万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年9月10日

筒井清忠 『昭和戦前期の政党政治  二大政党制はなぜ挫折したのか』 (ちくま新書)

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戦前、「憲政の常道」と二大政党制に基づく政党内閣の時代は、1924年から32年までの八年間しか続かず、六つの内閣しか存在しなかった。

その過程と原因を考察した本で、2012年刊。

 

まず、その前史を記述。

1921年原敬暗殺後、与党政友会は、高橋是清総裁の下、床次(とこなみ)竹二郎派と横田千之助派に分極化。

24年貴族院を中心とする清浦奎吾内閣が成立すると、横田を主導者として政友会は憲政会(総裁加藤高明)・革新倶楽部(総裁犬養毅)と護憲三派を形成、一方床次は政友本党を結成して清浦政権与党に。

第二次護憲運動と総選挙の結果、護憲三派が勝利、加藤高明内閣が成立。

以後、一内閣に一章を割り当て、その政権運営と著者の評価が記されている。

 

 

加藤高明内閣(護憲三派・憲政会単独 1924~26年)

明治憲法下において選挙結果で選ばれた唯一の首相、他は首相となってから解散総選挙を実施し、選挙民の判断を受ける形になっている。

外相幣原喜重郎、内相若槻礼次郎、蔵相浜口雄幸、陸相宇垣一成という重厚な布陣。

施策としては、まず政務次官の設置。

官僚・軍部に対する政治主導の確保と若手政治家育成を意図。

行財政整理およびその一環として宇垣軍縮。

加藤友三郎内閣での山梨軍縮と合わせて、大正デモクラシー下での成果だが、この時期の行き過ぎた軍人への冷遇が反動をもたらし、昭和期には軍台頭の原因となる。

25年政友会有力者で司法相に就任していた横田が死去すると、若槻内相、江木翼(たすく)内閣書記官長の不手際もあり、難航したものの、普通選挙法および治安維持法が成立。

貴族院対策も怠り無く、衆院の優位が確立し、貴族院は実質的に第二院化。

25年死直前の横田の働きで、政友会総裁が高橋から陸軍大将田中義一に交代、その後革新倶楽部が解散、政友会に合流。

憲政会・政友会の対立が深まり、閣内不一致で第一次加藤内閣は総辞職、再度加藤に大命降下で第二次加藤内閣が憲政会単独で組閣。

憲政会は政友本党の床次に接近、これに反発する政友本党内の鳩山一郎らは脱党、政友会へ復帰。

第二次内閣では、同様に「政治主導」の官制改革を進めたものの、政党による猟官運動が「党弊」批判を生み、枢密院改革では親政党化を期して学者任用を進めたが、かえって平沼騏一郎が副議長に就任してしまう。

外交では日ソ基本条約調印。

海軍予算問題で浜口蔵相と海軍の対立を加藤が調停したと書いてあるのを読むと、時代状況がさほど切迫していなかっただけとも言えるが、それでも昭和期に加藤の手腕が発揮されることが無かったのが惜しまれる。

小作争議調停法、改正工場法、健康保険法など社会政策上の成果も上げている。

26年1月、体調不良の中、無理を押して登院した加藤は急死。

 

政治家としての加藤の評価は高い。西園寺公望は「今にして思えば、木戸、大久保、伊藤、或いは加藤高明、やや落ちるが、原敬など、いずれもひとかどの人物だった」(・・・・・)と言っている。・・・・・それにしても驚くべき高評価である。

外国人の評価が高いのも一特質で、チャールズ・エリオット英駐日大使は「着実で落ち着き、まっすぐに進んだ加藤」と言い、エドガー・A・バンクロフト米駐日大使は「率直さと政治家にふさわしい精神が注目に値する」と評している・・・・・。

