万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年10月29日

プラトン 『饗宴』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: 思想・哲学 — 万年初心者 @ 01:10

結局これを読まないわけにはいかないんでしょうねえ・・・・・。

主要著作の中では一番読む気がしないのだが、新訳でもあることだし、この版を手に取った。

ペロポネソス戦争中の前416年、ソクラテスが参加した宴席が舞台として設定されている。

出席者が愛を司るエロス神を賛美する演説を重ねていくのだが、その中で、太古の人間は頭が二つ、手足がそれぞれ四本の二身同体の存在だった、しかし神々の怒りに触れ真っ二つにされた、それからかつての片割れを求めて、愛する人を求めるようになったのだ、という有名な寓話の語り手が、喜劇作家のアリストファネスであることは今回読んで初めて知った。

ただ、現実のアリストファネスは保守的な人物でソフィストとデマゴーグを徹底批判したが、なぜかソクラテスをその一員として辛辣に描くという、とんでもない誤解もしており、この作中の彼はプラトンの脚色が強い、と訳者は書いている。

これらの話に対して、ソクラテスは、エロスは美・正と醜・悪、また神々と人間の中間に位置する精霊であり、後者から前者への向上力をもたらすものだとする。

そしてその美しくよきものを永遠に保とうとして、子を成すことを通じて不死を達成しようとする。

これは肉体的な意味でだが、精神上の良き魂と徳を育み継承することについても言え、それがより尊いものである。

ここで酔っ払ったアルキビアデスが登場、ソクラテスの賛美を始める。

ソクラテスに心酔するようになったアルキビアデスが、当時の風習に従い、彼と少年愛の関係を結ぶ決心をしたが、ソクラテスはアルキビアデスの肉体的美しさには全く目もくれず自制したこと、その後戦場に市民の義務として出征した際、ソクラテスがいかに勇敢で忍耐強かったかが雄弁に語られる。

そして以下のような気持ちを述べる。

・・・・ぼくは、この人と一緒にいるときだけ、ある気分にとらわれる。ぼくがそんな気分にとらわれるなんて、思いもよらないだろう――誰かに対して自分を恥じるなんて。だが、ぼくはこの人に対してだけ、自分を恥ずかしいと感じるのだ。

ぼくにはよくわかっている。ぼくは、この人の命じることをやらなければならず、逆らうなんてできない。でも、この人のもとを離れると、ぼくは、大衆に賞賛されたいという誘惑に負けてしまうのだ。だから、ぼくはこの人から離れて、逃げる。しかし、この人の姿を見ると、かつて自分が認めたことを思い、わが身を恥じるのだ。

ぼくはしばしば、この人がこの世から消えてしまえばいいのにと考える。しかし、ぼくにはよくわかっているのだ。もし、本当にそうなったら、ぼくはいまよりずっと苦しむことになるだろう。だからぼくは、この人をどう取り扱ったらいいのかわからない。

こういう殊勝な考えを持ち続けていればよかったんですがねえ・・・・・。

この翌年、前415年アルキビアデスは無謀なシチリア遠征を煽動し、あるきっかけから祖国を裏切り、スパルタに投じる。

以後アテネは衰亡の一途を辿り、前404年ペロポネソス戦争に敗北。

アルキビアデスも同年暗殺。

前399年ソクラテスは裁判にかけられ刑死。

その背景として、ソクラテスがアルキビアデスやクリティアス(敗戦後、「三〇人政権」として暴政を敷いた人物)との親交を批判されており、プラトンはそれへの反論を行う必要があったという。

しかし本書について言えば、アルキビアデスを一方的に非難するようなものではない、とのこと。

 

 

思っていたよりもはるかに面白かった。

訳文は素晴らしくわかりやすいです。

それも面白く感じられた理由として大きいでしょう。

これだけ有名な著作を読まないわけにはいかないので、新しい訳の本書であっさり済ませましょう。

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2016年10月25日

チョーサー 『カンタベリー物語』 (角川文庫)

