万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年2月26日

創元社版「図説世界の歴史」について

Filed under: おしらせ・雑記, 全集 — 万年初心者 @ 01:25

 

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 1 「歴史の始まり」と古代文明』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 2 古代ギリシアとアジアの文明』(創元社)  4 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 3 古代ローマとキリスト教』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』(創元社)  5 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』(創元社)  5 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 7 革命の時代』(創元社)  4 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 8 帝国の時代』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 9 第二次世界大戦と戦後の世界』(創元社)  3 易

J・M・ロバーツ『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』(創元社)  3 易

 

 

この日本語版の刊行は比較的新しい。

タイトルに「図説」と付くだけあって、写真や図表が極めて多く掲載されている。

しかもオールカラーなので、見やすく美しい。

もっとも、その分紙質も厚くて重いし、本文が始終分断される感もあって、やや読みにくさもあるが。

全集の形式ではあるが、全10巻と巻数は相当少な目。

しかも1巻ごとの文章量も大したことはないので、通読難易度は著しく低い。

各巻の日本語版監修者も、著名な学者が顔を揃えており、信頼できる。

翻訳も極めて良好。

特に「です・ます」調を採用したことは、大成功。

非常に読みやすく、説得力のある文体に仕上がっている。

内容的には、一人の著者による執筆ということもあってか、一貫した史観が感じられる。

「多くの人びとに重大な影響を与えた思想・出来事・人物」のみを重視し、それに適合しない史実は思い切って省略(ただし図表の解説文などで補足している。よってそこも読み飛ばさない方が良い)。

オリエント文明およびそれから分岐したヨーロッパ文明とイスラム文明を最重視し、それらから独自性を守ったインド文明と中国文明に一定の評価を与えつつ、アフリカおよびアメリカの文明に対する評価は低い。

昔ながらの西欧中心主義からは脱しつつ、それでもギリシア文明からヨーロッパ文明に受け継がれてきた流れを人類の歴史の中で極めて特異で価値のあるものであると評価する。

その筆致があまりに冷静で説得的なので、ほとんど反発も感じない。

凡庸な学者が、もし同じ巻数で世界史を記述しても、毒にも薬にもならない平板な著名史実の羅列に終わるだけでしょう。

しかし、このシリーズは、一見平凡な叙述を続けているように見えて、各巻の中に必ず数箇所、はっとさせられる著者独自の見解が含まれており、知的興奮が得られる(記事中でも、そうした部分を引用したつもりです)。

決してありきたりで内容の粗い通史に終わっていません。

本文中での事実関係の扱いが薄い部分は、上記のように図表とその解説でカバーしていて、網羅性もある程度確保している。

ただ、平易極まりない叙述とは言え、世界史について全く白紙の読者が読んだとして、どれだけ印象に残るかはやや心許ないかもしれない。

漫然と読むのではなく、記事中で引用したような部分を含むポイントをしっかりと把握することが必要になるでしょう。

(もちろん、私と全く同じ感じ取り方をする必要は毛頭ありませんが。)

通読した結果、十分お薦めできるシリーズだと確信しました。

 

2017年2月20日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 10 新たなる世界秩序を求めて』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:00

最終巻。

冷戦と第三世界、日中印三ヵ国を中心とするアジア情勢、冷戦終了後の世界秩序について。

本文に入ると、まず現代アジア史を、イデオロギー的視点から離れた、極めて巨視的な観点から大掴みする記述がある。

第二次世界大戦後、アジアの多くの国が植民地支配を脱し、次々に独立していきました。その結果、植民地時代の政治的・文化的影響は急速に消滅していきます。たとえばインドでは、イギリス支配のもとで一度は実現していたインド亜大陸の政治的統一が、大戦終了から二年後の独立時に崩壊しました。東南アジアの国々も同じです。たとえばインドネシアには強力な中国人(華僑)コミュニティが存在したため、国全体の進路が中国本土の動向に大きく左右されるようになったのです。

そうした事情を考えると、実はアジアの大部分の国々にとって、西洋列強による植民地支配もその終焉も、それほど重大な歴史上の転換点ではなかったように思えます。数世紀にわたり、アジアの広大な地域がヨーロッパ人によって支配されたことは事実ですが、本当の意味でヨーロッパ文明の影響を受けたのは、どの国でもごく少数の支配者層だけでした。アジアでヨーロッパ文明を待ち受けていたのは、おそらく世界のなかでもっとも強力な文化と伝統をもつ社会だったのです。

アジアの文化はアメリカ大陸やアフリカ大陸の文化とは異なり、ヨーロッパ文化の侵入によって一掃されることはありませんでした。ヨーロッパ人がアジアにヨーロッパ文化をもちこもうとしても、あるいは現地の指導者たちがみずからヨーロッパ文化をとり入れようとしても、いずれも大きな障害にぶつかることになったのです。近代教育を受け、古い伝統からすでに脱却したと自認していた人びとでさえ、さらに深い部分ではその伝統的な思想や行動様式になんら変化はありませんでした。大学教育を受けたインド人も日本人も、出産や葬儀の際には伝統的な習慣にしたがい、中国の共産主義者たちの意識から伝統的な中華思想が消えさることもなかったのです。

インドから東側のアジアは、大きくふたつの文化圏に分けることができます。ひとつは南アジア(インド亜大陸)および東南アジアです。この地域は古くから三つの文化-ヒンドゥー文化、イスラーム文化、ヨーロッパ文化-の影響を受けてきました。ヨーロッパ文化はこの地域に、かなり古くから交易や布教とともに伝えられ、のちの植民地支配によってさらに広まっていきました。

ふたつ目の文化圏は、中国を中心とする東アジアです。中国自身が膨大な人口と国土を有することはもちろんですが、加えて周辺諸国に移住した華僑の存在、さらには二〇〇〇年以上も前から日本や朝鮮半島、インドシナ半島などにあたえてきた文化的影響も、この地域における中国の重要性を理解するうえで忘れてはなりません。このふたつ目の文化圏は、ひとつ目の文化圏にくらべるとヨーロッパ諸国に直接支配された期間が短く、その弊害も前者ほど大きくありませんでした。

結局、アフリカとアメリカの固有文明はヨーロッパ文明の進出によって圧倒され、ほぼ消滅することになったが、インドを中心とする南アジアと中国を中心とする東アジアはその存在を守り抜いたことになる(西アジアのイスラム圏もそのはずだが、ヨーロッパとの距離が近い分、[南アジアと同様]政治的には劣勢を強いられたということか)。

ヨーロッパの進出に最もよく抵抗した東アジア文明の動きの先鞭をつけたのは日本だったが、第二次大戦後、それを受け継いだのが中国。

一九六〇年までにアジアで起きた最大の変化は、中国が大国として復活をとげたことだったといえるでしょう。一方、共産主義勢力を排除して西側陣営に属していた日本と韓国は、中国が共産主義国となったおかげで、欧米諸国に対する政治的立場を強めていきました。

伝統的に東アジア諸国は、ヨーロッパ人の侵略に対し、インドや東南アジア諸国よりもうまく対処したといえるでしょう。第二次世界大戦後も東アジア各国は、共産主義国、非共産主義国ともに独立を維持することに成功し、中国から支配されることもありませんでした。これには逆説的ながら、古くから中国を模範としてきた日本社会や韓国社会に深く根づいた、東アジア特有の保守性が関係しているように思えます。

社会の規律、集団としての結束力、個人的権利の軽視、権威と階級の尊重、西洋文明とはまったく異なる文明に属しているというプライド・・・・。東アジアの社会には、中国革命の基盤となった共産主義思想などよりも、はるかに根深い文化的伝統が存在します。実は中国革命そのものも、そうした文化的伝統のなかでとらえて、はじめて理解できるものなのです。

・・・・・・

中国革命ほまちがいなく、人類が行なったもっとも壮大な試みのひとつといえます。世界史全体を見渡してみても、二〇世紀の中国革命に匹敵する出来事は、七世紀のイスラーム教の拡大や、一六世紀以降の近代ヨーロッパ文明の世界進出以外にありません。しかも中国革命が大きく異なっていたのは、それが特定の指導者によってコントロールされ、方向性が定められていたという点です。また無数の民衆の熱気に支えられながら、その一方で国家の指導なしには成立しえなかったという点にも、中国革命のもつ特異性を見ることができます。

中国人は伝統的に権威を重んじ、その権威に高い精神性を求めつづけた人びとでした。これは西洋では遠い昔に失われた現象といえます。個人よりも集団が重視されるべきこと、政府が国家事業のために国民を動員する権限をもつこと、公共の利益のために行使されるかぎり政府の権威は絶対であることを、中国はどの大国よりも長いあいだ、民衆に納得させてきました。国家の権威に対する反抗は、文明全体を崩壊させる恐れかおるため、中国人には受け入れられませんでした。つまり中国では集団としての急進主義はありえても、個人の人権の拡大を求める西洋型の革命は考えられなかったのです。

・・・・・・

中国では権力は「天(天帝)」から授かったものであり、統治者は民衆のために善政を行ない、伝統的な中国文明の価値観を守るかぎりにおいて、その正統性を民衆から認められるという文化的伝統がありました。他の文明圈からは理解しにくい毛沢東という存在は、そうした伝統にのっとって解釈される必要があるのです。

