万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年11月28日

桑原武夫 監修 『西洋文学事典』 (ちくま学芸文庫)

Filed under: 教科書・年表・事典, 文学 — 万年初心者 @ 02:32

1954年福音館書店から出版された文学事典を2012年復刻文庫化したもの。

巻末の沼野充義氏の解説によると、本書の特徴として、

(1)当時の常識に従い、「西洋文学」=「世界文学」として捉えられていること

(2)重点を近現代、特に20世紀に置く、革新的方針を採っていること(刊行当時はカミュもヘミングウェイも存命中の同時代作家だった)

(3)作家事典だけでなく、作品事典も兼ねており、あらすじと鑑賞について、明快で説得力のある記述が盛り込まれていること

(4)記述スタイルに明快さと一貫性があること

(5)当時の「カノン(正典)」に縛られた側面(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文学の欠如)と当時としては斬新な側面の両方があること

が挙げられている。

このうち、沼野氏は(3)の作品解説が本書最大の「売り」になっていると書いているが、私も同感です。

簡潔ながら要領が良く、未読作品の場合、読書意欲をかき立て、既読作品の場合でも、鑑賞・評価を再考させてくれる。

もちろん、刊行が古い分、首を傾げる記述もある。

例えば、ゴーリキーの項などは、時代背景を考慮しても、ちょっと眩暈がしてくる代物ではある。

また戦後間もなくの漢字制限・簡略化の風潮からか、「ヒニク」「タイハイ」「ドレイ」「ガイセン」「ダラク」「ボクトツ」「ギセイ」など、妙なカタカナ表記が散見される。

そうした瑕疵はありつつも、文学初心者にとっては、貴重で有益なツールとして今でも通用する本だと思われる。

大部の文学事典などを買うのは躊躇するが、コンパクトなこれなら、買って手元に置いておいても良い。

一度手に取ることをお勧めします。

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2017年11月24日

沢田勲 『匈奴  古代遊牧国家の興亡』 (東方書店)

Filed under: 中央アジア — 万年初心者 @ 06:06

1996年初版で、2015年新訂版刊行、韓国語版、中国語版も刊行されたという、一般向け概説書。

中国史上に現われる北方異民族には、匈奴以前にも、山戎、獫狁(けんいん)、葷粥(くんいく)などが知られているが、匈奴は北アジア初の騎馬遊牧民。

匈奴の名が初めて現るのは、戦国時代中期、前四世紀末。

秦や趙と抗争。

西方のスキタイ人の騎馬戦法を習得した、北アジアの遊牧民が中国北辺の半農半牧民を吸収して成立した政治集団と見られる。

著者は、匈奴がコーカソイドの北欧系人種であるという説は否定し、モンゴロイドであろうとしつつ、それがモンゴル系かトルコ系かとの議論には距離を置き、宗教・言語・文化が一元化された固定的「民族」という考えは適用できないとしている。

始皇帝が中国を統一した頃、匈奴でも頭曼が諸部族を統合し単于を名乗る。

蒙恬によるオルドス征服と万里の長城建築。

始皇帝が死去した直後、前209年、有名な冒頓が父頭曼を倒して、単于に即位。

冒頓単于は、東の東胡、西の月氏・烏孫、北の丁零、南の楼煩を制圧。

前200年、漢の高祖劉邦を平城・白登山で包囲し、漢と事実上対等の和親関係と年ごとの献上品を得る。

子の老上単于時代と併せて西域交易路を支配、孫の軍臣単于時代まで漢に対し優勢を維持。

前漢の武帝が反撃を開始。

まず張騫を大月氏との同盟交渉の為、派遣、往路・帰路とも匈奴に囚われ、同盟締結にも至らなかったが、帰路では、軍臣単于死後の後継争いの混乱を利用して漢への帰還に成功。

軍臣単于死後、弟の伊稚斜(いちさ)単于が甥の太子から位を奪い、単于位の長子継承が崩れる。

衛青・霍去病の攻撃で匈奴は北方に撤退、李広利の大苑遠征で、漢の西域支配確立。

なお、匈奴の地に至った、李陵、蘇武、中行説などの人名は、知っておいた方がよい(上記李広利も、後に匈奴に亡命している)。

単于位争いと天候不順による経済状態悪化を受けて、周辺従属民族は離反、匈奴の最盛期は過ぎる。

前1世紀半ば、五単于が乱立、そのうち兄弟が共に単于の名乗ったことが、普通、匈奴の東西分裂と言われる。

東匈奴の呼韓邪(こかんや)単于は前51年漢に入朝、兄の西匈奴単于は誅殺、これで西匈奴は即座に滅んだことになる。

この呼韓邪単于に降嫁した和蕃公主が、のち元曲『漢宮秋』で描かれる王昭君であることは有名。

安定期に入った漢・匈奴関係だが、王莽の新は、匈奴に対し強硬策を採り、さらに愚かにも他の異民族にも同様の政策を採った為、彼らも中国から離反し、再び匈奴が西域の支配権を握ることになる。