Filed under: 文学 — 万年初心者 @ 02:06

岩波文庫で全3巻の全訳が出ている。

中身を見ると、読めないことはないかと感じるが、ボッカチオ『デカメロン』を抄訳で済ませているのに、これの全訳を読むのは、ちょっとバランスに欠けるかとも考えた。

それでいろいろ検索すると、昔角川文庫でこの抄訳が出ていたことを知る。

序章を含め9章を訳出し、200ページ弱の文庫本にまとめてある。

だから省略部分はかなり多いと思われるが、初心者が雰囲気を感じ取るだけなら、これくらいでいいでしょう。

末尾の解説含め、本書でどこにも抄訳であることを明言していないのは、少し気にかかるが。

内容は取り立てて言うことは無い。

14世紀イギリス、カンタベリに巡礼に向かう29人の、様々な職業・社会階層の人々が、道中の徒然にそれぞれ物語を披露する、という『デカメロン』とよく似た形式。

話の中身も、やや卑猥なところを含む滑稽譚で、似ている。

初心者でも十分読める難易度。

古典的書名を読了リストに追加できただけでも良かった。

2016年10月20日

小川了 編著 『セネガルとカーボベルデを知るための60章』 (明石書店)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 16:38

「エリア・スタディーズ」というシリーズ名と「~を知るための○○章」というタイトルで、ものすごい数がこの出版社から出ている。

第一弾として、これを選ぶ。

セネガルは、アフリカ西端にある国。

首都はダカールという結構有名な都市。

主要民族はウォロフ人など。

国民の95パーセントがムスリムというイスラム国家だが、さほど厳格な戒律が施行されているわけでもない。

西は大西洋に面し、北はモーリタニア、東はマリ、南はギニアとギニア・ビサウに接する。

そして国の中を流れるガンビア川流域は、ガンビアという別の国家になっている。

型抜きされたみたいで、何とも妙な感じ。

セネガルが旧フランス領だったのに対し、ガンビアは旧イギリス領、英仏間の領土交換による併合や、独立後の国家統合が模索されたこともあるが、結局現状のままになっている。

1444年ポルトガル人が到達。

1659年フランスがサン・ルイに、1677年ゴレ島に拠点建設、ゴレ島は奴隷貿易の基点となる。

七年戦争で一時イギリスが奪取するが、アメリカ独立戦争で返還。

19世紀後半、第二帝政下、総督フェデルブが内陸部を平定、1886年カヨール王国のラット・ジョール王が仏軍により殺害、同世紀末には完全植民地化。

アフリカ黒人で初めてフランス国会議員になったブレーズ・シャーニュらの運動を経て、「アフリカの年」1960年に独立。

初代大統領はサンゴール。

この人名は憶えましょうか。

フランス語による著名な詩人であり、「ネグリチュード」(黒人性復権)運動の主唱者でもある。

新興独立国の多くの政治指導者が、急進的な内外政策に傾き、ソ連など東側諸国に接近したのに対し、サンゴールは穏健派として親仏親西側路線を貫いた。

ただし、内政では当時の主流思潮と言える「アフリカ社会主義」を唱え、「社会主義というよりも、未熟な資本主義を食いつぶす寄生的官僚主義の体制を生み出した」という、第三世界の国で非常によくあるパターンに陥ってしまったようだ。

サンゴールは1980年まで大統領の職にあったが、まあ他の国の惨状に比べれば、その業績はまだ肯定的に評価できる方か。

 

本書から読み取ることは、以上でいいでしょう。

アフリカの西端にあって、フランスの元植民地で、首都がダカールで、イスラム教国で、「独立の父」がサンゴールで、親西側路線を取った人物だった、とこれだけで十分。

 

次のカーボ・ヴェルデ。

セネガルの沖にある島国。

要は、国名はヴェルデ岬(「緑の岬」)のことで、それが島国なのに国名になった。

1460年ポルトガル人が到達した時点では無人島。

アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウと共に、アフリカで最後に残った植民地帝国であるポルトガル領の一部であり、1974年ポルトガル本国の反サラザール政権クーデタの後、1975年独立。