・・・・・・

中国革命のもつ本質的な意味も、その後中国とソ連がすぐに対立するようになったところによく現れています。つまり中国革命は、たしかに歴史上きわめて重要な革命だったものの、実はそれはアジア全体が西洋支配に対して示した拒否反応のひとつだったのです。皮肉なことに、その拒否反応はアジアのどの国でも、ナショナリズムであれマルクス主義であれ、西洋からとり入れた思想や概念をもちいて表現されることになったのですが。

中国の共産主義政権が、主にその最初の30年間で、どれほど多くの犠牲者を生みだしたか、著者は百も承知だろうが、極端な全体主義体制から現在のような権威主義体制に移行した状態を見るならば、中国革命の意義を以上のように大国としての復興と伝統的「王朝」体制への回帰、とまとめることも可能かと思われる。

一方、それに比して現代インドに対する著者の評価はかなり低い。

経済であれ、軍事であれ、政治であれ、諸外国に対して大きな影響力をもつ国を大国とよびますが、インドがそのような国際的地位にないことは、一九八〇年代までにすでにあきらかになっていました。これはよく考えてみると、二〇世紀後半に起きたもっとも驚くべき現象のひとつだったといえます。一九四七年に独立したインドは、その時点ではほかの新興国や敗戦後の混乱期にあった日本などよりも、はるかに有利な条件に恵まれていました。インドにはイギリス植民地時代の遺産である効率的な行政機関と訓練の行きとどいた軍隊、高い教育を受けたエリート層、優秀な大学(約七〇校もありました)などが存在し、国際社会の善意と協力に恵まれ、冷戦構造のなかで米ソの対立を利用することもできたからです。

貧困や栄養不良、公衆衛生の立ち後れといった問題はあったものの、その点では中国も同じだったといえます。ところが一九八〇年代までにインドと中国のあいだには、誰の目にもあきらかなほど大きな格差が生じてしまったのです。中国の都市部の住民たちは一九七〇年までに、ほぼ全員がまともな服(質素でしたが)を着用するようになっており、栄養状態も良好でした。それに対してインドの都市部の住民たちは、そのころになってもまだ貧困と栄養不良に苦しめられていたのです。

独立後のインドの歴史をふり返ると、マイナスの現象ばかりが目につきます。大きく成長した産業もあったものの、その成果は人口の増加によってかき消されてしまいました。一九四七年の独立から長い年月が過ぎても、国民の大半は当時と同じくらいに貧しいか、ごくわずかに生活が改善されたにすぎませんでした。

インド社会にはあらゆる面で歴史と伝統が重くのしかかり、変革の兆しはなかなか現れませんでした。ちょうど同じような状況にあった中国では、毛沢東が修正を加えたマルクス主義によって過去の伝統を一掃したのですが、インドにはそのような強力な思想も運動も出現しなかったのです。とくに独立後はイスラーム教徒がパキスタン建国によって分離したこともあり、インド社会はさらにヒンドゥー色を強めていきました。

現在でも、インドは依然として近代化を達成したといえる段階には達していません。植民地時代にもちこまれた西洋式の政治制度と伝統的なヒンドゥー社会のあいだには、いまなお大きな溝が横たわっています。ガンディーやネルーをはじめとするすぐれた指導者たちが数々の偉業を達成した一方、特権、不正、不平等など、インド社会に根づいた負の遺産は依然としてこの国に重くのしかかり、その発展を妨げているのです。

かなり厳しい評価ではあるが、著者は同時に以下のようにも記している。

・・・・・もっともインド社会の内包する多様性を考えれば、国家としての統一を維持したこと自体が偉大な業績だったともいえます。

・・・・・・

一九四七年、独立とともに明るい未来を思い描いた人びとは、長い歴史をもつインド社会に根本的な変化を起こすことが、どれほど困難で痛みをともなうか、おそらく理解していなかったのでしょう。けれどもインド文明のもつ偉大なる多様性と継続性、異文化に対する同化吸収能力を考えれば、彼らが近代化の過程で足踏みをつづけているからといって、私たちが批判するのはお門違いといえるのかもしれません。

そして、同様に停滞と混乱を続けるイスラム圏について、巨大な宗教共同体と部族集団という大小両極の間で揺れ、その中間の国民国家という政治組織を安定して発展させることが出来ないことを指摘。

なぜ高い教育を受けた学生たちがイスラーム原理主義者の反動的な主張を支持しているのか、西洋人からはほとんど理解できませんでした。けれどもそうした状況を理解するには、イスラーム世界においては長らく西洋式の国家、あるいはいかなる西洋式の政治組織も存在しなかったことをよく認識しておく必要があります。

たとえ有能な政府が存在しようと、その政府が民衆にとって何か望ましい結果をもたらそうと、全イスラーム教徒を包含する宗教共同体「ウンマ」を基本原理とするイスラーム世界にとって、西洋式の国民国家は正統な権威にはなりえませんでした。社会主義的な政権の樹立を求めた急進派の若者たちも、実際のところ国家に本質的な価値を見いだしておらず、たとえば青年将校カダフィが起こした一九六九年のリビア革命でも、その後樹立された新しい「国家」は、西洋式の国民国家の概念からは大きくかけ離れたものでした。部族主義と「ウンマ」の理念にもとづいて維持されてきたイスラーム世界の伝統が、今後どのような形で存続していくのか、それは現在のところ誰にもわからない問題です。

アラブ諸国の多くで見られる暴力的な政争は、抑圧的な独裁制と原理主義運動が敵対した結果として起こるケースが多いようです。一九八〇年代のモロッコとアルジェリアがその典型的な例でした。そうした状況をさらに危険なものにしているのが、アラブ諸国における高い出生率です。人囗にしめる若者の比率と、彼らのもつ不満とエネルギーがあまりにも大きすぎることが、アラブ世界の平和の実現を困難にしているという面もあるのです。

 

 

本文の内容はここまで。

最終巻である本書には、「日本版の刊行に寄せて」という文章が載せられている。

簡単にいえば、本書では伝統的に重要とされてきたテーマを時代順に網羅していくという手法はとりませんでした。過去の事実を網羅するのは百科事典の仕事だからです。その代わりに、「もっとも多くの人びと」に「もっとも重大な影響」をあたえた出来事だけをとりあげ、その相互の関連性を示したいと考えたのです。

そのため本書は年代的にも地理的にも、かなりの偏りをもっています。もちろん私は第一版の刊行後も多くの時間と労力をついやして、ユカタン半島の壮大な遺跡やジンバブエの廃墟、イースター島の神秘的な巨像などについて調査を行なっています。そのような文化について知ることが望ましいのは、いうまでもないでしょう。

しかし世界の歴史という観点からすれば、これらの社会は実はあまり重要とはいえません。サハラ以南のアフリカや、コロンブスが到着する以前のアメリカ大陸についても同じことがいえます。たとえばブッダやキリスト、プラトン、孔子などの教えは、二〇〇〇年ものあいだ、地球上で暮らす無数の人びとに影響をおよぼしてきました。けれどもヨーロッパ人がやってくる前のアフリカやアメリカでは、世界の歴史に大きな足跡を刻むような出来事が起きた証拠は、いまのところ発見されていないのです。

いずれにせよ、世界史に関する膨大な資料をすべて把握することなど不可能です。本書は、「有名」な出来事ではなく、「本質的に重要な」出来事に焦点を当てています。たとえばフランスのルイー四世はヨーロッパ史ではもっとも有名な人物のひとりですが、本書中の彼に関する記述はごく短く、逆に二〇世紀前半に起きた中国革命についてはかなりくわしく説明してあります。そうした視点は現代史を見るうえで、いままで以上に必要になっているといえるでしょう。ある出来事が「有名」だから、つまり大きく報道がなされているからといって、それが重要だとはかぎらないのです。

・・・・・・

もちろんそのような視点には、私自身のもつ文化的バックグラウンドが大きく影響しています。私はイギリスの中産階級に属する白人男性としてしか、歴史書を書くことができません(今回の全面改訂版では、それに「初老の」が加わります)。もし皆さんがそれをあまりにも重大な欠陥だとお考えになるなら、ほかの歴史家が別の視点から書いた歴史書を探されたほうがよいでしょう。

しかし正直にいえばどのような歴史書であれ、結局は著者本人の個性を離れては存在しえないものなのです。私は自分の視点がどのような偏りにおちいりがちかということを、つねに念頭におきながらこの本を書きました。そうすることで、歴史家アクトンのいう「すべての国々を網羅した歴史とは異なった」歴史を皆様に提供し、文明の偉大なる豊かさと多様性を示すことができたのではないかと思っています。

このシリーズを読み通して、著者の以上の様な史観をはっきり感じることができたし、それに対して特に違和感は感じなかった。

 

 

こういう通史ではありがちだが、近現代史の部分は内容が粗くなって効用が薄れる。

本書もそれを免れているとは言えないが、まだ大分マシな方だと思う。

全10巻を読み切りましたが、通読はものすごく楽。

読んだ価値は間違いなくあった。

全体的な感想は別の記事で述べることにします。

2017年2月15日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 9 第二次世界大戦と戦後の世界』 (創元社)

