万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年2月9日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 8 帝国の時代』 (創元社)

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19世紀末帝国主義時代から第二次世界大戦直前までの巻。

まず、欧米列強による世界分割が、「平和的」に進んだことを指摘。

一九世紀をとおしてイギリスが海軍力を背景に「イギリスの平和」を実現したおかげで、非ヨーロッパ世界の支配をめぐって争っていたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国のあいだでは植民地をめぐる戦争が一度も起こりませんでした。一九世紀が植民地への直接支配がもっとも拡大した時代だったことを考えると、一七世紀や一八世紀には何度も起きた植民地戦争がこの時期起きなかったのは、かなり異例だったといえるでしょう。この「イギリスの平和」のおかげて、無数の貿易商人たちも、なんの障害もなく世界中の海を行き来することができました。ヨーロッパ文明が世界中に広まることができたのは、イギリスの圧倒的な海軍力が経済活動を保護していたからでもあったのです。

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ヨーロッパ諸国は約四〇年にわたって植民地問題をめぐる激しい論争をつづけ、アメリカとスペインの対立は戦争にまで発展しました。ところがその一方で、ヨーロッパ諸国による「世界の分割」は、実は驚くほど平穏なうちに進んでいったのです。

事実、一九一四年に始まった第一次世界大戦では、植民地問題でもっとも対立していたイギリス、ロシア、フランスの三ヵ国が同盟して戦っています。つまり第一次世界大戦を引き起こした原因は、植民地をめぐる対立ではなかったということになります。

一九〇〇年以降、第一次世界大戦までのあいだに領土争いが戦争に発展しそうになったのは、モロッコをめぐるドイツとフランスの対立だけでしたが、このときも植民地をめぐる攻防よりも、ドイツがフランスを攻撃した際に、他国がフランスを支援するかどうかに注目が集まっていました。

こうしてみると第一次世界大戦以前の植民地をめぐる争いは、ヨーロッパ大陸内に存在する深刻な対立から、各国の注意をそらす役割をはたしたともいえるでしょう。さらにいえば、ヨーロッパ内の平和の維持に貢献したとさえいえるのです。

19世紀後半、「帝国主義の最後の波」の描写。

一九世紀前半にイギリスとフランスが新たな領土を獲得したことに刺激され、その他の列強諸国も一八七〇年以降、領土の拡大に乗りだします。しかし、そうした国々がたんなる羨望からイギリスとフランスのあとにつづいたというだけでは、一九世紀後半に突如として起こった大規模な「帝国主義の時代」を説明することはできません。南極と北極をのぞくと、一九一四年までに世界の五分の四以上の地域が、ヨーロッパの支配下に入るか、ヨーロッパ系の新国家となっていました。真の意味での独立をたもったのは、日本とエチオピア、そしてタイ(シャム)のわずか三ヵ国にすぎなかったのです。

その原因について、経済的動機は余り重視せず、実は当時各国で進行していた「民主化」こそが大きな影響を与えたとする。

なぜこうした状況になったかについては、今日もまだ議論がつづいています。しかし、それまで長期にわたってヨーロッパに蓄積されてきた力が、この時期に一気に噴出したことほまちがいありません。ヨーロッパ文明が進歩し、強力になるにつれて、ほかの地域はますますその覇権に抵抗できなくなっていきました。ある時点までの帝国主義の理論や思想は、そうしたヨーロッパ諸国が突然自覚したみずからの巨大な力を、「合埋的」に説明しようと試みたものだったといえるでしょう。

・・・・さまざまな技術の発達によって、ヨーロッパ諸国は世界中に覇権を確立していくことになりました。けれども世界各地に覇権が広がれば、貿易と投資も自然に活性化するだろうという見通しは、たしかな根拠をもたない場合が多く、たいていの場合、期待外れの結果に終わりました。アフリカの「未開の地」にどれほど魅力があろうと、また何億人という農民をかかえた中国が一見どれだけ巨大な市場に見えていたとしても、工業国はやはり他の工業国を最大の貿易相手としていたからです。海外における資本の投資先としてもっとも人気があったのも、新しく獲得した植民地ではなく、既存の植民地や元植民地でした。たとえばイギリスは海外むけの資本の大半を、アメリカ合衆国と南米につぎこんでいました。またフランスの投資家たちはアフリカよりもロシアに関心を示し、ドイツはオスマン帝国領に資本を投入していたのです。

