万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年1月28日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』 (創元社)

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近世ヨーロッパ史の巻。

この巻からは、特に気になった部分を断片的に引用するだけにし、他の部分はできるだけ省略して行くので、これまでの巻にも増して、全体的に少し脈絡に欠く記事になるかもしれません。

 

紀元前500年頃から紀元後1500年まで続いた諸文明の均衡状態が崩れ、ヨーロッパ文明の進出による世界の一体化が始まる。

ただし、その本格化は19世紀を待たなければならない。

世界の歴史に、新しい時代が始まりつつあることを示す数々の兆候が、紀元1500年前後からあいついで現れるようになりました。そのうちのいくつかについては、これまでの巻ですでにお話ししてきたとおりです。ルネサンスの本格的な開花、活字印刷術の発展、アメリカ大陸の「発見」とスペインやポルトガルによる海外植民地の建設などを、そうした例の代表としてあげることができるでしょう。

そのような出来事は、いよいよ人類の歴史が本当の意味で「世界史」の時代に入り、その中心にはヨーロッパで誕生した「強力な」文明が位置するという、新しい時代の本質をよくあらわしています。ヨーロッパ人の活動によって、世界中で起こる出来事が、しだいに有機的な関連をもつようになっていきます。そしてヨーロッパ人は自分たちも気づかないまま、ほかのすべての大陸に干渉を加え、世界に「近代化」を強要する道を歩み始めることになるのです。

「近世」という時代区分について。

「近代」とは、私たちにとってなじみの深い言葉です。しかし、それがさし示す年代は、つねに一定だったわけではありません。かつては古代ギリシア人やローマ人が活躍する「古代史」からあとの時代を、すべて「近代史」としてひとくくりに考えていました。事実、オックスフォード大学などはいまでもこの時代区分を採用しており、「近代史」の講座には、いわゆる「中世史」も含まれています。

その後、「中世史」が近代史から切りはなされるようになり、現在ではさらに細かく分けられるようになりました。歴史家たちは「近代」をふたつに分け、その前半を「近世」とよぶことが多いからです。この用語を歴史家たちが使うとき、そこにはひとつの重要な歴史的推移が表現されているといってよいでしょう。つまり「近世」とはヨーロッパにおいて、神に支配された閉鎖的な中世キリスト教世界から、合理的精神に満ちた「近代社会」が成立するまでの移行期をさして使われることが多いのです。

そのような歴史上の変化が起きた時期は、国によってさまざまでした。イギリスやオランダでは一七〇〇年ごろまでに移行したといえるかもしれませんし、スペインでは一八〇〇年ごろまでは、まだ不完全なものだったようです。また東ヨーロッパの多くの国では、一九〇〇年ごろになっても、ほとんどそうした変化は起きていませんでした。しかし時期はさまざまだったとしても、広く起こったこの一連の変化が、世界史におけるヨーロッパの覇権を決定づけたことはたしかなのです。

その大きな歴史の流れをこれから見ていくにあたって、ひとつのごく単純な視点をもっておくことが、あるいは重要かもしれません。つまり現在までの人類の歴史において、ほとんどの時代、人間は「安全な暮らし」と「じゅうぶんな食料」を確保するための選択肢をもっていなかったという事実です。そうした状況に変化をもたらし、人びとに選択肢をあたえるきっかけとなったのが、近世ヨーロッパで起こった変化、それもいわゆる西ヨーロッパとよばれるエルベ川から西側のヨーロッパで起こった経済的な変化だったのです。

その経済的変化を象徴する、いわゆる「価格革命」について。

インフレは社会に重大な影響をもたらすことになりました。資産家たちのなかにも、利益を得た大もいる一方で、ひどい目にあった人たちもいました。地主のなかには地代を引き上げることでインフレに対抗した者もいましたが、その一方、土地を売りに出さなくてはならなくなった地主たちもいました。そうした結果、現代の社会でもしばしば起こる現象ですが、インフレが社会の流動性を高めるという現象が起こり始めたのです。・・・・・どこの土地でも、インフレによる打撃をもっとも強く受けたのは、社会構造の両極に位置する人びとでした。つまりインフレによって貧困層が飢えに追いやられる一方、王侯たちもこの新しい事態に対処するため、誰よりもお金を使う必要にせまられたのです。

歴史家たちは約一〇〇年間つづいたこの物価上昇を説明するために、これまで多くのページをついやしてきました。その原因のひとつは、よくいわれているように、スペイン人が南米の鉱山を開拓したために、大量の銀がヨーロッパに流れこんだことにあったのでしょう。ただし、新大陸からもたらされた大量の銀が状況を悪化させたことはたしかですが、ヨーロッパのインフレがそのはるか以前から始まっていたことも事実です。おそらく、もっとも根本的な原因は人口の増加にあったものと思われます。この時期、農業生産が横ばいのときも、人口ほつねに増えつづけていたのです。

