万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年11月29日

松田素二 津田みわ 編著 『ケニアを知るための55章』 (明石書店)

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今の若い人にはピンと来ないと思いますが、このケニアという国は「アフリカの主要国」だというイメージがかつてはありました。

首都のナイロビにアフリカ総局を置いていた新聞社もあったはずです(今は南アフリカのヨハネスブルクあたりでしょうか)。

本書によれば、それはこの国が独立後のアフリカ諸国の中では珍しく親米英・親西側路線を採用したため、日本とも多くの援助と交流があったからだとのことである。

ああ、なるほどなと思いました。

それで実際の国力や国の大きさよりも、過度に重視されていた面もあったかもしれません。

 

ケニアは東アフリカに位置し、北はエチオピアとソマリア、南はタンザニア、西はウガンダと南スーダンに接する。

北にトゥルカナ湖、西にヴィクトリア湖という大湖が存在。

言語は英語とスワヒリ語。

キリスト教徒が多数派だが、イスラム教徒も一割ほど存在。

沿岸部モンバサはムスリム商人の拠点として有名。

最大民族はキクユ人だが、その構成比は17%ほど、他にルヒャ人、カレンジン人、ルオ人、カンバ人など。

一番知名度が高いのはマサイ人だろうが、数から言えば少数派なのか、主要民族の中には現れない。

19世紀ベルリン会議後のアフリカ分割で、1895年イギリスの東アフリカ保護領に。

1950年代、「マウマウ」の反乱と呼ばれる独立運動を経て、1963年独立。

初代首相ジョモ・ケニヤッタ(翌年から大統領)。

ケニヤッタは表面上マウマウとの関係を否定、「フーリガンにケニアを治めさせてはならない・・・・・マウマウは病であり・・・・・二度と思い出してはならない」と述べ、穏健派の立場を貫く。

外交面でも親西側路線を採用、土地国有化と社会主義陣営への接近を主張した副大統領オディンガは逮捕、投獄。

独立後はケニア・アフリカ人全国同盟(KANU)が事実上の一党支配を敷き、大統領権限が拡大するなど、権威主義体制が確立。

比較的順調な経済成長を遂げたが、それには格差の拡大という代償が伴った。

「独立の父」が急進的外交姿勢で東側諸国に接近、内政では社会主義的政策で経済が停滞、その内どうにもならなくなって、右派権威主義政権に交替、親米路線と市場主義的改革で経済状況は改善するが、社会的不平等は拡大し、政治的自由は相変わらず制限されるというのが、第三世界のよくあるパターンだが、ケニアは最初から後者の段階だったという珍しいケースな訳である。

まあ、あくまで相対比較で言えば、少なくともケニヤッタ政権はそう悪しざまに言うほどでもなかったと思える。

ただ、その後正常な議会政治にスムーズに移行できなかったのは残念である。

1978年ケニヤッタが死去、モイが後継。

候補の写真の前に並ぶことで「投票」するという、秘密投票を侵す「行列方式」選挙の導入など、一層の強権化を実行。

冷戦終結後の世界的な「民主化」潮流で、複数政党制が復活したが、野党勢力の分裂もあって、モイが再選。

90年代にはこれまで押さえつけられていた民族紛争が勃発。

モイが退任した後、初代大統領ケニヤッタの実子ウフル・ケニヤッタを後継指名すると与党KANUは分裂、2002年平和的政権交代が実現し、キバキ政権が成立。

ところがキバキ政権内部で対立が激化、2007年キバキ再選後、大規模暴動が勃発。

国際社会の和解勧告を受け、大統領権限の縮小と三権分立の徹底を特徴とする新憲法が制定。

外務省HPを見ると、2013年には上記ウフル・ケニヤッタが大統領に就任しているようだ。

アフリカ諸国では例外的に安定した国だったが、最近の情勢は必ずしもそうではない模様。

 

 

ごく大まかなことだけわかればよい。

本書も軽く流してよし。

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2016年11月25日

ドストエフスキー 『罪と罰 全3巻』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 01:22

およそ20年振りの再読だが、初読の際と同様の感動がよみがえってきた。

今回気付いたのは、圧倒的な読みやすさ。

分量が全く気にならず、次から次へとページを手繰らせる力をこの作品は持っている。

表現法とストーリーの構成力、登場人物の個性描写など、小説技法の面がとにかく素晴らしい。

内容面の充実とあわせて、とにかく完璧な作品だと言うしかない。

以前読んだ時は今よりも大長編への耐性が乏しかったはずで、それでもほぼ一気に読んだ記憶があるが、その印象は間違ってなかった。

「30冊で読む世界文学」でこれを選んだのはやはり正解だった。

登場人物も極めて印象的。

自己犠牲を貫く気高いソーニャ、ラスコーリニコフの妹で美しく聡明なドゥーニャ、ドゥーニャの婚約者で低劣な俗物ルージン、主人公唯一の友人で高潔な好漢ラズミーヒン、主人公を追い詰める怜悧で鋭敏な予審判事ポルフィーリー、皮相で愚かな進歩派で戯画的に描かれてはいるがルージンの卑劣な行為に対して高潔な行動を採るレベジャートニコフなど。

ただ、得体の知れない奇怪な悪の化身という感じの人物、スヴィドリガイロフについては、初読の際ほど強い印象は受けなかった。

 

