万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年7月28日

チャールズ・キンドルバーガー 『経済大国興亡史  1500-1990 上・下』 (岩波書店)

Filed under: 近現代概説 — 万年初心者 @ 02:00

この記事で触れたが、著名な経済学者としてキンドルバーガーの名前は以前から知っていた。

『大不況下の世界』は現在も未読だが、本書を読んだ。

これもかなり以前から気にはなっていた本ではある。

原著は1996年刊、翻訳は2002年刊。

最初に、「国家のライフ・サイクル」「覇権理論」「中心・周辺理論」等々の妥当性・有効性について検討。

それほど難しい話でもないが、まあこんな考え方があるのか、くらいで軽く流せばよい。

その後、(ヴェネツィアを中心にフィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノを含む)イタリア都市国家、ポルトガル、スペイン、(ブリュージュ、アントウェルペン、およびアムステルダムを中心とするオランダを含む)ネーデルラント、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、と近世以降の世界で興隆し、経済的首位に向かった大国の経済を描写していく。

なお、以前記事で書いた近世ヨーロッパの政治・経済の主要国興亡見取り図は、必ず頭に即浮かぶようにしておくこと。

優位を占めた国は、15世紀以前がイタリア、16世紀が(ポルトガルと)スペイン、17世紀がオランダ(後半は、経済的には疑問が残るものの、フランス)、18世紀および19世紀がイギリス、20世紀がアメリカ。

で、各国の全盛期を過ぎても、その国が瞬く間に衰退したのではないことはイメージしておく。

例えば、本書ではオランダの完全な没落は、17世紀後半の三度の英蘭戦争とルイ14世のオランダ戦争ではなく、1780~84年の「第四次英蘭戦争」(高校世界史の範囲外なのでぴんとこないが、これは年代からいってアメリカ独立戦争に伴う戦いか?)およびフランス革命戦争での占領後とされている。

フランス、ドイツ、日本は経済的首位に到達したことはなく、フランスは(一度切りの)長期的な興隆と衰退を経たのではなく、政治的変動と指導層の新旧交代によって何回かの盛衰を繰り返した「永遠の挑戦者」の地位にある、とされている。

国家の衰亡においては、その経済が貿易・工業から金融を中心とするものに変質し、産業構造が硬直化し、所得分配が歪められ貧富の差が拡大し、不道徳な誇示的消費と貧困が同時に広まる、というのが典型的パターン。

著者は、同時代のアメリカもその弊に陥っているとしているが、その後のアメリカは自身の悪しき金融資本主義を開き直って全世界に拡大し、表面上の経済的地位回復を果たしたが、それがリーマン・ショック以後の危機をもたらしたのは周知の通り。

本書では、日本はバブルが弾けたとは言え、依然強力な経済大国で、アメリカを継いで経済首位国となる可能性を持つ存在とされており(ただし著者はそれに懐疑的ではある)、中国をはじめとする新興国の台頭については、基本ほとんど触れられていない。

刊行年代を考えれば当然ですが、何か懐かしさを感じる記述ではありました。

「系列」(これも懐かしい言葉だ)や独特の商慣行という非関税障壁を中心とする閉鎖性や「日本異質論」に基づく対日批判が溢れていた時期ですね。

実際、それらの批判は理不尽・不公平なことが多く、不愉快なことが多かったし、そして我々自身も今振り返ってみれば、少々傲慢なところがあったことは間違いないでしょう。

そう考えれば、バブル景気のような時期が続かなかったことを嘆く一方なのも、おかしいかと感じます。

 

 

思ったよりも相当読みやすかった。

期待していたほどの重厚な内容では無かったが、とっつきやすい。

難解な概念も、理解しがたい数式も、やたら細かい統計数字も、ほぼ出てこない。

一般的な叙述という形式を守っている。

経済史は苦手分野もいいところだが、こういう本なら読める。

普通にお薦めできる良書です。

広告

2017年7月23日

アーネスト・ヘミングウェイ 『武器よさらば 上・下』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:15

