万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年9月4日

岡本隆司 『袁世凱  現代中国の出発』 (岩波新書)

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塚本哲也『メッテルニヒ』の記事で書いた通り、ジョン王やフランコなどと並んで、高校世界史レベルでも最高度にイメージの悪い人物の一人が、この袁世凱でしょう。

1859年河南省生まれ。

名門に生まれながら、科挙受験を放棄、一族のつてで李鴻章率いる淮軍の一部隊に入隊。

当時の清朝下における社会情勢は、著者によれば、「督撫重権」の言葉で表される(『中国「反日」の源流』)。

18世紀の人口爆発の結果、民間社会が膨張、非合法的な秘密結社と伝統社会の側でそれに対抗する「団練」が衝突し、「社会の軍事化」が進行、そのうち巨大化した団練義勇軍の長が地方大官(総督・巡撫)として実権を握り、中央政府は自らの権限を狭め、それら大官をオーソライズして乗っかり、王朝の延命を図る、というシステム。

西太后政権はそれを本質とし、「同治中興」を成し遂げた。

袁世凱は、若くして参謀格で朝鮮に派遣され、壬午軍乱・甲申事変に対処、日本の勢力を抑え、清国優位の情勢を維持することに成功。

しかし、東学党の乱に当たっては、日本の強硬姿勢を見誤り、日清開戦。

敗戦後、李鴻章は一時失脚するが、袁は巧みにその忠誠を実力者栄禄に乗り換え、「新建陸軍」(略して新軍)という西洋式装備の最精鋭部隊の長となる。

「辛亥革命での策謀」と並んで袁の悪名を高めたのは「戊戌変法への裏切り」だが、面白いのは、本書では光緒帝と康有為ら変法派への評価がそもそも高くないこと。

西太后も当初から変法弾圧を目論んでいたわけではなく、まず変法派が先制攻撃を計画して、首都近郊の最精鋭軍を指揮したまたまキャスティング・ヴォートを握る立場にあった袁を抱き込もうとしたのだが、完全に栄禄の配下にある袁を協力させようとしたこと自体が現実離れしており、袁は当然拒否、これは客観的には「裏切り」とは言い難いとされている。

政変後、光緒帝は幽閉されるが、列強と地方督撫の反対で廃位はできず。

中央政府強化の動きと排外主義の高まりが同時に進行。

戊戌の政変とは何か、と問われれば、光緒帝・「変法」派の側がやろうとしていた権力集中を、そのまま西太后・反対派が引き継いだにすぎない、といえる。極論すれば、そのめざす先に改革があったかどうか、が時と場合により、異なっていただけである。そして実情に沿うか否かにかかわらず、改革をめざしたら列強は好意的で、そうでない場合、露骨に嫌悪した。政変後の北京が、排外に一変するゆえんである。

 

 

戊戌の政変で、光緒帝は権力を失い、西太后を頂点とする体制が復活した。のみならず、実施されはじめた「変法」は、ほぼ白紙にもどった。北京にみなぎっていた改革の空気は、弾圧をへて急速に減退する。

程度の差こそあれ、当時なにがしかの改革が必要だという認識は、多くの官僚・人士が共有したところだったはずである。そうであればこそ、本心は明らかではないながら、西太后も光緒帝主導の「変法」の進展を見守る姿勢をつづけていた。その意味で、「戊戌変法」における康有為派の性急な手法は、かえって改革をはばむ結果となったのであって、中国の変革にとっては、惜しみてもあまりある。

もっともそうしたみかたは、どうも一般的になっていない。守旧派が「変法」派の改革を一方的に圧殺した、とみるのが常である。

ひとつには、当時から康有為派がジャーナリズムを利用し、猛烈な宣伝活動を続けていたからである。自己の弁護、正当化のためには、文書や勅命の偽造改竄まで辞さなかった。しかもそれがそのまま、当時をうかがう史料にもなったために、かれらを中心に歴史をみる習性が、こちらに抜きがたくついてしまっている。

そんなわれわれはまた、変革・「変法」を正当・正統とする観点に慣れてしまって、それを疑わない。変革の潮流を妨げた以上、無条件に悪役なのであって、当時の事情に思いをめぐらせることがなかなかできないのである。しかもわれわれは外国人であり、自らの観点や政体を当然だと思うがゆえに、それに反する行動をとった西太后の側に、どうしても批判の目を向けがちになってしまう。

それは現代ばかりではない。当時の外国もまた同じである。列強は自らの政体に近い、より好ましい交際相手を生みだすものとして、「変法」の動きを評価していたため、政変には大いに失望し、光緒帝と「変法」派に同情を隠さなかった。康有為らの亡命・助命に手を貸したのも、その一例である。

現代も当時もしょせんは外国、中国の内政には無責任な立場であり、また理解も十分ではなかった。それがいっそうの悲劇を生み出す契機をなしてゆく。

山東巡撫に任じられると、義和団を中央の方針に反して抑圧。

列強への宣戦布告と敗北後、李鴻章の死去を受けて、直隷総督兼北洋大臣に就任。

老齢の張之洞、劉坤一らの巡撫に替わり、政府の第一人者となり北洋軍育成。

国内でナショナリズムが高揚するものの、中央と地方の対立現象は変わらず。

1908年西太后死去、宣統帝即位。

翌年、袁は失脚。

辛亥革命で再起用、北方清朝側は南方革命勢力に対し軍事力では優勢だが、内戦時の列強干渉を恐れる。

「立憲」の一点でまとまることができず、君主制と共和制の対立を解消できず。

こうなると、袁が野心を持って策謀をめぐらしたというより、自然と南北和解と政権統一のために、袁総統が誕生したと言うべき。

果たして、南方の非妥協性は賢明だったか?、「種族的復仇」に囚われ過ぎではなかったか、と本書は問いかけている。

1913年国民党を弾圧し、第二革命も鎮圧。

1915年日本に二十一ヵ条要求を突きつけられた後、帝政運動を始め、「洪憲」を称するが、立憲制は維持。

第三革命が勃発、1916年帝政を取り消した後に死去。

 

以前、「スペイン内戦はフランコが勝って良かったんじゃないか」というとんでもない意見を書きましたが、ここでも正直「中華帝国」・袁帝政が続いた方が良かったんじゃないか、と思えなくもない。

その後の、泥沼の軍閥混戦、凄惨な国共内戦、その挙句の共産党独裁体制成立で、一体何千万人が死んだのか。

日本も中国現代史の悲劇には大いに責任があるのだから、あまり軽々しく口に出すことではないが・・・・・・。

もちろん袁帝政の存続は現実性があまりに乏しかったんでしょう。

やはり清朝統治下での近代化が成功せず、革命という歴史の断絶を経なければ国民国家を成立させ得なかったことが中国の不運だったと思える。

 

 

辛亥以前の時期を重視したコンパクトな伝記。

読みやすく、評価はまあまあ。

やや食い足りない印象もあるが、紙数の制約も考えればこんなもんでしょう。

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