万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年6月15日

宮城大蔵 『「海洋国家」日本の戦後史』 (ちくま新書)

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2008年刊。

現在はちくま学芸文庫収録。

出た時から気付いてはいたが、今回ようやく通読。

このタイトルだと、どうしても高坂正堯氏の『海洋国家日本の構想』を思い出して、戦後日本外交全般を概観した本なのかなと予想してしまうが、本書の内容は戦後日本の(インドネシアを中心とする)対東南アジア外交を考察したもの。

書名と内容の乖離が激し過ぎるだろう、と昔は思っていたが、いざ通読してみるとそれほどでも無かった。

 

 

第一章、1955年バンドンでのアジア・アフリカ会議について。

インドネシア、インド、パキスタン、ビルマ、セイロンなど、「コロンボ・グループ」と呼ばれるアジアの中立主義的新興独立国が、東西冷戦が域内に及ぶことにより独立が脅かされることを懸念し、アジア・アフリカ会議を構想。

朝鮮戦争で東西対立の最前線と化していた南北朝鮮への招請は除外されたが、問題は中国と日本。

戦後間もなく始まった東南アジア・南アジアでの共産主義勢力の武装闘争に対する中国共産党の支援は、スターリン死後の緊張緩和期を迎えて一先ず終息しており、「平和五原則」発表など、中国の「友好による封じ込め」を目指すインドのネルーは中国の招請を主張。

これに対し、コロンボ・グループの中でも、インドへの対抗意識から東南アジア条約機構(SEATO)、中東条約機構(METO)という反共軍事同盟に加入していたパキスタンは親西側姿勢から日本も招請することを主張。

それを迎えた日本は、「対米自主」理念を持つ鳩山一郎首相が「アジア復帰」、「対米協調」路線の重光葵外相が「反共」を重視する思惑の違いを持ちながら、参加を受諾。

会議では「共産主義下の植民地主義」をも問題にすべきだとするパキスタン、セイロン、トルコ、フィリピンなど親西側諸国の主張もあり、紛糾したが、妥協によりバンドン宣言を採択。

 

 

第二章、対インドネシア賠償を契機とする戦後日本の「南進」について。

サンフランシスコ講和条約後も、東南アジア諸国の多くとは賠償交渉がまとまらず、対日講和が成立していなかった。

それが、1954年ビルマ、56年フィリピン、58年インドネシア、59年南ヴェトナムと順次決着を見る。

特に重要性を持ったのが、域内最大の大国インドネシア。

インドネシアは50年代末期、西イリアン併合とオランダ資本の接収による「独立完遂」を目指していたが、ジャワ島中心の中央集権化に反発から地方分立政府の動きがあり、スカルノ政権の急進性を敵視するアメリカはそれを秘かに後押ししていた。

しかし同時に、スカルノ政権が存続し続けた場合、その中ソへの接近も懸念された。

そこで岸政権下の日本が、自身の経済進出への足掛かりとインドネシアの東側陣営傾斜を防ぐ目的から、賠償交渉を妥結させる。

 

 

第三章、イギリスの東南アジアからの最終的撤退をめぐる軋轢。

イギリスが、1957年独立していたマラヤに、シンガポールと北ボルネオを併せて63年マレーシアを結成すると、スカルノはこれをイギリス植民地主義のインドネシア包囲策だとしてマレーシア対決政策を発動、逆にイギリスはスカルノがマレー系の周辺地域を併合して「大インドネシア」実現を目論んでいるのではないかと見なす。

日本は地域の安定性重視の立場からスカルノ寄りの調停を模索し、ヴェトナムへの本格的介入を考慮しつつあった米国は日英の中間的立場を取る。

 

 

第四章、1965年という戦後アジアの転換点について。

陸軍と共産党という不倶戴天の仇敵同士間の危うい均衡の上に立っていたスカルノは、堅実な経済建設を無視、中ソ対立後、第三世界の急進的民族主義を支援する中国と共闘し、それは「北京・ジャカルタ枢軸」とまで呼ばれる。

米国がついに北爆と南ヴェトナム派兵に踏み切り、それまでスカルノ政権に多大の援助を供与していた日本でもスカルノへの懐疑的見方が広まる中、驚天動地の九・三〇事件が勃発し、インドネシア共産党は壊滅、スカルノは実権を奪われ、陸軍主導のスハルト政権が成立。

同年日韓基本条約も成立、アジアは「独立」から「開発」の時代に移行する。

 

 

第五章、米中接近とアジア冷戦の溶解について。

米国はヴェトナム戦争介入と反戦反体制運動で、中国は革命外交敗北と文化大革命で国力と威信を低下させ、ソ連への懸念から両国は接近、アジア冷戦の中核であった米中対立は終焉する。

