万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年5月24日

室山義正 『松方正義  我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』 (ミネルヴァ日本評伝選)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:32

明治国家を支えた元老ではあるものの、圧倒的存在感を示した伊藤・山県に比して「軽量級」で、二度の首相就任時の業績も芳しくないと見られがちな松方正義の伝記。

華々しさには欠けるが、机上論に流されず、慎重な調査と準備を経て必要な政策を万難を排して実行する一方、非常の危機の際には積極果断の処置を主張できる人物、と著者は捉えている。

 

1835(天保六)年鹿児島城下に生まれる。

父が親族の借金を保証したため、困窮の中で育つ。

そこから松方は、生涯「実業」に基づかない投機的経済活動に対する強い不信を持つようになったという。

当時の多くの藩士と同じく、尊王思想を抱きつつ成長。

島津久光側近の藩官僚として昇進するが、西郷隆盛、大久保利通らとも密接に連絡。

維新の際、一時長崎に滞在、そこで大隈重信と知り合う。

松方は、日本の実際から出発する。実際を生み出した歴史的経緯を分析する。そして、実際から抽出された実務的知識と実務的創意に基づいて基本方針を導き出した。その後、行政的経験と欧米の知識や理論的研鑚を積むなかで、次第にその政策センスは洗練され補強されていく。こうして、松方の政策論は、論理的に首尾一貫した「実際に適応する」政策論として凝固していった。

これに対して大隈の政策論は、外国から輸人した「知識」や「理論」をもとにして、日本の「あるべき姿」を論じる傾向が強い。したがって、現実とは遊離した一種の机上論に陥りがちであった。大隈の博学は、欧米の「常識」と日本の「現実」との落差から生じる外交上のトラブルを解決する外交交渉の場では、遺憾なくその強みを発揮した。しかし内政面では、日本の現実と遊離した財政経済構想を強引に進めようとしたり、また日本の現実に引き戻されて方針を逆転したりして、一貫性を欠くという欠陥をあわせ持っていた。

才気煥発で西欧の知識を縦横に駆使して、新たな構想を次々に政策化しようとする華麗な「国際派」の大隈。国内社会経済の実際から発想し、実践的な政策路線を追究しようとする地味な「民族派」の松方と言ってよいだろう。

大隈がごく初期に新政府内で最高指導者の一員となる一方、松方は九州日田県知事に任命。

1870年中央政界に進出、71年廃藩置県後、大久保利通の下、大蔵省入り。

73年の地租改正条例制定では、実務官僚としての能力を遺憾なく発揮。

征韓論政変後、大久保中心の体制が確立。

大久保の富国強兵構想は、イギリスを外形的目標とし、ドイツを実質的目標としたため、自由主義的色彩の強い大隈や、開明的な考え方を持つ伊藤、天皇中心の国家主義を信奉する岩倉・松方など、政府部内の革新派から保守派にいたる幅広い有力者を包含しうる、政治的求心力を持っていた。この内治優先の連合勢力は、西郷隆盛や板垣退助・江藤新平を中心とする征韓論と対抗することで、一層強固なものとなり、凝集力を生み出していった。

そして、政局の焦点は、征韓論に敗れた不平士族の不満を抑えて、早期に近代国家としての制度と内実を整備することに置かれる。不満士族の武力討伐を実施し(佐賀の乱)、政府内部の結束を維持するために「征韓論」の代替策である「台湾征討」を実施して士族の不満を対外的にそらし、他方で一挙に秩禄処分を断行して旧武士階級を解体する。これと並行して、漸進的な立憲制度の採用を公約して政治的安定に配慮しながら、殖産興業政策を進め、内治優先政策のもとで国力充実を実現する、という構想が出来上がっていく。大久保独裁体制が着々と整えられていった。

大久保・大隈による国家主導の「殖産興業」・積極政策に対する批判を持ちつつ、西南戦争後の松方は渡欧。

松方は、凡庸であり、大久保という後ろ盾を持ち、薩摩閥という出身母体がなかったならば、政府で立身出世は不可能であった、というイメージで捉えられることが多い。しかし、松方が無能であったというイメージは、後に議会開設後の「首相としての」適格性欠如や優柔不断という評価から、類推されたものである。実際には、松方は、大久保に昇進を強力に抑制されていた。そして、松方が昇進を重ね、自らの政策論を開花させ、政府部内で揺るぎない地位と業績を上げるのは、大久保の死後のことであった。さらに、松方の財政経済政策論は、薩摩閥の積極論とは、全く対照的なものであった。西南戦争後に実行された「松方財政」は、大久保の引き立てや、薩摩閥の政策論的後援を一切受けなかったことが、特徴であった。

