万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年10月31日

ウィリアム・フォークナー 『サンクチュアリ』 (新潮文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 05:24

20世紀前半を代表するアメリカの文学者ではあるが、高校教科書ではほぼ名前が出ないので、私のレベルでは取り上げるかどうか微妙な作家である。

アメリカ南部の黒人差別など深刻なテーマを扱い、難解な作風で知られるそうだが、とりあえずこれを選んだ。

酒の密造者のアジトに迷い込んだ女子大生が陰惨な事件に巻き込まれる話。

読みにくい・・・・・。

登場人物や話の筋を確認するのにも苦労する。

当然、面白いと感じることもない。

どこまでも暗い雰囲気の中、どうしようもない下層階級と、同様にどうしようもない中流・上流階級の行動を淡々と描写して、物語は終わる。

何だこりゃ、というのが正直な感想。

全く分からない。

相当粗く読み進めたが、そうでなければ絶対挫折してた。

評価は「1」を付けるしかない。

私の能力では、この作品から何かを感じ取ることは無理でした。

『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』『八月の光』など他の作品を読む気にも当然なれない。

「フォークナーは、私には分からない、向いていない」ということを理解したことだけが収穫です。

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2017年10月27日

宮田律 『物語イランの歴史  誇り高きペルシアの系譜』 (中公新書)

Filed under: イスラム・中東 — 万年初心者 @ 05:23

かなり前の記事だが、ここここで相当腐した記憶のある、この本を通読。

2002年刊。

 

ペルシア民族は、アケメネス朝・ササン朝という二大帝国をもって古代オリエントに君臨。

イスラム勢力の爆発的膨張によって、中東全域がアラブ民族の居住地域になるが、ペルシア人はイスラム教とアラビア文字は受容したものの、言語と民族の独自性は守り続ける。

それは、サファヴィー朝がシーア派を国教とし、イスラム世界で圧倒的多数のスンナ派への対抗軸を打ち立てたことで、さらに明確になった。

サファヴィー朝は、もう一つの非アラブ系主要民族であるトルコ人のオスマン朝による中東の政治的統一を阻止することにも成功。

「シーア派イスラム」と「“古代ペルシアの栄光”以来のイラン民族主義」という、二つのアイデンティティが、時の体制の思惑や世論の流れによって、交互に表舞台に表れる。

18世紀、サファヴィー朝滅亡後、その末にカージャール朝が成立するが、その歴史はほぼ全てイラン国家の衰退期といった感じで、イギリスとロシアによって半植民地に転落。

イラン人一般のカージャール朝への評価は極めて低い、と本書でも書かれているが、まあそりゃそうなんだろうなと思った。

第一次世界大戦後の混乱期に、レザー・ハーンがパフラヴィー朝(私の世代では「パーレヴィ朝」の表記がしっくりくる)を建国。

1941年レザー・シャーの親独傾斜を見たイギリス・ソ連両軍がイランに進駐、国王は退位し、モハンマド・レザー・パフラヴィーが二代目国王に即位、イラン革命まで四十年近く在位。

普通、「パーレヴィ国王」と言えば、この二代目の人物を指す。

第二次大戦後、モサデク政権の石油国有化政策は米英が援助したクーデタで失敗、国王は「白色革命」という名の上からの近代化政策を推進するが、経済格差の拡大と急激な西洋化が国民の反発を買い、1979年イラン革命で王政は崩壊し、神学者ホメイニ率いるイスラム原理主義政権が樹立される。

厳格なイスラム主義的な統制が国と社会を覆ったが、ホメイニ死後はその改革を求める勢力と保全を主張する勢力が均衡し、神学者である最高指導者による制約はありつつも、選挙で政権が正常に交替する、中東では数少ない国でもある。

 

 

以前、この本をざっと眺めた時には、「近現代史に偏重し過ぎだろう、これは『イラン現代史』と題して出すべき本だ」という感想を持ったのだが、通読してみると、前近代だけでなく近現代の部分も含めて、とにかく内容が粗く、物語性に乏しい。

重要史実にはとりあえず触れられているが、重点が感じられない、通り一遍の記述なので、強い印象を受けたり、事実が頭に刻み込まれるようなことが、ほとんど無い。

『イラン現代史』というタイトルだとしても、不満足である。

著者は、やはり現代イランの研究者であり、歴史研究者ではないのでは・・・・・。

『物語~の歴史』シリーズのコンセプトに合ってない。

これはやっぱり失敗なんでは・・・・・。

シリーズ内の貴重な一国を費消してしまった感がある。

最初に悪い印象を受けていたので、先入観があり、以上のような見方は厳し過ぎるのかもしれないが、やはり他人に推薦したくなる本ではありませんでした。

2017年10月16日

10冊で読む政治思想

Filed under: おしらせ・雑記, 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

はじめにの記事で書いたように、私は抽象的思考力が無いに等しいので、このブログでも難解な哲学書、思想書は全く紹介していません。

ただ漠然とした政治思想についてなら、多少は書くこともあり、この記事を上げることにしました。

思想・哲学カテゴリから、私にとって必読と思えるものを抽出(日本人著者を除く)。

世界史全般近代日本史はもちろん、世界文学の各暫定必読書リストに比べても、網羅性にはそれほど配慮しなくてもいいと考え、思い切って10冊に絞ります。

そのデメリットは間違いなくあるでしょうが、この手のリストは冊数があまり多いと最初から嫌気が差して読書意欲を削ぐことがあるし、「とりあえずこれだけ読めばいい」とされると気が楽になって、指定された書を手に取りやすいものと思います(少なくとも私はそうです)。

 

 

高校世界史レベルで触れられる政治思想と言えば、古代ギリシアの政治哲学と近世の社会契約説がメインで、後は断片的に幾人かの学者名を挙げるだけかと思います。

このリストでは三つの柱を想定することにします。

「プラトンを中心とする古代ギリシア政治哲学」。

「バークを始めとする近代保守主義」。

「オルテガに代表される20世紀大衆社会論」。

 

 

 

では、まず古代の政治思想から。

これに関しては、結局プラトンの対話篇を出来るだけ多く読む、ということに尽きる。

『ソークラテースの弁明 クリトーン パイドーン』(新潮文庫)から、『プロタゴラス』(光文社古典新訳文庫)『メノン』(光文社古典新訳文庫)ときて、『饗宴』(光文社古典新訳文庫)といった具合に。

そしてここでリストの第一冊目を採用。

(1)プラトン『ゴルギアス』(岩波文庫)

議論の面白さに一驚した。

遥か古代の哲学書がこれほどの魅力をもって現代人の目に映ることは、真に驚きである。

必読書として確信を持って薦めることができる。

続いて、もうこれを挙げてしまおう。

(2)プラトン『国家 上』(ワイド版岩波文庫) 『同 下』

記事は上下巻に分かれているが、ここは1冊とカウント。

言うまでも無くプラトンの主著だが、これも読んだ際に、初心者が普通に面白く読めることに非常に驚いた記憶がある。

分量と内容はもちろん重厚だが、古代政治哲学の頂点と見なして、これをこなしたら他の本はそれほどフォローしなくてもいいと考えれば、楽なもんです。

プラトンの最後の大著『法律』が未読だが、これは今後の宿題として勘弁してもらいます。

古代はこの2冊だけでいいか。

アリストテレス『政治学』(中公クラシックス)は予想していたものと内容がズレているような感想を持ったので、岩波文庫の全訳も読もう読もうと思いながら未読だし、ここに挙げるのはやめておきます。

素人がやることだし、それでいいでしょう。

 

 

で、中世の政治思想は、高校教科書的には全く空白です。

しかし、個人的にはトマス・アクィナス『君主の統治について』(岩波文庫)は興味深かったことを記しておきます。

近世初頭に入ると、政治学を確立したと言われるマキアヴェッリ『君主論』(岩波文庫)がある。

これなあ・・・・・。

ネームバリューから言って読んだ方がいいんでしょう。

そうなんだけど、はっきり言って全然面白くない。

内容も頭に全然入ってこない。

読み手の私の問題である可能性が高いので、皆様は一読をお薦めしますが、このリストからは外させて下さい。

 

 

