万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年6月22日

飯田洋介 『ビスマルク  ドイツ帝国を築いた政治外交術』 (中公新書)

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「国民的英雄」と「ナチズムの先駆者」という両極端の評価を退け、等身大の実像を描き出そうとした伝記。

2015年刊。

ベルリンより100キロほど西のシェーンハウゼンで、1815年ナポレオンの百日天下の最中に生まれる。

ユンカー出身。

ウィーン体制下で、プロイセンはラインラントを獲得、ドイツ連邦が設立される。

ビスマルクは酒と喧嘩に明け暮れる破天荒な大学生活を経て官吏になるが、離職、ユンカーの農場経営に入る。

結婚を期に信仰を深め、1847年プロイセン議員となり政界進出。

ゲルラッハ兄弟ら強硬保守派に接近。

翌48年ドイツ三月革命勃発。

その際成立した自由主義内閣を一時容認するかのような発言もするが、総体的にはもちろん反革命の闘士として活動。

19世紀ナショナリズム・自由主義への反抗を、議会・新聞・協会という近代的手段で繰り広げる。

生涯を通じて外的環境の変動を受けて、伝統的保守的価値を革新的手段で擁護しようとした。

フランクフルト国民議会へも敵意を示す。

19世紀ドイツ史においては、君主・貴族など国家の保守的な上層部が民族統一運動に消極的・警戒的だったのに対し、民衆の中の進歩的自由主義的勢力がそれを熱狂的に追い求めたことはしっかりと頭に入れておく。

もちろん後者が勝利を占め、その結果20世紀に破滅的事態がもたらされた。

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は国民議会から提供されたドイツ帝冠を拒否。

ドイツ統一よりもプロイセンの利益を最優先。

ビスマルクは、さらに、国王側近らの「連合」政策=上からの小ドイツ的統一政策にも反対する。

ドイツのもう一つの大国オーストリアの反発で、1850年オルミュッツ協約が結ばれ、「連合」政策も失敗。

ビスマルクはオルミュッツ協約を肯定、オーストリアとの協調を重視した。

しかし、これは正統主義イデオロギーからのものではなく、国益の観点からの主張であるとされている。

1851年から、ビスマルクはドイツ連邦議会のプロイセン代表となる。

ここでその生涯で極めて重要な転機が訪れる。

反オーストリア的姿勢への転換である。

結果、それまで近かった強硬保守派との軋轢が生じる。

ウィーン会議で設立されたドイツ連邦は国際的な君主同盟に近いもので、連邦統一国家とは言えない。

「ドイツ同盟」という訳語を当てる場合も近年はある。

普墺両国の事実上の拒否権があり、他国からの侵略への防衛体制としては機能しており、これが可能な限り続いた方がドイツとヨーロッパにとって良かったんでは・・・・・と思える。

民衆的ナショナリズムの要求に国家上層部が押し流されるようにして達成されたドイツ統一がもたらした動乱を考えると・・・・・。

だがメッテルニヒ失脚後、オーストリア宰相となったシュヴァルツェンベルクは、小ドイツ統一政策への反発からか、プロイセンを露骨に「ジュニア・パートナー」として扱い、プロイセン朝野の反感を買う。

クリミア戦争でオーストリアがドイツ連邦を動員して対露宣戦を目論むが、プロイセンの反対で挫折。

ビスマルクももちろん反対したが、これを彼の功績に帰するのは過大評価だとされている。

ナポレオン3世と接し、1858年王弟ヴィルヘルム(のち1世)が摂政になると、59年駐露公使に任命。

同年イタリア統一戦争でもオーストリアを支援することに反対。

1861年ヴィルヘルム1世が即位。

ビスマルクはドイツ・ナショナリズムへの接近とその利用を主張。

軍制改革で自由主義政党であるドイツ進歩党の反抗で政治危機発生。

62年ビスマルクがプロイセン首相に就任。

有名な「鉄血演説」は全体的には自由主義勢力への妥協を求めるものだったが、この部分だけが失言として取り上げられたもので、言わば失敗の記録。

ドイツ関税同盟で経済的優位を占める普に対し、ドイツ連邦改革で対抗しようとする墺。

1863年ポーランド反乱でビスマルクは露に配慮し協力、これには内外ともに反対が多く、墺の威信が回復する。

また、社会主義者ラサールと接近、普通選挙ではあるが、納税額別の三級選挙制度を完全な平等直接選挙に改めることを検討するが、これは中間層市民の自由主義に対し、保守的農民を取り込むのが目的。

