万年初心者のための世界史ブックガイド

2016年8月29日

大嶽秀夫 『ニクソンとキッシンジャー  現実主義外交とは何か』 (中公新書)

Filed under: アメリカ, 国際関係・外交 — 万年初心者 @ 04:53

1969~1974年の任期中に、ヴェトナム撤兵、米中接近、米国・ソ連間デタントという三つの顕著な外交実績を上げた米大統領ニクソンとその安全保障担当補佐官キッシンジャーの世界認識と対外行動方針を考察した本。

叙述対象は、最初と最後の総括的概論を除けば、上述の三つの業績のみで、第四次中東戦争と石油ショックへの対応、沖縄返還と頭越しの米中和解および通貨変動相場制移行をめぐる日米関係、ブラント政権の東方外交をめぐる米・西独関係の協調と軋轢については、ほとんど記されていない。

分量はコンパクトで、まず負担にならないレベル。

それでいて説明は丁寧で要領が良く、文章も簡潔かつ明解で読みやすい。

ニクソン・キッシンジャー外交はおおむね肯定的に評価されてはいるが、その限界や失敗も見逃されてはいない。

史実の解釈や人物の評価にも違和感はほとんど感じない。

初心者向けの良好なテキストになると思われます。

2016年8月27日

ウィリアム・シェイクスピア 『アントニーとクレオパトラ』 (白水社uブックス)

Filed under: ローマ, 文学 — 万年初心者 @ 04:00

これも以前記事にしたものの再読だが『ジュリアス・シーザー』と違って、さして強い印象を受けない。

クレオパトラとの愛欲に溺れてオクタヴィアヌスとの闘争に敗れるアントニウスの姿が、史実通り淡々と描かれているだけという感じ。

面白くない。

こういう印象を持つのは残念であり、まず読み手である自分の資質の問題であることは間違いないが、嘘偽りの無い正直な感想を言えば以上の通りです。

2016年8月22日

高根務 『ガーナ  混乱と希望の国』 (アジア経済研究所)

Filed under: アフリカ — 万年初心者 @ 02:09

2003年刊で、新書版の薄い本。

「歴史編」と「現代ガーナ編」の二部構成。

当然、前者のみ力を入れて、後者は軽く読み飛ばす感じでいいでしょう。

 

ガーナは西アフリカにある国で、南はギニア湾、東はトーゴ、西はコートジボワール、北はブルキナファソに接する。

「ガーナ」という国名は古代ガーナ王国から取られたものだが、古代王国は現ガーナよりかなり西北部に位置し、版図は全く重なっていない。

独立以前はヨーロッパ人が名付けた「ゴールドコースト」という名で呼ばれていた。

11世紀頃から南部で産出する金と北部のイスラム商人が持ち込む岩塩を交換する交易が発展、いくつかの都市が栄える。

多数の諸王国が分立した状況の中、ヨーロッパ人が到達、1482年ポルトガル人がエルミナ砦を築く。

16世紀には、イギリス・オランダ・デンマーク・スウェーデンも進出、多数の砦を築き、金の交易を行う。

そのうち、エルミナを1637年オランダが奪取、イギリスはケープコースト城を支配、英蘭両国が優位を占める。

17~18世紀、悪名高い奴隷貿易が行われ、多数の奴隷がゴールドコーストから輸出される。

ただ奴隷の調達は現地のアフリカ人によって行われ、ヨーロッパ人が直接捕獲に従事することはなかった。

ヨーロッパとの交易の影響もあり、内陸部では諸王国の対立抗争が拡大。

その中で、17世紀末からオセイ・トゥトゥ王の下で興隆したアシャンティ(現地音ではアサンテ)王国が、18世紀に急速に勢力を拡大、19世紀初頭には現ガーナ領を上回る版図を支配。

ただし、その統治は連合王国のような形で、その配下に多数の諸王国、首長が存在していた。

1808年イギリス・アメリカが奴隷取引を違法化(これは奴隷の新規流入が止まっただけで、アメリカ国内では当然南北戦争中まで奴隷が存在していた)。

アシャンティ王国は「黒人奴隷貿易で栄えた黒人王国」という歪な存在であり、あまり好意的には見ていなかったが、しかしだからと言ってヨーロッパ諸国の罪が軽減されるわけではない。

アシャンティ王がイギリス領事に語ったという「今になって(奴隷の売買が)悪いというが、それではなぜ以前はよかったのか?」という言葉を読むと、そう思う。

確かに19世紀に自発的に奴隷貿易禁止を定め、それを徹底したのはヨーロッパの美点としてもよいが、それまでの200年間散々その種の悪行で儲けてきたわけですから。

しかも今度は、「奴隷制廃止」をアジア・アフリカ諸国侵略の口実に使うんだから始末が悪い。

1820年代、沿岸部の属国ファンテ王国とアシャンティとの関係悪化にイギリスが介入、1826年ドドワの戦いでイギリス軍が勝利、沿岸諸王国はイギリスの影響下に入る。

その後、しばらく小康状態を保ったが、19世紀後半に英・アシャンティ間の対立が再燃。

英国と違い、親アシャンティ的政策を取っていたオランダが、周辺諸王国の反抗に手を焼き、1872年エルミナをイギリスに譲渡すると、いよいよ英国が完全に優位を占めるようになる。