マルクシズムの影響の強い勢力が政権を握ったが、幸いさほど教条的政策は取らず、1990年後は一党独裁制は廃止され、平和的政権交代が実現しているようだ。

この国について憶えることは、地理的位置と、他のアフリカ諸国から遅れて、ポルトガルから70年代半ばに独立した、ということだけ。

 

 

歴史に関する章だけ集中して読み、後は軽く流していいでしょう。

通読する必要は必ずしもありません。

そこそこ役に立つ本ではあります。

2016年10月17日

ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー四世 第一部・第二部』 (白水社uブックス)

Filed under: イギリス, 文学 — 万年初心者 @ 04:47

この版では、一部・二部がそれぞれ一巻本になっているが、話は完全に繋がっているので一つの記事にした。

エドワード黒太子の子リチャード2世から王位を奪って、ランカスター朝を創始したのがいとこのヘンリ4世で、その簒奪行為に協力しつつも、やがて疎んじられたノーサンバランド伯パーシー家の反乱と鎮圧、ヘンリ4世の死去までを描いた史劇。

もっともヘンリ4世が主人公とは言いがたく、実質的にはその息子で皇太子のハル(ヘンリ)が物語の中心。

放蕩無頼の限りを尽くすドラ息子といった感じのハルが突如その英雄的資質を表わし、反乱を鎮定、父王死後ヘンリ5世として即位、後に百年戦争を再開して最も英国優位の情勢を作り出すことになる。

またこの作品では、ハルの取り巻きの一人で、道化じみた悪徳騎士フォールスタッフのキャラクターも極めて有名。

フォールスタッフらの毒舌・雑言の中に潜むウィットは、現代人が読んでも笑いを誘う。

権力の栄枯盛衰を背後から操る世論の問題というテーマが中心となっているように思える作品だが、その重苦しさを笑いで中和してくれている。

なかなか良い。

シェイクスピア史劇では、少なくとも『ヘンリー五世』よりは印象に残るし、『リチャード二世』と並んで良い。

 

「噂」登場、一面に舌の模様を描いた服をつけている。

さあ、耳を開いて聞きな、それがし、「噂」が大声で

しゃべろうってんだ、耳に蓋するわけにはいくまい?

日の昇る東のかたより日の沈む西の涯まで、

風を早馬に仕立てて乗りまわし、この地上に起こる

あらゆる出来事を伝えひろめるのがおれの役目だ。

悪口、中傷をひっきりなしにこの舌先にのせ、

それを世界各国のことばでしゃべりまくり、

人々の耳に偽情報を詰めこむのがおれの商売だ。

たとえばおれが天下泰平だと言うのは、かくれた敵意が

平和の微笑のかげに刃を秘めてこの世を傷つけてるときだ。

また、大きくふくれあがった世界の胎内から

いまにも暴虐な戦争が生み落とされると思わせ、

兵隊集めや防衛準備に狂奔させておいて、実は

なにごともなし、なんて騒ぎを起すのも、このおれ、

「噂」の仕業でなくてなんだ?「噂」とは

疑心暗鬼、揣摩憶測が吹き鳴らす笛だ、それも

穴をおさえて吹くだけでいとも簡単に音が出るので、

あっちへふらふらこっちへふらふらする大衆ってやつでも、

むやみに吹き立てることができるんだ。いや、いまさら

天下衆知のおれの実体をご説明する必要はなかったな、

あんたがたはおれの身内なんだから。・・・・・・

 

大司教

・・・・・・わが国民はいまやみずから選んだ王にいやけがさしている、

あまりにもむさぼるように愛したため食傷している。

うつろいやすい民衆の心を土台にして家を建てるものは、

ぐらついてあぶなっかしい住居に身をおくことになる。

ああ、愚かな大衆どもめ、おまえたちはかつて、

おまえたちの望みどおりボリングブルック[ヘンリ4世]が王座につく前は、

天を拍つ歓呼の声をもって彼に祝福を与えたものだった!