外交面ではドイツ連邦強化を目論む墺に対し、より統一色の濃い主張で対抗、ドイツ・ナショナリズムを味方につけようとする。

ビスマルクが陥った内外の苦境を対外危機が救う。

1864年シュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐるデンマーク戦争、66年普墺戦争。

プロイセンの大勝利で、進歩党から国民自由党が、保守党から自由保守党(のちの帝国党)が分離し、両党ともビスマルクの与党となる。

当時オランダと同君連合関係にあり、ドイツ連邦に加入していたルクセンブルクを代償にフランスにドイツ統一を認めさせようとするが、ドイツ世論の反発で失敗、フランスにはかえって遺恨を残す。

北ドイツにおけるプロイセンの覇権確立が当初の目的だったが、ナショナリズムの利用で完全なドイツ統一事業を推進せざるを得なくなった。

ナショナリズムを統御できず、かえって自身の政策・行動が規定されてしまった。

その結果起こった普仏戦争は、近年「独仏戦争」と呼ぶ方が適切とされている。

攻守同盟によって南ドイツ諸邦も参戦しているので。

後世に禍根を残したアルザス・ロレーヌ併合は、ビスマルク自身は反対しておらず、フランスの感情を和らげるよりも復讐への備えをした方がよいとの判断をしたからだとされている。

「大プロイセン」を目指したビスマルクの政策が「小ドイツ」の統一に帰結した。

・・・・・ドイツ史における画期的な転換点である1871年のドイツ帝国創建は、ビスマルク自身の根幹ともいえる伝統的なプロイセン主義というこれまで受け継がれ培ってきた要素と、それとは相反するドイツ・ナショナリズムという全く新しい要素が奇妙な形で融合した産物であったといえよう。ビスマルクからすれば後者によって前者を擁護・発展させたことになるのかもしれないが、恐らくは後者によって前者が(彼自身を含め)変質を余儀なくされたというのがより実態に近いのかもしれない。

ドイツ帝国議会は男子普通選挙で選出(各邦議会では三級選挙などが存在)。

当時としては先進的。

英国に比して、独仏の方が民主的制度を保持していた、だからこそ独仏は「失敗」したんだ、という見方については『レ・ミゼラブル』の記事参照。

保守党・帝国党・国民自由党が与党。

帝国宰相(首相ではない)が組織する政府は、よく知られているように責任内閣制ではない(個人的にはこのことを強調するのはバランスに欠けているように思えるが)。

統一達成後、国内に敵を作り出す「負の統合」手法が採られる。

70年代にはカトリック敵視の文化闘争。

しかしヴィントホルスト率いる中央党は、70年代後半には議席の約四分の一を占めるまでに成長。

続いて1878年社会主義者鎮圧法。

これも失敗。

社会主義労働者党は着実に勢力拡大。

1879年は内外政策の転換点、保護関税導入と国民自由党との連携解消。

替わって中央党と協力、両党の勢力関係が入れ替わる。

社会政策も推進したが、社会主義勢力減殺という目的通りの政治的効果は得られず。

外交では、フランスの孤立化を最重視し、ドイツ自身は「充足国家」として平和外交を推進。

1873年、三帝協定締結(軍事的約束ではなく友好協力関係宣言に過ぎないので、高校世界史で用いられる「三帝同盟」の語は当たらないとされている)。

この独墺露の協力がビスマルク外交の基本だが、不幸にしてウィーン体制下のように君主と貴族という各国の上層部が保守的価値観を共有して破局的な全面対立を避けるという事態はもはや過去のもので、粗暴で過激なナショナリズムに煽られた国民世論が無分別に敵意をぶつけ合い、国家指導層もそれを制御できず、近代技術によって国家そのものを破滅させるような悪魔的とも言える総力戦に突入する時代となっていた。

