万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年3月28日

栗田和明 根本利通 編著 『タンザニアを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 02:06

東アフリカにある国。

北はケニアとウガンダ、西はルワンダ、ブルンジ、コンゴ民主共和国、南はザンビア、マラウィ、モザンビークに接する。

自然環境では、アフリカ最高峰キリマンジャロ山が存在、北にヴィクトリア湖、西にタンガニーカ湖、南でニャサ湖に面する。

首都は中部のドドマだが、中心都市は東海岸近くのダルエスサラーム。

スワヒリ語が公用語、宗教的にはキリスト教徒とイスラム教徒が半々ほど。

歴史としては、イスラムの影響が浸透してくるまではよく分からない。

バントゥー語とアラビア語が合わさって、スワヒリ語が形成。

16世紀ポルトガルがモザンビークを占拠。

それに対抗して、オマーンのイスラム勢力が沖合いのザンジバル島を中心に海上帝国を築くが、1890年イギリスによって保護領化。

1884~85年アフリカ分割に関するベルリン会議で、現在のタンザニア本土はドイツの勢力圏下に。

1905~07年「マジマジの反乱」が起こるが、ドイツ軍に徹底的に弾圧される。

第一次大戦後、イギリスの委任統治領タンガニーカとなる。

1961年独立、翌年ニエレレが大統領就任。

63年ザンジバルが英保護領時代も継続して在位していたスルタンを元首とした立憲君主国として独立したが、翌64年アラブ系とアフリカ系の対立から革命勃発、同年タンガニーカと合邦し、タンザニア連合共和国となる。

ニエレレ政権は徐々に西側諸国と距離を置き、内政ではアフリカ社会主義を標榜、農村での「ウジャマー社会主義」建設を唱えたが、農業集団化と基幹産業国有化という政策は当然行き詰ります。

ニエレレは経済不振の責任を取って1985年辞任。

しかし、私財蓄積もせず、自身への個人崇拝を嫌い、アフリカ諸国では通例となっている内戦やクーデタ、軍政を経ずに国家の統一と平和を維持し、宗教・民族をめぐる対立を深刻化させなかったという点で、依然「国父」としての尊敬を集めている、本書では記されている。

私はもう少し厳しい意見が記されているのかなと予想していたので、やや意外の念を持ちましたが、もちろんこういう見方もあるんでしょう。

その後の政局は特にフォローしないでいいでしょう。

国の位置と、イスラムの影響、独→英という宗主国の変遷、ザンジバルとの合邦、ニエレレという人名、この国についてとりあえず憶えるべきことはこれだけ。

何か国際ニュースになった時、その都度記事を参照すればいい。

それで困ることは無いでしょう。

2017年3月23日

ゴンチャロフ 『オブローモフ 上・中・下』 (岩波文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 16:16

原著は1859年刊。

高校世界史では影も形も無い、少々詳しい文学史ではないと出てこない著者と作品名である。

ただ、非常にユニークな作品であるということは、仄聞していた。

あらゆることに無気力で、両親より受け継いだ領地から上がる年貢を糧に、従僕のザハールと共に無為徒食の日々を送る主人公オブローモフを描いた、「元祖ひきこもり小説」。

主人公唯一の親友であり、活発で有能なシュトルツは、オブローモフを社会活動に連れ出そうと、知的で清純な美少女オリガを彼に紹介する。

すると、彼もオリガも互いに愛し合うようになる、という都合の良すぎる展開に。

だが、オブローモフの生活上の無能力さに、さすがのオリガも愛想を尽かし、二人は別れる。

その後、オブローモフは性質の悪い知り合いに騙され、あやうく食い物にされそうになるが、再登場したシュトルツに救われる。

シュトルツとオリガは、オブローモフを何とか無気力な生活から連れ出そうとするが、それも実を結ぶことなく、彼はこの世を去る。

ほとんどの人は、主人公のあまりの駄目人間振りにあきれ果てるでしょうが、私自身は、間違いなく自分にも同様の性質があることがわかっているので、何とも言えない同情と共感の念を抱いてしまう。

それにオブローモフにも否定的な面しか無いわけでもなく、後半でシュトルツの身の上に起こったある事実を知って心から彼を祝福したり、自分を害そうとした人物に対し、自分以外の人への侮辱について激怒したり、と時には感動的なまでの振る舞いをすることもある。

シュトルツが作中で言うように、オブローモフはこれ以上ない駄目男ではあるが、善良で潔白な魂も持っている。

 

 

これは凄い・・・・・。

とんでもない怪作だ。

感想に窮するが、非常に印象的な作品であることに間違いはない。

普段あまり文学など読まないという方にも十分薦められる。

機会があれば、是非お読み下さい。

2017年3月16日

佐藤賢一 『ヴァロワ朝  フランス王朝史2』 (講談社現代新書)

Filed under: フランス — 万年初心者 @ 05:26

『カペー朝』の続編。

2014年刊。

本書を読む上で、当然全ての国王を憶えることを目標にする。

以下、内容メモ。

 

 

 

フィリップ6世(1328~1350年)