1874年イギリス軍がアシャンティに侵攻、首都クマシに入城。

南部沿岸部はイギリスの植民地となり、首都はケープコーストからアクラに移される。

19世紀末、フランスとの植民地獲得競争の中、イギリスはアシャンティの完全な支配を目論む。

1896年再度のクマシ占領の後、イギリスはアシャンティ王国を保護領と宣言、アシャンティ王をセイシェル諸島に追放。

実質、この時点で全土が植民地化されたとみていいようだ。

しかし、完全な植民地化の前にもう一波乱があった。

イギリス総督が、アシャンティ王の帰国は有り得ないと言明、王国の象徴である「黄金の椅子」を差し出すことを命じ、そこに自身が座るつもりだと宣言すると、激昂した首長たちは最後の反乱「ヤー・アサントワ戦争」を起こすが敗北、アシャンティ王国は植民地領に併合される。

(なお政治的実権は無いものの、地方首長と共にアシャンティの王号を持つ人物が現在も存在しているという)。

植民地統治下ではカカオ栽培が始まり、一大産業となる。

イギリスは伝統首長を温存し、間接統治を敷いた。

第二次大戦後、独立運動が本格化。

1947年、初の政党「統一ゴールドコースト会議」結成。

その漸進的独立路線に飽き足らない急進派のエンクルマが「会議人民党」を1949年結成。

(なおエンクルマは、本書では「ンクルマ」と表記されているが、いくら原語発音に近くても、これはちょっと日本語として不自然に感じるのでこの記事ではエンクルマとします。)

最終決定権はゴールドコースト総督にあるとされつつも、行われた立法議会選挙で会議人民党が数度の勝利を重ねる。

1957年、サハラ以南のブラック・アフリカで(植民地からの)初の独立国として、ガーナが建国。

エンクルマが初代首相に就任(60年には大統領に)。

だが、その後がまずかった。

産業国有化と社会主義的路線で経済は慢性的不振状態に。

私は、市場原理主義や自由放任主義を主張する経済学に絶大な嫌悪と軽蔑を感じてはいますが、だからと言って国家社会主義的な計画経済を是認するわけにはいかない(当時の閣僚の一人は「男を女に変えること以外なら、政府はどんなことでもできる」と語っていたという。これじゃ経済運営にも国家建設にも失敗しますよ)。

政治面でも激しい弾圧が行われ、統一ゴールドコースト会議の流れを汲む統一党の指導者ダンカは獄死、ブシアは亡命、会議人民党の一党制が敷かれる。

国内の混迷が深まる中、1966年クーデタが勃発、エンクルマは失脚。

あるガーナ人史家は以下のように記す。

「・・・・・独立当初の三年間で、ンクルマとその政府が内外で成し遂げたことの偉大さについては、疑問の余地がない。もし彼の政権がこの最初の三年間で終わっていれば、彼は最も偉大なガーナ人、最も偉大なアフリカ人として、人々に永久に記憶されたことだろう。だが残念なことに、実際にはそうならなかった・・・・・」

クーデタ後、軍部主導のアンクラ政権が成立(次いでアフィリファに国家元首が交代)。

1969年には、とりあえず民政移管が行われ、進歩党(旧統一党)のブシア政権成立。

しかし、このブシア政権も経済再建に失敗、単に政権担当政党が入れ替わっただけで会議人民党時代と同じ結果に。

72年再度のクーデタ発生、アチャンポン軍事政権成立。

アチャンポン、アクフォの両軍事政権も、経済情勢を好転させることはできず、汚職・腐敗の蔓延、激しい政治弾圧も相俟って国内の不満は頂点に達する。

そうした中、1979年31歳の空軍大尉ローリングスが若手将校と共にクーデタを企て失敗。

軍事裁判にかけられるが、ローリングスは法廷で堂々と軍上層部を批判。

その直後、ローリングスに同情的な軍将校によるクーデタが成功、釈放されたローリングスが一躍国の指導者となる。

同年中に会議人民党の後身である人民国家党のリマン文民政権が誕生するが、経済危機の進行を止められず、81年ローリングスが再度のクーデタを実行、政権を握る。

ローリングス政権は、東側共産圏から大規模援助を得られる見込みが無いとみるや、親西側路線に転向し、自由主義的経済改革を進める。

このローリングスという人の名は、新聞の国際面で時々目にしていたので、本書を読む前から知ってはいた。

一度目のクーデタで、アチャンポン、アクフォ、アフィリファらを銃殺刑に処し、二度目のクーデタではリマンは殺されなかったものの、多くの反対派が殺害されたと、本書にも書いてあるし、IMF・世界銀行の勧告を受け入れ「構造改革政策の優等生」と評価されたと記されると、(今の私の考えからすると)かなりひっかかる点もあるのだが、それ以前の状況が悪過ぎたので、ひとまずこのローリングス政権は肯定的に評価すべきなのかなとも思う。

実際、経済状況は顕著な立ち直りを見せ、さらに政治的にも、旧統一党・進歩党の新愛国党(NPP)とローリングス派の国民民主会議(NDC)の二大政党制が確立し(エンクルマ系の人民国家党[旧会議人民党]は分裂・弱体化)、2001年にはクフォーNPP政権が誕生し、アフリカでは珍しい平和的な政権交代を実現している。

外務省ホームページを見ると、以後はNDCが政権を奪還し、ミルズ政権・マハマ政権が続いているものの、国内情勢は必ずしも安定してはいないようだ。

 

非常にコンパクトだが、歴史編の内容はしっかりしている。

図表が多いのも親切。

こういう新興独立国の通史としては、これくらいのものが適切。

十分推薦に値する良書。

2016年8月18日

引用文(内田樹8)

Filed under: 引用文 — 万年初心者 @ 02:33

内田樹『武道的思考』(筑摩選書)より。

 

ナショナリストとパトリオット

 

河合塾での講演のあと、廊下でひとりの予備校生から、ナショナリズムについて質問された。たぶん、彼の周囲でもナショナリスティックな言動をする若い人たちが増えてきており、それに対してどういうスタンスを取るべきか決めかねているのだろう。

