万年初心者のための世界史ブックガイド

2017年1月28日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 6 近代ヨーロッパ文明の成立』 (創元社)

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近世ヨーロッパ史の巻。

この巻からは、特に気になった部分を断片的に引用するだけにし、他の部分はできるだけ省略して行くので、これまでの巻にも増して、全体的に少し脈絡に欠く記事になるかもしれません。

 

紀元前500年頃から紀元後1500年まで続いた諸文明の均衡状態が崩れ、ヨーロッパ文明の進出による世界の一体化が始まる。

ただし、その本格化は19世紀を待たなければならない。

世界の歴史に、新しい時代が始まりつつあることを示す数々の兆候が、紀元1500年前後からあいついで現れるようになりました。そのうちのいくつかについては、これまでの巻ですでにお話ししてきたとおりです。ルネサンスの本格的な開花、活字印刷術の発展、アメリカ大陸の「発見」とスペインやポルトガルによる海外植民地の建設などを、そうした例の代表としてあげることができるでしょう。

そのような出来事は、いよいよ人類の歴史が本当の意味で「世界史」の時代に入り、その中心にはヨーロッパで誕生した「強力な」文明が位置するという、新しい時代の本質をよくあらわしています。ヨーロッパ人の活動によって、世界中で起こる出来事が、しだいに有機的な関連をもつようになっていきます。そしてヨーロッパ人は自分たちも気づかないまま、ほかのすべての大陸に干渉を加え、世界に「近代化」を強要する道を歩み始めることになるのです。

「近世」という時代区分について。

「近代」とは、私たちにとってなじみの深い言葉です。しかし、それがさし示す年代は、つねに一定だったわけではありません。かつては古代ギリシア人やローマ人が活躍する「古代史」からあとの時代を、すべて「近代史」としてひとくくりに考えていました。事実、オックスフォード大学などはいまでもこの時代区分を採用しており、「近代史」の講座には、いわゆる「中世史」も含まれています。

その後、「中世史」が近代史から切りはなされるようになり、現在ではさらに細かく分けられるようになりました。歴史家たちは「近代」をふたつに分け、その前半を「近世」とよぶことが多いからです。この用語を歴史家たちが使うとき、そこにはひとつの重要な歴史的推移が表現されているといってよいでしょう。つまり「近世」とはヨーロッパにおいて、神に支配された閉鎖的な中世キリスト教世界から、合理的精神に満ちた「近代社会」が成立するまでの移行期をさして使われることが多いのです。

そのような歴史上の変化が起きた時期は、国によってさまざまでした。イギリスやオランダでは一七〇〇年ごろまでに移行したといえるかもしれませんし、スペインでは一八〇〇年ごろまでは、まだ不完全なものだったようです。また東ヨーロッパの多くの国では、一九〇〇年ごろになっても、ほとんどそうした変化は起きていませんでした。しかし時期はさまざまだったとしても、広く起こったこの一連の変化が、世界史におけるヨーロッパの覇権を決定づけたことはたしかなのです。

その大きな歴史の流れをこれから見ていくにあたって、ひとつのごく単純な視点をもっておくことが、あるいは重要かもしれません。つまり現在までの人類の歴史において、ほとんどの時代、人間は「安全な暮らし」と「じゅうぶんな食料」を確保するための選択肢をもっていなかったという事実です。そうした状況に変化をもたらし、人びとに選択肢をあたえるきっかけとなったのが、近世ヨーロッパで起こった変化、それもいわゆる西ヨーロッパとよばれるエルベ川から西側のヨーロッパで起こった経済的な変化だったのです。

その経済的変化を象徴する、いわゆる「価格革命」について。

インフレは社会に重大な影響をもたらすことになりました。資産家たちのなかにも、利益を得た大もいる一方で、ひどい目にあった人たちもいました。地主のなかには地代を引き上げることでインフレに対抗した者もいましたが、その一方、土地を売りに出さなくてはならなくなった地主たちもいました。そうした結果、現代の社会でもしばしば起こる現象ですが、インフレが社会の流動性を高めるという現象が起こり始めたのです。・・・・・どこの土地でも、インフレによる打撃をもっとも強く受けたのは、社会構造の両極に位置する人びとでした。つまりインフレによって貧困層が飢えに追いやられる一方、王侯たちもこの新しい事態に対処するため、誰よりもお金を使う必要にせまられたのです。

歴史家たちは約一〇〇年間つづいたこの物価上昇を説明するために、これまで多くのページをついやしてきました。その原因のひとつは、よくいわれているように、スペイン人が南米の鉱山を開拓したために、大量の銀がヨーロッパに流れこんだことにあったのでしょう。ただし、新大陸からもたらされた大量の銀が状況を悪化させたことはたしかですが、ヨーロッパのインフレがそのはるか以前から始まっていたことも事実です。おそらく、もっとも根本的な原因は人口の増加にあったものと思われます。この時期、農業生産が横ばいのときも、人口ほつねに増えつづけていたのです。

近世最先進国となったイギリスの社会構造について。

イギリスでは、フランスで存続していたような「商業化された封建制度」でさえも、一八〇〇年を待たずにすたれてしまいました。貴族たちには議会に出席する権利をのぞけば、いかなる法的特権もあたえられていなかったのです(さらに貴族たちは、下院議員の選挙では投票できないという法的制限を課せられていました)。

イギリスの貴族階級の特徴は、それが非常に小さな集団だったということです。一八世紀末の時点で、イギリスの上院議員の総数は二〇〇名以下でした。彼ら上院議員の地位は世襲制で、直系の相続人だけが継承することを許されていました。つまりイギリスの貴族階級は、ほかのヨーロッパ諸国のように、ひとつの社会階層を形成するような大規模なものではなかったのです。

イギリス以外のヨーロッパ諸国では、どの国にも数多くの貴族がいて、自分たちを庶民層からはっきりと区別し、数々の法的特権を享受していました。革命前夜のフランスには、おそらく二五万人もの貴族が存在し、そのすべてが何らかの法的な特権を保持していたものと思われます。しかしイギリスではそうした特権をもつ貴族は、オックスフォード大学の講堂に入りきる程度の人数しか存在せず、さらに彼らのもつ法的な特権も、それほど大きなものではありませんでした。

一方、イギリスでは貴族階級のすぐ下に、「ジェントリー」とよばれる境界のあいまいな上流階級が誕生していました。この階級は上の方では貴族と、下の方では富裕な農業経営者や商人たちとつながっていたのです。

この高い身分とも低い身分ともつながりをもつジェントリーという社会階層が、イギリスの社会に結束力と流動性をもたらすうえで、大きな役割をはたすことになりました。なぜならジェントリーという身分は、富の蓄積や職業上の成功によっても手に入れることが可能だったからです。

ジェントリーのあいだでは、騎士道精神にもとづく倫理観が非常に重視されていました。つまりジェントリーとは、イギリス貴族の伝統を受けつぐ一方で、従来の排他的な階級制度に風穴をおける役割をはたしたというわけです。そしてこのジェントリー階級が、近代イギリス社会の成立において、大きな役割をはたすことになるのです。

「絶対王政」下の主権国家体制確立に向かう動きについて。

当時のヨーロッパ諸国の統治形態にはさまざまな形のものがありますが、それには惑わされないようにしてください。重要なのはこの時期、ヨーロッパの人びとが、国家の最高権力である「主権」という概念を考えだし、それを国家の基礎として位置づけることで、強力な近代国家を成立させていったという事実です。「主権」の担い手が誰で、その権力はどのような範囲にまでおよぶかという点については、さまざまな議論がありました。しかしヨーロッパではしだいに、もし「主権」が正当な担い手の手中にあるならば、その立法権にはいかなる制限もあってはならないと考えられるようになったのです。

そこには従来の考えとは大きな断絶がありました

「無制限の立法権をあたえられた統治者(主権者)」という概念は、中世ヨーロッパ人の目には、神学的には冒瀆であり、社会的にも従来の既得権(さまざまな特権など)を侵害するものと映ったことでしょう。

その結果、当時そうした「主権」を行使する地位にあった王たちに対して、まったくちがったふたつの立場から批判が起こるようになります。ひとつは「保守的」な立場から、中世的な「自由」を守ろうとするものでした。もうひとつは近代的な「自由主義」の立場から、「主権」が王の手中にあるのはまちがいであるとするものでした。しかし実際にはのちのフランス革命でも見られるように、このふたつの立場は渾然一体となっていたのです。

ヨーロッパにおける近代的な主権国家の登場は、多くの国が君主政(王政)を採用していたために、その革新性が目だたなくなっています。

けれども法的原理についての議論から目を移すと、近代ヨーロッパにおける国家の発展は、王権の強化と一体となって進んでいったことがよくわかります。中世後期に多くの国で採用されていた代議制がすたれてしまったことは、そのひとつの現れといえるでしょう。

代議制が衰退する傾向は一六世紀に始まり、フランス革命が起きた一七八九年には、西ヨーロッパの多くの国は、議会などによって制約を受けることのない王によって支配されるようになっていました(イギリスは例外でしたが)。各国の王たちが一六世紀以降手にするようになった権力は、中世の領主や市民だちから見れば非常に強大なものに思えたことでしょう。

ところでこうした現象は、よく「絶対王政」の台頭と表現されることがあります。この言葉の使用自体に異議をとなえるつもりはありませんが、その場合は王たちがみずからの意向をどれだけ実現できていたかという点に、よく注意しておく必要があります。というのも現実には「絶対王政」の王権に対しても、中世の王権と同じく、多くの抑止機能が働いていたからです。

しかし、王たちのもつ権力が一六世紀以降、あらゆる面で大きくなっていったことは事実です。各国の王たちは新しい財源を見つけては常備軍や大砲を整備し、私兵をもつ余裕のない大貴族たちを押さえつけようとする一方で、芽ばえつつあった国民意識を臣民と共有することもありました。大まかにいえば、一五世紀末ごろには多くの国で、秩序と平和が保証されるなら、そうした強力な王権を受け入れてもよいとする認識が生まれていたようです。もちろん国によって事情はさまざまでしたが、ほとんどすべての国にいえるのは、王たちがこの時期、「もっとも有力な貴族」から、それ以上の存在へのしあがることに成功したということです。そして彼らは武力と徴税権をもちいて獲得した権力によって、新しい統治形態を確立していくことになるのです。

宗教改革も同様に国民国家の萌芽期を促進する役割を果たしたが、その絶対王政、「ルネサンス国家」を襲った「17世紀の危機」について。

このような国内の反乱は、いずれも経済的な困窮に端を発したものでした。つまり財政面では「ルネサンス国家」は、まったく成功していなかったのです。一七世紀になって、ほとんどの国で常備軍が創設されたことも、財政を圧迫する大きな原因となっていました。たとえばこの時期にフランスの国民に課せられた税は、イギリスとくらべて、はるかに過酷なものだったようです。

イギリスは内戦と国王の処刑、一時的な君主政の終焉といった重大な危機をすでに経験していましたが、国土の荒廃はそれほどではありませんでした。イギリスで頻発した物価の上昇を原因とする暴動も、一七世紀に起きたフランスの小作人の蜂起などとは、くらべものにならないほど小規模のものだったのです。逆にイギリスではピューリタンなどの急進派が国家や教会と対立していましたが、そうした信仰上の問題はスペインには存在しませんでしたし、フランスでもずいぶん前に解決済みでした。実際、フランスのユグノーにはさまざまな権利があたえられており、彼らは国王が自分たちを保護してくれていると考えていたため、フロンドの乱のときにも国王側についていたのです。

すでにのべたとおり、一六六〇年にはイギリスで王政復古によってチャールズニ世が王位に復帰し、その翌年にはフランスでルイー四世の親政が開始されます。これはヨーロッパの歴史にとって、大きなターニングーポイントとなりました。フランスではこれ以降、革命が起こる一七八九年まで、大規模な国家的混乱は起きませんでしたし、とくにルイー四世が一七一五年に死去するまでの半世紀は、比類のない軍事力と外交力が発揮された輝かしい時代となったのです。イギリスでも、一六八八年に名誉革命が起こったものの、内乱は二度と起きませんでした。

イギリスでは一六八九年に制定された「権利の章典」のなかで、個人の権利がはっきりと確立されましたが、国家の主権の問題はまだ決着していませんでした。それに対し、フランスではすべての人が王権の絶対性に同意していました。ただし法律家たちだけは、国王にも法的にできないことがあると指摘しつづけていたのです。

この混乱は、18世紀初頭のスペイン継承戦争後、勢力均衡原則に基づく講和が結ばれることによって終息、長年続くヨーロッパの政治地図が現れる。

一方、西欧に比して後進的存在となった東欧、その中心たるロシアのツァーリズムについて。

こうしてロシア正教会がツァーリに服従した結果、ロシアの政治形態に最後の変革がもたらされ、ロシア型の専制政治が誕生することになりました。この変革の特徴を列挙すると、つぎのようになります。

「法的な制限を受けることのない半ば神格化された支配者(ツァーリ)の存在が認められたこと」、「ツァーリへの奉仕が全人民に課せられた義務として強調されたこと」、「土地保有がその奉仕義務と結びつけられたこと」、「権力の分散がない巨大な官僚機構が発展したこと」、「軍事上の要請が最優先されるようになったこと」などです。

こうした特質は研究者からも指摘されているように、専制政治が始まった時点ですべて存在していたわけではありません。また、すべての特質がいつも同じように効力を発揮していたわけでもありません。それでもロシア型の専制政治は以上のような特質によって、西ヨーロッパ型の君主政とは、はっきりと区別することができるのです。

西ヨーロッパでは、はるか中世の時代から、都市や各階級の人びと、ギルドなどの団体が、さまざまな特権を享受していました。そうした伝統の上に、のちの立憲政治が築かれていったのです。ところがかつてのモスクワ大公国では、最高位の役人ですら、「奴隷」あるいは「召し使い」を意味する役職名でよばれていました(同じ時期のポーランドやリトアニアですら、そうした立場の人びとはすでに「市民」とよばれていたのですが)。

ヨーロッパでもっとも強大な「絶対王政」を確立したフランスのルイー四世でさえ、個人的には王権神授説を信奉していたかもしれませんが、みずからの権力がつねにさまざまな法的権利や既得権、神の法などによって制限されていることをはっきりと自覚していました。またフランスの国民もルイー四世を「絶対君主」だとは思っていましたが、「専制君主」であるとはまったく考えていなかったのです。

一方、イギリスでは、すでにのべたように議会のコントロール下におかれた立憲君主政が誕生しつつありました。たしかにイギリスの君主政とフランスの君主政では、その方向性はまったくちがっていたかもしれません。しかし、どちらの国王もロシアのツァーリとくらべれば、はるかに多くの制約を受け入れていたことは事実なのです。

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ロシアの社会構造もまた、他国との違いがきわだっていました。ロシアはヨーロッパのなかでも、農奴制を最後まで廃止しなかった国です。ほとんどのキリス卜教国では一八世紀に奴隷的な強制労働が衰退していたにもかかわらず(アメリカ合衆国とエチオピアは例外ですが)、ロシアでは逆に農奴制が広がりを見せていたのです。その理由はおもに、広大な土地に対して労働力がつねに不足していたところにありました。驚くべきことにロシアでは、土地の価値は広さではなく、「魂」の数、つまりその土地に属する農奴の数で決められていたのです。

