万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年3月9日

小此木政夫 編著 『北朝鮮ハンドブック』 (講談社)

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金日成が死去して三年後の1997年刊。

編著者の小此木政夫氏は、個人的には1990年代から最も信用している朝鮮半島研究者である。

ただし、一般向けの著作はほとんど書いていないので、このブログでも今まで紹介する機会が無かった。

本書は共著ではあるものの、その稀な例外。

タイトルは「ハンドブック」だが、本文は400ページ超とかなりの大部である。

その分、政治、外交だけでなく、経済、法制、思想教化など内容も多彩(その手の詳細な記述は、残念ながら読み飛ばすしかないこともあるが)。

小此木氏以外の執筆者も、伊豆見元氏をはじめ信頼できそうな顔ぶれ。

章ごとに著者が替わるのではなく、同じ章内の節ごとに替わるのだが、通読する上で特に違和感は感じない。

まず、冒頭で金日成死後の金正日時代を扱ってから、日本敗戦後の状況から筆を起こして、順に北朝鮮史を記し、最後に日朝関係の章で締める、という構成。

ソ連占領下で金日成が指導者に就任、48年朝鮮民主主義人民共和国成立後、50年武力統一を目指して南侵し、朝鮮戦争を起こすが、米軍介入で押し戻され53年休戦、ソ連派・延安派・南労党派を粛清して58年頃独裁体制確立、60年代中ソ対立に際しては当初は中国寄りの立場を取るが、文化大革命中に中国とも対立、以後自主路線を推進(日本共産党も同様の経緯で自主独立路線を確立するが、日共と朝鮮労働党も対立関係に入る)、67年甲山派も粛清された後、その体制はますます異常性を増し、首領制と「唯一思想体系」によって個人崇拝を極限まで推し進めたものとなり、スターリン批判と林彪事件を見て、自身と支配層の保身目的で74年息子の金正日を後継者に決定、「主体(チュチェ)思想」という似非哲学で「全社会の金日成主義化」と言われるほどの思想統制・教化を徹底し、悪夢のような究極の個人独裁体制を確立するが、80年代に入る頃には韓国との体制競争で完敗したことが誰の目にも明らかとなり、ソ連・東欧共産圏の崩壊で、経済は完全に破綻状態となる中、核開発による「瀬戸際外交」に活路を見い出し、94年金日成が死去して後、金正日政権が「米朝枠組み合意」を成立させたが、(本書刊行後)21世紀に入って核危機を再燃させ、現在までその状況が続いてしまっている。

90年代以降、北朝鮮の「早期崩壊説」「内部対立説」が繰り返し語られたが、本書は以下のように述べる。

 

編者は北朝鮮体制の最大の特徴は「政治と経済の非対称性」にあると考えている。北朝鮮経済がきわめて脆弱であり、すでに破綻したことは衆目の一致するところである。そうだとすれば、なぜあの国家体制はソ連・東欧諸国のように崩壊しないのだろうか。経済体制とは比較にならないほど強靭な政治体制が存在することに、その秘密があるといわざるをえないだろう。いいかえれば、金日成、金正日を頂点とする一元的で、特異な政治体制の存在が経済体制の破綻を補ってきたのである。

・・・・・・

率直にいって、さまざまな困難にもかかわらず、金日成死後も北朝鮮国家が存続しているのは、宗教的な色彩を帯びたイデオロギーとそれに裏打ちされた強靭な政治体制によるところが大きい。いいかえれば、食糧危機や経済破綻にもかかわらず、それを補うだけのイデオロギーと政治体制が存在することこそが、北朝鮮国家が維持されてきた秘密にほかならないのである。事実、ソ連・東欧型の社会主義国であれば、北朝鮮はすでに消滅しているに違いない。そうではなく、首領・労働党・人民の三位一体が強調される閉鎖的な有機体国家(「社会政治的生命体」)であるがために、北朝鮮は存続してきたのである。

金正日の政治基盤についていえば、それは一般に想像されている以上に強固である。それどころか、長期にわたって、苛酷な暴力装置、極端な情報統制、イデオロギー教化などが維持され、政治体制が人格化されてきた結果、現在の北朝鮮には、首領制に代わりうる政治体制が存在しないのである。最高指導者への正式就任には三年余りの歳月が必要とされたが、その間も金正日の後継者としての地位は公式に確認されていたし、北朝鮮では、後継者もまた「首領」である。だからこそ、金正日の指導も「領導」と表現されたのである。「外部からの脅威」の誇張や「忠孝」などの儒教的な価値体系もまた、国民の間に運命共同体的な政治意識を植え付けるために巧みに利用されている。