こうした加藤への高評価からは次のような見方も出てきている・・・・・。すなわち、駐英公大使時代に英国の二大政党制に深く学んだ加藤が、憲政会の責任政党化、政友本党の憲政会吸収の道筋をつけて、以後の二大政党時代を導出したのである。また、“二大政党制は、基本的な問題に対するコンセンサスが政治社会に行き渡っている時に円滑に作動する”(G・サルトーリ)のであり、原と加藤という藩閥政府の超克と政党政治の確立を共通の目標とした二人が指導者であることにより、日本の二大政党制の基礎は確立した。

この見方だと、この時期の二大政党制があまり長続きしなかったことの説明が求められるになるが、それは若槻と浜口の責任ということになる。

すなわち、加藤歿後、憲政会内閣を組織した若槻は、解散と勝利により衆議院に基礎を置く内閣の基盤を固めて、日本政党政治を確立させ得た可能性が高いにもかかわらず、その勇気がなく、話し合いによる政争回避を企図した、結局金融恐慌もあり、若槻内閣は一年余で総辞職した。さらに第二次内閣では満州事変に際し陸軍をコントロールできなかった。若槻は「まれなほど印象に薄い人」「決して一流ではない」(ティリー大使)人だった。

また、加藤の剛毅なリーダーシップに倣った浜口は党を再生させたが、柔軟性に欠け硬直化した指導が多く、極端な緊縮財政で不況を深刻化させ、ロンドン軍縮会議では海軍・枢密院と対立し、軍部・超国家主義台頭の一契機を作ってしまった。

大変鋭い、若槻と浜口に厳しい見方だが、こうした見方の当否についてはこれからの章の叙述そのものが回答になるであろう。

 

以後の記述を見ると、著者はこの見方をおおむね肯定しているようだ。

さらに加藤内閣に代表される憲政会・民政党政権への評価から、太平洋戦争末期と戦後、イギリスは「日本の民主化は明治憲法の修正で可能」と考えたし、米国の知日派は「幣原、若槻、浜口」への信頼から比較的穏和な占領政策を構想することにもなった。

 

 

第一次若槻礼次郎内閣(憲政会 1926~27年)

加藤急死後の組閣、当初は全般的に歓迎された。

だが、政友本党との「憲本協定」運営における不手際、憲政会内部での党人派・官僚出身派の派閥対立の制御失敗で、若槻の求心力は低下。

蔵相が急死、人材難および党人派懐柔のため、かねて放言癖で注意を受けていた片岡直温(なおはる)を蔵相起用。

松島遊郭事件、陸軍機密費事件など醜聞が続発。

だが、この第一次若槻内閣の章で最も重視されているのは、鈴木商店破産・台湾銀行救済をめぐる金融恐慌でもなく、中国の北伐進展と南京事件という外交問題でもなく、朴烈怪写真事件というスキャンダルである。

通常の通史では一切触れられることすらない、些細事にも思える事件を、著者が大きく取り上げるのはなぜか?

それは普通選挙による大衆デモクラシーが本格化した時代の弊害を最もよく表わしているからである。

朴烈は23年関東大震災後に爆弾を準備した大逆罪の疑いで金子文子と逮捕、死刑判決を受けた後、特赦されるが、金子は獄中で自殺。

26年朴と金子が取調室で抱き合っている写真が流出、北一輝を通じて政友会幹部森恪も関係し、大々的に報道され、若槻内閣攻撃の手段となる。

・・・・・若槻は演説し「立憲政治は政策の争いだ 朴烈問題など介意の要なし」と「正論」を吐いたが、それが虚ろに響くように感じられるのは、「政策の争い」だけではすまない事態に立ち至っていることが明白だからであろう。すなわち、近づいている第一回の普通選挙では、こうした政治シンボルをめぐる大衆動員の力量のほうが決定的に重要であるはずなのに、若槻にはその認識が全くないことが如実に感じられるのである。

26年末大正天皇崩御、昭和改元、翌27年与野党対立が激化する中、解散総選挙で雌雄を決することを求める意見が憲政会内で強まるが、若槻は政友会、政友本党首脳と会談、辞意をほのめかしつつ、内閣不信任案提出を回避。

