万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年1月6日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 2 古代ギリシアとアジアの文明』 (創元社)

Filed under: アジア, ギリシア, 全集 — 万年初心者 @ 05:52

古代ギリシアと中国、インドの巻。

まず、古代における最先進地帯であるオリエントからの、インド・中国両地域の「孤立」という、普段我々が意識しない観点を提示。

人類がはじめて手にした文明は、紀元前三〇〇〇年までに成立した古代オリエント文明でした。メソポタミアやエジプトなど、各地で誕生した古代文明は、その後、相互の接触が始まるにつれ、いい意味でも悪い意味でもたがいに影響をおよぼしあうようになっていきました。地域ごとの文化的なへだたりは依然として大きなものでしたが、オリエント世界全体を横断するような文化的伝統もまた、生まれ始めていたのです。

一方、オリエントの文明とはほとんど無関係に独自の文明を成立させた地域もありました。その代表的な存在がインドと中国です。

メソポタミアやエジプトなどオリエントの先進地域と、インド、中国のあいだに横たわる物理的な距離、そして地形的な特徴を考えると、両者のあいだにあまり交流がなかったことは当然といえるでしょう。しかしインドや中国がもつそのような「孤立した環境」は、その後の世界の歴史を見るうえで非常に重要な意味をもっています。このふたつの文明はオリエントの文明とはちがって、以後何千年にもわたって外部から影響を受けることなく、独自の文化的伝統をたもちつづけていくことになるからです。

インドや中国の文明にとって、ほかの文明との接触はごくたまにしか起こらず、それも周辺部に限定されたものでした。その結果、のちに外の世界との接触が本格的に始まったときには、外部からの影響に押しつぶされないだけの文化的伝統がすでに確立されていたのです。考えてみてください。それから長い時をへた今世紀になっても、カースト制度はまだインドの社会を支配していますし、儒教もまた、依然として中国や韓国の知識階級に大きな影響をあたえているのです。

インド文明と中国文明の文化的影響は天然の境界を越え、のちには国家の壁も越えて大きな広がりを見せることになります。

このふたつの文明は現在でも大きな影響を社会にあたえているという点で、ほかの古代文明とは、はっきりした違いをもっています。

そして世界の歴史という観点から見ても、インド文明と中国文明が人類にもたらした影響は、はかりしれないほど大きなものなのです。

「孤立した」文明の中でも、(南北アメリカ大陸やアフリカとは異なり)インドと中国の強靭性・重要性は確かにずば抜けている。

・・・・古代インド文明の初期の歴史が闇につつまれているからといって、その社会制度や宗教が、どんな偉大な文明のものよりも長く行きつづけたという事実が消えるわけではありません。驚くほど包括的な世界観、個人の人権を無視した制度、過酷なまでの死生観、単純に物事の善悪を判断しないという基本姿勢などが、その後のインド文明の性格を決定していくことになります。遠く離れたキリスト教社会などでは、こうしたインド思想に異質なものを感じる人びとが多いようです。けれどもインドの思想と文明が、キリストが誕生する一〇〇〇年も前に形成され、しかも現在にいたるまで行きつづけているという事実を、私たちは忘れてはならないでしょう。

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中国の歴史を考えるとき、何よりも驚かされるのはその長さと継続性です。中国には現在まで、およそ三〇〇〇~四〇〇〇年にわたって「漢民族」による国家が存続し、秦の始皇帝による中国統一から数えても、すでに二二〇〇年がたっています。もちろんそれ以降、分裂したり異民族に支配された時代はありましたが、とにかく中国では、ひとつの民族が同じ国土のうえに数千年もの期間、高度な文明を維持しつづけ、現在にいたっているのです。これは世界史を見わたしてみても、きわめて稀なことだといわざるをえません。わずかに、はるか昔に滅亡した古代エジプト文明が、その長さで肩を並べることができるくらいなのです。

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中国文明の特色は、それが文化的であると共にきわめて政治的でもあるという点にあります。前の章で見た古代インド文明は、文化が政治よりどれだけ重要なものとなりえるかを示すよい例だといえるでしょう。一方、中国文明においては、文化の重要性が別の形で示されています。つまり中国では、文化の力がすなわち政治的な力となり、そのことによって広大な国土の統一が維持されつづけたということです。くわしい経緯はよくわかっていませんが、とにかく中国文明はごく早い時期に、統一国家を運営するための制度と文化をワンセット、みごとにつくりあげたのです。そのいくつかは現在も確実に存続しています。世界史的スケールから見れば、二〇世紀の共産主義革命をへて成立した現在の政権も、それ以前の王朝とそれほど本質的な差はないとすらいえるのです。