王権を大いに伸長したフィリップ4世の子、ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世(とルイ10世の嬰児ジャン1世)が次々に死去。

王朝成立以来、奇跡とも呼ばれる単線的な父子継承を続けてきたカペー朝もさすがに断絶。

フィリップ4世の兄弟ヴァロワ伯シャルルの子フィリップ6世が即位、ヴァロワ朝が成立。

と言っても、要は従兄弟に王位が移っただけである。

ここで前著『カペー朝』の記事末尾で、私が書いた疑問に触れられている。

なぜこの程度の継承が王朝交替と見なされるのか、後述のヴァロワ朝内部の継承では、より不自然なものが見られるのに、という疑問です。

結論は、英国王エドワード3世が異議を唱え、王位継承権を主張し、百年戦争という大事件が勃発したため、結果として王朝交替と見られるようになった、ということです。

フィリップ4世の娘で三国王の姉妹イザベルがエドワード2世と結婚、そこから生まれたのがエドワード3世。

先代エドワード1世がウェールズ征服を成し遂げたのに対し、エドワード2世はスコットランド王のロバート・ブルースに大敗、イザベルは、このように失政の多かった夫を宮廷クーデタで廃位し、息子の3世を王位に就けている。

1339年フランドル伯領の争いも絡んで百年戦争勃発。

ブルターニュ公国の継承争いにも英仏が介入。

1346年、北仏を西から東に荒らしまわるエドワード3世にフィリップ6世が応戦し、最初の決定的な戦闘、クレシーの戦いが起こる。

英軍が国王の命令一下、騎兵が下馬して敵を待ち受けたのに対し、統制の取れない仏軍は中世騎士の習いでただただ突進するだけ。

左右に配置された英軍の長弓兵の餌食となり、その後騎兵の突撃を受けて、仏軍は大敗。

王弟、フランドル伯など重要人物の戦死も相次いだが、その中にボヘミア(ベーメン)王ヨハンがいたことを記憶しておく。

ヨハンはルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子で、のちの皇帝カール4世の父、ジギスムントの祖父に当たる。

このクレシーの戦いが1346年です。

年号をもう一度見て下さい。

「何か、もうすぐとんでもないことが起きそうだなあ」と感じませんか。

思いません?

出来れば思いついて欲しいんですが。

 

 

 

 

1348年前後の黒死病の大流行です。

(1648年ウェストファリア条約、1848年仏二月革命・独三月革命など全欧規模の革命、と並んで憶えるべき「三つの48年」の一つです。)

ヨーロッパ全域で人口の三分の一が失われたとも言われる、破滅的な災厄となった。

フィリップ6世はドーフィネ候領を購入して獲得するなど(フランス王太子の称号ドーファンの語源)、手堅い政治的手腕を見せたこともあったが、その治世はやはり散々なものと言わざるを得ない。

1350年崩御、子のジャンが跡を継ぐ。

 

 

 

ジャン2世(1350~1364年)

高校世界史では用語集にだけ名前が出るレベルの国王だが、正直、ローマ帝国のヴァレリアヌス帝やオスマン朝のバヤジット1世と並んで、「捕虜になった人」というイメージしかない。

父王に比べれば軍事的才能には恵まれており、国王の命令が貫徹される軍の設立を目指す。

1356年ポワティエの戦いが勃発。

友軍との合流に失敗した黒太子エドワードをジャン2世が捕捉、英軍六千、仏軍三万と数では圧倒的にフランス優位。

今回は仏軍騎兵も国王の命令で下馬したが、徒歩であっても単純な突撃戦法は変わらず、前回同様長弓の餌食となり、大敗を喫する。

ジャン2世自身も捕虜となるが、厳しい監禁生活は強いられず、王侯にふさわしい待遇を受ける。

この戦いで奮戦した王の末子フィリップが「豪胆公」と呼ばれるブルゴーニュ公の祖となったことは要記憶(他の本では「剛勇公」の訳語を当て、「豪胆公」(あるいは「突進公」)は四代目ブルゴーニュ公のシャルルに与えるものもある)。

危機の中、王太子シャルルは全国三部会を招集。

ところが、パリ商人頭(市長)のエティエンヌ・マルセル率いる平民議員は顧問会議による王権の掣肘を主張、王太子の側近が殺害されるなど、革命の様相すら見せ始める。

農村では1358年ジャックリーの乱が起こる。

王太子は両反乱を何とか鎮圧。

イギリスとの交渉では、ポワトゥー、アキテーヌ、カレー市周辺など王国の三分の一と莫大な身代金を代償にジャン2世解放。

で、履行保証のため、国王の身代わりに第二・第三王子などが人質になったのだが、第二王子が逃亡し外交問題になると、傑作なことにジャン2世は海を渡り、自発的に再度捕虜になった。

本書でも記されているように、一国の統治者としては軽率な振る舞いかもしれないが、戦争に国民的憎悪が不在で、名誉とフェア・プレイを重んじる中世の理想が存在していたことは称賛に値すると言うべきかもしれない。

ジャン2世はそのままロンドンで客死。

 

 

 