1971年劇的な米中接近によって、「脱植民地化から開発へ」というアジア情勢の推移が不可逆なものとなった。

 

 

最後のエピローグより以下の文章を引用。

「西洋の衝撃」を受け、そして呑み込まれたアジアは、数世紀にわたって西洋諸国による植民地支配の下におかれた。未来にわたって堅牢であるかに見えた植民地体制であったが、第二次世界大戦が始まると日本帝国の侵攻という「東からの衝撃」によってあっけなく突き崩された。日本帝国による短い支配とその崩壊を経た大戦後、アジアの歴史は音を立てて動きはじめる。植民地支配からの独立を希求するエネルギーがその主旋律であり、そのエネルギーの行方をめぐって冷戦と革命、戦乱と熱戦がアジアを覆った。

だが、独立を希求する脱植民地化のエネルギーは無限ではなかった。独立が果たされ、植民地支配が姿を消したとき、「独立」は、実質的な国造りという性質の異なる課題に道を譲ることになる。それが1960年代後半から70年代にかけて、「開発」の波がアジア一円を覆う前提となったのであった。

戦後、世界的には「冷戦」が維持される中にあって、アジアとは何よりも、革命や戦乱など、「冷戦」を突き破って政治的エネルギーが噴出する場として特徴づけられた。それがいつしか、「東アジアの奇跡」と称された経済成長を経て、世界で最も経済的活力にあふれた地域へと変貌していったのである。本書ではその転換点のひとつを、1965年に見定めた。それではこの戦後アジアの世界史的な変容の中で、日本とは果たしていかなる位置を占める存在だったのであろうか。

戦争賠償を足がかりとした「南進」に始まり、やがて韓国・中国と北東アジアへ地平を広げることになった戦後日本のアジア関与であったが、そこに一貫して通底していたのは、アジアに「非政治化」を求める強い志向性であった。冷戦やナショナリズムによって分断され、戦乱と貧困に沈むアジアの前途は、階級闘争による変革を目指す革命や、その封じ込めを主眼とする冷戦ではなく、地道な国造りとそれを通じた経済発展によってのみ切り開かれる。それが、そこに自らの前途を賭けた戦後日本の「世界観」であった。

開発と経済成長を重んじる路線へ導くことによって、植民地主義の残滓を一掃しようと「独立」の完遂をどこまでも追い求めるスカルノのような急進的な民族主義者、あるいは革命イデオロギーの純化に突き進む中国のような存在は「非政治化」され、その後には経済志向で覆われたアジアが出現するはずであった。

アジアが革命や戦乱で分断されているのであれば、そこに権力政治の舞台から「降りた」戦後日本が進出・関与しうる余地はない。経済志向によって覆われ、繋がれたアジアこそは、軍事や外交の領域においては制約と逡巡を抱える戦後日本が、広く存分に活動するための絶対条件なのであった。

アジアの「非政治化」を追求する日本は、インドネシアでスカルノ体制が崩壊したとき、そして鄧小平の下で中国が「改革開放」に踏み切ったとき、アジア秩序の要となるこの二つの国に惜しみなく援助を注ぎ込み、開発と経済成長の流れが不可逆的に根付くことを全力で後押しした。それが、インドネシアと中国が、日本の対外援助の累計で第一位と二位を占めていることの歴史的背景に他ならない。この二つの国が、かつて「北京=ジャカルタ枢軸」によってアジアにおける急進的左派勢力の中心を成したことを思い起こせば、日本の援助の政治的な意味は否応なしに浮かび上がる。それは日本にとって好ましいアジアの姿を描き出すための骨太な手段なのであった。

そこにはアメリカの冷戦戦略を補完する側面があったことも確かであったが、日本の視覚は、「反共か否か」よりも、「脱植民地化とその後の国造り」という、より「非政治的」な色合いを濃厚に帯びるものであった。

むろん、当時そこで開発や経済成長に対置されたのは、革命や冷戦、急進的なナショナリズムであった。民主化や人権といった「価値」は、スカルノ体制崩壊時のインドネシア共産党関係者に対する大量殺戮が結果として黙認されたように、開発と経済成長の実現に不可欠だと考えられた政治的「安定」を確保するためであれば、顧みられることはなかったともいえる。それら「開発の時代」が顧みず、置き去りにした「価値」は、水面下で伏流となり、やがて「開発の時代」が揺らいだとき、次の時代を性格づける力となって浮上することになる。

 

 

まあまあ面白い。

最初に書いたように、タイトルから想像されるより叙述テーマは絞られるが、インドネシアを中心とする当時の細々とした情勢描写が興味深い。

類書は吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』(講談社選書メチエ)かな。

本書と共にアジアの国際政治史参考書として手に取ってみても良い。

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