西南戦争の戦費調達と殖産興業政策の実施による不換紙幣増発がインフレを引き起こし、さらに大久保が暗殺されると、政府内での対立が深まる。

大久保の死が西南戦後の政局に与えた影響は大きかった。薩摩閥の政府部内での影響力低下が生じることは、避けられなかった。大久保の後任内務卿に伊藤博文が据わり、井上馨がイギリスから帰国して外務卿に就任したことによって、政府部内における長州勢力がその影響力を高めた。大隈は、筆頭参議兼大蔵卿として、大久保の衣鉢を継ぐ者としてのスタンスを強調し、主導権を確立する必要があった。したがって自らが率先して積極政策を推進していく主役とならなければならなかった。

一方、伊藤は、大久保独裁体制の下で、大隈と並ぶ二大支柱として協調行動をとってきた。しかし大久保の死後、伊藤は、薩摩閥や大隈派から一定の距離をとりながら、影響力の増した長州閥の中心に据わって、政治の主導権を掌握しようとする動きを見せる。こうして、大隈と伊藤との主導権をめぐる対立の動きが徐々に顕在化する。

ところで、松方は、大きな重石であった大久保の束縛から解放された。政治的には薩摩保守派の中心に位置しながら、経済政策では独自の「勧業政策」を主張し始める。松方は、インフレが顕在化する中で、財政経済政策での発言権を次第に強化していった。松方は、政治路線においても、経済財政路線でも、ほぼ大隈の対極に位置していた。経済的には財政主導の積極路線に疑問を呈し、政治的には保守主義・漸進論を唱えていたからである。後の展開から考えると、松方は、この時点で、大隈路線に対する批判者として、首尾一貫した政治・経済スタンスに立っていたことになる。

大隈は、経済財政政策で薩摩閥と共同歩調をとり、国会・憲法論では進歩派の伊藤・井上と協調して、主導権を握ろうとしていた。政府部内で孤立を避けるためには、政治的急進論をカモフラージュしつつ、大久保路線を走るスタンスをとらざるをえない。伊藤は、経済財政論では、大久保体制の積極政策の一翼を担ってきたが確たる定見はもたず、その意味で中間派であったといえよう。伊藤が政府部内で主導権をとるためには、経済財政政策では主流派の積極路線に同調しながら、政治面で主導権を確立することが必要であった。政府部内の保守派に対抗するために「進歩派」として大隈と協調路線をとりながら、他面で大隈の政治権力の削減を目指した。大隈の政治権力削減を実行しながら、同時に政府部内で国会・憲法論で主導権を確立することが目標となる。

・・・・・・

国家の政策進路は、「外資導入」を梃子として積極的政策を推進するという多数派の財政経済論を共通の前提として、大隈型の英国流の議員内閣制を急速に導入するか、伊藤流のプロシャ型の立憲君主制を漸進的に導入するかを巡る対立に集約されようとしていた。

このような流れを一挙に覆す事件が勃発した。北海道開拓使払下げ問題である。この問題を契機に、「大隈一派」対「薩長藩閥」という対立図式が出来上がり、一四年政変で大隈の「急進的国会論」が葬られ、次いで政変を契機とする人事異動の結果、「外資導入による積極政策」路線までもが、放棄への道を進んでいくことになる。

結果として、漸進的な立憲君主制度と「自力の」紙幣整理路線の組み合わせが、日本の政策進路として選択されることになる。政府部内の有力者で、このような政策論の組み合わせを主張していたのは、実は松方唯一人であった。そして急進的な議院内閣制と積極政策の組み合わせを主張した「大隈派」の政策論は、完全に崩壊した。他方、漸進的・保守的立憲制度と積極政策の組み合わせを主張した「薩長」連合の主流派も、財政経済論では挫折する。日本は、政変を契機として、松方が主張した経済政策進路へと大転換することになる。財政経済政策に果した松方の大きな役割がここに暗示されているといってよいであろう。

・・・・・・

松方は、大久保利通を中心とする薩摩閥の共通の政策であった「積極政策」に、薩摩閥の中で反対の立場をとった唯一の人物であった。しかも、薩摩きっての財政経済通であり、長く大蔵省高官の地位にあった。その松方の「反薩摩閥的な」財政経済論が、政変において、薩長藩閥勢力を強力に支援する役割を演じることになったのである。松方は、自己の財政経済論を放棄することなく、政治的に願ってもない「台頭の」幸運を掴んだということができよう。松方は、政府部内で孤立無援であった自己の「紙幣整理」論を、反大隈の文脈を明確にしながら、政治的リスクなく主張することができた。

当時、政府部内で財政経済に見識を備えた人物としては、大隈や現職の佐野大蔵卿を除けば、伊藤、井上両参議があった。しかし、伊藤・井上は、財政問題ではほぼ大隈と共同歩調を採ってきたため、正面からの大隈批判を行うことはできなかった。大隈の財政経済政策を正面から批判できる人物は、松方正義を措いて他にはいなかった。