結局、ビスマルク以後、ドイツは墺露両国および墺伊間の衝突を回避できず、外交的孤立と敗北に向かうこととなる。

フランスへの予防戦争威嚇は、英露の反対で失敗。

すると、ビスマルクはオスマン帝国を犠牲にして英墺露に東欧・中東への進出を促す。

その結果、各国が対立し合えば、フランスを除く全ての列強がドイツを必要とするようになる、と考えた。

1878年ベルリン会議でそれを実現できたが、ロシアの強い不満が残った。

それへの「急場しのぎ」で1879年独墺同盟締結。

これでかえってロシアは独に接近してくる。

次にビスマルクは、それまで自身が否定していた海外植民地獲得に乗り出す。

1884年アフリカ分割に関するベルリン会議開催。

ナミビア、トーゴ、カメルーン、タンザニア、ルワンダ、ブルンジなどを取得。

この政策転換の原因について主に二つの説がある。

内政的要因を重視するものとしては、ドイツ国内の社会的緊張を隠し、現存秩序を安定化させるためとする説。

外政的要因説は、当時ビスマルクが一時的に採用していた親仏反英政策(「親仏」とはフランスに海外植民地獲得を勧め、欧州での対独復讐欲を逸らす目的)の一環であり、ヨーロッパの勢力均衡をグローバルに拡大するための持ち駒として植民地を獲得したのだとするもの。

実は、内政的要因説の変種として、もう一つの説がある。

「皇太子テーゼ」と呼ばれるもの。

ヴィルヘルム1世の子で、英ヴィクトリア女王の長女と結婚していた親英派の皇太子フリードリヒの即位をにらんで、自身の政治的影響力を維持するため、意図的にイギリスとの対立を作り出そうとしていたとの説。

何やら表面的・非学問的に思えるが、著名なジャーナリストで独創的な歴史家でもあるセバスティアン・ハフナーは、この「皇太子テーゼ」が真実に最も近いのではないかと判断している(『ドイツ帝国の興亡』)。

少し話が戻って、1881年ビスマルクは第二次三帝協定を締結、その外交の基本的枠組みを復活させることに成功。

翌82年にはフランスのチュニジア占領に反発したイタリアを誘って、独墺伊三国同盟を樹立。

83年には独・墺・ルーマニア間のもう一つの「三国同盟」(独墺羅三国同盟)も締結(これは完全に高校世界史範囲外だが)。

このように、三帝協定の崩壊という最大の窮地に対して「急場しのぎ」で対処した結果、ビスマルクは念願の三帝協定を復活させるだけでなく、イタリアやルーマニアとの間にも同盟関係を構築し、結果的には一八八〇年代前半の中東欧にドイツを中心とした(秘密条約に基づく)同盟網を築いたのである。これによってドイツはフランスから攻撃を受けた場合には、ロシアとオーストリア・ハンガリーからは好意的中立を、イタリアからは軍事的援助を得られるようになった。フランスからの軍事的脅威に対するドイツの安全保障は、一応ここに確保することができたのである。当初から目指していたわけではないにもかかわらず、結果としてこのような同盟網を築いて(十分ではないものの)ドイツの安全保障を確保したビスマルクの外交的手腕は、見事としかいいようがない。

しかしながら、この同盟網はロシアの出方によって、その存続が著しく左右されるものでもあった。ロシアがライヴァル国イギリスと衝突した場合には、ドイツは第二次三帝協定に基づいてロシア寄りの立場に立つため、イギリスとの対立を惹起しかねなかった。また、ロシアがバルカン半島をめぐってオーストリア・ハンガリーとの対立を再燃させた場合には、ドイツの安全保障を一気に脅かしかねなかった。そのためビスマルクは、一八八〇年代を通じて、イギリスとの友好関係を維持するとともに、ロシアとオーストリア・ハンガリーの関係を緊迫させないように調整し続けなければならなかったのである。

