万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年4月20日

板橋拓己 『アデナウアー  現代ドイツを創った政治家』 (中公新書)

Filed under: ドイツ — 万年初心者 @ 06:02

第二次大戦後、ドイツの「西欧化」を決定付けた政治家を描いた評伝。

内政面では自由民主主義を定着させた。

ヴァイマル共和国の人民投票的民主主義と価値相対主義を排し、代表制を徹底させ、民主主義を破壊する勢力には寛容を適用せず闘う姿勢を取り、首相権力を強化した宰相民主主義を確立。

外交面では「西側結合」路線を選択。

それまでのドイツ外交は、東西を股に架ける「ブランコ外交」や、東方ロシアと結ぶ「ラパロ外交」、中東欧を自己の勢力下に収める「中欧政策」が主流だった。

 

 

コンラート・アデナウアーは1876年ケルンの中級官吏の子として生まれる。

敬虔なカトリック信仰を持つ環境で育つ。

ケルンのカトリック教徒は比較的リベラルで社会改良的。

ウィーン会議後、ケルンを含むラインラントがプロイセン領になったことは、高校世界史の範囲内で既知のことでしょう。

アデナウアーが成長した頃には文化闘争も終息しており、自治権も強く、反プロイセン感情は強くなかったという。

ケルン名門一族の娘との結婚を機に出世、中央党の支持を得て、1909年ケルン副市長となり、第一次大戦中1917年に市長就任。

翌1918年ドイツ革命勃発、当初レーテ勢力抑圧を試みるが、情勢を見て、革命勢力と決定的に対立せず、かつ主導権を奪われないよう巧みに実務能力を発揮し、革命の統御と急進化阻止に成功。

戦後イギリス占領軍と良好な関係を築く。

ここでラインラント分離構想問題が出てくる。

この問題について、戦後の混乱期に、四つの立場が現れた。

(1)「併合」路線=フランスへの併合

(2)「分離」路線=中立の「ライン共和国」独立

(3)「自律」路線=ラインラントをドイツ国家内の一州としてプロイセンから分離

(4)現状維持=これまで通りプロイセンの一部に留まる

アデナウアーは(3)の立場だったが、(2)の勢力とも一時連携を図ったことがあるため、「分離主義者、売国奴、戦勝国の手先」との非難を受ける。

しかし、アデナウアーはラインラントのドイツからの分離ではなく、プロイセンからの分離を主張しただけであり、これによってフランスの対独恐怖に配慮し、それを和らげることができると考えた。

(2)の勢力との接触も、単に政治的考慮からで、自己の信念とは関係が無いとされている。

ちなみにアデナウアーの構想は、第二次大戦後、ノルトライン・ヴェストファーレン州成立で実現されている。

ヴァイマル共和国時代も継続してケルン市長。

市のインフラ整備、大学再建に努める。

ナチ政権よりも前に、ケルン・ボン間のアウトバーンを建設して成果を上げるが、やや放漫財政の傾向もあった。

政党では中央党に所属していたものの、党人色は強くない。

1921年賠償問題での組閣難で、アデナウアーに首相就任の打診が来る。

「相対的安定期」の1926年にも社会民主党から人民党までの大連立内閣での首班となる打診があった。

双方とも、アデナウアーが首相の絶対的人事権を主張したため、流れる。

1933年ナチ政権成立、首相就任1ヵ月にもならないヒトラーのケルン訪問時に出迎えをせず、市道のナチ旗を撤去したことを切っ掛けに市長を罷免。

ナチに迎合する一部カトリックや中央党を冷ややかに眺める。

翌34年レーム事件時に逮捕され、一時拘留される。

以後引退し、年金生活へ。

44年7月20日ヒトラー暗殺未遂事件で逮捕され、収容所送りとなる。

生き延びたものの、終戦時にはすでに69歳であった。

米軍によって再度ケルン市長に任命される。

しかし45年6月占領軍がイギリス軍に替わると、それと衝突し10月に罷免。

結果的にはケルン市長の業務に没頭することを避けることができ、個人的キャリアにはプラスとなった。

政治信条としては、国家の神格化、物質主義、ナショナリズムへの傾倒を批判、政治におけるキリスト教倫理的基盤の回復を主張。

工業化・都市化による個人の「根無し草化」が物質主義を通じて国家と権力への崇拝を生んだ、マルクス主義もその一種であり、ナチズムとスターリニズムは同一の範疇に属するとする。