後漢の光武帝は、一先ず対外消極策を維持。

 

匈奴の社会と文化について。

一部で可能性が囁かれている「匈奴文字」は証拠が薄弱であり、存在していた可能性は極めて少ない。

やはり北アジア遊牧民で、初の独自文字は突厥文字と考えられる。

単于個人の絶対的支配権は確立せず、階級分化以前の段階で、確固たる官僚機構もなく、氏族組織が温存され、遊牧生活にも必要な農耕地帯の手工業品の略奪・分配を軸に緩やかに結合した遊牧国家形成期が、匈奴およびその後継である鮮卑、柔然の時代であり、遊牧国家を完成させた突厥とは区別される。

 

紀元後48年、匈奴は南北に再度分裂。

南匈奴は、光武帝晩年の後漢に服属。

後漢は1世紀末から2世紀初めにかけて、班超・班勇が西域経営を進める。

91年、漢と南匈奴連合軍に敗れた北匈奴はモンゴル高原から撤退、かわって鮮卑がその地を支配。

158年頃、北匈奴は東トルキスタンも放棄し、西方に移動、以後文献上では消息が分からなくなる。

で、この行方不明の北匈奴がフン族になったのではないか、と長年言われ続けているわけです。

18世紀のフランス人東洋学者ジョゼフ・ド・ギーニュが最初に提唱、19世紀ドイツの中国史家フリードリヒ・ヒルトに受け継がれる。

本書では、それを肯定も否定もせず、以下のように述べている。

元来、トルコ語もモンゴル語もツングース語もアルタイ語系の中の近縁関係にあって、多くの同一単語を有しており、これを中国史書中のわずかな語彙より拾い出して断定することには無理があろう。筆者は、中国史書中に記された匈奴語の言語学的研究を否定するものではないが、わずかな語彙をもとに匈奴がモンゴル系かトルコ系かと議論してもあまり意味がないと思う。なぜなら中国に伝わった匈奴語は匈奴支配層の言語であって、それらをもって匈奴民族すべてを何々系の民族であると断定することは、危険であるといわざるをえないからである。

・・・・・当初、同族論者は匈奴とフンの原音の類似性に着目した。それゆえ、まず両者が用いた言語を諸文献より拾い出して研究するという方法が採られてきた。そして次に、かれらの容貌より見た人種論、さらにはその文化の比較研究によって両者の同一性が追究されてきた。

それは、「民族」は人種、言語、文化の三大要素から成り立つと考えられ、時には「民族」という用語と「人種」という言葉が同義語として捉えられてきたからである。そして、「民族」と「言語」とは基本的に一致するものだという考え方に基づいた、「民族」の成立根拠と言語の成立根拠には共通性があるという誤解をも生みだすことにもなった。

今日のアメリカを例に取っても明らかなように、ともに英語を話していても、白人もおれば黒人もおり、はたまた黄色人種もいて、文化のありようも多種多様である。それゆえ、「民族」についても、三大要素の中より単純に一つを抽出して他の二つを決定することはできないのである。その上「民族」という概念の成り立ちを、かかる三大要素で限定することにも疑問がある。なぜなら今日「民族」はきわめて政治的な用語としても使われており、これを古代社会にあてはめることには無理があるからである。

・・・・・・

永元年間(八九~一〇五)、モンゴリアの地にいた北匈奴は、東方の鮮卑族の攻撃をしばしば受けていた。そのことは『後漢書』〈鮮卑伝〉に、

 

匈奴の余種の残留するものがなお十余万落ほどあり、  みなみずから鮮卑と称した。

 