この後、上述の80年代半ばドイツ自身の植民地政策推進の記述が来る。

ビスマルクの「反英」植民地政策はあくまで内政的考慮から出た一時のもので、基本的にはエジプトへの進出を後援するなど、協力関係の維持を目指していた。

だが、結果は以下のようなものとなる。

彼の動機を特定するのは非常に困難なのだが、それが何であれ、ここで重要となるのは彼の動機ではなく、むしろ結果の方であろう。いったん植民地政策が始動すると、植民地獲得をめぐる動きは――このときドイツが獲得した植民地のほとんどが、経済的価値が乏しかったこともあって――彼の想定をはるかに超えて展開していくことになる。こうした「日のあたる場所」を求める動きは、彼が退陣した後、ヴィルヘルム二世の下での積極的な帝国主義政策、いわゆる「世界政策」の下で箍が外れたかのように加速し、ヨーロッパ外で他の列強との衝突を繰り返すようになる。しかも、植民地行政がさらに肥大化し、右記の理由と相俟って、行政・財政両面で帝国に大きな負担をかけるようになっていくのである。

こうして見ると、内政的なものであれ外政的なものであれ、帝政期に入って培ってきたものを守るためにビスマルクが利用しようとした帝国主義的な要素は、彼の手に負えるような代物ではなかったということになろう。

80年代後半、ヨーロッパ内部で再度の危機発生、ビスマルクは植民地政策を二の次にし、またもや欧州外交再構築を迫られる。

ブルガリアの王朝交替をきっかけに墺・露対立が再燃、対独融和的な仏首相フェリーが失脚し、ブーランジェが陸相に就任したことで、独仏間も緊張。

これに対応して、ビスマルクは再度同盟網を構築。

1887年、英・伊・墺の間で地中海協定成立を斡旋(独自身は参加せず)。

ロシアがブルガリアないしボスフォラス・ダーダネルス海峡に進出することを阻止するためのもの。

同年中に成立した第二次協定では武力行使も想定され、「オリエント三国同盟」とも呼ばれる。

さらに同年墺・伊の意見を調整し、三国同盟を更新。

そして「独露再保障条約」も締結。

この「二度目の三帝協定崩壊」危機に対するビスマルクの対応について、少々長いが重要な内容と思われる本文を以下に引用する。

こうした「急場しのぎ」の対応の結果、ヨーロッパには「ビスマルク体制」と称される国際秩序が姿を現した。それは、フランスを外交的に孤立させた、ドイツを中心とした同盟網であった。だが同時にそれは、ドイツの安全保障を確保するために同盟や協定が複雑に入り組んだ同盟システムであり、フランスを孤立させた点を除けば、ビスマルクが当初想定していたイメージとは大きくかけ離れたものであった。以前、ドイツの歴史家W・ヴィンデルバントがこの同盟システムを最初から一貫した統一的なシステムと評価したことがあったが、これに異論を唱える歴史家は数多く、今日ではすでに見てきたように、二度の三帝協定崩壊という事態に急ごしらえで対処した「急場しのぎシステム」としてビスマルクの同盟システムを評価するのが一般的である。

だが、この同盟システムでは様々な同盟や協定が複雑に入り組んでおり、それぞれの同盟や協定が整合するのかという疑問が生じる。まさにこの点がビスマルク外交研究の大きなテーマであり、先行研究において一番関心が集まったのが、ロシアとの再保障条約が絡んだ次の二つのケースであった。

一つ目は、再保障条約と第二次地中海協定である。先述のように、ビスマルクは再保障条約の秘密付属議定書においてロシアのブルガリア、さらにはダーダネルス・ボスフォラス両海峡への進出を容認し、第二次地中海協定においてバルカン半島における現状維持を支持している。両者は明らかに内容の面で抵触するのだが、第二次地中海協定にドイツが参加していないため、表面的にはかろうじて整合性が保たれている。だが、バルカン問題をめぐってロシアがイギリスとオーストリア・ハンガリーに対して戦争を起こした場合、果たしてビスマルクはどのようなスタンスをとるのだろうか。