・・・・・・

まさに、天の配剤の妙ともいえる、絶妙のタイミングで、松方の藩閥政治家としての、また財政家としての登場が促されたのであった。薩摩閥の中で、長く政治的に「第二流」の地位にとどまっていた松方は、政変を契機として、最高権力者の「参議」の一人へと昇進する。松方正義、四七歳のことであった。

1881年大蔵卿に就任した松方は、翌82年日本銀行設立、いよいよ「松方財政」と呼ばれる、日本経済史上、「高橋(是清)財政」「井上(準之助)財政」と並んで(松方財政と前者は大成功で、後者は大失敗で)著名な財政経済政策を実行。

だが、その実像は「松方デフレ」という名称とは大きく異なったものであることが本書では述べられる。

確かに紙幣整理のためのデフレは農民に大きな困難をもたらし、農村の階層分化が進んだ。

しかし、以下の三つの「追い風」を、松方財政は得ていた。

(1)主に米国の景気回復による輸出拡大効果

(2)紙幣価値回復と壬午・甲申事変の朝鮮問題緊迫の為の軍事費拡大による、財政支出の「実質」増大

(3)これも紙幣価値回復がもたらした、実質通貨残高の増大と強力な金融緩和効果

明治一〇年代の日本経済は、「一四年政変」に至る前半では、通貨増発を背景として公債が発行され、積極的な政府事業が実施された。激しいインフレが発生し、貿易収支は大幅な赤字に陥った。財政は危機的状況に陥り、政府機能は著しく劣化した。結果として「小さな政府」が実現された。「積極政策」が実行された時期としては、極めて特殊な性格をもっていた。これに対して政変以後に実施された松方財政は、明らかなデフレ政策であり、財政も緊縮方針が堅持された。

しかし松方財政は、通常の緊縮財政とは性格が全く異なっていた。松方の不退転の姿勢は、インフレ期待を早期にくじき、不況局面を比較的短期に終結させた。また財政および金融部門の両面で強力な総需要拡大効果を伴っていたという点で、一般の「緊縮政策」とは決定的に異なっていた。国民経済に対するダメージは、通常イメージされるほどには破壊的ではなかった。

松方財政は、一般には、財政・金融両面の厳しい引き締め政策であったと理解されている。物価水準は急落し、経済は不況のどん底に沈み、農業経営は苦境に陥り、賃労働者と小作人を大量に排出した。緊縮財政の中で、経済は厳しい縮小均衡を強いられた。その結果金利が低下して、経済は均衡に向かい、為替相場が下落して外需が拡大するという条件の下に企業勃興を迎え、景気が回復したとイメージされてきたといえよう。

しかし経済統計データは、このような調整を支持する動きを示していない。松方デフレ期を紙幣価格変動の影響を取り去った「銀貨ベース(銀価格)」で見ると、賃金は継続的に上昇を遂げ、一般物価水準も顕著に上昇している。デフレ過程で賃金が上昇を示したとすれば、古典的な価格調整による景気回復は不可能になるはずである。不況は深刻化するであろう。しかし実際には「松方デフレ」期の極めて早い時期に、急速な国民生産の上昇が生じている。デフレが進行し不況が深刻化したとイメージされてきた「松方デフレ」期に、継続的な実質賃金上昇が生じ、物価水準上昇と国民生産拡大が同時に進行していたのである。同期の経済成長率は相当高かった。このような事態は、一般には、総需要が増大すると同時に、生産方法改善や新技術採用が進み生産性が上昇したときに生じる経済パフォーマンスに他ならない。

松方のデフレ政策は、一般にイメージされているような大きな生産低下をもたらさなかった。比較的軽微な生産低下を経験した後、速やかに景気回復軌道へと乗った。その主要な経済要因は、「インフレ期待の急速な解消」、「輸出環境の好転」、「実質財政支出の拡大」「実質貨幣供給の増大」にまとめることができよう。

この文章は本書で最も重要な部分かもしれない。

通常デフレというものは決してあってはならないものであり(中野剛志『レジーム・チェンジ』)、成功と見なされ得る松方財政は決して単純な緊縮財政・デフレ政策ではなかったということがよく理解できた。

(逆に井上財政は悪しきデフレ政策であったと言う他無い。)

内閣制度導入で初代大蔵大臣に就任、以後何度もその職を務めることになる。

1891年第一次松方内閣が成立。

普通この内閣は、大津事件と品川弥二郎内相による大選挙干渉という二つの芳しくない史実によって記憶されているだけである。

品川内相の責任を追及して、伊藤が倒閣に動くが、著者がこの動機を伊藤の松方に対する嫉妬と言わんばかりの記述にしているのには首を傾げる。

続いて第二次内閣を組織した伊藤が、結局議会運営に行き詰まり、明治帝の「和協の詔勅」に頼ったことにも著者は批判的である。

この辺の記述にはあまり同意できない感がある。

逆に、私の方で、伊藤が近代日本の最有力・最優秀の政治家だ、だからほぼ常に最善の政策をその都度採り続けていたはずだ、という思い込みが強すぎるのかもしれないが・・・・・。