個人主義(というより人格主義の言葉を用いた方が適切かもしれないと著者は記す)を擁護し、徹底した反共主義を貫く。

ただ、ソ連を批判して「アジア的」と表現するのは、ドイツ人の悪い癖だなあと個人的には感じる。

戦後、カトリック・プロテスタントの枠を超えた超宗派的政党結成の機運が盛り上がり、45年7月ベルリン、ケルン、フランクフルトなどでキリスト教民主党(CDP)が結成される。

この地方レベルでの自生的な動きを全国レベルで組織化することが目指されるが、その過程でベルリン・グループ指導者ヤーコプ・カイザーらとアデナウアーの主導権争いが生じる。

45年12月キリスト教民主同盟(CDU)結成、アデナウアーは、綱領でキリスト教社会主義色を排除し、外交面でも東西間の架け橋を目指すとするカイザーらに反対。

ソ連占領地域において、共産党が社会民主党を吸収合併して成立した独裁政党、社会主義統一党(SED)の圧力でカイザーがCDU議長を解任され、ベルリン党の影響力が減退。

CDUとキリスト教社会同盟(CSU バイエルン州のみを基盤とする、より保守的な党派)が共同議員団を結成。

自由民主党(FDP)と北ドイツの保守政党ドイツ党(DP)と連携し、社会民主党(SPD)を排除することをアデナウアーは目指す。

1947年冷戦が進行し、トルーマン宣言とマーシャル・プランが発せられる。

48年2月チェコが事実上のクーデタで共産化、3月ドイツの西側占領区統合と西ドイツ国家創立決定。

同48年通貨改革とベルリン封鎖。

(憲法ではなく)暫定的性格の「基本法」制定会議議長にアデナウアーが就任。

占領軍との「特権的対話者」の位置を占め、ドイツ国内での調停者的立場の有利さも享受する。

1949年5月基本法採択。

首都はフランクフルト・アム・マインではなく、ボンと定められる。

ボン基本法にはヴァイマル憲法の反省が盛り込まれる。

ヴァイマル共和国時代、まず民意を正確に反映するとされた比例代表制が小党分立による政治の不安定化を招いた。

ナチ、共産党ら反議会主義勢力が過半数を占めると議会政治が麻痺し、人民投票に基づく強大な大統領権力に依拠した政権運営が行われた。

ボン基本法では、大統領は名誉職化し儀礼的存在とされ、さらに国民の直接投票ではなく議会による選出とされる。

「建設的不信任」制度を採用し、内閣不信任案の成立には、議会で後任内閣を支持する勢力を準備する必要を課し、議会解散も厳重に制限。

国民発案(イニシアティヴ)、国民票決(レファレンダム)など、直接民主主義制度を廃止。

「闘う民主主義」の立場から、「憲法敵対的」政党を禁止、共産党とネオナチ政党が実際に禁止判決を受けている。

首相の「基本方針決定権限」(65条)を制定、首相権限を強化。

基本法条項ではないが、選挙法において「5%条項」を定め、5%以下の得票率の政党には議席を与えず、小党分立による混乱を回避。

 

 

こういう施策を見て、どう思います?

「ドイツはナチスを生んだ反省から、第二次大戦後、より民主化した政治制度を採用した」と思いますか?

逆ですよね。

国民投票など直接民主主義的制度を退け、国家元首を人民の直接投票で決めることも止め、政治の安定化のため実質的権力者である首相の地位と権限を強化し、死票が増えることも厭わず完全比例代表制を捨て、結社・言論の自由を(たとえ一部たりとも)制限する。

戦後ドイツがやったことは「民主化の徹底」ではなく、「民主主義の制限」です。

そうとしか言い様がない。

狂信的な大衆運動がナチズムを生んだことへの反省から、そうした衆愚が政治に与える影響を少しでも抑止しようと、民主主義を、特に直接民主主義を制限したんです。

(政治的立場の左右を問わず、だが、最近では特に右寄りの)多数派民意を絶対視し、それをありとあらゆる問題に反映すれば、すべては解決すると考え、重要課題はすべてネットの国民投票で決めろと言う(残念ながら現在の世界、特に日本では圧倒的多数を占める)人間は、近現代の世界史と日本史から何一つ学ぶことができない、本来なら政治について何の発言権も持つべきではない愚か者です。

