万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年3月14日

西部邁 『西部邁の経済思想入門』 (左右社)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:44

1987年に放送大学用のテキストとして執筆された作品に加筆・訂正して2012年再刊したもの。

著者はもともと経済学者ではあったが、原著が刊行された頃から、個人的自由と技術的合理性のみに依拠した「形式において精緻だが内容において空疎な物語」である、経済学から完全に離れることになる。

叙述上、経済学史の形式的系譜は守りながらも、何ものにも拘束されない合理的な原子的個人が完全な自由市場で活動することによって理想的な予定調和に至るという空理空論を基本的前提とする現在の主流派経済学に対して、徹底した批判をもってしている。

間宮陽介『市場社会の思想史』よりも、こちらの方が良い。

より充実した内容を持っている。

難解な数式や概念を用いることなく、極めて本質的な議論を、初心者でも理解できる明解さで展開している。

一般教養的な経済学史を学ぶには、現状では本書が最良でしょう。

 

労働価値説を認めるかぎり、マルクスの剰余価値説はおおいに首尾一貫したものだといわなければならない。しかしマルクスの主張はむしろ労働価値説の不毛なることを、少なくとも科学としては不毛なることを、最終的に自己暴露したものだといわなければならない。なぜといって、資本もまた生産に寄与していることが明白である以上、資本の所有者としての資本家が報酬を稼得することになんの不思議もないからである。私有財産制の不当をいうことによって利潤を不労所得とみなすことは可能であろうが、その制度の枠内で財産収入の原理的不当性をいうことはできない。マルクスをおおよそ最後にして労働価値説が近代経済学のなかで姿を消すようになったのもむべなるかなといわなければなるまい。

だがこのことははたして価値論一般の不要を意味するであろうか。マルクスが当初『経済学・哲学草稿』などにおいて指摘していたのは労働の疎外ということであった。わかりやすくいえば、資本主義的生産の場において労働が喜びとはいえないものに化しているということである。一般的にいって、労働者はあるべき労働形態を意識するであろうし、またあるべき賃金水準をも意識するであろう。それらの意識を公正観念とよぶならば、労働サーヴィスという商品はまさしく人間自身によってなされるものであるために、公正観念とつよくかかわらざるをえない。公正から離れた労働形態あるいは賃金水準は不公正感を労働者のうちに累積させるであろう。マルクスの搾取論はそれ自体としては誤りといわなければなるまいが、市場における自由交換のうちにも公正観念が介在し、それが実現されないとき様々な矛盾をもたらすであろうという文脈においてならば、なおもくみとるべき含意をもっている。逆にいうと、反マルクス派の経済学者はあまりにも安直に自由交換の弁護論に走りがちなのである。

公正観念は社会的通念として成立するものであろう。公正観念が自由交換の場において機能しないということは、そうした通念を支える社会的紐帯が崩壊したということである。そこではたしかに孤立した諸個人の不安な選択が広まるであろう。しかしそれを自由交換の名において正当化するのは個人主義のイデオロギーにすぎない。マルクスの経済学説の誤りはその労働価値説において典型的に表れているのではあるが、そこにおいてすら、経済学をめぐるイデオロギーをいかに解釈するかに当たって、無視しえぬものを残しているのである。

 

先日、著者が自裁されたが、全く意外感が無い。

間違いなくそうした最期を遂げられるんだろうなと思っていたので。

ご冥福をお祈りしますとか、月並みなことも言いたくなかったので、このブログで即座に反応はしなかったんですが。

西部氏は高坂正堯氏と並んで、学生時代以来、自分が最も影響を受けた人だと思う。

今後も、その著作を読み返して、ものを考えることは続けたいと思います。

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