ところがいま、彼がおまえたちの望んだ栄光に包まれると、

なんという食い意地の汚さだ、もう彼に食い飽いて、

みずから胸をむかつかせて彼を吐き出そうとしている。

そう言えば、おまえたち野良犬は、その貪欲な胸から

故王リチャード二世を吐き出したくせに、いままた

その反吐の死体をもう一度食いたがり、捜し求めて

うるさく吠え立てている。こういう連中が信じられるか?

リチャード王在位中はその死を願っていたやつらが、

いま、その墓に熱い恋心を捧げているのだ。故王が、

世の賞賛を一身に集めたボリングブルックのあとに従い、

傲然とかまえたロンドン市中を溜息ながらに引きまわされた

あのとき、その頭上に汚物を投げつけたおまえたちが、

いま、「大地よ、あの王を返し、この王をのんでくれ!」

とわめいているのだ。人の心の、なんと呪わしいことか!

過去と未来は美しく見え、現在はもっとも醜いと思うのだ。

2016年10月1日

中野剛志 『レジーム・チェンジ  恐慌を突破する逆転の発想』 (NHK出版新書)

Filed under: 史論・評論 — 万年初心者 @ 06:30

2012年刊。

長年続くデフレ不況の中、リーマン・ショックと東日本大震災の直撃を受けた日本の現状を直視し、そこからの回復の道を示す本。

1930年代の典型的デフレ不況である世界恐慌の経験から、デフレだけは回避しなければならないというコンセンサスにも関わらず、日本は十数年間デフレに陥ってしまっている。

我々は、財政ではなく経済を健全化しなければならない。

そもそも1990年代からの、「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「自由化」「グローバル化」を内容とする新自由主義的構造改革の推進から、デフレは始まっている。

しかし、80年代初頭、レーガン米政権やサッチャー英政権が新自由主義的改革を断行したのは、悪性のインフレを収束させるために人為的にデフレを起こすことを目的にしたもの。

それに対し、日本はバブル崩壊でまさにデフレに転落しようかというときに、構造改革路線を採用してしまった。

ここで「政策レジーム」という概念を提示。

政府や中央銀行といった政策当局が実施する政策の大系を指す。

人々は個別の施策というよりはこの政策レジームに反応して行動し、政策レジームに反する施策には、それを例外と見なして反応せず、その施策は効果を発揮しない。

今求められているのはインフレ抑制を目指す「デフレ・レジーム」から、デフレ脱却を目指す「インフレ・レジーム」への転換である。

政策レジームが変わらない限り、「政策通」や「改革派」のエリートの活動はデフレを深刻化させるだけであり、政権交代すら無意味。

「問題を発生させたのと同じ考え方では、その問題を解決することはできない」(アインシュタイン)のである。

以下、本文の内容。

 

 

第一章、デフレのメカニズム。

デフレとは国民経済全体で「需要不足・供給過剰」の状態が続き、物価が持続的に下落する現象。

ハイパーインフレは貨幣価値が下落しお金の意味を失わせるので、その弊害は直感的にも明らかだが、デフレの悪影響もそれに勝るとも劣らない。

それは「債務デフレ」というメカニズムで説明され得る。

将来の貨幣価値上昇を見越して、企業は借り入れを減らし投資を抑制、消費者もローンを組むような大型支出を控えるようになる。

経済主体のこうした「予想」や「期待」に基づく行動によって、消費と投資は減少し、需要は縮小、それを受けてさらに供給過剰の将来予想が形成され、悪循環が続く。

通常の景気循環における不況と異なり、放置すればデフレはほぼ底無しに続く。

なお、原材料価格の上昇による「コスト・プッシュのインフレ」や消費税増税による物価上昇は貨幣現象だけ見ればインフレだが、実体経済での実情はデフレであり、実体面での「需要不足・供給過剰」の状態を直視すべきである。