この妥協については、今日の政治史研究者の間にも英国的二大政党政治形成のチャンスを潰したという批判が強い。選挙で憲政会が勝っても負けても第一党が政権党になるという慣行が二度続き、日本の政党政治が確乎なものとなった可能性が高いからである。

若槻の動機としては、普選時代に激増した選挙資金を確保する見込みが無かった他、金本位制復帰のために震災手形処理を議会で通す必要があったからと推測されるが、金本位制復帰自体が全く間違った政策なのだから、若槻内閣の特徴である「大蔵省的発想」は極めて視野が狭く不適切だったと言う他無い。

結局、片岡蔵相の東京渡辺銀行関連の失言で金融恐慌発生、鈴木商店倒産、台湾銀行救済案は南京事件をめぐる「軟弱外交」に不満を持つ枢密院によって否決され、若槻内閣は総辞職。

 

その全般的評価。

足軽家出身者の若槻が総理となったこと自体が示す近代日本の開明性・平等性、加藤・浜口内閣と共通する国際協調主義と戦後改革の先取り、後継となった田中義一政友会内閣高橋是清蔵相の恐慌対策を一切妨害しなかった「政策中心志向」と「公平性」などは肯定的に見ることができる。

しかし、こうしたプラス面よりも、若槻内閣に対しては従来から批判的評価のほうが多い。その場合、論点としては、解散総選挙を避けて妥協した点や金融恐慌時に枢密院と最後まで戦わなかったことを問題視することが一般的であった。

だが、内閣崩壊の実相は、朴烈怪写真事件で追い詰められて妥協や多数派工作を図っていたところに、金融恐慌が発生して最後のKOパンチをくらったということであった。すなわち問題は、普通選挙を控え、政策的マターよりも大衆シンボル的マターの重要性が高まっていたことを若槻が十分理解していなかったことのほうにあるのである。「劇場型政治」への無理解が問題なのであった。

若槻は後年この事件を回想して「反対党は、これを大問題として大騒ぎしたが、私は大問題どころか、詰まらん問題と思う。これを政治論にして攻撃するのは、彼らがいかに攻撃の材料に飢えていたかがわかるのである」・・・・・と著している。

ただし、これは若槻ばかりではなく、元老西園寺公望など多くの人がそうであった。

西園寺は「朴烈問題の如きは左程重大とは思わず」「此頃の憂国者には余程偽者多し。大問題にもあらぬものを捉えて妄りに皇室の尊厳を語り、皇室をかさに着て政府の倒壊を策するものすらあり。・・・・・決して彼らに誤らるる勿れ」・・・・・と語っているのである。

朴烈怪写真事件で「天皇」の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人は、以後これを度々駆使した「劇場型政治」を意図的に展開することになる。我々はこれを次の田中義一内閣に、さらに統帥権干犯問題・天皇機関説問題等に見ることになるであろう。ロンドン条約時の「統帥権干犯問題」を取り上げて、政党人自らが自らの首を絞めたと主張する人は多く、それは間違いではない。しかし、政治シンボルの操作が最も重要な政治課題となる大衆デモクラシー状況への洞察なしに、そのことだけを問題にしても、現代に生きる反省には結びつかないであろう。

逆に言うと、「政策論争」を訴える若槻の主張はまぎれもない「正論」なのだが、それだけでは政治的に敗北するのが大衆デモクラシーというものなのである。健全な自由民主主義的な議会政治(それは政党政治である)の発達を望む者は「劇場型政治」を忌避するばかりではなく、それへの対応に十分な配慮をしておかなければ若槻と同じ運命を辿ることになろう。

この問題をここまで拡大させた根源は、一枚の写真の視覚効果(ヴィジュアル的な要素)が政権の打倒にまで結びつき得ることを洞察した北一輝であったが、彼ら超国家主義者こそむしろ大衆デモクラシー状況に対する明敏な洞察からネイティヴな大衆の広範な感情・意識を拾い上げ、それを政治的に動員することに以後成功していくのである。昭和戦前期の政治を「劇場型政治」の視点から再度見直していくことの必要性が痛感される所以である。