『老人と海』に追加して、ヘミングウェイを打ち止めにするために、これを読む。

第一次世界大戦のイタリア戦線が舞台。

イタリア軍に志願して負傷兵移送任務に従事するアメリカ人とイギリス人看護婦の悲恋を描く。

雰囲気的にハッピーエンドではないなと思ってはいたが、こういうラストになるとは予想外だった。

厭戦的なメッセージはよくわかる。

また、ヘミングウェイの簡潔な文体が日本語でも感じ取れる翻訳だった。

だが、特に面白いわけでもなく、まあ普通です。

 

あと、強いてこの記事で言わなければならないことでもないんですが、以前から思っていたことを書きます。

本来なら30冊で読む世界文学の記事で述べておくべきことなのですが、忘れていました。

私を含め、初心者がこの手の古典文学を読む際、「偉大な文学作品では、何気ない描写にも、実は深遠な意味が込められているはずだ」と気負って、一字一句にこだわりながら読むというのは、絶対止めた方がいいです。

間違いなく挫折して、多くの本を途中で放り出すことになると思います。

文学に中心的な関心を置いて、なおかつ読書力のある方はもちろんそうしたらいいと思いますが、文学初心者はむしろ意識し過ぎず、主人公と主要登場人物と大まかな粗筋を確認できればいい、くらいに気軽に構えて、どんどん読み進んだ方がいいでしょう。

熟読・遅読の価値は間違いなくあるでしょうが、やはり数をこなすのも大事。

読んだ本の数が自信になるし、次の本への読書意欲もかき立ててくれる。

完全に飛ばして読むのはお勧めしませんが、心に引っかからない日常情景描写はざっと目に流す感じで軽く読めばいいと思います。

読了した作品が増えてくれば、「コレクター感情」が湧いてきて、雪ダルマ式に読書量を増やすことも可能になってきます(鹿島茂『成功する読書日記』)。

古典と言っても、あまり気負わず、気軽に読んで行きましょう。

2017年7月15日

プラトン 『ゴルギアス』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:52

「弁論術について」という副題あり。

初期・中期・後期に分かれるプラトンの著作のうち、初期の比較的おそい時期に書かれたとみられる。

史上有名なソフィストであるゴルギアス、その弟子ポロス、政治家のカリクレス、ゴルギアスとソクラテスの共通の知人カレイポンが登場し、そのうち前三者がソクラテスと問答を繰り広げる。

以下、議論の概略。

 

 

 

ソクラテス:(ゴルギアスに対して)貴方は何者ですか。

ゴルギアス:自分は弁論家であり、他人にも弁論術を教えて弁論家にすることができる。

ソクラテス:弁論術とは何についての技術なのか。

ゴルギアス:言論についての技術だ。

ソクラテス:その言論は何についての言論か。例えば健康に関する言論なら、それを医術と呼ぶべきだし、身体の状態の良し悪しについてなら体育術となる、その他もろもろの技術も言論に関係がある。

ゴルギアス:それら手仕事の類を含まない、すべて言論を通じてなされる技術が弁論術だ。

ソクラテス:絵画術や彫刻術は言論をほとんど含まないものだが、数論や幾何学、計算術などは言論によってほぼ全てを成し遂げている、しかし貴方はそれら数論などを弁論術とは言いませんね。

ゴルギアス:その通り。貴方は正しい理解をしてくれている。

ソクラテス:では言論のみによって成り立つ技術のうち、数論は数字を対象とする技術であり、天文学は天体を対象とする技術ですが、弁論術は何を対象とするものなのですか。

ゴルギアス:人間に関わるもので、最も重要で最も善いものだ。

ソクラテス:その最も善いものについてはいろいろ意見があって、健康や美しい身体、財産などを挙げる人がいる、すると医者や体育教師や実業家が、自分たちこそ「最も善いもの」を作り出すのだと名乗り出るのではないですか。

ゴルギアス:私の言う「最も善いもの」は自分自身に自由をもたらし、自分の国において他人を支配することができるようになるもの、つまり言論によって人びとを説得できる能力だ。

ソクラテス:しかし弁論術だけが説得を作り出すとは言えないはず、例えば数論家は数について我々に教える際、説得もするのではないですか、貴方の言う説得はどのような性質のものなのですか。

