万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年1月16日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』 (創元社)

Filed under: イスラム・中東, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 02:03

本巻の監修者あとがきを書いた、後藤明氏によると、本巻原書の表題の直訳は「伝統の分岐」だと言う。

古代オリエントに始まる「文明の伝統」がギリシア・ローマに繋がり、ローマ帝国滅亡後、その流れがイスラム・ビザンツ・西欧の三つに分岐したと著者は捉えている。

また本書の中の一章は「対立する文明」と題されている。

これまでの巻で叙述されたように、前3000年に文明が誕生し、前500年頃までに各地で独自の主要文明が成立、それが変容・分岐を経つつ、1500年前後のヨーロッパの世界進出開始まで、均衡・並立状態を続ける。

その紀元前500年~1500年までの二千年間、諸文明は様々な接触・交流を持ちつつも、基本的にはその独自性を守ることになった。

しかし、時には文明同士が衝突し、大きな影響を与え合うこともあった。

その大きな要因は、著者によれば、二つある。

遊牧民族の活動、およびイスラム文明の膨張である。

先史時代から存在した地域ごとの文化の違いも、しだいに大きくなっていました。ユーラシア大陸とアフリカ大陸では、紀元前三〇〇~二〇〇年ごろからさまざまな地域に文明が生まれ、それぞれ独自の発展をとげていたのです。各文明のあいだには、ときにひかえめな接触はありましたが、基本的にそれは貿易商や学者、外交官、伝道師など、個人の力に頼った交流にすぎませんでした。そうした接触だけでは、もちろん文明全体に影響をあたえるのは難しかったことでしょう。

世界に点在するそのような文明は、様式や細かな点では多くの違いをもっていましたが、その一方、基本的な部分ではかなり似通っていたということもできます。たとえばごく最近まで、すべての文明は農業によって支えられていましたし、利用できるエネルギーも人間や動物の力のほかは、風力や水力に頼るしかなかったのです。また、どの文明も長いあいだ、ほかの文明に対して決定的に優位に立てるほどの強みをもつことはできませんでした。特定の文明が遠く離れた別の文明を完全に圧倒するようになるのは、ずっと先の時代の話なのです。

多くの場合、文明と文明が大きな影響をおよぼしあうのは、民族の移動によって異なった民族どうしが直接接触するようになったときや、遊牧民族が定住型社会へ侵入したときなどに限られていました。そして、最初は衝突をくり返し、やがて共存するようになっていったのです。そうした文明どうしの接触が人類の歴史に大きな進歩をもたらしてきたことは、これまですでにお話ししてきた第三巻までの物語のなかでも見てきたとおりです。

けれどもその一方で、異民族の侵入が文明に破滅をもたらしたり、悪影響をおよぼすケースがあったことも事実です。その代表的な例として、中央アジアから中東や東欧に何度も侵入し、多くの破壊を行なったモンゴル人の影響をあげることができます。

逆に異民族の侵入が、息の長い建設的な結果を生みだしたケースもあります。アジアの奥地から小アジアに進出し、やがてビザンツ帝国を滅亡させて一大帝国を築いたトルコ民族がそのよい例といえるでしょう。

そうしたさまざまな文明の衝突のなかでも、この第四巻でとりあげるイスラーム文明をめぐる衝突こそは、世界の歴史のなかでも、もっとも重要な文明の衝突のひとつだといえます。

その結果、スペインからインドネシア、また北アフリカから中国にいたる広大な地域の民族が影響を受けることになります。しかしその一方でこの衝突は、異なった文明の相互作用が豊かな文化を醸成することを示す、大きな例にもなったのです。

再び、監修者の後藤氏によれば、遊牧民族とイスラム文明に関する本書の叙述には、(特に前者についての)日本の学界を含む最新の研究成果が反映されているとは言えず、著者の力量は十分認めつつも、監修者としてやや不満が残る、という感じだそうです。

しかし、イスラムのことは後で述べるとして、本書での遊牧民族についての記述に大きな「偏見」を感じることは、個人的には無かった。

そもそも私は、司馬遼太郎氏を始めとして、杉山正明氏などの、モンゴルを含めた遊牧騎馬民族に対して、何かロマンティックな思い入れをする人の気持ちが全然わからない。

もちろん、世界史上で、農耕民は粛々と生産と建設に従事する「文明人」だが、遊牧民は略奪を生業にして定住社会に常に侵略者として現れる「野蛮人」だ、なんてとんでもない偏見が今通用するはずもない。

