万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年12月27日

伊藤武 『イタリア現代史  第二次世界大戦からベルルスコーニ後まで』 (中公新書)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 04:18

類書が少ない分野でいい本が出た。

イタリアの戦後政治史の本。

近現代イタリア史を大掴みすると、1861年統一、1922年よりファシスト政権、敗戦後1946年より第一共和制、冷戦終結後1990年代前半より現在まで第二共和制。

以下、各章紹介。

章名の目次自体が時代区分になっているので、そのまま掲げる。

 

 

序章 近代国家としての歩み 1861~1943

まず建国最大の功労者カヴールが1861年統一直後に病没していることをチェック。

以後、カトリックと社会主義という二つの反体制勢力を抱えたまま、左右の自由主義勢力が政権を担当する。

1880年代後半から90年代半ばまでの首相クリスピ、20世紀初頭の首相ジョリッティら有力政治家の国家統合策も必ずしも成功せず。

第一次大戦で戦勝国となったものの、獲得したものは少なく、社会に混乱と不満が広まる。

自由主義政党が衰退する中、それに替わったイタリア社会党とカトリックのイタリア人民党は統治経験の乏しさから政権担当能力を示せず。

そして自由主義勢力の切り札ジョリッティは、自派の統一選挙名簿にファシストを加えて協力しようとする、最悪の失敗を犯す。

1922年ムッソリーニ首相就任。

1943年連合軍のシチリア上陸を受けて、ムッソリーニ失脚、バドリオ政権成立。

ナポリを境に、南に連合国側についた国王とバドリオ政権、北にドイツの影響下に置かれたムッソリーニの「イタリア社会共和国」(別名「サロ共和国」)が対峙。

 

 

第1章 レジスタンスと共和制の誕生 1943~47

バドリオ政権と復興した政党勢力が協力、国民解放委員会政府を組織。

共産党、プロレタリア統一イタリア社会党、行動党、キリスト教民主党、イタリア自由党など。

共産党指導者はトリアッティ。

まず、この人名は憶えましょう。

イタリアの非共産系社会主義政党は離合集散や党名の変更が激しく、ややこしいのだが、この時期の正式名称は以上の通りらしい。

指導者はピエトロ・ネンニ。

行動党は急進的知識人中心の党、イタリア自由党は旧来の自由主義勢力。

そして戦後イタリア政治の中心となるのが、カトリックを中心に多様な勢力を糾合したキリスト教民主党。

指導者のアルチーデ・デ・ガスペリは戦後イタリア史の最重要人物と言えるので、高校世界史レベルでは全く出てこないでしょうが、必ず記憶すること。

1945年4月、ムッソリーニ逮捕・処刑、イタリア全土が解放。

挙国一致政府内での対立が深まりつつある中、45年12月デ・ガスペリが第一次内閣を組織。

結局、デ・ガスペリが1953年まで首相の座を維持する。

デ・ガスペリはオーストリア・ハンガリー帝国のチロル地方出身、戦前はオーストリアの帝国議会議員になり、第一次大戦後チロルがイタリアに併合されるとイタリア人民党に所属、反ファシズムを貫き、ヴァチカンに匿われる。

年代的にファシズム時代20年間の党指導部の空白を埋め、思想的にも左右両派の中間に位置したことが、彼を指導者に押し上げた。

1946年国民投票の54%の賛成で、君主制廃止と共和制移行が決定。

君主制支持は(のちの)国民君主党、自由党、キリスト教民主党右派など。

憲法制定議会選挙で共産党、プロレタリア統一社会党、キリスト教民主党の三大政党が多数を占める。

レジスタンスの威信を背負った共産党が西欧諸国では最大の勢力を誇り、以後イタリア政治の重い課題となる。

憲法は上下両院の権限を対等に定め、首相を「閣僚会議議長」としてその権限を制約、大統領は国会議員らの間接選挙で選ばれる儀礼的存在とし、地方分権的制度を導入、選挙制度は比例代表制にするなど、権力の集中を忌避する分権的制度設計を徹底したもの。

なお、ファシズム時代に締結されたラテラノ条約も、議論の末、憲法に組み入れられた。

47年講和条約調印、イストリア東部をユーゴスラヴィアに割譲。

 

 

第2章 戦後再建とデ・ガスペリ時代 1947~53

この1947年がイタリアにとって大きな転機となる。

同年トルーマン宣言とマーシャル・プラン、コミンフォルム結成で冷戦が本格化、イタリア国内でも左右対立が激化、これまで宥和的姿勢を取ることが多かったトリアッティ指導下の共産党も先鋭的行動を取るようになる。

統一社会党では、共産党との連携に反対する穏健右派のサラガトらが党を割り、イタリア勤労者社会党(のちのイタリア社会民主党)を結成、統一社会党は党名をイタリア社会党に戻す。

