万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年8月9日

大谷正 『日清戦争  近代日本初の対外戦争の実像』 (中公新書)

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日本が近代国家としてその存在を確立し、清を中心とした東アジア国際秩序を再編するために必要だった戦争、あるいは、明治国家の侵略政策の帰結、という左右両派の日清戦争必然説を退け、開戦に至るまでの東アジア国際情勢、日清両国の内政事情、外交交渉、開戦後の軍事作戦、講和交渉、下関条約後も続いた台湾での平定作戦を叙述し、メディアの戦争報道を通じた国民意識形成、地域の戦時動員と追悼慰霊行事など社会史的観点にも目配りした総合的著作。

幅広い記述なのはいいのだが、参考文献の最初の方には、明らかに一昔前の定型的な左翼史観の著作が並べられ、本文中でも頻繁に引用されている。

また著者自身の文章にも、正直違和感を感じる部分は確実にある。

しかし、ここ十数年、ひたすら自国を賛美・正当化し、近隣諸国に憎悪を込めて罵詈雑言を浴びせかけるだけの(本来は史観とすら言えない)、下劣・愚鈍・幼稚な「右派」「愛国」史観がはびこっているので、それに対する解毒剤を服用するつもりで、あえて本書を通読する。

「完全無欠な輝かしい戦勝」「近代化に邁進した日本と惰眠をむさぼった清国」という通俗的イメージとは異なる実態が浮かび上がってくる。

兵站の不備、軍指揮官の独断専行、攻勢に偏した作戦計画、敵を過小評価する情報収集、国際法遵守が下部に徹底されず起こった旅順虐殺という不祥事など、後世大きな禍根となった事象がすでにこの戦争に現れている。

明治天皇が連綿と受け継がれてきた帝位と国家を危うくする懸念から、開戦に極めて消極的であったことも記されている。

明治帝の危惧はこの時点では幸いにも杞憂に終わったが、昭和帝の時代に日本は有史以来最悪と言える亡国の憂き目を見ることになる。

明治日本を礼賛するのも結構だが、この日清戦争は本当に完璧な勝利と言えるのか?

台湾を獲得し、戦費を上回る賠償金を得たが、本来この戦争の最大の戦争目的・戦略目標は、朝鮮半島から潜在的敵対勢力を排除して、日本の安全保障を確実なものにすることだったはず。

これにははっきり言って失敗している。

三国干渉後、朝鮮政府内で親露派が台頭、1895年閔妃殺害事件という帝国主義時代でも格段に乱暴な措置(以前も書きましたが、これは大逆事件以上に明治日本の恥ずべき汚点です)を取ってもさらに事態は悪化した。

親日的な開化派は一掃され、一年半にわたって続けられてきた甲午改革は終わった。それとともに日本の影響力は一気に低下し、ロシアの直接の介入を招いた。日清戦争の戦争目的であった内政改革とその背後で日本が進めていた事実上の保護国化は、三国干渉と露館播遷によって最終的に挫折する。日清戦争によって日本は朝鮮から清勢力を追い出すことに成功したものの、結局は朝鮮に対する支配権を強めることに失敗し、ロシアの影響力が強まるという最悪の結果となったのだ。

日清戦争時の伊藤博文首相と陸奥宗光外相のコンビを近代日本最高・最優秀の政治指導の組み合わせとし、「陸奥外交」を賛美する岡崎久彦も『戦略的思考とは何か』では、以下のように書いている。

実は日本だけにとってみれば、日清戦争はその後の日露戦争と一緒にしてはじめて意味をなすもので、それ自体だけであまり意味はない戦争でした。もちろん日清戦争で日本は台湾と莫大な賠償金を獲得しますが、それは戦争の本来の目的ではありません。戦争の目的は一にかかって朝鮮半島における日本の覇権を確立し、日本の安全保障を確実にする国際環境を確保することでした。しかし最終的に日露戦争に勝って強制的に韓国を併合するまでは、日本の朝鮮政策はまるでザルで水を汲んでいるようなものでした。

明治十七年の甲申の変で金玉均の独立党のクーデターが成功して親日政権ができるとすぐに清兵が介入して、政権は三日天下に終り、そのあと日清戦争までは朝鮮半島のヘゲモニーは完全に清国が把握します。

