万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年6月30日

岩崎育夫 『物語シンガポールの歴史  エリート開発主義国家の200年』 (中公新書)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 03:30

『リー・クアンユー(現代アジアの肖像15)』(岩波書店)と同じ著者。

当然、内容は相当重複しているんでしょうが、この『物語~の歴史』シリーズだと、読まないわけにはいかない。

なお、ザイナル・アビディン・ビン・アブドゥル・ワーヒド『マレーシアの歴史』(山川出版社)萩原宜之『ラーマンとマハティール(現代アジアの肖像14)』(岩波書店)も類書として適時参照した方が良い。

 

マレー半島の最南端にある島国。

東京二十三区より少し広い程度の面積に横浜市とほぼ同じ約380万人が住む都市国家。

中国系の華人が74%と多数を占め、その他マレー系13%、インド系9%という民族構成。

一人当たり国民所得は、かなり前から日本を追い抜き、2011年でアジア第一位。

 

1819年イギリス東インド会社のラッフルズが、ジョホール王国所属のシンガポール(「シンガプーラ」=ライオンの街が語源)島を買収。

当初人口150人ほどと、ほぼ無人に近い島だったが、以後自由貿易の拠点として大発展を遂げ、中国人、インド人が多数移住。

1826年イギリスは、ペナン、マラッカ、シンガポールを「海峡植民地」として一体化。

民族別、出身地別に分断された分節社会を形成、政治意識は希薄。

しかし、20世紀に入ると、革命運動や排日運動を支援する華僑も出てきて、1930年にはマラヤ共産党も結成された一方、英語教育を受けてイギリス志向の強い集団も現われる。

1942年2月日本軍が占領、シンガポールは「昭南島」と改名され、華人虐殺事件、強制献金、日本化政策により、特に中国系住民の間に深い傷跡を残す。

戦後復帰したイギリスは、マラッカとペナンをマレー半島本土に合体させマラヤ連合とし、シンガポールは単独の直轄植民地となる。

48年華人中心のマラヤ共産党は武装蜂起するが、多数派マレー人の離反とイギリス当局による弾圧によって鎮圧。

段階的に自治を導入、1955年シンガポール立法議会と自治政府成立。

超民族的な英語教育集団と華人の華語教育集団の二つがナショナリズム運動の担い手として現われてくるが、前者の代表が、建国の父リー・クアンユーである。

後者には共産主義を志向する急進派も含まれる。

54年大衆組織を持たない英語教育集団と、マラヤ共産党との繋がりから当局による弾圧を恐れる華語教育集団の両者が、事実上同床異夢で人民行動党を結成。

57年マラヤは独立、首相ラーマンの下、マレー人が主導権を持ち、華人とインド人と連携する連合党政権を樹立。

59年シンガポールは外交・防衛を除く完全内政自治権を獲得、普通選挙が導入され、「民主社会主義・非共産主義、マラヤとの合併による独立」を掲げる人民行動党が圧勝、リー・クアンユーが35歳で首相就任。

しかし、61年人民行動党内部で英語教育グループと共産系グループの対立が激化、党は分裂し共産系は離党してマラヤとの合併に反対、63年総選挙で人民行動党はマラヤ政府と協力して共産系勢力を徹底的に弾圧、以後共産系は四分五裂し急速に衰退。

1963年シンガポールはマラヤとマレーシア連邦を結成する形で独立。

華人が多数となるのを避けるため、ボルネオ島のサラワク、サバ(ブルネイは途中脱退)も合流。

これにインドネシアのスカルノ政権は強く反発し、マレーシア対決政策を遂行するが、1965年九・三〇事件で実権を失い、アメリカの北爆開始とヴェトナム戦争介入もあって、インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、シンガポールの五ヵ国は67年東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成、この地域対立は幸いにも「反共」を旗印にして緩和されていった。

しかし、マレーシア内部では、マレー人と華人との民族対立が激しくなり、結局65年ラーマン首相はシンガポール「追放」を決断、リー・クアンユーは後背地の無い、狭小な都市国家シンガポールの分離独立に追いやられる。

1965年の独立以後、90年末までリー・クアンユーが首相を務め、現代シンガポールの国家形成に決定的な役割を果たす。

国会議席をほぼ独占するほどの、人民行動党一党支配体制を確立し、労組・大学・企業家・新聞を統制下に置き、政治的自由を制限しつつ経済発展を至上命令とする開発主義国家を建設。

確固とした政治理念、イデオロギーも持たないプラグマティズムを徹底し、人民行動党の穏健社会主義の看板も、1976年西側社会民主主義政党が加盟している社会主義インターから脱退することで捨て去る。

当初駐留していたイギリス軍がスエズ以東撤退方針により存在しなくなると、小さな華人国家が南北のイスラム大国(マレーシア・インドネシア)に囲まれているという不利な状況下での国防力拡充に努力し、国民皆兵制度や、国土の狭さからオーストラリアなど友好国での訓練実施などの政策を採用。

ASEANとの協調も重視、米中接近後近隣諸国が中国と関係を改善する中、最後に残ったインドネシアが1990年国交を樹立するまで自国も国交を持たず。

外資導入による貿易立国政策で製造業が発展、労働力不足になると高付加価値産業への移行を政府主導で実行、東南アジアの金融センターにもなり、飛躍的な経済成長を達成。

優秀な官僚育成を目的として小学生から厳しい選抜方式を取る、エリート主義的教育制度を整備。

英語普及による民族間の統合、北京語普及による華人内での国民統合に努力。

1990年リーに替わってゴー・チョクトンが首相となるが、リーは「上級相」となり、依然強い影響力を保つ。

冷戦終結を受け、一定の自由化措置も採られたが、それも間もなく放棄される。

他のアジア諸国で民主化要求運動の主役となった都市中間層が、シンガポールでは経済成長と社会福利の恩恵を受けて保守的であることも、権威主義的政府の基盤が揺るがないことの理由となっている。

