万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年2月25日

小谷野敦 『名前とは何か  なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』 (青土社)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:12

サブタイトル通り、実際の領地や権限とほとんど関係なく与えられる「武家官位」の話に始まり、「氏」と「姓」と「苗字」の違い、「諱」と「編諱」、外国人の人名、匿名言論の問題点が内容。

日本の話も中々興味深いが、この記事では外国の事例について、以下の部分のみを引用メモしておく。

 

なお、ヴェトナムも漢字文化圏なので、ホー・チミンなどは「胡志明」である。・・・・・ところが、新聞報道などを見ていると、ファン・ヴァン・ドンというヴェトナムの政治家を「ドン首相」などと書いているのである。漢字は、范文同であるから、「范」が姓のはずで、ほかにも現在の党書記長はノン・ドク・マインだが、これを「マイン書記長」などと書く。変だ変だと思って調べていたら、ヴェトナムでは姓と上の字が同じ人が多いので、いちばん下の字を姓のように使うのだそうだ。どうもややこしいことである。

 

西洋人の名前について説明すると、イスパニア系の人の場合、父の姓と母の姓を併せて姓とする。「ガブリエル・ガルシア=マルケス」ならば、ガルシアが父の姓、マルケスが母の姓である。だから子供はガルシアの方を受け継ぐことになる。最近は見かけなくなったが、昔はこれを「マルケス」などと呼ぶ人がいて、だからそれは間違いなのである。どちらかといえば「ガルシア」のほうがいいことになる。・・・・・フランスには、そういう形ではないが復姓めいたものがあって、レヴィ=ストロースとか、サン=テグジュペリ、メルロ=ポンティ、マンデスフランス、ジスカールデスタンなど長い姓がある。・・・・・ルネ・デカルトも、デ=カルトだから、デカルト主義はカルテジアニスムになる。新聞はむやみと「ヴ」の音を使うのも、人名に「=」を使うのも嫌がるので、「レビストロース」とか「バルガスリョサ」といった表記が目につくのは困ったことである。

 

英国史を読む時など気をつけなければならないのは、政治家などで、姓ではなくて領地の名で呼ばれる貴族政治家があって、アヘン戦争の時の外相でのち首相となるパーマストンなどは、パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルが本名である。これは日本の徳川時代に前田家当主を加賀中納言とか、山内氏を土佐などと呼んだのと近いと言えるだろう。もっとも日本の場合、そこに領地と無関係な受領名がついたりするからややこしいが、どこでも歴史のある国はややこしいものだ。

 

著者の本を全くフォローしなくなって久しいが、これは勧められる。

いろいろ有益な知識が得られる。

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2018年2月21日

リチャード・リケット 『オーストリアの歴史』 (成文社)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 02:38

200ページ弱の小史だが、比較的良くまとまっている。

高校世界史レベルのことはすっ飛ばして、それ以外の事項を述べると、カール大帝とオットー1世が東方蛮族への防壁として設置した「オストマルク」が建国の起源。

支配者は、バーベンベルク家からプシェミスル家(チェコのボヘミア[ベーメン]王国の土着王朝)へ、そしてハプスブルク家と変遷。

三十年戦争後、即位したレオポルト1世は、その長い治世(1658~1705年)中に、第二次ウィーン包囲を退け、オイゲン公という名将を起用し、ハンガリーを回復、オスマン帝国に対して決定的優位に立つことに成功した。

本書では、啓蒙専制君主として著名なヨーゼフ2世は、貴重な伝統や慣習を破壊して性急な改革を無理に推し進めようとしたとして、かなり厳しく評価されている。

1848年三月革命の混乱の中、フランツ・ヨーゼフ1世が即位、第一次大戦中の1916年まで、実に半世紀以上在位する。

帝の弟マクシミリアンはナポレオン3世に担ぎ上げられメキシコ皇帝となるが、反乱に遭い銃殺され、皇太子ルドルフは不満を募らせた挙句自殺、妻エリザベートはアナーキストに暗殺され、そして新たに皇太子となった甥のフランツ・フェルディナント大公もサラエボでセルビア人に暗殺、これが第一次大戦のきっかけになったことは周知の通り。

1908年(1878年ベルリン会議で管理権のみを得ていた)ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合する決定が全欧戦争の危機を強める。