Filed under: 近現代概説, 全集 — 万年初心者 @ 05:21

第二次大戦と冷戦を叙述し、重要地域として特に東アジアと中東を取り上げた後、20世紀文化を扱った巻。

西洋文明の世界制覇に対する反撃が最も強かった東アジアの情勢について。

アジアに対するヨーロッパ人の侵略は、第一次世界大戦が始まった一九一四年にはピークを過ぎていました。ヨーロッパの植民地主義とその強大な経済的・文化的影響は、すでにアジア各地で深刻な反動をまねくようになっていたのです。そうした反動がもっとも強かったのは、おそらく日本だったといえるでしょう。日本ではヨーロッパ列強に対する反発が、近代化を促進するうえでの大きな力となりました。その結果、日本はこのあと起こる東西文明間の長い戦いにおいて、中心的な役割をはたすことになるのです。

近代化に成功した日本は、二〇世紀の最初の四〇年間、アジア史の主役となりました。一方、辛亥革命をへた中国がアジア史の主役に返り咲いたのは、一九四五年以後のことでした。中国がアジアの政治力学のなかでふたたび日本をしのぐ存在となり、アジアにおける西洋の時代を終わらせるためには、第二次世界大戦の終了を待たねばならなかったのです。

近代日本の発展について、著者の見解は定型的に思えてあまり感心する部分が無いこともあるが、以下の見方などは示唆的である。

・・・一九二〇年代の日本には、「大正デモクラシー」とよばれる民主的かつ自由主義的な空気があり、それが日本の帝国主義をおおい隠す役割をはたしていました。一九二五年に男子普通選挙が実施されたことも、明治維新に始まった立憲君主政への道のりが、着実に進んでいることの現れと考えられていました(もっともヨーロッパではすでに、普通選挙の実施がかならずしも自由主義や政治的中庸に結びつかないことは、はっきりと示されていたのですが)。

そして、イデオロギー対立によって「ドイツ問題」の解決が遠のいたことを指摘し、ドイツのナチズムを(イタリア・ファシズムよりもはるかに過激で危険な存在として)徹底的に批判する一方、日本の戦争についての著者の評価は、驚くほど冷静である。

日本が一九〇五年にロシアを敗北させたことが、ヨーロッパとアジアの心理的な従属関係を揺るがす画期的な出来事となったように、一九三八年から四一年にかけて日本が行なった侵略もまた、歴史に一線を画す出来事でした。それは結果として、第二次世界大戦後におとずれた植民地解放の時代の幕開けをうながすことになります。このように、植民地解放の動きはごく自然な流れとして、もっともうまく「西洋化」をなしとげていたアジアの大国によって、そのきっかけがもたらされることになったのです。

・・・・・・

一九三六年の五月、首都のアジス・アベバが陥落し、エチオピアは独立を失うことになります。今日の時点からふり返ってみると、国際連盟がイタリアによるエチオピアへの侵略を阻止できなかったことは、致命的な失敗だったように映るかもしれません。けれども第二次世界大戦はきわめて多くの要因が重なって発生したものであり、いつの時点で戦争が不可避となったかを論じても、あまり意味がないといえるでしょう。

もっとも、一九三三年にドイツのナチ党政権(それはイタリアのムッソリーニ政権よりも、はるかに過激で恐ろしい政権でした)が誕生したことは、まちがいなく歴史の転換点となりました。そうした政権の誕生を可能としたのも、やはり直前に発生していた世界恐慌だったといえます。

世界恐慌はまた、別の面においても重大な影響をおよぼしています。一九三〇年代に入ると、経済破綻がもたらした階級闘争の激化によって、各国の政治家たちは国際関係上の問題を、ファシズム対共産主義、さらには左派対右派、民主主義対独裁制などといったイデオロギー的な観点から解釈するようになりました。イタリアのエチオピア侵略に対する英仏の反応に激怒したムッソリーニが、ドイツと同盟を結んで反共産主義の「聖戦」をとなえるようになると、この傾向にはさらに拍車がかかりました。このように一九三〇年代の国際問題がおもにイデオロギー的観点から解釈されていたために、ドイツのナチ党政権のもつ真の危険性が見えにくくなり、その結果、ドイツ問題への対応がますます遅れることになってしまったのです。

ソ連のプロパガンダ活動も、世界に大きな影響をおよぼしていました。一九三〇年代のソ連の国内情勢はきわめて不安定なもので、大規模な産業化計画の実施(一九二八年に第一次五ヵ年計画が開始されていました)にともない、民衆は多大な犠牲を強いられていたのです。そうした国情不安に対処するため、スターリンによる独裁体制が強化されていきました。・・・・・こうしたソ連の動向は、それにともなうプロパガンダによって、国際情勢にも大きな影響をあたえ始めていました。この時期にソ連が意図的に、ソ連包囲網が形成されているというプロパガンダを行なったことが、国際情勢を左右したことほまちがいありません。・・・・・そうした動きにともない、コミンテルンの主張する世界的な階級闘争論も各国に浸透していくことになりました。それがどのような結果をもたらしたかは、容易に想像することができます。つまり、世界各国で保守派が危機感をつのらせることになったのです。左派はもちろん、穏健派の改革勢力に対してさえ、少しでも譲歩すれば共産主義に敗北したことになるとする風潮が、各地で生まれるようになりました。こうして右派が態度を硬化させる一方で、共産主義者たちもさらに革命にむけての活動を激化させていったのです。

・・・・・・

終戦直後にはまだ、第二次世界大戦がどれほど大きな影響を人類の歴史にもたらしたかを評価することは困難でした。ただひとつだけ、誰の目にもあきらかな事実がありました。それはドイツのナチ党政権が行なった数々の犯罪行為が、決して許されるべきものではないということです。連合軍がヨーロッパ大陸を進軍し、強制収容所を解放していくにつれ、人類史上最悪ともいえる組織的暴力と犯罪の実態があきらかになっていったのです。

かつてチャーチルは、「われわれが敗北するようなことがあれば、アメリカを含む全世界が、われわれがこれまで親しみ大切にしてきたものすべてを含む全世界が、新たな暗黒の淵へと沈んでしまうだろう。その暗黒の時代は悪用された科学の力によって、ますます邪悪なものとなり、そしておそらくは長期化の道をたどるだろう」と語っていました。その言葉は、まさに真実以外の何ものでもなかったのです。

・・・・・・

平和が回復すると、戦時中の美辞麗句は思いがけない害をもたらすようになりました。銃声が鳴りやんだあとの世界をじっくり見渡した人びとの前には、大きな幻滅が待ちうけていたのです。それでもなお、一九三九年から四五年にかけてのヨーロッパの戦争は、ほかのどんな戦争にもなかったほど、倫理的な側面を強くもっていたといえるでしょう。この点は何度も強調しておく必要があります。第二次世界大戦において連合軍が勝利したことで、自由主義文明に対する最悪の挑戦が退けられたことはまちがいないのです。

深い洞察力の持ち主であれば、ヒトラー政権が反自由主義的な性質をもった支配体制だったという点に、重大な皮肉を見てとることができたでしょう。ドイツは多くの点で、ヨーロッパのなかでも群をぬいて進歩的な国でした。ヨーロッパ文明における最善のものを数多く保有していたドイツが、これはどの規模で集団的な犯罪行為に走ったという事実は、自由主義文明の基盤そのものに何らかの重大な誤りがあるのではないかという疑いを人びとにいだかせました。ナチ党の犯罪は、一時的に野蛮な征服欲にとりつかれたゆえの暴走ではなく、計画的、科学的、統制的、官僚的な方法で進められたものであり、そのおぞましい目的をのぞくと、そこに合理性を欠く要素はまったくなかったからです。

この点からすると、アジアにおける戦争の意味は大きく異なっていました。アジアでは日本の帝国主義が、一時的にそれまでの西洋列強の帝国主義にとって代わりましたが、多くの場合、支配された人びとはその変化をそれほど嘆いてはいませんでした。戦時中のプロパガンダによって「ファシスト」日本という見解が流布したものの、それは長い伝統をもつ日本社会の特質を、意図的に歪曲した見解だったといえます。たとえ日本が勝利を収めたとしても、ヨーロッパ諸国がドイツに支配されていた場合ほど悲惨な結果は生じなかったことでしょう。

しかし、巻末の監修者あとがきで五百旗頭真氏が以下のように指摘している面は、全くもって認めるしかない。

といって日本偏向という訳ではなく、日本がはまってしまった歴史的愚行を明快に語る。日本の中国侵略こそが、中国の愛国心を呼び起こし、中国が再び東アジアの主体にたち帰る契機を提供した。そのうえ「日本は不覚にも国民党政権を攻撃したことで、長年にわたって阻止しようと努めてきた中国革命を、最終的な成功へみちびく」結果となった。日本は逆説と皮肉を好む歴史に魅入られたように、忌み嫌う敵の勝利につくしたのである。東アジアの植民地解放と第三世界の船出にも、概して同じような皮肉な役割を日本は果たしたといえよう。

 

 

他の部分は省略。

この巻の記事は、これくらいにしましょう。

2017年2月9日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 8 帝国の時代』 (創元社)

Filed under: 近現代概説, 全集 — 万年初心者 @ 00:49

19世紀末帝国主義時代から第二次世界大戦直前までの巻。

まず、欧米列強による世界分割が、「平和的」に進んだことを指摘。

一九世紀をとおしてイギリスが海軍力を背景に「イギリスの平和」を実現したおかげで、非ヨーロッパ世界の支配をめぐって争っていたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国のあいだでは植民地をめぐる戦争が一度も起こりませんでした。一九世紀が植民地への直接支配がもっとも拡大した時代だったことを考えると、一七世紀や一八世紀には何度も起きた植民地戦争がこの時期起きなかったのは、かなり異例だったといえるでしょう。この「イギリスの平和」のおかげて、無数の貿易商人たちも、なんの障害もなく世界中の海を行き来することができました。ヨーロッパ文明が世界中に広まることができたのは、イギリスの圧倒的な海軍力が経済活動を保護していたからでもあったのです。