二つ目は、再保障条約と独墺同盟である。先に見てきたように、再保障条約は独墺同盟と抵触しないように条約の文言が作成されている。ロシアがオーストリア・ハンガリーを攻撃した場合には、ドイツは独墺同盟に基づいてオーストリア・ハンガリーを軍事支援するが、その逆の場合には再保障条約に基づいてドイツはロシアに対して好意的中立を保つことになる。だが、実際にロシアとオーストリア・ハンガリーの間で戦端が開かれてしまった場合、例えばロシアが挑発してオーストリア・ハンガリーに先制攻撃させた場合、そして戦局が推移してロシアがオーストリア・ハンガリーに攻め込む事態が生じた場合、果たしてドイツはどのような立場をとるのか。

まさにこの点こそが、ビスマルク退陣後のドイツ政府首脳を悩ませた問題であり、一八九〇年に期限切れを迎える再保障条約を更新しないという判断を下す理由となったのである。だがこの判断が、ビスマルクが最も恐れていたロシアとフランスの軍事同盟を惹起することにつながったことはよく知られている。露仏同盟は、一八九四年に現実のものとなった。

果たして、実際に戦争が生じたときに、この同盟システムは機能したのだろうか。ビスマルク在任中にそのような事態に至っていないために何ともいえないが、ビスマルク退陣後に再保障条約不更新を決定するまでの外務省内のプロセスを見ていると、同盟システムが機能不全に陥ってしまい、ドイツが外交的に苦境に立たされる可能性は十分あったと思われる。だがここで注意したいのは、この同盟システムが、実際に戦争が起こった場合を想定して築かれたのではなく、いかにして戦争を起こさせないかという抑止の論理に基づいて築かれたものであるという点である。その意味で見たときに、初めてビスマルク外交を「平和外交」と評価することが可能なのかもしれない。

ただし、いずれも秘密条約であり(独墺同盟は一八八八年に公表される)、しかもこの同盟網の全体像を把握していたのは、ビスマルクを含めほんの一握りでしかなく、同盟システムにおけるビスマルクの真意が外務省幹部間でも共有されていたかというとそうではなかった。やはり、このシステムはビスマルク並みの「術」がなければ、機能させるどころか、存続させることさえも不可能なものであり、結局のところ、ビスマルクあっての国際秩序でしかなかったのである。

本来彼は、領土補償という極めて伝統的な外交手法で、列強が抱く領土・植民地獲得欲を利用しながら、五大国間の勢力均衡を保つことで、ドイツの安全保障の確保を目指していたはずであった。しかしながら、ビスマルクといえども列強の領土・植民地獲得欲を完全に統御することはできず、思わぬ形で到来した外政面での危機に対処すべく「急場しのぎ」で同盟システムを構築したのである。たとえ「急場しのぎ」であったとしても、あれだけ複雑な同盟網を瞬く間に構築した彼の外交手腕は、確かにもっと高く評価されてしかるべきであろう。だが、それは本来彼が目指していたものではなく、内政面のみならず外政面でも、彼は自身の抱くイメージを完全な形で実現させることはできなかった点を見落としてはいけない。

1888年ヴィルヘルム1世死去を受けて、フリードリヒ3世が即位するが、在位99日で死去。

新皇帝ヴィルヘルム2世はロシアへの強い危惧の念を持ち、親露路線のビスマルクと対立。

1890年ビスマルク退陣。

ヴィルヘルム2世の「世界政策」はドイツを孤立化させ、第一次大戦の破局に至る。

歴史家のヴェーラーは「内政優位」の観点から、ビスマルクに代表される権威主義的・伝統的エリート支配層が、再保障条約を結びながら一方で保護関税を強化するなどロシアへ不確実性を思わせる態度を採ったため、すでにビスマルク外交で和解不可能な敵となってしまっていたフランスとロシアの接近を招き寄せた、その原因は国内が議会主義化しておらず、責任ある政治が確立されていなかったからだ、とする(私には、世論が国政に反映されていれば、より好戦的で国際協調に配慮しない外交政策が採られていたように思えてならないが)。