昔、司馬遼太郎氏が、遊牧民族を農耕社会への一方的侵入者として描くのは間違っている、農耕民による草原の農地化こそ、遊牧民にとっては自らの死活問題になる「侵略」だ、と喝破したことに対して、深く得心したことがあります。

ですから遊牧民族の活動を頭から有害視するのは間違いでしょう。

しかし、「モンゴルによる世界制覇のおかげで安全が保障され、ユーラシアの交易が一大盛況を迎えた、モンゴルによる破壊行為を強調するのは誇張に基づく偏見だ」というような、最近よく聞く見解には、どうしても眉に唾を付けて聞いてしまう。

そんなふうに思えるのは、我々の祖先が曲がりなりにも元寇を撃退できたからでしょう。

もしユーラシア大陸の他地域のように、あの時点で日本がモンゴルの支配下に入っていたことを想像すると、全くゾッとする。

現在の遊牧民に対して偏見を煽ったりすることは決してあってはならないし、今のモンゴル国民がチンギス・ハンを英雄視する自由はもちろんあると思うが、歴史上遊牧騎馬民族の活動が文明に対してしばしば破壊的作用をもたらした、とする評価自体は暴論とは思えない。

その遊牧民について本書の記述。

ここで少し遊牧民についてご説明しておきましょう。遊牧民の歴史は、その全容を知ることも個々の事実を知ることもともに難しいのですが、そのなかでひとつだけあきらかな事実があります。それは中央アジアの遊牧民が一五〇〇年もの長期にわたって、世界の歴史を大きく動かす要因でありつづけたということです。彼らは何度も世界を大混乱におとしいれ、その結果、西方でのゲルマン民族の大移動や、東アジアにおける中国王朝の交代といった巨大な歴史的変化をひき起こすことになりました。

遊牧民について語る場合には、まず地理的な話から始めたほうがよいでしょう。

遊牧民誕生の地とされる「中央アジア」という地名は、実はあまりよい名称とはいえず、「内陸アジア」とよんだほうがその実情をよくあらわしています。というのも「海岸線から遠く離れている」ことこそが、この地域を規定するもっとも重要な要素だからです。

海岸から遠く離れた内陸部だからこそ、特有の乾燥した気候が生まれ、近代にいたるまでその土地で暮らす人びとが、外部からの政治的な圧力にさらされることもほとんどありませんでした。その一方、仏教やキリスト教、イスラームなどがこの地域にも伝わっていることから、外部からの文化的な影響には開放的な地域だったこともわかっています。

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モンゴル人の歴史を年代や領土によって区分するのはあまり意味がありません。この遊牧民族は驚くほど短期間に、中国、インド、中東、ヨーロッパへと勢力を拡大し、世界中に大きな爪跡をのこしたからです。また、ゲル(移動型家屋)に張られたフェルト製の天幕のほかには、特筆すべき文化ものこしていません。巨大な嵐のように荒れ狂い、地球上のほとんどの文明に脅威をあたえ、人類の歴史のなかで二〇世紀だけが匹敵しうる大規模な殺戮と破壊をひき起こしたあと、彼らは現れたときと同じように、短期間で消え去ってしまったのです。こうしてモンゴル人は、もっとも恐ろしい最後の遊牧民征服者として、長く記憶されることになりました。

そして、諸文明の衝突・変容のもう一つの主因となったイスラム文明の誕生と拡大について。

この時代の征服は、イスラームが世界にあたえた衝撃の始まりにすぎませんでした。イスラーム勢力圏の広がりと多様性は、その後、人類の歴史のなかでも特筆すべきものとなります。

世界中のあらゆる地域でイスラーム化が避けて通れないように思われた時期さえありました(実際はそうなりませんでしたが)。

そしてこの偉大な文明の伝統は、その後もまた、新たなる征服のうえに築かれていくことになったのです。

世界の三大宗教の中で最後に登場したこの宗教は確かに、その拡大の速度と広がりは正に爆発的と言ってよいほどだし、一度改宗した地域での持続性も圧倒的なものがある。

(一度政治的支配下に入ったものの、その後イスラム化が後退した地域と見られるイベリア半島やバルカン、インドなどは多数派住民が改宗したとは言えないでしょうし、インドではパキスタン・バングラデシュ地域は今も完全にイスラム圏として残っている。)