・・・・・・

ヨーロッパ諸国は約四〇年にわたって植民地問題をめぐる激しい論争をつづけ、アメリカとスペインの対立は戦争にまで発展しました。ところがその一方で、ヨーロッパ諸国による「世界の分割」は、実は驚くほど平穏なうちに進んでいったのです。

事実、一九一四年に始まった第一次世界大戦では、植民地問題でもっとも対立していたイギリス、ロシア、フランスの三ヵ国が同盟して戦っています。つまり第一次世界大戦を引き起こした原因は、植民地をめぐる対立ではなかったということになります。

一九〇〇年以降、第一次世界大戦までのあいだに領土争いが戦争に発展しそうになったのは、モロッコをめぐるドイツとフランスの対立だけでしたが、このときも植民地をめぐる攻防よりも、ドイツがフランスを攻撃した際に、他国がフランスを支援するかどうかに注目が集まっていました。

こうしてみると第一次世界大戦以前の植民地をめぐる争いは、ヨーロッパ大陸内に存在する深刻な対立から、各国の注意をそらす役割をはたしたともいえるでしょう。さらにいえば、ヨーロッパ内の平和の維持に貢献したとさえいえるのです。

19世紀後半、「帝国主義の最後の波」の描写。

一九世紀前半にイギリスとフランスが新たな領土を獲得したことに刺激され、その他の列強諸国も一八七〇年以降、領土の拡大に乗りだします。しかし、そうした国々がたんなる羨望からイギリスとフランスのあとにつづいたというだけでは、一九世紀後半に突如として起こった大規模な「帝国主義の時代」を説明することはできません。南極と北極をのぞくと、一九一四年までに世界の五分の四以上の地域が、ヨーロッパの支配下に入るか、ヨーロッパ系の新国家となっていました。真の意味での独立をたもったのは、日本とエチオピア、そしてタイ(シャム)のわずか三ヵ国にすぎなかったのです。

その原因について、経済的動機は余り重視せず、実は当時各国で進行していた「民主化」こそが大きな影響を与えたとする。

なぜこうした状況になったかについては、今日もまだ議論がつづいています。しかし、それまで長期にわたってヨーロッパに蓄積されてきた力が、この時期に一気に噴出したことほまちがいありません。ヨーロッパ文明が進歩し、強力になるにつれて、ほかの地域はますますその覇権に抵抗できなくなっていきました。ある時点までの帝国主義の理論や思想は、そうしたヨーロッパ諸国が突然自覚したみずからの巨大な力を、「合埋的」に説明しようと試みたものだったといえるでしょう。

・・・・さまざまな技術の発達によって、ヨーロッパ諸国は世界中に覇権を確立していくことになりました。けれども世界各地に覇権が広がれば、貿易と投資も自然に活性化するだろうという見通しは、たしかな根拠をもたない場合が多く、たいていの場合、期待外れの結果に終わりました。アフリカの「未開の地」にどれほど魅力があろうと、また何億人という農民をかかえた中国が一見どれだけ巨大な市場に見えていたとしても、工業国はやはり他の工業国を最大の貿易相手としていたからです。海外における資本の投資先としてもっとも人気があったのも、新しく獲得した植民地ではなく、既存の植民地や元植民地でした。たとえばイギリスは海外むけの資本の大半を、アメリカ合衆国と南米につぎこんでいました。またフランスの投資家たちはアフリカよりもロシアに関心を示し、ドイツはオスマン帝国領に資本を投入していたのです。

国家と同じく個人としてのヨーロッパ人のなかにも、領土拡大による経済発展に大きな期待をよせた人たちが数多く存在していました。ところが、そうした多くの個人がかかわったために、この時期のヨーロッパの帝国主義には一貫性がなく、全体としての傾向を語ることをきわめて困難にしているのです。

探検家や商人だちからうながされる形で、各国政府はしばしば新しい領土の獲得に乗りだしていきました。領土拡大がもっとも盛んだったこの時期は、民衆の政治参加が急速に進んだ時代でもあり、探検家や商人たちが民衆から英雄視されることも多かったのです。

民衆は新聞を購入したり、選挙で投票したり、あるいは通りで声援を送ることによって、国家間の領土拡張競争を背後から支えつづけていました。このころ誕生した安価な新聞は、植民地における戦争や探検をドラマチックに報道して、帝国主義的な政策を後押ししていたのです。出費を生むだけでなんの利益にもならないような土地でも、新しい領土を獲得することで民衆の不満をやわらげることができると考えた政治家たちもいました。

さらにいえば、領土拡大の動機となったのは、利益の追求や不満の解消だけではありませんでした。一部の帝国主義者たちが信奉していた理想主義は、多くの人びとの良心を満足させるうえでも大いに有効だったといえるでしょう。ヨーロッパ文明こそが真の文明であると信じていた人びとは、他の民族を支配して彼らに「幸福をもたらす」ことを、自分たちの義務であると考えていたのです。

日本の近代化と独立維持について。

天皇がふたたび表舞台に登場したのも、民衆の支持を得て革新的な改革を断行できたのも、教育を受けた日本人の大半が、西洋文明に対する「不名誉な後進性」をなんとしても払拭したいと願っていたからでした。もしそれができないとすれば日本もまた、中国やインドなどと同じく植民地化への道をたどると考えられていたのです。

・・・・・・

朝廷が京都から東京に移ったのは、「明治維新」と日本の再生をつげる象徴的な出来事だったといえるでしょう。新しく誕生した明治政府がまずとりくんだのは、封建制度の廃止でした。日本がこの時代の非西洋諸国のなかで特別な存在となりえたのは、中国の惨状をまのあたりにした結果、改革を早急に進めようと決意した人びとが数多く存在したことと、日本の社会的・道徳的な伝統がその種の愛国心を支えたこと、そして既存の天皇制のなかに、たんに古い伝統を守るというだけではない精神的な権威が存在したということです。こうした条件があったからこそ、日本はイギリスの名誉革命と同じく、既存の体制内の人びとが起こした革命によって、大きな変革を実現することができたのです。

・・・・・・

こうして明治維新は大きな成功を収めることになったわけですが、そのひきかえに日本は、最終的に精神面で大きな代償を支払うことになります。日本は西洋から熱心に学んでいる最中に、早くも内向的な姿勢に転じ、新たに国家の宗教とされた神道の信者たちは、「外国」から伝来した宗教という理由で、儒教や仏教を攻撃するようになりました。そしてしだいに「現人神」としての天皇の権力が強化され、やがてせっかく誕生した憲法よりも、天皇に対する忠誠心のほうが重視されるようになっていったのです。

もしも文化的土壌が異なっていたら、明治憲法に盛りこまれた近代的な原則の数々は、自由主義的な社会の発展に貢献したのかもしれません。しかし実際の明治時代の社会体制は、きびしい警察の取り締まりに代表されるように、自由主義とはほど遠いものでした。

けれども明治時代の日本が直面していた・・・大きな課題を考えると、そうした権威主義的な傾向を退けるのはきわめて困難であったことがわかります。ひとつは、経済の近代化を短期間で達成するためには、政府の強い指導ときびしい財政政策が不可欠だったという点です。・・・・・

大衆民主主義時代の到来とその弊害について。

選挙制度の民主化にともなって起きた政治の「大衆化」は、さまざまな形で社会を変化させていきました。選挙に勝つためには大衆を組織しなければならなくなり、一九〇〇年までに近代的な政党が次々と誕生していったのです(政党はまずヨーロッパとアメリカで生まれ、やがて世界中に広まっていきました)。こうした政党は、いずれも巨大な組織と宣伝のための手段をもち、それぞれの得意分野を開拓して政党としての特色を打ちだしていきました。

古いタイプの政治家たちはそうした動きに反発しましたが、彼らにも言い分がなかったわけではありません。近代的な政党とは、つまりは政治の大衆化を意味するものであり、大衆に迎合するために政治が堕落する危険性があると彼らは考えていたのです。

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その一方で、新聞の発行者や政治家たちの多くは、世論は操作できるものだと考えるようになっていきました。この点に深いかかわりをもっていたのが識字率の向上です。大衆が選挙権を正しく行使するためには教育が必要であるとされた反面、識字率の向上に支えられて、センセーショナルな記事で読者の感情をあおる安価な新聞が人気を集めていきました。一九世紀のうちに、宣伝・広告という新しい産業も誕生していました。

そしてこのころになってもまだ、大衆をもっともひきつける政治思想といえば、ナショナリズムでした。当時のナショナリズムは、革命を起こす力さえ依然としてもっていたのです。

近代技術の発達が、戦争を政治の延長であり、その一手段とする考え方を極めて危険なものにしていたことについて。

一九世紀に入って戦争が減少したことで、ヨーロッパでは戦争に対する楽観的な考えが生まれるようになっていました。たしかに一八七七年にロシアとオスマン帝国が戦っだのを最後に、ヨーロッパでは大国どうしの戦争は起こっていませんでした。加えて、残念なことにヨーロッパの軍人も政治家も、アメリカの南北戦争であきらかになった重大な事実に気づいていませんでした。南北戦争では鉄道や電信、さらには大量生産された近代的な武器がもちいられたことで、それまでとはくらべものにならないほど大きな被害が出ていたのです。

