万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年2月20日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:00

最終巻。

冷戦と第三世界、日中印三ヵ国を中心とするアジア情勢、冷戦終了後の世界秩序について。

本文に入ると、まず現代アジア史を、イデオロギー的視点から離れた、極めて巨視的な観点から大掴みする記述がある。

第二次世界大戦後、アジアの多くの国が植民地支配を脱し、次々に独立していきました。その結果、植民地時代の政治的・文化的影響は急速に消滅していきます。たとえばインドでは、イギリス支配のもとで一度は実現していたインド亜大陸の政治的統一が、大戦終了から二年後の独立時に崩壊しました。東南アジアの国々も同じです。たとえばインドネシアには強力な中国人(華僑)コミュニティが存在したため、国全体の進路が中国本土の動向に大きく左右されるようになったのです。

そうした事情を考えると、実はアジアの大部分の国々にとって、西洋列強による植民地支配もその終焉も、それほど重大な歴史上の転換点ではなかったように思えます。数世紀にわたり、アジアの広大な地域がヨーロッパ人によって支配されたことは事実ですが、本当の意味でヨーロッパ文明の影響を受けたのは、どの国でもごく少数の支配者層だけでした。アジアでヨーロッパ文明を待ち受けていたのは、おそらく世界のなかでもっとも強力な文化と伝統をもつ社会だったのです。

アジアの文化はアメリカ大陸やアフリカ大陸の文化とは異なり、ヨーロッパ文化の侵入によって一掃されることはありませんでした。ヨーロッパ人がアジアにヨーロッパ文化をもちこもうとしても、あるいは現地の指導者たちがみずからヨーロッパ文化をとり入れようとしても、いずれも大きな障害にぶつかることになったのです。近代教育を受け、古い伝統からすでに脱却したと自認していた人びとでさえ、さらに深い部分ではその伝統的な思想や行動様式になんら変化はありませんでした。大学教育を受けたインド人も日本人も、出産や葬儀の際には伝統的な習慣にしたがい、中国の共産主義者たちの意識から伝統的な中華思想が消えさることもなかったのです。

インドから東側のアジアは、大きくふたつの文化圏に分けることができます。ひとつは南アジア(インド亜大陸)および東南アジアです。この地域は古くから三つの文化-ヒンドゥー文化、イスラーム文化、ヨーロッパ文化-の影響を受けてきました。ヨーロッパ文化はこの地域に、かなり古くから交易や布教とともに伝えられ、のちの植民地支配によってさらに広まっていきました。

ふたつ目の文化圏は、中国を中心とする東アジアです。中国自身が膨大な人口と国土を有することはもちろんですが、加えて周辺諸国に移住した華僑の存在、さらには二〇〇〇年以上も前から日本や朝鮮半島、インドシナ半島などにあたえてきた文化的影響も、この地域における中国の重要性を理解するうえで忘れてはなりません。このふたつ目の文化圏は、ひとつ目の文化圏にくらべるとヨーロッパ諸国に直接支配された期間が短く、その弊害も前者ほど大きくありませんでした。

結局、アフリカとアメリカの固有文明はヨーロッパ文明の進出によって圧倒され、ほぼ消滅することになったが、インドを中心とする南アジアと中国を中心とする東アジアはその存在を守り抜いたことになる(西アジアのイスラム圏もそのはずだが、ヨーロッパとの距離が近い分、[南アジアと同様]政治的には劣勢を強いられたということか)。

ヨーロッパの進出に最もよく抵抗した東アジア文明の動きの先鞭をつけたのは日本だったが、第二次大戦後、それを受け継いだのが中国。

一九六〇年までにアジアで起きた最大の変化は、中国が大国として復活をとげたことだったといえるでしょう。一方、共産主義勢力を排除して西側陣営に属していた日本と韓国は、中国が共産主義国となったおかげで、欧米諸国に対する政治的立場を強めていきました。

伝統的に東アジア諸国は、ヨーロッパ人の侵略に対し、インドや東南アジア諸国よりもうまく対処したといえるでしょう。第二次世界大戦後も東アジア各国は、共産主義国、非共産主義国ともに独立を維持することに成功し、中国から支配されることもありませんでした。これには逆説的ながら、古くから中国を模範としてきた日本社会や韓国社会に深く根づいた、東アジア特有の保守性が関係しているように思えます。

社会の規律、集団としての結束力、個人的権利の軽視、権威と階級の尊重、西洋文明とはまったく異なる文明に属しているというプライド・・・・。東アジアの社会には、中国革命の基盤となった共産主義思想などよりも、はるかに根深い文化的伝統が存在します。実は中国革命そのものも、そうした文化的伝統のなかでとらえて、はじめて理解できるものなのです。

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中国革命ほまちがいなく、人類が行なったもっとも壮大な試みのひとつといえます。世界史全体を見渡してみても、二〇世紀の中国革命に匹敵する出来事は、七世紀のイスラーム教の拡大や、一六世紀以降の近代ヨーロッパ文明の世界進出以外にありません。しかも中国革命が大きく異なっていたのは、それが特定の指導者によってコントロールされ、方向性が定められていたという点です。また無数の民衆の熱気に支えられながら、その一方で国家の指導なしには成立しえなかったという点にも、中国革命のもつ特異性を見ることができます。

中国人は伝統的に権威を重んじ、その権威に高い精神性を求めつづけた人びとでした。これは西洋では遠い昔に失われた現象といえます。個人よりも集団が重視されるべきこと、政府が国家事業のために国民を動員する権限をもつこと、公共の利益のために行使されるかぎり政府の権威は絶対であることを、中国はどの大国よりも長いあいだ、民衆に納得させてきました。国家の権威に対する反抗は、文明全体を崩壊させる恐れかおるため、中国人には受け入れられませんでした。つまり中国では集団としての急進主義はありえても、個人の人権の拡大を求める西洋型の革命は考えられなかったのです。

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中国では権力は「天(天帝)」から授かったものであり、統治者は民衆のために善政を行ない、伝統的な中国文明の価値観を守るかぎりにおいて、その正統性を民衆から認められるという文化的伝統がありました。他の文明圈からは理解しにくい毛沢東という存在は、そうした伝統にのっとって解釈される必要があるのです。

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中国革命のもつ本質的な意味も、その後中国とソ連がすぐに対立するようになったところによく現れています。つまり中国革命は、たしかに歴史上きわめて重要な革命だったものの、実はそれはアジア全体が西洋支配に対して示した拒否反応のひとつだったのです。皮肉なことに、その拒否反応はアジアのどの国でも、ナショナリズムであれマルクス主義であれ、西洋からとり入れた思想や概念をもちいて表現されることになったのですが。

中国の共産主義政権が、主にその最初の30年間で、どれほど多くの犠牲者を生みだしたか、著者は百も承知だろうが、極端な全体主義体制から現在のような権威主義体制に移行した状態を見るならば、中国革命の意義を以上のように大国としての復興と伝統的「王朝」体制への回帰、とまとめることも可能かと思われる。

一方、それに比して現代インドに対する著者の評価はかなり低い。

経済であれ、軍事であれ、政治であれ、諸外国に対して大きな影響力をもつ国を大国とよびますが、インドがそのような国際的地位にないことは、一九八〇年代までにすでにあきらかになっていました。これはよく考えてみると、二〇世紀後半に起きたもっとも驚くべき現象のひとつだったといえます。一九四七年に独立したインドは、その時点ではほかの新興国や敗戦後の混乱期にあった日本などよりも、はるかに有利な条件に恵まれていました。インドにはイギリス植民地時代の遺産である効率的な行政機関と訓練の行きとどいた軍隊、高い教育を受けたエリート層、優秀な大学(約七〇校もありました)などが存在し、国際社会の善意と協力に恵まれ、冷戦構造のなかで米ソの対立を利用することもできたからです。

貧困や栄養不良、公衆衛生の立ち後れといった問題はあったものの、その点では中国も同じだったといえます。ところが一九八〇年代までにインドと中国のあいだには、誰の目にもあきらかなほど大きな格差が生じてしまったのです。中国の都市部の住民たちは一九七〇年までに、ほぼ全員がまともな服(質素でしたが)を着用するようになっており、栄養状態も良好でした。それに対してインドの都市部の住民たちは、そのころになってもまだ貧困と栄養不良に苦しめられていたのです。

独立後のインドの歴史をふり返ると、マイナスの現象ばかりが目につきます。大きく成長した産業もあったものの、その成果は人口の増加によってかき消されてしまいました。一九四七年の独立から長い年月が過ぎても、国民の大半は当時と同じくらいに貧しいか、ごくわずかに生活が改善されたにすぎませんでした。

インド社会にはあらゆる面で歴史と伝統が重くのしかかり、変革の兆しはなかなか現れませんでした。ちょうど同じような状況にあった中国では、毛沢東が修正を加えたマルクス主義によって過去の伝統を一掃したのですが、インドにはそのような強力な思想も運動も出現しなかったのです。とくに独立後はイスラーム教徒がパキスタン建国によって分離したこともあり、インド社会はさらにヒンドゥー色を強めていきました。

現在でも、インドは依然として近代化を達成したといえる段階には達していません。植民地時代にもちこまれた西洋式の政治制度と伝統的なヒンドゥー社会のあいだには、いまなお大きな溝が横たわっています。ガンディーやネルーをはじめとするすぐれた指導者たちが数々の偉業を達成した一方、特権、不正、不平等など、インド社会に根づいた負の遺産は依然としてこの国に重くのしかかり、その発展を妨げているのです。

かなり厳しい評価ではあるが、著者は同時に以下のようにも記している。

・・・・・もっともインド社会の内包する多様性を考えれば、国家としての統一を維持したこと自体が偉大な業績だったともいえます。

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一九四七年、独立とともに明るい未来を思い描いた人びとは、長い歴史をもつインド社会に根本的な変化を起こすことが、どれほど困難で痛みをともなうか、おそらく理解していなかったのでしょう。けれどもインド文明のもつ偉大なる多様性と継続性、異文化に対する同化吸収能力を考えれば、彼らが近代化の過程で足踏みをつづけているからといって、私たちが批判するのはお門違いといえるのかもしれません。

そして、同様に停滞と混乱を続けるイスラム圏について、巨大な宗教共同体と部族集団という大小両極の間で揺れ、その中間の国民国家という政治組織を安定して発展させることが出来ないことを指摘。

なぜ高い教育を受けた学生たちがイスラーム原理主義者の反動的な主張を支持しているのか、西洋人からはほとんど理解できませんでした。けれどもそうした状況を理解するには、イスラーム世界においては長らく西洋式の国家、あるいはいかなる西洋式の政治組織も存在しなかったことをよく認識しておく必要があります。

たとえ有能な政府が存在しようと、その政府が民衆にとって何か望ましい結果をもたらそうと、全イスラーム教徒を包含する宗教共同体「ウンマ」を基本原理とするイスラーム世界にとって、西洋式の国民国家は正統な権威にはなりえませんでした。社会主義的な政権の樹立を求めた急進派の若者たちも、実際のところ国家に本質的な価値を見いだしておらず、たとえば青年将校カダフィが起こした一九六九年のリビア革命でも、その後樹立された新しい「国家」は、西洋式の国民国家の概念からは大きくかけ離れたものでした。部族主義と「ウンマ」の理念にもとづいて維持されてきたイスラーム世界の伝統が、今後どのような形で存続していくのか、それは現在のところ誰にもわからない問題です。

アラブ諸国の多くで見られる暴力的な政争は、抑圧的な独裁制と原理主義運動が敵対した結果として起こるケースが多いようです。一九八〇年代のモロッコとアルジェリアがその典型的な例でした。そうした状況をさらに危険なものにしているのが、アラブ諸国における高い出生率です。人囗にしめる若者の比率と、彼らのもつ不満とエネルギーがあまりにも大きすぎることが、アラブ世界の平和の実現を困難にしているという面もあるのです。

 

 

本文の内容はここまで。

最終巻である本書には、「日本版の刊行に寄せて」という文章が載せられている。

簡単にいえば、本書では伝統的に重要とされてきたテーマを時代順に網羅していくという手法はとりませんでした。過去の事実を網羅するのは百科事典の仕事だからです。その代わりに、「もっとも多くの人びと」に「もっとも重大な影響」をあたえた出来事だけをとりあげ、その相互の関連性を示したいと考えたのです。

そのため本書は年代的にも地理的にも、かなりの偏りをもっています。もちろん私は第一版の刊行後も多くの時間と労力をついやして、ユカタン半島の壮大な遺跡やジンバブエの廃墟、イースター島の神秘的な巨像などについて調査を行なっています。そのような文化について知ることが望ましいのは、いうまでもないでしょう。

しかし世界の歴史という観点からすれば、これらの社会は実はあまり重要とはいえません。サハラ以南のアフリカや、コロンブスが到着する以前のアメリカ大陸についても同じことがいえます。たとえばブッダやキリスト、プラトン、孔子などの教えは、二〇〇〇年ものあいだ、地球上で暮らす無数の人びとに影響をおよぼしてきました。けれどもヨーロッパ人がやってくる前のアフリカやアメリカでは、世界の歴史に大きな足跡を刻むような出来事が起きた証拠は、いまのところ発見されていないのです。

いずれにせよ、世界史に関する膨大な資料をすべて把握することなど不可能です。本書は、「有名」な出来事ではなく、「本質的に重要な」出来事に焦点を当てています。たとえばフランスのルイー四世はヨーロッパ史ではもっとも有名な人物のひとりですが、本書中の彼に関する記述はごく短く、逆に二〇世紀前半に起きた中国革命についてはかなりくわしく説明してあります。そうした視点は現代史を見るうえで、いままで以上に必要になっているといえるでしょう。ある出来事が「有名」だから、つまり大きく報道がなされているからといって、それが重要だとはかぎらないのです。