2004年リー・クアンユーの長男リー・シェンロンが首相就任。

この時期になると、国民の間に伏在していた自由化への要求が現われるようになる。

2011年総選挙では野党躍進(と言っても、与党81議席、野党6議席だが)。

国民の批判を受け、人民行動党が政策とスタイルを改める時代に入ったと思われるが、野党への政権交代などは現状では全く非現実的と見られる。

本書の刊行は2013年、その後2015年リー・クアンユーが死去、もちろん人民行動党政権は依然継続中である。

 

 

歴史的に形成された社会の無い場所に造られた人工的な移民国家であり、建国の父リー・クアンユー個人の「作品」と言っても過言ではないほどの強い個性によって造られた国でもある。

ごく小さな都市国家が激動する国際情勢の中で独立を維持し、さらに世界有数の豊かさを達成したことに対しては、感嘆と賛美の念を禁じ得ない。

しかし、どうしてもこの国に良い印象を持てないところがある。

それが「非民主的」社会だから、というのではない(私はそういう価値観に全く立っていない)。

歴史的伝統とは無縁で能力主義的に選ばれたエリートが管理する社会というのが、T・S・エリオット『文化の定義のための覚書』(中公クラシックス)で否定的に描かれたものに余りにも近似している気がしてならない。

そして国家全体が、市場競争を無条件で正当化し、経済至上主義的で「経営者国家」とも呼ばれる性質を持ち、それが放縦と言われて当然の行動を欲しいままにする各国の富裕層が理想とするものだと思うと、何とも嫌な面を持つ国だなあとの感想を禁じ得ない。

日本が、ネットと既存メディアによる大衆煽動によってネオリベ的「改革」が繰り返され、かの国に近い国家になりつつあり、それを防ぐ手立てが全く見当たらないことも、そうした思いを強めてしまいます。

 

 

読みやすいし、特に欠点は無い。

最初に挙げた『リー・クアンユー(現代アジアの肖像15)』(岩波書店)より詳しい(と思う)し、最近のことまで記述されているから、便利ではある。

シンガポール史は、この一冊だけ読めば十分でしょう。

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2018年6月26日

高山純 石川榮吉 高橋康昌 『オセアニア  (地域からの世界史17)』 (朝日新聞社)

Filed under: オセアニア — 万年初心者 @ 03:26

「オセアニア」カテゴリ追加の為の本を探していたら、コンパクトなこのシリーズの巻があった。

ざっくり言うと、文字が無い以上、この地域は、16世紀のヨーロッパ人の来航までが全部先史時代扱いになっちゃうんですよねえ。

で、紀元前から15世紀までの先史時代、16~18世紀のヨーロッパ進出時代、19~20世紀の民族意識形成時代、そして終章で日本とオセアニアとの関係に触れるという、四部構成。

先史時代は、当然、考古学、文化人類学、民族学などの知見を使用した記述となるが、きついなあ・・・・・。

わからない。

面白くない。

興味がない。

ざーっと飛ばし読み。

結局、地理を捉えるというのが中心にならざるを得ない。

陸地の圧倒的部分を、オーストラリア、ニューギニア、ニュージーランドが占める。

残りの島嶼圏が、オーストラリアの北、赤道以南にあるメラネシア(ギリシア語のメラス[黒い]が語源)、その東側に赤道を挟んで広大な面積を占めるポリネシア(「多数の島々」の意)、メラネシアの北、赤道以北がミクロネシア(「小さな島々」)に分かれるという、三地域の区別だけは、しっかりつけておく。

で、諸島名を、大体の位置関係と共に、出来るだけ把握。

メラネシアが、ソロモン諸島、ニューヘブリデス諸島、ニューカレドニア島、フィジー諸島。

ポリネシアが、エリス諸島、サモア諸島、トンガ諸島、クック諸島、タヒチ島、マルケサス諸島と、赤道はるか北のハワイ諸島。

ミクロネシアが、パラオ(ベラウ)諸島、ヤップ諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島、トラック諸島、マーシャル諸島、ギルバート諸島。

ヨーロッパ進出以後は、地域のあらゆる伝統的秩序が変容を余儀なくされる。

その中では、オーストラリア先住民のアボリジニのように、余りに孤立した環境で生活していたが故の遅れを取り戻せず、なす術無く衰退していった民族がいる一方で、ニュージーランドのマオリ族は比較的自己の存在を守ることに成功し、ハワイやトンガなどでは、ヨーロッパ人がもたらした火器などを利用して、統一王国を築いた例もあった。

19世紀後半から、本格的植民地化が進行。

ミクロネシアがドイツ領(第一次大戦後は日本)、メラネシアからポリネシアの広大な海域はイギリス、タヒチとニューカレドニアがフランス、ニューヘブリデスが英仏共同統治、ハワイとサモア東部がアメリカ。

独立は、1960年代から80年代にかけて。

その際、ヨーロッパ起源の名称を排し、ニューヘブリデス→ヴァヌアツ、エリス→ツヴァルと、国名を変更した国もある。

なお、現在でも、グアム島、米領サモア、ニューカレドニア、タヒチを含む仏領ポリネシアなど米仏の海外領土と見なされるものが存在。

終章では、江戸時代の日本人漂流民の興味深い話と、第一次大戦後、国際連盟の委任統治領(連盟脱退後は正式領土)であった「南洋群島」「内南洋」(ミクロネシア)について触れている。