前半のこの文章で本書の主要な論旨が出た。

戦前日本の軍国主義の真因は、大衆デモクラシーの暴走である。

その過程で「天皇シンボル」を用いた政権攻撃が多発したが、これは「天皇制の弊害」ではなく民主主義の弊害である。

明治初期以来の近代天皇制はすでにこの時点で大正デモクラシーによって換骨奪胎されており、その政争の道具に成り下がってしまっている。

萌芽期の善き自由民主主義が、軍部や天皇制という外部勢力によって破壊されたのではなく、実質的に明治の権威主義体制から脱していた自由な民意が暴走し、自ら対外膨張と国家革新の極右的言動にのめり込んで民主主義が自壊したと考えた方が、はるかに実態に近い。

現に、戦後は今では信じられないほどの左翼偏向が数十年に亘ってまかり通り、21世紀の現在では「天皇抜きのナショナリズム」が蔓延り、「反日」「売国」などの矯激な言葉が圧倒的多数を占める知能程度の低い衆愚層の煽動に用いられている。

 

 

田中義一内閣(政友会 1927~29年)

鈴木喜三郎、鳩山一郎、森恪が中核。

内相鈴木、外相は田中の兼任のため政務次官森が重きを成し、内閣書記官長に鳩山。

陸相白川義則、海相岡田啓介、そして何より注目すべきは内閣初期に短期間蔵相を務めた高橋是清。

極めて短期間に金融恐慌を終息させたことは、著者も言うように日本の財政・経済史に残る不滅の業績である。

この人を殺したことだけでも、私は二・二六の青年将校を許せない。

田中政権下、憲政会と政友本党が合併し、浜口を総裁にして立憲民政党結成。

この際、マスメディアがシニカルな姿勢で「既成政党」の批判と「新勢力」への期待をステレオタイプ的に報道していたことの悪影響を著者は指摘している。

28年総選挙で政友会辛勝。

鈴木内相の選挙干渉をめぐる与野党対立で議員買収や暴力沙汰を含む野党切り崩し工作が行われ、政党政治の信用を貶める。

第二次山東出兵、張作霖爆殺事件発生。

民政党顧問の床次が離党(29年浜口内閣時に政友会復帰)。

パリ不戦条約の文言、「人民の名において」が問題化。

この事件が、またしても戦われた天皇シンボルをめぐる抗争であったことは言うまでもないが、政府攻撃をしたのが野党の民政党であったことも重要である。朴烈怪写真事件は、憲政会=民政党の政府に対して政友会を中心とした野党が攻勢をかけた抗争であったが・・・・・民政党も天皇シンボルをめぐる抗争を仕掛けていたのである。繰り返すが、開始された日本の大衆デモクラシー下の政治抗争においてこのシンボルが持つ大衆動員力には、党派を問わず抗しがたい魅力があったのである。また、こうした点で民政党を過大評価することは実情に即さないということも言えよう。

張作霖爆殺事件処理について、元老西園寺が不明瞭な態度を示した後、天皇の叱責を受けた田中は内閣総辞職。

 

田中内閣崩壊についての著者の視点。

昭和天皇の田中叱責は個人的行為ではなく宮中側近のアドヴァイスを受けたものであり、張作霖事件だけではなく他の政治問題での内閣への不満が原因であること、政党人は天皇シンボル乱用による反対党攻撃が「天皇親政論」的発想を生む危険に無自覚だったこと、知識人やマスメディアもその種のシンボル的問題と既成政党批判をセンセーショナルに論じるだけで二大政党制の健全な育成に意を注がなかったこと。

田中内閣の崩壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒したということであった。これは政党政治・議会制民主主義にとって好ましくない事態である。いかに「腐敗した」内閣であっても、政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道だからである。言い換えると、「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みは、「政党外の超越的存在・勢力」が「軍部」や「近衛文麿」など形を変えて再生され、メディア世論と合体して政党政治を破壊するに至る背景・下地を作ることになったのである。

 

 

 

浜口雄幸内閣(民政党 1929~31年)

