万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年7月10日

西村貞二 『リッター  (人と思想126)』 (清水書院)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 04:46

ゲルハルト・リッターが戦前戦後を通じて活動し、伝統的政治史を叙述した歴史家であることは、林健太郎氏の著作で知っていた。

あと、ホイジンガ『朝の影のなかに』では、ファシズムに反対するにも関わらず、国家の道義的自立を説いている、とやや批判的に引用されていることによっても。

生没年は1888~1967年。

フライブルク大学に奉職。

ワイマール共和政を「最小限度の悪」として消極的に許容。

シュタイン伝、ルター伝、フリードリヒ大王伝、『権力のデモニー』などを著わし、ひそかなナチ批判を込める。

「第三帝国は道徳的価値の伝統的な組織を失効させたばかりではない。善悪を区別するドイツ人の能力をも鈍磨させた。この行為者には絶対的なものにたいする責任意識がない」

カール・ゲルデラーや告白教会など抵抗グループと関係。

1944年11月逮捕され強制収容所へ。

釈放後、フライブルク大学に戻り、ナチに協力した教授たちを可能な限りとりなす。

最も有名なのはハイデッガー。

ヤスパース宛ての手紙で

「ハイデッガーは強い性格ではない。かれは絶対的に正しいというわけではない。とはいえ、けっして卑劣な密告者ではない。1934年1月30日以来はナチスのはげしい敵対者だった。かれを1933年に不吉な誤ちにみちびいたヒトラーにたいする信頼をまったく失った」

とある。

戦後、ゲルデラー伝、『国政術と戦争技術』を刊行。

アデナウアーとCDUを支持。

途中で記されている著者の西村氏による以下の文章に深く共感。

わたくしの独断と偏見かもしれないが、現代の歴史学者は物語的歴史を見くだす風がある。だが歴史の原初形態は物語的歴史なのである。時には素朴、時には荒唐無稽だが、それにもかかわらず、ヘロドトスから今日までつづいている。歴史には科学性がなければならない。が、物語性を追放したことが結果的に歴史を面白くなくしてしまったのではないか。

リッターは、マキャベリ的権力主義とモア的道義主義の双方の均衡をよしとする。

ボダン、ボシュエのようなフランスの絶対王政擁護者も、神の法による王権の拘束を説いていた。

その均衡を崩したのがフランス革命である。

人間の善性への軽信と伝統的束縛の排除が、結果として無制限の権力拡張たるジャコバン独裁とナポレオン戦争を生む。

フリードリヒ大王とヒトラーの関係も同じ。

フリードリヒ大王の「プロイセン軍国主義」は、実は、冷静な国家理性による政治指導、制限された手段と限定された目標に基づく戦争、完全な国家破壊に至る「無条件降伏」によらない外交交渉による戦争終結をその規範としていた。

戦争は常に政治の意のままになる道具に過ぎず、「総力戦」による敵の殲滅などは目指さない。

ビスマルクもフリードリヒ大王と同じ。

そうした「総力戦」と「国民戦争」が生まれたのはフランス革命以後。

技術の発達と民主化の進展が、戦争の大規模化と徹底化、国家権力の極大化、全体主義化をもたらす。

第一次大戦のドイツ帝国の戦争目的について、その世界制覇を志向する野心を強調する新説をめぐるフィッシャー論争に参加し、フィッシャーに反対する論陣を張る。

その後、リッターとマイネッケの関係を記した章が続くが、正直内容が複雑でよくわからない。

マイネッケの理念史とリッターの政治史はともに、戦後大いに盛んとなったアナール派の構造史・社会史と大きく異なる。

リッターは、主流に抗して物語史・事件史をあえて重視。

アメリカの歴史家が、「客観性」を拒否し民主主義的理想を支持する立場から、歴史を生に直接奉仕させようとする傾向も、リッターは批判。

社会史・経済史の重要性ははっきり認めながら、政治史を「表面的歴史」として排除することには反対した。

 

 

そこそこ面白い。

私が歴史に対してぼんやりと持っている考えとも近いので、共感する所が多い。

興味のある方はどうぞ。

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