そして、現在の民主主義の「欽定学説」である社会契約説が来る。

これも同じなんですよ。

下手したら中学教科書でも書名が出るくらいだから、無視するのは難しい。

しかし、得たものはどれも少ない。

ロック『市民政府論』(光文社古典新訳文庫)ルソー『社会契約論』(光文社古典新訳文庫)は、初心者でも読める難易度と分量である。

ホッブズ『リヴァイアサン 1・2』(中公クラシックス)は抄訳でもちょっと苦しいが。

これらも読んだ方がいいでしょうが、リストに挙げるのは止めます。

むしろ、ヒューム『人性論』(中公クラシックス)収録の「原始契約について」のように社会契約説への批判の方が自分にとっては面白かった。

同様の知名度を誇る、モンテスキュー『法の精神』(中公クラシックス)は、社会契約説の著作に比べれば、読後有益なところもあったが、これもわずか全10冊のリストに加えるほどではない。

 

 

カント、ヘーゲル辺りについては何一つ語る資格が無い。

ただ、カント『永遠平和のために』(光文社古典新訳文庫)ヘーゲル『歴史哲学講義 上・下』(ワイド版岩波文庫)は初心者でもとりあえず読める本だと書いておきます。

 

 

「民主主義の総本山」アメリカ合衆国の建国の父たちの思想について、ハミルトン『ザ・フェデラリスト』(岩波文庫)はその「非民主的」側面について知ることができる本で、やや貴重ではあるが、これも全巻すべてが素晴らしいとは思えず、外す。

 

 

で、ここで、これが来た。

(3)バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)

近代保守主義の起源となった記念碑的名著。

これも予想していたよりも遥かに容易に読めて、ありとあらゆる政治的叡智の泉であるという感想を持った。

読みつつ、深く嘆息して、感心するところが極めて多かった。

素晴らしいレトリックと論理に圧倒される。

絶対必読の名著。

そして次がこれ。

(4)トクヴィル『アメリカのデモクラシー 全4巻』(岩波文庫)

実はかなり迷いました。

一番最初この記事を考えた時は、絶対入れるつもりだったんです。

しかし、書名を埋めていくと1冊分空きが足りないなと思えて、これは分量も多いし、全訳を読んだはいいが、もう一つしっくりこない部分も多かったので、一旦は外すかと考えました。

しかし、思い直して復活させます。

ただ文庫本全四冊の分量がキツければ、本書に関しては中公クラシックスの抄訳版(「世界の名著」版の翻訳を収録したもの)でもいいです。

民主主義国の「多数の専制」がどれほど始末におえないものかを理解させてくれる。

 

 

マルクス主義については、一般常識として『共産党宣言』(岩波文庫)でも読めば十分だが、エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態 上・下』(岩波文庫)は、共産主義が人類史上最悪の被害をもたらした後崩壊した現在でも読むに値する本ではある。

ローレンツ・シュタイン『平等原理と社会主義』(法政大学出版局)は、一部読んだところは興味深いものがあったが、通読は出来なかったので、他人に薦める資格が無い。

『ショーペンハウアー全集 13』(白水社)の中の政治論は非常に面白いのだが、後述のリストに挙げるトーマス・マンの本の中にもその引用が出て来るし、適切に編纂された新訳が出ることを期待して、今回はパス。

自由主義思想を代表するジョン・スチュアート・ミル『自由論』(日経BP社)は、内容的には(私にとっては)つまらないです。

むしろ、反自由主義的なカーライル『過去と現在』(日本教文社)の方が、今読むのなら、新鮮で有益でしょう。

カーライルの書も、リストアップを迷ったが、泣く泣く止めとくか。

 

 

一方、これは外せない。

(5)ル・ボン『群衆心理』(講談社学術文庫)

集団としての人間がどれほど悪逆かつ非理性的になるかという真実を直視した本。

近現代史の病理の原因をいやというほど教えてくれる。

類書のガブリエル・タルド『世論と群集』(未来社)も悪くないが、ル・ボンに比べればやや落ちる。

しかし、読めるものなら読んで下さい。

 

 

キルケゴール『現代の批判』(岩波文庫)も入れようと思ったんだが、10冊にギリギリ入らない。

現在の大衆社会の世論というものの問題点をするどく抉り出したものであり、必要な本ではあるんですが・・・・・。

もし全15冊だったら絶対入る本なので、次に読む候補として頭に入れておいて下さい。

ニーチェは学生時代に『ツァラトゥストラはこう言った 上・下』(岩波文庫)を訳も分からず読んだきりで、以後再読したり、別の作品を読んだりもしていないので、無視。

ブルクハルト『世界史的諸考察』(二玄社)は、著名な歴史家が、民主化と産業化を進行させ、破滅に向かう近代社会に警告した、深慮に満ちた史論であり、記事で引用した部分などは深く考えさせられるものがあったが、心に引っかかる部分が全篇のうちで少な目だったので、悩みつつ外す。

バジョット『イギリス憲政論』(『世界の名著 バジョット ラスキ マッキーヴァー』収録 現在は単独で中公クラシックス収録)は君主制の現代的意義を説いた興味深い著作だが、冊数上これも入れるのは無理。

是非読んで欲しい本だし、惜しいんですけどねえ・・・・・。

 

 

一方、これは迷いなく挙げる。

(6)チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)

キリスト教的正統思想の擁護を実に巧みで華麗な論理で展開しており、初読の際にはほとほと感心した。

広く保守主義の根拠ともなる作品であり、読後感は本当に素晴らしかった。

それでいて、何一つ難しいところはない。

絶対必読の本。

そして、続いてこれだ。

(7)トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)

これ、やや微妙なところがあって、マン自身は、後に本書の内容とは全く逆に民主主義の擁護者になっている。

しかし、現在から見れば、本書の立場の方が圧倒的に興味深く、面白い。

これも、読んでいてページを手繰るのが止まらなくなるほど、素晴らしかった。

でも、入手し難い。

筑摩書房さん、是非とも、ちくま学芸文庫に一刻も早く収録して、再刊をお願いします。

 

 

そして、次はこれかな。

(8)ヤスパース『現代の精神的状況』(理想社)

これは無条件で選んだわけではない。

翻訳も古めかしいし、特に前半は相当悪戦苦闘しながら、何とか読み終えたことが上記リンク先記事からも分かる。

でも、これは現在でも読むべき本だ。

引用文1同2同3を含めて読むと、これ現代のネット世論を予言していたのではないかと思えるほど的確な描写に驚かされる。

悪質なネット世論が他のメディアを侵食し、同様に劣化させて社会を醜悪と荒廃に導きつつある全世界的傾向を見ると、この書の価値を否応なく実感させられる。

どこかの良心的な出版社が新訳を出してくれることを期待してリストに加えます。

そして、この本は絶対に外せない。

(9)ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)

引用文1同2同3同4での文章を含めて読み返すと、近代の宿痾をこれほど鋭く抉った思想書も少ないと思える。

その実状を理解すればするほどほぼ完全に絶望するしかないが、それでもわずかながらの、宗教的というしかない希望を持ち、次の世代に良き価値を引き渡すために自らの義務を果たし続けた人間の遺言のような書。

しかし、本書が新刊として手に入らない現状は、日本の文化的醜聞である。

中央公論さん、本当に何とかして下さい。

文庫のまま復刊するか、中公クラシックスに入れて、可能な限り長期間在庫してもらわないと、本来は困る本。

頼みますから、そうして下さい。

レーデラー『大衆の国家』(創元社)ジグマンド・ノイマン『大衆国家と独裁』(みすず書房)フロム『自由からの逃走』(東京創元社)は、それぞれ特色ある大衆社会論として読む価値があるが、必読とまでは言えないか。

T・S・エリオット『文化の定義のための覚書』(中公クラシックス)は、階級社会の擁護という反時代的姿勢が興味深く、有益な書であるが、これも泣く泣く外すか・・・・・。

オークショット『政治における合理主義』(勁草書房)は、読んだ部分は面白く、心に残る文章があったが、難易度が高く、自分でも通読出来ていないので、当然リストには加えられない。

で、最後の10冊目はこれ。

(10)オルテガ『大衆の反逆』(白水社)