デフレ経済下で賃金が下がっても、物価も下がるのなら問題ないと一部で思われているが、将来への悲観から「投資」という資本主義の根幹を成す行為が停滞してしまう。

また、供給が縮小するスピードより需要が縮小するスピードの方がはるかに速いので、自然にデフレが終息することはない。

製品の価格が即座に変化する一方、企業や労働者は長期的契約に基づいて経済活動を行っているし、「賃金の下方硬直性」と言われるように、人々は慣習的に形成された「公正賃金」以下の対価では働こうとはしない。

ここで、新自由主義的経済学者は、「労働市場の流動化」を行い、解雇条件緩和や「公正賃金」以下への賃下げを可能にすることを主張する。

だが他業種・他職種への転職コストの存在などにより労働市場の調整は、経済学者が想定するようには行われない。

それに職業という人生の根幹をなす部分を不安定化することは、人間の存在そのものを否定することに繋がる。

さらに労働者が労働力の供給者であると同時に需要の担い手である以上、雇用の不安定化は供給能力削減であると同時に消費需要の減退でもあり、結局需給バランス均衡には至らない。

そもそも、なぜデフレが発生するのか。

その最大のきっかけは、バブル崩壊による金融危機。

経済学者ミンスキーの研究によれば、それは個別的偶発的事情に基づくものではなく、資本主義経済システムに内在する欠陥によるもの。

好景気時には人々は将来に楽観的になる。

実物市場では「現在」得られる商品やサービスに対して支出を行うので、その取引は比較的確実だが、投融資という金融は「将来」の利益を問題にするため、どうしても「予想」や「期待」という主観的で不確実な要素が入り込む。

直近の好調な経済状況だけに動かされ、高リスクの投資が行われ、経済全体の債務比率が高まり、それが借金で手元資金を膨らませる「レバレッジ」と金融商品のイノベーションでさらに増幅されるが、そうした根拠無き熱狂がちょっとしたきっかけで反転し、「予想」や「期待」は一気に悲観的になり、金融市場は崩壊し、巨大な債務とデフレが発生する。

主流派経済学者は、市場を、「現在の利益」と「現在の支出」の取引であり、比較的安定している実物市場のイメージで捉え、それを安定的・自動均衡的なものとみなすが、ミンスキーは「将来の利益」と「現在の支出」の取引である金融市場は人々の主観によって激変する極めて不安定なものであるとする。

そして、19世紀後半の第二次産業革命以降、重工業が中心となった資本主義は金融市場無しには存続できず、それが機能しないデフレ不況は、(単なる市場経済ではない)資本主義の心肺停止状態とすら言える。

金融面だけでなく、実体経済でもデフレ圧力を加える要因はある。

成熟経済化による消費や投資の飽和、技術進歩や生産性向上による(正常なインフレ下なら経済成長の要因となるはずの)供給能力向上、コスト・プッシュ・インフレ、政情不安・社会保障制度不備による将来への悲観論、グローバル化がもたらす労働条件の「底辺への競争」、株主の利益を最重視し偽りの「トリクル・ダウン」論で富裕層擁護を正当化し労働分配率を押し下げる金融資本主義の跋扈、等々。

これらの要因が日本と世界各国を襲っている。

 

 

第二章、デフレがもたらす恐るべき弊害。

まず第一に失業の増加。

これは経済的困窮以上に人間性に深刻なダメージを与え、社会不安の最大の原因ともなる。

人々に効用をもたらすのは消費であり、労働は苦痛をもたらすだけという経済学の教科書的理解は誤りである。

ネオリベ的経済学者がよく主張する「非効率部門の淘汰」は、企業倒産と失業者増加を人為的に促進しようとするのだから、その反道徳的姿勢は明らかだが、道義面をひとまず措き、経済的観点から見てもその主張は誤りである。