もちろん、そのような一元的な政治体制にも物理的な限界がないわけではない。しかし、たとえば食糧危機がさらに深刻化した場合、内部的に予想されるのは、労働者や農民の暴動であるよりも、むしろ「統制された飢餓」であるだろう。いいかえれば、住民に対する統制能力が維持されている限り、「個人的な逃亡」は増大しても、食糧危機が体制崩壊に直結することはないのである。

・・・・・[亡命した]黄長燁はまた、北朝鮮指導部内に「強硬派と穏健派の対立」が存在するとの見方を完全に否定し、「一人独裁下には、“派”という概念もない」とか、「金正日を拒否する勢力はない」と断言している。

 

本書刊行から、実に20年以上経った現在から見て、上記の見解は正しかった。

この最悪の全体主義国家は、残念ながら恐るべき強靭性を持って、経済破綻と国際的孤立を生き延び、現在も存続している。

和田春樹『北朝鮮現代史』の記事でも述べたが、私自身は、本当の本当に遺憾なことだが、金正恩政権を交渉相手と認め、慎重で冷静な外交を行い、経済援助をインセンティブとして核開発凍結と拉致問題解決、国民の権利状況改善を徐々に、粘り強く進めるしかないと考える。

戦争という手段は、軍事情勢を見ると、余りにも危険が大き過ぎる。

日本が受ける被害も尋常じゃないでしょう。

道義的には、この国の体制はとっくの昔に正統性を失い、外部から武力で打倒しても許されるほどの暴政を自国民に敷いていることは確実である。

私は、2003年のイラク戦争を、虚偽の大量破壊兵器製造疑惑と外部からの体制変換による民主化という現実離れした妄想によって起こされた世紀の愚行と見なし、徹頭徹尾否定する立場だが、それに比べれば、北朝鮮の体制打倒の為の軍事行動には遥かに正当性があると思う。

だが、北朝鮮の軍事力と狂信性を考えると、やはり戦争という手段を取ることは事実上不可能だ。

あくまで外交交渉による事態の平和的解決という一線を守るしかない。

現状北が保有している核兵器を放棄させることも難しいだろうし、それ以上の核戦力増強だけは凍結させて、その状態が相当長期間続くことも覚悟しないといけないかもしれない。

 

しかし、共産主義という人類の悪夢がようやく消え去りつつあったと思ったら、その中でも最も異常で劣悪な国家が日本の隣に残ってしまったのも因果なことです。

国民全体へのイデオロギー洗脳における偏狭性と狂信性、政治的反対派への迫害・弾圧における徹底性と残忍性について、誇張でも何でもなく、あの国は正に人類史上の汚点と言うほかない。

ヒトラー、スターリン、ポル・ポト各政権の最悪の時期が、控え目に見ても(建国当初からしばらくの間は、共産主義国の「平均的で」「通常的な」抑圧性に止まっていたと考えたとしても)、1960年代後半からずっと続いている状況だ。

その政治犯収容所は、世界でも最も閉鎖的で厳重な統制下にあるが、亡命者のわずかながらの証言を、疑いを持ちつつ話半分に聞いても、ナチ以上の、凄惨極まりない、恐るべき残虐行為が行われていると判断するしかない。

この世の地獄、とはあの国の強制収容所のためにある言葉だ。

最高位の支配階層に属する人間ですら、いつ粛清され、一族もろとも抹殺されるか、収容所送りになるかわからない(もしそれが自分の身に降りかかったら、収容所で生きている間中、恐ろしい虐待を受けるくらいならば、一思いに殺された方が楽だろうなと想像する)、極限の恐怖政治が敷かれている。

この国の国民にだけは、絶対に生まれたくない。

世界史上のどんな国家・体制よりも、私は北朝鮮に対して否定的印象を持つ。

上に記した通り、私は当分の間、北の現体制と共存を模索せざるを得ないとする立場ですが、それはこのような残忍な国内体制をしばらくの間は放置せざるを得ないという、深刻な道義的ジレンマを自覚した上でのことです。