とにかくすごい。

世界文学に少しでも関心があって、これを読まないのはあり得ない。

再読の評価は「5」。

それ以外にあり得ない。

しかも通読難易度は、この長さにも関わらず、「易」を付けることができる。

どんな初心者にも勧めることができる稀有な古典。

2016年11月4日

坂野潤治 『日本近代史』 (ちくま新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 01:41

1857年から1937年までの80年間の近代日本史を独自の切り口と史観で叙述した本。

 

時代区分は以下の通り。

1.1857~1863年  「改革」 公武合体

2.1863~1871年  「革命」 尊王倒幕

3.1871~1880年  「建設」 殖産興業

4.1880~1893年  「運用」 明治立憲制

5.1894~1924年  「再編」 大正デモクラシー

6.1925~1937年  「危機」 昭和ファシズム

 

本書の対象外だが、1937年以降は「崩壊の時代」となる。

とにかく内容が濃い。

いつもの調子でメモを取っていると、一体どれくらいの長さの記事になるのか見当がつかないので、「どうしてもここだけは」というくらい印象深い文章を引用し、論旨の骨格だけを示すことにします(と言ってもやはりとんでもない長さになりましたが)。

 

 

まず第一章。

 

ペリー来航(一八五三年)に象徴される欧米列強の軍事的圧力は、日本古来の伝統(「尊王」)と二五〇年余にわたるもう一つの伝統(「攘夷」)を結びつけた。この二つの「伝統」が「水戸学」や吉田松陰などにより「尊王攘夷」という一つの「国是」に合体した時、日本に強固な原理主義が登場したのである。

・・・・・・

「尊王攘夷」と「佐幕開国」の対立を克服することは、きわめて困難な課題であった。それは対外政策の基本的な対立であっただけではなく、「尊王」か「佐幕」かという国内政治体制の根本的な対立でもあったからである。一八五三年のペリー来航から六八年の明治維新までの一五年間の日本は、この二つの根本対立の落としどころを求めて、悪戦苦闘しつづけたのである。

・・・・・「公武合体」と「尊王攘夷」の二つの幕府批判勢力が正面から衝突した、一八六三(文久三)年から六四(元治元)年の時期・・・・・幕府支持の会津藩と公武合体論の薩摩藩が手を結んで、尊王攘夷の長州藩の孤立化を謀った・・・・・「文久三年八月一八日の政変」と「禁門の変」(一八六四年)の名で知られる事件である。

しかしこれでは、かつての「佐幕開国」が「公武合体開国」に替わっただけで、「尊王」と「攘夷」の二つの「国是」は長州藩が握りつづける。長州藩一藩では、軍事力でも経済力でも、幕府と有力諸藩の連合には敵わないことは明らかである。二つの「国是」を守ろうとする長州藩には、反「開国」派と反幕府派の双方が同情を寄せていた。一八六四年の禁門の変で長州藩に「朝敵」の汚名を負わせただけでは、「尊王攘夷」問題を消滅させることはできなかったのである。

唯一の解決策は、「攘夷」か「開国」かの問題を棚上げにして、「尊王」か「佐幕」かに選択肢を絞り込むことであった。そうなれば薩摩と長州は「尊王倒幕」で手を握ることができる。日本古来の「国是」であった「尊王」によって、たかが二五〇年来の「国是」にすぎない「鎖国」を包み込むことができれば、「公武合体」を重視する有力大名が幕府を支持する根拠は薄くなる。

「開国」―「攘夷」の対立が棚上げされた時には、有力大名の声を重視せよという「公武合体」の要求は、大名だけではなく、有力家臣の意向も尊重せよという「公議輿論」の要求に発展してきた。こうして「尊王倒幕」と「公議輿論」が有力大名とその藩士たちの共通のスローガンになった時、「悪戦苦闘」・・・・・は終わりを告げ、事態は明治維新に向けて急転回していく。筆者の仮説は、その時点は一八六四年にあり、その推進者は薩摩藩の西郷隆盛だった、というものである。

 

 

 

第二章。

 

一八六七(慶応三)年六月の薩土盟約、一〇月の大政奉還、一二月(一八六八年一月)の王政復古までの半年間は、改革派も保守派も一つの枠組みの両端で動いていた。権力の頂点に天皇がつき、その下に公卿と、徳川慶喜をも含めた有力大名(もしくはその代行)が上院を構成し、彼らの家臣で改革の実践的部分であった者たちが下院を構成するという新体制構想が、大枠になっていたのである。

この大枠を右の極点に行けば、すでに紹介した一八六三(文久三)年末の「参預制」に似てくる。参預制の時には将軍は将軍のままで有力大名の意見を尊重するので、「大政奉還」以後とは制度としては大きく異なる。しかし、「大政奉還」に続く「王政復古」で打ち出された総裁、議定、参与の「三職制」のナンバー・ツー(たとえば「副総裁」か「議定筆頭」)に徳川慶喜がつくとすれば、それは実質的にはかつての「参預制」とほとんど変わらない。「徳川八百万石」、「旗本八千騎」といわれた徳川家の長として、慶喜が「議定筆頭」の地位を新政府内で占めれば、「参与」にしかなれなかった薩長の下級武士には対抗策はありえない。幕末期を通じて「改革派」の有力大名が唱えてきた「公武合体」が完成してしまうのである。