とあり、鮮卑の支配下に入った匈奴の遺衆が鮮卑を名乗ったと記録されている。こうした例は、北アジア遊牧民ではしばしば見られることである。

・・・・・遊牧民の社会は一種の契約社会である。土地という不動の自然を基盤に成立した農耕民族の社会と異なり、草原地帯を求めて移動する遊牧民は、牧地の情報蒐集、運輸、交易などの経済生活を保証するものとしての強力な指導者の出現を要請する。遊牧社会はこの点できわめて人為的な社会だともいえよう。匈奴の遺衆がみずから鮮卑と称したのは、新たなる指導者すなわち鮮卑族の首長の傘下に入ることによって、牧草地の保証、手工業品などの分配という恩恵を蒙らんとしたからに他ならない。

護雅夫が「匈奴帝国」(三上次男・護雅夫・佐久間重男共著『中国文明と内陸アジア』講談社、一九七四)の中で匈奴・フン同族問題を取り上げた際、アラル海周辺の遊牧諸族について「かれらの多くは、みずから匈奴なりと称することによって、おのれ自身を栄誉づけようとし、もともと匈奴そのものでないものも、匈奴(フン)として史上に姿をあらわしたものと思われる」と述べられたのは、遊牧社会の実態を端的に表していよう。

これまでの匈奴・フン同族論争が匈奴とフンの民族的な帰属問題に終始したのは、民族という語が人種という語に置き換えて考えられてきたからである。古代ユーラシア遊牧民社会を今日的な「民族」概念(ネイション・ステイト)で考えることは多くの誤解を生み出す源となる。それゆえ、遊牧契約社会に基づく人為的な連合組織として匈奴(フン)民族を解釈することが、今後の匈奴(フン)研究のステップとなるのではないだろうか。

 

漢に服属後、南匈奴は定住民化し、遊牧民としての性格を薄くし、単于の権力は失墜。

西晋の八王の乱以後、五胡十六国の動乱の中、匈奴部族有力者の劉淵・劉聡は前趙を建国、劉曜が後を継ぐが、匈奴の一派、羯族の石勒が建てた後趙に滅ぼされる。

中原を統一した後趙も、暴虐な後継者石虎の治世で滅亡。

他に北涼、夏という匈奴系王朝が存在したが、鮮卑族拓跋氏の北魏によって滅ぼされた。

その中で、匈奴の独孤氏は中国貴族化し、北魏・西魏・北周・隋・唐にわたって外戚として重きを成した。

一方、北魏による農民化政策に抵抗した一般匈奴部衆は北に逃亡し、柔然、突厥の部民として吸収されていった。

 

 

終わり。

一般向け入門書としては、難解な部分も特になく、悪くない。

なかなか類書の少ない分野でもありますし、まだ貴重な本ではないでしょうか。

2017年11月22日

藤澤房俊 『「イタリア」誕生の物語』 (講談社選書メチエ)

Filed under: イタリア — 万年初心者 @ 05:50

フランス革命から統一までの、「リソルジメント」と呼ばれる民族独立運動を描いたイタリア史。

内容的にはごく普通。

高校世界史でも教えられるイタリア統一の歴史が、それより少々詳しく、未知の人名や固有名詞を交えて語られるだけ。

オーストリアの支配に対する、マッツィーニら「青年イタリア」の急進派蜂起が次々失敗する中、マニンら「イタリア国民協会」などの穏健派が台頭、それを自陣に組み込み、フランスを中心に国際関係を巧みに利用したカヴール、ダゼーリョ(カヴールの前任首相)らのサルデーニャ王国による統一が実現する。

読みやすいが、特筆すべき点は無い。

高校世界史の復習のためにはいいでしょう。

2017年11月20日

ヘルマン・ヘッセ 『デミアン』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 04:14

ヘッセ、苦手なんですよねえ・・・・・。

『車輪の下』はまあ分かりやすかったが、学生時代に『知と愛』(『ナルチスとゴルトムント』)を読もうとして、余りの晦渋さに挫折したのが、軽くトラウマになっている。

これは比較的短いし、第一次大戦後に書かれた重要な作品らしいので、手に取った。

しかし、やはり分からない。

主人公ジンクレエルと謎めいた友人デミアンとの交流を通じて、伝統的価値観の衰微と善悪の混淆が語られ、ニーチェのような未来志向の超人思想を肯定するような話が展開するのだが、過去の価値観と切り離されたニーチェ的近代批判が暴走して、極右的な最悪の大衆運動の道具に成り下がったことを思うと、何か妙な違和感を覚える。

というのが私が持った表面的感想なんですが、多分こんな解釈は完全に誤読なんでしょう。

かといって、どういう解釈が正しいのかも分からない。

まあ、普通には読めた。

通読難易度は低い。

もう、それしか書くことが無い。

『車輪の下』以外のヘッセの作品は(本書だけでなく、恐らく他の作品も)分からないし、面白さも感じられません、というのが私の結論です。

2017年11月16日

君塚直隆 『ベル・エポックの国際政治  エドワード7世と古典外交の時代』 (中央公論新社)

