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2017年5月24日

室山義正 『松方正義  我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』 (ミネルヴァ日本評伝選)

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明治国家を支えた元老ではあるものの、圧倒的存在感を示した伊藤・山県に比して「軽量級」で、二度の首相就任時の業績も芳しくないと見られがちな松方正義の伝記。

華々しさには欠けるが、机上論に流されず、慎重な調査と準備を経て必要な政策を万難を排して実行する一方、非常の危機の際には積極果断の処置を主張できる人物、と著者は捉えている。

 

1835(天保六)年鹿児島城下に生まれる。

父が親族の借金を保証したため、困窮の中で育つ。

そこから松方は、生涯「実業」に基づかない投機的経済活動に対する強い不信を持つようになったという。

当時の多くの藩士と同じく、尊王思想を抱きつつ成長。

島津久光側近の藩官僚として昇進するが、西郷隆盛、大久保利通らとも密接に連絡。

維新の際、一時長崎に滞在、そこで大隈重信と知り合う。

松方は、日本の実際から出発する。実際を生み出した歴史的経緯を分析する。そして、実際から抽出された実務的知識と実務的創意に基づいて基本方針を導き出した。その後、行政的経験と欧米の知識や理論的研鑚を積むなかで、次第にその政策センスは洗練され補強されていく。こうして、松方の政策論は、論理的に首尾一貫した「実際に適応する」政策論として凝固していった。

これに対して大隈の政策論は、外国から輸人した「知識」や「理論」をもとにして、日本の「あるべき姿」を論じる傾向が強い。したがって、現実とは遊離した一種の机上論に陥りがちであった。大隈の博学は、欧米の「常識」と日本の「現実」との落差から生じる外交上のトラブルを解決する外交交渉の場では、遺憾なくその強みを発揮した。しかし内政面では、日本の現実と遊離した財政経済構想を強引に進めようとしたり、また日本の現実に引き戻されて方針を逆転したりして、一貫性を欠くという欠陥をあわせ持っていた。

才気煥発で西欧の知識を縦横に駆使して、新たな構想を次々に政策化しようとする華麗な「国際派」の大隈。国内社会経済の実際から発想し、実践的な政策路線を追究しようとする地味な「民族派」の松方と言ってよいだろう。

大隈がごく初期に新政府内で最高指導者の一員となる一方、松方は九州日田県知事に任命。

1870年中央政界に進出、71年廃藩置県後、大久保利通の下、大蔵省入り。

73年の地租改正条例制定では、実務官僚としての能力を遺憾なく発揮。

征韓論政変後、大久保中心の体制が確立。

大久保の富国強兵構想は、イギリスを外形的目標とし、ドイツを実質的目標としたため、自由主義的色彩の強い大隈や、開明的な考え方を持つ伊藤、天皇中心の国家主義を信奉する岩倉・松方など、政府部内の革新派から保守派にいたる幅広い有力者を包含しうる、政治的求心力を持っていた。この内治優先の連合勢力は、西郷隆盛や板垣退助・江藤新平を中心とする征韓論と対抗することで、一層強固なものとなり、凝集力を生み出していった。

そして、政局の焦点は、征韓論に敗れた不平士族の不満を抑えて、早期に近代国家としての制度と内実を整備することに置かれる。不満士族の武力討伐を実施し(佐賀の乱)、政府内部の結束を維持するために「征韓論」の代替策である「台湾征討」を実施して士族の不満を対外的にそらし、他方で一挙に秩禄処分を断行して旧武士階級を解体する。これと並行して、漸進的な立憲制度の採用を公約して政治的安定に配慮しながら、殖産興業政策を進め、内治優先政策のもとで国力充実を実現する、という構想が出来上がっていく。大久保独裁体制が着々と整えられていった。

大久保・大隈による国家主導の「殖産興業」・積極政策に対する批判を持ちつつ、西南戦争後の松方は渡欧。

松方は、凡庸であり、大久保という後ろ盾を持ち、薩摩閥という出身母体がなかったならば、政府で立身出世は不可能であった、というイメージで捉えられることが多い。しかし、松方が無能であったというイメージは、後に議会開設後の「首相としての」適格性欠如や優柔不断という評価から、類推されたものである。実際には、松方は、大久保に昇進を強力に抑制されていた。そして、松方が昇進を重ね、自らの政策論を開花させ、政府部内で揺るぎない地位と業績を上げるのは、大久保の死後のことであった。さらに、松方の財政経済政策論は、薩摩閥の積極論とは、全く対照的なものであった。西南戦争後に実行された「松方財政」は、大久保の引き立てや、薩摩閥の政策論的後援を一切受けなかったことが、特徴であった。