シャルル5世(1364~1380年)

初代、二代目と散々な治世が続いたヴァロワ朝だが、このシャルル5世の時代に顕著な立ち直りを見せる。

神聖ローマ皇帝カール4世は母方の伯父にあたり、王太子時代に金印勅書発布の場にも居合わせたという。

病弱ではあるが、頭脳明晰、着実に事を進める堅実さを持つ。

タイユ(人頭税・直接税)、エード(消費税・間接税)、ガベル(塩税・間接税)という大革命に至るまで王国財政の基礎となる恒常的全国課税制度を確立。

それまで直接支配する王領の年貢収入25万リーヴルほどに頼っていた王国の予算は、次代シャルル6世時代にかけて200万リーヴル規模に拡大したという。

デュ・ゲクランという小貴族を王国軍総司令官に抜擢、傭兵隊の弊害を避けるため、小規模ながら常備軍を整備。

フランドル伯継承者の女子と末弟ブルゴーニュ公フィリップ(捕虜から解放された際の父ジャン2世によって跡継ぎの無かった公に据えられていた)を結婚させ、ネーデルラントとブルゴーニュを結びつける(中世末期ブルゴーニュはフランスに併合、ネーデルラントは政略結婚政策でハプスブルク家領に)。

各地の要塞を整備、パリにバスティーユ要塞を建設したのもこの王。

ナバラ王国、ブルターニュ公領、カスティリャ王国にも介入。

イギリスとも再戦し、カレー、ボルドー、バイヨンヌなどの港湾都市とその周辺にのみ、英領を封じ込める。

1377年エドワード3世没、孫のリチャード2世即位。

1378年アヴィニョンとローマに両教皇並立(~1417年。教会大分裂[大シスマ])。

ブルターニュの併合には失敗した後、1380年シャルル5世崩御。

 

 

 

シャルル6世(1380~1422年)

シャルル5世の治世に大きく立ち直ったフランスだが、このシャルル6世時代にその国威はどん底にまで落ちてしまう。

11歳で即位。

叔父のアンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公が補佐するが、その中でブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)が台頭。

ブルゴーニュ公に対し、バイエルン公家出身の王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールと王弟ルイ(のちオルレアン公になり、ミラノ公ヴィスコンティ家の娘と結婚)が対抗、両者のバランスの上に、シャルル6世は親政を開始する。

だが、1392年頃から王は不幸にして精神異常の兆候を見せ始め、定期的に正気と狂気の間をさまようようになる。

国王という要を失った国は、ブルゴーニュ派とオルレアン派に分裂していく。

英仏間は長期間の休戦協定が結ばれ、シャルル6世の王女が英国王リチャード2世に嫁いだが、1399年リチャードは王位を奪われ、従兄弟のヘンリ4世が即位、ランカスター朝が成立。

1404年ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公が病没、子のジャン無畏公が登位。

ジャン無畏公はパリを占拠し、オルレアン公ルイとイザボー王妃は地方へ逃れる。

一時和解が成立したが、1407年オルレアン公がブルゴーニュ派に暗殺され、いよいよ両者の対立はのっぴきならないものとなり、宮廷内の勢力争いから、武力衝突を伴う内乱のレベルになってしまう。

新たにオルレアン公となったのは子のシャルルで、その後ろ盾になったのが義父の有力諸侯アルマニャック伯だったので、以後オルレアン派はアルマニャック派と呼ばれるようになる。

両派ともにイギリスに支援を求めるという致命的行為を為し、それに消極的だったヘンリ4世が1413年死去すると、替わったヘンリ5世は再度フランスに上陸。

ブルゴーニュ派は「カボッシュの乱」という混乱を引き起こしてしまい、パリを退去、替わってアルマニャック派が入城、中央政権を奪取。

このアルマニャック派政権とヘンリ5世軍が激突したのが、1415年アザンクールの戦い。

クレシー、ポワティエと同じく、数では四分の一以下のイギリス軍が長弓兵の威力で圧勝、仏軍は惨敗する。

さらに、王太子と弟が病没、シャルル6世の末息子シャルルが王太子に昇格、アルマニャック派の旗印になる。

王太子は政争の種となってきた母イザボーを追放するが、イザボーはブルゴーニュ派に投じ、パリを奪還、再びブルゴーニュ派がフランス王家を代表することになる。

これまで親イングランド政策を続けてきたジャン無畏公だが、ヘンリ5世がパリ進軍の気配まで見せるようになると、さすがにアルマニャック派との和解に動く。

王太子シャルルとの会見が準備されたが、そこでジャン無畏公が暗殺されるという衝撃的事件が起こる。

この破滅的事件で内乱への最後の箍が失われてしまった。

激昂したブルゴーニュ派と三代目の公フィリップ(善良公)は「アングロ・ブールギィニョン同盟」を締結、アルマニャック派を不倶戴天の敵と見なし、フランス王国の保全よりもアルマニャック派への復讐を優先するようになる。