国家と同じく個人としてのヨーロッパ人のなかにも、領土拡大による経済発展に大きな期待をよせた人たちが数多く存在していました。ところが、そうした多くの個人がかかわったために、この時期のヨーロッパの帝国主義には一貫性がなく、全体としての傾向を語ることをきわめて困難にしているのです。

探検家や商人だちからうながされる形で、各国政府はしばしば新しい領土の獲得に乗りだしていきました。領土拡大がもっとも盛んだったこの時期は、民衆の政治参加が急速に進んだ時代でもあり、探検家や商人たちが民衆から英雄視されることも多かったのです。

民衆は新聞を購入したり、選挙で投票したり、あるいは通りで声援を送ることによって、国家間の領土拡張競争を背後から支えつづけていました。このころ誕生した安価な新聞は、植民地における戦争や探検をドラマチックに報道して、帝国主義的な政策を後押ししていたのです。出費を生むだけでなんの利益にもならないような土地でも、新しい領土を獲得することで民衆の不満をやわらげることができると考えた政治家たちもいました。

さらにいえば、領土拡大の動機となったのは、利益の追求や不満の解消だけではありませんでした。一部の帝国主義者たちが信奉していた理想主義は、多くの人びとの良心を満足させるうえでも大いに有効だったといえるでしょう。ヨーロッパ文明こそが真の文明であると信じていた人びとは、他の民族を支配して彼らに「幸福をもたらす」ことを、自分たちの義務であると考えていたのです。

日本の近代化と独立維持について。

天皇がふたたび表舞台に登場したのも、民衆の支持を得て革新的な改革を断行できたのも、教育を受けた日本人の大半が、西洋文明に対する「不名誉な後進性」をなんとしても払拭したいと願っていたからでした。もしそれができないとすれば日本もまた、中国やインドなどと同じく植民地化への道をたどると考えられていたのです。

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朝廷が京都から東京に移ったのは、「明治維新」と日本の再生をつげる象徴的な出来事だったといえるでしょう。新しく誕生した明治政府がまずとりくんだのは、封建制度の廃止でした。日本がこの時代の非西洋諸国のなかで特別な存在となりえたのは、中国の惨状をまのあたりにした結果、改革を早急に進めようと決意した人びとが数多く存在したことと、日本の社会的・道徳的な伝統がその種の愛国心を支えたこと、そして既存の天皇制のなかに、たんに古い伝統を守るというだけではない精神的な権威が存在したということです。こうした条件があったからこそ、日本はイギリスの名誉革命と同じく、既存の体制内の人びとが起こした革命によって、大きな変革を実現することができたのです。

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こうして明治維新は大きな成功を収めることになったわけですが、そのひきかえに日本は、最終的に精神面で大きな代償を支払うことになります。日本は西洋から熱心に学んでいる最中に、早くも内向的な姿勢に転じ、新たに国家の宗教とされた神道の信者たちは、「外国」から伝来した宗教という理由で、儒教や仏教を攻撃するようになりました。そしてしだいに「現人神」としての天皇の権力が強化され、やがてせっかく誕生した憲法よりも、天皇に対する忠誠心のほうが重視されるようになっていったのです。

もしも文化的土壌が異なっていたら、明治憲法に盛りこまれた近代的な原則の数々は、自由主義的な社会の発展に貢献したのかもしれません。しかし実際の明治時代の社会体制は、きびしい警察の取り締まりに代表されるように、自由主義とはほど遠いものでした。

けれども明治時代の日本が直面していた・・・大きな課題を考えると、そうした権威主義的な傾向を退けるのはきわめて困難であったことがわかります。ひとつは、経済の近代化を短期間で達成するためには、政府の強い指導ときびしい財政政策が不可欠だったという点です。・・・・・