ゴルギアス:法廷や集会における、正や不正についての説得だ。

ソクラテス:「学んでしまっている」ことと「信じ込んでいる」は別のものであり、知識は常に真であるが、信念には真実のものと虚偽のものがあることを認めますか。

ゴルギアス:認める。

ソクラテス:学んでしまっているものも、信じ込んでいるものも、説得されている点では同じであり、説得には知識をもたらす説得と、信念だけをもたらす説得があるのではないですか。

ゴルギアス:それでいいだろう。

ソクラテス:弁論術が作り出すのは、どちらの説得ですか。

ゴルギアス:「信じ込む」方の説得だろうね。

(ここでゴルギアスが、弁論術は知識をもたらす方の説得も作り出せる、と強弁しないのが意外だが、そのすぐ後でソクラテスが、あれだけ多くの人びとに極めて重要な事柄を短時間のうちに教えることは不可能ですからね、と付け加えているのに、ゴルギアスは同意しており、さすがにそうは言えなかった模様。)

ソクラテス:国家が、医療整備、造船、城壁建築、軍事行動などを行う際にはそれぞれの専門家を呼んで意見を述べさせるが、弁論家は何を提案することができるのか。

ゴルギアス:それらの具体的事業を真に推進したのは、医師や船大工や職人たちではなく、それを提案した弁論家たちだ、それこそが弁論術の力だ。その気になりさえすれば、どんな専門家たちよりも大衆を効果的に説得することが出来る。それほどの力を持つゆえに、格闘術と同じように、弁論術もそれを悪用する人間がいる、だがそうであってもそのことで弁論術を教えたものが責任を問われるようなことがあってはならない、弁論術の教師はそれを正しく用いることを前提にして教えたのだから。

 

ソクラテス  あなたにも、ゴルギアス、数多くの討論の経験がおありだろうし、そしてそれらの際には、次のような事実を、充分に見てこられただろうと思うのです。すなわち、話し合いをする人たちは、どんなことについて話し合おうとしているのであれ、そのことについて、互いに教えたり教えられたりしながら、双方の納得のゆくまでその事柄をはっきりさせて、そうしてから、その対談を終りにするということは、なかなか容易にはできないことなのです。いな、もし両者が何らかの点で意見を異にし、その一方が、他方の言うことの正当さを認めなかったり、あるいは、その言い方は明瞭でないと言ったりすれば、そう言われたほうは、腹を立ててしまい、それは自分と張り合うために言われたことであって、その議論で問題になっている事柄は少しも探究しようとはせずに、ただ議論に勝ちたいばかりにそう言っているのだと、こう考えるものなのです。そしてなかには、結局は、とても見苦しい別れ方をする者だってあるわけです。つまり、その場に居合わせた人たちでさえも、どうしてこんな連中の話を聞こうと考えていたのかと、自分自身のためにやりきれない気持になるようなことを、彼らは互いに言ったり言われたりしながら、悪態のかぎりをつくしたのちに、別れるというわけなのです。

・・・・・わたしが恐れるのは、あなたを反駁することで、わたしがその事柄そのものを目ざして、それが明白になることを狙っているのではなく、あなたという人を目標にして、議論に勝ちたいばかりにそう言っているのだと、こうあなたが受けとられるのではないかということなのです。だから、わたしとしては、もしあなたという方も、このわたしと同じような人間の一人であるのなら、よろこんで、あなたに最後まで質問をつづけさせてもらいますが、そうでなければ、これでやめることにしたいと思うのです。

ところで、そういうわたしとは、どんな人間であるかといえば、もしわたしの言っていることに何か間違いでもあれば、こころよく反駁を受けるし、他方また、人の言っていることに何か本当でない点があれば、よろこんで反駁するような、とはいっても反駁を受けることが、反駁することに比べて、少しも不愉快にはならないような、そういう人間なのです。なぜなら、反駁を受けることのほうが、より大きな善であるとわたしは考えているからです。それは、自分自身が最大の害悪から解放されるほうが、他の人をそれから解放するよりも、より善いことであるのとちょうど同じ程度に、そうだからです。・・・・・