このようにロシアの専制帝政を批判的な筆致で記す著者ではあるが、その成立にはそれなりの歴史的経緯があったことも記し、一方的な見方には陥っていない。

もっとも歴史をふり返ってみれば、ロシアにはこのロシア型の専制政治が実に適していたといえるでしょう。一八世紀の学者たちは、「広くて平らな国には専制政治が似合う」という言葉をのこしています。これはいささか単純すぎる意見かもしれませんが、ロシアのようにあまりにも多様な地域と人びとをかかえる大国には、つねに分裂へとむかう政治的なベクトルがはたらきます。「ツァーリ」を中心としたロシア型の専制政治には、強大な力で国をひとつにまとめあげるという大きな役割があったのです。

著者は、ロシアの近代化の端緒となったピョートル1世の治世をやや肯定的に評価するものの、もう一人の代表的君主エカチェリーナ2世への視線は厳しい。

エカテリーナ二世の統治はピョートル一世よりも華々しいものとなりましたが、改革の推進という点では見劣りがします。たしかにエカテリーナも学校を設立し、芸術や科学を庇護したことは事実です。けれどもピョートルが実質的な改革を進めたのに対し、エカテリーナは啓蒙君主としての名声を、政権の運営に利用しただけだったという見方もできます。見た目は進歩的でしたが、実際には保守的だったといってよいでしょう。

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長い目で見ると、貴族たちと専制政治が手を結んだことは、ロシアにとって大きな弊害となりました。エカテリーナ二世のもとで、ロシアが社会のだかをきつくしめ始めたとき、ほかのヨーロッパ諸国はすでにそれをゆるめ始めていました。そのためロシアはつぎの半世紀に連続して起きた危機と変化に、ほかの国のように柔軟に対応することができなくなってしまったのです。

経済的および宗教的な「強い動機」を持つヨーロッパ人が、他の文明に抜きん出て海外進出を達成。

その初期に最大の植民地を誇ったスペインだが、広大な新大陸領は銀の産出以外には目立った利益を生まず、面積的にははるかに小さいカリブ海の島々の方が強い重要性を持っていた。

一方、イギリスの北米植民は、後発の存在にも関わらず、成人男性だけでない家族での移住とタバコ栽培の成功により、自立的な農業植民地としての成功を収める。

文明史的に、大きな視野に立てば、西半球新大陸は完全に「ヨーロッパ化」「キリスト教化」される道を歩むことになり、イスラムなど他の宗教・文明が影響を与えることはほぼ無くなることになる。

 

 

終わり。

一巻まるごとヨーロッパ史だが、一見単調に見えて、ついつい読み飛ばしてしまうところに、実は重要で興味深い視点や評価が含まれていることが多いので、注意が必要。

この巻もそこそこ面白いです。

2017年1月22日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 5 東アジアと中世ヨーロッパ』 (創元社)

Filed under: アジア, ヨーロッパ, 全集 — 万年初心者 @ 01:37

中国、日本、インドなど非イスラム圏のアジアと中世ヨーロッパの巻。

 

 

まず、古代から近代の入り口に至るまでの中国史がざっと片付けられる。

中国文明が、世界史上まれに見るほどの継続性と独立性をもちえた理由は、実はそれほど複雑なものではありません。中国の地理的な位置を思い浮かべてみてください。東側の海岸は太平洋にむけて大きく開けていますが、近代以前に西方世界からそこに海路で到達することは、ほとんど不可能でした。一方、西側の国境は、数々の山脈や砂漠によって守られており、ごく最近になるまで、わずかな隊商が荷物を運んで行き来することしかできなかったのです。

つまり中国は、オリエントや地中海、西アジアといった古代文明の先進地から完全に孤立した場所にあり、ほかの大文明から政治的安定を乱されることが、ほとんどなかったというわけです。そのよい例がイスラーム文明の影響です。七世紀以降、いくつも誕生したイスラーム国家の盛衰は、インドの歴史には大きな変化をもたらしましたが、中国の王朝の興亡にはほとんど影響をあたえませんでした。

インドではバラモン教からヒンドゥー教へといたる強固な宗教的伝統と、その過程で誕生したカースト制度が、文明の強力な安定要因として働いていました。一方、中国文明に安定をもたらしていたのは、儒教にもとづく高度な官僚制度です。統一王朝の出現後、かなり早い段階で誕生したこの統治システムが、たび重なる王朝の交代をくぐりぬけ、中国文明に強い継続性をもたらしつづけていたのです。

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中国の官僚たちは、社会全体をおおう儒教の影響力のもとで、政治と社会におけるさまざまな役割を一手に引きうけていました。彼らは役人であると同時に、儒教の教えをもっともよく知る「学者」であり、また芸術においても指導的な役割をはたす「文化人」でもあったからです。

中国では、おそらくほかの世界(イスラーム世界をのぞきます)とはくらべものにならないほど、特定の教義(儒教)が深く国家運営の中枢に組みこまれていました。そして中国の官僚たちは、ヨーロッパのキリスト教の聖職者にも似た倫理的な行動をとることを求められていたのです。

官僚制度の基盤である儒教は、きわめて保守性の強い教えであり、行政のおもな目的は既成の秩序を維持することと考えられていました。中国で、統治に際して何より優先されたのは、多様性に富んだ広大な帝国――多くの地方行政官は担当地域に言語の異なる人民をかかえていました――に一定の基準を普及させて、帝国全土に秩序をもたらすことでした。こうした実に保守的な目標を達成するにあたって、中国の官僚制度は驚くほどの成功を収め、その基本的な性格はあらゆる王朝の危機を乗りこえ、無傷のまま生きのびていったのです。

以上の通り保守的・静的な中国史上で、例外的に最も劇的な経済成長を遂げたのは、宋代。

宋王朝が存続した紀元一〇世紀から一三世紀にかけて、中国では人口が増えつづけたにもかかわらず、ほとんどの中国人の実質所得は増加していたものと思われます。つまり、かなりの長期にわたって、経済成長が人口の増加を大きく上まわっていたようなのです。それを可能にした理由の一つが、新しい稲の品種の発見だったことはまちがいないでしょう。

この新しい稲の導入により、じゅうぶんに灌漑された土地からは年に二度の収穫が、春だけ灌漑する丘陵地からも年に一度の収穫が見こめるようになりました。農業以外の産業の生産性も飛躍的に向上しました。ある学者は、中国は一一世紀の段階ですでに、六〇〇年後の全ヨーロッパの生産量に匹敵するほどの鉄を生産していたと推測しています。また繊維製品の生産能力も、水力による紡績機械が導入された結果、飛躍的な発展をとげていました。

宋王朝の時代になぜこのようなめざましい経済成長が起こったかを説明することは、実は容易ではありません。さまざまな史実の評価について、まだ意見が分かれているからです。公共事業、なかでも大運河の修復など、交通網に対する政府の積極的な投資が経済を活性化させたことは、おそらくまちがいないでしょう。また、長いあいだ他国からの侵略や内乱が起こらなかったことが、経済成長をうながす大きな要因になったこともたしかです。

しかし、たとえば内乱についていえば、逆に経済が成長したおかげで内乱が起きなかったと説明することもできます。結局、もっとも大きな理由は、市場の拡大とさまざまな要因によって、貨幣経済が盛んになったことだと思われますが、その根底にあったのは農業生産力の飛躍的な向上でした。農業生産力の向上が人口の増加を上まわっているかぎり、つまり民衆がじゅうぶんな食料を手に入れているかぎり、王朝から「天命」が去ることもなく、社会が混乱におちいることもありませんでした。こうした社会的な安定のなかで蓄積された資本が、さらなる労働力の活用をうながし、設備投資にもまわって新しい技術の開発も行なわれるようになりました。その結果として、人びとの実質所得もふくれあがっていったというわけです。

しかし、その成長には一定の限界があり、それを超えて文明が質的変化を遂げることは無かった。

宋王朝の時代に起こった急激な経済成長が、その後、停滞してしまった理由についてはよくわかっていません。それから五世紀近くのあいだ、中国人の平均実収は上昇することがなく、生産高は人口の増加に見あう水準をたもつのがやっとでした(農民の収入は、低下の一途をたどりました)。

しかし宋王朝の時代以降に起きた経済停滞は、ヨーロッパ人がいうところのいわゆる「アジア的停滞」を中国にもたらした真の理由ではありません。たとえば印刷術の進歩にもかかわらず、中国の民衆は二〇世紀にいたるまで、ほとんど読み書きができませんでした。また中国の大都市は経済成長をとげ、活発な商業活動を展開していたにもかかわらず、ヨーロッパのように民主的または自由主義的な市民社会を生みだすこともありませんでした。紀元前の戦国時代には、すでに諸子百家とよばれるさまざまな新しい思想が開化していたのですが、その後の中国文明は、ヨーロッパのような啓蒙思想を生みだすこともなかったのです。技術分野でも大きな進歩が起こっていたものの、それらが社会に革命的な進歩をもたらすこともありませんでした。

宋王朝の時代の船乗りたちは、すでに羅針盤を使用していました。しかし、一五世紀に明王朝の武将である鄭和が七度の大航海を行なって、インド、タイ、インドネシア、ペルシア湾、東アフリカなどに艦隊を派遣したとき、その目的はあくまでも明王朝の権威を誇示するところにあり、さらなる遠洋航海そなえて情報を集めることはありませんでした。

中国では紀元前二千年紀(紀元前二〇〇〇~一〇〇一年)にはすでに青銅器の傑作が生みだされ、またヨーロッパより一五〇〇年も早く鉄の鋳造が行なわれていました。しかし、こうしたすぐれた冶金術の伝統は、鉄の製造量がめざましく増大したにもかかわらず、新たな技術の開発にむかうことはありませんでした。さらにいえば、一三世紀に元王朝をおとずれたマルコ・ポーロは、「黒い石のようなもの」が燃えていたのを見たと書いています。実はそれは石炭だったのですが、鉄も石炭も大量に産出していた中国に、蒸気機関が誕生することはついにありませんでした。

このような例をあげていくと、きりがありません。おそらく中国文明は進歩ではなく、何か別の目標を達成しようとしていたのでしょう。ひとことでいうと継続性、つまり社会の安定の維持こそが、中国文明がめざした最大の価値だったのです。

儒教の思想を中心として、早い時代に確立された官僚制度も社会体制も、社会に変革を起こさないことをもっとも大きな目的として生みだされたものでした。第二巻のなかでも少しふれましたが、非常に早い段階で高度な文明を成立させたことと、地形的な孤立、文明圏の内部だけで経済的繁栄が可能だったことなどがあいまって、彼らは外の世界から何かを学ぶ必要を感じなかったのでしょう。

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中国文明がかかえていた矛盾点は、ヨーロッパ世界との接触が本格化する一九世紀までには、すでに誰の目にもあきらかになっていました。つまり中国人は多くの分野で、ヨーロッパ人よりも数百年、ときには一〇〇〇年以上も早くさまざまな技術を開発していたにもかかわらず、ヨーロッパ諸国の介入を阻止できるだけの科学的発展にいたることは、ついになかったのです。

火薬がそのよい例です。中国人は世界に先がけて火薬を発明したにもかかわらず、ヨーロッパの大砲に匹敵するような武器を生みだすことはできませんでした。それだけでなく、ヨーロッパの職人が製造した大砲を有効に使うことさえできなかったのです。すでにのべたとおり、有効に活用されなかった中国の知的財産をあげていくときりがないのです。

その問題点は、実にはっきりしています。中国人が発明を実用化することに関心がなかった理由は、儒教を基盤とした官僚中心の社会体制にありました。中国の社会体制においては、ヨーロッパのように社会的地位の高い人びとと職人(技術者)たちのあいだに知的交流が生まれることがなく、そのため各分野での技術の発展が、文明全体を前進させる結果をもたらさなかったのです。

偉大な伝統文化に対する自負心のため、中国人はなかなか自国の文化が内包する欠陥を認めることができませんでした。おそらくそのせいで、彼らは外国人(中国人にとってはそのすべてが「野蛮人」でした)から何かを学ぶということが非常にむずかしかったのでしょう。さらに事態を悪化させたのは、儒教の伝統のため、中国文明が軍人や軍事技術者を軽視する傾向にあったことです。その結果、中国は外の世界からの脅威が増大した時代に、対応を大きくまちがえてしまうことになるのです。

 

 

そして、日本がこのシリーズで初めて登場。

まず、その全歴史の前提となった、地理的条件を述べる。

イギリスでは一時期、日本をアジアにおける大英帝国にたとえる議論が盛んだったことがあります。さまざまな観点から共通点が論じられ、なかにはあまり説得力のない説もありましたが、そこにはひとつだけ、反論の余地のないあきらかな事実がありました。それはこの両国が、いずれも海にかこまれた島国であり、国家の運命がその島国という条件によって大きく左右されてきたという事実です。

イギリスの歴史も日本の歴史も、海峡をへだてた大陸とは別の道を歩むことが可能だった一方で、やはり大陸からの影響を強く受けざるをえませんでした。もっとも日本と朝鮮半島のあいだに横たわる対馬海峡は、その距離がドーバー海峡のほぼ五倍あるため、日本はイギリス以上に大陸からの影響を受けずにすんだといえるでしょう。けれどもイギリスがそうであったように、日本もまた対岸、つまり朝鮮半島に強大な政治勢力が出現すると、時の政権は動揺することになりました。そうした状況は、イギリスが対岸のオランダなどへの敵対勢力の侵入を何よりも警戒していたことと、たしかに似ているように見えるのです。

そして、天皇の存在によって権威と権力の分立が成り立ったこと、戦乱期にも順調な発展が見られたことを述べ、前近代の日本が最終的に到達した江戸時代の幕藩体制を、以下のように高く評価する。

江戸幕府とは、ちょうど前章でご紹介した中国の儒教体制と同じく、それぞれの身分に応じた義務を徹底させ、階級にしばりつけることを最大の目標とした政権でした(事実、儒教の影響を受けていました)。それがどれくらい抑圧的なものであったかは、いまとなってはよくわかりませんが、社会に安定をもたらすという点では非常に有効な体制だったといえます。そして長い戦乱の時代のあとで、日本が安定を必要としていたこともたしかだったのです。江戸時代は、人びとがみずからの分(立場や義務)をわきまえることと、規律、勤勉、禁欲が強く求められた時代であり、この政権がうまく機能していたとき、たしかにそれは人類社会におけるもっともすぐれた社会体制のひとつだったといえるでしょう。

「前近代においては」という前提付きの話だろうが、それにしても驚くほどの高評価である。

江戸時代の二六五年間で、農業の生産高は約二倍になりました。一方、人口の伸びはその半分以下にとどまっています。江戸幕府はいわゆる「小さな政府」であり、新たに生まれた富を搾取しつくすような政権ではなかったため、その富は社会にとどまり、投資にまわったり、国民の生活水準を引き上げる役割をはたしたりしたのです。

同時代においてこのような自律的経済成長をとげた社会は、日本のほかにはヨーロッパしかありません。アジアのなかでなぜ日本だけがこうした経済的繁栄をとげたかという問題については、いまだに論争がつづいています。冒頭にお話ししたように、地形的な条件もたしかに大きかったことでしょう。アジア大陸の豊かな国々が、草原の遊牧民たちからたび重なる略奪を受けていたのに対して、日本は海にかこまれているためにそうした略奪を受けずにすみました。さらに江戸幕府が戦乱を終結させて、長い「天下泰平」の時代をもたらしたことは、もうひとつの大きな原因だったといえます。農業分野でも大きな進歩が見られました。耕地の開墾が強力に進められ、灌漑設備に資金が投じられ、ポルトガル人が伝えたアメリカ原産の作物がとり入れられたことも、人びとの生活水準を高めるうえで大きな役割をはたしました。