Filed under: イギリス — 万年初心者 @ 03:39

英国王エドワード7世(在位1901~1910年)の伝記。

長期間君臨したヴィクトリア女王の影に隠れ、在位期間も短く、君主の政治的実権が完全に失われた(と一般には思われているが、微妙な、しかし無視できない影響力を持っていたことは本書で記される)20世紀の国王であることから、当然高校世界史では全く触れられない人物である。

 

1841年アヘン戦争中に生まれる。

母はすでに在位中のヴィクトリア女王、父はドイツの小国出身のアルバート公。

謹厳実直な両親に厳しく育てられる。

海外を訪問・遊学し、ナポレオン3世、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会い、南北戦争直前のアメリカも訪問。

大学でやや放蕩的生活を送るが、その心労も一因となって1861年父アルバート公が死去。

息子に不信感を持ったヴィクトリア女王は、以後「万年皇太子」エドワードを政務に関わらせようとしない傾向となる。

1863年、デンマーク王位を継承する直前のグリュックスブルク(グリュックスボー)家のアレキサンドラ王女と結婚。

直後のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争では、妻の実家のデンマーク王を支持し、露骨に反プロイセン感情を表した為、ヴィクトリア女王の叱責を受ける。

夫の死後、あまり人前に姿を現わさなくなったヴィクトリア女王に対し、世論の批判が高まり、一部では公然と共和制への移行すら主張された。

ヴィクトリア女王は、実際には内閣からの報告を受け、多忙な政務をこなしていたが、大衆民主主義に向かいつつある社会において、君主が世論に対して常に自らをアピールする必要があることを失念していた(私は、こういう社会の変化自体を肯定的に見ることができないが、しかし現代社会において君主制が存続する為にはやむを得ないことは理解する)。

この「共和制危機」はエドワードの重病とそこからの回復に際して王室への国民的感情が高まったこと、その後ヴィクトリア女王が各種儀式や行事に積極的に出席するようになったことで回避される。

イギリス社会に長い伝統が生み出す良識が存在していたことも事実だろうが、それでも良き国家には幸運も必要だと思わせる話ではある。

国際親善の目的で各国を訪問、微妙な政治的問題にも触れ、経験を積むことに成功。

イギリス王室と各国王室・皇室は婚姻関係で結ばれる。

エドワードの姉がドイツ皇帝フリードリヒ3世(ヴィルヘルム1世の子、数ヵ月の在位で死去)の妻となり、両者からヴィルヘルム2世が生まれる。

姪はロシア皇帝ニコライ2世と結婚(不幸にして革命で殺害されてしまう。またニコライ2世の母は、エドワードの妻アレキサンドラの妹)。

別の二人の姪はスウェーデン国王グスタフ6世、スペイン国王アルフォンソ13世に嫁ぎ、アレキサンドラの弟がギリシア国王ゲオルギオス1世として即位、娘は新たに独立したノルウェーの国王ホーコン7世(アレキサンドラの甥でもある)と結婚、ポルトガル国王は父アルバート公の実家と縁がある。

1901年遂にヴィクトリア女王が死去、エドワード7世即位。

王朝名をハノーヴァー朝から父の実家のサックス・コーバーグ・ゴータ朝に変更。

首相は即位当初は1895年以来のソールズベリ(保守党)、1902年からは同じく保守党のバルフォア。

1903年フランスを訪問、ファショダ事件とボーア戦争で反英感情が残っていたが、エドワード7世は流暢なフランス語でパリ市民を魅了、それがもたらした世論の全般的雰囲気改善の中、仏大統領ルーベ、外相デルカッセ、英首相バルフォア、外相ランズダウンら両国当局者は植民地問題で広範な合意に達し、1904年英仏協商締結。

翌1905年ヴィルヘルム2世は第一次モロッコ事件という示威行動を起こすが、1906年アルヘシラス会議でも英仏の結束は崩れず、ドイツの孤立化傾向が進む。

皇太子時代にはクリミア戦争以来悪化したままの英露関係改善に尽くし、甥のニコライ2世にも個人的好感を持ってはいたが、ユーラシアをめぐる英露間の「グレート・ゲーム」では政府の対露強硬路線を支持、日英同盟と日露戦争に至る。

