万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年9月15日

エーリッヒ・フロム 『自由からの逃走』 (東京創元社)

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ウィリアム・コーンハウザーの言う「民主主義的大衆批判」の代表格。

書名自体は極めて有名。

 

 

第一章。

近代ヨーロッパは外的権威を排除し、自由を拡大し、政治的デモクラシー、経済的自由主義、宗教的自律、生活上の個人主義を達成してきた。

だが、20世紀においてファシズムを支持した民衆は、その自由を熱狂的に捨て去り、煽動的支配者に自発的に服従した。

これを、邪悪な少数者の悪魔的策謀のためとするのは無意味であり、民衆の心理学的分析に真因が求められなければならない。

その分析においては、全てを個人の心理的状況に還元することも、社会現象の説明から心理学的要素を全く排除することも、共に排されるべきであり、個人と社会の相互作用が重視されるべき。

 

 

第二章。

子供が親から自立していく場合と同じように、近代化の進展において、社会から個人が自立していく過程で、自我と自由を獲得すると同時に孤独と不安の感情が諸個人の間に広まる。

様々な共同体との「第一次的絆」が個性化によって失われた後、個人が安定した人格を確立する為には、「・・・・からの自由」という消極的自由から「・・・・への自由」という積極的自由へと移行し、他者との愛情と連帯、建設的仕事という能動的行為に飛躍する必要がある。

だが、それを成し遂げられなかった人間は、孤独と不安に耐えかね、自由自体を放棄し、権威主義的支配者に狂信的に服従するようになってしまう。

 

 

第三章。

中世の対照的評価について。

個人的自由が欠如し、固定的階級に縛られ、物質的進歩は乏しかったものの、各人が明確で固定した地位を保ち、安定感と帰属意識が与えられ、過度の経済競争を規制することで一定の生活は保障され、神という絶対者の前での平等が説かれていた。

中世末期からルネサンスにかけて、それが変化し、教会を中心とする伝統的権威の束縛から脱した近代的個人が出現する。

経済活動の活発化によって、ごくわずかの資産家が勃興し、従来の門閥貴族と結合して新たな上流階層を形成、自由を得た彼らはルネサンス文化の華を咲かせる。

だが、権威の衰退と自由の拡大、自己中心主義と物質主義が広まり、同時に孤独と不安も蔓延するようになった社会で、その成果を享受し得た階層はあくまでごく少数だった。

都市中産階級と農民は、経済活動の自由化によって物質的に困窮し、教会の精神的支柱が失われたことで心理的不安定にも陥っていた。

本書ではルネサンスと宗教改革の精神を区別し、前者は近代初頭において優位な地位を享受し得た上流階層のものだったのに対し、逆に後者を経済的不安定に投げ込まれ、精神的にも孤独、不安、動揺、無力感に苛まれるようになった中産階級の反応の産物だとしている。

共同体と階層性の枠組みの中においては、一定の自由を認めていた中世社会の構造と対応するように、精神的にもカトリック教会は、神の恩寵の働きという大前提を認める限りにおいて、個人の善行と自由意志の重要性も認めていた。

それに対し、ルターは人間の根源的な悪と無力を強調し、自己を放棄し、神の恩寵にひたすらすがることによってのみ、救いは得られると述べる。

これが、伝統的信仰が衰退した後、心理的空白が生じていた、当時の中産階級の不安と懐疑に満ちた精神を(無意識的に)満たすものであったがゆえに、ルターの教義は熱狂的に迎えられた。

ルターがドイツ農民戦争に示した敵意も、上流階層に対しては嫉視と反逆の意識を持っていた中産階級が、下層階級の革命運動へは強い脅威を感じていたことの反映だ、と著者は解釈する。

伝統的権威を憎みつつ、心理的空白を満たすため、新たな権威に服従しようとするルターの傾向は、教皇制度に対する反逆と対照的な世俗的権力への服従の姿勢にも表れている。

(本章のこの辺の筆致は、プロテスタンティズムをはっきりとファシズムの先駆と見なすような評価が見られる。だが、正直よりファシズムに近いのは、農民戦争の最急進派のような下層階級の過激派ではないのか、との感想も持った。)