思想・哲学カテゴリの一番最初に紹介していることからも分かるように、ものすごい衝撃を受けた本。

これを読まないというのはありえないでしょう。

本書で批判されているような意味での「大衆」は、本書を読んでも自省するどころか、本書のレトリックを用いて他者を攻撃するような救いの無さを持っているんでしょうが(私自身にもそういうところはあるでしょう)、それでも読まないわけにはいかない。

 

 

 

以上で全10冊をリストアップしました。

古典的な思想家と言えるのは、以上に挙げた人々くらいですか。

以下、追加。

まず挙げないといけないのは、コーンハウザー『大衆社会の政治』(東京創元社)です。

大衆社会論全般の見取り図を与えてくれる本として非常に重要。

これ、何とか10冊の中に入らないかなあと検討したんですが、他の思想家と並ぶとさすがに著者名が見劣りするし、本書の「貴族主義的大衆批判」と「民主主義的大衆批判」という整理の仕方が適切ではないとの意見もあるしで、結局外しました。

ただ、リストの準候補には間違いなく入っている著作です。

でも、これも入手しにくいんだよなあ・・・・・。

馬鹿みたいなネトウヨ本を粗製濫造するくらいなら、こういう本を復刊してくれないかなあ・・・・・。

クイントン『不完全性の政治学』(東信堂)ニスベット『保守主義』(昭和堂)は、比較的最近出た保守主義の名著として、コーンハウザーのように入れようかと思ったんですが・・・・・止めときます。

 

 

さらに、番外として、現在大きな問題になっている新自由主義とリバタリアニズムについて。

フリードリヒ・ハイエク『隷従への道』(東京創元社)は、今となっては読むべき本に思えない。

むしろ、カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)同『公共哲学』(ちくま学芸文庫)同『それをお金で買いますか』(早川書房)などを読んで、市場主義的考えに対する抵抗感を養った方がよい。

 

 

 

 

終わりです。

以下が10冊のリストです。

 

(1)プラトン『ゴルギアス』(岩波文庫)

(2)プラトン『国家 上』(ワイド版岩波文庫) 『同 下』

(3)バーク『フランス革命の省察』(みすず書房)

(4)トクヴィル『アメリカのデモクラシー 全4巻』(岩波文庫)

(5)ル・ボン『群衆心理』(講談社学術文庫)

(6)チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)

(7)トーマス・マン『非政治的人間の考察 上・中・下』(筑摩書房)

(8)ヤスパース『現代の精神的状況』(理想社)

(9)ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)

(10)オルテガ『大衆の反逆』(白水社)

 

 

うーん、どうかなあ・・・・・・。

やっぱり全15冊くらいにした方が良かったかなあ。

まあ、これでいいか。

キリもいいし、読むのも楽だし。

自分が、世界の歴史、特に近現代史を読む上で、基本となる考え方を養ってくれた書物です。

当然、個人的偏りが大きくあるので、一部を取捨選択したり、あるいは全く別のリストを作って、それを読むことにしても全然結構です。

普段思想・哲学関係の本など一切読まなかった、という私と変わらないレベルの方に、選書の切っ掛けにでもして頂けたら幸いです。

 

2017年10月6日

伊藤之雄 『原敬  外交と政治の理想  上・下』 (講談社選書メチエ)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 02:52

上・下巻合わせて900ページを超える大著。

「賊軍」扱いされた東北出身者で、薩長藩閥への怨念を強く持ち、それをバネにして日本初の本格的政党内閣を組織したが、「平民宰相」の美名とは裏腹に普通選挙導入に反対し、党利党略を目的とした「我田引鉄」の利益誘導政策によって政治腐敗を激化させ、遂にはそれに憤激した青年に暗殺された、功罪相半ばする政治家、というのが、平均的な原敬イメージでしょうか。

本書では、伊藤博文を継いで、日本国家の屋台骨を、本来ならば昭和初期まで担うはずであった大政治家として捉え、その生涯を叙述している。

 

 

原敬は、1856(安政三)年、盛岡(南部)藩の家老格の家に生まれる。

9歳の時に父が死去。

学んだ塾では成績優秀で、農民の子供にも親切に接していたという。

戊辰戦争で、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、敗北。

敗者の苦難を舐め、同様の境遇に陥った人々への共感を持つが、ここで原が薩長への根深い怨念を持ったとの定説は否定されている。

1871年上京して苦学し、フランス人宣教師の神学校に住み込み、フランス語を学び、洗礼を受けるが、そのキリスト教信仰は生涯続くようなものではなかったという。

1875年分家した際、自身を士族ではなく平民として登記。

翌年司法省法学校に入学するが、法学に飽き足らず、政治・外交の道を志し、退学。

1879年中江兆民の私塾に半年余り在籍。

当時の兆民は「自由民権運動最左派」のイメージとは異なり、民権の発達が即国家の富強に結びつくものではないこと、十数年先はともかく現在では民選議院は時期尚早であること、分別の無い欧化政策は有害であり儒教などの伝統的価値を近代的に錬成する漸進主義が必要であること、功利主義による無条件な自己利益の追求を否定し常に「公利」を重視する必要があること、などを説いており、原の問題意識とほとんどの点で一致し、その生涯を貫く考え方となった。

同年大隈重信系の郵便報知新聞社に入社。

明治十四年の政変前で、大隈はまだ藩閥政府の一員であり、その紙面は政府批判一色では無かった。

そこで原が主張したことは、藩閥政府の維新以来の近代化政策に一定の評価を与え、旧士族や富者の特権を批判しつつ、フランス革命のような急進的で過激な動きを退け、イギリスを理想とした穏健な議会政治を漸進的に実現すること。

十四年政変後、郵便報知新聞が下野した大隈派の牙城となると、原は退社。

原は「輿論[しっかりした責任感のある国民の意見]」と「世論[物事を十分に考えていない多くの人々の意向]」をはっきりと区別していた

・・・・・ここでは、大隈ら急進的な民権派や国会を有害なものと見る藩閥政府内の守旧派を除いた、伊藤ら藩閥政府首脳や原ら真の「自由民権」論者の意見を「輿論」としているのである。・・・・・なお原は、真の「自由民権」とは、より良い国作りのため、藩閥政府と「人民」、また「人民」同士で議論することで、国益や「勤王」にかなうものである、とした。また、イギリスの保守党を「自由民権」の政党ととらえたように、「自由民権」を保守層まで取り込む幅広い概念で理解したのである・・・・・原はこの約一九年後に伊藤博文の創立した政党、立憲政友会に入党する。原の理解では、この政党は「自由民権」思想の延長線上にある政党といえる。

1882年立憲帝政党系の大東日報社に入社し、同年朝鮮での壬午軍乱に関する取材で井上馨外務卿の知遇を得て、外務省に入省。

1883年清国駐在の天津領事に任命。

清仏戦争に対処する李鴻章とたびたび会談。

1884年甲申事変勃発。

伊藤・井上は日清間の衝突回避と朝鮮の近代化への誘導を、薩摩系は対清強硬論と朝鮮植民地化を志向。

清国に渡った伊藤は李鴻章と会談、天津条約を締結し、この時点での日清戦争は回避され、原は伊藤を情報収集と分析能力で大いに補佐した。

原は伊藤の知遇と評価を期待したが、憲法制定を最大の課題とする当時の伊藤はこの時点で原を腹心の一員に加えるつもりはなく、両者の間にややわだかまりが残る結果となった。