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もちろんそのような視点には、私自身のもつ文化的バックグラウンドが大きく影響しています。私はイギリスの中産階級に属する白人男性としてしか、歴史書を書くことができません(今回の全面改訂版では、それに「初老の」が加わります)。もし皆さんがそれをあまりにも重大な欠陥だとお考えになるなら、ほかの歴史家が別の視点から書いた歴史書を探されたほうがよいでしょう。

しかし正直にいえばどのような歴史書であれ、結局は著者本人の個性を離れては存在しえないものなのです。私は自分の視点がどのような偏りにおちいりがちかということを、つねに念頭におきながらこの本を書きました。そうすることで、歴史家アクトンのいう「すべての国々を網羅した歴史とは異なった」歴史を皆様に提供し、文明の偉大なる豊かさと多様性を示すことができたのではないかと思っています。

このシリーズを読み通して、著者の以上の様な史観をはっきり感じることができたし、それに対して特に違和感は感じなかった。

 

 

こういう通史ではありがちだが、近現代史の部分は内容が粗くなって効用が薄れる。

本書もそれを免れているとは言えないが、まだ大分マシな方だと思う。

全10巻を読み切りましたが、通読はものすごく楽。

読んだ価値は間違いなくあった。

全体的な感想は別の記事で述べることにします。

2017年1月22日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 01:37

中国、日本、インドなど非イスラム圏のアジアと中世ヨーロッパの巻。

 

 

まず、古代から近代の入り口に至るまでの中国史がざっと片付けられる。

中国文明が、世界史上まれに見るほどの継続性と独立性をもちえた理由は、実はそれほど複雑なものではありません。中国の地理的な位置を思い浮かべてみてください。東側の海岸は太平洋にむけて大きく開けていますが、近代以前に西方世界からそこに海路で到達することは、ほとんど不可能でした。一方、西側の国境は、数々の山脈や砂漠によって守られており、ごく最近になるまで、わずかな隊商が荷物を運んで行き来することしかできなかったのです。

つまり中国は、オリエントや地中海、西アジアといった古代文明の先進地から完全に孤立した場所にあり、ほかの大文明から政治的安定を乱されることが、ほとんどなかったというわけです。そのよい例がイスラーム文明の影響です。七世紀以降、いくつも誕生したイスラーム国家の盛衰は、インドの歴史には大きな変化をもたらしましたが、中国の王朝の興亡にはほとんど影響をあたえませんでした。

インドではバラモン教からヒンドゥー教へといたる強固な宗教的伝統と、その過程で誕生したカースト制度が、文明の強力な安定要因として働いていました。一方、中国文明に安定をもたらしていたのは、儒教にもとづく高度な官僚制度です。統一王朝の出現後、かなり早い段階で誕生したこの統治システムが、たび重なる王朝の交代をくぐりぬけ、中国文明に強い継続性をもたらしつづけていたのです。

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中国の官僚たちは、社会全体をおおう儒教の影響力のもとで、政治と社会におけるさまざまな役割を一手に引きうけていました。彼らは役人であると同時に、儒教の教えをもっともよく知る「学者」であり、また芸術においても指導的な役割をはたす「文化人」でもあったからです。

中国では、おそらくほかの世界(イスラーム世界をのぞきます)とはくらべものにならないほど、特定の教義(儒教)が深く国家運営の中枢に組みこまれていました。そして中国の官僚たちは、ヨーロッパのキリスト教の聖職者にも似た倫理的な行動をとることを求められていたのです。

官僚制度の基盤である儒教は、きわめて保守性の強い教えであり、行政のおもな目的は既成の秩序を維持することと考えられていました。中国で、統治に際して何より優先されたのは、多様性に富んだ広大な帝国――多くの地方行政官は担当地域に言語の異なる人民をかかえていました――に一定の基準を普及させて、帝国全土に秩序をもたらすことでした。こうした実に保守的な目標を達成するにあたって、中国の官僚制度は驚くほどの成功を収め、その基本的な性格はあらゆる王朝の危機を乗りこえ、無傷のまま生きのびていったのです。

以上の通り保守的・静的な中国史上で、例外的に最も劇的な経済成長を遂げたのは、宋代。

宋王朝が存続した紀元一〇世紀から一三世紀にかけて、中国では人口が増えつづけたにもかかわらず、ほとんどの中国人の実質所得は増加していたものと思われます。つまり、かなりの長期にわたって、経済成長が人口の増加を大きく上まわっていたようなのです。それを可能にした理由の一つが、新しい稲の品種の発見だったことはまちがいないでしょう。

この新しい稲の導入により、じゅうぶんに灌漑された土地からは年に二度の収穫が、春だけ灌漑する丘陵地からも年に一度の収穫が見こめるようになりました。農業以外の産業の生産性も飛躍的に向上しました。ある学者は、中国は一一世紀の段階ですでに、六〇〇年後の全ヨーロッパの生産量に匹敵するほどの鉄を生産していたと推測しています。また繊維製品の生産能力も、水力による紡績機械が導入された結果、飛躍的な発展をとげていました。

宋王朝の時代になぜこのようなめざましい経済成長が起こったかを説明することは、実は容易ではありません。さまざまな史実の評価について、まだ意見が分かれているからです。公共事業、なかでも大運河の修復など、交通網に対する政府の積極的な投資が経済を活性化させたことは、おそらくまちがいないでしょう。また、長いあいだ他国からの侵略や内乱が起こらなかったことが、経済成長をうながす大きな要因になったこともたしかです。

しかし、たとえば内乱についていえば、逆に経済が成長したおかげで内乱が起きなかったと説明することもできます。結局、もっとも大きな理由は、市場の拡大とさまざまな要因によって、貨幣経済が盛んになったことだと思われますが、その根底にあったのは農業生産力の飛躍的な向上でした。農業生産力の向上が人口の増加を上まわっているかぎり、つまり民衆がじゅうぶんな食料を手に入れているかぎり、王朝から「天命」が去ることもなく、社会が混乱におちいることもありませんでした。こうした社会的な安定のなかで蓄積された資本が、さらなる労働力の活用をうながし、設備投資にもまわって新しい技術の開発も行なわれるようになりました。その結果として、人びとの実質所得もふくれあがっていったというわけです。

しかし、その成長には一定の限界があり、それを超えて文明が質的変化を遂げることは無かった。

宋王朝の時代に起こった急激な経済成長が、その後、停滞してしまった理由についてはよくわかっていません。それから五世紀近くのあいだ、中国人の平均実収は上昇することがなく、生産高は人口の増加に見あう水準をたもつのがやっとでした(農民の収入は、低下の一途をたどりました)。

しかし宋王朝の時代以降に起きた経済停滞は、ヨーロッパ人がいうところのいわゆる「アジア的停滞」を中国にもたらした真の理由ではありません。たとえば印刷術の進歩にもかかわらず、中国の民衆は二〇世紀にいたるまで、ほとんど読み書きができませんでした。また中国の大都市は経済成長をとげ、活発な商業活動を展開していたにもかかわらず、ヨーロッパのように民主的または自由主義的な市民社会を生みだすこともありませんでした。紀元前の戦国時代には、すでに諸子百家とよばれるさまざまな新しい思想が開化していたのですが、その後の中国文明は、ヨーロッパのような啓蒙思想を生みだすこともなかったのです。技術分野でも大きな進歩が起こっていたものの、それらが社会に革命的な進歩をもたらすこともありませんでした。

宋王朝の時代の船乗りたちは、すでに羅針盤を使用していました。しかし、一五世紀に明王朝の武将である鄭和が七度の大航海を行なって、インド、タイ、インドネシア、ペルシア湾、東アフリカなどに艦隊を派遣したとき、その目的はあくまでも明王朝の権威を誇示するところにあり、さらなる遠洋航海そなえて情報を集めることはありませんでした。

中国では紀元前二千年紀(紀元前二〇〇〇~一〇〇一年)にはすでに青銅器の傑作が生みだされ、またヨーロッパより一五〇〇年も早く鉄の鋳造が行なわれていました。しかし、こうしたすぐれた冶金術の伝統は、鉄の製造量がめざましく増大したにもかかわらず、新たな技術の開発にむかうことはありませんでした。さらにいえば、一三世紀に元王朝をおとずれたマルコ・ポーロは、「黒い石のようなもの」が燃えていたのを見たと書いています。実はそれは石炭だったのですが、鉄も石炭も大量に産出していた中国に、蒸気機関が誕生することはついにありませんでした。

このような例をあげていくと、きりがありません。おそらく中国文明は進歩ではなく、何か別の目標を達成しようとしていたのでしょう。ひとことでいうと継続性、つまり社会の安定の維持こそが、中国文明がめざした最大の価値だったのです。

儒教の思想を中心として、早い時代に確立された官僚制度も社会体制も、社会に変革を起こさないことをもっとも大きな目的として生みだされたものでした。第二巻のなかでも少しふれましたが、非常に早い段階で高度な文明を成立させたことと、地形的な孤立、文明圏の内部だけで経済的繁栄が可能だったことなどがあいまって、彼らは外の世界から何かを学ぶ必要を感じなかったのでしょう。

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中国文明がかかえていた矛盾点は、ヨーロッパ世界との接触が本格化する一九世紀までには、すでに誰の目にもあきらかになっていました。つまり中国人は多くの分野で、ヨーロッパ人よりも数百年、ときには一〇〇〇年以上も早くさまざまな技術を開発していたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国の介入を阻止できるだけの科学的発展にいたることは、ついになかったのです。

火薬がそのよい例です。中国人は世界に先がけて火薬を発明したにもかかわらず、ヨーロッパの大砲に匹敵するような武器を生みだすことはできませんでした。それだけでなく、ヨーロッパの職人が製造した大砲を有効に使うことさえできなかったのです。すでにのべたとおり、有効に活用されなかった中国の知的財産をあげていくときりがないのです。

その問題点は、実にはっきりしています。中国人が発明を実用化することに関心がなかった理由は、儒教を基盤とした官僚中心の社会体制にありました。中国の社会体制においては、ヨーロッパのように社会的地位の高い人びとと職人(技術者)たちのあいだに知的交流が生まれることがなく、そのため各分野での技術の発展が、文明全体を前進させる結果をもたらさなかったのです。

偉大な伝統文化に対する自負心のため、中国人はなかなか自国の文化が内包する欠陥を認めることができませんでした。おそらくそのせいで、彼らは外国人(中国人にとってはそのすべてが「野蛮人」でした)から何かを学ぶということが非常にむずかしかったのでしょう。さらに事態を悪化させたのは、儒教の伝統のため、中国文明が軍人や軍事技術者を軽視する傾向にあったことです。その結果、中国は外の世界からの脅威が増大した時代に、対応を大きくまちがえてしまうことになるのです。

 

 

そして、日本がこのシリーズで初めて登場。

まず、その全歴史の前提となった、地理的条件を述べる。

イギリスでは一時期、日本をアジアにおける大英帝国にたとえる議論が盛んだったことがあります。さまざまな観点から共通点が論じられ、なかにはあまり説得力のない説もありましたが、そこにはひとつだけ、反論の余地のないあきらかな事実がありました。それはこの両国が、いずれも海にかこまれた島国であり、国家の運命がその島国という条件によって大きく左右されてきたという事実です。

イギリスの歴史も日本の歴史も、海峡をへだてた大陸とは別の道を歩むことが可能だった一方で、やはり大陸からの影響を強く受けざるをえませんでした。もっとも日本と朝鮮半島のあいだに横たわる対馬海峡は、その距離がドーバー海峡のほぼ五倍あるため、日本はイギリス以上に大陸からの影響を受けずにすんだといえるでしょう。けれどもイギリスがそうであったように、日本もまた対岸、つまり朝鮮半島に強大な政治勢力が出現すると、時の政権は動揺することになりました。そうした状況は、イギリスが対岸のオランダなどへの敵対勢力の侵入を何よりも警戒していたことと、たしかに似ているように見えるのです。

そして、天皇の存在によって権威と権力の分立が成り立ったこと、戦乱期にも順調な発展が見られたことを述べ、前近代の日本が最終的に到達した江戸時代の幕藩体制を、以下のように高く評価する。

江戸幕府とは、ちょうど前章でご紹介した中国の儒教体制と同じく、それぞれの身分に応じた義務を徹底させ、階級にしばりつけることを最大の目標とした政権でした(事実、儒教の影響を受けていました)。それがどれくらい抑圧的なものであったかは、いまとなってはよくわかりませんが、社会に安定をもたらすという点では非常に有効な体制だったといえます。そして長い戦乱の時代のあとで、日本が安定を必要としていたこともたしかだったのです。江戸時代は、人びとがみずからの分(立場や義務)をわきまえることと、規律、勤勉、禁欲が強く求められた時代であり、この政権がうまく機能していたとき、たしかにそれは人類社会におけるもっともすぐれた社会体制のひとつだったといえるでしょう。

「前近代においては」という前提付きの話だろうが、それにしても驚くほどの高評価である。

江戸時代の二六五年間で、農業の生産高は約二倍になりました。一方、人口の伸びはその半分以下にとどまっています。江戸幕府はいわゆる「小さな政府」であり、新たに生まれた富を搾取しつくすような政権ではなかったため、その富は社会にとどまり、投資にまわったり、国民の生活水準を引き上げる役割をはたしたりしたのです。

同時代においてこのような自律的経済成長をとげた社会は、日本のほかにはヨーロッパしかありません。アジアのなかでなぜ日本だけがこうした経済的繁栄をとげたかという問題については、いまだに論争がつづいています。冒頭にお話ししたように、地形的な条件もたしかに大きかったことでしょう。アジア大陸の豊かな国々が、草原の遊牧民たちからたび重なる略奪を受けていたのに対して、日本は海にかこまれているためにそうした略奪を受けずにすみました。さらに江戸幕府が戦乱を終結させて、長い「天下泰平」の時代をもたらしたことは、もうひとつの大きな原因だったといえます。農業分野でも大きな進歩が見られました。耕地の開墾が強力に進められ、灌漑設備に資金が投じられ、ポルトガル人が伝えたアメリカ原産の作物がとり入れられたことも、人びとの生活水準を高めるうえで大きな役割をはたしました。