さらにそうした個々の要素が、相互にあたえた影響についても見ておく必要があります。すでにお話ししたように、江戸幕府が江戸に大名とその家族(さらに家臣たち)を強制的に住まわせたのは、政権の安定のためでした。しかしその結果、大名たちは米を市場に出して現金を手に入れねばならず、資本の流通が刺激されることになりました。また、そうして日本中から集められた資本(貨幣)が江戸で集中的に消費されることで、巨大な消費市場が成立することになったのです(江戸時代の武士とは経済的に見れば、いっさいの生産を行なわず、消費のみを行なう人びとということになります)。

さらに日本が二七〇もの地方政権(大名)によって分割されていたこともあり、各地で特色のある産業が発展していきました。産業革命初期のヨーロッパと同じように、日本の産業やさまざまな製品の製造も、最初は地方から始まったものなのです。幕府もそれを奨励していました。江戸時代のはじめには幕府主導で灌漑事業が進められ、度量衡と貨幣の統一も実施されています。

そして江戸幕府には、社会を統制しようという強い熱意はありましたが、実際の支配力はそれほどではなかったため、経済成長が妨げられることがなかったものと思われます。江戸幕府は、その最盛期にはあたかも絶対君主のように見えたときもありましたが、本質的には各地の地方政権の勢力均衡の上に位置する、大名連合の盟主ともいうべき存在だったからです。

一九世紀後半にヨーロッパからの脅威を受けるまでは、この体制は実にうまく機能していたといってよいでしょう。華やかな都市文化が開花し、のちにヨーロッパの印象派の画家たちにも大きな影響をあたえる浮世絵や、歌舞伎などの大衆芸術が庶民たちの大きな人気を集めるようになっていきました。一八〇〇年当時の日本人の平均所得と平均寿命は、イギリス人とほぼ同じ水準にあったと考えられています。

やがて一九世紀の後半に、日本は欧米諸国から開国をせまられ、明治維新を成立させて近代国家への道のりを歩み始めることになります。この巻ではそこまでふれませんが、それはほかの国には例を見ないような、急激で痛みをともなう自己改革の道だったといえるでしょう。

もっとも、すでに見てきたような経済成長を考えると、たとえ欧米諸国からの圧力がなくとも、幕藩体制が生き長らえることはなかったように思えます。日本では、江戸時代の末期にかけて、すでにさまざまな問題が噴出していました。また幕府の家臣や地方の有力大名のなかには、中国や朝鮮まで視野に入れて、東アジア全体の防衛構想を模索する人びとも出現し始めていました。そしてほかのアジアの民族と同じく強大なヨーロッパ文明の脅威にさらされたとき、日本が選択した道は、同時代の中国の清王朝やインドのムガル帝国とは、まったく異なった道だったのです。

 

 

続いて、インド。

インド史において、マウリヤ朝をはじめとする政治的統一が長期間存続しない理由を以下のように説明。

マウリヤ朝があっけなく衰退してしまった最大の原因は、おそらくインドの長い歴史を通じてつねに存在する、非常に根本的な問題にあったものと思われます。つまりインド社会は家族とカースト制度を基盤として成立しているため、インド人は王朝や国家といった抽象的な存在に忠誠心をもつことは、その後も現在にいたるまで、ほとんどなかったようなのです。そのため民衆がたとえば食料の問題などで不満をもつようになると、帝国の崩壊を食いとめようとする力は、どこにも存在しなかったということなのでしょう。

アショーカ王が帝国全域に「ダルマ」という新しいイデオロギーを広めようとしたとき、成功を収められなかった背景にも、おそらく同じ問題があったのでしょう。さらにいえば、こうしたインドの社会制度、とくにカースト制度は、その後も長くインドの経済発展を妨げつづけることになります。生まれによってすべての社会的行動が規定されるカースト制度のもとでは、経済が停滞し、人びとの活動の意欲がそがれてしまうことは、まったく当然のことだからです。

宗教を中心とする基盤としての文明の強靭性と、その上に立つ王朝・国家の脆弱性というコントラストは、インド文明とイスラム文明に共通するように思われる。

そして、その文明が持つ、強い独自性について。

ここまで見てきたように、ダルマの思想も、また『カーマスートラ』における性愛の肯定も、キリスト教世界やイスラーム教世界のもつ戦闘的でかつ禁欲的な文明の伝統とは、まったくかけ離れたものでした。インド文明はおそらく中国文明などよりももっと、西方の文明とは異なった系譜に属する文明だといえるでしょう。またそこにこそ、インド文明のもつ活力と、外来文化に対する抵抗力の秘密があったのです。

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ヒンドゥー教と仏教はこうした変化を刺激として、最盛期をむかえることになりました。ふたつの宗教が成熟したのは、イスラーム教徒がインド北部を支配するようになる少し前のことでしたが、それ以後もインド文明の根幹をなす基本原理は、異なった文明にいささかも屈することなく、驚くほど強固に受けつがれていきました。インド哲学の中心にあるのは、きわめて大まかにいってしまえば、輪廻転生と梵我一如の思想でした。そこから生まれる世界観は、ヨーロッパ人のような高みをめざして上昇していく直線的な歴史観ではなく、時の流れを超え、無限に循環運動をつづける宇宙観です。

このような基本思想がインドの現在までの歴史にどのような影響をおよぼしたかという問題については、あまりにも大きすぎて、把握するのはほとんど不可能かもしれません。しかし、インド哲学の高い思想性は認めるにしても、その世界観が現実世界に反映されたとき、それは人間の行動の可能性ではなく、限界を強調する方向に作用したという点は指摘せざるをえないのです。

この強靭な独自性を持つインド文明の地に、強力な伝播力を持つイスラム教が侵入し、最終的にはムガル帝国成立に至る。

すでにイスラーム教はインド亜大陸にしっかりと根をおろしており、その後もイスラーム教徒による数多くの地方政権が誕生していったのです。おそらくイスラーム教は、インド文明の長い歴史を通じても、その巨大な同化吸収能力にとって最大の脅威だったといえるかもしれません。

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ムガル帝国の帝位は、一八五八年の滅亡までバーブル帝の子孫に継承されていきました。しかし、第三代皇帝だったアクバル帝のあと、重要な皇帝はほとんどつぎの三人だけといえます。というのも、第四代皇帝のジャハーンギール帝と第五代のシャー・ジャハーン帝のもとでムガル帝国は最大の領土を支配するようになり、第六代のアウラングゼーブ帝の治世に一気に衰退へとむかい始めたからです。

アクバル帝の宗教宥和政策によって、ムガル帝国の統治はようやく安定、続くジャハンギール、シャー・ジャハーン両帝治下で、重税化など衰退の予兆が見られても、その宥和策が何とか維持されていた限り、帝国が根底から揺らぐことは無かった。

だが、次代アウラングゼーブ帝の愚行が全てを暗転させる。

しかし、そうしたシャー・ジャハーン帝による過酷な徴税も、第六代皇帝となったアウラングゼーブ帝(在位:一六五八~一七〇七年)の偏狭な宗教政策にくらべると、はるかに弊害は少なかったといえるでしょう。

この皇帝は、ムガル朝の最大版図を実現したこともあり、高校世界史レベルでは最盛期の君主と見なされがちだが、本書での評価は全く違う。

当ブログでも以前に書きましたが、実際、アウラングゼーブ死後のムガル朝の急激な衰退は世界史的に見ても異常に思える。

結局それは、それぞれ同化力が極めて強い、インド文明とイスラム文明が衝突し、アクバル帝の宗教宥和策があった間は微妙な均衡が保たれ、何とか小康状態を維持していたが、それが放棄されるや、元々極度の社会的緊張状態の上に立っていたムガル帝国は崩壊の道をたどった、ということなんでしょう。

そして、インド、イスラム両文明の衝突が再激化しつつあった時期に、ヨーロッパ人が来航しており、漁夫の利を占めたイギリス人の手によって、オスマン朝・サファヴィー朝・清朝・ムガル朝の近世アジア四大帝国の内、インドだけが完全に植民地化されるという憂き目に遭うことになる。

ところで、ヨーロッパ人がインドで成功を収めることになった責任の一端は、おそらくアクバル帝にもあったといえるでしょう。アクバル帝の時代にヨーロッパ人との本格的な接触が始まったにもかかわらず、彼は早い段階で危険の芽を摘みとることをしなかったからです。驚いたことにムガル帝国は、海軍の創設を考えたこともなかったようです。その結果、アウラングゼーブ帝の治世には、早くもヨーロッパ人のせいで、沿岸での船積みやメッカへの巡礼交易までが危険にさらされることになったのです。

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こうしてインドはみずからの歴史を歩むのではなく、世界の歴史のなかで翻弄される時代をむかえようとしていました。この時期までに起きたさまざまな出来事が、そのことを示していたのです。

しかし実際のところ、ムガル帝国に終焉をもたらした原因は、ヨーロッパ人の到来ではありませんでした。ムガル帝国はみずからの内部要因によって崩壊へとむかい、ヨーロッパ人はただその場に居合わせたにすぎなかったのです。けれどもそのことが、のちに非常に重大な意味をもつことになるのです。

 

 

この後、「孤立した世界」と題して、アフリカ大陸とアメリカ大陸を扱った章がある。

アフリカ大陸とアメリカ大陸は、ほかの地域とはまったく異なるリズムで文明化への道をたどることになりました。もちろんアフリカとアメリカでは、事情は大きく違います。南北両アメリカ大陸は、氷河期以降、ほかの大陸とは海で完全にへだてられており、長いあいだまったくの孤立状態にありました。

一方、アフリカ大陸はその北岸部、つまり地中海沿岸部は古くから文明の先進地でした。それ以外の地域も、かなり孤立した状態だったとはいえ、七世紀以降はイスラーム勢力など外部との接触が始まっています。ほとんど沿岸部に限られていたものの、最初はアラブ商人、つづいてヨーロッパの商人たちとの交易関係も、わずかながら行なわれるようになっていたのです。

けれども大きな視点からいえば、アフリカ大陸の大部分は一九世紀後半まで、世界史の本流に組みこまれることはありませんでした。そうした孤立状態のため、アフリカ大陸とアメリカ大陸の歴史には、いまなお解明されない部分が数多くのこされているのです。

アフリカについては、それが持っていた地理的自然的条件が文明化への大きな障害になったことを指摘。

農業の歴史を見てみると、アフリカ大陸がその過酷な自然環境のために、文化的な発展を阻害されていたことがよくわかります。とくにサハラ以南のアフリカは、地形や気候、疫病などが重い足かせとなって、大きな発展を望むことはむずかしかったようです。アフリカの歴史において、鉄器の製造法や新しい農作物は、つねにオリエントやアジア、インドネシア、アメリカなどからもたらされたものでした。また蒸気機関や医薬品は、一九世紀にヨーロッパから伝えられたものです。そうした外来の技術がなければ、アフリカの過酷な自然に対処するのは非常に困難なことだったでしょう。

アフリカ最初の国家がクシュ王国、それを滅ぼしたアクスム王国があったエチオピアは北部以外のアフリカで唯一のキリスト教国となり、その後イスラム教が伝わり、多くの王国で信仰されるが、それには一定の限界もあった。

いくつか確実なこともあります。たとえばネグロイド(黒色人種)系の国においては、王や支配階級がイスラーム教を信仰していたときも、一般の民衆は土着の宗教を信じつづけていたということです。社会慣習も、すべてがイスラーム化したわけではありませんでした。アラブの旅行者や商人たちは、マリ王国の少女たちが衣服をつけず、裸で人前に出ていることに非常にショックを受けていたようです。

著名なガーナ、マリ、ソンガイなどの他、サハラ以南の諸王国の名が知られているが、そのどれもがある段階以上の発展を遂げることは無かった。

こうした王国の痕跡は、いまではほとんどのこされていません。またそうしたアフリカの諸王国には、長いあいだ、役人や常備軍も存在しませんでした。王たちは伝統や習慣に沿って国を治めており、その権力はあまり大きなものではなかったようです。そうした理由から、アフリカで興った多くの「国家」が短命に終わったことは、ほぼまちがいありません。長い歴史をもつクシュ王国は、エジプト以外のアフリカの国としては、まったく例外的な存在だったのです。

 

 

続いて、アメリカ文明。

ヨーロッパ人到達以前の北米については、アフリカ史に関しての黒色人種と同様、先住民族への偏見・差別に繋がらないよう、細心の注意を払った上で、客観的に全世界史を叙述すれば、文明的にはほぼ白紙と見なさざるをえない。

北アメリカの先住民の文化には、たしかに尊敬に値するところもあるのですが、それが文明とよべるほどのものでなかったことも事実です。アメリカ大陸でそのような段階にまで達していたのは、つぎの三つの文化だけでした。つまり、中央アメリカのユカタン半島周辺に生まれたマヤ文明、同じく中央アメリカのメキシコ盆地に生まれたアステカ文化、もうひとつは南アメリカのペルー(中央アンデス地方)に生まれたインカ文明です。

そのうち、アステカ文化に対する著者の評価は鮮明である。

アステカの宗教は、その身の毛もよだつ儀式――犠牲から生きたまま心臓をとりだしたり、首を切り落としたりしていました――によって、ヨーロッパ人に大きな衝撃をあたえました。

アステカ人は祭儀に必要な犠牲には、戦争捕虜をあてていました。またアステカの戦士たちは戦闘で死ぬと、太陽神がつかさどる楽園に行けると信じていました。そのため、アステカ王国にとって平和とは、長くつづいてはならないものだったのです。アステカ人は従属国の統治をなおざりにし、反乱が起きればこれ幸いと攻撃をかけ、犠牲のための捕虜を手に入れていました。これでは従属国からの忠誠心など、得られるはずもありません。アステカがヨーロッパ人に滅ぼされたとき、従属国の人びとはさぞかし喜んだことでしょう。

アステカ人の信仰はまた、ヨーロッパ人との最初の接触において、皮肉な役回りを演じることになりました。というのも、彼らは偉大なる神ケツァルコアトルが、東方からもどってくるという信仰をもっていたのです。白い肌をもち、ひげを生やしたケツァルコアトル神は、アステカ人に文化を教えたあと、東方の海岸で姿を消したと伝えられていました。そのため、コルテスひきいるスペイン軍を見たアステカ人は、彼らをケツァルコアトル神の再来と考え、戦うことをためらったのです。

アステカ文化を全体として見ると、すぐれた美術品をのこし、高度な社会を営んでいたにもかかわらず、野蛮で魅力に乏しい文化だったといわざるをえません。民衆にあれほど大きな負担を強いた文化は、ほかにはほとんど存在しないからです。

これをアメリカ先住民を侵略したヨーロッパ人の側に立つ暴論と言えるだろうか?