1885年にはパリ公使館書記官として赴任(同年内閣制度発足、伊藤が初代総理大臣に就任)。

フランス語能力を使って、国際法・政治・外交・歴史・哲学・文学など幅広い書物を学習。

オーストリアおよびドイツ公使として赴任してきた西園寺公望と出会うが、当初はやや疎遠な関係。

井上外相の条約改正交渉が、外国人判事任用をめぐる国内の反対で頓挫。

井上辞任後、1888年原が嫌う大隈重信が外相に就任すると帰任命令が出る。

帰国後、農商務省に入省。

黒田清隆内閣で農商務大臣となった井上の下で官制改革を推進するが、大審院への外国人判事任用を含む、大隈外相の条約改正交渉に反対して、井上は辞任。

大隈重信の条約改正交渉が、実は「超然主義」で有名な(悪名高い)黒田内閣時であることは要チェック。

その際、原も枢密院書記官への転身の話が出るが、書記官長の伊東巳代治と肌合いが悪く、流れる。

1889年大隈がテロで重傷を負い、黒田内閣総辞職、第1次山県有朋内閣成立、外相青木周蔵が条約改正交渉継続、新農商務相が病気で辞職した後、後任に陸奥宗光就任。

陸奥は和歌山藩出身、西南戦争で西郷軍に呼応する計画を立て一時投獄、その後伊藤・井上の計らいで駐米公使となり、西園寺とも親しい、伊藤系の有力者。

原は陸奥に心酔し、協力して省内改革を断行。

1890年第一回総選挙と帝国議会開会、陸奥は当選し衆議院に議席を持つ唯一の閣僚となり、自由党にも自派を入党させようとし、将来的には自身を首班とした政党内閣を目指す。

原は、帝国議会での混乱を見て、政府・民党双方に批判的見解を抱く。

1891年第1次松方正義内閣成立、大津事件勃発。

第二回総選挙で、品川弥次郎内相の大選挙干渉。

伊藤・陸奥は政党圧迫一辺倒の松方・品川を批判、陸奥は辞任し、原も農商務省を離れる。

1892年松方内閣総辞職、その際の組閣過程で元老という憲法上にない慣例的な機関が姿を現す。

第2次伊藤内閣成立、陸奥は外相に就任、原は通商局長となる。

陸奥外相は、関税自主権回復をしばし先延ばしし、独立国の主権に関わる治外法権の撤廃を最優先として条約交渉を再開、日清戦争直前に日英通商航海条約締結に成功する。

原は陸奥の側近として議会対策に挺身、民党の主張には是々非々で臨み、もし民党の反対で政権維持が困難なら、藩閥勢力は一時下野も辞さず、民党が失敗し、そこから学ぶのを待つべきだと主張。

この主張は1898年隈板内閣成立で実現したが、しかし、1893年の時点で政府と議会の妥協をもたらした「和協の詔勅」を原が批判したのは、条約改正問題や朝鮮半島問題で懸案の多い中、民党に政権を渡すことが極めて危険であることを見通しておらず、伊藤や陸奥の判断の方が的確だ、と著者は評している。

朝鮮半島問題では、まず防穀令事件に対処、条約上の権利に基づき断固とした態度を示し、朝鮮政府の対応に不信感を持ちつつ、日本側のいたずらに強圧的な交渉態度も批判、あくまで朝鮮国の近代化支援と安定化を推進することを日本の朝鮮半島政策の根本に置き、植民地化・保護国化を目指す議論には同意せず。

著者は、それがこの時点で伊藤・井上・陸奥ら政権中枢に共有された方針であったことを指摘している。

1894年日清戦争勃発、戦時には原は特別な任務を与えられることはなく、無聊をかこつ。

この時期、俊英陸奥の下には、原だけでなく、小村寿太郎、加藤高明も要職を務めていた。

原は1895年外務次官に就任。

三浦梧楼公使が主導した閔妃殺害事件に対処、武官である総督が独立的権限を揮う台湾統治体制を批判。

1896年朝鮮国公使に転任するが、同年第2次伊藤内閣総辞職、第2次松方内閣成立、進歩党と連携した為、外相はまたも大隈で、原は帰国。

同時期、板垣・林有造ら土佐派、岡崎邦輔・星亨ら陸奥側近派、河野広中ら東北派、松田正久ら九州派の対立が目立つ自由党に陸奥が入党し、指導者となることが見込まれるが、陸奥の健康状態は悪化し、1897年死去。

原は外務省を退き、『大阪毎日新聞』に入社、軍部大臣文官制、列強の国際規範を守った現実主義的外交、清国・朝鮮への蔑視を排した上での断固とした対応、日清戦争後の軍備拡張支持、外資導入による産業振興を主張し、部数の大幅拡張に成功。

1898年第3次伊藤内閣を経て、自由党・進歩党合同による憲政党結成と第1次大隈内閣成立、その倒壊と憲政党・憲政本党分裂後、第2次山県内閣成立という混乱の中、伊藤が山県・松方らの反対を押し切って旧自由党を主体とする新政党結成を志すと、原もその動きに合流。

伊藤の盟友であるが、組閣の機を逸して伊藤への複雑な思いを持つ井上との関係を修復、原を自派に取り込もうとする山県の誘いを拒絶。

1900年立憲政友会結成。

西園寺公望、原、星亨、松田正久、末松謙澄、林有造、金子賢太郎、渡辺国武、尾崎行雄(尾崎のみ憲政本党系)が参加。

原と関係が悪く、政党政治への理解も持たない伊東巳代治は参加せず。

同年成立の第4次伊藤内閣には当初入閣できなかったが、伊藤の後継者西園寺との関係を深め、逓信大臣として入閣、東北出身者初の大臣となる。

公債支弁事業に消極的な渡辺国武蔵相と対立、西園寺と連携した原は党内地位を向上させるが、1901年内閣総辞職、後任は山県系官僚を主体とする第1次桂太郎内閣。

同年金権政治家との悪評を受けていた星亨が暗殺、政友会は伊藤と後継者と見られた西園寺の下、原・松田・尾崎らで指導部を形成。

桂内閣への対決姿勢を強める原・松田に対し、国際情勢の緊迫化と不況の深刻化を見た伊藤・井上は倒閣に消極的。

この路線対立を利用した桂内閣の揺さぶりもあり、少なからぬ脱党者が出たが、1903年総裁が西園寺に交替し、原・松田は政友会の勢力保持に成功。

その間、1902年総選挙で原は盛岡市から出馬、大差で当選している。

ここで注目すべきは、選挙運動で、鉄道建設などの公共事業の利益誘導を自身の支持拡大の為に利用しなかったこと。

あくまで「公利」(公共性)重視の主張を貫いた。

また、この時期『大阪新報』という新聞の経営にも携わっているが、世論の大勢に媚びることなく、対露強硬論を唱えず、政府の冷静な外交努力を支持した為、過去の『大阪毎日新聞』とは異なり、大きな成果は収め得なかった、とある。

この辺は筋を通す政治家として、やはり評価に値すると思う。

原と政友会は、外交問題でも世論に迎合せず、日露開戦まで対露強硬論を主張せず。

日露戦争下、桂首相と政友会は政権授受密約を結んだうえで協力。

犬養毅、大石正巳ら憲政本党が賠償金抜きの講和条約反対運動を展開する中、政友会は同調せず。

講和直後、伊藤は、政友会への政権授受密約を承認していながら、山県系軍人ではあるが、山県から独立した立場を取る児玉源太郎を首班とする内閣を作ることを一時構想したが、原の反対で断念、1906年第1次西園寺公望内閣成立。

内相原敬、外相加藤高明(第4次伊藤内閣でも外相)、陸相寺内正毅、海相斎藤実、蔵相阪谷芳郎、法相松田正久、文相牧野伸顕という構成。

政友会からの入閣者は西園寺・原・松田のみで、これは通常「本格的政党内閣」とは見なされず。

原は内相として、地方自治拡充と警視庁改革などで、山県系官僚閥と対決。

輸送・交通の促進と効率化の観点から鉄道国有法を公布。

これらの政友会の鉄道政策も自党の支持を広げるための利益誘導を目的としたものではないとされている。

外相加藤高明が、鉄道国有化と陸軍主導の満州経営に反対して、わずか三カ月で辞任、政友会内での信望を無くし、政治家としての地位を低下させる。

西園寺には、線が細く指導力に乏しいイメージがあるが、伊藤など元老や桂との信頼関係もあり、健康に問題が無い時期の、この第1次内閣の頃はそれなりにリーダーシップを発揮、満州軍政廃止や陸軍軍備拡張問題を適切に処理した。