2400年前のギリシアにおいて既に、言論の自由をめぐるジレンマは存在していたことが痛感される。

発言者がこういう心構えを持っている場合にのみ、言論の自由は意味のあるものとなる。

言うまでもなく、言論の自由は尊重すべきものではあるが、それはあくまで、真理に到達するための「手段」としての尊さである。

内心の真摯さという前提を課さず、ルールやマナーも無しに、言論の自由を自己目的化すれば、現在の日本のネット世論におけるように、最も粗暴で幼稚で野卑で低俗で悪意に満ちた群集心理が多数派を僭称し、社会と国家を奈落に落とすことになるのが当然です(引用文 西部邁11 内田樹7)。

 

ソクラテス:あなたに弁論術を学んだものは、大衆という一般に物事を知らない人たちの前では、例えば医師という専門家よりも説得力があるのですね。

ゴルギアス:その通りだ。

ソクラテス:すると弁論術は、事柄そのものについては何も知る必要がなく、物事を知らない人の前で知っているように「見える」説得の工夫をすればいいだけということですね。

ゴルギアス:それなら弁論術は大変便利なものということになるのではないのかね。

ソクラテス:では弁論術は、正・不正、美・醜、善・悪については、健康や他の技術と同じように扱うのでしょうか。貴方に就いて弁論術を習ったものは、それらについても学ぶことになるのでしょうか。

ゴルギアス:学ぶことになる。

ソクラテス:では弁論の心得のある者は、大工のことを学んだ者が大工になり、医学のことを学んだ者が医者になるように、正しいことを学んだのだから正しい人になるわけですね。

ゴルギアス:そうなるようだね。

ソクラテス:だが先ほど、弁論術を不正に用いた者があったとしてもその教師の責任は問われるべきではないと言われたが、それと弁論家が正しいことを学んだ以上、常に正しい人であるはずだ、との想定と矛盾することになりますね。

ここで、弟子のポロスが怒り出す。

ポロス:ゴルギアスさんは正・善・美について知らない人が自分のところに来た場合には自分が教えてやるだろうと、きまりが悪いから言っただけなのに、ソクラテスはそのことをつかまえて、話の中に矛盾を見つけてしてやったりと喜んでいる、非常に失礼だ。

ソクラテス:では君が議論の相手をしてくれ給え、質問したければ君からどうぞ。

ポロス:では貴方は弁論術は何だと主張するのか。

ソクラテス:弁論術は真の技術ではなく、「迎合」という働きを持つ経験に過ぎない。人間の魂と身体について、魂に関する技術を政治術と呼び、それは立法術と司法術に分かれ、身体に関する技術(これには統一的名称は無い)は医術と体育術に分かれる。体育術は立法術に相当し、医術は司法術に相当する。この善を目指す四つの技術に対し、無知な人びとに迎合し欺く、醜いまがい物が存在する。医術には料理法が、体育術には化粧法が、立法術にはソフィストの術が、司法には弁論術が、存在する。弁論術は政治術の一部門の影のようなものだ。

ポロス:では弁論家は迎合する下らないものだと言うのですか、国で一番力のある者ではないのですか。弁論家は独裁者がするように、誰でも死刑にしたり、財産を没収したり、国外追放したりしている。

ソクラテス:弁論家や独裁者は最も微力な者だ。彼らは、自分たちに一番よいと思われることをしているが、真に望んでいることをしていない。薬を飲んで苦い思いをすることは、健康になることを真に望んでいるのであって、苦い思いをすることそのものが望みではない、現にしていることではなく、その目的こそが真に望んでいることだ。「現にしていること」を思い通り行う力を持ったところで、善の追求という「真に望んでいること」に合致しないことはいくらでもあり得る。

ポロス:あなたときたら、そうした権力を持つことが少しも羨ましくないようですね。

ソクラテス:不正な仕方で人を死刑にする者は不幸な人間であり、正当な理由にもとづいて人を死刑にする者も別に羨むに足りない。不正を行う者よりも、不正を受ける方がまだしも不幸は少ない、不正を行いしかも罰を受けないのは最大の不幸だ。

