万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年11月24日

沢田勲 『匈奴  古代遊牧国家の興亡』 (東方書店)

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1996年初版で、2015年新訂版刊行、韓国語版、中国語版も刊行されたという、一般向け概説書。

中国史上に現われる北方異民族には、匈奴以前にも、山戎、獫狁(けんいん)、葷粥(くんいく)などが知られているが、匈奴は北アジア初の騎馬遊牧民。

匈奴の名が初めて現るのは、戦国時代中期、前四世紀末。

秦や趙と抗争。

西方のスキタイ人の騎馬戦法を習得した、北アジアの遊牧民が中国北辺の半農半牧民を吸収して成立した政治集団と見られる。

著者は、匈奴がコーカソイドの北欧系人種であるという説は否定し、モンゴロイドであろうとしつつ、それがモンゴル系かトルコ系かとの議論には距離を置き、宗教・言語・文化が一元化された固定的「民族」という考えは適用できないとしている。

始皇帝が中国を統一した頃、匈奴でも頭曼が諸部族を統合し単于を名乗る。

蒙恬によるオルドス征服と万里の長城建築。

始皇帝が死去した直後、前209年、有名な冒頓が父頭曼を倒して、単于に即位。

冒頓単于は、東の東胡、西の月氏・烏孫、北の丁零、南の楼煩を制圧。

前200年、漢の高祖劉邦を平城・白登山で包囲し、漢と事実上対等の和親関係と年ごとの献上品を得る。

子の老上単于時代と併せて西域交易路を支配、孫の軍臣単于時代まで漢に対し優勢を維持。

前漢の武帝が反撃を開始。

まず張騫を大月氏との同盟交渉の為、派遣、往路・帰路とも匈奴に囚われ、同盟締結にも至らなかったが、帰路では、軍臣単于死後の後継争いの混乱を利用して漢への帰還に成功。

軍臣単于死後、弟の伊稚斜(いちさ)単于が甥の太子から位を奪い、単于位の長子継承が崩れる。

衛青・霍去病の攻撃で匈奴は北方に撤退、李広利の大苑遠征で、漢の西域支配確立。

なお、匈奴の地に至った、李陵、蘇武、中行説などの人名は、知っておいた方がよい(上記李広利も、後に匈奴に亡命している)。

単于位争いと天候不順による経済状態悪化を受けて、周辺従属民族は離反、匈奴の最盛期は過ぎる。

前1世紀半ば、五単于が乱立、そのうち兄弟が共に単于の名乗ったことが、普通、匈奴の東西分裂と言われる。

東匈奴の呼韓邪(こかんや)単于は前51年漢に入朝、兄の西匈奴単于は誅殺、これで西匈奴は即座に滅んだことになる。

この呼韓邪単于に降嫁した和蕃公主が、のち元曲『漢宮秋』で描かれる王昭君であることは有名。

安定期に入った漢・匈奴関係だが、王莽の新は、匈奴に対し強硬策を採り、さらに愚かにも他の異民族にも同様の政策を採った為、彼らも中国から離反し、再び匈奴が西域の支配権を握ることになる。

後漢の光武帝は、一先ず対外消極策を維持。

 

匈奴の社会と文化について。

一部で可能性が囁かれている「匈奴文字」は証拠が薄弱であり、存在していた可能性は極めて少ない。

やはり北アジア遊牧民で、初の独自文字は突厥文字と考えられる。

単于個人の絶対的支配権は確立せず、階級分化以前の段階で、確固たる官僚機構もなく、氏族組織が温存され、遊牧生活にも必要な農耕地帯の手工業品の略奪・分配を軸に緩やかに結合した遊牧国家形成期が、匈奴およびその後継である鮮卑、柔然の時代であり、遊牧国家を完成させた突厥とは区別される。

 

紀元後48年、匈奴は南北に再度分裂。

南匈奴は、光武帝晩年の後漢に服属。

後漢は1世紀末から2世紀初めにかけて、班超・班勇が西域経営を進める。

91年、漢と南匈奴連合軍に敗れた北匈奴はモンゴル高原から撤退、かわって鮮卑がその地を支配。

158年頃、北匈奴は東トルキスタンも放棄し、西方に移動、以後文献上では消息が分からなくなる。

で、この行方不明の北匈奴がフン族になったのではないか、と長年言われ続けているわけです。

18世紀のフランス人東洋学者ジョゼフ・ド・ギーニュが最初に提唱、19世紀ドイツの中国史家フリードリヒ・ヒルトに受け継がれる。

本書では、それを肯定も否定もせず、以下のように述べている。

元来、トルコ語もモンゴル語もツングース語もアルタイ語系の中の近縁関係にあって、多くの同一単語を有しており、これを中国史書中のわずかな語彙より拾い出して断定することには無理があろう。筆者は、中国史書中に記された匈奴語の言語学的研究を否定するものではないが、わずかな語彙をもとに匈奴がモンゴル系かトルコ系かと議論してもあまり意味がないと思う。なぜなら中国に伝わった匈奴語は匈奴支配層の言語であって、それらをもって匈奴民族すべてを何々系の民族であると断定することは、危険であるといわざるをえないからである。

