万年初心者のための世界史ブックガイド

2018年1月17日

猪口孝 『社会科学入門  知的武装のすすめ』 (中公新書)

Filed under: 読書論 — 万年初心者 @ 05:33

これも関連文献:読書論という記事の末尾で名前だけは挙げている。

1985年刊。

全16章で、「古典に親しむ」「批判精神を養う」「作文を習慣づける」などの章名で、社会科学系の学問的な心構えと学び方についてあれこれ書いている。

だがそれらは、「歴史を知る」と題された、18世紀末の清朝のヴェトナム介入と1979年の中越戦争を比較・考察した章を除くと、大して興味深いものではない。

結局、本書でも大きな価値があるのは、「政治学案内」「経済学案内」「社会学案内」の末尾三章。

以下、「政治学案内」から一部を引用する。

 

 

便宜上、政治学を次の三つに分けて案内したいと思う。

1 政治哲学

2 政治史

3 政治学理論

本書で念頭に置いているのは主として、政治学理論であるが、政治哲学、政治史の二つは政治学の二大起源として欠かせない。

 

1 政治哲学

政治哲学は社会科学が規範的なものを扱う限り、回避できないものである。古来人間が規範と価値の問題に費やした時間は人を圧倒する。二千年の歴史の中で哲学された内容を短時間で追体験すること――それが哲学書を読むことである。

まず文庫本で利用できるものを片っ端から読むことである。一回目に手にした時は気が乗らないものでも、しばらくたつと自分でも驚くほど容易に読めることがある。古典や哲学といっても毛嫌いしないでとにかく手にしてみようではないか。

この類のもののほとんどは外国語からの翻訳である。それは何を意味するか。まず大体の場合、翻訳が原文よりもわかりにくくなっている(もちろん、原文も読めればの話であるが)。このことは必要以上に外国語から翻訳された古典を難解なものにしてしまった。昔から外国のものをなにかとありがたがって難解なものにしがちだったことに原因があると思う。たとえば、ゴータマ・ブッダは必要以上に難しく意味もわからないようにされた最たるものではないか。日常的な観察から始まって、常識的な分析を行っている古典がなんと多いことか。

しかしながら、本によって、わかりにくいところはたしかに少なくない。しかも、時代も違うのだから、全部わかることを期待することは無理というものである。あまり気にしないで読み進むにこしたことはない。そうしているうちに、また、もう一回読む時に、つまらないところにひっかかっていたことに気付いたりするものである。

政治哲学の多くは古代ギリシア、古代中国の昔からある。そして、それらの多くは宇宙はどのように成り立っているか、という大きな話で、たとえば、プラトン、アリストテレスである。宇宙論、世界観、君主論といった大きな話の中から、近代の政治哲学が規範と現状分析をからめて発展していく。たとえば、ホッブス、ロック、ルソーであり、モア、ペイン、シェイエスである。現代になると、哲学を定式化していく動きもみられ、ロールズ、ノジク、バリー、アクセルロードなど政治学や経済学の正統の流れと密接に結びつくようにさえなってきた。同時に、今までなかったような実践とかたく結びついた政治哲学も生まれてきた。これらを古代政治哲学、近代政治哲学、現代政治哲学と便宜上分けてみよう。

 

1-1 古代政治哲学

古代政治哲学の中ではなんといっても多彩なのは古代ギリシア哲学である。世界の素というか初めというかアルケーとよばれるものの追究に精力が傾けられた。なにか政治の素があってその違いによって政治体制の違いができた――乱暴にいえばそうなると思う。

アナキー(アナルケー)はアルケーが無くて混乱した無秩序なことをいうのだし、モナキー(モナルケー)というのは素がすっきりと一つ(君主)しかない政治体制=君主制をいう。現代アメリカの政治学者ロバート・ダールが民主主義(=大衆支配)を使わずに、ポリアーキー(素がたくさんある政治体制)という言葉を作ったことは覚えていてもよいであろう。

このように政治の違いは政治の素によってもたらされるということはずっとあとまで続く。実際、フランスの社会学者で哲学者のレイモン・アロンが最後の古典哲学と名付けたモンテスキューの哲学によれば、社会は基本的に政治体制によって規定されることになる。政治体制の素みたいなものがすべての基底になるのである。今日では経済発展だとか、社会構造だとか、世界システムにおける位置とか、いろいろな政治体制の特質を規定するものを挙げるのが普通である。

古代ギリシア哲学について代表的なのはいうまでもなくソクラテス、プラトン、アリストテレスである。

ソクラテスについては著作がないので、クセノフォーン『ソークラテースの思い出』・・・を読もう。ソクラテスの言葉で有名なのは「無知の知」、つまり自分は知っていないことによって初めて哲学=知を愛すること、いいかえると、すべての知的活動が始まるといったことである。「汝自身を知れ」という言葉で知られる。これに至る方法として議論をわきたたせる術を実践した人である。

次はプラトンである。とくに、理想国、カリポリスを描いている『国家』・・・が有名である。『国家』はおとぎの国の話ともいうべきものであって、実現するための計画ではなかった。三つの階級からなる貴族制を説き、絶対に変わらないのを良しとするもので改革の余地はなかったのであるが、なぜかわからない理由で、貴族制は衆愚政や僭主政へとなるという。『国家』を読めば、カール・ポッパーが『開かれた社会とその敵』・・・でプラトンを激しく攻撃したのはうなずける。自由民主主義とはまったく反対の事をプラトンは説いている。