加えて対米関係改善にも乗り出す。

後世の歴史を知る我々から見ると、意外なことに、19世紀末からの英米関係は極めて険悪で、パナマ運河建設問題、ベネズエラと英領ガイアナの国境問題などが持ち上がり、米国のクリーヴランド民主党政権、マッキンリー共和党政権とも英国に対してモンロー主義を振りかざし、一部では戦争の可能性さえ囁かれていた。

エドワード7世は新大統領セオドア・ルーズヴェルトと書簡を交換、緊密な関係を築き、両国間の緊張緩和に貢献。

1905年キャンベル・バナマン自由党内閣成立、08年には同じ自由党のアスキス内閣に替わり、外相エドワード・グレイが外交の舵取りとなる。

イギリス王室が縁戚関係を持たない、格上の存在であるハプスブルク家当主フランツ・ヨーゼフ1世統治下のオーストリアも訪問、オスマン衰退後のバルカンをめぐる東方問題の鎮静化を目指すが、1908年オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を切っ掛けに事態は暗転していく。

日露戦争に敗れたロシアはイギリスとの妥協に傾き、1907年英露協商締結。

英仏協商、英露協商、日英同盟、対米関係改善によってエドワード7世即位当初の孤立化傾向からの脱却に成功したイギリスに対し、ドイツは逆に孤立化、エドワード7世とヴィルヘルム2世の関係もギクシャクしたものであり、英独建艦競争は深刻化する。

この時代、無政府主義者による暗殺が頻発、オーストリア皇后エリザベト、イタリア国王ウンベルト1世、ポルトガル国王カルロス1世が暗殺され、1910年にはポルトガルで共和派軍人の反乱勃発、ブラガンサ王朝は崩壊した。

老齢年金と海軍拡張予算確保の為、土地財産の相続税を引き上げる「人民予算」が蔵相ロイド・ジョージの主導で提出、世論煽動的な行動にエドワード7世は不快感を持つ(これをきっかけに1911年下院の優位を定めた議会法制定)。

健康状態が悪化し、1910年死去。

「いや!わしは絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるからな」が最期の言葉だったという。

その死後四年にして第一次世界大戦勃発、ヨーロッパと世界は恐るべき頽落に向かう。

高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』によれば、19世紀ヨーロッパの平和が長期間確保されたのは、外交主体である各国の「同質性、貴族性、自立性」ゆえであった。

その前提が大衆民主主義化と科学技術の発達で失われつつある時代に、政府当局と緊密に協力し、華麗な王室外交によって、外交において最強の要因になりつつある世論に微妙な影響を与え、平和と国際協調を維持しようと奮闘した国王を本書は好意的に評価している。

 

 

かなり良い。

この王の前後を挟む『ヴィクトリア女王』『ジョージ五世』と並んで、手堅い伝記。

十分推奨に値する本です。

2017年11月12日

私市正年 佐藤健太郎 編著 『モロッコを知るための65章』 (明石書店)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 04:40

アフリカ北西端、マグリブ諸国の中で一番西にある国。

まずチェックすべきなのは、君主制国家だということ。

日本名はモロッコ王国。

首都はラバトだが、他にもカサブランカ、フェス、マラケシュなどの有名都市があり。

帝国主義時代の二度のモロッコ事件で出てくるタンジェ(タンジール)とアガディールも。

宗教的にはもちろんイスラム教スンナ派。

民族はアラブ人とベルベル人が半々くらい。

アトラス山脈がもたらす降雨により、農業が繁栄、リン鉱石などの資源にも恵まれ、漁業も盛ん。

ギリシア、フェニキア(カルタゴ)の活動を経て、ローマ支配下に入り、その後ヴァンダル族が侵入、東ローマがヴァンダル王国を滅ぼす。

7世紀末からイスラム時代。

789年モロッコ初のイスラム王朝である、シーア派のイドリース朝建国。

それが衰退すると、後ウマイヤ朝とファーティマ朝による侵入をしばしば受ける。

11世紀半ば、ムラービト朝が大勢力となり、アンダルス(イスラム支配下のイベリア半島)にも進出。

12世紀半ばにはムワッヒド朝が後を継ぐ。

その支配も永続せず、モロッコにはマリーン朝が成立(1248~1465年)。

大旅行家イブン・バットゥータは、この時代、1304年にタンジールで生まれている。

続いてワッタース朝が生まれるが、その統治は弱体で、大航海時代のポルトガルにセウタなどの沿岸都市を奪われる(セウタはスペインのポルトガル併合時代にスペイン領となり、ポルトガル再独立後もスペイン領有のまま)。