他方、「参与」という中央政府の最下位にしかなれない(あるいは「薩土盟約」段階では「下院」議員にしかなれない)薩長土三藩の下級武士たちにとっては、この大枠を左の極点まで推し進めて、「参与」=「下院」が実権を握れるようにする必要があった。しかも一八六四(元治元)年に西郷隆盛が島津久光の弾圧をはねのけて五年間の流刑から帰藩して以後は、「下級武士」は有力藩の「軍部」と同義語になってきた。一八六四年に薩摩藩の軍賦役になった西郷隆盛と軍役奉行になった伊地知正治の鳥羽・伏見戦役以後の活躍を見れば、このことはおのずから明らかになる。

同様のことは、一八六六(慶応二)年初頭の薩長同盟以後の長州藩における品川弥二郎や大村益次郎の活躍についても言える。「下院」が「参与」になり、さらには「軍部」になっていったのである。さらに、藩の中心が慶喜の「公武合体」路線の中心的支持者であった土佐藩においても、前藩主の山内容堂や参政の後藤象二郎に対抗して、土佐藩「軍部」の板垣退助や谷干城らが、薩長両藩の「軍部」との提携に努めはじめていた。

・・・・・・

のちに明治元年となる慶応四年一月の明治新政権は、このような「右」と「左」の二大勢力の対立の上に、文字通り右往左往していたのである。

・・・・・・

一八七一(明治四)年七月の廃藩置県の断行は、一八六四(元治元)年頃に始まった「革命の時代」の終焉を告げるものであった。当初の議会構想のうち、上院を構成するはずだった藩主層の発言力は次第に後退し、ついには藩自体が解体させられたのである。幕府を倒し、藩体制をも倒した時、下級武士を指導者とする幕末・維新革命は完了した。

しかし、革命の完了だけでは新体制はできあがらない。時代は「革命」から「建設」へと大きく変化していく。しかも「革命」期の指導者の資質と「建設」時代のそれとは別ものであった。西郷隆盛の時代もまた終わろうとしていたのである。

 

 

 

第三章。

 

それぞれの国家目標に基づく、「富国」派の大久保利通(と大隈重信)、「強兵」派の西郷隆盛(と山県有朋)、「憲法」派の木戸孝允(と井上馨)、「議会」派の板垣退助、という以上四派の合従連衡・消長盛衰で明治初期の政治を分析する。

岩倉使節団が「富国」「憲法」派、留守政府が「強兵」「議会」派。

維新と戊辰戦争を遂行した「軍部」の発言権増大を背景にまず「強兵」派が突出。

それが朝鮮・台湾・樺太という三つの対外問題で噴出。

ただし薩摩出身者を中心とする「強兵」派の外征論も、どの地域で強硬策に出るかで対立あり。

まず1873(明治六)年、征韓論政変で西郷・板垣の「強兵」派・「議会」派が下野。

翌74年、「富国」派大久保が「強兵」派との妥協で、台湾出兵を実行。

これに反発して、代わりに「憲法」派の木戸が下野。

だが、大久保は、懸念された日清開戦を回避することに成功。

75年、大阪会議で木戸と板垣が一時政府復帰、「富国」「憲法」「議会」三派が結集、同年江華島事件と翌年日朝修好条規締結で、日朝関係も戦争に至ることなく小康状態へ(加えて樺太・千島交換条約も結ばれる)。

対外危機の終息で外征論という梃子を失った「強兵」派は政府外で孤立した挙句に西南戦争で鎮圧、立憲制樹立についての急進論か漸進論かで、「憲法」派木戸と「議会」派板垣は決裂、その結果「富国」派全盛の「大久保独裁」とも言われる情勢がもたらされ、「殖産興業」のスローガンの下、国家主導の工業育成政策が遂行される。

しかし、大久保のこの「殖産興業」は、それらの成否とは直接関係のない税収減から、彼の死の二年後には完全に行き詰った。一八八七(明治二〇)年までの日本の直接税は、土地所有者に掛けられる「地租」だけであり、しかも金納固定税であった。

・・・・この制度の下では税金に物価スライド性が全くないから、不景気の時には財政が豊かになり、好景気の下では租税の実収は減少する。極端な言い方をすれば、財政の健全化を計ろうとすれば、デフレ政策を採用するしかないシステムだったのである。

・・・・・・

西南戦争の戦費調達と、物価騰貴による地租収入の半減とを原因とする財政危機の打開策で、一番簡単で有効なのは、地租の増徴だったであろう。しかし、明治政府は独裁国家ではなかった。・・・・・地租がただ一つの直接税であり、その増税は北海道から沖縄まですべての土地所有農民に一律に影響する・・・・・納税者の間に利害対立が全く存在しなかったのである。そのような増税は、普通の「独裁国家」では断行しきれないであろう。

・・・・・・

巨額の不換紙幣を抱えた政府が、物価騰貴による税収減に直面し、しかも増税が不可能だったとすれば、「富国」派の存続はもはや不可能だった。一八八〇(明治一三)年一一月に・・・・公布された・・・・工場払下条例・・・・とは、「富国」派の挫折を象徴するものであった。

「富国派」「強兵派」「憲法派」「議会派」の四者の路線対立を軸に描いてきた「建設の時代」は、一八八〇年をもって終焉したのである。

 

 

 

第四章。

 