一方、「外政優位」の観点に立つ史家ヒルデブラントは、ビスマルクは第一次大戦に向かう動きに、その外交術で抵抗しようとしていた、欧州の中央部に位置するという地理的不利と帝国主義という時代潮流に対して、「充足した大国」として自制的態度を示し、平和を維持することがドイツの安全を保障すると考えたが、世論を含め周囲から受け入れられず、結果として「急場しのぎ」の同盟システムを構築する以外になかった、とする。

引退後、皇帝親政批判を暗に行いつつ、1898年に死去。

生前行った、ある演説での「我々ドイツ人は神を恐れるが、それ以外の何ものをも恐れない」との一節を、その後にあった「神への恐れから、すでに我々は平和を愛し育んでいるのです」という言葉を省いて引用するような、歪んだ崇拝神話に死後包まれる。

保守的価値を近代的手段で守護しようとし、状況の変化にすばやく大胆に対応する「術」には長けていたが、結局手段の方に振り回されてしまう展開になった生涯、と評されている。

 

 

古くはエーリヒ・アイク『ビスマルク伝 全8巻』(ぺりかん社)から、エンゲルベルク『ビスマルク 生粋のプロイセン人・帝国創建の父』(海鳴社)、ガル『ビスマルク 白色革命家』(創文社)、最近ではジョナサン・スタインバーグ『ビスマルク 全2巻』(白水社)などの伝記が出ているが、どれも大部なので、こういうコンパクトな本の方がとりあえずいいでしょう。

個人的生涯・内政・外交について過不足なく書かれた印象があって手堅いです。

良書。

安心してお奨めできます。

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2017年6月18日

ダンテ・アリギエリ 『神曲  地獄篇』 (講談社学術文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:22

誰もが知っている世界文学の名作だが、詩ということもあり、手に取るつもりも全く無く、最近まで放置していた。

だがたまたまこの版が目に入ったので、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」のうち、最初だけ読むことにしました。

内容は周知の通り。

ダンテが古代ローマ最高の詩人ウェルギリウスに導かれて、死後の世界を訪れるという設定の詩。

翻訳が新しく、詳細な註が同ページに置かれていることもあって、この版でならすらすら普通に読める。

地獄の第一層では、現世で罪を犯さずに死んだが、洗礼を受けていないために天国に行けなかった乳幼児と、ソクラテスやプラトンなど、キリスト教誕生以前に世を去った哲人が存在しているが、さらに下の階層に行くに従って、歴史上の著名人物や、ダンテと同時代の教皇・聖職者・統治者・市民などがその犯した罪に応じて苦しみを受ける姿が、様々に描写されている。

その叙述は、まあ全く面白くないこともない。

私は、モンタネッリ『ルネサンスの歴史』上巻を読んで、ダンテの政治的立場は当時のイタリアでの皇帝党(ギベリン)だと考えていたが、本書の解説によると、そう単純なものでもないようだ。

そもそもフィレンツェが教皇党(ゲルフ)優位の状況となり、1300年頃その教皇党内部で、大銀行家など都市貴族を中心とする黒派と職人・小市民・農民層を中心とする白派が分裂し、ダンテは白派の中の穏健派に属するとのこと。

市政に関わったダンテは、黒白両派の調停を試みたが、教皇庁の支持を得た黒派のクーデタでダンテは追放・亡命、しばらく白派亡命勢力と行動を共にするが、やがてそれとも袂を分かったという。

よって、この『地獄篇』では、当時の教皇ボニファティウス8世が地獄に落とされているし、ダンテは教皇の世俗権を一切認めず、ルクセンブルク朝皇帝のハインリヒ7世に捧げた『帝政論』という著作も残している。

 

 

散文調の訳なので、普通には読める。

だが『煉獄篇』『天国篇』を続けて読む気には、やはりなれない。

私レベルではこの一冊で十分でしょう。

ちょうど三篇にきっちり分かれていることだし、その内の一つを選んでも恣意的とは言えんでしょう。

内容的には、私がどうこう言えることは無いが、やはりどんな宗教でも「死後の裁き」という観念は重要だとは感じた。

この世だけじゃ、どうしたって帳尻の合わないことってありますから。

現世でどれほど驕り高ぶり、好き放題している連中がいても、死だけは誰にも平等に訪れる。

今の「自由社会」の卑しい支配者も、何時かはそれを思い知ることになるでしょう。

 