1492年レコンキスタ完了で、ナスル朝が滅亡したアンダルスから多数のムスリム亡命者がモロッコに移住。

そうした中、シャリーフ(ムハンマドの後裔)を名乗るサアド朝が16世紀後半にワッタース朝を滅ぼし、モロッコを統一。

ポルトガルとオスマン朝の攻撃を退け、トンブクトゥに遠征し、ソンガイ王国を滅ぼし、サハラ貿易を独占。

17世紀にはサアド朝が衰亡し、一時の分裂状態に陥った後、同様にシャリーフ家系のアラウィー朝が1659年成立、この王朝が現在まで続く。

19世紀帝国主義時代、タンジールのみを貿易港とする「鎖国政策」がヨーロッパ諸国の非難の的となり、隣国アルジェリアでフランスの植民地化に抵抗するアブドゥルカーディルを支援したこともあって、1844年フランスと戦うことになるが敗北、以後不平等条約を押し付けられ、列強の圧迫を受け続ける。

アルジェリア・チュニジアを植民地化したフランス、大西洋・地中海対岸のスペイン、ジブラルタルを領有するイギリスの三者が主だが、そこにドイツが割り込み、対仏威嚇と1904年締結の英仏協商の強さを瀬踏みしようとして起きたのが、1905年第一次モロッコ事件(タンジール事件)、1911年第二次モロッコ事件(アガディール事件)。

結局、1912年、中部の主要地帯はフランス、北部と(現西サハラを含む)南部はスペインによって保護国化。

アラウィー朝自体は存続したが、主権は喪失し、実質的には植民地化。

だがアラウィー朝スルタンは、独立運動の過程で団結の契機と象徴として威信を保つ。

北部のスペイン領モロッコでは、アブドゥルカリーム率いるベルベル農民らがリーフ戦争の名で知られる反乱を起こしたが、1926年鎮圧。

結局、1956年フランス領と北部スペイン領を併せた領土で独立達成、主権回復、スルタンは国王と称号を変え、ムハンマド5世として即位、君主権の強い立憲君主制国家として発足。

以後国王は、ハサン2世(1961~99年)、ムハンマド6世(1999年~)と続く。

チュニジアも似たような経緯で独立したものの、君主制は廃されてしまったが、この違いが何からもたらされたかはもっと詳しい本を読まないと分からないでしょう。

なお、北部のセウタおよびメリーリャは小さな飛び地であるが、現在もスペイン領のまま。

スペイン南端のジブラルタルは現在もイギリス領だが、スペインもモロッコにこの二つの飛び地領土を持っているわけである。

より重要な問題として、西サハラ問題がある。

スペインの南部保護領の一部だった西サハラ地域は、スペインが自治領として維持しようとし、また隣国モーリタニアも一時領有権を主張。

1975年スペイン民主化時代に、スペイン軍は撤退、モーリタニアも領有権を放棄したので、実質的にモロッコ領となったが、武装勢力が独立運動を展開、1984年「サハラ・アラブ民主共和国」がアフリカ統一機構(OAU)に加盟を認められると、モロッコは猛反発してOAUを脱退。

この問題は現在も解決を見ず、モロッコはOAUの後継組織、AU(アフリカ連合)にもアフリカ大陸で唯一非加盟を貫いている。

私が子供の頃のアフリカ地図では西サハラとナミビアだけが非独立地域の意味で白色のままだったのを覚えていますが、後者が独立した今となっては、西サハラだけが未確定領土として残っているわけです。

他に外交的には、イスラム諸国の中では比較的イスラエルに宥和的姿勢を保ち、プラグマティックな親米・親西側路線を採ることが多い。

 

 

メモする必要があるのは、まあこんなもんでしょ。

細かな王朝名は別にして、以上のようなことが常識的にわかっていれば良し。

2017年11月8日

川成洋 坂東省次 桑原真夫 『スペイン王権史』 (中公選書)

Filed under: スペイン — 万年初心者 @ 07:01

王国統一以後、ハプスブルク朝とブルボン朝の歴史を現代まで記したスペイン史。

その前史にも簡略に触れられている。

イスラム勢力侵入により西ゴート王国滅亡、北部の山岳地帯に拠ったキリスト教徒が、ドン・ペラーヨを始祖とするアストゥリアス王国建国。

アストゥリアスはレオン王国と呼ばれるようになるが、その一部であったカスティリャが強大化。

レコンキスタの中で、ナバラ王国のサンチョ3世(大王)が一時覇権を握るが、1035年その死後、ナバラ王国からアラゴン、カスティリャが分離、カスティリャはレオンを併合。