「士族民権」に刺激を受け、地租を負担する農村地主層の「農民民権」が台頭。

それへの対応をめぐり、政府内で、二つの路線が対立。

緊縮・デフレ政策を断行し、デフレで加重された地租軽減を求めるであろう議会の権限を制限しようとする松方財政および井上毅のプロイセン型憲法論で、岩倉具視、伊藤博文が支持。

そして、「殖産興業」路線を継続して台頭する「農民民権」の支持を獲得・与党化し、その上に立って議院内閣制を樹立しようとするのが大隈重信と在野の福沢諭吉ら交詢社系などの知識人。

一方、板垣退助、植木枝盛らは、直接の政権参加自体を目指さない、「拒否権型議会主義」を提唱、大隈・福沢路線と対立。

・・・・・両者の対立は「自由民権運動」と総称される運動の中での、指導部と支持者の対立であった。さらに言えば、交詢社という福沢諭吉が率いる都市知識人と、板垣退助率いる元祖民権結社とが、新たに台頭してきた「農民民権」の支持獲得を争ったのが、一八八一(明治一四)年の政治状況であった。そして、この二つの国会開設論者の競合の中に新たに割り込んできたのが、井上毅らの保守的立憲制論者だったのである。

この三つ巴の立憲制論の競合を想定してみると、「明治一四年の政変」と呼ばれる同年一〇月の大隈・福沢派の敗北の理由が透けて見えてくる。保守派の井上毅と急進派の板垣退助や植木枝盛の間には、憲法による行政権の制限を求めないという共通性があったからである。

・・・・・・

この右と左の奇妙な棲み分けが、大隈・福沢路線の敗北をもたらした。政府の側では大隈とその系列の中堅官吏が罷免され、運動の側では憲法ではなく議会掌握を重視する板垣退助が勝利したのである。「明治一四年の政変」(一〇月一二日)と自由党の結党(一〇月一八日)がそれである。

・・・・・・

これらの都市型知識人たちは、政府内部の国会開設論者の大隈重信と在野の板垣退助を結合させて、伊藤博文や井上毅に代表される保守的な政府指導者を一掃することをめざしていた。しかるに板垣は彼らの要望を一蹴して、政党結成の地盤作り・・・・に向かったのである。

・・・・・保守派と急進派が生き残り、その中間に位置したリベラル派が、政府内と運動内での勢力を一挙に喪失したのである。

議会開設前の大同団結運動においても、板垣らの「拒否権型議会」論が大隈らの「参画型議会」論に対し優勢を維持、最初の総選挙で自由党が改進党の三倍の議席を獲得。

その結果、国会運営は困難を極める。

明治憲法の欠陥としては、第十一条の統帥権独立と第五十五条の国務大臣単独責任制がよく指摘されるが、憲法制定当初、問題になったのは第六十七条の「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出(中略)ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」という条文。

衆議院の行政費・軍事費削減要求はこの六十七条を盾に政府が拒否、政府の地租増徴要求は衆議院が拒否。

政府と衆議院とが正面衝突している限り、歳出と歳入はともに減らないかわりに、ともに増えないのである。

一八九〇(明治二三)年に発足した日本の立憲制は、一九〇〇(明治三三)年に維新の元勲伊藤博文と、板垣退助率いる自由党(憲政党)とが大連合を組んで立憲政友会を結成するまでの一〇年間、この憲法体制の着地点を探って模索を続けた。いわば作文にすぎなかった憲法条項を、「運用」の観点から、政府と衆議院の双方が試行錯誤を繰り返したのである。

星亨ら自由党内の現実主義派は、「民力休養」「地租軽減」をあきらめて公共事業拡充を意味する「民力育成」への転換を模索し、日清戦争直前、一八九三(明治二六)年の「和協の詔勅」がその機会を提供した。

・・・・・詔勅の言う「和協」、すなわち行政府と立法府の「和協」を、政治的にどう実現するか・・・・・論理的には、両者の提携による「大連立」か、両者を縦に二分する二大政党制以外の選択肢はなかった。

前者の「大連立」方式を採れば、戦後のわれわれが長く経験してきた、官僚と与党との恒常的提携、すなわち「五五年体制」とか「自民党の一党優位制」のようなものになる。逆に後者の途を採れば、伊藤博文系官僚と自由党(憲政党)が結んだ一九〇〇(明治三三)年の立憲政友会と、保守系の山県有朋系の官僚と(名称はたびたび変わるが)改進党の後身とが結んだ立憲同志会との間の二大政党制になる。

面倒なのは、保守系の山県系から出た桂太郎が結成した立憲同志会(一九一三年)が、伊藤博文や西園寺公望の後を継いだ原敬の立憲政友会にくらべて、より自由主義的だったことである。軍部と官僚閥の牛耳をとってきた山県閥が、より自由主義的だった伊藤、西園寺、原の率いる政友会よりも、自由主義的な政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)を結成してしまったのである。

このため今日においても、「大正デモクラシー」という言葉を聴いて、立憲政友会の「平民宰相」原敬を想起するか、それにとって代わってロンドン海軍軍縮を実現した、立憲民政党の浜口雄幸を思い出すかは、人それぞれという状況が続いている。この千差万別の歴史認識はニ一世紀の日本をリードする政界や言論界においても、継承されている。

 

 

 

第五章。

 