近世最先進国となったイギリスの社会構造について。

イギリスでは、フランスで存続していたような「商業化された封建制度」でさえも、一八〇〇年を待たずにすたれてしまいました。貴族たちには議会に出席する権利をのぞけば、いかなる法的特権もあたえられていなかったのです(さらに貴族たちは、下院議員の選挙では投票できないという法的制限を課せられていました)。

イギリスの貴族階級の特徴は、それが非常に小さな集団だったということです。一八世紀末の時点で、イギリスの上院議員の総数は二〇〇名以下でした。彼ら上院議員の地位は世襲制で、直系の相続人だけが継承することを許されていました。つまりイギリスの貴族階級は、ほかのヨーロッパ諸国のように、ひとつの社会階層を形成するような大規模なものではなかったのです。

イギリス以外のヨーロッパ諸国では、どの国にも数多くの貴族がいて、自分たちを庶民層からはっきりと区別し、数々の法的特権を享受していました。革命前夜のフランスには、おそらく二五万人もの貴族が存在し、そのすべてが何らかの法的な特権を保持していたものと思われます。しかしイギリスではそうした特権をもつ貴族は、オックスフォード大学の講堂に入りきる程度の人数しか存在せず、さらに彼らのもつ法的な特権も、それほど大きなものではありませんでした。

一方、イギリスでは貴族階級のすぐ下に、「ジェントリー」とよばれる境界のあいまいな上流階級が誕生していました。この階級は上の方では貴族と、下の方では富裕な農業経営者や商人たちとつながっていたのです。

この高い身分とも低い身分ともつながりをもつジェントリーという社会階層が、イギリスの社会に結束力と流動性をもたらすうえで、大きな役割をはたすことになりました。なぜならジェントリーという身分は、富の蓄積や職業上の成功によっても手に入れることが可能だったからです。

ジェントリーのあいだでは、騎士道精神にもとづく倫理観が非常に重視されていました。つまりジェントリーとは、イギリス貴族の伝統を受けつぐ一方で、従来の排他的な階級制度に風穴をおける役割をはたしたというわけです。そしてこのジェントリー階級が、近代イギリス社会の成立において、大きな役割をはたすことになるのです。

「絶対王政」下の主権国家体制確立に向かう動きについて。

当時のヨーロッパ諸国の統治形態にはさまざまな形のものがありますが、それには惑わされないようにしてください。重要なのはこの時期、ヨーロッパの人びとが、国家の最高権力である「主権」という概念を考えだし、それを国家の基礎として位置づけることで、強力な近代国家を成立させていったという事実です。「主権」の担い手が誰で、その権力はどのような範囲にまでおよぶかという点については、さまざまな議論がありました。しかしヨーロッパではしだいに、もし「主権」が正当な担い手の手中にあるならば、その立法権にはいかなる制限もあってはならないと考えられるようになったのです。

そこには従来の考えとは大きな断絶がありました

「無制限の立法権をあたえられた統治者(主権者)」という概念は、中世ヨーロッパ人の目には、神学的には冒瀆であり、社会的にも従来の既得権(さまざまな特権など)を侵害するものと映ったことでしょう。

その結果、当時そうした「主権」を行使する地位にあった王たちに対して、まったくちがったふたつの立場から批判が起こるようになります。ひとつは「保守的」な立場から、中世的な「自由」を守ろうとするものでした。もうひとつは近代的な「自由主義」の立場から、「主権」が王の手中にあるのはまちがいであるとするものでした。しかし実際にはのちのフランス革命でも見られるように、このふたつの立場は渾然一体となっていたのです。

ヨーロッパにおける近代的な主権国家の登場は、多くの国が君主政(王政)を採用していたために、その革新性が目だたなくなっています。

けれども法的原理についての議論から目を移すと、近代ヨーロッパにおける国家の発展は、王権の強化と一体となって進んでいったことがよくわかります。中世後期に多くの国で採用されていた代議制がすたれてしまったことは、そのひとつの現れといえるでしょう。

代議制が衰退する傾向は一六世紀に始まり、フランス革命が起きた一七八九年には、西ヨーロッパの多くの国は、議会などによって制約を受けることのない王によって支配されるようになっていました(イギリスは例外でしたが)。各国の王たちが一六世紀以降手にするようになった権力は、中世の領主や市民だちから見れば非常に強大なものに思えたことでしょう。