さらにそうした個々の要素が、相互にあたえた影響についても見ておく必要があります。すでにお話ししたように、江戸幕府が江戸に大名とその家族(さらに家臣たち)を強制的に住まわせたのは、政権の安定のためでした。しかしその結果、大名たちは米を市場に出して現金を手に入れねばならず、資本の流通が刺激されることになりました。また、そうして日本中から集められた資本(貨幣)が江戸で集中的に消費されることで、巨大な消費市場が成立することになったのです(江戸時代の武士とは経済的に見れば、いっさいの生産を行なわず、消費のみを行なう人びとということになります)。

さらに日本が二七〇もの地方政権(大名)によって分割されていたこともあり、各地で特色のある産業が発展していきました。産業革命初期のヨーロッパと同じように、日本の産業やさまざまな製品の製造も、最初は地方から始まったものなのです。幕府もそれを奨励していました。江戸時代のはじめには幕府主導で灌漑事業が進められ、度量衡と貨幣の統一も実施されています。

そして江戸幕府には、社会を統制しようという強い熱意はありましたが、実際の支配力はそれほどではなかったため、経済成長が妨げられることがなかったものと思われます。江戸幕府は、その最盛期にはあたかも絶対君主のように見えたときもありましたが、本質的には各地の地方政権の勢力均衡の上に位置する、大名連合の盟主ともいうべき存在だったからです。

一九世紀後半にヨーロッパからの脅威を受けるまでは、この体制は実にうまく機能していたといってよいでしょう。華やかな都市文化が開花し、のちにヨーロッパの印象派の画家たちにも大きな影響をあたえる浮世絵や、歌舞伎などの大衆芸術が庶民たちの大きな人気を集めるようになっていきました。一八〇〇年当時の日本人の平均所得と平均寿命は、イギリス人とほぼ同じ水準にあったと考えられています。

やがて一九世紀の後半に、日本は欧米諸国から開国をせまられ、明治維新を成立させて近代国家への道のりを歩み始めることになります。この巻ではそこまでふれませんが、それはほかの国には例を見ないような、急激で痛みをともなう自己改革の道だったといえるでしょう。

もっとも、すでに見てきたような経済成長を考えると、たとえ欧米諸国からの圧力がなくとも、幕藩体制が生き長らえることはなかったように思えます。日本では、江戸時代の末期にかけて、すでにさまざまな問題が噴出していました。また幕府の家臣や地方の有力大名のなかには、中国や朝鮮まで視野に入れて、東アジア全体の防衛構想を模索する人びとも出現し始めていました。そしてほかのアジアの民族と同じく強大なヨーロッパ文明の脅威にさらされたとき、日本が選択した道は、同時代の中国の清王朝やインドのムガル帝国とは、まったく異なった道だったのです。

 

 

続いて、インド。

インド史において、マウリヤ朝をはじめとする政治的統一が長期間存続しない理由を以下のように説明。

マウリヤ朝があっけなく衰退してしまった最大の原因は、おそらくインドの長い歴史を通じてつねに存在する、非常に根本的な問題にあったものと思われます。つまりインド社会は家族とカースト制度を基盤として成立しているため、インド人は王朝や国家といった抽象的な存在に忠誠心をもつことは、その後も現在にいたるまで、ほとんどなかったようなのです。そのため民衆がたとえば食料の問題などで不満をもつようになると、帝国の崩壊を食いとめようとする力は、どこにも存在しなかったということなのでしょう。

アショーカ王が帝国全域に「ダルマ」という新しいイデオロギーを広めようとしたとき、成功を収められなかった背景にも、おそらく同じ問題があったのでしょう。さらにいえば、こうしたインドの社会制度、とくにカースト制度は、その後も長くインドの経済発展を妨げつづけることになります。生まれによってすべての社会的行動が規定されるカースト制度のもとでは、経済が停滞し、人びとの活動の意欲がそがれてしまうことは、まったく当然のことだからです。

宗教を中心とする基盤としての文明の強靭性と、その上に立つ王朝・国家の脆弱性というコントラストは、インド文明とイスラム文明に共通するように思われる。

そして、その文明が持つ、強い独自性について。

ここまで見てきたように、ダルマの思想も、また『カーマスートラ』における性愛の肯定も、キリスト教世界やイスラーム教世界のもつ戦闘的でかつ禁欲的な文明の伝統とは、まったくかけ離れたものでした。インド文明はおそらく中国文明などよりももっと、西方の文明とは異なった系譜に属する文明だといえるでしょう。またそこにこそ、インド文明のもつ活力と、外来文化に対する抵抗力の秘密があったのです。

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ヒンドゥー教と仏教はこうした変化を刺激として、最盛期をむかえることになりました。ふたつの宗教が成熟したのは、イスラーム教徒がインド北部を支配するようになる少し前のことでしたが、それ以後もインド文明の根幹をなす基本原理は、異なった文明にいささかも屈することなく、驚くほど強固に受けつがれていきました。インド哲学の中心にあるのは、きわめて大まかにいってしまえば、輪廻転生と梵我一如の思想でした。そこから生まれる世界観は、ヨーロッパ人のような高みをめざして上昇していく直線的な歴史観ではなく、時の流れを超え、無限に循環運動をつづける宇宙観です。

このような基本思想がインドの現在までの歴史にどのような影響をおよぼしたかという問題については、あまりにも大きすぎて、把握するのはほとんど不可能かもしれません。しかし、インド哲学の高い思想性は認めるにしても、その世界観が現実世界に反映されたとき、それは人間の行動の可能性ではなく、限界を強調する方向に作用したという点は指摘せざるをえないのです。

この強靭な独自性を持つインド文明の地に、強力な伝播力を持つイスラム教が侵入し、最終的にはムガル帝国成立に至る。

すでにイスラーム教はインド亜大陸にしっかりと根をおろしており、その後もイスラーム教徒による数多くの地方政権が誕生していったのです。おそらくイスラーム教は、インド文明の長い歴史を通じても、その巨大な同化吸収能力にとって最大の脅威だったといえるかもしれません。

・・・・・・

ムガル帝国の帝位は、一八五八年の滅亡までバーブル帝の子孫に継承されていきました。しかし、第三代皇帝だったアクバル帝のあと、重要な皇帝はほとんどつぎの三人だけといえます。というのも、第四代皇帝のジャハーンギール帝と第五代のシャー・ジャハーン帝のもとでムガル帝国は最大の領土を支配するようになり、第六代のアウラングゼーブ帝の治世に一気に衰退へとむかい始めたからです。

アクバル帝の宗教宥和政策によって、ムガル帝国の統治はようやく安定、続くジャハンギール、シャー・ジャハーン両帝治下で、重税化など衰退の予兆が見られても、その宥和策が何とか維持されていた限り、帝国が根底から揺らぐことは無かった。

だが、次代アウラングゼーブ帝の愚行が全てを暗転させる。

しかし、そうしたシャー・ジャハーン帝による過酷な徴税も、第六代皇帝となったアウラングゼーブ帝(在位:一六五八~一七〇七年)の偏狭な宗教政策にくらべると、はるかに弊害は少なかったといえるでしょう。

この皇帝は、ムガル朝の最大版図を実現したこともあり、高校世界史レベルでは最盛期の君主と見なされがちだが、本書での評価は全く違う。

当ブログでも以前に書きましたが、実際、アウラングゼーブ死後のムガル朝の急激な衰退は世界史的に見ても異常に思える。

結局それは、それぞれ同化力が極めて強い、インド文明とイスラム文明が衝突し、アクバル帝の宗教宥和策があった間は微妙な均衡が保たれ、何とか小康状態を維持していたが、それが放棄されるや、元々極度の社会的緊張状態の上に立っていたムガル帝国は崩壊の道をたどった、ということなんでしょう。

そして、インド、イスラム両文明の衝突が再激化しつつあった時期に、ヨーロッパ人が来航しており、漁夫の利を占めたイギリス人の手によって、オスマン朝・サファヴィー朝・清朝・ムガル朝の近世アジア四大帝国の内、インドだけが完全に植民地化されるという憂き目に遭うことになる。

ところで、ヨーロッパ人がインドで成功を収めることになった責任の一端は、おそらくアクバル帝にもあったといえるでしょう。アクバル帝の時代にヨーロッパ人との本格的な接触が始まったにもかかわらず、彼は早い段階で危険の芽を摘みとることをしなかったからです。驚いたことにムガル帝国は、海軍の創設を考えたこともなかったようです。その結果、アウラングゼーブ帝の治世には、早くもヨーロッパ人のせいで、沿岸での船積みやメッカへの巡礼交易までが危険にさらされることになったのです。

・・・・・・

こうしてインドはみずからの歴史を歩むのではなく、世界の歴史のなかで翻弄される時代をむかえようとしていました。この時期までに起きたさまざまな出来事が、そのことを示していたのです。

しかし実際のところ、ムガル帝国に終焉をもたらした原因は、ヨーロッパ人の到来ではありませんでした。ムガル帝国はみずからの内部要因によって崩壊へとむかい、ヨーロッパ人はただその場に居合わせたにすぎなかったのです。けれどもそのことが、のちに非常に重大な意味をもつことになるのです。

 

 

この後、「孤立した世界」と題して、アフリカ大陸とアメリカ大陸を扱った章がある。

アフリカ大陸とアメリカ大陸は、ほかの地域とはまったく異なるリズムで文明化への道をたどることになりました。もちろんアフリカとアメリカでは、事情は大きく違います。南北両アメリカ大陸は、氷河期以降、ほかの大陸とは海で完全にへだてられており、長いあいだまったくの孤立状態にありました。

一方、アフリカ大陸はその北岸部、つまり地中海沿岸部は古くから文明の先進地でした。それ以外の地域も、かなり孤立した状態だったとはいえ、七世紀以降はイスラーム勢力など外部との接触が始まっています。ほとんど沿岸部に限られていたものの、最初はアラブ商人、つづいてヨーロッパの商人たちとの交易関係も、わずかながら行なわれるようになっていたのです。

けれども大きな視点からいえば、アフリカ大陸の大部分は一九世紀後半まで、世界史の本流に組みこまれることはありませんでした。そうした孤立状態のため、アフリカ大陸とアメリカ大陸の歴史には、いまなお解明されない部分が数多くのこされているのです。

アフリカについては、それが持っていた地理的自然的条件が文明化への大きな障害になったことを指摘。

農業の歴史を見てみると、アフリカ大陸がその過酷な自然環境のために、文化的な発展を阻害されていたことがよくわかります。とくにサハラ以南のアフリカは、地形や気候、疫病などが重い足かせとなって、大きな発展を望むことはむずかしかったようです。アフリカの歴史において、鉄器の製造法や新しい農作物は、つねにオリエントやアジア、インドネシア、アメリカなどからもたらされたものでした。また蒸気機関や医薬品は、一九世紀にヨーロッパから伝えられたものです。そうした外来の技術がなければ、アフリカの過酷な自然に対処するのは非常に困難なことだったでしょう。

アフリカ最初の国家がクシュ王国、それを滅ぼしたアクスム王国があったエチオピアは北部以外のアフリカで唯一のキリスト教国となり、その後イスラム教が伝わり、多くの王国で信仰されるが、それには一定の限界もあった。

いくつか確実なこともあります。たとえばネグロイド(黒色人種)系の国においては、王や支配階級がイスラーム教を信仰していたときも、一般の民衆は土着の宗教を信じつづけていたということです。社会慣習も、すべてがイスラーム化したわけではありませんでした。アラブの旅行者や商人たちは、マリ王国の少女たちが衣服をつけず、裸で人前に出ていることに非常にショックを受けていたようです。

著名なガーナ、マリ、ソンガイなどの他、サハラ以南の諸王国の名が知られているが、そのどれもがある段階以上の発展を遂げることは無かった。

こうした王国の痕跡は、いまではほとんどのこされていません。またそうしたアフリカの諸王国には、長いあいだ、役人や常備軍も存在しませんでした。王たちは伝統や習慣に沿って国を治めており、その権力はあまり大きなものではなかったようです。そうした理由から、アフリカで興った多くの「国家」が短命に終わったことは、ほぼまちがいありません。長い歴史をもつクシュ王国は、エジプト以外のアフリカの国としては、まったく例外的な存在だったのです。

 

 

続いて、アメリカ文明。

ヨーロッパ人到達以前の北米については、アフリカ史に関しての黒色人種と同様、先住民族への偏見・差別に繋がらないよう、細心の注意を払った上で、客観的に全世界史を叙述すれば、文明的にはほぼ白紙と見なさざるをえない。

北アメリカの先住民の文化には、たしかに尊敬に値するところもあるのですが、それが文明とよべるほどのものでなかったことも事実です。アメリカ大陸でそのような段階にまで達していたのは、つぎの三つの文化だけでした。つまり、中央アメリカのユカタン半島周辺に生まれたマヤ文明、同じく中央アメリカのメキシコ盆地に生まれたアステカ文化、もうひとつは南アメリカのペルー(中央アンデス地方)に生まれたインカ文明です。

そのうち、アステカ文化に対する著者の評価は鮮明である。

アステカの宗教は、その身の毛もよだつ儀式――犠牲から生きたまま心臓をとりだしたり、首を切り落としたりしていました――によって、ヨーロッパ人に大きな衝撃をあたえました。

アステカ人は祭儀に必要な犠牲には、戦争捕虜をあてていました。またアステカの戦士たちは戦闘で死ぬと、太陽神がつかさどる楽園に行けると信じていました。そのため、アステカ王国にとって平和とは、長くつづいてはならないものだったのです。アステカ人は従属国の統治をなおざりにし、反乱が起きればこれ幸いと攻撃をかけ、犠牲のための捕虜を手に入れていました。これでは従属国からの忠誠心など、得られるはずもありません。アステカがヨーロッパ人に滅ぼされたとき、従属国の人びとはさぞかし喜んだことでしょう。

アステカ人の信仰はまた、ヨーロッパ人との最初の接触において、皮肉な役回りを演じることになりました。というのも、彼らは偉大なる神ケツァルコアトルが、東方からもどってくるという信仰をもっていたのです。白い肌をもち、ひげを生やしたケツァルコアトル神は、アステカ人に文化を教えたあと、東方の海岸で姿を消したと伝えられていました。そのため、コルテスひきいるスペイン軍を見たアステカ人は、彼らをケツァルコアトル神の再来と考え、戦うことをためらったのです。

アステカ文化を全体として見ると、すぐれた美術品をのこし、高度な社会を営んでいたにもかかわらず、野蛮で魅力に乏しい文化だったといわざるをえません。民衆にあれほど大きな負担を強いた文化は、ほかにはほとんど存在しないからです。

これをアメリカ先住民を侵略したヨーロッパ人の側に立つ暴論と言えるだろうか?