西南戦争の戦費調達と殖産興業政策の実施による不換紙幣増発がインフレを引き起こし、さらに大久保が暗殺されると、政府内での対立が深まる。

大久保の死が西南戦後の政局に与えた影響は大きかった。薩摩閥の政府部内での影響力低下が生じることは、避けられなかった。大久保の後任内務卿に伊藤博文が据わり、井上馨がイギリスから帰国して外務卿に就任したことによって、政府部内における長州勢力がその影響力を高めた。大隈は、筆頭参議兼大蔵卿として、大久保の衣鉢を継ぐ者としてのスタンスを強調し、主導権を確立する必要があった。したがって自らが率先して積極政策を推進していく主役とならなければならなかった。

一方、伊藤は、大久保独裁体制の下で、大隈と並ぶ二大支柱として協調行動をとってきた。しかし大久保の死後、伊藤は、薩摩閥や大隈派から一定の距離をとりながら、影響力の増した長州閥の中心に据わって、政治の主導権を掌握しようとする動きを見せる。こうして、大隈と伊藤との主導権をめぐる対立の動きが徐々に顕在化する。

ところで、松方は、大きな重石であった大久保の束縛から解放された。政治的には薩摩保守派の中心に位置しながら、経済政策では独自の「勧業政策」を主張し始める。松方は、インフレが顕在化する中で、財政経済政策での発言権を次第に強化していった。松方は、政治路線においても、経済財政路線でも、ほぼ大隈の対極に位置していた。経済的には財政主導の積極路線に疑問を呈し、政治的には保守主義・漸進論を唱えていたからである。後の展開から考えると、松方は、この時点で、大隈路線に対する批判者として、首尾一貫した政治・経済スタンスに立っていたことになる。

大隈は、経済財政政策で薩摩閥と共同歩調をとり、国会・憲法論では進歩派の伊藤・井上と協調して、主導権を握ろうとしていた。政府部内で孤立を避けるためには、政治的急進論をカモフラージュしつつ、大久保路線を走るスタンスをとらざるをえない。伊藤は、経済財政論では、大久保体制の積極政策の一翼を担ってきたが確たる定見はもたず、その意味で中間派であったといえよう。伊藤が政府部内で主導権をとるためには、経済財政政策では主流派の積極路線に同調しながら、政治面で主導権を確立することが必要であった。政府部内の保守派に対抗するために「進歩派」として大隈と協調路線をとりながら、他面で大隈の政治権力の削減を目指した。大隈の政治権力削減を実行しながら、同時に政府部内で国会・憲法論で主導権を確立することが目標となる。

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国家の政策進路は、「外資導入」を梃子として積極的政策を推進するという多数派の財政経済論を共通の前提として、大隈型の英国流の議員内閣制を急速に導入するか、伊藤流のプロシャ型の立憲君主制を漸進的に導入するかを巡る対立に集約されようとしていた。

このような流れを一挙に覆す事件が勃発した。北海道開拓使払下げ問題である。この問題を契機に、「大隈一派」対「薩長藩閥」という対立図式が出来上がり、一四年政変で大隈の「急進的国会論」が葬られ、次いで政変を契機とする人事異動の結果、「外資導入による積極政策」路線までもが、放棄への道を進んでいくことになる。

結果として、漸進的な立憲君主制度と「自力の」紙幣整理路線の組み合わせが、日本の政策進路として選択されることになる。政府部内の有力者で、このような政策論の組み合わせを主張していたのは、実は松方唯一人であった。そして急進的な議院内閣制と積極政策の組み合わせを主張した「大隈派」の政策論は、完全に崩壊した。他方、漸進的・保守的立憲制度と積極政策の組み合わせを主張した「薩長」連合の主流派も、財政経済論では挫折する。日本は、政変を契機として、松方が主張した経済政策進路へと大転換することになる。財政経済政策に果した松方の大きな役割がここに暗示されているといってよいであろう。

