万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年4月11日

池田嘉郎 『ロシア革命  破局の8か月』 (岩波新書)

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副題の「8か月」は、1917年二月革命(三月革命)から十月革命(十一月革命)までの期間を指す。

帝政崩壊からボリシェヴィキの権力奪取まで存在した臨時政府に焦点を当てた著作。

オクチャブリスト(十月党=1905年市民的自由と議会[ドゥーマ]開設を宣言した十月勅書から名付けられた党派、ロジャンコ、グチコフら)と立憲民主党(通称カデット、ミリュコーフら)を中心とする自由主義者と、トルドヴィキ(農村志向で平和的手段による変革のみを主張した党派、ケレンスキー[のちに後記エスエルへ移籍]ら)、社会革命党(通称エスエル、チェルノフら)、メンシェヴィキ(チヘイゼ、ツェレテリら)など社会主義者が主役。

同じく反専制を掲げていても、改革志向の社会的エリートである「公衆」を代表する自由主義者と、労働者・農民・兵士という「民主勢力」を代表する社会主義者との間の断絶は極めて大きかった。

史上初の総力戦となった第一次世界大戦への参戦が致命傷となり、脆弱な帝政ロシアの社会体制は崩壊、自然発生的に生まれた騒乱により、二月革命が起こって帝政は崩壊。

リヴォフ公を首相とし、カデットを中心とした臨時政府が誕生したが、英仏等西側諸国の支援を失うことを恐れて戦争からの離脱を決断できず、臨時政府は最初から途方もない重荷を背負って存続することになる。

戦争継続と軍紀回復をめぐる対立から、外相ミリュコーフは辞任、ペトログラード・ソヴィエトで多数占めるトルドヴィキ、エスエル、メンシェヴィキの社会主義者が入閣。

ウクライナなど旧帝国周辺民族への自治権についても、それに慎重なカデットは、社会主義大臣およびソヴィエトと対立。

自然発生的で、時期尚早な「七月危機」の鎮圧成功で、臨時政府にも好機が訪れるが、カデットもエスエルもメンシェヴィキも、強固な権力意識と決断力、反対派を排除する徹底性に決定的に欠けていた。

エスエルとメンシェヴィキら穏健社会主義者は、ボリシェヴィキに対して鋭く対立しつつも、帝政時代共に弾圧を受けた立場からの(後から見ればどう考えても誤った)仲間意識を持っており、その指導者を逮捕しても政党活動自体は禁止せずにいたが、その後、独裁体制を確立したボリシェヴィキは、スターリン時代に彼らのほとんどを文字通り抹殺することになる。

首相がケレンスキーに替わるが、前線の崩壊、農村と都市での社会的無秩序化は止まらず、その危機の中、コルニーロフの反乱が勃発。

(本書ではケレンスキーとコルニーロフの間で首都への軍派遣と戒厳令布告について合意が出来ており、それが連絡不備と相互の疑心暗鬼から制御不能な対立関係に至ったとされており、コルニーロフ側が一方的に「反革命的陰謀」を企てたわけではないと書かれている。)

よく知られているように、これでボリシェヴィキは復活、ソヴィエトでも多数派を支配、党内の異論を押し切ったレーニンとトロツキーはついに武装蜂起し、十月革命で権力を奪取、以後ロシアはその長い長い独裁政権の下で呻吟することになる。

本書は、1917年の臨時政府の崩壊とボリシェヴィキの勝利の理由を、エリート社会と民衆世界の断絶という、ロシア史の構造的要因に帰しているが、私は、著者が一部支持を留保している、「民衆の暗愚とボリシェヴィキの煽動を重視する」「ソ連崩壊後にあちこちで見られた反ボリシェヴィキ史観」に近い考え方を持ってしまう。

帝政崩壊を機に、前線では命令無視や将校殺害、農村では土地の奪取、都市では工場資産の接収など、民衆の一方的暴力行動が頻発し、誰にも社会の無秩序化を制御できなくなる。