ポロスはそれに反論して、当時伯父と従兄弟と異母弟を殺害して王位に就いていたマケドニア王アルケラオスを例に挙げる。

ポロス  むろんあなたは、ペルディッカスの子の、ほら、あのアルケラオスが、マケドニアを支配しているのを、見ておられるでしょう。

ソクラテス  さあね、見てはいないにしても、とにかく、話には聞いているよ。

ポロス  それなら、あなたにはどう思われますか、あの人は幸福でしょうか、それとも不幸でしょうか。

ソクラテス  それはわからないよ、ポロス。だって、あの人とはまだつき合ったことがないのだから。

ポロス  なんですって?つき合ってみたなら、わかるだろうが、そのほかの仕方では、あの人が幸福であることは、即座にはわからないのですか。

ソクラテス  わからないね、ゼウスに誓ってもいい。

ポロス  それではもちろん、(ペルシアの)大王が幸福であることもわからないと言われるのでしょうね、ソクラテス。

ソクラテス  そうなんだ。それでしかも、僕の言うことに間違いはないはずだよ。というのは、教養と正義の徳の点で、彼がどのような状態にあるかを、ぼくは知らないのだから。

ポロス  え?なんですって?幸福の全体は、そのことにかかっているのですか?

ソクラテス  そう、ぼくに言わせるなら、そういうことになるね、ポロス。なぜかといえば、立派な善き人が、男でも女でも、幸福であるし、反対に、不正で邪悪な者は不幸である、というのがぼくの主張だからね。

ソクラテス:(不正な仕方で王位に就いたものの、今もその地位を守っているマケドニア王を誰も不幸とは思わない、と言うポロスに対し)どれほど多くの同意者を並べられても、論証の力で自分が納得されなければ自分の意見は変えられない、同様に君一人を自分に同意させられなければ何一つ自分は成し遂げられないことになると考えている。もし不正に独裁者になろうとして、成功し栄華を誇っている者と失敗し死刑になった者とでは、両者とも不幸だが、前者の不幸がより大きい。

ソクラテス  ・・・・・君のその態度は、何かね? ポロス。君は笑っているのか?それがまたもう一つの、反駁の方法だというわけかね、人が何かを言い出せば、反駁はしないで、あざ笑うというのがだよ。

ソクラテス:君は不正を与えるより、不正を受ける方がより悪い(害になる)と言うが、より醜いのはどちらかね。

ポロス:不正を行う方です。

ソクラテス:身体や声の美しさというのは有益さや快的なものにおいて秀でているということであり、醜いということは逆の苦痛と害悪によって定義され、それは身体や声だけでなく、法律や風俗習慣においても同様のはずだ。

ポロス:ええ。

ソクラテス:ではそれを前提にすると、不正を行う人が不正を受ける人よりもっと苦痛を感じているということはあり得ない、しかしより醜いのは、君も認めたように前者の方なのだから、つまり不正を行う人の害悪が苦痛の小ささの程度を補えない程上回るということだ。害悪の大きい方を選ぶのは自ら不幸になることに等しい。

続いて不正とその裁きについて。

ソクラテス:正しいことはそれが正しいことである限り美しいことである。そして行為については、それを「する」人と「される」人がいる。例えば激しく、速く殴る人に相応して、激しく、速く殴られる人がいる、すなわち、「する」方の性質に従ったことを「される」方は受けることになる。同様に裁きをする人は正義に従ってそれを行うのだから、それによって懲らしめられる人は正しいことを「される」ことになる、先に見たように正しいことは美しく、そして美しさは快さと有益さのどちらかによって定義され、裁かれることは快いことではないはずだから、つまり不正を懲らしめられることはその本人にとって有益さの面で大きく秀でているということになる。裁きを避けようとするのは、治療の表面的一時的苦痛を思って医者にかかるのを恐れる患者のようなものだ、それによって魂の劣悪さという最大の悪から解放される機会を逸しているのだから。

ここでカリクレスが話に割って入る。

カリクレス:ポロスは先ほどのゴルギアスと同じ罠にはまって、世間体から「不正を行う方が、不正を受けることより醜い」ということを認めてしまったので、ソクラテスに言いくるめられただけだ、自然本来においては弱肉強食がその掟であり、強者が全てを支配し押し通すのが当然なのだ、法律習慣は多数の弱者が自らの利益を慮って作り出したものに過ぎない。ソクラテス、私は貴方に好意を持っているから言うのだが、いい歳をして哲学に没入するようなことは止め給え、さもなければいつか悪意ある敵に貴方は告発され、裁判に引き出され、無力のうちに破滅するかもしれないぞ。