・・・・・・

こうしたヨーロッパの不穏な状況をいっそう危険なものにしていたのが、社会全体にみなぎった心理的なムードでした。当時はナショナリズムや愛国主義の昂揚期であり、大衆がひとつの方向へ感情的に流されやすい時代だったのです。

もうひとつ危険だったのは、大多数の人びとにとって戦争といえば一八七〇年の普仏戦争(短期間でパリが無血開城されました)だったため、近代戦争のもつ悲惨さがほとんど理解されていなかったということがあります。普仏戦争の数年前にはアメリカで南北戦争が起こっており、近代戦争のもつ悲惨さがすでにあきらかになっていたのですが、ヨーロッパではそうした新大陸の出来事には注意がむけられていなかったのです(南北戦争によるアメリカ人の死亡者数は、アメリカがそれ以外にかかわっだすべての戦争の総死亡者数を上まわっていました)。

近代戦争がとてつもない破壊力をもつこと自体は、もちろん周知の事実でしたが、二〇世紀の戦争はすぐに終わるものだという誤った「常識」も存在していました。軍事費ひとつをとっても、もはやナポレオン戦争のような長期戦を行なうことができるとは考えられていませんでした。複雑さを増した世界経済のなか、文明国の納税者たちが長期戦に耐えられるはずがないと考えられていたのです(こうした誤った「常識」が、戦争への不安をやわらげていた可能性もあります)。

しかも一九一四年のヨーロッパには退廃と閉塞感が広まっており、戦争が起こればそうした閉塞感を脱することができると期待されていたふしさえあります。もちろん革命家たちは、革命につながることを期待して、戦争の勃発を歓迎していました。

さらに当時のヨーロッパ各国が外交交渉によって長らく戦争を回避し、重大な危機を乗り越えてきたという事実にも、大きな危険がひそんでいました。そのため、一九一四年七月にいよいよ状況が手に負えなくなったときも、多くの人びとが事態の深刻さにしばらく気づかなかったのです。開戦前夜になってもまだ政治家たちは、各国の外交官なり首脳なりが協議することによって、危機を回避できるのではないかと考えていたのです。

キリスト教の衰退と科学への安易な礼賛によって、人間の精神を律する倫理的規範が失われ、ヨーロッパと世界は破滅的動乱に近づいて行く。

このように科学は第一次世界大戦以前の段階で、すでに「神話」となるにじゅうぶんな成果をあげていました。ただし、ここでいう「神話」という言葉には、つくりごとという意味は含まれていません。科学の成果の大半は、実験によって「真実であることが証明されたもの」だからです。そうではなく、過去の時代における宗教と同じく、科学は人間の世界観(宇宙観)に大きな影響をおよぼすものとなりました。その意味から、「神話」とよぶにふさわしいということなのです。

いまや科学は、自然を解読してあやつるためだけのものではなく、人間が追求すべき目的や、行動を律するための倫理基準など、形而上的な問題に対しても指針をあたえるものと考えられるようになりました。もちろん、そうしたことはすべて、科学者たちが追求する科学の本質とは、基本的になんの関係もありません。しかしそうして科学が形而上的な尊敬を集めたことによって、近代文明はその中核に共通の宗教をもたない、はじめての文明となったのです。

この文明の中核には、自然を操作することによって豊かな未来が開かれるという確信と、じゅうぶんな知性と資金さえあれば、基本的に解決不可能な問題はないという自信が存在していました。そして「あいまいなもの」が存在する余地こそあったものの、「神秘的なもの」が社会に存在する余地はなくなっていったのです。実は科学者たち自身はその多くが、科学を中心とするそのような新しい世界観を支持していなかったのですが、今日では多くの人びとがそうした世界観をもつようになっています。その基本的な部分は、第一次世界大戦以前にほぼできあがっていたものなのです。

・・・・・・

けれども皮肉なことに、科学もまた第一次世界大戦の勃発した一九一四年までには、ヨーロッパ文明内の緊張感を高める一因となってしまいました。伝統的な宗教が直面したさまざまな問題に科学が大きく関与していたことはいうまでもありませんが、科学はもっと微妙な形でも社会の緊張を高めていました。つまり、ダーウィンの理論からみちびきだされた決定論や、人類学や心理学が示唆した相対主義をとおして、一八世紀以降科学が重視してきた客観性と合理性に対する信頼を、科学自身がそこない始めていたのです。その結果、一九一四年までに、自由主義的で合理的で進歩的な「新しいヨーロッパ」が、伝統的で信心深く保守的な「古いヨーロッパ」と同じくらい、不安定な状態におちいってしまうことになったのです。

第一次世界大戦がヨーロッパ文明に破滅的損害を与えた後結ばれたヴェルサイユ条約について、著者は問題の困難性を考えれば、条約に対する批判はしばしば行き過ぎているとしつつ、もはやヨーロッパ内部のみの均衡維持で平和は達成できない情勢だったので、米ソ二大国を除いた戦後体制に有効性は期待できなかった、としている。

そして戦後における右翼全体主義の台頭について、著者はイタリアをはじめとする各国の「ファシズム」とナチズムを区別し、真に革命的で過激なものは後者のみであるとする。

イタリア以外の国々で起こったファシズムとよばれる動きも、それらがかかげていた手法や目標とはかけ離れた結果に終わりました。たしかにそうした政治勢力はみな、自由主義のあとにつづく「新しい何か」(大衆社会を基盤とした何かとしか表現できません)を反映してはいたものの、いずれもつねに保守勢力に譲歩し、妥協をくり返していきました。「ファシズム」という現象を正確に説明することは困難ですが、多くの国々で権威主義的(全体主義をめざすものもありました)できわめて国家主義的、そして反共産主義をかかげる体制が成立していったことは事実です。

しかし、この種の体制を生みだしたのはファシストだけではありません。たとえばスペインとポルトガルで誕生した政権は、民衆の支持よりも伝統的な保守勢力をよりどころにしていました。

ファシスト内部の急進派のなかには、政府が既存の社会体制に譲歩することに強く反発した人びともいました。けれども「ファシスト」とよばれた政治勢力のうち、伝統的な保守勢力倒して革命を成功させたのは、ドイツのナチ党だけだったのです。以上のような理由から、「ファシズム」という言葉はある種の政治的潮流をあらわす一方で、混乱をまねくことの多い言葉でもあります。

 

 

この巻は、ちょっと鋭さが減じたか?

でも、それほど悪くもないです。

2017年2月3日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 7 革命の時代』 (創元社)

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フランス革命と19世紀ヨーロッパ史の巻。

まず、キリスト教を中心とする伝統文化を(のちには)変化させ、政治的変革の思想的前提となった17世紀科学革命について。

当時の研究が既存の技術によって観察と計測が可能な分野に限られていたため、特定の分野では大きな進歩が見られたものの、ほとんど関心がむけられなかった分野も数多く存在しました。たとえば物理学と天文学が急速に進歩したのに対して、化学はあまり発展しませんでした(もっとも一七〇〇年の時点では、さすがに四元素説を支持する人はほとんどいなくなっていたようですが)。物理学と天文学は急速な発展を見せたあと勢いが衰えましたが、それでも一九世紀になるまで着実に進歩をとげ、やがて新たな研究方法のもとでふたたび大きく発展していくことになります。

一七世紀の科学革命はさまざまな点て大きな業績をのこすことになりましたが、そのもっとも大きな成果は新しい世界観(宇宙観)を生みだしたことだったといえるでしょう。ヨーロッパでは古くから、あらゆる事象は神によって生みだされたものであり、予測不能なものであると考えられていました。こうした伝統的な世界観に代わって、宇宙を機械にたとえる新しい世界観が生まれ、世界のあらゆる事象は普遍的な法則にもとづいて起こっていると考えられるようになったのです。

ここで誤解していただきたくないのは、この新しい世界観は、決して神の存在を否定するものではなかったということです。個別の事象は普遍的な法則にもとづいて起こると考えられた一方で、その法則が存在する宇宙という「偉大な機械」をつくりだしたのは、あくまで神であると信じられていたからです(その意味で、神はしばしば「偉大なる時計職人」にたとえられました)。

・・・・・・

一七世紀の科学革命によって新しく誕生した世界観(宇宙観)は、神の偉大さと神秘性を強調するという点では、それまでの古い世界観となんら変わりがありませんでした。アリストテレスの思想が中世のキリスト教神学に受け入れられたように、当時の科学者たちは、自分たちが構築した新しい世界観もキリスト教の体系内に収まることを信じて疑わなかったのです。

そして、より直接的に社会の変化を促した啓蒙思想について。

英語の「啓蒙」という言葉には、暗闇に光を投げかけるというイメージがあります。しかし、ドイツの哲学者カントは有名な論文のなかで、「啓蒙とは何か」という問いかけに対し、それは「みずからがもつ未成熟な状態からの脱却である」と答えています。この答えの核心には、あきらかに権威を疑う姿勢が存在しています。啓蒙思想がのこした最大の遺産とは、そうしたすべての物事を批判的に見る懐疑的な態度だったのです。

その結果、あらゆるものが検証と批判の対象になっていきました。神聖なものなど何ひとつないと考えた人びともいます(もっとも、啓蒙思想の特徴である批判精神そのものは、何の疑問も検証もなく受け入れられていたのですが)。