後世から見て、党派争いの為に敵国と結ぶのは「裏切り」「売国」の印象が強く、百年戦争におけるブルゴーニュ派にはどうしてもそのイメージが付きまとうが、ナショナリズムと国民国家成立前にはそれが奇異で嫌悪すべきものとの感覚が共有されていなかったし、そもそもブルゴーニュ公も三代目となると、フランス人というより重要な領地であるフランドル人としての自己意識の方が強かったのではないかと本書では述べられている。

1420年トロワ条約締結。

将来のシャルル6世死後、その王女と結婚したヘンリ5世がフランス国王となり、英仏両王国は統合され、同君連合を結び、王太子シャルルは廃嫡される、との内容。

もしこれが実現していたら、世界の歴史は全く変わっていたはずである。

しかし、運命の女神はそのような道を許さなかった。

1422年ヘンリ5世は35歳の若さで死去、その後同年中にシャルル6世も亡くなるが、わずか二ヵ月の差で、ヘンリ5世はフランス王にはなれず。

後継ぎのヘンリ6世はまだ赤子に過ぎず、もしヘンリ5世が強健なまま、王太子シャルルと対峙していたら、との空想は興味深い。

 

 

 

シャルル7世(1422~1461年)

身体能力に恵まれず、外見もぱっとせず、利発とも言えないこの王が百年戦争を勝利に導くことになる。

父シャルル6世の摂政に指定されたアンジュー公家の娘と結婚、賢夫人と定評のある義母ヨランド・ダラゴンの影響を受ける。

父の死後、フランス国王即位を宣言したが、イングランド・ブルゴーニュ派からは「ブールジュの王」と呼ばれる。

ただ、教科書などでは、このシャルル7世の即位当初のフランスを「崩壊寸前」と描写しているものも多いが、この最悪の時期でも中部から南部にかけて、フランス王国の半ば以上はシャルル7世の支配下にあり、あまり窮状を誇張すべきでもない、という意味のことが書かれている。

とは言え、アルマニャック派内部の政争もあり、厳しい状況だったのは確かである。

そこに1429年ジャンヌ・ダルクが登場し、オルレアンの包囲を解いて入城する。

ジャンヌが王と会見し、信頼を得たのはヨランド・ダラゴンの手引きであり、王に語ったのは母イザボーの奔放な振る舞いから、本当は自身が父王の子ではないのではないかとの疑惑を払拭するに足る出生の秘密ではなかったか、との説もあるが、この辺の真相は永遠に不明でしょう。

オルレアン包囲戦について、ジャンヌの戦術自体は単純で、持久戦となり、各砦に戦力を分散させ過ぎていたイングランド軍を、ジャンヌの登場で戦意が向上していたフランス軍が各個撃破した、というもの。

その背景として、長年続いた戦争とその被害によって、フランスの国民意識が固まりつつあったこと、そのナショナリズムの象徴がまさにジャンヌ・ダルクだったとされている(ジャンヌ自身、ブルゴーニュ公には同じフランス人として和平を勧める手紙を送っている)。

オルレアン解放後、ランスでシャルル7世の戴冠式が挙行されるが、1430年ジャンヌは捕虜となり、31年火刑に処されてしまう。

だが、1435年アラスの和で、ブルゴーニュ派との和平達成、翌36年にはパリ回復。

残るはノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)の二地方だが、シャルル7世は焦らず、大商人ジャック・クールを用い財政制度と常備軍を整備。

ブルターニュ公を親仏派に転向させた上で、1450年ノルマンディーを征服、1453年ボルドーを陥落させ、ギュイエンヌも解放、これで遂に百年戦争が終結。

戦後、王国の行政制度を整え、1461年シャルル7世没。

即位時と崩御時の王国の状況は天と地ほど異なっている。

やはり「勝利王」の名に値する国王であると思われる。

 

 

 

ルイ11世(1461~1483年)

シャルル7世とフランソワ1世の間に在位した三人の王は最も馴染みがない。

「シャルル7世から即8世に行かず、二人のルイが挟まっている」と憶える。

百年戦争終結前後のフランスの課題は、ブルゴーニュ公とブルターニュ公に代表される諸侯の勢力を削減すること。

だが、王太子時代のルイ11世は父シャルル7世にしばしば逆らい、それら大諸侯と共謀し、王に反抗している。

シャルル7世死去時には、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の下に身を寄せていた。

即位後は前王の側近を追放、恣意的・強権的統治を敷き、「暴君」との評も得る。

だが、ブルゴーニュ公、ブルターニュ公らの反抗を圧伏することでは、かつての父王と同じ立場に立つことになった。

フィリップ善良公死後、後を継いだシャルル突進公と衝突を繰り返す。

シャルル突進公はますます独立傾向を強め、ブルゴーニュとフランドル間の地域も併合し、独仏間に強大な独立王国を建設することを目論むが、それに対してロレーヌ公、アルザス諸都市、スイス諸州が立ちはだかる。