「いや、そんなことはない、戦後、我々は過去への反省から、民衆の意志を権力の正当性を保障する唯一の源泉と考え、民主主義を選んだんだ」というドイツ人がいたら、「今のご発言は、“我々は国民の51%が望めば、再び、断固として、ヒトラーに権力を与える”と私は解釈しますが、それでよろしいですか?」と問い詰めたいです。

 

 

1949年8月第一回連邦議会選挙が行われ、CDUは「社会的市場経済」を掲げ、SPD党首シューマッハーと対決し、勝利。

9月大統領にFDP出身のホイス就任、アデナウアーを首相として、CDU、CSU、FDP、DP政権樹立。

何より注意すべきなのは、この時点でのドイツ連邦共和国(西ドイツ)は主権国家ではないこと。

米英仏の高等弁務官が軍事・外交・最終警察権を留保し、外務省も建国時にはなく、軍隊もなし。

49年10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、大統領はピーク、首相はグローテヴォールだが、実質的最高指導者はウルブリヒトか。

首相となったアデナウアーは「西側結合」外交を最重視し、西ドイツ主権回復とヨーロッパ統合を同時に追求。

本書ではここで『ドイツ再軍備』が薦められている。

50年5月仏外相シューマンと計画庁長官ジャン・モネが立案したシューマン・プランが提出され、同年6月勃発の朝鮮戦争がもたらした危機感の中、51年欧州石炭鉄鋼共同体条約調印、欧州統合の第一歩が踏み出される。

安全保障面では、50年10月仏首相の発案によるプレヴァン・プラン発表。

「欧州防衛共同体(EDC)」を設立し、その統制下で西ドイツの再軍備を行うというもの。

このEDCは、「失敗し、成立しなかったことが重要史実である」という珍しい例。

高校レベルでは出てこないが、初歩的な国際政治史では必ず出てくる。

西ドイツ内での再軍備議論が激しくなり、内相ハイネマンは再軍備に反対し辞任(のちにSPD入りし、1969年には大統領となる)。

「ブランク機関」が設けられて再軍備の研究・準備が進行、それが国防省となる。

51年外交権回復、外相はアデナウアーが兼任。

ドイツの復興と西側陣営の結束を見たソ連は52年スターリン・ノートを提示。

東独の共産主義政権を事実上放棄し、ドイツの再統一を容認する代償に、中立化を要求。

自由選挙と国防に必要な軍事力を容認するもの。

これは西側への揺さぶりや「平和攻勢」ではなく、真剣な取引の可能性があった。

空想的平和主義者や親共主義者ではない、現実主義者からも交渉を主張する人々がいた。

与党内のカイザー、ブレンターノらもそれを支持。

だが、ソ連崩壊後の最近の研究では、「西側同盟内で再軍備した西ドイツよりは、東ドイツを犠牲にしてでも、再軍備した中立・統一ドイツをソ連は好んだ」という主張は支持されず、この時点でドイツ再統一の好機を逸したとは考えられていない、と書かれている。

ただ、アデナウアーの方針が正しく、ソ連の意図を見抜いたのではなく、自身の見解に固執しただけ、との評も記されている。

53年訪米、アイゼンハワー政権の国務長官ダレスと意見一致。

同年スターリン死去、東ベルリン暴動が起こり、対共産圏強硬姿勢への支持が高まり、第二回議会選挙で圧勝。

基本法の連邦権限に国防義務を補充。

54年仏議会が上記EDC批准を拒否、英外相イーデン(第二次チャーチル政権)の主導で、48年調印のブリュッセル(西欧連合)条約に独伊を加入さた上で、パリ協定を締結、西ドイツのNATO加盟と主権回復を達成(ただし統一とベルリンについての権利と責任は留保)。

西独は核・生物・化学兵器を条件付きで放棄。

55年国防省設立、外相にブレンターノ就任。

同年東側ではワルシャワ条約機構設立。

フルシチョフ政権はドイツ統一と中立化よりも、ドイツ分断固定化と東ドイツの維持・安定化を目標とするようになる。

55年アデナウアーはソ連を訪問、国交を樹立。

外務次官の名を取ったハルシュタイン・ドクトリンを採用、(ソ連を例外として)東ドイツと外交関係を持つ国とは断交するとの方針。

57年対ソ和解したユーゴスラヴィアが東独を承認すると、断交を実施。

同年ザールラントが復帰し、独仏間の懸案が取り除かれる。

ベルギー外相スパークの提案でさらなる欧州統合が計られ、原子力問題での自立性や米英協調志向の経済相エアハルトらの反対を押し切り、アデナウアーは57年欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(ユーラトム)条約調印(翌年発効)。