外相に幣原が復帰、蔵相は井上準之助。

内相は安達謙蔵、安達は中野正剛・永井柳太郎・風見章を率い、党内勢力を鉄相の江木翼と二分した。

陸相は宇垣一成。

海相は財部彪、山本権兵衛の女婿して昇進、加藤友三郎内閣、第二次山本内閣、加藤高明内閣、第一次若槻内閣でも海相、「何度も海相を務めた割には部内統制力も定見もなかったというのが定説化しているが、浜口内閣では相当の仕事をすることになる。」

緊縮財政と金解禁をよりによって世界恐慌勃発時に実施、昭和恐慌で社会不安が深刻化。

30年第二回普選で安達内相の差配により民政党圧勝。

同年ロンドン海軍軍縮条約で統帥権干犯問題勃発。

鈴木貫太郎侍従長の条約反対派の不適切な上奏拒否、浜口の軍令部への根回し不足を本書では指摘(ただし根回しを十分行っておけば反対派が和らいだという保証は無いとしている)。

さらに、

3月27日の天皇の意思表明[「世界の平和の為早く纏める様努力せよ」――引用者註]は、天皇の国際協調主義・平和志向が表明された行為だが、当時の国内政治状況的にはかなり一面的な行為と言えよう。意見表明をしないのがベストであり、対立する両者の意見を聞き、できればさらに有力者の意見を聞いてから落とし所を図り間接的に伝えるのがベターなのである。これでは結果的に田中首相への叱責に似たものとなったと言えよう。

条約批准後、11月浜口は狙撃され重傷、31年4月総辞職(8月死去)。

 

浜口内閣の評価。

ロンドン条約での浜口政権の国際協調主義とそれが宮中と密接に結びついているという認識が米国側に印象付けられ、「天皇の存在自体が日本軍国主義の淵源ではないという認識に結びつき」、過激で懲罰的な対日世論を沈静化したことを指摘。

ただし、以下のような視点も記されている。

・・・・・ロンドン条約締結は浜口内閣の傑出した成果だが、天皇・宮中グループと新聞世論(回訓後)の強力な支援によってロンドン条約締結という最大の試練を乗り切ったという事実は、実は田中内閣倒壊の際と、かなりの程度同じ政治構造の裏返しの表現であったということがある。

二つもの政党外勢力への依存による政党の勝利には、危いところがあったのである。

国際協調主義の牧野内大臣はその後斎藤実へ内大臣を譲り(1935年)、二・二六事件では二人とも襲われ(斎藤死亡)、最後の防波堤的内大臣と見られた湯浅倉平が病気で退いた(1940年)後を継いだ木戸幸一は、軍部と妥協的になってしまう。すなわち天皇・宮中グループは政党にとって最後まで頼れるような頼りがいのあるものではなかったのである。

さらに問題なのは新聞世論であった。・・・・・回訓後、一斉に条約締結に足並みを揃え“豹変”して世人を驚かせた新聞は、いつどういう方向にまた足並みを揃え豹変するかもしれなかった。それは、1931年の満州事変の前後に、あるいは1940年のナチスドイツの電撃戦勝利下の近衛新体制・大政翼賛会・日独伊三国同盟への転換として現れるであろう。これも心ある政党人にとって頼れるような存在ではなかったのである。

 

 

 

第二次若槻礼次郎内閣(民政党 1931年)

恐慌により、陸軍軍制改革(軍縮)問題が焦点となる。

当時の陸軍は決して一方的攻勢に出ていたわけではなく、大正時代の軍縮以来、その地位は低下し、国民世論の中では今見ても異常なほど軍人への軽侮が蔓延していた。

本書で記されている実例は衝撃的ですらある。

現在では全く忘れられているが、昭和軍国主義の直前には反軍人的風潮の異様な高まりがあったのである。

極端から極端に走り、中庸を得た常識に全く欠ける世論というものの欠陥が最もよく表われている。

軍制改革による圧迫と満蒙問題の急迫という天秤の上に陸軍は乗っかっていたのだが、ぎりぎりのところで、はかりは後者に傾きつつあったとも言えよう。

満州事変と十月事件という内外危機が勃発。

熱狂する世論に迎合して、マスメディア(新聞)は部数拡大を目的に論調を大旋回させ、親軍的報道を大々的に展開。

少し前まで馬鹿げた左翼的論調を飽きもせず繰り広げるしか能の無かったマスメディアとそれをオウム返しにしていた大衆が、ここ十数年ほど、空疎で幼児的な排外的ナショナリズムと自衛隊へのわざとらしい信頼を語るようになっているが、昭和史を振り返ると不吉だなあ、と感じる。