私にはそうは思えない。

著者が言及しているのは、あくまでアステカ文化に関してだけであり、インカ文明については何も言っておらず、そのアステカ文化への評価に違和感は感じない。

西洋文明を絶対視し、それ以外の全ての文化を野蛮視するのはもちろん間違いだが、極端な文化相対主義に立って、文明間のあらゆる価値判断を放棄するのも間違いだ。

人身御供や拷問、奴隷制、女性と子供への虐待が広範に見られる文化とそうでない文化の優劣は間違いなくある。

その際、表面的なイメージに動かされないよう、慎重に判断する必要があることは言うまでもないが、基本はそう考えるしかない。

著者の章末尾の文章にも同意せざるを得ない。

このように、すべてのアメリカ文明は基本的な部分で、アジアやヨーロッパで成立した文明とは大きな違いをもっていました。インカ人は独自の記録法をもちいて複雑な行政機構を維持していましたが、高度な読み書きの能力を身につけることはありませんでした。技術についても、特定分野の技能は高い水準にあったものの、ほかの文明に影響をあたえるほどの技術を生みだすことはありませんでした。そのため、アメリカの諸文明は独自の文明を形成することはできましたが、彼らがその文明を通じて世界の歴史に貢献することは、それほど多くはなかったのです。

もっとも、文明が出現する以前になしとげられていた、世界に対するアメリカ大陸の貢献は、非常に大きなものでした。はるか昔にアメリカ大陸の人びとは、トマトやトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャを栽培する方法を発見し、人類の食料資源を大いに増やしてくれていたのです。アメリカ大陸ではそれらの食料資源をもとに、マヤ、アステカ、インカなど、きわめて興味深いいくつかの文明が築かれていきました。しかし、それらの文明は、最終的には世界史の辺境に、美しくめずらしい遺跡をのこすだけで終わる運命にあったのです。

 

 

続いて、中世ヨーロッパ。

「中世」という言葉は、ヨーロッパ以外の文化圏でもごく一般的に使われているようですが、もともとこれはヨーロッパ独自の歴史観にもとづく、かなり否定的な意味をもった言葉でした。つまり、「現代(近代)」と「古代」の中間に位置する、ほとんど重要性のない時代という意味を含んでいたのです。

最初にこの「中世」という言葉を考えだしたのは、一五~一六世紀のヨーロッパ人でした。当時彼らは、長く忘れ去られていた古代ギリシア・ローマ文明を「再発見」し、はるか昔に存在したその偉大な文化にすっかり魅了されていたのです。その一方で彼らはまた、自分たちの暮らす社会にも新しい変化が起こりつつあることを感じ始めていました。その結果、当時のヨーロッパ人のあいだに、自分たちの生きる時代は、かつての偉大なる古代の「再生」であり、そのあいだに横たわる期間はたんなる空白期間にすぎないという考えが生まれることになったのです。

けれどもヨーロッパの歴史において、約一〇〇〇年もの時間をしめるこの中世という時代・・・・がたんなる空白期間ではなかったという認識が、やがて少しずつ広まっていきます。そしてあるとき大転換が起こり、まるでそれまで無視してきた埋めあわせをするかのように、ヨーロッパ人はこの「失われた一〇〇〇年」を賛美し、理想化するようになったのです。

騎士道を題材にした歴史小説が人気をよび、地方には中世貴族の城をまねた新興富裕層の大邸宅が建ち並ぶようになりました。さらに重要だったのは、中世の文献研究が盛んになったことです。しかし、そうした多くの進歩が見られる一方で、本質的な理解を妨げるような弊害ものこることになりました。その一部は、現在でも依然としてのこされています。つまり中世キリスト教社会に存在した宗教的統一性や表面的な安定性を理想化するあまり、その奥に隠された多様性が見えにくくなってしまったのです。

とは言え、中世という時代は、何よりもキリスト教の時代であり、その影響が18世紀末に至っても残っていたことを著者は認める。

この巻では11世紀中世盛期から15世紀末までを、近世への変化を生み出した「ヨーロッパ世界の第二の形成期」「最初の革命の時代」として捉える。

その主題はもちろん国際的勢力としてのローマ教会の衰退と近世的国民国家の形成。

個々の教皇の無能・腐敗よりも、教皇制度そのものがイタリア以外の国から民族的反発を買うようになったことが、ローマ教会の衰退を招いたが、キリスト教信仰そのものは近世に入っても社会の中で大きな役割を果たしていたことも、本書では強調される(だからこそ宗教改革が起こったわけだから)。

少し話は変わりますが、私たち現代人は、もちろん国家という概念になじみをもっています。世界は固有の領土をもつ国家によって分割されており、各国にはそれぞれ外部から干渉されることのない「主権」が存在するという合意が広く認められています。また国家はある程度、民族的なまとまりにもとづいて構成されているという一般的な認識も存在しているといってよいでしょう。

このような考えは、実は紀元一〇〇〇年ごろのヨーロッパ人には、まったく理解できないものでした。ところが一五〇〇年ごろになると、かなりの数の人びとがそのことを理解するようになっていたのです。おそらく近代という時代の幕開けを示すもっとも重要な指標のひとつが、この国民国家という概念の成立だといえるでしょう。

そしてヨーロッパ史が持つ特殊性として、自立的なブルジョワ階級の存在を挙げる。

中産階級の出現をもたらした歴史的経緯は、よくわかっていません。・・・・・おそらく都市文化が開花した背景には、ヨーロッパ特有の要因が数多く存在していたのでしょう。どんな古代文明(古代ギリシア文明は例外とします)においても、またアジアやアメリカの社会でも、ヨーロッパのように都市生活のなかから新たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起こりませんでした。その理由のひとつとしては、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象となることが非常にまれだったという点が指摘できるかもしれません。ヨーロッパの政治権力は長く分断されていたため、権力者たちはライバルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガチョウ」を大切にするようになったのです。一方、たとえばアジアの大半の地域では、戦闘があるたびに都市がくり返し略奪されていました。

もちろん、それだけですべてが説明できるわけではありません。階級こそあったものの、ヨーロッパにはインドのようなカースト制度もなければ、中国の儒教のような人間の進歩を妨げるような思想もなかったことは、おそらく重大な意味をもっていました。さらには、ほかの文明圏では都市の住民たちは、たとえ裕福な人びとであっても社会的に低い地位に甘んじていたようです。ところがヨーロッパでは、商人や職人、弁護士、医師たちがそれぞれの仕事に誇りをもち、土地を所有する貴族たちからただ支配されるだけの存在ではなくなっていました。ヨーロッパの社会は変化や進歩に対して扉を閉ざしておらず、軍人や宮廷の官僚以外にも出世の道を開いていたというわけです。

知的側面でも、著者は中世ヨーロッパがイスラム文明から多くの影響を受けたことを通説どおり認めつつ、中国とインドの両文明がヨーロッパに影響を与えることが無かったことを指摘。

イスラーム文明のもつ文化的な受容能力と伝達能力を考えると、その存在がヨーロッパと東アジアのあいだに障壁をつくっていたとは考えられません。それよりも中国やインドの文明が、そうした距離を乗りこえてまでヨーロッパに影響をおよぼすだけの力がなかったというほうが事実に近いのでしょう。結局のところ、交流がさほどむすかしくなかった紀元前のヘレニズム時代でさえ、中国やインドの文明がヨーロッパに大きな影響をおよぼすことはほとんどなかったのです。

そしてルネサンスというヨーロッパ文明の自己革新について、少なくともその初期・中期においては中世との断絶との見方に強く釘を刺し、以下のように記す。

ルネサンスについて語る場合、この用語を使える文脈には限界があることをよく認識しておいたほうがよいでしょう。もしもルネサンスを、中世のキリスト教文明と一線を画す新しい伝統という意味で使ってしまうと、それは歴史をゆがめる行為となります。ルネサンスは有効な神話でしたし、現在でも有効な神話です。人間が自己を正しく認識し、行動するうえで非常に有効な考え方のひとつです。しかし、いかなる形であれヨーロッパの歴史において、ルネサンスと中世のあいだに線を引くことはできません。

なお、中世末から近世にかけての技術の中で、「たったひとつの技術上の革新がこれほど大きな変化をもたらした例は、人類の長い歴史のなかでも印刷術のほかにはなかったといえるでしょう。」と述べ、その意義を強調している(長期的に見て、以後の情報技術の発達が全てそうであるように、その弊害も桁違いだと私には思えるが)。

こうして中世を潜り抜け、近世に達したヨーロッパ文明の力量の総括。

逆境にくじけずに耐え、過去の文明の残骸や異民族から伝わった文化を集めてキリスト教世界を築いたヨーロッパ人は、知らぬまに巨大な文明の基盤を構築することに成功していました。しかし、それがさらなる発展をとげるためには、まだまだ時間が必要でした。一五〇〇年の時点では、未来がヨーロッパ人のものになるという兆候はほとんど見えていませんでした。ほかの民族の文明に対して、ヨーロッパの文明があきらかに優位にあるという証拠はどこにも存在しなかったからです。たとえば先陣を切って海外へ進出したポルトガル人は、西アフリカで現地の住民から砂金や奴隷を略奪していましたが、その一方ではペルシアやインドで遭遇した大帝国に圧倒されていたのです。

16世紀時点では、サハラ以南のアフリカと新大陸アメリカの先住民文明に対しては圧倒的優位に立てたヨーロッパ文明だが、アジアの諸帝国に対しては正面から戦えるような状態ですらない。

それが可能になるのは、19世紀、産業革命以後である。

日本を考えても、16・17世紀に帆船で来た「南蛮人」は簡単に追い払い、鎖国できたが、19世紀に「黒船」という蒸気船で来た欧米人に対しては開国せざるを得なかった。

最後にキリスト教思想の影響について。

この時代を理解するためには、それほどまでに変化にとぼしかった巨大な時の流れをよく認識しておく必要があります。おそらくそうしたヨーロッパの中世社会と、その奥深くに埋もれていた近代社会との関係を解く鍵は、キリスト教が本質的にもっている二元論のなかに見いだすことができるのでしょう。つまり魂とその牢獄である肉体、苦難に満ちた現世と幸福な来世、汚れた地上の国と輝ける天上の国という対立です。この二元論はやがて宗教的な思想を離れ、過去から進歩した現在、現在から進歩した未来という歴史観を生み、無限の進歩をめざすヨーロッパ文明の大きな武器となっていくのです。

このくらいの話になると、私の頭ではもう理解できないし、その是非も判断できない。

 

半分終わりました。

以後も続けます。

2017年1月16日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 4 ビザンツ帝国とイスラーム文明』 (創元社)

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本巻の監修者あとがきを書いた、後藤明氏によると、本巻原書の表題の直訳は「伝統の分岐」だと言う。

古代オリエントに始まる「文明の伝統」がギリシア・ローマに繋がり、ローマ帝国滅亡後、その流れがイスラム・ビザンツ・西欧の三つに分岐したと著者は捉えている。

また本書の中の一章は「対立する文明」と題されている。

これまでの巻で叙述されたように、前3000年に文明が誕生し、前500年頃までに各地で独自の主要文明が成立、それが変容・分岐を経つつ、1500年前後のヨーロッパの世界進出開始まで、均衡・並立状態を続ける。

その紀元前500年~1500年までの二千年間、諸文明は様々な接触・交流を持ちつつも、基本的にはその独自性を守ることになった。

しかし、時には文明同士が衝突し、大きな影響を与え合うこともあった。

その大きな要因は、著者によれば、二つある。

遊牧民族の活動、およびイスラム文明の膨張である。

先史時代から存在した地域ごとの文化の違いも、しだいに大きくなっていました。ユーラシア大陸とアフリカ大陸では、紀元前三〇〇~二〇〇年ごろからさまざまな地域に文明が生まれ、それぞれ独自の発展をとげていたのです。各文明のあいだには、ときにひかえめな接触はありましたが、基本的にそれは貿易商や学者、外交官、伝道師など、個人の力に頼った交流にすぎませんでした。そうした接触だけでは、もちろん文明全体に影響をあたえるのは難しかったことでしょう。

世界に点在するそのような文明は、様式や細かな点では多くの違いをもっていましたが、その一方、基本的な部分ではかなり似通っていたということもできます。たとえばごく最近まで、すべての文明は農業によって支えられていましたし、利用できるエネルギーも人間や動物の力のほかは、風力や水力に頼るしかなかったのです。また、どの文明も長いあいだ、ほかの文明に対して決定的に優位に立てるほどの強みをもつことはできませんでした。特定の文明が遠く離れた別の文明を完全に圧倒するようになるのは、ずっと先の時代の話なのです。

多くの場合、文明と文明が大きな影響をおよぼしあうのは、民族の移動によって異なった民族どうしが直接接触するようになったときや、遊牧民族が定住型社会へ侵入したときなどに限られていました。そして、最初は衝突をくり返し、やがて共存するようになっていったのです。そうした文明どうしの接触が人類の歴史に大きな進歩をもたらしてきたことは、これまですでにお話ししてきた第三巻までの物語のなかでも見てきたとおりです。

けれどもその一方で、異民族の侵入が文明に破滅をもたらしたり、悪影響をおよぼすケースがあったことも事実です。その代表的な例として、中央アジアから中東や東欧に何度も侵入し、多くの破壊を行なったモンゴル人の影響をあげることができます。

逆に異民族の侵入が、息の長い建設的な結果を生みだしたケースもあります。アジアの奥地から小アジアに進出し、やがてビザンツ帝国を滅亡させて一大帝国を築いたトルコ民族がそのよい例といえるでしょう。

そうしたさまざまな文明の衝突のなかでも、この第四巻でとりあげるイスラーム文明をめぐる衝突こそは、世界の歴史のなかでも、もっとも重要な文明の衝突のひとつだといえます。

その結果、スペインからインドネシア、また北アフリカから中国にいたる広大な地域の民族が影響を受けることになります。しかしその一方でこの衝突は、異なった文明の相互作用が豊かな文化を醸成することを示す、大きな例にもなったのです。

再び、監修者の後藤氏によれば、遊牧民族とイスラム文明に関する本書の叙述には、(特に前者についての)日本の学界を含む最新の研究成果が反映されているとは言えず、著者の力量は十分認めつつも、監修者としてやや不満が残る、という感じだそうです。

しかし、イスラムのことは後で述べるとして、本書での遊牧民族についての記述に大きな「偏見」を感じることは、個人的には無かった。

そもそも私は、司馬遼太郎氏を始めとして、杉山正明氏などの、モンゴルを含めた遊牧騎馬民族に対して、何かロマンティックな思い入れをする人の気持ちが全然わからない。

もちろん、世界史上で、農耕民は粛々と生産と建設に従事する「文明人」だが、遊牧民は略奪を生業にして定住社会に常に侵略者として現れる「野蛮人」だ、なんてとんでもない偏見が今通用するはずもない。

昔、司馬遼太郎氏が、遊牧民族を農耕社会への一方的侵入者として描くのは間違っている、農耕民による草原の農地化こそ、遊牧民にとっては自らの死活問題になる「侵略」だ、と喝破したことに対して、深く得心したことがあります。

ですから遊牧民族の活動を頭から有害視するのは間違いでしょう。

しかし、「モンゴルによる世界制覇のおかげで安全が保障され、ユーラシアの交易が一大盛況を迎えた、モンゴルによる破壊行為を強調するのは誇張に基づく偏見だ」というような、最近よく聞く見解には、どうしても眉に唾を付けて聞いてしまう。

そんなふうに思えるのは、我々の祖先が曲がりなりにも元寇を撃退できたからでしょう。

もしユーラシア大陸の他地域のように、あの時点で日本がモンゴルの支配下に入っていたことを想像すると、全くゾッとする。

現在の遊牧民に対して偏見を煽ったりすることは決してあってはならないし、今のモンゴル国民がチンギス・ハンを英雄視する自由はもちろんあると思うが、歴史上遊牧騎馬民族の活動が文明に対してしばしば破壊的作用をもたらした、とする評価自体は暴論とは思えない。

その遊牧民について本書の記述。

ここで少し遊牧民についてご説明しておきましょう。遊牧民の歴史は、その全容を知ることも個々の事実を知ることもともに難しいのですが、そのなかでひとつだけあきらかな事実があります。それは中央アジアの遊牧民が一五〇〇年もの長期にわたって、世界の歴史を大きく動かす要因でありつづけたということです。彼らは何度も世界を大混乱におとしいれ、その結果、西方でのゲルマン民族の大移動や、東アジアにおける中国王朝の交代といった巨大な歴史的変化をひき起こすことになりました。