後者の記述中では、問題点を指摘しつつも、年配の現地一般人の意見を参考にした上で、基本的に日本の統治を戦前・戦後の欧米のそれと比較して肯定的に捉えている。

現在のように、夜郎自大としか言いようのない、野卑で低劣で軽薄な幼児的ナショナリズムが蔓延している状況ではなく、本書が刊行された1992年、しかも朝日新聞社が出した本で、このように書くのはバランスが取れていると言えるでしょう。

 

 

本文は180ページ余りで、手頃ではある。

まあ、これくらいの内容でいいんじゃないですかね。

山川出版社の『オセアニア史 (新版世界各国史)』じゃ、読むのがきついでしょう。

2018年6月23日

アルベール・カミュ 『カリギュラ』 (ハヤカワ演劇文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:57

『ペスト』の記事で、もしかしたら読むかなあと書いたこれを、実際に読んだ。

ローマ帝国第三代皇帝カリグラを主人公にした戯曲。

愛する妹の死をきっかけに、ニヒリスト的暴君に変貌するカリグラを余すところなく描く。

迫力はある。

緊迫感もすごい。

ただ思想的背景についてはよく理解出来たとは言えない。

短いながらも、読者をグイグイ引き込む力を持った傑作だということはわかった。

これは私のような文学初心者にも勧められる。

2018年6月19日

国本伊代 『メキシコ革命』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: ラテン・アメリカ — 万年初心者 @ 03:15

ラテン・アメリカ史も長いこと追加してないなあ。

冊数自体少ないし。

しかし、全般的な通史の傑作として高橋均 網野徹哉『ラテンアメリカ文明の興亡 (世界の歴史18)』(中央公論社)を紹介してる。

その序盤での叙述範囲の偏りを補うためには増田義郎『古代アステカ王国』(中公新書)があるでしょう。

ついでに面白いから増田義郎『インカ帝国探検記』(中公文庫)も読むでしょう。

中米と南米の最重要国家についてはそれぞれ大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』(中公新書)金七紀男『ブラジル史』(東洋書店)があるでしょう。

現代史限定だがカリブ海諸国の重要国としては宮本信生『カストロ』(中公新書)があるでしょう。

この6冊をしっかり読んで、内容を概ね頭に入れておけば、日本の社会人の一般常識としてのラテン・アメリカ史では十分じゃないでしょうか。

初心者だったら、これだけ読んだらラテン・アメリカ史は「あがり」としてもいいでしょう、と開き直りたい気持ちもある。

しかし、最後の更新が上記『ブラジル史』の2010年というのはさすがに酷いので、何でもいいから追加しようと、これを選択。

とにかく困った時には、薄くてすぐ読めるこのレーベルだ。

このシリーズは人物を扱ったものの他に、事件ないしテーマ的なタイトルの本もあり、これもそのうちの一冊。

同じ著者が同シリーズで内容がもろに被る『ビリャとサパタ』も書いているが、こっちを選んだ。

 

20世紀前半の民族主義的・反教権主義的革命を扱う。

19世紀初頭に独立したメキシコは、米墨戦争でテキサス・カリフォルニアを奪われ、ナポレオン3世の干渉を受けた後、1876~1911年の間、ディアス独裁体制が支配。

外国資本の流入で経済発展を遂げるが、一部富裕層、中間層、農民、労働者の広範な反対勢力が拡大。

1910年自由主義者マデロが率いる反乱が勃発、翌11年ディアスは国外に亡命。

マデロ政権が成立したが、穏健派とサパタおよびビリャを指導者とする農民軍などの急進派が対立する形勢となり、13年マデロは暗殺、ウエルタ将軍が反革命政権を樹立。

このウエルタ政権に対して、1857年の自由主義憲法を尊重する穏健改革派の「護憲派」が反抗、14年にはウエルタ打倒に成功、穏健派のカランサ政権成立。

ところが、その後また穏健派と急進派が対立する情勢となる。

15年には穏健派が軍事的に勝利、アメリカ合衆国など諸外国の政府承認も得る。

その過程で、穏健派は労働者・農民の支持を急進派から奪うために、進歩的主張を大幅に取り入れ、1917年憲法制定、私有財産不可侵を定めつつ、土地と水の公共性を確認、外国人の土地所有を制限、八時間労働制、最低賃金、団結権、スト権、カトリック教会の活動制限を定める。

米国ウィルソン政権はウエルタ政権を承認しなかったが、その政権への武器・弾薬供給を阻止するための海兵隊上陸、国境地帯を荒らしていたビリャを捕えるための派兵は、メキシコ各勢力の反米感情を強め、その民族主義を高揚させる結果となった。

ちょうど第一次世界大戦が進行中で、ドイツは「ツィンメルマン電報事件」でメキシコ・ドイツ・日本の三国同盟を提案、米墨戦争で失った領土の回復を代償に参戦を慫慂したが、カランサは拒否、この経緯はアメリカの対独参戦の一因となる。

20年クーデタでカランサ大統領が暗殺され、一時内乱に陥ったが、オブレゴン(20~24年)、カリェス(24~28年)、カルデナス(34~40年)ら強力なリーダーシップを発揮した大統領の下、諸勢力が統合され、革命が「制度化」された。

29年革命国民党が結成、38年メキシコ革命党に改称、47年には制度的革命党(PRI)に発展し、労働者・農民・中間層・軍部など広範な利害を代表しつつ、実に2000年の大統領選挙に敗れるまで、71年間の一党支配を確立。

中南米諸国で頻発するクーデタが起きることも無く、軍部の政治介入阻止に成功。

世界恐慌による甚大な困難に見舞われ、カルデナス政権時代に石油産業および鉄道国有化と農地改革を断行、国家主導型の混合経済体制を取りつつ、社会主義体制への移行は回避。