無責任な好戦論を煽り立てる連中は愚昧・卑怯・劣等の極みだが、平和的解決を主張する人も、以上のことを理解した上で、そうしてもらいたい。

そのような人々の中で、(さすがに北の現体制を積極的に支持する人間はほぼ絶無となったが)かつての大日本帝国と韓国の軍事政権を北朝鮮と同列に置いて批判する人もいるが、私はそこに表れる倫理感覚に対して深い疑いの気持を持つ。

上述の通り、はっきり言ってレベルが違う話なんで。

体制の抑圧性については、北朝鮮は、誇張でなく、全世界史上最悪の程度に達しており、日本の植民地統治と戦時体制、韓国の朴正熙・全斗煥政権のそれぞれ最悪の時期でも及びもつかない程の残忍性を持っている。

北朝鮮がこのような体制になったのは、植民地支配と冷戦構造の結果だ、日本はその責任者だ、という主張には、いや大日本帝国もその前段階での歴史的環境に対応するため、否応なく形成されたものだ、その論法で自国の体制に対する国民の自律的責任を免除していったら、キリがないと言いたいし、韓国の権威主義政権は北の軍事脅威に対抗するための自衛措置の表れであり、現在から見ても十分正当化できるものだと考える。

「戦後の朝鮮半島では、北も南も独裁政権だった、しかし南では民衆の力で軍事政権を倒して民主化を達成した」という物語は、北の異常性を看過し、南北を同列に置く、欺瞞に満ちた虚構である。

「北の最悪の全体主義的独裁に対抗するため、南ではやむを得ず権威主義的体制を構築し、国力の増進に努めたが、その必要性を理解できない人々が正当性に乏しい、無分別の気配が濃厚な激しい反抗を起こした、しかし幸いにも国家が転覆することはなく、北との体制競争に完全に勝利したと思われた時点で、南は正常な議会政治に移行した」という方が余程真実に近い。

(現在の韓国では、残念ながら前者の歴史観が主流となってしまったようだが。)

 

加えて、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」という国名を掲げながら、実態は「金王朝」であり民主主義の欠片も無いと揶揄して済ませる態度からも脱却した方がよい。

あの惨めな体制だって、「民主主義」の帰結なんですよ。

共産主義は、人類社会のありとあらゆる不平等を未来永劫消滅させ、真の実質的自由と民主主義を実現すると豪語し、そのために暴力を用いてあらゆる伝統と既存支配階層を破壊しなければならないという考えから生まれた狂信です。

民主主義の単線的発展上に生まれたのが共産主義です。

これも何度も言っていることですが、共産主義を批判するに当たって、真にそれを否定しようと思うならば、民主主義も否定し疑わなければならないはずである。

 

ひとくちにいって文化の非理性化、このことの危険さかげんは、まずなによりもそれが自然を支配する技術能力の最高度の展開、および物質的幸福と富に対する欲望の激化という事態と並行し、またこれと結びついているという事実のうちに存する。

この物質的なものへの欲望が商業-個人主義的な形態をとるか、あるいは社会-集産主義的な形態であらわれるか、それとも国家-政策的形態のうちに発現するか、それはさしあたり問題ではない。

どのような社会原理に呼びかけんとするか、それは問題ではない、ともかく文化の非合理化からは生そのものの礼拝が結果し、これが支配と所有への非人間的、利己的衝動をいやがうえにも高めるのである。集産主義は利己主義を排除すると考えるなどは、およそ無思慮の一語につきよう。

かかる破滅的諸要因の協働によく対抗しうる釣合の力は、これを至高の倫理的、形而上的諸価値のうちにのみ求めることができよう。理性への回帰ということだけでは渦からぬけだしえないのである。

理性への回帰、せめてこれが要件だとはしても、わたしたちが正しい道を歩んでいるとはだれにもいえまい。どうみても、わたしたちは、この文化を脅かすに足る危機の錯綜を体験しているのだ。

感染と中毒に対する抵抗力の弱まりという状況、酩酊状態にも比すべき状況がみられるのである。精神は荒廃した。思想の交換手段、ことばは、文化の進展につれて、その価値を低めつつある。