日清戦争中でソウルが日本軍の占領下にあったあいだは、親清派をパージして、新政府に種々の親日政策をとらせることもできますが、三国干渉で日本が脆くもロシアの言うとおりになるのをみると、占領中迫害された閔妃を中心とする宮廷はロシアの勢力を引き込んで日本に対抗させます。これをみて怒った日本公使館、邦人記者団等が、壮士をひきいて宮廷に乱入して閔妃を斬殺し石油をかけて焼いてしまうという無茶苦茶をしてみたところで、かえって逆効果になっただけで、この乱暴に驚いた国王は宮廷ごとロシア公使館に避難して、政府全体がロシアの庇護下に入ってしまいます。そしてその後は、宮廷がロシアに掌握されたままという不利な条件の下でのロシアとの交渉を余儀なくされて、朝鮮半島においてロシアに日本と同じ地位を認めるだけでなく、ロシアが財政顧問と軍事教官を送ることも認めます。つまり実質的には日清戦争前の清国の地位をロシアに与えることになります。

たしかに、日本のやり方が未熟で強引すぎて逆効果ばかり生んでいるのですが、根源をたずねれば、文禄・慶長の役以来、朝鮮の人は日本に怨みがあり、日本人をまったく信用していないのですから、いくら一時的に抑えたつもりでも面従腹背でどうにもならなかったわけです。日韓併合で最終的に抑えつけたといっても、それも今となっては同じことで、韓国の人の対日感情はむしろ悪化しただけで、やはりザルで水を汲んでいただけでした。

このどうしようもない日韓関係で、ただ一つ日本人が韓国人と信頼関係をつくるチャンスがあったとすれば、それは日本が韓国の近代化を助けることだったと思います。韓国の歴史の中で唯一といえる親日派だった金玉均の独立党も、その目的は、当時近代化の旗手であった日本と組んで近代化をしたいということでした。現在日本が韓国の近代化のために経済協力をしているのも、遅まきながら、やはり日韓関係を安定した基礎の上に置く正攻法なのでしょう。

そして終章より、本書の要旨を示した重要な数ページを以下に引用する(違和感のある記述も、あえて省略せずそのまま書き写し、適時私の感想を挟みます)。

日清戦争直前には、日清の軍事バランスの変化を背景に、日本国内では朝鮮における清の優位を前提とした天津条約体制の変更を求める意見が広がり、伊藤博文首相もこのような認識を背景に日清共同による朝鮮内政改革構想を持つようになった。これが、一八九四年六月二日の閣議における朝鮮への混成第九旅団派兵決定につながった。

一方で、第二次伊藤内閣は条約改正問題をめぐって対外硬派の攻撃を受け、連続して二度も衆議院を解散する内政的危機に直面していた。伊藤首相にとって、六月二日段階では、派兵は日清開戦を想定したものではなく、また総選挙対策のために対外危機を演出するという内政的理由に基づくものでもなかった。しかし、いったん清を圧倒するために強力な軍事力(戦時定員で八〇〇〇名を超える混成旅団)を朝鮮に派兵してしまうと、派兵を契機に沸騰した対清・対朝鮮強硬論に直面し、伊藤内閣は撤兵できなくなり、開戦への道を選択せざるを得なくなった。

政権の内部でも、川上操六参謀次長を中心とする陸軍勢力や閣内の陸奥宗光外相は対清開戦を求めた。対清戦争を準備してきた陸軍が開戦を主張するのは当然であるが、陸奥が開戦を求めた理由は、外相として担当した条約改正問題で判断ミスを重ね、対外的にも、国内の対外硬派に対しても、対応に失敗し、この苦境を打開して政治生命を維持するために、日清開戦を求めざるを得なかったからであった。

だが、川上や陸奥が開戦を決定することはできず、首相であるとともに、この段階では藩閥勢力の最有力者である伊藤が決断しなければ開戦にはいたらなかった。その意味で、日清戦争開戦については伊藤首相の責任が最も重い。

しかし、当初は対清協調を考えていた伊藤に開戦を決断させるにあたっては、政権内部の開戦論者である川上や陸奥だけでなく、衆議院の多数を占める対外硬諸派と彼らを選んだ国民、そして強硬論を鼓吹したジャーナリズムの開戦への責任も軽くない。伊藤内閣は秘密外交と藩閥による戦争をめざしたのに対して、対外硬派とジャーナリズムはこれを批判し、国民的基盤に立った日清戦争遂行を求め、その後の選挙戦のなかで、自由党もこのような主張に合流した。しかも、