若者がナショナリズムに惹きつけられる理由はわかりやすい。

それは帰属する集団がないからである。

人間は帰属する集団があり、そこで他者と共生し、協働し、必要とされ、ゆたかな敬意と愛情を享受していれば、パトリオットにはなっても、ナショナリストにはならない。

パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。

ナショナリストはそうではない。

彼はどのような集団にもそのような仕方では帰属していない。

彼は自分がさしあたり所属している集団について(それが家族であっても学校であっても、会社であっても)「ここは私がいるべき場所ではない」というひそかな不安と不満を感じている。彼らはその集団を律している規範も、その集団の存在理由もうまく理解できず、他の成員たちに対して、敬意や愛情を感じることができない。むろん、他の成員たちから敬意を抱かれ、愛され、「私たちの集団が存立してゆくためには、どうしてもあなたがいることが必要だ」と懇請されることもない。

そういう人間でも、どこかに帰属していない限り、生きてゆくことは苦しい。

そういう場合、「ナショナリストになる」というのはひとつの選択肢である。ナショナルな政治単位に帰属することについては要求される資格が何もないからである。

「国民国家」というような巨大な規模の集団に帰属する場合、ナショナリスト個人に求められるものは自己申告以外に何もないのである。

ゼロ。

ナショナリストにはどのような義務もない。好きなときに、好きな場所で、好きな人間を相手に、気が向いたら、人はナショナリストになることができる。

私はナショナリストだ。私は日本人だ。私は日本の国益をあらゆるものに優先させる。日本の国益を脅かすもの、日本人の誇りを踏みにじるものを私は許さない。

などということをぺらぺら言い立てることができる。

その代償として要求されるものは、繰り返し言うが、ゼロである。

真正のナショナリストであることを証明するために「今、ここ」でできることは何もないからである。

ナショナリストは国際関係について熟知している必要がない(アメリカ大統領の名前を知らなくても問題ない)、もちろん外交内政についても、歴史についても(政治思想史についてさえ)、無知であることはナショナリストの名乗りにいささかも抵触しない。むしろ、そのような外形的知識の裏づけなしに「いきなりナショナリスト」でありうることの動機の純正さが尊ばれるのである。

一方、ナショナリストはしばしば「自分が知っていること」は「すべての日本人がしらなければならないこと」であるという不当前提を採用する。だから、論争においてほとんど無敵である。

彼らの論争術上のきわだった特徴は、あまり知る人のない数値や固有名詞を無文脈的に出してくることである(「ノモンハンにおける兵力損耗率をお前は知っているか」とか「一九五〇年代における日教組の組織率をお前は知っているか」「北朝鮮の政治犯収容所の収容者数を知っているか」とか)。それに、「さあ、知らないな」と応じると、「そんなことも知らない人間に××問題について語る資格はない」という結論にいきなり導かれるのである。これはきわめて知的負荷の少ない「論争」術であるが、合意形成や多数派形成のためには何の役にも立たない。

もう一つ大きな特徴は、ナショナリストにはその立場を証明するための直接行動が要求されないということである。

家庭や会社でそれなりの敬意を得るためには、具体的行動によって集団に貢献することが要求されるが、ナショナリストは「領土問題」とか「外交問題」とか「防衛計画」とか、ほんらい政府が専管する事項を問題にしているので、個人としてはできることが何もないのである。ナショナリストは「日本人全体」と幻想的な集団を形成しており、そのような幻想的な集団の中では、誰も彼に具体的な仕事を命じないし、誰もその貢献を査定しない。

だからナショナリストは誰からも文句を言われない。

というように、ナショナリストであることは行使できる権利に対して義務負荷がきわめて少ないのである。

ひさしく消費社会の中でその社会感覚を研ぎ澄ましてきた若者たちが、商取引のスキームに準拠して、「もっとも権利が多く、義務が少ない」ナショナリスト・オプションを選好するのはだから怪しむに足りないのである。

グローバル資本主義の爛熟の中で、ナショナリストの若者が組織的に生まれるのはそのような理路による。

パトリオットというのは、その逆の行程をたどる。

パトリオットは自分が今いる場所を愛し、自分が現に帰属している集団のパフォーマンスを高めることを配慮し、隣人たちに敬意をもって接し、今自分に与えられている職務を粛々と果たすことをおのれに課す。そのような「場所」や「集団」や「隣人」たちの数を算術的に加算してゆくことを通じて、やがて「国民国家」にまで(理論的にはそのあとは「国際社会」まで、最後には「万有」に至るまで)「私の帰属する集団」を拡大してゆくことをめざすのがパトリオットである。

若い人たちにはできることならパトリオットをめざしていただきたいものだと思う。

(二〇〇九年七月)

2016年8月9日

大谷正 『日清戦争  近代日本初の対外戦争の実像』 (中公新書)

Filed under: 近代日本 — 万年初心者 @ 05:53

日本が近代国家としてその存在を確立し、清を中心とした東アジア国際秩序を再編するために必要だった戦争、あるいは、明治国家の侵略政策の帰結、という左右両派の日清戦争必然説を退け、開戦に至るまでの東アジア国際情勢、日清両国の内政事情、外交交渉、開戦後の軍事作戦、講和交渉、下関条約後も続いた台湾での平定作戦を叙述し、メディアの戦争報道を通じた国民意識形成、地域の戦時動員と追悼慰霊行事など社会史的観点にも目配りした総合的著作。

幅広い記述なのはいいのだが、参考文献の最初の方には、明らかに一昔前の定型的な左翼史観の著作が並べられ、本文中でも頻繁に引用されている。

また著者自身の文章にも、正直違和感を感じる部分は確実にある。

しかし、ここ十数年、ひたすら自国を賛美・正当化し、近隣諸国に憎悪を込めて罵詈雑言を浴びせかけるだけの(本来は史観とすら言えない)、下劣・愚鈍・幼稚な「右派」「愛国」史観がはびこっているので、それに対する解毒剤を服用するつもりで、あえて本書を通読する。