非効率的部門の淘汰はさらなる供給過剰をもたらし、失業した労働者は同時に消費者でもあるのだから需要不足は加速し、需給ギャップはさらに拡大する。

非効率的な企業や人材が多く存在するから、国民経済全体が非効率なのではなく、デフレだから非効率なのです。言い換えれば、企業や労働者が効率的であるかどうかは、彼らの生産能力が高いか否かではなく、十分な需要があるか否かによって決まるというわけです。「非効率部門を淘汰せよ」と言う論者は、原因と結果を取り違えているのです。

小泉政権による不良債権処理も、輸出主導による一時的景気回復で不良債権が減ったのであって、不良債権が減ったから景気が回復したのではない、と評されている。

デフレは短期的に国民経済を非効率化するだけでなく、長期的には供給能力の破壊を通じ潜在的成長率と国際競争力を低下させ、「デフレ→通貨高→デフレ」の悪循環をもたらし、寡占・独占状態の業種を増やし経済構造を硬直化させてしまう。

さらに将来のための投資も阻害する。

投資は現在においては「需要」だが、将来においては「供給」であるという、異時点の経済行動である。

ここで重要な論点として、著者は、これまで批判してきた新自由主義的「右派」経済学者だけでなく、リベラル・左翼的な「需要抑制」「低成長(ゼロ成長)容認」論も批判する。

確かに成熟経済において無理に消費を拡大する必要は無いが、インフラ・教育・環境・文化の維持継承と低成長論者が望むエコロジカルで幸福な経済と社会のためには、様々な将来への投資は絶対に必要である、とする。

デフレによる将来悲観は少子高齢化も加速するが、実は将来の少子高齢化社会においては労働力不足からインフレになると予想される。

それから著者の予想する日本の将来は、あくまで暗い。

デフレによる供給力破壊と少子高齢化が進行、将来の供給力不足を解消するために必要な投資は行われず。

おそらくいずれかの時点でデフレは終息するだろうが、その後には慢性的な悪性のインフレが起こると予想される。

経済学者や経済政策担当者の多くは、特にわが国においては、デフレ以上にインフレを警戒する傾向が強くあります。彼らは、デフレ脱却のための財政出動や金融緩和といった議論に対しては、「それらはインフレを引き起こす懸念がある」と言って抵抗します。しかし、デフレの放置は、これまで述べてきたような経路をたどって、長期的には、低成長社会と少子高齢化をもたらし、そして彼らが最も恐れる慢性的・構造的なインフレを発生させる可能性すらあるのです。

デフレは圧倒的多数の国民には耐え難い苦痛をもたらすが、債権者とすでに資産を築いた富裕層、輸出志向の大企業にとっては有利である。

もう完全に良心を捨てて、自分の富を権力に転化してくれるデフレを続けることを念願し、情報産業をカネで操って実質的にかなりの程度動かしている富裕層は間違いなく存在しているでしょう。

国内での様々な格差が拡大するだけでなく、国際社会でも外需獲得競争、失業の輸出、近隣窮乏化政策をめぐって国家間対立が激化、全体主義が台頭する。

その1930年代の歴史が21世紀に繰り返されるのではないか、と著者の懸念は深い。

 

 

第三章、デフレ・レジームの致命的錯誤。

デフレ・レジームとは新自由主義的改革である。

「小さな政府」「健全財政」「規制緩和」「自由化」「民営化」「グローバル化」「金融引き締め」「労働市場の自由化(雇用の流動化)」「構造改革論」「効率市場仮説」「株主(金融)資本主義」「障壁なき自由貿易」「資本移動の自由化」、と並べていくと、心底うんざりするようなものがその内容。

1990年代からそれらを実施した日本は、改革が不十分だったからではなく、改革が進んだために、深刻なデフレ不況に落ち込むことになった。

その象徴が「公共投資悪玉論」。

自然災害が多く、高度成長期に大規模整備したインフラの更新が控える日本では他国より多くの公共投資が必要とされるのが当然なのに、国民の生命を守ることに直結する事業すらが削減される事態になってしまっている。