上記末尾の文章には著者の皮肉を感じる。

19世紀産業革命と違い、通史ではあまり触れられることのない、18・19世紀ヨーロッパの農業革命について。

文明を根本から変化させるような出来事は、そうめったに起こるものではありません。しかし一八世紀のヨーロッパで起きた変化は、まちがいなくそうした変化だったといえるでしょう。食料の生産量が、かつてなかったペースで増加し始めたのです。そのころすでに中世の二倍半に達していた農業生産量は、一九世紀に入るとさらに飛躍的な伸びを見せていきました。ヨーロッパでは一八〇〇年ごろから農業生産量が毎年一パーセントずつ増加するようになったのですが、これは過去の成長率とは比較にならないくらい高い成長率だったのです。

さらに同じころ工業と商業も発達したおかげで、世界各地から豊富な食料を調達できるようになりました。このころ起きた生産性の向上も外国からの食料の輸入も、同じプロセス、つまり生産活動に対する投資が増大した結果として生まれたものでした。そして一八七〇年までにはヨーロッパとアメリカ合衆国に、世界中でもっとも多くの富が集まるようになっていたのです。

一七五〇年から一八七〇年にかけて起こった農業生産量の急増(もちろんその後はさらに急増していきました)は、「革命」というような強烈な言葉でなくては表現できません。しかし同時にそれは、非常に複雑なプロセスの結果としてもたらされたものでもありました。ヨーロッパにおける農業革命は、ヨーロッパ大陸だけでなく、南北アメリカ大陸とオーストラリアなども巻きこんだ世界的な経済変化の一環だったのです。

産業革命よりも、この農業革命の方が、人類にとっては真に実質的な進歩と幸福をもたらしたと言えるのかもしれない。

人々が餓死の恐怖から解放されたことは、やはり大きな前進だと思われる。

一方、産業革命は巨大な生産力を解放した陰で、深刻な社会問題も生んだ。

こうした都市化が伝統的な社会の枠組みを崩壊させる要因となったことも、まずまちがいのないところです。一九世紀になるとヨーロッパの各都市で、伝統的な行動様式が破壊され、新しい社会制度や思想が次々に誕生していきました。

都市で暮らす人びとは、農村社会において日々の生活を監視していた聖職者や大地主や隣人たちの目から、のがれることができました。さらに読み書きが庶民のあいだに普及するにつれ、新しい考え方が既成の社会通念を次々に破壊していくようになります。一九世紀にヨーロッパの上流階級がとくに衝撃を受けたのが、都市において無神論や無宗教が広がっていったことです。そのことで危機に瀕しているのは、宗教上の教義だけではありませんでした。なぜならヨーロッパにおけるキリスト教は、古くから伝統的な道徳と社会秩序の守り手でもあったからです。

・・・・・・

このように、産業革命がもたらした変化は物質面だけにはとどまりませんでした。これまでにあきらかになっているかぎりでは、近代文明は特定の宗教への信仰を中核にもたない最初の文明といえます。その誕生の経緯を解明するのはかなりむずかしい作業ですが、おそらく科学と哲学が知識人に信仰心を失わせたように、都市での生活が伝統的な信仰の形態を崩壊させてしまったことも原因のひとつなのでしょう。

・・・・・・

産業革命は生活のリズムを変化させただけでなく、労働自体の意味も変えていきました。この点について考える際には、むずかしいことではありますが、過去の時代の生活に対して感傷的にならないことが必要です。単調な仕事、個人的な判断の排除、資本家による搾取など、工場労働の実情を知れば知るほど、昔はよかったという気もちになることはたしかです。しかし中世の農民の暮らしも単調なものでした。彼らはたいてい領主から搾取されていたうえ、日々の農作業もかならずしも楽だったとはいえません。日の出から日の入りまで働きづめでしたし、景気の変動はともかくとして、天候の影響はつねに受けていたからです。

いずれにしても、産業革命によって人間の日々の暮らしは一変することになりました。その結果をそれ以前の生活とくらべてどう判断するかは、意見の分かれるところですが。

ヨーロッパから遠く離れた場所で、実験国家として誕生し、孤立状態の中で力を貯えていったアメリカ合衆国について。

当時、古典を勉強したヨーロッパ人なら誰でも、古代の共和政が多くの賞賛を集める一方で、その政体が腐敗と派閥争いにおちいりやすかったことを常識として知っていました。その後もイタリア半島には共和政国家が成立していますが、どれも古代ギリシアのアテネや共和政時代のローマ以上に学ぶべき点はなく、一八世紀のヨーロッパには、それほど成功しているとはいえない少数の共和国が存在しているだけでした。共和政は小国でしか成功しないという意見も強かったようですが、アメリカは地理的に孤立していたため、大国でも例外的に共和政を維持できるのではないかと考えられたのです。

とはいえ、建国の時点でこの新しい国の未来を楽観視していた人は、ほとんどいなかったといってよいでしょう。そのため、のちにアメリカ合衆国が大きな成功を収めたとき、共和政に対する評価も一変することになります。従来の政治体制に批判的なヨーロッパの知識人は、共和政のもつ持続力や、政治のコストが安あがりであること、共和政と切りはなせないと誤解されていた自由主義などについて、強い関心を示し始めました。そして共和政という政治形態は、北米大陸から、まもなく南米大陸へも広かっていったのです。

・・・・・・

・・・国民主権の原則は、一七世紀に一部の植民地で制定された憲法(もっともそれらは、あくまで王政の枠組みを超えるものではありませんでしたが)の流れをくむものでしたが、この原則によってアメリカ合衆国は、イギリス本国の政治体制と決定的に決別することになります。イギリスの立憲君主政はもともと国民の意思によって決定されたわけではなく、慣習にもとづくものだったからです。イギリスの憲法学者メートランドの説にしたがえば、イギリス人は国家原理に代わるものとして、国王の権威を受け入れていたということになります。

私には、ジャクソン時代以降のアメリカは、「腐敗と派閥争い」という共和政の典型的失敗例にしか思えない。

それより、「慣習にもとづく立憲君主政」の方がよほど優れた政体だと確信している。

フランス革命について。

三部会の開催から10年をへた一七九九年になると、フランスが中世の伝統とほぼ完全に断絶したことが、誰の目にもあきらかになっていました。なかでも法律の改正が急速に進んでいました。主要な改正の大半は、少なくとも原理的な部分については一七八九年に制定されていたものでした。封建制度や法律で認められた特権の廃止、王権神授説にもとづく絶対主義の廃止、さらには個人を主体とし、宗教に基盤をおかない社会の創設が、「八九年の原則」のおもな内容だったのです。

こうした原則の盛りこまれた「人間および市民の権利の宣言」(いわゆる「人権宣言」)は、一七九一年に公布された憲法の前文として書かれたものでした。これにより、法のもとでの平等、個人の権利の法的保護、教会と国家の分離、信教の自由が保障されることになったのです。こうした一連の法律を実現したのが国民議会です。国民主権の原則にもとづくこの議会が制定した法律は、いかなる地域や社会階層の特権も認めませんでした。彼らは新しい体制のもとで、王政時代よりもはるかに悪化した財政危機(とりわけ国家財政の破綻と通貨の急落)を乗り越え、啓蒙専制君主には夢見ることしかできなかった大規模な行政改革に成功したのです。

末尾の文章の通り、革命は伝統的君主政には不可能だった程の中央集権化された行政権を生み出した。

そして伝統的君主政が破壊された後も、宗教に対する愛着だけは民衆の間に強く残存したことが述べられる。

・・・大規模な変化のあとには、かならず分裂が起こるものです。なぜなら人間の意識が変化するためには、法律や政治体制が変化するよりもはるかに長い時間を必要とするからです。たとえば農民は封建的な地代の廃止を喜ぶ一方で、それまで使用してきた共有地の利用権がなくなったことに強い不満を感じていました。こうした保守的な反応は、宗教問題においても重要な展開を見せることになります。中世からフランス国王の戴冠式でもちいられてきたランス大聖堂の聖器が、恐怖政治の時代に政府によって破壊され、ノートルダム大聖堂にはキリスト教の祭壇に代わって、「理性の祭壇」が設置されることになったのです。

多くの聖職者たちが激しい迫害に会いました。フランスはもはや伝統的な意味でのキリスト教国ではなくなり、「神聖な存在」としての国王をなつかしむ国民はほとんどいなくなりました。しかしその一方で、教会に対する迫害がほかの何にもまして、革命に対する民衆の反感を買っていたことも事実です。結局、一部の革命家が広めようとした「理性」に対する崇拝は根づかず、カトリック教会が正式に復権したときには、多くのフランス人がそれを心から歓迎しました。すでに各教区では、そのはるか以前から、住民の自発的な行動によって教会が実質的に復権をはたしていたのです。

革命の総括的記述。

一九世紀になると、「普遍的な現象としての革命」は、「すべての場所につねに存在する力である」とする人まで現れるようになりました。これはもっとも極端なイデオロギーですが、今日でもこの種の考えがなくなったわけではありません。

反乱や破壊活動の是非は、個別の状況を無視して判断されるべきだと考える人びとが、現在でも依然として存在しています。こうして革命は神話となり、いくつもの悲惨な状況を生みだしていきました。そして最初はヨーロッパが、つづいてヨーロッパが支配した世界が、この神話に情緒的に反応するやっかいな人びとをかかえこむことになりました(かつて宗教上の対立という愚かな現象をかかえこんだのと同様に)。