原は伊藤と肝胆相照らす仲となり、立憲政治と政党内閣の理想を掲げ、山県閥と対立、台湾・満鉄・南樺太の経営について内閣の主導権を確保することを目指して活動。

外交では、ハーグ密使事件後に第三次日韓協約が結ばれたが、伊藤と共に完全な併合には反対。

カリフォルニア州での排日運動を受けて、それへの日本国内の反発が強まるが、西園寺政権と政友会は問題を深刻化させず、日米紳士協定を締結して鎮静化に成功。

1908年総選挙でも勝利したが、山県・松方の政権反対姿勢が強まり、健康問題もあって西園寺は総理辞任。

この第1次西園寺内閣時代、原は数々の重要課題に取り組み、政策理解力・交渉力・実行力で同僚の松田を引き離し、西園寺の後継者としての地位を確立する。

第2次桂太郎内閣時代、原は欧米周遊旅行に出発、米国の富強振りと各国での官僚政治の没落と民意の発展を目撃し、強い印象を受ける。

1909年伊藤が暗殺され、翌年韓国併合が断行、その後、朝鮮を訪れた原は総督府の統治に疑問を持たず、同化政策を実現可能と見た。

朝鮮人に対する愚民観は持っていなかったというが、自身を含む東北人が当初反発していた明治国家に統合された経験を韓民族にも当てはめるというのは、隣国のナショナリズムと愛国心に対する無理解と言われても仕方ないでしょう。

健康が十分に回復せず、政党指導者としての意欲を失いつつあった西園寺や、自党の掌握と桂首相との交渉での不手際が目立つ松田に代わって、原が政友会の実質的主導者となる。

第2次桂内閣の後継として陸相寺内正毅への禅譲が話題に上ると、原は桂との巧みな交渉で、政友会への再度の政権授受の流れを作ることに成功。

その間、1905年に古河鉱業の跡を継いでいた、陸奥宗光の次男が病を得ると、原が実質社長として経営に参画、1890年頃から問題になっていた足尾銅山鉱毒問題に治水工事によって対処するが、田中正造の反対運動には共感を持たず。

1911年第2次西園寺内閣成立、内相兼鉄道院総裁が原、司法相松田、外相は桂が留任を提案した小村寿太郎は対外硬的感覚を懸念して退け内田康哉を起用、蔵相には山本達雄、陸相は非山県系で薩摩出身の上原勇作を当てようとしたが果たせず石本新六、海相は斎藤実留任。

日露戦争後の財政難の中、均衡財政主義の蔵相山本と経費節減をした上での積極政策を推進する原が強く対立。

辛亥革命に対して原は、北方清朝側、南方革命側の間で中立を守ることを主張、安易な利権拡張を目論む動きに釘をさす。

明治天皇崩御、大正改元、桂との関係が微妙になっていた山県の思惑で、桂は内大臣に就任し、宮中に押し込められる形になる。

陸相の石本が病気で辞任すると、上原が後任となるが、ここで二個師団増設問題が起こり、大正政変の契機となる。

原と山県の間で妥協の動きもあったが、再度組閣し表舞台に戻ろうとした桂が上原を焚き付け、1912年西園寺政権は倒壊(非主流派の上原は、山県が妥協的であることと桂と山県の仲が微妙になっているのを知らなかったらしい)。

陸軍・長州閥・藩閥官僚批判の世論が盛り上がる中、元老会議では後任首相に松方・山本権兵衛・平田東助(山県系官僚、前内相)の名が浮かぶが決め手が無く、原は「元老の価値甚だ衰へたり」と日記に記した。

結局第3次桂内閣が成立。

内相大浦兼武、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎、陸相木越安綱、海相斎藤実、逓相兼鉄道院総裁後藤新平。

それに対し、第一次憲政擁護運動が勃興、政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らが参加。

桂は新政党組織計画を発表、衆院第二党の国民党内から反犬養派が大挙参加し、国民党は大打撃を受ける。

原は、藩閥官僚批判の輿論の高まり自体は好ましいとしたが、それが非合理的・感情的な世論となり、政治を激変させることは極めて危険であるとの醒めた視線を、自由民権運動の勃興以来、一貫して持っていた。

この為、原は桂に「名誉ある撤退」の道を提示したが、桂は拒否、護憲運動はピークに達し、遂に桂内閣総辞職に至る。

1913年第1次山本権兵衛内閣成立。

薩摩系官僚内閣だが、事実上政友会の支持を受ける。

原はまたも内相、松田が法相、外相牧野伸顕、蔵相高橋是清、陸相木越と海相斎藤は留任(木越は病気で辞任、非山県系で要職経験無しの楠瀬幸彦が後任)。

この内閣で、着実な秩序ある政治改革を推進、高校日本史でも既出だが、軍部大臣現役武官制を廃止し、文官任用令改正によって、政党による官僚自由任用の範囲が1899年第2次山県内閣時代に内閣書記官長と大臣秘書官のみに制限されていたのを、陸海軍省を除く各省次官、法制局長官、警視総監、貴族院・衆議院の書記官長、内務省警保局長、各省勅任参事官にまで拡大。

政友会内部では、護憲運動によって一時党人派の松田の威信が高まるが、松田の指導力に深い疑念を持つ西園寺と原は時期を待ち、巧みに原後継体制を固めていく。

1913年桂が死去、桂の新党計画の結果である立憲同志会が加藤高明中心に結成、14年松田も重病でこの世を去る。

14年シーメンス事件が発覚、山本内閣総辞職。

この事件がなく、また原が自身の希望通りより早い時期に閣僚を辞任し内閣と距離を置けていれば、この時期に原政友会内閣が成立した可能性もあったと評されている。

元老会議で山県が中心となって、大隈重信を首相に推薦、第2次大隈内閣が立憲同志会を与党として成立、外相加藤高明、蔵相若槻礼次郎。

民党の一方の雄であり、自身の宿敵ともいえる大隈を首相に推薦したところに、山県の原と政友会に対する憎悪がいかに強いものなのかが表れている。

原は山本内閣入閣時に政友会に入党した高橋是清、山本達雄らを最高幹部として遇し、遂に自身が西園寺に替わって第三代政友会総裁に就任、山県との対決に備える(西園寺は元老として政治に関与し続ける)。

第一次世界大戦勃発。

加藤高明の参戦外交に対し、原・山県ともに懸念を募らせる。

第一次世界大戦が始まった一九一四年の夏から秋にかけて、日本には二つの道があった。一つは原のように、大戦後に世界をリードすることになる米国との関係を重視し、ヨーロッパの戦争を東アジアにまで広げて日本が中国大陸等で利権の拡大をするような道を取らないことである。その上で、中国との連携を深めて、満州の租借期限の延長など満州問題を解決する。これは原の構想である。もう一つは、ヨーロッパに陸軍すら出兵する覚悟で、日本が大戦に積極的に関与し、世界の秩序形成に加わることで、英国との連携を密にしながら、中国大陸での影響力の拡大(あるいは利権の拡大)を図ることである。

実際にはそのどちらの道も取れずに、中国大陸での利権拡大のみに走る結果となり、大戦後に日本の国際的地位が確立しなかったのであった。

・・・・原は山県ら元老に対米重視の外交論を述べ、元老たちの加藤高明外相・大隈首相の外交への不満の言葉を引き出したが、元老は大隈内閣倒閣に動くことはなかった。それは元老の中心である山県が、将来に困難を生み出すかもしれない外交問題よりも、政友会による陸軍や山県系官僚閥、元老への攻撃と、国内の秩序破壊をより問題視していたからである。山県は原の対米重視の意味を十分に理解できなかったし、大隈内閣の外交に不安や不満を感じても、政友会の多数を崩すほうがより重要だと考えた。

原は入党間もない高橋是清と緊密な関係を築き、高橋の党内地位が向上。

1915年総選挙、青島陥落と大戦景気、大隈の大衆的人気が相まって、立憲同志会が圧勝、政友会大敗。

同年二十一ヵ条要求という近代日本蹉跌の原因となった外交愚行が行われる。

・・・・二十一ヵ条要求が過大なものになったのは、加藤外相や外務省が過大な要求を正当としたのではなく、陸軍などを抑えることができなかったからである。陸軍を抑える力を持っていたのは山県有朋・井上馨ら元老であったが、加藤外相は外交一元化に固執して元老と積極的にコミュニケーションを取ろうとしなかった・・・・。加藤は、大隈内閣成立直後から元老を外交に介入させない、という「外交の一元化」を掲げていた。しかし、外相として米・英や中国となるべく良好な国際関係を作るという最重要課題と、自ら掲げた「外交の一元化」を実施するというプライドとの、事の軽重をまったく判断できなかったのである。