東部を大洋、西部を砂漠、西南部を山脈に仕切られた中国の地形的孤立が、その伝統を育んだ。

アフリカ、アメリカ、ヨーロッパなど、他の「孤立した」地域では、ほとんどすべての民族が発展に遅れを取った。

だが、ほぼ唯一の例外として、ヨーロッパのある一民族だけが異様なまでの発展と拡大を遂げることになる。

そのような古代ヨーロッパの民族の中で、注目すべき民族がひとつだけあります。彼らは先にふれた「オリーブ栽培線」の南側である中部イタリアに定住し、早くも紀元前八世紀にはイタリア南部のギリシア人やフェニキア人の植民市と交易を行なっていました。そしてそれから二〇〇年のあいだに、ギリシア文字を使って自分たちの言語を書き記し、イタリア半島に数多くの都市国家を建設して、すぐれた芸術作品を生みだすようになるのです。彼らエトルリア人とよばれる民族が参加して築いた都市国家のひとつは、やがてローマという名で知られることになります。

ローマの発展は次巻でのテーマとなる。

なお、1巻に続くオリエント史の時代変化を以下のように概括。

このようにいちだんと複雑になっていく世界の歴史を、年代別にきれいに区切ることなど、とてもできる話ではありません。大まかにまとめてしまうと、インド・ヨーロッパ語族の移動や鉄の時代の到来、文字の伝播といった複数の要因によってオリエントのさまざまな文化が完全に混じりあったのは、ヨーロッパ文明の母体となる地中海文明が登場するかなり前のことでした。

あえていうなら、オリエント地方の文明が重要な一線を越えたのは、紀元前一千年紀のはじめあたりということになるでしょう。そのころには古代オリエント地方全体を揺さぶった民族の大移動という「大事件」はすでに終わっており、ジブラルタル海峡からインダス川へといたる広大な地域に文明が受けつがれていたのです。そして紀元前一千年紀の半ばにペルシアという新しい勢力が台頭し、エジプトやバビロニア、アッシリアの伝統が衰退したことで、新しい時代にむけた歴史的枠組みが整えられていくことになるのです。

ものすごく大雑把に言えば、前3000年辺りで文明成立、前1500年前後に印欧語族などの民族大移動、前500年前辺りでペルシア帝国による統一というのがオリエント史の流れ。

アジアとヨーロッパがたがいにあたえあった文化的影響について話すのは、まだ時代が早すぎるかもしれません。それでもこのふたつの地域が、すでにこの時代にたがいに影響をおよぼしあっていたことは、実例をあげて説明することができます。それはまた、古代世界の終わりをはっきりとつげる出来事でもありました。

こうして私たちがたどりつつあるこの長い歴史物語も、さらに新しい時代に入っていくことになります。旧世界のいたるところで、ペルシア帝国はさまざまな民族を共通体験で結びつけていきました。インド人、メディア人、バビロニア人、リディア人、ギリシア人、ユダヤ人、フェニキア人、エジプト人など、さまざまな民族がはじめてひとつの帝国の統治下におかれ、ひとつの文明を共有したのです。ペルシア帝国が採用した「折衷主義」は、人類の文明がどれだけ成熟した段階に達したのかを教えてくれます。オリエントではこれ以降、個別の文明の歴史をたどる意味はなくなります。多くのものが共有され、あまりにも融合が進んだ結果、もはや個々の文明の系譜を見分けることができなくなるからです。

このように、著者は、ペルシア帝国を単なるオリエント史の単線的発展上に捉えるのではなく、オリエント文明そのものの誕生とイスラム教成立の間における最も重要な転機と考えているようだ。

そして本書の叙述は、いよいよギリシア文明へと入る。

歴史の世界では、古代ギリシア文明が最盛期をむかえた紀元前五世紀から紀元前四世紀の末近くまでを「古典期」とよびます。年数だけでいえばこの時代までに、人類の「文明に関する物語」は半分以上終わった計算になります。紀元前五世紀に生きていた人びとから見ると、現代人である私たちのほうが、はじめてメソポタミアで文明を築いた人びとよりも時間的には近くにいることになるからです。

最古の文明が生まれてからこの「古典期」までには、約三〇〇〇年もの時間のへだたりがありました。人びとの日々の暮らしはゆっくりとしか変化しませんでしたが、大きな視点から見れば、このあいだに人類は着実に進歩を重ねていきました。前の章でもご説明したとおり、人類最古の文明であるシュメール文明とアケメネス朝ペルシアのあいだには、統治の方法や文化の融合状況など、質のうえで大きな差が存在しています。