右翼では、王制支持の国民君主党の他、46年に結成されたネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動」が台頭。

左右両派に挟撃される中、デ・ガスペリは47年5月ついに社共両党の閣僚を追放、中道連合政権を組織することになる。

同年にはフランスでも共産党閣僚が解任されているが、フランス社会党は共産党と一線を厳に画していたから、「追放する側」にいたはず。

一方、イタリア社会党は共産党と提携していたため、「追放される側」になっている。

以後50年代前半までの「デ・ガスペリ時代」はキリスト教民主党を中心に自由党、共和党(行動党の一部が結成)、勤労者社会党(社会民主党)が与党となり、左派の共産党および社会党、右派の国民君主党とイタリア社会運動に対抗することになる。

48年総選挙で与党が勝利、キリスト教民主党が単独過半数。

49年NATO加盟、51年欧州石炭鉄鋼共同体に参加、自由主義と保護主義を組み合わせた経済政策で復興を成し遂げるが、日本の自由民主党のようにキリスト教民主党が安定多数を占めることにはならなかった。

左右両派の台頭で53年総選挙で中道連合勢力は敗北、デ・ガスペリは辞任。

 

 

第3章 高度成長と新たな政治路線の模索 1954~67

スターリン死後、冷戦の緊張が緩和する中、イタリアは55年国連に加盟、国際的地位を順調に高めるが、国内ではキリスト教民主党内部でジリ貧の中道連合の補完をどこに求めるかで、左派のファンファーニ(およびそれから分離したモーロ、ルモールら)と右派のアンドレオッティが対立を深める。

左翼第一党の地位を共産党に奪われた社会党では、スターリン批判とハンガリー動乱によるソ連の威信低下もあって、共産党との提携見直しを主張する勢力が多数を占めるようになる。

こうした情勢を受け、「左への開放」路線が採用され、イタリアはこれまでのキリスト教民主党を中心とする勢力に社会党をも加えた、中道左派政権の時代を迎える。

1962~63年のファンファーニ政権、63~68年モーロ政権、68~70年ルモール政権、70~72年コロンボ政権など。

だがこれらの政権も、高度経済成長がもたらした歪みを是正することに成功したとは言えず、不安定さを抱えながら、イタリアは急進的社会運動が惹起した60年代末に突入する。

 

 

第4章 社会運動の高揚とテロリズムの横行 1968~78

1968年全世界的な学生運動の高揚から、イタリアでも急進的社会運動が巻き起こり、一部新左翼は政権入りした社会党、議会主義・改良主義化した共産党など既成左翼を強く批判し、暴力的直接行動に走る。

イタリア社会運動を中心とする極右もそれに対抗し、70年代のイタリアは左右のテロが横行、1978年には極左組織「赤い旅団」により、元首相モーロが誘拐・殺害されるという事件まで起こる。

危機の中、二大政党の一翼で、ベルリングェル率いる共産党は70年代半ば、ソ連からの自立と議会制民主主義尊重を旨とする「ユーロ・コミュニズム」路線を採用、キリスト教民主党との「歴史的妥協」を提唱、モーロ事件の最中成立したアンドレオッティ政権には共産党が信認投票を行なう。

しかし、翌年更なる実質的政権参加を求める共産党とキリスト教民主党は決裂、「歴史的妥協」は終焉した。

 

 

第5章 戦後政治の安定と硬直化 1979~88

80年代、共産党の勢いはようやく衰えを見せる。

かつての中道左派連合と同じ政党、キリスト教民主党・自由党・共和党・社会民主党・社会党の「五党連合政権」が80年代イタリアを統治。

ただキリスト教民主党が、極右組織にまつわる「P2事件」やヴァチカンに近い銀行に関する金銭スキャンダルで支持を落とし、共産党との一切の連携排除を主張してリーダーシップを確立していたクラクシの社会党の重みが増す。

1983~87年、初の社会党首班のクラクシ政権。

80年代は経済好況にも恵まれたが、同時に利益誘導と政治腐敗、マフィアの暗躍など副作用も深刻化する。

 

 

第6章 第一共和制の危機と終焉 1988~93

1989~92年、最後の五党連合内閣であるアンドレオッティ政権。

冷戦終結、湾岸戦争、ECからEUへの移行に対処するが、大規模な政治腐敗とマフィアとの癒着が摘発され、政界は大混乱に陥る。

既成政党は次々没落、キリスト教民主党と社会党は分裂・消滅、共産党は東欧ソ連圏崩壊を受け「左翼民主党」と改称、極右のイタリア社会運動はやや穏健右翼寄りの「国民同盟」となり、他に経済的に進んだ北イタリアの自立を訴える「北部同盟」など新たな右派政党が生まれる。