危機が進行する中、安達内相が政友会との大連立、協力内閣構想を主張。

同31年、イギリスではマクドナルド挙国一致内閣が成立している。

しかし、犬養と若槻がある程度意欲を示していた最初期の段階で、よほど巧みな取りまとめ役でもいればともかく、とくに政友会の反主流派的な久原[房之助]が中心に動いたのではこの連立政権構想はリアリティーの乏しい話であったと言うしかないであろう。犬養・鈴木・森などの政友会主流派幹部は動かず、しかもわざわざ金解禁政策に反対することを決議しているのは、協力内閣は作らないということなのである。政党が陸軍を抑える機会を失ったということであれば惜しまれるが、井上の言ったように、そもそも陸軍を抑えるつもりなのか押し立てるつもりなのかさえもはっきりしていなかったのが協力内閣運動の実態なのであった。

12月閣内不一致で若槻内閣は総辞職。

 

まとめ。

行財政改革と軍縮を目指す内閣・新聞世論と満州問題の切迫を煽る陸軍の均衡状態が事変により一気に破れ、前者の目標自体が忘れ去られてしまった。

対外危機という最大の「劇場型政治」が展開され、政党はそれを追認することしかできず。

幣原外交が過度に国民の不満を蓄積させていた面も否定できない、ポピュリストに主導権を奪われずに対外危機を克服する方策を常に考慮しなければならない。

第三に、陸軍のコントロール・処分の失敗という点も大きい。まず8月時点での不穏な気配に対する政府の情報探索が不十分であった。対外危機に触発されやすい軍の中堅幕僚・青年将校の動きに対しては、憲兵隊・内務省両方から情報を収集し、分析するセクションを設定すべきであった。事変勃発後は林朝鮮軍司令官の越境に対する処置が蔑ろにされているし、十月事件クーデターに対する処分も全く不十分であった。

そしてその背後には、そもそも大正末期以来の軍縮期の軍人に対する待遇・処置の失敗があったことは見た通りである。

 

第四として、協力内閣にはほとんど現実化する契機がなかったのだが、それにしても二大政党制か連立内閣かという岐路で迷走する若槻の姿は、この時期の政党政治を象徴していると言えよう。これが、「つきつめない」「絞りきらない」その性格からくることであるとすれば、最も重要な時に最も向いていない人がしかるべき地位に立っていたということになる。しかし、それにふさわしい人がふさわしいポジションにいることのほうが難しいことなのかもしれない。第一次若槻内閣の末期にはすでに民政党の人材難が始まっており、それが片岡蔵相の失言問題につながっていることは既述した。浜口内閣は浜口の気力と強硬姿勢で何とかロンドン条約と金解禁を実施したが、その反動が次の内閣を襲ってきたのである。その時首相となっていたのが「つきつめない」若槻だったのだ。政党政治は一人でやる仕事ではない。人を能力・適性に応じたポジションに配置しながら、リーダーにふさわしい人を選び出す組織としての政党というものの重要性をあらためて浮かび上がらせたのが最後の民政党内閣だったと言えよう。

 

浜口と若槻の任期が逆なら良かったのか。

そんな単純な話のわけが無いと承知しつつも、昭和に入ってからの政友会がヒド過ぎる以上、民政党に期待をかけるしかなく、緊縮財政にこだわらず、恐慌克服と社会の安定を最重視し、満州事変を何とか封じ込める浜口内閣を見たかった気がしてならない。

 

 

 