日清戦争での戦費調達に貢献、内国債を中心として確保。

1896年第二次松方内閣成立。

二度の松方政権は、日清戦争を遂行した第二次伊藤内閣を挟み込む形になっていることは記憶しておく。

第二次伊藤内閣が自由党と事実上連立したのに対し、松方はかつてのライバル大隈率いる進歩党と連携、「松隈内閣」と呼ばれる。

この内閣では97年金本位制導入という大きな仕事をした後、98年辞職。

日露戦争に向かう過程では、伊藤・井上馨らが満韓交換論と日露協調を唱えたのに対し、日英同盟と対露強硬論を唱える桂太郎・小村寿太郎を松方は支持。

大正時代には元老として国政に関与、中国大陸での排他的勢力圏を拡大しようとする動きを警戒し、二十一ヵ条要求を行った大隈内閣の加藤高明外相を強く批判。

日本が植民地に転落する危機を身をもってしっている元老の意見はやはり常識的で危な気が無い。

1922年高橋是清内閣辞任後と23年加藤友三郎首相死去後の後任選定で、西園寺公望と共に、外交姿勢の根本的変更が無い限り、加藤高明を推薦しない方針を貫く(24年護憲三派内閣を組織した加藤は幣原外交を採用、過去の自身の政策を根本的に変更した)。

しかし、元老の影響力は決定的に後退し、左右の極論に煽動される「世論」が絶対の支配者となる時代が訪れていた。

1924(大正13)年、90歳で死去。

 

積極財政としての「大隈財政」と「高橋財政」、緊縮財政としての「井上財政」と「松方財政」のうち、それぞれ後者のみが成功と後世から認められることになった。

人間的には、明治天皇から子供の数を問われて、「いずれ取り調べてお答えいたします」と答えたのが、最も印象的でユーモラスな逸話か(妾腹含め19人いたそうです)。

 

 

人物の経歴と業績からして、当然経済史の話が多いが、私の苦手分野にも関わらず、全く理解できないという部分はほぼ無かった。

非常に読みやすく、良質な伝記。

伊藤・山県以外の元老についても、これくらいの本が出て欲しいものです。

 

広告

2017年5月20日

ジャン・ジャック・ルソー 『社会契約論  ジュネーヴ草稿』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:23

これも岩波文庫版は読了済み。

「ジュネーヴ草稿」の方は完全に無視。

感想はロック『市民政府論』と全く同じ。

多少興味深い点もないではないが、特にこだわりをもって言うこともない。

初読の際よりは、ひとまず内容をつかみながら読めた。

これだけ著名な作品なので、一読しておくのはもちろん悪くない。

普通に読める難易度だし、300ページ弱だから時間もさしてかからない。

「間違いなく最後まで読みました」、ただそれだけです。

2017年5月14日

セルバンテス 『ドン・キホーテ 後篇 全3巻』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 00:26

前篇の読後感が非常に良かったので、この後篇にも取り組んだ。

同様に大変素晴らしい。

ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの軽妙なやり取りが実に面白い。

妄想に駆られて始終滑稽な振る舞いをするドン・キホーテが、しばしば機知と良識に満ちた言動も見せる。

なお、この後篇の中では、出版された前篇が読まれているというメタフィクション的設定になっており、当時実際に出回った贋作まで登場している。

物語自体も実に楽しい。

前篇を読んでドン・キホーテを知った、いたずら好きの公爵夫妻が、ドン・キホーテ主従を招き、「ドゥルシネーア姫」(実際には粗野な田舎娘)にかけられた魔法を解くためサンチョに鞭打ちを加えないといけないと思い込ませる話や、公爵に言い含められた侍女の一人がドン・キホーテに恋焦がれた振りをするが、ドン・キホーテがどこまでもそれを真に受けて「ドゥルシネーア姫」への操を立てていい気になるのに腹を立てて、しまいに侍女が罵倒の限りを尽くすところなどは、思わず吹き出してしまう。

最後のやや哀感に満ちた場面を読み終えると、欲得ずくの世の中で、滑稽ではあってもある種のすでに失われた理想を貫こうとした主人公の生き方が尊いものに思えてくる。

翻訳が流暢なこともあって、驚くほど容易に通読できる。

知名度と文学的価値、面白さと読みやすさの四者をすべて兼ね備えた稀有な古典。

真の傑作だ。

前後篇合わせて全6巻と相当の長さだが、この作品に関しては苦にならない。

是非とも薦める。

2017年5月2日

アレクシス・ド・トクヴィル 『アメリカのデモクラシー  全4巻』 (岩波文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 05:55