政治的な民主化を求めた在野勢力の主張は、例外はあるものの、藩閥政府以上に侵略的であった。

上記文章で、陸奥が開戦を求めた理由を個人的地位への執着という意図だけで説明するのは、いくら何でも言い過ぎではないかと思えるが、神話化された「陸奥外交」を一度突き放して冷静に再考してみる必要はあるかもしれない。

最後の一文が示す認識は全く正しいと思うが、それならば日清戦争も先の大戦の悲劇の責任もまず誰よりも無分別な対外強硬論を支持した国民にあるんじゃないですか、そして自由と民主主義という価値自体を根本的に疑うべきなんじゃないですか、と著者には厳しく問い質したいところです。

日清戦争の外交問題に関する最も重要な資料として陸奥宗光の著した『蹇蹇録』がある。これをもとにして、のちに日英通商航海条約締結・日清開戦・下関講和条約締結を推進し、困難な三国干渉に対応した陸奥外相の偉大な功績と卓越した能力を顕彰する「陸奥神話」が形成された。

しかし、自伝やメモワールはしばしば自己弁護や自己顕示を含むもので、『蹇蹇録』は特にその傾向が強いことが指摘されている。すでに紹介したように、同時代の人々は伊藤内閣の条約改正交渉に批判的で、日清戦争が始まっていなければ、一八九四年七月に調印された日英通商航海条約もイギリスに譲歩しすぎていると厳しく批判された可能性が強い。

条約改正交渉に限らず、第二次伊藤内閣、なかでも陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。いまでも言論界の一部で「陸奥神話」を称揚する論者がいるが、学問的根拠は薄いと言わざるを得ない。

陸奥による日清戦時外交の問題点としては、東アジア地域に強い影響力を持つイギリスとロシアの制止を振り切って強引に日清開戦を行ったため、日本を支持する強国がなくなったこと、戦勝の結果生じた陸軍・海軍・民間の度を超した領土要求に屈して、過大な割地要求を講和条約に書き込んだこと、事前に予想された三国干渉への対応が拙劣であったことが指摘できる。陸奥は『蹇蹇録』で弁明を重ねているが、あまり説得的とは言えない。

さらに、日清戦争の最大の目的であったはずの朝鮮問題では、朝鮮王宮を制圧することから戦争を始め、戦争中には支配層と農民の両方の反日運動を弾圧したことから、朝鮮国内の各層の間に反日感情が広がり、三国干渉と閔妃殺害事件を経て日本の影響力が後退すると、反日親露派政権が誕生してしまうという最悪の結果を招いた。朝鮮問題への対応は、もちろん陸奥外相の守備範囲を超えた日本政府・軍の全体の政策的失敗であるが、陸奥も責任の一端を負わなければならないだろう。

それに加えて、日清戦争後、清は日本に対抗するためロシアに接近し、ロシアは東清鉄道敷設権、旅順・大連租借権、南満州鉄道敷設権を得た。すでに同時代の川崎三郎が彼の著書『日清戦史』で主張したように、日清戦争は外交で失敗した戦争であり、陸奥は外相としてその責任を負わなければならない。

国の命運をかけた戦争を遂行するにあたっての戦時外交が拙劣であった原因は、陸奥の個人的能力の問題以外に、条約改正問題だけが重要外交事項であったという時代的制約から、本格的な戦時外交の経験を持った政治家がいなかったこと、および外交官養成制度が未完成でトップを支えるスタッフの能力に問題があったことに求められる。

そして日清戦争の失敗経験のうえに、義和団問題を契機とする一九〇〇年のロシア軍の満州侵攻後、日本は多角的な同盟・協商網の構築を模索しはじめ、一九〇二年に日英同盟という形で初めて西欧諸国と同盟を結ぶことになる。

まず、陸奥の条約改正交渉への批判自体が、著者が批判的に記す、日清開戦を求めた好戦的な国民世論と同類のものではないかとの疑念を感じるし、その可能性を全く看過していることは不満である。

しかし、後段の陸奥外交への批判は(それが妥当かはともかく)、硬直した左派的言説の臭味を感じさせず、真剣な検討に値すると思われる。

大本営による戦争指導はすでに述べたように川上操六参謀次長を中心に行われ、川上は山県や大山のような陸軍の宿老や、野津・山地・桂のような先輩や同輩に、指揮命令を与えざるを得ず、彼らの制御に苦しんだ。川上の伝記『陸軍大将川上操六』は、「時ありては彼等に掣肘せられ、時ありては板挟みと為って苦心」したが、困難に打ち勝って「終に能く全局を統括して最後の捷利を制」したと述べているが、川上の努力と心労は大変なものであったと想像される。実際、大本営の戦争指導はなかなか貫徹しなかった。

