万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年8月18日

引用文(内田樹8)

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内田樹『武道的思考』(筑摩選書)より。

 

ナショナリストとパトリオット

 

河合塾での講演のあと、廊下でひとりの予備校生から、ナショナリズムについて質問された。たぶん、彼の周囲でもナショナリスティックな言動をする若い人たちが増えてきており、それに対してどういうスタンスを取るべきか決めかねているのだろう。

若者がナショナリズムに惹きつけられる理由はわかりやすい。

それは帰属する集団がないからである。

人間は帰属する集団があり、そこで他者と共生し、協働し、必要とされ、ゆたかな敬意と愛情を享受していれば、パトリオットにはなっても、ナショナリストにはならない。

パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。

ナショナリストはそうではない。

彼はどのような集団にもそのような仕方では帰属していない。

彼は自分がさしあたり所属している集団について(それが家族であっても学校であっても、会社であっても)「ここは私がいるべき場所ではない」というひそかな不安と不満を感じている。彼らはその集団を律している規範も、その集団の存在理由もうまく理解できず、他の成員たちに対して、敬意や愛情を感じることができない。むろん、他の成員たちから敬意を抱かれ、愛され、「私たちの集団が存立してゆくためには、どうしてもあなたがいることが必要だ」と懇請されることもない。

そういう人間でも、どこかに帰属していない限り、生きてゆくことは苦しい。

そういう場合、「ナショナリストになる」というのはひとつの選択肢である。ナショナルな政治単位に帰属することについては要求される資格が何もないからである。

「国民国家」というような巨大な規模の集団に帰属する場合、ナショナリスト個人に求められるものは自己申告以外に何もないのである。

ゼロ。

ナショナリストにはどのような義務もない。好きなときに、好きな場所で、好きな人間を相手に、気が向いたら、人はナショナリストになることができる。

私はナショナリストだ。私は日本人だ。私は日本の国益をあらゆるものに優先させる。日本の国益を脅かすもの、日本人の誇りを踏みにじるものを私は許さない。

などということをぺらぺら言い立てることができる。

その代償として要求されるものは、繰り返し言うが、ゼロである。

真正のナショナリストであることを証明するために「今、ここ」でできることは何もないからである。

ナショナリストは国際関係について熟知している必要がない(アメリカ大統領の名前を知らなくても問題ない)、もちろん外交内政についても、歴史についても(政治思想史についてさえ)、無知であることはナショナリストの名乗りにいささかも抵触しない。むしろ、そのような外形的知識の裏づけなしに「いきなりナショナリスト」でありうることの動機の純正さが尊ばれるのである。

一方、ナショナリストはしばしば「自分が知っていること」は「すべての日本人がしらなければならないこと」であるという不当前提を採用する。だから、論争においてほとんど無敵である。

彼らの論争術上のきわだった特徴は、あまり知る人のない数値や固有名詞を無文脈的に出してくることである(「ノモンハンにおける兵力損耗率をお前は知っているか」とか「一九五〇年代における日教組の組織率をお前は知っているか」「北朝鮮の政治犯収容所の収容者数を知っているか」とか)。それに、「さあ、知らないな」と応じると、「そんなことも知らない人間に××問題について語る資格はない」という結論にいきなり導かれるのである。これはきわめて知的負荷の少ない「論争」術であるが、合意形成や多数派形成のためには何の役にも立たない。

もう一つ大きな特徴は、ナショナリストにはその立場を証明するための直接行動が要求されないということである。

家庭や会社でそれなりの敬意を得るためには、具体的行動によって集団に貢献することが要求されるが、ナショナリストは「領土問題」とか「外交問題」とか「防衛計画」とか、ほんらい政府が専管する事項を問題にしているので、個人としてはできることが何もないのである。ナショナリストは「日本人全体」と幻想的な集団を形成しており、そのような幻想的な集団の中では、誰も彼に具体的な仕事を命じないし、誰もその貢献を査定しない。

だからナショナリストは誰からも文句を言われない。

というように、ナショナリストであることは行使できる権利に対して義務負荷がきわめて少ないのである。

ひさしく消費社会の中でその社会感覚を研ぎ澄ましてきた若者たちが、商取引のスキームに準拠して、「もっとも権利が多く、義務が少ない」ナショナリスト・オプションを選好するのはだから怪しむに足りないのである。

グローバル資本主義の爛熟の中で、ナショナリストの若者が組織的に生まれるのはそのような理路による。

パトリオットというのは、その逆の行程をたどる。

パトリオットは自分が今いる場所を愛し、自分が現に帰属している集団のパフォーマンスを高めることを配慮し、隣人たちに敬意をもって接し、今自分に与えられている職務を粛々と果たすことをおのれに課す。そのような「場所」や「集団」や「隣人」たちの数を算術的に加算してゆくことを通じて、やがて「国民国家」にまで(理論的にはそのあとは「国際社会」まで、最後には「万有」に至るまで)「私の帰属する集団」を拡大してゆくことをめざすのがパトリオットである。

若い人たちにはできることならパトリオットをめざしていただきたいものだと思う。

(二〇〇九年七月)

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