「完全無欠な輝かしい戦勝」「近代化に邁進した日本と惰眠をむさぼった清国」という通俗的イメージとは異なる実態が浮かび上がってくる。

兵站の不備、軍指揮官の独断専行、攻勢に偏した作戦計画、敵を過小評価する情報収集、国際法遵守が下部に徹底されず起こった旅順虐殺という不祥事など、後世大きな禍根となった事象がすでにこの戦争に現れている。

明治天皇が連綿と受け継がれてきた帝位と国家を危うくする懸念から、開戦に極めて消極的であったことも記されている。

明治帝の危惧はこの時点では幸いにも杞憂に終わったが、昭和帝の時代に日本は有史以来最悪と言える亡国の憂き目を見ることになる。

明治日本を礼賛するのも結構だが、この日清戦争は本当に完璧な勝利と言えるのか?

台湾を獲得し、戦費を上回る賠償金を得たが、本来この戦争の最大の戦争目的・戦略目標は、朝鮮半島から潜在的敵対勢力を排除して、日本の安全保障を確実なものにすることだったはず。

これにははっきり言って失敗している。

三国干渉後、朝鮮政府内で親露派が台頭、1895年閔妃殺害事件という帝国主義時代でも格段に乱暴な措置(以前も書きましたが、これは大逆事件以上に明治日本の恥ずべき汚点です)を取ってもさらに事態は悪化した。

親日的な開化派は一掃され、一年半にわたって続けられてきた甲午改革は終わった。それとともに日本の影響力は一気に低下し、ロシアの直接の介入を招いた。日清戦争の戦争目的であった内政改革とその背後で日本が進めていた事実上の保護国化は、三国干渉と露館播遷によって最終的に挫折する。日清戦争によって日本は朝鮮から清勢力を追い出すことに成功したものの、結局は朝鮮に対する支配権を強めることに失敗し、ロシアの影響力が強まるという最悪の結果となったのだ。

日清戦争時の伊藤博文首相と陸奥宗光外相のコンビを近代日本最高・最優秀の政治指導の組み合わせとし、「陸奥外交」を賛美する岡崎久彦も『戦略的思考とは何か』では、以下のように書いている。

実は日本だけにとってみれば、日清戦争はその後の日露戦争と一緒にしてはじめて意味をなすもので、それ自体だけであまり意味はない戦争でした。もちろん日清戦争で日本は台湾と莫大な賠償金を獲得しますが、それは戦争の本来の目的ではありません。戦争の目的は一にかかって朝鮮半島における日本の覇権を確立し、日本の安全保障を確実にする国際環境を確保することでした。しかし最終的に日露戦争に勝って強制的に韓国を併合するまでは、日本の朝鮮政策はまるでザルで水を汲んでいるようなものでした。

明治十七年の甲申の変で金玉均の独立党のクーデターが成功して親日政権ができるとすぐに清兵が介入して、政権は三日天下に終り、そのあと日清戦争までは朝鮮半島のヘゲモニーは完全に清国が把握します。

日清戦争中でソウルが日本軍の占領下にあったあいだは、親清派をパージして、新政府に種々の親日政策をとらせることもできますが、三国干渉で日本が脆くもロシアの言うとおりになるのをみると、占領中迫害された閔妃を中心とする宮廷はロシアの勢力を引き込んで日本に対抗させます。これをみて怒った日本公使館、邦人記者団等が、壮士をひきいて宮廷に乱入して閔妃を斬殺し石油をかけて焼いてしまうという無茶苦茶をしてみたところで、かえって逆効果になっただけで、この乱暴に驚いた国王は宮廷ごとロシア公使館に避難して、政府全体がロシアの庇護下に入ってしまいます。そしてその後は、宮廷がロシアに掌握されたままという不利な条件の下でのロシアとの交渉を余儀なくされて、朝鮮半島においてロシアに日本と同じ地位を認めるだけでなく、ロシアが財政顧問と軍事教官を送ることも認めます。つまり実質的には日清戦争前の清国の地位をロシアに与えることになります。

たしかに、日本のやり方が未熟で強引すぎて逆効果ばかり生んでいるのですが、根源をたずねれば、文禄・慶長の役以来、朝鮮の人は日本に怨みがあり、日本人をまったく信用していないのですから、いくら一時的に抑えたつもりでも面従腹背でどうにもならなかったわけです。日韓併合で最終的に抑えつけたといっても、それも今となっては同じことで、韓国の人の対日感情はむしろ悪化しただけで、やはりザルで水を汲んでいただけでした。

このどうしようもない日韓関係で、ただ一つ日本人が韓国人と信頼関係をつくるチャンスがあったとすれば、それは日本が韓国の近代化を助けることだったと思います。韓国の歴史の中で唯一といえる親日派だった金玉均の独立党も、その目的は、当時近代化の旗手であった日本と組んで近代化をしたいということでした。現在日本が韓国の近代化のために経済協力をしているのも、遅まきながら、やはり日韓関係を安定した基礎の上に置く正攻法なのでしょう。

そして終章より、本書の要旨を示した重要な数ページを以下に引用する(違和感のある記述も、あえて省略せずそのまま書き写し、適時私の感想を挟みます)。

日清戦争直前には、日清の軍事バランスの変化を背景に、日本国内では朝鮮における清の優位を前提とした天津条約体制の変更を求める意見が広がり、伊藤博文首相もこのような認識を背景に日清共同による朝鮮内政改革構想を持つようになった。これが、一八九四年六月二日の閣議における朝鮮への混成第九旅団派兵決定につながった。