藩閥官僚と、農村地主を地盤とする自由党(憲政党・政友会)の妥協により、日本の議会政治は軌道に乗った。

その際、自由党がその綱領を「地租減税」から「積極主義」に変更したことが梃子となった。

著者によれば、次の課題は都市商工業者、労働者、小作農にも普通選挙制で参政権を与え、二大政党制を確立することだった。

日清・日露の擬似的総力戦によって、一体感と平等意識を強めた国民各層がそれを求める。

さらに当初劣勢だった立憲改進党(→進歩党→憲政本党→国民党と党名変更)も党勢を自由党系に匹敵するまでに高めてきた。

だが、政友会最大の実力者原敬は、桂園時代に典型的に見られるように、政友会一党優位制を維持し、自党と藩閥官僚との協力による政治運営を継続することを目指していた。

戦前日本の官僚と農村地主の結合の中心になったのは、一九〇〇(明治三三)年に藩閥政治家の伊藤博文を総裁に戴いて、かつての自由民権家たちが結成した立憲政友会であった。そして、自由党(憲政党)を率いてこの立憲政友会を結成させた中心的指導者が星亨であり、星が創った政友会を安定的な大政党に築き上げたのが、今日もなお「大正デモクラシー」を代表する政党人と誤解されつづけている、平民宰相原敬である。・・・・・原敬は一九ニ一(大正一〇)年に非業の死を遂げるまで、二大政党制と普通選挙制に反対しつづけて「再編の時代」を阻みつづけた、保守的な政党人だったのである。

この文章に見られるように、著者の原に対する評価は決して高くない。

陸軍の突出した自己主張によって、その山県系官僚閥と政友会との「官民調和体制」が破綻したのが大正政変。

「大正政変」は、陸軍、海軍、政友会、金融界、実業界、都市中下層などの多様な利害対立の複合によってもたらされたものである。陸軍と官僚層と貴族院を握る藩閥勢力と、「積極主義」を掲げて農村地主を味方につけた政友会との協調だけでは、これらの諸利害の調整がつかなくなってきたのである。本章の表題たる「再編」の時代がようやく始まったのである。

だが、この第一次護憲運動は、著者によれば、以下のような「ねじれ」を抱えていた。

「閥族」の代表桂太郎との間で政権のたらい回しを長年続けてきた政友会、財政悪化の責任を陸軍や海軍と同様に背負うべき政友会が、一朝にして「閥族打破・憲政擁護」の推進者に転じたのである。変革されるべき対象が変革の先頭に立っているような運動の成果は初めから限られていたのである。

政友会が「閥族打破」の先頭に立ったことは、政友会に代わって政権を担当しようとしてきた野党国民党にも打撃を与えた。政権担当意欲の強かった「改革派」と呼ばれた主流派が、かつて自由党が「閥族」の伊藤博文と合体して政友会を結成したように、国民的非難の的になっていた「閥族」の桂太郎の新政党(のちの立憲同志会)に馳せ参じたのである。

続いて成立した海軍と政友会の連立内閣である山本権兵衛内閣がシーメンス事件で倒れ、大隈内閣成立。

この内閣によって「再編の時代」が本格的に到来したと著者は述べる。

原敬の政友会一党優位制の没落、立憲同志会の与党化と総選挙での大勝による二大政党制の確立がその理由。

だが大隈内閣は二十一ヵ条要求という失策を犯し、大戦景気で富裕化した農村地主の支持を回復し政友会が勢力回復。

続いたのは寺内正毅超然内閣だが、外交面では、強硬な対中政策を転換し、対米協調重視に向かい、幣原喜重郎外務次官、田中義一参謀次長を留任させ、この方針転換を実施させたこともあり、著者の評価は意外にも高い。

米騒動の後成立した、「本格的政党内閣」原敬政友会政権は、先に述べたように普通選挙制と二大政党制に反対。

1921年原敬暗殺、高橋是清内閣の後、22年海軍の加藤友三郎内閣が後継になったことは、桂園時代以来、政友会の常套的手法で、その後の政権返還を見越したものとも考えられた。

しかし、政友会を原から継いだ高橋是清は参謀本部廃止論を唱えたこともあり、元老の信頼が無く、第二次山本内閣、清浦奎吾内閣と非政党内閣が続く。

ここで高橋政友会は方針を転換、清浦与党となった政友本党の分離を甘受しても、憲政会(1916年立憲同志会が改称)と第二次護憲運動を展開、その結果護憲三派の加藤高明内閣成立、普通選挙が実現。

 

 

 

第六章。

 

1920年代前半、原・高橋の政友会は、国内では普通選挙に反対する一方、外交面ではワシントン体制へ参加し、国際協調主義を遵守していた。

一方、加藤高明の憲政会は、普通選挙を主張する一方で、対華二十一ヵ条の要求を依然として正当視する側面を持っていた。

・・・・以上・・・・比較すれば・・・・国内の民主化については憲政会が、対外政策については政友会の方が、進歩的だったことが明らかになる。細かい留保をつけずに単純化すれば、「平和と民主主義」を両党が分かち合っていたということができよう。

このような状況の下で二大政党制が成立すれば、「危機の時代」にはならなかったであろう。政友会と憲政会のどちらが政権についても、「平和」か「民主主義」のどちらかが担保されるという二大政党制は、面白味には欠けても、極端な右傾化はもたらさないからである。

(個人的には、「極端な右傾化」をもたらしたのは「民主化の進展」と「民意の暴走」自体が主因であろうし、この観察はやや表面的にも思えるが、見方としては面白い。)