大衆民主主義時代の到来とその弊害について。

選挙制度の民主化にともなって起きた政治の「大衆化」は、さまざまな形で社会を変化させていきました。選挙に勝つためには大衆を組織しなければならなくなり、一九〇〇年までに近代的な政党が次々と誕生していったのです(政党はまずヨーロッパとアメリカで生まれ、やがて世界中に広まっていきました)。こうした政党は、いずれも巨大な組織と宣伝のための手段をもち、それぞれの得意分野を開拓して政党としての特色を打ちだしていきました。

古いタイプの政治家たちはそうした動きに反発しましたが、彼らにも言い分がなかったわけではありません。近代的な政党とは、つまりは政治の大衆化を意味するものであり、大衆に迎合するために政治が堕落する危険性があると彼らは考えていたのです。

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その一方で、新聞の発行者や政治家たちの多くは、世論は操作できるものだと考えるようになっていきました。この点に深いかかわりをもっていたのが識字率の向上です。大衆が選挙権を正しく行使するためには教育が必要であるとされた反面、識字率の向上に支えられて、センセーショナルな記事で読者の感情をあおる安価な新聞が人気を集めていきました。一九世紀のうちに、宣伝・広告という新しい産業も誕生していました。

そしてこのころになってもまだ、大衆をもっともひきつける政治思想といえば、ナショナリズムでした。当時のナショナリズムは、革命を起こす力さえ依然としてもっていたのです。

近代技術の発達が、戦争を政治の延長であり、その一手段とする考え方を極めて危険なものにしていたことについて。

一九世紀に入って戦争が減少したことで、ヨーロッパでは戦争に対する楽観的な考えが生まれるようになっていました。たしかに一八七七年にロシアとオスマン帝国が戦っだのを最後に、ヨーロッパでは大国どうしの戦争は起こっていませんでした。加えて、残念なことにヨーロッパの軍人も政治家も、アメリカの南北戦争であきらかになった重大な事実に気づいていませんでした。南北戦争では鉄道や電信、さらには大量生産された近代的な武器がもちいられたことで、それまでとはくらべものにならないほど大きな被害が出ていたのです。

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こうしたヨーロッパの不穏な状況をいっそう危険なものにしていたのが、社会全体にみなぎった心理的なムードでした。当時はナショナリズムや愛国主義の昂揚期であり、大衆がひとつの方向へ感情的に流されやすい時代だったのです。

もうひとつ危険だったのは、大多数の人びとにとって戦争といえば一八七〇年の普仏戦争(短期間でパリが無血開城されました)だったため、近代戦争のもつ悲惨さがほとんど理解されていなかったということがあります。普仏戦争の数年前にはアメリカで南北戦争が起こっており、近代戦争のもつ悲惨さがすでにあきらかになっていたのですが、ヨーロッパではそうした新大陸の出来事には注意がむけられていなかったのです(南北戦争によるアメリカ人の死亡者数は、アメリカがそれ以外にかかわっだすべての戦争の総死亡者数を上まわっていました)。

近代戦争がとてつもない破壊力をもつこと自体は、もちろん周知の事実でしたが、二〇世紀の戦争はすぐに終わるものだという誤った「常識」も存在していました。軍事費ひとつをとっても、もはやナポレオン戦争のような長期戦を行なうことができるとは考えられていませんでした。複雑さを増した世界経済のなか、文明国の納税者たちが長期戦に耐えられるはずがないと考えられていたのです(こうした誤った「常識」が、戦争への不安をやわらげていた可能性もあります)。

しかも一九一四年のヨーロッパには退廃と閉塞感が広まっており、戦争が起こればそうした閉塞感を脱することができると期待されていたふしさえあります。もちろん革命家たちは、革命につながることを期待して、戦争の勃発を歓迎していました。

さらに当時のヨーロッパ各国が外交交渉によって長らく戦争を回避し、重大な危機を乗り越えてきたという事実にも、大きな危険がひそんでいました。そのため、一九一四年七月にいよいよ状況が手に負えなくなったときも、多くの人びとが事態の深刻さにしばらく気づかなかったのです。開戦前夜になってもまだ政治家たちは、各国の外交官なり首脳なりが協議することによって、危機を回避できるのではないかと考えていたのです。