26~29年保守的カトリック教徒の反乱を鎮圧、政教分離を確立。

なお、この辺の著者の筆致が、カトリック側を批判する、やや一方的なものに感じられ、少々不信感を持った。

メキシコ革命への評価について、メキシコに依然存在する貧困と不平等から革命を失敗とする立場もあるが、植民地時代からの封建的旧体制を変革しラテン・アメリカ諸国の改革のモデルとなったという点でその意義は大きい、とされている。

一党支配に因る問題は抱えつつも、政治の安定と軍部の非政治化を達成し、市場経済の歪みを国家介入で是正する道を開いた点では、確かに革命の成果はあったとの見方にも一理あると思えるが、死者100万人を超すと書かれると、それだけの犠牲に見合う成果なのか、それを漸進的に実現する道は本当に無かったのか、という個人的感想も持ってしまう。

しかし、著者の見解に多少の疑念を感じても、それを完全に否定するだけの知識が私にあるはずもなく、結局よく分からないという結論になります。

 

 

とりあえずラテン・アメリカ史で何か更新するために読んだ本なので、そんなに面白くはない。

楽に読めるのは長所だが、上記『物語メキシコの歴史』を読んだ上で、さらにこれに取り組む必要があるのかは疑問。

気が向いた人だけ、どうぞ。

2018年6月15日

宮城大蔵 『「海洋国家」日本の戦後史』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 03:18

2008年刊。

現在はちくま学芸文庫収録。

出た時から気付いてはいたが、今回ようやく通読。

このタイトルだと、どうしても高坂正堯氏の『海洋国家日本の構想』を思い出して、戦後日本外交全般を概観した本なのかなと予想してしまうが、本書の内容は戦後日本の(インドネシアを中心とする)対東南アジア外交を考察したもの。

書名と内容の乖離が激し過ぎるだろう、と昔は思っていたが、いざ通読してみるとそれほどでも無かった。

 

 

第一章、1955年バンドンでのアジア・アフリカ会議について。

インドネシア、インド、パキスタン、ビルマ、セイロンなど、「コロンボ・グループ」と呼ばれるアジアの中立主義的新興独立国が、東西冷戦が域内に及ぶことにより独立が脅かされることを懸念し、アジア・アフリカ会議を構想。

朝鮮戦争で東西対立の最前線と化していた南北朝鮮への招請は除外されたが、問題は中国と日本。

戦後間もなく始まった東南アジア・南アジアでの共産主義勢力の武装闘争に対する中国共産党の支援は、スターリン死後の緊張緩和期を迎えて一先ず終息しており、「平和五原則」発表など、中国の「友好による封じ込め」を目指すインドのネルーは中国の招請を主張。

これに対し、コロンボ・グループの中でも、インドへの対抗意識から東南アジア条約機構(SEATO)、中東条約機構(METO)という反共軍事同盟に加入していたパキスタンは親西側姿勢から日本も招請することを主張。

それを迎えた日本は、「対米自主」理念を持つ鳩山一郎首相が「アジア復帰」、「対米協調」路線の重光葵外相が「反共」を重視する思惑の違いを持ちながら、参加を受諾。

会議では「共産主義下の植民地主義」をも問題にすべきだとするパキスタン、セイロン、トルコ、フィリピンなど親西側諸国の主張もあり、紛糾したが、妥協によりバンドン宣言を採択。

 

 

第二章、対インドネシア賠償を契機とする戦後日本の「南進」について。

サンフランシスコ講和条約後も、東南アジア諸国の多くとは賠償交渉がまとまらず、対日講和が成立していなかった。

それが、1954年ビルマ、56年フィリピン、58年インドネシア、59年南ヴェトナムと順次決着を見る。

特に重要性を持ったのが、域内最大の大国インドネシア。

インドネシアは50年代末期、西イリアン併合とオランダ資本の接収による「独立完遂」を目指していたが、ジャワ島中心の中央集権化に反発から地方分立政府の動きがあり、スカルノ政権の急進性を敵視するアメリカはそれを秘かに後押ししていた。

しかし同時に、スカルノ政権が存続し続けた場合、その中ソへの接近も懸念された。

そこで岸政権下の日本が、自身の経済進出への足掛かりとインドネシアの東側陣営傾斜を防ぐ目的から、賠償交渉を妥結させる。

 

 

第三章、イギリスの東南アジアからの最終的撤退をめぐる軋轢。

イギリスが、1957年独立していたマラヤに、シンガポールと北ボルネオを併せて63年マレーシアを結成すると、スカルノはこれをイギリス植民地主義のインドネシア包囲策だとしてマレーシア対決政策を発動、逆にイギリスはスカルノがマレー系の周辺地域を併合して「大インドネシア」実現を目論んでいるのではないかと見なす。

日本は地域の安定性重視の立場からスカルノ寄りの調停を模索し、ヴェトナムへの本格的介入を考慮しつつあった米国は日英の中間的立場を取る。

 

 

第四章、1965年という戦後アジアの転換点について。

陸軍と共産党という不倶戴天の仇敵同士間の危うい均衡の上に立っていたスカルノは、堅実な経済建設を無視、中ソ対立後、第三世界の急進的民族主義を支援する中国と共闘し、それは「北京・ジャカルタ枢軸」とまで呼ばれる。

米国がついに北爆と南ヴェトナム派兵に踏み切り、それまでスカルノ政権に多大の援助を供与していた日本でもスカルノへの懐疑的見方が広まる中、驚天動地の九・三〇事件が勃発し、インドネシア共産党は壊滅、スカルノは実権を奪われ、陸軍主導のスハルト政権が成立。

同年日韓基本条約も成立、アジアは「独立」から「開発」の時代に移行する。

 

 

第五章、米中接近とアジア冷戦の溶解について。

米国はヴェトナム戦争介入と反戦反体制運動で、中国は革命外交敗北と文化大革命で国力と威信を低下させ、ソ連への懸念から両国は接近、アジア冷戦の中核であった米中対立は終焉する。