それら新政党の中で最大勢力となったのが、メディアを押さえる大富豪の企業家ベルルスコーニ率いる「フォルツァ・イタリア(頑張れイタリア)」。

もう名前からして酷い政党。

伝統擁護の欠片も無く、メディアの宣伝で有権者を洗脳し、自由の名の下に私利私欲を肯定することしかしない新自由主義の傀儡という、私が大嫌いな「保守」政党だ。

70年代に国民君主党系の勢力がイタリア社会運動に吸収された、とさりげなく記述されているのを読んだ際にも感じたが、「保守の劣化と実質的崩壊」は日本もイタリアも同様だなと思った。

92年から96年にかけて、アマート、チャンピ、ディーニという非政党人専門家首班のテクノクラート政権が成立、二大政党制を志向した小選挙区比例代表並立制が導入され、第二共和制に移行。

 

 

第7章 第二共和制の離陸と定着 1994~2001

この時期以降のイタリア政治は、多数の政党が中道右派と中道左派の二大ブロックに別れて競う展開になる。

94年フォルツァ・イタリア、北部同盟、国民同盟、旧キリスト教民主党右派勢力等の中道右派による第一次ベルルスコーニ政権が誕生するが、95年初頭に崩壊。

選挙管理内閣ディーニ政権を挟んで、96~98年カトリック左派と左翼民主党を主体とするオリーブ連合を与党とするプローディ政権。

この政権は共通通貨ユーロ導入の為の財政改革などで成果を挙げたが、与党内の対立から、98~2000年首相は左翼民主党出身のダレーマに交替。

96~01年の中道左派内閣は、かつてのカトリックと共産主義の「歴史的妥協」を実現したかのような政権で、前半はユーロ導入の為の経済改革を中心に大きな成果を挙げたが、後半は成果に乏しい、中道右派連合と比べて構成政党の数が多く、リーダーシップの確立が困難だった、と評されている。

 

 

第8章 ベルルスコーニ時代のイタリア 2001~11

この十年間、06~08年の第二次プローディ中道左派内閣の期間を除いて、首相の座はベルルスコーニが占める。

統一後のイタリアで政治指導者の名を冠して呼ばれる時代は、ジョリッティ時代、ムッソリーニ時代、デ・ガスペリ時代と、このベルルスコーニ時代だけである。

しかし、この最後の時代はいかにも薄っぺらい。

内政では公私混同の私利追求、外交ではイラク戦争での対米追従だけが目立つ。

07年中道左派勢力は統合して民主党を結成、それに対抗してベルルスコーニは中道右派の統一政党「自由国民」を結成、多党分立が収まる気配となる。

08年政権復帰したベルルスコーニだが、リーマン・ショックとユーロ危機に襲われ、2011年辞任。

 

 

第9章 共和国の現在 2011~

経済危機の中、2011~13年モンティ首班のテクノクラート政権が再現。

13年総選挙では「五つ星運動」という、よくわからないポピュリズム勢力が台頭、中道左派、中道右派と並んで議会で三極体制を形成。

結局民主党中心の連合政権、レッタ内閣(13~14年)、レンツィ内閣(14年~16年)、[本書刊行後]ジェンティローニ内閣(16年~)が成立・継続し、現在に至る。

第6章以降の本文では、イタリアには市場主義的構造改革が必要である、という前提で叙述が進められているようで、やや疑念を持たないでもないが、イタリアという特殊状況ではそうかも知れないと考えて、あえて読み流します。

 

 

 

非常にしっかりした内容。

ページ配分が適切で読みやすい。

巻末の関連年表、歴代政権一覧、主要政党リストといった付録も充実。

政党名が乱立して頭が混乱する時もあるが、そもそも事実多党制が戦後イタリア政治の特徴なのだからしょうがない。

西欧最大の共産党の政権参加を阻止するため、中道政権を経て社会党を含む中道左派政権が成立、ユーロ・コミュニズム路線を採った共産党だがついに政権参加は出来ず、冷戦終結後は既成政党が総崩れとなり、第二共和制に移行、中道左派と中道右派の連合が交替で政権を担当、という流れが、以上の記事で触れた人名と共に大体頭に入っていればよい。

戦後政治史に関して、イギリスでは黒岩徹『イギリス現代政治の軌跡』(丸善)、フランスでは渡辺啓貴『フランス現代史』(中公新書)、ドイツでは小林正文『指導者たちでたどるドイツ現代史』(丸善ブックス)を紹介していますが、イタリアはジェンティーレ『イタリア現代史』(世界思想社)という古い上に到底初心者向けではない本しか無かった。

その記事の末尾に書いた、「日本人著者が噛み砕いてわかりやすく書いた入門書」がようやく出た感がある。

良質な啓蒙書として推薦します。

広告

WordPress.com Blog.