ルターがドイツにおいて果たしたのと同じ役割を、アングロ・サクソン諸国で果たしたのがカルヴァン。

カルヴァンも同様に自我の否定と人間的プライドの破壊を徹底的に唱える。

その象徴が、有名な予定説。

誰が永遠に救われ、誰が地獄の業火で永遠に苦しむのかは、神が一方的に決定することで、人間の意志や行動が影響することは一切ないという思想。

建前上全ての人々の救済可能性を掲げたカトリック教会に対し、カルヴィニズムは人間の根本的不平等を説く。

世俗的成功が救われる「徴」であるとする考えから(主観的教義においては決して「原因」ではない)、勤勉・節約の生活態度が生まれ、それが資本主義の発達につながったという、マックス・ウェーバーの説は高校世界史でも出てきます。

本章におけるプロテスタンティズムは、近代の自由の幕開けに際し、物質的かつ精神的な、両面の不安定に襲われるようになった中産階級が、真の連帯と協力を成し遂げることが出来ずに、無意識のレベルで自己と自由の放棄と新たな権威への服従を求めて生み出したもの、という叙述であり、決して肯定的に評価されてはいない。

 

 

第四章。

近代的自由の進展で、外的権威から解放された個人が、その自由を積極的に活用する術を知らず、いかなる信念も持てず、言論・思想の自由の下で、匿名世論などの新たな外的権威に屈するようになった。

自分自身の人格も「商品」と同じように、他者の人気と評価に全面的に依存するようになる(そしてその他者評価自体が歴史的伝統に支えられるでもない、ほんの一時の気分程度の存在に過ぎない)。

カトリック教会から人々の魂を解放した、プロテスタンティズムの精神的個人主義は(その表面上の現世的利己主義否定にも関わらず)、資本主義社会の経済的個人主義が広まる為の心理的準備を提供した。

過当競争と資本主義の独占化傾向によって、諸個人の孤独と無力感は強まり、方向性を失った大衆は、全体主義国家における指導者への服従か、民主主義国家における画一的商業大衆文化への没入か、のどちらかへと転落する。

 

 

第五章。

消極的自由によって、前近代的な絆と権威から解き放たれた個人が、積極的自由に向かうことが出来ず、不安と孤独に耐えかね、自我と自由を放棄し、新たな権威と支配者への盲従に逃避するメカニズムを、著者は三つの面から分析。

まず、「権威主義的性格」。

孤独を解消し、自己と他者を無理やり「共棲」させる為に、劣等感と自己卑下を徹底し、新たな強者と権威者に心理的に一体化し、服従するマゾヒズム的傾向と、逆に自己より下位にある弱者を支配・虐待し、苦しめることを通じて一体性を確立しようとするサディズム的傾向。

このサド・マゾ的傾向を合わせて、著者は権威主義的性格と名付けている。

「権威者への服従」と言っても、それは確固たる自我と独自の信念に支えられているものではないので、一時服従した権威が弱さを見せるようになると、逆にそれを攻撃し、また新たな権威に忠誠を誓うようになる。

次に、「破壊性」。

これはサディズム的傾向と混同されやすいが、サディズムがあくまで被支配者の存在(とそれへの恒常的虐待)を前提とするのに対し、破壊性は他者と外界そのものの抹殺を目指す傾向。

最後に、「機械的画一性」。

外界の文化的鋳型に自己を嵌め込み、その典型的パーソナリティを受け入れ、外界との矛盾を消滅させるもの。

これによって、個人は自動人形に近いものとなり、他者からの暗示と煽動で与えられたものを、自分自身の意志・思考・行動であると、誤認したまま、何の疑問も持たなくなる。

 

 