著名古典では初心者が読めない部類に入る本だと思い込んでいたが、少なくともこの一部だけなら通読可能。

知的見栄のためだけでも読んでおいて良い。

ただ、末尾で訳者も触れているが、岩波文庫の文語調の訳だと挫折する可能性が極めて高いので、本書か河出文庫収録の版を用いるのが無難だと思います。

2017年6月14日

岡倉登志 編著 『エチオピアを知るための50章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 01:53

この国の知名度からすると、同じ明石書店から出ていて、編著者が書いた『エチオピアの歴史 “シェバの女王の国”から“赤い帝国”崩壊まで』を読むべきかとも思うが、だるいのでこれで済ませましょう。

エチオピアの位置は大体ご存知ですよね。

アフリカ東北部に位置し、東がソマリア、南がケニア、西がスーダン、北に小国ジブチがあり、1993年紅海沿岸部がエリトリアとして独立したので、エチオピアは内陸国となった。

古くはアビシニアとも呼ばれた。

首都はアジスアベバ、主要民族はアムハラ人で、他にオロモ人など。

そしてこの国を特徴付けるのは、古代からのキリスト教国であること。

最初の国家は、紀元100~300年頃建国のアクスム王国。

アフリカ最初の国家とされるクシュ王国を滅ぼして成立。

キリスト教を導入して、盛んな交易で繁栄したが、イスラム勢力進出で孤立化、12世紀にはザグウェ朝に取って替わられる。

1270年、シバ(シェバ)の女王とヘブライ王国のソロモン王の後裔であるとの伝説を持つソロモン朝が「復活」、これが近現代まで続く。

この頃のエチオピアは、東方での孤立したキリスト教国の存在を信じる、ヨーロッパの「プレスター・ヨハネ」伝説の実在証拠とも見なされる。

十八世紀後半から1855年まで、主にアムハラ・ショア・ティグレの三地域に分かれて群雄が割拠する「諸公侯時代」。

この戦国時代に終止符を打ち、エチオピアを再統一した中興の祖がティグレ出身のテオドロス2世(在位1855~68年)。

だがテオドロスはイギリスとの戦いで1868年自害。

1889年ショア王家出身のメネリク2世が即位(~1911年)。

1896年有名なアドワの戦いでイタリア軍を撃退、アメリカ解放奴隷の入植で生まれたリベリアと共に帝国主義時代のアフリカで独立を維持することに成功。

1930年メネリク2世の従兄弟の子ハイレ・セラシエが即位、この人がエチオピア最後の皇帝となる。

35年ムッソリーニのイタリアが侵攻、国土は占領下におかれるが、連合国の援助で帝位に復帰。

戦前・戦後、憲法も制定されるが、絶対君主制の色彩が極めて濃いものだった。

1974年エチオピア革命。

前年以来の石油危機がもたらしたインフレに苦しむ国民の反政府運動から体制が崩壊。

混乱の中で軍部が実権を握り、皇帝は殺害され、結局メンギスツを中心とする独裁体制が確立。

ハイレ・セラシエ帝は時代錯誤な絶対君主制に固執し、国内で発生した飢餓を隠蔽する等、数々の過ちもあったようだが、その政権の急進的打倒はより一層抑圧的な体制をもたらした。