だが、護憲三派内閣成立を機に、憲政会は幣原外交の国際協調主義と中国内政不干渉政策を採用、その対外路線は著しく穏健化。

一方、原・高橋の跡を継いだ田中義一総裁の下、政友会はその内外政策を大きく右傾化させる。

以上により明らかなように、護憲三派内閣から政友会が離脱した一九ニ五(大正一四)年七月末以来、憲政会(民政党)と政友会の対立点は、外政においても内政においても、明確になってきた。正確に言うためにはいくつかの留保をつけなければならないが、単純化して言えば、「平和と民主主義」の憲政会(民政党)と、「侵略と天皇主義」の政友会の、二大政党制が発足したのである。

二大政党間の相違が曖昧な方がいいのか、鮮明な方がいいのかは、一般的には断定できない。「保守党」と「自由党」の対立幅が小さいことにイギリスの二大政党制の利点を見出したのは、一八七九(明治一二)年の福沢諭吉であった・・・・・

第一次大戦後から一九三二(昭和七)年の五・一五事件までの十数年間の政治においては、政友会と憲政会(民政党)が内政と外交において一長一短であった一九二〇年代前半の時代の方が、政治の安定と進歩に役立ったように思われる。両党のどちらが勝っても、「平和」か「民主化」の一つは担保されるからである。反対に、憲政会(民政党)が勝てば「平和と民主主義」が、政友会が勝てば「侵略と天皇主義」が強調されるという一九二五年から三二年にかけての二大政党制は、政党政治だけではなく、日本国家そのものを「危機の時代」に導いた一因だったように思われる。

二大政党の政策分極化は経済政策の面でも存在し、しかもこの場合、憲政会(民政党)がよりによって恐慌時に緊縮財政と金解禁を実施するという根本的に間違った態度を採り、社会不安と政治危機を深刻化させた一方、政友会の方は元総裁高橋是清の主導で積極財政を採用し、経済危機を克服するという現象が生まれる。

(はっきりとした記述は無いが、この経済政策の面での政友会優位は、たぶん著者は肯定的には評価していないでしょう。むしろ[著者の言う]民政党の「平和と民主主義」への支持を失墜させる効果しか無かったでしょうから。)

そして、昭和戦前期の危機をもたらす直接的原因となった軍部の急進的中堅将校に関する記述を以下に引用。

陸海軍青年将校と民間右翼の横断的結合は、本書第1章で検討した幕末期の薩長土三藩の下級武士と脱藩浪士の横断的結合と、形の上では酷似している。しかし、国が上昇過程に入った時と下降局面に入った時とでは、「下剋上」のもたらす結果が全く異なる。古めかしい表現を使えば、明治維新が「革命」であったのに対し、昭和維新は「反革命」だったのである。

「革命」か「反革命」かを分けるのは、「天皇制」の問題ではない。幕末の「開国」か「攘夷」かの対立にもかかわらず、明治維新に向かうすべての革命勢力は、「尊王」だけでは一致していたのである。この点では、明治維新と昭和維新の間には、相違点は見出せない。

両者の大きな相違は、対抗エリートの質の問題である。上昇局面では、その時代の最高の知識人だちが「対抗エリート」を補佐した。すでに第1章で記したように、幕末期の島津斉彬の下には、雄藩大名だけではなく、時の中央政府(幕府)の一流の洋学者たちが馳せ参じた。斉彬の遺志を受け継いだ西郷隆盛も、勝海舟を介して、横井小楠、大久保一翁ら幕府系知識人の最先端の知見を吸収していた。「尊王攘夷」の方で有名な幕末の志士たちは、実は「開国進取」の最先端を走っていたのである。・・・・・・天皇親政を唱える陸軍青年将校の導師になった・・・反西欧で軍隊の力しか信じられなくなった北一輝には、幕末の西郷隆盛の欧米認識もなければ、「開国派」から「攘夷派」に及ぶ西郷の幅広い人脈もなかった。

1931年、経済恐慌と国内の軍事クーデタの脅威、満州での対外紛争という三重の危機が日本を襲う。

第二次若槻礼次郎民政党内閣はこれに有効に対処できず。

ここで生まれたのが、政友会・民政党大連立構想である。

同じ頃、同じ民政党内閣の内務大臣安達謙蔵は、一〇月事件に象徴される軍部のクー・デターと民間右翼のテロの脅威を重視していた。そしてこれらの動きの背後には、金本位制への復帰による農民の生活難と労働者の失業増大という社会不安が存在していた。青年将校の動きを抑え、社会不安の原因である金本位制を廃止するために安達が唱えたのは、民政党と政友会の大連立(「協力内閣」)であった。

昭和初年の日本政治は二大政党制とそれに対する青年将校らの攻撃で知られているが、幣原外交と並ぶ民政党内閣のもう一つの看板であった井上(準之助)財政の放棄を前提にした政民大連立構想は、民政党にとっては有力な選択肢の一つであった。

・・・・・・

もちろん、安達の協力内閣が実現したら、海軍青年将校による五・一五事件が起こらなかったという保証は、どこにもなかった。・・・・・五・一五事件の勃発を止めることは誰にもできなかったと思われる。しかし、安達の言うとおり民政党と政友会を併せて衆議院に約九八パーセントを占める「協力内閣」の首相を海軍青年将校が射殺したとして、それで日本の政党内閣の息の根を止められたであろうか。

