万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年12月2日

桃木至朗 樋口英夫 重枝豊 『チャンパ  歴史・末裔・建築』 (めこん)

Filed under: 東南アジア — 万年初心者 @ 04:46

1999年刊。

副題の通り、歴史を扱っているのは冒頭から100ページ弱のみで、「末裔」の章は写真のみが50ページほど掲載され、あと建築関係の記述が100ページ余り続く。

当然歴史の章だけを読み、後は全く無視しました。

著者の桃木至朗氏は、最近高校の日本史・世界史教科書の歴史用語を削減しようと提案したことで話題の人か。

 

 

扶南と並んで、東南アジア最古の国家として高校世界史に出てくるチャンパ―だが、どうもマイナーである。

扶南が(クメール人の国か、マレー人の国かがはっきりしないものの)真臘を経て現在のカンボジア国家に連なる国であるのに対し、ヴェトナム中部にあったチャム人の国チャンパ―は、ヴェトナム人(キン族)の南下に伴い圧迫され、最後はヴェトナムに併合され、チャム人はヴェトナムの少数民族に過ぎなくなってしまったからでしょう。

チャム人がオーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族=マレー語、インドネシア語、タガログ語)に属するのに対し、キン族(ベト族)はオーストロアジア(南アジア語族・モン・クメール語族=ヴェトナム語、カンボジア語)に属する(タイ語、ミャンマー語はシナ・チベット語族)。

なお、チャンパーは中国名の変遷も覚えないといけませんでしたね。

林邑、環王、占城の順。

フランス植民地時代に本格的な歴史研究が始まり、「2~15世紀の」「中部ヴェトナムの」「海洋民チャム族の」「周辺諸国に圧迫されつづけた不幸な」「インド式国家」というチャンパ―の基本イメージが出来上がったという。

紀元前1000年紀後半、北ヴェトナムでドンソン文化が栄えたころ、中部ヴェトナムにもサーフィン文化が出現。

秦の華南征服の後、趙佗が自立して北ヴェトナムを含む南越国が成立、漢の武帝がこれを滅ぼし、ヴェトナム中部まで支配、日南郡を置く。

海のシルクロードの要衝にあたるヴェトナム中部で、192年反乱が起こり、林邑が独立(これが普通チャンパーの建国と見なされる史実か)。

東南アジア史の大きな流れとして、従来から(中国の影響の強いヴェトナムを除いて)「インド化」による国家建設とヒンドゥー教・大乗仏教の普及、13世紀モンゴルの侵入、それを境にしたイスラム教と上座部仏教の広がり、というのが通説になっている。

しかし、本書では「インド化による建国」には否定的で、「范蔓(ヴァルマン?)」というようなインド系の王名が記録されているからといって、それは「倭の五王」が中国名で記されているのと同じで、土着王権が大文明の「磁力」に引かれていただけだとしている。

だが、4世紀以降はグプタ朝の繁栄に影響されて、チャンパーでもインド文明が組織的に導入されるようになり、ヒンドゥー教のシヴァ神が祀られ、国王はバラモンあるいはクシャトリヤの身分を誇り、「インド化」が実質性を帯びる。

ただし、カースト制は根を下ろさず、インドでは見られない王そのものの神格化が東南アジアでは観察される。

チャンパーはチャム人のみを構成員とする国ではなく、多民族国家でもあった。

また、東南アジアの古代国家はいずれも地方王権の連合体で、領域や民族構成のはっきりしない「マンダラ国家」と呼ばれる形態を持っていた。

海洋貿易の拠点となったチャンパーは大いに繁栄。

8世紀半ば、環王と改称、さらに9世紀後半には占城と名を変える。

唐から宋に交替した中国と盛んに朝貢貿易を行う。

だが、千年間の中国支配を退け、北ヴェトナムに独立した李朝大越の攻撃で、チャンパーは南遷を余儀なくされ、ヴィジャヤを新都とする。

また、13世紀初頭カンボジアのアンコール朝ジャヤヴァルマン7世(都アンコール・トム建設者)には一時属領として扱われ、1282年には元朝のフビライ・ハンの侵攻も受ける。

以後はとにかくヴェトナム人の南下によって圧迫され続けた、というイメージが強いチャンパーだが、それには史料の偏りによる誇張があり、大きな農業基盤を持つヴェトナムやカンボジアも「マンダラ国家」から脱却できておらず、王権が国力を集中させることはできず、小規模な海洋交易国家チャンパーが全く対抗できなかったわけではない、と著者は述べる。

実際、アンコールの都や大越の都昇竜(ハノイ)をチャンパー軍が破壊したこともあったらしい。

元の侵入以後、東南アジアのイスラム化について、マラッカ王国が島嶼部イスラム化のすべての起源と考える必要は無い、その一部はチャンパー経由と考えてもいいのではないか、とされている。

一方、ヴェトナムは陳朝(1225~1400年)の下、紅河デルタを開発し、強大な王権を確立。

モンゴル侵入を撃退したことで、「南の中華帝国」という民族意識が高揚、キン族は膨張を続ける。

陳朝滅亡後、明の武力干渉を退けて成立した黎朝は、1471年ヴィジャヤを占領。

これが以前は「チャンパーの滅亡」とされてきた。

私が高校生の頃、チャンパーは黎朝に滅ぼされたと暗記した記憶がありますので、教科書・参考書レベルではそうだったんでしょう(今は違うようです)。

マスペロやマジュムダールのチャンパ史は、1471年以降のことをほんの一、二ページでかたづけている。もともと東南アジア史研究は、アンコールワットやボロブドゥールを見たインド学系統の研究者の感動から出発した面があり、「インド化された国家」がなくなってしまった後など歴史ではない、というわけだ。北インドのイスラーム化と元寇によって13世紀以降、「インド化された国々」は生命力を失った、というセデスの雄大な図式の中で、チャンパもその好例とされ、15世紀にチャンパが「滅びた」と書く教科書もたくさん出された。

本書では、残存勢力によってチャンパーの王権が保たれていたことを強調。

黎朝が分裂期に入り、北の鄭氏と南の阮氏が対立、大航海時代に入りヨーロッパ人が来航する中、チャンパーも貿易や紛争に奮闘する。

だが、「17世紀の危機」が到来、メキシコ銀と日本銀産出に支えられた好況が終焉、日本は鎖国時代に入り、香辛料貿易は減少し、島嶼部ではオランダ人は交易から陸地の囲い込みと植民地化に向かい、商品作物栽培を強制、大陸部では農業国家の優位が決定的になる。

海洋交易の衰退はチャンパーの国力を直撃し、最終的に阮朝越南の二代目皇帝明命(ミンマン)帝が、直轄支配化に反抗していた最後のチャンパー系勢力を1835年に鎮圧、これによってチャンパーは最終的に滅亡する。

現在チャム人は、イスラムと土着信仰が混交した宗教を信じる、ヴェトナム中部の少数民族として暮らし、周辺のカンボジア、マレーシアにもムスリムとして存在しているという。

 

 

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