きわめて大胆にいってしまえば、この紀元前五世紀ごろを境にして、人類が文明の基礎を築いた時代はほぼ終わりをつげたといってよいでしょう。そのころにはすでに地中海沿岸から中国までの広大な地域に、さまざまな文化的伝統が確立され、いくつもの高度な文明が誕生していたのです。

紀元前3000年に文明が誕生し、それから現在まで約五千年、そのちょうど中間時点である紀元前500年には、世界各地で独自の文明が成立、その並立・均衡状態が約二千年続き、西暦1500年前後以降ヨーロッパの世界進出が始まり、「世界の一体化」が進行、というのが最も単純化された世界史の流れになる。

(少し前に話題になったマクニール『世界史』もそのような構成になっている。)

その紀元前500年頃存在した諸文明の中で、ただ一つ、ギリシア文明だけを、著者は最も注目すべきものとして、特別視する。

そうした文明の多くは孤立状態にあり、ほかの文明にはほとんど影響をあたえませんでした。偉大なるオリエントの文明でさえ、バビロンの陥落以降、ときおり侵略を受ける以外は外の世界とあまり交流がありませんでした。ところがその中で、紀元前六世紀にすでに台頭しつつあったギリシアの文明だけは、発祥地である東地中海を越えて、大きく外の世界に広がっていく可能性を示していたのです。

それはもっとも新しく誕生した文明でしたが、その後めざましい成功をおさめ、のちにローマ文明へ受けつがれたその文化的伝統は、一〇〇〇年ものあいだ、とぎれることなくつづいていくことになります。そして何よりも注目すべきことは、この活力に満ちた文明が人類の歴史にのこした豊かな土壌には、現代のヨーロッパ文明、ひいては近代文明を形成することになる重要な要素が、ほとんどすべて存在したということなのです。

東地中海に誕生したギリシア文明は、それに先だつ古代オリエント文明やエーゲ海文明から大きな影響を受けていました。なかでも重要なのは、フェニキア人のアルファベットを改良して、ギリシア文字(ギリシア・アルファベット)をつくりだしたことでしょう。そのほかにもギリシア文明は、エジプトやメソポタミアに起源をもつ思想や、ミケーネ文明のなごりなど、さまざまな文化をとりこんで発展していきました。

ギリシア文明とそれにつづくローマ文明、いわゆる地中海文明は、成熟したのちもそのような多様性を失うことはありませんでした。硬直した体制におちいることは決してなく、きわめて多彩な発展をとげていったのです。この文明がはっきりとした統一性を確立したときでさえ、周囲に存在したほかの文化と区別するのはむずかしく、文明の境界線は遠くアジアやアフリカ、異民族の住むヨーロッパや南ロシアへと広がって、きわめてあいまいなものになっていました。さらにのちの時代になって境界線がはっきりと確立されてからも、地中海文明はほかの文明と多彩な交流を行なっていたのです。

この文明はそれ以前に栄えたどの文明とくらべても、あきらかに歴史を進歩させる「偉大な力」をもっていました。たとえばそれまでの文明は政治的な大変化が起こっても、制度自体はそのままのこされるケースがほとんどでした。ところが地中海文明は短いあいだに何度もみずから制度を変え、さまざまな政治体制を試みています。

また宗教についていえば、ほかの文明では、文明と宗教は事実上、生死をともにする運命共同体となっていました。それに対して地中海文明は、はじめは土着の多神教を信仰していましたが、最後には外来の一神教であるキリスト教を採用します。のちにローマ帝国が国教としたことで、キリスト教はやがて世界宗教としての道を歩むことになるのです。

これは世界史的な観点から見ても、きわめて大きな出来事でした。その後、世界じゅうに広まったキリスト教の影響力を介して、地中海文明の伝統は、人類の歴史の中で長く広く伝えられていくことになるからです。

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「古典」とは、何もヨーロッパだけに存在する概念ではありません。ほかの文明にも、もちろんそれぞれの「古典」や「古典期」が存在しています。「古典」とは、人びとが過去のある時期をふり返って、そこにみずからの手本とすべき「模範」を見いだすことによって成立する概念だからです。その意味で後世のヨーロッパ人にとって、古代ギリシア文明はまさに「古典」となりました。のちのルネサンス期にヨーロッパ人が古代ギリシア文明を再発見したとき、彼らはそのすぐれた美術品や人間中心の考えかたにすっかり魅了されてしまったのです。