遊牧民について語る場合には、まず地理的な話から始めたほうがよいでしょう。

遊牧民誕生の地とされる「中央アジア」という地名は、実はあまりよい名称とはいえず、「内陸アジア」とよんだほうがその実情をよくあらわしています。というのも「海岸線から遠く離れている」ことこそが、この地域を規定するもっとも重要な要素だからです。

海岸から遠く離れた内陸部だからこそ、特有の乾燥した気候が生まれ、近代にいたるまでその土地で暮らす人びとが、外部からの政治的な圧力にさらされることもほとんどありませんでした。その一方、仏教やキリスト教、イスラームなどがこの地域にも伝わっていることから、外部からの文化的な影響には開放的な地域だったこともわかっています。

・・・・・・

モンゴル人の歴史を年代や領土によって区分するのはあまり意味がありません。この遊牧民族は驚くほど短期間に、中国、インド、中東、ヨーロッパへと勢力を拡大し、世界中に大きな爪跡をのこしたからです。また、ゲル(移動型家屋)に張られたフェルト製の天幕のほかには、特筆すべき文化ものこしていません。巨大な嵐のように荒れ狂い、地球上のほとんどの文明に脅威をあたえ、人類の歴史のなかで二〇世紀だけが匹敵しうる大規模な殺戮と破壊をひき起こしたあと、彼らは現れたときと同じように、短期間で消え去ってしまったのです。こうしてモンゴル人は、もっとも恐ろしい最後の遊牧民征服者として、長く記憶されることになりました。

そして、諸文明の衝突・変容のもう一つの主因となったイスラム文明の誕生と拡大について。

この時代の征服は、イスラームが世界にあたえた衝撃の始まりにすぎませんでした。イスラーム勢力圏の広がりと多様性は、その後、人類の歴史のなかでも特筆すべきものとなります。

世界中のあらゆる地域でイスラーム化が避けて通れないように思われた時期さえありました(実際はそうなりませんでしたが)。

そしてこの偉大な文明の伝統は、その後もまた、新たなる征服のうえに築かれていくことになったのです。

世界の三大宗教の中で最後に登場したこの宗教は確かに、その拡大の速度と広がりは正に爆発的と言ってよいほどだし、一度改宗した地域での持続性も圧倒的なものがある。

(一度政治的支配下に入ったものの、その後イスラム化が後退した地域と見られるイベリア半島やバルカン、インドなどは多数派住民が改宗したとは言えないでしょうし、インドではパキスタン・バングラデシュ地域は今も完全にイスラム圏として残っている。)

しかし、宗教的・文明的には強靭性を持ち、社会にしっかりと根付いたイスラム文明だが、その基礎の上に立つ王朝という政治構造は脆弱であるという面も持っていた。

(このブログでも以前イスラム王朝の短命性について書きましたが、本書でもそれに近い記述があって、自分の感想もそれほど的外れでもないかと思えました。)

こうしてイスラーム文明が繁栄を謳歌していたとき、その政治体制はすでに衰えを見せ始めていました(崩壊が始まっていたといってもいいでしょう)。カリフ政権の要職に、しだいに非アラブ人の改宗者がつくようになったこともその原因のひとつでした。そしてアッバース朝は最初は帝国周辺の州で支配力を失い、それから帝国の中心だったイラク(メソポタミア)で支配力を失いました。

七世紀の中ごろ世界の歴史に突如登場したアラブ帝国は、こうしてきわめて早い時点でピークをむかえ、八世紀の末にはすでに衰退にむかい始めたのです。

・・・・・・

アッバース朝は、九四六年にペルシア人の将軍であるブワイフ家のアフマドがカリフを廃し、新しいカリフを擁立したときに実権を失ってしまいました。形式的には王朝は存続していましたが、実質的にはブワイフ家がときのカリフから「大アミール」に任命されて新しい政権を樹立した段階で、アッバース朝は滅亡したといってよいでしょう。こうしてアラブ・イスラーム世界は分裂し、約三〇〇年にわたって維持された中東地方の統一も、ふたたび崩壊することになりました。

・・・・・・

イスラーム国家の特徴として、宗教的な権威と政治的な権力が分離した状態は、長くつづかないということがあります。だからこそシーア派の軍事政権であるブワイフ朝も、スンナ派アッバース朝のカリフから「大アミール」の称号を受ける必要があったのです。

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こうしたイスラームによる「社会革命」は、もちろん宗教を中心として行なわれたものでした。しかしイスラームはユダヤ教のように生活から切り離された宗教ではなく、生活のあらゆる側面をつつみこむ教えだったのです。イスラームにはキリスト教では当然と見なされている聖と俗の区別や、精神世界と現実世界の区別を表現する言葉がありません。イスラーム教徒にとって宗教とは、社会そのものだったからです。だからこそその教えは、さまざまな政権が乱立する時代を超えて生きのびていったのでしょう。イスラームは「奇跡」を重視する宗教ではなく(いくつか奇跡的事件を伝える伝承はありますが)、人びとの暮らしにたしかな生活の規範をもたらしてくれる現実的な教えだったのです。

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こうして、ごく少数のアラブ人の信仰から始まったイスラーム勢力の拡大は、世界の歴史に驚くべき結果をもたらすことになりました。しかし、その偉大なる歴史にもかかわらず、アラブ国家は一〇世紀以降、イスラーム世界の統一を実現することはできませんでした。アラブ人が悲願とするアラブ世界の統一でさえ、現在はまだ夢でしかないのです。

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すでにお話ししたとおり、ビザンツ帝国は中東に侵入したさまざまな民族の標的となりましたが、それをなんとか乗りこえ、宿敵であるアラブのアッバース朝より長く生きのびることになりました。アッバース朝もまた、異民族からの攻撃を受け、衰退と分裂の道をたどり始めていたのです。

こうして一〇世紀以降の中東は混乱の時代に突入していくわけですが、その時代のアッバース朝に何が起きたかを簡単に説明するのはとうてい無理な話です。ひとついえるとすれば、たしかに商業が栄え、支配者階級に属さない裕福な人びとが出現するようになりましたが、その結果としてもたらされるべき持続的な経済成長は起こりませんでした。その根本的理由は、気まぐれなアッバース朝政府の方針とその搾取にあったといえるでしょう。

しかし、支配者や侵略者が現れては消えていったにもかかわらず、結局のところイスラーム社会の土台が揺らぐことはありませんでした。その結果、地中海東岸からヒンドゥークシュ山脈にいたる広大な地域が、歴史上はじめてイスラームというひとつの文化圏にのみこまれ、その文化は長く引きつがれていくことになったのです。この地域でキリスト教文化が大きな勢力をたもっていたのは一一世紀までで、その後は小アジアのタウルス山脈の西側に封じこめられてしまいました。それ以降、中東ではイスラーム勢力から存在を許された小さなキリスト教徒の社会だけが、かろうじて生きのこることになったのです。

イスラームが社会や文化に深く根をおろし、安定した制度を生みだしたことは、世界史的に見ても非常に重要な事件でした。カリフの権威の衰退期には、形式的にはカリフを主権者としながらも、半独立の王朝が実権を握るようになっていきます。しかし、イスラームがもつ強力な秩序は、これらの半独立王朝がかかえていた弱み(おもに政治や行政面での)を補ってあまりあるものだったのです。一〇世紀以降のそうした王朝については、あまりくわしくとりあげる必要はないでしょう。ただしそれらの諸王朝が、時代の転換点を象徴する存在だったことはたしかです。

引用末尾の諸王朝のうちで注目すべきものを、本書の記述の中から挙げると、まず、十字軍とモンゴルという二つの脅威を撃退し、イスラム世界の中心を一時エジプトに移す偉業を成し遂げたマムルーク朝。

次に、キリスト教文化圏に脅威を与え、その輪郭形成を促し、ヨーロッパの東西を分かちつつ、バルカンでのキリスト教徒を比較的寛容に扱ったことによってビザンツ帝国の遺産をスラヴ人が受け継ぐことを可能にしたオスマン朝。

そして、シーア派を国教とすることで、中東地域でのセム系アラブ人の大海の中で、印欧語族系ペルシアの独自性を、民族・言語だけでなく宗教においても守ることになったサファヴィー朝。

宗教自体の爆発的膨張にも関わらず、政治的統一は正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝の三代を合わせても約300年弱しか続かず、遥か後年、トルコ系遊牧民の力を借りて、オスマン朝による中東地域統一はほぼ達成されたものの、それにもシーア派のサファヴィー朝ペルシアという重大な例外が存在していた。

これらの王朝に比して、モンゴルによる征服活動の余喘とも言えるティムール朝への著者の評価は低く、ネストリウス派とヤコブ派というアジアのキリスト教徒をほぼ絶滅させたことと、オスマン朝を破ることによって、ビザンツ帝国の滅亡を半世紀ほど遅らせたことだけだ、としている。

そして、イスラム文明の知的側面について。

著者はもちろんその全般的レベルの高さを認めている。

各地のモスクや宗教指導者を育成する学院で、高度な学術研究も行なわれていたようですが、それらはすべて宗教と密接な関係をもっていたため、その評価は非常に難しくなります。当時のイスラーム文明が客観的にどのようなレベルに達していたかについては、はっきりとしたことはいえません。ただ八世紀以降、好奇心にあふれた、自己に対する批判的な視点をもつ文化の種がイスラーム世界にまかれたことは事実です。

だが、本書では以上の文章に続けて、以下の一文をさりげなく記している。

その種が大きな花を咲かせることは、あるいはなかったのかもしれませんが。

これもイスラム教へのありきたりな「偏見」と片付けることはできない気がする。

イスラム文明の大拡張と(西)ヨーロッパ文明の成長の陰で、もう一つの「分岐した伝統」であるビザンツ文明は、政治的には衰退の一途をたどる。

だが、その衰亡の過程である民族集団が後継者として姿を現わしてくる。

こうしてビザンツ帝国は約一〇〇〇年の歴史に幕を閉じようとしていたわけですが、その遺産の大半は将来にむけて、すでに別の場所に「保存」されていました(ビザンツ帝国の人びとが誇りを感じられる形ではなかったかもしれませんが)。正教会がスラヴ人のあいだに根をおろす過程で、ビザンツ文明の遺産は彼らのなかに確実に受けつがれていたのです。この事実は現在にいたるまでのヨーロッパの歴史を、大きく左右することになりました。現在のロシアをはじめとするスラヴ系国家は、そもそもスラヴ人がキリスト教に改宗していなければ、今日ヨーロッパの一部と見なされることもなかったでしょう。

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初期のスラヴ芸術を見ると、スラヴ人が異民族の文化や技術を進んで吸収した人びとだったことがわかります。しかもスラヴ人は、その文化や技術を教えてくれた人びとが滅んだあとも生きのびていく、強い生存能力に恵まれていました。

そうした点を考えると、七世紀にスラヴ人と強大なイスラーム勢力の交流が、そのあいだにいたハザール族とブルガール族によってはばまれていたことは、世界の歴史において決定的に重要だったといえるでしょう。

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歴史的に見れば、このころロシアの歴史は決定的な分岐点にさしかかっていたといえるでしょう。いまだに北欧のヴァイキングの神々を信奉するロシアは、東方の正教会と西方のカトリック教会のはざまで、とちらについてもおかしくない状態にあったからです(イスラームはこの重大な時期に、ユダヤ教国家のハザールによって勢いをそがれていました)。

同じスラヴ人が建国したポーランドは、すでにカトリックを国教としていました。また、ドイツのカトリック教会も東方への布教を行ない、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。すでに分裂があきらかになっていた東西いずれのキリスト教会にとっても、ロシアはのどから手がでるほど手に入れたい存在だったのです。

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ビザンツ帝国やスラヴのキリスト教国は、文化的に分断されていたため、ヨーロッパの西部まで影響をおよぼすことはほとんどありませんでした。ただしこの両者は、ヨーロッパの西部が遊牧民やイスラームからの影響を受けずにすむ緩衝地帯の役割をはたしたといえるでしょう。もしもこのころロシアがイスラーム化されていたら、ヨーロッパの歴史はおそらく大きく変わっていたにちがいありません。

著者は、「ロシアのカトリック化」、あるいはもっと極端なケースである「ロシアのイスラム化」の可能性を示唆し、読者の想像力をかき立てる。

結局、キエフ公国のウラジーミル大公がギリシア正教に改宗、後にロシアは東方キリスト教会の最重要構成国家となる。

ハザールと共にイスラムとの接触からロシアを遮断したブルガール人もスラヴ化して正教会に改宗。

一方、上述の通り、スラヴ人の中で、ロシアと並んで早期に国家を形成する能力を持っていたもう一つの重要民族ポーランド人は西方カトリック教会に改宗。

ただし、ポーランドはこのことによって、東方に向かっては正教会に対するカトリックの前線基地、西方に向かってはドイツ人の植民に対するスラヴ民族の防波堤という二つの過剰な負担を背負うことになり、歴史上しばしば大きな悲劇に見舞われることになってしまった。

そして著者は、ポーランドだけでなく、スラヴ民族全体に付きまとう、「西方のラテン系・ゲルマン系諸民族に対する後進性と、東方のアジア系遊牧民に対する脆弱性」という二つの要因がもたらす「不幸な民族」という漠然としたイメージを肯定するかのように、以下の文章を記す。

思えばスラヴ人のなかで最大勢力となったキエフ公国にしても、その能力に見あうだけの発展をとげたとはいえません。

一一世紀以降の内紛と分裂によって国力をそがれ、その後はクマン人(ポロベッツ人)の攻撃に苦しめられることになったからです。さらにキエフ公国は一二〇〇年までに黒海の交易ルートの支配権を失い、北方に後退して、やがてロシアの歴史の中心はモスクワ大公国へと移っていくことになります。

そして、大きな苦難の時代がスラヴ人を待ちうけていました。ヨーロッパのスラヴ世界に、かつてない巨大な悲劇が襲いかかろうとしていたのです。同じころ、すでにお話ししたように、ビザンツ帝国にも悲劇がおとずれていました。一二〇四年に十字軍兵士がコンスタンティノープルを攻略し、正教を奉じてきた世界帝国が崩壊したのです。ところが、悲劇はそれだけでは終わりませんでした。それから三六年後には、同じく正教を奉じるキエフ大公国もまた、恐るべきモンゴル人の襲撃を受けることになったのです。

初期の西ヨーロッパ世界も外部から深刻な脅威を受けた脆弱な文明に過ぎなかった。

西ローマ帝国の滅亡後、西ヨーロッパはビザンツ帝国やイスラーム諸国の勢力圏にくらべて、すっかり後進地域になってしまいました。その勢力圏もすぐに、かつての西方キリスト教世界より、はるかに狭められたものとなります。

当時、西ヨーロッパに住むキリスト教徒は、自分たちが「敵の真っただ中にとりのこされた」と感じていたようですが、事実そのとおりだったといえるでしょう。中東やアジアへつづく道はイスラーム勢力によって分断され、南部の地中海沿岸もアラブ人の攻撃によって防戦一方となっていました。八世紀以降は、ヴァイキングとよばれるスカンディナヴィア人の襲撃に悩まされ、さらに九世紀になると、東部の境界が異教徒のマジャール人に脅かされるようになりました。このように初期のヨーロッパ世界は、さまざまな異民族の敵意にとりかこまれるかたちで形成されていったのです。

ローマ滅亡後のヨーロッパ世界については、ゲルマン民族の侵入だけでなく、その後もイスラム、ノルマン(ヴァイキング)、マジャールという数波の侵入があったことを常に意識する必要がある。