この作品については、以前、中央公論「世界の名著」シリーズ中の『フランクリン ジェファソン マディソン他 トクヴィル』に収録されている抄訳を読了済み。

(現在では、中公クラシックスから単独で『アメリカにおけるデモクラシーについて』として出ている。)

デモクラシーの到来を必然としながら、その弊害を予見、予防することを目指し、20世紀大衆社会の出現を予言した名著であることは、以前から知っており、やはり全訳を読むべきなのかなあ、でも長いなあと思っていた。

講談社学術文庫に全訳があったのだが、相当古い訳で読みにくそうだったので敬遠していたところ、2005年からこの新訳が出た。

原著の第一巻と第二巻をそれぞれ上・下に分けて、計4冊にしている。

いい機会だと考え、気合を入れて全巻を通読しました。

独立後、半世紀を経て、建国の父たちの精神を失い、「多数の専制」の弊に陥りつつあった、ジャクソニアン・デモクラシー時代のアメリカを活写した政治・社会論。

よって、民主主義批判が盛大に繰り広げられているのかと思ったが、確かにそうした記述が節々に見られるものの、多くの場合、それへの留保や例外が同時に述べられ、何やら隔靴掻痒の感が拭えない。

本書については、以下のような評価があるようだ。

『アメリカにおけるデモクラシー』に即していうと、その「前半」が民主主義を擁護しているのにたいし、その「後半」が民主主義を批判している、というトックヴィル理解が今も罷り通っている。私は、ここにすでに、トックヴィル研究者たちの及び腰が示されているとみる。・・・・・

トックヴィルは「地位の平等」が、一方における権利の完全分与としての人民主権と、他方における権利の完全剥奪としての専制権力とをもたらしうるとわかっていた

「前半」において彼がアメリカを支持しているようにみえるのは、そこにおいては、後者の(全体主義的な)専制権力ではなく前者の(自由主義的な)人民主権が採用されているからであり、そしてその比較のかぎりにおいてである。人民主権は、専制権力との相対でいえば首肯しうるものであろうが、それ自体のうちに何かしら良き事態をもたらすポテンシャルがあるというわけではない、これがトックヴィルの基本的視点なのであった。

・・・・・

あとでもふれるように、「後半」はアメリカ批判を盛大に展開していると受けとられているが、それについてもトックヴィルは注意深く留保をつけている。まとめていうと、公平な「法学者精神」が堅持されているなら、健全な「宗教心」が保守されているなら、そして質朴な「家庭」が維持されているなら、アメリカン・デモクラシーにも望みがあるということだ。逆にいうと、これらのモーレス(風習)が融解の過程に入るならば、人民主権もまた堕落の途へ入るほかないとトックヴィルは見抜いていた。その炯眼は「前半」と「後半」をつらぬいているのであり、だから、両者の違いをことさらに強調するようなトックヴィル研究の眼は曇っているのだといってさしつかえない。その曇りは、おそらく、人民主権と聞いただけでそのドグマに拝跪する、という長きにわたる知識人のモーレスから漂ってくるものなのであろう。

西部邁『思想の英雄たち』より)

本書を読む上では、著者が、社会的平等と自由民主主義の弊害を抑止していると見た健全性が、その後のアメリカ(および日本を含む全ての民主主義国)で雲散霧消する一方だった、ということを常に頭に入れておく必要があるでしょう。

その「健全性」としては、まず、独立革命という形で建国したアメリカ合衆国の建国の父たちが、急進的熱狂的民衆運動の危険性を熟知していたこと。

合衆国の革命は、自由に対する成熟した、思慮深い好みが生み出したものであり、漠然として無限定な独立衝動が生んだものではない。騒乱の熱に支えられることは少しもなかった。それどころか、革命は秩序と合法性を愛する気持ちとともに歩んだ。

それゆえ合衆国では、自由な国では人は何事をもなしうると主張する者はなかった。それどころか、ここでは他の国以上に種々雑多な社会的諸義務が人に課された。社会の力を原理において攻撃し、社会の権利に異を唱える発想はなく、執行において権力を分割するにとどめられた。

・・・・・

すでに示したように、連邦の立法者はほとんどすべて学識に秀で、それ以上に愛国心において目立っていた。

彼らはみな、自由の精神が支配者の強権と不断に戦い続けた社会的危機の中で成長した。戦いが終わったとき、よくあるように、情念をかきたてられた民衆がとっくになくなった危険となお執拗に闘おうとしたのに対して、彼らは立ち止った。祖国をより静かなもっと鋭い目で眺め、決定的な革命はすでに終わり、人民を脅かす今後の危険は自由の乱用からしか生じえないことを認めたのである。彼らはその考えを口に出す勇気をもっていた。彼らこそ、この自由を心底から真摯かつ熱烈に愛していたからである。自由を破壊しようとは思っていもいないことに確信があったからこそ、その制限をもあえて口にした。