当時のギリシア人の中にも、自分たちは特別な人間で、自分たちの文化と時代は特別なものだと考えた人びとがいました。現代の私たちから見ると、その理由には納得できない部分もあります。それでも、あの文明がまぎれもなく特別な文明だったことは、疑いようのない事実といえるでしょう。活力にあふれ、絶えず前進をつづけ、数えきれないほどの技術や制度、文化を生みだしたこの文明によって、その後の世界は大きな可能性を獲得することになります。なかでも思想・哲学など、精神文化における世界史への貢献には、はかりしれないものがあるのです。

後世の人間が古典世界の理想に学ぼうとするとき、たしかに時代錯誤におちいったり、過去を美化しすぎたりする傾向があることも事実です。しかし、そういう点を割り引いてもなお、古代ギリシア文明には誰も消すことのできない偉大な業績がのこります。それはいまでも西洋文明の根幹をなしており、その文化的伝統は現在の私たちの暮らしに直接つながっています。だからこそ私たちは、それ以前のどの文明よりも、はるかにこの古代ギリシア文明に共感することができるのです。

この著者の見解を、手垢の付いた時代錯誤的な西洋中心主義に基づく、偏ったギリシア礼賛だと見るべきだろうか?

私にはそうは思えない。

私は、例えば、民主主義というものを生み出したことで古代ギリシアを賞賛するような立場には全く立っていない(むしろプラトンが民主主義への批判として政治学を創めたことこそが、ギリシア文明の最も偉大な遺産だと考える)が、それでも古代ギリシア文明が、他の全ての文明の中で、現代人にとって特別の意味と卓越性を持っていることには十分同意できる。

変な劣等感は持たずにそのことは素直に認めた方が良い。

現在の欧米人がそれについて余程傲慢な態度を示した場合には、ギリシア文明は欧米だけでなく全人類の遺産だと言い返せばいいんです。

通常、多くの人びとにギリシア文明最大の功績と思われている、民主主義の誕生について。

アテナイの民主政に対する批判は、これまで何度もくり返し行なわれてきました。たしかにアテナイの民主政をあまりに美化して考えるのは歴史をゆがめる行為です。しかし、むやみに攻撃するのもまた、歴史を誤る行為だといわざるをえないでしょう。

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ヴィクトリア朝時代のイギリスと同じく、古代アテナイでも政治は長いあいだ、貴族の系譜につらなる人びとの手にゆだねられていました。政治に参加する資格が血筋のほかにもあるとすれば、それは政治に必要な財力と時間でした。たしかに陪審員や民会の出席者には手当が支給されていましたが、その額はわずかなものだったからです。・・・・・こうした事実は、アテナイの民主政を批判する側も、理想化する側も、見落としてしまうことが多いようです。アテナイの民主政がそれほど厳密なものでなかったのは、そのように実質的な参加者が限られていたからなのかもしれません。・・・・・

アテナイの民主政は誕生した当時から、積極的な外交政策を打ちだしていました。・・・・・その結果、ペロポネソス戦争を誘発した責任も、都市国家間の対立を生みだした責任も、すべて民主政の出現に負わされる結果になりました。たしかにそれは後世の批評家が指摘するように、アテナイに悲劇をもたらしただけでなく、ギリシア全土の都市国家に党派の争いや社会闘争の苦しみを芽ばえさせてしまったのです。・・・・・トゥキュディデスの著書は未完に終わり、四〇〇人による寡頭政権が生まれた紀元前411年の段階までしか記されていませんが、その終わりの部分には自分を追放した生地アテナイに対する不信と幻滅がにじんでいます。また有名なプラトンの著作も、紀元前三九九年にソクラテスを処刑したアテナイの民主主義者たちを批難し、彼らに永遠に消えない不名誉の烙印を押しているのです。

アテナイの民主政は、女性やメトイコイ(外国人居住者)、奴隷を排除していました。そうした事実を考慮に入れると、アテナイの民主政の評価はかなり下がってしまうかもしれません。けれども、はるか後世になって到達した地点からふり返って、アテナイを低く評価するべきではないでしょう。歴史は段階を追って進んでいくものなのですから、時代を考慮に入れない比較をしても無意味なのです。二〇〇〇年以上たったいまでさえ完全には実現されていない理想と比較するのではなく、同時代のほかの事例と比較しなければ意味がないのです。