イスラエルとの和解の一歩へも踏み出し、52年ルクセンブルク補償協定に調印、イスラエルとユダヤ人団体への補償を行い、イスラエル首相ベン・グリオンと協力、56年スエズ戦争時、ダレスの要請にも関わらず支払いを停止せず(それぞれの後任、エアハルトとエシュコル間は関係が険悪であった)。

ただ、ドイツ人の集団的罪責は否定し、ドイツ人もナチの被害者と位置付ける傾向があったとの批判も受けた。

外交面での華々しい活動に比して、内政面では閣僚・議会任せの感もあり。

宰相民主主義と呼ばれる、首相権力の安定化・強化に努力。

それに協力した首相府次官グロプケは、実は悪名高きニュルンベルク法の注釈を書いた人物であり、一部で非難を浴びた。

これはやや暗い名だ。

CDU組織の脆弱さを逆に利用、調停者として自己の権威を高めることに成功。

DPなど右派小政党を吸収。

反共の立場のSPDを、やや不当にも反マルクス主義宣伝で批判。

50年代奇跡的経済成長を達成、社会保障制度を整備。

57年第三回選挙でも圧勝。

後継者として台頭した経済相エアハルト(より自由主義経済の原則に忠実な専門化タイプ)と対立。

59年大統領ホイスが任期満了、ホイス三選を目論むが失敗、次にエアハルトを大統領職に祭り上げようとして失敗、さらにはアデナウアー自身が立って閣議への参加権などを定め、大統領が実質的権力を持つという、かつて自身が禁じていた方針を目指し、さらに失敗、権威を失墜させる。

結局農相リュプケが大統領就任。

58年ド・ゴール政権成立、第二次ベルリン危機、米英ソの頭越しの妥協を恐れ、それを牽制するため独仏枢軸路線を採用。

61年ケネディ政権誕生、ベルリンの壁構築、第四回選挙で辛勝。

米国との懸隔が生じ、独仏枢軸による一定の対米自立を目指す「ゴーリズム」と対米協調を最重視する「大西洋主義」のうち、前者を選択。

SPDは59年バート・ゴーデスベルク綱領を採択、マルクス主義と絶縁、国民政党として政権担当能力を示す。

62年NATO機密報道をめぐって雑誌『シュピーゲル』編集長らを逮捕、この事件で一時FDPが連立離脱。

63年エリゼ条約(独仏友好協力条約)調印。

同年ド・ゴールはナッソー協定(米潜水艦ミサイルの対英供与)を批判し、英のEEC加盟を拒否。

しかしエリゼ条約も一部修正され、結局「EEC=NATO体制」を大枠で確認するものに留まる。

同63年アデナウアーは首相を辞任、67年に死去。

 

 

最後にアデナウアーの西側結合の永続性についての評言。

ブラント政権の東方政策は「中欧路線」という伝統と「西側結合」との統合と言えるが、ドイツにとって西側との協力はもはや「国益」を超えた「国家理性」となった。

内政で、国民をあまり信用しなかったアデナウアーが権威主義的とも言える指導によって基本法秩序を安定させ自由民主主義を定着させた。

ドイツの歴史問題について、内心ではナチへの集団的罪責を認めていた面もあるが、それへのナショナリズムの反動を恐れ公にはせず。

しかしそれでも「過去の克服」の出発点を築いた、と著者は評価する。

そして著者は、本書末尾で、自国民のナショナリズムを煽り、迎合する「保守」政治家がのさばる日本へのやり切れなさを記している。

これは、政治史研究者としては失格の、時代も国際環境も無視した稚拙な所感だが、そう思ってしまったのだから仕方ない。

昔の私なら反発していたであろう記述だが、今の余りに酷い世論状況を見ると、そんな気持ちも無くなります。

 

 

非常に良い。

コンパクトながら、内容は極めて充実している。

初心者にとって有益な知識が吸収しやすい形で配されている。

『アデナウアー回顧録 1』『同 2』を以前紹介しているが、入手も通読も困難なので、本書を読んだ方がいいでしょう。

効用の高い入門書として十分お勧めできます。

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