1915年井上馨死去。

政友会設立に当たっては伊藤と協力し、原の最初期のキャリアでの庇護者でもあったが、晩年は元老として原と政友会に対して深い敵意を抱く関係となってしまっていた。

1916年対中・対米関係悪化を受けて山県が大隈内閣に主張していた第四次日露協約が結ばれたが、翌年のロシア革命で全く無意味なものとなってしまう。

加藤高明は内政では大政治家と言っていいんでしょうが、少なくともこの時期に限っては、その外交は原のような慎重策を取るでもなく、陸軍の欧州派遣というリスクを負って日英同盟を深化させるでもなく、ただ火事場泥棒的な利権拡大に走り、中国ナショナリズムの深刻な敵意の標的となった挙句、米英関係も悪化させるという最悪の結果を招いたと言われても仕方がないでしょう。

それを批判した山県はさすがだが、しかし山県ほどの冷徹なリアリストでも、内政での政党政治への敵意に目が曇らされて、外交政策転換の為の大隈内閣倒閣に躊躇したというのは山県にとって名誉なことではない。

本書の筆致では、原こそが当時の国際情勢を最も的確に見抜いていたことになっている。

大隈の後継として、立憲同志会の加藤高明内閣が成立することを西園寺だけでなく、仇敵山県とも暗黙裡に連携して阻止。

大隈内閣打倒と外交政策転換を最重視、山県の政友会アレルギーを考慮し、即時の政権奪還を意図せず。

1916年寺内正毅内閣成立。

内相後藤新平、蔵相勝田主計、外相本野一郎など山県系官僚で固めた超然内閣。

加藤高明は立憲同志会を憲政会に改組、国民党と共に寺内内閣との対決姿勢を強めるが、原の政友会は是々非々主義の態度を表明、寺内政権と事実上連携し1917年総選挙で勝利。

寺内内閣下、原の主張で外交の大枠を決定する組織として外交調査会が発足、原と犬養国民党総理が委員に就任するが、加藤高明は参加せず。

しかし、西原借款、シベリア出兵という問題で、この組織は必ずしも原の望んだような掣肘を政府の外交政策に加えることができず。

米騒動で寺内内閣が揺らぐと、田中義一参謀次長に接近、陸軍内の情報を得て、政権獲得を目指す。

1918年9月西園寺に組閣させようとする、山県の最後の策謀が失敗した後、遂に原に組閣の大命が下る。

この組閣準備において、原は山県および寺内に陸相だけでなく海相人事についても意見を聞いているが、そこで以下のような注目すべき記述が見られる。

元来、陸相の人選は、元老山県元帥を中心に、陸相や山県に準じる存在となった桂太郎大将が相談して行い、桂の死後は寺内が桂の代わりに人選に加わるようになった・・・・また海相は、山本権兵衛が海相を引退した後は、山本が中心となり薩摩海軍の有力者と相談して人選してきた。ところがシーメンス事件で海軍が大打撃を受け、山本権兵衛内閣まで倒れると、海相の人選に山県が口を出すようになった・・・・表に出ないこのような軍部大臣の人選の慣行の変化すら、原は把握したうえで、交渉した。そこに原の政治指導の凄みが出る。従来、軍事の専門家集団として陸軍・海軍が、統帥権独立を掲げて、それぞれ陸相・海相の人選権を分有していたものを、山県が侵した。おそらく原は、将来、首相がその権限を握ることにつながるチャンスととらえ、山県が海相の人選に介入するという新慣行に乗ることにしたのだろう。

結局、海相は加藤友三郎が留任、陸相は田中義一。

外相は内田康哉、内相床次(とこなみ)竹二郎、蔵相高橋是清、農商務相山本達雄、逓相野田卯太郎、文相中橋徳五郎。

陸・海軍相と外相以外はすべて政友会党員で、これが教科書で書かれている「本格的な政党内閣」である。

法相は一時平沼騏一郎の名が挙がっており、意外な感があるが、平沼は司法官僚出身だが山県系ではなく、最近の研究では、政友会と連携しながら司法界でその地位を向上させてきたとされるという。

平沼は政友会入党を求められることを恐れて辞退、法相は原が兼務。

外交も首相の原が大枠の方針を定めたので、外相も事実上兼務した形。

原内閣成立は第一次大戦の休戦直前である。

戦後の国際情勢変動に対応し、対中親善と対米協調を最重視。

当初加藤高明系として警戒していた幣原喜重郎外務次官が国際協調主義を信奉していることを知ると、幣原を駐米大使に起用。

田中陸相が山梨半造を次官に起用することに、原首相の内々の同意を求める。

統帥権に関わる陸軍の重要人事に文官首相が関与することになり、田中は政党内閣首班である原に恭順の姿勢を示したことになる。

パリ講和会議で、山東省旧ドイツ利権について、即時の中国への返還は拒否しながら、数年後のワシントン会議後での返還への道筋も付ける。

米国はラテン・アメリカやフィリピンでの自国の権益は譲らないまま、理想主義的なウィルソン主義外交を日本が大きな権益を持つ中国に適用しようとしていた面があり、この対応は列強の中で特に保守的なものとは言えないと評されている。

1919年の五・四運動をこれまでの国際秩序を一方的に否認する性質の動きとして否定的に見たが、中国の分裂を利用し国際協調を無視した一方的利権拡大を否定する原の外交路線が継続されていれば、日中双方にとって破滅的だった両国の全面対決は避けられたでしょう。

同年の三・一独立運動に際しては、朝鮮の地方自治を容認する構想を持つが、それも伊藤のように朝鮮人による責任内閣と植民地議会という考えからは後退している。

原ほどの人物にしても、日本と韓国の関係を、薩長と自身の郷里盛岡との関係と同類と捉え、隣国のナショナリズムに理解を持てなかったのは残念な事実ではある。

その三・一運動鎮圧の為の憲兵増派を、武官である朝鮮総督ではなく内閣が主導。

朝鮮総督、台湾総督を文官・武官いずれも就任できるように官制を改正、南満州の関東都督府は廃止され、文官の関東長官と武官の関東軍司令官に分離。

内政では、大学令を公布し高等教育機関を大幅拡充。

官立単科大学と公立大学設置の枠組みを定め、これまで大学の名を冠していても専門学校扱いだった早稲田大、慶応大など私学の大学昇格を積極的に認める。

産業振興と鉄道網整備を推進。

陸軍25個師団と海軍八・八艦隊の国防充実要求に対しては、陸海軍の顔も立てつつ、予算全体とのバランスにも配慮、大戦後軍縮ムードが巻き起こるのを見越して、計画を一年延期させるという円熟した政治手法を見せる。

1920年3月から始まる戦後不況に対しては、政府支出を削減して景気回復を待つという古典的な経済政策を抜け出すことができず、さすがの原も独自の指導力を発揮することはなかったが、高橋蔵相・山本農商相という有能な経済閣僚を使って経済安定化に尽力。

都市部での憲政会・国民党の普通選挙要求運動には、大衆の非合理的行動を警戒する漸進主義の立場から即時実現には強く反対、一方で運動の盛り上がりを利用して、革命的騒乱を恐れる山県と貴族院を圧伏、選挙権の財産資格を引き下げ、小選挙区制を導入。

1920年5月総選挙で政友会圧勝。

労働争議に対しては厳しい鎮圧方針を取りつつ、会社側にも労働条件の改善を促し、妥協的解決に成功。

これらの手腕に対しては政党内閣を否定し続けてきた山県も感嘆し、原内閣の存続を望むようになる。

衆議院での絶対多数を背景に、貴族院も政友会の影響下に置かれ、山県閥は枢密院にのみ「籠城」する感がある、と原が日記に記すような状況となる。

思想問題については強い危機感を持ち、森戸辰男が無政府主義者クロポトキンの思想を紹介した、いわゆる森戸事件に対して、原は、起訴やむなしとの強硬姿勢を示す。

これが批判されるようなことだとは、私には思えない。

「思想の自由競争」を無条件で許せば、社会が自動的に発展・調和に至る、という思い込みには、はっきり言って何の根拠も無い。

共産主義という、人類史上最大の被害をもたらした狂信に、過去どれほど多くの人々が惹きつけられたのかを考えれば、国家による一定の取締措置は必要悪だとしか言いようが無い。