第六章。

ナチス・ドイツにおける自由放棄の実態分析。

ナチズムは、経済的社会運動の分析だけでも、心理学的分析だけでも、理解することが出来ず、その両者を総合することによってのみ、真実が得られると著者は主張。

ナチズム支持の中核となった下層中産階級が、元々優位な立場にある資本家とユンカーの上層階級と組合組織に守られた労働者階級の間に挟まれ、君主制崩壊によって心理的安定をもたらしていた精神的権威を失い、大戦後の経済的社会的混乱の中で、最も不満と不安感を募らせ、宗教改革時代の中産階級と同じ立場にあったことを指摘。

 

 

第七章。

自由民主主義諸国においても、権威主義的性格、機械的画一性など、「自由からの逃走」が見られることを自省する必要性を述べる。

まとめとして、以下の文章を引用。

われわれの願望――そして同じくわれわれの思想や感情――が、どこまでわれわれ自身のものではなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。

近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食になっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。

この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感じる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっている。そこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを、考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで、自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している。

このような事態を克服する為、著者は、真に対等な諸個人間の愛情と連帯と建設的仕事による積極的自由と、理性だけでなく感情も含めた全的統一的パーソナリティの発現、そしてその基盤となる民主主義的社会主義の体制が必要だと説いて、本書を終えている。

 

 

なお、続いて「付録」の章があり、そこでは本書の説明原理であるフロムの社会心理学が、フロイトの心理学的接近、マルクスの経済学的接近、ウェーバーの観念論的(イデオロギー的)接近の総合であることが述べられている。

 

 

終わりです。

この記事は、あまり巧くまとめられなかったかもしれない。

もう少し引用したい文章もあったんですが、面倒なんで止めました。

全体的内容は・・・・・それほど面白くない。

「積極的自由」の実現、と言われても、私を含め、圧倒的多数の人間にそれを成就する能力があるとは到底思えない。

本書に限らず、「民主主義的大衆批判」は、議論が空転している感が否めない。

大衆にかんする私の精神主義的な定義はいわゆる保守的懐疑主義の影響を明らかにうけている。つまりそれは、今なお西欧においてその残響を微かながら耳にすることのできるような、E・バークA・ド・トックヴィル流の考え方に想を発している。しかし、財産や教養の量によって選良と大衆を区分するのではないという意味で、私のはW・コーンハウザーいうところの“貴族主義的”な大衆論とは異なっている。財産や教養はすでに大衆の取得するところとなったのであり、したがって懐疑されるべきはそれらの質であると思われる。また、いうまでもないことかもしれぬが、私の定義はコーンハウザーのいう“民主主義的”な大衆論から遠く離れている。ナチズムやスターリニズムの全体主義にたいして民主主義(デモクラシー)を擁護するE・レーデラーS・ノイマンは、民主主義のありうべき頽廃(デモクラティズム)にたいする警戒が少なすぎる。さらに、この種の大衆論のひとつの系であるM・ホルクハイマーやE・フロムの考えは、自由からの逃走および権威への服従を批判するという点については首肯できても、自由を積極的に発動する人間の資質についてまで、したがって自由によってもたらされうる混乱や抑圧についてまで深くは論及していない。逆にいえば、大衆にたいする民主主義的(および自由主義的)な批判者たちは、権威に依拠して大衆を操作する政治階級として選良を定義するのであるが、そうした操作じたいが大衆の自由で民主的な要求に根差しているという可能性、もっといえば政治権力がすでに大衆によって簒奪されているという可能性について考慮を払っていない。

西部邁『大衆への反逆』より)

人類が向かうべきだったのは、「積極的自由」の実現ではなく、「第一次的絆」の回復だったのではないか。

もちろん前近代への全面的な立ち返りなど、完全に不可能であるし、望ましくもないでしょうが、たとえその残像であってもそれを追い求め、意図的に保存し、失われたものを哀悼するという姿勢こそが必要と思われる。

 