デフレ・レジームは、政治による経済への介入を、本来効率的安定的であるはずの市場の役割を歪めるものと考える反民主主義的なものである。

だが、第二次世界大戦後の西側諸国に生まれた「民主資本主義」は、大恐慌と左右の全体主義、世界大戦という悪夢を経て、ようやく資本主義を飼いならすことに成功した何より貴重な存在だったはずである。

それを捨て去り、経済運営を「非政治化」しようとするのは、実質的には「政治の無責任化」である。

(著者は保守派として民主主義を絶対視するような立場であるはずがないし、私も同様だが、全体主義との相対比較では民主主義を擁護するのが当然であるように、自由放任的資本主義に対してはその民主的統制を支持するべきであるのは言うまでもない。ただ根底では後者が前者の基盤になっていることを忘れるべきではないと思う。[資本主義自体が個人主義的平等主義を基盤にしているという意味で])

 

 

第四章、デフレ克服のための政策レジームについて。

第二次大戦後、(最近までは日本を不名誉な例外として)デフレが回避されてきた原因は、中央銀行の機能と政府支出の拡大によるもの。

国民経済がデフレに陥ると、企業や消費者にとって投資や消費を控えるのは間違いなく経済合理的行動だが、その結果デフレ不況は底無しに悪化し続ける。

政府が経済合理性を超越した「愚か者」になって支出を拡大する以外にデフレ脱却の道は無い。

公共事業に「無駄遣い」というレッテルが貼られて久しいが、需給ギャップを埋めるためには、たとえ「無駄な」事業でも有効であることに変わりない。

もちろん、誤解を避けるために言えば、無駄な施設を造るよりも、必要な施設を造った方が良いのは間違いありません。それでも、デフレ時には、穴を掘って埋めるだけの公共投資であっても、全くやらないよりははるかにましなのです。そのような一見非常識なことが正しくなるのは、デフレがそれだけ異常な経済状況だからなのです。

しかも、日本では防災対策、インフラ更新などいくらでも必要性の高い事業があり、これらはたとえインフレの状況下でも遂行しなければならないはずのものである。

ミンスキーは、本質的に不安定な資本主義の存続のためには、それを「再政治化」し、「大きな政府」と規制の拡大、社会保障の整備と所得格差の縮小が必要だ、と結論付けている。

財政出動は長期的には効果が無く、財政赤字を生み出すだけだとする主張があるが、日本経済は1980年代後半好景気でインフレを懸念すべき時に米国からの内需拡大要求の圧力に屈して公共投資を拡大させバブルを生み、90年代後半不景気でデフレを懸念すべき時に公共投資を減額させ金融緩和も不十分だった。

不況ならば財政出動を行い、好況ならば財政支出を削減するといった、政府の裁量による経済運営は「ケインズ主義」と呼ばれていますが、八〇年代以降、このケインズ主義はもはや有効ではないと言われてきました。九〇年代後半以降の構造改革論は、まさに「ケインズ主義的な財政政策では景気回復はできない」という信念に基づいていました。しかし、実際には、日本が長期の不況に陥ったのは、ケインズ主義が無効だからではなく、ケインズ主義とは逆のことを二度もやったからだったのです。

そのケインズ主義の「原資」は、増税ではなく国債発行で賄うべき。

増税の場合、民間の可処分所得から強制的に吸い上げる形になるので、そのデフレ効果によって、財政出動の効果が相殺されてしまう。

国債の方が、滞留する民間貯蓄からスムーズに資金を吸い上げることができる。

このような対策を説くと、必ず「日本の国が借金漬けになり、財政破綻してしまう」という反対論が生まれる。

これは、本来政府による所得再分配に賛成して当然のはずの左翼・リベラル系の人々すら、新自由主義的構造改革に反対できなくなる最大の理由と思われるので、極めて重要である。

