万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年8月22日

高根務 『ガーナ  混乱と希望の国』 (アジア経済研究所)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 02:09

2003年刊で、新書版の薄い本。

「歴史編」と「現代ガーナ編」の二部構成。

当然、前者のみ力を入れて、後者は軽く読み飛ばす感じでいいでしょう。

 

ガーナは西アフリカにある国で、南はギニア湾、東はトーゴ、西はコートジボワール、北はブルキナファソに接する。

「ガーナ」という国名は古代ガーナ王国から取られたものだが、古代王国は現ガーナよりかなり西北部に位置し、版図は全く重なっていない。

独立以前はヨーロッパ人が名付けた「ゴールドコースト」という名で呼ばれていた。

11世紀頃から南部で産出する金と北部のイスラム商人が持ち込む岩塩を交換する交易が発展、いくつかの都市が栄える。

多数の諸王国が分立した状況の中、ヨーロッパ人が到達、1482年ポルトガル人がエルミナ砦を築く。

16世紀には、イギリス・オランダ・デンマーク・スウェーデンも進出、多数の砦を築き、金の交易を行う。

そのうち、エルミナを1637年オランダが奪取、イギリスはケープコースト城を支配、英蘭両国が優位を占める。

17~18世紀、悪名高い奴隷貿易が行われ、多数の奴隷がゴールドコーストから輸出される。

ただ奴隷の調達は現地のアフリカ人によって行われ、ヨーロッパ人が直接捕獲に従事することはなかった。

ヨーロッパとの交易の影響もあり、内陸部では諸王国の対立抗争が拡大。

その中で、17世紀末からオセイ・トゥトゥ王の下で興隆したアシャンティ(現地音ではアサンテ)王国が、18世紀に急速に勢力を拡大、19世紀初頭には現ガーナ領を上回る版図を支配。

ただし、その統治は連合王国のような形で、その配下に多数の諸王国、首長が存在していた。

1808年イギリス・アメリカが奴隷取引を違法化(これは奴隷の新規流入が止まっただけで、アメリカ国内では当然南北戦争中まで奴隷が存在していた)。

アシャンティ王国は「黒人奴隷貿易で栄えた黒人王国」という歪な存在であり、あまり好意的には見ていなかったが、しかしだからと言ってヨーロッパ諸国の罪が軽減されるわけではない。

アシャンティ王がイギリス領事に語ったという「今になって(奴隷の売買が)悪いというが、それではなぜ以前はよかったのか?」という言葉を読むと、そう思う。

確かに19世紀に自発的に奴隷貿易禁止を定め、それを徹底したのはヨーロッパの美点としてもよいが、それまでの200年間散々その種の悪行で儲けてきたわけですから。

しかも今度は、「奴隷制廃止」をアジア・アフリカ諸国侵略の口実に使うんだから始末が悪い。

1820年代、沿岸部の属国ファンテ王国とアシャンティとの関係悪化にイギリスが介入、1826年ドドワの戦いでイギリス軍が勝利、沿岸諸王国はイギリスの影響下に入る。

その後、しばらく小康状態を保ったが、19世紀後半に英・アシャンティ間の対立が再燃。

英国と違い、親アシャンティ的政策を取っていたオランダが、周辺諸王国の反抗に手を焼き、1872年エルミナをイギリスに譲渡すると、いよいよ英国が完全に優位を占めるようになる。

1874年イギリス軍がアシャンティに侵攻、首都クマシに入城。

南部沿岸部はイギリスの植民地となり、首都はケープコーストからアクラに移される。

19世紀末、フランスとの植民地獲得競争の中、イギリスはアシャンティの完全な支配を目論む。

1896年再度のクマシ占領の後、イギリスはアシャンティ王国を保護領と宣言、アシャンティ王をセイシェル諸島に追放。

実質、この時点で全土が植民地化されたとみていいようだ。

しかし、完全な植民地化の前にもう一波乱があった。

イギリス総督が、アシャンティ王の帰国は有り得ないと言明、王国の象徴である「黄金の椅子」を差し出すことを命じ、そこに自身が座るつもりだと宣言すると、激昂した首長たちは最後の反乱「ヤー・アサントワ戦争」を起こすが敗北、アシャンティ王国は植民地領に併合される。