それを非難する人は、(自分自身を含む)民衆の判断能力を過大評価し過ぎている。

現在の社会での、ヘイトスピーチやネット上の誹謗中傷の問題を考えても、言論・表現の自由を無条件に絶対視する意見には、何一つ賛成できる部分が無い。

上記のように、ロシア革命と米騒動を見て、政党政治よりも急進的革命を恐れるようになった山県は、原内閣を見直し、統帥権独立が徐々に侵食されることにすら大きな抵抗を示さないようになる。

シベリアからの段階的兵力削減を内閣主導で実施、参謀総長上原勇作は原首相と田中陸相に抗議し、山県も批判を示したが、結局屈服。

原自身が軍事問題に精通し、その公的キャリアの全時代において軍人との意思疎通を重視、また陸軍改革においては、世論の反軍閥的風潮に迎合して外部からの急進的改革を目指すことなく、田中義一という協力者を得て、あくまで内部からの穏健な改革を推進したことがこの成功の要因。

明治以来の、参謀本部が天皇に直属する仕組みは、政治的軍事的失策の累を皇室に及ぼす危険があるので、それを改め、内閣が国政全ての責任を負う必要があると、原は考えており、もしこのまま事態が推移すれば、山県亡き後、原内閣による軍の統制という慣行を原と田中で法制化することも困難ではなかっただっただろう、と書かれている。

大日本帝国を滅亡させる要因となり、今や中学校の教科書にも載っている「統帥権の独立」という(明治期はともかく、少なくともこの時期での)悪弊が、なし崩し的に消滅する可能性があったわけである。

そう思うと、切歯扼腕せずにはいられない。

1919年大正天皇の健康状態が極めて悪化、翌年から皇太子裕仁親王が代理として活動開始。

その後も原は律儀に大正天皇に上奏を続けたが、ある日大正天皇が机上のタバコ一握りを原に与え、原は「感泣の外」ない、と日記に書いた。

同年皇太子妃候補の久邇宮良子女王の色覚異常問題に関わる婚約辞退問題発生、婚約辞退を主張した山県が右翼勢力の批判を受け、窮地に陥る。

当初傍観した原だが、1921年山県が枢密院議長の辞任、官職・栄典の辞退を申し出て、その影響力が完全に没落しようとすると、陸軍内と国内の秩序混乱を恐れて、原はむしろ山県の権力を維持する方向で動き、辞表を却下させる。

この行動は山県に深い感銘を与え、長年仇敵の間柄だった山県すら、原への好感を示し、その支援者に近い存在となる。

1921年田中陸相が狭心症で倒れ辞任、6月山梨次官の陸相昇格にも首相の原が大きく関与し陸軍を掌握、ワシントン会議に全権として参加する為、加藤海相が渡米すると10月原首相は文官最初の海軍大臣臨時事務管理となり、海相の事務を代行。

同年皇太子訪欧を実現させ、帰国後の摂政就任を既定路線とする。

この時点で原は、衆議院の多数を支配し、貴族院・陸軍・宮中までをも掌握、混乱時の天皇の調停的政治関与を例外として、政党内閣が全政治責任を負う体制を確立しつつあった。

加藤高明指導下の憲政会に対する(二十一ヵ条要求等の対外硬的外交と普選運動に見られる急進的内政改革志向についての)不信感もあり、一先ず政友会一党優位制を築き上げることを目指したが、将来的には二大政党制も視野に入れていたと見られる。

自身の後継者について、まず高橋是清はその協調外交志向と優れた政策構想力は大いに評価していたが、参謀本部廃止構想などの急進的改革を目指し、それを不用意に漏らして、原が田中陸相に釈明する事態を招くなど、政治的配慮の無さを欠点と見ていた。

床次竹二郎内相や内田康哉外相は、原が政策の大枠を指示して両者が実行するような関係で、床次・内田は実質次官のような役割を果たしていたに過ぎず、彼らを後継者にすることは考えられず。

田中義一陸相、加藤友三郎海相も候補だが、彼らが政友会に入党するか、選挙対策などの党務を全く経験しないまま総裁を務められるかは未知数であり、山県から離れて協力している田中を原が心底信用していたかは不明。

結論を言えば、原には後継者として安心して跡を任せられる人材がいなかったのである。原のような用意周到な大物政治家であっても、後継者の育成はきわめて難しかった。比較のため、伊藤博文と山県有朋の例を見てみよう。

伊藤は何人かの後継者候補の中から、立憲政友会を創設する前ごろから、西園寺公望を後継者と決め、第四次伊藤内閣では西園寺を副総理格の班列大臣とした。その後、予定どおり総裁を西園寺に譲った・・・。しかし、実際に政友会の実権を掌握し、発展させたのは原敬であった。原の台頭を妨げることなく自然の趨勢に任せたことが、伊藤の見識であった。

山県は長州系エリート陸軍軍人を陸軍の中枢ポストにつけ、引き立てた。陸軍を中心とし、内務省・貴族院・枢密院・宮中にまで広がる山県系官僚閥の後継者としようとしたのである。しかし山県が政党に対し、かたくなな反感を持っていたので、政党が台頭するのを時勢と見た桂太郎・寺内正毅や田中義一ら後継者(候補者)たちは、ことごとく山県を裏切っていった。また普選運動や労働争議などが拡大する中で、山県自身が原に頼らざるを得なくなっていった・・・。

原は二人の大物藩閥政治家と後継者の関係を、政友会創設のころ以降は間近で見てきた。自分の後継者としてそれほどの人材はいないという事実に対して、育ってくるのを待つしかないと考え、誰にも後継者の話は切り出さなかったのであろう。

原はかたくなに授爵を辞退した。

華族が皇室の藩屏であるとの議論を陳腐と退け、四千余万の国民すべてが藩屏だと書いている。

しかし、藩閥・軍人への対抗の為か、政党人・財界人への授爵には尽力している。

1921年ワシントン会議に参加決定、加藤友三郎海相と幣原喜重郎駐米大使を全権に任命、日英同盟存続を至上命令とはせず、対米協調を最優先。

だが、原は同年11月4日東京駅で18歳の鉄道員中岡艮一(こんいち)により刺殺される。

政友会絡みの疑獄事件や外交問題での政権への憤慨や、9月に起こった右翼青年朝日平吾による安田財閥創始者安田善次郎暗殺に刺激されたことが動機という。

黒幕の存在も推理されるが、真相は不明。

原の死は、原が目標半ばで人生を終えるという、一人の明治人の死にとどまらない意味を持った。日本国家の行く末に、実に大きな影響を及ぼしたのである。

原の死によって、イギリス風の立憲君主制が、日本でさらに発展していく可能性が大きく削がれてしまった。原は政党出身の首相が衆議院(イギリスの庶民院)の支持を背景に陸・海軍や宮中までも統制し、責任を持って政治を主導する制度を形成した。原は、個人的な政治力をもって形成したこの制度を慣行とし、さらには憲法以外の法令を改正することで、日本に定着させていこうとしたのであろう。伊藤博文が遠い将来の目標とし、立憲国家創設期の様々な制約でなかなか実現できなかったものが、実現に向けて本格的に動き出したばかりであった。

また原の死によって、第一次世界大戦後の新状況に適応すべく、米国との協調を特に重視し、中国の統一を促進する新しい外交も、それを支える強い基盤を失った、それは、政友会が内部分裂し、弱体化したからであり、さらには第五代政友会総裁田中義一により、原外交の精神とは異なる外交路線が展開し、失敗するからである。

確かに、原外交の精神は、原が駐米大使に抜擢した幣原喜重郎により、一九二〇年代半ば以降、反対党の憲政会・民政党に受け継がれていく。しかし、幣原外相はすぐれた外交官であったが、彼には原ほどの政治家としての能力や基盤がなかったために、国際環境の変化をとらえて、あるべき外交路線を進めるため、国内政治を主導していくことができなかった。原の死は、一九二〇年代以降に、日米連携が中国問題や軍縮問題等を舞台にさらに強力に展開していく可能性をなくした。