しかし、宗教的・文明的には強靭性を持ち、社会にしっかりと根付いたイスラム文明だが、その基礎の上に立つ王朝という政治構造は脆弱であるという面も持っていた。

(このブログでも以前イスラム王朝の短命性について書きましたが、本書でもそれに近い記述があって、自分の感想もそれほど的外れでもないかと思えました。)

こうしてイスラーム文明が繁栄を謳歌していたとき、その政治体制はすでに衰えを見せ始めていました(崩壊が始まっていたといってもいいでしょう)。カリフ政権の要職に、しだいに非アラブ人の改宗者がつくようになったこともその原因のひとつでした。そしてアッバース朝は最初は帝国周辺の州で支配力を失い、それから帝国の中心だったイラク(メソポタミア)で支配力を失いました。

七世紀の中ごろ世界の歴史に突如登場したアラブ帝国は、こうしてきわめて早い時点でピークをむかえ、八世紀の末にはすでに衰退にむかい始めたのです。

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アッバース朝は、九四六年にペルシア人の将軍であるブワイフ家のアフマドがカリフを廃し、新しいカリフを擁立したときに実権を失ってしまいました。形式的には王朝は存続していましたが、実質的にはブワイフ家がときのカリフから「大アミール」に任命されて新しい政権を樹立した段階で、アッバース朝は滅亡したといってよいでしょう。こうしてアラブ・イスラーム世界は分裂し、約三〇〇年にわたって維持された中東地方の統一も、ふたたび崩壊することになりました。

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イスラーム国家の特徴として、宗教的な権威と政治的な権力が分離した状態は、長くつづかないということがあります。だからこそシーア派の軍事政権であるブワイフ朝も、スンナ派アッバース朝のカリフから「大アミール」の称号を受ける必要があったのです。

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こうしたイスラームによる「社会革命」は、もちろん宗教を中心として行なわれたものでした。しかしイスラームはユダヤ教のように生活から切り離された宗教ではなく、生活のあらゆる側面をつつみこむ教えだったのです。イスラームにはキリスト教では当然と見なされている聖と俗の区別や、精神世界と現実世界の区別を表現する言葉がありません。イスラーム教徒にとって宗教とは、社会そのものだったからです。だからこそその教えは、さまざまな政権が乱立する時代を超えて生きのびていったのでしょう。イスラームは「奇跡」を重視する宗教ではなく(いくつか奇跡的事件を伝える伝承はありますが)、人びとの暮らしにたしかな生活の規範をもたらしてくれる現実的な教えだったのです。

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こうして、ごく少数のアラブ人の信仰から始まったイスラーム勢力の拡大は、世界の歴史に驚くべき結果をもたらすことになりました。しかし、その偉大なる歴史にもかかわらず、アラブ国家は一〇世紀以降、イスラーム世界の統一を実現することはできませんでした。アラブ人が悲願とするアラブ世界の統一でさえ、現在はまだ夢でしかないのです。

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すでにお話ししたとおり、ビザンツ帝国は中東に侵入したさまざまな民族の標的となりましたが、それをなんとか乗りこえ、宿敵であるアラブのアッバース朝より長く生きのびることになりました。アッバース朝もまた、異民族からの攻撃を受け、衰退と分裂の道をたどり始めていたのです。

こうして一〇世紀以降の中東は混乱の時代に突入していくわけですが、その時代のアッバース朝に何が起きたかを簡単に説明するのはとうてい無理な話です。ひとついえるとすれば、たしかに商業が栄え、支配者階級に属さない裕福な人びとが出現するようになりましたが、その結果としてもたらされるべき持続的な経済成長は起こりませんでした。その根本的理由は、気まぐれなアッバース朝政府の方針とその搾取にあったといえるでしょう。