(なお政治的実権は無いものの、地方首長と共にアシャンティの王号を持つ人物が現在も存在しているという)。

植民地統治下ではカカオ栽培が始まり、一大産業となる。

イギリスは伝統首長を温存し、間接統治を敷いた。

第二次大戦後、独立運動が本格化。

1947年、初の政党「統一ゴールドコースト会議」結成。

その漸進的独立路線に飽き足らない急進派のエンクルマが「会議人民党」を1949年結成。

(なおエンクルマは、本書では「ンクルマ」と表記されているが、いくら原語発音に近くても、これはちょっと日本語として不自然に感じるのでこの記事ではエンクルマとします。)

最終決定権はゴールドコースト総督にあるとされつつも、行われた立法議会選挙で会議人民党が数度の勝利を重ねる。

1957年、サハラ以南のブラック・アフリカで(植民地からの)初の独立国として、ガーナが建国。

エンクルマが初代首相に就任(60年には大統領に)。

だが、その後がまずかった。

産業国有化と社会主義的路線で経済は慢性的不振状態に。

私は、市場原理主義や自由放任主義を主張する経済学に絶大な嫌悪と軽蔑を感じてはいますが、だからと言って国家社会主義的な計画経済を是認するわけにはいかない(当時の閣僚の一人は「男を女に変えること以外なら、政府はどんなことでもできる」と語っていたという。これじゃ経済運営にも国家建設にも失敗しますよ)。

政治面でも激しい弾圧が行われ、統一ゴールドコースト会議の流れを汲む統一党の指導者ダンカは獄死、ブシアは亡命、会議人民党の一党制が敷かれる。

国内の混迷が深まる中、1966年クーデタが勃発、エンクルマは失脚。

あるガーナ人史家は以下のように記す。

「・・・・・独立当初の三年間で、ンクルマとその政府が内外で成し遂げたことの偉大さについては、疑問の余地がない。もし彼の政権がこの最初の三年間で終わっていれば、彼は最も偉大なガーナ人、最も偉大なアフリカ人として、人々に永久に記憶されたことだろう。だが残念なことに、実際にはそうならなかった・・・・・」

クーデタ後、軍部主導のアンクラ政権が成立(次いでアフィリファに国家元首が交代)。

1969年には、とりあえず民政移管が行われ、進歩党(旧統一党)のブシア政権成立。

しかし、このブシア政権も経済再建に失敗、単に政権担当政党が入れ替わっただけで会議人民党時代と同じ結果に。

72年再度のクーデタ発生、アチャンポン軍事政権成立。

アチャンポン、アクフォの両軍事政権も、経済情勢を好転させることはできず、汚職・腐敗の蔓延、激しい政治弾圧も相俟って国内の不満は頂点に達する。

そうした中、1979年31歳の空軍大尉ローリングスが若手将校と共にクーデタを企て失敗。

軍事裁判にかけられるが、ローリングスは法廷で堂々と軍上層部を批判。

その直後、ローリングスに同情的な軍将校によるクーデタが成功、釈放されたローリングスが一躍国の指導者となる。

同年中に会議人民党の後身である人民国家党のリマン文民政権が誕生するが、経済危機の進行を止められず、81年ローリングスが再度のクーデタを実行、政権を握る。

ローリングス政権は、東側共産圏から大規模援助を得られる見込みが無いとみるや、親西側路線に転向し、自由主義的経済改革を進める。

このローリングスという人の名は、新聞の国際面で時々目にしていたので、本書を読む前から知ってはいた。

一度目のクーデタで、アチャンポン、アクフォ、アフィリファらを銃殺刑に処し、二度目のクーデタではリマンは殺されなかったものの、多くの反対派が殺害されたと、本書にも書いてあるし、IMF・世界銀行の勧告を受け入れ「構造改革政策の優等生」と評価されたと記されると、(今の私の考えからすると)かなりひっかかる点もあるのだが、それ以前の状況が悪過ぎたので、ひとまずこのローリングス政権は肯定的に評価すべきなのかなとも思う。

実際、経済状況は顕著な立ち直りを見せ、さらに政治的にも、旧統一党・進歩党の新愛国党(NPP)とローリングス派の国民民主会議(NDC)の二大政党制が確立し(エンクルマ系の人民国家党[旧会議人民党]は分裂・弱体化)、2001年にはクフォーNPP政権が誕生し、アフリカでは珍しい平和的な政権交代を実現している。

外務省ホームページを見ると、以後はNDCが政権を奪還し、ミルズ政権・マハマ政権が続いているものの、国内情勢は必ずしも安定してはいないようだ。

 

非常にコンパクトだが、歴史編の内容はしっかりしている。

図表が多いのも親切。

こういう新興独立国の通史としては、これくらいのものが適切。

十分推薦に値する良書。

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