フェルナンド2世とイサベル1世の「カトリック両王」、カルロス1世(カール5世)、フェリペ2世は、高校世界史で既出なのですっ飛ばして、それ以後の国王の治世をごく簡単にメモしていく。

 

 

フェリペ3世(1598~1621年)

寵臣政治の下、国力の衰退と人口の激減が進み、オランダが独立、ムスリムからの改宗者を追放。

 

 

フェリペ4世(1621~1665年)

寵臣オリバレスが権勢を揮い、三十年戦争に介入して敗北、ウェストファリア条約後も続いたフランスとの戦いを終結させたピレネー条約でルシヨン、アルトワを割譲。ポルトガル再独立。

 

 

カルロス2世(1665~1700年)

病弱で、その死によってスペイン・ハプスブルク朝は断絶、ルイ13世、14世共にスペイン王室から后を迎えていた関係で、スペイン継承戦争を経て、ブルボン朝が成立することになる。

 

 

フェリペ5世(1700~1746年)

ルイ14世の孫。地方ごとの差異を排した政治的・法的一元化を実現。各種アカデミー設立や国語統一など文化事業にも実績を上げたが、鬱病を患うこともあった。

 

 

フェルナンド6世(1746~1759年)

英仏間の七年戦争で中立を保ち、産業振興と改革事業を推進した実り豊かな治世と評価されている。

 

 

カルロス3世(1759~1788年)

前王の異母弟。七年戦争に参戦し、1763年パリ条約でイギリスにフロリダ割譲、代わりにフランスから(ミシシッピ川以西の)ルイジアナ獲得、内政では「啓蒙王」の名の通り、社会改革事業を推進、イエズス会を追放。

 

 

カルロス4世(1788~1808年)

即位直後にフランス革命勃発。ゴドイが実質政権担当。共和国フランスに宣戦するが敗北、講和。それはまだいいとして、ナポレオンが権力を握るや、ゴドイはその傀儡と化し、フランスと同盟、1805年トラファルガー海戦で惨敗、スペインはその海軍をすべて失い、それが中南米植民地独立の契機となる。1808年皇太子の反仏陰謀を受けて、ナポレオンは国王父子をフランスに連行、兄のジョセフをスペイン国王に就ける。「ゲリラ」という言葉の語源になった国民的抵抗とイギリスの支援によってナポレオン軍を退けることに成功。父王と異なり、この王の評価は極めて低い。

 

 

フェルナンド7世(1814~1833年)

国民の歓呼の中、帰還し王位に就いたが、アンシャン・レジームの復活を企図、自由主義勢力との対立激化、神聖同盟による軍事干渉も受け、中南米植民地は次々と独立。

 

 

イサベル2世(1833~1868年)

ブルボン朝では初の女王、前王の弟カルロスの即位を主張する一派(カルリスタ)の反乱が起こる。自由主義勢力が政権を握るが、穏健派と急進派の対立が激化、その中で1868年(明治元年だ)発生したクーデタで女王は退位。

 

 

アマデオ1世(1870~1873年)

いくつかの候補の中から選ばれて即位した、イタリア王室出身の国王。本書では記載が無いようだが、普仏戦争のきっかけの一つであるスペイン王位継承問題というのは、この時の混乱時のことでしょう。政界の分裂・混乱に嫌気がさし、2年余りで自発的に退位。1873年第一共和政が宣言されるが、アナーキストや地方分離運動による反乱が頻発、安定と秩序を求める声が高まり、1874年王党派のクーデタが成功。

 

 

アルフォンソ12世(1874~1885年)

カルリスタ戦争を完全に集結させ、立憲君主制を確立、保守・自由両党による政権交代が曲がりなりにも実現、順調な経済成長を遂げる。

 

 

アルフォンソ13世(1886~1931年)

父王病死後の誕生。1898年米西戦争でキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を割譲、翌年ミクロネシアをドイツに売却、モロッコ以外の海外領土をすべて失う。第一次大戦で中立維持、大戦景気に沸くが、貧富の差は拡大、短期政権が続き、アナーキストによる暗殺行為が頻発、アブデル・クリーム率いるモロッコの反乱も起こり、1923年プリモ・デ・リベラ将軍の軍事政権が樹立。一時的緊急避難としてならともかく、軍事政権の長期化を支持したことは、国王の大きな過ちだった、と本書では評されている。反軍政運動の中で、君主派も共和派に移行し、30年プリモ・デ・リベラ辞任後、31年国民投票で第二共和政成立。アルフォンソ13世は、41年ローマで死去。