違憲立法審査権という特筆すべき武器をもって、法律家集団が疑似貴族階層として君臨し、民衆の衝動的動きを制約した。

法曹身分こそ、民主主義本来の要素と無理なく混じり合い、首尾よく、また持続的にこれと結びつくことのできる唯一の貴族的要素である。法律家の精神に固有の欠陥を知らぬわけではない。にもかかわらず私は、法律家精神と民主的精神のこの混合なくして、民主主義が社会を長く統治しうるとは思わないし、人民の権力の増大に比例して法律家の政治への影響力が増さないとすれば、今日、共和政体がその存続を期待しうるとは信じられない。

加えて、地方自治の発達が、専制君主に対する貴族階層のように、中央集権政府の専横に対する防壁となっていることも指摘する。

宗教がもたらしていた人心の安定も重要な要素であり、それが失われた場合の危険性を以下のように述べる。

ある国民の宗教が破壊されると、国民のもっとも知的な部分が懐疑にとりつかれ、その他の部分も懐疑のために心が半分麻痺してしまう。誰もが同胞と自分自身の最重要の関心事について混乱した移ろいやすい考えしかもたぬ状態に慣れ、自分の意見をうまく擁護できず、簡単にこれを捨て去る。人間の運命が提示するもっとも重要な諸問題を自分の力だけで解くことはできないと絶望し、無気力にもそうしたことがらを考えなくなる。

このような状態は間違いなく魂を柔弱にする。意志の活力を弛緩させ、市民に隷従を受け容れる用意をさせる。

このとき、市民は手を拱いて自由を奪われるに任せるだけではない。しばしば自ら進んでこれを譲り渡す。

政治におけると同じように宗教に関しても権威が存在しなければ、人々はやがて際限のない独立の様相に怖じ気づく。あらゆる事物のこうした動揺は彼らの心を不安にし、疲労させる。精神の世界ではすべてが揺れ動いているので、せめて物質世界は堅固で安定して欲しいと願い、かつての信仰を取り戻しえないので、自ら主人を戴く。

私としては、人が果たして宗教におけるまったき独立と政治における完全な自由とを同時に保持しうるものか疑わしく思う。人間は信仰をもたないならば隷属を免れず、自由であるならば、宗教を信じる必要があるとする考えに傾くのである。

・・・信仰の光が暗くなるにつれて、人間の視野は狭まり、人間行動の目的は毎日すぐにも実現できるように見えてくる。

死後の運命への無関心にひとたび慣れてしまうと、人間は容易に獣とかわらぬ未来に対する完全な無関心に陥るが、この無関心がまた人類のある種の本能とぴたりと適合的なのである。遠い将来に大きな希望をいだく習慣を失うと、人はやがて当然のように矮小極まりない欲求を瞬時に実現したくなり、永遠を生きることに絶望したその瞬間から、一日しか生きられないと決まっているかのような行動に傾く。

不信仰の広がる世紀には、だから、人々が日ごとに変わる欲求に流されるのを常に怖れるべきである。長期の努力なしに達成し得ないものの獲得をまったく諦めて、偉大で安定し持続するものは何一つ築けなくなることをいつも憂慮しなければならない。

このような傾向にある国民のもとで、社会状態が民主的になると、私の指摘する危険はさらに増大する。

誰もが絶えず居所を変えようとし、万人が巨大な競争に巻き込まれ、富がデモクラシーの喧騒の中で瞬時に蓄積されては消失していく、このようなときには、幸運は突然簡単に舞い込み、一財産つくるのも容易だがこれを失うのも早いという考え、つまり偶然のイメージがあらゆる形で人間精神に現われる。社会状態の不安定性が欲求の本来の不安定性を増幅する。境遇がこのように永遠に浮き沈みを繰り返すうちに、現在が拡大する。将来は現在に隠されて姿が見えず、人は明日のことしか考えようとしない。

当時の上院と下院の質的差異について。

ワシントンの下院議場に入ってみれば、この大会議場の俗っぽさに驚愕の思いがするであろう。往々にして、どんなに目を凝らしてもそこには一人の著名人も見出せない。ほとんどすべての議員は無名の人物で、名前を聞いてもどこの誰とも分からない。大半は田舎弁護士や小売商人で、最下層の階級に属する人々さえいる。教育がほとんどあまねく行き渡っている国で、人民の代表がつねに正しく字を書けるとは限らないという。

この議場のすぐそばに上院の扉が開いており、その狭い議場の中にアメリカの著名人の大多数がいる。そこにいるどの一人をとってみても、名声が記憶に新しい人がほとんどである。雄弁な弁護士、すぐれた将軍、有能な法律家、またよく知られた政治家が議員となっている。この議場から発せられる弁舌は悉く、ヨーロッパの最高の議会論争に劣るまい。