・・・・・当初、同族論者は匈奴とフンの原音の類似性に着目した。それゆえ、まず両者が用いた言語を諸文献より拾い出して研究するという方法が採られてきた。そして次に、かれらの容貌より見た人種論、さらにはその文化の比較研究によって両者の同一性が追究されてきた。

それは、「民族」は人種、言語、文化の三大要素から成り立つと考えられ、時には「民族」という用語と「人種」という言葉が同義語として捉えられてきたからである。そして、「民族」と「言語」とは基本的に一致するものだという考え方に基づいた、「民族」の成立根拠と言語の成立根拠には共通性があるという誤解をも生みだすことにもなった。

今日のアメリカを例に取っても明らかなように、ともに英語を話していても、白人もおれば黒人もおり、はたまた黄色人種もいて、文化のありようも多種多様である。それゆえ、「民族」についても、三大要素の中より単純に一つを抽出して他の二つを決定することはできないのである。その上「民族」という概念の成り立ちを、かかる三大要素で限定することにも疑問がある。なぜなら今日「民族」はきわめて政治的な用語としても使われており、これを古代社会にあてはめることには無理があるからである。

・・・・・・

永元年間(八九~一〇五)、モンゴリアの地にいた北匈奴は、東方の鮮卑族の攻撃をしばしば受けていた。そのことは『後漢書』〈鮮卑伝〉に、

 

匈奴の余種の残留するものがなお十余万落ほどあり、  みなみずから鮮卑と称した。

 

とあり、鮮卑の支配下に入った匈奴の遺衆が鮮卑を名乗ったと記録されている。こうした例は、北アジア遊牧民ではしばしば見られることである。

・・・・・遊牧民の社会は一種の契約社会である。土地という不動の自然を基盤に成立した農耕民族の社会と異なり、草原地帯を求めて移動する遊牧民は、牧地の情報蒐集、運輸、交易などの経済生活を保証するものとしての強力な指導者の出現を要請する。遊牧社会はこの点できわめて人為的な社会だともいえよう。匈奴の遺衆がみずから鮮卑と称したのは、新たなる指導者すなわち鮮卑族の首長の傘下に入ることによって、牧草地の保証、手工業品などの分配という恩恵を蒙らんとしたからに他ならない。

護雅夫が「匈奴帝国」(三上次男・護雅夫・佐久間重男共著『中国文明と内陸アジア』講談社、一九七四)の中で匈奴・フン同族問題を取り上げた際、アラル海周辺の遊牧諸族について「かれらの多くは、みずから匈奴なりと称することによって、おのれ自身を栄誉づけようとし、もともと匈奴そのものでないものも、匈奴(フン)として史上に姿をあらわしたものと思われる」と述べられたのは、遊牧社会の実態を端的に表していよう。

これまでの匈奴・フン同族論争が匈奴とフンの民族的な帰属問題に終始したのは、民族という語が人種という語に置き換えて考えられてきたからである。古代ユーラシア遊牧民社会を今日的な「民族」概念(ネイション・ステイト)で考えることは多くの誤解を生み出す源となる。それゆえ、遊牧契約社会に基づく人為的な連合組織として匈奴(フン)民族を解釈することが、今後の匈奴(フン)研究のステップとなるのではないだろうか。

 

漢に服属後、南匈奴は定住民化し、遊牧民としての性格を薄くし、単于の権力は失墜。

西晋の八王の乱以後、五胡十六国の動乱の中、匈奴部族有力者の劉淵・劉聡は前趙を建国、劉曜が後を継ぐが、匈奴の一派、羯族の石勒が建てた後趙に滅ぼされる。

中原を統一した後趙も、暴虐な後継者石虎の治世で滅亡。

他に北涼、夏という匈奴系王朝が存在したが、鮮卑族拓跋氏の北魏によって滅ぼされた。

その中で、匈奴の独孤氏は中国貴族化し、北魏・西魏・北周・隋・唐にわたって外戚として重きを成した。

一方、北魏による農民化政策に抵抗した一般匈奴部衆は北に逃亡し、柔然、突厥の部民として吸収されていった。

 

 

終わり。

一般向け入門書としては、難解な部分も特になく、悪くない。

なかなか類書の少ない分野でもありますし、まだ貴重な本ではないでしょうか。

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