ところでこうした現象は、よく「絶対王政」の台頭と表現されることがあります。この言葉の使用自体に異議をとなえるつもりはありませんが、その場合は王たちがみずからの意向をどれだけ実現できていたかという点に、よく注意しておく必要があります。というのも現実には「絶対王政」の王権に対しても、中世の王権と同じく、多くの抑止機能が働いていたからです。

しかし、王たちのもつ権力が一六世紀以降、あらゆる面で大きくなっていったことは事実です。各国の王たちは新しい財源を見つけては常備軍や大砲を整備し、私兵をもつ余裕のない大貴族たちを押さえつけようとする一方で、芽ばえつつあった国民意識を臣民と共有することもありました。大まかにいえば、一五世紀末ごろには多くの国で、秩序と平和が保証されるなら、そうした強力な王権を受け入れてもよいとする認識が生まれていたようです。もちろん国によって事情はさまざまでしたが、ほとんどすべての国にいえるのは、王たちがこの時期、「もっとも有力な貴族」から、それ以上の存在へのしあがることに成功したということです。そして彼らは武力と徴税権をもちいて獲得した権力によって、新しい統治形態を確立していくことになるのです。

宗教改革も同様に国民国家の萌芽期を促進する役割を果たしたが、その絶対王政、「ルネサンス国家」を襲った「17世紀の危機」について。

このような国内の反乱は、いずれも経済的な困窮に端を発したものでした。つまり財政面では「ルネサンス国家」は、まったく成功していなかったのです。一七世紀になって、ほとんどの国で常備軍が創設されたことも、財政を圧迫する大きな原因となっていました。たとえばこの時期にフランスの国民に課せられた税は、イギリスとくらべて、はるかに過酷なものだったようです。

イギリスは内戦と国王の処刑、一時的な君主政の終焉といった重大な危機をすでに経験していましたが、国土の荒廃はそれほどではありませんでした。イギリスで頻発した物価の上昇を原因とする暴動も、一七世紀に起きたフランスの小作人の蜂起などとは、くらべものにならないほど小規模のものだったのです。逆にイギリスではピューリタンなどの急進派が国家や教会と対立していましたが、そうした信仰上の問題はスペインには存在しませんでしたし、フランスでもずいぶん前に解決済みでした。実際、フランスのユグノーにはさまざまな権利があたえられており、彼らは国王が自分たちを保護してくれていると考えていたため、フロンドの乱のときにも国王側についていたのです。

すでにのべたとおり、一六六〇年にはイギリスで王政復古によってチャールズニ世が王位に復帰し、その翌年にはフランスでルイー四世の親政が開始されます。これはヨーロッパの歴史にとって、大きなターニングーポイントとなりました。フランスではこれ以降、革命が起こる一七八九年まで、大規模な国家的混乱は起きませんでしたし、とくにルイー四世が一七一五年に死去するまでの半世紀は、比類のない軍事力と外交力が発揮された輝かしい時代となったのです。イギリスでも、一六八八年に名誉革命が起こったものの、内乱は二度と起きませんでした。

イギリスでは一六八九年に制定された「権利の章典」のなかで、個人の権利がはっきりと確立されましたが、国家の主権の問題はまだ決着していませんでした。それに対し、フランスではすべての人が王権の絶対性に同意していました。ただし法律家たちだけは、国王にも法的にできないことがあると指摘しつづけていたのです。

この混乱は、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、勢力均衡原則に基づく講和が結ばれることによって終息、長年続くヨーロッパの政治地図が現れる。

一方、西欧に比して後進的存在となった東欧、その中心たるロシアのツァーリズムについて。

こうしてロシア正教会がツァーリに服従した結果、ロシアの政治形態に最後の変革がもたらされ、ロシア型の専制政治が誕生することになりました。この変革の特徴を列挙すると、つぎのようになります。

「法的な制限を受けることのない半ば神格化された支配者(ツァーリ)の存在が認められたこと」、「ツァーリへの奉仕が全人民に課せられた義務として強調されたこと」、「土地保有がその奉仕義務と結びつけられたこと」、「権力の分散がない巨大な官僚機構が発展したこと」、「軍事上の要請が最優先されるようになったこと」などです。

こうした特質は研究者からも指摘されているように、専制政治が始まった時点ですべて存在していたわけではありません。また、すべての特質がいつも同じように効力を発揮していたわけでもありません。それでもロシア型の専制政治は以上のような特質によって、西ヨーロッパ型の君主政とは、はっきりと区別することができるのです。