犬養毅内閣(政友会 1931~32年)

蔵相高橋是清、外相芳沢謙吉、陸相荒木貞夫、海相大角岑生、内相中橋徳五郎、文相鳩山一郎、司法相鈴木喜三郎。

犬養自身は政友会の自由党系ではなく、改新党系政治家で、政友会入りは25年革新倶楽部解散後。

それが田中義一の死後、総裁に推される。

当時の政友会は主に四派に分かれる。

鈴木喜三郎派=鳩山一郎、森恪ら。最大派閥。

床次竹次郎派=原敬に抜擢されたこともあり、政友会の「嫡子」扱い。

久原房之助派=久原は財界出身者。協力内閣運動を起こした非主流派。

旧政友派=岡崎邦輔、中橋徳五郎ら古参幹部。床次派と近い。

久原派の政・民大連立内閣運動も実は親軍的行動だったとの説が有力だが、それに反対した主流派も鳩山・森が今村均作戦課長、永田鉄山軍事課長ら陸軍中堅層に倒閣への協力を依頼したというのだから酷い話である。

「産業立国」の名の積極政策で恐慌に対処(高橋蔵相のやることは本当に全部安心だ)。

32年2月総選挙で政友会圧勝。

上海事変、血盟団事件と、内外の危機は継続しているのに、鈴木派・久原派の党内闘争が激しくなる。

五・一五事件が勃発、犬養は殺害され、後任は陸軍の圧力もあり、政党主導ではなく、海軍穏健派の斎藤実挙国一致内閣となり、政党政治の時代は終焉する。

 

まとめ。

まず、「養子」総裁として独自の党内基盤を持てなかった犬養のリーダーシップ不全。

この決定的時期に外交政策において内閣書記官長で対外強硬派の森恪の存在により、犬養が構想した対中融和策の実行は極めて困難になった。

 

次に政党人の政党政治への信用失墜に対する危機意識欠如。

 

そして著者が挙げるのが、元老西園寺らの「宮中擁護第一主義」の弊。

内相安達を原因とする閣内不一致で若槻内閣が総辞職した際、若槻への再度大命降下を考慮した西園寺だが、右翼・超国家主義勢力の攻撃が宮中に向かうのを憂慮して避けたという。

「財政や外交」以上に、「政党の腐敗以上に」宮中を守ろうとした、というのである。「財政や外交」に失敗して守られる「宮中」というものがあると思ったのであろうか。こうした宮中側近の態度こそ、戦前・戦中・戦後と事態が進むにつれついには政党政治はおろか天皇・宮中それ自身をも危機に追い込んでいったのであった。

 

そして陸軍の圧迫。

単にテロに怯えたというだけでなく、「軍縮時代に軍人をいじめ過ぎた」という後ろめたさがあり、政党政治家たちが心理的に守勢に立っていたことを指摘。

軍人を蔑ろにせず、そして驕らせることもなく、適切に取り扱うことが議会制民主主義にとって必須である。

 

最後に、「戦争とテロ」という新しい劇場型政治と「昭和維新」運動への国民的人気への無理解。

対外戦争を報じるメディアを国民は熱狂的に迎え、テロを引き起こした青年将校らを礼賛する風潮が社会に満ち満ちた。

これは、しかし、政党政治家の反省すべき点というより、戦前の悲劇について、国民自身の責任がいかに大きいか、民主主義自体がどれほどの危険を含んだものか、を示しているように思える。

こうして、元老・重臣・財閥・特権階級の打破と平等主義の実現を訴える彼らの主張は多くの支持者を獲得していくことになるが、政党人はこれに十分に対応することができなかったのであった。“内輪の政争に明け暮れ、実行力・決断力なく没落していく既成政党と一挙的問題解決を呼号しもてはやされる「維新」勢力”という図式が作られやすいという意味で、歴史は繰り返すのである。

 

 

 

全巻のまとめとして、政党政治没落の原因が末尾で述べられる。

自分の感想も交えつつ紹介します。

 