しかし、支配者や侵略者が現れては消えていったにもかかわらず、結局のところイスラーム社会の土台が揺らぐことはありませんでした。その結果、地中海東岸からヒンドゥークシュ山脈にいたる広大な地域が、歴史上はじめてイスラームというひとつの文化圏にのみこまれ、その文化は長く引きつがれていくことになったのです。この地域でキリスト教文化が大きな勢力をたもっていたのは一一世紀までで、その後は小アジアのタウルス山脈の西側に封じこめられてしまいました。それ以降、中東ではイスラーム勢力から存在を許された小さなキリスト教徒の社会だけが、かろうじて生きのこることになったのです。

イスラームが社会や文化に深く根をおろし、安定した制度を生みだしたことは、世界史的に見ても非常に重要な事件でした。カリフの権威の衰退期には、形式的にはカリフを主権者としながらも、半独立の王朝が実権を握るようになっていきます。しかし、イスラームがもつ強力な秩序は、これらの半独立王朝がかかえていた弱み(おもに政治や行政面での)を補ってあまりあるものだったのです。一〇世紀以降のそうした王朝については、あまりくわしくとりあげる必要はないでしょう。ただしそれらの諸王朝が、時代の転換点を象徴する存在だったことはたしかです。

引用末尾の諸王朝のうちで注目すべきものを、本書の記述の中から挙げると、まず、十字軍とモンゴルという二つの脅威を撃退し、イスラム世界の中心を一時エジプトに移す偉業を成し遂げたマムルーク朝。

次に、キリスト教文化圏に脅威を与え、その輪郭形成を促し、ヨーロッパの東西を分かちつつ、バルカンでのキリスト教徒を比較的寛容に扱ったことによってビザンツ帝国の遺産をスラヴ人が受け継ぐことを可能にしたオスマン朝。

そして、シーア派を国教とすることで、中東地域でのセム系アラブ人の大海の中で、印欧語族系ペルシアの独自性を、民族・言語だけでなく宗教においても守ることになったサファヴィー朝。

宗教自体の爆発的膨張にも関わらず、政治的統一は正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の三代を合わせても約300年弱しか続かず、遥か後年、トルコ系遊牧民の力を借りて、オスマン朝による中東地域統一はほぼ達成されたものの、それにもシーア派のサファヴィー朝ペルシアという重大な例外が存在していた。

これらの王朝に比して、モンゴルによる征服活動の余喘とも言えるティムール朝への著者の評価は低く、ネストリウス派とヤコブ派というアジアのキリスト教徒をほぼ絶滅させたことと、オスマン朝を破ることによって、ビザンツ帝国の滅亡を半世紀ほど遅らせたことだけだ、としている。

そして、イスラム文明の知的側面について。

著者はもちろんその全般的レベルの高さを認めている。

各地のモスクや宗教指導者を育成する学院で、高度な学術研究も行なわれていたようですが、それらはすべて宗教と密接な関係をもっていたため、その評価は非常に難しくなります。当時のイスラーム文明が客観的にどのようなレベルに達していたかについては、はっきりとしたことはいえません。ただ八世紀以降、好奇心にあふれた、自己に対する批判的な視点をもつ文化の種がイスラーム世界にまかれたことは事実です。

だが、本書では以上の文章に続けて、以下の一文をさりげなく記している。

その種が大きな花を咲かせることは、あるいはなかったのかもしれませんが。

これもイスラム教へのありきたりな「偏見」と片付けることはできない気がする。

イスラム文明の大拡張と(西)ヨーロッパ文明の成長の陰で、もう一つの「分岐した伝統」であるビザンツ文明は、政治的には衰退の一途をたどる。

だが、その衰亡の過程である民族集団が後継者として姿を現わしてくる。

こうしてビザンツ帝国は約一〇〇〇年の歴史に幕を閉じようとしていたわけですが、その遺産の大半は将来にむけて、すでに別の場所に「保存」されていました(ビザンツ帝国の人びとが誇りを感じられる形ではなかったかもしれませんが)。正教会がスラヴ人のあいだに根をおろす過程で、ビザンツ文明の遺産は彼らのなかに確実に受けつがれていたのです。この事実は現在にいたるまでのヨーロッパの歴史を、大きく左右することになりました。現在のロシアをはじめとするスラヴ系国家は、そもそもスラヴ人がキリスト教に改宗していなければ、今日ヨーロッパの一部と見なされることもなかったでしょう。