私にはそうは思えない。

著者が言及しているのは、あくまでアステカ文化に関してだけであり、インカ文明については何も言っておらず、そのアステカ文化への評価に違和感は感じない。

西洋文明を絶対視し、それ以外の全ての文化を野蛮視するのはもちろん間違いだが、極端な文化相対主義に立って、文明間のあらゆる価値判断を放棄するのも間違いだ。

人身御供や拷問、奴隷制、女性と子供への虐待が広範に見られる文化とそうでない文化の優劣は間違いなくある。

その際、表面的なイメージに動かされないよう、慎重に判断する必要があることは言うまでもないが、基本はそう考えるしかない。

著者の章末尾の文章にも同意せざるを得ない。

このように、すべてのアメリカ文明は基本的な部分で、アジアやヨーロッパで成立した文明とは大きな違いをもっていました。インカ人は独自の記録法をもちいて複雑な行政機構を維持していましたが、高度な読み書きの能力を身につけることはありませんでした。技術についても、特定分野の技能は高い水準にあったものの、ほかの文明に影響をあたえるほどの技術を生みだすことはありませんでした。そのため、アメリカの諸文明は独自の文明を形成することはできましたが、彼らがその文明を通じて世界の歴史に貢献することは、それほど多くはなかったのです。

もっとも、文明が出現する以前になしとげられていた、世界に対するアメリカ大陸の貢献は、非常に大きなものでした。はるか昔にアメリカ大陸の人びとは、トマトやトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャを栽培する方法を発見し、人類の食料資源を大いに増やしてくれていたのです。アメリカ大陸ではそれらの食料資源をもとに、マヤ、アステカ、インカなど、きわめて興味深いいくつかの文明が築かれていきました。しかし、それらの文明は、最終的には世界史の辺境に、美しくめずらしい遺跡をのこすだけで終わる運命にあったのです。

 

 

続いて、中世ヨーロッパ。

「中世」という言葉は、ヨーロッパ以外の文化圏でもごく一般的に使われているようですが、もともとこれはヨーロッパ独自の歴史観にもとづく、かなり否定的な意味をもった言葉でした。つまり、「現代(近代)」と「古代」の中間に位置する、ほとんど重要性のない時代という意味を含んでいたのです。

最初にこの「中世」という言葉を考えだしたのは、一五~一六世紀のヨーロッパ人でした。当時彼らは、長く忘れ去られていた古代ギリシア・ローマ文明を「再発見」し、はるか昔に存在したその偉大な文化にすっかり魅了されていたのです。その一方で彼らはまた、自分たちの暮らす社会にも新しい変化が起こりつつあることを感じ始めていました。その結果、当時のヨーロッパ人のあいだに、自分たちの生きる時代は、かつての偉大なる古代の「再生」であり、そのあいだに横たわる期間はたんなる空白期間にすぎないという考えが生まれることになったのです。

けれどもヨーロッパの歴史において、約一〇〇〇年もの時間をしめるこの中世という時代・・・・がたんなる空白期間ではなかったという認識が、やがて少しずつ広まっていきます。そしてあるとき大転換が起こり、まるでそれまで無視してきた埋めあわせをするかのように、ヨーロッパ人はこの「失われた一〇〇〇年」を賛美し、理想化するようになったのです。

騎士道を題材にした歴史小説が人気をよび、地方には中世貴族の城をまねた新興富裕層の大邸宅が建ち並ぶようになりました。さらに重要だったのは、中世の文献研究が盛んになったことです。しかし、そうした多くの進歩が見られる一方で、本質的な理解を妨げるような弊害ものこることになりました。その一部は、現在でも依然としてのこされています。つまり中世キリスト教社会に存在した宗教的統一性や表面的な安定性を理想化するあまり、その奥に隠された多様性が見えにくくなってしまったのです。

とは言え、中世という時代は、何よりもキリスト教の時代であり、その影響が18世紀末に至っても残っていたことを著者は認める。

この巻では11世紀中世盛期から15世紀末までを、近世への変化を生み出した「ヨーロッパ世界の第二の形成期」「最初の革命の時代」として捉える。

その主題はもちろん国際的勢力としてのローマ教会の衰退と近世的国民国家の形成。

個々の教皇の無能・腐敗よりも、教皇制度そのものがイタリア以外の国から民族的反発を買うようになったことが、ローマ教会の衰退を招いたが、キリスト教信仰そのものは近世に入っても社会の中で大きな役割を果たしていたことも、本書では強調される(だからこそ宗教改革が起こったわけだから)。

少し話は変わりますが、私たち現代人は、もちろん国家という概念になじみをもっています。世界は固有の領土をもつ国家によって分割されており、各国にはそれぞれ外部から干渉されることのない「主権」が存在するという合意が広く認められています。また国家はある程度、民族的なまとまりにもとづいて構成されているという一般的な認識も存在しているといってよいでしょう。

このような考えは、実は紀元一〇〇〇年ごろのヨーロッパ人には、まったく理解できないものでした。ところが一五〇〇年ごろになると、かなりの数の人びとがそのことを理解するようになっていたのです。おそらく近代という時代の幕開けを示すもっとも重要な指標のひとつが、この国民国家という概念の成立だといえるでしょう。

そしてヨーロッパ史が持つ特殊性として、自立的なブルジョワ階級の存在を挙げる。

中産階級の出現をもたらした歴史的経緯は、よくわかっていません。・・・・・おそらく都市文化が開花した背景には、ヨーロッパ特有の要因が数多く存在していたのでしょう。どんな古代文明(古代ギリシア文明は例外とします)においても、またアジアやアメリカの社会でも、ヨーロッパのように都市生活のなかから新たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起こりませんでした。その理由のひとつとしては、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象となることが非常にまれだったという点が指摘できるかもしれません。ヨーロッパの政治権力は長く分断されていたため、権力者たちはライバルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガチョウ」を大切にするようになったのです。一方、たとえばアジアの大半の地域では、戦闘があるたびに都市がくり返し略奪されていました。

もちろん、それだけですべてが説明できるわけではありません。階級こそあったものの、ヨーロッパにはインドのようなカースト制度もなければ、中国の儒教のような人間の進歩を妨げるような思想もなかったことは、おそらく重大な意味をもっていました。さらには、ほかの文明圏では都市の住民たちは、たとえ裕福な人びとであっても社会的に低い地位に甘んじていたようです。ところがヨーロッパでは、商人や職人、弁護士、医師たちがそれぞれの仕事に誇りをもち、土地を所有する貴族たちからただ支配されるだけの存在ではなくなっていました。ヨーロッパの社会は変化や進歩に対して扉を閉ざしておらず、軍人や宮廷の官僚以外にも出世の道を開いていたというわけです。

知的側面でも、著者は中世ヨーロッパがイスラム文明から多くの影響を受けたことを通説どおり認めつつ、中国とインドの両文明がヨーロッパに影響を与えることが無かったことを指摘。

イスラーム文明のもつ文化的な受容能力と伝達能力を考えると、その存在がヨーロッパと東アジアのあいだに障壁をつくっていたとは考えられません。それよりも中国やインドの文明が、そうした距離を乗りこえてまでヨーロッパに影響をおよぼすだけの力がなかったというほうが事実に近いのでしょう。結局のところ、交流がさほどむすかしくなかった紀元前のヘレニズム時代でさえ、中国やインドの文明がヨーロッパに大きな影響をおよぼすことはほとんどなかったのです。

そしてルネサンスというヨーロッパ文明の自己革新について、少なくともその初期・中期においては中世との断絶との見方に強く釘を刺し、以下のように記す。

ルネサンスについて語る場合、この用語を使える文脈には限界があることをよく認識しておいたほうがよいでしょう。もしもルネサンスを、中世のキリスト教文明と一線を画す新しい伝統という意味で使ってしまうと、それは歴史をゆがめる行為となります。ルネサンスは有効な神話でしたし、現在でも有効な神話です。人間が自己を正しく認識し、行動するうえで非常に有効な考え方のひとつです。しかし、いかなる形であれヨーロッパの歴史において、ルネサンスと中世のあいだに線を引くことはできません。

なお、中世末から近世にかけての技術の中で、「たったひとつの技術上の革新がこれほど大きな変化をもたらした例は、人類の長い歴史のなかでも印刷術のほかにはなかったといえるでしょう。」と述べ、その意義を強調している(長期的に見て、以後の情報技術の発達が全てそうであるように、その弊害も桁違いだと私には思えるが)。

こうして中世を潜り抜け、近世に達したヨーロッパ文明の力量の総括。

逆境にくじけずに耐え、過去の文明の残骸や異民族から伝わった文化を集めてキリスト教世界を築いたヨーロッパ人は、知らぬまに巨大な文明の基盤を構築することに成功していました。しかし、それがさらなる発展をとげるためには、まだまだ時間が必要でした。一五〇〇年の時点では、未来がヨーロッパ人のものになるという兆候はほとんど見えていませんでした。ほかの民族の文明に対して、ヨーロッパの文明があきらかに優位にあるという証拠はどこにも存在しなかったからです。たとえば先陣を切って海外へ進出したポルトガル人は、西アフリカで現地の住民から砂金や奴隷を略奪していましたが、その一方ではペルシアやインドで遭遇した大帝国に圧倒されていたのです。

16世紀時点では、サハラ以南のアフリカと新大陸アメリカの先住民文明に対しては圧倒的優位に立てたヨーロッパ文明だが、アジアの諸帝国に対しては正面から戦えるような状態ですらない。

それが可能になるのは、19世紀、産業革命以後である。

日本を考えても、16・17世紀に帆船で来た「南蛮人」は簡単に追い払い、鎖国できたが、19世紀に「黒船」という蒸気船で来た欧米人に対しては開国せざるを得なかった。

最後にキリスト教思想の影響について。

この時代を理解するためには、それほどまでに変化にとぼしかった巨大な時の流れをよく認識しておく必要があります。おそらくそうしたヨーロッパの中世社会と、その奥深くに埋もれていた近代社会との関係を解く鍵は、キリスト教が本質的にもっている二元論のなかに見いだすことができるのでしょう。つまり魂とその牢獄である肉体、苦難に満ちた現世と幸福な来世、汚れた地上の国と輝ける天上の国という対立です。この二元論はやがて宗教的な思想を離れ、過去から進歩した現在、現在から進歩した未来という歴史観を生み、無限の進歩をめざすヨーロッパ文明の大きな武器となっていくのです。

このくらいの話になると、私の頭ではもう理解できないし、その是非も判断できない。

 

半分終わりました。

以後も続けます。

2017年1月6日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 2 古代ギリシアとアジアの文明』 (創元社)

Filed under: アジア, ギリシア, 全集 — 万年初心者 @ 05:52

古代ギリシアと中国、インドの巻。

まず、古代における最先進地帯であるオリエントからの、インド・中国両地域の「孤立」という、普段我々が意識しない観点を提示。

人類がはじめて手にした文明は、紀元前三〇〇〇年までに成立した古代オリエント文明でした。メソポタミアやエジプトなど、各地で誕生した古代文明は、その後、相互の接触が始まるにつれ、いい意味でも悪い意味でもたがいに影響をおよぼしあうようになっていきました。地域ごとの文化的なへだたりは依然として大きなものでしたが、オリエント世界全体を横断するような文化的伝統もまた、生まれ始めていたのです。

一方、オリエントの文明とはほとんど無関係に独自の文明を成立させた地域もありました。その代表的な存在がインドと中国です。

メソポタミアやエジプトなどオリエントの先進地域と、インド、中国のあいだに横たわる物理的な距離、そして地形的な特徴を考えると、両者のあいだにあまり交流がなかったことは当然といえるでしょう。しかしインドや中国がもつそのような「孤立した環境」は、その後の世界の歴史を見るうえで非常に重要な意味をもっています。このふたつの文明はオリエントの文明とはちがって、以後何千年にもわたって外部から影響を受けることなく、独自の文化的伝統をたもちつづけていくことになるからです。

インドや中国の文明にとって、ほかの文明との接触はごくたまにしか起こらず、それも周辺部に限定されたものでした。その結果、のちに外の世界との接触が本格的に始まったときには、外部からの影響に押しつぶされないだけの文化的伝統がすでに確立されていたのです。考えてみてください。それから長い時をへた今世紀になっても、カースト制度はまだインドの社会を支配していますし、儒教もまた、依然として中国や韓国の知識階級に大きな影響をあたえているのです。