一方で、第二次伊藤内閣は条約改正問題をめぐって対外硬派の攻撃を受け、連続して二度も衆議院を解散する内政的危機に直面していた。伊藤首相にとって、六月二日段階では、派兵は日清開戦を想定したものではなく、また総選挙対策のために対外危機を演出するという内政的理由に基づくものでもなかった。しかし、いったん清を圧倒するために強力な軍事力(戦時定員で八〇〇〇名を超える混成旅団)を朝鮮に派兵してしまうと、派兵を契機に沸騰した対清・対朝鮮強硬論に直面し、伊藤内閣は撤兵できなくなり、開戦への道を選択せざるを得なくなった。

政権の内部でも、川上操六参謀次長を中心とする陸軍勢力や閣内の陸奥宗光外相は対清開戦を求めた。対清戦争を準備してきた陸軍が開戦を主張するのは当然であるが、陸奥が開戦を求めた理由は、外相として担当した条約改正問題で判断ミスを重ね、対外的にも、国内の対外硬派に対しても、対応に失敗し、この苦境を打開して政治生命を維持するために、日清開戦を求めざるを得なかったからであった。

だが、川上や陸奥が開戦を決定することはできず、首相であるとともに、この段階では藩閥勢力の最有力者である伊藤が決断しなければ開戦にはいたらなかった。その意味で、日清戦争開戦については伊藤首相の責任が最も重い。

しかし、当初は対清協調を考えていた伊藤に開戦を決断させるにあたっては、政権内部の開戦論者である川上や陸奥だけでなく、衆議院の多数を占める対外硬諸派と彼らを選んだ国民、そして強硬論を鼓吹したジャーナリズムの開戦への責任も軽くない。伊藤内閣は秘密外交と藩閥による戦争をめざしたのに対して、対外硬派とジャーナリズムはこれを批判し、国民的基盤に立った日清戦争遂行を求め、その後の選挙戦のなかで、自由党もこのような主張に合流した。しかも、

政治的な民主化を求めた在野勢力の主張は、例外はあるものの、藩閥政府以上に侵略的であった。

上記文章で、陸奥が開戦を求めた理由を個人的地位への執着という意図だけで説明するのは、いくら何でも言い過ぎではないかと思えるが、神話化された「陸奥外交」を一度突き放して冷静に再考してみる必要はあるかもしれない。

最後の一文が示す認識は全く正しいと思うが、それならば日清戦争も先の大戦の悲劇の責任もまず誰よりも無分別な対外強硬論を支持した国民にあるんじゃないですか、そして自由と民主主義という価値自体を根本的に疑うべきなんじゃないですか、と著者には厳しく問い質したいところです。

日清戦争の外交問題に関する最も重要な資料として陸奥宗光の著した『蹇蹇録』がある。これをもとにして、のちに日英通商航海条約締結・日清開戦・下関講和条約締結を推進し、困難な三国干渉に対応した陸奥外相の偉大な功績と卓越した能力を顕彰する「陸奥神話」が形成された。

しかし、自伝やメモワールはしばしば自己弁護や自己顕示を含むもので、『蹇蹇録』は特にその傾向が強いことが指摘されている。すでに紹介したように、同時代の人々は伊藤内閣の条約改正交渉に批判的で、日清戦争が始まっていなければ、一八九四年七月に調印された日英通商航海条約もイギリスに譲歩しすぎていると厳しく批判された可能性が強い。

条約改正交渉に限らず、第二次伊藤内閣、なかでも陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。いまでも言論界の一部で「陸奥神話」を称揚する論者がいるが、学問的根拠は薄いと言わざるを得ない。

陸奥による日清戦時外交の問題点としては、東アジア地域に強い影響力を持つイギリスとロシアの制止を振り切って強引に日清開戦を行ったため、日本を支持する強国がなくなったこと、戦勝の結果生じた陸軍・海軍・民間の度を超した領土要求に屈して、過大な割地要求を講和条約に書き込んだこと、事前に予想された三国干渉への対応が拙劣であったことが指摘できる。陸奥は『蹇蹇録』で弁明を重ねているが、あまり説得的とは言えない。

さらに、日清戦争の最大の目的であったはずの朝鮮問題では、朝鮮王宮を制圧することから戦争を始め、戦争中には支配層と農民の両方の反日運動を弾圧したことから、朝鮮国内の各層の間に反日感情が広がり、三国干渉と閔妃殺害事件を経て日本の影響力が後退すると、反日親露派政権が誕生してしまうという最悪の結果を招いた。朝鮮問題への対応は、もちろん陸奥外相の守備範囲を超えた日本政府・軍の全体の政策的失敗であるが、陸奥も責任の一端を負わなければならないだろう。

それに加えて、日清戦争後、清は日本に対抗するためロシアに接近し、ロシアは東清鉄道敷設権、旅順・大連租借権、南満州鉄道敷設権を得た。すでに同時代の川崎三郎が彼の著書『日清戦史』で主張したように、日清戦争は外交で失敗した戦争であり、陸奥は外相としてその責任を負わなければならない。

国の命運をかけた戦争を遂行するにあたっての戦時外交が拙劣であった原因は、陸奥の個人的能力の問題以外に、条約改正問題だけが重要外交事項であったという時代的制約から、本格的な戦時外交の経験を持った政治家がいなかったこと、および外交官養成制度が未完成でトップを支えるスタッフの能力に問題があったことに求められる。

そして日清戦争の失敗経験のうえに、義和団問題を契機とする一九〇〇年のロシア軍の満州侵攻後、日本は多角的な同盟・協商網の構築を模索しはじめ、一九〇二年に日英同盟という形で初めて西欧諸国と同盟を結ぶことになる。