1477年シャルル突進公は、ロレーヌ公とスイス諸州の連合軍に敗れ、戦死。

細かな話だが、ブルゴーニュは西のブルゴーニュ「公」領と東のブルゴーニュ「伯」領に分かれ、東の伯領は「フランシュ・コンテ」と呼ばれる。

突進公戦死後、ブルゴーニュ公領はフランス王国に併合される(フランシュ・コンテが仏領となるのは1679年オランダ戦争を終結させたナイメーヘン条約によって)。

しかし、突進公の一人娘マリーは身柄を拘束されることなくフランドルに逃れ、ハプスブルク朝皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンと結婚、これでフランドルはハプスブルク家のものとなってしまう。

だが、アンジュー公親王家の断絶を機に、元は神聖ローマ帝国に属していたプロヴァンス伯領の併合に成功。

北東部でフランドルを失い、南東部でプロヴァンスを得て、中世フランス王国と現在のフランス共和国の領域変化が概ね完成。

最晩年のルイ11世は異常なほど信心深くなり、半狂乱に近かったとも言われる。

 

 

 

シャルル8世(1483~1498年)

ルイ11世47歳の時の子。

そのせいもあってか、厳重に保護され、外の世界と接触しないまま育てられる。

1483年13歳で即位、当初は王姉夫妻が実質統治、オルレアン公ルイ2世(初代ルイの孫、二代目シャルルの子、後にルイ12世として王位に就く)と勢力争いを演じる。

それまで、北仏のラングドイルと南仏のラングドックに分かれて開かれていた三部会が、文字通り全国三部会として開催されるようになる。

ブルターニュ公が死去、後を継ぐ男子はおらず、公女アンヌとシャルル8世が結婚、これでブルターニュの併合が既定路線となる。

親政を開始したシャルル8世は、幼少期の反動からか、空想とロマンに突かれた言動を見せ、それがフランス王国をイタリア戦争に導く。

1494年から1559年まで断続的に続いた近世初頭におけるヴァロワ朝フランスとハプスブルク朝神聖ローマ帝国(とスペイン)間のこの大戦争は、主権国家体制の確立に大きな影響を与えたが、結局イタリアがスペインの支配下に置かれて終結する。

13世紀、神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝断絶後、その領地だった南イタリア王国をルイ9世の弟でアンジュー伯のシャルル・ダンジューが支配。

フランス支配に反発する「シチリアの晩鐘」という反乱が勃発、シチリア島はアラゴン王家出身者が統治、ナポリはアンジュー家が支配するようになるが、中世末期シチリア王国がナポリを併合。

これを継承権の根拠に、1494年イタリア侵攻を開始。

大軍を擁し、ナポリ入城を果たすが、イタリア内外の諸列強が連合し、ナポリを確保できず。

シャルル8世は1498年城の改築中に柱を頭にぶつけて、28歳の若さで事故死、ヴァロワ朝の直系は途絶える。

 

 

 

ルイ12世(1498~1515年)

シャルル6世の弟が初代オルレアン公ルイ、子がシャルル、孫がこのルイ12世。

即位でヴァロワ・オルレアン朝が成立したとの見方もある。

冷静沈着で温厚寛容な人柄で名君との評も得たが、減税の為に「官職売買」という、大革命に至るまで大きな弊害を残す制度を始めてしまう。

イタリア戦争を継続、初代オルレアン公の妃がミラノ公ヴィスコンティ家出身だったことを根拠に、スフォルツァ家統治に替わったミラノの継承権も主張。

一時ミラノ占領に成功、続いてナポリにも出兵するが、奪回され、以後特にナポリはヴァロワ朝諸王の手には二度と入らないことになる。

1515年死去。

 

 

 

フランソワ1世(1515~1547年)

初代オルレアン公ルイ1世の次男が初代アングレーム伯、その孫がフランソワ1世。

分家の分家が後を継いだわけだから、以後の王統はヴァロワ・アングレーム朝とも呼ばれる。

身長2メートルを超え、陽性で派手好き、活動的な性格、絢爛豪華なルネサンス君主として君臨する。

1519年神聖ローマ帝国皇帝位を争い敗れ、即位したカール5世は終生の宿敵となり、イタリアで死闘を繰り広げるが、1525年パヴィアの戦いで惨敗、フランソワ1世自身が捕虜となる。

内政ではレオナルド・ダ・ヴィンチを招くなどルネサンス文化を保護したが、カルヴァンらの宗教改革については徐々に厳しい姿勢を見せ始める。

1547年死去した際には、オスマン朝やドイツの新教徒との連携も空しく、イタリアは失われており、悪化した財政が残された。

その華やかなイメージは強い印象を与えるが、治世の実績はあまり芳しくないと言わざるを得ないかもしれない。

 

 

 

アンリ2世(1547~1559年)

フランソワ1世まで来ると、後はかなり楽。

その子と三人の孫でヴァロワ朝が終わるので(最後に三兄弟が相次いで即位するというのは、奇しくもカペー朝と同じ展開である)。

まず子のアンリ2世が即位。

妻がメディチ家出身のカトリーヌ・ドゥ・メディシスだったことは当然要チェック。

父のフランソワ1世が捕虜になった際、解放の代償として人質に出され、スペインで一時囚人のような扱いを受ける。

その復讐心もあってか、イタリア戦争を再開、シュマルカルデン戦争中のドイツ新教徒と連携、フランソワ1世の父がサヴォワ家の女性と結婚していたことを根拠に、フランスと隣接し保持しやすいピエモンテに食指を動かす。