インド文明と中国文明の文化的影響は天然の境界を越え、のちには国家の壁も越えて大きな広がりを見せることになります。

このふたつの文明は現在でも大きな影響を社会にあたえているという点で、ほかの古代文明とは、はっきりした違いをもっています。

そして世界の歴史という観点から見ても、インド文明と中国文明が人類にもたらした影響は、はかりしれないほど大きなものなのです。

「孤立した」文明の中でも、(南北アメリカ大陸やアフリカとは異なり)インドと中国の強靭性・重要性は確かにずば抜けている。

・・・・古代インド文明の初期の歴史が闇につつまれているからといって、その社会制度や宗教が、どんな偉大な文明のものよりも長く行きつづけたという事実が消えるわけではありません。驚くほど包括的な世界観、個人の人権を無視した制度、過酷なまでの死生観、単純に物事の善悪を判断しないという基本姿勢などが、その後のインド文明の性格を決定していくことになります。遠く離れたキリスト教社会などでは、こうしたインド思想に異質なものを感じる人びとが多いようです。けれどもインドの思想と文明が、キリストが誕生する一〇〇〇年も前に形成され、しかも現在にいたるまで行きつづけているという事実を、私たちは忘れてはならないでしょう。

・・・・・・

中国の歴史を考えるとき、何よりも驚かされるのはその長さと継続性です。中国には現在まで、およそ三〇〇〇~四〇〇〇年にわたって「漢民族」による国家が存続し、秦の始皇帝による中国統一から数えても、すでに二二〇〇年がたっています。もちろんそれ以降、分裂したり異民族に支配された時代はありましたが、とにかく中国では、ひとつの民族が同じ国土のうえに数千年もの期間、高度な文明を維持しつづけ、現在にいたっているのです。これは世界史を見わたしてみても、きわめて稀なことだといわざるをえません。わずかに、はるか昔に滅亡した古代エジプト文明が、その長さで肩を並べることができるくらいなのです。

・・・・・・

中国文明の特色は、それが文化的であると共にきわめて政治的でもあるという点にあります。前の章で見た古代インド文明は、文化が政治よりどれだけ重要なものとなりえるかを示すよい例だといえるでしょう。一方、中国文明においては、文化の重要性が別の形で示されています。つまり中国では、文化の力がすなわち政治的な力となり、そのことによって広大な国土の統一が維持されつづけたということです。くわしい経緯はよくわかっていませんが、とにかく中国文明はごく早い時期に、統一国家を運営するための制度と文化をワンセット、みごとにつくりあげたのです。そのいくつかは現在も確実に存続しています。世界史的スケールから見れば、二〇世紀の共産主義革命をへて成立した現在の政権も、それ以前の王朝とそれほど本質的な差はないとすらいえるのです。

東部を大洋、西部を砂漠、西南部を山脈に仕切られた中国の地形的孤立が、その伝統を育んだ。

アフリカ、アメリカ、ヨーロッパなど、他の「孤立した」地域では、ほとんどすべての民族が発展に遅れを取った。

だが、ほぼ唯一の例外として、ヨーロッパのある一民族だけが異様なまでの発展と拡大を遂げることになる。

そのような古代ヨーロッパの民族の中で、注目すべき民族がひとつだけあります。彼らは先にふれた「オリーブ栽培線」の南側である中部イタリアに定住し、早くも紀元前八世紀にはイタリア南部のギリシア人やフェニキア人の植民市と交易を行なっていました。そしてそれから二〇〇年のあいだに、ギリシア文字を使って自分たちの言語を書き記し、イタリア半島に数多くの都市国家を建設して、すぐれた芸術作品を生みだすようになるのです。彼らエトルリア人とよばれる民族が参加して築いた都市国家のひとつは、やがてローマという名で知られることになります。

ローマの発展は次巻でのテーマとなる。

なお、1巻に続くオリエント史の時代変化を以下のように概括。

このようにいちだんと複雑になっていく世界の歴史を、年代別にきれいに区切ることなど、とてもできる話ではありません。大まかにまとめてしまうと、インド・ヨーロッパ語族の移動や鉄の時代の到来、文字の伝播といった複数の要因によってオリエントのさまざまな文化が完全に混じりあったのは、ヨーロッパ文明の母体となる地中海文明が登場するかなり前のことでした。

あえていうなら、オリエント地方の文明が重要な一線を越えたのは、紀元前一千年紀のはじめあたりということになるでしょう。そのころには古代オリエント地方全体を揺さぶった民族の大移動という「大事件」はすでに終わっており、ジブラルタル海峡からインダス川へといたる広大な地域に文明が受けつがれていたのです。そして紀元前一千年紀の半ばにペルシアという新しい勢力が台頭し、エジプトやバビロニア、アッシリアの伝統が衰退したことで、新しい時代にむけた歴史的枠組みが整えられていくことになるのです。

ものすごく大雑把に言えば、前3000年辺りで文明成立、前1500年前後に印欧語族などの民族大移動、前500年前辺りでペルシア帝国による統一というのがオリエント史の流れ。

アジアとヨーロッパがたがいにあたえあった文化的影響について話すのは、まだ時代が早すぎるかもしれません。それでもこのふたつの地域が、すでにこの時代にたがいに影響をおよぼしあっていたことは、実例をあげて説明することができます。それはまた、古代世界の終わりをはっきりとつげる出来事でもありました。

こうして私たちがたどりつつあるこの長い歴史物語も、さらに新しい時代に入っていくことになります。旧世界のいたるところで、ペルシア帝国はさまざまな民族を共通体験で結びつけていきました。インド人、メディア人、バビロニア人、リディア人、ギリシア人、ユダヤ人、フェニキア人、エジプト人など、さまざまな民族がはじめてひとつの帝国の統治下におかれ、ひとつの文明を共有したのです。ペルシア帝国が採用した「折衷主義」は、人類の文明がどれだけ成熟した段階に達したのかを教えてくれます。オリエントではこれ以降、個別の文明の歴史をたどる意味はなくなります。多くのものが共有され、あまりにも融合が進んだ結果、もはや個々の文明の系譜を見分けることができなくなるからです。

このように、著者は、ペルシア帝国を単なるオリエント史の単線的発展上に捉えるのではなく、オリエント文明そのものの誕生とイスラム教成立の間における最も重要な転機と考えているようだ。

そして本書の叙述は、いよいよギリシア文明へと入る。

歴史の世界では、古代ギリシア文明が最盛期をむかえた紀元前五世紀から紀元前四世紀の末近くまでを「古典期」とよびます。年数だけでいえばこの時代までに、人類の「文明に関する物語」は半分以上終わった計算になります。紀元前五世紀に生きていた人びとから見ると、現代人である私たちのほうが、はじめてメソポタミアで文明を築いた人びとよりも時間的には近くにいることになるからです。

最古の文明が生まれてからこの「古典期」までには、約三〇〇〇年もの時間のへだたりがありました。人びとの日々の暮らしはゆっくりとしか変化しませんでしたが、大きな視点から見れば、このあいだに人類は着実に進歩を重ねていきました。前の章でもご説明したとおり、人類最古の文明であるシュメール文明とアケメネス朝ペルシアのあいだには、統治の方法や文化の融合状況など、質のうえで大きな差が存在しています。

きわめて大胆にいってしまえば、この紀元前五世紀ごろを境にして、人類が文明の基礎を築いた時代はほぼ終わりをつげたといってよいでしょう。そのころにはすでに地中海沿岸から中国までの広大な地域に、さまざまな文化的伝統が確立され、いくつもの高度な文明が誕生していたのです。

紀元前3000年に文明が誕生し、それから現在まで約五千年、そのちょうど中間時点である紀元前500年には、世界各地で独自の文明が成立、その並立・均衡状態が約二千年続き、西暦1500年前後以降ヨーロッパの世界進出が始まり、「世界の一体化」が進行、というのが最も単純化された世界史の流れになる。

(少し前に話題になったマクニール『世界史』もそのような構成になっている。)

その紀元前500年頃存在した諸文明の中で、ただ一つ、ギリシア文明だけを、著者は最も注目すべきものとして、特別視する。

そうした文明の多くは孤立状態にあり、ほかの文明にはほとんど影響をあたえませんでした。偉大なるオリエントの文明でさえ、バビロンの陥落以降、ときおり侵略を受ける以外は外の世界とあまり交流がありませんでした。ところがその中で、紀元前六世紀にすでに台頭しつつあったギリシアの文明だけは、発祥地である東地中海を越えて、大きく外の世界に広がっていく可能性を示していたのです。

それはもっとも新しく誕生した文明でしたが、その後めざましい成功をおさめ、のちにローマ文明へ受けつがれたその文化的伝統は、一〇〇〇年ものあいだ、とぎれることなくつづいていくことになります。そして何よりも注目すべきことは、この活力に満ちた文明が人類の歴史にのこした豊かな土壌には、現代のヨーロッパ文明、ひいては近代文明を形成することになる重要な要素が、ほとんどすべて存在したということなのです。

東地中海に誕生したギリシア文明は、それに先だつ古代オリエント文明やエーゲ海文明から大きな影響を受けていました。なかでも重要なのは、フェニキア人のアルファベットを改良して、ギリシア文字(ギリシア・アルファベット)をつくりだしたことでしょう。そのほかにもギリシア文明は、エジプトやメソポタミアに起源をもつ思想や、ミケーネ文明のなごりなど、さまざまな文化をとりこんで発展していきました。

ギリシア文明とそれにつづくローマ文明、いわゆる地中海文明は、成熟したのちもそのような多様性を失うことはありませんでした。硬直した体制におちいることは決してなく、きわめて多彩な発展をとげていったのです。この文明がはっきりとした統一性を確立したときでさえ、周囲に存在したほかの文化と区別するのはむずかしく、文明の境界線は遠くアジアやアフリカ、異民族の住むヨーロッパや南ロシアへと広がって、きわめてあいまいなものになっていました。さらにのちの時代になって境界線がはっきりと確立されてからも、地中海文明はほかの文明と多彩な交流を行なっていたのです。

この文明はそれ以前に栄えたどの文明とくらべても、あきらかに歴史を進歩させる「偉大な力」をもっていました。たとえばそれまでの文明は政治的な大変化が起こっても、制度自体はそのままのこされるケースがほとんどでした。ところが地中海文明は短いあいだに何度もみずから制度を変え、さまざまな政治体制を試みています。

また宗教についていえば、ほかの文明では、文明と宗教は事実上、生死をともにする運命共同体となっていました。それに対して地中海文明は、はじめは土着の多神教を信仰していましたが、最後には外来の一神教であるキリスト教を採用します。のちにローマ帝国が国教としたことで、キリスト教はやがて世界宗教としての道を歩むことになるのです。

これは世界史的な観点から見ても、きわめて大きな出来事でした。その後、世界じゅうに広まったキリスト教の影響力を介して、地中海文明の伝統は、人類の歴史の中で長く広く伝えられていくことになるからです。

・・・・・

「古典」とは、何もヨーロッパだけに存在する概念ではありません。ほかの文明にも、もちろんそれぞれの「古典」や「古典期」が存在しています。「古典」とは、人びとが過去のある時期をふり返って、そこにみずからの手本とすべき「模範」を見いだすことによって成立する概念だからです。その意味で後世のヨーロッパ人にとって、古代ギリシア文明はまさに「古典」となりました。のちのルネサンス期にヨーロッパ人が古代ギリシア文明を再発見したとき、彼らはそのすぐれた美術品や人間中心の考えかたにすっかり魅了されてしまったのです。

当時のギリシア人の中にも、自分たちは特別な人間で、自分たちの文化と時代は特別なものだと考えた人びとがいました。現代の私たちから見ると、その理由には納得できない部分もあります。それでも、あの文明がまぎれもなく特別な文明だったことは、疑いようのない事実といえるでしょう。活力にあふれ、絶えず前進をつづけ、数えきれないほどの技術や制度、文化を生みだしたこの文明によって、その後の世界は大きな可能性を獲得することになります。なかでも思想・哲学など、精神文化における世界史への貢献には、はかりしれないものがあるのです。

後世の人間が古典世界の理想に学ぼうとするとき、たしかに時代錯誤におちいったり、過去を美化しすぎたりする傾向があることも事実です。しかし、そういう点を割り引いてもなお、古代ギリシア文明には誰も消すことのできない偉大な業績がのこります。それはいまでも西洋文明の根幹をなしており、その文化的伝統は現在の私たちの暮らしに直接つながっています。だからこそ私たちは、それ以前のどの文明よりも、はるかにこの古代ギリシア文明に共感することができるのです。

この著者の見解を、手垢の付いた時代錯誤的な西洋中心主義に基づく、偏ったギリシア礼賛だと見るべきだろうか?