まず、陸奥の条約改正交渉への批判自体が、著者が批判的に記す、日清開戦を求めた好戦的な国民世論と同類のものではないかとの疑念を感じるし、その可能性を全く看過していることは不満である。

しかし、後段の陸奥外交への批判は(それが妥当かはともかく)、硬直した左派的言説の臭味を感じさせず、真剣な検討に値すると思われる。

大本営による戦争指導はすでに述べたように川上操六参謀次長を中心に行われ、川上は山県や大山のような陸軍の宿老や、野津・山地・桂のような先輩や同輩に、指揮命令を与えざるを得ず、彼らの制御に苦しんだ。川上の伝記『陸軍大将川上操六』は、「時ありては彼等に掣肘せられ、時ありては板挟みと為って苦心」したが、困難に打ち勝って「終に能く全局を統括して最後の捷利を制」したと述べているが、川上の努力と心労は大変なものであったと想像される。実際、大本営の戦争指導はなかなか貫徹しなかった。

本書で紹介した事例では、第三師団長桂太郎中将の度重なる暴走が典型である。しかも、桂は名古屋に第三師団長として赴任後に暇を持て余して書きはじめた「自伝」では、西南戦争以後の陸軍の混乱を慨嘆し、陸軍省総務局長あるいは陸軍次官として、自らが陸軍軍政の整理・改革を行い、何よりも命令の上位下達の実現を図ったことを得々と述べている。にもかかわらず、実際に自分自身が戦場に臨むと、ほかの司令官との対抗意識を丸出しにして、大本営の作戦指導を無視して暴走した。

だがより大きな問題は、川上である。川上は、寺内正毅や児玉源太郎と協力して、兵力動員と船舶を動員した兵員輸送、朝鮮南端の釜山から朝鮮を横切って満州の作戦地域にまで達する兵站線・電信線の維持を実現した。その実行力と軍事官僚としての実務能力の評価は高い。しかし、その結果何が起こったかを知る後世の歴史研究者は批判的にならざるを得ない。

一八九四年秋に発生した朝鮮の第二次農民戦争が、兵站線・電信線を破壊したことに対して、川上が命じたのは、東学農民軍とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。

また、川上は遼東半島割譲と直隷決戦に固執した。これが三国干渉の誘因となり、さらに列強の干渉が予想される複雑な国際情勢のなかで、極端に攻勢に偏した直隷決戦計画を実施し、本土防衛をないがしろにする危険性を生むことになった。これらは川上の戦争指導の問題点である。

日清戦争において、伊藤首相や大山第二軍司令官が戦争の全体の帰趨を見て政策決定を行っていたのに対して、有能であることはだれにも負けない陸奥外相や川上参謀次長が、木を見て森を見ない政策決定を行っているように感じたのは、私だけであろうか。

十数年前まで世に瀰漫していた極めて硬直して偏った左翼史観が後退したのは誠に結構だが、逆に現在の我々は「日清・日露の戦いを勝ち抜いた明治日本の栄光」を単純に賛美するだけの惰性に流されすぎているのかもしれない。

もし日清戦争に負けていたら、どうなっていたのか。

沖縄はまず間違いなく永久に日本ではなくなり(現在では、過剰な対米追従という全く違う原因で日本じゃなくなりそうですが)、莫大な賠償金を課せられ、各種の近代化政策は致命的な打撃を蒙って挫折していた可能性が高い。

その勝利も一時のものに過ぎず、結局清国よりはるかに強大なロシア帝国との対決を余儀なくされることになってしまった。

続く日露戦争は敗北の危険性がはるかに高かったはずである。

その敗戦の結果は、北海道全土の割譲、租借地の設定、莫大な賠償金、より不平等な通商航海条約強要であろう。

さらには列強がハゲタカのように群がって、ついには日本全土が植民地となり、皇室をはじめとする伝統的制度が破壊され、その後で独立運動が起こり、成功したとしても、共産主義勢力が主導権を握って、今も日本は全体主義の抑圧体制の中にいるか、あるいは良くて右派の権威主義体制の下で暴力的な党派争いが延々続くという第三世界のよくあるパターンの国になっていたかもしれない。

弱肉強食の帝国主義時代の最盛期、国家の命運を賭すような戦争は可能な限り避けるのが賢明であろう。

であれば、ロシアの進出に備えた、朝鮮半島での日清両国の限定的協調を背後からイギリスが支えるという天津条約体制を(清国優位の状況はあえて甘受した上で)続けた方が良かったという歴史解釈もあり得る。

もちろん当時の国際情勢はあえて危険な戦争を行わなければならないほど厳しいものであり、陸奥が『蹇蹇録』で言うように

畢竟我にありてはその進むを得べき地に進みその止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す。

ということだった可能性も十二分にある。

ただ色々な見方に触れ、少しでも妥当で真実に近い史観に近づく努力をすべきであって、数を頼んで反対者を誹謗中傷・罵詈雑言で黙らせるような卑怯な真似は、立場の左右を問わず、決してするべきではない。

 

 

著者の主張をそのまま受け入れる必要は無いが(私も決してそうしていないつもりです)、多様な見解に触れて歴史を考えるきっかけには出来る良書です。

2016年8月7日

ウィリアム・シェイクスピア 『ジュリアス・シーザー』 (光文社古典新訳文庫)

Filed under: ローマ, 文学 — 万年初心者 @ 03:16

学生時代読んだきりで、一度記事にしたものを、この新訳で再読した。

(訳者の言葉を借りれば)無知・無定見極まりない群衆の恣意がすべての決定者としてのさばり、英雄としての資質を持つシーザーや高潔の士ブルータスですらそれに依存して権力を得たり失ったりするに過ぎず、アントニーが発揮したような煽動の才が重きをなしてしまう現実を鋭くえぐった政治劇。