 

 

31年第二共和政、36年人民戦線内閣とスペイン内戦勃発、39年フランコ勝利。

この辺のことは、本書でも多くの紙数を割いて叙述されているが、ここでは一切省略。

一言だけ書けば、以前書いたような、スペイン内戦ではフランコが勝って良かったんではないか、というような意見はやはり言い過ぎかもしれないが、それでも私には共和国と人民戦線が絶対善とは思えない。

極右と極左への政治的分極化がもたらした不幸な出来事、ぐらいに解釈するのが適当ではないかと思える。

1939年4月、第二次大戦勃発の半年前、フランコが内戦終了を宣言。

フランコは、巧みに大戦への参戦を避け中立維持に成功、冷戦の進行で西側陣営への接近が可能となり、戦後の国際的孤立も解消。

以前も書きましたが、戦前の日本もなぜこのような道を辿れなかったのかなあと思います。

アルフォンソ13世の子ドン・フアンは、フランコに王政復古を要求するが、フランコは当座拒否。

内戦ではフランコ側を支持したものの、開明的な面も持つドン・フアンを警戒したものと見られる。

フランコは代わりにドン・フアンの子フアン・カルロスを国王候補としてスペイン国内で教育することを提案、ドン・フアンはこれを受け入れる。

フアン・カルロスは、面従腹背でフランコに接し、その死後1975年即位。

フアン・カルロス1世は、数年間、フランコ派と軍部の動向を慎重に見極めながら、首相スアレス、国会議長タトーと協力しつつ、漸進的にスペインを議会制民主主義体制に移行させることに成功。

1981年、スアレス首相辞任の際、一部将校が国会に突入しクーデタ未遂を起こすが、国王はテレビ演説で断固反対の決意を示し、鎮圧に成功。

80年代、西側主要国でこのような事件が起こっていたことは驚きである。

以後、社会労働党と国民党による政権交代が続く。

本書刊行の翌年、2014年フアン・カルロス1世は退位、フェリペ6世が即位している。

 

 

 

相当分厚い本だが、読みやすいので、ページ数はさして苦にならない。

スペイン通史としては、これまで茨木晃『スペイン史概説』という、極めて入手し難い本を基本に考えていたが、本書をそれに替えても良い。

十分有益な本であると思います。

2017年11月4日

花井等 編 『名著に学ぶ国際関係論』 (有斐閣)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 03:43

これ、以前 関連文献:読書論 という記事で名前を出しただけで、単独の記事にはしてませんでしたよね?

中身はタイトル通り。

国際関係論、国際政治経済学の名著22冊を取り上げ、その内容と今日的意義を述べたもの。

以下、書名を挙げる。

 

 

第一部 先駆的業績

クラウゼヴィッツ『戦争論』

カー『危機の二十年』

モーゲンソー『国際政治』

 

 

第二部 歴史・文明

トインビー『歴史の研究』

ハレー『歴史としての冷戦』

高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊』

スチーブンスン『デタントの成立と変容』

ホフマン『国境を超える義務』

ケネディ『大国の興亡』

ハンチントン『文明の衝突』

 

 

第三部 政策・外交

ケナン『アメリカ外交50年』

ニコルソン『外交』

アリソン『決定の本質』

ホルスティ『国際政治の理論』

コヘイン『覇権後の国際政治経済学』

キッシンジャー『外交』

 

 

第四部 政治・経済

ウォーラースティン『資本主義世界経済』

スペロ『国際経済関係論』

ローズクランス『新貿易国家論』

モデルスキー『世界システムの動態』

ギルピン『世界システムの政治経済学』

ストレンジ『国際政治経済学入門』

 

 

第二版では以上に加えて、ナイ『国際紛争』が取り上げられているそうだ。

 

実際読んだことのある本もあれば、書名だけ聞いたことのあるものもあり、さらに本書を見るまで全く知らなかった本もある。

私がまだしも関心の持てる第三部までの書名を見ると、確かに定番とも言える古典・名著が並んでおり、参考にはなる。

国際関係論・国際政治学に興味のある独学者が、これらを順番に読んでいくというのは苦しいだろうし、多分全て読破するのも難しいだろうが、読書意欲をかき立てて、選書の為の材料には出来る。

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