しかし、井上準之助蔵相の金本位制へのこだわりが、この協力内閣を不可能にした。・・・・・木戸幸一らと会談した井上蔵相は、金本位制の問題には全く答えず、軍部批判の観点から協力内閣構想を否定している。

・・・・・堂々たる正論であるが・・・・井上がこだわった金本位制の下で、農民や労働者の生活は困窮をきわめ、それがこの三ヵ月後の総選挙での民政党の惨敗の原因となったことは、周知のとおりである。状況をわきまえない「正論」は、政党を奈落の底に追い落とすこともあるのである。

他の本では、この協力内閣構想は実現性に乏しく、またその目的も軍部掣肘の為ではなく、軍に迎合する意図があるものとして、否定する記述をいくつか見ている。

だが、著者は、この政民大連立政権が流れたことを軍部抑制の好機を逸したものと惜しんでいるようだ。

私も、戦前日本が最終的に陥った無残な破局を見ると、(安達自身かなりキナ臭い人物の感があるものの)とにかく何でも試してみたら良かったんじゃないか、後述の宇垣流産内閣よりはひょっとしたら可能性があったんじゃないか、と思っている。

32年陸軍の意向に押され気味の犬養内閣下での総選挙で政友会は圧勝したが、荒木貞夫の陸相就任で一時行動を控えた陸軍急進派に飽き足らない海軍青年将校が五・一五事件を起こし、犬養内閣は倒れ、政党政治も終焉。

以下、同じ坂野氏の『昭和史の決定的瞬間』と内容が重複するが、簡略にメモ。

後継の斎藤実挙国一致内閣で、荒木の陸相留任による陸軍の革新運動の一時的沈静化、高橋財政による経済恐慌克服、満州国承認と連盟脱退の後の国際的小康状態により、三重の危機は一応終息。

こうなると、二大政党をはじめとする各政治勢力が再度自己主張を強める。

一九三四(昭和九)年七月に成立した海軍退役将軍岡田啓介の内閣は、前の斎藤実内閣とは違って、「挙国一致内閣」ではなかった。過半数政党の政友会が「憲政の常道」に反するとして、同党からの入閣者(床次竹次郎・・・・)を除名して、野党の立場を鮮明にしたからである。

政友会は陸軍皇道派と結び「天皇機関説問題」で岡田内閣を攻撃、民政党は逆にひとまずは合法路線を守る陸軍統制派に接近。

議会内で劣勢の民政党は、「内閣審議会」と「内閣調査局」という議会外の機関を設置して、社会政策を推進する姿勢を見せ、革新官僚や合法無産政党である社会大衆党の支持も引き寄せようとする。

こうしてみてくると、岡田内閣は、民政党と陸軍統制派と新官僚と社会大衆党の支持を得て、過半数政党政友会と陸軍皇道派を敵に廻した内閣だったことがわかる。問題はこのような政治状況をどう評価するかにある。

筆者には、政治社会に一種の液状化が生じていたように思われる。陸軍も政党も官僚もそれぞれの内部に分裂が生じており、政治勢力というものが細分化されていた。細分化されたいくつかの勢力を寄せ集めて一時的に多数派を形成することはできても、中期的に安定した政権をつくることは困難になってきたのである。

「余の承知する政治の過程においては、維新後、薩長土肥の争いより、官僚―政党の争いに、次に二大政党の対立となりしが、現在では、政党―軍部―官僚―左傾―右傾、なお進んで政友会の内争、民政の提携非提携の抗争、軍部内派閥の闘争等と、如何にも争いが小キザミと成り来れり。・・・・・」(『宇垣一成日記』・・・・)

宇垣の言う「右傾」は、北一輝や西田税などの民間右翼を指し、「左傾」は先に見た亀井貫一郎らの社会大衆党を意味すると解していいであろう(本当の「左傾」は治安維持法によって、すでに根絶させられていた)。そうなると岡田内閣下の政治地図には、政友会が二派、民政党が二派、陸軍が二派、官僚が二派、左右両極が二派、合わせて一〇派の政治勢力が描かれていたことになる。

このような状況下では、政治の安定を望むべくもないことは、言うまでもない。しかし、ことはそれにとどまらなかったように思われる。支配諸勢力が一〇に分かれるということは、各派のトップだけをとっても、一〇人の指導者がいたことになる。そのような状況は、政治エリートの質の低下をもたらさざるをえない。

宇垣が明治維新以後の政治対立の歴史として描いたもののうち、「薩長土肥」でトップは四人、「官僚―政党の争い」では二人、「二大政党の対立」でも二人である。それが一挙に一〇人に増え、政治対立の組合せも倍増ではすまなくなったのである。一九三五年の日本政治は、政界の不安定化とエリートの質の低下に直面していたのである。

1936年総選挙で民政党が圧勝、社会大衆党躍進、政友会惨敗。

だが、その直後に二・二六事件勃発。

・・・・・宮中と政府の中枢を担ってきた「重臣ブロック」は、反乱によって壊滅的な打撃を受けた。「重臣ブロック」が、民政党と陸軍統制派の支持を受けて右翼的な二大勢力(陸軍皇道派と政友会)を抑え込むというシナリオは、二・二六事件によって崩壊したのである。