中世封建社会はゲルマン侵入直後ではなく、むしろその後の侵入者への自衛の為に、ゲルマン系の支配層が形成したもの、というイメージを持った方がよい。

11世紀の中世盛期までに起こった三つの変化を本書は指摘。

1.地中海地域からライン川とその支流流域への中心地帯の変化。

2.過去のローマ帝国の領域をも遥かに超えた、ヨーロッパ東部へのキリスト教の拡大。

3.マジャール、ヴァイキングの改宗を含む、異民族からの脅威減退。

そして著者は、当時の西ヨーロッパのキリスト教世界を三つに分類。

1.ライン川を中心とする仏独。

2.イタリア、南仏など地中海沿岸。

3.北部スペイン、イングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランド、スカンディナヴィア諸国など、西部から北部にかけての新しいキリスト教国。

考えればこの区分は常識的ではあるが、北スペインを新興キリスト教国ということで、英国と北欧グループに入れているのが、何か違和感がある。

もっとも、以後の叙述でこの区分を意識することはほとんど無いのだが。

ヨーロッパ世界がキリスト教を中心に形成されたことは言うまでもないし、結果として西欧のカトリック教会の歴史は「数ある宗教史のなかでもとびぬけて華々しい成功の歴史ではあります」と著者も述べているが、それでも外部の異民族、内部の異教的風習、配下の聖職者の無知・腐敗、世俗権力者の圧迫など、複雑で多くの困難に満ちたものだったとされている。

なお、本巻では、9世紀後半に一時的に教皇権を強化した教皇として、ニコラウス1世を挙げており、高校世界史レベルの有名教皇に加えて、この人名を記憶しておきますか。

その教皇と協調と対抗を繰り返した国王の地位について、国民国家の統治者と違い、中世の王は諸侯の中の第一人者に過ぎず、様々な制約を課せられ、その権力は限られたものだった、とよく世界史では教えられる。

「前近代の支配者なら、何ものにも制約されない専制君主だったはず」という偏見を一度頭の中から振り払うには、その事実も重要だが、だがそのイメージが行き過ぎることも間違いの元である。

とはいえ、抜け目のない王であれば、多少力が弱くとも、貴族からの圧力に容易に屈するわけはありませんでした。特定の貴族に離反されても、まだほかに多くの封臣をかかえていたのですから。賢明であれば一度にすべての封臣と対立するような愚かなことはしないでしょうし、そのうえ王の地位はやはり特別なものでした。即位時に聖職者から塗油を受けることによって、王権は神聖でカリスマ性を帯びたものとなっていたからです。華やかでかつ重厚なその儀式によって、王はあきらかに一般の人びとからは、かけ離れた強力な存在となっていました。中世の政治において、儀式というのは現代でいう条約の締結と同じような重大な意味をもっていたのです。それに加えて広大な領土を所有していたのですから、やはり王の権力はとびぬけて高いものだったにちがいありません。

君主政の伝統がどの国よりも深く根付いていた、と著者が指摘するイングランドが他のどの国よりも早く中央集権的国民国家への道を歩み始め、強大な王権が在ったがゆえにその制限に向かう道も開ける、という逆説が以後の歴史で生じることになる。

 

 

終わりです。

イスラム文明の誕生、およびそれとのビザンツ、ロシア、モンゴル、ヨーロッパの相互関係が主題であり、なかなか興味をそそる巻でした。

通読は全然余裕。

この先も、まず挫折しないでしょう。

2017年1月12日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 3 古代ローマとキリスト教』 (創元社)

Filed under: ローマ, 全集 — 万年初心者 @ 01:58

古代ローマ史の巻。

紀元前五世紀に最盛期をむかえた古代ギリシア文明の登場により、世界の歴史はひとつの曲がり角をむかえることになりました。その後、西洋世界の歴史は地中海地方を中心に展開し、ローマ帝国の出現をへて「ヨーロッパ世界」という概念が形成されていくことになるのです。

もともと地中海文明の発祥の地は、エーゲ海を中心とした東地中海であり、西地中海は東部にくらべると長いあいだ遅れた地域にとどまっていました。交易を得意としたフェニキア人やギリシア人が活発な商業活動や植民市建設を行なっていたものの、全体的に見れば依然として後進的な地域だったのです。

ところがイタリア半島に住んでいたごく小さな部族、ローマ人の活躍によって、やがて西地中海は世界史の表舞台に登場します。紀元前六世紀にはとなりのギリシア人にさえよく知られていなかったローマ人が、紀元前三世紀末にイタリア半島から東方へ進出を開始した時点で、歴史は新たな時代をむかえることになるのです。

つづく約二〇〇年のあいだにローマは「帝政」という独自の統治システムを確立し、ヘレニズム世界(ギリシア文明圏)のみならず、西ヨーロッパの大部分を含む巨大な統一帝国を樹立します。それはある意味でアレクサンドロス大王の後継国ともいえる巨大国家でしたが、結果としてアレクサンドロスをはるかにしのぐ範囲の領土を支配し、はるかに大きな足跡を世界史の上に刻むことになります。

なかでも注目すべきは、この帝国の中で発展したキリスト教が、のちに政治的な支配構造にとけこみ、ひとつの社会的システムとして機能するようになったことです。このことにより、はるかのちに誕生するヨーロッパ文明の基本的な性格が決定されたともいえるでしょう。現在のヨーロッパの大都市の多くは、その起源をローマ時代の植民市にもっています。またキリスト教の存在が、広大な地域をひとつのまとまりのあるものにしていることもたしかです。ローマ帝国は文化や制度といった直接的な遺産はもちろん、人類の歴史に「帝国」という巨大な成功例と、「ヨーロッパ世界」という新たな概念をもたらすことになったのです。

その帝国という統治システムの特徴について。

市民権の拡大を見れば、ローマがいかに寛容で受容能力にすぐれた帝国だったかがわかります。ローマ帝国もローマ文明も、その基盤には「コスモポリタニズム(世界市民主義)」の精神が存在しており、膨大な帝国行政の中には驚くほど多様な要素が含まれていました。それをひとつにまとめていたのは、ローマのエリート層や官僚たちの能力ではなく、地方の支配者層をとりこんでローマ化する独自の統治システムだったのです。

ローマが他民族に対してきわめて寛容であったことは、紀元一世紀以降は本国出身の元老院議員の数が減少しつづけていたことからもわかります。ローマ帝国は決して属州の異民族を排除せず、逆に彼らをとりこむことで広大な帝国の統一を維持していったのです。

そして、後世よく指弾される、全盛期のローマ社会の頽廃については、誇張するのも間違いなら、無視するのも間違いであり、世界史上例外的に史料で大衆の心理が分かっているために、その種のことが強調されてしまう側面はあるものの、競技場での剣闘士試合などは、やはり特異な残酷性を持つ見世物と言わざるを得ないとしている。

帝国が衰退期に入り、キリスト教化した時期について。

四世紀の一〇〇年間は、宣教師たちがエチオピアにまで到達した伝道の時代であり、キリスト教神学の飛躍的な発展の時代であり、キリスト教がローマ帝国唯一の「国教」となった時代でした。

しかし、いまふり返ってみると、この時代のキリスト教にはどこか不快な印象がつきまといます。信者たちが教会からあたえられた権威をふりかざし、異教徒たちを抑圧していたように思えるからです。ある異教徒が聖アンブロシウスに訴えています。「私たちは同じ星を見あげ、頭上には同じ空が広がり、同じ宇宙が私たちをとりかこんでいます。真実にたどりつく方法が人によってちがうからといって、いったい何が問題なのでしょうか?」

東西を問わずキリスト教会には熱狂的で妥協を許さない気風がありました。東西で違いがあるとすれば、東方教会では精神的権威と世俗的権威の融合が進み、キリスト教国となった帝国には無限に近い権威があると考えられるようになったのに対して、西方教会は国家も含めた世俗世界全体に対して嫌悪と疑念をいだいていたことです。

西方教会は信者たちに対して、罪深い異教の海にあって、自分たちは教会というノアの箱船にのっているのだと教えるようになりました。当時の教父たちを正当に評価するならば、あるいは彼らの不安や恐怖を理解したいのなら、この時期のローマ世界において、迷信や秘教が圧倒的な力をもっていたことを考慮する必要があるでしょう。

上述の通り、東西地中海世界は、聖俗両権の統一と分離を軸に分離しつつあり、ユスティニアヌス帝の再統一事業も空しく、東西分離と東方ビザンツ世界の成立に向かった。

西方キリスト教世界は、修道院制度と教皇制度という二つの武器によって、その存在を確立。

それに最も貢献した個人を一人挙げるならば、教皇グレゴリウス1世。

グレゴリウス一世はローマ帝国の遺産とキリスト教を組みあわせることで、自分でも気づかないうちに、ひとつの新しい世界を生みだそうとしていました。キリスト教は古典文明が生んだ遺産のひとつでしたが、いまや古典文化から分離して、はっきりと異なるものになろうとしていたのです。

グレゴリウス一世がギリシア語を話さなかったことはまさに象徴的といえるでしょう。彼自身、ギリシア語を話す必要性を認めていませんでした。教会と異民族の関係はすでに変化し始めていましたが、グレゴリウス一世の登場で、ようやく教会は地中海世界ではなく、「ヨーロッパ」に目をむけるようになったのです。

そこにはすでに未来の種がまかれていました。もっともそれは近い未来ではありません。世界の大半の人びとにとって、ヨーロッパはこのあと約一〇〇〇年間、ほとんど重要な意味をもたなかったのです。しかし、のちのヨーロッパからはかなりかけ離れたものであったにせよ、この時期に「ヨーロッパ世界」の基礎が築かれつつあったことはまちがいないのです。

新たに誕生しつつあったそのヨーロッパ世界は、過去とはあきらかに異なった世界でした。秩序のいきとどいた、教養のある、ゆったりとしたローマ時代の暮らしに代わって、戦士である貴族とその部族民たちからなるまとまりのない社会が出現していました。先住民と融合した社会もあれば、そうでない社会もありました。そして新しい社会の指導者たちは、もはやたんなる族長ではなく、王とよばれるようになります。彼らにしたがった人びとも、ローマ文明の遺産に二〇〇年近くふれたあとは、もはや蛮族ではありませんでした。五五〇年にはすでに、ゴート族の王が「蛮族」としては、はじめて硬貨に肖像を刻み、帝国のしるしで周囲を飾っています。すぐれた文化の遺物にふれて感銘を受け、ローマという国のあり方に影響され、そして何よりも教会の意図的な働きかけによって、かつて蛮族とよばれた人びとは文明化への道を歩み始めました。当時の彼らがのこした芸術の中に、その証拠をはっきりと見ることができます。

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この五世紀から七世紀にかけてのヨーロッパの歴史は、衰退にむかっていたと見なされることが多く、そうした見方にもじゅうぶんな根拠があります。異民族が支配するヨーロッパは、物質面では、二世紀のローマ帝国より確実に貧しくなっていました。今日、ヨーロッパのいたるところで、旅行者がローマの記念建築物に目を見はっているように、この時代の異民族もまた、ローマ帝国の壮麗な文化遺産に目を奪われていました。しかしそれでも、やがてこうした混乱の中から、ローマ文明よりもはるかに創造力に富む、のちのヨーロッパ文明がはっきりとした姿を現すことになるのです。

このシリーズの訳書では、末尾に監修者を務める著名な日本人歴史家によるあとがきが載っているが、「とびきり上等な世界史シリーズ」と題された、本巻の本村凌二氏のものが面白いので、途中まで引用。

若かりしころ、私もご多分にもれず深遠な思想や哲学の本を読んだものである。といっても、やはりご多分にもれず、それらのほとんどを理解できず、おのれの能力のなさと頭の悪さを嘆いたものだった。しかし、時がたってみると、それらの思想や哲学をを理解するには、ある種の才知やひらめきが必要であることが感知できるようになった気がする。もともと愚者には思想や哲学の極みに達することなどできないことなのだ。

そのかわりに、過去の出来事をつづった歴史書なら、年を重ねるにつれ理解度が増してくるのがわかる。歴史書を読む場合には、才知やひらめきよりも、経験と蓄積がものをいうのだ。だから、みずからを賢者と思われる御仁ならともかく、愚者と自覚される方々には、歴史の本がなによりもお薦めなのである。このことは、私が歴史家であるから述べるのではなく、ある文芸評論家も指摘しているところである(小谷野敦『バカのための読書術』ちくま新書)。

歴史家としてなら、さらにもうひとことつけ加えておきたい。いかなる歴史書がいいかと問われれば、まずもって世界史の本をひもとくことをお薦めしておく。昨今、しばしば学力の低下や教養の衰退について耳にするが、教養の核になるのはなによりも人類の経験であることを忘れるべきではないだろう。それには歴史に学ぶことであり、とりわけ世界史を学ぶことではないだろうか。人文社会系の知の基本は広く事実にもとづいているべきであり、それこそが知識の教養の素地であるはずだ。そのような経験と事実といえども、文字として記録されるようになっただけでも五〇〇〇年以上の年月が流れ、人類の蓄積は膨大なものになった。一次史料は、楔形文字、ヒエログリフ、アルファベットなどのさまざまな文字で表記され、アッシリア語、ヘブライ語、ギリシア語などの多種多様な言語で書かれている。それらのすべてに通じることはもはや一個人の力では如何ともしがたいものになっている。

したがって、ひとりの手で世界史を書くとなると、書き手はよほどの賢者か愚者ということになる。小著といえどもかつてひとりの手で世界史を書いたことのある私は、どうみても前者ではないので、きっと後者にちがいないと語ったことがある。しかし、どうやら前者の書き手もいないわけではないという例に気づかされることもある。まさしく本書はその好例であり、かくして読者は必要不可欠な教養の素地を磨く機会にめぐりあえたことになる。

ほぼローマ史というテーマに集中している巻だが、1、2巻に比べると、心に引っ掛かる部分は少ない。

しかし、悪いというほどでもないです。

2017年1月6日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 2 古代ギリシアとアジアの文明』 (創元社)

Filed under: アジア, ギリシア, 全集 — 万年初心者 @ 05:52

古代ギリシアと中国、インドの巻。

まず、古代における最先進地帯であるオリエントからの、インド・中国両地域の「孤立」という、普段我々が意識しない観点を提示。

人類がはじめて手にした文明は、紀元前三〇〇〇年までに成立した古代オリエント文明でした。メソポタミアやエジプトなど、各地で誕生した古代文明は、その後、相互の接触が始まるにつれ、いい意味でも悪い意味でもたがいに影響をおよぼしあうようになっていきました。地域ごとの文化的なへだたりは依然として大きなものでしたが、オリエント世界全体を横断するような文化的伝統もまた、生まれ始めていたのです。

一方、オリエントの文明とはほとんど無関係に独自の文明を成立させた地域もありました。その代表的な存在がインドと中国です。

メソポタミアやエジプトなどオリエントの先進地域と、インド、中国のあいだに横たわる物理的な距離、そして地形的な特徴を考えると、両者のあいだにあまり交流がなかったことは当然といえるでしょう。しかしインドや中国がもつそのような「孤立した環境」は、その後の世界の歴史を見るうえで非常に重要な意味をもっています。このふたつの文明はオリエントの文明とはちがって、以後何千年にもわたって外部から影響を受けることなく、独自の文化的伝統をたもちつづけていくことになるからです。