確かにそのような読み方ができる。

さすが傑作の名に恥じない。

史実に基くストーリーをなぞるだけだった初読時よりも深い感銘を受けた。

やはり一度は読んでおくべき作品と思われる。

2016年8月1日

村田晃嗣 『レーガン  いかにして「アメリカの偶像」となったか』 (中公新書)

Filed under: アメリカ — 万年初心者 @ 03:53

1980年代、今日まで続くアメリカの保守化を推し進めた元大統領ロナルド・レーガンの伝記。

1911年アイルランド系の貧しい家庭に生まれる。

同じアイルランド系のケネディはレーガンより20年早く大統領となり、40年以上先に他界したが、年齢はレーガンより6歳下。

苦学しながら大学を卒業、ニューディール時代の民主党の熱心な支持者になる。

ラジオ・アナウンサーとして世に出て、ハリウッドで俳優となり、競演した女優と最初の結婚、第二次大戦時には戦意高揚映画に出演。

戦後、映画俳優組合の役員として組合内の共産主義シンパに強い拒否反応を持ち、徹底した反共主義と「小さな政府」の信念を抱き、マッカーシズムの「赤狩り」に協力。

妻と離婚し、ナンシー夫人と再婚(これまででは離婚歴のある唯一の大統領)。

俳優としては落ち目となり、GE(ゼネラル・エレクトリック社)提供のテレビ番組出演と講演活動を行うようになり、全米的な知名度を得る。

依然民主党員ながら、政治的には完全に保守化。

レーガンの知性を過小評価することは危険だが、彼の読書は元々持っていた自分の信念を確認し補強するために読む、という癖があった、と評されている。

そして以下の文章が記されている。

「大きな政府」を嫌悪したレーガンが巨大企業に奉仕し、自由を奉じる反共主義者がテレビ番組で細部に至るまでスポンサーの検閲に従った。

彼は率直に認めている。「一九六〇年までに私は、真の敵はビッグ・ビジネス(巨大企業)ではなく、ビッグ・ガバメント(巨大政府)だということを理解していた」。

こういう人物を真の「自由の闘士」と見ることはできない、と思う。

1952、56年の大統領選挙では共和党のアイゼンハワーに投票。

60年にも共和党候補ニクソンを支持するが、民主党のケネディが当選。

その後、レーガンは民主党を脱し、共和党入り。

ケネディ暗殺後、64年大統領選で後継現職ジョンソンに対抗して、共和党保守強硬派候補ゴールドウォーターを支持したが、結果は大敗。

だが、レーガンの雄弁は大きな注目を浴び、党内保守派の期待を集める。

1967年レーガンはカリフォルニア州知事に就任。

財政政策などでは妥協的対応を取ったが、ヴェトナム反戦運動高揚とカウンター・カルチャー拡大を背景に過激化した学生運動には毅然として対処。

経済的な保守の追求する自由な市場経済は、宗教的保守には耐えられない社会の頽廃をもたらしていた。また、保守派は「大きな政府」を批判しながら、国防予算には大きく依存していたし、それは反共主義と連動していた。

さらに、保守派は政府が個人の自由を制限することを恐れながら、大企業による個人の自由の制限や侵害には鈍感であった。

レーガンもついに、これらの矛盾を解消できなかった。

しかし、彼は経済的な保守と宗教的な保守、反共主義を兼ね備えていたし、これらの矛盾を包摂する魅力を有していた。

私は、こういう種類の「保守化」を肯定的に見ることができない。

大資本が自由放任的市場を利用して社会全体を実質的に支配し、国民はその道具と操り人形に過ぎなくなり、その実態を誤魔化すために奇矯で偏狭な宗教的原理主義(今の日本では野卑で低俗な形式主義的ナショナリズム)が煽られ、「おぞましい国家社会主義か、規制無き自由市場社会か」という二者択一に問題を歪めることで、批判者の口を封じる欺瞞がまかり通って久しい。

レーガンを含め、そうした社会で支持を受けるポピュリスト的指導者は、結局は金融資本の雇われ人です。

1968年大統領選で共和党のニクソンが政権奪回。

レーガンが副大統領となる可能性も取り沙汰されたが、実現せず。

75年初頭知事を退任、「グレート・コミュニケーター」としての能力を活かし保守派を糾合する「右派のローズヴェルト」として、76年大統領選を目指すことになる。

ウォーターゲート事件で74年ニクソンは辞任、副大統領ジェラルド・フォードが昇格。

76年建国二百周年の年、レーガンは共和党大統領候補の座を現職フォードと争って敗北、本選ではヴェトナム戦争とウォーターゲート事件に倦み清新さを求めた国民に選ばれ、民主党の新顔カーターが当選。

政治姿勢はリベラルだが、カーター自身宗教心の篤い福音派の南部出身者で、レーガンとの共通点もある。

カーター政権は、内政・外交とも不手際を重ね、特に79年はイラン革命と米大使館人質事件、第二次石油危機、ソ連軍アフガン侵攻(と本書では書かれていないがニカラグア革命)などアメリカの威信を揺るがす事件が続発。

1980年予備選挙でブッシュ(のち大統領[父])、ハワード・ベーカー(のち大統領首席補佐官、駐日大使)を下し指名獲得、本選でもカーターに地滑り的勝利を収める。

通常、保守派は歴史に社会の統合作用を求める。しかし、共通の記憶としての歴史が浅いだけに、共有できる希望としての未来に統合作用を求めるのが、アメリカの保守派の特徴である。大衆文化を熟知した「幸福な戦士」、「救済ファンタジー」に駆られたレーガンこそ、保守派の糾合そして過去と未来の架橋に適任であった。その意味で、レーガンは政治的タイムマシーンであった。