長年の専制と総力戦体制下で苦しんできた民衆は同情に値するが、この行為は明らかに行き過ぎで自分達自身の首を絞めるに等しいものだ。

混乱時には、噂やデマが蔓延し、極論が思うままに宣伝され、眼前の不都合の責任を押し付けるための「敵」を見い出し、彼らへの暴力衝動が煽動される。

最も無責任で、最も他罰的で、最も煽情的な党派が、群衆の表面的世論に迎合し、その感情を支配した瞬間、暴力的手段によって権力を握る。

そうして独裁体制を確立した後では、反対党派も、かつての支持者である民衆も、いくらでも弾圧できる。

実際、こうしたメカニズムは、1917年のロシアであろうと、1933年のドイツであろうと、(そして近未来の日本であろうと)全く同じである。

ボリシェヴィキが、十月革命直後に選出された憲法制定議会で少数の支持しか得られず、それを解散し、一党独裁への道を歩んだことはよく知られている。

そのことをもって、ロシア革命の「非民主性」を言うことは、たやすい。

冷戦時代、「社会主義・共産主義は、自由主義よりも進歩した民主主義であり、将来の人類の必然の道だ」などという、左翼のたわけた主張が漠然と多くの人々に信じられていたことを思えば、はっきりと「十月革命は真の民主的変革ではなく、民意の支持を得ていない、ボリシェヴィキによる軍事クーデタに過ぎない」と断言することは痛快である。

私も以前そう考えていたことがありました。

しかし、本当にボリシェヴィキが民衆の支持を得ていなかった、と言えるのか。

レーニンらが、実現不可能なものも含め、「平和」「土地」「パン」といったことに関する、ありとあらゆるデマゴギーを振りまき、ソヴィエト内での多数派を獲得し、都市部では大きな流血を伴うことなく権力を奪取した事実は消えない。

激しい内戦があった農村でも、白衛軍が戻り、土地を奪われることを恐れられたこと、また干渉軍への民族主義的反感から、最終的には赤軍が勝利した。

もちろん戦時共産主義による徹底した強制徴用・徴発、赤色テロによる反対者の惨殺、威嚇によって、ボリシェヴィキが暴力的に否応なく国民を引きずっていった側面は間違いなくあるだろうが、それで全て説明がつくとも思えない。

臨時政府時代にも、内戦時代にも、反ボリシェヴィキ勢力は四分五裂し、遂に団結して、ソヴィエト政権を打倒することが出来なかったし、多くの民衆もそれらを支持しなかった。

もちろん「無併合・無賠償の講和」提唱は暴力の停止自体を目標にしたものではなく、他国にロシアと同じような暴力革命を起こすことを目論むものであったし、「土地とパン」を与えると約束された農民たちは、内戦終了後、事実上の国家奴隷となり、過去どんなツァーリの治世でもあり得なかったほどの搾取と飢餓に苦しめ抜かれることになった。

真の断絶は、帝政派と反帝政派、自由主義者と社会主義者の間ではなく、全体主義と暴力を信奉するボリシェヴィキとその他すべての党派の間にあったのだが、それが自覚されることは無かった。

パイプス『ロシア革命史』では、内戦での多数派民衆の立場は中立・傍観的であり、赤軍がロシア中央部の人口稠密で資源豊富な地域を押さえていたのに対し、白軍は地域的・民族的に分裂していたという「客観的」要因が前者の勝利を説明すると書かれているが、それは結局ボリシェヴィキの支配がこれまでの旧体制とは桁違いの圧政をもたらすことを民衆が全く理解していなかったことを示している。

そうした政治的言説の歪みも含め、やっぱり1917年のロシアは「民衆世論が致命的に間違った道を選択し、破局に至った」んです。

私にはそうとしか思えない。

当時のロシア国民には酷な言い方だが、旧体制を急激に崩壊させた後、もたらされた混乱に耐えかね、民衆はボリシェヴィキのヴィジョンに「賭けた」のでしょう。

その結果が数十年にわたる地獄の沙汰であり、その後遺症から今もロシアは抜け出し得ないように思われる。

伝統的な旧来の政治・社会体制に、どれほどの欠陥があろうとも、急進的変革と秩序崩壊がどれほど危険なものか、その際における民衆の選択がどれほど信頼できないかということを、百年前のロシア革命の歴史は示している気がしてならない。

 

 

私の感想とはややズレるが、ごく真っ当な史観に貫かれた良書。

(しかし、岩波書店もこうした本を出すのが半世紀遅かったんじゃないですかと言いたくなる。)

通読は容易だが、中身は濃い。

一日、二日で読めるので、一度図書館で借りてみるのもよいでしょう。

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