この奇妙な対照は何に由来するのか。なぜ国民中のエリートはこの議場にだけいて、もう一つの議場には見られないのだろう。第二院が才能と学識を独占するように思われる一方、第一院にはどうしてこうも低劣な要素がたくさん集まるのか。にもかかわらずどちらも人民に淵源し、普通選挙の産物であって、これまでのところ、上院が人民の利益の敵であると主張する声はアメリカであがったことがない。では、この巨大な相違はどこから来るのか。その説明として私には、ただ一つの事実しか見当たらない。下院の構成を決める選挙は直接選挙であるのに、上院を生み出すそれは二段階の手続きを踏むようになっている。市民全員が各州の立法議会を選出するが、連邦憲法の規定によって、今度はこれら各州の議会が選挙母体となって、その投票によって上院議員が選ばれる。つまり上院議員は、間接的にではあれ、普通選挙の結果を表現しているのである。なぜなら、上院議員を任命する立法議会は、その存在自身によって選挙権を有する貴族集団や特権団体では決してなく、本質的に市民全体の意志に依存するものだからである。州議会は一般に毎年改選されるから、市民はそのたびに新しいメンバーをその中に入れて、選択の方向をいつでも示すことができる。ただ人民の意志は、この選出された合議体を通過するだけでいわば練りあげられ、より気高くより美しい形をとって出てくるのである。それゆえこのようにして選ばれた人々は、支配者である国民の多数の意志をつねに正しく代表している。ただしそれが現しているのは、国内に流通する高邁な思想、国民を動かす高潔な本能だけであり、時として国民を騒がす矮小な情念、その面汚しとなる悪徳ではない。

(なお、上院議員も1913年直接選挙に改められ、現在に至る。)

アメリカが、独立以来、その250年弱の歴史の中で、最初の半世紀間のみ、まともな民主主義国でいられたのは、何のことは無い、これら非民主的要素が多く残存していたからに過ぎない。

現代の社会で、選挙権の制限が現実的では無い以上、まともで公正な議論による政治を取り戻すには、多段階の間接選挙に拠るしか方法が無いでしょうが、「左翼」を口汚く罵っても民主主義と自己への懐疑は持とうとしない馬鹿右翼は聞く耳を持たないでしょうし、右派的ポピュリズムがこれほど蔓延していても非民主的制度には条件反射で反対する馬鹿左翼も同様でしょう。

メディアを制御する大資本とその手先の情報技術屋は、そうした間接選挙すら巧みに操ろうと匿名の闇の中でうごめくのは間違いない。

どう考えても、現代の自由民主主義は袋小路だし、このまま成り行き任せに滅びるしかない。

健全と思われていた時代のアメリカですら、以下のような醜悪な一面が見られたことを、トクヴィルは原注で記している。

1812年の戦争に際し、多数の専制から生じうる行き過ぎの著しい例がボルティモアで見られた。当時ボルティモアには好戦的気分が高まっていた。戦争に強く反対したある新聞がそのために住民の怒りを買った。民衆は集団で印刷機を破壊し、記者の家々を襲撃した。当局は民兵を招集しようとしたが、民兵はこれに応じなかった。そこで、世論の憤激にされされた不幸な被害者を救うために、彼らをまるで犯罪者のように留置場に収監する措置がとられた。この予防措置も無駄であった。夜のうちに民衆が新たに集結し、民兵の招集には失敗し、留置場は襲撃され、その場で記者の一人は殺され、生き残った記者も後に死んだ。しかも告発された加害者は、裁判で無罪放免となったのである。

私はまたある日、ペンシルベニアの一住民と次のような問答をしたことがある。「クェーカー教徒によって建設され、寛容で名高い州で、どうして解放黒人に公民権の行使が許されないのか、説明していただけませんか。彼らは税金を払っているのでしょう。投票権があって当然ではありませんか。」「われわれの立法者が不正で不寛容なそういう仕打ちをしたとお考えになるとは、私たちへの侮辱です」と彼は答えた。「では、お国では黒人も投票権をもっているのですか。」「もちろんですとも。」「では、今朝の選挙人会で黒人を一人も見かけなかったのはどうしてでしょう。」これに対してアメリカ人は次のように答える。「それは法律のせいではありません。黒人にもたしかに選挙に行く権利はあるのですが、彼らは投票を自発的に控えるのです。」「黒人はずいぶん遠慮深いのですね。」「いや、彼らは投票に行くのを嫌がるのではなく、投票所でひどい目にあうのを恐れているのです。私たちの国では、多数者が支持しない法律は効力を失うことが間々あります。そして多数者は黒人に対してこのうえない偏見に囚われており、これに対して当局者は、立法者が黒人に与えた権利を実際に保障するだけの力がないと思い込んでいるのです。」「それでは法を制定する権利をもつ多数者は、また法に違反する特権をももとうとするわけですか。」