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松方は、大久保利通を中心とする薩摩閥の共通の政策であった「積極政策」に、薩摩閥の中で反対の立場をとった唯一の人物であった。しかも、薩摩きっての財政経済通であり、長く大蔵省高官の地位にあった。その松方の「反薩摩閥的な」財政経済論が、政変において、薩長藩閥勢力を強力に支援する役割を演じることになったのである。松方は、自己の財政経済論を放棄することなく、政治的に願ってもない「台頭の」幸運を掴んだということができよう。松方は、政府部内で孤立無援であった自己の「紙幣整理」論を、反大隈の文脈を明確にしながら、政治的リスクなく主張することができた。

当時、政府部内で財政経済に見識を備えた人物としては、大隈や現職の佐野大蔵卿を除けば、伊藤、井上両参議があった。しかし、伊藤・井上は、財政問題ではほぼ大隈と共同歩調を採ってきたため、正面からの大隈批判を行うことはできなかった。大隈の財政経済政策を正面から批判できる人物は、松方正義を措いて他にはいなかった。

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まさに、天の配剤の妙ともいえる、絶妙のタイミングで、松方の藩閥政治家としての、また財政家としての登場が促されたのであった。薩摩閥の中で、長く政治的に「第二流」の地位にとどまっていた松方は、政変を契機として、最高権力者の「参議」の一人へと昇進する。松方正義、四七歳のことであった。

1881年大蔵卿に就任した松方は、翌82年日本銀行設立、いよいよ「松方財政」と呼ばれる、日本経済史上、「高橋(是清)財政」「井上(準之助)財政」と並んで(松方財政と前者は大成功で、後者は大失敗で)著名な財政経済政策を実行。

だが、その実像は「松方デフレ」という名称とは大きく異なったものであることが本書では述べられる。

確かに紙幣整理のためのデフレは農民に大きな困難をもたらし、農村の階層分化が進んだ。

しかし、以下の三つの「追い風」を、松方財政は得ていた。

(1)主に米国の景気回復による輸出拡大効果

(2)紙幣価値回復と壬午・甲申事変の朝鮮問題緊迫の為の軍事費拡大による、財政支出の「実質」増大

(3)これも紙幣価値回復がもたらした、実質通貨残高の増大と強力な金融緩和効果

明治一〇年代の日本経済は、「一四年政変」に至る前半では、通貨増発を背景として公債が発行され、積極的な政府事業が実施された。激しいインフレが発生し、貿易収支は大幅な赤字に陥った。財政は危機的状況に陥り、政府機能は著しく劣化した。結果として「小さな政府」が実現された。「積極政策」が実行された時期としては、極めて特殊な性格をもっていた。これに対して政変以後に実施された松方財政は、明らかなデフレ政策であり、財政も緊縮方針が堅持された。

しかし松方財政は、通常の緊縮財政とは性格が全く異なっていた。松方の不退転の姿勢は、インフレ期待を早期にくじき、不況局面を比較的短期に終結させた。また財政および金融部門の両面で強力な総需要拡大効果を伴っていたという点で、一般の「緊縮政策」とは決定的に異なっていた。国民経済に対するダメージは、通常イメージされるほどには破壊的ではなかった。

松方財政は、一般には、財政・金融両面の厳しい引き締め政策であったと理解されている。物価水準は急落し、経済は不況のどん底に沈み、農業経営は苦境に陥り、賃労働者と小作人を大量に排出した。緊縮財政の中で、経済は厳しい縮小均衡を強いられた。その結果金利が低下して、経済は均衡に向かい、為替相場が下落して外需が拡大するという条件の下に企業勃興を迎え、景気が回復したとイメージされてきたといえよう。

