万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年3月18日

服部龍二 『中曽根康弘  「大統領的首相」の軌跡』 (中公新書)

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1980年代、長期政権を樹立し、新保守主義・新自由主義的政策を推し進めた首相の伝記。

1918(大正七)年群馬県高崎市生まれ。

軍部の台頭に不安と反感を抱きながら育つ。

1938年東京帝大法学部に入学、近衛文麿ブレーンの政治学者矢部貞治らの教えを受ける。

41年内務省に入省、同時に海軍経理学校にも入校、海軍主計中尉として出征。

戦後首相の中で、実際に砲火を浴びる経験をしたのは中曽根だけだという。

敗戦後、アメリカへの反発を持つと同時に、自身が接した占領軍将校の紳士的態度に感銘を受けている。

47年旧民政党系の民主党から立候補、天皇制護持と修正資本主義を主張、反共的姿勢を鮮明にして初当選、28歳で全国最年少の議員となる。

同い年の田中角栄も、同時に民主党議員に当選している。

中曽根は、吉田茂の自由党を強く批判、一年生議員ながら民主党総裁に芦田均を推すことを強硬に主張、「青年将校」との綽名を得る。

片山哲社会党・民主党連立内閣成立、炭鉱国家管理法を可決したが、これに反対した幣原喜重郎や田中角栄は民主党を脱党、自由党に合流。

翌48年成立の芦田内閣も疑獄事件で辞職、同年吉田が首相に復帰、以後54年まで続く長期政権を築く。

野党時代の中曽根の政治的スタンスは、自由放任的資本主義の修正による社会的連帯の重視、自主防衛確立と対米独立性の回復、大戦のアジアに対する侵略的性格を認めた上での東京裁判への批判。

現在の私から見ると、どれも真っ当な姿勢と思える。

50年民主党が吉田内閣との連立模索派と反対派に分裂、中曽根を含む反対派は三木武夫の国民協同党と合同して国民民主党を結成、52年には改進党に改組。

51年中曽根は、国会でサンフランシスコ講和条約には賛成票を投じ、日米安全保障条約については棄権。

安保条約での内乱時の米軍出動、有効期限未設定、日米行政協定での米兵への裁判権欠如などを問題視、戦時中の無差別爆撃についてアメリカに賠償を請求すべきだとすら語ったという。

同じ選挙区の福田赳夫と激しい競争を経て、当選を重ねる(後には小渕恵三も同選挙区で当選)。

中台・南北朝鮮の分断、アジア地域の一体感の欠如などの現実から、アジア版のNATOである「太平洋同盟方式」の集団安全保障政策に懐疑的になり、日米安保を容認するようになる。

与野党折衝の末、原子力関連の予算を計上、日本の原子力開発の先鞭をつける役割を果たすことになる(ただし、原子力の平和利用について、当時は保守政党だけでなく、左右両派の社会党も賛成している)。

アメリカに続いて、当時珍しかった共産圏への歴訪も実行、ソ連の抑圧的で貧しい社会を実感した一方、中国ではやや明るい印象を受ける。

54年鳩山一郎を総裁として日本民主党結成、吉田自由党内閣は総辞職、鳩山政権成立。

55年左右社会党統一を受けて、保守合同が成り、自由民主党結成。

反吉田の立場を一貫させていた中曽根は保守二党論者だったが、やむを得ずこれに合流。

56年日ソ共同宣言、国会での演説で中曽根は北方領土問題などでソ連を批判、社共両党の抗議で演説は議事録から削除された。

自民党内の派閥は、官僚派が岸信介派、池田勇人派、佐藤栄作派、党人派が河野一郎派、大野伴睦派、石橋湛山派、三木・松村謙三派(この三木は武夫じゃなくて武吉の方か?)、中間の石井光次郎派など。

中曽根は、河野派に所属。

56年鳩山退陣後の総裁選で、河野派の方針に反して、岸信介ではなく、石橋湛山に投票、石橋内閣が成立。

戦時中の経験から、東条内閣の商工相という地位にあった岸への反感と、軍に抵抗していた石橋への共感による。

しかし、石橋は病気で辞任、57年岸内閣成立。

岸のアジア・アフリカ歴訪に途中まで同行、インドでネールと会談、エジプトではナセルに対しスエズ運河国有化とアスワンハイダム建設への支持を語っている。

河野派が反主流派に転じていた為、岸政権では冷遇、しかし59年内閣改造で中曽根は科学技術庁長官として初入閣を果たす。

60年安保改定にあっては、アイゼンハワー訪日中止を岸に進言。

池田内閣でも主流派は池田派・岸派・佐藤派が占め、中曽根は忍従の時を過ごす。

長年の持論となる首相公選運動も起こすが、これへの拘りは個人的にちょっと理解に苦しむところである。

池田からの禅譲を期待した河野だったが、後継には佐藤が選ばれ、64年東京オリンピック後、佐藤内閣成立。

ライバルの田中角栄は池田内閣で蔵相、佐藤内閣では自民党幹事長を務める。

台湾支持を続ける佐藤政権に対し、中曽根は中国承認を主張。

65年河野が急逝、翌年河野派を割って中曽根派を結成。

67年反主流派の態度を改め、運輸相として入閣、「風見鶏」との評を得る。

沖縄返還に備え、「核を作らず、持たず」の原則を表明することを検討した際、「持ち込ませず」を加えて非核三原則とすることを閣内で主張。

だが、この「持ち込ませず」は世論向けの政治的ゼスチャーであることは中曽根自身も承知しており、「核密約」の公表も視野に入れた大平正芳と違って、中曽根を含む歴代首相は建前論に終始した、と本書ではやや批判的に記されている。