内政では後に職務別大臣制の先駆となる地域別の国務卿を設置、諸州巡察制度を整備し、権限の大きな州総督も設置するが、自身の治世中はその独立傾向を抑制し得た。

ギーズ公(当主フランソワ)派とモンモランシー元帥派(甥のコリニー提督を含む)の党派対立が激しくなる。

主戦派のギーズ公がイングランドからカレーを奪回、大陸の最後の英領が消滅。

だが戦局は好転せず、1559年カトー・カンブレジ条約締結、これによって半世紀以上続いた、長い長いイタリア戦争がようやく終結。

シャルル8世以来のイタリア戦争の細かな経緯が本書でも記されているが、憶えるのはかなり苦しい。

結局、ミラノもナポリもサヴォイアも、継承権を主張した地域は全く得ることができず、イタリアはスペインの実質的支配下に入ったことだけをチェック(イタリア統一支持の代償にサヴォイアだけは第二帝政時代に仏領となったのは高校世界史で既出)。

和平後、ドイツのプロテスタントと同盟したアンリ2世は、国内のユグノーに対しては強硬姿勢で抑圧に向かう。

ユグノーはすでに王家にも信者を持ち、フランソワ1世の姉妹マルグリットとナバラ王との間の娘ジャンヌ・ダルブレはそうであり、その夫アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは態度を明確にしなかったが、その弟コンデ大公ルイ・ドゥ・ブルボンは新教徒であることを公言。

1559年アンリ2世は騎馬試合に出場した際、事故で槍が頭部に刺さり、事故死。

この死をノストラダムスが予言していたとされているのは有名。

アンドレ・モロワ『フランス史』を読み返して気付いたのが、このアンリ2世に対する評価の意外な高さ。

16世紀前半、結局敗れたとは言え、スペインとオーストリアの両ハプスブルク帝国に対し戦いを挑み、ヨーロッパの一国支配阻止と勢力均衡維持に貢献したヴァロワ朝フランスが、世紀後半には国内の宗教戦争で混迷を極め、そのバランサーとしての役割をイギリスとオランダに譲ることになったのは、このアンリ2世の不慮の死という偶然も与っているのかなと思った。

 

 

 

フランソワ2世(1559~1560年)

アンリ2世とカトリーヌ・ドゥ・メディシスとの間の王子で順当な即位だが、極めて病弱で、ごく短い在位。

この王については、妻が誰であったのかを必ず記憶しておく。

スコットランド女王メアリ・ステュアート。

イングランドを睨んだ政略結婚だが、メアリ・ステュアートの母はギーズ家出身なので、ギーズ公フランソワは叔父、ギーズ公アンリは従兄弟に当たる。

ギーズ公派は熱心な旧教徒としてユグノーを弾圧。

フランソワ2世と母后カトリーヌは融和策に努めたが、フランソワ2世は病死。

子の無いメアリ・ステュアートは母国に送り返され、後に王位を失い、イングランドに逃亡して捕らわれ、最後は処刑される(ただしその子がジェームズ1世として英国王となる)。

 

 

 

シャルル9世(1560~1574年)

フランソワ2世の弟が即位。

母后カトリーヌが実権を握る。

まず頭の中で「カトリーヌ・ドゥ・メディシス=サン・バルテルミの虐殺の実行者=狂信的カトリック」という図式がもしあれば(私は高校時代このようにイメージしていました)、それを一度完全に白紙にして下さい。

少なくとも当初カトリーヌが追求したのは、新旧両派の融和と王国の安定。

三部会を招集し、新教の限定的容認を定めたが、非妥協的な党派感情が激化する一方で、不幸にして実を結ばず、1562年ユグノー戦争勃発。

旧教側がギーズ公、新教側がコリニー、コンデ大公が中心、モンモランシーとナバラ王アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは旧教側に付く。

この内乱が以後断続的に世紀末まで続く。

ギーズ公フランソワが暗殺され、ナバラ王が戦傷死した後、一時戦火は収まるが、折から1568年オランダ独立戦争が勃発、この国外の事件を機に再度対立が深まる。

コンデ大公が戦没、ギーズ公アンリは王妹マルグリットとの醜聞で失脚、王弟アンリが旧教側の指導者として台頭。

コリニーと並ぶ新教徒の指導者で、アントワーヌの子ナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンと王妹マルグリットとの結婚が両宗派和解の為に決められるが、1572年その婚礼時に勃発したのが、サン・バルテルミの虐殺。

コリニーら多くの新教徒指導者が惨殺され、ナバラ王は捕らわれの身に。

母カトリーヌからの影響を脱し、エキセントリックで異常な行動を見せるようになったシャルル9世の決断と見られる。

王弟アンリが、ヤギェウォ朝断絶後選挙王制となっていたポーランドの国王に選出され、国を離れる。

新教徒はフランス南西部を中心に徹底的に抵抗。

1574年半狂乱に近い状態でシャルル9世は死去。

 