ことばは、ますます多量に、ますます安易にまきちらされる。話され、あるいは綴られることばの価値の低下に正比例して、真理に対する無関心がふかまる。

非理性的な精神の構えがその地歩をすすめるにつれて、どの分野にあっても、誤った認識のはたらく余地がますますひろがる。商業的煽動的傾向の一時の宣伝が、たんにみかたの相違にしかすぎぬものを、一国全体の幻覚にまで拡大してしまう。

日々の思念は即座の行動を要求する。いったい、偉大な想念がこの世界にしみとおってゆくのは、ごくゆっくりした歩みでしかないというのに。都会にただようアスファルトとガソリンの匂いのように、世界の上には、むなしくあふれることばの雲がかかっている。

責任の観念は、一見、ヒロイズムのかけ声がこれを強化するかにみえるものの、そのじつ、個人の意識のうちにこそ求められるべきその基盤から引きはなされ、集団の利益のために、その視野のせまい考えを救済の法規とまで持ちあげたがり、これを押しひろめようと図る集団の利益のために動員される。

およそ集団の結びつきにあっては、個人の責任という観念は、個人の判断ともども、そのなにほどかの部分を、グループということばのうちに失うのである。

疑いもなく、今日の世界にあっては、すべての人がすべてのことに対して責任があるという感情が高まっている。だが、それと同時に、また、極度に無責任な大衆行動の危険が、異常なまでに増大してもいるのである。

引用文(ホイジンガ3)より。

 

 

あらゆる啓蒙主義道徳、人間の「真の利益」を説くすべての教義は、本来いかに精神的なものであろうとも、それどころか、初めのうちは人間の真の利益は「神のなかに生きる」ことだとさえ定義していようとも、ひとたび権力の座につき、大衆のこころを手に入れてしまうと、かならず権力獲得の程度に比例して堕落する。すなわち、物質化し、経済化し、非精神化する。他方、啓蒙主義道徳に忠誠を誓う大衆も、かならずますます欲の皮があつくなり、不満をつのらせ、ますます愚かになり、不信仰になる。そう、ますます非宗教的になる。宗教と政治とを分離できると考えているところに、自由主義の誤謬がある。宗教なしには、政治は、内的政治は、つまり社会政策は、結局のところやっていくことができない。というのは、人間という動物は、形而上的宗教をうしなうと、宗教的なものを社会的なもののなかに移しかえ、社会的生活を宗教的神聖さに高めようとするものであるが、その結果は、反文化的な社会的愚痴こぼしか、でなければ、社会的対立は解消できず、約束された幸福はいっこうに実現しないものだから、功利的争いの永続化と絶望か、そのいずれかに行きつくのがおちなのだ。宗教心は、たしかに社会的良心や社会的清潔欲とけっこう手をにぎりあえるものである。しかし、宗教心が発生するためには、まず社会生活の過大評価が消滅しなければならない。すなわち、和解は社会的領域以外のところに求めなくてはならぬという認識がうまれたときにはじめて、宗教心が生じる。社会生活の過大評価が精神を支配し、社会生活の絶対的神格化がはじまるところでは、宗教心は居場所をうばわれ、逃げだすほかない。あとに残るのは、絶望的な不和軋轢だけである。

トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)より。

 

 

北朝鮮について(北に限らないが)、言論の自由があるにも関わらず、その恐るべき実態が事実上隠蔽され、その言論状況の改善は徐々にしか進まず、最終的には2002年日朝首脳会談による拉致事件公然化まで、その種の左翼的言論抑圧が続いたことは、ある程度以上の年齢の方なら覚えがあるはずです。

それも「民主主義」という言葉に無条件に拝跪する精神態度と無関係ではないと思います。

 

 

これまで北朝鮮通史としては、金学俊『北朝鮮五十年史』(朝日新聞社)徐大粛『金日成と金正日(現代アジアの肖像6)』(岩波書店)和田春樹『北朝鮮現代史』(岩波新書)を紹介しているが、本書も含め、どれも悪い本ではない代わりに、決定版という感じがする本もない。

まあ、和田春樹『北朝鮮現代史』が一番新しいし、コンパクトだし、思ったほどの内容的偏りも無かったので、ひとまずそれを読めばいいんじゃないですかね。

ただ本書も良質な概説であったことは書いておきます。

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