こうした思想が現在まで存続してきたのも、フランス革命の影響がいかに大きかったかの証拠だといえるでしょう。

ナポレオン時代の意義について。

・・・ブルボン朝が復活したといっても、フランス革命以前の体制が復活したわけではありません。政教条約も県制度もそのまま存続し、法のもとでの平等は守られ、代議制度も継続されることになりました。革命がもたらした変化は、そのころにはすっかり確立された秩序となっていたのです。逆にいうと、そうした状況が定着するために必要な時間をフランス社会に提供したのが、ナポレオンだったということもできます。フランス革命のなかから後世に引きつがれたものは、すべてナポレオンの承認をへたものだったのです。

革命の精神を受けついだという点で、ナポレオンは伝統的な君主だちとは大きく異なっていました。しかしその一方で彼は新しいものを信用せず、保守的な政策を次々に打ちだしていきました。いわばナポレオンは、「民主的な専制君主」だったといえるでしょう。彼は国民投票という正式な手続きをへて権力を握るとともに、国民の支持を得て強力な軍隊を編成することにも成功しました。こうしてみるとナポレオンの政治スタイルは、かなり二〇世紀の支配者たちに近いものだったといえます。

国際舞台におけるフランスの力を、かつてなかったほど高めたことについて、ナポレオンはこれまでルイー四世とともに自国内で高い評価を受けてきました。ただしこの点でもまた、両者には重要な違いがあります。ナポレオンはルイー四世のはたせなかったヨーロッパ支配をなしとげただけでなく、その支配は「革命という洗礼」を受けていたため、たんにフランスが他国を軍事的に支配したという以上の意味をもっていたのです。

けれどもその点を美化するのは、あまり適切ではないかもしれません。ヨーロッパの解放者であるとか、偉大な天才といったナポレオン像は、後世になってつくられた伝説にすぎないからです。一八〇〇年から一四年までのあいだにナポレオンがヨーロッパ諸国にもたらしたものは、何よりもまず血なまぐさい戦争であり、混乱でした。しかもそうした戦争や混乱は、いずれも彼の異常なまでの権力欲と誇大妄想的な資質によって引き起こされたものだったのです。とはいえ、意図的なものも、そうでないものも含めて、ナポレオンが貴重な副産物を後世にのこしたことは事実です。

革命後の歴史を動かす原動力となった、ナショナリズムと自由(民主)主義について。

・・・ヨーロッパの政治思想のなかに、「歴史的」であると認識された国民(民族)の利益を、政府が守り発展させるべきであるという考えが、急速に広まっていきました。それとともに、どの国民が歴史的に重要であるのか、彼らの利益をどのように定義すべきかなどといった問題について、激しい論争が行なわれることになったのです。

一方、ナショナリズムのほかにも重要な原則がありました。それらの原則は実際には「民主主義」や「自由主義」といった言葉ではとうてい表現しきれないのですが、ほかに適切な表現がないので、ここではそうした言葉をもちいることにしておきます。

ヨーロッパでは、より多くの人びとの政治参加を実現するために、代議制度を採用する傾向が各国に広まっていきました(形式だけの場合もありましたが)。自由主義者と民主主義者はほぼ一貫して、選挙権の拡大と代議制度の改善を要求していました。同時に先進国の政治制度と社会制度は、以前にも増して個人に基盤をおくようになり、地域社会や宗教、職業、家族などの一員であることよりも、個人としての権利のほうが重視されるようになりました。

こうして、たしかに自由が拡大していったわけですが、逆に以前よりも自由を失った面もありました。国民国家においては、国家が国民に対してかつてなかったほど法的に強い立場に立ったため、国家は国民をより効果的に支配できるようになっていったのです。

現代でも、我々は基本、この二つの原理の下で暮らしているわけだが、その弊害も極めて大きい。

国家権力の増大が生みだしたことは、以下の引用文の通り、19世紀後半においては「革命の衰退」であり、ひとまず肯定的に見ることができるが、20世紀に入り、国家の大衆民主主義化と共に、国家自体が恐るべき暴走を始めることになる。

一七世紀にフランスがスペインにとって代わったように、いまやドイツがフランスに代わってヨーロッパ大陸における最強国となりました。しかしこの変化のなかに、厳密な意味での「革命の影響」はほとんど見ることができません。一九世紀の革命家たちは、カブールやビスマルクに匹敵する業績は何ひとつのこすことができず、ナポレオン三世とくらべてもかなり見劣りのする成果をあげることしかできませんでした。この時期に革命によせられていた期待や、あるいは恐怖を考えれば、それは奇妙な現象だったといわざるをえません。いずれにしても、この時期に革命が成功したのはヨーロッパの周辺地域に限られており、しかもまもなく衰退の兆しさえ見せ姶めたのです。

一八四八年までは、陰謀やクーデターだけでなく、ヨーロッパ中で革命があいつぎました。しかし一八四八年以降は、一八六三年のポーランドをのぞくと、大国が支配する地域では一八七一年まで一度も革命が起こらなかったのです。

もっとも、革命の勢いが衰えたのは、それほど不思議なことではありませんでした。結局、革命はフランス以外の国ではほとんど成功しなかったといえますし、フランスでも最終的にはナポレオンによる独裁体制が誕生したのですから。

その一方、革命が目標としたもののいくつかは、別の方法で達成されつつありました。カブールとその後継者たちがイタリアを統一する様子を見て、マッツィーニはさぞ悔しがったにちがいありません。それは革命家たちが認めることのできない形での国家統一だったからです。ビスマルクも一八四八年の革命とは別の方法で、自由主義者たちが望んでいたドイツの統一を達成し、ドイツをまぎれもない大国の地位に押しあげることに成功しました。

その後、かつて革命家たちがかかげていた目標のいくつかは、経済発展によっても達成されていくことになります。貧困に対する恐怖は依然として存在していたものの、一九世紀のヨーロッパは着実に豊かになり、人びとの暮らしも向上していきました。そうした流れをさらに加速させた個別の出来事もありました。一八四八年にカリフォルニアで金鉱が発見され、それによって一八五〇年代から六〇年代にかけて、世界経済が活性化されることになったのです。この二〇年間は、社会に自信がみなぎり、失業率が低下して、秩序もおおむね維持された時代となりました。

社会に革命が起こりにくい状況が生まれていたことも、革命が減少した理由のひとつだったといえるでしょう。おもに軍事技術の進歩によって、どの国の政府も以前よりも容易に反乱を鎮圧できるようになっていたのです。一九世紀に入ると近代的な警察制度が誕生し、鉄道と電信の普及によって、遠くで起こった反乱にもすばやく対処できるようになりました。さらに軍隊も武器を強化して、以前よりも確実に反乱を鎮圧できるようになっており、たとえばフランスでは政府が正規軍を掌握していれば、かならずパリを制圧できることが、一七九五年の総裁政府による民衆の鎮圧によってすでに示されていました。

一八一五年から四八年までつづいた長い平和のあいだに、各国の軍隊のおもな任務は、外国軍と戦うことから、国内の反乱や暴動を鎮圧し、治安を維持することに移っていきました。一八三〇年と四八年にパリで革命が成功したのは、軍の重要な部隊が持ち場を離脱したからです。政府が軍部を掌握していさえすれば、一八四八年の六月蜂起のような事件はかならず失敗に終わりました。実際、この年を最後に、ヨーロッパの主要国では民衆による革命が成功することは一度もなかったのです。

1871年パリ・コミューンも、そうした軍の治安維持機能を示した事件だったのだが、社会主義思想の台頭で、逆に革命神話を強化する働きを果たすことになってしまった。

一方、西欧に比し後進的存在であったロシアでも、自由主義的・社会主義的思想の流入によって変化と混乱に向かいつつあったが、体制の改革に否定的だった皇帝ニコライ1世への本書の評価は厳しい。

独裁国家においては、反体制運動はすなわち地下活動を意味します。一八二五年にアレクサンドル一世が亡くなると、そうした地下活動をつづけてきた秘密結社がクーデターを企てました。(デカブリスト(一二月党員)の乱」とよばれたこのクーデターは結局失敗に終わりましたが、それは新皇帝ニコライ一世をふるえあがらせるにじゅうぶんな出来事でした。その結果、ニコライ一世は歴史的に見てきわめて重要な時期に、自由主義をつぶそうとして、ロシアのその後の運命を大きく狂わせることになります。

ニコライ一世の治世は、ピョートル大帝の治世と並んでもっともロシアの運命を左右した時代だったといえるかもしれません。その理由のひとつは、彼が変革を拒否したことでした。独裁政治の信奉者だったニコライ一世は、権威主義的な官僚制、文化活動の管理、秘密警察による支配などといったロシアの伝統を、ほかの保守的な大国が不本意ながらその種のものを廃止しようとしていたときに、逆に強化してしまったのです。

だが、その著者も、アレクサンドル2世による農奴解放令に対しては、極めて高い評価を与えている。

一七世紀以降に強化されたロシアの農奴制は、ロシア社会の最大の特徴となっていました。ニコライ一世でさえ、農奴制はロシア社会がかかえる最大の悪弊であると認めていたほどです。ニコライ一世の時代は農奴による暴動がとくに頻発し、地主を襲撃し、穀物を焼き、家畜を傷つけていました。貢納の支払い拒否などは、もっともおだやかな抵抗であったとさえいえます。