1971年劇的な米中接近によって、「脱植民地化から開発へ」というアジア情勢の推移が不可逆なものとなった。

 

 

最後のエピローグより以下の文章を引用。

「西洋の衝撃」を受け、そして呑み込まれたアジアは、数世紀にわたって西洋諸国による植民地支配の下におかれた。未来にわたって堅牢であるかに見えた植民地体制であったが、第二次世界大戦が始まると日本帝国の侵攻という「東からの衝撃」によってあっけなく突き崩された。日本帝国による短い支配とその崩壊を経た大戦後、アジアの歴史は音を立てて動きはじめる。植民地支配からの独立を希求するエネルギーがその主旋律であり、そのエネルギーの行方をめぐって冷戦と革命、戦乱と熱戦がアジアを覆った。

だが、独立を希求する脱植民地化のエネルギーは無限ではなかった。独立が果たされ、植民地支配が姿を消したとき、「独立」は、実質的な国造りという性質の異なる課題に道を譲ることになる。それが1960年代後半から70年代にかけて、「開発」の波がアジア一円を覆う前提となったのであった。

戦後、世界的には「冷戦」が維持される中にあって、アジアとは何よりも、革命や戦乱など、「冷戦」を突き破って政治的エネルギーが噴出する場として特徴づけられた。それがいつしか、「東アジアの奇跡」と称された経済成長を経て、世界で最も経済的活力にあふれた地域へと変貌していったのである。本書ではその転換点のひとつを、1965年に見定めた。それではこの戦後アジアの世界史的な変容の中で、日本とは果たしていかなる位置を占める存在だったのであろうか。

戦争賠償を足がかりとした「南進」に始まり、やがて韓国・中国と北東アジアへ地平を広げることになった戦後日本のアジア関与であったが、そこに一貫して通底していたのは、アジアに「非政治化」を求める強い志向性であった。冷戦やナショナリズムによって分断され、戦乱と貧困に沈むアジアの前途は、階級闘争による変革を目指す革命や、その封じ込めを主眼とする冷戦ではなく、地道な国造りとそれを通じた経済発展によってのみ切り開かれる。それが、そこに自らの前途を賭けた戦後日本の「世界観」であった。

開発と経済成長を重んじる路線へ導くことによって、植民地主義の残滓を一掃しようと「独立」の完遂をどこまでも追い求めるスカルノのような急進的な民族主義者、あるいは革命イデオロギーの純化に突き進む中国のような存在は「非政治化」され、その後には経済志向で覆われたアジアが出現するはずであった。

アジアが革命や戦乱で分断されているのであれば、そこに権力政治の舞台から「降りた」戦後日本が進出・関与しうる余地はない。経済志向によって覆われ、繋がれたアジアこそは、軍事や外交の領域においては制約と逡巡を抱える戦後日本が、広く存分に活動するための絶対条件なのであった。

アジアの「非政治化」を追求する日本は、インドネシアでスカルノ体制が崩壊したとき、そして鄧小平の下で中国が「改革開放」に踏み切ったとき、アジア秩序の要となるこの二つの国に惜しみなく援助を注ぎ込み、開発と経済成長の流れが不可逆的に根付くことを全力で後押しした。それが、インドネシアと中国が、日本の対外援助の累計で第一位と二位を占めていることの歴史的背景に他ならない。この二つの国が、かつて「北京=ジャカルタ枢軸」によってアジアにおける急進的左派勢力の中心を成したことを思い起こせば、日本の援助の政治的な意味は否応なしに浮かび上がる。それは日本にとって好ましいアジアの姿を描き出すための骨太な手段なのであった。

そこにはアメリカの冷戦戦略を補完する側面があったことも確かであったが、日本の視覚は、「反共か否か」よりも、「脱植民地化とその後の国造り」という、より「非政治的」な色合いを濃厚に帯びるものであった。

むろん、当時そこで開発や経済成長に対置されたのは、革命や冷戦、急進的なナショナリズムであった。民主化や人権といった「価値」は、スカルノ体制崩壊時のインドネシア共産党関係者に対する大量殺戮が結果として黙認されたように、開発と経済成長の実現に不可欠だと考えられた政治的「安定」を確保するためであれば、顧みられることはなかったともいえる。それら「開発の時代」が顧みず、置き去りにした「価値」は、水面下で伏流となり、やがて「開発の時代」が揺らいだとき、次の時代を性格づける力となって浮上することになる。

 

 

まあまあ面白い。

最初に書いたように、タイトルから想像されるより叙述テーマは絞られるが、インドネシアを中心とする当時の細々とした情勢描写が興味深い。

類書は吉次公介『日米同盟はいかに作られたか』(講談社選書メチエ)かな。

本書と共にアジアの国際政治史参考書として手に取ってみても良い。

2018年6月11日

バルザック 『知られざる傑作 他五篇』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 03:19

バルザックの短篇集翻訳としては、刊行が古い分、岩波文庫のこの本には定番感がある。

だが、いざ読んでみると、長篇の『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』で得た感銘を受けることは無く、自分の文学的素養の無さを再確認した。

全6作のうち、私がまだしも良いと思ったのは、繊細な描写の美しさではなく、ストーリーの強烈で意外な展開を提供してくれる「恐怖時代の一挿話」と「エル・ベルデゥゴ」だった。

まあ、しょうがないですね。

これが私の限界です。

2018年6月7日

グイド・クノップ 『アドルフ・ヒトラー  五つの肖像』 (原書房)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 03:21

テレビ・ドキュメンタリーを基にした書籍で、同じ著者の『ヒトラーの共犯者 上』『同 下』『ヒトラーの戦士たち』および『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』は紹介済み。