ここでのカリクレスは余りに露骨な「強者の正義」を説いている。

ソクラテス:君のように知識と好意と率直さを兼ね備えた友人を説得することが出来れば真理の究極に達したと言えるだろう。では聞くが、「より強い」と「より優れている」は同じことなのか。

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:では自然本来においては一人よりも多数者の方が強いのだから、多数者の作った法律習慣も尊重すべき優れたものではないのかね。

カリクレス:(呆れつつ)自分の言う「強者」は体力以外何の取り柄の無い連中の集まりではない、思慮があり、立派で優れた人のことだ。

ソクラテス:では機織りについて思慮のある者が一番大きな着物を持つべきであり、履物について思慮のある靴屋が誰より大きな履物を持つべきであり、卓越した立派な農夫が多くの種子を取るべきなんだろうね。

カリクレス:(怒り出す)私が言っているのは国家公共の事柄について思慮があり勇気がある人のことだ。

ソクラテス:その人たちは「自分自身を支配する者」なのだろうか?

カリクレス:真の強者は「自分自身に打ち克つ」と称する節制家なのではない。

カリクレス  いや、ソクラテスよ、真実には――その真実を、あなたは追求していると称しているのだが――こうなのだ。つまり、贅沢と、放埓と、自由とが、背後の力さえしっかりしておれば、それこそが人間の徳(卓越性)であり、また幸福なのだ。しかしそれ以外の、あなた方の言うようなあれらのものは、上べを飾るだけの綺麗事であり、自然に反した人間の約束事であって、愚にもつかぬもの、何の価値もないものなのだ。

ソクラテス:人が心に思っていても口には出さないことを、君のようにはっきり述べるのは結構だ。しかし、貪欲な人間とは、魂の中で欲望が宿っている部分が孔の開いた甕になっている、その中にある貴重なものを失うことを恐れて常に苦痛に苛まれているという話もあるのではないか。

カリクレス:いや、自分はそんな例え話で説得されることはない。

ソクラテス:では、君が言う欲望を満たす快的な生活とは、渇いている時に飲む、というようなことだね?そして快と善は同じものだと主張するのだね?

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:健康と病気、強さや弱さ、幸福と不幸、善と悪といったものは、一方に近付けば、他方から離れる、という性質があり、もし我々が同時にそれから離れ同時にそれを持つような性質のものを見つけ出したとすれば、それは善と悪ではありえない、ということに同意するかね。

カリクレス:同意する。

ソクラテス:「渇いている」ことは苦しいものであり、「飲むこと」は快いものだね。

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:すると「渇いている」時に「飲む」ことは、苦痛を感じているのと同時に快楽を感じていることであり、そしてその行為が成し遂げられた途端に、苦痛も快楽も同時に消えてしまう、するとそうした性質を持つ快楽と苦痛は、善と悪ではあり得ない。また別の仕方でも調べてみよう。思慮と勇気のある人も無思慮で臆病な人も、愉快や苦痛を感じる点では同様だが、例えば戦場において敵が退却して行った時には、双方とも愉快がるのかね。

カリクレス:そうだ。

ソクラテス:敵が攻めてきた時は、どちらの人間が苦痛なのかね。

カリクレス:臆病な連中の方が苦痛に感じるだろう。

ソクラテス:その敵が退却した時には、臆病な連中の方が一層愉快がるのではないか。

カリクレス:多分。

ソクラテス:すると快が善であるならば、無思慮で臆病な人が(敵が退却した際には)思慮と勇気を持つ人よりも善い人間であることになるし、(敵が攻めてきた場合を考慮しても)少なくとも同程度には善い人間ということになってしまう。

カリクレス:貴方は、私がある種の快楽は善だが、他の種の快楽は悪であることを考えていないと思っているのか?