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アテナイの政治がもつ欠点は、すべてそのような前提のもとに議論される必要があります。どんな政治制度についてもいえることですが、アテナイの民主政を評価する際にも、それがもっともうまく機能していた時期を評価の対象にする必要があります。たとえばペリクレスが指導的立場にいたときのアテナイの民主政は、まちがいなくすばらしいものでした。彼らは「みずからが選んだ政治の結果について、個人が責任を負う社会」という神話を私たちにこのしてくれたのです。

はっきりいいましょう。政治にはすぐれた政治的神話が何よりも必要なのです。ですから私たちはこれから、もっとすぐれた政治的神話を探していかなければならないのです。

著者のギリシア民主政に対する評価は極端に一面的なものではないと思えるものの、それでも私には隔靴掻痒の感がある。

現在においても、「政治的神話」が必要である、という点には同意するが、はっきり言って民主主義という神話は出来が良くない。

国家の統一と伝統を体現する世襲君主が君臨するが、実質的統治には携わらず、君主を支える貴族が真摯な公的議論に基づく政治を行い、民衆は最低限の拒否権と貴族と相対する代表選出の権利を持ち、歴史的伝統という最高の権威の下に君主と貴族と民衆の三者が並立する、抑制と均衡を保った政体という神話の方が遥かに優れている。

有史以来、そうした「真の共和政体」(塩野七生『ローマ世界の終焉』ユーゴー『レ・ミゼラブル』参照)に人類が最も近づいたのは、18世紀イギリスにおいてでしょう。

私には、あの時代が「進歩」の極限だったと思えます。

それ以後のあらゆる革命と変化は無意味な逸脱に思える。

明治維新後の日本も、一時期上記の理想に近づくと思えたのだが、結局は無残な失敗に終わり、現在はただ滅びを待つだけの衆愚民主主義国になってしまいました。

著者は、アテナイ民主政への最大の批判者プラトンの思想について、以下のように記す。

プラトンはソクラテスの思想の多くを踏襲しましたが、ここに見られる理想の国家観は、ソクラテスとはまったくちがったものでした。プラトンが理想とした国家では、大多数の人が教育と法律のもとで管理され、ソクラテスが生きるに値しないと評した「エレンコス(吟味)のない生活」を強いられているからです。

プラトンの民主主義批判を後世の全体主義の起源とするかのような記述は全く凡庸で同意できるところがない。

民主主義がもたらす伝統破壊と無秩序こそ、自律に基づく自由のない、「吟味のない生活」としての全体主義を生み出す原因である。

とは言え、以下の記述には全く違和感なし。

哲学と並んで歴史を「発明」したことも、ギリシア文明の大きな遺産といえるでしょう。それまでの古代国家では、たんに出来事を記した年代記のような記録が存在するだけでした。ところがギリシアの歴史書は、高い文学的価値と学術的視点をもつ作品として生まれ、さらに驚くべきことに、最初に登場したふたつの著作によって、いきなり頂点をきわめることになるのです。これ以降、ギリシア文明においては、そのふたつの歴史書に匹敵するレベルの作品はついに現れませんでした。

「ギリシア文明においては」どころか、その後ヘロドトストゥキュディデスに匹敵する歴史家と言うと、司馬遷ギボンくらいでしょうか。

私はこの四者を自分で勝手に「世界史の四大古典」と考えています。

イブン・ハルドゥーンを入れて五大史家とする人もいるかもしれないが、私のレベルでは良さがわからない。)

そして、約2500年の時を経て、全く違う文化圏に属する国に生まれた、私程度の知的レベルの人間でも、古代ギリシアの古典のうち、あるものは大きな興味と感動を持って(翻訳では)読むことができるのだから、以下の総括にも完全に同意できます。

また歴史にかぎらず、ギリシア人は人類の歴史におけるさまざまな新しい知的領域を開拓しました。人類の歴史上はじめて、ギリシアは完全な形の「文芸」を生みだしたといっていいでしょう。ユダヤ文学もギリシア文学にひけをとらないほど包括的なものでしたが、娯楽作品はもちろん、演劇や客観的な歴史書も含まれていませんでした。古代ギリシアの文芸世界は聖書と並んで、以後の西洋文学の形成に大きな影響をあたえることになります。内容だけでなく、さまざまな文芸のジャンルや形式を規定し、批評における最大の判断基準も、もたらすことになったのです。

古代ギリシアの哲学・文学・歴史・宗教・建築・彫刻などの文化は、やはり圧倒的な存在であると考えるしかない。

以後、ヘレニズム時代のギリシア文明の拡散とポリスの没落、科学の発達とそれと期を一にした伝統的で多神教的な宗教の衰退、ストア派の成立をもって、本巻の幕は閉じる。

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