その後、エチオピアはイタリア占領時代を除けば(いや、ひょっとしたらそれを含めても)、近現代史でその最も暗い時代を迎える。

マルクス主義の影響を強く受けたメンギスツ政権は親ソ的外交と共産主義的政策で国家を破綻させ、1980年代には最悪の飢餓が全土を襲った。

途方も無い苦悩を舐めたエチオピア国民には余りに酷な言い方かもしれないが、それでも私は民衆が無垢の犠牲者であるとは思えない。

74年の民衆革命は、あまりにも無謀で危険なものだったと考えざるを得ない。

冷戦終結後、1991年にメンギスツ独裁体制は内戦で打倒された。

93年前述の通り、エリトリアが独立。

その他の細かいことには興味が湧かないので、無視。

以上、最低限のことだけ知っておけばいいでしょう。

2017年6月12日

モリエール 『病は気から』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:09

健康ノイローゼに罹って、医術や薬に深く依存している男が、娘を医者の息子と結婚させようとするが、娘は忠実な召使の助けを借りて自らの想い人と結ばれる、という喜劇。

戯曲の中でもかなり短い方なので、楽に読める。

現代人が読んでも、普通に面白い。

いろいろなことを考えさせる重厚な内容ではないかもしれないが、著名作家の古典作品で面白さを感じさせてくれるのなら、それで十分でしょう。

読了リストの数を増やすことが出来て良かった、とします。

2017年6月7日

トマス・ホッブズ 『リヴァイアサン 1・2』 (中公クラシックス)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 04:22

ロックとルソーの主著が適切な長さなのに対し、このホッブズの代表作はかなり長い。

岩波文庫の全訳で全4巻。

初心者が取り組むには、やや長すぎる。

この版は中公クラシックスの多くがそうであるように、元々「世界の名著」シリーズの翻訳を収録したもの。

抄訳ではあるんですが、正直これでも長い。

全体の構成としては、第一部が人間論、第二部が国家論、第三部と第四部が教会の国政介入への批判、ということになっている。

よって考えた結果、第二部だけ読むことにしました。

内容的にはさして興味深いものではない。

これも既知の論旨を原典に当たって確認するだけのことです。

人間の性悪性を真正面から見据えたことには共感できるが、その解決策としてホッブズが提示した、伝統・慣習・教権に一切拘束されない、様々な中間団体の抑制を廃した絶対的主権者という構想は、それ自体が破滅的だと言うしかない。

教科書的には、ホッブズの思想は結局絶対王政の擁護に終わったとされることが多いが、その面だけをもってロックとルソーとの決定的断絶を見るのは皮相的に思える。

政治権力を自由で合理的な個人の契約によって成立したものだとした時点で、ホッブズの絶対的主権者は、世襲君主よりも狂信的民意がもたらす無秩序から生まれた独裁的な「人民の指導者」に親和的なものになっている。

実際、この『リヴァイアサン』は1651年の刊行当初より、王党派からの強い批難を蒙っており、ホッブズは同年亡命先からクロムウェル政権下のイギリスに帰国している。

引用文(クイントン1)の記事で触れた通り、本書の思想が、伝統的保守主義からは大きく離れた、相容れないものであることが理解できていればよい。

これもネームヴァリューだけは凄いから、「とりあえず読みました」という事実だけは作ったほうがいいんでしょう。

でも、感心したり、心底面白いと思うことは、まあ無かったです。

2017年6月3日

ディケンズ 『クリスマス・キャロル』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 07:02

1843年刊。

内容は知ってる人も多いんじゃないでしょうか。

守銭奴のスクルージが、亡霊と精霊によって過去・現在・未来の姿を見せられ、改心する話。

他愛の無いおとぎ話と言えばそれまでだが、しかし私には、人類史上初の産業革命が進行する中、このような作品が書かれて広く受け入れられたことは、拝金主義的風潮に対するイギリス社会の抵抗力を象徴しているように思える。

それに引き換え、今の日本は・・・・・と思えるが、まあやめておきましょう。

 

『二都物語』に加えてこれを読んだが、ディケンズはこれで十分、という感じはしない。

ちょっと短いか。

高校教科書にも出てくる著名文学者は、代表作に加えてもう一作読むと、「打ち止め感」が出てくるんですが。

このブログではスタンダール、フロベール、ドストエフスキー、トルストイあたりはもういいかな、とも思っています(バルザックに関しては、何かもうちょっと読みたいし、ドストエフスキーは主要著作すべてを読破したい気持ちもある)。

ディケンズについては、やはり『デイヴィッド・コパーフィールド』を読むべきか?

でも長いしなあ・・・・・。

『オリバー・ツイスト』か『大いなる遺産』で済ますか?

まあ、このまま何も読まないという可能性の方が高いですね。

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