英国王エドワード7世は老皇帝にドイツとの同盟がもたらす危険を警告したが、不幸にも実を結ばず。

もしエドワード7世がオーストリアをドイツから切り離すことに成功していたら、中央ヨーロッパの将来がどうなっていたか想像するのは楽しいことだ。もし本当にそうなっていたら・・・・・。

皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されず即位していれば、スラヴ人の地位を向上させ、ハプスブルク帝国を、オーストリア・ハンガリー二重帝国からスラヴ人をも含めた「三重帝国」に変化させていただろう、との著者の想定が興味深い。

ハプスブルク帝国崩壊後、果てしない民族紛争と左右両極の狂信的イデオロギーによって悲惨極まりない状態に陥った中東欧を見ると、なぜそうならなかったのか、と慨嘆したくなる。

第一次大戦敗北により、帝政は崩壊、第一共和政成立。

1922~24年、26~29年首相を務めた保守派のザイペルの下、戦後復興に成功。

だが、国内の左右対立激化、経済恐慌襲来、オーストリア・ナチ党の台頭によって、1932年首相に就任したドルフスは右派権威主義体制を樹立、ムッソリーニと友好関係を結び、左派勢力とオーストリア・ナチスを共に弾圧。

34年ドルフスがナチに暗殺されるが、激怒したムッソリーニは軍を動員、政権掌握間もないヒトラーは引き下がり、オーストリアは後継首相シューシュニクが権威主義政権を継続。

だが、独伊接近によって独立の後ろ盾を失ったオーストリアは、38年ドイツに併合される。

第二次大戦後、第二共和政成立、ドイツと同様に東西両陣営によって分割占領されるが、スターリン死後の緊張緩和期の機会を捉えて、中立を自発的に宣言することを代償に、1955年オーストリア国家条約で外国軍は撤退。

冷戦下では中立政策から欧州統合には参加せず、冷戦終結後の1995年にEU加盟。

 

 

ちょっとあっさりし過ぎているかもしれないが、大部の本は当然読みにくいし、本書の意義は充分あるか。

普通に有益です。

2018年2月18日

アンドレ・ジイド 『法王庁の抜け穴』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:57

1914年刊。

反教権主義・世俗主義の隆盛に対し、守勢に立たされたカトリック教会、という時代状況を背景にして、無償の英雄的行為と無意味な殺人の双方を為す者、無神論から改宗したが生活に困窮し家庭不和に陥る者、教皇幽閉という虚偽の噂を流して詐欺を働こうとする者、など様々な人間群像を描いた作品。

よくわからん・・・・・。

第一編はまだ良かったが、以後はさして面白くも無ければ、感銘を受ける点も無い。

さらに、訳文が古いせいか、読みにくい。

後半、ストーリーの展開に意外性があることは認めるが、何を言いたいのか、私の頭では理解できない。

『狭き門』のあと、ジイドの二作目として、昔学生時代に『田園交響楽』を挫折したことがあったので(短い作品なのに)、世評が高いと思われるこれを選んだのだが、見事に失敗だった。

私の知性と感性では良さが分からない作品だった。

ヘッセに比べればジイドはまだ自分の感覚に合いそうだと思い込んでいたが、それは錯覚でした。

それが理解できたことだけが収穫です。

2018年2月14日

フレデリック・ルイス・アレン 『オンリー・イエスタデイ  1920年代・アメリカ』 (ちくま文庫)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 05:20

副題通り、1920年代のアメリカを描写した社会史・生活史・風俗史の本。

第一次大戦後、ウィルソン的理想主義に倦み、国際連盟への参加を拒否して「常態への復帰」というスローガンと共に孤立主義に閉じ籠り、ボリシェヴィズムの影に怯えて「赤狩り」が行われ、サッコ・ヴァンゼッティ事件を引き起こし、ハーディング、クーリッジ、フーヴァーという凡庸極まる共和党大統領の下、巨大企業重視の自由放任政策を続け、自動車とラジオを中心とした大量消費社会を出現させ、空前の好景気を享受したが、1960年代の対抗文化の先駆けのようなモラルの変容を経験し、誇大広告と煽情的ジャーナリズムによる大衆ヒステリーが繰り返され、リンドバーグなどが英雄に祭り上げられ、禁酒法という明らかに無謀で偽善的な社会的実験が行われ、その弊害からアル・カポネらマフィアが我が物顔で横行し、フロリダにおける狂気のような不動産ブームの後、さらに狂的な株式バブルを膨張させ、ついに1929年ウォール街株価の暴落を引き起こし、大恐慌に全世界を巻き込んだ、1920年代アメリカの大衆社会を活写している。