日中国交正常化および米国の核の傘と第七艦隊以外の自主防衛を主張。

70年防衛庁長官に就任、改憲論を一時封印し、「非核中級国家」としての漸次的防衛力増強を志向。

71年佐藤内閣末期、自民党総務会長に就任、佐藤後継を争う、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根の「三角大福中」の一員と見なされる。

72年総裁選で田中を支持、田中内閣で通産相に就任。

対ソ関係を睨んだ日中国交正常化を支持、それが達成されると、日米経済摩擦と石油危機の対処に追われる。

74年金権問題で田中辞職、「椎名裁定」で三木武夫が総理就任、中曽根は幹事長に。

しかし中道左派色の強い三木政権で、国鉄スト、ロッキード事件と田中逮捕などの混乱が起こり、幹事長を辞任、76年内閣も倒れる。

後継の福田内閣で総務会長就任、内政では吉田政権以来の経済偏重を批判し、統治能力回復を主張するが、外交では、対東南アジア友好宣言である福田ドクトリンと、ソ連への対抗連携を暗に含んだ日中平和友好条約などの福田政権の路線を概ね支持。

78年田中派の支持を得て大平が総裁選勝利、大平内閣成立。

大平は中曽根を高く評価せず、そのスローガン「戦後の総決算」は(中曽根が後に唱えた「戦後政治の総決算」とは異なり)「戦前への郷愁」が含まれないものだったとの言葉が紹介されている。

財政再建問題で国会は紛糾、「四〇日抗争」と呼ばれる、主流派の大平派・田中派と反主流派の福田派・三木派・中曽根派の対立が深まり、80年野党提出の内閣不信任案が福田派と三木派の欠席によって可決されるという「ハプニング解散」となる。

ただし中曽根は不信任案には反対投票をしており、これが後に田中派の支持を受けることを可能にした。

最少派閥にも関わらず、「三角大福」の確執から距離を置いてフリーハンドを保てたこと、最大派閥田中派が(田中がオーナーの地位を譲らなかったので)総裁候補を出せないこと、やや若く、他派閥の領袖が交替する時期を活用できる見込みがあったことなどに助けられ、首相の地位に近づく。

大平は選挙期間中に急逝、初の衆参同日選挙で自民党は圧勝、大平派の鈴木善幸が総理就任。

鈴木内閣では行政管理庁長官という、やや格下の役職についたが、第二次臨時行政調査会(臨調)を設置、民間活力による「増税なき財政再建」を掲げ、新自由主義的改革を推進。

鈴木内閣は、対米防衛協力問題、対韓経済支援問題など外交で迷走。

82年11月中曽根内閣成立。

田中派が多数入閣、「田中曽根内閣」とマスコミに揶揄される。

トップダウン型の「大統領的首相」と「指令政治」を志向。

審議会、私的諮問委員会を多用、それに加わったブレーンには高坂正堯、佐藤誠三郎など私にも親しい名がある。

83年日本首相初の公式訪韓を実行、全斗煥大統領と会談し日韓関係を改善、続く訪米では「不沈空母」発言に代表される安全保障面での積極策を強調し、レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と言われる信頼関係を築く。

「戦後政治の総決算」を掲げつつ憲法改正は事実上封印していたが、軽武装経済立国路線の「吉田ドクトリン」を支持する保守本流派からは一部危惧の念が出る。

ウィリアムズバーグ・サミットでは、ソ連に中距離核戦力の全廃を求め、それが応じられなければ西側も対抗措置を取ることを主張、政治声明に取り入れられる。

戦後日本の首相が安全保障分野でリーダーシップを発揮した稀有な例である。

だが内政ではロッキード裁判での田中への有罪判決が下り、総選挙で大敗、自民党は過半数を割り、自民離党者で結成されていた新自由クラブとの連立に追い込まれる。

84年訪中、胡耀邦総書記とも緊密な信頼関係を築き、この年は二千年におよぶ日中関係史上最良の年と言われた。

「中国の存在がまだ巨大でなかったにせよ、日中提携と対米協調を両立できた指導者は、日本外交史をたどっても多くない。」と評されているが、確かにその通りで、冷戦末期軍事力を拡大するソ連への対抗という課題が各国に共有された状況であり、なおかつ日本経済が全盛期を迎えていた故であっても、米欧および中韓などアジア諸国との関係をすべて緊密化した手腕はやはり高く評価すべきものであり、本書が述べるように戦後外交の頂点と言っても過言ではないと思われる。