ソクラテス:それを認めてくれるのは結構なことだ。快と善は別のものであり、善を目的として、その為になる種の快だけを選ぶべきだ。それは料理や詩などの営みだけでなく、政治においても変わりない。思えば、テミストクレス、ミルティアデス、キモン、そしてペリクレスといったアテネで大政治家と呼ばれた人びとも、結局民衆の欲求に迎合するだけで、彼らの魂を善きものにするという真の仕事は為し得なかった。アリステイデスだけがその例外だった。様々な専門職の人についてはその技術が吟味されるのに、政治においては物質的な国富や表面的な国威のみが問題にされ、市民を善き人間にするという真の目標は忘れられている。何か不調が起これば、民衆は自らに忠告する人びとにその責を負わせて迫害し、真の責任者たる迎合的指導者を依然褒めそやすだろう。自分も法廷に引き出されるかもしれないが、自ら不正を行わなかったことに誇りを持ち、堂々と死後の裁きを受けるつもりだ。

 

 

 

最高に面白い。

内容的にも主著『国家』に繋がる重要性を持っており、その準備として必読。

訳文はそれほど新しいものではないはずだが、非常に分かりやすい。

強くお薦めしておきます。

2017年7月10日

西村貞二 『リッター  (人と思想126)』 (清水書院)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 04:46

ゲルハルト・リッターが戦前戦後を通じて活動し、伝統的政治史を叙述した歴史家であることは、林健太郎氏の著作で知っていた。

あと、ホイジンガ『朝の影のなかに』では、ファシズムに反対するにも関わらず、国家の道義的自立を説いている、とやや批判的に引用されていることによっても。

生没年は1888~1967年。

フライブルク大学に奉職。

ワイマール共和政を「最小限度の悪」として消極的に許容。

シュタイン伝、ルター伝、フリードリヒ大王伝、『権力のデモニー』などを著わし、ひそかなナチ批判を込める。

「第三帝国は道徳的価値の伝統的な組織を失効させたばかりではない。善悪を区別するドイツ人の能力をも鈍磨させた。この行為者には絶対的なものにたいする責任意識がない」

カール・ゲルデラーや告白教会など抵抗グループと関係。

1944年11月逮捕され強制収容所へ。

釈放後、フライブルク大学に戻り、ナチに協力した教授たちを可能な限りとりなす。

最も有名なのはハイデッガー。

ヤスパース宛ての手紙で

「ハイデッガーは強い性格ではない。かれは絶対的に正しいというわけではない。とはいえ、けっして卑劣な密告者ではない。1934年1月30日以来はナチスのはげしい敵対者だった。かれを1933年に不吉な誤ちにみちびいたヒトラーにたいする信頼をまったく失った」

とある。

戦後、ゲルデラー伝、『国政術と戦争技術』を刊行。

アデナウアーとCDUを支持。

途中で記されている著者の西村氏による以下の文章に深く共感。

わたくしの独断と偏見かもしれないが、現代の歴史学者は物語的歴史を見くだす風がある。だが歴史の原初形態は物語的歴史なのである。時には素朴、時には荒唐無稽だが、それにもかかわらず、ヘロドトスから今日までつづいている。歴史には科学性がなければならない。が、物語性を追放したことが結果的に歴史を面白くなくしてしまったのではないか。

リッターは、マキャベリ的権力主義とモア的道義主義の双方の均衡をよしとする。

ボダン、ボシュエのようなフランスの絶対王政擁護者も、神の法による王権の拘束を説いていた。

その均衡を崩したのがフランス革命である。

人間の善性への軽信と伝統的束縛の排除が、結果として無制限の権力拡張たるジャコバン独裁とナポレオン戦争を生む。

フリードリヒ大王とヒトラーの関係も同じ。

フリードリヒ大王の「プロイセン軍国主義」は、実は、冷静な国家理性による政治指導、制限された手段と限定された目標に基づく戦争、完全な国家破壊に至る「無条件降伏」によらない外交交渉による戦争終結をその規範としていた。

戦争は常に政治の意のままになる道具に過ぎず、「総力戦」による敵の殲滅などは目指さない。

ビスマルクもフリードリヒ大王と同じ。

そうした「総力戦」と「国民戦争」が生まれたのはフランス革命以後。

技術の発達と民主化の進展が、戦争の大規模化と徹底化、国家権力の極大化、全体主義化をもたらす。

第一次大戦のドイツ帝国の戦争目的について、その世界制覇を志向する野心を強調する新説をめぐるフィッシャー論争に参加し、フィッシャーに反対する論陣を張る。

その後、リッターとマイネッケの関係を記した章が続くが、正直内容が複雑でよくわからない。

マイネッケの理念史とリッターの政治史はともに、戦後大いに盛んとなったアナール派の構造史・社会史と大きく異なる。

リッターは、主流に抗して物語史・事件史をあえて重視。

アメリカの歴史家が、「客観性」を拒否し民主主義的理想を支持する立場から、歴史を生に直接奉仕させようとする傾向も、リッターは批判。

社会史・経済史の重要性ははっきり認めながら、政治史を「表面的歴史」として排除することには反対した。

 