テレビでは本書の内容が一番最初に放映されたものとのこと。

副題通り、「煽動者」「私人」「独裁者」「侵略者」「犯罪者」の五章構成。

どれもオーソドックスな叙述で明解。

私としては、「私人」の章が、最も有益で新たに得た知識が多かった。

ヒトラーが目指したのは前近代的中世への復帰などではなく、文明以前の動物的人種主義世界だったこと、多民族国家としてのハプスブルク帝国に強い憎悪を抱いたこと、母の死に衝撃を受けてユダヤ人主治医にその責任を転嫁したことが狂信的反ユダヤ主義を抱く契機になったとの俗説には根拠が無いこと、排外的ナショナリズムの気配は若い頃からあったものの、ウィーン滞在時からすでに徹底的な反マルクス主義・反ユダヤ主義者となったとのヒトラー自身の主張は、「自分の政治綱領は長い時間をかけて熟成した考察である、ドイツ国民にそう装うため」の誇張であり、第一次大戦終結まではヒトラーは概ね政治に無関心だった可能性が高いこと等々。

敗戦がヒトラーに大きな衝撃を与えたことは間違いない。

だがその直後のヒトラーの反応は、本書を読みまで全く未知の事柄であり、私にとって大きな驚きだった。

南ドイツ・バイエルンの首都ミュンヘンでは、1918年末、敗戦直後独立社会民主党に属するアイスナーが政府を掌握、1919年アイスナーが右翼に暗殺されると、その混乱を利用して、一時共産政権が樹立されたが、中央政府の派遣した軍隊によって鎮圧された(林健太郎『バイエルン革命史』参照)。

1923年3月24日の『ミュンヒナー・ポスト』紙を開いたとき、多くの人が自分の目を疑った。「革命的労兵評議会を父とするこの宣伝部には、アドルフ・ヒトラーが所属していた。彼は当時、この宣伝部で民主主義・共和主義の国家形態を奉じて講演することが、自身の世界観にかなっていると信じていたのだ!今日『11月の犯罪者ども』という言葉を一時間毎に口にするあのアドルフ・ヒトラーが、信念の命ずるまま、宣伝部のなかで多数派の社会主義者と目され、彼自身もそう称していたのだ」

この記事は呆れかえった口調である。だがヒトラーが四年の間に幾度かの転身を遂げたに違いないとすればどうだろう。まずゼロから政治的人物への転身、政治色は赤から褐色への転身。この間にいったい何が起こっていたのだろう。パーゼヴァルクの陸軍病院を退院すると、一等兵ヒトラーはミュンヘンにある所属連隊の兵舎へ復職を申請した。わたしは可能なかぎり軍に残りたい、と。軍を追い出されれば、また前のような落伍者の身分に逆戻りだ。ヒトラーの唯一のよりどころ、唯一の家は、この連隊だった。

バイエルンの首都における当時の政治的混乱を、ヒトラーはどちらかというと第三者的に眺めていた。当初彼にとって、政治的議論の場は兵舎だけだった。ともあれ、1919年2月には、軍団で「代議員」の選挙が行われた。ヒトラーは立候補し、一発で選出された。ミュンヘン・レーテ共和国の左翼「労兵評議会」は、ミュンヘンにある兵舎のすべてを監督した。「宣伝部」の使命は兵士を新しい共和制国家へと導き寄せることだった。ヒトラーは「啓蒙活動」を一任され、指令を読み上げるのを任務とした。

しかしヒトラーは、これは新しい支配者の役に立つチャンスだと心得ていたようだ。やがて彼は、社会主義志向の「民主共和主義」講習会に参加した。この点についても、また軍団の「代議員」であったことについても、後年ヒトラーは一度として口外することがなかった。ただ、1924年のミュンヘン国民法廷にて、こんな横柄で背信的な言葉を残しただけである。「賭けても良いが、わたしは敵陣営でも心から歓迎されたことだろう」

「赤い」勢力圏から離脱する、あるいは反革命的義勇軍に身を投じそうな素振りが、ヒトラーにはあったはずだった。ジャーナリストのコンラート・ハイデンはミュンヘンで十分な調査を行ったが、その彼は次のような結論に達している。ヒトラーは「レーテ共和国が存続しているうちは、戦友たちとともに社会民主党政府を」支持した。そして「およそ議論が白熱すると、社会民主党に肩入れし、共産党を攻撃する」立場をとった。「社会民主党に入党する」とさえ口にしたという。だが結局そこまでにはいたらなかった。確かなのは、ヒトラーが当時もしかすると必要以上に政府に迎合していたということだ。いずれにしても、ごく若い頃から断固たる独自の世界観を確立していたと言いはる人物にしては、ヒトラーはやり過ぎている。要するに、当時のヒトラーは政治的に根無し草だったのだ。

バイエルン革命政府首班クルト・アイスナーの暗殺は、ミュンヘン「第二革命」の合図となった。数日にわたる混乱ののち、バイエルンはソヴィエト型評議会による独裁政権の支配下に入る。陸軍の残存部隊は「赤軍」へと編制変えすることになった。この件でもまた、ヒトラーは伝説を吹聴している。「朝早くわたしは逮捕されるはずだった。だがやって来た三人の男は、わたしがカービン銃をかまえているのを目にして気おくれし、そのまま引き返した」。事実は違う。共産主義政権の樹立が告示された翌日、ミュンヘン中の全労兵レーテと兵営レーテが臨時会議に招集された。新たな権力者らは兵士の「忠誠」を確保したかったのだ。改めて選挙を行なうことが議決された。1919年4月16日水曜日、選挙結果は第二歩兵連隊にも知らされた。驚くべき結果だった――いや、よく考えれば当然のことではあるが。19票を獲得して、「アドルフ・ヒトラー一等兵」が予備「大隊評議会」議員に選出されたのだ。選挙に臨んでの公式声明は、「駐留軍の労兵レーテは無条件にレーテ共和国に従う」というものだった。ヒトラーが自称する「断固たる基盤」はどこへ行ったのだろう。赤い政権に対するヒトラーの態度は、少なくとも中立的だった。これまで未公開だったセンセーショナルな映像記録が残っている。映っているのは暗殺されたアイスナー首相の棺と、それに続く葬列の様子である。数千人の人々がこのドイツ独立社会民主党指導者に最後の敬意を表したが、そのなかには動員解除された部隊の代表団もいた。並足で続く長い葬列には喪章を着けた一団の兵士らがいる。階級の高い者たちのまっただなかに、一等兵の軍帽が見える――アドルフ・ヒトラー一等兵である。戦友たちと同じく、レーテの赤い腕章を着けている。