私にはそうは思えない。

私は、例えば、民主主義というものを生み出したことで古代ギリシアを賞賛するような立場には全く立っていない(むしろプラトンが民主主義への批判として政治学を創めたことこそが、ギリシア文明の最も偉大な遺産だと考える)が、それでも古代ギリシア文明が、他の全ての文明の中で、現代人にとって特別の意味と卓越性を持っていることには十分同意できる。

変な劣等感は持たずにそのことは素直に認めた方が良い。

現在の欧米人がそれについて余程傲慢な態度を示した場合には、ギリシア文明は欧米だけでなく全人類の遺産だと言い返せばいいんです。

通常、多くの人びとにギリシア文明最大の功績と思われている、民主主義の誕生について。

アテナイの民主政に対する批判は、これまで何度もくり返し行なわれてきました。たしかにアテナイの民主政をあまりに美化して考えるのは歴史をゆがめる行為です。しかし、むやみに攻撃するのもまた、歴史を誤る行為だといわざるをえないでしょう。

・・・・・・

ヴィクトリア朝時代のイギリスと同じく、古代アテナイでも政治は長いあいだ、貴族の系譜につらなる人びとの手にゆだねられていました。政治に参加する資格が血筋のほかにもあるとすれば、それは政治に必要な財力と時間でした。たしかに陪審員や民会の出席者には手当が支給されていましたが、その額はわずかなものだったからです。・・・・・こうした事実は、アテナイの民主政を批判する側も、理想化する側も、見落としてしまうことが多いようです。アテナイの民主政がそれほど厳密なものでなかったのは、そのように実質的な参加者が限られていたからなのかもしれません。・・・・・

アテナイの民主政は誕生した当時から、積極的な外交政策を打ちだしていました。・・・・・その結果、ペロポネソス戦争を誘発した責任も、都市国家間の対立を生みだした責任も、すべて民主政の出現に負わされる結果になりました。たしかにそれは後世の批評家が指摘するように、アテナイに悲劇をもたらしただけでなく、ギリシア全土の都市国家に党派の争いや社会闘争の苦しみを芽ばえさせてしまったのです。・・・・・トゥキュディデスの著書は未完に終わり、四〇〇人による寡頭政権が生まれた紀元前411年の段階までしか記されていませんが、その終わりの部分には自分を追放した生地アテナイに対する不信と幻滅がにじんでいます。また有名なプラトンの著作も、紀元前三九九年にソクラテスを処刑したアテナイの民主主義者たちを批難し、彼らに永遠に消えない不名誉の烙印を押しているのです。

アテナイの民主政は、女性やメトイコイ(外国人居住者)、奴隷を排除していました。そうした事実を考慮に入れると、アテナイの民主政の評価はかなり下がってしまうかもしれません。けれども、はるか後世になって到達した地点からふり返って、アテナイを低く評価するべきではないでしょう。歴史は段階を追って進んでいくものなのですから、時代を考慮に入れない比較をしても無意味なのです。二〇〇〇年以上たったいまでさえ完全には実現されていない理想と比較するのではなく、同時代のほかの事例と比較しなければ意味がないのです。

・・・・・・

アテナイの政治がもつ欠点は、すべてそのような前提のもとに議論される必要があります。どんな政治制度についてもいえることですが、アテナイの民主政を評価する際にも、それがもっともうまく機能していた時期を評価の対象にする必要があります。たとえばペリクレスが指導的立場にいたときのアテナイの民主政は、まちがいなくすばらしいものでした。彼らは「みずからが選んだ政治の結果について、個人が責任を負う社会」という神話を私たちにこのしてくれたのです。

はっきりいいましょう。政治にはすぐれた政治的神話が何よりも必要なのです。ですから私たちはこれから、もっとすぐれた政治的神話を探していかなければならないのです。

著者のギリシア民主政に対する評価は極端に一面的なものではないと思えるものの、それでも私には隔靴掻痒の感がある。

現在においても、「政治的神話」が必要である、という点には同意するが、はっきり言って民主主義という神話は出来が良くない。

国家の統一と伝統を体現する世襲君主が君臨するが、実質的統治には携わらず、君主を支える貴族が真摯な公的議論に基づく政治を行い、民衆は最低限の拒否権と貴族と相対する代表選出の権利を持ち、歴史的伝統という最高の権威の下に君主と貴族と民衆の三者が並立する、抑制と均衡を保った政体という神話の方が遥かに優れている。

有史以来、そうした「真の共和政体」(塩野七生『ローマ世界の終焉』ユーゴー『レ・ミゼラブル』参照)に人類が最も近づいたのは、18世紀イギリスにおいてでしょう。

私には、あの時代が「進歩」の極限だったと思えます。

それ以後のあらゆる革命と変化は無意味な逸脱に思える。

明治維新後の日本も、一時期上記の理想に近づくと思えたのだが、結局は無残な失敗に終わり、現在はただ滅びを待つだけの衆愚民主主義国になってしまいました。

著者は、アテナイ民主政への最大の批判者プラトンの思想について、以下のように記す。

プラトンはソクラテスの思想の多くを踏襲しましたが、ここに見られる理想の国家観は、ソクラテスとはまったくちがったものでした。プラトンが理想とした国家では、大多数の人が教育と法律のもとで管理され、ソクラテスが生きるに値しないと評した「エレンコス(吟味)のない生活」を強いられているからです。

プラトンの民主主義批判を後世の全体主義の起源とするかのような記述は全く凡庸で同意できるところがない。

民主主義がもたらす伝統破壊と無秩序こそ、自律に基づく自由のない、「吟味のない生活」としての全体主義を生み出す原因である。

とは言え、以下の記述には全く違和感なし。

哲学と並んで歴史を「発明」したことも、ギリシア文明の大きな遺産といえるでしょう。それまでの古代国家では、たんに出来事を記した年代記のような記録が存在するだけでした。ところがギリシアの歴史書は、高い文学的価値と学術的視点をもつ作品として生まれ、さらに驚くべきことに、最初に登場したふたつの著作によって、いきなり頂点をきわめることになるのです。これ以降、ギリシア文明においては、そのふたつの歴史書に匹敵するレベルの作品はついに現れませんでした。

「ギリシア文明においては」どころか、その後ヘロドトストゥキュディデスに匹敵する歴史家と言うと、司馬遷ギボンくらいでしょうか。

私はこの四者を自分で勝手に「世界史の四大古典」と考えています。

イブン・ハルドゥーンを入れて五大史家とする人もいるかもしれないが、私のレベルでは良さがわからない。)

そして、約2500年の時を経て、全く違う文化圏に属する国に生まれた、私程度の知的レベルの人間でも、古代ギリシアの古典のうち、あるものは大きな興味と感動を持って(翻訳では)読むことができるのだから、以下の総括にも完全に同意できます。

また歴史にかぎらず、ギリシア人は人類の歴史におけるさまざまな新しい知的領域を開拓しました。人類の歴史上はじめて、ギリシアは完全な形の「文芸」を生みだしたといっていいでしょう。ユダヤ文学もギリシア文学にひけをとらないほど包括的なものでしたが、娯楽作品はもちろん、演劇や客観的な歴史書も含まれていませんでした。古代ギリシアの文芸世界は聖書と並んで、以後の西洋文学の形成に大きな影響をあたえることになります。内容だけでなく、さまざまな文芸のジャンルや形式を規定し、批評における最大の判断基準も、もたらすことになったのです。

古代ギリシアの哲学・文学・歴史・宗教・建築・彫刻などの文化は、やはり圧倒的な存在であると考えるしかない。

以後、ヘレニズム時代のギリシア文明の拡散とポリスの没落、科学の発達とそれと期を一にした伝統的で多神教的な宗教の衰退、ストア派の成立をもって、本巻の幕は閉じる。

2016年6月30日

栗本慎一郎 『ゆがめられた地球文明の歴史』 (技術評論社)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 00:50

ゲルマン的ヨーロッパと漢民族的中国双方の中心史観を排する、というのは最近の史書でよくある謳い文句だが、この人の場合スケールが違う。

まず、文化を集団の価値判断のシステム、文明を一定の時間的継続を持つ諸文化の総合と定義。

文明は地域的時間的限定があり、文化は広がりよりまとまりや深みを持つ。

文書証拠主義に基き、政治史に軽く生活史を加えただけの、視野の狭い歴史学を批判。

精神史は重要だが、文化人類学の成果を取り入れなかった為、従来の歴史学は変化できなかったとする。

 

中国、インダス、メソポタミア、エジプトの「四大文明」のうち、決定的だったのはメソポタミアのみ、他の三つは単発文明、現代文明に繋がる連鎖反応を起こしたのはメソポタミア。

その中でも、シュメール(スメル)が最重要、シュメール以後の諸文化・諸民族の興亡には大きな意味は無いとまで書いている。

巨大建造物と文字使用の合体による文化を基礎にした文明はシュメールに始まる。

軍事支配者「ルガル」、宗教権力者「エンシ」の連合体制が組まれ、この二重統治が崩れて、アッカド支配へ移行した。

過剰生産の貯蔵と分配が、社会に「成長」という病のような要因を植え付けた。

 

そのシュメール文明の起源は南シベリアで、中央アジア、東イランを経て、メソポタミアへ達した。

バルハシ湖の西、アラル海の東の肥沃な草原地帯セミレチエ地方とその北オビ川とエニセイ川間の南シベリア、ミヌシンスク地方が極めて重要な意味を持つ地域。

アフリカで生まれた現生人類は、北上してメソポタミア、コーカサスを経て、南シベリアのミヌシンスク地方に達し、そこで文明が誕生した。

船と馬での移動と金属の積極的利用を知り(後世のヒッタイトの鉄器発明よりこの最初の金属使用の方が決定的に重要)、そこからシュメール人が移動。

古来、いわゆる「草原の道」が極めて重要であり(ただし実在したのは、現行教科書に記されているそれより北側)、それに比してシルク・ロードは副次的存在に過ぎない。

強大な騎馬遊牧国家が貿易幹線を支配し、それに参入できなかった中国、ペルシア、ローマなどの勢力が細々と利用したのがシルク・ロード。

ミヌシンスク文明こそ、現代文明の起源であり、そこからシュメール人が移動し、サカ人(スキタイ人)が生まれ(自称はエシュクあるいはアサカ)、匈奴、ゲルマン、チュルク人、さらにはアシュケナージ・ユダヤ人も起源はこの地にあるとされる(こうまで大風呂敷を広げられると、語族との関係はどうなるのかという疑問も生じるが)。

ちなみに古代日本の飛鳥(あすか)という言葉も上記エシュク、アサカと関係があると著者は言う。

 

アレクサンドロス大王はおそらく文明の起源たる南シベリアを目指して東征を行ったが、その死によって、結果拡大・融合ではなく、縮小・分離の時代が訪れた。

その後生まれたパルティアの重要性を本書は強調。

東イランで生まれ、キリスト教にも繋がるミトラ教を奉ずる国(ゾロアスター教は一般民衆のみ)。

王朝名はアスカ(アルサケス=安息)。

メソポタミア的、ギリシア・ローマ的観念では測りきれない性格を多々有する国家。

草原勢力と協調し東西交易を拡大、ローマの東方拡大は不可能となり、キリスト教も西進せざるを得ず。

ここでゲルマン人の話が出てくる。

本書では、ゲルマン人も広義のスキタイ人分派とされ、西ゲルマンはパルティア建国過程で西に出、東ゲルマンはパルティア国内に残る。

後にゲルマン人はフン族の一部となり、反主流派の重要民族となる。

キリスト教受容に当たって「遅れた」三位一体説を採ったフランクの、正統による異端攻撃正当化が政治的に利用され、その支配統一に繋がる。

フランクは混成民族で、後3世紀に突然現れ、他のゲルマン部族、ゴート、ブルグンド、ヴァンダルとは同列に扱えない。

社会内部の二重構造が対立エネルギーを与え、発展の要因になる。

 

4世紀以降、民族大移動の激動を経て、中央アジアではカザール帝国(読み方ではハザールは間違い)が成立、この国家によるウマイヤ朝圧迫のおかげで、ヨーロッパはトゥール・ポワティエで勝利し独立を守ることができた。

カザール帝国は、その支配層が8世紀頃ユダヤ教に改宗、これが現在主流のアシュケナージ・ユダヤ人の起源であり、実は現在のユダヤ人の多くは古代ヘブライ人とは直接の関係は無いとの主張をアーサー・ケストラーが述べたことは有名。

 

 

まとめ。

現生人類が北アフリカに生まれ、メソポタミア、コーカサスを通り、南シベリアに文明拠点を築き、東西に南下。

その一部はペルシアを通ってメソポタミアに逆戻り、これがシュメール人。

ミヌシンスク文明から直接生まれたのがスキタイ人とチュルク人で、両者は同根である可能性が高い。

紀元前2~3世紀までの人類は移動と価値観の相互展開を盛んに行い、連合制の遊牧帝国と統一制の農耕民帝国が並立。

以後、遊牧帝国は徐々に衰退したように見えるが、実際はアジアとヨーロッパは中央アジア北部の草原との関わりを契機に発展したのであり、それが中国とゲルマンの自己正当化史観によって見難くされているだけである。

日本も満州地方を通じてその影響を受けており、決して孤立などしていない。

 

 

 

自分で書いたメモを読み返してみても、よくわからない部分があるし、正直「トンデモ本」の匂いもかなりする。

しかし、この人の説ならとりあえず聞く気になる。

なお同じ栗本氏の『パンツを脱いだサル』(現代書館)もスゴすぎる内容なので、興味のある方は一読をお勧めします。

2013年9月1日

増田義郎 『黄金の世界史』 (講談社学術文庫)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 16:01

この方は『古代アステカ王国』『インカ帝国探検記』などラテン・アメリカ関係、『太平洋 開かれた海の歴史』などオセアニア関係、加えて本書のようなどこにカテゴライズしていいのか迷うものまで(結局アジアにしましたが)、幅広い作品を書かれておられるようです。

(さらにマクニール『世界史』の訳者の一人でもありましたね。)

何が専門かと言うと、たぶんラテン・アメリカ史になるんでしょうが、広い範囲で執筆活動をされていること自体が優れた学者さんである証拠なのかも。

本書は、世界各地の古代文明における金・銀など貴金属の役割を紹介してから、地中海・インド洋世界での交流、大西洋時代への移行と近現代経済史の概説へと進む構成。

より具体的には・・・・・・書くことが無い・・・・・・。

断片的な記述でポイントがつかみにくい。

以下、いい加減で適当なメモ。

古代オリエント文明について、メソポタミアでは商業が大いに繁栄したのに対し、エジプトは閉鎖的で商業低調。

アレクサンドロス大王の東征以後、紀元前3世紀という時期に、ローマによるカルタゴの覇権打破、パルティア建国、マウリヤ朝アショーカ王即位、秦の中国統一という変動が起こり、そこからユーラシアの相互交流が活発化。