 

そこそこ面白い。

私が歴史に対してぼんやりと持っている考えとも近いので、共感する所が多い。

興味のある方はどうぞ。

2017年7月6日

カフカ 『審判』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:21

有能な銀行員ヨーゼフ・Kが、ある日全く理由もわからずに逮捕され、不可解で不明瞭な訴訟手順に巻き込まれるという話。

ナチスのような全体主義国家の到来を予言したかのような作品として有名。

だが、読んだ限りでは、本書の描写は全体主義国家と言うには、(最後を除いて)やや曖昧である。

少なくとも表面上は平凡な社会生活が続いており、主人公も投獄されるでもなく仕事を続ける。

だが突如強いられた訴訟手続きは、被告にはルールが全く不明であり、少しでも自身の有利を図ろうと、あれこれ非公式的な伝手に頼ろうとするが、弁護士を含めそれらの人間すべてが、主人公を告発した裁判所の手先にすら思えてくる。

この訴訟の主体である、悪の主体は匿名の闇に紛れて、全く正体を掴まれないまま、物語は終わる。

これはわかりやすい全体主義社会ではなく、現在の先進国のような「自由社会」での「世論の専制」を描いた作品なのではないか、と感じた。

 

 

そんなに長くはないし、初心者でも読めないことはない。

だが、さして面白いわけでもないし、何かをすっきりとした形で感得させてくれる本でもない。

まあ私の鈍い感性ではそれが限界です。

カフカも、もうこれでいいでしょう。

一番有名な『変身』が短編なんで、長編作品からこれを選んだが、残りの『城』『アメリカ』などを読む余裕は無い。

私独自の仮想「世界文学全集」で、カフカの巻の収録作品はこれでおしまいです。

2017年7月2日

モンテスキュー 『法の精神』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:46

これも全訳だと長い。

岩波文庫全3巻だが、読めないこともないかもしれない。

そんな気がする。

しかし無理をせず、この抄訳版に取り組んでみる。

「世界の名著」シリーズのモンテスキューの巻に収録されていたもので、原著の三分の一程度を訳出したもの。

うん、これは普通に読める。

三権分立論を説いた古典として、中学校教科書にすら載っている。

まず、全ての政治体制を三つに分類する。

そう言われると、ほとんどの現代人は、君主制、貴族制、民主制と挙げるはずである。

しかし、モンテスキューの分類は違う。

君主制、共和制、専制となる。

大概の人は「何か変だなあ、君主制と専制って似たようなもんじゃないの?」と思うかもしれない。

しかし、モンテスキューによると、前二者が穏和で正常な政治体制であるのに対し、専制は異常で劣悪な体制である。

共和制の中で、人民の一部が主権を持つものが貴族制で、人民全体に主権があるものが民主制。

君主制は一人による統治とは言うものの、法と慣習に則り、貴族や教会をはじめとする様々な中間団体に制約されたもの。

それに対し、専制は独裁的支配者による恣意的支配で、統治者以外は全て奴隷的存在であり、しかもその支配の緩みが即統治者自身の破滅に直結する、不安定かつ抑圧的な体制。

それぞれの体制は、共和制が「徳」、君主制が「名誉」、専制が「恐怖」という発条的精神を持つ。

同じ正常な体制でも、共和制は小規模で質朴な風習を持つ国にしか適合しないので、著者はフランスを含む君主制国家が専制に陥ることなく、抑制と均衡に基づいた国政を敷くことを願っている。

面白い。

同じ政治思想の古典でも、社会契約説の著作より、今読むとはるかに興味深い。

実質的に得るところが多い。

この抄訳でも読んでおけば、かなり有益。

普通にお薦めできます。

WordPress.com で無料サイトやブログを作成.