その醜悪な面は、日本を含む全ての民主主義社会の雛型でもある。

 

 

もちろん、細かな固有名詞やエピソードにこだわる必要は無い。

雰囲気をつかめば十分。

著名な本であり、学生時代から存在は知っていたが、この度初めて通読。

しかし、本にはやはり読み時というものがある。

これを学生時代に読んでいたら、多分途中で挫折するか、嫌々読み終えて何の印象も受けない、ということになっていたでしょうね。

 

ざっと読んで、現在我々が生きている社会を反映する鏡のような叙述を確認できれば、それでよい。

悪い本ではないです。

2018年2月10日

砂野幸稔 『ンクルマ  アフリカ統一の夢』 (山川出版社世界史リブレット)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 03:25

出た、「ンクルマ」という違和感全開の表記。

1957年、戦後サハラ以南のブラック・アフリカで初の新興独立国となったガーナの指導者についての、90ページ弱の簡略な伝記。

著者は『新書アフリカ史』(講談社現代新書)の共著者の一人らしい。

高校世界史でギリギリ出てくる程度の人物なので、普通ならこれくらいの短い本が適切なんだろうが、高根務『ガーナ 混乱と希望の国』を読んだ後だと、それに付け加える知識は少ない。

独立後、1960年「アフリカの年」とコンゴ動乱の時期、穏健派のアフリカ諸国がウフエ・ボワニ政権のコートディヴォワールを中心にモンロビア・グループを結成、それに対抗してンクルマ政権のガーナ、セク・トゥーレ政権のギニア、モディボ・ケイタ政権のマリなど急進派諸国がカサブランカ・グループを結成、しかし急進派諸国でもンクルマの唱える、各国の国家主権を放棄したアフリカ合衆国を目指す意見に同意は得られず、結局両グループの妥協によって、1963年アフリカ統一機構(OAU)が結成された、ということくらいか。

カサブランカはモロッコにあるが、王政国家のモロッコが急進派諸国に加わったのは、単に対外関係についての思惑からだ、と『モロッコを知るための65章』に書いてあった気がするが、詳細は覚えておりません。

全体的な評価については、現実遊離した国家運営について厳しい意見も記されているが、OAUが発展的に解消して2002年発足したアフリカ連合(AU)にも繋がる、アフリカ合衆国の理想を掲げた人物としては評価している。

上述の『ガーナ 混乱と希望の国』が未読なら、読めばいい。

そうでないなら、強いて読むことは無いかなあ、と思う。

2018年2月6日

ジョージ・バーナード・ショー 『ピグマリオン』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:36

「こんな作品名、知らんなあ」と思われるかもしれないが、要は映画『マイ・フェア・レディ』の原作である。

ということで、音声学のヒギンズ教授とピカリング大佐が、下層階級のロンドン訛り(コクニー)丸出しで喋る花売り娘イライザに上流階級の言葉と立ち振る舞いを教え込んで、淑女に仕立て上げる、というお話になる。

作者自身が付け加えた「後日譚」も読むと、映画とはやや異なるラストの模様。

読みやすく、十分面白い。

教科書に載っている代表作だからといって、極めて古い訳本で『人と超人』を読むより、こっちに取り組んだ方が、はるかに良いでしょう。

双方をとりあえず読んだ上で、確信を持ってそう勧めます。

2018年2月2日

ピーター・カルヴォコレッシー ガイ・ウィント ジョン・プリチャード 『トータル・ウォー  第二次世界大戦の原因と経過 上巻 西半球編』 (河出書房新社)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 03:47