インドや中国の文明にとって、ほかの文明との接触はごくたまにしか起こらず、それも周辺部に限定されたものでした。その結果、のちに外の世界との接触が本格的に始まったときには、外部からの影響に押しつぶされないだけの文化的伝統がすでに確立されていたのです。考えてみてください。それから長い時をへた今世紀になっても、カースト制度はまだインドの社会を支配していますし、儒教もまた、依然として中国や韓国の知識階級に大きな影響をあたえているのです。

インド文明と中国文明の文化的影響は天然の境界を越え、のちには国家の壁も越えて大きな広がりを見せることになります。

このふたつの文明は現在でも大きな影響を社会にあたえているという点で、ほかの古代文明とは、はっきりした違いをもっています。

そして世界の歴史という観点から見ても、インド文明と中国文明が人類にもたらした影響は、はかりしれないほど大きなものなのです。

「孤立した」文明の中でも、(南北アメリカ大陸やアフリカとは異なり)インドと中国の強靭性・重要性は確かにずば抜けている。

・・・・古代インド文明の初期の歴史が闇につつまれているからといって、その社会制度や宗教が、どんな偉大な文明のものよりも長く行きつづけたという事実が消えるわけではありません。驚くほど包括的な世界観、個人の人権を無視した制度、過酷なまでの死生観、単純に物事の善悪を判断しないという基本姿勢などが、その後のインド文明の性格を決定していくことになります。遠く離れたキリスト教社会などでは、こうしたインド思想に異質なものを感じる人びとが多いようです。けれどもインドの思想と文明が、キリストが誕生する一〇〇〇年も前に形成され、しかも現在にいたるまで行きつづけているという事実を、私たちは忘れてはならないでしょう。

・・・・・・

中国の歴史を考えるとき、何よりも驚かされるのはその長さと継続性です。中国には現在まで、およそ三〇〇〇~四〇〇〇年にわたって「漢民族」による国家が存続し、秦の始皇帝による中国統一から数えても、すでに二二〇〇年がたっています。もちろんそれ以降、分裂したり異民族に支配された時代はありましたが、とにかく中国では、ひとつの民族が同じ国土のうえに数千年もの期間、高度な文明を維持しつづけ、現在にいたっているのです。これは世界史を見わたしてみても、きわめて稀なことだといわざるをえません。わずかに、はるか昔に滅亡した古代エジプト文明が、その長さで肩を並べることができるくらいなのです。

・・・・・・

中国文明の特色は、それが文化的であると共にきわめて政治的でもあるという点にあります。前の章で見た古代インド文明は、文化が政治よりどれだけ重要なものとなりえるかを示すよい例だといえるでしょう。一方、中国文明においては、文化の重要性が別の形で示されています。つまり中国では、文化の力がすなわち政治的な力となり、そのことによって広大な国土の統一が維持されつづけたということです。くわしい経緯はよくわかっていませんが、とにかく中国文明はごく早い時期に、統一国家を運営するための制度と文化をワンセット、みごとにつくりあげたのです。そのいくつかは現在も確実に存続しています。世界史的スケールから見れば、二〇世紀の共産主義革命をへて成立した現在の政権も、それ以前の王朝とそれほど本質的な差はないとすらいえるのです。

東部を大洋、西部を砂漠、西南部を山脈に仕切られた中国の地形的孤立が、その伝統を育んだ。

アフリカ、アメリカ、ヨーロッパなど、他の「孤立した」地域では、ほとんどすべての民族が発展に遅れを取った。

だが、ほぼ唯一の例外として、ヨーロッパのある一民族だけが異様なまでの発展と拡大を遂げることになる。

そのような古代ヨーロッパの民族の中で、注目すべき民族がひとつだけあります。彼らは先にふれた「オリーブ栽培線」の南側である中部イタリアに定住し、早くも紀元前八世紀にはイタリア南部のギリシア人やフェニキア人の植民市と交易を行なっていました。そしてそれから二〇〇年のあいだに、ギリシア文字を使って自分たちの言語を書き記し、イタリア半島に数多くの都市国家を建設して、すぐれた芸術作品を生みだすようになるのです。彼らエトルリア人とよばれる民族が参加して築いた都市国家のひとつは、やがてローマという名で知られることになります。

ローマの発展は次巻でのテーマとなる。

なお、1巻に続くオリエント史の時代変化を以下のように概括。

このようにいちだんと複雑になっていく世界の歴史を、年代別にきれいに区切ることなど、とてもできる話ではありません。大まかにまとめてしまうと、インド・ヨーロッパ語族の移動や鉄の時代の到来、文字の伝播といった複数の要因によってオリエントのさまざまな文化が完全に混じりあったのは、ヨーロッパ文明の母体となる地中海文明が登場するかなり前のことでした。

あえていうなら、オリエント地方の文明が重要な一線を越えたのは、紀元前一千年紀のはじめあたりということになるでしょう。そのころには古代オリエント地方全体を揺さぶった民族の大移動という「大事件」はすでに終わっており、ジブラルタル海峡からインダス川へといたる広大な地域に文明が受けつがれていたのです。そして紀元前一千年紀の半ばにペルシアという新しい勢力が台頭し、エジプトやバビロニア、アッシリアの伝統が衰退したことで、新しい時代にむけた歴史的枠組みが整えられていくことになるのです。

ものすごく大雑把に言えば、前3000年辺りで文明成立、前1500年前後に印欧語族などの民族大移動、前500年前辺りでペルシア帝国による統一というのがオリエント史の流れ。

アジアとヨーロッパがたがいにあたえあった文化的影響について話すのは、まだ時代が早すぎるかもしれません。それでもこのふたつの地域が、すでにこの時代にたがいに影響をおよぼしあっていたことは、実例をあげて説明することができます。それはまた、古代世界の終わりをはっきりとつげる出来事でもありました。

こうして私たちがたどりつつあるこの長い歴史物語も、さらに新しい時代に入っていくことになります。旧世界のいたるところで、ペルシア帝国はさまざまな民族を共通体験で結びつけていきました。インド人、メディア人、バビロニア人、リディア人、ギリシア人、ユダヤ人、フェニキア人、エジプト人など、さまざまな民族がはじめてひとつの帝国の統治下におかれ、ひとつの文明を共有したのです。ペルシア帝国が採用した「折衷主義」は、人類の文明がどれだけ成熟した段階に達したのかを教えてくれます。オリエントではこれ以降、個別の文明の歴史をたどる意味はなくなります。多くのものが共有され、あまりにも融合が進んだ結果、もはや個々の文明の系譜を見分けることができなくなるからです。

このように、著者は、ペルシア帝国を単なるオリエント史の単線的発展上に捉えるのではなく、オリエント文明そのものの誕生とイスラム教成立の間における最も重要な転機と考えているようだ。

そして本書の叙述は、いよいよギリシア文明へと入る。

歴史の世界では、古代ギリシア文明が最盛期をむかえた紀元前五世紀から紀元前四世紀の末近くまでを「古典期」とよびます。年数だけでいえばこの時代までに、人類の「文明に関する物語」は半分以上終わった計算になります。紀元前五世紀に生きていた人びとから見ると、現代人である私たちのほうが、はじめてメソポタミアで文明を築いた人びとよりも時間的には近くにいることになるからです。

最古の文明が生まれてからこの「古典期」までには、約三〇〇〇年もの時間のへだたりがありました。人びとの日々の暮らしはゆっくりとしか変化しませんでしたが、大きな視点から見れば、このあいだに人類は着実に進歩を重ねていきました。前の章でもご説明したとおり、人類最古の文明であるシュメール文明とアケメネス朝ペルシアのあいだには、統治の方法や文化の融合状況など、質のうえで大きな差が存在しています。

きわめて大胆にいってしまえば、この紀元前五世紀ごろを境にして、人類が文明の基礎を築いた時代はほぼ終わりをつげたといってよいでしょう。そのころにはすでに地中海沿岸から中国までの広大な地域に、さまざまな文化的伝統が確立され、いくつもの高度な文明が誕生していたのです。

紀元前3000年に文明が誕生し、それから現在まで約五千年、そのちょうど中間時点である紀元前500年には、世界各地で独自の文明が成立、その並立・均衡状態が約二千年続き、西暦1500年前後以降ヨーロッパの世界進出が始まり、「世界の一体化」が進行、というのが最も単純化された世界史の流れになる。

(少し前に話題になったマクニール『世界史』もそのような構成になっている。)

その紀元前500年頃存在した諸文明の中で、ただ一つ、ギリシア文明だけを、著者は最も注目すべきものとして、特別視する。

そうした文明の多くは孤立状態にあり、ほかの文明にはほとんど影響をあたえませんでした。偉大なるオリエントの文明でさえ、バビロンの陥落以降、ときおり侵略を受ける以外は外の世界とあまり交流がありませんでした。ところがその中で、紀元前六世紀にすでに台頭しつつあったギリシアの文明だけは、発祥地である東地中海を越えて、大きく外の世界に広がっていく可能性を示していたのです。

それはもっとも新しく誕生した文明でしたが、その後めざましい成功をおさめ、のちにローマ文明へ受けつがれたその文化的伝統は、一〇〇〇年ものあいだ、とぎれることなくつづいていくことになります。そして何よりも注目すべきことは、この活力に満ちた文明が人類の歴史にのこした豊かな土壌には、現代のヨーロッパ文明、ひいては近代文明を形成することになる重要な要素が、ほとんどすべて存在したということなのです。

東地中海に誕生したギリシア文明は、それに先だつ古代オリエント文明やエーゲ海文明から大きな影響を受けていました。なかでも重要なのは、フェニキア人のアルファベットを改良して、ギリシア文字(ギリシア・アルファベット)をつくりだしたことでしょう。そのほかにもギリシア文明は、エジプトやメソポタミアに起源をもつ思想や、ミケーネ文明のなごりなど、さまざまな文化をとりこんで発展していきました。

ギリシア文明とそれにつづくローマ文明、いわゆる地中海文明は、成熟したのちもそのような多様性を失うことはありませんでした。硬直した体制におちいることは決してなく、きわめて多彩な発展をとげていったのです。この文明がはっきりとした統一性を確立したときでさえ、周囲に存在したほかの文化と区別するのはむずかしく、文明の境界線は遠くアジアやアフリカ、異民族の住むヨーロッパや南ロシアへと広がって、きわめてあいまいなものになっていました。さらにのちの時代になって境界線がはっきりと確立されてからも、地中海文明はほかの文明と多彩な交流を行なっていたのです。

この文明はそれ以前に栄えたどの文明とくらべても、あきらかに歴史を進歩させる「偉大な力」をもっていました。たとえばそれまでの文明は政治的な大変化が起こっても、制度自体はそのままのこされるケースがほとんどでした。ところが地中海文明は短いあいだに何度もみずから制度を変え、さまざまな政治体制を試みています。

また宗教についていえば、ほかの文明では、文明と宗教は事実上、生死をともにする運命共同体となっていました。それに対して地中海文明は、はじめは土着の多神教を信仰していましたが、最後には外来の一神教であるキリスト教を採用します。のちにローマ帝国が国教としたことで、キリスト教はやがて世界宗教としての道を歩むことになるのです。

これは世界史的な観点から見ても、きわめて大きな出来事でした。その後、世界じゅうに広まったキリスト教の影響力を介して、地中海文明の伝統は、人類の歴史の中で長く広く伝えられていくことになるからです。

・・・・・

「古典」とは、何もヨーロッパだけに存在する概念ではありません。ほかの文明にも、もちろんそれぞれの「古典」や「古典期」が存在しています。「古典」とは、人びとが過去のある時期をふり返って、そこにみずからの手本とすべき「模範」を見いだすことによって成立する概念だからです。その意味で後世のヨーロッパ人にとって、古代ギリシア文明はまさに「古典」となりました。のちのルネサンス期にヨーロッパ人が古代ギリシア文明を再発見したとき、彼らはそのすぐれた美術品や人間中心の考えかたにすっかり魅了されてしまったのです。

当時のギリシア人の中にも、自分たちは特別な人間で、自分たちの文化と時代は特別なものだと考えた人びとがいました。現代の私たちから見ると、その理由には納得できない部分もあります。それでも、あの文明がまぎれもなく特別な文明だったことは、疑いようのない事実といえるでしょう。活力にあふれ、絶えず前進をつづけ、数えきれないほどの技術や制度、文化を生みだしたこの文明によって、その後の世界は大きな可能性を獲得することになります。なかでも思想・哲学など、精神文化における世界史への貢献には、はかりしれないものがあるのです。

後世の人間が古典世界の理想に学ぼうとするとき、たしかに時代錯誤におちいったり、過去を美化しすぎたりする傾向があることも事実です。しかし、そういう点を割り引いてもなお、古代ギリシア文明には誰も消すことのできない偉大な業績がのこります。それはいまでも西洋文明の根幹をなしており、その文化的伝統は現在の私たちの暮らしに直接つながっています。だからこそ私たちは、それ以前のどの文明よりも、はるかにこの古代ギリシア文明に共感することができるのです。

この著者の見解を、手垢の付いた時代錯誤的な西洋中心主義に基づく、偏ったギリシア礼賛だと見るべきだろうか?

私にはそうは思えない。

私は、例えば、民主主義というものを生み出したことで古代ギリシアを賞賛するような立場には全く立っていない(むしろプラトンが民主主義への批判として政治学を創めたことこそが、ギリシア文明の最も偉大な遺産だと考える)が、それでも古代ギリシア文明が、他の全ての文明の中で、現代人にとって特別の意味と卓越性を持っていることには十分同意できる。

変な劣等感は持たずにそのことは素直に認めた方が良い。

現在の欧米人がそれについて余程傲慢な態度を示した場合には、ギリシア文明は欧米だけでなく全人類の遺産だと言い返せばいいんです。

通常、多くの人びとにギリシア文明最大の功績と思われている、民主主義の誕生について。

アテナイの民主政に対する批判は、これまで何度もくり返し行なわれてきました。たしかにアテナイの民主政をあまりに美化して考えるのは歴史をゆがめる行為です。しかし、むやみに攻撃するのもまた、歴史を誤る行為だといわざるをえないでしょう。

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ヴィクトリア朝時代のイギリスと同じく、古代アテナイでも政治は長いあいだ、貴族の系譜につらなる人びとの手にゆだねられていました。政治に参加する資格が血筋のほかにもあるとすれば、それは政治に必要な財力と時間でした。たしかに陪審員や民会の出席者には手当が支給されていましたが、その額はわずかなものだったからです。・・・・・こうした事実は、アテナイの民主政を批判する側も、理想化する側も、見落としてしまうことが多いようです。アテナイの民主政がそれほど厳密なものでなかったのは、そのように実質的な参加者が限られていたからなのかもしれません。・・・・・

アテナイの民主政は誕生した当時から、積極的な外交政策を打ちだしていました。・・・・・その結果、ペロポネソス戦争を誘発した責任も、都市国家間の対立を生みだした責任も、すべて民主政の出現に負わされる結果になりました。たしかにそれは後世の批評家が指摘するように、アテナイに悲劇をもたらしただけでなく、ギリシア全土の都市国家に党派の争いや社会闘争の苦しみを芽ばえさせてしまったのです。・・・・・トゥキュディデスの著書は未完に終わり、四〇〇人による寡頭政権が生まれた紀元前411年の段階までしか記されていませんが、その終わりの部分には自分を追放した生地アテナイに対する不信と幻滅がにじんでいます。また有名なプラトンの著作も、紀元前三九九年にソクラテスを処刑したアテナイの民主主義者たちを批難し、彼らに永遠に消えない不名誉の烙印を押しているのです。