85年田中派から竹下派が自立、田中も病に倒れ事実上失脚、竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の「ニューリーダー」が台頭する中、「三角大福中」の最後に登板した中曽根が政治的フリーハンドを得て、極めて有利な立場を占める。

同年プラザ合意、貿易不均衡解消の為、米国の圧力で円高ドル安に向け先進五ヵ国が協調介入。

このプラザ合意がバブル経済の発生と崩壊、その後の長期不況の原因となったとよく批判されるが、後年中曽根はプラザ合意自体は当時の国際情勢からしてやらざるを得なかった、その後90年代の不況対策の不徹底が問題だったと反論している。

だが、本書では、プラザ合意への是非はともかく、87年中曽根政権末期にそれ以上のドル安を阻止する為、企業が円高不況を克服しつつあったのに6兆円規模の内需拡大策が組まれた、これが景気を過度に加熱させバブル経済への流れを強めた、また貿易黒字削減の為に私的懇談会が提出した「前川レポート」でも民活と規制緩和による内需拡大が意図されており、やはり中曽根政権の経済政策とバブルの発生は無関係とは言えない、とされており、常識的に見てやはりそう言わざるを得ないでしょう。

85年終戦の日、靖国神社への参拝を、首相としての公式参拝であると明言して実行したが、対中関係は悪化、翌年からは参拝自粛、結果として公式参拝にこだわった為に、靖国問題が内政での政教分離と憲法問題を超えて国際政治とリンクするきっかけになってしまった、と評されている。

85年電電公社がNTTに、専売公社がJTに民営化され、86年国鉄分割民営化法案が成立、87年JR発足。

86年東京サミット開催、同年衆参同日選挙で自民党が300議席越えの圧勝、新自由クラブを吸収、総裁任期の一年延長決定。

防衛費GNP1%枠を撤廃するが、大型間接税導入には失敗。

87年退任、後継指名を一任され、竹下登を選択。

竹下内閣で念願の消費税が導入されるが、リクルート事件が発覚し、自身も強い批判に晒される。

しかし、その後も国内外で活発に活動、97年大勲位菊花大綬章を受章、生前にこれを受けた戦後の首相は吉田、佐藤と中曽根だけで、以後「大勲位」とやや揶揄的に呼ばれるようになる。

2003年に年齢制限によって小泉内閣から自民党公認を得られず、議員引退。

2011年東日本大震災での菅民主党内閣の対応を批判、しかし原発事故を受けて、かつて自身が原子力開発の旗振り役だったことへの反省の弁も述べる。

本書刊行時の2015年、そしてこの記事を書いている現在も未だ存命。

世界的に見ても、主要政治家では文字通り最長老というべき存在。

本書を通読して、佐藤退陣以後、二年ごとの短命政権が続いた70年代を経て、久しぶりの長期政権を築いた保守政権・自民党政治中興の祖という印象を再確認した。

冷戦末期、ソ連が軍拡と膨張主義の傾向を露わにしていた以上、日米同盟強化と防衛力増強という政策は首肯できるものだ。

三公社民営化に象徴される新自由主義的経済政策も、この80年代中盤の時点では、まだしも日本の国益と国民経済の発展に役立つ範囲に留まっていたと言うことができよう。

外交・防衛政策では、自主防衛および「常時駐留なき安保」に半歩でも踏み出す行動が見られなかったことが残念だが、ソ連の脅威とアメリカの対日警戒、さらに国内で自衛力の保持にすら反対する左翼・革新勢力の空想的平和主義という三者の板挟みとなっていた状況からすれば、それは無いものねだりと言うべきなんでしょう。

内政・経済面では、バブルを煽るような民間活力促進・規制緩和路線ではなく、官民共同で社会資本を着実に整備する形での内需拡大政策もあり得たのではないかと思えるし、これには上記の自主防衛政策よりも実現性があったはずだが、まあそれもあえて問題視しないことにしましょう。

今振り返っても、中曽根政権を肯定的に評価することは十分可能である。

そして、1990年代、自民党内において、改憲志向でタカ派的な旧中曽根派と清和会(旧福田派)を、ハト派的な保守本流よりも、私は常に高く評価していました。

しかし、21世紀になり、中曽根政権の劣化コピーのような、清和会主導の小泉政権および第二次安倍政権が、対米従属と新自由主義的政策によって、日本の国益と国民経済を害し続けているのを見るとき、その源流とも言える中曽根政権に対しても、かつてのような礼賛的姿勢は取れないなと感じ始めている今日この頃です。

 

 

読みやすい。

煩瑣でもなく、簡略過ぎず、ちょうどいいレベルの密度で安定した叙述が続く。

内容はしっかりしているし、叙述範囲の偏りもなく、著者の史的評価にも違和感は感じない。

同じ著者の『広田弘毅』および戦後政治家の伝記として福永文夫『大平正芳』と並んで、良書として評価できる。

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