こうしたことのすべてが裏づけているのは、ヒトラーの姿は権力のあるところに見られたという事実である。このあとすぐヒトラーが主張したところでは、かの政治勢力(=共産主義)を自分はずっと憎んできたとのことだが、実のところ彼はその勢力のしもべだった。ヒトラーは政治的にこれといった特性のない日和見主義者だったのだ。

1919年5月のはじめ、フォン・オーフェン将軍率いる政府軍がミュンヘンを征圧し、レーテ独裁政権を打倒したとき、それはヒトラーにとっても転機の合図となった。数日後、彼は陣営を移る。転向はあきらかだった。ある映像には、革ズボンをはいてバイエルンの旗の前に立つヒトラーの姿が記録されている。今度は赤い腕章を着けていない。今度は右翼だった。

その後、右翼国家主義のなかでアドルフ・ヒトラーは貪欲に頭角を現わしてゆく。予備大隊の代議員を勤めた彼に批判の矢が向けられることはなく、それどころか昔の戦友のとりなしによって、まもなくこの日和見主義者は共産党の策謀に対する調査委員会に名を連ねることになった。ヒトラー一等兵は新しい権力者に仕える所存だった。必要とあらば、レーテ時代の同志を売り渡すことすら辞さなかった。社会主義政党の集まりを監視し、スパイ行為を働く覚悟でいた。こうして彼は、軍を追い出されることをまたしてもまぬがれた。昔の貧困生活へ転落することをまぬがれたのである。

 

確たる政治的知見もなく、漠然と周囲の多数派の意見に同調するだけの劣悪な人間が一たび異常に極端な思想に感染するや、自分の意見に狂信的に固執し、一切の懐疑を持たず、反対者をどんなおぞましい手段を用いても排除することを自己目的化する、という展開が、ちょっと前までマスコミの左翼論調を鵜呑みにする知的能力しかなかった分際で、「ネットで真実に目覚めた」などと盲信し、愚行醜行の限りを尽くす、現代日本のネット右翼(というかネット暴民・ネット衆愚)を思い起こされて、何とも不吉な感じがします。

まさかとは思うし、他国でも醜悪な衆愚政治の様相がますます強まっている以上、決して日本だけの問題ではないでしょうが、これからの日本が周回遅れで当時のドイツと全く同じでないにせよ、同種の破滅に向かうのではないか、との懸念が杞憂とは思えなくなっている昨今の言論状況です。

 

あの頃わたしたちはこんな歌を歌っていました。「世界の腐った骨が、戦争を怖れて震えている」。腐った骨というのは、第1次世界大戦のことを話す年寄りたちのことです。なんとひどい言い草だったことか、当時のわたしたちには想像できませんでした。「古い腐った骨は震えるにまかせておけ」とわたしたちは自分に言い聞かせました。「ぼくたち若者は先へ進むのだ。すべてが粉々に砕け散るまで」。実際にすべてが砕け散ったとき、わたしたちの熱狂ももちろん冷めていました。でも、もう遅かったのです。
――ヴィリ・ポルテ。1927年生まれ。

現在狂ったように中国・韓国に対し好戦的論調を喚き立てるネット右翼は、かつて非武装中立を主張した左翼と全く同等に、愚鈍・醜悪で国家にとって有害無益な存在です。

 

劣った人種はすぐにわかる。自分をほかの人種と比べて持ち上げたり、ほかの人種を自分と比べて見下そうとするから。
――エルンスト・ユンガー、1934年

ある特定の民族に対する憎悪を異常なまでにかき立て、国民心理の奥底にある劣情を呼び覚まし、それに迎合することを煽動手段にする、卑劣極まりない集団が、言論の自由の美名の下、(特にネット上で)野放しになっているのを見ると、心底からの怒りと軽蔑を感じる。

 

わたしは祖国の滅亡を祈る。われわれがこの世界に犯したおそるべき行為を償うには、それしか方法がない。
――ディートリヒ・ボンヘファー、1941年

日本がこのまま衰退し、取るに足らない国になっても一向に構わないから、心ある人が自国をこのように感じ、世界中から軽蔑と憎悪を向けられるようなことにならないことだけは祈らざるを得ない。

 

 

内容は手堅く、有用。

そして、この著者の訳書すべてに共通するのは、訳文の流暢さ。

訳者に恵まれている。

ヒトラー入門書としては、比較的新しいし、初心者でも読みやすく、決して悪くない。

しかし、改めて思うのが、類書としてのセバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(草思社)のずば抜けた素晴らしさ。

あの本の効用は全くもって圧倒的である。

実際、本書の「私人」の章以外の内容は、かなりの程度ハフナー著で手に入れることができる。

『ヒトラーとは何か』は、新訳が出ているようだが、書店で立ち読みしてあまり感心できない訳だったので、旧版の方がいいかもしれない。

本書も悪くないが、未読の場合はハフナーの本を優先して読むことをお勧めします。

2018年6月3日

田澤耕 『物語カタルーニャの歴史  知られざる地中海帝国の興亡』 (中公新書)