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初期のスラヴ芸術を見ると、スラヴ人が異民族の文化や技術を進んで吸収した人びとだったことがわかります。しかもスラヴ人は、その文化や技術を教えてくれた人びとが滅んだあとも生きのびていく、強い生存能力に恵まれていました。

そうした点を考えると、七世紀にスラヴ人と強大なイスラーム勢力の交流が、そのあいだにいたハザール族とブルガール族によってはばまれていたことは、世界の歴史において決定的に重要だったといえるでしょう。

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歴史的に見れば、このころロシアの歴史は決定的な分岐点にさしかかっていたといえるでしょう。いまだに北欧のヴァイキングの神々を信奉するロシアは、東方の正教会と西方のカトリック教会のはざまで、とちらについてもおかしくない状態にあったからです(イスラームはこの重大な時期に、ユダヤ教国家のハザールによって勢いをそがれていました)。

同じスラヴ人が建国したポーランドは、すでにカトリックを国教としていました。また、ドイツのカトリック教会も東方への布教を行ない、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。すでに分裂があきらかになっていた東西いずれのキリスト教会にとっても、ロシアはのどから手がでるほど手に入れたい存在だったのです。

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ビザンツ帝国やスラヴのキリスト教国は、文化的に分断されていたため、ヨーロッパの西部まで影響をおよぼすことはほとんどありませんでした。ただしこの両者は、ヨーロッパの西部が遊牧民やイスラームからの影響を受けずにすむ緩衝地帯の役割をはたしたといえるでしょう。もしもこのころロシアがイスラーム化されていたら、ヨーロッパの歴史はおそらく大きく変わっていたにちがいありません。

著者は、「ロシアのカトリック化」、あるいはもっと極端なケースである「ロシアのイスラム化」の可能性を示唆し、読者の想像力をかき立てる。

結局、キエフ公国のウラジーミル大公がギリシア正教に改宗、後にロシアは東方キリスト教会の最重要構成国家となる。

ハザールと共にイスラムとの接触からロシアを遮断したブルガール人もスラヴ化して正教会に改宗。

一方、上述の通り、スラヴ人の中で、ロシアと並んで早期に国家を形成する能力を持っていたもう一つの重要民族ポーランド人は西方カトリック教会に改宗。

ただし、ポーランドはこのことによって、東方に向かっては正教会に対するカトリックの前線基地、西方に向かってはドイツ人の植民に対するスラヴ民族の防波堤という二つの過剰な負担を背負うことになり、歴史上しばしば大きな悲劇に見舞われることになってしまった。

そして著者は、ポーランドだけでなく、スラヴ民族全体に付きまとう、「西方のラテン系・ゲルマン系諸民族に対する後進性と、東方のアジア系遊牧民に対する脆弱性」という二つの要因がもたらす「不幸な民族」という漠然としたイメージを肯定するかのように、以下の文章を記す。

思えばスラヴ人のなかで最大勢力となったキエフ公国にしても、その能力に見あうだけの発展をとげたとはいえません。

一一世紀以降の内紛と分裂によって国力をそがれ、その後はクマン人(ポロベッツ人)の攻撃に苦しめられることになったからです。さらにキエフ公国は一二〇〇年までに黒海の交易ルートの支配権を失い、北方に後退して、やがてロシアの歴史の中心はモスクワ大公国へと移っていくことになります。

そして、大きな苦難の時代がスラヴ人を待ちうけていました。ヨーロッパのスラヴ世界に、かつてない巨大な悲劇が襲いかかろうとしていたのです。同じころ、すでにお話ししたように、ビザンツ帝国にも悲劇がおとずれていました。一二〇四年に十字軍兵士がコンスタンティノープルを攻略し、正教を奉じてきた世界帝国が崩壊したのです。ところが、悲劇はそれだけでは終わりませんでした。それから三六年後には、同じく正教を奉じるキエフ大公国もまた、恐るべきモンゴル人の襲撃を受けることになったのです。

初期の西ヨーロッパ世界も外部から深刻な脅威を受けた脆弱な文明に過ぎなかった。

西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパはビザンツ帝国やイスラーム諸国の勢力圏にくらべて、すっかり後進地域になってしまいました。その勢力圏もすぐに、かつての西方キリスト教世界より、はるかに狭められたものとなります。

