万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年8月10日

飯倉章 『第一次世界大戦史  諷刺画とともに見る指導者たち』 (中公新書)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 03:47

2016年刊。

序章で、大戦前の外交危機を取り上げ、敵対国の意図の取り違え、疑心暗鬼、同盟国との意思疎通の失敗、動員と鉄道輸送に関する硬直した軍事計画が外交交渉の余地を狭めたこと、などが重なり地滑り的に大戦争に至ったメカニズムを描く。

その後は、一年ごとに一章を割り当て、戦局の推移を叙述していく。

そこにおいては、指導者の決断と行動に焦点を合わせ、様々な逸話を紹介しており、非常に興味深く、読みやすい。

具体的記述としては、1914年マルヌとタンネンベルク、1915年ガリポリ、1916年ヴェルダン、ソンム、ユトランド沖という主要戦闘を年号と結び付け、1917年ロシア革命とアメリカ参戦という転機を経て、1918年ドイツの最後の攻勢が失敗し、休戦に至ることを最低限記憶すること。

政治家以外に、軍人の名として、ドイツの(小)モルトケ、ファルケンハイン、ヒンデンブルク、ルーデンドルフ、マッケンゼン、ホフマン、ゼークト、ティルピッツ、シェーア、フランスのジョフル、ニヴェル、ペタン、フォッシュ、イギリスのキッチナー、フレンチ、ヘイグ、ジェリコー、オーストリアのコンラート、ロシアのブルシーロフ、イタリアのカドルナ、アメリカのパーシングあたりを目に慣らしておき、それぞれの役割をごく大まかでいいから頭に入れる。

以下、興味深く思った部分の、断片的な引用。

 

これまでの歴史家の多くは、イギリスは、ヨーロッパ大陸で一国(この場合はドイツ)が覇権を握るのを好まず、伝統的な勢力均衡策をとり、露仏側に立って参戦したと説明してきた。

しかし、よりグローバルに見るとどうだろう。イギリスが参戦せずに露仏が勝ったとすれば、インドや地中海でのイギリスの利益は両国に脅かされる可能性がある。いささか皮肉なことに、イギリスにとって、ドイツは海外での大きな脅威にならないが、露仏はそうではない。ただ他方で、ドイツが勝ってしまうと、大陸でイギリスは友邦フランスを失ってしまう。大陸でフランスという友邦を確保したうえで、ロシアに恩を売り、海外における権益を保持する最良の策は、ドイツと戦うことだと判断したとも言えるのだ。

 

 

一九一四年の八月から一二月までの五ヵ月の戦いで、膨大な死傷者・行方不明者が出たことが現在の研究では明らかになっている。・・・・・なかでもフランス軍は、八月だけでも八万人、九月初めで八〇〇〇人、マルヌの戦いで二万五〇〇〇人の戦死者を出したとされる。一年半に及んだ日露戦争での日本軍の戦没者数はおよそ八万八〇〇〇人(戦死者は五万六〇〇〇人弱)であるから、開戦二ヵ月弱でフランスは日露戦争の日本軍をはるかに上回る戦死者を出していたのである。

 

 

[1915年5月]独墺同盟軍はロシア軍陣地を突破し、一週間あまりでロシア軍は二一万の兵員を失う。そのうちの一四万人は捕虜である。ロシア軍は一六〇キロメートルも後退し、同盟国軍は六月三日にはプシェミシュル要塞を奪い返す。ストローンは、ヒンデンブルクとルーデンドルフでなく、マッケンゼンとゼークトこそ、大戦のドイツ陸軍でもっとも成功したコンビであると評価している。

 

 

リデル=ハートは、コンラートを当時おそらく「もっとも有能な戦略家」とも評価している(オーストリア軍の将軍たちも、彼を軍事的天才とみなしていた)が、率いる軍隊が彼の「戦略的妙技」に向いていなかったとも指摘している。彼は、自身の軍の実力をわきまえていなかったのだ。

コンラートだけに責任があるのではないが、オーストリア軍は弱かった。東部戦線が長く、敵と接触する面が多いという事情もあるのか、オーストリア軍は捕虜になる確率も非常に高かった(ただ、同じ東部戦線にいるドイツ軍に捕虜はあまり出ていない)。これは士気の低さもあったと考えられる。非ドイツ系民族の兵士には、逃亡や集団投降も目立った。装備も貧弱で、ドイツ軍、フランス軍、イギリス帝国軍などと比して、オーストリア軍(それとロシア軍、イタリア軍)は一段も二段も劣っていたのだ。