秦漢帝国とローマ帝国を比較した場合、人口でも生産力でも中国が優位にあったと記されている。

唐とイスラムによる東西交流が宋・元代の高度成長につながる。

西アフリカの金産出に触れた後、近代大西洋時代の記述へ。

アステカ・インカ征服による、西欧の金銀獲得。

16世紀半ばにペルー・メキシコの大銀山が開発、同時期日本も世界有数の銀産出国だったこともチェック。

それによってもたらされたとされる、いわゆる「価格革命」の真偽についても検証。

(価格革命については、玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』(講談社選書メチエ)を参照。)

17世紀末よりブラジルで金発見。

この金は主に、1703年メシュイン(メシュエン)条約を結び、ポルトガルを経済支配していたイギリスの手に渡る。

1848年カリフォルニアのゴールド・ラッシュ、1851年オーストラリア、以後もアラスカ、カナダ、南アフリカで同様の事態が生じる。

19世紀から第一次世界大戦まで標準的な通貨制度となった金本位制だが、まず19世紀初頭のイギリスが採用。

他の主要国はそこからかなり遅れる。

1872年ドイツ、74年オランダ、78年フランス、79年アメリカ、97年ロシアと同時に日本も確立。

金本位制自体の評価はひとまず措いて、イギリスだけが突出して早く、あとは日本を含め、全てどっこいどっこいである。

高坂正堯氏が明治維新は「ジャスト・イン・タイム」だったと書いていたのを思い出した(引用文(高坂正堯2))。

これでメモは終わりです。

ちょっと私には良さが汲み取れない。

難解な部分は全く無いのだが、漠然とした内容が多く、まとまった、実のある知識が仕入れにくい。

楽に読めますが、あまりお勧めはしません。

2011年6月3日

ジャレド・ダイアモンド 『銃・病原菌・鉄  一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎  下』 (草思社)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 06:00

上巻記事の続き。

この下巻は、第3部、文字と技術の発明と伝播、および集権的社会への発展の章より。

後者については、その発展を小規模血縁集団(バンド)→部族社会(トライブ)→首長社会(チーフダム)→国家(ステイト)の四段階に分類。

第4部に入り、個々の地域別の考察。

まずオーストラリアとニューギニア、中国文明圏があり、続いて太平洋地域とオーストロネシア人の拡散について。

ここで語族を中心にメモ。

オーストロネシア語族は、教科書では括弧してマレー・ポリネシア語族と書いてあり、マレー語・インドネシア語・タガログ(フィリピン)語・マオリ語・タヒチ語などが属するとされている。

しかし本書によると、オーストロネシア語族は四つのサブグループに分かれ、マレー・ポリネシア語族はその中の一つに過ぎない。

なぜ教科書が厳密に言えば不正確とも言い得るような書き方をしているのかというと、残り三つのオーストロネシア語は台湾先住民の中にしか残っていないから。

著者はオーストロネシア語族の祖先は元々中国南部におり、それが台湾に渡ってのち、さらに海を渡った一派が驚くほど広範囲に移住したと推定している。

マレー・ポリネシア語族は東南アジアで、ニューギニア高地人などを除く先住民を駆逐・同化し太平洋を東進しポリネシアの島々に広がると共に、一部は西に向かい、遥か遠くマダガスカル島まで達している。

ここでついでに、ユーラシア東部の語族の復習。

最大グループはもちろんシナ・チベット語族。

名前通りの中国語・チベット語に加えて、タイ語・ミャンマー語も含まれることをチェック。

続いて、さっき出たオーストロネシア語族。

上記の通り、東南アジア島嶼部と太平洋の島々に居住している。

次によく似た名前のオーストロアジア(南アジア)語族。

ここにはヴェトナム語・クメール(カンボジア)語、モン語が含まれる。

東南アジアの国々は、その宗教・旧宗主国・政治体制などを中学・高校の社会科授業で憶えさせられてすっかりお馴染みですが、語族は盲点ですね。

島嶼部はオーストロネシア、大陸部西部はシナ・チベット、大陸部東部インドシナ半島はオーストロアジア、ただしラオスはタイ語に近く、シナ・チベット語族ということになる(上東輝夫『ラオスの歴史』参照)。

三つの語族が混在していることに注意。

なお、宗教についてはマレーシア・インドネシアがイスラム、ミャンマー・タイ・カンボジアが上座部仏教、フィリピンがキリスト教なんかは比較的憶えやすいが、ヴェトナムは確か大乗仏教だったはず。

南伝仏教がカンボジアまでは広まったが、中国の影響の強いヴェトナムは大乗、とイメージしておくか。

話を戻すと、残りはアルタイ語族。

トルコ・モンゴル・ツングースと北方遊牧民族の言葉。

場合によっては韓国語・日本語も入るという説もあるが、これははっきりしない。

次に、過去1万3000年で最も劇的な人口入れ替えであった、コロンブス到達以後の、新旧両大陸世界の遭遇についてもう一度述べている。

次がアフリカ。

「アフリカはいかにして黒人の世界になったか」と題されている。

アフリカの人種分布を述べると、北部は白人(これはアラブ系など)、サハラ以南に黒人、中央アフリカにピグミー族、その南にまた黒人、最南部にコイサン族がいて、東に浮かぶマダガスカル島には黒人とインドネシアから来たマレー・ポリネシア系の混血が在住。

語族については、中央公論「世界の歴史24」『アフリカの民族と社会』でもメモしたが、もう一度復習。

教科書では一括してアフリカ諸語と書かれているだけだが、それを分類。

まずアフロ・アジア語族が北部に広く分布。

これは普通セム・ハム語族と呼ばれている。

シュメールに続いて登場するアッカドがまず属し、以後バビロニア(アムル人・カルデア人)、アッシリアなどが続き、今ではアラブ人とユダヤ人の言葉なので、セム語族=中東・西アジアというイメージがあるが、しかし本書によると正確にはアフロ・アジア語族がまず北アフリカで成立、セム・ハム語族はそこから生れた6つの分派のうちの一つでアフリカから西アジアに広がったとしている。

(ハム語族は古代エジプト語。)

セム・ハム以外のアフロ・アジア語は上記リンク先によればベルベル語群とアムハラ(エチオピア)語などか。

そのアフロ・アジア語の海の中にナイル・サハラ語族(マサイ語・サヌリ語など)が残されている。

西アフリカ以南の黒人世界にニジェール・コンゴ語族が分布。

その中で最も大きなサブカテゴリがバンツー(バントゥー)語。

このバンツー語を話す黒人農耕民がピグミー族とコイサン族を駆逐して広範囲に移住、アフリカの多くを黒人世界にした。

コイサン語族は最南部に逃れ、ピグミー族は独自言語を失いバンツー語を話すようになる。

なお、高校世界史でも触れられるスワヒリ語は、バンツー語がアラビア語の影響を受けて成立したもの。

アフリカ諸語→ニジェール・コンゴ語族→バンツー語→スワヒリ語という四段階のカテゴリがあることを大体でも頭に入れておく。

マダガスカルでは移住者由来のオーストロネシア語が使用されている。

最後にエピローグ。

ユーラシア大陸内部でヨーロッパが占めた優位の説明。

古くから食料生産が始まり、ヨーロッパに先行していた地域のうち、西アジアの肥沃三日月地帯は森林伐採・土壌浸食・灌漑農業による地表塩化など(産業革命前の)環境破壊により衰退、中国は政治的統一が強固過ぎて新技術の放棄が政治レベルの決断で容易になされたことが理由として挙げられている。

ユーラシアの各文明圏で地理的結びつきの強いのは中国→欧州→インドの順だが、結局中程度の結合を保ち、近隣諸国が切磋琢磨して社会の発展を導いたヨーロッパが優位を占めることになったと述べている。

そこそこ面白く、読むのに難儀することもないが、目から鱗が落ちたという感じでもない。

損をしたとは思わないが、読む手間に比べて得られた面白さはさほど大きくもない。

主要な論旨は上巻で言い尽くされているので、下巻がややたるい。

まあ普通じゃないですか。

上巻の記事で興味を持たれた方は図書館で借りて下さい。

2011年5月28日

ジャレド・ダイアモンド 『銃・病原菌・鉄  一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎  上』 (草思社)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 06:00

翻訳は2000年刊。

昨年の朝日新聞書評欄で、「ゼロ年代(2000~2009)の50冊」という特集の中で第一位になっていた本。

存在には気付いていたが、半分人類学の本みたいな本書は、私の関心の守備範囲外なので敬遠していた。

しかし、上記朝日新聞を見て(随分間隔が空いたが)、試しに読んでみるかと手に取る。

本書のメインテーマは、現代世界における発展の巨大な不均衡はどのようにして生じたのかというもの。

あるいは少し問題を絞って、ヨーロッパの本格的進出が始まった西暦1500年時点で、アメリカ・アフリカ・オーストラリア各大陸に対するユーラシア大陸の優位がなぜ存在したのかということ。

(なお、ユーラシア大陸内部、産業革命以後の、アジアに対するヨーロッパの優位は基本的に取り扱われていない。)

今から1万3000年前(紀元前1万1000年)、全大陸に現生人類が移住し分布した時点では、各大陸の生活に大きな差は無かった。

それが、1万2500年後には途轍もない格差が生じていたことになる。

著者はまず直接的要因として、銃・鉄剣・馬などの軍事力、外洋船などの輸送技術、海外での征服活動を可能にした集権的政治機構、文字による知識・情報の処理と蓄積、特に新大陸の先住民にとって致命傷となったユーラシアにのみ存在する疫病などを挙げる。

タイトルの「銃・病原菌・鉄」はこうしたものを的確に表わしたもの。

これらの直接的要因から究極的要因にさかのぼって考察していく。

例えば、軍事・輸送などに関する技術の発達、集権的政治機構、文字の発明・普及には人口が稠密で定住化および階層化が進行した大規模社会が必要となる。

ではそうした大規模定住社会が成立するためには何が必要かというと、余剰食料と食料貯蔵。

余剰食料と食料貯蔵を可能にする農業・牧畜が始まるためには、多くの栽培植物と家畜が必要。

そのためには栽培化・家畜化が可能な野生種の植物と動物が生息している必要がある。

ここでいう家畜化可能な動物とは、主に「陸生で」「群居性の」「大型草食哺乳類」であるという、いくつもの限定が付く。

もちろん、鶏をはじめとしてアヒル・ガチョウ・七面鳥などの鳥類、他に犬、ウサギ、ミツバチなども飼育されているが、やはり牛・馬・豚・羊・山羊などが決定的重要性を持っている。

こうした家畜化された群居性哺乳類の体内で病原菌が変化して集団感染症の原因となる菌が生れることになり、それが人間に感染し大きな被害をもたらすと同時に人間の体内で免疫力も作り出すことになる。

以上の因果連鎖においてユーラシア大陸は決定的優位性を持っていた。

例えば、アメリカ大陸ではよく知られているように、植物ではトウモロコシ・ジャガイモ、動物ではラマ・アルパカなどしか利用できなかったわけである。

では、なぜ南北アメリカ、アフリカ、オーストラリアよりも、ユーラシア大陸で多くの動植物が栽培化・家畜化できたのだろうか。

単純に面積が広く、利用可能な動植物の種類が多かったということはもちろんある。

著者もその要因が大きいことを認めている。

それに加えて、もう一つの地形的要因が挙げられており、それは・・・・・・と喉元まで出かかってますが、最後のネタバレは止めておきましょう。

ごく平凡で常識的なことです。

一つだけヒントを挙げると、アステカ帝国などのメソ(中央)アメリカ文明とインカ帝国などのアンデス文明の相違を思い出して下さい。

このラテン・アメリカ文明内部での相違点は、高校世界史ではあまり触れられませんが、考えてみると決して小さなものではない。

トウモロコシが両者に共通して栽培されていたのに対し、ジャガイモはアンデス地域でしか知られていなかったということは、先日の『ジャガイモのきた道』の記事でも書きました。

またマヤ文明はマヤ文字を持ち、アステカ帝国も象形文字を使用していたにも関わらず、インカ帝国には文字は存在せず、キープ(結縄[けつじょう])を記録に利用。

(このキープは高校世界史でも出てきますが、ラテン・アメリカ全域ではなく、あくまでアンデスのインカ帝国での産物。)

インカ皇帝は、アステカ帝国がスペインに滅ぼされたことを知らず、全くの情報不足の状態のまま、ピサロと会見し捕えられ、数万のインカ軍は百分の一以下のスペイン軍によって大敗を喫している。

メキシコとペルー間は、ユーラシア大陸で文明が伝播した距離を考えると、極端に遠いとは言えないのに、ラテン・アメリカ文明の二大強国は全く没交渉だった。

このことに、ユーラシア大陸優位の謎を解く鍵があります。

・・・・と思わせぶりに随分引っぱりましたが、さして意外なことではなく、聞いたら「なあんだ」と思うようなことです。

詳しくは、本書をお読み下さい。

遅くなりましたが、本書の全体構成を述べると、プロローグで問題設定・提起、第1部で近代以降の勝者と敗者の劇的結果を対比、第2部でその原因探求として食料生産を考察、第3部では食料以外の疫病・文字・技術、第4部ではこれまでの考察を各地域の歴史に当てはめ検証、具体的にはオーストラリアとニューギニア、中国とアジア太平洋、ヨーロッパと新大陸先住民、サハラ以南のアフリカ、そして最後のエピローグで全体のまとめ。