西ヨーロッパでは、はるか中世の時代から、都市や各階級の人びと、ギルドなどの団体が、さまざまな特権を享受していました。そうした伝統の上に、のちの立憲政治が築かれていったのです。ところがかつてのモスクワ大公国では、最高位の役人ですら、「奴隷」あるいは「召し使い」を意味する役職名でよばれていました(同じ時期のポーランドやリトアニアですら、そうした立場の人びとはすでに「市民」とよばれていたのですが)。

ヨーロッパでもっとも強大な「絶対王政」を確立したフランスのルイー四世でさえ、個人的には王権神授説を信奉していたかもしれませんが、みずからの権力がつねにさまざまな法的権利や既得権、神の法などによって制限されていることをはっきりと自覚していました。またフランスの国民もルイー四世を「絶対君主」だとは思っていましたが、「専制君主」であるとはまったく考えていなかったのです。

一方、イギリスでは、すでにのべたように議会のコントロール下におかれた立憲君主政が誕生しつつありました。たしかにイギリスの君主政とフランスの君主政では、その方向性はまったくちがっていたかもしれません。しかし、どちらの国王もロシアのツァーリとくらべれば、はるかに多くの制約を受け入れていたことは事実なのです。

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ロシアの社会構造もまた、他国との違いがきわだっていました。ロシアはヨーロッパのなかでも、農奴制を最後まで廃止しなかった国です。ほとんどのキリス卜教国では一八世紀に奴隷的な強制労働が衰退していたにもかかわらず(アメリカ合衆国とエチオピアは例外ですが)、ロシアでは逆に農奴制が広がりを見せていたのです。その理由はおもに、広大な土地に対して労働力がつねに不足していたところにありました。驚くべきことにロシアでは、土地の価値は広さではなく、「魂」の数、つまりその土地に属する農奴の数で決められていたのです。

このようにロシアの専制帝政を批判的な筆致で記す著者ではあるが、その成立にはそれなりの歴史的経緯があったことも記し、一方的な見方には陥っていない。

もっとも歴史をふり返ってみれば、ロシアにはこのロシア型の専制政治が実に適していたといえるでしょう。一八世紀の学者たちは、「広くて平らな国には専制政治が似合う」という言葉をのこしています。これはいささか単純すぎる意見かもしれませんが、ロシアのようにあまりにも多様な地域と人びとをかかえる大国には、つねに分裂へとむかう政治的なベクトルがはたらきます。「ツァーリ」を中心としたロシア型の専制政治には、強大な力で国をひとつにまとめあげるという大きな役割があったのです。

著者は、ロシアの近代化の端緒となったピョートル1世の治世をやや肯定的に評価するものの、もう一人の代表的君主エカチェリーナ2世への視線は厳しい。

エカテリーナ二世の統治はピョートル一世よりも華々しいものとなりましたが、改革の推進という点では見劣りがします。たしかにエカテリーナも学校を設立し、芸術や科学を庇護したことは事実です。けれどもピョートルが実質的な改革を進めたのに対し、エカテリーナは啓蒙君主としての名声を、政権の運営に利用しただけだったという見方もできます。見た目は進歩的でしたが、実際には保守的だったといってよいでしょう。

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長い目で見ると、貴族たちと専制政治が手を結んだことは、ロシアにとって大きな弊害となりました。エカテリーナ二世のもとで、ロシアが社会のだかをきつくしめ始めたとき、ほかのヨーロッパ諸国はすでにそれをゆるめ始めていました。そのためロシアはつぎの半世紀に連続して起きた危機と変化に、ほかの国のように柔軟に対応することができなくなってしまったのです。

経済的および宗教的な「強い動機」を持つヨーロッパ人が、他の文明に抜きん出て海外進出を達成。

その初期に最大の植民地を誇ったスペインだが、広大な新大陸領は銀の産出以外には目立った利益を生まず、面積的にははるかに小さいカリブ海の島々の方が強い重要性を持っていた。

一方、イギリスの北米植民は、後発の存在にも関わらず、成人男性だけでない家族での移住とタバコ栽培の成功により、自立的な農業植民地としての成功を収める。

文明史的に、大きな視野に立てば、西半球新大陸は完全に「ヨーロッパ化」「キリスト教化」される道を歩むことになり、イスラムなど他の宗教・文明が影響を与えることはほぼ無くなることになる。

 

 

終わり。

一巻まるごとヨーロッパ史だが、一見単調に見えて、ついつい読み飛ばしてしまうところに、実は重要で興味深い視点や評価が含まれていることが多いので、注意が必要。

この巻もそこそこ面白いです。

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