しかし経済統計データは、このような調整を支持する動きを示していない。松方デフレ期を紙幣価格変動の影響を取り去った「銀貨ベース(銀価格)」で見ると、賃金は継続的に上昇を遂げ、一般物価水準も顕著に上昇している。デフレ過程で賃金が上昇を示したとすれば、古典的な価格調整による景気回復は不可能になるはずである。不況は深刻化するであろう。しかし実際には「松方デフレ」期の極めて早い時期に、急速な国民生産の上昇が生じている。デフレが進行し不況が深刻化したとイメージされてきた「松方デフレ」期に、継続的な実質賃金上昇が生じ、物価水準上昇と国民生産拡大が同時に進行していたのである。同期の経済成長率は相当高かった。このような事態は、一般には、総需要が増大すると同時に、生産方法改善や新技術採用が進み生産性が上昇したときに生じる経済パフォーマンスに他ならない。

松方のデフレ政策は、一般にイメージされているような大きな生産低下をもたらさなかった。比較的軽微な生産低下を経験した後、速やかに景気回復軌道へと乗った。その主要な経済要因は、「インフレ期待の急速な解消」、「輸出環境の好転」、「実質財政支出の拡大」「実質貨幣供給の増大」にまとめることができよう。

この文章は本書で最も重要な部分かもしれない。

通常デフレというものは決してあってはならないものであり(中野剛志『レジーム・チェンジ』)、成功と見なされ得る松方財政は決して単純な緊縮財政・デフレ政策ではなかったということがよく理解できた。

(逆に井上財政は悪しきデフレ政策であったと言う他無い。)

内閣制度導入で初代大蔵大臣に就任、以後何度もその職を務めることになる。

1891年第一次松方内閣が成立。

普通この内閣は、大津事件と品川弥二郎内相による大選挙干渉という二つの芳しくない史実によって記憶されているだけである。

品川内相の責任を追及して、伊藤が倒閣に動くが、著者がこの動機を伊藤の松方に対する嫉妬と言わんばかりの記述にしているのには首を傾げる。

続いて第二次内閣を組織した伊藤が、結局議会運営に行き詰まり、明治帝の「和協の詔勅」に頼ったことにも著者は批判的である。

この辺の記述にはあまり同意できない感がある。

逆に、私の方で、伊藤が近代日本の最有力・最優秀の政治家だ、だからほぼ常に最善の政策をその都度採り続けていたはずだ、という思い込みが強すぎるのかもしれないが・・・・・。

日清戦争での戦費調達に貢献、内国債を中心として確保。

1896年第二次松方内閣成立。

二度の松方政権は、日清戦争を遂行した第二次伊藤内閣を挟み込む形になっていることは記憶しておく。

第二次伊藤内閣が自由党と事実上連立したのに対し、松方はかつてのライバル大隈率いる進歩党と連携、「松隈内閣」と呼ばれる。

この内閣では97年金本位制導入という大きな仕事をした後、98年辞職。

日露戦争に向かう過程では、伊藤・井上馨らが満韓交換論と日露協調を唱えたのに対し、日英同盟と対露強硬論を唱える桂太郎・小村寿太郎を松方は支持。

大正時代には元老として国政に関与、中国大陸での排他的勢力圏を拡大しようとする動きを警戒し、二十一ヵ条要求を行った大隈内閣の加藤高明外相を強く批判。

日本が植民地に転落する危機を身をもってしっている元老の意見はやはり常識的で危な気が無い。

1922年高橋是清内閣辞任後と23年加藤友三郎首相死去後の後任選定で、西園寺公望と共に、外交姿勢の根本的変更が無い限り、加藤高明を推薦しない方針を貫く(24年護憲三派内閣を組織した加藤は幣原外交を採用、過去の自身の政策を根本的に変更した)。

しかし、元老の影響力は決定的に後退し、左右の極論に煽動される「世論」が絶対の支配者となる時代が訪れていた。

1924(大正13)年、90歳で死去。

 

積極財政としての「大隈財政」と「高橋財政」、緊縮財政としての「井上財政」と「松方財政」のうち、それぞれ後者のみが成功と後世から認められることになった。

人間的には、明治天皇から子供の数を問われて、「いずれ取り調べてお答えいたします」と答えたのが、最も印象的でユーモラスな逸話か(妾腹含め19人いたそうです)。

 

 

人物の経歴と業績からして、当然経済史の話が多いが、私の苦手分野にも関わらず、全く理解できないという部分はほぼ無かった。

非常に読みやすく、良質な伝記。

伊藤・山県以外の元老についても、これくらいの本が出て欲しいものです。

 

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