この翻訳は1991年初版が出た。

当時刊行には気付いており、飛ばし読みはしていた。

今回ひょんなことから入手できたので、実に四半世紀余りのブランクを経て読んでみた。

上巻がヨーロッパ編、下巻がアジア・太平洋編。

まずナチズムとヒトラーに関する概論を述べ、戦争に至った背景説明を行っているが、この部分はさして興味深いものではない。

加えて、訳文があまりこなれていないのか、誤訳か誤植かと思われるところも、二、三あった。

ただ、宥和政策の評価については非常に重要な議論を展開しており、ここはしっかりと把握しておく必要がある。

本書では、ミュンヘン会談のあった1938年に英仏両国が対独戦に踏み切らなかったことを致命的な失策と見なしている。

宥和政策について、一般的評価とは異なり、ナチス・ドイツに対抗できるだけの軍備を拡張する為の、貴重な時間を稼いだ、として肯定的に捉える見方もあることをこのブログでは書いてきました(福田和也『昭和天皇 第五部』など)。

しかし、本書ではそれを否定する。

英国が宥和政策に向かった三つの要因を挙げる。

第一が、国民世論と政策決定者が第一次大戦の恐るべき被害を経験し、再度の戦争を避けることを至上命題にしていたことで、著者もこれは十分理解し得ることだとしている。

第二に、イギリスはヨーロッパ情勢だけでなく、自らの帝国保持を考慮し、特に東アジアにおける日本の脅威を受け、対ヨーロッパ政策において慎重にならざるを得なかったこと。

これには、著者は序文で、実際には日本は英仏・独間が開戦した1939年にも、フランスが降伏した40年にも戦争を仕掛けてこなかった、この懸念は過剰で不要なものだった、としている。

第三に、最も重要な点として、空軍力を主とする軍事情勢の誤認、そしてミュンヘン協定を結んだことで、東欧諸国で唯一勢力均衡に影響を与えるほどの実力を持っていた中級国家チェコスロヴァキアを失ったこと。

1930年代の英国外交政策の予測で、第三番目の要因は、軍事力の均衡と空軍の実戦力を始め、軍事情勢の読み誤りであった。閣僚らは、戦争が始まれば、ロンドンはたちまち破滅的な爆撃を受け、英国は降伏しなければなるまい、と思っていた。この考えは馬鹿げていた。英国航空幕僚は、ドイツをとても爆撃できないことを認めていた。この弱音を吐いたことから、ドイツ空軍なら英国本土を爆撃し得るのか、という疑問が当然生まれそうなものだが、驚いたことに、そういう設問はまったく提起されなかったようなのだ。もしされたとしたら、答えはおそらくノーであったに違いない。ドイツ空軍が二年後に英国本土を空襲した時(予想した破滅的損害は軽微だった)、フランスとベルギーのドイツ軍占領下の基地から発進したもので、1938年当時は、両国に空軍基地を持たず、チェコスロヴァキアが独立していて、敵対的で軍備の充実した国家として健在である限り、征服できなかったのである。ミュンヘン協定によるチェコスロヴァキアの破滅が翌年完了したことが、ヒトラーの大英帝国へ航空攻勢を開始する不可欠の前提条件だった。ミュンヘンでチェコスロヴァキアを裏切ったのは、そうでもしなければヒトラーと戦い、負けるほかなかったからだ、という理由がこれまで正当化されてきた。これはいかにもまずい口実である。結局、フランスはいずれにしろ敗れた。英国は「イギリスの戦い」で勝ちはしたが、ミュンヘンから引き出す正しい結論としては、あそこでチェンバレン首相が、英国空軍増強のための時間を稼いだから、国を救ったというのではなくて、むしろミュンヘンが、本来ならば戦わなくてもいい戦争を、英国に引き起こさせたということなのだ。