キリスト教の衰退と科学への安易な礼賛によって、人間の精神を律する倫理的規範が失われ、ヨーロッパと世界は破滅的動乱に近づいて行く。

このように科学は第一次世界大戦以前の段階で、すでに「神話」となるにじゅうぶんな成果をあげていました。ただし、ここでいう「神話」という言葉には、つくりごとという意味は含まれていません。科学の成果の大半は、実験によって「真実であることが証明されたもの」だからです。そうではなく、過去の時代における宗教と同じく、科学は人間の世界観(宇宙観)に大きな影響をおよぼすものとなりました。その意味から、「神話」とよぶにふさわしいということなのです。

いまや科学は、自然を解読してあやつるためだけのものではなく、人間が追求すべき目的や、行動を律するための倫理基準など、形而上的な問題に対しても指針をあたえるものと考えられるようになりました。もちろん、そうしたことはすべて、科学者たちが追求する科学の本質とは、基本的になんの関係もありません。しかしそうして科学が形而上的な尊敬を集めたことによって、近代文明はその中核に共通の宗教をもたない、はじめての文明となったのです。

この文明の中核には、自然を操作することによって豊かな未来が開かれるという確信と、じゅうぶんな知性と資金さえあれば、基本的に解決不可能な問題はないという自信が存在していました。そして「あいまいなもの」が存在する余地こそあったものの、「神秘的なもの」が社会に存在する余地はなくなっていったのです。実は科学者たち自身はその多くが、科学を中心とするそのような新しい世界観を支持していなかったのですが、今日では多くの人びとがそうした世界観をもつようになっています。その基本的な部分は、第一次世界大戦以前にほぼできあがっていたものなのです。

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けれども皮肉なことに、科学もまた第一次世界大戦の勃発した一九一四年までには、ヨーロッパ文明内の緊張感を高める一因となってしまいました。伝統的な宗教が直面したさまざまな問題に科学が大きく関与していたことはいうまでもありませんが、科学はもっと微妙な形でも社会の緊張を高めていました。つまり、ダーウィンの理論からみちびきだされた決定論や、人類学や心理学が示唆した相対主義をとおして、一八世紀以降科学が重視してきた客観性と合理性に対する信頼を、科学自身がそこない始めていたのです。その結果、一九一四年までに、自由主義的で合理的で進歩的な「新しいヨーロッパ」が、伝統的で信心深く保守的な「古いヨーロッパ」と同じくらい、不安定な状態におちいってしまうことになったのです。

第一次世界大戦がヨーロッパ文明に破滅的損害を与えた後結ばれたヴェルサイユ条約について、著者は問題の困難性を考えれば、条約に対する批判はしばしば行き過ぎているとしつつ、もはやヨーロッパ内部のみの均衡維持で平和は達成できない情勢だったので、米ソ二大国を除いた戦後体制に有効性は期待できなかった、としている。

そして戦後における右翼全体主義の台頭について、著者はイタリアをはじめとする各国の「ファシズム」とナチズムを区別し、真に革命的で過激なものは後者のみであるとする。

イタリア以外の国々で起こったファシズムとよばれる動きも、それらがかかげていた手法や目標とはかけ離れた結果に終わりました。たしかにそうした政治勢力はみな、自由主義のあとにつづく「新しい何か」(大衆社会を基盤とした何かとしか表現できません)を反映してはいたものの、いずれもつねに保守勢力に譲歩し、妥協をくり返していきました。「ファシズム」という現象を正確に説明することは困難ですが、多くの国々で権威主義的(全体主義をめざすものもありました)できわめて国家主義的、そして反共産主義をかかげる体制が成立していったことは事実です。

しかし、この種の体制を生みだしたのはファシストだけではありません。たとえばスペインとポルトガルで誕生した政権は、民衆の支持よりも伝統的な保守勢力をよりどころにしていました。

ファシスト内部の急進派のなかには、政府が既存の社会体制に譲歩することに強く反発した人びともいました。けれども「ファシスト」とよばれた政治勢力のうち、伝統的な保守勢力倒して革命を成功させたのは、ドイツのナチ党だけだったのです。以上のような理由から、「ファシズム」という言葉はある種の政治的潮流をあらわす一方で、混乱をまねくことの多い言葉でもあります。

 

 

この巻は、ちょっと鋭さが減じたか?

でも、それほど悪くもないです。

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