しかし、著者はデフレ下の日本の財政破綻説は全く杞憂だと強調する。

個人や企業の債務と国債は全く性質が異なる。

政府は通貨発行権という特権を持っているので、最終的には自国通貨を発行して返済に充てることができる。

これまで財政破綻した国家は自国通貨ではなく外貨建てで国債を発行して返済不能になった国である。

そのため、対GDP比で、日本よりはるかに政府債務の割合が小さかった国が破綻している。

ただし、これは通貨発行権を持つ中央政府の場合で、地方自治体はその特権を持っていないので、財政破綻の危険ははるかに高い。

その意味で、「地方分権」「地域主権」の掛け声も、地方自治体が中央政府よりも財政への懸念から支出拡大に慎重にならざるを得ないことを考えると、デフレ下では不適切なものである。

日本は世界最大の貯蓄超過国であり、国債がほとんど国内で極めて低金利で安定的に消化され、経常黒字・債権国であることを考慮すれば、財政破綻説には根拠が無い。

国債乱発によるハイパーインフレも、戦争等の異常事態で供給力が破壊された時にのみ起こるもので、今の日本では考えられない。

日本国債の大部分が日本国内で消費される「内国債」である以上、国債発行を拡大しても富は日本国内を還流するだけである。

公共投資や政府債務の是非は、その絶対額ではなく、それが国民経済に与える影響によって判断すべきであるとする「機能的財政論」に著者は立ち、収支均衡を金科玉条視する「健全財政論」を強く否定する。

経済学者の中には、財政出動ではなく「インフレ・ターゲティング」という金融政策を主張する者も多い。

しかし、インフレ目標の提示だけで人々のデフレ・マインドが転換するとは考えがたく、ルーズヴェルト米政権や日本の高橋是清蔵相などの成功者も、金本位制離脱だけでなく、財政出動と政権交代が与えるインパクトなど、あらゆる手段を講じてデフレを脱却している。

さらに金融緩和は、国内の投資や消費を増やさず、国内外の投機マネーを活発化させ、コスト・プッシュ・インフレや新興国バブル(とその後に続くデフレ深刻化)を引き起こすし、中央銀行が物価の動向だけに着目する経済運営自体がデフレ・レジームであり、グリーンスパンFRB(連邦準備銀行)議長はそれで資産バブルを見落とし、リーマン・ショックを招くことになった。

 

 

 

第五章、議論のまとめとあるべき資本主義の姿。

主にルーズヴェルト政権下で、1934~48年FRB議長となったマリナー・エクルズの功績を紹介。

本書の内容は、この四半世紀、日本で「改革」と称されてきたものの、ほぼ逆を主張するものである。

「大きな政府」による財政出動と規制強化、投機的活動の自由制限、インフラ整備、社会保障拡充、労働者保護等々。

新自由主義的構造改革によって、雇用が不安定化し、非正規雇用者が激増し、勤労所得が減少し続け、様々な社会保障制度が後退し、国民生活が困窮の一途をたどっているのに、そこから生まれた閉塞感がメディアの煽動でさらなるネオリベ的「改革」支持に向かわされ、さらに事態が悪化する、という目も眩むような欺瞞が20年以上、終わることなく続いている。

そんなものに易々と騙される我々国民は、もう馬鹿としか言いようがない。

私自身は本書の主張全てに賛成である。

だが著者の構想がまとまった政治勢力の綱領となり、それが政策的に実現されるかどうかを考えると、答えは絶望的と言うしかない。

このままごく一部の成金的富裕層の実質的支配下に置かれながら、ますます荒廃する一方の社会で暮らしつつ、その流れに積極的に加担することだけは避け、著者のように流れに抗する真の識者を陰ながら応援しつつ、国が滅びるのを静かに待つ、ということしか、多少ともまともな人間の生き方は無いでしょう。

 

 

『国力とは何か』『グローバル恐慌の真相』『保守とは何だろうか』と中野氏の本を紹介してきたが、この方の著作には全くハズレが無い。

どれも強くお薦め出来るものばかりです。

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