しかし、陸軍皇道派と青年将校が政友会の支持を得て一挙に軍事政権を樹立することも、同じく不可能であった。

広範な国民的支持も無く蜂起した青年将校は、昭和天皇個人の激怒も蒙り、鎮圧される。

続く広田弘毅内閣は、五・一五事件後の斎藤内閣と同じ性格の挙国一致政権。

皇道派が排除された後、陸軍の新統制派による国政壟断の気配が強まると、政友会でも反軍的姿勢が強まり、政民連携派が優勢になる。

その表われが、1937年初頭の宇垣内閣実現への動き。

しかし、この期に及んでも、政民二大政党は団結することができず、陸軍の拒否の前に、あえなく宇垣は組閣を断念。

成立したのは、陸軍と財界にのみ支持基盤を置く林銑十郎内閣。

その下で行われた総選挙では政・民両党が拮抗、社大党が再度躍進。

国内体制変革を含む「広義国防」をスローガンにして、統制派と接近して一時親軍的傾向を持っていた社大党だが、この時期には、総力戦準備の為に財界と妥協し、経済・社会機構改革を放棄した(「狭義国防」)陸軍を批判しており、その躍進は反軍的な民意の反映だ、と著者は判断している。

しかし、その後成立した近衛文麿内閣の下で、盧溝橋事件が勃発、泥沼の日中全面戦争と自爆的な日米開戦へと日本は向かうことになる。

本書は、日本が「崩壊の時代」に突入する1937年にて幕を閉じる。

・・・・「崩壊の時代」を避けることはできなかったろうか。流産した宇垣一成の内閣ならば、回避できたかも知れない。宇垣には陸軍の一部と衆議院の多数の支持があり、宇垣も民政党も政友会も、ファッショと戦争に反対していた。その宇垣の内閣を流産させた石原莞爾の「狭義国防」路線でも、日中全面戦争は回避できたかも知れない。これから五年かけて対ソ戦準備のために、飛行機と戦車とそのための重化学工業を育成しようとして財閥の協力も獲得したものが、その前に日中全面戦争に突入したとは思えないからである。戦争勃発後の石原の日中和平交渉はよく知られている事実である。

しかし、この二つの内閣または内閣構想の挫折の後を受けて、一九三七年六月四日に成立した第一次近衛文麿内閣は、成立と同時に、「従来のような対立相克を国内で続けて行くのは、国外で侮りを受ける。出来るだけ相克摩擦を緩和して行きたい」という談話を発表した・・・・。当時の言論界は、これを「国内対立相克の緩和」と標語化した。その標語どおり、近衛内閣は、民政党や政友会だけでなく、財界からも新官僚からも入閣者を得、陸軍も社会大衆党もそれを支持した。すでにたびたび使ってきた表現によれば、それは「小キザミ」化した諸政治勢力のすべてを包摂した内閣であった。

すべての政治勢力に支持された内閣には、基本路線もなければ信頼できる与党的勢力もない。その時々の状況により、右に行ったり、中道に行ったり、左に行くしかない内閣構成だったのである。そのような内閣の成立後約一ヵ月で、・・・・日中全面戦争の危機が生じたのである。「危機の時代」が懐かしくなるような「崩壊の時代」が始まったのである。

・・・・「崩壊の時代」に入っていった最大の原因は、すでに国内の指導勢力が四分五裂していて、対外関係を制御できなくなっていたからである。そしてこの四分五裂状態は、一九三二年以来五年がかりで深められてきたものであり、いわば勝者なき分裂状態に陥っていた。近衛内閣はこの分裂状態を克服しないで固定化し、そのまますべてを包摂してしまった。日中戦争を途中で停めたり、日英米戦争を回避したりするための政治体制の再編をめざす指導者は、もはや存在しなかったのである。

 

 

 

本書の刊行は2012年である。

東日本大震災の後、戦後復興を成し遂げたことを思い起こして、震災後の復興に積極的に取り組もうとの論調に接した著者は、しかし震災後の我が国は本書の末尾にある1937年の戦前日本、「崩壊の時代」の入り口にいるのではないか、との不吉な予感を述べる。

確かにそう思えないでもありません。

衆愚的国民が形作る「世論」とそれを秘かに誘導する煽動者が絶対的支配者となり、皮相な「多数派意見」以外のあらゆる価値が相対化され、あらゆる極論の蔓延で政治勢力は「四分五裂」し、国家の運営は大衆の「気分」次第で迷走するばかり。

これで国が滅びなければ、相当の幸運です。

もう、いかなる楽観も許されない時代に入ったな、との予感はあります。

たとえ何があっても、結局それが日本の運命なんだと受け入れるしかないでしょう。

 

 

 

刊行当時から常に気にしてきた著作をついに読んだが、やはり圧倒的に素晴らしい。

この人の本には、全くハズレというものがない。

一通りの史実が頭に入っていないとあまり強い印象は受けないかもしれないが、私を含め中級者クラスなら、あまりの面白さに驚倒するでしょう。

絶対にお勧めです。

2016年11月2日

横手慎二 『スターリン  「非道の独裁者」の実像』 (中公新書)

Filed under: ロシア — 万年初心者 @ 02:00

ごくごくオーソドックスな形式の伝記。

史的解釈においても極論を避け、至極穏当な見方を導き出している。

読みやすいが、特筆すべき点は無い。

個人的にノートしておくべきと思った具体的記述は無し。

本当に、何にも書くことが無い・・・・・。

コンクェストの伝記のほうが面白いが、初心者はまず本書を読んだ方がいいか。

まあ普通です。

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