 

 

アンリ3世(1574~1589年)

またもや弟が即位。

兄の死を聞くと、王位に就いていたポーランドを抜け出し、帰国。

即位前は強硬な旧教派だったが、国王となると強硬派だけに密着するわけにはいかなくなる。

モンモランシー家など穏健派カトリックが第三勢力として台頭、宗派よりも政治優先という意味で「ポリティーク派」と呼ばれるようになり、王弟フランソワが担ぎ上げられる。

オランダの君主としてフランソワを迎える動きもあったが、結局実現せず、フランソワは病死。

こうなると、子が無く、男色家の噂のあるアンリ3世の死後、最も近い王位継承者はナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンということになる。

ナバラ王の父の家系ブルボン親王家は、はるか昔、ルイ9世の六男を祖としており、しかもその分家筋だから、王家の末裔とは言え、ずいぶん離れている。

母方はやや近く、上述の通りフランソワ1世の姪ジャンヌ・ダルブレがナバラ王アンリの母であり、そして王妹マルグリットと結婚している。

新教徒とポリティーク派が同盟、旧教派のギーズ公アンリと激突。

アンリ3世とカトリーヌは旧教派に担がれているものの、本心では妥協を求め、右往左往するばかり。

1588年(スペイン無敵艦隊敗北の年だ)パリを中心にますます強硬になる旧教派は事実上のクーデタを起こし、実権を掌握、アンリ3世はパリを逃れる。

激昂した王は側近に命じ、ギーズ公アンリを暗殺させる。

翌1589年カトリーヌが死去、追い詰められたアンリ3世はナバラ王と手を結び、パリを包囲。

しかしここでアンリ3世は旧教派の報復の刃に倒れ、暗殺される。

ナバラ王アンリが、アンリ4世として即位、ブルボン朝が始まることになる。

 

 

 

 

末尾でヴァロワ朝の治世が総括されている。

14世紀から15世紀前半の百年戦争、15世紀後半のブルゴーニュ戦争とブルターニュ戦争、16世紀前半のイタリア戦争、16世紀後半のユグノー戦争、と戦いと国難の連続だった。

しかし、豊かな国土と膨大な人口を持つ、中近世におけるヨーロッパ最大の国家であるフランスはその都度、すぐさま再起することが出来た。

カペー朝の王権拡張と国家統一政策を引き継いだヴァロワ朝は、ブルゴーニュとブルターニュの二大公国を併合、オルレアン公領やアングレーム伯領もルイ12世、フランソワ1世の即位により王領となり、ヴァロワ朝末期には王権に対して実質的独立性を持つ有力諸侯はもはや存在しなくなった。

確かに依然フランスの一体的国家意識よりも地方郷土のアイデンティティを優先する感情は強かったし、カトリックあるいはプロテスタントの信仰を国家統一より重視する考えも濃厚だった。

それがヴァロワ朝末期のユグノー戦争で爆発することになった。

王権を神聖化することによって、それらの障害を克服し、完全な中央集権的統一国家を創り上げることが、次代のブルボン朝の課題となる。

 

 

 

前巻と同じく手堅い良書。

史実を要領よく叙述しているし、その評価も分かりやすい。

効用の高い啓蒙書。

次は『ブルボン朝』が出るんでしょうけど、ブルボン朝の場合、馴染みの無い国王はいないし、『聖なる王権ブルボン家』も既読だから、それは手に取らないかもしれません。

2017年3月10日

井上文則 『軍人皇帝のローマ  変貌する元老院と帝国の衰亡』 (講談社選書メチエ)

Filed under: ローマ — 万年初心者 @ 10:55

クラウディウス・ゴティクス(在位268~270年)からヴァレンティニアヌス2世(375~392年)までのローマ皇帝は、バルカン半島出身がほとんどで元老院階層でもない下層出身。