1981年「強いアメリカ」「小さな政府」を唱えるレーガンが大統領就任、70歳を迎える直前、史上最高齢の大統領となる。

政権スタッフは、国務長官ヘイグ(のちシュルツ)、国防長官ワインバーガーら。

極端に右派色の強い人物は少なく、カリフォルニア時代の側近と共和党主流派の混成チーム。

黒人閣僚は一人だけ。

レーガンは決して人種差別論者ではなかった。その点では南部の保守派とは異なる。そもそも、彼は人種問題にほとんど無関心であった。・・・・・レーガンの大統領就任時から二〇〇〇年までの間に、黒人の政治家はほぼ倍増したし、連邦議会での女性議員の比率も倍になった。同性愛者の人権状況も大幅に改善された。もちろん、それらは歴史的な潮流であって、レーガンの功績ではない。確かに、彼は人種、女性、同性愛といった「小さな物語」に無関心で、より「大きな物語」を愛したが、かといって彼を露骨な差別論者として描くことは正しくない。

政権担当時期の史実を一年ごとに細かくメモするのは止めましょうか。

ただし、本書を読む場合は、頭の中でそうした方がいいです。

外交では、軍備拡大と対ソ強硬路線で、冷戦最終段階のソ連を追い詰める。

内政では、大幅減税と軍事費拡張を組み合わせた「レーガノミックス」は、財政と貿易収支の「双子の赤字」をもたらす。

まず前者について言えば、衰退期に入っていたソ連の軍拡と膨張主義に対抗措置を取る必要があったことは全く疑いの余地は無い。

しかし、SDI(戦略防衛構想)は熟慮の上で作られたものとは言い難いし、アフガンの反ソ・ゲリラに対する過剰支援はのちにアルカイダを生み、アメリカ自身の首を絞める結果となったし、イラン・コントラ事件のような醜聞も発生したし、グレナダ侵攻という措置が必要だったのかは、本書を読む限り疑わしい。

後者の内政については、表面上かつ一時的な経済活況をもたらしたとは言え、その評価はより厳しいものにならざるを得ない。

政府支出と財政赤字の拡大が雇用と経済成長をもたらしたとすれば、それはケインズ経済政策の成功と言えた。にもかかわらず、「レーガノミックス」の成功が喧伝された。

・・・・・確かに、景気は回復し株価は上昇していた。人々はクレジット・カードで買い物を続けた。アメリカ社会はよく言えば豊かさ、有り体に言えば貪欲に身を委ねようとしていた。ある雑誌はこれを南北戦争後の「メッキ時代」にたとえた。その影で、財政赤字と貿易赤字という「双子の赤字」は拡大の一途であった。離婚率も上昇していた。政府は問題を解決できないというレーガンの診断は正しかったが、「小さな政府」と規制緩和という彼の治療法は必ずしも適切ではないと、やがて人々は認識するようになる。

・・・・・レーガンの大統領就任時と退任時を比べると、財政赤字はほぼ三倍に膨れ上がり、貿易赤字も過去最高額に達していたのである。失業率もわずかながら上昇していた。

しかも、貧富の格差が拡大していた。確かに、レーガン時代に数百万の雇用が創出されたが、その大半は低賃金労働であった。かつて組合活動で名を上げた大統領の在任期間に、全米の組合加盟率は二三%から一七%に低下した。こうして、一九七九年には上位一%の富裕層が国富の二二%を保有していたが、八九年にはそれが三九%になっていた。

繁栄の影で貧困が広がる姿は、まさに『二都物語』であった。

アイゼンハワー以来、二期八年を全うした初の大統領として退任、後継のブッシュ(父)を当選させ、引退。

94年アルツハイマー病を公表、2004年死去。

政治的立場の左右を問わない賛美と崇拝の対象となるが、結局その表面的国民統合は、大資本と富裕層の暴走を覆い隠す役割を果たすだけの偽物と断じざるを得ない。

その後継であり、「レーガン革命」の果実を享受した共和党右翼過激派は、さらに劣悪なエピゴーネンに成り果てている。

「保守運動は成功の犠牲者である」とショーン・ウィレンツは言う。所期の目標を失った保守派は、新たな「大きな物語」の定義をめぐって再び対立し始めた。しかも、彼らはレーガンという政治的メディアを失った。保守派はレーガンの偶像化によって分裂を食い止めようとしたが、ますます過激になっていった。冷戦下でハルマゲドンを恐れたレーガンの自制心を、ブッシュ[これは子の方を指すんでしょう――引用者註]は持たなかった。前者にとって「強いアメリカ」は回復すべき目標だったが、後者にとっては所与の出発点だったのである。減税と「小さな政府」を強引に求める二一世紀のティーパーティー運動にも、「実際的なイデオローグ」の慎重さや寛容は見られない。

そして、激しい経済紛争にも関わらず、日米同盟を緊密化し、「新保守主義」の盟友として、「ロン・ヤス」関係を作り上げた日本の中曽根康弘政権に対しての評価も、かつてと異なり、変えざるを得ないなと私は感じています(イギリスのサッチャー政権に対しても同様)。

 

 

非常に良い。

大統領任期中に限らず、その生涯をバランスよく記述。

文章も流暢で、話の運びもスムーズで巧い。

煩瑣でもなく、簡略過ぎもしない、ちょうどいいレベルの説明。

著者の政治的立場に疑念を持つ向きもあるかもしれないが、本書に限って言えば、レーガンおよびアメリカに対する批判的視点は十分に保たれていると感じた。

有益かつ良好な伝記として推奨します。

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