万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年9月8日

ジョン・バイロン ロバート・パック 『龍のかぎ爪 康生  上・下』 (岩波現代文庫)

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中華人民共和国、中国共産党の公安・秘密警察関係を牛耳った最高幹部康生の伝記。

1898年山東省膠州湾近くの地主の家に生まれる。

五・四運動に影響され、急進的ナショナリズム思想を抱き、のち江青と改名して毛沢東夫人となる李雲鶴と知り合う。

上海大学に通い、1925年共産党加入。

同年、五・三〇事件に参加。

続いて、北伐軍に呼応した暴動を成功させるが、1927年上海クーデタに遭う。

以後、上海で国民党と血で血を洗う暗殺テロの応酬を繰り広げる。

共産党指導者は、陳独秀が解任された後、瞿秋白、向忠発、李立三とめまぐるしく替わり、1931年王明が事実上のトップとなる。

モスクワ留学組で親ソ派。

康生は巧みに主流派に乗り、共産党秘密警察の実力者に。

1933~37年王明と共にモスクワ滞在。

瑞金には行かず。

大粛清の最盛期に邪魔者となる中国人同志などを密告して生き残る。

1937年延安に帰国するや、毛沢東に乗り換え、王明派を徹底攻撃。

毛と江青の結婚を擁護。

1942年整風運動発動。

これはどう考えても粛清と言うしかない、ヒステリーじみた迫害であって、他の共産国と違う牧歌的な思想改良運動と言うことはできない(私が若い頃はまだそんな解釈がまかり通っていました)。

権力の座を完全に固めた毛の側近となるが、日中終戦から国共内戦の時期には、ややその権勢は後退。

一時公安関係から離れ、内戦勝利前の土地改革に従事。

地主階層に対する最も残酷で強硬な措置を命令。

上巻末尾の書誌に、ある共産党活動家夫妻の話が載っている。

日本軍に二人の姉を陵辱された夫が、国民党に妻を殺され、しかも地主出身の両親に自身の双子を預けていたが、激烈な土地改革闘争の中で、その子を共産軍が井戸に投げ入れて殺したのを知り、共産主義にも絶望する、という悲痛極まりない事実が記されている。

建国後は数年間表舞台から退き、実権を失うが、部分的自由化措置「百花斉放」に続く弾圧である「反右派闘争」の過程で復活。

破滅的な結果をもたらした「大躍進」政策も支持。

中ソ対立では徹底した対ソ強硬派として振舞う。

同様の立場を鄧小平も取っていたが、このことは改革開放期になると隠されることになる。

「大躍進」政策による経済破綻を受けた、調整政策の主導者は、劉少奇、周恩来、鄧小平、彭真だが、対ソ方針については、前二者と後二者の間には溝があったようだ。

60年代前半、文化大革命前夜にも康生はイデオロギー闘争とそれに伴う迫害を引き起こそうと、毛の意に迎合しそれを煽る。

その被害者の一人として、現最高指導者習近平の父習仲勲の名が挙がっている。

文革を江青、林彪と共に指導。

汪東興、謝富治らを使い、公安部門を再度掌中に置く。

70年頃、毛と林の間の齟齬を見てとるや、穏健派唯一の支柱となっていた周恩来と協力し、71年林は失脚、逃亡中事故死。

しかし、この頃から康生は癌に冒されはじめる。

その後の周と江青ら四人組との権力闘争で、最晩年に判断が不安定になっていた毛が一時的に周支持に傾くと、驚くべきことに康生は、江青の過去の国民党スパイ疑惑を再び取り上げ、この盟友を裏切ろうとしていたという。

一方、現実主義実務派で、73年復活し、周の片腕となっていた鄧小平への批判・攻撃も準備する。

同73年には康生自身副主席となり、形式的序列では毛・周に次ぐ第三位になるが、病が進行し、75年12月死去。

周の死、(第一次)天安門事件、鄧再失脚、毛死去、四人組逮捕、と建国以来最大の激動に見舞われた1976年を迎えることなく死んだ。

もう少し康生が寿命を保っていたら、どうなっていたか?

これほどの悪行を為した人間が、それにふさわしい裁きと断罪を受けなかったのは残念であるが、後に鄧小平体制下で党総書記となった胡耀邦は、康生が生きていれば四人組は逮捕できなかったのではないか、と述べていたという。

さらに恐ろしい可能性として、康生自身が最高指導者の地位に就く可能性すらあったという見方もある。

周が毛より長生きして最高位に就き、四人組・康生を一網打尽にするのがベストだっただろうが、そうはならなかった。

だが著者の推測では、もし76年に生きていれば康生は四人組を打倒する側に加わっただろうと言う。

その場合、現実には汪東興が果たした役割を康生が果たすだけになる。

ほぼ唯一失脚しなかった将軍で軍長老の葉剣英が中心となり、華国鋒(毛死去直前に指名された後継者)と汪東興ら文革右派(もしくは非上海グループ)と協力して、文革左派(上海グループ)の四人組を打倒した。

77年復活した鄧小平が、翌78年には完全に実権を華国鋒から奪い、改革開放路線を確立。

その過程で汪は失脚したものの、極端に厳しい断罪は免れた。

康生も恐らくそうなっていただろう、というのが著者の見方である。

 

 

原著は1992年刊と割と古い(第二次天安門事件は起こった後ではあるが)。

これ以外、まあ日本語で読める伝記は無いでしょう。

中国共産党の権力闘争のあらましをわかりやすく知ることはできる。

ただ、気軽な読み物といった感じで、あまり学術的に思えない印象もある。

余裕があれば一読して下さい。

損はしないと思います。

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