ政権を再びグラッドストンに譲り引退した翌年に死去、国民各層に悼まれる。

4度内閣を率いたライバルのグラッドストンに比べると在任期間は短いが、保守党後継者のソールズベリは3次にわたる内閣を組織し、以後二大政党制が健全に機能していく。

読みやすくてなかなか面白い。手堅い作りの伝記作品。

こういう伝記を文庫版に多く収録して、いつでも手に入るようにしてくれる出版社がどこかないもんでしょうか。

以前なら中公文庫がそういう役割を比較的果たしていたと思うんですが。

「私はかれらの約束している自由主義よりも、われわれが享受している自由のほうを愛するし、人権よりも英国人の権利を愛する。」  ――ディズレーリ――

彼にとっては、保守主義者であるということは、もう時代おくれだと思われる制度を弁解めいた微笑を浮かべながら支持することではなくて、ロマネスクで誇りに満ちた唯一の聡明な態度であった。それだけが真のイギリス、領主の館を中心に集まった村々、小地主貴族の活力を持った根気強い連中、昔からのもので同時にたいへん開放的な貴族政治、それに加えて歴史というものを誠実に考える態度だった。「しばしば皮相な人間には嘲笑されるが、伝統に対する尊敬というものは、人間性の深い認識に根ざしているように私には思われる」。自由主義者や功利主義者の理論的な主張に対して、一個の現実的な主張を打ち立てねばならなかった。

彼にとっては近代政治の論争はすべて歴史派と哲学派の間の問題であった。そして彼は歴史派を選んだ。国家とは、単なる精神の操作によりそれがいかなる権利を持つかを演繹できるような抽象的存在ではない。「国家とは一個の芸術作品であり、時間の作品である」。国家にも個人と同じく気質がある。イギリスの偉大さについていえば、大したこともない天然資源にあるのではなくて、その制度から来るのである。イギリス人の権利は人権よりも五世紀も古い。

若い理論家はいつもこんなふうに考えた。一八三五年に彼は《ある気高い貴族に与える書簡形式のイギリス政体擁護論》なるものを公にしたが、この政治哲学の作品は、最も秀でた批評家さえもその形式の完璧さと思想の成熟を認めるほどの出来だった。選挙なしの代表を認めない者にとっては、貴族院の存在は不条理と思われるかもしれないが、ディズレーリは代表なしの選挙の危険のほうがもっと大きいことを示した。職業政治家の少数が選ばれて、その国を代表してもいないのに寡頭政治を布くこともあり得る。逆に貴族院は現実の勢力を代表している。それは大監督によって教会を代表し、大法官によって法を代表し、総督によって州を代表し、先祖代々の地主によって土地を代表している。衆議院については逆に、一八三二年のホイッグ党のごく僅かの改革よりもっとずっと大幅に補充されることを彼は望んでいた。保守党の長たる者の務めは、過去の未だに生命を持ち現に生きている部分を擁護すると同時に、党から時代おくれとなった偏見や理論をとり除き、とくに下層階級に対する愛情にはぐくまれ、これを獲得する能力を持つ寛大な政治へと党を勇敢に導く勇気を持つことだと彼には思われた。

封建制度が廃止されるのはいいが、人間は相互の義務により互いに結びつけられているのだと考える封建的態度が望ましいものであることは変わらなかった。《貴族たる者は身分にふさわしくあるべし》というのが生活の規準だった時代をかれらは懐しがったし、そしておそらく消えかけた火をかき立てることはまだ可能なのだ。

2007年11月16日

君塚直隆 『ヴィクトリア女王』 (中公新書)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 06:00

先月下旬に出た伝記。

教科書では大英帝国絶頂期に長期間在位した象徴的君主として名前が出ているだけのヴィクトリア女王の個性や政治的行動について詳細にわかりやすく叙述している。

メルバーン、ピール、パーマストン、ディズレーリ、グラッドストン、ソールズベリなどの首相たちとのやりとりが興味深い。

19世紀イギリス史のテキストとしても充分使える有益な本。

スタンリー・ワイントラウブ『ヴィクトリア女王 全3巻』(中公文庫)が長いし読みにくいなあと思っていたので、こういう本が出版されたことは非常に助かる。

リチャード1世やヘンリ8世、チャールズ1世などの君主についても同様の伝記が出て欲しいです。

それと、ちょっとわき道に逸れますが、ウィリアム1世からヴィクトリア女王(あるいはジョージ3世)までのイギリス国王はやはりすべて記憶すべきだと思う。

(自分も一部あやふやなのに人に勧める資格は無いんですが。)

なぜなら初心者にとってそれが一番自然で覚えやすい時代区分だから。

国王の系図と個性と治世のあらましを頭に入れれば通史の基礎を容易に築くことができる。

(19世紀以降は内閣順となるんでしょうが、これは全部覚えるのは相当苦しいでしょう。)

私がアンドレ・モロワ『英国史』福田恒存『私の英国史』などをしつこいほど勧めるのも、国王を中心とした政治史という古くさい体裁の通史でなおかつわかりやすく面白い本だから。

そういう基礎を重視した通史がイギリス以外の国でも多く出て欲しいです。

しかし中公新書はコンスタントに歴史関係のいい本がラインナップに並びますね。

今月下旬の新刊でも『ケネディ 「神話」と実像』というのが出るようです。

それは非常に結構なんですが、それに引き換え中公文庫は最近低調極まる。

復刊して欲しい本はいくらでもあるんですから、もう少し頑張ってもらいたいもんです。

Older Posts »

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。