本書で紹介した事例では、第三師団長桂太郎中将の度重なる暴走が典型である。しかも、桂は名古屋に第三師団長として赴任後に暇を持て余して書きはじめた「自伝」では、西南戦争以後の陸軍の混乱を慨嘆し、陸軍省総務局長あるいは陸軍次官として、自らが陸軍軍政の整理・改革を行い、何よりも命令の上位下達の実現を図ったことを得々と述べている。にもかかわらず、実際に自分自身が戦場に臨むと、ほかの司令官との対抗意識を丸出しにして、大本営の作戦指導を無視して暴走した。

だがより大きな問題は、川上である。川上は、寺内正毅や児玉源太郎と協力して、兵力動員と船舶を動員した兵員輸送、朝鮮南端の釜山から朝鮮を横切って満州の作戦地域にまで達する兵站線・電信線の維持を実現した。その実行力と軍事官僚としての実務能力の評価は高い。しかし、その結果何が起こったかを知る後世の歴史研究者は批判的にならざるを得ない。

一八九四年秋に発生した朝鮮の第二次農民戦争が、兵站線・電信線を破壊したことに対して、川上が命じたのは、東学農民軍とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。

また、川上は遼東半島割譲と直隷決戦に固執した。これが三国干渉の誘因となり、さらに列強の干渉が予想される複雑な国際情勢のなかで、極端に攻勢に偏した直隷決戦計画を実施し、本土防衛をないがしろにする危険性を生むことになった。これらは川上の戦争指導の問題点である。

日清戦争において、伊藤首相や大山第二軍司令官が戦争の全体の帰趨を見て政策決定を行っていたのに対して、有能であることはだれにも負けない陸奥外相や川上参謀次長が、木を見て森を見ない政策決定を行っているように感じたのは、私だけであろうか。

十数年前まで世に瀰漫していた極めて硬直して偏った左翼史観が後退したのは誠に結構だが、逆に現在の我々は「日清・日露の戦いを勝ち抜いた明治日本の栄光」を単純に賛美するだけの惰性に流されすぎているのかもしれない。

もし日清戦争に負けていたら、どうなっていたのか。

沖縄はまず間違いなく永久に日本ではなくなり(現在では、過剰な対米追従という全く違う原因で日本じゃなくなりそうですが)、莫大な賠償金を課せられ、各種の近代化政策は致命的な打撃を蒙って挫折していた可能性が高い。

その勝利も一時のものに過ぎず、結局清国よりはるかに強大なロシア帝国との対決を余儀なくされることになってしまった。

続く日露戦争は敗北の危険性がはるかに高かったはずである。

その敗戦の結果は、北海道全土の割譲、租借地の設定、莫大な賠償金、より不平等な通商航海条約強要であろう。

さらには列強がハゲタカのように群がって、ついには日本全土が植民地となり、皇室をはじめとする伝統的制度が破壊され、その後で独立運動が起こり、成功したとしても、共産主義勢力が主導権を握って、今も日本は全体主義の抑圧体制の中にいるか、あるいは良くて右派の権威主義体制の下で暴力的な党派争いが延々続くという第三世界のよくあるパターンの国になっていたかもしれない。

弱肉強食の帝国主義時代の最盛期、国家の命運を賭すような戦争は可能な限り避けるのが賢明であろう。

であれば、ロシアの進出に備えた、朝鮮半島での日清両国の限定的協調を背後からイギリスが支えるという天津条約体制を(清国優位の状況はあえて甘受した上で)続けた方が良かったという歴史解釈もあり得る。

もちろん当時の国際情勢はあえて危険な戦争を行わなければならないほど厳しいものであり、陸奥が『蹇蹇録』で言うように

畢竟我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す。

ということだった可能性も十二分にある。

ただ色々な見方に触れ、少しでも妥当で真実に近い史観に近づく努力をすべきであって、数を頼んで反対者を誹謗中傷・罵詈雑言で黙らせるような卑怯な真似は、立場の左右を問わず、決してするべきではない。

 

 

著者の主張をそのまま受け入れる必要は無いが(私も決してそうしていないつもりです)、多様な見解に触れて歴史を考えるきっかけには出来る良書です。

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