イリュリア人(パンノニアとモエシア出身者)皇帝の時代と言える。

本書では、中国史とヨーロッパ史に見られる並行関係から筆を起こす。

ローマと漢という東西における古代帝国の繁栄と蛮族侵入によるその衰亡。

独創的な東洋史家で、このブログでも多数の著作を紹介している宮崎市定の説。

五胡をゲルマン人に、東晋を東ローマに、隋唐をフランク王国に喩える。

ただし、中国では文人貴族が支配層として継続し、文明の断絶が起こらなかった点が違う。

文人貴族の強靭性が東西の歴史を分けることになった。

ローマ帝国は「自治をおこなう諸都市の連合と、この連合の上にはめこまれたほとんど絶対的な君主政(略)との奇妙な混合物だった」(ロストフチェフ)。

元老院、騎士、都市参事会という三つの階層の都市富裕層が名誉の感覚を持って、様々な自発的施与行為を行って自治を成り立たせていた。

セヴェルス朝下で軍の専横化が生じ、その後も内戦が続く。

元老院議員の軍事的無能力化、軍人キャリアと文民キャリアの分離・専門化が進行。

首都とイタリアにはさしたる兵力が無く、中央軍は弱体、国境沿いの属州に大軍が集中しており、軍の支持を受ければ帝位簒奪が極めて容易。

外敵の侵入よりも、この二つの現象が軍人皇帝時代に深刻化。

そこで行われたのが、ヴァレリアヌス帝の改革。

一般にはササン朝のシャープール1世に敗れて捕虜となったことだけが知られているが、この皇帝の治世が極めて重要な画期を成したと本書では記されている。

帝国統治分担のための複数帝制度を導入、拘束の多いローマを恒常的に離れ、実務的人材登用を軍で実行、中央機動軍を創設し直衛軍を強化。

これらの改革は20世紀前半までの歴史研究では子のガリエヌス帝の業績と考えられていたが、最近の研究では父子の評価が逆転しつつあるという。

クラウディウス・ゴティクス以降、イリュリア人自身が帝位に就く。

帝国東部でパルミラ帝国、西部でガリア帝国が事実上独立。

帝国に残された中央部で強健な兵を供給できたイリュリクムの重要性が高まり、アウレリアヌス帝の帝国再統一でそれがさらに強まる。

ディオクレティアヌス帝がそれを完成させた。

イリュリア人は、厳しい風土ではあるが、それゆえ大規模農場が発達せず自作農が保存されたイリュリクムで生まれ、強壮な兵士を生む。

ローマの軍需に依存して生活、国境ゆえに外敵への対抗意識と愛国心、郷党意識が強く、軍内の国家宗教に深く帰依し、外来宗教ではミトラ教によって軍の団結を強めた。

宮崎市定の言葉を借りれば、典型的「素朴民族」。

一方、この時代の元老院議員について、その文人生活は個人名声の追求に留まり、社会全体から支配者の条件として承認されていたわけではない。

軍事職からの排除にも抵抗せず、その影響力を低下させる。

皇帝不在の都では文民職はむしろ拡大し、比較的平穏なイタリア・アフリカの所領を持ち、経済的には栄えたが、実際にはこの時代が没落の第一歩となる。

ディオクレティアヌスはその前のイリュリア人皇帝の政策を基本的に引き継ぐ。

それに対し、コンスタンティヌスの治世は断絶があるとの判断が記されている。

再度の内戦でコンスタンティヌスは帝国北西部からのし上がり再統一を達成したので、ゲルマン人が軍の中心となり、イリュリア人の地位が低下。

元老院議員の属州総督・近衛長官への任命を増やし、定員も拡充。

キリスト教普及対策というより新たな勢力基盤を広げるため。

コンスタンティノープル元老院創設も同じ意図から。

イリュリア人はゲルマン人と融合して軍人貴族層を形成。

彼らが文人化することはなかったが、それが中国との大きな違いとなる。

首都ローマ市と国境地帯に駐屯する中央機動軍との距離、通婚関係にもならず、相互蔑視の関係が続き、軍人貴族は元老院貴族化せず。

そして圧倒的多数の非支配層も元老院貴族を拒否するようになっていた。

名誉感覚を失い、公的贈与も行わず、利己主義に自閉する文人への敵意が増大していた。

表面的には東西両帝国の不和が、帝国滅亡の政治史的直接原因だが、上記の軍人貴族と元老院貴族の分離も極めて重要と言える。

 

 

論旨が明解。

最新の学説を噛み砕いて分かりやすく提供してくれる良質な啓蒙書。

決して損はしない、手堅い本です。

2017年3月6日

E・H・カー 『危機の二十年  理想と現実』 (岩波文庫)

Filed under: 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 00:59

翻訳にかなりの問題があると、一部で言われていた旧版に替わって、原彬久氏訳のこの新版が2011年に出た。

学生時代以来の再読。

1919~39年の国際関係を概観し、ユートピアニズム(理想主義)とリアリズム(現実主義)の相克を捉える。

19世紀の自由主義と功利主義を単純に受け継ぎ、国際社会における利益の予定調和、世論の正しさと合理性、政治と経済の分離、国際法万能主義などを前提とするユートピアニズムを批判し、それに対し国家間の力関係を直視するリアリズムを対置。

ただし、カー自身は、国際社会における道義の存在を全否定し、国家権力の拡張を自己目的化し、いかなる国際秩序の成立も不可能にする永続的闘争状態をもたらすような似非リアリズム(というかシニシズム)をも批判し、理想と現実の緊張感のある対話と妥協の重要性を説いている。

目の冴えるような面白さ、というものは無いが、国際政治学・国際関係論黎明期の古典として、やはり一読の価値はある。

自衛のための最小限の軍備の必要性すら認めず、「社会主義国の平和的性格」を前提に非武装中立を主張した戦後左翼の平和主義が愚かなユートピアニズムの代表なら、中国・韓国など特定の国・民族に対する硬直した敵対感情の虜になって、子供じみた強硬姿勢を誇示し、反対者を集団的な誹謗中傷と罵詈雑言で沈黙させることを外交の本質だと考えるような最近の形式的ナショナリズムは最低最悪の愚劣なリアリズム(シニシズム)の表れでしかない、と強く感じる。

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