1938年、戦闘準備の整っている国の中には、チェコスロヴァキアもその一つに含まれていた。英国もフランスもソ連もまだ態勢が整っていなかった。もっと重要なことは、ドイツも準備が不十分だったことである。もちろんイタリアもそうだった。だからチェコスロヴァキアのいかなる同盟国も、その敵国に対して、とりわけ優勢に戦いを始められたはずである。チェコスロヴァキアは戦争の態勢作りが出来ていたばかりでなく、動員人員の点を除けば、重要なあらゆる部門でドイツと肩を並べられるほど強力だった。三五個師団のチェコスロヴァキア陸軍に対し、ドイツ陸軍は同規模か若干上回っていたが、侵略軍としては、防衛する側の二倍の兵力量が必要だった。ドイツは1938年チェコスロヴァキアと師団数でほぼ匹敵し、西部戦線防衛の四ないし五個正規師団(といっても訓練不十分で将校不足)多かったが、同戦線にはチェコスロヴァキアの同盟国フランスが七六師団も持っていたのである。チェコ軍はいろんな点で、特に砲と装甲戦闘車両の面で、ドイツ軍より装備が優秀だった。1940年にフランス軍とその連合軍を蹴散らして壊滅させたドイツ装甲師団は、1938年にはまだ存在しなかった。1939年9月でさえ、ヒトラーが西部で戦争を開始したとき、一〇個師団の代わりにわずか六個装甲師団しか持っていなかった。一〇個装甲師団のうち四個装甲師団がチェコの戦車を使っていたくらいである。

チェコスロヴァキアは欧州で第六番目の工業大国で、ヨーロッパでは最も有名で、大規模かつ能率的な兵器産業のひとつを持ち、スロヴァキアの相対的に安全なところへ、西部から移す計画を立てていた。1938年以降その生産量は(英国の兵器生産量と大体同じだった)、ドイツ自体の能力につけ加えられ、ミュンヘンでドイツが獲得したものは多大なものだった。ドイツはさらに、チェコスロヴァキア軍の現保有装備(航空機一五〇〇機を含む)も確保した。チェコスロヴァキアの動員計画は申し分なかった。政府はプラハの人口の半数を疎開させる態勢を整えていたし、士気も旺盛だった。こういった相当の貢献をしている見返りに、スロヴァキアが要望したものは、フランスが宣戦布告をしてくれることがすべてだった。ドイツ軍を二、三カ月ぐらいは支える能力に自信があったので、即時、フランスが大挙して攻勢に出るのを少しも当てにしていなかった(ここがそれを要請したポーランドと違うところだ)。翌年フランスは軍動員の一五日以内に、ドイツに対抗するためその大部分を必ず回す、という約束をしてくれたのである。

だがフランスや英国に、同じような自信はなかった。フランスや英国の参謀、政治家たちの悲観主義が大きく頭をもたげてきた。オーストリア合邦いらい、チェコスロヴァキアの柔らかい下腹部がむき出しとなり、その首都はドイツの挟撃作戦にひとたまりもない、という西欧で抱かれてきた考え方からである。事実は、チェコスロヴァキアの南部防衛線が決して柔らかくはなく、ドイツも挟撃作戦を計画していなかった。ヒトラーとその将軍連が決定したのは、南部および北西からプラハを攻撃すれば、チェコスロヴァキア軍と防衛施設によって、あまりにも長期に釘付けになるだろうから、西方から攻撃する計画を立てたのだった。無血勝利者として、チェコ防衛施設を視察できるようになったとき、その防御力とそのふところの深さが、国境からプラハまで続いているのに今さらながら畏怖の念を覚えたのだった。ミュンヘン以後二、三週間たって、ヒトラーは四〇〇人の報道陣に防衛施設視察の感想として、一発の弾も撃たずにこれほどのものを首尾よく手に入れられたのは、感激の一語に尽きる、と語っている。

・・・・・ヒトラーの政治的な大ばくちは成功したが、フランスと英国が軍事能力に欠けていたわけではなく、戦略的に無能だったからである。・・・・・1940年フランス軍は、優勢なドイツ装甲部隊(1938年にドイツは持っていなかったのだ)のため二、三週間で壊滅した。さらに1938年、ドイツがチェコスロヴァキアに手間どり、西部にはわずかにドイツ正規師団が五個師団とその他七個師団、東部にはドイツ全空軍を投入して、ヨードル将軍が建築現場みたいだ、と表現した不完全なドイツの防衛態勢だったのに、一方で条約義務がありながら、フランス陸軍が全く動かず、むざむざ時を過ごしたとは、どうしても本当とは思えない。いかにその統率力や装備が貧弱だとはいえ、戦争が起きたあの時より以上にへまをやらなかっただろうし、少なくとももっとましなことがやれたはずである。