当時、西ヨーロッパに住むキリスト教徒は、自分たちが「敵の真っただ中にとりのこされた」と感じていたようですが、事実そのとおりだったといえるでしょう。中東やアジアへつづく道はイスラーム勢力によって分断され、南部の地中海沿岸もアラブ人の攻撃によって防戦一方となっていました。八世紀以降は、ヴァイキングとよばれるスカンディナヴィア人の襲撃に悩まされ、さらに九世紀になると、東部の境界が異教徒のマジャール人に脅かされるようになりました。このように初期のヨーロッパ世界は、さまざまな異民族の敵意にとりかこまれるかたちで形成されていったのです。

ローマ滅亡後のヨーロッパ世界については、ゲルマン民族の侵入だけでなく、その後もイスラム、ノルマン(ヴァイキング)、マジャールという数波の侵入があったことを常に意識する必要がある。

中世封建社会はゲルマン侵入直後ではなく、むしろその後の侵入者への自衛の為に、ゲルマン系の支配層が形成したもの、というイメージを持った方がよい。

11世紀の中世盛期までに起こった三つの変化を本書は指摘。

1.地中海地域からライン川とその支流流域への中心地帯の変化。

2.過去のローマ帝国の領域をも遥かに超えた、ヨーロッパ東部へのキリスト教の拡大。

3.マジャール、ヴァイキングの改宗を含む、異民族からの脅威減退。

そして著者は、当時の西ヨーロッパのキリスト教世界を三つに分類。

1.ライン川を中心とする仏独。

2.イタリア、南仏など地中海沿岸。

3.北部スペイン、イングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランド、スカンディナヴィア諸国など、西部から北部にかけての新しいキリスト教国。

考えればこの区分は常識的ではあるが、北スペインを新興キリスト教国ということで、英国と北欧グループに入れているのが、何か違和感がある。

もっとも、以後の叙述でこの区分を意識することはほとんど無いのだが。

ヨーロッパ世界がキリスト教を中心に形成されたことは言うまでもないし、結果として西欧のカトリック教会の歴史は「数ある宗教史のなかでもとびぬけて華々しい成功の歴史ではあります」と著者も述べているが、それでも外部の異民族、内部の異教的風習、配下の聖職者の無知・腐敗、世俗権力者の圧迫など、複雑で多くの困難に満ちたものだったとされている。

なお、本巻では、9世紀後半に一時的に教皇権を強化した教皇として、ニコラウス1世を挙げており、高校世界史レベルの有名教皇に加えて、この人名を記憶しておきますか。

その教皇と協調と対抗を繰り返した国王の地位について、国民国家の統治者と違い、中世の王は諸侯の中の第一人者に過ぎず、様々な制約を課せられ、その権力は限られたものだった、とよく世界史では教えられる。

「前近代の支配者なら、何ものにも制約されない専制君主だったはず」という偏見を一度頭の中から振り払うには、その事実も重要だが、だがそのイメージが行き過ぎることも間違いの元である。

とはいえ、抜け目のない王であれば、多少力が弱くとも、貴族からの圧力に容易に屈するわけはありませんでした。特定の貴族に離反されても、まだほかに多くの封臣をかかえていたのですから。賢明であれば一度にすべての封臣と対立するような愚かなことはしないでしょうし、そのうえ王の地位はやはり特別なものでした。即位時に聖職者から塗油を受けることによって、王権は神聖でカリスマ性を帯びたものとなっていたからです。華やかでかつ重厚なその儀式によって、王はあきらかに一般の人びとからは、かけ離れた強力な存在となっていました。中世の政治において、儀式というのは現代でいう条約の締結と同じような重大な意味をもっていたのです。それに加えて広大な領土を所有していたのですから、やはり王の権力はとびぬけて高いものだったにちがいありません。

君主政の伝統がどの国よりも深く根付いていた、と著者が指摘するイングランドが他のどの国よりも早く中央集権的国民国家への道を歩み始め、強大な王権が在ったがゆえにその制限に向かう道も開ける、という逆説が以後の歴史で生じることになる。

 

 

終わりです。

イスラム文明の誕生、およびそれとのビザンツ、ロシア、モンゴル、ヨーロッパの相互関係が主題であり、なかなか興味をそそる巻でした。

通読は全然余裕。

この先も、まず挫折しないでしょう。

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