この上巻は第3部の途中までです。

あとは・・・・・。

最初に人類の誕生からの概略を述べた章がある。

先史時代については、本書くらいしか復習の機会がないでしょうから、メモしますか。

地球の歴史が46億年、これをいくつかに分けた地質年代というものがある。

天文学の範囲外では一番長大な区切り方か。

始生代、原生代、古生代、中生代、新生代。

約6億年前の生物誕生後が古生代、中生代、新生代。

新生代は約6500万年前から現代までで、恐竜滅亡後、哺乳類の活動が活発になった時期。

新生代は第3紀と第4紀(約180万年前~)に分かれ、第4紀はさらに更新世(洪積世)(180万年~1万年前)と完新世(沖積世)(1万年前~)に分かれる。

上記、洪積世と沖積世があまり使われなくなり更新世と完新世と呼ばれるようになった理由は、『もういちど読む山川日本史』の最初に書いてあります。

第4紀中、4回の氷河期があり、第4氷河期が終わって完新世となる。

よって完新世のことを後氷期とも言う。

次に化石人類の話。

猿人・原人・旧人・新人。

新人は現生人類のことだが、化石になって出土したものは新人でも化石人類と呼ぶ模様。

400万年前、猿人が出現。

アウストラロピテクス、ホモ・ハビリスなど。

この時期はまだ第4紀ではなく、第3紀末期であることをチェック。

単純な打製石器である礫石器などを使用。

50万年前に原人。

ピテカントロプス・エレクトゥス(ジャワ原人)、シナントロプス・ペキネンシス(北京原人)など。

形を整えた打製石器使用、北京原人は火と言葉も。

20万年前に旧人。

ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)。

死者の埋葬、剥片石器。

ネアンデルタール人の学術名ですでに「ホモ・サピエンス」と付いていることに注意。

4万~1万年前、新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)出現。

クロマニョン人、周口店上洞人、グリマルディ人。

洞穴美術(アルタミラ、ラスコー)、骨角器、屈葬。

完新世に入ると、旧石器時代から中石器時代に移行、前7000年ごろ新石器時代。

食料生産革命、狩猟・漁労・採集の獲得経済から農耕・牧畜の生産経済へ。

前3500年ごろ青銅器・金属器時代。

前3000年ごろ国家の誕生、文字の発明、歴史時代へ。

大雑把過ぎるが、4万年前に現生人類誕生、1万年前に農耕開始、前3000年に国家成立、歴史時代へということだけはせめて記憶。

以上の「○○万年前」という数字、ほとんど忘れてますね。

あんまり興味無いんで・・・・・。

下巻記事に続きます。

2009年4月25日

浜林正夫 『世界史再入門 歴史のながれと日本の位置を見直す』 (講談社学術文庫)

Filed under: アジア, ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

数ヶ月前に新刊情報の記事の中で、名前だけ出した本を通読。

さほど厚くない、一冊モノの世界史。

私程度の知識しか無い人間が、自分に合わないからといって一刀両断に切り捨てるのは、どんな本であれ宜しくないでしょうし、そんなのを読まされる方も鬱陶しいのはわかっているつもりですが、これについては言わずにおれない。

はっきり言って長所が全くわからない本でした。

「まえがき」で使用方法として、まず各章のまとめの節を先に読んでもらっても良いと書いてあって、こういうふうに明解な指針を読者に示してくれるのには好感が持てる。

しかし、そのまとめを読んでみても「うーん」と思うだけで、全世界史を一望の下に理解することができる認識軸を提示してくれているとは到底思えないし、さしたる感銘も受けない。

(著者には「そりゃ君の頭が悪いだけだ」と言われるかもしれませんが。)

その前後に記されている大まかな史実の流れは、高校教科書の記述を薄めに薄めた絞りかすみたいな文章で、全然面白くない。

最後の「補論 世界史像の再構成へむけて」はまあ興味深い点が無いでは無いが、著者と同じ考えを持てない読者にとっては「???」の連続ではないでしょうか。

(なお、現代史の部分で著者の相当に左派的な立場が打ち出されていますが、そういうことだけで文句を付けているのではありません。)

同じ世界史概説でも、ウィリアム・マクニール『世界史』(中央公論新社)(現在は中公文庫に上・下巻が収録)や宮崎市定『アジア史概説』(中公文庫)と比べれば、天と地ほどの差を感じる。

この両書とはそもそもページ数が違うと指摘されれば、やや対象範囲がせまいとは言え、同じく薄い文庫本である松田壽男『アジアの歴史』(岩波現代文庫)と比べても役に立つ視点が少な過ぎると言いたい。

「読む価値無し」と断言する気はありませんが、積極的にお勧めする気もゼロです。

2008年12月22日

加藤祐三 川北稔 『アジアと欧米世界 (世界の歴史25)』 (中央公論社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 06:00

タイトルを見て、主に19世紀におけるアジアの植民地化の歴史をざっと叙述する本なんだろうなあと思って目次を眺めたら、何やら様子が違う。

広く近代以降のアジアと欧米諸国との貿易や国際関係について概観する内容らしく、「そういうテーマ史だけで一巻費やすの?」と奇異の念に捕われる。

ギリシア・ローマ史のように明らかなページ数不足と思われる地域と時代もかなりあるのに、この配分は、意気込みは買うにしてもやはりちょっと変じゃないかと言いたくなる。

そういうモヤモヤした気持ちを抱えながら読み始めたが、最初の二章は特に悪くもないが、大して面白くもない。

「こりゃやっぱりハズレかな」と思いながら、川北氏(『砂糖の世界史』の著者)執筆の第3章以降に入ると、印象が全く一変する。

極めて良質で有益な経済史。

「近代世界システム」、「17世紀の危機」、「ジェントルマン資本主義」などの用語を極めて平易に説明してくれている。

大航海時代以降、世界規模の貿易システムが展開した後、ヨーロッパの生活革命に連動して貿易構造が変化し、それが覇権国の盛衰を引き起こす様を、まるで手に取るようにわかりやすく理解させてくれる。

私は他の概説書で、これほど面白い経済史を読んだことがない。

素晴らしい。傑作。

上記『砂糖の世界史』を読むより、少々手間でも本書を読んだ方がはるかに良いと思う。

これには本当に感心させられました。

川北氏の担当章が終わると、加藤氏には申し訳ないのですが、かなりテンションが下がります。

しかし「拙著『イギリスとアジア』(一九八〇年)」という言葉を見て、「えっ」となる。

私は未読ですが、このタイトルの岩波新書はかなり前から知ってましたし、結構有名ですよね。(追記:←と、最初にこの記事を書いたときには思ったのですが、ひょっとして『イギリスと日本』と勘違いしていたんではないかと、読み返して気付きました。)

調子が良過ぎるかもしれませんが、それを知ると、何か前半の文章よりかは面白いと思えるようになった。

日本の開国を扱った章では、幕府の外交をその当時としては最善に近いものだったとして高く評価しているのが印象的。

最初と最後はもう一つですが、中盤は非常に面白くてためになる。

相変わらず自分の第一印象は当てにならんなと反省させられました。

あと、最後の参考文献欄と年表を眺めていて思ったことを書きます。

この巻だけじゃなく中公新版の全集すべてに当てはまるのですが、参考文献がただ並べてあるだけで、著者のコメントが一切付いていないのが非常に残念です。

講談社旧版の全集ではコメントが付されており、これがものすごく助かる。

各書の特徴や難易度、適切な用途など、ごく簡略に一言二言書かれているだけでも初心者にとっては極めて有益で参考になるんですが。

それと年表があまり役に立たないことが多い。

ほとんどの巻で上段が主要対象地域、中段がその他の地域、下段が同時代の日本という構成で、特色が無い。

狭いスペースで無理に同時代の事項を付け加えているので、肝心の主要史実の年表はただ漫然と並べてあるだけという感じになってる。

もうちょっと工夫してわかりやすく有益なものに出来ないでしょうか。

一般向け啓蒙書として、そういう行き届いた配慮があればなお良かったのにと思ってしまいました。

2008年3月13日

宮崎市定 『東西交渉史論』 (中公文庫)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 06:00

宮崎御大の東西交渉と中国周辺部の歴史に関する文章を集めた本。

真ん中あたりの「条支と大秦と西海」や「南洋を東西洋に分つ根拠に就いて」は少々難しいので、飛ばし読みでいいでしょう。

あとはスラスラ読めて割と面白い。

本書も1998年に出た時には読まずにいたら、今は品切れ。

せめて中公文庫の宮崎氏の本は全部在庫してもらえませんかね。

といっても未読の分のうち、『九品官人法の研究』は難しすぎて読めないし、『謎の七支刀』と『水滸伝』は興味が薄いので読む気がしないのも事実なんですが。

2008年1月23日

松田壽男 『アジアの歴史』 (岩波現代文庫)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 06:00

副題が「東西交渉からみた前近代の世界像」。

古代から近代の「欧勢東漸」までのユーラシア史を極めて巨視的な視点から概観した本。

ごく短い本でありながら、濃い内容。

著者が作成したいくつかの概念図が興味深くわかりやすい。

中央アジアに関しては細かな事実関係でも教えられるところがある。

誰でも簡単に読めて、世界史を俯瞰する上で役に立つ見方を提供してくれる優れた本。

岩波同時代ライブラリーに収録されていた時から知っていたが、当時は無視していた。

今読んでみて、その判断が間違いだとよくわかりました。

楽に読めてわりと面白い本なので、皆様にもお勧めします。

2007年5月28日

杉山正明 『遊牧民から見た世界史』 (日経ビジネス人文庫)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 06:00

去年の6月27日井上靖『蒼き狼』の記事で、杉山氏の本は当ブログで紹介することはないと思うと書きましたが、慢性的ネタ不足なので本書を取り上げてみます。

遊牧民勢力への肯定的再評価を通じて今までのユーラシア史のイメージを一新するという意気込みは大変結構なんですが、不必要に断定的で攻撃的な口調がいちいち神経に障る。

そういう文章への反発から、最初もっともだと思えた定説への批判すらだんだん疑わしく思えてくる。

私は三分の一くらい読んだ辺りで耐え切れず放り出しました。

ただし、私ほど短気でなく、こういう「杉山節」が気にならない方にとっては、本書や中公新版「世界の歴史」および講談社新版「中国の歴史」の杉山氏執筆巻は良質な啓蒙書だと思いますので、一度お試しください。

2007年4月29日

ウィリアム・マクニール 『世界史』 (中央公論新社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ — 万年初心者 @ 06:00

一冊の本で全世界史を物語ることは可能だろうか。

毒にも薬にもならない平板な教科書的記述ではなく、一人の著者によって書かれその人独自の史観が感じられ一貫した読物となっている一冊の世界史というのは有り得るか。

この問いに肯定的に答えるのは難しい。

今まで紹介した本の中では、宮崎市定氏の『アジア史概説』(中公文庫)および『アジア史論』(中公クラシックス)が最も近いかもしれない。

本書は以上の宮崎氏の著書と並んで、その稀な例外となっている、アメリカ歴史学界の長老が書いた世界史概説。

人類史における諸文明の興亡の明快かつ的確な見取り図を提示してくれる。

例示される史実とその説明は、無味乾燥な簡略さと晦渋な煩雑さの双方を避け深く説得的なものとなっている。

読後感は予想よりはるかに良かった。

定価3990円と結構値が張りますが、品切れにならないうちに買って手元に置いておくのが宜しいかと。

2006年12月27日

衛藤瀋吉 『近代東アジア国際関係史』 (東京大学出版会)

Filed under: アジア, 国際関係・外交, 中国 — 万年初心者 @ 06:06

えらく硬いタイトルだが、東大での国際政治学の講義を活字にしたもので、話し言葉に近く読みやすい。

『眠れる獅子』や著作集の『二十世紀日中関係史』との重複も多いが、変な偏りのある本を多く読むより、こういう本をしっかり読んだ方がいいと思う。

ただ末尾に近くの、日米開戦以後の部分は面白さがガクンと落ちます。

避けようも無い惨敗の描写となりますので、それも仕方ないでしょうが。

先の大戦への評価について本書はかなり否定的だが、私はそれを「自虐的」と切って棄てる気は無い。

著者の立場に必ずしも同意するものではないが、歴史の基礎的素養を得る本として優れていることに間違いないと思う。

2006年8月4日

衛藤瀋吉 『眠れる獅子 (大世界史20)』 (文芸春秋)

Filed under: アジア, 中国 — 万年初心者 @ 18:46

中国を中心としたヨーロッパ進出後のアジア史。著者は戦後非マルクス主義的、現実主義的な立場で名を知られた中国研究者。

物語風の叙述で読みやすい。歴史的事象の評価も穏当でバランスが取れている。

例えば太平天国や義和団について民族抵抗の面と破壊野蛮の面の両方を認めている。

変な偏りが無く、安心して読める良い入門書。

2006年6月20日

宮崎市定 『アジア史論』 (中央公論社)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 19:59

主にかつて刊行された「世界の名著」シリーズを再版したものが多い、新書版の中公クラシックスの中の一冊。

それら文字通りの古典に交じって、これは宮崎氏の著作から、巨視的な概観的論文を集めたアンソロジー。

岩波書店刊の全集でしか手に入りづらかった論文が収録されていておいしい。

収録作のうちでは『東洋的近世』が中心だが、その他の論文もコンパクトでありながら、密度が高く有益。

素人が御大の世界史観を知るには、前述の『アジア史概説』より、こちらを勧める。

2006年6月19日

宮崎市定 『アジア史概説』 (中公文庫)

Filed under: アジア — 万年初心者 @ 20:05

宮崎氏の時代区分論を全アジア史にわたって展開した本。

イスラム時代という(宮崎氏の定義による)近世にいち早く達した西アジアの他地域に対する先進性が説かれる。

また、大幅に遅れて近世的発展に達したヨーロッパが極めて短い時間のうちにそれを完成させ、産業革命を中核とする全く新しい近代的段階に達し、アジアへ勢力を拡張する様を描く。

叙述はダイナミックで相変わらず面白いのだが、あまりに対象範囲が広すぎて、所々教科書的な事実整理の記述が続き、御大の著作には珍しく冗長に思える部分がある。

とは言え、これだけの力作を読まないのも惜しい。

少し気合を入れれば、初心者でも通読は難しくないので、買ってみましょう。

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