アテナイの民主政は、女性やメトイコイ(外国人居住者)、奴隷を排除していました。そうした事実を考慮に入れると、アテナイの民主政の評価はかなり下がってしまうかもしれません。けれども、はるか後世になって到達した地点からふり返って、アテナイを低く評価するべきではないでしょう。歴史は段階を追って進んでいくものなのですから、時代を考慮に入れない比較をしても無意味なのです。二〇〇〇年以上たったいまでさえ完全には実現されていない理想と比較するのではなく、同時代のほかの事例と比較しなければ意味がないのです。

・・・・・・

アテナイの政治がもつ欠点は、すべてそのような前提のもとに議論される必要があります。どんな政治制度についてもいえることですが、アテナイの民主政を評価する際にも、それがもっともうまく機能していた時期を評価の対象にする必要があります。たとえばペリクレスが指導的立場にいたときのアテナイの民主政は、まちがいなくすばらしいものでした。彼らは「みずからが選んだ政治の結果について、個人が責任を負う社会」という神話を私たちにこのしてくれたのです。

はっきりいいましょう。政治にはすぐれた政治的神話が何よりも必要なのです。ですから私たちはこれから、もっとすぐれた政治的神話を探していかなければならないのです。

著者のギリシア民主政に対する評価は極端に一面的なものではないと思えるものの、それでも私には隔靴掻痒の感がある。

現在においても、「政治的神話」が必要である、という点には同意するが、はっきり言って民主主義という神話は出来が良くない。

国家の統一と伝統を体現する世襲君主が君臨するが、実質的統治には携わらず、君主を支える貴族が真摯な公的議論に基づく政治を行い、民衆は最低限の拒否権と貴族と相対する代表選出の権利を持ち、歴史的伝統という最高の権威の下に君主と貴族と民衆の三者が並立する、抑制と均衡を保った政体という神話の方が遥かに優れている。

有史以来、そうした「真の共和政体」(塩野七生『ローマ世界の終焉』ユーゴー『レ・ミゼラブル』参照)に人類が最も近づいたのは、18世紀イギリスにおいてでしょう。

私には、あの時代が「進歩」の極限だったと思えます。

それ以後のあらゆる革命と変化は無意味な逸脱に思える。

明治維新後の日本も、一時期上記の理想に近づくと思えたのだが、結局は無残な失敗に終わり、現在はただ滅びを待つだけの衆愚民主主義国になってしまいました。

著者は、アテナイ民主政への最大の批判者プラトンの思想について、以下のように記す。

プラトンはソクラテスの思想の多くを踏襲しましたが、ここに見られる理想の国家観は、ソクラテスとはまったくちがったものでした。プラトンが理想とした国家では、大多数の人が教育と法律のもとで管理され、ソクラテスが生きるに値しないと評した「エレンコス(吟味)のない生活」を強いられているからです。

プラトンの民主主義批判を後世の全体主義の起源とするかのような記述は全く凡庸で同意できるところがない。

民主主義がもたらす伝統破壊と無秩序こそ、自律に基づく自由のない、「吟味のない生活」としての全体主義を生み出す原因である。

とは言え、以下の記述には全く違和感なし。

哲学と並んで歴史を「発明」したことも、ギリシア文明の大きな遺産といえるでしょう。それまでの古代国家では、たんに出来事を記した年代記のような記録が存在するだけでした。ところがギリシアの歴史書は、高い文学的価値と学術的視点をもつ作品として生まれ、さらに驚くべきことに、最初に登場したふたつの著作によって、いきなり頂点をきわめることになるのです。これ以降、ギリシア文明においては、そのふたつの歴史書に匹敵するレベルの作品はついに現れませんでした。

「ギリシア文明においては」どころか、その後ヘロドトストゥキュディデスに匹敵する歴史家と言うと、司馬遷ギボンくらいでしょうか。

私はこの四者を自分で勝手に「世界史の四大古典」と考えています。

イブン・ハルドゥーンを入れて五大史家とする人もいるかもしれないが、私のレベルでは良さがわからない。)

そして、約2500年の時を経て、全く違う文化圏に属する国に生まれた、私程度の知的レベルの人間でも、古代ギリシアの古典のうち、あるものは大きな興味と感動を持って(翻訳では)読むことができるのだから、以下の総括にも完全に同意できます。

また歴史にかぎらず、ギリシア人は人類の歴史におけるさまざまな新しい知的領域を開拓しました。人類の歴史上はじめて、ギリシアは完全な形の「文芸」を生みだしたといっていいでしょう。ユダヤ文学もギリシア文学にひけをとらないほど包括的なものでしたが、娯楽作品はもちろん、演劇や客観的な歴史書も含まれていませんでした。古代ギリシアの文芸世界は聖書と並んで、以後の西洋文学の形成に大きな影響をあたえることになります。内容だけでなく、さまざまな文芸のジャンルや形式を規定し、批評における最大の判断基準も、もたらすことになったのです。

古代ギリシアの哲学・文学・歴史・宗教・建築・彫刻などの文化は、やはり圧倒的な存在であると考えるしかない。

以後、ヘレニズム時代のギリシア文明の拡散とポリスの没落、科学の発達とそれと期を一にした伝統的で多神教的な宗教の衰退、ストア派の成立をもって、本巻の幕は閉じる。

2017年1月1日

J・M・ロバーツ 『図説世界の歴史 1 「歴史の始まり」と古代文明』 (創元社)

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全10巻と巻数が少な目で、一巻の厚みもさほどでもないとは言え、新たに世界史全集通読に取り組むのには、相当の決意が要るが、下読みの結果、まあたぶん途中で挫折はしないだろうと思ったので、この第1巻から始めましょう。

イギリスの練達の歴史家が一人で書いた世界史全集。

著者のファースト・ネームが、ジョンなのかジェームズなのか何なのかが、本書のどこにも書いていないのが気になる。

叙述における史実の取捨選択の基準を著者は以下のように述べる。

・・・・・私は、いったいどのような視点でこの本を書き、どのような基準で歴史的事実の取捨選択を行ったのか。そのことについてご説明しておきましょう。ひとつは、ある意味で非常に「民主的な」視点です。というのも私の基準は、「その出来事がいかに多くの人間に影響をおよぼしたか」という点を重視しているからです。もちろん別の基準を選択する人もいるでしょう。しかし私は、長期的に見てその出来事が人間の社会にどれだけ広く大きな影響をあたえたかという点にもとづいて、歴史的事実の取捨選択を行いました。その結果、本書ではできるだけ多くの国や支配者たちをとりあげようとするのではなく、「とくに偉大な」いくつかの文明に焦点をあてることになりました。何世紀にもわたって、思想や宗教、社会制度など、さまざまな面で人間社会に影響をあたえた「偉大な文明」の数々。こまごまとした事実の羅列は百科事典や歴史事典にまかせることにして、そうした文明を軸に歴史を「物語る」ことに主眼をおいたのです。

この「物語る」という言葉が、私の歴史に対する考えを知っていただくためのもうひとつの鍵となります。私は以前から、歴史の基礎は物語(年代記)にあること、そして歴史家の仕事とは、からみあった無数の事実のなかから、そうした物語をつむぎだすところにあるということを確信しているのです。

網羅的に全ての文明を取り上げるのではなく、主要な文明を特に重視すること、物語という叙述形式にこだわること、という面では賛同できる。

しかし、以下のような楽観的見解は、巨視的に見れば理解できなくも無いが、やはり同意する気にはなれない。

この長い長い物語をひもとくと、人間という生き物のもつ特異性がよくわかります。人間は非常に古くから、自然を支配しようとしてさまざまな試みを行なってきました。ほかの生物には類を見ない、そうした試みの軌跡をたどることこそ、すなわち人類の歴史をたどることだといえるかもしれません。最近よく「人類はもはやとり返しのつかない失敗をおかしてしまった」とか、「人類の歴史は愚行のカタログにすぎない」などといった意見を耳にすることがあります。その結果が今日の人口過剰であり、自然環境の破壊であり、絶えることのない戦争や暴力だというのです。たしかにそうした意見にも、一面の真実はあるでしょう。しかしそれは客観的に見て、あまりにも大げさで極端すぎる考えです。人類がこれまでになしとげてきた偉業を素直にふり返れば、そうした悲観的すぎる意見が、どれほどまとはずれなものであるかがよくわかります。歴史は私たち人類が、これまでいかに多くの障害を克服し、その意志と能力によって、みずからをとりまく環境にいかに大きな変化を起こしてきたかを教えてくれているのです。

本章に入ると、まず先史時代の途方もない長さとネアンデルタール人(旧人)とホモ・サピエンス(新人)との一時共存を述べた後、人類史の一大転機として、新石器時代の到来を挙げる。

先史時代の終焉をつげる一連の変化をさして、ある学者が「新石器革命」という言葉をもちいたことがあります。しかし、この言葉には少し解説がいるかもしれません。前にもふれたように、考古学者たちは旧石器時代のあとに中石器時代と新石器時代という時代区分をつくりました(金石併用時代という四番目の時代をつけ加える学者もいます。石器と銅器が同時に使用された時代のことです)。

このなかで、旧石器時代と中石器時代の区別は専門家にしか必要のないものですが、「新石器時代」という時代区分は重要です。

厳密な定義によれば、石を砕いただけの打製石器に代わって、表面をなめらかに加工した磨製石器・・・・がもちいられるようになった時代を新石器時代といいます(さらに別の基準をつけ加えることもありますが)。

打製石器から磨製石器への移行は、研究者を夢中にさせるほどの大変化ではなく、「新石器時代」などとよぶのは大げさすぎると考える人もいるでしょう。しかしこの時代に、各地でさまざまな、複雑でしかも重要な変化が起こったことは事実です。「新石器革命」とは、そうした変化をなんとか統一的に表現しようとした名称ということなのです。

・・・・・・

文明の誕生を可能にしたのは農耕と牧畜の開始です。それを「食料生産革命」とよぶ人もいますが、この場合は「革命」という表現も決して大げさではありません。こうした言葉を聞いただけで、なぜ新石器時代に文明が誕生するための環境が整ったかすぐにわかるからです。新石器時代に一部の社会に広まった冶金技術さえ、食料生産の開始ほど重大な意味はもちませんでした。農耕と牧畜は人間の暮らしに、まさに革命をもたらしたのです。

新石器時代の意義を考えるうえでも、真っ先に考えなくてはならないのがこの食料生産(農耕と牧畜)の開始です。ある著名な考古学者は、新石器時代の定義をこんなふうにまとめています。「正確な年代は確定できないが(略)狩猟生活の終焉と完全な金属使用のあいだに位置する時代、この時代に農耕と牧畜が始まり、ヨーロッパ、アジア、北米にゆっくりと広まっていった」。

本書では、代表的な古代文明として、「メソポタミア」「エジプト」「クレタ」「インド」「中国」「メソアメリカ」「アンデス」の七つを挙げている。

ただし、その中でメソポタミア文明のみを特別に重要なものとして扱っている。

しばしば、メソポタミア文明と並び称されるエジプト文明について、以下のような評価を記しているのが極めて印象的である。

エジプト文明の衰退の原因は、古代世界全体を揺るがした大きな歴史の流れの中で考えるべきでしょう。

しかし新王国時代末期の混乱をみると、私にはエジプト文明が最初からもっていた弱点があらわになったにすぎないという気もするのです。

みなさんの中には、そうした意見を意外に感じる方もいらっしゃるかもしれません。数々の壮大な建造物や、数千年にもおよぶ歴史をもつエジプト文明が、なぜ宿命的な「弱点」をもっていたのかと。

しかし私には、エジプト文明がもつ創造力は、真の意味での結実をみなかったように思えます。とほうもない数の労働力が集められ、今日の基準から見てもきわめて有能な役人たちが指揮をとり、その結果完成したのは「世界最大の墓」でした。すぐれた職人たちの手で数々の工芸品がつくりだされたものの、それらが収められたのもまた、墓の中でした。優秀なエリートたちが複雑な文字をあやつり、大発明であるパピルス紙に大量の文書を記録しましたが、ついに彼らはギリシア人やユダヤ人に匹敵するような哲学や宗教思想を生み出すことはありませんでした。私には古代エジプトの壮麗な遺産の奥底に、根源的な「不毛」が横たわっていたような気がしてならないのです。

もっとも古代エジプト文明がまれにみる長期にわたって存続したという事実については、別の角度から評価する必要があるでしょう。これだけ長いあいだつづいた文明はほかになく、その点ではまさに驚異的といえます。少なくとも二度大きな危機がおとずれたものの、エジプトはそうした危機を乗りこえて存続しました。それはもちろん世界史的なレベルでみても偉大なる成功物語といえるのでしょうが、よくわからないのは、なぜ彼らの進歩が早い段階で止まってしまったのかという点なのです。エジプトは結局、軍事面でも経済面でも後世にほとんど影響をあたえませんでした。エジプトの文化が国境を越え、外の世界に根づくこともありませんでした。エジプト文明が長期間存続した原因は、おそらくその自然環境にあったのでしょう。エジプト人の暮らすナイル両岸の外側には、広大な砂漠が広がっていました。同じくらい外界から遮断された環境にあったなら、どんな古代文明でもエジプト文明に匹敵する期間存続することができたかもしれません。

たしかに先史時代とくらべれば、古代エジプトの歴史は非常に速いペースで進みました。しかしメネス王の時代からトトメス三世の時代までの約一五〇〇年間に、エジプト人の日常生活がほとんど変化しなかったのは、やはり「停滞」といってもよいでしょう。古代社会において大きな変化が起こるのは、大規模な自然災害が起こったときか、外敵に侵入されたり征服されたりしたときだけでした。ところがナイル川はつねに安定した「恵みの川」でありつづけ、さらにエジプトは長期にわたってオリエントの紛争地域の外側に位置し、ほんのときおり侵入者に対峙するだけでよかったのです。現在とはちがって、技術も経済もごくゆっくりとしか変化を起こしませんでした。さらに伝統を継承することが何よりも重んじられた社会では、知的な刺激によって変化が起こることはほとんどありませんでした。

古代エジプト文明を考えるとき、どうしても忘れられないのがナイル川です。人びとの目の前にはつねにナイル川が流れつづけていました。その存在があまりにも大きすぎたため、この川のもつ特異性に古代エジプト人は気づかなかったのかもしれません。実際、彼らにとってはナイルの両岸こそが全世界だったのです。「肥沃な三日月地帯」が絶えず戦乱の舞台であったのとは対照的に、エジプトではナイル川に支えられて数千年も文明がつづき、人びとはナイルがもたらしてくれる恵みに感謝しながら伝統的な暮らしをつづけました。このような暮らしの中でエジプト人が生きる目的と考えたのが、死後の世界への準備をすることだったのかもしれません。

この評価には異議が無い。

エジプト文明は、紀元前3000年に誕生し、ペルシアによる征服まででも2500年間、プトレマイオス朝滅亡までを数えたら3000年も続いている。

西暦元年から現在まで2000年余り、日本も含めほとんどの国の歴史がその中に収まってしまうが、それよりも遥かに長く存続しているわけである。

だが、ピラミッドにミイラ、「死者の書」などのパピルス文書、華麗な工芸品と、後世に極めて強い印象を与える遺産を残したにも関わらず、「ギリシア人やユダヤ人に匹敵するような哲学や宗教思想を生み出すことは」なく、「軍事面でも経済面でも後世にほとんど影響をあたえ」なかったのは、先入見を捨て、冷静に考えると、やはり事実としか言い様がない。

ペルシア帝国成立によって、オリエントは新時代を迎えることになる。

 

 

図表も多いし、文章も少な目なので、通読に困難は無い。

これなら続けられそうです。

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