本書を読んだ後、現在の日本を顧みると、いろいろ思うところがあります。

現政権のやることなすこと全てを肯定し、その指導者を崇拝せんばかりに礼賛し、皇室すらその下位に置くような態度を平然と示し、ネットを中心に資本によって巧妙に制御されたメディアの煽動に完全に乗せられたまま、ごくわずかの富裕層だけを利して自身がその恩恵に与る見込みなど全く無いようなネオリベ的政策を熱狂的に支持し、その隠れ蓑に過ぎない醜悪な排外的ナショナリズムを狂ったように喚き立て、反対者を全て「左翼」「反日」などと空疎なレッテルを貼って誹謗中傷と罵詈雑言の対象とし、社会的弱者やマイノリティーにも同様の暴言を浴びせ、それがもたらす卑しいサディスト的快楽を唯一の報酬として自己満悦に耽る、暴民に等しいゴミクズ以下のネット右翼を見ていると、本書における「権威主義的性格」と名付けたくなる気持ちも分かります。

もう10年以上前から、衆愚層が自身の醜行を正当化する為に使うお題目が、左翼教条主義から幼児的な排外的ナショナリズムに変わっているのに、それに対して一切警戒も批判も示さないような「保守勢力」と「右派文化人」を私は心の底から軽蔑するようになりました。

20年前なら、間違いなく馬鹿左翼の戯言を口にしていたであろう、知能程度が異常に低い上に、誹謗中傷と罵詈雑言で他者を傷つけ、虐げ、差別したいという卑劣極まりない欲望を自制することが出来ず、その醜い欲望自体が目的であることを隠蔽する為に(かつては左翼の、現在は右翼の)政治的言説を偉そうに述べ立てる、劣悪な精神的(すなわち言葉の真の意味での)賤民が、白痴に等しい能無しの分際で、政治的事象など実際には何一つわかりもしないくせに、本来享受する資格も無い言論の自由を徹頭徹尾悪用し、呆れるほど単純・低劣な「右派的」政治スローガンを喚き立てている。

私にとって、現在のネット右翼(ネット保守)とかつての左翼は、イデオロギーを裏返しただけで、その愚昧・劣等・卑怯・醜悪な害虫ぶりは完全に同じものです。

「左翼批判」を大衆煽動の最大の梃子にしているネット保守自体が、左翼と同様の衆愚集団(「自分には批評性があると思い込んでいる軽信者」)に過ぎない。

引用文(内田樹7)

 

 

同じ流儀の口実や同じ態様の害悪を二つの時代が持つことは滅多にありません。人間の邪悪さはもう少し発明の才に長けていて、人が流儀を論じ合っている間にもその流儀は過ぎ去ってしまいます。まさに同一の悪徳が新しい姿を装うのです。悪徳の精は生れ変り、外見の変化によってその生命の原動力を喪失するどころか、新しい器官を得て、新たに青年の行動の如き新鮮な活力を恢復するのです。人が死体を晒し者にし、墓を発いている間にも、それは大手を振って歩み、破壊を続けるのです。家が盗賊どもの棲家になっているというのに、人は幽霊やお化けを勝手に恐がっています。

歴史の貝殻や外皮にだけ目を奪われながら、しかも自分は非寛容や高慢や残酷さと戦っているのだ、と思っている人間は皆このようなものです。彼らはその一方で、時代遅れな徒党の悪しき原理に対する憎悪という彩の下に、同じ唾棄すべき悪徳を別の―しかも恐らくはより一層悪い―徒党の中に是認し涵養していることになるのです。

引用文(バーク1)より)

 

 

左翼に属することは、右翼に属するのと同様、人が愚かになるために選択しうる無限にある方法の一つである。

つまり、両者はあきらかに、精神的半身不随の形態である。その上、こうした呼び方を固執していることが、それ自体すでに偽りである今日の実状を、なおいっそうゆがめるのに少なからず貢献している。というのは、今日、右翼の連中が革命を約束し、左翼の連中が専制に傾斜しているという事実が示しているように、政治的体験は曲芸的な宙返りを演じているからである。