 

 

英雄コンビ[ヒンデンブルクとルーデンドルフ]が戦争指導の先頭に立ったことは、ドイツにとっても悲劇であった。同時代のドイツのもっとも偉大な軍事史家ハンス・デルブリュックは、「この日に、この決定をもって、ドイツ帝国は敗れた」と評している。彼が言うには、この英雄コンビの二人には、将来に対する賢明な悲観主義とでも言うべきものが欠けていたのである。ファルケンハイン、[宰相]ベートマン、そしてカイザーは、少なくとも一九一五年にはそのような悲観主義を共有し始め、交渉による和平が必要であると感じ始めていた。

ところが、ヒンデンブルクとルーデンドルフは、盲目的に勝利を確信していた。そのような勝利は、すべての国民、武力、外交的策謀を奮い起こしてこそ達成されるものであると考え、彼らはドイツをさらなる戦争の深みに引きずり込んだのである。

 

 

この時期にドイツは、無制限潜水艦作戦を再開するしか手がなかったのだろうか。これまでドイツは、全体として優位に戦いを進めていた。ルーマニアを打ち負かし、ロシアも混乱しており、予見は難しかったにせよ革命で崩壊する途上にあった。

また、後に明らかになるように、フランス軍の士気は低下していたし、イギリスは資金不足で深刻な財政危機の瀬戸際にあった。さらにアメリカ国内でも、一九一六年秋にはイギリスのドイツ封鎖に対する怒りの声が上がり始めて、米英関係はどん底にあった。

「アメリカの参戦とそれに伴う包括的な援助がなければ、一九一七年の夏か秋には、イギリスは講和を求めざるを得なかっただろう」と歴史家のクラークは指摘し、ドイツが無制限潜水艦作戦を実施せず、アメリカを参戦させずにいたら、連合国の手によるドイツの敗北は「高い確率であり得なかった」と言う。

確かに「制限つき」の潜水艦作戦を仮に継続し、アメリカ市民に多少の犠牲が出続けたとしても、それだけでアメリカが自ら参戦に向かったとは思えない。では、ドイツは、ただ待っていればよかったのだろうか。後知恵をもって歴史を見ればそう言えそうである。しかし、政策決定者にとっては待つこともリスクであり、積極的に何かをしたいという誘惑を抑えるのは往々にして難しいのだ。

 

 

本書の最後は、革命と敗戦後、オランダに亡命したカイザー、ヴィルヘルム2世の余生に触れている。

ワイマール共和国大統領ヒンデンブルクに頼って復位を希望したものの、もはやそのような状況ではなく、ヒトラーは1934年2月強烈な君主制批判を発し、君主制関連組織を非合法化する。

40年ドイツのオランダ・フランス占領に当たってはヒトラーに祝電を送るが、ドイツへの帰国の誘いは拒否(同様にチャーチルからの政治亡命の誘いも拒否している)。

41年6月82歳で死去、ヒトラーは国葬をベルリンで行おうとするが、ドイツが君主国でなければオランダに埋葬するようにとの遺言に従い、遺族はナチス関係者を葬儀に招くだけにした。

ヴィルヘルム2世が第二次世界大戦中まで生きていたことと、ヒトラーの勝利に祝電を送ったことは以前から知っており、もっとナチ体制に密着していたのかと思っていたが、暗君と言うほかない人物ではあるものの、最晩年には、最低限の(本当の最低限とはいえ)名誉は守ったのか、と思えた。

 

 

全く期待せずに、単に暇潰しのつもりで手に取ったのだが、予想より遥かに良かった。

これは思わぬ拾い物だ。

副題がややミスリードで、確かに当時の諷刺画が多数載せられているが、それを中心にした社会史的著作ではなく、ごくオーソドックスな政治・軍事史である。

それが非常に整理された、明解な叙述で、初心者にとって理解し易く、とても役に立つ。

これまで類書としてテイラー『第一次世界大戦』(新評論)山上正太郎『第一次世界大戦』(講談社学術文庫)リデルハート『第一次世界大戦』(原書房)の三つを挙げているが、本書が一番コンパクトで手頃な上、分かり易い。

どれが一つだけ読むのなら、これを薦める。

なお、大戦の原因論・責任論については、ジェームズ・ジョル『第一次世界大戦の起源』(みすず書房)がある。

(クリストファー・クラーク『夢遊病者たち  第一次世界大戦はいかにして始まったか 1・2』(みすず書房)は、今のところ手を出す余裕がない。)

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