・・・・・

ミュンヘンについては、英国の場合二つの点を調べなければならない――1939年に戦争が実際にやってきた時と、1940年に天下分け目の戦いがあった時である。再軍備は、ミュンヘン以後は着々と進められていたものの、1940年にフランスが(そして5月10日、チェンバレンが辞職)6月17日に降伏するまでは、それほど真剣ではなかった。戦争を拒否したミュンヘンから、1939年9月にそれを引き受けた時点までの英国の軍事費は、ドイツの約五分の一だった。英国の戦闘機生産はドイツの約半分。だからこの一二ヵ月間に、ドイツに比べて英国の地位は、少しも改善されていなかった――この点に関して、英国の立場は実際には悪化していたのだ。ミュンヘン当時は必要不可欠のレーダー網も不完全で、完成したのは一年後である。低空で飛んでくる航空機捕捉の補助レーダー網は、1938年には全く存在しなかったし、1939年になってもまだ同じ状態だった。もし英国政府が、1938年に敗北を恐れていたのだったら、その一年後、英国の防衛態勢がドイツの空襲にいまなおうまく立ち向かえず、航空機の機数も増え近代装備も充実したとはいうものの、ドイツ空軍力と比較すると、いぜん見劣りがしていたのだから、なおさら心配する理由があったはずである。

1940年の春までには、「イギリスの戦い」直前に、英国航空機生産高がドイツを追い越し始めたので、英・独両軍の差は開かなくなり、逆に縮まってきた。1938年、英国は戦闘機六〇〇機を擁し、その中の三六〇機がすぐ実戦に使えたが、新鋭機は五機のうちわずかに一機の割合だった。一九四〇年になると、全戦闘機部隊四三個飛行中隊は、新鋭ハリケーンかスピットファイアを保有していた(海外の飛行中隊にはなし)。だから「イギリスの戦い」を1938年に展開しておれば、結果は別の方向をたどったかもしれない、などと言われるのもうなずけることである。しかし、1938年チェコスロヴァキアを同盟国として「イギリスの戦い」といったものが戦えたはずだと想定するのは、受け入れ難い。なぜなら、ドイツ空軍にとって、英国攻撃の際に基本的に不可欠なことは、フランスとベルギーにある飛行場の確保だったからである――飛行場を最初にドイツ陸軍が占領しなければならなかったし、1938年の予測では、チェコスロヴァキア占領で手一杯だったであろうからである。英国が1938年にひどく貧弱な備えしか整えていなかったとしても、1939年ポーランドのために戦争に引きずり込まれ、1940年には英国自身の沿岸防衛をせざるを得なくなった時よりも、優秀な装備を持ち、ことに東部に邪魔者のいないドイツと、1938年に非常に不利な状況で戦わなければならなかっただろう、ということにはならない。むしろ逆に、1938年の戦争回避は不面目な措置であるばかりでなく、不得策で愚かなものであった、と思う十分な理由がある。ミュンヘンで戦争を先へ延ばすことによって屈服してしまったことが、その後の進路を決定し、フランスの敗北を確実にしてしまい、英国は再軍備の時を稼ぐどころか、もう少しのところで負ける戦争に追い込まれるところだったのである。

本題の戦史部分の叙述はとりあえずは良くまとまっている。

オーストリア、チェコ、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、という枢軸国の占領・攻撃の順序は、年代(と月)と共に正確に記憶すること。

しかし、戦史部分を離れて、ドイツ占領下のヨーロッパを描写する章になると、読むスピードがガクンと落ちる。

続きを読もうとするが、訳文が予想以上に悪い気がする。

全600ページ余りのうち、400ページまで行ったところで、あえなく挫折。

どうにも読み進められなくなってしまった。

上で引用した宥和政策の評価は非常に重要と思われるし、肝心の戦史部分はそんなに悪くないと思うのだが・・・・・。

第二次世界大戦の本格的通史としては、以前リデル・ハートの本を(通読してないのに)紹介したが、それに加えて本書を(上下巻共に読んだ上で)推薦しようと考えていたんですが、自分が挫折してしまったので、他人に薦める資格が無くなった。

この先、下巻に取り組む可能性も薄い。

存在だけは紹介しましたので、興味のある方は一度図書館でご覧下さい。

比較的最近出た類書では、アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦 上・中・下』(白水社)があるようだが、そちらの方がいいのかもしれない。

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