アリストテレスは多くの著作を残したが政治に関しては『ニコマコス倫理学』・・・が代表的である。アリストテレスにとって政治は実際上の知識の一分野であり、倫理学の一部分であった。人間は「政治的人間」である。つまり、ポリスという集団を作って何かをやるものであるというのである。アリストテレスはいろいろな政治制度について述べているが、つまるところ、最良の人が支配すればよいという。

・・・・・・・

 

2 政治史

歴史は人間の営みの記録である限り、社会科学の実験室のようなものである。歴史は過去に累積されたデータの宝庫であり、同時に、さまざまな条件下に生起する出来事をあたかも変数をコントロールして、実験のようにみることさえできる。実際、歴史を読むことはふつう限られた経験を何倍にも増大させ、しかも狭い世界がどんどん拡大する。

歴史というと人名と地名が次から次へと出てきてかなわない、という人もいると思う。しかし、小説もその点では同じである。重要なことは面白い歴史を読むようにすることである。全部が全部、事件羅列・平板記述の歴史ではない。

いろいろな予備知識がないと読もうとしてもわからないというかもしれない。このような問題に対する最善の策はどんどん読み進み、しばらくしてまた引き返してくればよい。未知の町を訪ね歩けば、町の地理だけでなくいろいろなことが発見される――それと同じである。詳細な案内があって旅をする人と気ままな旅を好む人と違いがあってかまわないのである。

今日、歴史は極端なまでに専門化、細分化されている。それぞれの分野で、たとえば、古代史、中世史、近代史、現代史とか、エジプト史、ドイツ史、中国史、アメリカ史、ブラジル史、南アフリカ史、ガーナ史、インドネシア史、東南アジア史、イスラム教世界史、地中海世界史とか、経済史、政治史、文化史、科学史、社会史とか、そしてこれらをさらに組み合わせたもののそれぞれが学会として成立するくらい歴史家はたくさんいる。そのため、各分野でさまざまな案内書がある。地図がないと歩けない人はこれらの入門手引き書を活用すればよい。どこから始めても、芋づる式にどんどん何を読むべきかがわかるはずである。また、図書館の主題索引を利用すれば、何を読むべきかについて容易に知ることができる。

政治史というと人物と事件を交錯させたエリート中心の歴史であるという通念がある。中でも古典的政治史にはそういうものが多かった。ここでは次の三つに分けてみよう。古典的政治史、現代本格派政治史、巨視構造派政治史である。

 

2-1 古典的政治史

司馬遷の『史記』・・・はエリート中心人物史の古典である。波瀾万丈の中国古代史を、権力の盛衰を人物に焦点をあてて叙述したものである。直接的な心理の描写はまれであるが、登場人物を活写すること、見事であるというべきであろう。『史記』は累積読者数からいくともしかしたら世界で最高のもののひとつではないかと思う。野次馬根性でもよいから読んでみようではないか。

カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』・・・はナポレオン三世の権力掌握の過程を皮肉、毒舌、軽妙そして類いまれなレトリックをもって描いたものである。躍動する文章を綴りながら、自らも楽しんでいることが感じられるような本である。初めの方に、「人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、与えられた過去から受け継いだ状況のもとでつくるのである」という有名なくだりがある。ジャーナリスティックな政治史といっても構造的把握をしていることに注目しなければならない。

各地を追われながら、貧困の中であの膨大な著作を書き残したマルクスは、書斎がないから、時間がないから、ワープロがないから、別荘がないから、といって、どうせあっても大して書くことをもたないわれわれ学者の鑑である。

エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』・・・は今でもこれをしのぐ作品が現われていないといわれるほどの大作である。

ゲルマン人という野蛮人とキリスト教の急速な成長がローマ帝国の崩壊の原因であるというのがその主要議論である。十八世紀の作品ではあるが、因果関係の検討において優れているのみならず、フランス語の影響から解放された立派な英語を駆使した文学的作品であるといわなければならない。ギボンは父親に反対され、好きな人との結婚をあきらめ、一生独身ですごしたという。すべてのエネルギーが歴史執筆に向かったのであろうか。

 

2-2 現代本格派政治史

アーノルド・トインビーの『歴史の研究』・・・は古代ギリシア文明をはじめとして今日までの十二の文明の盛衰をパターン化して示すものである。思弁的歴史論の代表的歴史家によって書かれたもので、大胆と独断が時に、細部にわたる気配りと同居しているのが興味深い。

学者は狐型とはりねずみ型がいる。狐はあちこち渉猟し、いろいろなものを食べる。いつも壮大なことをいうタイプがこれである。はりねずみは大体同じ場所に生息し、食物の種類も限られ、一定している。いつも重箱のすみをつついているタイプがこれである。トインビーは狐型であろう。こういうタイプの歴史家は今日ではあまりいない。その意味でも古き良き時代の産物である。

A・J・P・テイラーの『第二次世界大戦の起源』・・・は雄弁な歴史というものがまだ健在であることを示した例である。雄弁な歴史とは、退屈でメッセージをもたない歴史の対極物をいう。外交史はえてして無味乾燥なものになりがちであるが、テイラーはイギリスの知識人によくみられる巧妙な議論の進め方、正確な言葉づかい、盛りだくさんの事実の叙述を見事に配合しているといわなければならない。この本は大変ポレミカルな本で、ドイツの戦争目的はその他の国のそれとそうひどくは違わなかった、むしろ戦争に至る大国間の相互作用の経過が戦争を回避できないものにした、という。

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これも通読の必要は無い。

簡単な選書ガイドとして活用すればそれでよし。

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