また原は、いずれ政友会総裁を引退すれば、元老や内大臣の有力候補になったことは間違いない。一九二四年に元老松方正義が死去すると、西園寺公望が唯一の元老となる。元老は後継首相候補や内大臣・宮相など宮中の要人候補を天皇に推薦するという重要国務等を果たすだけでなく、この時期には、いずれ天皇になるはずの若い摂政皇太子裕仁親王に政治を指南する役割も加わった。

本書で見てきたように、西園寺が政友会総裁を辞任した後、西園寺が元老として宮中を、原が総裁・首相として党務と国政を行うという住み分けができ、二人の関係はきわめて親しくなった。高齢で唯一の元老となった西園寺は、自分が元老としての仕事を行えない場合を考えて、必ず原に元老か内大臣(あるいは両方)になるよう勧めるだろう。

原はきわめて責任感が強いので、受けることも間違いない。それは本書で見てきたように、余裕のあるうちに辞めようと一九二〇年秋に内閣総辞職を考えながら、皇太子妃選定問題の混乱、皇太子渡欧や摂政設置問題、ワシントン会議などが起こると、「疲れた」と漏らしながらも、一九二二年以降も当面は政権を担当する気持ちになったことからわかる。

もし原が元老か内大臣(あるいは元老兼内大臣)として、即位間もない若い昭和天皇を支えていたら、公平な調停者としての昭和天皇のイメージが陸海軍に浸透し、一九三一(昭和六)年九月に満州事変が起きても、陸軍を統制して、事変の拡大を阻止できた可能性がある・・・・。この意味でも、原の暗殺は、満州事変から日中全面戦争・太平洋戦争への道を変え得た、一つの可能性を摘み取った。

分別のない一青年の行動と、警備陣の一瞬の気の緩みが、近代日本の歩む道を大きく変えたともいえるだろう。

本書を読む限り、確かに原敬は、知的理解力・政策構想力・情勢分析力・判断力・決断力・交渉力・実行力全ての面でずば抜けた能力を示しており、伊藤博文に次ぐ、近代日本の大政治家である。

伊藤が、首相権限拡大および軍への統制強化を内容とする「1907年の憲法改革」(瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書)参照)に乗り出した途端に暗殺されたのも痛かったが、強大な政治力で陸海軍を統御し、文民統制と政党内閣制を確立しつつあった原の暗殺もそれに勝るとも劣らず、近代日本の運命を狂わせた痛恨事と思える。

原の死後、後継者となった高橋是清は国際協調主義を遵守したものの、原ほどの政治力は無く、その跡を継いだ田中義一は政友会の内外政策を大きく右傾化させ、さらに田中以後は矯激な世論にひたすら迎合し、昭和に入ってからの政友会は国益に反することばかりしている、と評されるほどの存在になってしまった。

原がその対外強硬的外交路線に深刻な懸念を持ち、政権担当能力無しと見なした加藤高明を総裁とする憲政会(とその後継である立憲民政党)は幣原外交を採用することで、原の時代とは驚くほど変化し、昭和に入ってからも相対的に妥当な政策路線を守り続けたが、指導者たる若槻礼次郎・浜口雄幸には加藤ほどの判断力と実行力が無く、経済政策では高橋積極財政を採用した政友会ほどの柔軟性も無く、緊縮財政にこだわり過ぎ、軍の暴走と国運の傾きを阻止できなかった。

(余談ですが、「21世紀に入ってからの自民党」って「昭和に入ってからの政友会」と似てるなあ、と思うことがよくあります。いや、今の自民党は新自由主義的政策で国民経済を疲弊させる一方なのだから、「高橋財政抜きの昭和政友会」とでも言うべきで、それ以下の存在です。私が選挙権を得てから、まだ20世紀だったうちは、自民党以外の政党に投票したこと無かったんですがねえ・・・・。)

もちろん、昭和戦前期の日本の破滅は、急激な民主化がもたらした左右の極論の蔓延の後、巻き起こった民意の暴走が主因であり、一人の有力政治家が存在しただけで止め得たものかどうかはわからない。

しかし、実際の歴史を読むと、どうしても「元老原敬が存在した、もう一つの昭和日本」を想像したくなる。

満州事変を封じ込め、日中全面戦争も日米開戦もなく、300万人以上の同胞が非業の死を遂げることもなかった昭和日本、である。

その場合、満州国は存在せず、中国が共産化することもあり得ず、国民政府の中国と日本は和解し、日米は不即不離の関係を続けたはずである。

韓国が植民地に留まり続けることは考えられず、再独立していたことは確実だが、台湾と赤道以北の南洋諸島は全面的な自治が認められた上で、日本と現在の英連邦諸国のような関係を結ぶ。

国内では、政党内閣制が完全に確立し、陸海軍の統帥権独立は形骸化し、時機が来れば明治憲法の該当部分の明文も改正されたかもしれない。

国家主権は依然天皇にあるとされ、皇室に関するタブーは厳然として存在するが、それが他者を圧迫する踏み絵として使われることは無い。

イギリス貴族のように、華族身分は相当部分形骸化しつつも存続し、上院は依然世襲議員と有識者の勅選議員から成る貴族院のまま存在。

衆議院の優位が定められるが、一方で貴族院が民意の暴走を抑止する役割を果たし、君主制・貴族制・民主制の三者が均衡を保ちつつ、政治が運営される。

もしかしたら、21世紀の我々は、そうした「大日本帝国」で暮らしていたかもしれない。

私は、それが今の日本よりも、余程良い国であると考えます。

 

 

 

極めて重厚で、信頼性の高い伝記。

内容は非常に濃い。

叙述が多岐にわたるので、明治中期から大正にかけての政治史全般について、非常に有益な知識と見解を得ることができる。

通読にやや骨は折れるが、その見返りは十分期待できる良書。

強く推薦します。

2017年10月2日

那須国男 『アフリカ全史』 (第三文明社)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 06:17

1995年刊。

これをあるところで目にして、なかなか期待できそうだと思い、手に取る。

だが中身を見ると、文字が大き目なのはいいが、その分単行本の厚味の割に文章量が少ないことに気付く。

さらに、先史時代はともかくとして、何と地質時代から話を始め、古代エジプトおよび北アフリカのイスラム史にもかなりのページを割き、(リヴィングストンとスタンリー以外の)アフリカ探検者も一章を使って紹介しているので、結局、通常アフリカの通史として想定する、ヨーロッパ進出前の前近代ブラック・アフリカの歴史は、「第五章 サハラ以南の古王国の様相」で扱われるだけである。

「全アフリカの歴史」としてなら、それでいいのかもしれないが、はっきり言って期待していたものと大きくズレている。

そのサハラ以南アフリカの歴史も、コンパクトな記述だが、内容を詰め込み過ぎているのか、ざあっと読むだけでは頭に全然入ってこない。

最後の一章では、当時の全アフリカ54ヵ国を、北部・西部・中部・東部・南部・インド洋に分けて、ごく簡略な情勢を一国ごとに記しているが、その形式はこうしたマイナー国家群(失礼)の知識を提供する上で良いとは思うし、内容も悪くはないものの、特筆すべき点も無い。

(それも本書刊行時から20年以上経った今となっては、当然不充分である。)

地図が、巻頭にある、現在の国家を描いたもの一つしか無いのも閉口する。

エジプト革命を1949年としたり(250ページ、270ページ)、アンゴラ、モザンビーク、キニア・ビサウ、カボ・ヴェルデ独立の契機になったポルトガル軍事クーデタを1973年としていたり(219ページ。別の所では正しく74年と書いている。)、不可解な年代の誤記もあった。

残念ながら、予想よりも完成度はかなり低い。

こういう知名度の無い本を、アフリカ史のようなマイナー分野の良書として推薦出来れば、少しは通っぽくてこのブログの主旨にも合うなあと思ってたんですが、そうは問屋が卸しませんでした。

あまりお薦め出来ません。

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