Filed under: スペイン — 万年初心者 @ 02:10

カタルーニャねえ・・・・・。

このシリーズで出て欲しい国がまだ山ほどあるのに、スペインの一地方の歴史ですか、しかもアラゴン、カスティリャじゃなくてカタルーニャかよ、と思ったんですが、途中からアラゴンと連合王国を築いており、そして副題通り中世には地中海で広大な勢力を誇っているので、結構歴史上の主要国として大きな役割を果たしている。

カタルーニャはスペイン東部にある州で、州都はバルセロナ。

西ゴート王国を滅ぼしたイスラム教徒への反撃として、カロリング朝フランク王国が設置した「ヒスパニア辺境領」がその起源。

9世紀末、ギフレ1世が辺境伯領を支配、バルセロナ伯爵家の始祖となる。

10世紀末、カペー朝が成立した直後に、ブレイ2世がフランスとの封建関係を解消、事実上独立。

ラモン・バランゲー3世(在位1097~1131年)は、レコンキスタ時代の伝説的英雄エル・シッドの娘と結婚、さらにプロバンス伯の女性と再婚することによって南仏にも勢力を伸ばす。

1137年ラモン・バランゲー4世と継承危機に陥っていたアラゴンの王女が結婚、これによりカタルーニャ・アラゴン連合王国成立。

ペラ1世(アラゴン王としてはペドロ2世。以後「〇世」の部分がズレる王が頻出する)は、1212年キリスト教国とムワッヒド朝軍との戦いであるラス・ナバス・デ・トロサの戦いに参加。

(このやたら長い名の戦いは、高校世界史では影も形も無いが、レコンキスタの山場として他の本でも見た覚えがあるので、記憶した方がいいかもしれない。年号も「1212」で覚えやすい。)

仏王フィリップ2世と教皇インノケンティウス3世が起こし、シモン・ド・モンフォール(英国史上ヘンリ3世に抵抗した有名な同名人の父)が率いたアルビジョワ十字軍に対抗して、南仏の支配地を守る為、ペドロ2世は戦いを挑むが、空しく敗れ自身も戦死。

苦境の中、息子のジャウマ(ハイメ)1世(在位1208~1276年)が即位するが、ジャウマはマリョルカ島とバレンシアをイスラム勢力から奪還し、「征服王」と讃えられ、商人・職人の保護、身分制議会の創設、海事法の整備など様々な業績を残した。

その子ペラ2世(ペドロ3世)は、シュタウフェン朝の末裔であるシチリア王女と結婚、「シチリアの晩鐘」というフランス・アンジュー家への反乱が起こると、それを名分として、1282年シチリアを支配下に入れることに成功。

中世後期の14世紀以降、不作・地震・ペスト流行などが相次ぎ、停滞と衰退の気配が濃厚となる。

15世紀初頭にはギフレ1世以来のバルセロナ伯爵家も断絶、アラゴン王の妹とカスティリャ王との子であるファラン(フェルナンド)1世が即位、トラスタマラ朝が始まる。

次のアルフォンス4世(アルフォンソ5世)時代にはシチリアだけでなく、1442年ナポリも手に入れる(ここから南イタリアはスペイン支配下に入り、イタリア戦争でフランスが奪取を目論むが果たせず、18世紀のポーランド継承戦争でブルボン朝の支配下に替わり、ナポレオンに支配されるが、ウィーン会議の正統主義で復活、それがガリバルディに征服されてイタリア統一という流れになる[やや省略した部分もある。マホフスキー 『革命家皇帝ヨーゼフ2世』参照])。

1479年ファラン(フェルナンド)2世が即位、すでにカスティリャ女王イサベルと結婚しており、スペイン王国が事実上成立。

これでやっと高校世界史と話が繋がった。

以後国の中心はカスティリャに移り、カタルーニャは新大陸との貿易からも締め出され、衰退の一途を辿る。

フェリペ4世治下で政権を担ったオリバレスが三十年戦争の戦費負担を目的に課した徴兵・徴税に対する反乱は鎮圧され、スペイン継承戦争ではカール大公(のちに神聖ローマ帝国皇帝カール6世)を支持した為、当初ブルボン朝からも抑圧された。

しかし、以後経済的には繁栄を取り戻し、スペイン内戦では共和国側に立ち、フランコに抵抗、自治が認められた現在でもスペインからの独立を求めて中央政府への反対を続けている。

著者はその独立への動きを好意的な筆致で記しているが、私はどうもそう見ることは出来ない。

「レコンキスタ時代から他国と並立し、一時併合されたが再独立したポルトガルとカタルーニャは殆ど違いがないじゃないか」という主張に一理はあると思うが、やはり同意は出来かねる。

国民国家というのは基本乗り越え不可能な制度であり、それが完全に固まった20世紀以後は、余程の事情がない限り、その既存の枠組みを尊重し、少数派への不満に重々配慮した上で、国民統合を少しでも向上させていくことが賢明に思える。

 

 

思ったよりも良い。

中世に思い切った重点を置き、近世以降は終章だけで片付けるという荒業を用いているが、この『物語〇〇の歴史』シリーズのコンセプトには合っている。

国王を中心とする人物像の描写に力を注ぎ、政治史を主として、予備知識のない初心者にその国の歴史に関する最も基礎的なモチーフを与える、という方針です。

『物語スペインの歴史』および『同 人物篇』の出来が悪過ぎるので、むしろ本書の方がスペイン通史としては使える部分があるという妙なことになっている。

スペイン史のサブテキストとしては普通の利用価値があります。

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