1.疑獄事件の頻発など政治腐敗

これ自体、確かに問題だが、私個人としては、そもそもこの手の醜聞を根絶するのは不可能だろうし、煽情的な報道で生まれた狂信によって議会政治自体が破壊されれば元も子もないし、「あまりにひどいものだけでも、法に則ってしっかり取り締まってくれればよい」くらいに考えてしまう(メディアで盛んに批判されるような汚職は実は「小物」であって、雇用の不安定化や労働条件の全般的悪化のような政策が大資本の意向通り進められているのを見ると、そっちの方が「巨悪」だろうと、最近思います)。

 

2.国会の混乱、買収・議事妨害・乱闘

これも上記に同じ。そうした国会議員を冷笑して一向に構わないが、それも自分たち国民自身が選んだ、国民のレベルに見合った議員なんだ、と自覚すべき。

 

3.地域の政党化・分極化と中立化・統合化欲求の亢進

二大政党時代、公共事業や公務員職の利権をめぐって、地方での党争が異常なほど高まっていた。

言い換えるならば、政党政治の時代には日本社会は分極化しており、政党政治が終り「天皇」を中心にして「警察」(さらに広く言えば「官僚」)のような中立的と見られた勢力によって社会が統合されることが、地域から、国民の側から望まれるような社会構造が存在していたということである。政党内閣から非政党・中間内閣への変貌が、上から嫌がる国民に無理やり押しつけられたということではない形で、むしろ望まれていたことが、社会的背景を通じて理解されるのである。

こうした視点から見ると、「党利党略」に憂き身をやつす(と見られた)政党政治への「嫌悪感」が「中立的」と考えられたもの(天皇・官僚・警察・軍部等)の台頭を必然化したのだとも結論付けることができよう。

 

4.「劇場型政治」とマスメディア・世論の未熟な政党政治観。

普通選挙による政治の大衆民主主義化時代を迎え、非本質的なスキャンダル(疑獄・失言・女性問題など)やシンボル的な問題(天皇やナショナリズム、対外紛争)を煽情的に取り上げつつ、そのこと自体には真摯な関心を持つわけでもなく、ただ反対党派を罵倒攻撃し、自派の優位を図るという、劣悪な政治ゲームに歯止めがかからなくなる。

メディアも、冷笑的な「批判のための批判」や、ただ自社の利益のためにもっとも俗耳に入りやすい論調を煽り立てることしかしない。

真正な公的議論というものが消滅し、衆愚的国民の感情を支配する競争だけが激しくなり、国の命運はただ風任せという状態に。

それが大正デモクラシー以後の戦前日本です。

でも、これ今と全く同じですよ。

戦前は非民主的政治制度のせいで破滅的戦争に至り、戦後は民主化で繁栄した、なんて絶対言えるものではない。

戦前日本の全てを肯定することしかしない右翼も、戦前日本を破滅させたのは他ならぬ民衆自身であることを認めない左翼も、双方頭がどうかしてます。

 

 

 

基本的に素晴らしい著作だが、一点疑問を感じる部分もある。

著者は大衆民主主義時代においては、「劇場型政治」を忌避するだけでは済まず、それへの対応を考えなければならないことを強調する。

現実政治家へのアドヴァイスとしては、それが正しいのだろう。

しかし、著者は知識人のはずである。

それならば、そうした対応を強いる民主主義の進展自体が、決して好ましいものではない、という批判があってしかるべきなのではないだろうか。

「民主化は時代の必然で止め様が無いから、言わない」「今の時代、民主主義そのものを否定するような議論は言いにくい」と少しでも考えているのなら、同じく多数派民意が生み出す流れに抗えなかった西園寺による「宮中第一主義」の「怯懦」を批判する資格は、著者には無いように思うのだが、どうでしょうか。

 

 

 

著者の姿勢に一部疑念を感じるところもあるが、総合的に見れば、やはり「必読」というレベルの本です。

評価は文句なしに「5」。

ちょうどいい具合に、時代的に本書の末尾が、もう一つの傑作、坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』に繋がります。

強く、強くお勧めします。

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