その後、黒人への待遇は大いに改善されたと言っても、多数者の偏狭な激情が赴くまま、ありとあらゆる問題で理不尽な抑圧が渦巻く大衆民主主義社会の実状は、現在でも何も変わっていない。

アメリカ人はほとんどいつも落ち着き払って冷静な様子を崩さないが、しばしば唐突な情熱に駆られ、あるいは軽率な意見に引きずられて、理性の限界をはるかに超えてしまうことがある。驚くほどの軽はずみを本気でしでかすところが彼らにはある。

この対照に驚くべきではない。

情報の過剰から生まれる無知というものがある。専制国家では、誰も何もいわないので、人は行動の術を知らない。民主国では、ありとあらゆることを言われるので、人はでたらめに行動する。前者は何も知らず、後者は言われたことを忘れる。

一つ一つの絵の輪郭が無数の細部の中に埋もれて見えないのである。

自由な国家、とりわけ民主的な国家で、公的な立場にある人物は時に暴言の限りを尽くして何の非難も受けない。これには驚かされる。絶対王政にあっては不用意に二言三言洩らしただけで、徹底的に追及され、身の破滅を招いても手の施しようがない。

この事実は先に述べたことで説明できる。大勢の人間で喋るときには、たいていの話は聞き取れず、聞こえても記憶からすぐ消えてしまう。だが口をつぐんでじっと沈黙を守る人々の中では、ほんのかすかな囁きでも耳に入る。

デモクラシーにおいては、人は決して同じ場所にいない。無数の偶発事が絶えず人々の居所を変えさせ、なんとも思いがけず、いわば突発的な出来事がほとんどいつも生活を支配している。そのため、彼らはしばしば、よく分からぬことを行い、何も理解していないことを喋り、長い訓練を受けて準備した経験のない仕事に就くことを余儀なくされる。

・・・・・

好奇心は飽きることがないが、またわけなく満たされる。深く知るより早く知りたがるからである。

時間がないので、やがて深く追求する気持ちを失う。

・・・・・

持続的に注意を払わない習慣は民主的精神の最大の欠陥と考えるべきである。

以下の文章を読んで、傲岸不遜で夜郎自大の自民族中心主義と痴呆的な一方的自国賛美という大衆社会特有の精神的病理に罹っている日本の現状を省みると、本当に何も言う気が無くなります。

あらゆる自由な人民は自分たちに誇りをもっている。だがお国自慢がどこでも同じように現れるわけではない。

アメリカ人は、外国人と接すると、どんな些細な非難も我慢できず、何が何でも褒めちぎられたがっているように見える。取るに足らぬお世辞に相好を崩し、褒めちぎっても滅多に満足しない。人に褒めてもらうために質問攻めにし、こちらが話題に抵抗すると、自分で自分を褒める。まるで、自分自身の価値に疑いをもっていて、だからこそ、始終自分の姿を目に浮かべたいのではないかというふうに見える。彼らの虚栄心は欲張りなばかりか、落着きがなく妬み深い。彼らの虚栄心は要求するばかりで、与えるものがない。物欲しげでかつ争い好きである。

アメリカ人に向かって、お住みになっているこの国は美しいですねと言うと、返事はこうである。「そうですとも、こんな国は世界中にありません。」そこに住む人々の享受する自由を賛嘆すると、こう答える。「自由こそは天の貴重な贈り物です。でも、これを享受するに相応しい国民はとても少ないのです。」私が合衆国の醇風美俗を指摘すると、「他のあらゆる国々に見られる頽廃に衝撃を受けられた外国の方が、この有様に驚かれるのは分かります」と答える。私も最後は突き放して、彼が自分の考えに沈むのに任せる。ところが、またやってきて、言ったばかりのことを私にもう一度繰り返させるまで放してくれない。これほど不愉快でうるさい愛国心は想像がつかない。これを称賛するものをさえうんざりさせる。

イギリス人はまったく違う。イギリス人はその国の有する実際の、また想像上の長所を自分の目で確かめ、静かにこれを味わう。他の国民に長所を認めないとしても、自国の長所を外国人に認めさせようとはしない。外国人の批判に心を騒がせず、御世辞に舞い上がるところは少しもない。外の世界全体に対して侮蔑と無知に満ちた無関心なままである。イギリス人の高慢は養分を必要とせず、独りで育つ。

 

 

 

分量が多い分、以上で引用した以外の部分にも、注目すべき文章は多い。

だが、「多数の暴政」という本書の主張の肝は、中公版の抄訳でも読み取ることが出来るかもしれない。

これだけ重要な名著なのだから、全訳を読んだ方がいいのは間違いないだろうが、初心者にとってそれが必須か、といえばかなり迷う。

余裕のある方は取り組んでみて下さい。

WordPress.com Blog.