ところがこの巨大な制度を廃止するのは、とてつもなく困難なことだったのです。というのも、ロシア人の大半が実は農奴だったからです。たんに法律をつくったからといって、一夜のうちに農奴を賃金労働者や自作農に変えられるはずもありません。さらには荘園制度がはたしてきた行政的な役割が廃止され、その代わりになるものがないとしたら、国家が突然大きな負担を背負うことになってしまいます。ロシア政府にそれはどの力はありませんでした。

そのためニコライ一世はあえて何もしなかったのですが、アレクサンドル二世は行動を起こしました。数年間をかけて、さまざまな廃止方法を研究し、それぞれの長所と短所を検討したうえで、一八六一年についに農奴解放令を発令したのです。ロシア史にのこるこの画期的な決断により、アレクサンドル二世は「解放皇帝」のよび名をあたえられることになります。ロシアの農奴解放令は、ロシア皇帝がもつ絶対権力が効果的にもちいられた、もっとも顕著な例といってよいでしょう。

農奴解放令により、ロシアの農民は人格的自由を認められ、土地にしばりつけられた労働形態は消滅しました。しかし土地を獲得し所有するためには、買いもどし金を支払わねばなりませんでした。そして彼らが買いもどし金をたくわえるため、また急激に自由労働市場に移行して混乱を起こさないために、解放令のあとも農民たちは各地の農村共同体のもとにほぼとどまりつづける結果となりました(農村共同体には、土地を家族単位で割り当てる仕事が託されていました)。

まもなく農奴解放のやり方や条件に対して批判が噴出します。しかし、ロシアの農奴解放には評価すべき点も数多く存在しますし、歴史的に見ても偉大な出来事だったといってよいでしょう。数年後にはアメリカ合衆国でも奴隷解放宣言がなされ、ロシアよりはるかに経済発展の可能性のあるアメリカで、ロシアの農奴よりもはるかに少ない数の黒人奴隷が解放されました。しかしそれでも、そのとき奴隷を労働市場に突然放りだし、完全な自由放任経済にまかせたため、その結果にアメリカ社会は今日もなお悩まされつづけているのです。

一方、ロシアでは今日までの歴史でも例をみないような巨大な社会変化が、大きな混乱をともなうことなく実現されることになりました。そして世界最強国となる巨大な可能性を秘めたロシアに、ようやく近代化への道が開かれることになったのです。ロシアが長く慣れ親しんできた農業社会から工業社会へむかうためには、農奴解放は必要不可欠なステップだったのです。

確かに我々は、後の革命と帝政の崩壊という視点から、農奴解放令の「不徹底」性をあげつらうことに慣れすぎているのかもしれない。

民主主義特有の党争の弊害から国家を二分する内戦に突入し、莫大な犠牲を払わなければ黒人奴隷を解放できなかったアメリカに比べて、それ以上に社会に深く食い込んでいた農奴制を整然と廃棄した専制君主制下のロシアの方が、少なくとも19世紀の時点では成功していたとする史観があってもよいように思える。

続いて、地理的な孤立という共通点を持つ米英両国が、独立革命後、反発しつつも徐々に関係を改善していったこと、南北戦争によって合衆国の統一が維持され世界的強国に発展したこと、イギリスは産業革命と民主化を政治的断絶無しに達成することに成功したことを述べる。

以下の文章を読むと、私にはやはり米国よりも英国の方が好ましく、価値ある国家と社会であったと思える。

イギリスの政治体制は、主権を「議会の決定にしたがう国王」におく立憲君主政・・・です。たしかに当時のヨーロッパの基準からすると有権者の数は多いほうといえましたが、イギリス人にとって「民主主義」という言葉は否定的なニュアンスをもっており、その実現を求める勢力はほとんど存在しませんでした。イギリス人にとって民主主義とは、フランス流の革命と軍事専制政治を意味していたのです。

・・・・・・

諸外国にはイギリスの政治制度に大きな関心をよせる人びとが少なくありませんでした。工業都市の悲惨な実態にもかかわらず、イギリスが民衆による反乱をうまく切りぬけたことは、それができなかった国々にとって大きな驚きとなっていたからです。他国で革命が起こりそうになるたびにイギリスは意図的に大規模な制度改革を行ない、自由主義の原則をさらにはっきりと示すことで、国力の強化と豊かな社会の実現に成功していたのです。そして政治家も歴史家も、イギリス社会の基盤は自由にあると誇らしげに語っていたのです。

イギリスは、アメリカのように地理的に完全に孤立していたわけでも、広大な土地をもっていたわけでもありません。そのアメリカですら革命を阻止するために悲惨な南北戦争を経験しだのに、イギリスだけがなぜ革命を回避することができたのか。これまで多くの歴史家が、その答えをさがし求めてきました。

けれどもこの問いかけには、革命はある種の条件が整えばかならず起こるものだ(そしてイギリス社会はその条件を満たしていたはずだ)という無意識の前提があるようです。しかし、そもそもこの前提そのものがまちかっているのでしょう。急速に変化しつづけるイギリス社会において、革命が起こる可能性は、おそらくまったくなかったはずです。フランス革命によってヨーロッパ諸国にもたらされた変化の多くは、イギリスでは数世紀も前から実現していたものだったからです。時代をへるにつれ、そこに不合理なしがらみがまとわりついていたとしても、イギリスには新たな変化を許容するだけの基本的な政治体制がすでにできあかっていたのです。

イギリスの下院も上院も、ヨーロッパ諸国の議会のような閉ざされた組織ではありませんでした。両議院ともに一八三二年の議会改革以前に、すでに社会の新しい要望に柔軟に対応する能力があることを証明しています。たとえば最初の工場法(その内容自体はお粗末なものでしたが)が可決されたのは一八〇一年のことでした。さらに一八三二年以降は、人びとは議会に強く働きかければ、どのような改革でも実行できると考えるようになっていました。議会が改革を実行するうえで、法的な制限はいっさい存在しなかったからです。

当時の社会のなかで抑圧され、怒りをかかえた人たちでさえ、この点については認めていたようです。一八三〇年代から四〇年代にかけて(貧困層の暮らしがとくにきびしくなった時代でした)、過激な暴動が頻発し、数多くの革命家が登場しました。しかし当時最大の民衆運動であった「チャーティスト運動」でさえ、「人民憲章」をかかげて議会制度の民主化を求めたものの、議会の廃止までは要求していなかったのです。

けれどもそうした民衆運動だけでは、おそらく議会に改革を実行させることはできなかったでしょう。ここで重要な点は、工場法をのぞくと、ヴィクトリア時代の大きな改革はすべて、労働者階級と同じくらい中産階級の利益にもつながるものだったということです。イギリスの中産階級は、ほかのヨーロッパ諸国の中産階級よりもひと足先に政治的な発言力を獲得しており、その力を利用して要求を実現できる立場にありました。そのため彼らは革命という手段に訴える必要がなかったのです。

一方、一般の民衆のあいだでも革命を求める気運が高まりを見せなかったという事実は、今日まで左翼の歴史家たちの頭を大いに悩ませてきました。それはイギリスの労働者があまりにも貧しすぎたからなのか、それともそれほど貧しくなかったからなのか、あるいは労働者がバラバラで、ひとつの階級としてまとまっていなかったからなのか・・・・・。イギリスに革命が起こらなかった理由について、これまでさまざまな説がとなえられてきました。

しかし、ただ一点だけあきらかなのは、イギリスでは伝統的な行動様式が依然として根強く存続していたという事実です(イギリスではこの時代になってもなお、身分の高い人間に身分の低い人間が服従する習慣がありました)。

さらには革命という手段に訴えなくても、イギリスの労働者は労働組合によってみずからの権利を主張することができたのです(自助、思慮、倹約、謹厳を重んじたという意味では、この時期の労働組合も「ヴィクトリア風」だったといえるでしょう)。

こうして社会が急激に変貌するなかで、変化しないものの象徴でありつづけたのが、議会と国王でした。議会が開催されるウェストミンスター宮殿が焼失し、新しく建て直される際には、「議会制度の母国」としての伝統の古さを強調するために、中世のゴシック様式がわざわざ採用されています。これはイギリス史上まれにみる変革の時代が、伝統と慣習の衣におおわれていたことをまさに象徴する出来事だったといえるでしょう。

議会とともに、変化しないものの象徴だったのが国王です。ヴィクトリア女王が即位した時点で、イギリスの君主政はヨーロッパでは教皇制度についで古い歴史をもつ政治制度となっていました。しかし、その実態は時代とともに変化しています。ジョージ三世のあとをついだジョージ四世は、イギリス史上最悪の国王と評され、つぎの国王も人気を回復することができませんでした。そして、つづくヴィクトリア女王と夫のアルバート公がようやく威信を回復したものの、女王自身の気質はどちらかといえば立憲君主政には適さないものでした。女王は政治的に中立であることを好まず、その姿勢を隠そうとしなかったからです。

にもかかわらず、イギリスの王権が政治問題から手を引くようになったのは、ヴィクトリア女王時代のことでした。女王は「王室」を一般家庭のお手本に仕立てあげ、ジョージ三世の時代以来、はじめて「王室」という言葉がその実態をもつことになったのです・・・・・。

 

 

残り3巻。

順調です。

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