・・・・・

全面的な政治運動、つまりすべての物事や、すべての人びとを政治の内に吸収してしまうことは、この本で述べている大衆の反逆という現象とまったく同じことである。

もっか反逆している大衆は、宗教心や認識力をまったく喪失してしまった。大衆が自己の内面に持つことができるのは、ただ政治だけである。つまり、知識や宗教や知恵――要するに、その実質から人間の精神の中心を占めることのできる唯一のものにとって変わろうとするあの途方もない、熱狂的で、我を忘れた政治だけなのである。

政治は人を孤独と親密さから解放する。それゆえ、全面的な政治運動の布教は、人を社会化するのに用いられる一つの技巧である。

誰かが、われわれに政治上の立場を尋ねたり、また、今日横行しているあの図々しさを持って先手を打ち、われわれの立場を規定するようなことがあれば、われわれは答える代わりに、その無礼者に対し、彼が人間や自然や歴史といったものをどのように考えているのか、社会や個人集団や、国家や慣習や法とは何であるかと逆に質問すべきである。

今や政治は、あらゆる人間を黒一色に塗りつぶすために、急いで光を消そうとしている。

・・・・・

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?

前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。

それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。

だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

オルテガ『大衆の反逆』より)

 

現下の醜い右派的ポピュリズムを阻止する為に、私はかつて自分が毛嫌いしていた、左派・リベラル的な人々とも協力しなければいけない、とこの数年切実に感じています。

しかし、「権威主義的性格」の右派が登場してくる前には、「本物の権威」の破壊があったはずです。

一切の階層的身分を認めず、個人主義と平等主義を徹底し、自由で自立した原子的個人だけが社会に存在すべきであり、その個人はいかなる伝統や常識に囚われることなく、完全な言論の自由を享受して、何の制限も無く自己の意見を形成し、表明すべき、との考えの下、戦後数十年間左翼的偏向が続いた後、世紀が変わるあたりで、時流の変化に迎合し、多数派の大衆が右派的ポピュリズムに没入することになり、今の状況があるわけです。

そして、左派の人々が自らの正当性の根源と考えているらしい、戦前日本の破滅も、その「非民主性」がもたらしたものではなく、全く逆に、現在眼前に見ているような極右的煽動に乗せられた暴民世論の支配によるものです。

さらに、戦後数十年にわたって、左翼勢力はまさに現在のネット右翼のように驕慢至極の振る舞いをしていたことも断固として指摘し、現在のリベラル派の人々に釘を刺しておきます。

「第一次的絆」の破壊を良しとしてきた左派・進歩派の人たちにも、少しは反省してもらいたいです。

 

近い将来、日本が滅びるとすれば、おそらく反天皇制を掲げる人種主義的・排外主義的極右ナショナリズムの蔓延によるものでしょう(あるいはそれを匿名の影に隠れて秘かに煽動しつつ、その後救世主づらで登場し全てを支配することを目論む新自由主義者と腐敗を極める富裕層)。

その兆候は十年以上前から、すでにはっきりと現れています。

一部の皇族方を白々しく持ち上げる一方で、それを免罪符にしたつもりで、皇太子御夫妻と愛子内親王におぞましい限りの誹謗中傷を延々と浴びせかける、強烈な悪臭を放つ醜い害虫どもがそれです。

(バッシングの対象を入れ替えただけの奴等や、すでに皇室全体を攻撃対象にしているゴキブリ以下のネトウヨも同様。)

そんな奴らの真の「欲望」が何なのかは明白です。

私には、ネット右翼に迎合する現代日本の保守派が、ナチと連携したワイマール・ドイツの保守帝政派と二重写しに見えます。

しかし、もうそこまで来たら、邪悪な存在と共に国全体が滅びるのが唯一の救いかもしれません。

 

 

極めて有名な古典ですから、一読しておくのは悪くない。

書名自体は学生時代から知ってましたから、読了して、長年の宿題をやっとやり終えた気分になりました。

20世紀大衆社会論の代表作であることは間違いないので、読んで損は無いでしょう。

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